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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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旅順虐殺事件 従軍外国人新聞記者の記事

2017年10月26日 | 国際・政治

 旅順虐殺事件が世界に知られることになったのは、第二軍に従軍した外国人新聞記者による記事でした。でも、それは事件直後ではなく、しばらく経過して記者が戦地を離れてからであったようです。何故なら、外国人記者が従軍するにあたっては、日本軍の「外国人新聞記者従軍心得」に従う必要があり、またその取材には様々な制限があった上、発送する通信文は日本人将校の検閲を受けなければならなかったからです。

 旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月の日清戦争における旅順攻略の際の事件ですが、アメリカのニューヨークやワシントンで大騒ぎになったのは、「ワールド」(12月12日付)第一面に「日本軍大虐殺」の大見出しで掲載された戦争特派員・クリールマンのわずか百一語の署名記事であったといいます。
 当時外務大臣であった陸奥宗光は、事件の報道を知り米国人情報工作者エドワード・H・ハウスを通してワールド宛てに弁解の声明文を送ります。その声明文は「日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず、却(カヘ)って事実の確かなる所を”取調べ”国の尊厳を保つに必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり」と始まっています。
 日清戦争に法律顧問として従軍した有賀長雄によれば、事件の報道後、大本営からの使者が、第二軍司令官大山巌宛の参謀総長有栖川宮熾仁(アリスガワノミヤタルヒト)からの書状を持参し、回答を求めたということですが、それが陸奥のいう”取調べ”だと考えられています。そして、第二軍司令官大村巌とともにいたであろう有賀長雄が、司令官が「其ノ事実ノ信ナルヲ承認」したと書いていることは見逃せません。その回答は「事件ニ関スル公然ノ解釈」で「日本軍隊ノ見解ヲ代表スルモノ」だというのです。
 でも、次のような四つの理由をあげて、虐殺の事実を認めたということだったようです。

左記ノ事実ヲ以テ推究セハ二十一日ニ於テ市街ノ兵士人民ヲ混一(コンイツ)シテ殺戮シタルコトハ実ニ免レ難キ実況ナルヲ知ルヘシ。
 一、旅順口ハ敵ノ軍港ニシテ市街ハ多クノ兵員職工ヨリ成立セシコト
 二、敗餘(ハイヨ)ノ敵兵家屋内ヨリ発砲セシ事
 三、毎戸ニ兵器弾薬ヲ遺棄シアリシ事
 四、我兵ノ同市ニ進入セシハ薄暮ナリシ事
 
 被害を受けた側からすれば、こうした理由は受け入れ難いものであろうと思います。そして、下記の外国人記者の記事が、それさえ事実に反することを明らかにしているのではないかと思います。
 外務大臣陸奥宗光の声明文の言葉に反し、時の政府が、きちんと虐殺事件に向き合わず言い訳や隠蔽工作に終始したこと、そして、そうした姿勢がその後の政府にも受け継がれていったことを、残念に思います。
 下記は「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。
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                市街の兵士人民ヲ混一シテ殺戮  12月21日

  3
 歩兵第二連隊を主力とする将兵が旅順に突入してからの一部始終を、市街がよく見渡せる白玉山の山頂に立って、外国人従軍記者たちが見ていた。そこで各人が目にしたものは、のちにそれぞれの新聞に記事となって掲載された。
 ジェームズ・クリールマンは、「ワールド」(12月20日付)に書いた。

 日本軍が旅順になだれ込んだとき、鼻と耳がなくなった仲間の首が、紐で吊されているのを見た。また、表通りには、血のしたたる日本人の首で飾られた、恐ろしい門があった。その後、大規模な殺戮が起こった。激怒した兵士たちは、見るもの全てを殺した。
 自分のこの目で見た証人として私は、憐れな旅順の人々は、侵略者に対して如何なる抵抗をも試みなかったと断言できる。いま日本人は、窓や戸口から発砲されたと述べているが、その供述はまったくのでたらめである。
 捕虜にするということはなかった。
 兵士に跪き慈悲を乞うていた男が、銃剣で地面に刺し通され、刀で首を切られたのを、私は見た。
 別の清国人の男は、隅で竦んでいたが、兵士の一分隊が喜んで撃った。
 道に跪いていた老人は、ほぼ真っ二つに切られた。
 また、別の気の毒な人は、屋根の上で撃たれた。もう一人は道に倒れ、銃剣で背中を何十回も疲れた。
 ちょうど私の足元には、赤十字旗が翻る病院があったが、日本兵はその戸口から出て来た武器を持たない人たちに発砲した。
 毛皮の帽子を被った商人は、跪き懇願して手を上に挙げていた。兵士たちが彼を撃ったとき、彼は手で顔を覆った。翌日、私が彼の死体を見たとき、それは見分けがつかぬほど滅多切りにされていた。
 女性と子どもたちは、彼らを庇ってくれる人とともに丘に逃げるとき、追跡され、そして撃たれた。
 市街は端から端まで掠奪され、住民たちは自分たちの家で殺された。
 仔馬、驢馬、駱駝の群が、恐怖に慄く多数の男と子どもとともに旅順の西側から出て行った。逃げ出した人たちは、氷のように冷たい風のなかで震え、そしてよろけながら浅い入江を渡ったが、弾丸は標的に命中しなかった。
 最後に入江を渡ったのは二人の男であった。そのうちの一人は、二人の小さな子どもを連れていた。彼らがよろよろと対岸に着くと、騎兵中隊が駆けつけて来て、一人の男がサーベルで切られた。もう一人の男と子どもたちは海の方へ退き、そして犬のように撃たれた
 道沿いにずっと、命乞いをしている小売商人たちが撃たれ、サーベルで切られているのを、私は見ることができた。戸は破られ、窓は引っ剥がされた。全ての家は侵入され、掠奪された。
 第二連隊の第一線が黄金山砲台に到達すると、そこは見捨てられているのがわかった。それから彼らは逃げる人でいっぱいのジャンクを見つけた。一小隊が埠頭の端までひろがり、男や女、それに子どもたちを一人残らず殺すまでジャンクに発砲した。海にいる水雷艇は、恐怖に打ちのめされた人々を満載したジャンク十隻をすでに沈めていた。
 五時頃、退却する敵を追って行った乃木以外の全ての将軍が、陸軍大将とともに集まった操練場に音楽が流れた。何と機嫌良く、何と手を握りあっていたことか! 楽隊から流れる旋律の何と荘重なことか! 
 その間ずっと、私たちは通りでの一斉射撃の響きを聞くことができ、市街にいる無力な人々が、冷血に殺戮され、その家々が掠奪されているのを知ることができた。

 クリールマンのこの文の前に、「旅順占領の物語は、歴史の最も暗い頁のひとつになるだろう」と憂え、日本に対し、「東洋の暗闇のなかで、目下のところかくも穏やかな光を放っていた、アジアの光明が消えるのを見るのは辛いことだ」と記した。
 
フレデリック・ヴィリアースは21日午後目撃したことを「スタンダード」(1月 7日付)で、クリールマンと同じく吊された生首について触れたあと、続けていう。

 一時半に、砲兵三中隊と歩兵の大軍勢が、市街地以上に港を見渡せる丘の頂上に移動した。四時十五分前には、今や連隊長伊瀬知大佐の率いる西旅団第二連隊が市街に向かって進軍した。清国軍の縦列が移動するときは常に援護していた偉大なる黄金山砲台は、現在は伊瀬知大佐の率いる地の方へ、二、三発の砲弾を落とし、ほんのわずかな効果をあげているだけであった。そして砲台は突然に砲撃を止め、日本軍は市街に通ずる小さな鉄の橋を渡った。進軍中の歩兵たちは、十八日に敵の手中に落ちた戦友の首が道沿いの一ないし二本の立木の枝に吊されているという、激怒を誘うような光景を目にした。もっと先には、家屋の低い軒に唇を紐で貫かれて吊されている、身の毛もよだつもう二つの生首があった。将兵は堪忍袋の緒が切れ、家屋に潜む敗兵の捜索に射撃隊が分遣された。
 まもなく、彼らが出合う全てのものに対し発砲が始まった。山地中将のかたわらに控え、清国兵の進撃をくい止める一方で、エシオ山(どの山をさすのか不明)でいつもながらの矢面に立ち昂ぶっていた第二連隊は、血の気の失せた、切断された、死んだ戦友顔の見世物に激怒し、出会うところの命あるものは何でも射殺しつつ、銃剣で突き殺しつつ、通りに殺到していった。犬、猫、それに迷子の騾馬までもが切り倒された。大山大将の頼りになる声明の効力を恃(タノ)みにしていた商人、店主、住民らは、アジア人の敵に叩頭する用意をして立っていた。彼らは西洋風の洗練された軍用マントを着用していたと思われる。侵略者(インヴェ゙ーダーズ)が国に隊伍を組んでやって来たとき、民間人の顔に歓迎の臆病な笑みが浮かぶのを私はよく目にした。これらの哀れな民間人たち-年老いた白髪まじりの男たち、青年たち、壮年の男たち-は、それぞれの家の戸口に立っていて切り倒された。村田銃の銃声に対し、この行き過ぎた行為の弁明を正当化する応射は、市街のどこからもなかった。軍隊が船渠
(ドック)に到着したとき、作業場や鉄の索具のかげから二、三発が発射され、近くに兵士がいることを警告したに過ぎなかった。四人の英国人が、市街を見渡せる丘から旅順への進撃と通りでの残酷な所業を見ていた。しかし、日本兵は自分たちがしたことの多くに対して、あらゆる弁明があった。彼らの眼前にぶら下がっていた身み毛のよだつような生首の姿は、最も人情あるヨーロッパの軍隊の胸中にも野蛮さをかき立てるのに十分であった。 十一月二十一日午後はこのようなものであった。

 「タイムス」(1月8日付)に、コーウェンが書いた記事もみなくてはなるまい。先に触れたように、この記事の原稿は1894(明治27)年12月3日に神戸で書き上げられたものであった。

 二十一日午後二時を少しまわったころ、日本軍が旅順に入ったとき、清国軍は市街の街外(マチハズ)れの建物の間に戻るまで、遮蔽物から遮蔽物へと移動しながらゆっくり退却し、最後まで死物狂いで抵抗した。そしてついに、全ての抵抗が止んだ。彼らは完全に敗北し、なし得る最善のこととして、隠れるか、国内を東から西へと逃げるかしながら、通りを潰走していった。私は「ホワイト・ボウルダー」(白い玉石)、日本語で白玉山と呼ばれていた険しい丘の崖縁(ガケップチ)に立っていた。西港が背後に、テーブル・マウンテン(案子山を指すと思われる)砲台が左側に、黄金山砲台と海が右側に、東の砲台が市街越しの前方はるかかなたにと、足元に市街全体の光景を間近に見渡すことができた。私は、日本軍が進撃し、通りや家のなかに繰り出し、進路を横切る全ての生きているものを追跡し殺害するのをみて、その原因を懸命に捜した。私は実際に発砲されるのを目にしたが、日本兵以外からのものは何もなかったと疑いもなく誓って言える。多くの清国人が隠れ場所から狩り出され、射ち倒され、切り刻まれるのを目にした。ひとりとして戦おうとはしていなかった。皆、平服を着ていたが、それは無意味であった。何故なら、死にたくない清国兵は、彼ら流に制服を脱いでしまっていたからだ。多くの者が跪き、叩頭の格好で頭を大地に曲げ哀願していた。そのようない姿勢のまま、彼らは征服軍に無慈悲にも虐殺されたのであった。逃げ遅れた者は跡を追われ、遅かれ早かれ殺された。私の目にした限りでは、家屋からは一発の発砲もなかった。私はモニュメント(1666年に起きたロンドン大火の記念塔)の天辺(テッペン)からロンドン・ブリッジをみるように、小さな市街のあらゆる場所がみて取れた。私は自分の目を信じることができなかった。何故なら、私の通信が示しているように、私を温和な日本人に対する称賛の気持ちで一杯にしてくれたということは、それまでの日本軍の行動に議論の余地がないという証拠であった。そこで私は、これには何らかの理由があるはずだと確信して、必死になってほんのわずかのしるしも注意深く見ていた。しかし、何も見出せなかった。仮りに私の目が自分を欺いていたのであれば、他の人々も同じ状態にあったことであろう。英国と米国の公使館付き陸軍武官もボウルダー・ヒルにいて、同様に驚き、かつ戦慄していた。彼らが断言したように、それは蛮行のむやみな噴出であり、偽りのやさしさの胸を悪くさせるような放棄であったのだ。
 背後での射撃は、私たちの注意をひろい潟へとつながる北の入江へ向けさせた。そこでは、攻囲された市街に遅くまで留まり過ぎたパニック状態の逃亡者、つまり男や女や子どもたちを通常の二倍も乗せたボートの群れが、西へと移動していた。士官に率いられた日本軍騎兵部隊が入江の上手にいて海の方向に発砲し、その射程内の者全てを殺戮した。年老いた男と十歳か十二歳くらいの二人の子どもが入江を渡り始めていた。騎兵が水の中へ乗り込み、刀で彼らを何十回となく滅多切りにした。その光景は、手に何も持たず、私たちと家々の間の、海の方向に流れる、丘の裾にある小川が干上がった川床に沿って農夫の身形をした男が走っていくのが見えた。二十ないし三十発の銃弾が男の跡を追っていった。一度、男は倒れたが、すぐさま起き上がり、命からがら逃げ出した。日本兵は十分に狙いを定めるには興奮し過ぎていた。男は見えなくなった。だが、最終的に男が倒れたのは、九分九厘確実であった。
 別の哀れで不運な男は、侵略者が無差別に発砲しながら正面の扉から入ってくると、家の裏に飛び出した。路地に入った一瞬ののち、男は自分が二つの銃火の間に追い詰められているのに気付いた。私たちには、男が三回土埃りのなかに頭を垂れてから十五分間にわたりその悲鳴が聞こえた。三回目には、男はもう立ち上がらなかった。大いに吹聴されていた日本人の慈悲に縋(スガ)る形で二つ折れになり、男は横向きに倒れていた。日本兵は男から十歩離れた所に立って、狂喜して男に銃を向け弾丸を注いだ。
 さらに、多くのこれら哀れな死を、私たちは殺人者の手を止め得ないまま、目にした。もっともっと多く、人が話せる以上に多く、言葉をもって語れることの及ぶところではないほどに、気分が悪くなり悲しくなるまでに目にしたのだ。(中略) 私たちが目にしてきたようなことをすることのできる人々のなかに留まらねばならないのは、ほとんど拷問に近かった。

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旅順虐殺事件

2017年10月17日 | 国際・政治

旅順虐殺事件

  旅順虐殺事件は、1894年(明治27年)11月、日清戦争の旅順攻略戦の際、市内及び近郊で日本軍が清国軍敗残兵掃討中、多数の一般市民をも虐殺したといわれる事件です。南京大虐殺事件といろいろな面で似かよっていると思います。したがってこの時、政府や軍が旅順虐殺事件にしっかり向き合っていれば、その後の日本は、また違った道を進んだのではないかと思います。
 当時、国内ではすでに陸軍省や軍が、軍機・軍略に関する記事を新聞や雑誌に掲載することを禁じ、また、日清戦争に関する「検閲内規」を定めていたため、旅順虐殺事件のような事実が国内で報道されることはなく、逆に挙国一致の姿勢で、軍や政府を後押しするような報道ばかりが続いていたようです。
 問題は海外の報道です。陸奥外相は事件を知るとすぐに、海外報道を抑えるために在外公使に至急連絡するよう、外務省に電報を打つ一方、工作資金の工面についても、大本営に掛け合ったようです。その結果、事件直後に旅順事件について知る日本人は、ほとんどなかったようですが、少し間をおいて、海外の報道が日本に入り始めるのです。

 資料1は、旅順虐殺事件について、英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンから情報を得た陸奥外務大臣の対応と、その情報の概要を陸奥自身がまとめたものです。コーウェンが陸奥とのやりとりを短信にまとめ、会見の翌日広島から発信し、「タイムス」に取り上げられた記事の内容には、陸奥が敢えて触れなかった残虐な面も記されていたようです。
 陸奥の指示を受けて、各国駐在の公使もそれぞれ対応したようですが、特に工作資金に関するやりとりが含まれる在英臨時代理公使内田康哉の電文部分も合わせて抜粋しました。

 資料2は、事件の目撃者、クリールマンが横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ打電した記事の内容です。これが日米間の新条約締結に関わる大問題となったようです。

 資料3は、旅順虐殺事件の目撃者、クリールマンの記事が米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」に出て大きな問題になった後、陸奥が寄せた弁解の文章と、その米国側の受けとめ方に関する部分を「残心を以て其人口を殺戮したり」の中から抜粋したものです。陸奥の弁解の一文をもってして、「日本告白す」というのはちょっと違うような気がしますが、その海外報道を日本で取り上げる時、日本に都合の悪い部分を修正するような報道もいかがなものかと思います。

 資料4は、米国の報道関係工作資金に関する栗野米国公使とのやりとりの部分を抜粋しました。

 下記は、すべて「旅順虐殺事件」井上晴樹(筑摩書房)から抜粋しました。多くの漢字の読み仮名は省略しました。また、漢字の旧字体は一部を新字体に変更しています。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 戦捷後随分乱暴ナル挙動アリ
                      11月24日~12月6日
 1
 ・・・
 旅順虐殺事件とそれに続く日本政府の一連の慌しい反応は、第二軍に従軍していた外国人従軍記者が、日本に戻って来てから始まる。情報の操作と収集にぬかりのない陸奥にしても、この事件のその後の展開を予想していたであろうか。
 ・・・

 2
 英国「タイムス」の特派員トーマス・コーウェンは11月29日午前、広島・宇品港に着岸した長門丸から降り立ち、30日に運よく陸奥に会見することができた。それは夜になってからのことであったと思われる。ここで陸奥は初めて事件の概要を知ることになり、大いに驚き、同時に事の重大さを素早く感知した。会見を終えると直ちに、東京・外務省にいる事務官林薫(ハヤシタダス)(1850~1913)に宛て、英文の電報を打った。文面の冒頭には、在露公使を通じて在独公使、在英臨時代理公使、在仏公使、在米公使、在伊公使、在墺(オーストリア)臨時代理公使へ直接、以下の電文を送るようにと指示がなされていた。その内容の大意は、「旅順から帰還した欧州の新聞記者たちが、日本軍が同地を占領したのちに暴行を犯した、と申し立てているが、我々はこの件に関する公報を受け取っていない。
これを受け取ったならば、速やかに知らせるつもりだが、新聞で公になるかもしれぬこの件に関するどのような報道でも、まるごと打電せよ」というものであった。まず海外に手を打ってから、陸奥は今度は事の次第をより詳しく記し、やはり林宛てに暗号・至急電報を送った。これを陸奥が、「今日…」と買い出したときには、まだ11月のうちであったが、送信するときには12月1日を20分ほど回っていた。30分後に着信し外務省担当官の手で復元された電報は、次のようなものであった。

 今日タイムス通信記者一人旅順口ヨリ帰リタル者ニ面会セシニ日本軍ハ戦捷(センセウ))後随分乱暴ナル挙動アリ生捕(イケドリ)ヲ縛リタル儘(ママ)ニテ殺害シ若(モシ)クハ平民特ニ婦人迄ヲ殺シタルコトモ事実ナルカ如ク此事実ハ欧米各新聞社ガ目撃セシノミナラズ各国艦隊ノ士官特ニ英国海軍中将ナドモ実地ヲ見タリト云フ故ニ此新聞ハ東京横浜ノ間ニ広ガルベシ今日タイムス通信者ガ頻リニ日本政府カ取ルヘキ善後策如何ト尋ネタル故本大臣ハ之ニ答ヘ貴下ノ云フトコロ事実ナレバ実ニ痛嘆スベキコトナレトモ余ハ大山大将ヨリ公然ノ報告アルマデハ日本政府ノ意見ヲ云フ能ハズ而シテ日本兵隊ハ常ニ規律ヲ守ルモノンレハ若シ貴下ノ云フ如キ事実アルモ必ズ之ヲ起サシメタル原因アルベシ其原因ノ次第ニヨリ此ノ不幸ナル事実ヲ多少減少スヘキヲ信ズト云ヒ置キタリ閣下ハ此ノ本大臣ノ意見御了解ノ上若シ右ノ事実ガ顕ハレタルトキ何事モ(コミット)セザル様御話シ置キ降(クダ)サレタシ即(スナハチ)今日本政府カ如何ニ処分スベシト云ヒ若シ其処分出来ザルトキハ甚ダ不都合ナリ委細井上書記官帰京ノ上御聴取リアリタシ

 どこまでも慎重で冷静な陸奥であった。12月2日に陸奥は再度、林宛てに暗号・至急電報を送り、事件に関する在日各国公使らの談話や東京、横浜の内外新聞が事件を記事にしたときには、「御報知アリタシ」と念を押した。同じく2日の夜には、連合艦隊司令長官伊東祐亨(イトウユウコウ)(1843~1914)が、11月28日に大連湾から発した電報が大本営に届いた。しかしそれは、「旅順口占領後特ニ報告スヘキ程ノ事件ナシ」と書き始められていて、事実の確認には役に立たなかった。
 陸奥とのやりとりをコーウェンは短信にまとめ、会見の翌日、12月1日に広島から発信した。それが「タイムス」に報じられたのは、12月3日であった。その大筋は、陸奥が林に宛てた電報の内容と変わりはないが、事件の概要がわかる。

 清国軍は、最後まで抵抗した。清国兵が平服に武器を隠し持っているのを、私(=コーウェン)は目にしたし、爆裂弾を隠し持っているのも見つけた。
 民間人が戦闘に参加し、家々から発砲し、それゆえに彼らを根絶する必要があると判断した旨を日本軍は報告している。日本軍は、日本人捕虜の死体のうちの幾つかが生きたまま火焙りにされたり、手足を切断されたりしたのを目にし、より激昂したのであった。
 私が次ぐる4日間、市街では抵抗がないのを知っていた。日本兵は全市街を掠奪し、そこにいるほとんど全ての人々を殺戮した。ごく少数ではあるが、婦女子が誤って殺された。
 多数の清国人捕虜が、両手を縛られ、衣服を剥がされ、刃物で切り刻まれ、切り裂かれ、腸を取り出され、手足を切断されたことを、私はさらに陸奥子爵に伝えた。多くの死体は、部分的に焼かれた。

 ・・・

 しかし、新聞で公になるかもしれぬと陸奥が各国公使に書き送る以前に、海外の新聞にはすでに事件を匂わせるような記事が掲載されていた。例えば、米国ニューヨークで発行されていた「ワールド」には、11月29日付紙面に12月28日清国・芝罘(チーフー)発の記事があり、これが「清国人避難民」の語った旅順の様子を伝えている。その大意は「日本軍は老若誰であろうと射殺し、掠奪と殺戮は三日間で極に達した。死者は手足を切断され、手や鼻、耳まで切り落とされ、もっとひどいことも行われた。住民は無抵抗であったにもかかわらず、日本兵はこの地域をあらし尽くし、清国人とみれば全てを殺害した。旅順の全市街と港湾は死体でいっぱいになっている」。また、同日付紙面の別記事は、米国軍巡洋艦ボルチモアからの報告が、虐殺の話を裏付けていると伝えていた。また、これより前に、「タイスム」の11月26日付紙面には、たった一行ではあるが、旅順で「大虐殺(グレート・スローター)が起きたことが報告されている」と記されていた。
 陸奥が各国公使に通達するように林薫に指示した11月30日夜、サンクト・ペテルブルグを経由して、在英臨時代理公使内田康哉(ウチダコウサイ)(1865~1936)の電報(電受代1111号)が外務省へ向かっていた。入れ違いのように12月1日に届いたこの電報は、英文の電文と訳文とが一組にされて、林の手で広島にいた陸奥のもとへ改めて発信された。それは、陸奥が危惧していたことが、ロンドンの新聞紙上に現れていたことを示していた。しかし、「不當ナル記事當地ノ新聞紙上ニ顕ハルヽ毎ニ中央通信社ハ常ニ之ヲ辯駁ス」と内田の報告がそこには記されており、「タイムス」(11月28日付)が「日本兵暴(ミダ)リニ清国人民二百余名を虐殺せり」としたのを、「中央通信社」が否定の報道を(「タイムス」11月29日付)をした旨を伝えている。さらに続けて内田自身が言う。
”又旅順口ニ於テ日本兵ハ頗ル野蠻的ノ惨害ヲ行ヒタリト云フ上海發ルーター通信ハ本官之ヲ差止メタリ”
電報の原文には、翻訳はされなかったが、実はまだ文章が残っていた。
Cannot you grant money I have requested. I have no money from the beginning for press purpose.(=お願いした金員をお授けいただけませんか。最初から新聞用の金員は所持しておりません。)

 3
 ・・・
 それは、買収工作の結果であった。英国における新聞、通信界への工作は、1894(明治27年)年秋頃から活発化する。セントラル・ニューズは11月初旬あたりから、内田康哉、つまり日本政府の意に沿った通信を流し始める。時期は第二軍の行動と重なりあう。買収の効果が現れたということであろう。一例をあげれば、セントラル・ニューズは先の「タイムス」(11月28日付)の記事に対して、「戦時正當ノ殺傷ノ外清国人ハ壹名(イチメイ)モ殺害セラレタルモノナシ(電受第1111号電報訳文)と極めて乱暴な記事を流すのである。当時の新聞にはしばしば、様々なルートから来る正反対の内容を持つ記事が同時に掲載されることがあった。これが戦争という局面では、、なおさらに極端な形で表れたことであろう。内田は買収の効果に気をよくし、11月半ばに陸奥に宛ててセントラル・ニューズの動向を報告し、末尾には、「Allow me some money to acknowledge its past and future service. 」(=同社の以前以後の尽力に感謝するため幾許かのお金をお与えあれ)と記す。12月1日着の電文であった「money I have requested」とは、このことを指していた。
 内田の電文をみるや陸奥は折り返し(12月1日午後3時12分)外務省にいた林薫に宛て、必要な金額を「御見計(オミハカラ)ヒノ上御送金」するよう指示を出した。事件らしきものが起きてしまった以上、少なくとも協力的な通信社をさらに懐柔し味方につけるしかないと陸奥は判断し、大本営にも了承を取りつけた上で、翌2日にも再度、林薫に暗号・至急電報を打った。それは、内田へ「例ノ豫備金(ヨビキン)」のなかから二千円ほど送るように指示したもので、もし「豫備金ノ餘分(ヨブン)」が少なければ、大本営から支出してもらう許可を得ている、と申し添えていた。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 残心を以て其人口を殺戮したり 
                      12月12日~12月18日
 1
 12月11日、クリールマンは横濱から米国ニューヨークの日刊紙「ワールド」へ、短文を打電した。事件の目撃者による初めてのより具体的な記事であった。栗野が12月2日に外務省に宛て公信にあるように、これまで「清國人ノ野蠻的ノ行為ハ日本二対スル米國ノ好感淸ヲ好クスルノ傾キ」があったが、それは未だ事件を知らぬ時点でのことであって、12日付「ワールド」第一面に載った、わずか百一語からなるクリールマンの署名記事は、ニューヨークやワシントンを中心に”激震”を引き起こした。
 記事には、「日本軍大虐殺」と大見出しがつき、続いて「ワールド戦争特派員、旅順での虐殺を報告す」と中見出しが入り、「三日間にわたる殺人(マーダー)」「無防備で非武装の住民、住居内で殺戮(スローダード)さる」「死体、口にできぬほど切断(ミュークレイテイド)さる」「恐ろしい残虐行為(アトロシティ)に戦(オノノ)き外国特派員、全員一団となって日本軍を離脱す」と、小見出しが記事の要点を語っていた。クリールマンのこの記事は、その衝撃的な内容を強調するためか、他の記事よりも行間を余計に取って組まれていた。記事には、「1894年、プレス・パブリッシング・カンパニー(ニューヨーク・ワールド)による」と著作権が明示され、その下には「ワールドへの特電」と入っていた。特電は12月11日に横濱から発信されていた。記事の末尾には、クリールマンの名があった。のちに「萬朝報」は1895(明治28)年1月5日付紙面に「見よ外國新聞の通信者が如何に我軍を誹毀(ヒキ)するかを」と題し、途中に記者の弁駁を交えながら、クリールマンの記事を引用した。また「自由新聞」(同1月6日付)も「日米条約と米國上院」のなかで、これを掲載した。「日本」も同1月13日付紙面に「不埒なる記者の虚報」と題し、クリールマンを猛烈に罵倒する非難の一文を掲載したが、ここには記事の全文が翻訳されて引用された。

 日本軍は11月21日旅順に入り冷々たる残心を以て悉く其人口を殺戮したり
 防禦もなく武器をも有せざる住民は各々其家に於てせられたり屍体の惨状は言語の能く盡す所にあらず虐殺の無制限的に行はれたること三日にして全市悉く日軍の暴行に侵されざるなし是れ實に日本の文明を汚したる第一の血痕なり日本は此場合に於て再び野蠻に逆戻りしたり此暴行を為すに至りたるは事淸止むを得ざる所あるに由(ヨ)ると強弁するものあるも是れ虚妄なり信ずるに足たらず文明社会は此詳報を得ると共に唯だ戦慄するあらんのみ
外国通信者は此惨状を見るに忍びず一團となりて同軍を辞し去れり

 ・・・
 「ワールド」は12日付紙面に続き、13日付紙面にも事件に関する記事を掲載し、のみならず社説も事件について述べたものであった。もはや日清戦争のことではなく、事件についてであった。社説は「日本軍の残虐行為(ジャパニーズ・アトロシティーズ)」との題であった。従軍記者(目撃者)が事件について書いたものといえば、コーウェンの記事(「タイムス」12月3日付)が最初であったが、ここでは何故か、クリールマンの記事を「欧米の新聞中、残虐行為についても最初の信頼すべき記事」と自賛していた。日本政府が何よりも気にしていた新条約についても触れられ、日本はまもなく文明化するであろうが、そのときが来るまで正義と人道に悖る国に、我々の市民を守る権利を放棄する条約を締結するべきではない、と痛いところを突いていた。…
 ・・・
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 3 
 ・・・
 「ワールド」宛にハウスの手によって送られた陸奥の電報は(弁解の声明文)はニューヨークに15日深夜から翌未明にかけて届き、同紙編集室を狂喜させた。12月17日月曜日の朝、仕事に出かけるニューヨークの人々は、売店に置かれた「ワールド」第一面の左端、つまりトップ・ニュースの見出しに「日本告白す」という文字を見つけた。続いて「日本政府、ワールド紙に公式声明す」「国家的な自責の念を表明」「旅順における虐殺についてのクリールマン報道を裏付ける」「ありのままの真実が語られよう」「責任を問い、国家の名誉挽回の措置を講ず」「ワシントンニュースに驚愕す」「日本政府、戦争に関する通信を初めて送る」との中見出しや小見出しが、かなりのスペースを割いて割り付けられ、いやでも人目を引いた。12日付同紙のクリールマンの報告以来、米国政府でさえ「ワールド」の報道に並々ならぬ関心を寄せていたのである。「ワールド」の社主ジョセフ・ピューリツツァー(1847~1911)は、時の大統領スティーブン・G・クリーヴランド(1837~1908)を支持していた。クリーヴランドは第二十二代大統領(在任1885~1889)を務め、さらにベンジャミン・ハリソン(1833~1901)のあとをうけ、前年の1893年に第二十四代大統領に就任したところであった。このような背景によって、「ワールド」の記事はなおのこと政府筋に歓迎されたことと思われる。
 「12月16日、日本・東京発ーー以下の声明はワールド紙に発表することを、日本国外務大臣陸奥氏によって認可されている」という冒頭部分に続き、陸奥の声明文が始まる。のちに「時事新報」(1895年1月18日付)は、この声明を「所謂旅順の虐殺に付き」と題して翻訳転載し、また、「日本」(同1月30日付)も抄訳し転載した。前者で声明文は次のように訳されている。

 日本政府は旅順口のことを隠蔽せんと欲せざるのみならず却(カヘ)つて事実の確かなる所を取調べ國の尊厳を保つために必要なる所置(ショチ)を為さんことを欲せり元来戦争の始めより政府は何事に寄らず法外の處置(ショチ)なき様常に注意したるに此度(コノタビ)に限り其注意の充分功を奏せざるご如き赴きあるは実に文武諸官の最も遺憾とする所なり今日までに取調べたる所を以てすれば日本軍は
 第一同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨に堪へず遂に堪忍袋を破りしものゝ如し
 第二逃亡の支那兵は皆平服に姿を変へて潜匿(セントク)し以て日本軍の眼(マナコ)を暗(クラ)まさんとしたるが故に見当たり次第彼等を捕へたるものゝ如し
 第三既に同僚の残酷に殺されたるを見聞して憤慨措(オ)く能はざる上にその證跡(ショウセキ)毎日顕はれ而(シ)かも次第に其甚(ハナハダ)しきことを知りたるが為に益々憤慨に堪へざりしものゝ如し
日本政府は既往(キオウ)より将来に至るまで常に文明の主義に従はんと欲するものにして偶然にも其常道を外れたるが如き趣あるは遺憾に堪へざる所なれど併(シカ)し不都合なる観察を下し不公平なる見解を以て皇張誇大(クワチヤウコダイ)に説くものに向つて駁撃(ハクゲキ)を加へせざるを得ず日軍の為に殺されたるは大概(タイガイ)皆兵卒にして彼等は平人(ヘイジン)の衣服を奪ひ取りて形を変じたること其奪はれたる平人は皆疾(ト)くに隊を為して逃走したれども日本軍占領の後は追々(オイオイ)に帰り来りて各々(オノオノ)職業に安(ヤス)んじ日軍に向つて誠実を表(ヒョウ)し日軍の仁慈(ジンジ)に感ずること是皆間違ひもなき事実なり日本政府は実際起りしことを聊(イササ)かたりとも蔽(オホ)はんとの心なく実際兵卒以外の市民に害を加へんとの所存は毛頭なし左(サ)れば事実は成るべく速に報道さるゝも宜敷(ヨロシク)けれど極端なことを報じて与論を動かさんとするが如きは差控へられんことを希望す云々

「時事新報」掲載のこの記事には「云々」とあって、このあとにも文が続く印象を読者に与えるが、陸奥の声明文は以上であった。この文は広島で掲示されたものかどうかは不明である。「日本」に掲載されたものは、一段七行ほどの抄訳、抄訳というよりは要旨のみであったから比較の上、検証することはできない。それよりも、政府の声明でありながら、政府にとって都合の悪い部分、例えば第二の理由は、清国兵が民間人になりすまし大規模に逃亡しようとしたことになお一層いきりたち日本兵は無差別に報復を加えた、という訳が内容的にはより正しいのだが、そういった部分は検閲の際に手を入れられ改竄(カイザン)されたようだ。あるいは「時事新報」の自主規制なのか。
 ・・・
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
  4
 ・・・
 …9月17日には栗野から陸奥宛に、6000ドルので日本政府が望むサービス、つまり日本に有利になる記事を掲載してくれることを同紙が了解した旨の電報が届く。陸奥はあれこれ一ヶ月以上考えた末に、無号・親展の公信を10月26日に栗野に宛てて送った。

 ワシントンポスト新聞ハ金六千圓(ロクセンエン)ヲ以テ我ニ利益ナル新聞ヲ掲載セシムルコトヲ得ヘキ旨過般(カハン)電信ヲ以テ御申越(オモウシコシ)相成リタルモ其金高過当ト存候(ゾンジソウロウ)ニ付其次第返電致置キタルニ其後金千五百弗(ドル)ヲ以テ当分ノ間同新聞ヲ使用シ得ヘキ旨御申越之趣(オモムキ)承知致候然ルニ頃日(ケイジツ)接到(セットウ)シタル客月十九日及四月二十八日付スチーブンス氏私翰ノ趣ニ依レ者(ヨレバ)当初新聞利用之義ニ関シ本大臣ノ発シタル訓令ヲ誤解シ或(アルイワ)新聞紙ヲ専(モッパ)ラ我カ為メニ利用スル義ト解シタルモノト相見エ候本大臣ノ意ハ決テ左ニアラス

 このような次第で結局は「ポストに関する交渉ハ御見合せ可相成候」となったものの「尤(モット)もスチーブンスヨリ申越者若干ノ金ヲ公使館ニ備ヘ便宜新聞掲載ノ報酬又新聞記者饗応(キョウオウ)ノ費用ニ充ツル義ハ至極有用ノ事ト存候」ということになり、千円の為替が送られた。
 ・・・

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

 

 

 

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日清戦争と旅順虐殺事件 蹇蹇録より

2017年10月11日 | 国際・政治

 

 先日、旅先の大連で、日清戦争の際に「旅順虐殺事件」があったという話を聞きました。後の南京大虐殺につながる残虐事件だというので、当時外務大臣であった陸奥宗光の「蹇蹇録」に当たりました。

 「蹇蹇録」には、事件について詳しいことは書いてありませんでしたが、下記に抜粋したように、海外の報道を抑えるために陸奥宗光が様々な手を打ったことがわかりました。
 同時に、東学党の乱をきっかけとする日本の軍隊の朝鮮出兵が、とても強引で侵略的であったことも改めて確認することになりました。東学党の乱に対処するため、朝鮮政府が「援兵」を求めたのは清国です。おまけに、臨時代理公使杉村溶は朝鮮から、
我が公使館、領事館および居留人民を保護するため、我が国より多少の軍隊を派遣すべき必要を生じ来たることあるべきやも測りがたけれども、目下の処にては京城は勿論、釜山、仁川といえどもそれほどの懸念なしといえるが故に、我が政府はこの時において出兵の問題を議するはやや太早(タイソウ)たるを免れず

と報告してきていました。にもかかわらず、陸奥宗光は

もし清国にして何らの名義を問わず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは、我が国においてもまた相当の軍隊を同国に派遣し、以て不虞の変に備え、日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからず

と主張して閣僚の同意を求め、朝鮮出兵を決定しているのです。当時は、世界的にそうした傾向にあったのかも知れませんが、随分強引で勝手な主張だと思います。
 そして、朝鮮に軍隊を派遣した日本は、天津条約(将来朝鮮に出兵する場合は相互通知「行文知照(コウブンチショウ)」が必要)に従い、清国に行文知照しますが、総理衙門(清国で外交事務を専門に扱うために設置した官庁)は、それに対し、

清国は朝鮮の請に依り援兵を派しその内乱を戡定(カンテイ)するため、即ち属邦を保護するの旧例に依るものなるが故に、内乱平定の上は直ちにこれを撤回するはずなり、しかるに日本政府派兵の理由は、公使館、領事館および商民を保護するというにあれば、必ずしも多数の軍隊を派出するを要せざるべく、かつ朝鮮政府の請求に出でたるに非ざれば、断じて日本軍隊を朝鮮内地に入り込ましめ人民を驚駭(キョウガイ)せしむべからず、また、万一清国軍隊と相遇(ア)うときに当たり、言語不通のためにあるいは事を生ぜんことを恐るるが故に、この旨日本政府へ電達ありたき旨”

を在北京臨時代理公使小村寿太郎に要求しています。にもかかわらず、日本政府は

天津条約に従い朝鮮に出兵することを行文知照するの外、清国よりする何らの要求にも応ずべき理由なきを以て更に小村をして清国総理衙門に向かい、第一に清国が朝鮮に軍隊を派出するは属邦を保護するためなりというといえども、我が政府はいまだかつて朝鮮を以て清国の属邦と認めたることなく、また今回我が政府が朝鮮に軍隊を派出するは済物浦条約上の権利にこれ依り、またこれを派出するについては天津条約に照準して行文知照したる外、我が政府は自己の行わんと欲する所を行うにあるを以て、その軍隊の多少および進退動止については毫(ゴウ)も清国政府の掣肘(セイチュウ)受くべきいわれなし、また仮令(タトイ)日清両国の軍隊が朝鮮国内において彼此相逢い言語不通なるも、我が国の軍隊は毎(ツネ)に紀律節制に依りて進動するものなれば、決して漫(ミダ)りに衝突するの虞(オソレ)なきは我が政府の信じて疑わざる所なり、故に清国政府においてもまたその軍隊に訓令して事端を生ぜざるよう注意ありたし、との旨回答せしめたり。”

というのです。とても強引だと思います。そして、朝鮮に軍隊を派遣したのに、自ら独立国だと認めている朝鮮政府の意向はまったく無視していることがわかります。 

 そして、陸奥宗光は
”…、余は清国政府より公然出兵の通知を領収せし日に先だつこと両日、即ち6月5日を以て大鳥公使をして軍艦八重山に搭じ横須賀を出帆せしめたり。尤も軍艦八重山には今回新たに殆ど百名近き海兵の増員をなしたる上、…”
と先手を打って、大鳥公使の京城への帰任に海兵三百余を伴わせているのです。その後朝鮮の官軍が東学党の勢いを抑え込み、その進行を止めて、京城、仁川の平穏に心配がなくなっても、日本は出兵させた一戸(イチノベ)少佐率いる一大隊の陸兵および混成旅団を撤退させず、清韓両政府の撤退要求を退けています。
 また、大鳥公使の
”…朝鮮国は意外に平穏にして清国派出の軍隊も牙山に滞陣するまでにて、いまだ内地に進行するに至らず。而して第三者たる外国人の状況は以上述ぶるが如くなるを知りたるに依り、同公使は頻りに我が政府に電報し、当分の内余り多数の軍隊を朝鮮に派出し朝鮮政府および人民に対し特に第三者たる外国人に向かい、謂れなきの疑団を抱かしむるは、外交上得策に非ざる旨
の進言さえ、聞き入れませんでした。
 さらには、内乱はすでに平定されたので、日清は相互にその軍隊を撤退させるべきだという清国の提案や朝鮮の内政は朝鮮の自主的改革に任せるべきだという提案を聞き入れず、ともに朝鮮の内政改革に取り組むべきだと主張します。当初の「我が公使館、領事館および居留人民を保護するため」という軍隊派遣の目的が、いつの間にか朝鮮国の内政改革に変わっているのです。そこで、清韓両国は欧米各国に援助を要請します。
 その結果、先ず在東京露国公使ヒトロヴォーが陸奥に対し、本国の訓令であるとして、次のようなことを質問したと云います。
清国政府は日清事件に関し露国の調停を求め、露国政府は日清両国の紛議速やかに平和に帰せんことを希望するに依り、もし清国にして朝鮮派出の軍隊を撤去せば、日本政府も均しくその軍隊を該国より撤去することに同意せらるべきやと質問せり
でも、陸奥は同意せず、二つのことを提案します。
(一)朝鮮の内政改革を完結するまで日清両国相共にこれを担任することに同意するか、(二)もし清国をして何らの理由にかかわらず朝鮮の改革に関し日本と協同するを欲せざれば、日本政府が独力これを実行するに当たり該政府は直接にも間接にもこれを妨害せざるか、いずれか一方の保証を与えたる上その軍隊を撤去するに至らば、日本政府もまたその軍隊を撤去すべし
自ら”独立国である”と認めている朝鮮国政府の意向をまったく無視したこんな勝手な議論があるのだろうかと思います。事実上の拒否宣言だと思います。
 だから、露国公使は政府の訓令と称して公文を陸奥に手交します。その内容は
朝鮮政府は、同国の内乱既に鎮定したる旨、公然同国駐在の各国使臣に告げ、また日清両国の兵を均しく撤去せしむることに付き該使臣等の援助を求めたり。よって露国政府は日本政府に向かい朝鮮の請求を容れられんことを勧告す。もし日本政府が清国政府と同時にその軍隊を撤去するを拒まるるにおいては、日本政府は自ら重大なる責に任ぜらるることを忠告す”
というものですが、日本政府は内乱が未だ鎮定していないとして、その勧告、忠告を拒絶しています。そこで、露国政府は再び公文を送致します。その内容は
日本が今朝鮮に対し要求せらるる譲与は果たして如何なるものなるや。かつその譲与の如何なるものたるにかかわらず、いやしくも朝鮮国が独立政府として列国と締結したる条約と背馳(ハイチ)するものなるときは、露国政府が決してこれを有効のものと認むる能わず。将来無要の紛議を避けんがために、ここに友誼上再びこれを日本政府に告げ、その注意を促し置く”
と踏み込んでいます。

 英国は繰り返し、日清の話し合いを提案しますが、うまく進まず、英国外務大臣が日本駐箚臨時代理公使を通し、一つの覚書を日本政府に提出します。その概要は
日本政府が今回清国政府に対する要求はかつて日本政府が談判の基礎とすべしと明言したる所に矛盾し、かつその範囲の外に出でたり、日本政府が既に単独着手したる事柄といえども清国政府をして毫(ゴウ)も容喙協議せしめずというは、実に天津条約の精神を度外視するものなり、よってもし日本政府がかかる政略を固執しこれがために開戦するに至らば、その結果に対し日本政府はその責に任ずるの外なし
というものです。そして、その後さらに、
向後日清両国の間に開戦に至るも、清国上海は英国利益の中心なるを以て、日本政府は同港およびその近傍において戦争的運動をなさずとの約諾を得置きたし
といってきたといいます。また、英国外務大臣は在英国公使青木子爵を通じ、
日清両国の軍隊が各々朝鮮を占領しその間徐(オモウロ)に両国の協議をなすべしとの英国の提議に対し清国政府は既にこれに同意したり、よって日本政府もこの主義に基づき善後の策を講ぜらるべし
と勧告するに至りますが、結局戦を開くことになってしまいます。

 陸奥によれば、「従来我が国に対し最も友誼厚く最も好意を抱き居る」米国もまた、日本駐箚公使を通じて、概要次のような忠告をしてきたといいます。
朝鮮の変乱すでに鎮定したるにかかわらず、日本政府が清国と均しくその軍隊を該国より撤退することを拒み、かつ該国の内政に対し急激な改革を施さんとするは米国政府の深く遺憾とする所なり、米国政府は日本および朝鮮両国に対し篤(アツ)く友誼を抱くが故に、日本政府が朝鮮の独立ならびに主権を重んぜられんことを希望す、もし日本にして無名の師を興し微弱にして防禦に堪えざる隣国を兵火の修羅場たらしむるに至らば、合衆国の大統領は痛く惋惜(ワンセキ)すべし”
これに対し陸奥は、日本軍の撤退はかえって東洋の平和を保護する所以に非ず、として受け入れないのですが、そこに、朝鮮は何としても日本の支配下に置こうとする強い姿勢を感じざるをえません。
 
 下記は「蹇蹇録」陸奥宗光著/中塚明校注(岩波文庫33-114-1)から、「朝鮮出兵」や「旅順虐殺事件」に関わる部分を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第一章 東学党の乱
 ・・・
 東学党の勢い、日に月に強大となり朝鮮の官軍は到る所に敗走し、乱民終(ツイ)に全羅道の首府を陥れたりとの報、我が国に達するや、本邦の新聞紙は争いてこれを紙上に伝え、物議のために騒然、あるいは朝鮮政府の力、到底これを鎮圧する能わざるべければ、我が隣邦の誼(ヨシミ)を以て兵を派しこれを平定すべしと論じ、あるいは東学党は韓廷暴政の下に苦しむ人民を塗炭の中より救い出さんとする真実の改革党なれば、よろしくこれを助けて弊政改革の目的を達せしむべしといい、特に平素政府に反対せる政党者流はこの機に乗じて当局者を困蹙(コンシュク)せしむるを以て臨機の政略と考えたるにや、頻りに輿論(ヨロン)を扇動して戦争的気勢を張らんことを勉めたるものの如し。当時朝鮮駐箚公使大鳥圭介は賜暇(シカ)帰朝中にて住所あらざれども、臨時代理公使杉村溶(フカシ)は朝鮮に在勤すること前後数年、すこぶるその国情に通暁するを以て政府は勿論(モチロン)その報告に信拠し居たり。而して杉村が五月頃の諸報告に拠れば、東学党の乱は近来朝鮮に稀なる事件なれども、この乱民は現在の政府を転覆するほどの勢力を有するものと認むる能わず、またその乱民の進行する方向に因り、あるいは我が公使館、領事館および居留人民を保護するため、我が国より多少の軍隊を派遣すべき必要を生じ来たることあるべきやも測りがたけれども、目下の処にては京城は勿論、釜山、仁川といえどもそれほどの懸念なしといえるが故に、我が政府はこの時において出兵の問題を議するはやや太早(タイソウ)たるを免れずとなせり。しかれども常に乱雑なる朝鮮の内治、ややもすれば軌道外に奔馳(ホンチ)する清国の外交に対しては、予(アラカジ)めこれが計をなさざるべからずと信じ、余は杉村に内訓し、東学党の挙動を十分に注目すると同時に、韓廷のこれに対する処分如何および韓廷と清国使臣との関係如何を怠らず視察すべきことを以てせり。

 この時に方(アタ)りて我が邦(クニ)は正に議会開会中にして、衆議院は例に依り政府に反対するもの多数を占め種々の紛争を生じたれども、政府はなるべく寛容にして衝突を避けんことを試みたりしに、6月1日に至り衆議院は内閣の行為を非難するの上奏案を議決するに至りたれば、政府はやむをえず最後の手段を執り議会解散の詔勅を発せられんことを奏請するの場合に至り、翌2日、内閣総理大臣の官邸において内閣会議を開くこととなりたるに、会ゝ(タマタマ)杉村より電信ありて朝鮮政府は援兵を清国に乞いしことを報じ来たれり。これ実に容易ならざる事件にして、もしこれを黙認するときは既に偏傾なる日清両国の朝鮮における権力の干繋(カンケイ)をしてなお一層甚だしからしめ、我が邦は後来朝鮮に対しただ清国のなすがままに任するの外なく、日韓条約の精神もためにあるいは蹂躙せらるるの虞(オソレ)なきに非ざれば、余は同日の会議に赴くや、開会の初めにおいて先ず閣僚に示すに杉村の電信を以てし、なお余が意見として、もし清国にして何らの名義を問わず朝鮮に軍隊を派出するの事実あるときは、我が国においてもまた相当の軍隊を同国に派遣し、以て不虞の変に備え、日清両国が朝鮮に対する権力の平均を維持せざるべからずと述べたり。閣僚は皆この議に賛同したるを以て、伊藤内閣総理大臣は直ちに人を派して参謀総長熾仁(タルヒト)親王殿下および参謀本部次長川上陸軍中将の臨席を求め、その来会するや乃ち今後朝鮮へ軍隊を派出するの内議を協(カナ)え、内閣総理大臣は本件および議会解散の閣議を携え直ちに参内して、式に依り、聖裁を請い、制可の上これを執行せり。

 かく朝鮮国へ軍隊を派遣するの議、決したれば、余は直ちに大鳥特命全権大使をして何時たりとも赴任するに差支えなき準備をなさしめ、また海軍大臣と内議して同公使を軍艦八重山に搭じ、同艦には特に海兵若干を増載し、かつ同艦および海兵は総て同公使の指揮に従うべき訓令を発せしむることとなし、また参謀本部よりは第五師団長に内訓し同師団中より若干の軍隊を朝鮮に派するために、至急出師の準備をなすべき旨を命じ、また密かに郵船会社等に運輸および軍需の徴発を内命し、急遽の間において諸事最も敏捷に取り扱いたり。かかる廟算(ビョウサン)は外交および軍事の機密に属するを以て、世間いまだ何人(ナンビト)もこれを揣測(シソク)する能わず。而して政府の反対者は廟議既にかく進行せしを悟らず、頻りにその機関新聞において、もしくは遊説委員を以て朝鮮に軍隊を派遣するの急務なるを痛論し、劇(ハゲシ)しく政府の怠慢を責め、以て暗に議会解散の余憤を洩らさんとせり。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーー--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                  第九章 朝鮮事件と日英条約改正

 ・・・
 而して余が筆端已にここに及びたる上は、事のついでに更に日清交戦中に起りたる一事件が、復(マタ)如何に日米条約改正の問題に対し防障を及ぼしたるかを略述すべし。
 米国は我が国に対し最も好意を懐(イダ)くの一国なり。従来条約改正の事業の如きも他の各国において許多(アマタ)の異議ある時にも、独り米国のみは毎(ツネ)に我が請求をなるだけ寛容せんことを努めたり。特に明治27年、華盛頓(ワシントン)において彼我両国の全権委員が条約改正の会商を開始せし以来、何ら重大なる故障もなく着々その歩を進め、遂に同年11月22日を以て調印をするを得たり。しかるに彼の国の憲法に拠り総て外国条約は元老院の協賛を待つべき規定なるを以て、米国政府はこの新条約を元老院に送附したり。その後いくほどもなく、不幸にも彼の旅順口虐殺事件という一報が世界の新聞紙上に上るに至れり(この虐殺事件の虚実、また仮令事実ありとするもその程度如何はここに追究するの必要なし。しかれども特に米国の新聞中には、痛く日本軍隊の暴行を非難し、日本国は文明の皮膚を被り野蛮の筋骨を有する怪獣なりといい、また日本は今や文明の仮面を脱し野蛮の本体を露したりといい、暗に今回締結したる日米条約において全然治外法権を抛棄するを以てすこぶる危険なりとの意を諷するに至れり。而してこの悲嘆すべき事件は特に欧米各国一般の新聞上に痛論せらるるに止まらずして、社会の指導者たる碩学高儒の注目を惹くを免れざるに至り、当時英国において国際公法学の巨擘と知られたる博士チー・イー・ホルランドの如きは、今回日清交戦の事件に関し初めより日本の行動に対し毎事賛賞惜しまざりし人なりしも、この旅順口一件については如何に痛嘆せしや、同博士が「日清戦争における国際公法」と題する論述中に、「当時日本の将卒の行為は実に常度の外に逸出せり。而して彼らは仮令旅順口の塁外において同胞人の割断せられたる死屍を発見し、清国軍兵が先ずかくの如き残忍の行為ありしもというも、なお彼らの暴行に対する弁解となすに足らず、彼らは戦勝初日を除きその翌日より四日間は、残虐にも非戦者、婦女、幼童を殺害せり。現に従軍の欧羅巴軍人並びに特別通信員はこの残虐の状況を目撃したれども、これを制止する由なく空しく傍観して嘔吐に堪えざりし由なり。この際に殺戮を免れたる清人は全市内僅かに三十有六人に過ぎず。しかもこの三十有六個の清人は全くその同胞人の死屍を埋葬するの使役に供するがために救助し置かれたる者にして、その帽子に「この者殺すべからず」といえる標札を附着し僅かにこれを保護せり」という。これ過大の酷論なるべし。しかれどもこの事件が当時如何に欧米各国の社会を聳動せしやを見るべきなり)。何事にも輿論の向背を視て進退するに敏速なる米国の政治家は、かかる驚愕すべき一報を新聞にて閲読し決して対岸の火災として坐視する能わず、元老院はやや日米条約を協賛するに逡巡したり。同年12月14日を以て、在米栗野公使は余に電稟して曰く、「米国国務大臣は本使に告ぐるに、もし日本兵士が旅順口にて清国人を残虐せしとの風聞真実なれば、必定元老院において至大の困難を引き起こすに至るべし」と。余は直ちに同公使に電訓し、「旅順口の一件は風説ほどに夸大ならずといえども、多少無益の殺戮ありしならん。しかれども帝国の兵士が他の所においての挙動は到る処常に称誉を博したり。今回の事は何か憤激を起すべき原因ありしことならんと信ず。被殺者の多数は無辜(ムコ)の平民に非ずして清兵の軍服を脱したるものなりという。かかる出来事より更に許多の流説を傍生せざる内に貴官は敏捷の手段を執り、一日も早く新条約が元老院を経過するよう尽力すべし」といい送りたり。しかるに元老院は新条約に協賛することに遅々したるの後、漸くこれに一業修正を加えたり。而してその修正の文字は僅々なりしも殆どこれがために条約全体を破壊するの結果を生じたり。よって余は栗野公使に電訓し、更に米国国務大臣と許多の協議を尽さしめ、また元老院内有力の議員に対し種々の手段を施さしめ、漸く本年二月の初旬に至り元老院はこれを再議に附することを肯んじ、終(ツイ)に彼我共に満足すべき再修正を議決するに至りたり。これ即ち現今の日米新条約とす。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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