真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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統帥権の独立と薩長政権の策謀

2021年12月30日 | 歴史

 下記は、「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)の「巻七 慶応三年  四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」に書かれている文章です。私は、薩長など尊王攘夷急進派による明治維新との関わりで、この文章は、極めて重大だと思っています。
 これは、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章ですが、尊王攘夷急進派の本音をうかがい知ることが出来る文章だと思うのです。
 それは「乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候」とあることからも察せられますが、熟読語は”火に投げて然(シカ)るべしと奉(タテマツ)り候(ソウロウ)”というのですから、他人に知られてはいけない内容であるということだと思います。次のような内容です。
”…此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今日之体たらくにては大機を失し候事は眼前之被思いかにも不安心の至に御座候實以皇国之御大事に相係り申候間誓而御油断無之様奉祈念候此段大略任幸便得御意置候〇至其期其期に先じ而甘く玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候間此處は詰度乍此上岩西大先生達ちへも御論し一歩一厘は御拔り無之様御盡誠尤肝要第一之御事に御座候諸子よりも西翁などへも得と相論し置
世子君よりも西翁へ御直々に被仰聞何分にも此儀真之大眼目に付返す々々も御丹誠御盡力千禱萬祈之至に御座候ちら々々と風説書上など一見候處に而も彼も余程こゝへは惣に心を用ひ気を着け居候處趣相顕れ懸念に堪へ不申候誓而御抜り無之様蒼生挙而奉祈候…”

 見逃すことができないのは、”玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…” というところです。
 玉(天皇)を我が方へ抱き奉り、万々一も彼手(幕府)に奪われては、その計画は大崩れとなって、三藩(長州、薩摩、土佐)の亡滅は申すに及ばず、皇国には、徳を損なう者があるということになって、再起不能になることは明らかだというような内容だと思います。
 ”玉(天皇)を我が方へ抱き”幕府を倒して権力を手にしようという重大な政治的意図を伝えているので、他人に知られてはいけないということなのだと思います。
 だから、それが、其の後の薩長の数々の策謀の疑念とつながるのです。
 討幕のために、「孝明天皇を毒殺」し、戊辰戦争では「偽錦旗」を使い、また「討幕の密勅(偽勅)」を利用し、討幕のために働いた「赤報隊」を、その後「偽官軍」として主要メンバーを処刑し、守る意志のない「攘夷」を掲げて幕府を倒したということです。そして、明治維新以後の日本の歴史は、まさに薩長の計画通りに進んだといえるように思うのです。 

 桂太郎の自伝からは、それを裏づけるような内容を読み取ることができるように思います。
 山縣有朋を支えて参謀本部を設置し、それを天皇の直轄とすることによって、「統帥権独立」に道筋をつけ、軍部大臣現役武官制を定め、反立憲的制度を創始した意図の背後に、権力を保持しつづけるための長州藩の政治的意図が見えるような気がするのです。”玉(天皇)を我が方へ抱き”つつ、軍を天皇の直轄とし、軍の権力を保持し続ければ、たとえ議会や内閣が、自由民権派その他の影響下に入っても、明治維新を成し遂げた長州藩を中心とする尊王攘夷急進派が、日本を動かす影響力を行使できると考えたのではないかと思います。そして、事実そのようになったのではないかと思うのです。
 桂は、”参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり”と書いているのです。でも、その”自然の空気”は、尊王攘夷急進派だけのものだと思います。 

  「自伝巻一」で、長州藩が1861年には”西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を伝ふ)”を兵制に加えたことがわかります。すでに、西洋の先進的な軍制を取り入れる必要性が認識されていたのだと思います。
 また、桂は、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦いに足軽隊二番小隊の小隊長として参加していることも見逃せません。戊辰戦争の記述のなかには、”君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし”などと、後の戦陣訓を思わせるような考え方が読み取れるように思います。

 「自伝巻二」で、近衛兵の暴動、「竹橋事件」に触れていますが、それが参謀本部の天皇の直轄とそれに伴う統帥権の独立に影響を与えたことも分かります。また、”西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり”とも書いています。竹橋事件西南の役が、日本式の軍制を考えるきっかけになっているのだと思います。
 参謀本部の設置と関わって、”教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。”と書いているのです。
 桂は、”我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。”と書いていることでわかるように、先進的な海外の軍制を学んでいいます。

 にもかかわらず、大日本帝国憲法に定められた”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”や、軍人勅諭の”天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)”ということをその中心とする日本式の軍制でなければならないと考えたのだと思います。

 だから、”非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行する”ことは当然なのだと師団条例を越えた行動をするのだと思います。それは、”明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じ”と同様、「統帥権の独立」の考え方だと思います。

 また、人材登用にあたって、”薩長人を排斥すべしとの論”があったことも分かります。それは、ほとんどの要職を、薩長出身者が占めたからだと思います。いろんな差別や不都合があったのではないかと思います。そうしたところに、何があっても、軍権を掌握し続けようとする薩長政権の意図が読み取れると思うのです。

 下記は、「桂太郎自伝 東洋文庫563」宇野俊一校注(平凡社)から「自伝巻一」と「自伝巻二」の一部を抜萃しました。
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                桂太郎 自伝巻一

 我が歳萌て甫(ハジメ)て十三歳なりしとき、本藩に於て西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を
伝ふ)を兵制に加へらる。其時父の仰せられけるは、従来の兵器のみを用いて戦場に臨まんことは、将来に於て甚だ覚束なきわざなれば、必ず西洋の銃器を携帯し、西洋式の訓練に依らざるべからずと。
父は、従来の武芸には、錬磨の功を積み熟達の域に到りし人にて、最も槍術に長ぜられけるが、時勢に応じて兵制を改革するの已むべからざることを夙に看破せられなければ、西洋式の操練を学ぶことを今より心がけずばあるべからずと、指導したまひけるなり。我も亦父の指教に随ひて自ら志を立て、西洋流の節制を訓練するに努めたり。
 文久三年(1863)癸亥(ミズノトイ)の夏、我が十七歳の時なりき。本藩の兵、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦へり。これを俗に馬関の攘夷といふ。翌元治元年甲子の春、我は諸友と謀り、攘夷の為めに馬関に赴かんと欲し、父に請ひて許可せられたりしかば、直に馬関に到り、足軽隊二番小隊の小隊長となりて、暫く該地に駐屯したりき。
 明治元年(1868)戊辰の夏、我の奥羽鎮撫副総督に従ひて羽州に在る頃、奥羽諸藩同盟して官軍に抗敵し、鎮撫総督の一行は全く賊中に陥りたる事あり。父は其一行の死生の消息すら定かならずと聞きたまひしかば、我が児の危難に陥りしことを案じ煩ひたまふ中にも、我が児に万一卑怯未練の挙動もあらんかとて 深く心を痛められ 常に人に向ひて語られけれるは、君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし、児が討死はもとより覚悟せる所にて、聊(イササ)かも哀み傷むべきにあらずと雖も、唯々其死を潔くせんことを希ふのみと仰せられたりと、後に人の我に語るを聞きたりき。我の奥羽より凱旋して、明治二年郷里に帰りたるとき、父は少しく異例の気味にておわせし由なるが、我を玄関に出迎へて、先づ第一に我が戦争中の動作を聞き、且つ我の恙(ツツガ)なく凱旋して再び相見るを得たることを深く喜びたまひき。これより病蓐(ビョウジョク=病床)に就き、荏苒(ジンゼン)重症に陥りて、今は頼みすくなげに見えたまひしが、湯薬に侍すること三月にして、遂にはかなくなりたまひぬ。
 我が父はかくの如き性行の人にておはしき。概言すれば、忠愛の年深く、忍耐の力強く、時勢を達観するの見識を具へ、家庭に於ては児子を教誨すること厳正に、一家を率ゐるに温和なりし人なり。
 
 我が母におはせし人は ・・・
 又我の父の許しを得て馬関に赴かんとする時にも、母は、速に馬関に到り、尊王攘夷の志を果し遂げよと、父もろともに励まされたりき。又戊辰の年に我の奥羽に赴きて敵中に陥りたる際には、或る神社に日参せられたりと聞けり。而して祈願の趣旨は、我が子の無事ならんことを禱られしにはあらで、我が子が其任務を全くし、苟も未練の最期を遂げ、家名を汚すが如きことなからんやう、祈請に丹誠を抽んでられしなりけり。
 我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。翌七年八月に我が母亡せたまひぬ。その頃我は僅に陸軍少佐たりしが、母は今はの際に臨みて、最早心おくことなしと宣ひしとぞ。不幸にして母の臨終に其側に侍する能はざりしは、深く遺憾とする所なれど、身を立て家名を興さん者ぞと思ひ定めたまひけん、心おくことなしと宣ひしと聞くこそ、せめてもの孝養なりけんかしと、聊か心安う覚えたりき。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                桂太郎 自伝巻ニ

 ・・・
 公使館附武官は参謀局の所轄なれば、我は帰朝後再び参謀局に勤務す。此時は恰も行政各部の事をも充分の調査を遂げて、改良せざるばからずといふ議論ありし時とて、我は太政官少書記官兼勤を命ぜられ、陸軍の調査漸く終りて後、我が希望する所の意見を陳べ、陸軍に法則係といふを置き、山縣陸軍卿が曩に我の企たる如く、実地と学理とを研究し、漸次陸軍の改良に着手するの方鍼(ホウシン)を執れり。
 此年(明治十一年)の八月二十三日に於て近衛兵の暴動あり(竹橋事件)。此の暴動は種々の原因より起りしものなるが、茲に記する必用なければ之を記せず。此の事あるに際し、軍事の改良を以て急務とし、中に就て西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり。然れども其論者と雖も、参謀事務とは如何なるものなりやは、未だ其脳裡に明々白々にはあらざりしならん。兎に角参謀事務の不完全といふ点より、参謀本部を置かざるべからずといふことゝなれり。此参謀本部設置を唱和したる人々と、我が参謀本部を置くといふ論とは、大に逕庭(ケイテイ=へだたり)ありしものゝ如し。然れども陸軍の一大改革を為すべき機運の来りしには相違点無かりしなり。
 此に依て従来参謀局は陸軍省に隷属せしが、此の年の十二月に、参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり。然れども未だ如何なる方法、如何なる組織といふ研究をなして此の論を立てたるにはあらず。而して愈々参謀本部を置き、軍事命令は天皇の直轄と為さざるべからずといふ事となり、其年の十二月を以て参謀本部を置くことに決し、我は参謀本部の方に従事することゝなり、如何にして参謀本部を組織すべきやの諮問をうけたり。本来我が計画は軍事行政を整頓し、その残余の事務が即ち純然たる参謀本部の事務なりと推考せしに、この全体の意嚮とは反対したれども、俗にいふ田を往くも畔を往くも同じ道理なりと決心し、最初参謀本部御用係を命ぜられ、同本部の組織に参与し、此時を以て陸軍中佐に進み、次で同本部管西局長に補せられたり
   管西局より各鎮台に命じて、参謀本部員に充るため、少佐大尉中尉各一人宛を徴し、成るべく
   硬骨なる人物を選抜して上京せしむべき旨を以てせり。而して此時その選に当りし輩は他日み   
   な有為の将官たるに至りしも亦奇なり。
 此の時山縣陸軍卿は参謀本部長に転ぜり。又当時参謀本部の組織は、別に条例ありて明かなれば茲に記せず。而して一般の取調事務は、依然継続せられたれば、我が太政官権大書記官を兼ね、山縣参謀本部長は参事院議長を兼ねぬ。我はまた参事院員外議官補を兼ね、軍事と政治とに従事したり。

 ・・・

 此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵聯隊長(子爵・操六)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考察とは殆んど正反対なりし。然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意思ありしと見えたり。又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人の間が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀(ネガ)はくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も帯芥(タイカイ=わだかまり)なきにらずやと。我又曰(イワク)、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此
誓約は成立たり。而して明治十七年のニ(一)月、横浜を解纜(カイラン=船出)するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆んど房室を同じくし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂(彼?)が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担うべしとの考案は、相互に脳裡に固結するに及べり。

 伊仏独露墺等欧州大陸諸国の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年ニ月を以て帰朝したり。同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽すことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々(ゴウゴウ)ともうふべきありさまなりし。時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の程度にまで上進せしめたりき。
 この物論囂々といふことも、事実に於ては当時陸軍卿の人材を登用したることゝ、他の一方に於ては薩長人を排斥すべしとの論を唱和せしに依れり。而して其論は新進有為の輩の賛同し結合する所にして、有為の輩がその結合中に在る野心家の為に利用せられたる事実ありしは、後に至りて大に明瞭なるを得たり。又是等の輩は如何なる方法を以て当局者に反抗を試み来りしやといふに、野心家が野心家を利用し、当時の将官中却て排斥せらるべき部分に属する某々等を首領とし、此の人を利用して当局に反抗するものにて、其表面より観れば、学派の競争の如く、独逸派、仏蘭西派と二派に分かれたる如き気味あり、又其二派分立の状を来したる原因は、前にいふ如く学理の進歩を謀らんが為に、独仏の兵書を得るに任せて翻訳せしめ、原書の何物たるを玩索(ガンサク)せず、主義の奈何を問わず、雑然として純駁を混淆したり。是即ち我が所謂希望以上の点まで、学理を重んずる風気が上進即ち暴進し来たりしなり。之に加ふるに前のニ個の原因を裏面に包含するを以て、一時は非常に困難なる事態なりし。更に他の一方に於ては、政府が行政の整頓上より財政整理問題の起りたる時に際したれば、軍事費も成べきだけ削減して、経費節約の実績を挙げざるべからずとの論が陸軍以外に起りて、彼れと此れと混合して、一時に論難鋒起し、更に一層の困難を加へたり。此に於て如何なる方法を設け、如何なる処置をなすべきかは、大体の軍政上の改良よりも、一時はこの鋒起を鎮圧して善後の策を講ずるの必用を見るに至れり。殊に当時陸軍大学校には独逸人の教師を雇聘し、又士官学校戸山学校等には仏蘭西人の教師を雇聘しあり。その教師の間に勢力上の軋轢を起したるも、亦一の困難なりし。我は此時に於て如何なる決心を以て、如何なる方法に依り、以て長官を輔佐して陸軍部内の紛雑を処理せんか、又予て眼目とする所の軍政の改良は、如何なる方法に依て着手すべきかといふに就ては、左の方法に依てこの二つの問題を解決することゝなしたり。

 先づ軍政上の改良は、従来我が目的となし来りし初心を貫徹ぜざるべからず。其方法如何と云に、学術并行せしめて軍事教育の改良を謀る事、軍事行政の乱雑を整頓して、一般行政と齟齬無く進行せしめんことを期せざるべからず事、この二事を遂行するを要す。教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。之に依て従来陸軍省に管轄したる所の軍事教育の一切を、尽(コトゴト)く担当すべき一部を組織するを必要と認む。是即ち監軍部がすべて軍の教育を担任することゝ定められたる起原にして、曩に陸軍省より軍事を引離して参謀部を置き、第二に同省より教育行政を引離し、学術は一切監軍の下に統べしむることゝする計画なり。(監軍部の組織は、別に条例あるを以て茲に掲ぐるをも須(モチ)ゐず。)
 
 軍事行政の事は、既に明治廿三年には帝国議会を開設すべき大詔を煥発(カンパツ)せられたるを以て、議会の開くるまでには渾(スベ)て整頓せざるべからずとして、着々整理の歩を進むべきものなれば、第一着に行政機関の改良を謀らざるべからず。故に陸軍省は各兵科毎に局を置き(兵部局・騎兵局の類なり)たるを廃し、軍務局を置き、各兵科をその内の一課として縮小し、即ち陸軍省には単に軍務局・経理局・医務局の三局のみとし、之に数課を設けて組織する事とし、此を以て教育の統一と行政の統一を謀る方法とす。而して其内部に起れる各種の教育問題を一にし、又行政の区画を簡明にし、事務の繁閑を謀り、行政の整理を為すべしとの考案なり。此の意見を以て大山陸軍大臣に提出せり。然れども其改革の小事に非るのみならず、大山伯は新進の我を抜擢して枢要の地に挙げたりと雖も、其改革を遂行し得るや否やは、稍遅疑する所ありしことを疑わず。殊に従来は将官を以て各局長に任じたりしを、次官兼軍務局長をして一括統管せしむることは、甚だ前途を危ぶむ内外の情況を斟酌して、陸軍大臣が断行し得ざりしも其理(コト)はり無きにしも非ず。然れども我は是ほどの事をも断行せざるときは、内部の混雑を整頓しがたく、又明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じたるを以て、強(アナガ)ちに之を陸軍大臣に勧めしによりて、先づ監軍部を置くことのみは、此時を以て断行し得たれども、陸軍省の改革に至りては、一時我が意見と大臣の意見とを折衷したるものを実施する事となり、我が課とまで縮小すべしとせし各局をば、そのまゝ存置し、将官の局長を罷めて大佐を以て其任に当らしむる事となり、而して大臣も我が意見をば他日必ず採用すべしと雖も、暫く折衷の組織を以て施行するとの条件を付したり。我は殆ど進退を賭して此の改革を行はんとせしが、斯る理由に依て長官の意に随ひ、その組織成て発表せられ、事務に着手するに及べり。其各種の条例は、当時の官制に詳かなれば茲に贅せず。此の際に在て我は陸軍次官に任ぜらる。即ち明治十九年三月なり。

 軍事教育と軍事行政との刷新を遂るに就ては、陸軍省・参謀本部・監軍部鼎立したるものが、合体して其事業に着手ぜざるべからず。参謀本部には川上少将あり。監軍部参謀長には児玉大佐(男爵・源太郎)あり。我は陸軍次官たるを以て、この三人が方針を同じくする必要あり。幸ひに川上参謀本部次長は、前に云如く将来我と共に帝国の陸軍を担はんとする同志の人なり。又児玉大佐は我と志を同じくする人にして、殊に監軍部の長官には山縣伯の其任に当るあり。先づ参謀本部に雇聘せし独逸人メッケル少佐を一標準となし、
   此の人は曩に大山陸軍卿が欧州に趣きし時、独逸政府に依頼して雇聘したる人にて、殊に我が 
   旧友たり。且独逸軍隊中に於ても最も卓抜なる将校にして、中に就く教育軍政に於ては異常の  
   技量を擅有(センユウ)したる人なり。
 而して陸軍省・参謀本部・管軍部より、将校を選抜して各種の委員を置き、児玉大佐を以て委員長とし、此の委員に於て陸軍各種の事項を調査せしめ、その成案を以てメッケルに諮問し、其の結果として教育即ち学校の組織系統、行政の組織系統、全く調査を了へて、秩然たる組織を成すことを得たり。…
 ・・・
 右の如き方法を以て、陸軍内部の改良を成し、又経費の整理をなし、各種の方面に向ひて整頓し得たる所以のものは、第一に我が登用せられし後、大山陸軍大臣の信任をうけ、又外に在ては山縣伯の信用を得たるに在り。并せて川上・児玉両少将と心を一にし、私を棄てゝ公に奉ずる決心より、此結果を収むることを得たり。…

 ・・・

 全体師団長は職権を以て擅(ホシイ)まゝに兵を動かすことを許されず。師団条例の規定する所に拠れば、地方の擾乱若は事変といふ場合には、地方官の要求に拠て初て兵を出すことを得る外、師団長は兵を出すを得ざるの制たり。我が所為は少しくその範囲外に逸したり。左れば我は此の手段を執るに方(アタ)りて、自ら以為く、師団条例には斯る非常災異の場合を示さゞれば、或は越権の責を免かれざるべし。然れども地方鎮護の為に常置せられたる兵は、斯の如き災異の起りたる場合に於ては、此に応ずるの処置を為すべきは勿論にして、師団長の決心に依らざるべからず、即ち自ら責任にあたりて其職務を実行せんか、若しくは条例の命ずる所に随ひ、地方官の要求を待て、平々凡々初めて手を下さんか、死守と活用との由て分かるゝ所なり。非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行するは、唯其決心に在りと。是我が最初より覚悟したる所にして、また師団長たる重大な責任ある者は、斯る決心のなかるべからずとの模範を示すに足るべきを信ぜり。 

 

 


 

  

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”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”津田左右吉を、”禁固参月ニ処ス” NO2

2021年12月25日 | 国際・政治

 ”津田左右吉外一名に対する出版法違反事件”は、昭和十五年六月二十六日から、昭和十六年ニ月十八日まで、東京刑事地方裁判所において、二十九回にわたって予審が行われ、”本件ヲ東京刑事地方裁判所ノ公判ニ付ス”との決定で予審が終結し、その公判は、昭和十六年十一月一日から、翌年十七年一月十五日の結審まで、二十一回にわたって審理がつづいたといいます。津田はきちんと説明すればわかってもらえると考え、必死に努力したのでしょう、上申書4冊のほかに、自らの著書を中心に、膨大な参考資料を法廷に提出し、その説明は”委曲”を尽くしたものであったということです。
 にもかかわらず、東京刑事地方裁判所は、「国体の本義」などを根拠として、”畏クモ神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付疑惑ヲ抱カシムルノ虞アル構説ヲ敢テ”したという理由で、津田に禁固三月、岩波に禁固二月、二年間執行猶予を宣告したのです。

 この裁判所の宣告が有効であるためには、”神武天皇ヨリ仲哀天皇ニ至ル御歴代ノ御存在ニ付”それが歴史的事実であることを証明する必要があると思うのですが、そういうことを問題としない空気が当時の日本には存在したのだと思います。
 例えば、「原理日本」臨時増刊号蓑田胸喜の「津田左右吉氏の大逆思想」と題する文章が掲載されたといいます。その中に下記のようにあります。
かくの如き津田氏の神代上代史捏造論、即ち抹殺論は、その所論の正否に拘わらず、掛けまくも畏き極みであるが、記紀の『作者』と申しまつりて『皇室』に対し奉りて極悪の不敬行為を敢てしたるものなるは勿論、皇祖、皇宗より仲哀天皇に及ぶまでの御歴代の御存在を否認しまつらむとしたものである。『天皇機関説』は猶ほ、天皇の存在は認めまつゝてゐるもので、統治権の主体に在しますことを否認しまつゝたのであるけれども、岡田内閣より『全く我が尊厳なる国体の本義に背反するもの』と断ぜられた。(略)いまこの津田氏の所論に至っては、日本国体の淵源成立、神代上代の史実を根本的に否認することによって、皇祖 皇宗を始め奉り十四代の、天皇の御存在を、それ故にまた神宮皇陵の御義をも併せて抹殺しまつらむとするものであるから、これ国史上全く類例なき思想的大逆である”(「現代史資料 (42) 思想統制」[みすず書房]
 まさに、”その所論の正否に拘わらず”許せないという強い思いを読み取ることができると思います。学問的に、その正当性を問い、争う意志は感じられません。
 そして、”「現日本万悪の禍源」を禊祓(ミソギハラエ)せよとの神意を畏みまつりて、内務、文部、・司法当局は速かに厳重処分すべく、全国同志の立つべきはいまである”というのですから、裁判所もそうした雰囲気に逆らう判決を下すことはできなかったのではないかと思います。
 そこに神道と国家の結びついた日本、言い換えれば、”カルト国家”日本の過ちがあったと思います。
 そうした合理的で、科学的な思考を受けつけない国体観に基づいて、日本が戦争を続けたわけですから、日本は、天皇のいわゆる「御聖断」がなければ、戦争をやめることもできなかったのだと思います。
 軍部の暴走を許すことになった帷幄上奏統帥権独立の問題も、こうした神道と国家を結びつけた国体観と切り離して考えることはできず、敗戦後のGHQによる「神道指令」や「政教分離」の政策は、日本の民主化に欠かせないものであったと思います。
 でも、戦後の日本では、いまだに、GHQの民主化政策をよしとせず、アジア太平洋戦争の過ちを認めようとしない人たちが存在し、日本国憲法を改正して、戦前の日本を復活させようとしているように思います。


 下記は「古事記及び日本書紀の研究 建国の事情と万世一系の思想」津田左右吉(毎日ワンズ)から、「総論」の「一 研究の目的及び方法」の一部を抜萃したものですが、どんな問題についても、きちんとした方法論に基づいて、さまざまな角度から考察し、結論を引き出していることがわかると思います。
 そして、”民族の、あるいは人類の、連続せる歴史的発達の径路において、どこに人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を遡って上代に行くとき、いつまで行っても人の代は依然たる人の代であって、神の代にはならぬ。神代が観念上の存在であって歴史上の存在でないことは、これだけ考えても容易に了解せられよう。”という結論に至っているのです。
 だから、戦前の日本が、天皇を「現人神」あるいは「現御神」としつつ、戦争を続けたことと合わせて、津田左右吉や美濃部達吉を裁いた司法のあやまちも、しっかり記憶に留めるべきではないかと思います。 
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                       総論
一 研究の目的及び方法
 『古事記』と『日本書紀』とは、種々の方面に向かって種々の研究の材料をわれわれに供給する。わが国の上代の政治史はもちろん、社会制度や風俗習慣や宗教及び道徳に関する思想や、ひと口にいうと、内外両面におけるわが上代の民族生活とその発達のありさまとを考えるには、ぜひともこの二書を綿密に調べなければならぬ。しかし、そういう研究に入らない前に、まず吟味しておくべきことは、記紀の記載(『日本書紀』においては主として『古事記』と相照応する時代の部分)は一体どういう性質のものか、それは歴史であるかどうか、もし歴史だとすれば、それはどこまで事実の記載として信用すべきものか、もしまた歴史でないとすれば、それは何であるか、あるいはまたそれに表わされていおる風俗や思想はいつの時代のこととして見るべきものか、という問題である。この点を明らかにしてかからなければ、記紀の記載を基礎にしての考察は甚だ空疎なものになってしまう。
 何故にこんな問題が起きるかというに、記紀、とくにその神代の部は、その記載が普通の意義でいう歴史としては取り扱いがたいもの、実在の人間の行為または事蹟を記録したものとしては信用しがたいものだからである。われわれの日常経験から見れば、人の行為や事蹟としては不合理な物語が多いからである。なお神代ならぬ上代の部分にも、同じ性質の記事や物語が含まれているのみならず、一見したところでは別に不思議とも感じられないことながら、細かく考えると甚だ不合理な事実らしからぬ記載が少なくない。これは一々例証など挙げるまでもなく、周知のことである。
 ところが、そういうものがいつのまにか歴史的事実の記載と認むべき記事に移ってゆき、あるいはまた事実らしいことと絡み合っている。だから記紀の記載については、どれだけが事実でありあれだけが事実でないかの限界を定め、事実の記載と認むべき部分としからざる部分とをふるい分け、そうして事実の記載でない部分にいかなる意味があるか、何故に、またどうしてそういう記載ができているかを究め、それによって記紀の記載の性質と精神と価値とを明らかにしなければならぬ。ひと口にいえば、記紀の記載は批判を要する。そういう批判を厳密に加えた上でなければ、記紀というものは歴史的研究の材料とすることはできない。ところがわが学界では、まだそれが充分に行われていないようである。この書が、もし幾分なりともその欠点を補う用に立つならば、著者のしごとはまったく無駄ではあるまい。
 さて、記紀の批判は、第一に、記紀の本文そのものの研究によってせられねばならぬ。第二には、別の方面から得た確実な知識によってせられねばならぬ。
 第一の方法は、ある記事なりある物語につき、その本文を分析して一々細かくそれを観察し、そうしてあるいはその分析した各部分を交互対照し、または他の記事、他の物語と比較して、その間に矛盾や背反がないかを調べ、もしあるならば、それがいかにして生じたかを考察し、また文章において他の書物に由来のあるものはそれを検索して、それといいあらわされている事柄との関係を明らかにし、あるいはまた記紀の全体にわたって多くの記事、多くの物語を綜合的に観察し、それによって、問題とせられている記事や物語の精神のあるところを看取するのであって、種々の記事なり物語なりの性質と意味と価値とは、これらの方法によって知られるのである。そして同じ時代のこと、または同じ物語が、記紀の二書において種々の違った形をとってあらわれていることが、大いにこの研究を助ける。この両方の記載を比較、対照することによって、あるいは記事の変化し、物語の発展してきた径路が推測せられ、あるいはその間から記事なり物語なりの精神を看取することができるのである。
 また同じ記紀(とくに『日本書紀』)のうちでも、その本文を見れば、大体において歴史として信ずべき部分(すなわち後世の部分)としからざる部分(すなわち上代及び神代の部分)とのあることがわかるが、それはおのずから前者をして後者を判断する一つの標準たらしめるのである。が、これは実は第二の方法であって、たとえばシナや朝鮮半島の文献によって得た確実な歴史上の知識、または明白な考古学上の知識をもとにして、それと関係のある記紀の記載を批判するようなのが、すなわちそれである。そしてこの二つの方法は互いに助け合うべきものであるから、われわれはそれらを併せ用いなければならぬ。
 なおもう少しこのことを敷衍しておこうと思うが、第一の方法においては、まず何よりも本文を、そのことばのまま文字のままに誠実に読み取ることが必要である。はじめから一種の成心(※先入観)をもってそれに臨み、ある特殊の独断的臆見をもってそれを取り扱うようなことは、注意して避けなけらばならぬ。記者の思想はそのことばとその文字によって写されているのであるから、それをありのままに読まなければ、記事や物語の真の意義を知ることができぬ。神が島を生まれたとあるならば、その通りに見るほかははない。神がタカマノハラ(※高天原)に往ったり来たりせられたとあるならば、その通りに天に上ったり天から下りたりせられたことと思わなければならぬ。地下のヨミの国、海底のワダツミの神の宮も、文字のままの地下の国、海底の宮であり、草木がものをいうとあれば、それはその通りに草木がものを言うことであり、ヤマタノオロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏である。埴土(ハニツチ)で船をつくったとあれば、その船はどこまでも土でつくったものでなければならぬ。あるいはまたウガヤフキアヘズの命の母がワニであり、イナヒの命が海に入ってサヒモチの神(※ワニ)になられたとあるならば、それもまた文字通りに、ある神はワニの子で、ある命はワニになられたのであり、ヤマトタケルの命があらぶる神を和平せられたとあるならば、それはどこまでも神に対することであって、人に対することではなく、大小の魚が神功皇后の御船を背負って海を渡ったとあるならば、これもまたやはりその通りのことでなくてはならぬ。
 しかるに世間には今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこか地方のことであると考え、ホニニニギの命のムヒカに降臨せらえれたというのは、その故郷からこの国へわれわれの民族の祖先が移住してきたことであると思うのであり、そういう考えから「天孫降臨」というような名さえつくられている。そうしてその天孫民族に対して「出雲民族」という名もできているが、これは、皇孫降臨に先立ってオオナムチの命が国譲りをせられた、という話しの解釈から来ている。あるいはまた、コシのヤマタヲロチというのは異民族たるエミシ(※蝦夷)を指したものだと説かれている。なお民族や人種の問題とはしないでも、神が島々を生まれた、というのは国土を経営せられたことだといい、タカマノハラもヨミの国もまたワダツミの神の国もどこかの土地のことであり、あらぶる神があるとか草木がものをいうとかいうのは反抗者、賊徒が騒擾することだと説き、イヒナの命が海に入られたというのは海外に行かれたことだと考えられている。けれども、本文には少しもそんな意味はあらわれていず、本文をほしいままに改作して読むからである。
 ところで、何故こんな付会(※こじつけ)説が生じたかというと、それは一つは、記紀の神代の物語や上代の記載はわが国がはじまったときからの話しとせられているために、それをあるいはわれわれの民族の起源や由来を説いたものと速断し、あるいは国家創業の際における政治的経営の物語と憶測したのでもあろう。が、それよりももっと根本的な理由は、これらの物語の内容が非合理な、事実らしからぬことであるからである。徳川時代の学者などは、一種の浅薄なるシナ式合理主義から、事実でないもの、不合理なものは虚偽であり妄誕(モウタン=デタラメ)であって何らの価値のないものと考えていて、そしてまた一種の尚古主義から、荘厳な記紀の記載の如き虚偽や妄誕であるべきはずがないから、それは事実を記したものでなくてはならぬと推断し、したがってその非合理な物語の裏面に合理的な事実が潜み、虚偽、妄誕に似た説話に包まれている真の事実がなければならぬ、と憶測したのである。そしてそれがために、新井白石の如く、非合理な物語を強いて合理的に解釈しようとし、事実と認めがたいものにおいて無理に事実を看取しようとして、甚だしき牽強付会の説をなすに至ったのである。彼が「神は人であり神代は人代である」と考えたのはそれを示すものであって、こういう考え方によって神代を上代の歴史として解釈しようとしたのである。
 これに反して本居宣長の如きは、『古事記』の記載を一々文字通りにそのまま歴史的事実であると考えたのであるが、それとても歴史的事実をそこに認めよとする点において、やはり事実でなければ価値がないという思想をもっていたことが窺われ、また人のこととしては事実らしからぬ非合理的な話であるが神のこととしては事実を語ったものであるという点において、人については白石と同じような意義での合理主義を抱いていたことが知られる。のみならず、宣長が神代の神の多くは人であると考えた点にもまた、白石と同じところがある。
 さて、今日記紀を読む人には、宣長の態度を継承するものはあるまいが、その所説において必ずしも同じでないにせよ、なお彼の先蹤(センショウ)に(意識してあるいはせずして)追従するものが少なくないようである。しからばこういう態度をとる人に、合理的な事実がいかにして非合理の物語としてあらわれているかを聞くと、一つの解釈は、「それは比喩の言をもってことさらにつくり設けたのだ」というのである。白石の考えの一部にはこういう思想があり、彼はその比喩の言から何等かの事実を引き出そうとしたのである。それから今一つの解釈は、事実を語ったものが伝誦の間におのずからかかる色彩を帯びてきた、ひと口にいうと「事実が説話化せられえたのだ」というのであって、今日ではこういう考えももっている人が多いようである。
 しかし、何故に事実をありのままに語らないで、ことさら奇異の言をつくり設けて非合理な物語としたのであるか。神が人でああるならば、何故に「神」といい、「神の代」というのか。これは白石一流の思想では解釈しがたい問題である。また記紀のこういう物語を、事実の説話化せられたものとしてすべて解釈せられるか、たおえば、葦牙(アシカビ)(※葦の若芽)の如く萌えあがるものによって神が生まれたとあり、最初にアメノミナカヌシの神の如きが天に生まれ出でた、というようなことは、、いかなる事実の説話化せられたものであるかというと、それは何とも説かれていない。しかし、それだけは事実の基礎がない、というならば、何故に他の物語に限って事実の説話化せられたものであるというのか、甚だ不徹底な考え方である。そうして比喩であるというにしても、説話化であるというにしても、その比喩、その説話が非合理な形になっているとすれば、少なくとも人にそういう非合理な思想があること、あるいはそういう思想の生ずる心理作用が人に存することを許さねばならぬ。が、それならば、何故に最初から非合理な話を非合理な話として許すことができないのか、こう考えてくると、この種の浅薄なる合理主義が自己矛盾によって自滅しなければならぬことがわかろう。
 しからばわれわれは、こういう非合理な話をいかに考えるべきであるか。それは別に難しいことではない。
 第一には、そこに民間説話の如きものがあることを認めることである。人の思想は文化の発達の程度によって違うのであって、決して一様ではない。上代人の思想と今人の思想との間には大いなる径庭(※隔たり)があって、それには、今日の小児の心理と大人のとの間に差異があるのと似たところがある。民間説話などは、そういう未開人の心理、未開時代の思想によってつくられたものであるから、今日から見れば非合理なことが多いが、しかし未開人においては、それが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうとせられたり、人と同じように取り扱われていたり、人が動物の子であるとせられていたりするのは、今日の人にとっては極めて非合理であるが、未開人においては合理的であったのであるけれどもそれは未開人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも、草や木がものういい鳥や獣が人類を生む事実はあり得ない。ただ未開人がそう思っていたということが事実である。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうしていかなる心理によってそう思われていたかを研究すべきである。しかるにそれを考えずして、草木がものをいうとあるのは民衆の騒擾することだ、というように解釈するのは、未開人の心理を知らないために強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするものであって、未開人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ではあるまい。
 また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習からつくり出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。たとえば、蛇が毎年処女を捕らえに来るという話がある。蛇を神としていた一種の信仰や処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代、または民族から見ると、この話は甚だ理解しがたいが、それが行われていた社会の話として見れば、別に不思議はない。だからわれわれは、歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や生活状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきなのである。ところが、それを理解しないで、蛇とは異民族のことだとか賊軍のことだとかいうのは、まったく見当違いの観察ではあるまいか。
 もちろん、記紀の物語にあらわれているわれわれの民族生活が上記の二条にのべたように未開時代の状態であった、というのではない。ただわれわれの民族とても、極めて幼稚な時代を経過したものであるから、そういう遠い過去につくられ、その時代から伝えられている民間説話などが記紀の物語の書かれた頃にも存在し、そうしてそれに採用せられ編入せられた、と認め得られるのであって、同様の現象は文化の進んだいずれの民族においても見ることができる。のみならず、記紀にあらわれ
ている時代とても、一方には遥かに進んだ思想がありながら、他方にはなお甚だ幼稚な進行などが遺存し、文化の進に伴って新たに発達した風俗がありながら、ずっと未開の時代の儀礼や習慣などが(よしその意味が代わっているにしても)なお行われていたのである。
 次には、人の思想の発達したのちの想像のはたらきによって構成された話が古い物語にも少なくないことを、注意しなければならぬ。普通に「説話」といわれているものには、多かれ少なかれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国とかの話は、その根底に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語となってあらわれるのは、この種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な空想世界がこうしてつくり出されることは、後世とても同様であって、普通に「ロマンス」といわれるものにはすべてこの性質がある。人の内生活において本質的に存在している、いわばロマンチックな精神の表出として、いつの世にもそういう物語がつくられる。それを一々事実を語ったものと見て、タカマノハラは実は海外の某地方のことだ、などと考えるのが無意味であることは、いうまでもなかろう。

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”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”津田左右吉を”禁固参月ニ処ス”

2021年12月13日 | 国際政治

 下記は、「現代史資料 42 思想統制」(みすず書房)から、”津田左右吉外一名に対する出版法違反事件”の裁判の予審終結決定に関する部分の一部を抜萃したものです。
 予審終結決定理由を読めば、津田左右吉の著書から、津田左右吉のいろいろな記紀に関する考察部分を長々とそのまま引用し、その内容の正否については、全く論ぜず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”ものであるとの理由だけで、「出版法違反」としていることがわかります。古事記や日本書紀の解釈、また、神話に関する学術的な論述は全くないのです。

 津田の研究は、天照大神が、”皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うた”という神代史を問題とし、”皇室の尊厳”ということ自体の根拠を問うものであるにもかかわらず、その内容に立ち入らず、”皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル”として、「出版法違反」で、”禁固参月ニ処ス”というのですから、当時の日本の指導層は、”お話しにならない”非論理的な考え方をする国であったことを示しているように思います。

 そういう意味で、滝川教授を休職処分にした行政、また、美濃部達吉の天皇機関説を、”神聖なる我が国体に悖(モト)り、その本義を愆(アヤマ)るの甚しきものにして厳に之を芟除(サンジョ)せざるべからず。”として、国体明徴声明を発表した政府、それを許した議会、さらに、津田左右吉に禁固刑を下した司法も、日本の戦争に加担したと言っても言い過ぎではないように思います。
 そんな非論理的な考え方では、ただ一途に、統帥権の独立を主張し、帷幄上奏によって、暴走する軍を止めることはできないと考えられるからです。

 溯れば、それは、史実ではなく神話に基づいて、”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”とか”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”などと定めた大日本国憲法の神話的国体観、さらに溯れば、幕末の藤田東湖や会沢正志斎、吉田松陰等の思想を受け継いだ薩長を中心とする尊王攘夷急進派の神国思想が、そうした非論理的な考え方を日本に定着させ、日本の歩みを決定づけたように思います。だから私は、明治維新が、日本の敗戦への歩みの始まりであったように思うのです。
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        四十 津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件予審終結決定(東京刑事地方裁判所1941.3)

昭和十五年予第48号被告人 津田左右吉殿
    予審終結決定
本籍地並住居 東京市麹町区麹町五丁目七番地二
                    無   職     
                    津 田 左右吉 69歳
本籍  同市神田区神保町二丁目三番地二
住居  同市小石川区小日向水道町九十二番地
                    出 版 業
                    岩 波 茂 雄 61歳
右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付予審終結決定ヲ為スコト左ノ如シ
   主  文 
 本件ヲ東京刑事地方裁判所ノ公判ニ付ス
   理  由 
被告人津田左右吉ハ明治二十四年七月早稲田大学ノ前身ナル東京専門学校政治科ヲ卒業シタル後、文学博士白鳥庫吉ニ師事シテ史学ヲ専攻シ、前橋、千葉等ノ各地ニ於テ中等学校ノ教員ヲ為シ、明治四十一年頃南満州鉄道株式会社ガ満州及ビ朝鮮ノ地理歴史研究室ヲ設置スルヤ、同博士指導ノ下ニ之ガ研究員トナリ、大正二年頃同研究室ガ東京帝国大学ニ承継セラルルニ及ビ同大学文学部嘱託トシテ昭和十四年十二月ニ辞職スル迄引続キ其ノ研究ニ従事シタルガ、其ノ間大正六年頃早稲田大学文学部講師トナリ、次デ大正七年中同大学教授ニ任ゼラレテ専ラ其ノ職務ニ従ヒ、爾来久シキニ亘リ東洋史、国史、支那哲学等ノ講座ヲ担任シ、且昭和十四年十月下旬ヨリ同年十二月上旬迄東京帝国大学法学部講師ヲ兼ネ、尚大正十一年中文学博士ノ学位ヲ授与セラレテ今日ニ及ビタルモノ

被告人岩波茂雄ハ明治四十二年七月東京帝国大学文科大学哲学科選科ヲ卒業シ、一時中等学校ニ奉職シタル後大正二年頃書籍店ヲ開業シ、大正三、四年頃出版業ヲ開始シ東京神田区一ツ橋二丁目三番地ニ於テ岩波書店ナル商号ヲ以テ引続キ斯業ヲ営ミ来レルモノナルトコロ

第一、被告人津田左右吉ハ夙ニ明治維新史ノ研究ニ志シ、其ノ思想的意義ト思想的由来トヲ探求スル為国学者ノ著述等ニ親シミ、古事記及ビ日本書紀ニ関スル注釈書等ヲ渉猟シテ漸次我上代史ノ研鑽ニ努メ、次デ満州朝鮮ノ地理歴史研究ニ従事スルニ及ビ我上代史ハ朝鮮及ビ支那ノ史籍トノ関連ニ於テ研究セラレザルベカラザルモノト為シ上代史ニ於ケル最古ノ史料タル古事記及ビ日本書紀等ノ考究ヲ続ケタル結果、古事記及ビ之ニ相応スル部分ノ日本書紀ハ所謂帝紀(帝皇日継即チ皇室ノ御系譜)及ビ旧辞(若クハ本辞、即チ上代ノコトニ擬セラレタル種々ノ物語)ヲ専ラ其ノ資料トシテ編纂セラレ、此ノ帝紀旧辞ハ、モト朝廷ニ於テ編述セラレタルモノニシテ、其ノ最初ノ編述ハホボ、継体天皇乃至、欽明天皇ノ御宇頃、即チ六世紀ノコトナルガ、其ノ時帝紀ノ材料トシテハ、応神天皇以後ニ付テハホボ信用スベキ記録ヲ存シタルモ旧辞ニ於テハ確実ナル史料殆ド之無カリシヲ以テ編述当時ノ政治上社会上ノ状態、五世紀以後ニ起コリタル歴史的事件ノ朧気(オボロゲ)ナル言ヒ伝ヘ、又ハ民間説話等ヲ主ナル材料トシ、編者ノ構想ヲ以テ、之ヲ潤色、結合、按排シテ、古キ時代ノ事実ラシク叙述セルモノニシテ、旧辞ノ編者ノ意図ハ全体トシテハ皇室ノ起源ヲ説明シ、其ノ権威ガ漸次我民族ノ全部ニ及ビ、朝鮮半島ノ一部ニモ及ビタルコトヲ歴史的物語ノ形ヲ以テ示サントセルモノニシテ、又一々ノ物語トシテハ「ヤマト」ニ都ノアルコトヲ始トシ「クマソ」「エミシ」新羅等ニ関スル当時ノ政治上ノ状態ニ於テ重要ナル事柄ニ付、夫々其ノ由来ヲ説明セルモノナルガ、此ノ帝紀旧辞ハ最初ノ編述ノ後朝廷ニ於テモ幾度カ増補変改ヲ加ヘラレ、又私人ノ間ニ於テモサマザマナ時代ニサマザマノ人ニヨリテ局部的ノ添刪(テンザン)行ハレ、従テ七世紀ノ中頃ニハ此ノ帝紀旧辞ニ種々ノ異本存シ、所説区々タリシガ、斯ル数多ノ異本中ノ或帝紀ト旧辞トガ古事記ノ原本ト為リタルモノニシテ、又帝紀ト旧辞ノ種々ノ異本ガ書紀ノ上代ノ部分(古事記ニ物語ノアル時代)ノ重要ナル材料トナリ、書紀ニハ其ノ外、遙カ後世ニ至リテ作ラレタル話及ビ百済ノ史籍ヨリ写シ取ラレタル記事並編纂者ノ脳裡ニテ構造シタルコト等ヲ加ヘ之等ヲ年代記的ニ排列セラレタルモノナルガ故ニ、古事記及ビ日本書紀ノ上代ニ関スル記載ノ大半ハ其ノ記述ノ儘ガ歴史的事件ノ記録タルモノニ非ズトノ独自ノ見解ヲ樹テ大正二年頃以来其ノ著「神代史の新しい研究」等二依リ右ノ如キ見解ヲ表明シ来リタルガ、
 昭和十四年三月頃ヨリ同年十二月迄ノ間自ラ著作者トシテ被告人岩波茂雄ヲシテ「古事記及日本書紀の研究」ト題スル書籍四百五十部、「神代史の研究」ト題スル書籍約二百部、「日本上代史研究」ト題スル書籍約百五十部、「上代日本の社会及び思想」ト題スル書籍約二百部ヲ発行セシメ此等ノ著作物ニ依リ右見解ニ基ク講説を縷述(ルジュツ)シ居ルモノニシテ
一、「古事記及日本書紀ノ研究」ニ於テハ叙上ノ見解ヲ詳説シ、古事記及日本書紀ノ上代ノ部ニ於ケル主要記事ニ逐次批判検討ヲ加ヘタル上
(一)「古事記及日本書紀とに見える物語(神武天皇ノ御偉業)は、其のもとになったものから二つの方向に発展し若しくは二様に変改せられたものであると、いふことが推測せられる。しかし此の原の話に於ても、それが事実を語ってゐるものであるとは考へられぬ。第一大和川やクサカ江の水で大軍を進めることが出来たとも思はれぬ。またヤマトに攻め込むにクマヌを迂回するといふことも、甚だむづかしい話であって、そんな方面からの攻撃に対しては、ヤマトに根拠を有するものの防禦力は、西面に於けるよりも幾層か強大であるべき筈である。もっとも、これには神力の加護があったといふ話であるが、神の話は固より人間界のことでは無い。(中略)ヤマト征服がナガスネヒコの防禦で始まり、其の敗亡で終つてゐて、ヤマトの勢力は即ちナガスネヒコの勢力と見なすものであるにも拘わらず、所々のタケルや土蜘蛛は彼に服属してゐたものらしくは見えず、物語の上ではヤマトに何等の統一が無いやうになってゐるのは、不徹底の話であって、事実譚としては疑はしいことである。のみならず、此の物語は例の地名説話で充たされてゐる。(中略)ところが、かういふ神異の神や地名説話や歌物語やを取り去り、また人物を除けて見ると、此の物語は内容の少ない輪郭だけになる。さうして、其の輪郭の主要なる線を形づくるクマヌ迂回のことが、前に述べたやうな性質のものである、(中略)また書紀には、御即位の記事に、天皇を ハツクニシラス天皇ト称してあるが、崇神天皇をやはり ハツクニシラス天皇としてあるのも、注意を要する。既に、神武天皇がゐらせられる以上、崇神天皇を斯う称することには、説明が無くてはならぬ。或はここにも物語の発達の歴史があるかも知れぬ。(中略)それのみでない。此の物語の根本思想たる東征其のことの話にも、幾多の疑問がある。第一、天皇はムヒカから出発あらせられたといふのであるが、これは一体どういふことであらうか。(中略)単に皇室の発祥地がムヒカであるといふことに対しても、第二章に述べた如く後世までクマソとして知られ逆賊の占拠地として見られ、長い間国家組織には加はつてゐなかつた今日の日向、大隈、薩摩地方、またかういふ未開地、物質の供給も不十分で文化の発達もひどく遅れてゐる僻陬(ヘキスウ)の地、所謂ソシシの空国が、どうして、皇室の発祥地であり得たか、といふ疑問があるのである。(中略)其の上、ムヒカから一足飛びにヤマトの征討となつて、其の中間地方の経略が全然物語に現はれてゐないのは、どういふものであらうか。懸軍万里ともいふべき遠征が、如何にして行はれたであらうか。また、皇室の発祥地であつたムヒカがどうしてクマソの根拠地となつたであらうか。ここにもまた重大な疑問が無くてはならぬ。ムヒカに関する 神武天皇の巻の物語を歴史として見る時には、此等の困難なる問題に明解を与へねばなるまい。(中略)それから、総論の第二節に述べた如く、三世紀以前に於ては、ツクシ地方は幾多の小独立国に分れてゐて、今の中国以東との間に政治的関係の無かつたことが推測せられるが、記紀の東征物語が此の事実と適合するかどうかも重大な問題である。」(438頁乃至453頁)
「或は物語の上に現はれる 皇室の御祖先の御歴代に於て、神代と人代とをどこかで区劃しなければならぬヤマト奠都(テント)の物語は茲に於いてか生じたのである。即ち思想の上に於いて、ヤマトの朝廷によつて国家が統一せられてゐる現在の政治的状態の始まつた時を定めそれを人代の始と見なしたのである。さうして、それが思想上の話であるといふのは、もしヤマト奠都が歴史的事実であり、其の前に都のあつた何処かゝら遷されたことであるとするならば、それは後にヤマトからヤマシロに遷され、京都から東京に遷された場合と同様、其の前も後も連続した一つの歴史即ち人間界のことゝして人の記憶に遺り、人の思想に存在した筈であつて、従つて、それを神代と人代との境界とし、劃然たる区別を其の前後につけようといふ考が起るまい、といふことから明らかに推知せられよう。のみならず、かういふ一つのことによつて神代と人代とが明かなる限界線を劃せられてゐる点に、其の区劃が人為のものであり、頭の中で作られたものであること、従つて人代といふ観念もまた神代同様、思想の上で形づくられたものであることが、知られる。と同時に、又た此の物語そのものが、やはり何人かによって考察せられたものであることがわかるので、物語そのものからいふと、これは恰も、神功皇后の物語が韓地経略の由来を説いたものであるやうに、ヤマトの 朝廷の起源を述べた一つの説話なのである。歴史的事実としての記録とは考へ難い。」(466頁467頁)
「此の物語(景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親政)は、果たして事実として見るべきものであらうか。それについて第一に考ふべきことは、前に述べた如く地理上の錯誤の多いことである。此の物語が事実の記録として信じがたいことの一つである。(中略)第二に、此の物語を構成する種々の説話は、主として地名を説明する為に作られたものである。(中略)第三には、人名に地名をそのまゝ用ゐたもののあることである。(中略)なほ第四には、多くの兵を動かさば百姓の害であるといふので、鋒刃(ホウジン)の威を仮らずしてクマソを平らげようとせられたといふ話、クマソの酋長の二女を陽に龍し、姉の方のイチフカヤの計を用いて酋長を殺させて置きながら、其の女の不幸を悪んで之を誅せられたといふ話が、支那の思想であることを考へねばならぬ。また第五には、ヒムカでヤマトを憶うて詠ませられたといふ歌が、古事記ではヤマトタケルの命のイセでの詠として載せられ、而もそれが決して一首の歌として見るべきものでないことを、注意しなければならぬ。(中略)かう考へて来れば、此の物語を構成する種々の説話は、決して事実の記録で無いことが知られよう。」(256頁乃至262頁)
「さて此の物語(日本武尊ノ熊襲征討ニ関スル物語)の女装云々は固よりお噺である。ヤマトの朝廷から遠路わざわざ皇子を派遣せられるといふ物語の精神から見ても、クマソは大なる勢力を西方に有つてゐたものとして、物語の記者の頭にも映じたに違いない。さういふ大勢力が、こんな児戯に類することで打ち破られるものではあるまい。」(中略)「一体斯ういふ英雄の説話は、其の基礎にはよし多人数の力によつて行はれた大い歴史的事実があるにしても、其の事実を其のままに一人の行為として語つたものでは無く、事実に基づきながら、其れから離れた概念を一人の英雄の行動に託して作つたのが、普通である。だから、かういふ話が出来るのである。それから、クマソタケルがヤマトタケルの名を命に上つたといふのも、お噺であつて、ヤマトタケルといふ語はクマソタケル、また古事記の此の物語の直ぐ後に出てゐるイヅモタケルと、同様のいひ表はし方である。即ちクマソの勇者イヅモの勇者に対してヤマトの勇者といふ意味でありそれがヤマト朝廷の物語作者によつて案出せられたものであることはいふまでも無からう。(皇子の御本名はヲウスの命とある。)さうして此のクマソタケル、イヅモタケルは上に述べたやうな地名を其のまゝに人名とした一例であつて、実在の人物の名とは考へられない。実在の人物ならば、こんな名がある筈は無いから、これは物語を組立てる必要上、それぞれの土地の勢力を擬人し、或は土地から思ひついて人間を作つたのである。さうしてそれは、よし実際にそこに何かの勢力があつた場合にしても、時と処とを隔てゝ、即ち後世になつて、又たヤマトの朝廷に於て、物語を製作者の頭から生まれたこととしなければならぬ。だから此の物語もまた、決して其のままに歴史的事実として見ることは出来ないものである。」(220頁乃至222頁)「ヤマトタケルの命のクマソ征討も、物語に現はれてゐるところは事実では無いが、しかし朝廷に服従しなかったクマソといふ勢力があり、或時代に多少の兵力を以てそれを平定せられたことは事実らしい。ヤマトタケルの命の物語は、それを一英雄の行動として作った話であらう。」(224頁乃至225頁)
「此の物語(日本武尊ノ東国御経略)は歴史的事実かどうかといふに、其の内容はやはり事実として認め難いことが多い。地名説話はもとよりのこと、民間説話めいた白鳥の物語が、何れも事実らしくないことはいふまでも無からう。また特に注意すべきは種々の宗教的分子を含んだ説話であるが、これも歴史的事実とは認められない。(中略)だから此の物語は、例の東国経略といふ漠然たる概念を基礎にして、それから作つた話をヤマトタケルの命のに結びつけたのであつて、それは多分クマソ征討の物語と対立せしめるためであり、さうしてそれは東方、特にアヅマ方面が、クマソの汎称によつて代表せられてゐるツクシの南部とほゞ同じやうにヤマトの朝廷には視られてゐたからであらう。」(332頁乃至325頁)
「此の物語(神功皇后ノ新羅御親征)に於いていくらかは歴史的事実の面影が見られるとして、それは如何にして此の物語となつて現はれたのであらうかといふに、古事記の物語に事実と認むべきこと無くして、全体の調子が説話的であること、進軍路の記載が極めて空漠であること、新羅問題の根原ともいふべき加羅(任那)のことが全然物語に見えてゐないこと、事実としては最初の戦役の後絶えず交戦があつたらしいのに、それが応神朝以後の物語に全く現はれてゐないこと、などを考へると、これは事実の記録または伝説口碑から出たもので無く、よほど後になつて、恐らく新羅征討の真の事情が忘れられた頃に、物語として構想せられたものらしい。」(170頁)
「神武天皇から、仲哀天王までの物語を大観すると、国家経略の順序が甚だ整然としている。第一にヤマト奠都の話があり、次に崇神垂仁両朝の内地の綏撫があり、次に景行朝のクマソ及び東国に対する経略となり、それから成夢朝にかけて 皇族の地方分遣、国県の区劃制定とが行はれ、最後の仲哀朝に至つて外国征討が行はれる。近きより遠きに、内より外に及ぼされた径路が、一絲乱れずといふ状態である。これも事実の記録であるよりは、思想上の構成として見るにふさはしいことの一つである。(この点から見ても、書紀が垂仁朝に加羅の服属物語を結びつけたのは、後人の潤色であることが知られる。)此等の点を、上に詳説した一々の物語の批判に参照して見れば、記紀の仲哀天皇(及び 神功皇后)以前の部分に含まれてゐる種々の説話を歴史的事実の記録として認めることが今日の我々の知識と背反してゐるのは明かであらう。(中略)さうして国家の成立に関する、或は政治上の重大事件としての、記紀の物語が一として古くからのいひ伝へによつたものらしくないとすれば、それが幾らか原形とは変つてゐようとも、根本が後人の述作たることに疑は無からう。」(474頁、476頁)
「神武天皇から仲哀天皇までの物語に人間の行動と見なし難いことが多いのは、一つは之がためである。さうして、それがほゞ仲哀天皇までゞあるのは、帝紀旧辞の編述せられた時に、御系譜だけでもほゞ知り得られたのは、応神天皇より後のことであって、それより前については記録も無く、其の頃の歴史的事実が殆んど全く伝へられてゐなかつた」(468頁、469頁)
「なほ帝紀によって書かれたと見なすべき部分の記紀の記載から考えると、四世紀の後半より前のことについては、帝紀編纂の際に其の材料のあつたやうな形跡が少しも見えない。たゞ文字の学ばれるやうになつた事情と総論第五節に述べたやうな記載の内容とを互いに参照して見ると、応神天皇ごろから後の御歴代については、御系譜に関する記録もおひおひ作られるやうになつて来たらしく、よし精密には後に伝はらぬまでも、大体のことは帝紀編纂の時にも知られてゐたと推測せられる。」(482頁)
「帝紀に於ては、材料の有無の点から見ても、応神天皇以後と、仲哀天皇以前とではほゞ区劃がつけられるけれども、旧辞では、両方ともに作り物語であるから、此の点では、それ程に特色がはっきりしない。ただ総論第五節に述べたやうな物語の内容の上からの区別をすることができるのみである。記紀によって伝へられている帝紀旧辞の性質は、ほゞ斯ういふものであるから、それによつて、我々の民族全体を包括する国家が如何なる事情、如何なる径路によつて形成せられたか、といふことを明瞭に知ることは出来ない。ヤマト朝廷の勢力の発展の状態についても、歴史的事実がそれによつて知られるのでは無いのである。実をいふと帝紀旧辞の編纂の時に於いて既にそれがわからなくなつてゐたのである。それ故にこそその編者は、其の欠陥を補ひ其の空虚を充たすために、種々の人の名をつくり、又た上記の如き方法によつて種々の物語を作り、それを古い時代に当てはめたのである。ツクシ地方の経略は四世紀の前半でなくてはならぬから、比較的新しい事実であるに拘はらず、其の事蹟がまるで伝つてゐないのを見ても、上代に関する伝説の如何に乏しかつたかゞ推測せられる。」(492頁、493頁)
「要するに記紀を其の語るがまゝに解釈する以上、民族の起源とか由来とかいふやうなことに関する思想を、そこに発見することは出来ないのであるが、それは即ち、記紀の説き示さうとする我が皇室及び国家の起源が、我々の民族の由来とは全く別のことゝして、考へられてゐたことを示すものである。記紀の上代の部分の根拠となつてゐる最初の帝紀旧辞は、六世紀の中ごろの我が国の政治組織と社会状態とに基づき、当時の官府者の思想を以て、皇室の由来を説き、また四世紀の終ごろからそろそろ世に遺し始められた僅少の記録やいくらかの伝説やを材料として、皇室の御系譜や御事蹟としての物語を編述したものであつて、民族の歴史といふものでは無い。さうしてそれは、少なくとも一世紀以上の長い間に、幾様の考を以て幾度も潤色せられ或は変改せられて、記紀の記載となつたのである。だから、其の種々の物語なども歴史的事実の記録として認めることは出来ない。(中略)古事記及びそれに応ずる部分の書紀の記載は歴史ではなく無くして物語である。」(502頁乃至504頁)
等ト記述シ畏クモ 神武天皇ノ建国ノ御偉業ヲ初メ 景行天皇ノ筑紫御巡幸及ビ熊襲御親征、日本武尊ノ熊襲御討伐及ビ東国御経路並 神功皇后ノ新羅御征討等上代ニ於ケル 皇室ノ御事績ヲ以テ悉ク史実トシテハ認メ難キモノト為シ奉ルノミナラズ仲哀天皇以前ノ御歴代ノ 天皇ニ対シ奉リ其ノ御存在ヲモ否定シ奉ルモノト解スルノ外ナキ講説ヲ敢テシ奉リ
(二)
「天皇が神であらせられるといふ此の思想が上代において一般に存在したことは、天皇に『現人神』又は『現つ神』といふ呼称のあるのでも知られる。(中略)この思想は極めて古い時代からの因襲であったらしいので、それは君主の神とせられることが遠い過去に於いては世界の多くの民族の通例であつたことからも、類推せられる。君主の起源に関する種々の学説について今茲に論ずる遑(イトマ)は無いが、それが呪術若くは祭祀を行ふもの、又はそれから発達したものであることの認められる実例は甚だ多い。神とせられるのも、そこに由来がある。(中略)皇室の有せれらる宗教的地位の起源も亦たそこにあるとしなければならぬ。ところで、その神とせられるのが呪術や祭祀を行ふこと即ち巫祝(フシュク)の務めに由来があるとするならば、君主は一方に神でありながら、他方ではやはり巫祝でもあるのが当然である。
 天皇が大祓(オオハラエ)などの呪術を行はせられ 神功皇后や崇神天皇の物語に見えるやうなに、或は神人の媒介者たる、或は神を祭る地位に在らせられるのは、この故である。」(456頁乃至458頁)ト記述シテ、畏クモ現人神ニ在マス 天皇の御地位ヲ以テ巫祝ニ由来セルモノノ如キ講説ヲ敢テシ奉リ
(三)
「「神代」といふのは「上代」といふことゝは全然別箇の概念である(中略)民族の或は人類の連続せる歴史的発達の径路に於いて、何処に人の代ならぬ神の代を置くことができようぞ。歴史を遡つて上代にゆく時、いつまで行つても人の代は依然たる人の代であつて神の代にはならぬ。神代が観念上の存在であつて歴史上の存在で無いことは、これだけ考へても容易に了解せられよう。(中略)神代史が 皇室の御祖先としての日神を中心として語られ、日神及び其の御子孫が神代の統治者とせられ、神代にはたらいてゐるものはそれと其の従属者とに限られてゐることを思ふと、神代とは皇祖神の代といふ意義であることが知られよう。
何ゆえに皇祖が神であり、其の代が特に『神代』と称せられるかといふと、それは天皇が神であらせられるところから来てゐるので『現人神』にて坐す  天皇の『現人』たる要素を観念の上に於いて分離した純粋の『神』を、現実には見ることが出来ずして観念の上にのみ表象し得る遠い過去の 皇祖に於いて認め、それを神とし、その代を神代と称したのである。(中略)だから神代其のものには、例へば人間界を超越した神人間生活を支配する神の住む世といふやうな特殊の宗教的意義はなく、若し其処に何等かの宗教的意義があるとすれば、それは唯神としての 天皇の地位の反映のみである。皇祖神たる日神の宗教的意義も亦たたゞ現在の 天皇が有せられる神性の象徴たる点にのみ存するのである。さうして天皇の本質が政治的君主であらせられる点にあるとすれば、神代の中心観念がやはり政治的のものであることはいふまでも無い。」(462頁乃至465頁)
ト記述シ畏クモ 皇祖天照大神ハ神代史作者ノ観念上ニ作為シタル神ニ在マス旨ノ講説ヲ敢テシ奉リ

以テ孰レモ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前掲四種ノ出版物ヲ各著作シ 
第二、被告人岩波茂雄ハ、皇室ノ尊厳ヲ冒瀆スル前記「古事記及日本書紀の研究」「神代史の研究」「日本上代史研究」及び「上代日本の社会及び思想」ノ各発行者トシテ前記期間内夫々数回ニ亘リ前記店舗ヨリ前記各部数ヲ発行シ
夫々之ガ出版ヲ為シタルモノナリ
 被告人両名ノ叙上ノ各所為ハ夫々出版法第二十六条ニ該当スル犯罪ニシテ之ヲ公判ニ付スルニ足ル嫌疑アルヲ以テ刑事訴訟法第三百十二条ニヨリ主文ノ如ク決定ス
     昭和十六年三月二十七日
      東京刑事地方裁判所
                       予 審 判 事    中 村 光 三

津田左右吉外一名に対する出版法違反被告事件第一審判決(東京刑事地方裁判所 1942・5)

 右両名ニ対スル出版法違反被告事件ニ付、当裁判所ハ検事神保泰一関与ノ上、審理ヲ遂ゲ、判決ヲ為スコト左ノ如シ。
     主  文
被告人津田左右吉ヲ禁固参月ニ処ス。
被告人岩波茂雄ヲ禁固弐月ニ処ス。
被告人両名ニ対シ本裁判確定ノ日ヨリ弐年間右刑ノ執行ヲ猶予ス。
 ・・・ 

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「神道指令」はGHQの”誤解の産物”か?

2021年12月10日 | 国際・政治

 下記資料1は、1935年(昭和十年)一月二十四日、国体擁護聯合会が、各方面に発送した檄文です。
 また、資料2は、皇大日本社(スメラギオオヒノモトシャ)がニ月二十四日に頒布した宣伝はがきです。資料3は昭和義塾が発した檄文です。

 これらの文書は、”出版警察上より観たる「天皇機関説」概況に関する件”と題して、昭和十年三月十五日、警視総監小栗一雄(安倍特別高等警察部長)名で、内務大臣後藤文夫宛て、及び各庁府県長官宛てに送付された文書の一部です。

 これらの資料で、当時の愛国団体が、天皇を現人神とする、明治維新以来の神話的国体観に基づいて、「天皇機関説」はもちろん、国際社会で一般的な民主主義や法治主義を唱える人達をも厳しく攻撃し、それらの”主唱者・支持者・保護者・追随者・盲従者等”を一掃しようと声を上げたことがわかります。そして、その内容は、ほとんどすべて、「天皇機関説」が、天皇を現人神とする、神道の神話的国体観に沿っていないという一点にあります。
 そして、当時の軍や政権も、こうした愛国団体と一体となって、神道の神話的国体観に基づき、自由民権運動や大正デモクラシー等の流れを受け継ぐ考え方や諸外国の法や社会に関する科学的な考え方を否定し、抑え込んでいっただのだと思います。

 その結果、日本は、神道の神話的国体観に基づき、”皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期”して世界を相手に無謀な戦争することになったのだと思います。
 だから、 GHQの「神道指令」は、決して高橋四朗教授の言うような、”誤解の産物”などではないのです。


 また、高橋教授は、”「神道指令」の中で、思想面から「国家神道」を支えたとして禁書とされた『国体の本義』にしても、政府は大量に頒布し大々的に宣伝しましたが、国民はほとんど関心を示しませんでした。”などと書いていましたが、問題は国民が関心を示したかどうかではなく、日本の政治が、『国体の本義』に書かれているような、天皇を現人神とする、神道の神話的国体観に基いて統制され、西欧的な立憲主義や自由主義的な考え方をする人達を排除して、進められたことにあるです。
 また私は、高橋教授が”日本と戦ったアメリカは、日本軍の勇敢さを目の当たりにして大変驚きました。日本人をここまで勇敢に戦わせた理由はどこにあるのか。アメリカはそれを「国家神道」にあると判断したのです。”などと書いていますが、とても問題があると思います。日本の兵士は”勇敢”であったと表現しているのですが、それが、日本兵が降伏することが許されなかったことや、天皇のために、死ぬことが兵士に求められていたことを抜きには考えられないことだからです。
 戦陣訓には、”生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ”とありました。軍人勅諭には、”義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ”とありました。
 海ゆかばには、”海行かば 水漬く屍 山行かば 草生屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見はせじ”と歌われています。日本軍兵士の戦いを”勇敢”という言葉で表現すると、そうした皇軍兵士であるが故の、人権無視や人命軽視の側面が見逃されることになると思うのです。
 下記は、「現代史資料 (42) 思想統制」(みすず書房)から抜萃しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           美濃部達吉博士、末弘厳太郎博士等の国憲紊乱思想に就いて

○天皇輔弼の各国務大臣に問ふ
 大日本帝国憲法発布の上諭(天皇の裁可を示す言葉)に曰く『国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ』『朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更(フンコウ)ヲ試ミルコト得サルヘシ』と。
陸海軍軍人ニ下シ給ヘル勅諭ニ曰く『夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ねへきものにあらす子子孫孫に至るまで篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからむことを望むなり』と。
かゝる畏き『天皇親政』の聖詔の前に美濃部博士は『天皇は親から責に任じたまふものではないから、国務大臣の進言に基かずしては、単独に大権を行はせらるゝことは、憲法上不可能である』(有斐閣発行逐条憲法精義512頁)『国務大臣ニ特別ナル責任ハ唯議会ニ対スル政治上ノ責任アルノミ』(同上、憲法撮要、310頁)といふ。
天皇『輔弼』の国務大臣の責任とは果してかくの如きものなりや?

○枢密院議長以下顧問官に問ふ
 美濃部博士はいふ『要するに、わが憲法に於けるが如き枢密院制度が世界の何れの国に於いてもその類を見ないものであることは此の如き制度の必要ならざることを証明するもので、わが憲政の将来の発達は恐らくはその廃止に向ふべきものであらう』(岩波書店発行、現代憲政評論 128頁)と。
かくの如き言論の内容を妥当なりと思考せらるゝや? 殊にこの論理をそのまゝ『世界何れの国に於いてもその類をみない』現人神  天皇統治せさせ給ふ日本国体に適用せるものが美濃部博士の本状に一端を指摘せる大権干犯国憲紊乱なることを銘記せられよ──

○貴衆両院議長以下議員に問ふ
 美濃部博士はいふ『帝国議会は国民の代表として国の統治に参与するもので天皇の機関として天皇から其権能を与へられて居るものではなく随つて原則としては議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服従するものではない。』(有斐閣発行 逐条憲法精義、179頁)『而も議会の主なる勢力は衆議院にあり』(東京朝日新聞昭和十年一月三日所載、現代政局の展望)と。
かくの如きが天皇の『立法権』に『協賛』し奉る帝国議会の憲法上の地位に対する正しき解釈なりや。

○ 司法裁判所検事局に問ふ
 美濃部博士はいふ『裁判所は其の権限を行ふに就て全く独立であつて、勅命にも服しない者であるから特に、「天皇ノ名ニ於テ」と曰ひ云々』(有斐閣発行、逐条憲法精義571頁)と。司法権を行使する裁判所の権能なるものは果して斯くの如きものなりや?
猶美濃部博士は『治安維持法は世にも稀なる悪法で』『憲法の精神に戻ることの最も甚だしいもの云々』(岩波書店発行現代憲政評論208頁210頁)といひ末弘博士は『法律は如何にそれが法治主義的に公平に適用されようとも、被支配階級にとつては永遠に常に不正義であらねばならぬ』ものにして『法律』と『暴力』との関係は『力と力との闘争であつて正と不正との闘争ではない』(日本評論社発行、法窓漫筆、103頁106頁)といひ『小作人が何等かの手段により全く無償で土地の所有権を取得出来るならば、彼等をしてこれを取得せしめんとする主張運動は正しい』(改造社発行、法窓閑話 154-5頁)『小作人が唯一最後の武器として暴力に赴かんとするは蓋し自然の趨勢なり』(日本評論社発行、法窓雑話 98頁)といへり。かくの如き言論と其著書等を放置しつゝあることは、『司法権威信』の根本的破壊にあらずや?

○陸海軍現役、在郷軍人に問ふ
美濃部博士はいふ『統帥大権の独立ということは、日本の憲法の明文上には何等直接の根拠が無い』『立憲政治の一般的条理から言へば統帥大権の独立といふやうな原則は全く認べきものではない』(日本評論社発行、議会政治の検討、106頁127頁)と。末弘博士はいふ『軍隊要するに……一の厄介物、謂はば「已むを得ざる悪」の一に外ならない』(改造社発行、法窓閑話、399頁)と。
かくの如きは陸海軍軍人に給へる勅諭に『其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬべきものにあらず』と詔らせ給ひたる統帥大権の憲法上の規定第十一条第十二条及軍令を原則的に無視否認し『天地の公道人倫の常経』詔らせ給ひたると皇国軍隊精神に対する無比の冒瀆として之を放任するは軍紀の紊乱にあらずや。

○学者教育家教化運動者に問ふ
 美濃部博士はいふ『いはゆる思想善導策の如きは、何等の効果をも期待し得ないもので、もしそのいはゆる思想善導が革命思想を絶滅しようとするにあるならば、それは総ての教育を禁止して国民をして、全く無学文盲ならしむる外に全く途は無い』(岩波書店発行、現代憲政評論 431頁)
かくの如き言論を放置することはそれ自身学術と教育との権威を蹂躙するものにあらずや?

○神職神道家に問ふ
 美濃部博士はいふ『宗教的神主国家の思想を注入して、これをもつて国民の思想を善導し得たりとするが如きは、全然時代の要求に反するもので、それは却つて徒らにその禍を大ならしむるに過ぎぬ』(岩波書店発行、現代憲政評論、433頁)かくの如き言論を放置することはそれ自身皇国々体の本源惟神道(カンナガラノミチ)の冒瀆にあらずや?

○岡田首相、松田文部大臣、小原司法大臣、後藤内務大臣、
 林陸軍大臣、大角海軍大臣、外全閣僚に問ふ
 東京帝国大学名誉教授、国家高等試験委員、貴族院勅撰議員たる美濃部博士、又東京帝国大学法学部長たる末弘博士の思想に就いては既に指摘したが、同じく東京帝国大学教授、国家高等試験委員たる宮沢俊義氏は日本臣民として『終局的民主政=人民主権主義』を信奉宣伝し(外交時報、昭和九年十月十五日号参照)横田喜三郎氏は『国際法上地位説を唱へて『国家固有の統治権・独立権・自衛権を否認』(有斐閣発行、国際法上巻46─50頁参照)しつゝあり。此等幾多の国憲国法紊乱思想家等を輦轂(レンコク)下の帝国大学法学部教授及国家高等試験委員の地位に放置し、その兇逆思想文献を官許公認しつゝあるといふことは、国務大臣並に各省大臣としての『輔弼』『監督』の責に戻る所なきや?

○元老重臣に問ふ
 前記の如き大権干犯国憲紊乱思想家たる美濃部博士、末弘博士等を現地位に放置することによって人臣至重の輔弼の責任を果し得らるゝや?

○全国日本主義愛国団体同志に問ふ
 本聯合会加盟団体は美濃部博士、末弘博士等は日本国体に反逆し天皇の統治=立法・行政・司法・統帥大権を無視否認せる不忠凶逆『国憲紊乱』思想の抱懐宣伝者として、末弘博士は先に告発提起を受け時効関係にて不起訴となりたる実質上の刑余者なるが、斯るものらが活然として帝国大学教授の国家的重大地位にあり何等の処置をも受けざる所にこそ現日本の万悪の禍源ありと信じ、屡次共産党事件は勿論華府倫敦条約締結、満州事変、五・一五事件激発の思想的根本的責任者たる彼等に対する国法的社会的処置を訴願し其の急速実現を期するものなり。希くは本運動の対外国威宣揚不可避の先決予件たる国内反国体拝外奴隷思想撃滅──国際連盟脱離、華府条約廃棄の思想的徹底の内政改革に対して持つ綜合的重大性を確認せられこの目的貫徹の為めに挙つて参加協力せられむことを!
                                    東京市芝区田村町二丁目内田ビル
                                               国体擁護聯合会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   皇 雑 観
                                 皇大日本社(「スメラギオオヒノモトシャ)
      ✕ 
博士の著書を読まずして攻めては見たものゝ専門的に堂々論じられて粛としてきゝ入ること約一時間・・・感極まつて(バリザンボウ)を御消し召さる華族様
      ✕
穴だらけの戸障をたてられて中をのぞけなかった目暗(メクラ)が沢山居たと……貴族院に!
      ✕
天皇中心主義を一つの信仰としか見得られぬ不具宗教家がまだまだ日本に沢山ゐる。
      ✕
美濃部博士の憲法論を是認せねばならぬ所に皇国憲法の不備がありはせないか。
      ✕
皇国哲学者の急造! 是が日本学界に投ぜられた一石である。

    美濃部博士の天皇機関説は
      皇国の前途を誤る。
 世に皇国を識らざる学者の学説程皇国民に取つて危険千万なことは無いのである。美濃部博士の如きは世に謂ふ学問病者である。彼は皇倫理観の大道を弁へずして西洋人生観から法の解釈を試みんとする不徳学者に過ぎざることを最も雄弁に一身上の弁明として貴院に物語つたのである。吾が憲法で示された天皇は決して他国の憲法にある元首と同視申上げ可き御筋合のものではあらせられないのである天皇は実に宇宙創造の支配の御神の御化身であらせられ憲法第一条にに示されたる条文は大権の御行使に過ぎないのである。憲法の上諭にも「国家(皇国)統治の大権は朕が是を祖宗に承けて子孫に伝ふ」と詔せられてゐる如く其の権利の厳然たる事日月の如く明かである。
 神の御意示、天皇の御意示を解せずして只徒らに機関説を主張するが如きは神聖なる絶対の大権を冒すものと云はねばならない。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                       
                 『天皇機関説』の殲滅へ

今回諸君の前に、本文を発表する事を得たるを、至極欣快と存ずるものである。即ち、近時漸く国家的大問題化したる『天皇機関説』問題に関し、該、『天皇機関説』の主唱者・支持者・保護者・追随者・盲従者等反国体的なる兇逆者の一聯が、其の『毒説』と共に、皇国より一掃せらるゝ時、数年に亘って、□漫、跳梁祖国の人心を惑乱せしめたる悪思潮が全く払拭せられ、君民一体の真個日本の出現を、眼前近く想像し得らるゝが故である。
 今や、多年、全国民怨嗟の対象なりし、吾人同志が運動の対象たりし、政治、経済、産業、教育、宗教等各部門の兇悪なる点に於て尤も頭領と目すべき非国民的なる者、即ち、尤も不忠、不義なる者が『天皇機関説』の主唱者・支持者・追随者・保護者・盲従者として一団となりて其の正体を吾人の前に現はしたのである。
 昭和維新の達成を念願とする同志諸君、勇奮、躍進『天皇機関説』を囲繞(イニョウ)する一団の殲滅に依つて、年来所期の目的達成の一歩獲得、即ち、昭和維新の暁闇を衝いて輝く黎明の栄光を拝するを得るの日の近きを信じらるゝであらう。
 特権階級、政党、財閥、官僚等の累年の積悪、百行万悪が『天皇機関説』を主唱・追随・支持・保護・盲従する事に根源するものなるは明かなり。
 彼等の跋扈、即ち自由思想、唯物観念の滲透は国体観念の撹乱、日本精神の弱耗喪失を来し、延いては鬼畜思想共産主義蔓延の温床となり、無辜の良民をして生活苦の脅威に爛額狂奔せしめる、今日の如き社会相を現出せしめたるものにして吾人の目的昭和維新の達成とは、如是社会相を是正するにある。吾人の五体にやどる□祖先伝統の正義の熱血は、至尊稜威の天地を震憾する叫びを感得、信奉し臥薪嘗胆、此の一事の為に活き来りたるもの。
 天にも勝たん、盛んなる悪に抗し無為に倒れたる幾多の同志の骸を越へて陣頭に起つ戦士諸君よ。敵は万悪の煙幕の裡より明瞭に其の姿を現はした。即ち、『天皇機関説』を繞る一団にして極めて少数である。
   嗚呼、天なり、命なり。
今、この秋、彼等暴悪無頼なる一団が遵奉せる妄説『天皇機関説』粉砕、一掃に協力一致の猛闘を切望するものである。
                                                   昭和義塾
 

 

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天皇機関説と神道

2021年12月04日 | 国際・政治

 天皇機関説で知られる美濃部達吉は東京帝国大学で一木喜徳郎の教えを受け、内務省の官吏となってからも、フランス、イギリス、ドイツへの国費留学を許されてヨーロッパの法学を学んでいます。その美濃部が、大日本帝国憲法の第一条で、”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス”と定めている日本が、欧米諸国と同様の近代国家として国際社会に認められる国になるためには、天皇を国家の最高機関とする以外に道はないと考え、天皇機関説に至ったのだと思います。
 でも、天皇を現人神と信じ、日本を神国と考えている軍人や一部の政治家、また、右翼・愛国団体に結集する人たちは、天皇機関説を断固として糾弾しました。彼等にとっては、天皇機関説は単なる法律の問題ではなく、日本が現人神・天皇を戴く神国であるとする神道の信仰に関わる問題だったのだと思います。
 だから、著書の発禁処分公職追放だけではなく、公然と美濃部達吉の自決をさえ要求したりもしたのだと思います。
 
 そうした事実があったにもかかわらず、「教科書が教えない歴史 明治~昭和初期、日本の偉業」藤岡信勝/自由主義研究会(産経新聞社)に、明星大学の高橋四朗教授が、”憲法解釈に影を落とす「神道指令」”と題して、次のような文章を書いています。
 私は、客観性を欠いた事実認識に基づいていると思います。最高学府の大学の教授が、日本を滅亡寸前にまで追い込んだ過去の戦争の過ちをきちんと受け止めず、このような文章を書いて若者の指導に当たっているようでは、日本は国際社会の信頼を得られず、日中や日韓の関係改善も難しいと思います。
”・・・
 GHQのマッカーサー元帥は「神道指令」について「きわめて重大」な問題であると語ったといいます。なぜこの指令を占領政策の最も重要なものの一つであると考えたのでしょうか。
 日本と戦ったアメリカは、日本軍の勇敢さを目の当たりにして大変驚きました。日本人をここまで勇敢に戦わせた理由はどこにあるのか。アメリカはそれを「国家神道」にあると判断したのです。「神道指令」の草案起草者であるバンス宗教課長は「国家神道」を軍国主義的、超国家主義的思想そのものと考えていました。
 この考え方は正しいどころか、GHQの誤解の産物でした。そもそも「国家神道」の呼び名は日本ではほとんど用いられていませんでした。敗戦後「State Shinto」が翻訳されてから一般化したに過ぎません。
 GHQは「国家神道」を、ヒトラーのドイツを支配したナチズムと同一視しようとしていました。実際はどうだったのでしょうか。例えば、神社に対して支出された国費は、大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると減額されてしまいました。「神道指令」の中で、思想面から「国家神道」を支えたとして禁書とされた『国体の本義』にしても、政府は大量に頒布し大々的に宣伝しましたが、国民はほとんど関心を示しませんでした。
 「国家神道」が信教の自由を圧迫したといわれますが、あるキリスト教信者は昭和の初め、神社の「多数は廃止すべき」と神道を痛烈に批判していました(小崎弘道『国家と宗教』)。つまり「国家神道」批判の自由は当時でも認められていたわけです。確かに、1931年(昭和六年)の満州事変以降、思想統制や宗教弾圧が顕著になったことは事実ですが、それは治安維持を目的とした法律に基づくもので、「国家神道」によるものではありません。
 では、これが憲法解釈に及ぼした影響はどんなものでしょう。例えば、第二十条三項には「国及びその機関は、宗教教育其の他いかなる宗教的活動もしてはならない」との規定があります。もし、この規定を「神道指令」に則って国家と神道の厳格な分離を定めたものと解釈すると、神道とのかかわりは厳しく禁止されることになります。毎年八月十五日になると、数多くの戦没者を祀る靖国神社に内閣総理大臣が公式参拝することは、憲法違反ではないかとして論議されています。
 しかし、典型的な政教分離の国とされるアメリカでさえ、新大統領の就任式では、聖書に手を置いて宣誓がなされますし、式に参列している牧師が祈りを行うのです。もちろん、この式典が憲法違反だと批判されることはありません。それは、アメリカ国民の大多数がキリスト教の信仰を持っているからです。

 神道については、すでに”国家神道と国家主義のカルト(the nationalistic cult)””靖国神社とGHQの「神道指令」”で取り上げましたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)で民間情報教育局宗教資源課長を務めたウィリアム・バンス(William Kenneth Bunce)は、戦前、日本の高等学校に勤務したことがあるという日本を知る歴史学博士です。また、GHQの民間情報教育局で、「神道指令」における宗教法人法などの宗教政策に関する部分の提言をしたウィリアム・パーソンズ・ウッダード(William Parsons Woodard)は、歴史学者であると同時に、日本の宗教の研究者だといいます。また、GHQの「神道指令」には、多くの日本人も情報を提供し、協力しているのです。だから、「神道指令」は”GHQの誤解の産物”などではありえないのです。また、”「国家神道」の呼び名は日本ではほとんど用いられていませんでした”などということは、「神道指令」とは、全く関係のないことだと思います。言葉が問題ではなく、天皇を現人神とする神道と国家の現実的な関わりが大事なのだと思います。戦前の日本では、神道あるいは神道的なものが国家と深く結びつき、軍国主義や超国家主義を支えていたことは、教育勅語軍人勅諭戦陣訓国体の本義などとともに、下記の愛国団体の要請書宣言文決議などにあらわれていると思います。

 下記は、「現代史資料4 国家主義運動1」(みすず書房)から「天皇機関説」に関わる部分の一部抜萃しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   昭和十一年後半期於ける左右運動の概況・所謂「天皇機関説」を契機とする国体明徴運動・第四章 国体明徴運動の第一期
                第一節 所謂「天皇機関説」問題の発生
(一)美濃部博士の態度
 既に既述した通り帝国憲法は其の起案綱領中に
 一、聖上親ラ大臣以下文武之重臣ヲ採択進退シ玉フ事  
   付 内閣宰臣タル者ハ議員ノ内外ニ拘ラザルコト
     内閣ノ組織ハ議院ノ左右スル所ニ任ゼザルベシ
とあり、又綱領に副へられた意見書にも政党政治、議院内閣制の国体に副はざる所以が強調されてゐる通り、起草当時既に国体上から政党内閣を排斥してゐた事は極めて明瞭であって、「憲法義解」にも
    彼の或国に於て内閣を以て団結の一体となし大臣は各個の資格を以て参政するに非ざる者と 
    し、連帯責任の一点に偏傾するが如きは其の弊或は党援聯絡の力遂に以て 天皇の大権を左
    右するに至らむとす此れ我が憲法の取る所に非ざるなり 
と述べてゐる。往年憲法論争の華やかなりし頃、恰も政党政治樹立を目指す運動の旺盛期であり、資本主義の躍進的発展による自由主義思想の全面的横溢期であつたが、美濃部博士は当時の思潮に乗り、自由主義的法律論の上に立つて自己の所謂「天皇機関説」を唱導し、自らの学説を通説たらしめると共に民主主義的なその学説によつて政党政治家擁護の重要役割を演じ彼等に学問的根拠を与へた為、制定当時の憲法の精神は著しく歪曲された。美濃部博士は自己の学説が支配的となつて後は、恰も政党政治家の御用学者たるの観を呈し、ロンドン条約を繞(メグ)る統帥権干犯問題に国論沸騰した当時に於ても、
      統帥大権の独立といふことは、日本の憲法の明文の上には、何等の直接の根拠の無いこ   
     とで単に憲法の規定からいへば、第十一条に定められて居る陸海軍統帥の大権も、第十二   
            条に定められて居る陸海軍編制の大権も同じやうに、天皇の大権として規定されて居り、
            しかして第五十五条によれば 天皇の一切の大権について、国務大臣が輔弼の責に任ずべ
            きものとせられて居るのであるから、これだけの規定を見ると、統帥大権も編制大権も等
            しく国務大臣の責任に属するものと解すべきやうである。しかし憲法の正しい解釈は(中
            略)統帥大権は一般の国務については国務大臣が輔弼の責に任ずるに反して、統帥大権に
            ついては、国務大臣は其の任に任ぜず、いはゆる「帷幄(イアク)の大令」に属するものとさ
            れて居るのであつて、憲法第五十五条の規定は統帥大権には適用せられないのである。
     (中略)帷幄上奏と編制大権との関係如何が問題となるのであるが、帷幄上奏は、大元帥
     陛下に対する上奏であり、これが御裁可を得たとしても、それは軍の意思が決せられたに    
     止まり、国家の意思が決せられたのではない。それは軍事の専門の見地から見た軍自身の   
     国防計劃であつて、これを陸軍大臣又は海軍大臣に移牒するのは、唯国家に対する軍の希
     望を表示するものに外ならぬ。これを国家の意思として如何なる限度にまで採用すべきか
     はなほ内外外交財政経済その他政治上の観察点から考慮せられねばならぬもので、しかし
     これを考察することは内閣の職責に属する。(中略)たとひそれが帷幄上奏によって御裁
     可を得たものであるとしても法律上からいへばそれはただ軍の希望であり設計であつて国
     家に対して重要なる参考案としての価値を有するだけである。(中略)内閣はこれと異な
     つた上奏をなし勅裁を仰ぐことはもとよりなし得る所でなければならぬ。(「東京朝日新
     聞」昭和五年五月二日乃至五月五日附朝刊所載)
と論じて、時の浜口首相が海軍軍令部の意見を無視し、内閣に於て妥協案支持を決定して回訓の電報を発したと称せられ、非難の的となつた政府の処置を、得意な憲法理論を以て法律上妥当な処置であると庇護し、大に政府の弁護に努めた。又政党政治に対して、国民が漸く疑惑の眼を以って眺めるに至つた後も、『議会政治の検討』『現代憲政評論』等の著述に於て、政党政治は唯 天皇政治の下に於て、大権輔弼の任に当る内閣の組織につき、議会の多数を制する政党に重きを置くことを要望する趣旨に外ならず、而も近代的の民衆政治の思想は、能く我が国体と調和し得べきは勿論、実に我が憲法に於ても主義としてゐる所であると主張して、政党政治擁護の論議を為している。昭和九年七月時の斎藤内閣を崩壊せしめた所謂帝人事件を繞る人権蹂躙問題に関しても、美濃部博士は翌十年一月二十三日の貴族院本会議に於てその得意とする形式論法を以て、当局攻撃の矢を放ち、第一検事は違法に職権を濫用して被釈者逮捕監禁したることなきや、第二検事は被告人に対し不法の訊問を為し殊に被釈者に対し暴行陵虐を行ひたることなきやを詰問して院内自由主義分子の拍手喝采浴びた。併しながら斯る博士の態度は検察の実情を無視し、徒に財閥官僚政党政治家を擁護したるものとして、一部有識者を初め日本主義者の反感を買ふに至つたものの如くであつた。
 第一編に述べた如く美濃部学説が国体に関する国民的信念には背反する自由主義的民主主義である限り、国民的自覚が喚起された暁に於ては早晩再び非難排撃の的となるべきは必然の運命であつたとも見られるのであるが、博士自身が最近に於て所謂現状維持派の為に盛んに法律論を以て思想的擁護を試みたことは、自由主義思想撃攘の一大思想変革運動の序曲として血祭りに挙げられるに至つた一因と思はれる。

             第二節 愛国諸団体の運動状況

(一)愛国諸団体の排撃運動
 美濃部博士が帝国議会に於て「一身上の弁明」に籍口(シャコウ)して自己の唱導する天皇機関説を説明した事は天下の輿論を沸騰せしめ、之を契機として問題は急激に拡大し、皇国生命の核心に触れる重大事件として全国の日本主義国家主義諸団体は殆んど例外なく機関説排撃の叫びを挙げ、演説会の開催、排撃文書の作成配布、当局或は美濃部博士に対する決議文、自決勧告文の交付、要路者訪問等種々の方法に依り運動を展開した。誠に同年三、四月中に此の運動に立上がった団体を見る次の通りである。
東京 国体擁護聯合会、国民協会、大日本生産党、新日本国民同盟、愛国政治同盟、明倫会、政党解 
   消聯盟、昭和神聖会、恢弘会、皇道会、勤王聯盟、・・・(以下日本全国の愛国団体とその支部およそ150の団体名略)

 此等諸団体の裡で当初より最も活発に活動したものは国体擁護聯合会、国民協会、大日本生産党、新日本国民同盟、愛国政治連盟、明倫会、政党解消聯盟等であった。
 排撃運動の中心たる国体擁護聯合会は三月上旬には国務大臣の議会における答弁速記録を引用せる長文の声明竝にポスターを発行して全国各方面に送付して諸団体の蹶起を促し、三月九日青山会館に会員三百余名参会して本問題に関する聯合総会を開き、言論、文書、要路訪問、地方との連絡、国民大会開催等の運動方針を定めたる後、総理大臣以下内務、文部、陸軍、海軍各大臣に対し「順逆理非の道を明断すると共に、重責を省みて速かに処決する処あるべき」旨の決議を、一木枢相に対しては、「邪説を唱導したる大罪を省み恐懼直に処決する所あるべし」との決議を為し代表者は之を夫々各関係官庁に提出する等運動に拍車を加へた。
 赤松克麿を理事長とする国民協会は三月十日開催せる全国代表者会議に於て、美濃部思想糾弾に関する件を上程して「機関説思想を討滅すると共に之を支持する一切の自由主義的勢力及制度の打破に進むべきこと」を決議し翌十一日同趣旨の決議文を政府当局竝に美濃部博士に提出し、次いで同月十六日「美濃部思想絶滅要請運動に関する指令」を全国支部に発送し、各地において天皇機関説排撃演説会を開催して旺に輿論の喚起に努むると共に、要請書署名運動を起し、約二千五百名の署名を獲得し、代表者は首相を訪問して左記の如き要請書を提出した。
         要 請 書
 美濃部博士にの唱導する天皇機関説が我が国体の本義に背反する異端邪説なることは既に言議を用ゐずして明かなり。此説一度び貴族院の壇上に高唱せらるゝや、全国一斉に慷慨奮起してその非を鳴らし之に対する政府の善処を要望しつゝにあるに拘らず政府は徒らに之を糊塗遷延し以て事態を曖昧模稜(モリョウ)の裡に葬り去らんとしつゝあるは忠節の念を欠き輔弼の責を解せざるの甚だしきものと認む。政府は速かに斯の思想的禍害を剪除して国民の国体観念を不動に確立せんが爲め左の処置を講ぜんことを要請す。
 一、天皇機関説が国体と相容れざる異端の学説なることを政府に於て公式に声明すべし。
 一、軍部大臣として国体及統帥権擁護を明示せしむべし
 一、美濃部達吉をして貴族院議員竝ニ一切の公職を辞せしむべし
 一、美濃部博士其の他天皇機関説を主張する一切の著書の発行頒布を禁止するは勿論之を永久に絶 
   版せしむべし
 一、美濃部説を支持する一切の教授、官公吏等を即時罷免一掃すべし
                                 国 民 協 会

   内閣総理大臣
     岡 田 啓 介 閣 下

 内田良平を総裁とする大日本生産党は、早くも三月十一日美濃部博士に自決勧告書を手交すると共に岡田首相、松田文相に対しても、機関説の徹底的掃滅方の勧告書を提出し、更に各支部に指令を発して、排撃運動を慫慂し、他面本分内に憲法其他法律的時事問題研究機関「木曜会」を設置して機関説を中心として憲法学の批判検討を行ひ又同時に関西本部に於ても排撃文書を配布し、連日に亙り演説会を開催して輿論の喚起に努むる等東西呼応して熾烈な運動を展開した。
 新日本国民同盟(委員長下中弥三郎)は早くも三月三日東京府支部協議会第一回評議委員会に於て美濃部学説反対の決議を為し、同盟本部に於てもその後「本問題は究極に於て三千年来伝統せる我国民の国体観念に挑戦せるものたると同時に、忠孝一本を体系とし来れる国民精神を喘笑惑乱するの甚だしきものたるは明白にして我等は茲に斯の如き学説を以て許すべからざる不逞思想なりと断じ、美濃部博士に対して速かに其の良心よりする自決を促すと共に之を今日迄荏苒(ジンゼン)看過し、国論漸く沸騰するに至りても尚博士を庇護せんとする岡田内閣の曖昧なる態度を不臣の極として弾劾するなり」との態度を決定し闘争目標を(一)美濃部博士の著書の発禁(二)美濃部博士の公職辞職(三)岡田首相の引責辞職(四)一木枢府議長の引責辞職に置き早くも倒閣の旗幟を現はして強力な闘争を全国的に展開し、又「美濃部達吉博士の天皇機関説を排撃す」と題するパンフレットを発行して一般的な啓蒙運動に努めた。
 愛国政治同盟(総務委員長小西四郎)は「天皇機関説が国民的の問題となったことは昭和維新への一条件たる昭和の勤王論の国民的確立期の到来」を意味し、同博士の排撃は勿論近世日本七十年来国内に浸潤し毒害を流し来つた亡国的なる自由主義個人主義思想の根元を絶たしめ、国民の国体観念を白熱的に再認識せしめ、之が不動の確立を期せざるべからずと為し、三月二十日全国支部に「反国体憲法排撃に関する指令」を発して之亦全国的に運動を展開した。
 明倫会は大川周明の神武会に財政的援助を為した石原広一郎が陸軍大将田中国重と共に予備役将官級を中心に結成した有力団体であるが、美濃部学説が問題となるや、逸早く態度を決定して断乎たる処置を要望する決議を為し、之を関係各大臣其の他に送付し、次いで全国支部に対し、各地支部は所在の郷軍其の他と適宜聯繋し、国民指導の重任に邁進せよと指令し、或は美濃部博士に対し議員辞職要請書を、軍部大臣に対しては皇軍の嚮ふ所を誤らしむことなきを要望せる決議文を提出する等当局鞭撻と輿論の喚起に力を尽し、更に四月に入るや、田中総裁以下の幹部は関西、中国、九州地方に遊説して大に国民の奮起を促すところがあつた。
 松岡洋右を盟主とする政党解消聯盟は当初は自嘲的態度を持してゐたが、問題の拡大せるに鑑み、三月十九日緊急幹部会を開催して機関説撲滅に邁進する方針を決定し、決議文を作成して首相以下の閣僚及び一木枢府議長に手交すると共に、同日上野精養軒に開催された機関説撲滅同盟有志大会には松岡洋右出席して激励演説を為し、更に四月上旬松岡洋右著『天皇政治と道義日本』と題するパンフレットを各方面に配布し、其の後中央、地方を通じ専ら他団体と提携協力して果敢な運動を展開した。
 機関説問題は愛国団体が結束し協同闘争を展開するに好個の題目であつた。所謂日本主義国家主義陣営には指導理論を異にする多数の団体があり、而も従来より感情の齟齬、特別な人的関係等の為、陣営に統一なく、其の活動は個別分派的に傾いてゐたのであるが、階級闘争を主張する国家社会主義から進歩的革新的日本主義更に極端な復古的日本主義に至る迄その色調は何れも日本的であり、其の真髄を為すは国体の開顕、国体の原義闡明(センメイ)にあった。されば美濃部学説排撃に関しては、全く小異を捨てゝ大同に就き、国体の擁護、国体の原義闡明なる大目標に向つて戦線を統一して、猛然噴起することが出来た。三月八日結成された「機関説撲同盟」は機関説排撃の為一大国民運動を展開する意図の下に黒竜会の提唱に依り頭山満、葛生修吉、岩田愛之助、五百木良三、西田悦、橋本徹馬、宅野田夫、蓑田胸喜、江藤源九郎、大竹貫一、等東京愛国戦線の有力者四十余名の会同を得て、黒竜会本部に開催せられた。「美濃部博士憲法論対策有志懇談会」を恒常的組織としたものであつて、運動目標を(一)天皇機関説の発表を禁止すること (二)美濃部博士を自決せしむことに置き、而して運動方針として(一)貴衆両院の活動により政府に実行を促すこと (二)国民運動により直接政府に迫ること (三)有志大会を開き国民運動の第一着手とすること等を定め、次いで同月十九日には、上野精養軒に於て左記の如き有力人物六百名の出席の下に機関説撲滅有志大会を開催して大に気勢を挙げた。
 頭山満、入江種臣、松岡洋右、寺だ稲次郎、五百木良三、宮沢裕、・・・’(以下三十五名の名前略) 
 而して同大会は左記宣言決議を可決し委員を選出して、首相、内相、陸海両相等を訪問決議文を手交せしめた。
           宣 言 文
 上に万世一系の天皇を戴き万民その治を仰ぎて無窮なるは是れ我が国体の本義なり 天皇機関説は西洋の民主思想を以て我が神聖なる欽定憲法を曲解し国体の本義を撹乱するものにして兇逆不呈断じて許すべからず。
 斯の邪説を正さずして何の国民精神の振興ぞや。吾人は茲に国体の本義を明徴にして億兆一心誓つて此の兇逆なる邪説の撲滅を期す
           決   議
一、政府は天皇機関説の発表を即時禁止すべし
二、政府は、美濃部達吉及其一派を一切の公職より去らしめ自決を促すべし

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