真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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船中八策、大政奉還上表文、五箇条の御誓文

2018年10月24日 | 国際・政治


 幕末から明治初期の様々な歴史的事実を調べると、昭和のあの馬鹿げた戦争は、明治新政府の政治が受け継がれた結果もたらされたといっても過言ではないように思います。

 列国の圧力が幕藩体制を揺るがした幕末、日本に議会制度を導入することよって、国家の意思形成及び統一を図ろうとする政治思想が、様々なところで論じられました。その公議政体論の代表的なものを読むと極めて似通っていることに気づきます。
 特に注目すべきは、徳川慶喜が提出した「大政奉還上表文」と、明治新政府が発表した「五箇条の御誓文」が驚くほど似通っていることです。

 一例を挙げれば、坂本龍馬の「船中八策」に「万機宜シク公議ニ決スベキ事」とありますが、徳川慶喜の上奏した「大政奉還上表文」にも、「広ク天下ノ公議ヲ盡シ」とあります。また、「五箇条の御誓文」には「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」とあります。同じようなことをいっていると思います。そして、「維新前後に於ける立憲思想」尾佐竹猛(邦光堂)を読めば、似通っている理由がわかります。その一部を抜粋しました。資料1です。武力をもって決着をつけないとならないような違いはないのです。(ただし、「維新前後に於ける立憲思想」尾佐竹猛(邦光堂)の「船中八策」の文章に欠落部分があるため、「検証・龍馬伝説」松浦玲(論創社)のものに置き替えました)

 大政奉還を上奏した徳川慶喜は、孝明天皇による「将軍宣下」によって、日本の統治大権を行使する征夷大将軍職にありました。したがって、大政奉還後は、諸侯会議によって新しい政権が生み出されるべきであったと思います。将軍職にあった徳川慶喜が大政奉還を上奏したにもかかわらず、薩長両藩に「賊臣慶喜を殄戮」せよという「討幕の密勅」が下されたのはなぜでしょうか。また、この密勅と同時に、「右二人久滞在輦下助幕府之暴其罪不軽候依之速加誅戮旨被仰下候事」として、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の”誅戮”を命ずる勅書も出されていることが、三条実美年譜で明らかでであるといいます。なぜ”誅戮”を命ずるのでしょうか。元服前の満14歳で皇位に就いた明治天皇が、そうした密勅や勅書を発するとは考えられません。

 「検証・龍馬伝説」松浦玲(論創社)の著者は、

”薩長討幕派が十二月九日に敢行した王政復古クーデタは、大政奉還後の公式の政治日程が諸侯会議であることを無視し、あるいはその可能性を横合いから断ち切って、武力で御所を固め天皇親政を宣言したものである。会議抜きで「盟主は天皇」と決めたのである。
 会議抜きも、盟主は天皇も、龍馬の構想とは全く異質だった。倒幕派にしてみれば、会議をすれば盟主が慶喜に落ち着くことは避けられない見通しがあり、武力で、クーデタで事を処するしかなかった。また政権代表には、会議で選ばれるという次元を超えた存在、つまり天皇を当てるしかなかった。

 と書いています。薩長倒幕派(かつての尊王攘夷急進派)の独善性を正しく指摘していると思います。

廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と明示しながら、薩長倒幕派が、岩倉具視等とともに、天皇を抱き込み、諸侯会議を無視して武力で政権奪取を画策したことは否定できない事実だと思います。薩長倒幕派が「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」と本気で考えたのであれば、諸侯会議で、大政奉還後の日本のありかたを「決ス」べきで、それをしなかった薩長倒幕派が明治新政府を主導したことが、その後の日本の歴史に様々な問題を発生させることになったのではないかと思います。「明成皇后弑害事件」、日清戦争旅順虐殺事件等々…。

 したがって、安倍首相が委員長となって進める「明治150年記念式典」は、近代化のみに焦点を当て、そうした不都合な事実を覆い隠し、薩長を中心とする明治政府の狡猾で野蛮な政治を受け継ごうとするもので、戦争の歴史を振り返り、近隣アジア諸国との歴史認識の溝を埋めることを不可能にするのではないかと思います。

資料1------------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----

                        第四章 議会設置の論議
第一節 土佐藩の議会論

慶應三年、薩長連合成り、将に武力を以て、幕府を倒さんとし、幕府の謀士等、辣腕を振ふて、薩長を圧せんとし、風雲急なるとき、突如、一大新運動を起し、此両者に割り込んだのは、土佐藩であつた。
 世に宣伝せる坂本龍馬の、八策なるものは、曰く、

第一義 天下有名ノ人材ヲ招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国交際議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新ニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レハ諸侯伯皆此レヲ奉じシテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス
右豫メ二三ノ明眼士ト議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々
○○○自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々
強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スルコトナシ

と右の中○〇〇とあるのは容堂公とするのをわざと避けたのである。而して、此八策に付ては、医師今井順正の名を記憶せねばならぬ。

註30 実は此建白の根源をいふと高知の漢方医今井順清といふ男の発案なのだ医師や町人百姓は孰(イズ)れも勤王家であるが今井は其優秀であつたのである。處が西洋医を研究する為めに長崎へ出て坂本と往来し段々話しあつて見ると頗る名説がある坂本も大に感心してその説を基礎として彼の八策を作つた(佐々木老侯昔日談)とあるが順清は純正で長岡謙吉の前名である。

 此意見の藩論となつたものは、(慶応三年六月十五日に確定せることは中岡慎太郎の日記見ゆ)

一、天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事
二、上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ決スベキ事
三、有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有名無実ノ官ヲ除クベキ事四、外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事
五、古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事
六、海軍宜ク拡張スベキ事
七、御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事
八、金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事
以上八策ハ方今天下ノ形勢ヲ察シ之ヲ宇内万国ニ徴スルニ之ヲ捨テ他ニ済時ノ急務アルナシ
苟モ此数策ヲ断行セバ皇運ヲ挽回シ国勢ヲ拡張シ万国ト並行スルモ亦敢テ難シトセズ
伏テ願クハ公明正大ノ道理ニ基キ一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン


との建白案となつた。これは、坂本が後藤と同船し長崎より上京の際船中にて協定し海援隊の書記長長岡謙吉をして起草せしめたとの説。(31)と後藤象二郎の案といへる説。(32)とあるが土佐藩有志多数の手に依つて修正せられたといふのが正しいようである。


 長岡謙吉は前述の今井順正のことであるがこれも憲政史上伝ふべき人物である。其著「藩論」の所説が、当時の与論喚起に力ありしことは、閑却すべからざるのである。

扨て、右の案は、更に修正せられて薩土盟約となり
 一、方今皇国の務、…以下略 

 ・・・

 仍ち、土佐藩は、将軍をして政権を奉還せしめて、朝廷を中心力とし。之に与論府を以て国論を統一すべしといふにあり。斯くして、勤王党を満足せしめ、徳川氏を滅亡より救ひて、佐幕党の意を得、而して薩長をして独り威権を壇にせしめず、平和に政権を授受して、国民を戦争の惨禍より、免れしめんとするにありて、武力一点張りの諸藩をしてアットいはしめたのである。
 是に於て考察すべきは、土佐藩は如何にして、斯くも重要に、斯くも具体的に、議会制度を意識したかの問題である。其一は、言ふ迄も無く、上来叙述したる時勢の賜である。其二は、藩主容堂の英明である。容堂は支那を通じて、世界の大勢に注意して居つたのである。
其三は、参政吉田東洋の感化である。
其四は、当時海外の文化を窺知する、唯一の門戸たりし、長崎港と、土佐藩の特別関係が、遂に闔藩をして、憲政思想の萌芽を早からしめたのである。
 而して、また別に後節に述ぶるが如く、中井弘の新知識が与つて力ありしことも閑却してはならない。
 更に何人も想像するは外人との関係である。これにつきては、
 土佐に至り、先づ後藤象二郎及び同地に在りたる幕府の若年寄平山図書頭等に会す。
 後藤は最も親しくサトウに接して政事を談じ我国は宜しく英国に倣ひて憲法を定め国会を設くべし   といへり云々
 パークス土佐を去るの後、サトウは留まりて高知城に至り前藩主山内容堂に面す、後藤亦陪坐して共に政事を論議し、憲法及び議会の権能と選挙に関する質問あり、留まること数日の後去りて長崎に赴く云々(「アーネストサトウ氏」の一節)
との史料もある。


第二節 幕府側の議会論

 土佐藩の議会論と、相関連して論ずべきは、幕府側の議会論である。然るに土佐藩のそれは、世に宣伝せるに反し、幕府側のそれは、殆んど世の記憶だに存せないのである。
 幕府如何に衰えたりと雖、有識の士は絶無では無い。また、世界の大勢に付いての智識は必ずしも各藩よりも劣るものでは無い。否寧ろ一歩先んじて居つたとも云へる、然るに敢て議会論に限らず、凡ての施設に付ても、幾多伝ふべき事蹟のありしにも拘はらず、悉く湮滅して人の知るものなきは、何故であるか、言ふ迄も無く、古来幾度は繰り返されたる如く、敗者の常に被るべき悲哀である。

 幕臣大久保忠寛(一翁)は、文久年間既に政権奉還を主張した達識の士であるが、文久二年の春「大小の公議会を設け、大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし其議場は、前者は京都或は大阪に置き、後者は江戸其他各都会の地に置くべし、又大公議会の議員は諸大名を以て之に充て、内五名を選びて常議員とし、其他の議員は、諸大名自ら議場に出づるも、管内の臣民を運びて出場せしむるも、妨なきこととすべし。五年に一回之を開き臨時議すべき事件あらば臨時にも開くべし。小公議会の議員及会期は、之に準じて適宜の制を定めん」との建白を時の政事総裁松平春嶽に上つた。即ち国会と、地方府県会の制を、力説したのである。

 坂本龍馬は、始め大久保を訪ひ、其大政奉還論を聞き、幕臣中斯る達識者あるかと推服し、其説を以て、松平春嶽横井小楠等にも遊説した、後年五箇条の御誓文の起案は、坂本の系統を引ける福岡孝弟、横井の系統を受けたる由利公正、との合作に出でたるは世の知る処である、しかも此二大系統間に介在し、夙(ツト)に大政奉還論、と議会論とを主唱せし、大久保の卓識は、此二者に譲らざるのみならず、或は反つて此二者は大久保の説に啓発する処(トコロ)ありし、といふも可なりである。幕臣側の議会論の第一人者としてまた我国憲政史上忘るべからざる一人として爰に之を記すのである。

元治元年、薩藩吉井友実が大久保利通に送った手紙の一節に

 大久保越州、横井、勝などの議論長を征し、幕吏の罪をならし天下の人材を挙げて公議会を設け諸生と雖其会に可出願之者はさつさと出し公論を以て国是を定むべしとの議に候云々

といふのである。大久保の論は右の如く。また横井小楠の議会論は時節に述ぶる如くである。此頃となりては幕吏の有識者間に、議会論が勢力を占め、それが薩藩に迄知られて居ることが推知される。以て大勢の推移を知るべきである。
 此頃、水野筑後守の唱へた、政体改革論は、純然たる議会論では無いが、大久保の意見に近き説であつた。

 開成所教授加藤弘蔵(後の文学博士・法学博士・男爵加藤弘之)は、文久元年『隣草』の著も出来、慶応二年に其名著『立憲政体畧』の稿を起したのであるから、幕吏間には、議会思想は、相当に知得されて居つたのである。而して最新の智識を以て、具体的に、詳密なる案を立てたのは前掲西周助であつた。

 ・・・以下略 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                         大政奉還上表文

臣慶喜、謹ンデ皇国時運之沿革ヲ考エ候ニ、昔、王綱紐ヲ解キ、相家権ヲ執リ、保平ノ乱、政権武門ニ移リテヨリ、祖宗ニ至リ、更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承、臣其ノ職ヲ奉ズト雖モ、政刑当ヲ失フコト少ナカラズ、今日ノ形勢ニ至リ候モ、畢竟、薄德ノ致ス所、慚懼ニ堪ヘズ候。況ンヤ当今、外国ノ交際日ニ盛ナルニヨリ、愈々(イヨイヨ)、朝権一途ニ出申サズ候テハ、綱紀立チ難ク候間、従来ノ旧習ヲ改メ、政権ヲ朝廷ニ帰シ奉リ、広ク天下ノ公議ヲ盡シ、聖断ヲ仰ギ、同心協力共ニ皇国ヲ保護仕リ候得バ、必ズ海外万国ト並ビ立ツベク候、臣慶喜、国家ニ盡ス所、是ニ過ギザルト存ジ奉リ候、去リ乍ラ、猶見込ミノ儀モ之レ有リ候得バ、申シ聞ク可キ旨、諸侯ヘ相達シ置キ候。之レニ依リテ此ノ段、謹ンデ奏聞仕リ候。以上 

資料3--------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------------------

                         五箇条の御誓文

一 廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ
一 上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フべシ
一 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一 舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クべシ
一 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ

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小野組転籍事件 槇村正直と京都裁判所 

2018年10月13日 | 国際・政治

 この小野組転籍事件も、明治新政府がどのようなものであったのかを窺い知ることのできる事件だと思います。山県有朋の山城屋和助事件や三谷三九郎事件、井上馨の尾去沢鉱山事件や藤田組贋札事件、黒田清隆の北海道開拓使庁事件や妻殺害事件などと同様に、この小野組転籍事件でも、政府の要職にある人たちが法や道義を蔑ろにして、自分たちがやりたいようにやるという姿勢が見られるように思うのです。

 尊王攘夷を掲げて、開国政策を進める幕府関係者を次々に暗殺し、日本に入った外国人を「神州を汚す」として突然襲撃するいわゆる「異人斬り」を頻発させた人たちが、相楽総三を隊長とする赤報隊なども利用して狡賢い方法で幕府を倒し、新政府をスタートさせました。そして、明治維新前後の野蛮な行為を何ら反省することなく、政府の要職を固め、手のひらを返したように欧化政策を進めました。だから私は、”テロの嵐が吹き荒れた”と表現されるような幕末の野蛮な暗殺や異人斬り、また幕府軍に対する北海道箱館までの追撃はいった何のためだったのか、と思うのです。

 そういうことを考えながら、「明治秘史 疑獄難獄」尾佐竹猛(一元社版)を読むと、著者 が書いている下記の文章に頷かざるを得ません。明治という時代は、西洋に学んで、民主的な市民社会をつくり上げた時代ではなかったということです。

明治四年に創設せられ、当時行政部、軍部等は薩長人士の占有する所となり、他藩の人材はその驥足(キソク)を伸ばすに由なかりしが、偶々(タマタマ)司法省の創設に際し、土、肥を始めとして諸藩の俊秀、こゝに集まり人材一粒選りの称があつた。而して其掌る所は法律であつて、攻城野戦、馬上天下を取つたと自負する豪傑連をして煙たがらしめたのである”

 スタート当初は、民権を重視する司法省が力をもち”豪傑連をして煙たがらしめた”ようですが、武力倒幕に勝利した薩長を中心とする人たちが新政府の要職を固め、司法省や民権を重視する人たちを抑え込んでいったために、日本の近代化は、西洋に学びながらも、民権を蔑ろにする近代化になってしまったのだと思います。
 小野組転籍事件で京都府庁の参事槇村正直(元長州藩士)が拘留されると、”長州閥の大元勲木戸孝允”が”上書”を提出し、裁判所と対立する京都府庁側を擁護したばかりでなく、”突如天外より左の命令が下つた”として、著者は下記をとり上げています(抜粋文では省略しています)。

京都府参事槇村正直儀拘留相解くべき旨特命を以て被仰出候に付此旨相達候事
     明治六年十月二十六日           右 大 臣 岩 倉 具 視
裁判所で拘留したものを、裁判所外から釈放の命令が出たのである。

 明治維新前後のあの野蛮な暗殺や異人斬り、そして、明治新政府の要職にあった人たちの汚職事件その他の内容を踏まえると、”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だった”とか、昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年が”異胎の時代だった”というような無理な考え方をする必要はないと思います。小野組転籍事件でも、尊王攘夷急進派の中心的人物だった木戸孝允や岩倉具視が重要な働きをしている上に、「三井の番頭さん」と呼ばれた井上馨が、三井組の利を図るために、槇村に転籍阻止を指示したと噂されていたのです。だから、”昭和ヒトケタから昭和二十年まで”のあの野蛮で馬鹿げた戦争の端緒は、明治維新だったのではないかと思うのです。

 下記は、「明治秘史 疑獄難獄」尾佐竹猛(一元社版)から「小野組転籍事件」の前半部分を抜粋したものです。(ただし、漢字の旧字体の一部は、新字体にかえました。現在あまり使われていない漢字には、カタカナのふり仮名を括弧書きしました。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     五 小野組転籍事件(明治六年)

明治初年に於ける小野組転籍事件は財界に於ては三井組と小野組の暗闘であり表面に現はれては司法と行政との衝突となり、遂に中央政界の大問題となり、波乱重疊(ハランチョウジョウ)、幾変転の後、我国最初の陪審たる参座制を敷き漸く其局を結びし大事件である。即ち財政上、政治上、法律上の各方面に渉り非常に興味あり又注目すべき事件であるが、従来餘りその顛末が明らかとなつて居なかったから茲に其大要を略述する。

明治の劈頭に於ける小野組の活動は人目を聳動(ショウドウ)した、維新の始め各富豪が新政府の基礎を疑ひ、躊躇せる際、率先して巨額の献金を為したる功に依り各官省の為替取扱の請負を為し実業家としての利け者であつた。
事件の発端は明治六年である、此年四月六日に
              東都府上京二十八区衣棚通二条下ル上妙覚寺町 小野助次郎
は摂津八辺郡神戸第一区八幡町第三十八番地へ転籍。同月八日に
                     同府同区烏丸通二条下ル秋野町 小野善助          
                     所              小野善右衛門
は、東京府第一大区小十四区田所町へ転籍の旨、各町戸長に申出て、戸長は区長を経由して京都府庁の証明を求めたのであった。その理由としては、大蔵省の内規では、用達商が新に金銭取扱を開始せんとする場合には、その都度営業主の戸籍謄本を要するのであるが、小野組は主たる支店を東京に置き横浜神戸等にも支店或は出張所を設けある為め、一々営業主たる善助の本籍地京都の戸籍謄本を求めて居っては急場の間に合わぬからといふのであつた。が其実は京都府庁から屡公納金を課せられるので負担に堪へなかったからであるとの噂があつた。此頃の行政官の権威は旧幕大名が御用金を課したのと同じく公租以外に臨時に巨額の負担を命じて怪しまなかったのであるから噂の様な事情もあつたであらう。其始め朝廷へ献金したときは至誠純忠の致す處で御嘉納ありしときは子孫末代迄の名誉と喜んだのであるが、行政官の数回の誅求には仏の顔も日に三度で散々迷惑に感じたのであつたらう、一族三人同時の転籍であるから、世評の起るのも無理からぬので近頃でも脱税の為め郡部へ転籍するものも無いでは無い。

 府庁では京都の主なる富豪が転籍しては市の盛衰にも関し、財政にも影響するのみならず府庁の面目にも関するから之は許可すべきものでは無いとし、用達事務の清算なきを理由に容易に其手続を運ばなかつた。これも一応理由のあることであるがさうなるとまた京童が囀(サエズ)る、これは当時の大蔵大輔たる井上馨が三井組の利を図り参事槇村正直に旨を伝へて阻止せしめたとの噂が専らになつた。

 当時の京都府知事は華族の長谷信篤で、槇村は其下に参事を勤めて全権を振つて居つた。府県参事といへば今の内務部長位であるが、官権万能の其頃の事とて威権赫赫たるものであつた。当時の知事は今日の地方官と異り旧大名の後継者で、司法権、行政権は固より財権、兵権の一部をも掌握し素砂らしい権力を有して居り、特に京都府は沿革上、東京府の上に在つたので県官はなかなかたいしたものであつた。

槇村は長藩出身で半九郎といひ、晩年には行政裁判所長官、男爵で納つて居つたが、此頃は背後に維新の元勲木戸孝允あり先輩には井上馨ありて深く結ぶ處があつた。所謂長閥の悍吏といはれた男であつた。

扨て府庁は容易に転籍の許可をしないのみならず善助を呼出し、代つて出頭したる善右衛門を白洲に呼入れ、荒蓆に坐せしめて転籍の理由を尋問し其中止を勧告否命令した。今から考ふれば転籍がそんなに面倒で行政庁がそんなに横暴なものとは想像もつかぬが、当時はこんなことは当り前であつた。

善右衛門は翌日槇村を其私邸に訪ふて懇請したが、槇村は断然許さぬと計り一喝して席を蹴つて起つたから、善右衛門は帰宅の上一同を集めて評議した。其時旧会津藩士波多野央は大に憤慨し司法省第五十六号布達に基づいて出訴すべしと勧め小野は訴訟を京都裁判所に提出した。

こゝでその五十六号布達のことを説明しなくてはならぬが、司法省はこれより先き、明治四年に創設せられ、当時行政部、軍部等は薩長人士の占有する所となり、他藩の人材はその驥足(キソク)を伸ばすに由なかりしが、偶々(タマタマ)司法省の創設に際し、土、肥を始めとして諸藩の俊秀、こゝに集まり人材一粒選りの称があつた。而して其掌る所は法律であつて、攻城野戦、馬上天下を取つたと自負する豪傑連をして煙たがらしめたのである。先づ明法寮を置き現今の法制局の事務の一部を為し、警保寮を置きて警察事務を掌り、裁判所を設置して各府県の聴訟(民事)断獄(刑事)の権を収め更に司法省達第五十六号を以て

一、地方官及ビ其戸長等ニテ太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ニ悖リ規則ヲ立テ或ル処置ヲ為ス時ハ各人民ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ又は司法省裁判所ヘ訴訟苦シ カラザル事
一、地方官及ビ其戸長等ニシテ各人民ヨリ願伺届等ニ付之ヲ雍閉スル時ハ各人民ヨリ其地方裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、各人民此地ヨリ彼地ヘ移住シ或ハ此地ヨリ彼地ヘ往来スルヲ地方官之ヲ抑制スル等人民ノ権利ヲ妨ル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ヲ地方官ニテ其隣県ノ地方掲示ノ日ヨリ十日ヲ過グルモ猶遅帯布達セザル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、 太政官ノ御布告及ビ諸省ノ布達ニ付地方官ニテ誤解等ノ故ヲ以テ右御布告布達ノ旨ニ悖ル説得書等ヲ頒布スル時ハ各人民ヨリ其地方ノ裁判所ヘ訴訟シ亦ハ司法省裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事
一、各人民ニハ地方裁判所及ビ地方官ノ裁判ニ服セザル時ハ司法裁判所ヘ訴訟苦シカラザル事

と布達し民権擁護の為め行政官の横暴を矯正せんとするにあつて行政裁判以上の一般行政監督ともいふべき権力を有し、しかも其執行に為には警察権、裁判権をも行使できるのである。小野組はこれに拠って右の訴訟を提起したのである。昨日は白洲の荒蓆に座らされた町人が今日は御公卿様で殿様である上役人を相手取って訴訟を起したのである。時勢とはいいながら斯ふ迄行くには非常な決心であつたのである。その訴状は

      以書附御訴訟奉申上候
        難渋御訴訟                               上京二十八区烏丸通二條下ル
                                                    訴訟人 小野善助 
                                            右同区同町

                                                    同   小野善右衛門
右訴訟人善助善右衛門奉申上候、私共儀年来諸国為替金取引并陸羽信上州辺生糸其外荷為替専業罷在且又善助儀京都御府御用達被 仰付御扶持方頂戴仕冥加至極難有仕合奉存相勤来候処前件商業取引向専ら東京横浜表多端に相成遠隔之地に本籍在候ては諸事差支殆困却之廉不尠而巳成兼而御覧典之御趣旨に基き商法盛大之ため東京第一大区小十四区田所町におひて従前私共出店御座候に付同所へ転籍一廉勉強仕度仍而両人共送籍之儀去四月八日別紙甲印の願書を以て居町戸長谷田孫兵衛送籍方相願候処承知之上戸長添書被致京都府へ被相伺候由之儘何等之御沙汰無之候に付区長戸長へ再応伺出候得者情実書面可差出と之差図に付五月二日別紙乙印之書面差出申候本日総区長詰所へ可罷出旨被達越候に付善助名代相兼善右衛門罷出候処豈図ん御官員様御出席に而尚転籍之事実御聞糺しに付願意之次第縷々詳密御答仕尤善助善助住居は親族小野又次郎へ相譲り善右衛門儀は倅へ相続為致御当地住居絶跡仕候儀には決而無之段申上候得共今一応戸長迄書面可差出旨御申聞に付別紙丙印之願書戸長へ差出尚又善助御用達御免之願書共名代善右衛門御府へ直に願上置候得共今以御聞届之御沙汰無之右は何等の事故に而候哉兎角願意貫徹致し兼実に難渋之次第苦慮罷在候然るに東京出店先より一刻も早く移籍可致候様頻り申越其情実商売之倣ひにて不可謂之懸引も御座候而当節柄取引百端一日千秋の思ひにて相促し越候素より当然の儀旁難渋之余り先般御布達も有之候儀に付恐多候得共無余儀御訴訟申上候何卒出格御憐感を以速に送籍御聞届相成候様伏而奉願上候 以上
                            明治六年五月二十七日
                                                    右  小 野 善 助
                                                      病気ニ付名代兼
                                                       小野善右衛門
                                                    右町
                                                    戸長 谷田孫兵衛
                                                    右同区(押印を断りたる為捺印なし
                                                    烏丸通御池上ル二條殿町
                                                     差出人親類惣代    尾崎弥三兵衛
    京都裁判所長  

         北 畠 少 判 事 殿

 といふので、小野助治郎の分も同文句である。人民に出訴の権ありといはれながら、矢ツ張り哀訴嘆願の形式を採つて居るのを見るも当時の社会相を想像するに足るのである、さるにてもこれが我国
最初の行政訴訟であることを思へば忽諸(コッショ)に付すべからざる史料である。
扨(サ)て一面裁判所の方面の意向はどうであつたかといふと、前述の如く大権力を有する司法省は民権を擁護し、罪悪を糾弾し、綱紀を粛正するの任務は懸つて我双肩にありとし、先づ遊女解放令から公娼廃止を断行し、山城屋和助事件には長閥軍人の肝胆を寒からしめ、三谷三九郎事件には藩閥を周章せしめ、尾去沢銅山事件には井上馨を処罰し、又岩崎弥太郎が証人喚問に応ぜざりしとて白昼妓楼より拘引したるが如き目覚しき活動を為して居つた際に起つたのがこの小野組事件である。
それからまた明治五年十月始めて京都に裁判所を設置するや、京都府庁は事務の引継を喜ばなかつた。これが抑(ソモソ)も衝突の始めである。これは敢て京都ばかりに限つたことで無く何処の行政庁も喜ばなかつたといふのは行政官大威張りの根本たる断獄(刑事)聴訟(民事)の権限を取られるのだがら大反対で、司法省当初の難件はこれであつた。特に京都府の如きは「抑地方の官として人民の訴を聴くこと能はず、人民の獄を断ずること能はず、何を以て人民を教育し治方を施し可申哉」と上書したのである。以て当時の地方官の思想を見るべきである。しかし既に法令を以て司法省の権限に属したる以上は渋々ながら引継ぎはしたものの、何にかにつけ妨害する傾向があり、裁判所と府庁は反目しつつあつたのである。
是に於て司法省は新に少判事北畠治房を京都裁判所長に任じ赴任せしめた。北畠は前名平岡鳩平といひ大和天誅組の志士で、後年改進党創立の際は其創設者の一人となりて幹部であり、後再び任官して大阪控訴院長男爵となり、大正九年に物故した一人物である。
北畠赴任後府庁との間に、随心院門跡事件を始めとし、岸喜左衛門等魚代金請求事件、上田小太郎等拘留事件、吉田亀次郎等窃盗事件、亀井八十吉賭博事件、小沢徳兵衛窃盗事件、重吉死亡事件等幾多権限争議を生じたが、その最も大なるはこの小野組事件である。
京都裁判所は目安糺(受理の決定)を為し、然る後、京都府庁に対し出訴の通知を為し答弁書の提出を促した。府庁からは七等出仕谷口起孝を遣はし、「府庁に於ては善助外二名の転籍を差止めたのでは無い。転籍の理由を聞糺した為め時日を要したのであるから訴訟は却下して貰いたい。」と北畠所長に述べたのであるが、北畠は

 苟も法律に基づいて受理したものを理由無くして棄却する訳には行かぬ、府庁としては答弁書を出して争ふべきである、一体地方庁が人民の希望を妨害するのは怪しからん

と説破したのである。斯ふなつては府庁と裁判所とは公然火蓋を切つたので問題は無事に納まりようがない。
府庁からは答弁書が出たが、裁判所では書式が違つて居るからとて突き返した、更に答弁書がでたから、六月十五日法廷を開き左の言渡を為した。

                                               京都府知事   長 谷 信 篤
                                               同  参事   槇 村 正 直
 其府管下、上京廿八区烏丸通二條下ル秋野々町小野善助、同小野善右衛門、同区上妙覚寺町小野助次郎、転籍出願ノ処、其府ニ於テ送籍ノ運ビ速ヤカナラザルニヨリ自然格留ノ疑惑ヲ懐キ訴出ルニ付、過日及訊問ノ末、答弁有之、仍テ尚審理候処、原告三人ノ者共ヘ情願ヲ得セシメ候方至当ニシテ善助用達ノ事故ヲ以テ送籍可滞筋無之、仍テ原告可為素願通旨、及裁判候條、至急送籍可有之、此段相達候也
              明治六年酉六月十五日                                京都府裁判所

これに対し府庁からは
 小野善助送籍願の事に付ては最前、谷口七等出仕を以て御談に及置候処、其義に反する裁判には承 服難致候、依て執行に及ばず候
と返牒して来た。これにより双方の論難往復となり、府庁では、送籍の許容は行政の権内に在り、司法の干與すべき限りにあらずと主張し、裁判所は遂に六月二十三日を以て、『裁判に不服あらば宜しく上告すべく、然らざれば請書を差出すべし』と通告し事件の経過を司法大輔福岡孝弟に報告した。
 然るに府庁よりは、請書を呈出せず又上告をも為さず漫然徒過したので、これ裁判言渡を拒む違式令の罪であるといふ声は司法部内に高まり、問題は一転して中央政界に移り、また行政裁判より刑事裁判となつたのである。
ここにいふ違式令の罪とは違制の罪、違式の罪といふので、凡て法令に違反する罪を総称したのである。いはゞ法廷侮蔑罪である。
平素法律を無視したる、否寧ろ法律知識無き府庁には不安を感じ、七月五日に善助代善右衛門召仕佐七、小野助次郎并に戸長孫長谷口孫兵衛、細川喜助等を白洲に呼出し、庶務課長典事関屋生三は一旦は送籍を許したが、更に之を取上げ、裁判所へ対し中途擁蔽云々といつたのが怪しからんとか、願意不貫徹云々と述べたのが不都合だとかいつて脅したが、何が扨て、町人が府知事と訴訟して勝つたのだから、なかなか腰が強い、裁判のお達に戻るとは如何と逆襲して降らない、その中に恐入ると云つた言葉尻を捉へて詰問すると、これは役所を敬する口癖であつて御尋ねに恐入るの意味では無いと抗弁する。はては裁判所へ伺出た上ならでは答弁はせないと頑張る、それでは出頭の区戸長は証人となれと宜して其日は要領を得ずに終つた。これを聞いた裁判所は、同月十三日関屋を呼出し詰問したるに、これは知参事の指図であるといつたから、それでは取調の都合があるからとて、関屋を裁判所留とし、区戸長の答弁も曖昧だとて、長尾小兵衛、山口仙之助を拘留した。府庁では大いに驚き、公務上出頭せしものを留置くとは如何なる訳か、と抗議したが、裁判所では、公私の別無く留置は勿論時宜によりては入牢も申付くる、とて益強硬に刎ねつけた。
一面司法省では七月八日事件が勅奏任官に関係するを以て司法大輔より太政大臣に稟申(リンシン)した。
太政官でも処置に困りなかなか指令が出ないから、司法省からは督促しても容易に決せない、そこで七月十二日、司法省六等出仕早川勇、太政官に出頭して
現行犯罪であるから各人民ならば即時に処分が出来るが、勅奏任官に係ることであるから奏請した以上は口述を用ひず直ちに処置しても宜しきや、又法律に依り一応推問を経て、口供結案(自白)を以て罪を科すべきや。
と述べた。此時は江藤新平は参議であつたから、其議に基づき、太政官では
 口供結案を待つに及ばず各人民現行犯罪の例を以て立所に罪を科すべし
と指令したから、検事澄川拙三が擬律(ギリツ)し上奏裁可を得、其旨京都裁判所に通達した。そこで裁判所は府庁側へ呼出状を発した。
事爰に至つては府庁側は狼狽せざるを得ぬ、司法省の作つた法律により司法省の手にて裁判せられんとするのである。相手は理屈と権力を以て迫り来るのである。大名然として傲然威張りつゝあつた府庁は、自己の職務に付き斯く迄追求せられようとは思ひ設けなかつたのである。
 そこで府庁では、事件の経過を述べ、裁判所が行政の内部に干渉する様では到底職務を執ることが出来ぬから宜しく裁断を仰ぐとの陳情書を認め、属官を上京せしめて太政官に提出した。
一方裁判所は知事参事に対し召喚状を発したが、知事参事は『此事件は目下伺中に属し未だ指令無く、また我等は勅任官だから上局の許可なくては猥りに法廷に出ることが出来ぬ』とて喚問に応じなかつたが、裁判所は七月二十九日府知事の執事を呼出し

                                               京都府知事   長 谷 信 篤
 其方儀、小野善助外二人転籍ノ儀ニ付、先般裁判ニ及ブ処、裁判上不服ノ事アレバ控告ノ法ニ拠り検事ヲ経テ上告スベキノ処、其儀ナク、徒ニ技蔓事ヲ生ジ、裁判受書ヲ出サゞル科、違令律條例違式重ニ擬シ懲役二十日ノ処官吏私罪贖例ニ照シ贖罪金(ショクザイキン)八円申付ル
但贖罪金ハ五日以内ニ差出セ

八月五日には参事の執事を呼出し、同様贖罪金六円に処した。
府庁側は裁判所に先手々々と打たれ、行政裁判の被告が刑事裁判の被告と為つて処刑を受くるたちばとなつたのである。八月二日知事は右言渡しに対しては控訴すべきに依り贖罪金を納付せずといひ、翌三日には推問を受けて承服せざるものを言渡すは不当なりと申出で、裁判所は、御裁可に依つて言渡したのである彼是言ふべき限りにあらずと回答した。槇村は始めより旅行中とて出頭せず、また執事にも故障ありとて彼是言ひ、漸く五日に右の如く判決したのであるが、同日、右裁判は了解し難くまた伺中に付き請書提出し難し、と申出で丹波地方へ出張に托して旅行した。
北畠所長は大に怒り、其事情を具して司法大輔へ上申したが、その一節に

正直(槇村)ノ法権ヲ侮辱スル更ニ之ヨリ甚シキハナシ、則チ朝憲何ノ立トコロアラン。治房此処ニ於テ実二切歯扼腕ニ堪ヘザルナリ。依テ請フ信篤正直等ヲ当断廷ニ呼出シ審詳糺問、若シ其実ヲ陳セス答弁上、若、倨傲(キョゴウ)悔慢ニ渉り候義有之ニ於テハ、直ニ之ヲ監倉ニ拘留スルヲ得ルノ権ヲ当裁判所ヘ暫く御委任有之度此段懇願仕候也。

といふのである。憤激の情、睹(ノ)るが如しである。同じく澄川検事よりも
 京都裁判所ニ吟味ヲマカセラルゝヤ、一日モ早ク司法裁判ヲ開クベキカ。
と上申した。
そこで司法省よりも
          京都府官員断ノ儀ニ付伺
 京都府知事長谷信篤同府槇村正直同府下小野善助送籍一件ニ付適律処断御裁可之上同裁判所ニ於テ処分申附候処右申渡ヲ抗拒致シ候顛末北畠少判事並澄川権中検事ヨリ別紙之通申出候元来法律ハ国家ノ大典ニシテ罪名一度ニ定レハ臣民タルモノ誰カ之ニ背戻(ハイレイ)スル事ヲ得ン況此ノ一條ハ勅奏官ニ係ルヲ以テ奏請シテ旨ヲ奉スルモノナリ彼信篤正直何者ニシテ朝憲蔑スル如此ヤ或ハ裁判所ヲ認テ朝庭ノモノニ非ストス狂妾ノ甚シキ大不敬ト云フ可シ然ルヲ其儘猶予スルトキハ司法御委任ノ権不相立即チ
朝憲不相立ナリ依テ速ニ捕縛セシメ狂妄ノ罪ヲ糺弾セシムヘク候間今日中御裁可相成度此段御即決ヲ仰キ候也
     明治六年八月十日                                        司法大輔 福 岡 孝 弟
       三 条 太 政 大臣殿

と上申した。これも随分激烈である。
これには太政官も困り、八月三十日となつて漸く
 裁判請書ノ次第一応推問之上猶不都合之儀有之候ハゝ糺弾之儀可為伺之通事
   但捕縛ノ儀ハ可見合事
と指令し、捕縛はどうしても許されない。
一面槇村は八月十四日
 小野善助等転籍之儀に付去五日京都裁判所より罪状御達書御渡相成候処元来右一件に就ては裁判所の処分於府庁難了解伺中に付如何共難致尚又伺出之上何等可応御指揮段裁判所へ申出置候右は最初よりの次第篤と御聞取被成下候はば自然事情当否判然可致其伺出未御指揮無之中罪状書致御請候て意味相違候ては不都合と相考右様申出候依て別紙相添此段奉伺候何分御指揮可被成下候
以上

との出京願を差出したるに、太政官は翌十五日附けを以て、
 伺之趣処刑を不受段不都合候條書面差戻候事

と指令した、これには流石の槇村も驚き、八月十七日、言渡の請書、及び、贖罪金を納付したるが、その言草に、太政官へ伺中ではあるが、御朱書とは何か、その事を弁明せなければ依然拒刑の罪は免れ難き旨、覆牒したが、これより、またまた論難となり。此間に於て八月十八日、前の府庁よりの陳情書に対し、太政官
 上申の趣送籍一件委曲之情実陳述候儀に相関候得共審判之条理は裁判所の処置至当に付速に申達可取計処其儀無之は甚だ不都合の次第に有之尤裁判に於て総区長を捕縛し官吏を留置候儀等自余了解致し難き件には審判の上の当否に関係無之候間別段申立可然事に有之候此旨可相心得事

と指令し、また前に、長谷より上京願出でたる件に付ても、
 処刑申渡を受けず出京上奏願出候段不都合に付之伺之趣難聞届候事

と指令があつた。

・・・以下略

 

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