真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO1

2018年03月30日 | 国際・政治

 もう三十年以上にわたって、日本の最高額紙幣である一万円札の肖像は福沢諭吉です。しかしながら、中国・韓国の歴史家の多くは、その福沢諭吉を「アジア蔑視、侵略肯定論を展開した侵略主義者」として批判し、なかには「民族の敵」などという人もいるといいます。

 慶應義塾の創立者で、「近代日本最大の啓蒙思想家」といわれる福沢諭吉は、『時事新報』の創刊者としても知られています。その福沢諭吉は、明治十三年十二月に参議の大隈邸で大隈重信、伊藤博文、井上馨という政府高官三人と会見した際、公報新聞の発行を依頼されたといいます。当初、福沢は辞退しようと考えたようですが、最終的には依頼を受けるかたちで、『時事新報』の創刊者となりました。創刊にあたってかかげられた『時事新報』の発行趣旨には、
唯我輩の主義とする所は一身一家の独立より之を拡(オシヒロ)めて一国の独立に及ぼさんとするの精神にして、苟(イヤシク)もこの精神に戻(モト)らざるものなれば、現在の政府なり、又世上幾多の政党なり、諸工商の会社なり、諸学者の集会なり、その相手を撰ばず一切友として之を助け、之に反すると認る者は、亦(マタ)その相手を問わず一切敵として之を擯(シリゾ)けんのみ。
と記されていたということです。
 こうした内容や、『時事新報』創刊の経緯を考えると、たしかに福沢諭吉を「近代日本最大の啓蒙思想家」であり、「市民的自由主義者」と受け止める一般的評価には問題があるのではないかと思います。時の政権が自らの政治を正当化するために、不都合な事実を隠蔽したり歪曲したりすること、また、逆に評価されそうなできごとや人物は、誇張して美化することがあることは、歴史が証明していることなので、歴史家の分析や論証を頼りに、自分自身で直接福沢諭吉の文章に当たり確認したいと思いました。

 杉田聡氏は『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)のなかで、
福沢諭吉の様々な記述を引いて、
福沢の名とともに有名な「天は人の上に人を造らず…」は、福沢の思想の表現ではないことを、強調しなければならない
と書いています。また、「学問のすすめ」の冒頭の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり」の命題が、
それ自体重要な近代原則として尊重されるべきであると福沢が考えていたのなら、そもそも「…と云えり」(=と言われている)と伝聞態で記すのではなく断定的に記すはず…”
とも書いています。確かに、その通りではないかと思います。

 そこで先ず、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋することにしました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、それらをすべてはぶき、現時点で、私自身が気になったことや感想を、私なりに、無理解・誤解を恐れずまとめておきたいと思います。

1の「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」の記事は、朝鮮人の立場にたてば、全く受け入れ難いものだと思います。書契問題を背景とした日朝双方の考え方の違いを考慮することなく、こうした朝鮮全面否定ともいえる記事を書き、”滅亡を賀す”などと突き放した表現をするのは、朝鮮蔑視のあらわれのような気がします。温かさを欠いていると思います。

2の「日清の戦争は文野の戦争なり」の記事は、清国に対しても一方的だと思います。そもそも、文明と野蛮が、なぜ戦争しなければならないのか分かりません。戦争こそが野蛮なのではないかと、私は思います。さらにいえば、日本が文明で、清国が野蛮という主張も、何かおかしいと思います。日本に攻め込んできたわけでもない清国を攻撃する日本が「文明」で、自ら「野蛮」であると決めつけた清国との戦争を「日清の戦争は文野の戦争なり」と正当化することは、「侵略の肯定」にほかならないのではないかと思います。

3の「朝鮮の改革に因循す可らず」には、”
満朝を一掃し、真実文明の主義に従て日本国の政友を求め、国務の全権を執らしむ外なし。或いは臨時の処分として日本国人の中より適者を選んで枢要の地位に置き、行政の師範とするも必要なり
などという文章がありますが、その後、こうした考え方が現実のものとなっていったことを考えると、やはり、福沢諭吉が侵略主義者であったという主張も、否定出来ないのではないかと思います。また、時事新報の日清戦争前後の記事の中には、朝鮮や清国の理解を求めたり、話し合ったり、説得したりすることを呼びかけるような姿勢を示した文章がほとんどないことも気になるところです。

4の「朝鮮の独立」の記事のなかには、
朝鮮の独立の為に支那と戦ひながら、後始末は他人に任すとは如何にも無欲の談にして信ず可らずの説あり。日本国人は無欲なるに非ず。朝鮮に対し政治的野心こそなけれど…”
などとあります。でも、その後の展開を考えると、実際は、政治的野心がなかったとはとても考えられません。読者を欺く内容のような気がします。

5の「井上伯の渡韓を送る」には”彼の政府当局者が日本人を信ぜざるのみか…”や、”満廷の官吏一人として真実日本に心を寄せるものなき為め…”とありますが、それこそが重要な問題なのだと思います。その理由をしっかりつかみ、対応することを呼びかける記事を、何故書かなかったのかと思います。また、”注意すべきは外国人の意向なり。日本は朝鮮の内政に干渉して国土を併呑する志を懐くと邪推するやも知れず”というのも、実際は”邪推”などではなく、それなりの根拠があるから、福沢諭吉は、気にしていたのではないか、と思います。

6の 「朝鮮国の革新甚だ疑う可し」には
我が日本人の尽力も徒労の次第なれば、最早勘弁す可らず、一刀両断の英断も止むを得ず。独立の裏は亡国なれば、彼らは自ら滅亡を所望するならん。開明の反対は野蛮にして…”
などとあります。随分強引な話だと思います。”開明の反対は野蛮”などと決めつけて、朝鮮の人たちが、自ら国の進む方向を決めることさえ許さないということこそが、野蛮なのではないかと、私は思います。
1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

             「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」(明治十八年八月十三日、時事)

 人間に大切なるは「栄誉」「生命」「私有」の三つなり。今朝鮮の有様を見るに王室無法、貴族跋扈(バッコ)、税法紊乱(ビンラン)して私有の権なし。政府の法律不完全にして無辜(ムコ)の民を殺し、貴族士族の輩が私欲私怨で人を拘置し殺傷すれども訴へる由なし。栄誉に至りては上下人種を異にし、下民は上流の奴隷に過ぎず。独立国たるの栄誉を尋れば、政府は世界の事情を解せず、いかなる国辱を被るも優苦の色なく、長臣らは権力栄華を争ふのみ。支那に属邦視されるも汚辱を感ぜず、英国に土地を奪はれるも憂患を知らず、露国に国を売りても身に利あれば憚(ハバカ)らざる如し。人民夢中の際に国は売られたるものなり。朝鮮国民として生々する甲斐なきことなれば、露英に国土の押領を任せて露英の人民たることこそ幸福大なる可し。亡国の民たるは楽しまずと雖も、強大文明国の保護を被り、せめて生命と私有とのみを安全にするは不幸中の幸ならん。手近に一証あり。英人巨文島を占領支配し、英国の法を施行す。工事あれば島民を使役して賃金を払い、犯罪人あれば処罰す。既に青陽県館内巨文島の人民七百名は仕合せ者なりと他に羨まるゝ程なりと。

2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
           「日清の戦争は文野の戦争なり」(明治二十七年七月二十九日 時事)

 朝鮮海豊島の付近の海戦で我が軍大勝利を得たるは、昨日の号外に報道したり。今回の葛藤に日本政府はひたすら注意に注意を加へ平和の集結を望みたるに、支那人は力の強弱を量らず無法にも非理を推し通さんとして、我が軍に勝利の名誉を得せしめたり。開戦第一の名誉を祝賀すべしと雖(イエドモ)も、我が軍人の勇武に加ふるに文明精鋭の武器を以て腐敗国の腐敗軍に対す、勝敗は明々白々、驚くに足らず。戦争の事実は日清両国の間に起こりたれど、根源を尋ぬれば文明開化の進歩を謀るものと進歩を妨げんとするものとの戦いにして、両国間の争いに非ず。本来日本人は支那人に私怨なく敵意なし。世界の一国民として普通の交際を望みたれど、彼等は「頑迷不霊」にして文明開化を悦ばず。反対に妨げんと反抗の意を表したるが故に、止むを得ず事のここに及びたるのみ。日本人の眼中に支那人も支那国もなし。ただ世界文明の進歩を目的とし、妨ぐるものを打ち倒したるまでのことなれば、人と人、国と国の事に非ずして、一種の宗教争ひと見るも可なり。文明世界の人々、一も二もなく我が目的に同意せんを疑はず。海上の戦争に一隻の軍艦を捕獲し千五百の清兵倒したりと云ふ。思ふに陸上の牙山にても開戦し、彼の屯在兵を鏖(ミナゴロシ)にしたらん。数千の清兵は無辜の人民にして憐れなれど、世界文明の進歩には多少の殺風景を免れず。支那人が今度の失敗に懲り非を悛め、四百余州の「腐雲敗霧」を一掃するに至らば、文明の誘導者たる日本人に向ひ、三拝九拝して恩を謝す可し。
3--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            「朝鮮の改革に因循す可らず」(明治二十七年九月七日、時事)

 朝鮮政府は目下大院君を摂政に、新に大小の官吏を登用して改革の最中なれど、我輩の伝聞を以て内情を推察すれば多少の疑ひなきを得ず。閔族を逐ひて地位に就きたる新任の官僚は、中国の束縛を脱し自国の独立に身命を擲(ナゲウ)つの決心あるや否や。朝鮮の中国所属は国民の心に銘したる習慣にして官吏も免れず。日本の所望する国事は文明流にして、彼の国人には耳新しく、草根木皮の服薬に慣れ学医の治療を嫌ふが如し。学医の言は道理至極にして拒むべきに非ざれど、数百年の旧習脱し難く、実行は手間取るならん。今の当局者は平生の主義で合同せるに非ず、十人十色にして一定の方針なく、政界の様子を見ながら万一の名利を欲する者共なればなり。閔族に時代に頭角を露はした為めに擯斥せられたる者、首鼠両端を持して禍を免れたる者、閔族に使嗾せられて身を利した者などありて、相互に信ずる能わざるのみか、上に大院君を戴きながら君の不利を謀りたる者さへあり。名義は一新改革の政府なれども、内実は異分子の寄合なり。我輩が邪推すれば王妃を始め閔族の余臭を帯びたる者朝野に少なからざる故に、日本流の改革を悦ばず、日本の勢力盛んなるに似たれど、明治十七年の例の如くなるときは、再び朝鮮は中国の光明に摂取せられ、閔族万歳の盛世に復る可べしと期するのみか、支那政府に気脈を通ずる者あるべし。実に頼甲斐なき相手なれば、いささかも仮す所なく満朝を一掃し、真実文明の主義に従て日本国の政友を求め、国務の全権を執らしむ外なし。或いは臨時の処分として日本国人の中より適者を選んで枢要の地位に置き、行政の師範とするも必要なり。隣国の国事改革を世界に声言しながら実を見ずては、我が対外の栄誉を如何せん。我輩のひそかに赤面する所なり。
4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              「朝鮮の独立」(明治二十七年九月二十九日 時事)

 朝鮮の独立の為に支那と戦ひながら、後始末は他人に任すとは如何にも無欲の談にして信ず可らずの説あり。日本国人は無欲なるに非ず。朝鮮に対し政治的野心こそなけれど、積年の目的は貿易商売の一方に存す。国土を併呑して保護国と為すは、好機会ありても乗ずることなく、未開を開きて一区の新開国を得て貿易の市場に供するに至れば、対岸の隣国日本の利益この上もなく、我が能事終わると云ふ可し。
5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             「井上伯の渡韓を送る」(明治二十七年十月十六日、時事)

 今回の改革の困難なる原因は、彼の政府当局者が日本人を信ぜざるのみか、一種の感情を以て寧(ムシ)ろ我を嫌い、表面には柔順に内実は他に志を存し、満廷の官吏一人として真実日本に心を寄せるものなき為めに外ならず。明治十七年の政変に挺身したる志士は死し、残りたる朴泳孝は未だ国王謁見も適はず。彼の政変に際し外交の当局たりし伯は、今回の朝鮮行き、自から今昔の感なきを得ざる可し。然りと雖も今更悔ゆるも致方なし。伯の経綸(ケイリン)に望むは目下の処置なり。彼の当局の「老物」は到底文明の事を謀る人物に非ざれど、弊政の根源は宮中にあれば、宮中掃除の任に当たらしむ可し。彼の開化党と称する新進の官僚は、他国に遊び多国人と面識ある故を以て進みたるに過ぎず。見識あるに非ざれば朋友として頼む可きに非ざれど、事を謀るに彼らより求む外なければ、人物の大小真偽を鑑察して鞭撻(ベンタツ)すべし。注意すべきは外国人の意向なり。日本は朝鮮の内政に干渉して国土を併呑する志を懐くと邪推するやも知れず。伯は大胆敢断な性質にして外交に老練なれば、必ず抜け目なきなるべし。
6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
           「朝鮮国の革新甚だ疑う可し」(明治二十七年十一月三日 時事)

 我輩は種々雑多な細事情を問はず。真正面より韓当局の怠慢を責めんと欲す。日本の軍人は万里の異域に骨を晒し、内の同胞は辛苦を共にして私財を擲(ナゲウ)ち、戦勝を願ふ本源は、朝鮮独立、文明開化の為めならずや。然るに朝鮮政府はなほ独立の決心なく、開明の入門に躊躇すと云ふ。我が日本人の尽力も徒労の次第なれば、最早勘弁す可らず、一刀両断の英断も止むを得ず。独立の裏は亡国なれば、彼らは自ら滅亡を所望するならん。開明の反対は野蛮にして、彼らは蛮習を守る意ならん。なれど、韓庭の力を以て文明開化の世界の大勢を留む可らず。聞く所によれば彼の政界は種々の小党派を生じて私争に忙しく、国事を憂ふるに遑(イトマ)あらず。希に誠実にして時勢に通じたる人物あれど、政府全体の「嫉風妬雨」に遮られて、ただ官職にあるのみ。彼の政治社会の不活発な割合に人々相互の嫉妬心深く陰険なる一例あり。明治十七年の変乱に失敗したる金朴らの主義は、今回日本政府が勧誘したる趣旨と同じなれば、何をさて置き朴泳孝、徐光範、徐載弻を迎へ、待遇を厚くし、全権を委任して国事の改革に着手するが至当なれ。彼らは多年異国に流寓して、酸甘を嘗め、政治上の知見も博く「経綸の伎倆」あり。その上好都合に日本国中に金朴徐の名を知らざる者なく、朝鮮人にして日本人同様の境遇にある者なれば、彼らが政府の主座を占めるは、両国の交際に無限の便利なり。韓人愚かなれどこれしきの理屈を解せざる筈なけれど、今に至る迄敵視し、朴泳孝は仁川に留まり、徐光範は米国より日本に帰来せるを知らざるが如し。小人輩嫉妬に妨げられたると推察する外なし。鳥の将さに死せんと、鳴くや哀しと云ふ。国の亡びんとする、愚や人を驚かすもの多し。金朴徐の流に対する朝鮮政府の挙動を見ても、亡国の前兆として疑はざる者なり。

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO5

2018年03月13日 | 国際・政治

 司馬遼太郎の「幕末」(文春文庫)の「浪華城焼打」、「最後の攘夷志士」および「あとがき」を読んで、教えられたことや考えさせられたこと、疑問に思ったことなどを抜き書き的に抜粋しました。

浪華城焼打」には、再び田中顕助が出てきます。田中顕助は、土佐藩士武市半平太の尊王攘夷運動に傾倒してその道場に通い、土佐勤王党に参加した人物です。鳥毛屋という旅館の帳場にいるお光という女性に、「犬に爪を立てられた」といって、袴を縫ってくれるように頼みましたが、”脱がせてみると、点々と血痕が飛び散っており、人を斬ったことはまぎれもなかった”とあります。

 その田中顕助が、大阪城が長州征伐の根拠地になり、時の将軍徳川家茂の大阪城入城を知ったとき、将軍暗殺を画策しているのです。田中顕助は運よく生き延びますが、行動を共にした大利鼎吉はその後斬られて亡くなり、井原応輔と島浪間は刺し違え、千屋金策は切腹して亡くなっています。人を斬るために集まり、うまくいかなければ、自ら命を絶つという、今では想像できない恐ろしい世の中であったことがわかります。

 「最後の攘夷志士」にも田中顕助が出てきます。
 田中顕助は、”倒幕の蜜謀主”、薩摩藩の大久保一蔵(大久保利通)に呼ばれ、”侍従の鷲尾隆聚卿(ワシノオタカツムキョウ)を奉じて、紀州高野山で義軍をあげる”ように依頼されます。そこで、旧陸援隊士のほか、同志の浪士をあつめ、さらに、四方に募兵をし、大和十津川郷に別勅をくだし、部隊を組織します。そして、天誅組の生き残り三枝蓊(サエグサシゲル)を作戦家として迎えます。ところがその後、田中顕助は、攘夷を捨ててひそかに英国と手をにぎる薩長になびいていきますが、三枝は、あくまでも天誅組当時の攘夷の考え方で、英国公使ハ-リー・パークスの謁見の日、山城浪人朱雀操(スザクミサオ)とともに、一行を襲います。そして、全身十数カ所の傷を負いながら、馬を斃し人を斬り続けますが、刀が折れ、最終的には捕縛され、かつての攘夷の同志に斬首されて、その首を梟(サラ)されているのです。
 司馬遼太郎はさいごに、
三枝蓊のみは、極刑になった。節を守り、節に殉ずるところ、はるかに右の両男爵よりも醇乎(ジュンコ)としていたが。
 と書き、また、三枝の生家を訪れ、
冬の朝、この寺から東を望むと、藍色の伊賀境いの連山が美しい。
 と書いています。何かしら肯定的な感じがします。

 ところが、司馬遼太郎は、あとがきに、
殺者の定義とは、「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害する者」をいう。人間のかざかみにもおけぬ。”
と書いています。なんとなく、矛盾しているような気がします。

 暗殺が”人間のかざかみにもおけぬ”行為であることには、誰も異存はないと思います。
問題は、三枝をはじめ多くの志士が、命をささげ、”人間のかざかみにもおけぬ”暗殺を実行することになった「攘夷」の思想ではないかと思います。
 私は、司馬遼太郎が、暗殺の実行を日常化することになった「攘夷」の思想について触れなかったことを残念に思います。 

 藤田東湖を中心とする水戸学派の「攘夷」思想は、狡賢く英国と手び、「攘夷」を捨てた薩長藩士中心の明治政府の成立によって消えたのではなく、かたちを変えて、皇国日本の骨組みを構成することになったのではないでしょうか。だから、幕末の「攘夷」の思想は、暗殺の実行を日常化したという意味でも、また、維新後の日本を、どのようにとらえるのかという意味でも、大事ではないかと思っています。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
浪華城焼打

        一 
 浪華の道頓堀、といえば芝居小屋だが、ここに、
 鳥毛屋
 というふるびた旅館がある。
 その土間に、元治元年九月の十三日の夕暮れ、
「上方見物のために、しばらく逗留したい」
 といって入ってきた八人の浪人がある。
 帳場にいるお光が、どうぞ、と上へあげた。そのうちの一人の若者が、ひどく稚児(チゴ)めいて可愛かったからである。
 しかしあげてみてから、よく観察すると、みな眼つきが尋常でない。
 そのうえ、宿帳には、みな「越後浪人」と書いたが、あきらかに偽称であった。なまりで知れる。どの男も、ひどい土佐言葉なのである。
「土佐者、とは厄介な」
 番頭は小声でお光にぼやいたが、町役人には届け出ずにおいた。このために、あとで奉行所からひどく叱られている。
 なにしろ京で、長州藩の諸隊、および土佐の浪士隊が、御所蛤御門(ハマグリゴモン)のあたりで戦ささわぎをおこしてほどもないころだ。大阪でも残党詮議がやかましい。新選組などはわざわざ出張してきて長州人とみれば斬った。
 土佐浪人も、同臭(ドウシュウ)とみられている。
 土佐藩というのは、藩そのものは佐幕主義だが、下級武士が過激化していてつぎつぎと脱藩し、それらのほとんどが長州へ走り、このところ、天誅組騒乱、池田屋事件、それにつづく蛤御門ノ変でも、土佐浪人の参加が圧倒的に多い。
「お光つぁん、気ィつけや」 
 と、番頭はいった。
 ・・・
「田中顕助様というお名も宿帳どおりでっか?」
「いやに詮議する」
「でも、みなさんトントといわはります」
 ・・・
       二
八人の浪人の名は、大利鼎吉(オオリテイキチ)、島浪間(ナミマ)、千屋金策(チヤキンサク)、井原応輔(オウスケ)、橋本鉄猪(テツイ)、池大六(ダイロク)、那須盛馬(ナスモリマ)、それにこの田中顕助である。
 田中顕助については、この連作の「土佐の夜雨」の稿に登場したことを、記憶のいい読者はおぼえておられるだろう。
 土佐藩参政吉田東洋を、城下帯屋町で暗殺した那須信吾のオイである。那須はその後天誅組の一将となり、大和吉野川畔の彦根兵陣地に斬りこんで討死した。信吾の養父だった那須俊平もその後脱藩、長州に身を寄せ、元治元年夏の長州軍の京都襲撃(蛤御門ノ変)に参加し、鷹司邸前で戦死してしまっている。
 当時顕助は、土佐の佐川郷にいたが、肉親の非業の死をきいて矢もたてもたまらず脱藩した。このとき一緒に脱藩した仲間が、いま鳥毛屋にいる井原、橋本、池、那須の四人である。
 長州へ走った。
 が、長州の情勢は、かれらの期待をうらぎった。--話は、ここからはじまる。

 顕助らが、長州藩領三田尻港に上陸したときは、幕府の征長軍が、すでに広島までせまっているという風評がしきりで、最悪の時期であった。
 去年までは、京都で威をふるっていたこの勤王急進藩は、いまは一転して防長二州に追いこまれ、「朝敵」の汚名までうけている。
 なにしろ長州系の七人の公卿は京都を追われ、天皇に嘆願するために攻めのぼった入洛軍(ジュラクグン)は蛤御門で戦って敗走し、その間、四カ国艦隊と下関海峡で劇戦して惨敗、--さらに幕府は天下の諸侯を動員して、長州征伐を準備しつつあった。
 その間、藩内に保守、佐幕派が首をもたげ、藩論は恭順、降伏に傾こうとしていた。
 これに対して急進派の高杉晋作などは、躍起に藩の要路を説きまわっている。「戦うのだ」と主張した。
 防長二州を焦土にしても戦い、かなわぬときには君公父子を奉じて朝鮮に渡り、その一角を斬りとって勤王討幕の旗をあげるのだ」
 が、藩ではいまや、そういう書生論に耳を傾ける者がいない。
 藩情はあんたんとしている。
 そういう時期であった、顕助らが長州をたよってきたのは。
 ・・・
「先生、こうして遊んでいても、気がひけます。なにか私にできることはないでしょうか」
「君に?」
 高杉はあらためて顕助をみた。子供々々した顔である。可愛くなったのか、肩の肉をつかみながらぐんぐんゆすって
「どうだ、将軍の首でもとってきてもらおうか」
 と笑った。
 高杉一流の冗談だが、顕助にはそれが通じない。それを大真面目にうけとった。
「とります」
「はっははは、元気がいい」
 高杉はその場で忘れてしまったろう。
 ・・・
諸君は恵まれている。世がいかになりゆくにせよ、諸君ら土佐義士の名は、史家によって千載の(センザイ)ののちにまで伝わるだろう」
 高杉はべつに扇動したわけではない。ただ、ふしぎな男で、言葉のひとつ一つが、相手の胸に灼くような魅力をもっていた。生得なものか、あるいは同じ傾向のあった師匠の吉田松陰からゆずり受けたものなのか、それはわからない。とにかく、稀有な革命児であったといえるだろう。
 これには顕助以外の者も感動した。
「私も、遅れはとらぬ」
 と高杉はいった。 

      三
 ・・・
「もはやのがれられぬ」
 街道に松並木がある。そのうちの老松をえらび、まず山中嘉太郎がすわって、腹をくつろげた。
「千屋君、介錯をたのむ。われわれは事志とちがい、かような名もなき片田舎で強盗の汚名を着て死ぬ、せめて首は笑顔でありたいとおもう。笑っているうちに、首をおとしてくれ」
 首が落ちた。笑っていた。

 つぎに、井原応輔、島浪間が、
「われら、家郷を脱走して王事のために奔走してきたが、野盗の汚名を着て死ぬ。魂魄(コンパク)となっても永(トコシ)えに恨みは尽きぬであろう」
 と、刺し違えて死んだ。
 ・・・
 明治三十一年、墓は改葬されていま土居小学校の校庭のそばにある。
 ・・・
 土佐藩は支配層が佐幕だったから、勤王運動をしている土佐人にたいして冷酷で、京都でも新撰組に斬られる者は多くは土佐人であった。斬られても藩が何の故障もいいたてないから、幕府方では遠慮なしにやった。幕末、「もっとも多くの血を流した集団の一つは土佐人であったが、藩としての行動でなかったため、維新政府は薩長に独占された。維新後よくいわれる比喩に「土佐の志士は、長州のミカン畑のコヤシになった。薩摩の藷畑のコヤシになった」というのがある。かれらの流血はほとんど酬(ムク)われず、維新後、自由民権運動に奔(ハシ)って、反薩長政府の行動をとったのは当然であった。
 もっとも維新政府で 酬われた者も相当数は居た。が、かれらの多くは、維新後でさえ母藩を恨み、「土佐藩はあのあぶない時期に一度も庇護してくれなかった。むしろかばってくれたのは長州藩で、われわれの故郷は長州であるといいたい」といった。もっとも長州藩も、結果的には土佐浪士を危所に使ってずいぶん得をしている。
 ・・・
       
 ・・・
そのとき、家鳴(ヤナ)りがするのと、雨戸を打ち破る音がしたのと同時であった。
(来たっ)
 と大利がたちあがったときは、階下いたこの家の当主元武者小路家の公家侍本多大内蔵は、裏口から逃げていた。
 置きざりにされた本多の老母、妻はその場でからめ捕られた。路上にほうり出され、奉行所の牢にいれられたが、その後どうなったかわからない。
「二階だ。--」
 と、万太郎狐は馬乗り提灯を腰につけ、階段をふた足ずつ駈けあがった。
 その昇りきった階段の口で、大利は足をあげて万太郎狐を蹴おとした。が、そのときは大利鼎吉も、肩に一太刀受けてしまっている。 
 その隙に二階から、屋根づたいに遁(ニ)げようとしたが、討入り側にそれだけの用意があり、裏から梯子ふたつを掛けて、万太郎狐の師範代通称正木直太朗、それと炭屋町の某が、とびこんできた。
 大利は、畳の上に左ひざをついて折り敷くなり、正木直太朗の右腕を斬って落とした。
 そのすきに、炭屋町の某が、例の仕込刀をめったやたらとふりまわしたため、その一太刀が右肩にあたって、大利はころげた。
 起きあがるなり太刀をふるって炭屋町の腰を撃ちのめしたが鎖帷子(キコミ)で刃が立たず、そのうち階下から万太郎狐がふたたび駈けあがってきた。
「--」
 とふりかぶるより早く、
「奸賊っ」
 と、大利は足をはらたった。これが、こより細工の人形をつくってやったおさんの父親とは、大利はむろん知らなかった。

 万太郎、さすがに剣術師匠だけあった大利の太刀をとびあがってかわし、かわしつつ上段から真向に打ちおろした。 
 が、剣尖(ケンサキ)が、天井を切ってとまった。そのすきに大利はさらにすねをねらった。
 大利は、蛤御門での実践の経験者で、鎖帷子を着込んだ相手には、すねをねらう以外に手がないことを知っていた。
 ざくっと万太郎狐の右のすねを斬ったが、万太郎も気が立っていたためこれほどの衝撃に気がつかず、大利の頭へ撃ちこんだ。
 昏倒した。 
 すかさず万太郎狐、走りよって背から垂直に刃を突きとおしてとどめをさし、
「討ち取ったり」
 とわめき、さらに二階の手すりに身をのりだして路上の諸藩の藩兵に
「谷万太郎、首魁を討ちとめました」
 と数度叫んだ。
 すぐ屋内のほうぼうに提灯を掛け、死体を改めたところ、手帳が出てきた。雑詠幾首か書きとめてあるなかで、まだ墨の湿りのある詠草があった。
「もとよりの軽き身なれど大君に、心ばかりはけふ報ゆなり」
 暗号している。大利鼎吉はむろんこの事件を予想していたわけではなかったろうが、何らかの予感があって、感興の湧くままに書きとめたのであろう。
 偶然辞世の歌になった。

 顕助は、鳥毛屋で事件を知り、その夜、那須盛馬と落ちあって、大和十津川の山中にのがれ、折立村(オリタテムラ)の文武館に潜伏し、その後町人の姿に化け、十津川、熊野の山中を転々とし、七月になってようやく土佐浪士の指導者中岡慎太郎をたよって、京へ潜入した。

 維新後、陸軍少将、ついで武職をやめ、参事院議官、元老院議官、警視総監、貴族院議員、宮中顧問官、学習院長、宮内大臣を歴任し、明治四十年、伯爵を授けられた。
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最後の攘夷志士

       一
 すでにご存じの田中顕助。
 土佐の浪士である。
 読者は、おもいだしていただけるであろう。この稿の「土佐の夜雨」のときは、まだニ十歳の田舎書生で土佐の草深い佐川郷に棲(スン)んでいた。叔父の那須信吉が藩の参政吉田東洋を暗殺したとき、走り使いをさせられている。
 のち、脱藩。
「浪華城焼打」では、長州藩へ奔(ハシ)った。当時はまだ幼な顔がのこっていた。ちょうど長州藩は、幕府の長州征伐の火事場さわぎの真最中で、顕助は後方攪乱(カクラン)をうけもち、幕軍の根拠地である大阪に潜入し、数人の同志で大阪城に焼打をかけようとして、失敗した。
 その後、幕吏に追われ、大和十津川の山中にかくれた。
 ようやく京に潜入したときは、時勢が急転し、薩長による倒幕計画が実行段階に移ろうとしていた。おりから洛北白川村で浪士団陸援隊をひきいている土佐浪士中岡慎太郎を知り、顕助はさっそく入隊し、入隊早々、中岡が同藩のよしみで副長格に抜擢してくれた。
 ほどなく、中岡が幕吏に暗殺されたため、顕助が隊長代理となった。このころの顕助については「花屋町の襲撃」の稿に登場している。
 顕助、運がよすぎる。 
 陸援隊長代理になったとたんに、王政復古、討幕、と舞台がまわった。
 このため一昨々年前に土佐をとびだしたばかりのニ十五歳の青年が、周囲の目まぐるしい変化で、にわかに土佐討幕派の巨魁のひとりにのしあがった。乱世である。
 いや、顕助自身も茫然としたのは、討幕の蜜謀主である薩摩藩の大久保一蔵にひそかに呼ばれ、
「すぐ、侍従の鷲尾隆聚卿(ワシノオタカツムキョウ)」を奉じて京を脱出し。紀州高野山にのぼって義軍をあげてもらいたい」
 といわれた。
 ・・・
       二
坊主、三枝蓊(サエグサシゲル)。
 顕助が、この三枝蓊にあったのは、慶応三年十二月十三日である。
 ・・・
「難物だな」
 と、顕助は、あとで香川にこぼした。香川も、連れてきたものの、ややへきえきしたらしい。
「あれは国学者だから」
と、香川はいった。おなじ尊攘主義者でも国学者系の志士は、別の臭味(クサミ)がある。毛色がべつだといっていい。荷田春満(カダノアズマロ)、賀茂真淵(カモノマブチ)、本居宣長(モトオリノリナガ)、平田篤胤(ヒラタアツタネ)、大国隆正(オオクニタカマサ)といった系列から出ており、宗教的な自国尊重主義者である。かれらは、洋学、洋人、洋臭をきらうばかりか、漢学、仏教をも外国思想として極度にきらっている。顕助と同時代の志士では、九州系浪士団をひきいて元治元年蛤御門の募兵と戦い、天王山で自刃した久留米水天宮の宮司真木和泉や、但馬の生野銀山で義兵をあげ、京の六角堂で獄死した筑前浪士平野国臣(クニオミ)などはそうであった。平野は通称二郎といったが、かれの復古思想から国臣と改名し、太刀の帯びかたも異風でであった。「戦国以来、武士は刀を差すが、あれはまちごうちょるたい」と、中世の武士のように腰に佩(ハ)いていた。幕末、ひと口に攘夷志士というが、この国学系統の志士はひどく宗教的で、行動も勁烈であった。明治後なおこの系列は生き残って、熊本で神風連(ジンプウレン)ノ乱をおこしたのは、この精神の残党であろう。
「なるほど」
 顕助は、香川と顔を見合わせた。顕助も攘夷党である。しかし本当は血気にはやって風雲の中にとび出し、討幕、攘夷、尊王、、と叫んでいるだけで、かれの攘夷には思想というほどのものはない。いや、顕助だけでなく薩長の連中の多くはそうであった。その証拠に、すでに薩長は藩兵を洋式化し、英国とひそかに好誼(コウギ)を通じ、ただ開港政策の幕府をこまらせるために、攘夷、攘夷とさけび、
「朝廷は攘夷の御方針である。しかるに征夷大将軍(将軍の正称)」は、征夷の官職にかかわらず、外夷の威圧に屈している。倒すべし」
 と恫喝し、すでに薩長とも、初期の純正攘夷主義をひそかにすてて、それを偽装しつつ、攘夷を討幕の道具にしようとしている。
 ・・・
 …三枝を中心に朋党ができはじめたことがある。その朋党の中心は三枝蓊のほかに、山城浪人朱雀操(スザクミサオ)(桂村出身。もと京の諸大夫某の家来)、それに武州の剣客川上邦之助(クニノスメ)(のち宮内省主殿寮主事)で、いずれも隊の幹部ではない。
 が、剣客川上邦之介も、その神道無念流の卓抜した長枝をもって、隊士から
「先生」と尊敬されていた。朱雀操も歌道に長じ、やはり先生とよばれている。この三枝、朱雀、川上の三人は、その熱狂的な攘夷思想でたちまち結ばれて、鷲尾卿のサロンの常連になった。
 ・・・
夕刻、顕助は三枝先生にたのみ、新募の十津川兵の伍長以上をあつめて、討幕の本義を説いてもらった。戦う目的が兵のすみずみまで惨(シ)みとおれば、士気はさらに高まるからである。
「薩長のためにあらず」
 といった。
「先帝(孝明帝)ご生涯のご悲願は、ただひたすらに攘夷におわした。幕府を倒そうとまではなされておらなんだが、天子から武権を委任されている幕府が、征夷攘夷の役目をはたさず、果たさざるばかりか、外夷に屈従し、港をひらき、神州の土を夷奴の足に踏ませた。幕府は、先帝の勅命にそむき奉った。皇天皇霊のおん怒りはいかばかりであろう」
 幕府は攘夷の勅命にそむいた。だから討伐する、という論旨である。奇説ではない。
 この攘夷論は嘉永六年のペリー来航いらい、天下の攘夷志士が奉じてきた思想で、その思想が革命エネルギーとなって時勢がここまで煮え詰まってきたのだ。
 かつての天誅組の殉難志士などは、ただひたすらに攘夷のさきがけたらんとして事をおこした。
(しかしこまるなあ)
 とおもったのは、顕助である。天誅組の事件はわずか数年前だが、その後、時流は眼にみえぬ川底でかわっているのだ。攘夷の雄藩といわれた薩摩藩は、英国艦隊に鹿児島を砲撃され、薩摩方の沿岸砲台からうちだす砲弾はすべて海中に落ち、英国艦隊は射程外を悠々遊弋(ユウヨク)しつつ長距離砲撃を行い、ほとんど一方的な砲戦におわった。その後ひそかに英国と手をにぎり、軍制を洋式化した。
 四カ国艦隊の砲撃をうけた長州藩も、同じ事情で英国と手をにぎり、その軍制も戦術も武器も一変させた。
 両藩とも攘夷はすてた。しかし秘密に、である。捨てた、となれば、全国の攘夷志士の支持をうしなう。第一「攘夷」はもはや、倒幕の道具にすぎなくなっている。
(三枝さんは、天誅組のころから一歩もすすんでいない)
 顕助はもともと思想というほどのものはない。ただ土佐を脱藩してから長州に身をよせ、第二幕長戦争のときなどは、長州の軍艦にのって艦底の罐焚(カマタキ)までしてきたのだ。時流の変化は、身をもって知っている。
(しかし、攘夷論が変質した、とは、口が裂けてもいえぬ)
 聖論、というべきものだからだ。この聖論のために、幾百の先輩志士たちが血を流してきている。
「どうです、参謀」
 と、三枝先生は顕助をふりかえった。
「結構なお説でござる」
 顕助は頭をさげた。
 その翌未明。
 三里むこうの河内長野方面に出してある斥候から急報がきた。
 どうやら河内方面から大部隊の幕軍が進撃しつつあるという。
  ・・・
 ほどなく下山し、京都に入った。
 一同、二条城に宿営させられ、総督の鷲尾侍従は隊を離れて御所にもどり、香川敬三ら諸参謀は板垣退助指揮による東山道征討軍に入り、顕助のみが残留して浪士隊の隊長、というより内実は、
「取締方」
 として薩摩の大久保一蔵から命じられた。
「かれらは過激な攘夷論者が多い。なにをしでかすかわからぬゆえ、ひとまとめにして屯宿させておくにかぎる」
 というのが理由であった。…
 ・・・
 京畿の地は「官軍」に帰したが、要するに幕軍を追ったその翌日、御所に、
「外国事務総裁」
 という奇怪な官職ができた。攘夷のための勤王倒幕であったのに、「外国事務」とは何事だろう。
 総裁には、宮様が任命された。ちかごろまで僧侶であられた嘉彰(ヨシアキラ)親王である。
 その数日後の正月十五日、
 外国交際の儀は、宇内(ウダイ)の公法なるをもって、これを取りあつかい候間、この段、心得申すべき事。(意訳)
 との朝廷布告所が渙発(カンパツ)された。
 これには公卿さえおどろいた。公卿たちは「いよいよ新政府によって外夷撃攘がおこなわれる」と信じていたのである。
 この奇術といっていい芝居は、薩長指導者の密計だが、筋書は、公卿のうち薩藩系の岩倉具視がかいた。
「奸雄(カンユウ)」
 といって職を投げた男もいる。岩倉の秘書で、岩倉が、「わが諸葛孔明(ショカツコウメイ)」と尊敬していた儒者玉松操(タママツミサオ)老人である。
 玉松操は、下級公卿の子で、もっとも国学に長じ、名文家として知られた。幕末の名分のひとつといわれる「王政復古詔勅」は、岩倉に頼まれてかれが書いたものだし、官軍の錦旗の図案を考えたのもかれである。玉松はただひたすらに攘夷を祈念してきたのだが、それが
「朝廷は外夷と交わる」
 という。
 玉松は岩倉を面罵して、中立売(ナカダチウリ)新町角の隠宅にこもってしまった。
 ・・・

       三
 ・・・
「やろう。どの洋夷をやる」
 と、朱雀がいった。三枝はうなずき、
「大国がいい。英国とする。公使といえば大将であろう。その首を一刀両断し、安政以来攘夷殉難の志士を弔(トムラ)おう」
 三枝は、最後の攘夷志士の心境にまでなっていた。… 
 ・・・
剣客川上邦之助は、三枝と朱雀に説きつけられて、襲撃失敗後の予備(ゴヅメ)にまわった。この第二襲撃隊にはさらに同志が志願した。

       四
 すでに英国軍艦は大阪に投錨している。
二月二十八日、英国公使サー・ハーリー・パークスは入洛、宿舎の知恩院に入った。この男は商人あがりで、機智もあり度胸もあったが、ひどい癇癪もちで、怒りだすと手のつけられぬところがある。
 知恩院の諸門の固めは、紀州徳川藩をはじめ五藩の兵が任ぜられ、おそらくむかしの将軍警固以上の厳重さであった。維新の元勲たちは、かつての自分の同志が襲撃にくることを怖れている。接待役は、この連作「死んでも死なぬ」に登場していた長州藩士伊藤俊輔であった。往年、品川の御殿山の外国公館に焼きうちをかけたり、開国論者の学者を暗殺したりしたこの男も、いまは新政府の接待方としてまめまめしく働いている。 
 謁見の日、午後一時。
 英国公使は、肥馬にまたり、浄土宗本山を出た。服装はどうしたわけか、公式の礼装ではなく、フロックコートである。
 警備の人数が、おびただしい。
 警視ヒーコックの指揮するロンドン第一警部隊十一騎、さらにブラッソー陸軍大佐指揮の英国騎兵第九連隊の将兵四十八騎、これは絢爛(ケンラン)たる儀仗服である。ほかに英国歩兵。
 先頭に立つ道案内は、宇都宮靱負(ウツノミヤユキエ)、土肥真一郎といった外国方。
 身分ある者としては、薩摩人中井弘蔵(弘ともいう。幕末、英国に留学し、明治後貴族院議員)が裃(カミシモ)をつけ、騎乗で、警視ヒーコックと馬首をならべている。
 さらに、日本側の先導役代表として、土佐藩参政後藤象二郎(のち伯爵)が、公使のすぐ前を馬で打たせている。
 そのあとに騎乗、乗駕、徒歩の英国公使館全員がつづき、海軍医官までが礼装で馬上にある。日本側護衛は肥後藩兵百人。
 沿道は、洛中はおろか、近郊近国からこの異風の盛儀を見るために押しかけた見物人でびっしりと人垣をつくっている。整理には肥後藩兵があたっていた。
「この大軍を斬りこめるか」
 と、朱雀にささやいたのは、三枝である。林下町の軒下で見物にまぎれこんでいる。
「なあに、洋夷が何人いようと」
 と、朱雀は微笑した。三枝もうなずき、かねての作戦どうり、別れ別れになった。
 やがて四条繩手通の弁財天町の角で落ちあった。ふたりは道の両側の軒下にそれぞれ待機した。ここも見物客が多い。肥後藩の足軽が、六尺棒をもって懸命に整理している。
 ふと、そのうちの抱丁字紋(ダキチョウジモン)の肥後藩士が、三枝の眼の異様さに気づいた。
 声をかけよう、としたが、すぐ眼をそらし他の部署へ歩き出した。この藩士も、あるいは攘夷論者であったのだろう。しかしきょうの整理は、藩命による仕事である。
 英人七十人、パークス一行は、林下町から橋本町に出、さらに新橋通に出、その先駆の騎兵隊がまさに弁財天町の町角をまがろうとしたとき、三枝、朱雀が同時にとび出した。
 かれらに錯誤がある。
 真赤な騎兵服こそ、高貴の者とみた。侍大将か、あるいは公使か。
 と信じつつ、三枝の一刀が、まず先頭の騎兵の一人を斬り落とした。
 つづいて朱雀が、士官らしい男を斬りおとして、中軍へ中軍へと進んだ。
 わっと混乱がおこったが、なにぶん道路がせまく、見物、行列の人数がひしめき、騎兵たちも、その主要武器である洋槍を十分にふるうことができない。
 二人は、つぎつぎに斬り落としつつ、
「パークスは、パークスは」
 と求めた。
「暴徒、縦横に飛躍し、手当るを襲撃す。その勢(セイ)、すこぶるあたりがたし」
 と、記録にある。
 ・・・
ここに不可解な現象がおこった。警備、整理の役目であったはずの肥後藩兵が、ひとり残らず消えてしまったことである。
 されば一行のなかで日本の武士といえば、先頭の通訳二人(御所へ報告と称して逃走)、土佐藩参政後藤象二郎と、薩摩人中井弘蔵の二人しかいない
 ・・・
と後藤は人馬をかきわけつつ走り、やがて中井と激闘中の朱雀操を見つけた。
「乱心者」
 一刀のもとに斬った。朱雀、即死。
 三枝はさらにすさまじい。
 全身十数カ所に傷を負いながら、馬を斃し人を斬り、その軽捷さ「車輪の如く」だったという。馬上の騎兵が銃をふりあげた。三枝はくるりとふりかえって受けとめたが、刀がつばもとから折れた。
 すぐ脇差をぬこうとして腰をおさえたが、さきほどからの乱闘で、ぬけ落ちたのであろう。
「ない」
 騎兵の槍につかみかかろうとしたがおよばず、ついに退却を決意した。
 ・・・
その一発が、三枝の足にあたって転倒したが、さらに起きあがり、人家の軒下へかけこみ、格子をあけ、土間を走ろうとしたとき、ふたたび倒れた。
 そこを捕縛されている。
 ・・・
ただ、三枝と、死んだ朱雀に対しては極刑をもって臨んだ。
 かれらの士籍を削り、平民に落とし、朱雀の死屍から首を切りはなして、粟田口刑場に梟(サラ)した。
 同じ梟首台(キョウシュダイ)に、三枝の生首もならんだ。
 処刑の場所は粟田口であり、方法は、武士にたいする礼ではなく、斬首である。
 梟首は三日。
 ほんの数ヶ月前なら、かれらは烈士であり、その行為は天誅としてたたえられ、死後は、叙勲の栄があったであろう。
 ・・・
 三枝蓊のみは、極刑になった。節を守り、節に殉ずるところ、はるかに右の両男爵よりも醇乎(ジュンコ)としていたが。

 三枝の生家は、いまも奈良県大和郡山市椎木町(新地名)で、東本願寺派末寺浄蓮寺としてのこっている。檀家二十一戸の貧寒たる寺である。現住職は、龍田晶という初老の僧で、三枝との血縁はない。
 冬の朝、この寺から東を望むと、藍色の伊賀境いの連山が美しい。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あとがき

 暗殺だけはきらいだ。
 と云い云い、ちょうど一年、数百枚にわたって書いてしまった。
 暗殺者の定義とは、「何等かの暗示、または警告を発せず、突如襲撃し、または偽計を用いて他人を殺害する者」をいう。人間のかざかみにもおけぬ。
 とおもう感情は、私のように泰平の世に愚会して「天下のために死なねばならぬ」客観的必要のいささかもない書斎人のねごとであろう。
 歴史はときに、血を欲した。
 このましくないが、暗殺者も、その兇手に弊れた死骸も、ともにわれわれの歴史的遺産である。
 そういう眼で、幕末におこった暗殺事件をみなおしてみた。そして語った。しかしながら、小説風に。
 なぜ「小説風に」書いたかといえば、幕末の暗殺は、政治現象である。政治情勢から出てきている。主人公はあくまでも政治思想であって、歴史を書くばあいならその政治情勢と思想に紙数を九割ついやさなければならぬであろう。
 が、それは、歴史に興味のない読者にとっては、月遅れの新聞の政治面を読むよりも無味乾燥である。
 なるべくそれを端折り、人間と事件にはなしの中心をおろした。歴史書ではないから、数説ある事柄は、筆者が、このほうがより真実を語りやすいと思う説をとり、それによって書いた。だから小説である。

 暗殺は、歴史の奇形的産物だが、しかしそれを知ることで、当時の「歴史」の沸騰点がいかに高いものであったかを感ずることができる。ロシア革命党が、皇帝アレキサンダー二世を暗殺しようとし、執拗な計画をたて、計画を変えること十一回、失敗をかさねつつ、じつに十五年の長きにわたった。歴史の平静な時期の人間には、想像もできない異常さである。

 この連作には、人斬りの異名で有名な岡田以蔵、河上彦斎をとりあげなかった。幕末を象徴する典型的な暗殺者であるこの二人については、井上友一郎氏、海音寺潮五郎氏、今東光氏らの好編がある。
 ことさらにはずした。

 書きおわって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうか考えてみた。
 ない。
 ただ、桜田門外ノ変だけは、歴史を躍進させた、という点で例外である。これは世界史的に見てもまずらしい例外であろう。
 その後、幕末に盛行した佐幕人、開国主義者に対する暗殺は、すべてこれに影響された亜流である。暗殺者の質も低下した。桜田門外の暗殺者群には、昂揚した詩精神があったが、亜流が亜流をかさねてゆくにしたがい、一種職業化し、功名心の対象になった。
 暗殺は否定されるべきであるが、幕末史は、かれら暗殺者群によって暗い華やかさをそえることは否定できないようである。

  昭和38年11月 

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO4

2018年03月10日 | 国際・政治

 現代日本人の多くが抱く幕末像は、司馬遼太郎の小説によって形成された部分が大きいと言われ、坂本龍馬や吉田松陰、勝海舟などを高く評価する司馬遼太郎の一連の作品に現れている歴史観は、司馬史観などと呼ばれています。でも、その司馬遼太郎の「幕末」を読むと、明治という時代が、司馬遼太郎の描くような時代ではなかったような気がします。だから、こだわって、十二篇の短編の要所要所を順に、抜き書き的に抜粋しています。今回は「死んでも死なぬ」「彰義隊胸算用」です。

「死んでも死なぬ」には、日本の初代総理大臣伊藤博文や伊藤内閣で内務大臣をやった井上馨が、高杉晋作の指示で品川御殿山の各国公使館焼打ち事件に加わっていたことが書かれています。また、それだけではなく、宇野東桜という浪人学者を暗殺していることも書かれています。
 さらにその後、伊藤は自ら計画して、幕府の和学講談所の教授、塙次郎という国学者を襲い暗殺しています。塙次郎は『群書類従』の編纂で有名な塙保己一の子です。それを、司馬遼太郎は
これから、十日あまり後、俊輔(伊藤博文)は、焼打の仲間の山尾庸三と二人でもうひとつとほうもない暗殺をやってのけている
と書いています。まさに、「とほうもない暗殺」であり、驚くべきことだと思います。 

 そういう人たちが明治の日本の政治や文化を主導したことをきちんと踏まえなければ、日清戦争や日露戦争の真実は見えないのではないかと思うのです。最近、明治以後のいわゆる「官軍教育」の問題が、いろいろな立場で論じられているようですが、日本の紙幣に利用された政治家の肖像(伊藤博文、岩倉具視、板垣退助…)、歴史の教科書に記載された文章などを思い返すとき、確かに、「官軍教育」といわれる片寄った味方の教育がなされてきた側面も、きちんととらえられなければならないと思います。

彰義隊胸算用」には、徳川慶喜が江戸城へ移り、新政府に恭順の意を表したことに対して不満をもった幕臣が、一橋家の有志へ会合をもちかけたところから彰義隊結成にいたる様子、そして、その後維新までの動きが書かれています。
 第一回の会合は17人だったとのことですが、その後、参加者は、幕臣のみならず、市井(シセイ)の徒や攘夷浪士、さらに、町人や博徒や侠客にまで広がっていったようです。でも、結成当初から、内部に対立があったことがわかりました。
 彰義隊会頭が渋沢成一郎に決まったとき、すでに、天野八郎派の寺沢新太郎は、渋沢成一郎が「ろくでもない野郎だとわかったら、さっさと斬ってしまえばいい」などと言っています。天野派に結集した若者も、その言葉にあわせるように、「よし、斬ろう」と言い、その後、現実に繰り返し襲っているのです。同じ目的で結集した人たち同士でさえ、現状認識や考え方の違いを話し合い、確かめ合い、深め合うことがほとんどなく、すぐに「斬る」という行動になってしまっていることに驚きます。
八番隊の役目は、坂本の街道筋に出張し、その偵察員、飛脚をとらえて検査し、答弁うろんとみれば容赦なく斬った。ついには斬るのがおもしろくなり、旅姿の町人体の者とみれば容赦なく斬った
というような文章もありますが、幕末のこうした人命軽視の考え方が、その後、日清戦争や日露戦争の戦いへと発展していったのではないか、と私は考えます。

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 死んでも死なぬ

       一
 ・・・
聞多。
 姓は、養子に行って志道(シジ)。
 のち実家にもどって井上。維新後は、名を馨(カオル)と改めた。のちの大蔵大輔(オオクラダユウ)、外相、農商務相、内相、蔵相を歴任して侯爵、元老の座にのぼった男である。
 実家の井上家も、長州藩では歴(レッキ)とした上士だったが、養家の志道家も、世禄ニ百二十石の家で、しかも聞多自身、藩主敬親(タカチカ)に可愛がられ、特別のお声がかりで小姓(コショウ)に召しだされていた。もんたという奇妙な名前も、敬親が可愛さのあまりつけてくれたものだ。
 そこへゆくと、俊輔(伊藤博文)はみじめである。
 うじも、素姓もない。維新後、総理大臣になり、公爵まで授けられたこの人物は、遠祖は鎌倉期の名族河野(コウノ)・越智(オチ)氏から出た、などと称したが、要するに長州藩領の百姓の子である。それも田地持ちの百姓ではなく、熊毛郡束荷(ツカリ)村から流れて萩(ハギ)で作男をしていた人物の子である。
その点、戦国期の秀吉と出自が似ている。
 いや似ているどころか、萩の武家屋敷の小者として奉公していた少年時代、深夜、日課として習字をしたが、その習字がおわると、いつも、くるくると筆を走らせて奇妙な人形(ヒトガタ)を描き、
 --これが太閤秀吉である。
 と、つぶやいた。そのあと、床についた。それが習慣になっていた。草履取りから天下をとった太閤によほどあこがれていたのであろう。聞多も妙な男だが、俊輔(春輔・のちの博文)もかわっている。維新史は、志士たちの屍山血河(シザンケツガ)といっていいが、豊太閤を心のどこかで抱いていた「志士」は、伊藤俊輔のほか、なかろう。
 俊輔は、あくまでも太閤に似ている。運よく長州藩の名士来原(クリハラ)良蔵の若党になった。来原の死後は、来原の親戚の桂小五郎の若党になった。主筋がいい。
 その上、萩時代、隣家の吉田という藩士の子が、松下村塾に通っていた。吉田松陰がその門下中第一の人材として推していた吉田稔麿(トシマロ)(のち、池田屋ノ変で新選組に斬られる)である。この吉田稔麿の手びきで、卑賤の身分ながらも松下村塾に入れてもらった。松下村塾系の青年が藩政を牛耳るようになったとき、俊輔もその学閥で、高杉晋作や久坂玄瑞のあとにくっついて走ることができた。
 それに、幕末、長州藩は階級がみだれ、藩内は下克上(ゲコクジョウ)の気風がつよい。
「俊輔、若党ながらも志あり」
と認められたために、平時なら口もきいてもらえぬ上士階級の高杉、久坂、井上聞多と、「同志」づきあいができるようになっていた。
 ・・・
今夜は、ちょっとちがうのである。明晩、それこそ天下を驚倒させる大仕事をするために、土蔵相模で流連(イツヅ)けしているのだ。
 当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しようとしていた。
「あれを焼いてしまえ」
 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、その威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑(ハ)ねっかえりの若者は、この当時、長州藩でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。この連中が、維新までの六年間、正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中そのほとんどが死に、生き残った者が気づいたときには、維新回天の事業ができていた。
 聞多と俊輔は、こういう時代から、この仲間に入っていた。
 あくる日の夕方、高杉晋作、久坂玄瑞をはじめ、同志の連中十二、三人が、ぞくぞくと土蔵相模にあつまってきた。
「俊輔、先ィ来ちょったのか」
 若党の分際で、といった眼で、高杉は、ぎょろりと俊輔をにらんだ。
「へい、志道様(聞多)のお供で」
 俊輔は、卑屈に腰をかがめた。高杉に対してはあくまでも若党の卑屈さをわすれない。
「お前は、聞多の銀蠅(ギンバエ)じゃのう」
 からっ、と高杉は笑った。銀蠅とは、いつも聞多の金にたかっているという意味だ。聞多は聞多で、藩主の寵(チョウ)があるから、うまく藩邸の金をごまかしてきては遊興している。
(おらァ、銀蠅か)
 俊輔は、終生、このことばをわすれなかった。
「さあみんな、早う妓を抱いておけ。子ノ刻(夜一時)この楼を出発だぞ」
 と高杉はいい、あごで一同をしゃくって、お前とお前は斬り防ぎ組、お前とたれとは爆裂弾組(バクレツダングミ)、とすばやく部署した。聞多も俊輔も爆裂弾のほうである。が、俊輔は斬り防ぎのほうが働きが目立つと思い、
「高杉様、おねがいです。私を斬り防ぎにまわしてください」
 というと、高杉は、馬鹿野郎、とだけ云ってさっさと妓の部屋へ引きとってしまった。あたりまえのことで、百姓あがりの俊輔は両刀を帯しているとはいえ、剣術など習ったことはない。
 ・・・
 さて、話は御殿山焼打直後のもどる。
 あの焼打の直後、高杉晋作はまた企画をたてたらしく、聞多、俊輔らを藩邸の自室によび、
「おい、宇野東桜を斬るから、藩邸へ連れてこい」
 と命じた。命じた、というが、俊輔は若党の分際だからいいとしても、聞多の場合、高杉と同格の上士で、しかも高杉よりも四つも年上だから命じられるのはおかしいのだが、人間の位負けというのは仕様のないものらしい。
「ひきうけた」
 と聞多は勢いこみ、伊藤俊輔、それに白井小助とう者とも相談をして、どうだましすかしたのか、その宇野東桜という男を藩邸に連れてきた。
 宇野東桜は、ここ一年ほど水戸藩邸や長州藩邸にしきりと出入りし国事を論じている浪人で、当時すでにこの男が幕府の隠密であることは藩邸ではだれも知って用心していた。高杉らと親しい宇都宮藩の儒者で大橋順蔵という人物も、この男の密告で捕縛されたことが明らかになっている。
 藩邸には、有備館(ユウビカン)という文武修業道場があり、長州藩の自慢の施設になっていた。桂小五郎が、その御用掛(塾長)を兼ねている。
 高杉は、口やかましい桂小五郎には内緒で、その宇野東桜を、有備館の二階小部屋に連れ込んだ。
「いやいや久しぶりで東桜先生の御高説を拝聴しようと思いましてな。伊藤俊輔、茶菓を差しあげろ」
「へっ」
 俊輔は階下へおりた。
 東桜は、父の代に肥後細川家を浪人して江戸に出たと称しているが、高杉の調べたところ肥後藩邸では左様な心当たりがないといっている。なかなかの学者で、しかも剣は心形刀流の免許皆伝である。おそらく宇野東桜は、はじめは純粋な動機からの尊王攘夷主義者だったのであろう。
 途中、なぜ幕府隠密になったのかわからない。
 ただ考えられることは、宇野東桜が免許まで得た心形刀流は、幕臣伊庭家に十数世伝えられている刀法で、当代の伊庭軍兵衛のもとに通う門人も、幕臣の子弟が多い。自然、そういう縁につながって、隠密を頼まれる機会があったか、それとも、単に幕臣に知人が多いというだけの理由で、水戸、長州などの過激分子から疑いをうけたのかもしれない。
(高杉さん、大丈夫かな?)
 階下で茶菓の用意を、有備館の小者に命じながら思った。高杉は江戸に出たころ、すぐ斎藤弥九郎道場に入門したが、当時、斎藤道場の塾頭だった桂小五郎が手をとって教えても、剣に癖(ヘキ)がつよすぎてあまり上達しなかった。
 --なあに、おれは実戦になれば強い。
 と、近頃はあまり熱心ではない。
(いったい、宇野ほどのやつを、高杉さんはどう斬るつもりだろう)
 高杉は、野放図というか、事前に、なかまと打ちあわせもしていないのである。
 --よし。功名のたてどころだ。
 と、俊輔は思い、大怪我は覚悟の上で、宇野に自分が斬りつけてみようと決心した。師の松陰を刑戮(ケイリツ)して赤裸にしたのは幕府ではないか。とりもなおさず宇野東桜がそれをした。そう思いこめば、腹立ちまぎれに、とほうもない力が出るかもしれない。
 そっと、大小の目釘を湿した。刀は、安物のなまくらであり、そのうえ刀の構え方も知らない男だが、べつにこわいという気はおこらない。
 そこへ二階から聞多がおりてきて
「おい俊輔、高杉は奴と無駄話ばかりしている。おれがあいつを斬らずばなるまい。人を斬ったことはないが、まあいっぺん、試しにやってみるからな」
「試しに?」
 ずぶとい男だ。
「聞多、あんたは剣術がにが手ではないか」
「あっははは。剣術なんざ、作法も術もあるものか。後ろから斬ればいい」
「ああなるほど」
 俊輔は、いかに相手が心形刀流の達人でも後ろに眼があるわけではあるまいと思いつつ、茶菓をもって二階へあがって行った。
 高杉は、自分の端唄を披露したり、品川女郎の品さだめを論じたり、愚にもつかぬはなしばかりをしていたが、急に
「そうそう」
 と、思いだしたように蝋鞘の太刀をひきよせ、ゆるゆると鞘から離し、やがてぎらりと抜きはなった。
「宇野さん、ちかごろ刀(コレ)を購(モト)めましてな、水心子(スイシンシ)だというのだが、ひとつ鑑定(メキキ)ねがえませんか」
「ああ、左様か、ちょっと拝見しよう」
 尊大な男なのである。ひと目見るなり、
「馬鹿な、これは水心子の門人で、遠州鍛冶一帯子三秀(イッタイシミツヒデ)です。この大乱れをみればわかる」
 と、興もなげに鞘におさめて、高杉に返した。高杉は「なんだ、だまされたか」と苦笑しながら、そいつをがらっとむこうへ押しやった。その刀が、伊藤俊輔のひざもとへ来た。
「宇野さん」
 高杉はいった。
「お差料を拝見」
 この男のふしぎなところである。口をひらくと、相手が王侯でも有無をいわせぬ人間の格といったところがあった。
 宇野東桜は、あわてて差料をさし出した。
「拝見」
 ぎらりと抜き、めききするのかと思えば案に相違し、すばやく拳をひるがえすや、宇野の腹にぶすっと突き立てた。そのまま手を離し、
「宇野さん、隠密なんざ、人間の屑だよ」
 といった。
 すかさず俊輔は腰の脇差をぬくと、宇野に斬りつけた。
 がちっ、と宇野の右の頬骨に刃があたって挑ねかえり、勢いで俊輔は宇野の上にわっと倒れかかった。
「馬鹿、俊輔」
 と白井小助が俊輔をつきとばし、その脇差をうばって宇野の胸にトドメを刺した。
「聞多、俊輔、あとは、始末しておけ」
 と高杉はさっさと階下へおりてしまった。
 この殺人には異説があり、高杉が詭計を以て宇野を刺したまでは確かだが、二ノ太刀はたれがやったかは、当事者の談話が食いちがっている。
 明治三十年代、伊藤博文が、伝記作者の中原邦平に直接語ったところでは、「わが輩が殺したというわけでもないが、みんながぐずぐずして居るから、一つヤッテやろうと思って、短刀をかれの喉へ突きつけようとしたところが、その短刀を遠藤多一がわが輩の手を執って(このところ意味不明)すぐに突込んで仕舞うた。そうすると、白井小助めが(俊輔はあまりこの男を好きではなかったらしい)刀を抜いて、横腹をズブズブ刺して殺した」となっている。
・・・
 この日、兇行直後、有備館塾長の桂小五郎が帰ってきて、事件におどろき、みなを集め、
「どうも藩邸の中で人殺しをするような乱暴なことをしてもらってはこまる」
 と、ねちねちと一刻(ニジカン)ばかり油をしぼった。
 これから十日あまり後、俊輔は、焼打の仲間の山尾庸三と二人でもう一つとほうもない暗殺をやってのけている。
 当時、幕府は、極端な攘夷論者だった孝明帝を廃位せしめることを考え、ひそかに廃帝の先例故事を知るために、幕府の和学講談所の教授塙(ハナワ)次郎に調査させているーーといううわさが、天下の激徒のあいだに伝えられた。
 が、うそである。
 とは、ほどなくわかったが、噂が立ったころには、俊輔は、百姓じみたしぶとさで塙次郎をねらいはじめた。こんどは高杉の企画でもなんでもなく、豊太閤をあこがれている長州藩の若党伊藤俊輔の、ひとりで立案した人斬りである。
 塙次郎といえば、盲人で不世出の学者といわれた塙保己一の子であった。国学者だが、史実に明るい。そんな関係から、幕閣では、この塙次郎と前田夏蔭の二人に、寛永以前の外国人待遇の式例(当時、諸外国からの公使に対する応接上さしあたって必要だったので)の典故(テンコ)を調べるように命じた。これが、廃帝の典故をしらべている、という巷説(コウセツ)になって流れたのである。
 が、外様藩の賊臣の俊輔はそんな真相を知らない。
(塙次郎といえば天下の大学者じゃ、しかも廃帝陰謀は天下のうわさになっている。これを斬れば、わしも同志の間でいっぱしの男になろうか)
 と、俊輔はおもった。そのうえ、
(五十六歳の老いぼれではないか)
 しかも、筆より重いものは持ったことのない学者である。
(斬れるだろう)
 俊輔は、そう計算している。
 聞多を仲間に入れようとしたが、そのころ聞多は、あいにく藩の公用で横浜へ出張していた。
 やむなく山尾庸三を誘った。
「やろう」
 と、こののちの工部卿(コウブキョウ)、宮中顧問官、子爵は、もちまえの単純さで賛成した。
 俊輔は、塙次郎の門人筋をたどって、塙の身辺を綿密にさぐった。
 やがて、十二月二十一日、駿河台の中坊陽之助の歌の会に出席することを知った。
 ・・・
 夕刻から、九段付近で待ち伏せした。
 ・・・
 「あっ」
 と、山尾は、小さく叫んだ。むこうから駕籠がきた。駕籠の先棒(サキボウ)に提灯がひとつ、それに駕籠わきで若党が持っているらしい提灯がゆれながら近づいてくる。定紋をみれば、まさしく塙次郎である。
 ぱっ、と俊輔はとびだし、
「奸賊」
 駕籠がぶちあたりそうな勢いで突進した。
 駕籠が、どさっと投げ出された。なかの塙はころび出た。駕籠かきも若党も逃げ散ってしまっていない。塙は這いころびながら、
「塙だ。なんの恨みがある」
 と叫んだ。俊輔は太刀をふりあげ、ふりおろした。が、馴れぬというものは仕様のないもので、何度ふりおろしても、間合いの見当がつかなくて切尖がとどかず、そのつど、がちっ、がちっ、と地上をたたいた。
 その点、山尾は剣に心得がある。
 突き殺してしまった。
 そのあとは、俊輔も夢中で突き刺し、やがて刀の刃(ヤイバ)を死体の首にあて、押し切るようにして首を切った。
 それを付近の屋敷の黒塀の忍び返しひっかけて梟(サラ)し、天誅の意を書いた用意の捨札を地に突きたてて、闇の中をころがるようにして逃げた。
・・・
 この間、聞多、俊輔は、最初は攘夷放棄を藩主、重役に説いて容れられず、いよいよ藩が戦いやぶれて藩庁の意見が講和に傾いたとき、聞多は、
「戦を続けるんだ」
 と重臣どもに怒号した。最初、藩は主戦論を唱えて聞多、俊輔をおさえたくせに、わずか百発の砲弾を浴びただけで講和とはなにごとが、と憤慨のあまり、別室で腹を掻(カ)っ切ろうとした。
 高杉が、飛びかかって制止した。じつのところ、ほんの一年前までは攘夷の大頭目だった高杉晋作が、藩費で上海見学をして帰っただけで、聞多や俊輔と同意見になってしまっていた。
 聞多が、刺客に襲われたのは、この年の九月二十五日の夜である。
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彰義隊胸算用
     一
 (諸式(ショシキ)の値動きというのは玄妙(ゲンミョウ)なものだ)
 と、寺沢新太郎は、四ツ谷鮫ケ橋をくだりながら、何度もくびをふった。往来をゆく町民どもの顔に生色がよみがえっている。腹いっぱいめしを食った、という顔つきなのだ。
 年の暮に一俵四十二両という高値をよんでいた江戸の米が、年が明けて正月なかばにはただの七両にまで安くなったのである。
 前将軍慶喜が帰ってきた、というだけの材料であった。史上こんな相場はあるまい。
 (やはり御威光だな)
 といって前将軍慶喜は凱旋したのではない。鳥羽伏見で負けて、大阪から着の身着のまま軍艦で命からがら逃げもどってきた。あとは、上野の寺にこもってひたすら謹慎恭順しているのみだが、それでも米の値は六分の一にさがった。
 江戸市民はいまさらのように将軍の偉大さをおもった。この米価のふしぎがなければ、江戸八百八町、将軍の尻押しをする彰義隊に、あれほど声援はしなかっただろう。
(たいしたものだ)
新太郎は、坂をくだる。

 快晴だが、坂は風があった。この日戊辰慶応四年二月十七日である。
 寒がりの寺沢新太郎は、山岡頭巾で顔をつつんでいた。
 名は正明。たかが御膳所の小役人だったが、それでも親代々、まぎれもない御直参(ゴジキサン)である。
 薩長が、海道を東下(トウゲ)しているという。

 新太郎は腕は立つ。
 神道無念流を学び、皆伝をうける寸前まで行った。その後幕府の奥詰め銃隊に入れられ、洋式訓練もうけた。
 詩人でもあった。いや、泰平の世に生まれておれば、詩人として世に立った若者だろう。たまたま乱世にぶつかったために、自分自身を詩の中におこうとした。
(あれが、円応寺とは。--)
 新太郎の足は速くなった。その町寺に、血で書く「詩」が待っているはずだ。彰義隊の歴史はこの日からはじまっている。
 じつは昨夜おそく、回状がきたのだ。文中、
 --君辱(ハズカシ)めらるれば臣死するの時。
 という激しい文句があった。回文の起草者は、徳川の恩に報ずるために武侠団をつくろうというのである。
 新太郎がきいたうわさでは、この回状ははじめ前将軍慶喜が出た一橋家の家臣だけにまわったそうだが、その第一回の会合の場所である雑司ヶ谷の「茗荷屋(ミョウガヤ)」にあつまったのはわずか十七人だったという。
 (一橋のやつらは、腸(ハラワタ)が腐れきっている)
 新太郎はおもった。 こんどは、幕臣全体によびかけられた。場所は、この坂の下の円応寺である。
 新太郎は、山門を入った。
 本堂、方丈(ホウジョウ)に人が満ちている。
 参会者は、幕臣、一橋家の家来だけではない。市井(シセイ)の徒もいる。攘夷浪士のくずれなどもいた。そのほとんどが剣術名誉の士で、名を聞けば新太郎も、あああの人か、とたいていは思いだせる人物ばかりであった。
「やあ」
 と、新太郎をみつけて、縁側にすわっている男が、座をあけてくれた。
 天野八郎である。
 新太郎は感激した。この高名な浪人は、二年前、銀座の「松田」で遭い、同行者から紹介されたことがある。それっきりの縁だったが、天野はおぼえていてくれた。いやおぼえているどころではない。天野は微笑して、
「蕭玉(ショウギョク)先生、詩の方はちかごろいかがです」
 と、きいた。新太郎の雅号など、親兄弟でも知らないのに、この男は、ちゃんとおぼえていてくれた。
・・・
 …天野派をのぞく中立派は、自然、この渋沢案に加担し、彰義隊会頭は渋沢成一郎、副会頭は天野八郎、ということにきまった。
・・・
「まあいい」
 新太郎はおさえた。
「まあ諸君、せっかくきまった会頭だ。しかしろくでもねえ野郎だったら、さっさと斬ってしまえばいい」
「寺沢さん、元気がいいなあ」
 天野が、杯をなめて苦笑している。…
 ・・・
(渋沢とはどんな男だろう)
 ということが、翌日、はっきりしてきた。新太郎の屋敷に、天野派の連中がつめかけてきて、聞きこんだ話しをいいtぶしじゅう話したのである。
 ・・・ 
 京や水戸で尊攘浪士が騒いでいるころ、当時まだ武州血洗島の在所で、藍の買いつけの算盤をはじいていた成一郎は、
 --おらァどももやるべえか。
 と、従弟の栄一にもちかけた。栄一は二つ年下だが、おなじ環境で兄弟同然にそだったし、血の気の多いところも似ている。
 さっそく、近郷の百姓どもに回文をまわし
「神兵組(シンペイグミ)」
 という田舎の天誅団をつくった。渋沢旧子爵家に残っているはずのこのときの檄文は、「神託」という題がついている。
 近日、高天ケ原(タカマガハラ)より神兵天降(アマクダ)り、皇天子、十年来憂慮し給ふ横浜、箱館、長崎三カ所に住居致す外夷(ガイイ)の畜生どもをのこらず踏み殺し、…
 というおそるべき書きだしからはじまるもので、要するに血洗島近辺の壮士をつれて横浜あたりへ斬りこもうというものであった。
・・・
 その短期間に、二人はたちまち出世して、成一郎は武をもって御床几廻(オショウギマワリ)となり、栄一は才をもって、「京都周旋方」になった。周旋方とは、往年の江戸留守居役とおなじで、諸藩の代表者と交際する外交官である。毎日、祇園で諸藩の有志と酒をのみつつ情勢を論じあうのが役目であった。
・・・
 彰義隊は、ふたつできた。
 天野派彰義隊は、上野寛永寺山内
 渋沢派彰義隊は、浅草東本願寺別院
 ところが渋沢派のほうが景気がいい。渋沢は例の政治力で幕閣の要人を説き、幕府の府庫や一橋家からしきりと金を流させたから、天野派から渋沢派へ走る者がしだいにふえ、ついに寺沢新太郎の八番隊とあと十数人という貧弱なものになった。
「幕府もしまいだね。こう同志が金で動くようじゃ」
 天野八郎も、さすがにさじを投げたかたちだった。
・・・
 八番隊の新太郎が一人一人聞きただしてみると、江戸中の富商に御用金を申しつけているのは、渋沢派彰義隊のようであった。
 新太郎から報告をきいて、天野はしばらく考えていたが、さすがにこの男は果断だった。
立ちあがった。この機会だ、とおもったのだろう。
「全員、すぐ支度を」
 と命じ、山を駈け足でくだって、白昼、浅草本願寺の本陣に突入した。
・・・
 天野は頭ごなしに一喝した。
「申しひらくことがあれば、明日殿中で申されよ。拙者も同行する」
 と、否応いわせず身柄を谷中の天王寺という荒れ寺に移し、軟禁した。…
・・・
  「奸賊。--」
 やっと、新太郎はうめいた。
 渋沢は箸をとめた。
「金を集めたのが奸賊かね。君も天野君も、金なしで戦さをするつもりか」
「程度があります。あなたは、ご出身がご出身だから彰義隊をたねにひと儲けしようとたくらんでいらっしゃるのだ」
 渋沢は、狡猾な表情でだまった。…
 ・・・
 翌朝、天野とともに勢いこんでこの渋沢の軟禁所にやってきたとき、もう一度おどろかねばならなかった。
 渋沢の姿が、かき消えていたのである。
 警衛に立てておいた天野派の隊士十人の姿もみえなかった。買収されて渋沢ともども逃げたとしかおもえなかった。
「寺沢君、これが幕臣だよ」
 天野は吐きすてるようにいったが、すぐこの機敏な男は、その足で登城し、殿中で渋沢の行状をのこらず言上した。
 ・・・
 天野はついに決心し、新太郎の八番隊に左京屋敷の討入りを命じた。

      三 
・・・
 --逃げられた。
 と、寺沢新太郎は、奥八畳の間で叫んだ。
・・・
 渋沢はその暁(ア)け方(ガタ)、江戸を逃げた。最初は武州北多摩田無(タナシ)に腰をすえ、そこであらたに近在の浮浪、江戸の同志などをよびあつめ、振武軍(シンブグン)というものを組織した。
 余談だが、そのころ、京の新選組も江戸へ舞いもどっており、隊長の近藤勇、副長土方歳三が、再挙をはかるべく、南多摩方面でしきりと募兵していた。ちょうど南多摩の首邑(シュユウ)府中まで募兵にきていた渋沢成一郎と、同じ目的で駐留している土方歳三とが、旅宿でばったり顔をあわせた、という話がある。
「渋沢さん、江戸へ帰りなさい」
 と、土方は頭からいった。江戸での渋沢の話は、耳に入っている。
「いや、再起をはかるために武州壮士をあつめているのです」
「それがよくねえ、てんだ」
 気短の土方は一喝した。甲州街道ぞいの南多摩は近藤、土方の出身地で、いわば募兵のナワバリである。その縄張りを、金でつらを張るようなやりかたで荒らされてはたまらぬ、と土方はおもったのだろう。 
 --二度とこの辺に姿をみせると、たたっ斬るぞ。
 といったというのだが、幕府瓦解で気が荒れている新選組副長なら、あるいはそういったかもしれない。
 渋沢はついに南多摩に手を染めるのをあきらめ、田無から西多摩箱根崎(いま、村山貯水池付近)に本陣をうつした。中世、武蔵七党のひとつ村山党の根拠地で、近在は農村ながら武のさかんなところである。
・・・
「化物は箱根崎に拠(ヨ)ったらしい」
 とうわさは、すぐに上野の本陣につたわってきたが、天野派では問題にしなくなった。
 渋沢遁走後、事情は天野派に好転した。幕府そのものが、彰義隊の面倒をみはじめたのである。

・・・
 新太郎の八番隊は、上野黒門から坂をおりて東、忍川(シノブガワ)にかかっている三枚橋(三橋)のきわの茶屋「山本」を屯所とし、付近一帯を警備した。
 すでに前将軍慶喜は水戸へ退隠し、江戸城は官軍にあけ渡され、その大本営になっていた。その官軍大本営から、宇都宮方面にむかってしきりと早籠(ハヤウチ)の偵察員、飛脚がゆく。宇都宮には、幕将大鳥圭介が兵を擁して薩長への叛旗をひるがえしたからである。
 八番隊の役目は、坂本の街道筋に出張し、その偵察員、飛脚をとらえて検査し、答弁うろんとみれば容赦なく斬った。ついには斬るのがおもしろくなり、旅姿の町人体の者とみれば容赦なく斬った。
 --一日血をみないと、どうも寝つかれない。
 といいだすものもあり、新太郎は、人を斬るごとに兇暴化してゆくかれらを、どう制御することもできない。吉原帰りの肥後藩士というのも斬った。が、薩長土の兵だけは避けた。かれらは余藩の官軍とちがって剽悍(ヒョウカン)な者が多く、小うるさいとおもったのだろう。
 ・・・
 この後、僧や医者に化けて官軍の探索の眼を避け、江戸の内外を転々としたが、品川沖に榎本武揚の幕府艦隊が健在ときき、深川河岸から同志四人ととおに小舟をやとい、旗艦開陽丸にたどりついた。
「われら、天地間、身をおくところがない」
 と哀願すると、榎本は「この艦を逃げ場所にされてはこまる」としぶったが、やがて搭乗を許された。
・・・
 開陽丸のむこうに、長鯨丸(チョウゲイマル)という軍艦が浮かんでいる。
「どうやらその船に、渋沢成一郎が逃げこんでいるらしい」
 といった。渋沢の噂はきいている。例の振武軍をひきいて大いに西多摩で威をふるっていたところ、官軍に飯能で一撃され、まもなく逃げ散ったという。その残兵三十五人をひいきて、長鯨丸にのりこんでいる、というのである。
「斬れ、斬れ」
 と五、六人景気よくさけぶと、もうそれが口火になって「天誅」
ということになった。
 騒ぎをきいて榎本はさすがに憤り、新太郎ら主だった者を艦長室にあつめ、
「君らは、なんのために干戈をとった。徳川家のためか、それとも私闘をするためか」
 と怒鳴り、和解しろ、いや和解だけではない、かつては渋沢が頭領だったのだから隊長として推戴しろ、兵は秩序だ、と命じた。
 やむなく、榎本の命に従った。従わねば気の短い榎本は退艦を命ずるかもしれない。
「ただ、条件をつけたいのですが」
「ああ、つけろ。和解をするためなら、十分話し合っておけ」
 榎本は、渋沢のほうにも、おなじことをいっておどしたらしい。渋沢も、退艦させられると、天地に身のおきどころがない。
・・・
 十一月五日、松前藩の居城福山城攻撃。

 福山城は、前に幅三十間の川をめぐらし、背後に山を負っている。
 城主松前徳広をはじめ主だつ重臣はすでに落ちのびていたが、それでもわずかな守兵が、城内と、川のむこう岸に銃陣を布(シ)いて待っていた。
 榎本軍は、旧陸軍奉行松平平太郎を攻城軍司令官とし、フランス海軍士官カズノフが実践指導に当たり、新選組、彰義隊、衝峰隊(ショウホウタイ)、工兵隊、砲兵隊、伝習隊、仙台額兵隊、それに高田、豊杯、長崎、桑名、会津各藩の脱士隊が、川にむかい、むらがり突入した。
・・・
 そのうち、隊長の渋成一郎が、旧振武軍の腹心三十余人を連れて妙な方向に走りだした。自然、新太郎ら二百余人もひきずられるようにそのあとに従った。
 行くさきは、金蔵(カナグラ)である。…
・・・
 このあと、渋沢は、妓楼「松川屋」を買いきり、腹心とともに連夜大騒ぎをし、その間新太郎が斬り込むのだが、このときも渋沢はすばやく蔵の中へにげこんで、一命をたすかった。 
 ・・・
 榎本軍は、明治二年五月十八日、官軍に降伏。その降伏の寸前まで、渋沢派は、「旧天野派は、日曜日に出陣しても賃銀はもらえぬからといって出陣を拒否した」といい、旧天野派は「城を取るより金蔵に駆けこむような連中と戦さはできぬ」といって紛争し、榎本はこの旧幕臣の始末に頭をかかえこんだ。

 寺沢新太郎、維新後正明ーー一時、旧幕臣とともに静岡に居住していたが、榎本武揚の新政府入りで引きたてられて官途につき、北海道開拓使出仕を手はじめに、太政官、内務、逓信などの諸官衙に出仕し、のち官を辞し、明治末年まで存命。

 渋沢成一郎、維新後喜作と改名ーー財界に入り、北海道製麻会社、東京人造肥料会社、十勝開墾会社、田中鉄工所、ほかに生糸売込商、廻米問屋、東京米穀取引所、商品取引所などに関係したが、ほとんど失敗し、そのつど、従弟の栄一が負債の補填をした。大正元年八月、七十五歳で死去。

 天野八郎ーー上野陥落後、本所石原の鉄砲師炭屋文次郎方に潜伏していたが、七月十三日、捕縛、十一月八日牢死。

 

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO3

2018年03月06日 | 国際・政治

 幕末動乱期の暗殺者を主人公とする「幕末」を、司馬遼太郎は、書きたくないけれど、書かざるを得ない、そういう苦しさのなかで書いたのだろうと想像しつつ、今回は、前回に引き続き、「土佐の夜雨」「逃げの小五郎」から、教えられたこと、考えさせられたこと、忘れないようにしたいこと、などの主なものを抜き書き的に抜粋しました。

土佐の夜雨」における暗殺は、土佐藩の内部問題絡みであることがわかりました。
 もともと土佐藩の領域は戦国時代末期に長宗我部氏が統治していたということですが、その長宗我部氏が、関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となり、所領・所職・役職を取り上げられたのに対し、この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国を与えられたということが根底にあるということです。文中に
長曾我部家の遺臣群は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視され”、

ており

「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」と、さわぎはじめるのは当然であった

とありますが、長曾我部氏のもとにあった多くの人たちが、藩主山内家に怨みを抱き続けていたことがわかります。
 したがって、参政として様々な改革を断行した吉田東洋が、長曾我部氏のもとにあった尊王攘夷を主張する土佐勤王党に狙われ、武市半平太によって組織された暗殺組織の一組、那須信吾・大石団蔵・安岡嘉助の三人によって暗殺されたことは、土佐藩の内部問題絡みであるということです。
 また、当時、吉田東洋の「下横目(シタヨコメ)」として動き回っていた岩崎弥太郎(三菱財閥の創業者)が、その後、”士籍を脱している”という一文にも考えさせられました。

 「逃げの小五郎」には、維新の三傑の一人に挙げられている桂小五郎(木戸孝允)が、暗殺を逃れて逃げ延びる様子が書かれています。
 杉並木の根方に乞食小屋がずらりとならんでおり、その小屋の一つに、幾松という女性が、桂小五郎を発見します。でも、自由に話すことさえできなかったといいます。暗殺を逃れるために、桂小五郎は、乞食に姿を変え、たとえ知っている人があらわれても、話もしないほど慎重だったのだと思います。私は、そうした事実を「幕末」を読んで、はじめて知ることができました。そして、忘れてはならない大事な事実だと思いました。

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土佐の夜雨

       一
 この年、花の季節というのに、土佐高知城下で粉雪がふった。
 南国のせいか、この城下の男どもは陽気にできている。こういう異変でもこの国の男どもには結構酒の肴になるらしく、
「酒(ササ)ァ、雪で飲む、花で飲む、天は無駄なことはしちょらんど、飲めや」
 と、この日、城下のどの町でも昼から酒をのんでいる。
 --が、この巨大漢だけは別である。
 腰に鉄づくりの大脇差をぶちこみ、小脇に薬箱をかかえ、頭を坊主にまるめ、しかも真赤な女襦袢を着、思いきって尻をからげ、町並みをへいげいするように歩いてゆく、
 粉雪が漢(オトコ)の濃い眉にふりかかっては、溶けた。
 顔が、玉のように赤い。おそらく常人よりも血がありあまりすぎているのだろう。
「病人はおらんかァ、病人。薬ァ、一包み銀一分」
酔狂ではない証拠に、眉の下の眼がらんとして光り、噛みつきそうなほどに生真面目な顔であった。たとえ一人半人でも病人がつかまらなければ、今日の日が食えない。
 大坊主は、播磨屋橋(ハリマヤバシ)を西へ渡った。
さらにのし歩いて紺屋町筋を北上し、追手筋へ折れたときは、雪がどっとふぶいた。
むこうに城がみえる。ニ十四万石山内家の真白い天守閣が、このあわれな乞食医者を威圧している。
 そのときであった、仕置家老(シオキガロウ)(参政)吉田東洋が下城してきたのは。
 総身螺鈿(ソウミラデン)の槍を立て、若党に三引両(ミツビキリョウ)の定紋入りの挟箱をかつがせ、草履とりが一人、ほかに帯刀の家来を一人つけていた。
「何者か、あれは」
 相手の異装におどろいたが、わざわざ雪のなかで足をとめたのは、大坊主の眼くばり、足腰の動きをみて、ただ者ではないとみたのである。
(できるな)
 そう思った。
 もともと東洋もただの仕置家老ではなかった。いわば完全才能の持主で、学問は藩の儒者が束になってもかなわず、剣は最初一刀流を学び、ついで真影流の免許皆伝を得、さらに独自の境地をひらいているほどの男である。
・・・ 
 東洋(仕置家老<参政>吉田東洋)はその日、屋敷にもどってから、日ごろ可愛がっている「下横目(シタヨコメ)」をこっそりよんだ。 下横目とは、徒士(カチ)、郷士の非違を探索する卑役で、東洋はかねてこの役に井口(イノクチ)村の地下(ジゲ)浪人の子弥太郎という若者を抜擢してつけておいた。よく働く。
 姓は岩崎である。
 のちにこの男は三菱会社をおこす運命になる。
 弥太郎は学才はあるが目つきがするどく、「風丰(フウボウ)、盗跖(トウセキ)に似る」といわれた。盗跖とは、古代シナの伝説的な大盗の名だ。「商人の紋章は盗賊の紋章とおなじだ」という言葉が西諺(セイゲン)にあるほどだから、岩崎弥太郎はそのどっちにころんでもやりこなす男だった。
「よいか。内密に」
「かしこまりました」
 弥太郎は、その夜は家に帰らず、城下の町名主を一人ずつたずねてまわってうわさを聞き、ついにつきとめた。 
 唐人町(トウジンマチ)の裏長屋にすむ若医者で十日ばかり前、高知城下から八里ばかり西の佐川郷(家老深尾鼎(カナエ)領地)から出てきた男だという。
 大家には信甫(シンポ)などという医者らしい名前を届け出ているが、じつは武士である。
「武士?」
「左様でございます」
「郷士か」
 と、弥太郎は名主にいった。
 郷士とは、土佐の制度では最下級の武士で、上士から人間あつかいされない。たとえば上士ならその家族でも日傘をさせるが郷士はそれをゆるされないといったきびしい差別がある。土佐におけるこの差別が、ついに維新史を動かすにいたったことは後述する。
「いや、」その郷士でもございませぬ
「されば、地下であるか」
「左様で」
 となれば弥太郎と同じ出身階級である。
 地下浪人というのは、江戸などでうろうろしているいわゆる浪人者ではなく、貧窮して郷士の株を売った者、およびその子孫を指し、いわば村浪人という土佐独特の階級で、さむらいの風体はしているが、身分は百姓とかわらない。村の逸民(イツミン)である。

      ニ
「その者を屋敷によべ」
 と、東洋は弥太郎に命じた。呼びよせてとくと人体(ニンテイ)を見さだめたうえ、藩政に異論をもっているならば説教してやろうと思ったのである。これが東洋のくせである。水戸の大儒藤田東湖はめったに人をほめぬ男だが、「東洋、すこし才あり」とほめた。「ただし矯激なり」
 ・・・
 弥太郎はさらに調べた。
 それによると、大坊主は、佐川郷の領主深尾(土佐藩の譜代家老)の御勝手役で浜田佐左衛門の三男某であることがわかった。浜田家は郷士の出である。
 家老の知行所の御勝手役といえば聞えがいいが、二人扶持(ブチ)(一日一升二合五勺)の給与で数人の家族が食っている極貧最下等の武士である。
 某はその三男だから医者になったわけだが、医術もろくに学んでいない。だから、城下へ出て、医療の行商という奇矯のまねを思いついたのだろう。
「しかしなぜその者は在所へ帰ったのか」
「よく存じませぬが、なんでも、在所におめでたい話があったそうで」
 と、某に家を貸していた家主はいった。
 岩崎弥太郎は、薬の行商に化けて、佐川郷へでかけてみた。
 ・・・
三度目にその屋敷付近へ行ったとき、屋敷から、十八、九の気の荒そうな若者がとびだして、弥太郎の前にふさがった。風体は乞食同然のぼろ姿である。
「おんしは、何じゃい」
 腰に脇差を帯びている。郷士の子は眼でわかる。
 ・・・
へい、薬屋でございます」
「本当か」
 若者は、気味のわるい微笑をうかべた。弥太郎はあとで知ったのだが、若者の名は「顕助」という。この若者がのちに維新の元勲の一人となった伯爵田中光顕である。当時二十歳であった。弥太郎がさがしている某の甥にあたる。
 ・・・
弥太郎を追っぱらったあと、若者はすぐに旅装をととのえ、佐川郷から二日行程の山中である檮原(ユスハラ)村に急行した。叔父某はその村の郷士那須家の養子になっている。名を改めて那須信吾(明治後、贈従四位)
 ・・・
「叔父上」
と田中顕助は声をかけた。
・・・
「ところで」
 と、顕助は、薬屋の一件を話し、ついでに下横目ではないか、という自分の観測も伝えると、信吾はべつに驚きもせず、「大方、そうじゃろ」とあとはなにもいわなかった。
 顕助を帰してから、信吾は日暮れになって無紋の提灯をつけ、村の往来へ出た。もし、郷内に下横目が入りこんでいるとすれば、ひっとられて斬るか、なぶりものにしてやるつもりであった。
 ・・・
それにしても、東洋は酷である。参政に就任して以来、この男は譜代家老たちを押しのけたり罪におとしたりしてたちまち藩の独裁権をにぎり、人材登用と称して、自分の門下生のみを抜擢し、藩政を壟断(ロウダン)している。
 ・・・
 東洋は他人に関心のつよい男だ。とくに土佐人らしい活気のある男がすきなのである。岩崎弥太郎を抜擢したり、甥の後藤象二郎(後の伯爵)や乾(イヌイ)退助(のちの板垣退助)を愛したりしたのはそのあらわれである。

       
 ・・・
ところがその後ほどなく、
 --東洋を斬るという密謀がある。
 といううわさが、家中で流れた。出所がどこで、何者が斬るのか、ともわからなかったが、弥太郎はひそかに、那須信吾ではないか、と直覚した。信吾は、東洋の糞咆えにひどく憤慨していたという。
 当然このうわさを嗅いで、多勢の下横目が動きだした。弥太郎も役目がら、動いた。
 が、目算ははずれた。
 蜜謀のぬしは、檮原村の一郷士どころか、さらに巨大な存在であることがわかった。
 集団である。五人や六人ではない。おそらく二百人はいるだろう。二百人中、数人をのぞいては、すべて郷士、庄屋、地下浪人などの軽格である。その密謀の中心は、城下田淵の武市塾であった。首領は、武市半平太である。
 ・・・
 かれら土佐郷士には奇怪な感情がある。藩主山内家への憎悪である。この憎悪は、どの土佐郷士の家系にも代々伝えられ、ニ百余年十数代つづいてきた。
 もはや種族的な憎しみになっているもので、かれらのたれもが、自分たちを山内家の家来だとはおもっておらず、長曾我部侍(チョウソガベザムライ)である、と思っていた。こういう藩はほかにない。
 もともと山内家というのは、他国者である。藩祖山内一豊(カズトヨ)が関ヶ原の功名で遠州掛川六万石の小身から一挙に土佐一国を与えられたもので、藩祖一豊が本土からつれてきた連中の子孫が、すべて藩の顕職につく。
 長曾我部家の遺臣群は帰農させられて、「郷士」の格をあたえられたが、おなじ藩士でも、上士から「外様」として蔑視されている。
 ・・・
「われらは山内家の家来ではない。天皇の家来である」
 とさわぎはじめるのは当然であった。
 ・・・

       
田淵町の武市塾の近所に、弥太郎の妻お喜勢の薄い親戚で、伊予屋五兵衛という筆墨を商う家があった。弥太郎は、あるじの五兵衛に会い、
「事情がある。しばらく二階の物置を使わせてくれぬか」
 と強引にたのんで、一ト月ばかり泊まりこんだ。この二階から、武市塾の人の出入りがよくみえるのである。
 ・・・
那須信吾も、二日か三日に一度はきた。

 ・・・
武市は帰国後、東洋をはじめ、譜代家老や大目付などを説きまわり、挙藩勤王をおこすよう必死に工作をした。
 が東洋をはじめ藩の上層部は「武市の天皇狂いめ」とわらってたれも耳をかたむけない。武市はついに、死を覚悟して最後の説得をするために東洋に会った。
 ・・・
武市は弁じたてた。もはや日本にとって徳川家は無用であるという。
 ・・・
(東洋は)さらに話題を転じ、
「武士には恩義というものがある。わが山内家は、関ヶ原の功によって遠州掛川の小大名から土佐一国を徳川家から拝領した。この事情は、関ヶ原で負けて減封された長州藩や、減封されぬまでも敗北の屈辱を負った薩摩藩とは、同日には論じられぬ。あの二藩はもともと徳川家へ怨みを抱いてニ百数十年をすごしてきたのだ。たまたま、こういう時勢になったから、にわかに尊王倒幕などと申して報復しようとしている。わしは参政として、そういう連中には加担できぬ」
 ・・・
        
 ・・・
(斬るか)
 と、武市が決意したのは、この夜である。
 武市は、田淵町の徒党から刺客を八人えらび、これを三組に分けた。 
 第一組は、鏡心明智流の目録岡本猪之助を首班とする二人。第二組は、同流の免許皆伝島村衛吉(のち土佐勤王獄で切腹)を首班とする三人。第三組は那須信吾である。武市は那須の組に、安岡嘉助、大石団蔵を加えた。
 ・・・
来た)
 安岡が鯉口をくつろげ、つかをにぎり、一呼息、二呼息、と自分の気息をはかりつつ最後におおきく息をのむと、ぱっと走り出た。
 提灯を切り落とした。
 安岡が、刀をひく。彼の役は、それでしまいである。かわって那須信吾が上段のままおどり出、
元吉殿、国のために参る」
 と叫びながら、二尺七寸、備前無銘の直刀をふりおろした。
 東洋は、ひらいたままの笠で受け、弾き捨てると同時に抜刀した。
 暗い。
 すでに右肩に傷を受けている。
 那須はさらに畳みこみ、踏みこんで、二太刀斬りつけた。那須は夜目がきく。田舎郷士の余得である。城下育ちの東洋には、闇はただ漠々とした闇でしかない。刃が、どこから来るのか。
 東洋は、その不自由さに煮えかえるほど腹が立ってきた。夜闇のばあい、声をたてるのは禁物とわかっていながら、ついに四十七年、この瞬間が最後の怒気を吐いた。
「狼藉者、いずれにある。--」
 声が湧きあがると同時に、ツツと那須が進んで、声を真向から斬った。
 横倒しに倒れようとするするところを、大石団蔵が、斬りつけ、倒れ伏したところを、安岡がとどめを刺した。
 那須が首を打った。
 大石団蔵が、自分の古褌(フンドシ)でその首をつつんだ。真新しい晒(サラシ)を、と思ったが、たがいにそれを購(モト)める金がなかった。
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

逃げの小五郎

       一
(昌念寺に、妙な居候(イオスロウ)がいる)
 と妻からきいたのは、きのうである。そのとき堀田半左衛門は、
「寺だ、いるだろう」
 ぐらい答えて、気にもとめなかった。堀田半左衛門は但馬出石藩(タジマイズイシハン)の槍術師範役で、五十石。家中では人柄で通っている。但馬出石というのは仙石家(センゴクケ)三万二千石の城下で戸数はざっと千戸。
 ・・・
「ご住職。あの仁(ジン)は」
 と堀田は石を一つ置いた。
「あれか」
 住持はめいわくそうにいった。
「さる檀家からのあずかりもので、お役人に洩れては、まずい人物らしい。だから、戸籍(ニンベツ)のことはきかずにいる。名も知らぬ」
 眼つきからして武士だと堀田はみた。中背で肉の締まった体をしており、みるからに機敏そうな男だった。
(武芸者だな)
 それも凡手ではない。
 そのことに興味をもった。さもなければ堀田は人を詮索するような男ではない。
 ・・・
「碁でも打ちませんか」
「ええ」
 男は、障子を閉めた。
 夕食後、堀田は男と碁盤をかこんだ。さっきの笑顔とはおよそ遠い、不愛想な顔で男は碁を打った。男の碁は理詰めで、慎重すぎた。これほど面白くない碁打ちは、堀田にとってははじめてであった。
 ・・・
碁は二局やって二局とも、堀田は切り捨てられるような素っ気なさで負けた。強い。が、その間、男は無駄口をひとこともきかず、名も名乗らなかった。
(妙なやつだ)
 翌日、タキに、
「どういう御仁(ゴジン)だ」
ときいたが、タキはだまっていた。ただ、
「堀田様」
と思いつめたようにいった。
「堀田様のお人柄を信じてお願い申しますけれども、この松本屋にあの方が泊まっておいでなされたということは、どこにもお洩らしくださいますな」
 そうきいただけで、堀田はいままで薄々感じていた想像が、たしかなものとなった。
(長州者だな)
 なぜなら、この山峡(ヤマカイ)の出石にも京都守護職から通達がまわってきている。
 それも一ト月前のことだ。長州兵約千人が、朝廷に強訴する、ということで家老福原越後、国司信濃(クニシシナノ)、益田越中らに率いられて武装入京し、京を警護する諸藩の兵と、伏見、御所内外、その他市中数カ所で激突した。結局敗走したが、このため京の町は八百十一町にわたって全焼し、民家だけで二万七千五百余軒が焼けた。
 この大事変のあと、幕府の残党狩りがきびしく、会津藩、桑名藩、それに新選組、京都見廻組などは、長州人を見つけ次第に捕殺した。なにしろ、京の北野天満宮の廟前にあった一対の石獅子が、長州候の寄進だというだけで、会津藩士が打ちこわそうとしたほどの昨今である。長州人すなわち賊徒、という時勢になっていた。  

       二
 橋爪善兵衛は、京都藩邸の公用方を一年つとめただけに、他藩ながら同役の桂小五郎についてくわしく知っていた。
「桂は剣でめしの食える男だよ」
 といった。
 江戸の三大道場のひとつである斎藤弥九郎の練兵館(レンペイカン)で塾頭までやったという。練兵館塾頭というと大したもので、桂が江戸を去ってからの塾頭だった渡辺昇(肥前大村藩士、のち子爵)などは、竹胴を松の幹に着け、これを竹刀でたたき割った。ちょっと信じられないほどの、そういう達者が、代々塾頭になっている。
「桂はじつにすばしこいやつで、江戸のころ、土佐の老公が桂の試合をみて、あいつ蝗(イナゴ)の生まれかわりか、とあきれたという評判がある。だから当時、江戸の剣術仲間では、桂のことを、いなご、いなご、と陰でよんでいた」
 その桂が京から消えた。
 その間の消息は、むろん、橋爪善兵衛も知るよしがない。

       三 
 ・・・
 桂が塾頭をつとめた斎藤弥九郎の道場には六か条からなる有名な壁書があった。そのなかで、「兵(武器)は兇器なれば」という項がある。
 --一生用ふることなきは大幸といふべし。
 出来れば逃げよ、というのが、殺人否定に徹底した斎藤弥九郎の教えであった。自然、斎藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを逃げることに集中した。これまでも、幕吏の白刃の林を曲芸師のようにすりぬけてきた。池田屋ノ変のときも、この男は特有の直感で、寸前に難を避けた。あの日集まることになっていた同志のなかでの、唯一の生き残りである。
 ・・・
桂はんは、きっと生きてお居やす」
 と、幾松は、対馬藩の大島友之助に断言した。
・・・
幾松は、なん日も京の焼跡をさまよっては桂をさがした。失望しなかった。ある日、京の難民が多数大津にあつまっているといううわさをきき、
(あるいは)
 と、出かけてみた。
 桂はいなかった。落胆して、京へもどる駕籠をさがすために町外れまできたとき、松並木の根方根方に乞食小屋がずらりとならんでいる。その小屋の一つをふとのぞくと、妙に褌のあたらしい乞食が、菰の上にあぐらをかあいてこちらを見ている。しきりと莨(タバコ)をくゆらせていた。幾松は息がとまった。桂である。
 とっさに、言葉が出なかった。幾松は、われながら妙なことをいった。
 「あの、もし、京まで駕籠はおへんか」
 よく考えてみると、乞食小屋に駕籠の注文をするばかはいない。
 桂は泰然としていた。
「ここは駕籠やごんせん」
「………」
 幾松は駈よろうとしたが、桂は、その幾松の呼吸をきせるでおさえた。トンと地面を打つと、幾松の足はすくんだ。剣の妙機といっていい。情のこわい男だ。
 桂はそのあと、ながながと欠伸を一つして、プイと横をむいた。
(寄るな)
 ということらしい。
 ・・・

京都見廻り組組頭佐々木唯三郎が、この吉田屋の格子をがらりとひらいたのは。いきなり土間にはねあがるなり二尺四寸、無銘の備前ものを抜き、
「御用改めであるぞ」
 襖にむかって突進し、足でひらいた。
・・・
そのころ、桂小五郎は、一丈の高さの石垣を飛んで、河原にとびおりている。
 そのまま、桂は、京にも、幾松のもとにももどって来なかった。
 いったん、大阪へ落ちた。途中旅芸人姿に身をやつし、阿呆陀羅経(アホダラキョウ)を唱えながら落ちていったというが、どこでどう装束をととのえたのであろう。…

       四
 ・・・
攘夷主義の長州藩は、下関海峡で、米英仏欄の四カ国艦隊と交戦し、領内の女子、庶民まで動員して戦ったが、下関砲台群を破壊され、一方的な敗北におわった。
 悲劇はそれだけではない。蛤御門ノ変の罪によって藩主毛利敬親(タカチカ)=慶親(ヨシチカ)は官位を剥がれ、幕府は大小二十一藩に長州征伐の軍令を発し、これを怖れた長州藩では、三家老の首を切って謝罪した。
 その間、桂は出石にいた。 
 かつては長州藩きっての切れ者として諸藩に知られた桂が、女房をもらって但馬出石で荒物屋になっているとは、天下のたれも知らない。
(あの男、どうしたのだ) 
 堀田半左兵衛までが、ひそかに桂の心事を察しかねた。臆病者と思った。
 藩の上下が諸外国と戦い、幕軍と戦い、亡国寸前にあるとき、血の通った男なら命を賭してでも、国へ帰るだろう。道中の危険など、かえりみる余裕はないはずだ。
(あれでも武士か)
 と思った、身の用心も、度を越している
 ・・・
桂は、夜走獣のように疑いぶかい。さらに、二、三歩にげかけたとき、さすがに温厚な堀田半左衛門も大喝した。
武士の言葉を信じられぬか。貴殿も、一時は京を動かしたほどの男子ではないか」
「……」
「早ければあすにも、幕吏が貴殿を探索するために出石に入る。それを知らせようと思って、今夜の機会を作った。しかし左様なことよりも、貴殿のことだ。内外に敵を受けて存亡の岐路にあるというのに、なぜかような山里で安閑と日を消しておられる」
「帰る」
 裂くような声で、桂は言った。どこまではいわず、身を躍らせ、闇にまぎれて姿を消してしまった。あくまでも用心ぶかい。が、このときの堀田半左衛門の一喝が、桂の惰気(ダキ)を一時にはらった。瞬間、桂は以前の男に目覚めたといっていい。
 ・・・
 桂がいよいよ長州に帰るために、町人体の旅ごしらえをし、甚助・直蔵の兄弟に伴われて出石を発ったのは、慶応元年四月八日のことである。
 一行のなかに、幾松がいた。彼女は、いったん長州に入り、萩城下で、伊藤俊輔(博文)、村田蔵六(大村益次郎)、野村靖之助ら桂の同志の手で保護されていたが、甚助が来るに及び、同行して出石に桂を迎えにゆくことにしたのである。…
・・・

 維新は、この三年後に来る。おびただしい数の志士が、山野に命をすてた。が、桂は生き残った。新政府から、元勲とよばれる処遇をうけた。皮肉ではない。元勲とは、生きた、という意味なのであろう。維新後、政治家としての桂は、なにほどの能力もはっきしなかったが、そこまで生き得たというのは、桂の才能というべきであろう。維新後の桂(木戸)の毎日は、薩摩閥の首領大久保利通に対し、長州閥の勢力を防衛することに多くの精力ををさかれた。ーー明治三年七月八日の日記に、
「八日晴。朝、大久保参議来談」 
 とある。

 ・・・

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暗殺者を主人公にした司馬遼太郎の「幕末」NO2

2018年03月01日 | 国際・政治

 司馬遼太郎は、明治時代を明るく描き、多くの人を感動させて国民的作家といわれるようになりました。私は、その司馬遼太郎が幕末をどのようにとらえているのか知りたくて、「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)を手にしました。

 繰り返しになりますが、教えられることや考えさせられることが多くありました。疑問に思うこともありました。だから、前回に引き続き、「猿が辻の決闘」、「冷泉斬り」、「祇園囃子」から、そうした部分の主なものを抜き書き的に抜粋しました。

 4「猿ケ辻の決闘」で見逃すことができないのは、会津藩士大庭恭平が、御府内浪士一色鮎蔵(イッシキアユゾウ)を名乗り、尊攘派の志士に近づき、計画通り姉小路(公知)を暗殺した後、薩摩藩士田中新兵衛の刀を、その場に残していることです。田中新兵衛が自刃するのは、現場の遺留品として自分の刀を見せられたからであるといいます。会津藩士大庭恭平の作略にかかって死んだということだと思います。

 5「冷泉斬り」には、幕末に斬られて死んだ何人かの人の名前があげられていますが、全部を合わせると、いったいどれくらいの人が暗殺されたのだろうと考えさせられました。文中に”毎日のように尊攘浪士の人斬りが跳梁し、所司代の警察力も、あってなきような状態になっている”とありますが、自らの主張を通すために、邪魔な人間は斬り捨てるとう、ほんとうにに恐ろしい時代であったと思います。そうした幕末を生きた志士が、明治の新政府で活躍し、海外とのやりとりを展開したのですから、表向きはどうあれ、その政治活動には、当然いろいろな問題があったであろうと思います。

 6「祗園囃子」では、幕末に明治維新への大きなうねりをつくった藤田東湖を中心とする水戸の尊王攘夷の思想を、土佐藩士山本旗郎が「遅れている」と指摘し「水戸学などという紙の上の論議よりも、外国製の鉄砲、大砲、軍艦をもっている藩のみが倒せる」と主張して、水戸藩京都警衛指揮役の住谷寅之助の暗殺を大和十津川郷士浦啓輔に持ちかけ、実行しました。尊王攘夷で結びついた討幕派であったにもかかわらず、山本旗郎がいつの間にか攘夷を捨てていたので、浦啓輔が「われら勤王奔走の徒の自らの父祖を斬るようなものだ。返答はどうある。その次第ではこの場から去らせませんぞ」と言い返したのは当然であったと思います。住谷寅之助の暗殺者山本旗郎は、その後住谷の長男・次男らによって殺されてしまいますが、明治の時代が、かつての仲間を暗殺する山本のように、その時、その時の事情に合わせて人を斬り捨てる討幕派によって主導されたことを見逃すことができません。
4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
猿ケ辻の決闘
       一
 ・・・
文久二年九月のことだ。
 京の市中は、毎日のように尊攘浪士の人斬りが跳梁し、所司代の警察力も、あってなきような状態になっている。(新選組創設は、その翌年のことだ。つまり、この事件は京の治安がどん底におちいっている時期と心得ていい)。
 この日、午後からすこし日和雨(ソバエ)がふり、ほどなくやんだ暮六ツ(六時)前、あたりをはばかるようにして入ってきた旅装の巨漢がある。帯刀が、おそろしく長い。
「会津から参った者」
 武士はただそれだけをいい、主人藤兵衛に案内されて、奥八畳に通った。この一家が待ちかねていた客である。
「お国表(オモテ)から御家老さまお差し立ての御書状をを頂戴し」
 と、藤兵衛は平伏しながら、
「いさい、承知つかまつっております。この寮はほとんど無人でございますゆえ、ごぞんぶんにお使いくださいますように」
 といった。
 武士はちょっと頭をさげただけである。
 ・・・
大庭恭平(オオバキョウヘイ)という会津藩士はおよそ密偵という感じからは、遠かった。皮膚は三十前の桜色で眉ふとく、頬からあごにかけ、髭の意休とまではいかないが、かなりひげを貯えている。
 豪傑といっていい。異相である。これでは密偵にむかない。もうひとつ、密偵に不似合いなことがあった。会津なまりである。これほどめだつ男が密偵になるというのは、どういうことだろう。
・・・
「なにぶん田舎者で京にはなれませぬ」
 それだけいって、大庭は、おおきなからだを音がなるように折った。
 京に馴れぬ、といえば、 今年の末、江戸を発って京都守護職として京の治安に任ずる大庭の主人松平容保もそうだし、会津藩兵はすべてそうである。
 奥羽のあらえびすのようなもので、徳川家の親藩のうち、会津ニ十三万石ほど武骨な藩はない。
 その会津武士団が、この年末、京にくるのだ。
 ーー事情は、こうである。
 この年に入って、諸国から京へ流れてくる浪士の数がめだってふえ、それが薩長土三藩の京都屋敷を足場にして市中に出没し、天誅と称して、親幕派の公家侍、学者、論客を斬りまくる、といった状態で、従来の所司代程度の警備力では手がつけられない。
 手を焼いた幕府はついに「京都守護職」という新職名のもとに強大な警察軍をおくことになった。それを親藩の会津藩ときめ、藩主松平容保(カタモリ)に交渉した。最初藩主松平容保は固辞した。
(後世、逆賊の汚名をきるかもしれぬ)
 とまで考えたという。
 が、説得側は、幕府の政事総裁で前代の井伊直弼などとはちがい、京都でも人気のある松平慶永(ヨシナガ)(春獄)である。
 これがわざわざ容保の江戸屋敷に足をはこび、
 --天子の在(オワ)す京師の治安をまもることは武家としての尊王の第一である。
 といった。容保は従わざるをえなかった。
 ・・・
最後に受諾をきめたとき、容保は「行くも憂(ウ)し行かぬも辛(ツラ)しいかにせむ(後略)」という歌をよんだほどだし、三人の家老を前にして
 --かくなった以上は、会津君臣は京都を死所としよう。
 といった。
 が、会津人は、京都をしらない。
 ・・・
そこで、容保は、家老田中土佐を指揮官とする京都偵察団(野村左兵衛、小室金吾、外島機兵衛、柴太一郎、柿沢勇記、宗像直太郎、大庭恭平)を先発させ、このうち大庭恭平に対してはとくに容保自身、いいふくめ、
 --汝は過激人をよそおい、偽名を用い、すすんで浪士と交わり、その動きをさぐれ。
 と単身先発させた。
 ・・・
と、大庭は、藤兵衛と小里にいった。
「わしが会津藩士であることは他言してくださるな。人がきけば、御府内浪士一色鮎蔵(イッシキアユゾウ)という偽名にしていただく」
「江戸の人、と申しあげるのでございますか」
「そうだ。わしはありがたいことに江戸で剣術修行をしたおかげで、会津なまりがない」
(へえ…)
 ほとんど聞きとれぬほどの会津なまりのくせに、よほどの楽天家なのか、自分ではすがすがしい江戸弁だと信じこんでいる。
(いいひとなのだ)
 小里が、この大男に興味をもったのはこのときからである。


 秋になった。
 すでに京の浪士間で、一色鮎蔵という名は知られはじめていた。
 -- 
 腕は立つ、というのだ。しかも、激論家である(むろん偽装だが)。そのうえ、京にあらわれるなり、軟弱論を唱える志士数人を、下河原で一人、三本木で一人、四条の鴨川堤で一人、斬った。これが大そうな経歴になった。ちかごろでは河原町の長州屋敷や土州屋敷に出入りしはじめている。
「一色鮎蔵とは、かつて聞かなんだ名だが、どういう男か」
 と、興味をもったのは、錦小路の薩摩屋敷を根城とする同藩の激徒田中新兵衛である。この男は、土佐の岡田以蔵、肥後の河上彦斎(ゲンサイ)とならんで、幕末の人斬り男としてしられた人物である。

       三
 ・・・
大庭は一晩考えてから、もう一度田中土佐に会い、
「じつは、私案がござる」
といった。
「お人払いを」
「おお」
 田中土佐は急いで座敷を空にした。
「どういうことだ」
「左様」
 これを決行すれば京都政界に驚天動地の大混乱がおこることになり、薩長の宮廷勢力を一挙に削ぎ、会津藩入京後の政治的立場を有利にすることができるはずだった。
 --姉小路を暗殺する。
 これである。姉小路を殺せば(さらに三条中納言を加え二人同時に斃せば)この二人を操縦している長州藩の神通力をうしなわせることになり、さらにこの案をひとひねりして、この長州系公卿を薩摩藩士の手で斃させれば、もともと仲のよくない薩長両藩に致命的ひびが入り、同時に薩摩藩は公卿全体からきらわれて、その勢力も一時におちるだろう。
「一石三鳥の妙手でござる」
 ・・・
 その翌日、大庭は、木像事件の残党六人を大仏裏の寮にあつめ
「いいか、黒豆(姉小路卿)が軟化しはじめている。黒豆が軟化すれば、幕逆の白豆(三条卿)も影響されずにすむまい。このさい、二卿を斬って宮廷の惰気(ダキ)を払うのだ」
「よかろう」
 この連中に思慮などない。血気と功名心だけがあった。さっそく手配りして宮廷の情報をあつめると、明後日の五月二十日は廟議があり、最近の例からみて長びきそうだという。
 大庭はその前日、一同を御所周辺に連れて行って、十分に地形地物をみせた。

 --よいか。
 と、大庭は、いった。
 --
 金輪勇と吉村右京には君ら三人でかかれ。僕は姉小路を斬る。
(来た。…)
 と、大庭が一同の袖をひいたのは、亥の刻(夜十時)の鐘が鳴りおわったころである。
 闇のむこうに数人の足音がきこえ、先頭にに定紋の入った箱提灯がゆれている。少将は徒歩であった。
 少将の右わきに吉村右京、左わきに太刀持ちの金輪勇が従い、背後には、沓持(クツモ)ちらしい小者、といった一行五人で、ひたひたと近づいてくる。
 それが眼の前にきたとき、吉村右京が何事かを感じたのか、
「殿下。--」
 と立ちどまった。が、そのときに大庭恭平がおどり出て、少将のこめかみを、ざくっ、と割つけた。
(しまった。浅い)
 とっさに刀に馴れぬ、と思い、新兵衛の和泉守忠重をカラリと捨てて、自分の刀をぬいた。
・・・
--うむっ。
 と気合を入れ、肩を右袈裟に割ってから、
「退け」
 と命じた。

 ・・・
 大庭恭平は、その後行方不明。が釜師藤兵衛の菩提寺である鳥辺山の蓮正寺にはかれの墓碑と思われるものが、いまも朽ちて残っている。
 文久三年五月二十一日歿、と読めるから、これが大庭の墓碑ならば、事件の翌日自害したことになる。
 なんおために自害したか、かれの場合もまた、当時の会津人になってみなければわからない。
5ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
泉斬り
      一
 文久四(元治元)年の正月、当時、京の鞍馬口の餅屋の二階に潜伏していた長州脱藩の浪士間崎馬之助のもとに、夜陰、川手源内と梶原甚助のふたりの同志がたずねてきた。
 用件というのは、絵師冷泉為恭(レイゼイタメタカ)という者を殺すことであった。
「何者だ、それは」
「絵師だ」
「なぜ絵師づれを斬らねばならぬ」
 間崎はそういうことよりも、同志がもってきてくれた酒を冷やのままのどに押しながすことのほうに気をとられていた。温和な性格の男だったが、ひどく大酒家で、久坂玄瑞(クサカゲンズイ)も「間崎の酒は胃の腑を溶かしながら飲むような酒だ」といったことがある。酒で体をそこなうことをしんぱいしたのだろう。
 間崎馬之助は、論客の多かったいわゆる勤王のなかではきわだって無口な男で、秘密の会合のときなども、いつも後ろの座でねそべってほとんど口をきいたことがなかった。そのくせ、なんとなく同志のあいだで重んじられたのは、かれが、長州につたわる間崎夢想流という抜刀術の流儀の相続者で、剣をとっては京にきている諸国の脱藩浪士のなかではおよぶ者がないといわれていたからである。

・・・

「うわさだけではないぞ。あんたは、さきごろ、朝議の機密がしきりと幕府側にもれて大騒ぎになった一件をおぼえていよう。あのときは、三条実美公が、機密漏洩の張本人らしいという疑いがあった。三条公だけしか知らないはずのことが所司代に筒抜けになっていたからだ。機密が洩れたために、幕吏につかまった同志も二人や三人ではない。
このために、三条公に天誅を加えようという者も出た。わすれたか。 
「おぼえている。しかし、ほどなく三条公の疑いがはれたときいている」
「晴れていない。一時ほどではないが、いまなお機密が洩れ続けている。どうやら調べてみると、三条公の身辺に冷泉為恭という名が出た。この男は、ふるくから三条邸に出入りし、家来同然に昵懇(ジッコン)にしてもらっているらしい。三条公のはなしではこの男に語ったことだけが洩れている、というのだ。これが動かぬ証拠である。しかも三条公が、それに気づいて冷泉を遠ざけるにつれて、機密の洩れがすくなくなった」
「なるほど。--それで?」
「天誅を加える」
「可哀そうではないか」
「なぜだ」
「たかが絵師づれに」
「絵師とはいえ、六位の朝臣だぞ。しかもうわべながらも攘夷論を論ずるのが好きな男だ。彩管(サイカン)一本もたせておけば機嫌のいい絵師ではない」
 間崎馬之助はだまった。口に出してはいわなかったが、ここ数年、諸藩の脱藩浪士のあいだで「天誅」が流行しているが、すこしやりすぎではないか、とかれは思っている。
 京はひどく血なまぐさくなっていた。一昨年の文久二年七月二十日には、九条家の家来島田左近が木屋町二条下ルの妾宅で殺されているし、その二ケ月後に島田の同僚宇郷玄蕃が自宅で妻子と語らっているところを刺客にふみこまれて首をはねられた。その翌月には、目明し文吉が殺され、去年の五月二十日には国事係の公卿姉小路公知が御所を退出した帰路を要撃されて落命した。さらに千種家の雑掌賀川肇が、下立売千本東入ル町の自邸で殺されている。
 ・・・
       
 ・・・
その翌日、冷泉家の前を通りかかると、為恭がでてきた。
 拍子ぬけするほど貧相な四十男であった。はやりの黒縮緬の無紋の羽織に細身の大小をさし、毛の薄いあたまに諸大夫まげをのせていた。
 しかし為恭のあとからもう一人、背の高い男が出てきたとき、馬之助の顔が、おおわずこわばった。新選組の探索方で、米田鎌次郎という男である。人斬り鎌次郎といわれ、神道無念流の使い手で、この男に殺された尊攘志士の数は、五人や六人ではなかった。
(鎌次郎が、付け人になっているのか)
 二人は、馬之助とすれとがった。鎌次郎はちらりと馬之助をみたが、気づかない様子だった。
 ・・・
翌日、馬之助は、東山妙法院に潜伏している川手源内を訪ねた。
「冷泉為恭の居どころがわかった」
「どこだ」
 西加茂の神光院である、というと、気の早い川手はもう佩刀(ハイトウ)をつかんでいた。「よせ」と馬之助はするどくいった。
「西加茂は守護不入の地だ。社頭を血で汚しては、世の聞こえもわるい。為恭は、明日の小正月に家にもどるから、その帰路を扼(ヤク)せばよかろう」
「なるほど」
「しかし、わしはことわる」
「なぜだ」
「自分でも、よくわからぬ」
 正直な返答のつもりだったが、この答えは川手を激昂させた。
「かまわぬ。当方で有志を集めるだけだ」

       三 
 ・・・
 ところが、市中のうわさに、この朝、百万遍のあたりで浪人が殺されたという。このところ京ではありふれた事件にすぎなかったが、馬之助は、はっとした。 
 早速、太兵衛から笠と百姓蓑(ミノ)を借り、なかに刀をしのばせて、ふりしきる雪のなかを出た。現場についてみると、死体にはムシロがかぶせてあり、近所の男女が数人、それをかこんで立っていた。
「ほとけは、どなたです」
「さあ、知りまへんな」
 どの顔もおそろしく不愛想だった。この付近の五人組の者らしく、おそらく町年寄からいいつけられて、死体が雪にうずもれないようにときどきムシロの上を手ではらいおとすために立っているのだ。いい迷惑にちがいない。
「ちょっと、みせていただく」
 ムシロをめくると、予感はしていたが馬之助の顔色がかわった。まぎれもなく川手源内であった。左袈裟を心ノ蔵まで一刀で斬りさげられている所からみれば、よほどの腕利きの仕業とおもわれた。
 ・・・
 間崎馬之助は、なにげなく背後をふりかえってから、万一の用意に笠の結び目を解いた。武士たちが近づいてくるのである。
 武士の笠と蓑の上に雪がつもっていた。武士は十歩ほど手前でとまり、
「町人」」
 と声をかけた。馬之助はうずくまったまま、へい、と笠を解くまねをし、そっと上眼づかいに武士を見た。米田鎌次郎である。新選組がよくやる手だった。人を斬っておいてから、死体をそのままにしておき、同類の者が引きとりにくるのを待ち伏せるのである。
「このものの縁者か」
「いえいえ、ちがいまする」
「ほう、妙なナマリがあるな。名前と住(スマ)い生国をいえ」
 ・・・
 米田は、云いおわるなり抜き討ちで斬ってきた。馬之助は、雪の上にころび、五、六度勢いよくころがったが、鎌次郎のするどい太刀をかわしきれなくなった。
 幸い鎌次郎も雪に足をとられて、十分踏みこめない。
 馬之助は、そのスキにやっと立ちあがった。蓑のなかに大脇差がある。そのツバモトを左手でおさえ、腰をわずかに沈めた。
「ほう、やはり武士だったようだな」
 鎌次郎は、切先を上段にあげた。
「何藩だ」
「…」
 馬之助は、居合に構えたまま、何物も見ざるごとく眼を細めて立っている。ただ視野のなかをおびただしい雪片のみがいそがしく通りすぎた。真剣の立ち合いでは、鎌次郎のほうが場馴れしているだけに一日の長がある。しかしいま鎌次郎が仕掛けてくれば、馬之助の手は無意識にはたらいて相手を斬り倒すことができるだろう。
 が、鎌次郎は、
「やめた」
といって、刀をひき、
「いい芸をもっている。何流の居合だ」
「…」
「いずれ、顔をあわせることもあるだろう・そのときは君の首胴、所を変えるとおもっていたまえ」
 と鎌次郎は、京の浪士のあいだではやっている「給えことば」でいった。
 ・・・
 その翌日、間崎馬之助は、別に用があって河原町の土州屋敷にゆくと、顔見知りの坂本龍馬が暗い土間で呼びとめた。馬之助はおどろき、
「いつ京にのぼられたのです」
「きのう」
 と竜馬は、みじかく答えた。この男のくせで、懐(フトコ)ろ手をして首をしきりとふっては、骨をコクコクと鳴らしている。
「ところで」
 懐ろ手のまま、この男独特のえたいの知れぬ微笑みをうかべ、
「きょうの昼は、この藩邸ではきみの話でもちきりだったぞ。貴国の人が三人きて、川手源内の一件でひどくあんたを罵っていた。あんたは約束しておきながら逃げたというではないか」
「それがどうしたというのです」
「どうもしないさ」
 竜馬は、相変わらずコクコクと首を鳴らしている。
 ・・・
 馬之助は土佐の京都屋敷のなかでも、矯激な性格で知られている吉村善次郎と会い、
「あの一件は自分にもいい分はあるが、いまは弁じないことにする。とにかく冷泉為恭は私が斬る」 馬之助の本意は、もし土佐側で暗殺を考えているならばしばらく手をひいてもらいたい、ということであったが、吉村は鼻で笑い、
「それは君のご勝手だ。しかしわれわれの方にも多少の用意はある。それは十津川郷士の桜井忠蔵、大倉大八なども、冷泉のことで悲憤していたようだから、天誅は君だけにゆだねるわけにもいくまい」
やはり冷泉斬りは、諸藩の浪士の競争のようなものになりそうだった。

       四
 ・・・
 ところが、二月に入って御所の築地の下馬札に、何者とも知れぬ者が以下のような貼り紙をしたことから、事態は急変した。

 此者安政戊午(ツチノエウマ)以来、長野主膳、島田左近等に組し、種々大奸謀を工(タク)み、酒井若狭守に媚び、不正の公卿と通謀し悪虐数ふべからず。不日(ヒナラズ)我等天に代り、誅罰(チュウバツ)を加ふるべき者也。                                (原文のまま)

 いわば、天誅予告の公開状である。為恭が、かつて長野、島田と結んで悪虐をきわめたというのはすこし酷だが、いずれにしても書き手は為恭をねらう洛中の尊攘浪士であることはまちがいない。
 新選組からは米田鎌次郎がきて筆跡をしらべたり、所司代からは与力加納伴三郎が配下の同心数人をつれてきて貼り紙を撤去し、冷泉屋敷を警護したが、その程度の護衛ではもはや為恭の恐怖は癒えなかった。
 ・・・
  五
 その日、太兵衛の店でこの貼り紙のうわさを聞いた間崎馬之助は、為恭とは別の意味で狼狽した。
(無用のことをする。土州者のしわざだな)
 と、吉村善次郎の顔をおもいうかべた。おどしになっても、せっかくの魚をにがすようなものではないか。
 しかし、貼り紙の効用もあった。これによって市中の町民がにわかに冷泉為恭の身辺に注目しはじめたからである。
 ・・・
 …十日ばかりたったある日、ついに重大な変化がおこった。
 為恭が遁走したのである。
 「うわさ」は、為恭の駈けこんだ先までしっていた。西加茂の神光院であった。
 ・・・
 馬之助は侍姿にもどり、その日の暮れから西加茂に出かけてみた。
 ・・・
 杉木立が深まったため、足をふみおろす場所もわからぬほどに暗くなった。そのとき不意に、やわらかいものに蹴つまずいた。
 血のにおいがした。
 死体である。
 馬之助は、思いきって用意の馬乗り提灯に灯を入れて、死体を照らしてみた。名は知らないが見覚えのある男だった。
(十津川郷士だな)
 唇からあごにかけて一太刀いれられており咽喉(ノド)にも傷があった。馬之助は、米田鎌次郎が突きの名手であることを思いだした。
 そのとき、木立のむこうの神光院のあたりの闇に、急に提灯の灯が五つ浮かんだ。
 --みつかったか。
 あわてて灯を消した。
 提灯の灯はおそらく新選組の人数であろうと思われた。かれらにすれば冷泉為恭を護衛するよりも、冷泉をオトリにして浪士を誘(オビキ)よせるのが目的なのだろう。
 ・・・
 その後、二十日ばかりして冷泉為恭の運命はさらに急転した。
 明神の社家のほうから、神光院に対して故障がでたのである。--絵師が神光院に入って以来、神域に不浄の幕吏が出没することが多いののははなはだ迷惑である、というのであった。
 神光院の月心律師もこれにはさからうことができず、為恭に因果をふくめ紀州那賀郡粉河の山中にある粉河寺あての書状をもたせて暮夜ひそかに寺を出立させた。
・・・
おっつけ、京から刺客がくだるでしょう」
「間崎様は、なぜ参られませぬ」
「遠すぎる」
 といったのはていのいい口実で、間崎馬之助は、このころには、あのあわれな絵師を討つ意気ごみが失せはじめていた。
 ・・・
「絵師は、私でなくても、だれかが討つ。私は、あの正月十五日の雪の日に百万遍の挙に加わらなかったというので卑怯よばわりされた。あのとき不幸にも川手源内が斬られたが、かれを斬った男は申すまでもなく絵師ではない。新選組の米田鎌次郎という男です。私がこの男を討てば、川手の恨みもはれ、同時に私の恥辱も消えることになる」
 元治元年三月に入ると、絵師冷泉為恭の噂は京の市中から消えてしまった。
・・・
 そのころ間崎馬之助は、長州にもどらねばならぬ所用ができ、そのことで在京の同志と数度会合をかさねたことがある。最後の会合は、六角二条の旅館丹波屋嘉兵衛方でひらかれたが、その帰路、長州屋敷に立ちよるため河原町通りまで出たとき、不意に巡邏中の新選組隊士五人に出会った。
 すでに薄暮になっている。
(逃げるか)
 とっさに思ったが、かえってあやしまれると思ったので、そのままの足どりを変えずに歩いた。
 ・・・
 すれちがって事もなかったため、馬之助はおもわず急ぎ足になった。
 そのとき、あとで考えれば天祐といっていいことだが、右の雪駄の鼻緒がきれた。馬之助は右ひざを立てて、かがみこんだ。通りかかった町家の隠居風の老婆が
「どうおしやした」
 と親切にも寄ってきて、ふところから手拭いを出して引き裂き、
「据えて進ぜましょう」
 と、馬之助の前にかがんでくれた。馬之助は顔をあげて礼をいった。その顔をあげた拍子に、むこうから米田鎌次郎が近づいてくるのを見たのである。
 鎌次郎は気づいていない。
 ・・・
「あばあさん」
 と馬之助は小声でいった。話しかけながら、そっと構えをなおした。
「しばらく動かないでください」
「どうしてどす?」
 老婆は、おだやかに微笑している。
「むこうから男がきている」
「顔をみられとうおへんのどすな」
「左様」
 鎌次郎が、老婆のうしろ三歩まできたとき馬之助はいきなり、
「米田ーー」
 と低い声でよんだ。人斬り鎌次郎は、はっと刀のツカに手をかけた。その刀がなかば鞘からすべるのと、馬之助の体が老婆の背を跳びこえるのと同時だった。米田鎌次郎の刀が鞘から地上にすべり落ち、額が、鼻先まで真二つに割れた。
 ・・・
6ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
祗園囃子
       一
 大和十津川の郷士で、浦啓輔(ウラケイスケ)。
 --といえば、元治元年から慶応年間にかけて京の志士のあいだで高名な若者である。
「浦の剣、粗剛なれども気品り」
 と言われた剣客である。
 剣は、義経流といい、今日でも古流の武芸家でこれを伝えている人があるが、十津川郷につたわった古拙な太刀わざである。それに独自の居合術を工夫し、
「浦の籠手(コテ)斬り」
 といえば、新選組でさえおそれた。
 元治元年の禁門ノ変ののちは、洛中、新選組の暴威がすさまじく、過激武士のなかでもほとんどこれに正気で立ちむこう者もいなくなったが、浦はしきりと挑戦し、数度路上で争闘し、三人まで斬った。---人斬り、と異名(イミョウ)された、土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦斉(ゲンサイ)でさえ、新選組に対しては一度も太刀をあわせなかったことからみても、浦啓輔の一種の人気がわかる。
 ・・・
 千葉赤龍庵(セキリュウアン・浦啓輔の学問の師匠・浦家の宗家)は、この大和十津川郷における幕末の勤王提唱者のひとりで、壮者のころ、水戸藩の藤田東湖をたずねたことが、なによりの自慢であった。
 当時、水戸藩といえば、水戸光圀以来、勤王思想の本山である。安政の大獄で捕縛された政客、論客のほとんどは水戸学派の影響をうけ、その洗礼を受けにゆくことを、「水戸詣(モウデ)」といい、たいていは、一度は水戸の地を踏んでいる。
 そこを赤龍庵も踏んだ。これが、老人の生涯の自慢になった。
「当節。--」と、この老人は口ぐせのようにいう。
「亡き東湖大先生に拝顔した者でその志を生かしているものは、薩州の西郷吉之助とわしぐらいのものであろう。先年の大獄で死んだ長州の吉田寅次郎(松陰)も水戸の地を踏んだのは二十二歳のときで、東湖大先生はご不在、やっと会沢正志斎、豊田天功などに会えただけである」
 当時、藤田東湖は、儒者とはいえ藩主斉昭の御用人で藩政の機密に参与するほどの政治家になっていたから大和郷士の千葉赤龍庵ごときが会えるはずはなかった。ところが、赤龍庵の名刺に、
 --大和十津川郷士。
 とあるのをみて、にわかに興をおこし書屋(ショオク)に通させたという。
「十津川の人とは、おめずらしい」
 東湖は珍獣でもみるように、何度もいったというのである。大和十津川といえば秘境といっていい山地だが、「古事記」「日本書紀」によれば、神代、国樔人(クズビト)という人種が住み、神武天皇が熊野に上陸して大和盆地に攻め入るとき、この天孫族の道案内をつとめた土着人がかれらの祖先である。以来、朝廷が、大和、奈良、京都とうつってもこの山岳人はさまざまな形で奉仕し、京に政変があると敏感に動いて、禁廷のために武器をとって起(タ)った。古くは保元平治ノ乱、南北朝ノ乱などに登場し、南北朝時代には最後まで流亡の南朝のために、足利幕府に抗した。水戸学は、北朝を否定し、南朝を正統とした史観を確立した学派である。東湖が、勤王史の生きた化石ともいうべき十津川の赤龍庵の出現をよろこんだのはむりもなかった。
 ・・・

       

 ・・・

「それで」
啓輔は聞いた。
「何者を斬るのです」
「ああ、まだおぬしには云わざったか。その仁は、年配は五十歳ほど。名は、水戸藩京都警衛指揮役
住谷寅之助(スミヤトラノスケ)だ」
「えっ」
 啓輔は、だまった。その名は聞いている。耳にたこができるほど、赤龍庵からきかされてきた名ではないか。
「水戸藩は」
 と赤龍庵はいつもいった。
「安政の大獄で弾圧されて以来、東湖先生のころとくらべると、人物落莫と(ラクバク)としている。藩内で党派が乱立し、たがいに抗争、殺戮しあって、ついに人物が尽き、勤王の本山として天下の志士に君臨してきた威容をうしなった。とはいえ、藤田東湖、会沢正志斎、戸田忠大夫、金子孫二郎、武田耕雲斎、藤田小四郎なきあと、たった一人の人物は生き残っている。住谷寅之助先生がそれだ。この人からみれば,薩長土の志士など、まるで孫弟子のようなものさ。公卿、諸侯のなかでも、この人を師と仰いでいる人が多い」
 土佐の山内容堂などは、とくにそうだと啓輔は聞いている。
 容堂候は、藤田東湖の生前、他藩の家臣ながら、師弟の礼をとってその時局に対する卓論をきいた。東湖なきあと、ある日、第二の東湖といわれる住谷寅之助を、江戸鍜場の上屋敷に招じた。
 東湖のときと同様、師弟の礼をもって、辞をひくくして時務のことをきいた。
 ・・・
啓輔も、なるほど若い。若いが、その師匠は、自称直系と称する水戸学者であった。水戸学のありがたさは知っている。
「山本どの」
 啓輔は、刀をひきつけた。
「申しておくが、われら十津川郷士は数千年の勤王郷士です。この京都御危難のときにさいし、禁門守護のつもりで上洛している。不埒な企てには、加担できませぬ」
「では、頼まぬ」
 山本は、立ちあがりかけた。
「待ちなさい、山本どの。あなたこそまさか逆徒ではありますまいな」
「なぜだ」
「高士住谷寅之助先生を斬ろうとしている。これは、われら勤王奔走の徒の自らの父祖を斬るようなものだ。返答はどうある。その次第ではこの場から去らせませんぞ」
「激するな」
 山本も、中腰で、刀をひきつけた。が、腕は、この単純な十津川郷士のほうがはるかに優っていることを、山本は知っている。
「すこし、話そう」
 ぐゎらり、と鞘ぐるみ自分の佩刀をむこうへ押しやり、
「君は遅れている」といった。「十津川の連中はみなそうだが、君までそうだとは思わなかった」
「……」
「時代は、急湍(キュウタン)のように動いている。それどころか、水戸はいまや逆徒といっていい」
 水戸は、死んだ藤田東湖もそうだったが、最後まで討幕は云わなかった。所詮は御三家のひとつである。幕府体制を改革する、とまではいう。それが水戸的政論の限界であり、もはや今日の情勢になってみれば、そういう俗論は時代の進行に大害がある、と山本はいう。こういう俗論がいま横行しているために、京都の公卿でさえ、倒幕の決断のついた者が、二、三しかいない。
「諸侯しかり」
 土佐の山内容堂がその好例である。これだけの大藩が動けば事が一挙に成るというのに、容堂はなお公武合体の白昼夢をいだき、倒幕論者の武市半平太以下を処刑してしまっている。
「その公武合体論の公卿、諸侯の教授役が、水戸藩京都警衛指揮役の住谷寅之助である。これを斃さねば、天下は動かぬ」
「何者が、幕府を倒す」
「よく訊いた。浦君、それは水戸藩ではないことは君でもわかっているだろう。むろん、薩長だ。もはや、水戸学などという紙の上の論議よりも、外国製の鉄砲、大砲、軍艦をもっている藩のみが倒せる。--浦君」
「なんです」
「君にだけいってやる。薩長は、倒幕の秘密盟約を結んだぞ」
「えっ」
 この両藩が、禁門のノ変以来犬猿の仲になっていることは啓輔もきいている。それが、いつのまに同盟したのか。
「とにかく、倒幕によってはじめて、天皇御親政の世がくる。君たち十津川郷士のそれが先祖代々の宿志であろう。それには、住谷を斬ることだ。住谷が生きて公卿を説きまわっているかぎり、かんじんの五摂家、清華家以下の公卿が薩長による倒幕に踏みきらぬ。踏みきらねば薩長による倒幕群に錦旗がおりぬ」
 ・・・

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