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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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大日本帝国統治下の朝鮮における教育政策 NO2

2020年12月31日 | 国際・政治

 大日本帝国統治下の朝鮮において、日本政府はどのような教育政策を進めたのかを知るために、教育に関わる総督府令や訓令、通牒などを「続・現代史資料(10) 教育 御真影と教育勅語 3」(みすず書房)から抜萃しているのですが、今回は,下記7~14を抜粋しました。

 それは、”何より先に朝鮮民族(其他台湾)を民族的に同化せしめなければならないと思ふ”と主張し、また、内村鑑三不敬事件に関わって、”耶蘇教(キリスト教徒)は元と我邦に適合せざるの教なり”という考えを明らかにしていた井上哲次郎でさえも、”従来の教育勅語を以つて、新附の民族──朝鮮、台湾の如き──を教育する事は誤りであると思う”と主張していたのに、日本政府が従来の「教育勅語」をそのまま朝鮮に適用した現実を確認するためです。
※井上哲次郎は、朝鮮や台湾の人たちが、”教育勅語を教えられる毎に、彼等に奇異の感じを抱かしむるのは、理の当然である。されば如何にすべきと云ふに、余輩の考ふる処を述べれば、勿論希望ではあるが、──明治天皇より賜わった教育勅語に、今上陛下が或個所を修正せられて、新付の民族に賜わる様にすればよくはないかと考へるのである”と言っていたのです。


 下記資料で、”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス”という神話的国体観に基づく「教育勅語」を、そのまま日本と異なる歴史を歩んできた朝鮮民族の教育に適用し、「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを目的とした教育政策が進められたことがわかります。
 だから、日本の教育政策は、”日本と朝鮮が合邦し、清国と力を合わせて、欧米の侵略を防ぐ”ためのものであったなどと正当化できるようなものではなかったと、私は思います。また、「一視同仁」や「内鮮一体」という当時のスローガンも、その内容は朝鮮の人たちの歴史や伝統、言い換えれば、その民族性を無視して”一体化”させようとするものであったと思います。したがって、当時のスローガンを「朝鮮を差別待遇せず、内地(日本本土)と一体化しよう」とするものであったなどと正当化できるものではないと思います。下記資料が、そうしたことを示していると思います。

 また、何より日本の敗戦時、あちこちで朝鮮の人たちが万歳をして喜び、8月15日を光復節として、祝日にしていることがそのことを示していると思います。

 資料7は、”教育ニ関スル勅語謄本”の”奉護”がきちんとできていないところがあるので、”鎖鑰ヲ施スハ勿論適切ノ方法”によって、謄本をきちんと”奉護”するように指示する通牒です。

 資料8は、朝鮮における教育が”近時諸学校ニ於テモ生徒ノ同盟休校頻リニ起り我ガ国民道徳ノ特質ト相容レザル詭激ノ思想亦漸ク浸潤セントスルノ趨勢”であるということで、道知事や官立学校長を通して、教育現場に教育の徹底を求める訓示です。でもなぜ、”生徒ノ同盟休校”が頻りに起るのか、ということについては何も触れていません。”学校教員ヲシテ一層力ヲ道徳ノ教育ニ致サシメ教導感化ノ実効ヲ挙”げることによって、問題を解決させようとしているように読み取れますが、強引であり無理があると思います。「教育勅語」の押し付けこそが、不道徳だからです。

 資料9は、”児童ヲシテ一層神社ヲ崇敬セシメテ国体観念ヲ明徴シ以テ国民精神ノ涵養”をするために、”神社ノ例祭当日ニハ職員、児童ヲシテ団体参拝ヲ”をするようにと指示する通牒です。この通牒には、信教の自由に関わる問題があると思います。

 資料10は、「愛国日」設定の趣旨を確認し、その要項で様々な行動を促す通牒です。その「別紙甲号」では、国旗掲揚、国歌奉唱のほか、国民精神作興ニ関スル詔書奉読や東方遙拝、神社参拝などを規定しています。これも、信教の自由や思想の自由に関わる問題があると思います。

 資料11は、子ども用と大人用の「皇国臣民ノ誓詞」です。機会あるごとに斉唱させたといいます。資料13や資料14で、そのことが確認できます。

 資料12は、「朝鮮教育ノ三大綱領」ですが、その”内鮮一体”の内容は、いろいろな資料で分かるように、朝鮮の伝統や歴史、民族自決の権利を無視したものであったと思います。

 資料13は、「小学校規程」の第四十五条ですが、紀元節 天長節 明治節及一月一日における行事の詳細が定められています。”天皇陛下、皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ”などということも定められています。

 資料14は、”内鮮一体”の取り組みが思うように進まないので、”皇国臣民ノ誓詞ノ斉唱”を徹底し、その普及を促す通牒です。

 これらの資料を通して、大日本帝国統治下の朝鮮における教育政策は、朝鮮人の民族性を無視し、否定して、神話的国体観基く皇国日本の思想や制度を押しつけるものであったと、私は思います。

 異民族である朝鮮の子どもたちに、日本の天皇や皇后の「御真影」に”最敬礼”をさせ、「君が代」を歌わせ、「皇国臣民の誓詞」を斉唱させた過ちは、忘れてはならないことだと思います。
資料7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
       二十五
 教育ニ関スル勅語謄本奉護ニ関スル件  大正十四年三月 学秘第四号 各道知事ヘ朝鮮総督府学務局長通牒  

教育ニ関スル 勅語謄本奉護ニ関シテハ各学校共慎重ノ注意ヲ払ヒ不敬ニ渉ルカ如キコトハ可無之トハ存候ヘ共中ニハ奉護ノ方法適切ナラサル為メ往々紛失盗難ニ罹リタル実例有之候ニ付此際貴管下各学校長ニ対シ特ニ厳重御達シノ上奉護上万遺漏ナキヲ期セラレ度依命此段及通牒候也
追而奉護所ニハ必ス完全ナル鎖鑰ヲ施スハ勿論適切ノ方法ヲ以テ不断ノ注意ヲ払ハシメ候様致度為念申添候
資料8ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    二十七
 道知事、官立学校長ヘ朝鮮総督府訓示  昭和三年九月十二日

教員ノ服務ニ関シテハ明治四十五年四月総督府内訓第十三号服務心得書及大正五年一月総督府訓令第二号教員心得ニ厳示セルヲ以テ地方長官及官立学校長ハ克ク此ノ趣旨ヲ体シ教員ヲシテ常ニ其ノ処スル所ヲ愆(アヤマ)ラシメザルヲ信ズト雖近時朝鮮教育ノ実情ハ学校教員ヲシテ一層力ヲ道徳ノ教育ニ致サシメ教導感化ノ実効ヲ挙グルノ切要ナルヲ認メ茲ニ此ノ点ニ関シ更ニ注意ヲ促ス所アラントス
抑学校教育ノ主眼トスル所ハ教育勅語ノ御趣旨ヲ奉体シ教育令ノ示ス所ニ従ヒ学生生徒及児童ノ徳性ヲ涵養シ其ノ品格ヲ向上シ其ノ智能啓発シ以テ国民全般ノ康福ヲ増進スルニ在ルヤ言ヲ俟タズ而シテ此ノ目的貫徹ノ根源ハ徳風ノ作興ニ在リト信ズ施設ニシテ精微ヲ尽シ校規ニシテ峻厳ヲ極ムルモ若シ徳風ノ不断ニ子弟ヲ薫ズルナカランカ是レ殆ド教育ノ主眼ヲ失シタルモノナリト謂フモ過言ニ非ズ然ルニ輓近(バンキン)朝鮮ニ於ケル教育ノ傾向ハ動モスレバ這般(シャハン)ノ要諦ヲ閑却シ師道漸ク廃レ感化徹セズ子弟ノ情誼(ジョウギ)亦従ツテ薄カラントシ遂ニ教化ノ主眼ヲ逸セントスルノ虞ナキニ非ザルヲ遺憾トス況ンヤ近時諸学校ニ於テモ生徒ノ同盟休校頻リニ起り我ガ国民道徳ノ特質ト相容レザル詭激ノ思想亦漸ク浸潤セントスルノ趨勢ニ在ルニ於テヲヤ是レ正ニ任ニ教育ニ在ル者深ク自ラ省ミ相誠メ相励ミ以テ力ヲ徳風ノ作興ニ尽シテ時弊ノ矯正ニ努ムベキノ秋ナリ凡ソ徳風ヲ作興スルノ途ハ他ナシ唯師表タル志操ヲ健ニシ常ニ協戮(キョウリク)ノ誼ヲ厚ウシ以テ崇高ナル職分ヲ完ウシ情ヲ尽シ理ヲ明ニシ諄々教ヘテ倦マザルニ在リ思慮未ダ定マラズ師父ヲ恃(タノ)ムノ子弟ハ其ノ至純ノ心ニ於テ既ニ教化ノ端アリ常ニ父兄ノ心ヲ心トシ一誠以テ子弟ヲ感孚(カンプ)セシムルニ力メバ師道自ラ就リ教化期セズシテ行ナハレ偶不良ノ徒輩ノ矯激ナル思念ヲ蔵シテ非違ヲ敢テスルヤ一般子弟亦之ニ誑惑(キョウワク)セラルル者ナキニ非ズト雖而モ是レ粒粒辛苦(リュウリュウシンク)ノ資ヲ父兄ニ仰ギ身ヲ修メ家ヲ斉ヘンガ為ニ進ンデ道ヲ校下ニ求ムル者何ンゾ性情ノ教ユベカラザル者ナランヤ宜シク徳教ヲ尚ビ品性ヲ重ンジ謹厳己ヲ持シ寛厚人ニ接シ言ヲ慎ミ行ヲ正ウシ和協任ニ膺リ拮据(キッキョ)校務ヲ理シ慈愛子弟ヲ懐ケ理ヲ諭シ蒙ヲ啓キ以テ大ニ徳風ヲ作興スベシ徳己ニ備ハラザル徒ニ善ヲ子弟ニ責メ情ノ未ダ足ラザルニ敬順ノ乏シキヲ嘆ジ理ノ未斉ダ徹セザルニ漫ニ詭言ヲ子弟ニ憤ルガ如キハ師道ヲ就子弟ノ情誼ヲ篤ウスル所ニ非ラザルナリ
地方長官及官立学校長ハ此ノ意ヲ体シ管下(部下)教員ヲ督励シテ一層徳風ヲ揚ゲ以テ国家ノ期待ニ副ハシメンコトヲ努ムベシ 
資料9ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   三十七
 児童ノ神社参拝ニ関スル件  昭和十一年十月十日 釜山府通牒

本年八月一日附神社ニ関スル勅令及関係府令等発布セラレ同時ニ竜頭神社ノ国幣社列格仰出サレ更ニ同月十一日附府令ヲ以テ神社規則発布ト共ニ告示第四四〇号ニテ道又ハ府邑面ヨリ神饌幣帛料(シンセンヘイハクリョウ)ヲ供進スルコトヲ得ベキ本道内神社ヲ左記ノ通指定セラレ例祭ニハ夫々荘厳鄭重ナル幣帛供進ノ儀取行ハルルコトトナリ斯クテ神社ニ対スル取扱ハ従来ニ比シ一段厳粛ヲ加フルニ至レル次第ニシテ今後学校教育ニ於テハ児童ヲシテ一層神社ヲ崇敬セシメテ国体観念ヲ明徴シ以テ国民精神ノ涵養上万遺漏ナキヲ期スベキ旨其ノ筋ヨリ通牒ノ次第モ有之爾今竜頭山神社ヲ始メ神社ノ例祭当日ニハ職員、児童ヲシテ団体参拝ヲ行ハレ度尚児童ノ神社参拝ニ就テハ屡次通牒シ置キタル精神ヲ深ク体シ各地方ノ実情ニ照シテ慎重ナル考慮ヲ払ヒ万遺漏ナキヲ期セラレ度通牒ス
 記
一 国幣小社
   竜頭山神社
 〔以下略〕
資料10ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  学校ニ於ケル愛国日設定ニ関スル件  昭和十二年九月三十日 釜内二二四七号 釜山府通牒

去ル九月四日臨時議会開院式ニ賜リタル優渥ナル 勅語ヲ奉体シ挙国一致時艱克服ニ邁進シ以テ 聖
慮ヲ安シ奉ルベク政府ニ於テハ九月九日内閣総理大臣ヨリ一般国民ニ対スル告論ヲ発シ尚官公吏ニ対シテハ一層奉公ノ至誠ヲ致シ職ニ格励スベキ旨ノ訓令アリ同時ニ半島民衆ニ対シテハ朝鮮総督ヨリ堅忍持久、生業報国ノ信念ヲ堅持シ 協心戮力克ク長期ノ試練ニ耐ヘ以テ 聖旨ニ奉戴スベキ旨ノ論告ヲ発セラル此ノ秋ニ際シ事ニ教育ニ従フ者ハ愈々(イヨイヨ)操守ヲ固ウシ教育報国ノ実ヲ挙揚スベク更ニ第二ノ国民タル児童ノ訓育指導ニ当リテハ忍苦持久ノ精神訓練ニ格段ノ意ヲ払フハ勿論時局ノ推移ニ関シテハ去ル八月二十八日日附釜内第一、九二八号ノ学校ニ於ケル時局認識徹底ニ関スル件通牒ノ主旨ニ基キ日常有ユル機会ニ於テ認識ノ徹底ヲ期セラレ度特ニ同通牒愛国日ニ於ケル行事ハ将来反覆シテ実施シ児童ノ精神ノ緊張ヲ図リ兼ネテ其ノ分ニ応ジタル責務遂行ノ助長ニ努ムルノ要アルヲ以テ爾今毎月六日ヲ学校ニ於ケル愛国日ト定メ左記要項ノ通全鮮諸学校一斉ニ実施スルコトト決定致サレタル旨其筋ヨリ通達アリタルニ付了知ノ上実施方遺漏ナキヲ期セラレ度
 記
   学校ニ於ケル愛国日行事要項
一 趣意
児童ヲシテ国体ノ尊厳、皇国ノ地位使命ノ確認並各自ノ本分ヲ明確ニ自覚セシメ内鮮一体挙国一致シテ皇運ヲ扶翼シ奉ルノ念ヲ固ウシ行ヲ以テ分ニ応ジ奉公ノ至誠ヲ致サシメ時艱(ジカン)ニ対処スル緊張ノ堅持ヲ期ス
時艱ニ際シテハ日々是レ愛国日トシテ反省セシムルノ要アルハ勿論ナルモ特ニ月一回ヲ期シ行事ヲ実施スル所以ハ即チ過去ヲ反省セシムルノ機会タラシメ当日ヲ期シテ特ニ強調セラレタル精神ヲ以テ将来更ニ時艱ノ克服ニ邁進スルノ関頭タラシメントス
二 実施事項
 (1)国体観念ノ明徴ニ関スル事項
 神社参拝、皇軍武運長久祈願、事変戦没者ノ神霊ニ捧グル黙祷等右行事次第ハ第一回愛国日(九月六日)ノ次第ニ準ジ実情ニ応実施スルコト
(2)労力奉仕ニ関スル事項
イ 学校附近(為シ得レバ、町、区ニ及ボス)ノ道路ノ改修掃除
ロ 神社境内内、公園、古墳、国家社会功労者節婦等ノ祠堂又ハ碑像ノ清掃
ハ 街路樹学校林ノ保護手入等
右ハ本分ノ自覚ヲ促スト共ニ将来生ズルコトアルベキ労力不足ニ対スル補充的訓練トシテ課スオト
(3) 恤兵(ジュッペイ)、犒軍、国防資材、献納ニ関スル事項
児童ノ自発的慰問献金等ハ課外作業並ニ児童産業組合等ノ収益実習奨励金ノ一部其他冗費節約等ニ依リ得タルモノヲシテ出損セシムルコトトシ徒ニ父兄ノ負担過重ヲ来サシムコトナキ様注意スルコト
右ニ依ル金品献納ニルイテハ愛国日当日各学校ニ於テ取纏メ之ヲ府庁教育係ヘ送付スルコト
(4) 勤倹忍苦心ノ強化ニ関スル事項
イ 耐久行軍又ハ遠足
ロ 学校防護演習
ハ 持参弁当ノ簡易化
ニ 学用品ノ節約等
三 実施上ニ関スル注意 ・・・以下略

別紙甲号
    愛国日ニ於ケル行事
一 国旗掲揚
二 国歌奉唱
三 国民精神作興ニ関スル詔書奉読
四 時局ニ関スル講話
学校長
在郷軍人
其他官公署ノ適当ナル者
五 東方遙拝(皇軍ノ武運長久祈願)
神社神祠ノ奉祠サレタル土地ニ於テハ式後参拝ヲ為サシムルコト
実施上ノ注意
 本行事ニハ児童ノ父兄母姉ハ勿論一般地方有志ヲモ参加セシメ単ニ学校ノミノ行事ニ終ラシメズ広ク効果ヲ及ホスコト
資料11ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皇国臣民ノ誓詞
    皇国臣民ノ誓詞(チカヒ)(其ノ一)
一 私共ハ 大日本帝国ノ臣民デアリマス
二 私共ハ 心ヲ合セテ 天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
三 私共ハ 忍苦鍛錬シテ 立派ナ強イ国民トナリマス

     皇国臣民ノ誓詞 (其ノ二)
一 我等ハ皇国臣民ナリ 忠誠以テ君国ニ報ゼン
二 我等皇国臣民ハ 互ニ信愛協力シ 以テ団結ヲ固クセン
三 我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン
資料12ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
四十五
朝鮮教育ノ三大綱領  〔昭和十三年三月四日〕 朝鮮総督府
朝鮮教育ノ三大綱領
一 国体明徴
 
ニ 内鮮一体

三 忍苦鍛錬
資料13ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 小学校規程〔抄〕 昭和十三年三月十五日  朝鮮総督府令第二十四号
・・・
第四十五条 紀元節 天長節 明治節及一月一日ニ於テハ職員及児童学校ニ参集シテ左ノ式ヲ行フベシ
一 職員児童「君ガ代」ヲ合唱ス
二 職員児童ハ
天皇陛下
皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
四 学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス
五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス
御影ヲ拝戴セザル学校ニ於テハ前項第二号ノ式ヲ闕ク 
資料14ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  皇国臣民ノ誓詞ノ斉唱普及方ニ関スル件  昭和十三年七月五日 釜内一四五三号 釜山府通牒

皇国臣民ノ誓詞ノ斉唱普及方ニ関シテハ客年十月十二日附釜内第二三三六号ヲ以テ通牒ノ次第モ有之廉アル場合ニ於テノミナラズ日常之ヲ斉唱又ハ朗唱スルコトニ依リ一層国民意識ノ強調ニ資シ誓詞制定ノ趣旨ニ副フ所以ナルモ之ガ普及ノ実情ハ尚未ダ一般ニ不充分ナル嫌アルエオ見受ケラルルニ付テハ前掲通牒ニ掲グル事項ノ励行ヲ期スル外仍ホ左記ニ依リ一段ノ普及徹底ヲ図ラレ度
一 誓詞ノ斉唱又ハ朗唱ニ付テハ各種機械アル毎ニ之ガ普及ニ努ムルト共ニ徒ニ単ナル暗誦ニ終ラシムルガ如キコトナク常ニ其ノ精神トスル所ヲ確把セシメテ誓詞制定ノ趣旨ノ徹底方ヲ図ルコト
ニ 各学校ニ於テハ朝会ヲ行ハザル日ニ於テモ各教室ニテ毎朝授業開始前必ズ之ヲ斉唱セシムルコト
三 総督其ノ他ノ学校視察ニ当リ全校ノ生徒児童参集シテ挨拶ヲ行フ場合或ハ訓示、講演等ノ終了ニ際シ答礼挨拶ヲ行フ場合ニ於テハ力メテ誓詞ノ斉唱ヲ以テ右挨拶答礼ニ代フルコト

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大日本帝国統治下の朝鮮における教育 NO1

2020年12月29日 | 国際・政治

 大日本帝国統治下の朝鮮において、日本はどのような教育政策を進めたのかを知るために、特に教育政策に関わる総督府令や訓令、通牒などの主なものを「続・現代史資料(10) 教育 御真影と教育勅語 3」(みすず書房)から抜萃しました。

 それらの資料から、”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ…”という、神話的国体観に基づく「教育勅語」(教育ニ関スル勅語)が、そのまま日本と異なる歴史を歩んできた朝鮮民族の教育に適用されたこと、そして「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを目的として、具体的な教育政策が進められたことがわかります。

 だからそれは、”日本と朝鮮が合邦し、清国と力を合わせて、欧米の侵略を防ぐ”ためのものではなかったと、私は思います。また、「一視同仁」や「内鮮一体」という当時のスローガンも、その内容は、朝鮮の人たちの歴史や伝統、言い換えれば、その民族性を無視して”一体化”しようとするものであったと思います。したがって、当時のスローガンを「朝鮮を差別待遇せず、内地と一体化しよう」とするものであったなどと、美化してはならないと思います。下記資料が、それを示していると思うのです。

 資料1は、いわゆる「御真影」と「教育勅語」謄本の扱いについて定めたものです。”特別ナル奉置所”を設けることや”清浄ナル場所”に納めること、”最尊重ニ奉置”することが定められ、それらを守るために、日本と同じように”職員ヲシテ宿直”させることが定められています。

 資料2は、朝鮮における休業日を、日本の皇室行事を中心としたものに改正する、というものです。すべて日本の休業日です。

 資料3は、朝鮮の教育は、日本と同じように”教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス”と定めた”朝鮮教育令”です。

 資料4は、”朝鮮教育令の施行”について述べたものですが、”特ニ力ヲ徳性ノ涵養ト国語ノ普及トニ致シ以テ帝国臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメムコトヲ要ス”とあることで分かるように、日本の政策に抵抗することなく素直に従い、日本語を使うことを求めているのだと思います。

 資料5は、日本の「教育勅語」が、朝鮮に下されたこと、したがって、「教育勅語」謄本を頒布することを伝え、”聖旨ニ奉答”することを求める文書です。

 資料6は、文字どおり”教員心得”ですが、第一条の”忠孝ヲ本トシ徳性ヲ涵養スヘシ”などというところその他に、戦うための教育を進めようとする意図が読み取れるのではないかと思います。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                 七 八紘一宇への途

                

  (一)朝鮮

    一 

 御影並勅語謄本奉置心得 明治四十二年四月 韓国統監府訓令第十四号

 

第一条 御影ハ学校内ニ特別ナル奉置所ヲ設ケ若ハ校舎内清浄ナル場所ヲ選ヒ一室又ハ一区域ヲ設ケ唐櫃(カラウト)等ニ納メ最尊重ニ奉置スヘシ

学校ニ適切ナル場所ナキトキハ理事庁民団役所等ニ於テ前項ニ準シ奉置スルコトヲ得

第二条 勅語謄本ハ 御影ト共ニ奉置所ニ奉置スヘシ

勅語謄本ノミヲ下付セラレタル学校ニアリテハ校舎内ノ最清浄ナル場所若ハ職員室内ノ高所ニ尊重ニ奉置スヘシ

第三条 御影並 勅語謄本ヲ奉置セル学校ニ在利テハ職員ヲシテ宿直セシムヘシ

勅語謄本ノミ奉置セル学校ニ於テモ亦同シ

学校内ニ教員住宅ノ設アリテ管守ヲ欠カサルモノハ特ニ宿直ヲ置クコトヲ要セス

第四条 非常変災ノ為予メ奉遷所ヲ定メ置クヘシ

第五条 御影並 勅語謄本ハ儀式ヲ挙行スル場合ノ外他ニ仮用セシムルコトヲ得ス

第六条 御影並 勅語謄本奉置ノ学校ニシテ廃校シタル場合ハ御影並 勅語謄本ヲ返納スヘシ

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   

 教育関係諸法令中休業日改正ノ件  明治四十三年十月一日 朝鮮総督府令第二十号

 

 隆熙三年学部令第六号……国語学校令施行規則第十一条中休業日ヲ左ノ通改正ス

 一 四方拝

 一 元始祭

 一 孝明天皇祭

 一 紀元節

 一 神武天皇祭

 一 神嘗祭

 一 天長節

 一 新嘗祭

 一 春季皇霊祭

 一 秋季皇霊祭

 一 日曜日

 一 春季休業

 一 夏期休業

 一 冬季休業

附則

 本令ハ公布ノ日ヨリ施行ス

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 朝鮮教育令〔抄〕 明治四十四年八月二十四日 勅令第二百二十九号

 

 朝鮮教育令

第一章 綱領

第一条 朝鮮ニ於ケル朝鮮人ノ教育ハ本令ニ依ル

第二条 教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス

第三条 教育ハ時勢及民度ニ適合セシムルコトヲ期スヘシ

第四条 教育ハ之ヲ大別シテ普通教育、実業教育及専門教育トス

第五条 普通教育ハ普通ノ知識技能ヲ授ケ特ニ国民タルノ性格ヲ涵養シ国語ヲ普及スルコトヲ目的トス

第六条 実業教育ハ農業、商業、工業等ニ関スル知識技能ヲ授クルコトヲ目的トス 

第七条 専門教育ハ高等ノ学術技芸ヲ授クルコトヲ目的トス

 〔以下略〕

資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     

  朝鮮教育令の施行について朝鮮総督の論告  明治四十四年十一月一日

 

本総督曩ニ大命ヲ奉シ朝鮮統轄ノ任ニ膺(アタ)ルヤ首トシテ施政ノ綱領ヲ示シ教育ノ要義ニ付亦論ス所アリタリ今ヤ朝鮮教育令公布セラレ茲ニ之カ施行ニ際シ更ニ教育ノ方針ト施設ノ要項トヲ明カニシ以テ率由(ソツユウ)スル所ヲ知ラシム

帝国教育ノ大本ハ夙ニ教育ニ関スル 勅語ニ明示セラルル所之ヲ国体ニ原(タズ)ネ之ヲ歴史ニ徴シ確乎トシテ動カスヘカラス朝鮮教育ノ本義亦此ニ在リ

惟フニ朝鮮ハ未タ内地ト事情ノ同シカラサルモノアリ是ヲ以テ其ノ教育ハ特ニ力ヲ徳性ノ涵養ト国語ノ普及トニ致シ以テ帝国臣民タルノ資質ト品性トヲ具ヘシメムコトヲ要ス若夫レ空理ヲ談シテ実行ニ疎リ勤労ヲ厭ヒテ安逸ニ流レ質実敦厚(トンコウ)ノ美俗ヲ捨テテ軽佻浮薄ノ悪風ニ陥ルカ如キコトアラムカ啻(タダ)ニ教育ノ本旨ニ背クノミナラス終ニ一身ヲ誤リ累を家国ニ及ホスニ至ルヘシ故ニ之カ実施ニ関シテハ須ク時勢ト民度トニ適応シ以テ良善ノ効果ヲ収メムコトヲ努ムヘシ

 

朝鮮ノ教育ハ之ヲ大別シテ普通教育、実業教育及専門教育トス普通教育ハ国語ヲ教ヘ徳育ヲ施シ以テ国民タルノ性格ヲ養成シ並生活ニ須要ナル知識技能ヲ授クルヲ本旨トシ女子ノ教育ニ於テハ特ニ貞淑温良ノ徳ヲ涵養スルヲ要ス実業教育ハ実業ニ関スル知識技能ヲ授ケ兼ネテ勤労ノ慣習ヲ馴到セムコトヲ期シ専門教育ニ至リテハ高等ノ学芸ヲ授ケ之ニ堪能ナル者ヲ育成スルヲ目的トス私立学校ノ教育モ亦法令ニ準拠シ帝国教育ノ本旨ニ戻ルヘカアラサルハ固ヨリ其ノ所ニシテ之カ提撕(テイセイ)誘導ヲ要スル頗ル切ナルモノナリ又信教ハ各人ノ自由ナリト雖帝国ノ学政ニ於テハ夙ニ国民ノ教育ヲシテ宗教ノ外ニ立タシムルヲ主義トス故ニ官立公立学校ハ勿論特ニ法令ヲ以テ学科課程ヲ規定シタル学校ニ於テハ宗教上ノ教育ヲ施シ又ハ其ノ儀式ヲ行フコトヲ許ササルヘシ当事者須ラク此ノ旨趣ヲ体シ子弟教育ノ針路ヲ誤ルナキコトヲ期スヘシ

抑朝鮮カ帝国ノ隆運ニ伴ヒ其ノ慶福ヲ全ウスルハ実ニ後進ノ教育ニ俟タサルヘカラス朝鮮ノ民衆善ク此ニ留意シ各自其ノ分ニ応シ子弟ヲシテ適当ノ教育ヲ受ケ盛徳達材ノ途ニ就カシムヘシ斯ノ如クニシテ始テ朝鮮ノ民衆ハ我カ

皇上一視同仁ノ鴻恩ニ俗シ一身一家ノ福利ヲ享受シ人文ノ発展ニ貢献シ以テ帝国臣民タルノ実ヲ挙クルコトヲ得ム 

資料5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

     八

  教育勅語謄本ノ頒布ニツイテ朝鮮総督訓令  明治四十四年一月四日 朝鮮総督府訓令第一号

謹テ惟フニ我カ

天皇陛下夙ニ臣民ノ教育ニ軫念シタマヒ曩ニ教育ニ関スル 勅語ヲ宣セラレ今又之ヲ朝鮮ニ下シ賜フ是レ帝国教育ノ本義ヲ明ニシ一視同仁民衆ヲ子愛シタマフ 聖旨ニ外ナラサルナリ正毅 勅語ヲ拝戴シテ感激ノ至ニ堪ヘス謹テ其ノ謄本ヲ作リ管内ノ学校ニ頒ツ苟モ教育ノ職ニ在ル者ハ常ニ之ヲ奉体シテ生徒ノ薫陶ニ努眼殊ニ学校ノ式日ニハ恭シク之ヲ奉読シ生徒ヲシテ夙夜服膺セシメ以テ教化ノ実ヲ挙ケ 聖旨ニ奉答セムコトヲ期スヘシ

 

  朕惟(オモ)フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス爾(ナンヂ)臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己(オノ)レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵(シタガ)ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是(カク)ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾?先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

()ノ道ハ実ニ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶(トモ)ニ遵守スベキ所之ヲ古今ニ通シテ謬(アヤマ)ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶(トモ)ニ拳々服膺シテ咸(ミナ)其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾(コヒネガ)フ

    明治二十三年十月三十日

 

朕曩ニ教育ニ関シ宣諭スルトコロ今茲ニ朝鮮総督ニ下付ス

    明治四十四年十月二十四日

  御名御璽 

資料6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

    十二

教員心得〔抄〕  大正五年一月四日 朝鮮総督府訓令第二号

 

 教員心得左ノ通定ム

    教員心得

帝国教育ノ本旨ハ夙ニ教育ニ関スル 勅語ニ明示セラルル所其ノ内地人ニ対スルト朝鮮人ニ対スルトヲ問ハス均シク 聖慮ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成セサルヘカラス蓋シ我カ帝国ハ開闢以来万世一系君臣一体世界ニ比類ナキ国体ヲ有ス故ニ帝国臣民タルモノハ協心戮力祖先ノ美風ヲ継承シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セサルヘカラス是レ実ニ教育ノ大本ニシテ又国家カ特ニ教育ヲ布ク所以ナリ故ニ教育ノ任ニ当タル者ハ常ニ国民教育ノ大本ニ思ヲ致シ特ニ左ノ三箇条ニ留意シテ努力奮励セムコトヲ要ス

 

第一条 忠孝ヲ本トシ徳性ヲ涵養スヘシ

忠孝ハ人倫ノ大本ニシテ臣子ノ至情ニ出ツ此大本ニ基キ此ノ至情ニ出テテ始メテ百行其ノ軌ヲ謬ラサルヲ得ヘシ忠誠孝順能ク臣子ノ本分ヲ知ルモノハ日常其ノ業ヲ執ルコト忠実ニ其ノ産ヲ治ムルコト勤倹ニ以テ身ヲ立テ世ニ処シ国運ノ発展ニ貢献スルノ人タルヲ得ヘシ故ニ教育ノ任ニ当ルモノハ忠孝ヲ本トシテ徳性ヲ涵養シ以テ帝国ノ臣民トシテ其ノ本分ヲ完ウシ得ルノ人物ヲ教養セムコトヲ期スヘシ

 

第二条実用ヲ旨トシテ知識技能ヲ教授スヘシ

教育ノ要ハ実用的人材ヲ育成シ国家ノ需要ニ応セシメンムトスルニ在リ若シ国民ニシテ徒ラニ空論ニ走リテ世用ニ遠サカリ勤労ヲ厭ヒテ実行ヲ忽(ユルガセ)ニスルカ如キコトアラハ何ソ能ク身ヲ立テ産ヲ興シ国益ヲ増進シ以テ其ノ本分ヲ完ウスルコトヲ得ムヤ故ニ教育ノ任ニ当タル者ハ須ラク利用厚生ノ道ニ着眼シ有用ナル智能ノ啓沃(ケイヨク)ニ務メ以テ国家ノ需要ニ適応スル実用的人材ヲ育成セムコトヲ期スヘシ

 

第三条 強健ナル身体ヲ育成スヘシ

凡百ノ事業ヲ遂行スルニハ強健ナル体力ヲ要シ国家ノ富強モ亦強健ナル国民ノ努力ニ待ツコト大ナリ身体羸弱(ルイジャク)ニシテ用ニ耐ヘスムハ何ソ能ク世ニ処シ業ニ服シ以テ帝国ノ進運ニ貢献スルコトヲ得ムヤ故ニ教育ノ任ニ当ル者此ニ留意シ強健ナル国民ヲ育成セムコトヲ期スヘシ

 

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朝鮮や台湾における「教育勅語」

2020年12月24日 | 国際・政治

 下記の、「新日本の対象と教育方針」の著者、佐藤正は、衆議院議員総選挙に4回連続当選を果たし、岡田内閣で拓務参与官を務めた人物です。東北帝国大学講師や宮城県立工業学校講師、教育新聞社社長、日本社会教育協会専務理事等を務め活躍していたといいます。
 その佐藤正の”敵国外患の意識”による”戦闘中心の国家建設”では、”一切の施設の中心、教育の眼目、総ての戦闘中心主義と云ふ事になる。此の思想は取りも直さず、武断政治、軍閥中心主義と云ふ事になる。最早斯る思想の存在の許す可からざるは何人も了解する処であろうと思ふ”という主張は、当時の世の中を大局的に見た当然の主張であったと思います。
 そして、”台湾の領土たらず、朝鮮の併合なかりし時代の”「教育勅語」の”「爾祖先の遺風を顕彰するに足らむ」と云ふが如きを其儘踏襲して朝鮮の子弟に臨むが如き、若くは一度発せられたる勅語は如何にしても改廃改訂を許さゞる如く考ふる頑迷者は真実の意味に於て、日本を愛さざる反叛者(逆徒)である”という主張も、否定しようのない正論だったと思います。

 また、帝国大学日本人初の哲学の教授であり、新体詩運動の先駆者でもあるという、井上哲次郎の、”国是”すなわち「教育勅語」に関する次の指摘は、当然考慮されなければならなかったことだと思います。
 ”国是の修正である。修正して新付の民族に与へる事である。斯くして日本の国家、国民性、国情等を、彼等に理解せしめる様にしなれば、新付の民族を同化出来ないばかりでなく、教育する事は出来ないと思ふ
 ”異民族の同化”という考え方には、抵抗を感じますが、「教育勅語」そのままの教育には無理があるという指摘は当然だと思います。

 にもかかわらず、いわゆる大和民族(和人)の神話的国体観に基づく「教育勅語」が、何の修正や改訂なく、そのまま台湾や朝鮮にもたらされ、”教育ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ忠良ナル国民ヲ育成スルコトヲ本義トス”と定められてしまったのです。
 まさに、佐藤正の指摘した”武断政治、軍閥中心主義”の考え方で突っ走ったということだと思います。
 「教育勅語」にある、”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ”という言葉が、台湾や朝鮮を含むものでないことは明らかであり、その「教育勅語」によって、台湾や朝鮮で”忠良ナル国民ヲ育成スルコト”はできるはずがないと思います。教育の面で、大変な無理を押し通したと思います。

 だから私は、こういうところにも”戦闘中心の国家建設”と、それを土台とした日本の戦争の強引な一面があらわれているように思います。

 下記は、「続・現代史資料(8) 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                五 動揺と補強
          (一) 改訂・廃止・追加の試みと意見
        5 井上哲次郎と植民地教育をめぐる教育勅語改訂論
井上哲次郎「教育勅語に修正を加へよ」ほか 『教育新聞』第60号(大正八年五月五日発行)

     言論 新日本の対象と教育方針
                                  主幹 佐藤 正
      一
 『世界改造』と云ふ事が昨年を中心として頻に唱へられた。高唱する者も、聞く者も『世界改造』に関して、内容の説明を求められたならば、なんと答ふるか。恐らくは明確なる概念は形ち造られて居なからうと思ふ。
 曠古(コウコ=未曽有)の大戦乱で随分多数各国の民衆が異常なる「激異の情」に打たれた事は言ふ迄もない。就中、ゼルマン民族の最近四五年の経験、ラテン民族特にフランス人、アングロサクソン民族のイギリス、アメリカの民衆、スラブ民族の大部分等は、時を同じうして、激変と、激異と、激動、との渦中に四年乃至五年を経過した。中にもスラブ民族は尚未だ此の驚異の域から去らない。我等は日本民族として、独逸の同盟側を敵として立ったのであるが、此の大戦乱を惹起した責任者が何れに在るかは、他の人々の研究に俟つとして、此の「驚異」から救われた、民衆の帰趨は如何に成り往くか。而して其の間に、生存権を成る可く優越に確保して往かねばならぬ。我が国民の歩む可き途は如何なる途であらうか。教育家が指示す可き途、進み行く到達点の目標は何んであらねばならぬか。政治家も財政家も、共に共に、其対象を定めておかねばならぬ。「敵国外患なきものは亡ぶ」と言つた古へ人は、未た狭い国内よりも外、見得なかった。実際に於て、敵国外患ある事は、或特定の国家、社会の努力の源泉となる事はあり得る。併し乍ら支那の戦国時代、我が国の封建時代の国家組織に於ては、仮想敵国を以て(或は真の敵国)、封土、国家等の向上勇往の源泉たらしめた事は端的に概念を得しむる上から、又事実として、さる時代なりしを以て、必要なりしならんも、現代に於て此の概念を許し得るや否や、我等は断乎として否定せんとする者である。
 敵国外患の意識は戦闘を予想して準備行為にのみ行為すると云ふ事であらねばならぬ。戦闘中心の国家建設である。一切の施設の中心、教育の眼目、総ての戦闘中心主義と云ふ事になる。此の思想は取りも直さず、武断政治、軍閥中心主義と云ふ事になる。最早斯る思想の存在の許す可からざるは何人も了解する処であろうと思ふ。然らば如何なる点に目標を置く可きであるか、我曹(ガソウ)は先づ国に国民の概念を検討し見て然る後ち、中心に触れようと欲する者である。
       ニ
 国民とは英語のNation であり、独逸語のVolk である。民族とは英語のpeople であり、フランス語のNation である。即ち国民とは一国内に団結して、同一政治の支配の下にある人類を云ひ、民族とは単に共通の精神的同一の起源を有する人類を以て起り、必ずしも一国家の人類たるを須(モチ)ゐない。時としては同一民族も全く、別個の政体国家に属する事がある。斯の如く民族と国民とは、その概念に於て大なる異なる所あるを以て、思想の混同を避けなければならなぬ。中世紀に於ける、日耳曼人(ゲルマン人)は民族即国民であったが、後来其の帝国瓦解するに及んで一国民なる、日耳曼(ゲルマン)族は岐れて数国民となった。即ち日耳曼民族は民族としては一なりと雖も国民としては数個に分かれたのである。後代又分裂したる日耳曼民族は再び結合して現今の独逸帝国を為すに到った。上の如く民族は必ずしも同一国民に非らざるが如く、国民も亦必ずしも同一民族なるを必要条件としない。支那は少なくとも二種の民族である。満人漢人是れである。此二民族は実に風俗、習慣等種々なる点に於て、異なるを見るのである。惟ふに今や我が帝国過去における(意識的と言はず)民族主義を抛(ナゲウ)ちて帝国主義を採るに到つたのである。大和民族即ち日本国民の立場を去りて、単に大和民族のみ帝国民でない、台湾に於ける漢民族朝鮮に於ける韓民族等合して以て日本帝国を組織するに到った。而して其の組織は日耳曼帝国の如く各民族有意的に結合して成れるものでもない。即ち各民族が各自の努力によって帝国を形成するに到りしものでなくして、優等人種が此等人種(相対的にして絶対的でない)を征服したる事に依つて成れりと見るべきである。(拙著日本人長所短所論…)
       三
此の意味から出発して、総ての施設の基礎を定めねばならぬ。教育勅語を発布せられた当年(明治廿三年)の我が国と現代の我が国の、国家組織は如上の意味から全く一変したものと言はねばならない。
台湾の領土たらず、朝鮮の併合なかりし時代の、其の実際より結論せられたる総てのものは一切改廃せられねばならぬは極めて明瞭なる事である。
 教育勅語の「爾祖先の遺風を顕彰するに足らむ」と云ふが如きを其儘踏襲して朝鮮の子弟に臨むが如き、若くは一度発せられたる勅語は如何にしても改廃改訂を許さゞる如く考ふる頑迷者は真実の意味に於て、日本を愛さざる反叛者(逆徒)である。我等は断言する、真理の変化は(時所位に依つて)認識議論上許されねばならぬ原理である。況んや政治に於ておや、政策に於ておや、而して新時代の国民の帰趨、教育の精神は一に「戦闘」を対象とするものであつてはならない。永久の平和の為の戦闘は許容するけれども、飽迄も人道上の平和主義と社会的向上を教育主義の眼目とせねばならぬ。之れ実に世界人類の尊き使命であらねばならない、日本民族として執らねばならぬ途である。(八・四・七二) 
 
   植民地、異民族の同化及教育
 朝鮮の暴動は、其の因つて来りし所必らずや一にして止まるまい。又我が国の植民地政策の確立と言ふ大局から見て、今回の朝鮮の運動が絶対的悪なりとも断言し得ない。植民地の統治には殆んど無経験だと云つて良い我が国民に早く覚醒せしめ警告を与へたと云ふ事から言へば、今回の暴動は好個の指導と暗示とをえ与へたものと云はねばならぬ。我等は単に教育上の問題とは言はず、我が国のあらゆる階級の人々が真面目に考究せねばならぬ緊急にして重大なる問題と信ずる。国民外交の問題と関連して国民的同化政策に向つて民衆の覚醒を促さねば、永遠に同化の実を挙ぐる事可能ない。而して当面に改革の実を為さねばならぬ問題は何か。朝鮮台湾等に施さんとする、教育中心の確立である。総督府制度の改廃と同時に自治制の施行である。宗教的教化の努力である。文化事業の促進であらねばならぬ。                            ─── 編輯局
              

               教育勅語に修正を加へよ
                                 文学博士 井上哲次郎

 最近朝鮮から帰った人が、余の処を訪づれた、朝鮮国民の教育に就いての一つの矛盾を語った。それは畏れ多き事であるが、明治天皇から賜わった教育勅語の或個所が、如何にしても、朝鮮民族に理解できなと云ふのである。勿論全体としては、其主旨なり、結構なりは非常に立派なものである。唯或個所、例へば、「先祖の遺風」云々、又は「祖先を尊ぶ」云々と云ふ言葉などは、民族を異にした朝鮮人には理解できないと云ふのである。故に何等かの異なった方法を以つて、朝鮮民族を教育しなければならない。されば如何なる方法に依るべきであるか? 其人の云はんとした主旨は此点であった。
 余の一個の考へから見て、本希望を述ぶれば何より先に朝鮮民族(其他台湾)を民族的に同化せしめなければならないと思ふ。別言すれば、日本の国民性なり、国法なりを理解せしめ、純然たる日本人たらしめねばならないと云ふのである。勿論民族化すると云ふ事は、単に外形や理解以上に、換言すればより内容的により精神的に、同化せしめると云ふ意義でなくてはならない。斯くの如きは、短日月には容易に出来難き事ではあるが、長き年月の後には、必ず同化せしめ得ると思はれる。
 今一つの適例を挙ぐれば、我国にあつても、彼の種子島、又は薩摩隼人などは、歴史的に此れを見れば、日本人として、少くとも日本人に近き民族として取り扱はれ、又成り来つたのは奈良朝時代、平安朝時代からである。今は此等の民族と、我日本民族との間には、さしたる人種的相違がない。彼の安部宗任、宗任などであつても、歴史的に之れを見るも、少しも日本人に相違して居ないばかりでなく、立派なる日本人として取扱はれてゐる。
 斯かる点より見ても、人種的に同化するにはさして至難な事ではあるまいと考へられる。斯くの如く人種的に民族的に同化すれば勿論今の教育勅語を持って教育する事も初めて有意義になるのである。而し現在の如く、未だ民族的に少しも同化せず、我国体が如何なるものであるかと云ふ事を理解しない朝鮮台湾などで、現今の教育勅語を基として教育するには、無盾した結果を生む事は、言はゞ当然の事と云はなければならない。とは言へ余輩は教育勅語を非難しやうとするものではない。教育勅語は現今のまゝであっても、立派なものであり、結構なものであると信じて居る。が、それは日本人を教育する場合のみである。明治天皇から現今の教育勅語を賜った頃には、日本は現今の如き幾多の民族を所有しては居なかった。故に此教育勅語を以て教育すれば少しの矛盾も感じなかった。が現今の如く、新付の民族をも、共に教育するとすれば、教育勅語の全体は従来のまゝで結構であるとして、或は個所、例へば前述べし如き点は修正さるべきではあるまいかと思ふ。
     ニ
 前述の如く従来の教育勅語を以つて、新附の民族──朝鮮、台湾の如き──を教育する事は誤りであると思う。教育勅語を教えられる毎に、彼等に奇異の感じを抱かしむるのは、理の当然である。されば如何にすべきと云ふに、余輩の考ふる処を述べれば、勿論希望ではあるが、──明治天皇より賜わった教育勅語に、今上陛下が或個所を修正せられて、新付の民族に賜わる様にすればよくはないかと考へるのである。勿論余輩一個の希望であるから、斯かる事が出来るものか叶うかは知らない。もし斯かる事が出来得るものとすれば、必ずや現今の如き矛盾は一掃せられるであらうと思ふ。
 右の如く新しい教育勅語が此等新付の民族に賜はれば、彼等は知らず、知らずの中に、日本の国体を、国民性を理解し、何時かは民族的に同化するであらうと思ふ。斯かる方法以外に新付の民族を教育すべき方法はないと思はれる。
 明治天皇より賜わつた教育勅語は前にも述べし如く、未だ新付の民族と云ふものを予想されない時代のものである。故に現今の如き時代にあつては、現今の時代に適応する様に修正せられるのが、当然のことであるまいかと考へる。
 民族を同化しても、朝鮮、台湾の如き殊に朝鮮の如き比較的文化の発達した国民であれば、仲々至難な事である。北海のアイヌの如き民族であれば、文化の程度から云うふも、将た国民の能力から見るも、さしたる困難は感じないであらう。が朝鮮のごとき国民は、よほど慎重なる態度をとらなければ、非常に困難である。
     三
 故に如上の点より思惟するも、目下の最も良き方法は、国是の修正である。修正して新付の民族に与へる事である。斯くして日本の国家、国民性、国情等を、彼等に理解せしめる様にしなれば、新付の民族を同化出来ないばかりでなく、教育する事は出来ないと思ふ。兎に角問題は非常に重大である。目下の処、朝鮮民族を日本化する事が何よりの急務であり、何よりなされなければならない問題である。

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教育荒廃を救う道『教育勅語』のすすめ?

2020年12月16日 | 国際・政治

 先だって、新松下村塾塾長(=濤川平成塾)・濤川栄太氏の「今こそ日本人が見直すべき 教育勅語 戦後日本人はなぜ”道義”を忘れたのか」(ごま書房)を読んで考えさせられたことを「今こそ日本人が見直すべき教育勅語?」と「教育勅語には普遍性がある?」と題して、まとめました。濤川栄太氏は、「新しい歴史教科書をつくる会」の副会長として活躍された方であり、多方面に影響力があったのではないか、と思ってのことでした。
 今回は、千葉大名誉教授であり、理学博士で、様々な国の審議会の委員などを勤められた清水馨八郎教授の「『教育勅語』のすすめ」(日新報道)を読んで考えさせられたこともまとめることにしたのですが、二人の考え方はとてもよく似ています。
 清水教授は、”「教育勅語」が日本民族の精神的バックボーン、人間教育、人間形成の目標が此処にある”といいます。濤川氏も、”かつての教育には、今の教育にはない「教育勅語」というバックボーンがあった”と書いていました。戦前・戦中、「教育勅語」が、戦争と深く結びつき、戦うための教えであったことを考えると、そういうとらえ方や評価でよいとは思えません。
 清水馨八郎教授の著書の各章のタイトルの下に括弧書きしたのが、濤川栄太氏の著書にある似たような内容のタイトルです。社会的に大きな影響力を発揮したと思われる二人が、戦後日本の教育荒廃を理由に、戦前・戦中の「神話的国体観」に基づく「教育勅語」の復活を意図するようなことを書いているのです。 
 
第一章 米国による戦後教育の意図的、計画的改悪
    (教育勅語を葬り去った、GHQの巧妙な手口)
第二章 日教組の革命教育と教育崩壊
    (大人に「教育の理念」が失われたところから、教育の荒廃は始まった)
    (「奉公」のたいせつさを忘れさせた戦後教育)
第三章 明治維新は教育国家日本の成果であり勝利だ
    (日本の再構築には、百年遡って歴史を解明しなければならない)
    (明治時代の人たちに比べ、危機感の薄い現代人)
第四章 教育勅語の正文と口語訳
    (教育勅語・現代語訳)
第五省 教育勅語の逐語訳と簡単な解説
第六章 神の国──日本文化のルーツは神道にあり
    (徳治政治だったからこそ、天皇制度は二千年以上続いた)
    (「天壌無窮の国運」に込められた無限の思い ) 
第七章 天皇の国・日本
    (無私の人だった明治天皇)
    (天皇は、日本人の精神文化の中心的存在)

 こうしたタイトルの文章を書く二人の活躍は、日本の民主化・非軍事化を進めたGHQが、二・一ゼネストに対し中止命令を出したのをきっかけに、いわゆる「逆コース」と言われる対日占領政策の転換にふみ切った結果だと思います。かつての戦争指導層が、再び戦後日本の指導層として甦ったので、二人はその流れを受け継いだのだと思うのです。
 
 清水教授は”日本という国は、神代が歴史に繋がり、それがそのまま現在に繋がっている世界に比類のない聖なる国家なのである”というのですが、それは「神話」であり、創作されたお話です。だから、”私が常に感動するのは前文の僅か数行の中に日本国の成り立ちと精華が、つまり国体の本質が簡潔にまとめられていることである”などということは、現在は通用しない歴史観だと思います。
 また、そういう考えを主張するのであれば、戦前発禁処分とされた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などのどこが間違っているのか、きちんと指摘し、社会科学的に論証をするべきだと思います。津田左右吉はあくまでも学者らしく近世徳川時代の学者の記紀研究を土台とし、欧米の先進的な種々の学問も踏まえて科学的研究を重ね、新たな記紀神話の研究書を世に出したのです。そして、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを具体的に明らかにしているのです。
 そうした津田左右吉等の研究を無視し、きちんと社会科学的に論証することなく、神話を史実とすることは許されないと思います。皇紀二千六百八十年を世界に通用するように科学的に明らかにした歴史家や研究者がいるでしょうか。それとも、史実はどうでもよいということでしょうか。

 ”日本という国は、神代が歴史に繋がり、それがそのまま現在に繋がっている世界に比類のない聖なる国家なのである”というような文章を読むと、天皇の「人間宣言」と言われる「新日本建設に関する詔書」を思い出します。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。…”

 私は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”が、日本の戦争の背景にあったことを忘れてはならないと思います。「教育勅語」はそうした観念を国民に植えつけるものであったのだと思います。
 また、天皇を現御神として礼拝の対象にしたのみならず、「御真影」や「教育勅語」さえも「神」のように礼拝の対象として、きわめて専制主義的な政治を行い、日本の戦争を支えた事実も忘れてはならないと思います。
 人ではなく、「御真影」や「教育勅語」を守るために、命を落とした人たちがいたことも、戦前・戦中の日本が、どんなに厳しい統制のもとにあったかを教えてくれると思います。それは、「御真影」や「教育勅語」が、徳目の教化のためというより、むしろ強力な奉安、奉護、奉体のシステムによって、国民を専制主義的に統制することに利用されたことを意味しているのだと思います。「教育勅語」が強い影響力を持ったのは、こうしたシステムによる強制力が働いたことを見逃してはならないと思うのです。

 「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)には、下記のような事実が取り上げられています。その一部抜粋です。

  岩手県上閉伊郡箱崎尋常小学校訓導
明治二十九年六月十七日              栃 内 泰 吉
                            五十五歳
 三陸大海嘯(カイショウ:=潮津波)ニ襲はれ御真影ヲ奉遷セントシ避難ノ機ヲ逸シ之レヲ奉持セルマゝ怒涛ニ打上ゲラレ殉職ス
 御真影ハ絶命スル迄身辺ヨリ放タズ奉護シ為メニ御真影ハ安全ナルヲ得タリ

  仙台第一中学校書記
明治四十年一月二十四日              大 友 元 吉 
                       安政二年六月二日生   
 校舎火災ニ罹リタル際御真影ヲ奉遷セントシテ火災ニ包マレテ焼死殉職ス
 ・・・
  兵庫県養父郡小佐尋常高等小学校訓導
昭和二年ニ月一日                  井 村   毅
                    明治三十九年三月二十八日生   
  学校火災ニ際シ御真影ヲ奉持セシママ火中ニ殉職ス
 ・・・
  石川県能美郡丸山尋常小学校代用教員
壬 生 米 吉    大正四、七、一七
 丸山尋常小学校、出授業所勤務中ノ処、大正四年七月十七日午前一時出火同所ニ宿泊中ノ児童ヲ救出シ勅語奉戴避難セントシ窓際ニ至リ焼死ス

 
 私は、清水教授と正反対ですが、”山で道に迷ったら振り出しに戻れ”ということで、「教育勅語」の古い教えに戻るのではなく、最新の学問を総動員して乗り越えることを考えるべきだと思います。また、明治維新が王政復古によってなしとげられたことが、日本の敗戦に至る過ちの始まりであったと思っています。

 下記は、「『教育勅語』のすすめ」清水馨八郎(日新報道)の「まえがき」です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 まえがき

 最近の日本は非常識を通り越して、亡国の瀬戸際に立っている。政治と社会が狂い、学校が狂い教育崩壊が始まっている。それは勝ち誇った敵のGHQが、日本が再び立ち上がれないように毒入りの憲法と毒入りの教育基本法を強制し、これを愚かにも後生大事に守ってきた当然の帰結であった。米国は日本の復讐、仇討ちを極度に恐れ、大人たちに戦争犯罪贖罪意識をつぎ込み謝罪憲法を、さらに子供たちが大人になっても復讐できないように教育基本法の反日思想教育で、日本人としての魂を抜いてしまった。次代まで読んだ、敵ながら見事な恐るべき占領政策であった。
 敵は地理・歴史・修身の日本人になるための基礎知識と、守るべき道徳を抹消させた。道徳なき国家は亡びる。日本民族道徳教育の基本である「教育勅語」を、当時の国会まで、マッカーサーに媚びを売って、「教育勅語」の排除・失効を決議してしまった。一人として反対し教育を守る議員がいなかったとは何たる腰抜け、屈辱か。
 本書は先ず戦後教育頽廃の過程を詳述し、翻って明治維新の成功が日本的教育の成果であり勝利であったことを述べ、明治の精神の基礎を創られた明治天皇の「五箇条の御誓文」と、「教育勅語発布」に至る大御心(オオミココロ)を述べている。 
 「教育勅語」の正文は戦前の子供たちは誰でも諳んじ親しむことができたが、戦後の青少年にはあまりにも格調高い漢文調で馴染まないので、これに現代口語訳をつけた。さらに深く学ぶために逐語訳を加えて解説することにした。
 「教育勅語」は前文、主文(徳目)、後文の三部からなっている。前文では日本の国柄の本質の国体の精華を、主文で国民が守るべき十五の徳目を、後文でこの道のいわれと正しさと決意が述べられている。
 私が常に感動するのは前文の僅か数行の中に日本国の成り立ちと精華が、つまり国体の本質が簡潔にまとめられていることである。
 それはわが国は遠い遠い昔に皇室の御先祖が遠大な計画の下に、わが国を建設進歩発展を見事に成しとげた。これが国体の精華であると。
 してみると、国民が国体を守るべき徳目の中心は忠孝精神に要約することができる。このうち孝は子が親に感謝しその恩に報いようとする心で、動物にない人間だけの特性で、東洋人にも西洋人にもある普遍的な徳目である。だが「忠」は西洋にもなく、東洋の儒教精神の義礼智信のどこにも出てこない日本だけの神ながらの思想なのである。忠とは「公」と「私」の関係で、私を公の為に捧げて、時には生命まで捧げて公を守る精神である。この「忠」という奉公精神こそ、古代からの蒙古の来襲のような国難に対しても、近代の西洋列強の侵略に対しても独立を保ちえて、現在、近代国家日本を創った原動力になった精神である。公のために生命を捨てても守る心は単に武士階級だけではなく、一般国民も己が仕える主人に対しても「丁稚奉公」の言葉があるように、公のために生きる忠義の心は民族を貫く尊い精神となってきたのである。
 毎年繰り返し上演される歌舞伎の当り狂言は「忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」などすべて忠義の物語で、これに触れると国民は無性に感動し涙を流すのである。中でも「忠臣蔵」はその忠義の臣が大石内蔵助以下四十七士も、蔵のように詰まった物語だから断然人気があるのである。
 「教育勅語」では最初に皇祖皇宗が国を始められたとある。皇祖とは神話時代の神々の事を指し、皇宗とは初代神武天皇以来の歴代の天皇を意味している。日本という国は、神代が歴史に繋がり、それがそのまま現在に繋がっている世界に比類のない聖なる国家なのである。日本独自の神道も天皇制も、他国から学んだものでなく、遠い昔からこの国に自然に生まれた古い道、即ち神ながらの道ということができる。日本精神のナゾが秘められている。この二つが分かれば日本が分かるといわれるのはこのためである。本書が最後の章に神道論と天皇論をつけ加えたのはこのためである。
 山で道に迷ったら振り出しに戻れと教えられた。現代社会と教育の混乱、方向を失った時こそ、「教育勅語」の原点に戻って考える時である。明治維新も王政復古でなしとげたように。

     平成十二年一月吉日
                                     清水馨八郎
 

 

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不敬事件 内村鑑三の反論と教科書疑獄事件

2020年12月08日 | 国際・政治

 下記の三つの資料を読むと、「教育勅語」が日本でどのような意味をもち、どのような働きをしたのかが分かるのではないかと思います。特に資料1の内村鑑三の指摘は鋭く、「教育勅語」の持つ問題の核心を衝いている面があると思います。そして、それが事実に基づいたものであることを、資料2が証明していると思います。内村鑑三の教科書疑獄事件の受け止め方は、決してキリスト教徒特有のものではなく、常識的なものだからです。
 
 尊王攘夷急進派の明治維新における様々な謀略や、明治政府要人による山城屋和助事件、三谷三九郎事件、尾去沢鉱山事件、藤田組贋札事件、北海道開拓使庁事件、小野組転籍事件などを考えると、私は、「ふるさとを創った男」の著者、猪瀬氏と同じように教科書疑獄事件も謀略のような気がしますし、そうであれば、事件は内村鑑三の受け止めたものより、さらに悪質で深刻なものだと思います。

 内村鑑三を社会的に抹殺したのは、「教育勅語」奉安・奉護・奉体のシステムだと思います。「教育勅語」を礼拝の対象にすることによって、政権の意図に反する国民の動きを封じ、統制することができるうようになっているのです。その一端は、資料3で知ることができると思います。 

 「教育勅語」には”我カ皇祖皇宗國ヲ肇(ハジ)ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥(ソ)ノ美ヲ濟(ナ)セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此(ココ)ニ存ス”とありますが、これは日本が特別な国、すなわち神の国(神州)であるという考えに基づくものです。だから、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族”であるというような意識を持たせることになったのだと思います。そして、「教育勅語」によって、対外的に強い優越感を持った日本国民は、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ”ということで、”世界ヲ支配”しようとする政権の意図に沿って、戦争に立ち向うことになったのではないかと思います。

 下記は、資料1は「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から、その一部を抜粋しました。
 資料2は、「ふるさとを創った男」猪瀬直樹(日本放送出版協会)から「第二章 思ひいづる故郷」その4の、「教科書疑獄事件」に関わる部分を抜粋しました。
 資料3は、資料1同様、「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から一部を抜粋しました。

 このように、「教育勅語」が日本でどのような意味をもち、どのような働きをしたのかを振り返ると、森友問題、加計学園問題、「桜を見る会」問題、検察庁法改正案問題など数々の疑惑にまみれた安倍政権が、道徳教育の教科化を図った事実の意図も見えてくるような気がします。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
内村鑑三「不敬事件と教科書事件」『萬朝報』(明治36年8月2日)

                不敬事件と教科書事件

 今を去ること十四年前、余は其頃発布されし教育勅語に向って低頭しないとて酷く余の国人より責められた者である。其時の余と余の国人との争点は下の如き者であった、即ち余は勅語は行ふべき者であって、拝むべきもの者ではないと言いしに、文学博士井上哲次郎氏を以て代表されし日本人の大多数は之を拝せざる者は国賊である、不敬漢である、と言ひて余の言ふ所には少しも耳を傾けなかった、爾うして彼等は多数であり、且つ其言ふ所は日本人の世論であるが故に彼等は余を社会的に殺して了ふことが出来た。〔譬令(タトヒ)暫時たりしとは雖も〕
 余は今に至て過去の傷を吹き立て、茲に余の当時の地位を弁護せんとは為ない、然しながら文部省が勅語を拝がましむるに努めて、之を行はしむるに努めない結果として教科書事件と云ふ、文明世界に向て日本国の体面を非常に傷けし此大事件を惹起すに至りしを悲しまざるを得ない、勅語に向って低頭しないのは罪である乎も知れない、然しながら其明文に反き、然かも勅語教育を国民に強ふる其倫理教科書を採用するに方(アテッ)て、書肆より黄白貪りしに至ては是れ勅語を拝まざるに勝さる数百千倍の罪悪であると思ふ、日本国の文部省は弱き余一人を不敬漢として拝し得て、数十百人の余に勝るの大不敬漢を其部下の中に養成し、以て国辱を世界に向て曝らせしの責任より免かるゝことは出来ない。
 又奇怪千万なるは日本国民である、彼等は勅語に向て礼拝せざる者あれば国民一体となりて起つて之を責むるとは雖も、勅語の明文に背き、其神聖を瀆すの視学官、又は師範学校長、其他直接に教育の任に当たる者あると雖も、私(ヒソ)かに之に対して侮蔑の意を表するに止つて、誰一人として之に対て公憤をを発する者はいない、彼等は形式を破る者には厳にして、内容に反く者には寛である、彼等の道徳念なるものは儀礼的であって実行的でない、是れ何にも責められし余の不幸でなくして、斯かる浅薄なる道念を懐く国民の最大不幸である。
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第二章 思ひいづる故郷

 信州で育った高野辰之と鳥取で生まれた岡野貞一がめぐり会うためには、ひとつの不幸な事件が起きていなければならなかった。文部省唱歌は、教科書の国定化によって国家という影を背負うことにより生み落とされるのである。
 明治三十五年の十一月初旬、品川付近で拾ったとする落とし物が警察に届けられた。立派な革の折り鞄(カバン)で、なかをたしかめてみると小手帳に名刺が挟まれている。「普及舎社長山田禎三郎 」とあった。
 山田は東京高等師範学校出身、茨城師範の校長を務めた人物で、この年の夏、衆議院選挙に長野市から立候補して落選、そののち教科書出版大手の普及舎社長に迎え入れられた。小手帳には有名な地方長官はじめ教育家の名前がずらりとあり、その横に細かな数字が書き込んであった。
 誰がどれだけ賄賂を受け取ったか、一目瞭然だった。山田は賄賂を贈った側である。
 教科書出版大手は、この普及舎のほか、金港堂、集英堂、などで互いに教科書売り込みで競い合っていた。
 出版社の賄賂攻勢の噂を耳にした警視庁ではすでに一年前から、金港堂社主の原亮三郎に眼をつけ身辺を内偵していたという。だが確固とした証拠はない。そこに山田メモが飛び込んでくる。警察側はいっきに教科書疑獄の全容を語る証拠を握った……。
 僕には、一連のプロセスがどうしても腑に落ちない。そんな決定的な証拠がタイミングよく拾得物として届けられるだろうか。当時の新聞報道では、「鞄は品川付近の畑に落ちていた」とか「汽車の網棚に置き忘れられていた」などとまちまちなのだ。だいいちそんな重要機密書類を、それなりにキャリアのある慎重な人物が落としたり掏(ス)られたリするだろうか。
 山田メモを分析した警視庁は、出版社幹部や噂のある校長らに尾行をつけ、彼らの行動を逐一チェック、ついに、明治三十五年十二月十七日の未明、百名の捜査官を動員し、金港堂、普及舎、集英堂をはじめ二十数カ所の家を急襲した。
教科書検定制度の下では、出版社が教科書を編纂し、文部大臣の検定を受け、そのうえで各府県ごとに採択を決める。この制度は、国で一括して決める国定制度でもなく、また各学校が独自に自校の実情に合わせて選ぶ自由採択制度でもない。
 かりにA県が「国語は金港堂にする」と決めたら、他の出版社はA県から撤退しなければならない。さらにその闘いは教科ごとに繰り広げられる。できるだけ多種の教科を、しかも多数の府県で採択させる、というのが出版社の戦略である。一度採択されると、つぎの検定まで向こう四年間は安泰なのだ。逆に採択数が少なければ長期にわたって経営不振に陥る。出版社によっては検定にパスしたのをいいことに、次年度には紙質を落とすなど悪どい商売をするところもあった。
 教科書の採択権をもつのは、各府県の有力者である。府県ごとに教科書採択のための審査委員会が設けられていた。その委員には師範学校長や中学校長などが任命される。どの学校の校長が任命されるか、出版社にとっては大きな関心ごとだった。日頃接触している校長が任命されれば、ほぼ採択は決まったもおなじである。委員の任命は県知事の権限だから、出版社はそちらもマークした。
 料亭での接待だけでなく、水面下でも大量の金品が動いていた。金港堂の社長原亮三郎宅から押収された証拠物件は、じつに人力車十六台に及び、春画の入った大量の熨斗袋(ノシブクロ)までで出てきたという。
 出版社の工作は、微に入り細を穿って、魔手は師範学校在校生にまで及んでいた。苦学生にプライベートに学資を援助しておくと将来校長になった折りには恩義を感じてくれる、とうそぶく出版社の番頭もいた。審査委員会が開かれている最中、形勢危うしとみるや文部省秘書官の名前を騙り、東京から電報を打ち中止させたこともあった。
 捜査の進展にしたがい、逮捕者はどんどんふえていく。収賄側の逮捕者には、師範学校長ら教育関係者だけでなく、四名の知事のほか代議士、県会議員まで含まれている。ある東京師範学校教授は、暮も押し詰まった時期に実母の葬儀の支度をしていて踏み込まれた。栃木県知事は大晦日の夜、寝間着姿のまま拘引された。群馬県師範学校長は正月休み明け、生徒に向って「教育界は腐敗している、いまこそ改革しなければいけない」と年頭の訓示を垂れていたところを逮捕される始末だった。
 教育界に対する信頼は急速に失われていった。
 以前から教科書国定化のチャンスをうかがっていた政府にとっては、まさに好機到来であった。信用を失墜したのは地方官(東京を含めて)であり、したがって清廉潔白な中央(文部省)がこれを管理すべきだという理屈である。教科書疑獄の発覚からわずか三週間後の明治三十六年一月九日に、政府は、「小学校教科書国定法案」を議会に提出しているところをみると、さきの折り鞄の一件に謀略の臭いを感じないわけにはいかない。

 東京音楽学校に残された高野辰之の履歴書をよると、明治三十五年四月十日、「長野県」から「休職を命ず」とされている。「文部省」で「国語教科書編纂委員を嘱託す」となったのは四月二十一日。長野県師範学校を卒業したため服務義務が生じているから、すったもんだの挙げ句、いったん休職という措置をとらざるを得なかった。
 国文学を研究するために上級学校を目指した辰之だが、帝大教授上田萬年のはからいもあり当座の腰掛けとして文部省の仕事をすることになった。
 その辰之の坐った椅子は、教科書疑獄事件と深い関わりをもつ。
 教科書検定制度に対し、文部省は早い段階から国定化の機会をうかがっていた。小さな贈収賄事件があるたびに出版社に警告していたし、民間教科書は教育勅語を反映していないと批判していた。
 日清戦争が起きたのは教科書疑獄事件より八年前だった。これをきっかけに国粋主義の風潮が強まり、教科書国定化の気運が盛り上がる。明治二十九年二月に「国費を以て小学校修身教科用図書を編纂するの建議案」が貴族院に提出されたが、時期尚早でこれは廃案になった。その後、明治三十三年四月、文部省内に国定教科書を準備するために修身教科書調査委員会が設置される。
 辰之は、のちに「私どもは二十五、六歳という少壮時代に国語読本編纂委員という名目で文部省の役人になった。当時はいまのように国定制度でなかった。そうして文部省の図書課でも一種を編纂して、民間のものと共立させようという趣意」で執筆を命じられた、と回想している。
 「民間のものと共立」は、どう考えてもおかしい。もし国で教科書を制作すれば、公立の学校はそれを無視できなくなる。いわば既成事実をつくりながら国定教科書に切り換えようとの文部省の算段が背景にあったとみるべきだろう。もちろんそれは辰之のあずかり知らぬ世界での動きだ。
  彼の回想は、「ところが国定にする必要が突発して、私どもは尋常小学校用八冊高等小学校用八冊を三、四か月間に編纂しなければならなかった」とつづく。
 現場の辰之にとっては、「突発して」かもしれないが、僕にはこれはかなり計画的な進行に思われて仕方ない。宙ぶらりんな状態にあった彼は、ちょうど臨時の要員として雇用されるのに最適だった。
 文部大臣の児玉源太郎(陸軍大臣と兼任)は、辰之たちにこう言ってあおった。
「カネはいくらかかってもいいからやれ、できないならやめろ」
 トップがそういう意気込みだから部下はたいへんである。学務課長などは「内容は少しはまずくてもいい、とにかく間に合わせろ」と必死で命令する。
 国定化が正式に決定されたのが明治三十六年四月十一日なのに、八月一日にはもう一年生用の教科書『尋常小学読本(一)』ができていた。
 ・・・以下略
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             二 教育に関する勅語の発布

        (二)教育に関する勅語の発布とその謄本の下付

一 文部省訓令第八号
                                 北海道庁 府県
今般教育ニ関シ勅語ヲ下タシタマヒタルニ付其謄本ヲ頒チ本大臣ノ訓示ヲ発ス管内公立私立学校ヘ各一通ヲ交付シ能ク
聖意ノ在ル所ヲシテ貫徹セシムヘシ
明治二十三年十月三十一日
文部大臣 芳川顕正
ーーー
 勅語(略)
ーーー
   訓 示
謹テ惟フニ我カ
天皇陛下深ク臣民ノ教育ニ軫念シタマヒ茲ニ忝ク
勅語ヲ下タシタマフ顕正職ヲ文部ニ奉シ躬重任ヲ荷ヒ日夕省思シテ
嚮フ所ヲ愆ランコトヲ恐ル今
勅語ヲ奉承シテ感奮措ク能ハス謹テ
勅語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校ニ頒ツ凡ソ教育ノ職ニ在ル者
須ク常ニ聖意ヲ奉体シテ研磨薫陶ノ務メ怠ラサルヘク殊ニ学校ノ式
日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ会集シテ
勅語ヲ奉読シ且意ヲ加ヘテ諄々誨告シ生徒ヲシテ夙夜ニ佩服スル所アラシムヘシ
明治二十三年十月三十一日             文部大臣  芳川顕正
ーーー
             三 奉体の形成

一 小学校令 明治二十三年十月三日 勅令第二百十五号
  第二章 小学校ノ編制
第十五条 小学校ノ毎週教授時間ノ制限及祝日大祭日ノ儀式等ニ関シテハ文部大臣之ヲ規定ス
ーーー
三 勅語奉読会心得〔富山県〕 明治二十四年一月九日 富山県訓令第二号

明治二十三年十月三十日教育ニ関シ
勅語ヲ下シ賜ハリシヲ以テ其謄本並ニ文部大臣ノ訓示各一通宛文部省ヨリ公私立学校ヘ交付附セラル因テ今之ヲ配布ス学校職員ニアリテハ深ク 聖旨ヲ奉体シ常ニ薫陶教誨ニ懈(オコタ)ラス左ニ掲クル所ノ 勅語奉読会心得ニ拠リ生徒ヲ集メテ 勅語ヲ奉読シ且ツ之ヲ解釈敷衍シテ諄々訓誨シ生徒ヲシテ感佩(カンパイ)実践スル所アラシムヘシ
   勅語奉読会心得
一勅語奉読会ハ毎年十月三十日並ニ卒業証書授与学校紀念等ノ日ニ生徒ヲ学校ニ会集シテ之ヲ開クモノトス
一勅語奉読会ニハ先ツ
 天皇陛下及
 皇后陛下奉拝ノ式ヲ行ヒ而シテ
 勅語ヲ奉読スヘシ
一勅語ハ学校長私立学校ハ校長若クハ校主若クハ主席教員之ヲ奉読シ来会者一同拝聴スヘシ
一勅語ニ関スル誨告ハ奉読ノ後学校職員ニ於テ之ヲナスヘシ
一奉読会ハ学校関係職員礼服ヲ着用参会スヘシ
一奉読会当日ハ校舎ノ内外ハ勿論諸般清浄ヲ旨トシ且執行中ハ謹慎厳粛ニスヘシ
一奉読会ニハ生徒ノ父母後見人等ヲシテ参会セシムルコトヲ得
一毎年十月三十日ニハ生徒ニ通常ノ授業ヲナサゞルコトヲ得

ーーー
九 小学校祝日大祭日儀式規程 明治二十四年六月十七日 文部省令第四号

明治二十三年十月勅令第二百十五号小学校令第十五条ニ基キ小学校ニ於ケル祝日大祭日ノ儀式ニ関スル規程ヲ設クルコト左ノ如シ
    小学校祝日大祭日儀式規程
第一条 紀元節、天長節、元始祭、神嘗祭及新嘗祭ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集  
 シテ左ノ儀式ヲ行フヘシ
 一学校長教員及生徒
  天皇陛下及
  皇后陛下ノ 御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行ヒ且
  両陛下ノ万歳ヲ奉祝ス
   但未タ 御影ヲ奉戴セサル学校ニ於テハ本文前段ノ式ヲ省ク
 二学校長若クハ教員、教育ニ関スル 勅語ヲ奉読ス
 三学校長若クハ教員、恭シク教育ニ関スル 勅語ニ基キ 聖意ノ在ル所ヲ誨告シ又ハ
  歴代天皇ノ 盛徳 鴻業ヲ敍シ若クハ祝日大祭日ノ由来ヲ敍スル等其祝日ニ相応スル演説ヲ為シ  
  忠君愛国ノ志気ヲ涵養センコトヲ務ム
 四学校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相応スル唱歌ヲ合唱ス
第二条 孝明天皇祭、春季皇霊祭、神武天皇祭及秋季皇霊祭、ノ日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同 
 ニ参集シテ第一条第三款及第四款ノ儀式ヲ行フヘシ
第三条 一月一日ニ於テハ学校長、教員及生徒一同式場ニ参集シテ第一条第一款及第四款ノ儀式ヲ行  
 フヘシ
第四条 第一条に掲クル祝日大祭日ニ於テハ便宜ニ従ヒ学校長及教員、生徒ヲ率ヰテ体操場ニ臨ミ若   
 クハ野外ニ出テ遊戯体操ヲ行フ等生徒ノ心情ヲシテ快活ナラシメンコトヲ務ムヘシ
第五条 市町村長及其他学事ニ関係アル市町村吏員ハ成ルヘク祝日大祭日ノ儀式ニ列スヘシ 
第六条 式場ノ都合ヲ計リ生徒ノ父母親戚及其他市町村住民ヲシテ祝日大祭日ノ儀式ヲ参観スルコト  
 ヲ得セシムヘシ
第七条 祝日大祭日ニ於テ生徒ニ茶菓又ハ教育上ニ裨益アル絵画等ヲ与フルハ妨ナシ
第八条 祝日大祭日ノ儀式ニ関スル次第等ハ府県知事之ヲ規定スヘシ

 

 

 

 

 

 

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不敬罪、井上哲次郎と内村鑑三の論争

2020年12月02日 | 国際・政治

 私は、井上哲次郎と内村鑑三の論争で、明治がどのような時代であったかがわかるのではないかと思います。
 特に、西欧の学問に通じていた井上哲次郎が、西欧の学問や思想の発展を考慮せず、歴史の歯車を逆回転させるかのような主張をしたことが見逃せません。私は、井上哲次郎は、信教の自由を否定し、現に存在する天皇を、”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”などと神の如く位置づけて専制主義的な政治を展開した明治政府に組みしたのだと思います。井上哲次郎は下記のように書いています。

耶蘇教(キリスト教)は唯一神教にて其徒は自宗奉ずる所の一個の神の外は、天照大神も弥陀如来も、如何なる神も、如何なる仏も、決して崇敬せざるなり、唯一神教は恰も主君独裁の如く、一個の神は一切万物の主にして、此の神の外には神なしとし、他神の其領分中に併存するを許さざるなり、独り自宗の神のみを以て真正の神とし、他の諸宗の奉ずる所は、如何なる神も、皆真正の神と見做さゞるなり、多神教は之れに反して共和政治の如く、他宗の諸神をも併存するを許すこと多く、決して惟一神教の如く、厳に他神崇拝を禁ずるものにあらざるなり、唯一神教と多神教とは此の如く全体の性質を異にするを以て、多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し、唯一神教たる耶蘇教は到る処激烈なる変動を成せり
 
 では、”多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し”また、”我邦は古来神道の教ありて、神の多きこと実に千万を以て数ふ”日本の人間である井上哲次郎が、なぜ、キリスト教徒を”耶蘇教徒は何時の間にか知らず識らず愛国心を失ひ、他人の行為を怪訝し、風俗に逆ひ、秩序を紊り、以て国の統合一致を破らんとす、国の災実に是れより大なるはなし、我邦人たるもの深く此に意を留めざるべからざるなり”などと、キリスト教徒だけが悪者であるかのように断罪するのか、と思います。井上哲次郎のこの主張に対する内村鑑三の下記のような批判は痛烈であり、井上哲次郎が反論することは難しいだろうと思います。

天皇陛下は我等臣民に対し之(教育勅語)に礼拝せよとて賜はりしにあらずして、是を服膺し即ち実行せよとの御意なりしや疑うべからず、而して足下の哲学的公平なる眼光は余輩(ヨハイ:=われら)基督教徒を以て仏教徒よりも、儒者、神道家、無宗教家よりも、我国社会一般公衆よりも、勅語の深意に戻り、国に忠ならず(実行上)、兄弟に友ならず、父母に孝ならず、朋友に信ならず、夫婦相和せず、謙遜ならざるものとなすか、不忠不孝不信不悌不和不遜は基督教徒の特徴とするか、
足下は余が勅語を礼拝せざるが故に余を以て日本国に対して不忠なるものとなせり、然れども店頭御尊影を他の汚穢(オエ)なる絵画と共に鬻(ヒサ)くものは如何、朝に御真影に厳粛なる礼拝を呈し夕に野蛮風の宴会に列する者は如何、加之(シカノミ)ならず粛々として勅語に礼拝するものが盃を取て互に相談するや余輩□くものをして嘔吐の感を生せしむるものあるは未だ足下の目にも耳にも留まらざるや、若し余をして足下の如く新聞雑誌の記録を以て余の論城を築かしめば、余は教育の本原たる我文部省に就ても、足下の職を奉せらるゝ我帝国大学に関しても、若しくは足下の賞賛せらるゝ仏教各派現時実況に就ても、余は足下をしてニ三日も打続きて尚ほ通読するを得ざる程の非国家的反勅語的なる醜聞怪説をして足下の前に陳列し得るなり

 井上哲次郎の一神教と多神教に関する主張はわからなくはないのですが、当時のように、礼拝の対象を、神(天照大神)=天皇=大日本帝国=教育勅語と広げ、内村鑑三を不敬罪に問うのは、やはり如何なる神を信じるかという意味の信教の自由を否定するのみならず、国家と個人の関係における個人の内心の自由をも否定することになると思います。井上哲次郎は、そういう意味で当時の専制主義的な明治政府に加担してしまったのだと思うのです。

 また、近代西欧のキリスト教社会で形成された国家に関する理念や諸原則を超えて、内村鑑三が、自らキリスト教徒として、当時の日本に適応しようとしたと思われることが、”基督教は欧米諸国に於て衰退しつつありとの御説は万々一、事実なりとするも是亦余の弁解するの必要なし、何んとなれば余は欧米を真似せんとするにものにあらざればなり”という文章でわかります。
 また、内村鑑三は、礼拝の対象を神のみならず、国家(日本)や主権者(天皇)、その「御真影」(写真)、「教育勅語」にまで広げ、それらと個人の関係を権力的に縛り、礼拝を強制することに抵抗したのではないかと思います。井上哲次郎は、それを否定したのであり、それは、信教の自由や内心の自由を否定することを意味するのだと思います。

 日本では、代々、記者会見に臨む内閣官房長官が、会場に掲げられた丸に向って頭を下げています。これは、礼拝の対象を神に限定せず、天皇や国家や「御真影」、「教育勅語」、「国旗」(日の丸)その他に広げた明治時代の仕来たりが、今に続いているからではないのでしょうか。神や人に向ってではなく、旗に向って頭を下げる例が他国にもあるでしょうか。

 下記は、いずれも「続・現代史資料 教育 御真影と教育勅語 Ⅰ」(みすず書房)から、その一部を抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               四 軋轢と悲劇

            (一) 内村鑑三不敬事件

井上哲次郎「教育と宗教の衝突」『教育時論』第279号・280号・281号・283号及び284号所収分

               教育と宗教の衝突
                                   井上哲次郎稿
 余は久しく教育と宗教との関係に就いて一種の意見を抱き居りしも、其事の極めて重大なる為め、敢えて妄(ミダリ)に之を叙述することを好まざりき、然るに或時教育時論の記者余を訪ひ、熊本県に於て教育と宗教と衝突を来せるが、抑々勅語の主意は耶蘇教と相合はざるものにや、如何にと問われたれば、余は最早平生懐抱する所を隠蔽すること能はず、少しくその要点を談話せり、然るに記者は其談話の大意を教育時論第272号に載せたり、是に於てか耶蘇教徒は頗る之れが為めに激昂せしものと見え、其機関たる諸雑誌に於て余が意見を批難し、中には随分人身攻撃をもせり、…
 ・・・
 嚮(サ)きに教育に関する勅語出づるや、之れに抗せしものは、仏者にあらず、儒者にあらず、又神道者にあらず、唯々耶蘇教徒のみ之れに抗せり、或は云はん、耶蘇教徒は勅語其れ自身に抗せしにあらず、勅語を拝することに抗せしなりと、然れども是れ唯々表面上の口実に過ぎず、其実は勅語の主意を好まざるなり、耶蘇教徒は皆忠孝を以て東洋古代の道徳とし、忌嫌に堪へざるなり、故に或は発して不敬事件となり、或は激して宣告文となれり、何故勅語の出づるに当りて唯々耶蘇教徒のみ勅語に対して紛紜(フンウン)を生ぜしや、能く其因りて起る所に注意せざるべからざるなり、耶蘇教徒の中日本の風俗に同化して忠孝の教も採用し、甚だしきは勅語をも会堂に講ぜんとするものあり、是等は保守的の耶蘇教と相容れざるものなり、其相容れざるは、一は我邦に適合せざる旧来の教旨を保存し、一は旧来の教旨をして枉(マ)げて我邦に適合せしめんとするに由るなり、要するに、耶蘇教は元と我邦に適合せざるの教なり、故に我邦の風俗に同化すべき必要も起るなり、若し耶蘇教が始より能く我邦の風俗に適合せるものならば、豈に之れに同化するを要せんや、従ひて又同臭の耶蘇教中に別派を生ずることあらんや、世の教育家は公平なる眼を以て能く近時社会の現象如何に注目せよ、勅語の出づるに当たりて第一高等中学校に不敬事件を演せしは何人ぞ、耶蘇教徒にあらずや、令知会雑誌第八十三号に云く、

 第一高等中学校嘱託教師、内村鑑三が同校の勅語拝戴式に列して、陛下の勅語に対して、尊影に対して、敬礼せざりし、其不遜不敬最も憎むべき所行は云云、其最初よりの顛末を記すべし、抑々此の事の起りは、
 本年一月九日、同校就業始めに於て、木下校長は、生徒一同を衆め校内倫理室を以て式場とし、各教員列席の上、旧臘(キュウロウ)陛下が文部大臣へ下し玉ひし、教育上に関する勅語の拝読式を挙行せり、其砌(ミギリ)教員内村鑑三は、他の生徒教員が何れも粛々として、敬礼を罄(ツク)すにも拘わらず、一人傲然として更に敬礼せざる状の、如何にも不遜なりしより生徒は大いに奮激し、厳しく内村を詰(ナジ)りしに、彼は漫然として、我は基督教者なり、基督教の信者は、斯る偶像や、文書に向て、礼拝せず、又礼拝するの理由なしと答へたるより、生徒は益々激し、一同校長に迫り、校長も捨置かれぬ事なり、とて、内村に問ふところあり、内村も同教徒、金森通倫、木村駿吉、中島力造等と協議の上、前非を悔て、礼拝することとなり、折節内村は病気にて蓐(シトネ)にありしかば、木村をして代拝せしめ、全快の上、自身更めて礼拝することと定まりしも、一旦其真面目を現はせし上は、今設(シツラ)ひ礼拝するも、決して真心に非ざるは勿論、不敬の所為ありし上は、相当の処置あるべしとの論、生徒中に喧しく、到底一同の折合つかざるより、初は免職すべき筈なりしも、故ありて内諭解職となり、此一条先づ事済となりしも、済まざるは基督教者の内幕にて、此事に付、二派に分かれ横井高橋の一派は、礼拝するも不可なしとし、他の多くは、飽迄も不可とするものにて、今尚ほ紛然たりと云ふ、

 是れ実に第一高等中学校に於ける不敬事件の顛末の概要なり、内村氏が此の如き不敬事件を演ぜしは、全く其耶蘇教の信者たるに因由すること亦疑いなきなり、耶蘇教は唯一神教にて其徒は自宗奉ずる所の一個の神の外は、天照大神も弥陀如来も、如何なる神も、如何なる仏も、決して崇敬せざるなり、唯一神教は恰も主君独裁の如く、一個の神は一切万物の主にして、此の神の外には神なしとし、他神の其領分中に併存するを許さざるなり、独り自宗の神のみを以て真正の神とし、他の諸宗の奉ずる所は、如何なる神も、皆真正の神と見做さゞるなり、多神教は之れに反して共和政治の如く、他宗の諸神をも併存するを許すこと多く、決して惟一神教の如く、厳に他神崇拝を禁ずるものにあらざるなり、唯一神教と多神教とは此の如く全体の性質を異にするを以て、多神教たる仏教は古来温和なる歴史を成し、唯一神教たる耶蘇教は到る処激烈なる変動を成せり、内村氏が勅語を敬礼することを拒み、傲然として偶像や文書に向ひて礼拝せずと云ひたるは、全く其信仰する所唯々一個の神に限るに出づるなり……、余は今此に多くの神若くは唯一の神を信ずることに就いて其是非如何んと断案を下だすにあらず、唯々不敬事件の起れる理由を弁明するに止まるなり、……我邦は古来神道の教ありて、神の多きこと実に千万を以て数ふ、然るに其最大の神たる天照大神は実に皇室の祖先なりと称す、然のみならず、倫理に関する教も皇祖皇宗の遺訓と見做さる、是れ現に我邦の国体の存する所とするなり、然るに耶蘇教徒の崇敬する所は、此にあらずして他にあり、他とは何ぞや、猶太(ユダタ)人の創唱に係る所の神に外ならざるなり、余は今耶蘇教徒に対して神道者になれと勧むるにあらず、此には単に耶蘇教者の国体を損傷すること多き所を解釈するに止まるなり。
 ・・・
…耶蘇教徒は多く外国宣教師の庇蔭(ヒイン)を得て生長せしものゆゑ、甚だ愛国の精神に乏しきなり、苟も愛国の精神に富まば勅語を拝するも何かあらん、唯々勅語のみを拝礼して愛国の精神なきものは、固より取るに足らざるの無腸漢に過ぎず、然れども真誠に愛国心あるものは、生命も亦国の犠牲に供することあり、何んぞ復た勅語を拝することを拒むを用ひんや、耶蘇教徒は何時の間にか知らず識らず愛国心を失ひ、他人の行為を怪訝し、風俗に逆ひ、秩序を紊り、以て国の統合一致を破らんとす、国の災実に是れより大なるはなし、我邦人たるもの深く此に意を留めざるべからざるなり、余は此間に耶蘇教徒中の最も甚しきものを挙げて其如何程我邦に不利なるものあるかを明らかにせん、駿河台の上に高大なる建物あり、兀(コツ)として雲表に聳え、我宮城を俯瞰するものゝ如し、是れをニコライの礼拝堂となす、…
 ・・・以下略
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               四 軋轢と悲劇

            (一) 内村鑑三不敬事件

                     『教育時論』第285号(明治26年3月15日発行)
            文学博士井上哲次郎君に呈する公開状
                                       内村鑑三   
 足下(ソッカ:=貴殿)
 余(ヨ:=私)は未だ足下と相識るの栄を有せず、只東洋の一大哲学者として常に足下の雷名を耳にせしのみ、然るに近頃足下が「教育と宗教の衝突」と題して長論文を教育時論に投ぜられ、基督教の非国家的なるを弁せらるゝに際し、余に関する事柄を多く引用せられしに依り余は不得止(ヤムヲエズ)此公開状を足下に呈せざるを得ざるに至れり。
余は如斯(カクノゴトキ)論文が足下の手より出でしを喜ぶなり、若し凡僧(ボンソウ)寒生(=書生)の作たらしめんか、余は之れに答ふるに術なかるべし、然れども哲学的の眼光を有する足下なれば余は事物の研究に於て公平なる学術的論法を足下より請求し得ればなり。
然れども余は今足下の如き長論文を綴る閑暇(カンカ)なし、又その必要もなかるべし、基督教非国家論に就ては已(スデ)に公論のあるあれば、今茲に余の重複を要せず、基督教は欧米諸国に於て衰退しつつありとの御説は万々一、事実なりとするも是亦余の弁解するの必要なし、何んとなれば余は欧米を真似せんとするにものにあらざればなり、彼は彼なり、我は我なり、此点に就ては余は足下に倣ふて欧米の糟糠(ソウコウ)を嘗めざらん事を勉むるものなり、
然れども足下の論法並に論旨に就て余は足下に少しく足下の再考を要求せざるを得ず、足下願くは哲学者の公平を以て余の注意を観過する勿れ。
足下は哲学者として堅固なる事実の上にその論旨を建てられたり、足下は空想虚談に依らずして耳目を以て証し得べき歴史的の材料を以て足下の論城を築かれたり、誰か足下の注意深き帰納法に服せざらんや、然れども其事実の選択法に至りては足下甚だ疎漏ならざりしか、余が足下に申す迄もなけれ共、反対党の記事のみを以て歴史上の批評をなすべからざるは史学の大綱なり、天主教徒の記事のみ依りし独逸三十年戦争史は不公平なる歴史なり、北部合衆党の記事のみに依りたる米国南北戦争史は史学上の価値を有せず、然るに足下が余輩(ヨハイ)基督教徒の行跡を評せらるゝや多くは余輩の正反対党の記事に依らるゝは如何、余の高等中学校に於ける勅語礼拝記事に関して足下の引用せらるゝ記事は実に基督教に対して常に劇烈なる憎悪の念を有する真宗派の機関雑誌なる令知会雑誌なり、或は「仏教」雑誌なり、皆基督教に対して敵意を挟むにあらざれば常に之を貶見賤視する新聞雑誌なり、
憑(ヨリカカ)るべからざるは新聞紙上の記事なり、況んや反対者に関する記事においてをや、若し後来足下の言行記を編纂する者あって足下と主義を異にせる新聞雑誌が足下に関し登載せる所のものを以てせは足下以て如何となす
余は他の記事に就ては真偽を保証する能わざれども、令智会雑誌の余の第一高等中学校礼拝事件に関する報知は誣ゆるの甚しきものと言はざるを得ず、余が尊影に対し奉り敬礼せざりしとは全く虚説に過ぎず、拝戴式当日には生徒教員とも尊影に対し奉ての礼拝を命ぜられし事なし、只教頭久原氏は余輩に命してひとりづゝ御親筆の前に進みて礼拝せしめしなり、而して其記事中「斯かる偶像や文書に向て礼拝せず」云々の語は余の発せし語にあらざるなり、又「前非を悔て」との言は時の事実を伝ふにあらず、余は礼拝とは崇拝の意ならずして敬礼の意たるを校長より聞きしにより喜んで之をなせしなり、又爾来もこれをなすべきなり、故に「決して真心にあらざるの」云々の語は余の真意を伝ふものにあらず、其「免職」云々に関しては最も讒謗(ザンボウ)の甚しきものと云はざるを得ず、木下校長の余に対するや常に同僚の礼を以てせられ、余も亦同氏に対し決して悪感情を有せしことなし。余は奸賊として放逐せられしなり。
然れども是れ余一個人に関する事実なり、余は茲に彼の第一高等中学校事件に就て余を弁護せんとするものにあらず、余の茲に之を言ふは足下が事実の探究に甚だ疎漏なりしを示さんが為めなり、哲理的歴史は如斯不公平不完全の材料を以て建設し得べからざるは足下の能く知る所なり。
足下の基督教徒が我国に対し不忠にして勅語に対し不敬なるを証明せんとするや、該教徒が儀式上足下の注文に従わざるを以てせられたり、然れども茲に儀式に勝る敬礼の存するあり、即ち勅語の実行是なり、勅語に向て低頭せざると勅語を実行せざると不敬何れが大なる、我聖名なる 天皇陛下は儀式上の拝戴に勝りて実行上の拝戴を嘉し賜ふは余が万々信して疑わざる所なり。
畏れ多くも我 天皇陛下が勅語を下し賜はりしは真意を推察し奉るに
天皇陛下は我等臣民に対し之に礼拝せよとて賜はりしにあらずして、是を服膺し即ち実行せよとの御意なりしや疑うべからず、而して足下の哲学的公平なる眼光は余輩基督教徒を以て仏教徒よりも、儒者、神道家、無宗教家よりも、我国社会一般公衆よりも、勅語の深意に戻り、国に忠ならず(実行上)、兄弟に友ならず、父母に孝ならず、朋友に信ならず、夫婦相和せず、謙遜ならざるものとなすか、不忠不孝不信不悌不和不遜は基督教徒の特徴とするか、
足下は余が勅語を礼拝せざるが故に余を以て日本国に対して不忠なるものとなせり、然れども店頭御尊影を他の汚穢(オエ)なる絵画と共に鬻(ヒサ)くものは如何、朝に御真影に厳粛なる礼拝を呈し夕に野蛮風の宴会に列する者は如何、加之ならず粛々として勅語に礼拝するものが盃をを取て互に相談するや余輩□くものをして嘔吐の感を生せしむるものあるは未だ足下の目にも耳にも留まらざるや、若し余をして足下の如く新聞雑誌の記録を以て余の論城を築かしめば、余は教育の本原たる我文部省に就ても、足下の職を奉せらるゝ我帝国大学に関しても、若しくは足下の賞賛せらるゝ仏教各派現時実況に就ても、余は足下をしてニ三日も打続きて尚ほ通読するを得ざる程の非国家的反勅語的なる醜聞怪説をして足下の前に陳列し得るなり。否な若し余をして少しく復讐の念を生□せめ、新聞雑誌より足下自身に関する記事を摘用せんとなあらば、余は文学博士井上哲次郎君を以て至誠国に尽し、恭謙(キョウケン)己を持し、勅語の精神を以て貫徹せらあれた東洋の君子として画くことに甚だ困しむなり。
 勅語発布以来我国教育上の成績に如何なるものあるや、日本国の教育者社会は勅語発布以来その不敬者を責むるに喧噪なる割合に道徳上の進歩ありしや、学生の勤勉恭謙は発布以前に比較して今日は著しき進歩ありしや教員の真率倹節、その学生に対する愛情、犠牲の精神は前日に比して幾何の進歩かある、若し新聞紙の報する所を以て十の二三は真に近きとするも尚ほ余輩民間にある者より之れを見る時は日本帝国現時の教育界は勅語の理想と相離るゝ甚だ遠し、学生が教師に対する不平、教師が学生に対する不親切、理事者の不始末等余輩の耳朶(ジダ)に接する反勅語的の事何ぞ如斯く多きや、不敬事件よ、不敬事件よ、汝は第一高等中学校の倫理室に於てのみ演せられざるなり、
足下曰く「耶蘇教徒は多く外国宣教師の庇蔭を得て生長せしもの故甚だ愛国心に乏しきなり」と、是足下の観察にして余は是に悉く同意を表する得ず、然れども其事実問題は他日に譲る事となし、余は茲に余の観察を足下の前に開陳せざるを得ず、即ち「足下の如き尊王愛国論を維持する人士は多く政府の庇蔭を得て生長せしもの故甚だ平民的思想に乏しきなり」との事なり、広く目を宇宙の形勢に注ぎ、人権の重きを知り、独立思想の発達を希望するの士にして足下の如く重きを儀式上の敬礼に置き実行上の意志如何を問はざるの人は何処にあるや、足下は余輩の不敬を責むるに当て足下の材料を重に仏教の機関雑誌より得るの理由も蓋し茲に存せずんばあらず、足下の尊王愛国論は庇蔭の下に学を修め今尚ほ官禄に衣食するものにあらざれば、或は神官諸氏の如く、或は僧侶諸君の如く、其消長は大に足下の称する尊王愛国論の盛衰如何に関するものを除いて他に多く見さる所以のものは抑何ぞや、
勿論普通感念を有する日本臣民にして誰か日本国と其皇室に対し愛情と尊敬の念を抱かざるものあらんや、然るを愛国心は己の専有物の如くに見做し余輩の行跡を摘発して愛国者の風を装はんとするが如きは、阿世媚俗の徒も喜んで為す所なり、足下の如き博識の士は勿論不偏公平真理を愛する念より余輩を攻撃せらるゝなれども、足下の如き論法を使用し、足下の如き言語を吐かるゝ士は多くは、爵位官禄に与る人に多きを見れば、余輩民間にある者をして所謂尊王愛国論なる者も又自己の為めにする所ありてなすにあらざる乎の疑念を生ぜしむるは決して理由なきにあらざるなり、足下願くは余の疑察を恕せよ、余は唯足下が余輩に加へられし疑察を足下に加へしのみ、而して若し足下の称する尊王愛国論は必しも阿世媚俗の結果にあらずとならば(而して余はその必しも然らざるを知る)其同一の推理法を以て余輩基督教徒も外人の庇蔭に依るが故に基督教を信ずるにあらざるを知れ。
足下は基督教の教義を以て勅語の精神と幷立し能はざるものと論定せられたり、若し足下の論結にして、確実なるものなれば基督教は日本国に於て厳禁せらるべきものにして、耶蘇宗門禁制の表札は再び日本橋端に掲げらるゝに至らん、帝国大学に職を奉ずる基督教徒を始めとして我帝国政府部内にある基督教徒は直に免官すべきなり、足下已に足下の持論を世に公にせられたり、而して誠実なる日本国民として、真理を重んずる学者として、足下の輿論のクルセードを起し、基督教撲滅策を講ぜざるばからず、足下の責任も亦大なる哉。
然れども余は又足下に一の注意を与へざるを得ず、茲に基督教に勝る大害物の我国に輸入せられしあり、即ち無神論不可思議論是れなり、足下の論文に依て見れば足下はハーバート、スペンサーに対し多分の尊敬と信用を置くが如し、ミル、スペンサー、バックル、ベジョウ等は我国洋学者の夙(ハヤ)くより嗜読(シドク)せしものにして、今日の日本を造り出すに所て是等英国碵学の著書与大勢力ありしは蓋し疑なき事実なり、而して足下の公平なる哲学的の眼光は不可思議論と勅語とは並立し得るものと信ぜらるゝや、余は試に茲に一二の実例を挙げて足下の教訓を乞はんと欲す。
スペンサー氏の代議政体論は我国英語研究者の教科書として広く用ひらるゝ書なり、その需要の大なるや数種の翻刻を市上に見るに至れり、我国幾万の子弟は此書を読みつゝあるなり、而して其独裁政治を論するや左の語あり。
 余は茲に余の拙劣なる翻訳を附し此公開状の読者をして英語を解せざる人の為めにす(英文略)
 服従の性(即ち君主政体をあらしむるもの)は無数罪悪の原因となり、高潔の士にして服従を肯ぜ   ざるものを拷問殺戮し、バスチル、シベリアの惨状を演ぜしめしものなり、之れ智識、思想の自由、 真正の進歩の圧抗者なり、之れ何れの時代に於ても王室の弊害を譲し此弊害をして国内に流行せしめしものなり、……… 過去の記載に依るも、地球面上に散布せる未開人種を見るも、欧州今日各国の状態を比対するも、主権に対する服従は道徳と智識の増進すると同時に退減するを見る、昔時の武勇崇拝より今日の「オベッカ主義」(Flunkeyism)に至る迄此服従の精神は人性の最も陋劣なる所に最も強し。

而して之れをその最も甚だしきものにあらざるなり、その前后23ページに渉る記事を見よ、而し如何にして「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」との勅語と並行し得るかを余輩に弁明せられよ。
余に若し時と余白とあらしめば余はウオーター、ベジョウの究理政治論より、ミルの代議政体論、其他バックル、ベイン、ホルテヤ、モンテスキウ輩の著作より、我国の尊王心を全然破壊するに足るべき章句を引用し得べきなり、冝なるかな我文部省は一時官立諸学校に令して前述のスペンサー氏代議政体論を教科書として使用するを禁ぜられたる事や。
我国仏学者の中に最も愛読さるゝルソーの民約論(Contract Social)は皇室の尊栄を維持するが為めには害なきものと信ぜらるゝや、欧米の学者にして基督教を攻撃せし記者は王政を攻撃せしものなるは足下の知る所なり、然るに基督教を以て我国体を転覆するものとして嫌悪する我国の教育者がベジョウ、スペンサー等を尊拝するは余の未だ了解し□はざる所なり。
昔時羅馬(ローマ)の虐帝ニーロは手づるから火を羅馬の市街に放ち其焔煙天に漲るを見て一夜の快を得たり、然るに後公衆の疑念と憤慨かその身に鍾るや直に基督教徒を捕へ罪を彼等に帰し彼等を殺戮せりと、今日我国の洋学者も亦ニーロ帝を学ばんとするものにあらざるか、世の軽薄に進み礼儀真率の地を払ふに至て其罪を基督教徒に科せんとするものは誰ぞ。
日本は足下の国にして又余の国なり、偽善と諂媚(テンビ)とは何処に存するとも共に力を合せて排除すべきなり、然れども軽卒と疑察とは志士の共同を計るに於て用なきなり、我等恭倹なる日本国民として、注意深き学者として、公平なる観察者として、他を評するに寛大なるべく、事実を探るに精密なるべく、結論に達するに徐かなるべきなり、足下此公開状を以て足下の所謂「一々答弁を為すほどの価値あるものにあらず」と為さず、余に教訓を垂るゝあらば豈余一人の幸福のみならんや、不備
    明治廿六年ニ月                            大坂に於て
                                          内 村 鑑 三

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