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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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シベリア出兵=シベリア戦争 目的の表と裏

2019年10月30日 | 国際・政治

 「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分で シベリアに派遣された日本軍は7万数千人の規模であったといいます。それは日本では「シベリア出兵」という言葉でよく知られていますが、その内容はあまり知られておらず、くり返してはならない問題もほとんど確認されてこなかったように思います。

 でも、「シベリア出兵」は、単に軍を派遣しただけではなく「戦争」でした。ロシアでは「シベリア戦争」と呼ばれているといいますが、その表現は間違っていないと思います。日本側が布告なしにロシアの領土で戦端を開き、厖大な戦費を注ぎ、日本側だけで3000人を超えるといわれる死者を出した武力衝突で「戦争」だったのです。それが、ロシアに対する「帝国主義的な干渉戦争」であったことは、下記の「後藤意見書」、第一部「西比利亜出兵ノ目的」の六項目や「二大利源」獲得が力説されている文章で明らかではないかと思います。

 日本の都合で、あえて「宣戦布告」なしに戦端を開き、外国の領土で武力を行使しながら、「○○事件」とか「○○事変」と呼んだ戦争がいくつかありますが、明らかな武力衝突である戦争が「出兵」と表現されている例はあまりないと思います。だから私は、帝国主義的な干渉戦争の実態を覆い隠すために、意図的に「出兵」という言葉が使われるようになったのではないかと想像します。

 また私は、軍事力で極東ロシアの要地を占領したこの「シベリア出兵(シベリア戦争)」が、明治以来の帝国主義的な領土拡張政策の一環であり、先の大戦における日本の敗戦につながる重要な問題を含んでいたのではないかと思います。
 司馬遼太郎は「この国のかたち 一」(文芸春秋 1986~1987)に”昭和ヒトケタから昭和二十年までの十数年は、ながい日本史のなかでも非連続の時代だったということである”と書いていましたが、明治維新以来の日本の戦争やシベリア出兵(シベリア戦争)の実態を考えると、とてもそうとは思えません。
 連合国が軍を撤退させた後も、日本軍だけが駐兵を続け、5年間わたって極東ロシアでやったことはいったい何だったのか、また、何をしようとしていたのか、それらを無視したり、軽視したりする歴史認識では、日本は近隣諸国はもちろん、諸外国の信頼を得ることができないのではないかと思います。

 また、310万人もの死者を出した先の大戦の過ちをくり返さないためにも、極東ロシアにおける日本軍の所業を直視する必要があると思います。

 先日、日本軍”慰安婦”の像がまた、ワシントン郊外のアナンデールに設置されたと報じられていましたが、目先の利益を優先させ、不都合な歴史の事実をなかったするような日本の政治姿勢では、日本軍”慰安婦”の像は、ますます増えていくのではないかと思います。そしてそれは、戦時中の日本を告発するのみならず、現在の日本をも告発するものとして存在することになるような気がします。
 「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」などと言って、不都合な歴史の事実をなかったことにするような日本の政治姿勢は、将来世代のためにも、改められなければならないと思います。

下記は、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)から抜粋しました。

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                       13 干渉構想の確立

 出兵目的の表と裏
 形式上連合出兵、実質上日本の主導権確保という参謀本部が先鞭をつけた出兵方式は、新外相後藤新平の下で公式に承認を与えられた。連合軍隊の参加に「異議ヲ有セス」という新外相の見解に、英仏伊各国はもとより、アメリカのランシング国務長官も満足した。石井菊次郎駐米大使は5月6日の国務長官との会見で、「出兵決行ノ際多数ノ軍隊ヲ出ス可キ日本ニ於テ命令統一ノ見地ヨリ指揮権ヲ執ルノ必要アルベキハ寧ロ当然」との言質をとった。
 後藤の考え方は外相就任後間もない頃の起草と考えられる覚書にすでに明確な形をとっており、「独勢東漸」に対しては「攻守両全」の見地から「黒竜浦潮方面ニ於ケル軍事的防衛」の必要なること、さらに両方面の治安を維持するため、ハルビンおよび「イルクーツク若クハ貝可爾以東ニ於ケル各地」に日本軍を進駐させること、ハルビン占領は中国軍を排して日本が独力で当たるべきであること、などの構想が記されている。
 当然、緩衝国擁立構想にも積極的であった。珍田大使に宛てた6月6日づけ電報の中で、後藤は極東地方で「自治又ハ独立」を志向する政治団体に援助を与え、「以テ露国復興ノ基礎ヲ作ラシム」との方針を述べ、さらに「『ホルワット』将軍『セメノフ』大尉等ノ一致団結ヲ図り之ト連絡ヲ保チテ行動スルコト適当ナルカ如し」とまで、具体的に言及している。「本野に劣らぬほどの、強硬な出兵論者」と評される所以である。
 後藤はまた、前任者と同様、外務省きっての強硬派若手官僚たる木村鋭市(政務局第二課参事官)および松岡洋右(外相秘書官)を重用した。
 6月中旬に作成されたといわれる後藤の長文の意見書「西比利亜出兵問題ニ関スル意見」の起草にも、彼ら強硬派若手官僚が当然参画している。もともと本野が引退間際に閣議に提出した意見書「西比利亜出兵問題ニ関スル卑見」は、松岡が首相と外相に提出した覚書を下敷きに木村が起草したものだが、後藤は木村に命じて本野意見書の新装増補版を作成させた。それが、後藤意見書である。
 後藤意見書は三部より成り、第一部「西比利亜出兵ノ目的」は本野意見書を整備して次のような六項目の箇条書きにしたものである。
 一「帝国自衛ノ必要独逸勢力東漸ノ危険」
 二「帝国ノ国際政局上ノ地位確立ノ必要」
 三「講和会議ニ於て発言権確立ノ必要」
 四「米国ノ西比利亜活動対抗策」
 五「帝国民心振興ノ必要」
 六「我対支政策上ノ必要」
 松岡、木村、本野の手を経て後藤が仕上げた日本政府の出兵目的綱領の輪郭がここに示されている。
 次に第二部「西比利亜出兵反対論ニ対スル弁妄」と、第三部「西比利亜独立援助ノ形式ニ依ル出兵ノ現下ノ最良策タル所以」は、本野文書にはなく、後藤が新たに展開した部分であり、とくに後者は政府上層部が軍部の推進する緩衝国擁立工作を一定の政治的判断の下に是認し、それに理論的正当化を与えたものとして重要である。
 その政治的判断とは、「独立援助」方式こそ、一「出兵論ノ目的ノ大部ヲ達し」、二「露国民ニ対シテモ其ノ反感ヲ招カス」三「出兵反対論者ノ憂慮スル危険ヲ除去シ」、四「連合諸国ノ要望ニモ副フ」、というものである。
 本野─後藤意見書は比較的早く(といっても20年後のことだが) その全文が世に知られたので、つとに歴史家の関心を引いた。中でも井上清氏はそれを分析することによって、極東ロシアにおける革命の打倒と傀儡政権の樹立、資源支配、対米対抗の基礎の確立、対列強対抗力の強化、ロシア分割の分け前確保、「満蒙」完全支配と中国における日本の圧倒的優位の確立、の諸点を抽出し、「これが当事者の告白するシベリア出兵の当初の真意であった」との重要な指摘を行った。

 ここでさらに一点、見落としてはならぬ、しかし両意見書で十分に意が尽くされていない出兵目的を補足しておく。それは「資源支配」や「ロシア分割の分け前確保」とも関連するが、端的にいえば中東鉄道全線およびサハリン島北半の「二大利源」獲得である。
 後藤が引き継いだとみられる一連の書類の中に「西比利亜出兵ノ急務」なる長文の文書がある。本野の意見書提出後、引き続き起草されたもの、といわれ、やはり松岡か木村の起草になるものとも考えられる。「二大利源」獲得が力説されている部分は是非とも引用しておかなければならない。

 独逸東侵ノ手先タル露国トノ接触地点ニシテ帝国国防上及経済的発展上ノ要衝タル北満ノ地ハ此ノ機ヲ利用シテ露国ノ手ヨリ脱出セシメ少クトモ自由競争地帯ト為サハ帝国ノ勢力当然ニ此ノ地ニ確実ニ扶植セラルヘク……而シテ出来得ヘクンハ満州横断ノ東清鉄道全部ヲ我カ出兵ノ報償トシテ樺太北半ト共ニ取得スルノ素地ヲ造ルノ要ナシトセス特ニ樺太カ帝国海軍カ保持ニ必要ナル石油ノ有望産地タルコトヲ忘ルヘカラス此ノ二大利源ヲ我手ニ収ムルノ必要ハ多年朝野ノ知悉セル所ニシテ実ニ帝国国防ノ独立及帝国ノ東亜ニ於ケル優越ノ地位ヲ確実ニ保持スル所以ナリ

 北進プログラムが垂涎の的としてきたものが「出兵の報償」の形で明記され、しかも中東鉄道についていえば、長春・ハルビン間取得の宿願が、いまや北満横断全線の野望にまでエスカレートしているのだ。
 中東鉄道の利権獲得は部分的にはすでにホルヴァートとの交渉の俎上にのぼっていた。日本軍の鉄道輸送と専用電信線使用をめぐる現地交渉は早くも3月26日から開始され、参謀本部が4月21日づけで外務省に提出した極秘文によれば、日本がホルヴァート支援の代償として取得した利権は、鉄道と通信に関する事項のほか、「秘密図入手」、「松花江、黒竜江船舶業」、「東清沿線森林及鉱山業」、「東清沿線土地家屋」など多岐にわたった。
 このような利害で結ばれている以上、ホルヴァートへの援助の打切りはありえず、彼の逡巡に業を煮やした中島が4月24日づけで進言した援助一時打切り案は陸軍首脳部の容れるところとはならなかった。5月4日づけで政府に提出された参謀総長名の建議において、「『ホールワットゥ』擁立ニ努力スヘキナリ」との方針が再確認され、その理由づけとして、「軍事上東支鉄道ノ我有ニ帰シアルコトノ絶対ニ必要ナルノ一事」が挙げられているのは特徴的である。
 東支鉄道全線取得の野望にはさらにその先がある。中島がまだ浦潮に滞在中だった3月初頭、彼は対米対抗策として次のような構想を田中に進言した。すなわち中島によれば、戦後は英米同盟して極東に勢力を拡張し、日英同盟は生ける屍と化すかもしれない。いまのうちに沿海・アムール両州に日本の勢力を伸ばし、時機をみてウスリー鉄道を買収するか、またはハルビン・ブラゴヴェシチェンスク間の鉄道敷設権をえて長春に接続し、アメリカが東から西に向かって伸ばす勢力を遮断する必要を感じる、というのである。

 ところで、以上で明らかにしてきた出兵の真意は、出兵を推進する勢力にとって裏面に伏せられるべきものであり、表面に掲げる名分たりえない。名分たりえるのはただ一つ「ドイツ東漸ノ危険」なるものであるが、よく考えればその根拠の薄弱性は目にみえている。「独逸東漸」説の虚構なることが誰の目にも明らかとなれば、出兵論はその依りどころを失うことは避けられない。ところが、ザバイカル戦線の状況はこの説にひとつの有力な補強材料を提供する。セミョーノフ軍と対抗しているソビエト軍の中に多数の「武装セル独墺ノ俘虜」が混入し、その活動が5月半ばから6月初めにかけてのセミョーノフ軍退却の主因をなしている、というのである。さらに決定的な材料として、6月から7月にかけて、今度は彼らいわゆる「武装独墺俘虜」がチェコスロヴァキア軍団を圧迫し、その東進を阻害している、との情報が浮上した。これらの情報の真偽はなお検討を要する問題であるが、(次の二つの章でそれを検討する)、いずれにしてもこれらの情報を操作することで右に述べた名分は保たれた。こうして、「武装独墺俘虜」からチェコスロヴァキア軍団を「救援」することが表向きの名目となったのである。
 真意と名分(ホンネとタテマエ)の、この埋めがたい隔たりこそ、これからはじまろうとする干渉戦争の性格をよく物語っている。
 

 

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尼港事件と「ザイェズドク 」

2019年10月23日 | 国際・政治

 赤軍パルチザンによる住民虐殺事件発生後、現地に駆けつけた救援隊によって、その状況が日本に伝えらると、新聞各紙は、これを下記のような見出しで、大々的に報道したといいます。

凶悪言語に絶する尼港の過激派/邦人130名を鏖殺(オウサツ)す/5月25日我が臨時海軍派遣隊の接近を予知したる在尼港パルチザンの暴挙」(『大阪朝日』6・7)、「板壁に残る同胞の絶筆『5月24日を忘るな』」「死体続々発掘/悲惨悲壮を極めたる我が同胞の最期」「荒寥たる焼野原に千秋の怨みを遺す我が同胞/見る物聞く物悉く悲憤の種」(同紙6・14─17)…”

 問題に思うのは、日本における尼港事件のこうした受け止め方は、今もそれほど変わっていないと思われることです。でも、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)には見逃すことのできない指摘があります。

 著者は、

ここで考えてみたいのは、日本軍が白衛派の加担者だったことに加えて、ほかにもアムール下流域住民の反日感情の根がなかったか、ということである。”

 として、

島田商店とリュリ兄弟商会は日露ブルジョアジーの代表格として周辺住民からとりわけ深い憎悪と怨恨を買っていたのである。島田の名は略奪的漁法「ザイェズドク」と結びついている。日本では忘れられているが、尼港事件を扱ったソビエト側文献で「ザイェズドク 」との関連性に言及するものは少なくない。

と指摘しているのです。
 「ザイェズドク」を含め、極東ロシアにおける当時の日本軍や日本人の様々な行いが反日感情をもたらした事実を、冷静にふり返らなければ、尼港事件を正しく理解することはできないように思います。

 私は、明治天皇の「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」のような領土拡張的考え方を背景に、法や道義を軽視し、日本の国家的利害を優先させて、琉球、台湾、朝鮮、清国その他に対する武力的政策を次々に決定した明治政府の政治姿勢が、その後も続いて、極東ロシアも日本の配下に置こうとしたために引き起こされた悲劇が、尼港事件ではないかと思います。

 日本側の資料だけでは、尼港事件の真相はよくわからないということを、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)は教えているように思います。長文ですが、同書から「20 岐路に立つ日本」の「尼港事件(2)焦土と化したニコラエフスク」を抜粋しました。

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                       20 岐路に立つ日本

 尼港事件(2)焦土と化したニコラエフスク
 4月4日・5日の事件は6日の閣議に田中陸相から報告された。この日の閣議では尼港救援隊出動の問題も審議された。日本軍尼港守備隊の全滅について情報はいまだ断片的であり、真相の究明はこれからという段階であるにもかかわらず事件に対する政府の認識と対応はすでに確定していた。原首相はこの日の日記に記した。

 ニコライウスク残殺の報に関し北海道より多少の兵を送らんとの議を出せしも目下氷結中にて途中にて止めるの外なきに付更に考慮する事と為したり。但我兵及び居留民領事迄殺害せられたりと云ふに於ては国家の為捨置き難き事は勿論なり。

 すでにみたように救援隊の編成はすでに終わっている。4月9日の閣議でその出動が正式に決定された。アムール河と韃靼海峡(間宮海峡)は依然として氷結していたが、待機中の尼港派遣隊(隊長大門二郎大佐)に対し、ひとまず北サハリンのアレクサンドロフスク(亜港と称した)に上陸したのち機をみて尼港に進発すべしとの指示が与えられた。2000人の部隊は18日と19日に軍艦見島、軍艦三笠の護衛のもとに小樽を出港、22日に亜港に上陸し、公式の占領宣言を発することなくここを占領した。五月半ばには後続部隊が小樽を出港して亜港に到着するが、これは北部沿海州派遣隊(司令官津野一輔少将)の主力で、先遣隊はその隷下に編入されて多門支隊となった。
 日本軍は日本に亡命していた帝政期のサハリン州知事グリゴーリエフを亜港に連れて行って傀儡政権の座につけようとしたが、不首尾におわった。後続部隊が到着した直後の5月17日、日本軍は尼港パルチザンの重要参考人としてサハリン島革命委員会議長のツァプコほか数名を艦上に連行した。彼らは以後消息不明となった。拷問を加えた上、海中に投棄したのだといわれている。
 多門支隊は5月13日より韃靼海峡対岸のデカストリに上陸し、陸路ソフィースク方面に進出、25日キジにおいてハバロフスクからアムール河を下航してきた第十四師団の増援隊と合流し、尼港を目指した。主力もこの日よりデカストリに逐次到着、偵察ののち河口をまわる径路をとって尼港を目指した。
 5月の解氷期を迎え、日本軍が尼港に接近してくると、市内には緊迫した空気がみなぎった。3月16日に開催されたサハリン州ソビエト大会以後、市は州ソビエト執行委員会の掌握下にあったが、日本軍の接近に伴って5月中旬からは軍事革命本部に全権が移された。構成はアナキストのトリャピーツイン(議長)、エスエル・マクシマリストのレベジェヴァ(書記)、「トリャピーツインのアナキスト・サークルの影響下にあった」農村教員の出身ジェレージェン、古参ボリシェヴィキ党員のアウッセム、地元農民のベレグートフ(委員)の五名である。
 トリャピーツインはヴラヂーミル県の職人の家庭に生まれ、金属工となり、革命の前年に義勇兵として入隊した近衛ケクスゴリム連隊で軍事技術を身につけた。1919年に極東にきてスーチャンのパルチザンに加わったが、小部隊が単一の指導下に統治されたとき服従を嫌ってスーチャンを去り、アナスタシェフカ協議会に参加したのち、尼港への行軍の過程で司令官として頭角を現した。
 トリャピーツイン司令官には、その「独裁者風の性癖を抑える力をもった」ボリシェヴィキのナウーモフ参謀長がついていたが、彼が3月13日に戦死したあとは「典型的なプチ・ブル革命家」ともいう女性闘士のレベヂェヴァが参謀長に就任した。レベヂェヴァはアナスタシェフカ協議会に参加する前、アムール州でアナキスト、マクシマリスト、ボリシェヴィキの三派連合形成の主唱者として活動した経験がある。尼港でも彼女の提案でこの三派からなる「ソビエト派左翼諸政党ビューロー」が結成された。サハリン州ソビエト大会で選出された執行委員会もまた三派の統一戦線とみることができ、それは軍事革命本部にも受け継がれた。ただし後者はアナキスト=マクシマリスト連合の色彩が濃い。権力はトリャピーツインとその取巻きに集中され、執行委員会は名目上のものになった。
 アウッセムはトリャピーツインが「怪しげな前歴の連中から成る特別の親衛隊」を自分のまわりに作り上げたとして、ラプタ、ビツェンコ、サソフ、オツェヴィリの名を挙げている。「怪しげな前歴」というのは、たとえばハバロフスクの荷役労働者出身のラプタがパルチザンに加わる前カルムイコフのもとで拷問係をつとめていた事実などを指す。このラプタに率いられた部隊は3月の戦闘の際、どさくさに紛れて監獄・民警署留置所に押し入り、釈放予定の50人と取調べ予定の数十人を殺害するなどの不法を働いた。執行委員会でもこの親衛隊の問題が持ち上がったが、トリャピーツインは頑として、「パルチザン戦争においては戦闘的資質が何より評価されねばならぬ」としてその解散を拒否した。
 アルタイ地方に進出した赤軍第五軍の一コミサールは、農家の収穫や家財に手をふれることのなかった同地方の農民パルチザンが都市ではすべてが他人のもの、ブルジョアのもの、コルチャクのものだから何をしても構わないという気分になっていると報告したが、「パルチザンシチナ」として否定的に語られるその無統制な側面は尼港のパルチザンに顕著であった。
 入市の際のトリャピーツインの演説はこういうものであった。

 われわれはニコラエフスクそ占領したが、われわれのソビエト権力樹立闘争は終わっていない。さらにハバロフスク、ウラジオストク占領が控えている。この両市では依然としてゼムストヴォ勢力が有産者・日本軍との協調という裏切りの政策をとっており、彼らを一掃しなければならない。さらに世界の強盗団、上海や東京その他各地の帝国主義者との闘争が控えている。

 この演説からも窺えるように、尼港のパルチザンは緩衝国構想に強く反対していた。沿海州でもそれは同じで「極東共和国反対論者がそのスローガンを取り下げたのはモスクワへの、党中央委への、レーニンへの無限の信頼があったればこそだった」という。まして尼港では共産党組織が沿海州よりはるかに弱体である。その共産党組織も含めて、尼港の三派連合は日本に対する「政治解決」を斥け、「徹底抗戦」を貫くという路線に立っていたのであった。
 クラスノシチョーコフの緩衝国構想に対して、「われわれ〔共産党組織〕はわがアナキスト本部と同様、ソビエトの大義への裏切りをみていた」と、のちにアウッセムは書いている。しかし、極東の共産党組織がしだいに緩衝国構想の方向へ整序されてゆくにつれて、尼港のボリシェヴィキ内部にもこれに同調する分子が勢力を増し、司令官の権威を脅かすようになる。トリャピーツインがこのグループに属するミージン民警隊長、ブードリン鉱山コミサールらを陰謀罪で逮捕すると統一戦線は内部分裂状態に陥った。軍事革命本部を事実上掌握するアナキスト・マクシマリスト連合はテロルを武器とする強権発動によって体制の維持を図った。
 日本軍の接近に対して軍事革命本部はソフィースク方面に兵力を派遣し、アムール河口方面では水路閉鎖を試みたが、その進入を阻止するのは不可能であった。日本軍による再占領が避けられなくなるとニコラエフスクのパルチザンは住民をアムグニ河谷のケルビ村に疎開させ、部隊もこの方面に退却した。アムグニを遡行すればケルビ村まで船が入り、そこからは深いタイガの山中を越えてアムール州のセレムジャ河畔まで道なき道が連なる。アムール州にはソビエト政権が樹立されている。ケルビ村は当面の退却先で、アムール州都のブラゴヴェシチェンスクが退却行の最終目標と考えられていた。尼港から1500キロ以上の行程である。トリャピーツインは武市(ブラゴヴェシチェンスク)まで行って同地のマクシマリストと合流を遂げ、反緩衝国、反日闘争の拠点とする考えだった。
 中国人居留民は砲艦とともに尼港から遠くないマゴに疎開した。
 5月下旬、トリャピーツインとその取巻きは狂気のテロルを展開した。その規模は大きく、犠牲者は3000人とも「サハリン州住民の約半数」ともいう。このテロルの一環として5月24─25日、約130人いたといわれる獄中の日本人俘虜も殺害された。うち居留民は12人、他は残兵である。一般にいわれているところによれば、獄舎からアムール湖畔に連れ出され、殺害されたという。ソ連の文献には、3月の戦闘の時点で日本人居留民の一部が略奪されたリ殺されたリしたのを、無政府状態に乗じた犯罪分子の仕業に帰している見解もあるが、5月下旬の俘虜殺害についてそのようにいうものはない。それはパルチザンによるものである。
 パルチザン軍は撤収を終えると、5月30日に市の一部、そして6月1日と2日には市の大部分に火を放った。30日偵察飛行を行った日本の海軍飛行機からは「黒竜江の沿岸は焰々として燃えつつあり、尼港付近には大爆発音を聞く」と報告された。3日に多門支隊が尼港に到着したとき、「尼港は白煙に包まれ、市街の各所に焼け残りの屋壁、煙突等が突兀(トツコツ)として敗残の家具、家財は参差狼藉足を踏み入る余地もなく住民は勿論全部四散して主を失へる犬猫の所在に彷徨するのみ」という状態であった。事件当時帰国していて津野司令官と同じ船で到着した島田商会主人の島田元太郎は「惨憺たる尼港の廃墟を背景に、悄然と」立ちつくしていた。
 余燼がくすぶる中で多数の死体が発見された。戻ってきた避難民からは事情聴取が行われた。これらの動かぬ証拠によって「尼港の惨劇」は裏づけをえた。
 救援隊によって現地の酸鼻な状況が伝えられると、新聞各紙はこれを大々的に報道した。「凶悪言語に絶する尼港の過激派/邦人130名を鏖殺(オウサツ)す/5月25日我が臨時海軍派遣隊の接近を予知したる在尼港パルチザンの暴挙」(『大阪朝日』6・7)といった四段抜きの見出しが読者の目を引いた。次いで従軍記者のいっそうセンセーショナルな記事が紙面を埋め尽くした。「板壁に残る同胞の絶筆『5月24日を忘るな』」「死体続々発掘/悲惨悲壮を極めたる我が同胞の最期」「荒寥たる焼野原に千秋の怨みを遺す我が同胞/見る物聞く物悉く悲憤の種」(同紙6・14─17)といった具合ある。報道キャンペーンに加えて、殉難者の慰霊祭と従軍記者の「真相報告会」が連日のように催された。石田副領事の遺児芳子が書いた「敵を討ってください」が全国に流布され、涙をさそった。
 このようにして掻き立てられた「過激派」に対する敵意と憎悪は、たちまちのうちに国民的世論となった。次のような指摘はその中にあってまったくの少数意見であった。

 尼港に於てパーチザンが為せる処は、世界の日本に対する感情を、小規模に、而して公式ならぬ方法で表せるものとも云へる。気の毒なる尼港在留者は、此根深き世界の感情の犠牲となったのである。(『東洋経済新報』第9・6・26)

 ここで考えてみたいのは、日本軍が白衛派の加担者だったことに加えて、ほかにもアムール下流域住民の反日感情の根がなかったか、ということである。  
パルチザンに包囲された時点の尼港からの通信の一つにこういうのがある。「彼等ハ『ニ』市ニ至り下田〔=島田〕商店及『リュリー』(漁業家ニシテ『ニ』市唯一ノ金満家)ヲ襲フヘキ旨揚言シツゝアリト」
 島田商店とリュリ兄弟商会は日露ブルジョアジーの代表格として周辺住民からとりわけ深い憎悪と怨恨を買っていたのである。島田の名は略奪的漁法「ザイェズドク」と結びついている。日本では忘れられているが、尼港事件を扱ったソビエト側文献で「ザイェズドク 」との関連性に言及するものは少なくない。

 沿海州とアムール州の住民はアームル上流とその支流でサケがほぼ完全に捕獲できなくなったことを自分の家計の上で感づいていたが、不満の原因まで思い及ばなかった。一方アムール下流の漁民には、年々増え続けたザイェズドクのせいで災難を蒙っていることがはっきり分かっていた。彼らはこの点で責めを負うべき賄賂をとったツァーリ政府の役人だけではない、日本人たち、誰よりまず日本人『ニコライ』に罪があるとみていた。

 また、別の論者はこう記している。

 いずれ後世の歴史家は、1904年の日露戦争から1920年までの北部極東の生活の全期間をザイェズドクをめぐる闘争の期間と名づけ、この闘争が和解せる露日の資本とロシア勤労者とのあいだで戦われたことに注目するであろう。1918年においても1920年においても「全権力をソビエトへ」と書かれたが、この言葉は「ザイェズドク粉砕」と読まれたのである。

 革命で「ザイェズドク」は打破された。1918年3月15日─21日にハバロフスクで開催された漁民大会は「ザイェズドク」によるサケ漁の禁止を決議し、これをうけて同年4月2日の極東ソビエト自治体委員会命令第55号はゴリド・ギリャーク式定置網を例外とするほかは河口・海湾における定置網を完全に不許可とした。「日本人漁業家をふくむ大漁業家にたいして小漁業家を保護し、また魚類の濫獲を防ぐため」の措置がとられた結果、「リュリ商会、島田元太郎たちは大きな打撃を受けた」。革命で鮭が戻ってきたのを喜ぶ沿岸住民にとって、暴利を貪る漁業資本家は不倶戴天の敵以外ではない。
 右の引用文中の「日本人『ニコライ』」とは「ピョートル・ニコラエヴィチ・シマダ」こと島田元太郎を指す。彼は1919年当時、自分の肖像とサインの入った島田紙幣を市内に流通させたことから、この別名で呼ばれていた。もっとも当時の尼港で私紙幣を発行していたのは島田商会だけではない。国立銀行券とりわけ小額紙幣の不足を補うため、クンスト・イ・アリベルス商会、ゲイトン・フリート商会、それに地元の協同組合もそれぞれ紙幣を発行していた。しかしその中では島田紙幣が「とくに普及していた」といわれる。
 日露戦争後の鮭鱒の乱獲から内戦期の経済的支配に至る歴史的経過をみれば、住民の反日感情は自然ではなかろうか。
 この点について、もう一つ問題がある。尼港周辺の鉱山地区や村々には旧サハリン島住民が多かった。彼らもまた歴史的に反日感情をもっていたと考えざるをえないのである。次のような主張にも耳を傾ける必要がある。
 
 日本軍は1905年にサハリン島南部を占領したとき、立ち退かない全住民を女子供まで容赦せずに皆殺しにした。日本軍の残虐ぶりは革命のはるか前から、過去においてサハリン島南部と何らかのつながりをもつすべての者に反日感情を抱かせた。私は沿海州の農民からこの話を度々耳にした。アムール河下流地方では、1905年の南サハリンのロシア人迫害に対する日本人への復讐欲が当然もっと強烈だった。南サハリンから引き揚げた住民の大部分はまさにこの地方に流れてきたからだ。この対日憎悪の感情をつねに掻き立てたのがロシア人漁業労働者に対する日本資本の血も涙もない搾取なのだった。
 日露戦争でロシア領において唯一戦場となったサハリン島の戦史と軍政史は詳しい検討が必要である。右の引用には「立ち退かない全住民を……皆殺しにした」という点などに誇張があって、すべてをそのまま認めることはできない。しかし、北部も含む全島で日本軍が徹底的に略奪をほしいままにしたこと、日本兵から家族と財産を守ろうとしたために殺された住民がいたこと、大部分の移住囚と農民が無一文になって対岸デカストリ地区に放逐されたことは疑う余地のない事実である。
 1920年5月下旬の日本人残兵・居留民殺害に「客観的条件」があったとすれば、それは、すでに日露戦争とそれに続く時代に深い根をもち、干渉戦争の中で加重された尼港と周辺住民の反日意識であったということができる。
 さて、トリャピーツインに指導されたテロルの体制は尼港撤収からほぼ一ヶ月後、避難先のケルビで下からの反乱によって崩壊した。6月初頭につくられた反トリャピーツイン派の秘密組織が工作を進めた結果、6月末までにアムグニ=トゥイル戦線のパルチザンはほぼ全員が彼の逮捕を支持するに至った。7月2日にボルシェヴィキのアンドレーエフを長とする臨時軍事革命本部が結成され、逮捕を実行するための特殊チームが編成された。
 この臨時軍事革命本部メンバーの一人にワシリー朴の名がみえる。彼は朝鮮名を朴炳吉といい、ロシアの士官学校出身で尼港の韓民会書記をつとめていた青年である。彼は自由団という約100人の朝鮮人青年組織を結成していたが、この組織は市外からきた韓人中隊(第一中隊)とは別に、彼ら自身を武装組織とすることを決め、トリャピーツインと交渉して武器の提供をうけ、韓人第二中隊を編成した。先任下士をつとめた李智澤の回想によれば、第二中隊編成の動機は、軍人として配給を受けられるという利点、第一中隊は信頼がおけないという判断、避難を有利に進める必要性の三つだった。第一中隊は横暴で士気は低かった。
 グートマン著『ニコラエフスク=ナ=アムーレの惨禍』は、尼港の朝鮮人部隊が「赤軍の最も信頼しうる部隊」で隊内の規律は厳格であり、「徴発や没収にも略奪や暴行にも加わらなかった」点を高く評価したが、それは第二中隊について該当する。
 7月3日から4日にかけての夜、トリャピーツインらは逮捕された。6日に行われた兵士総会は本部の活動を承認し、トリャピーツインらを公開人民裁判にかけることを決議した。ケルビには尼港から引き揚げた5000人がいたが、全住民から代表が選出され、8日に「103人の法廷」が開かれた。トリャピーツイン、レベヂェヴァ、ジェレージンら7名は銃殺刑を宣告され、刑は翌日執行された。
 刑執行の2日後、ウラジオストクの共産党沿海州協議会は決議し、トリャピーツイン、レベヂェヴァが尼港における正式のソビエト政権代表者ではなく、ソビエト政権中央組織の指令には意図的にたえず反対してきたこと、彼らが党とは無縁の冒険主義者であることを内外にアピールした。
 こうしてアムール河下流域におけるトリャピーツインの支配体制は清算された。しかしそれが日本に与えた衝撃は大きかった。尼港パルチザンの所業は反「過激派」世論を増幅させ干渉政策をを継続するための格好の材料として徹底的に利用されることになるのである。

 
 

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尼港事件の真実

2019年10月19日 | 国際・政治

 あまり問題視されず、よく知られてもいないように思いますが、五箇条の御誓文が一般に布告される前に、天皇の書簡である”御宸翰(ゴシンカン)”が披瀝され、「天神地祇御誓祭」と称する儀式が行われて、その後、五箇条の御誓文が布告されたのだといいます。
 見逃せないのは、「明治維新の御宸翰」とか「億兆安撫国威宣揚の御宸翰」とか呼ばれるという、その”御宸翰”の内容です。その中に、

”…故ニ朕茲ニ百官諸侯ト広ク相誓ヒ、列祖ノ御偉業ヲ継述シ、一身ノ艱難辛苦ヲ問ス、親(ミズカ)ラ四方ヲ経営シ、汝億兆を安撫(アンブ)シ、遂ニハ万里ノ波濤ヲ拓開シ、国威ヲ四方ニ宣布シ、天下ヲ富岳ノ安キニ置ン事ヲ欲ス…”

と海外侵略を意図するような考え方の記述があるのです。明治維新によって天皇による新政府が成立し、形式上は天皇が権力を直接行使する政治、すなわち天皇親政が行われることになったわけですが、政治の実権は岩倉具視ら一部の公家と薩摩藩・長州藩が掌握しており、五箇条の御誓文は”木戸五箇条”ともいわるものでした。また、上記の”御宸翰”も、当時十五歳の明治天皇ではなく、元長州藩士で、新政府の要職にあった木戸孝允が書いたといわれています。

 したがって、明治維新以降、日清戦争や日露戦争など外国と戦争を続けることになったのは、薩長政権による”四方ヲ経営シ”とか万里ノ波濤ヲ拓開シ、国威ヲ四方ニ宣布”するという侵略的思想によるものだったのだろうと思います。私は、そうした侵略的思想の流れのなかでシベリア出兵をとらえ、尼港事件を考える必要があると思います。

 だから、歴史の流れや当時のロシアの実態を無視し、日本軍の残した資料のみによって、尼港事件を赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件であるととらえたり、日本人犠牲者(731名)の数を強調し、ほぼ皆殺しにされたとか、建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となったなどと、赤軍パルチザンの残虐性や蛮行だけを指摘するのは、いかがなものかと思います。

 住民虐殺なら、他国であるロシアの領土、イヴァノフカ村その他において、「焼打ちして殲滅すべし」と、三光作戦に類する事件をくり返した日本軍の住民虐殺こそ問われるのではないかと思います。
 また、シベリア出兵による戦いは、「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」という大義名分とはかけ離れたものだったことも見逃せないと思います。

 尼港が、パルチザン軍の勢力下に帰して、尼港の白衛軍がほとんど存在しないような事態に立ち至り、師団長から、”貴官は居留民保護など駐屯の目的遂行上に妨害を加え、あるいはわが軍に対して攻撃的態度をとるのでないかぎり、いかなる政治団体といえどもわれより進んでこれを攻撃すべきではない”との訓令を受信していたにもかかわらず、現地守備隊が戦闘を継続させた理由は何だったのでしょうか。もはやチェコ軍団救出作戦とは無縁の戦だったのではないでしょうか。

 さらには、宴会が終って寝静まっている赤軍本部を包囲し、寝込みを襲うかたちで、日本軍の側から戦闘の火蓋を切ったのですから、その後の報復攻撃を非難することはできないだろうとも思います。
 また、当時救援隊とともに現地入りした外務省の花岡書記官が「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」と報告していることも見逃すことができません。”戦闘の局外にあった民間人”が、赤軍パルチザンの手で一方的に皆殺しになったのではないという側面があるからです。
 それは、尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商が、知合いの二人の日本人に避難を勧めたところ断られたということで、次のような証言をしていることとも符合します。

 ”在留日本人ハ全部一団トナリ日本軍ト共ニ抵抗スルノ決心ヲナシ両人亦此集団ニ加ハリ島田商店ニ立籠リタリ……3月11日12日ニ亘ル戦闘ニ於テ日本憲兵隊モ火災ニ罹リ全焼ス奮闘シタル日本軍ハ上下火中ニ投ジ在留民亦兵士ト行動、共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ

 下記は、「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)の「20 岐路に立つ日本」から、尼港事件に関する部分の(1)を抜粋したものですが、当時のロシア政変の状況や日露両国を中心とする様々な資料の分析・考察をもとにしたこのような歴史家による尼港事件の記述には、安易な批判を許さない説得力があるように思います。
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                          20 岐路に立つ日本

 尼港事件(1)ニコラエフスク守備隊の全滅 
 ニコラエフスクも一月末までに総勢2000というパルチザン軍(ニコラエフスク地区赤軍と称した)によって完全に包囲されていた。
 アムール下流域におけるパルチザン運動の展開は他の地域より遅れ、1919年11月2日にハバロフスク郊外アナスタシエフカ村で開かれた同市周辺の諸部隊代表者協議会がその出発点となった。この協議会はニコラエフスク解放の問題を最重要課題として取り上げ、アムール河下流方面へ向かう部隊の最編成を行ったのである。河沿いに北上した部隊は途中の村々で農民を味方につけながら勢力を増し、鉱山労働者をも加え、一月に尼港に迫ったときは大部隊になっていた。
 尼港の白衛軍は北上してきたこのパルチザン部隊を迎え撃ったが、ツィンメルマノフカ付近の戦闘で敗北を喫し、強制徴募された兵士の多数はパルチザン軍に寝返った。白衛派陣営はソフィースク、マリインスク方面を守備するヴィツ大佐麾下の部隊に期待をかけたが、ここでも同様で、同大佐は将校と一部兵士を率いてデカストリ港に逃走した。
 1月10日頃までに尼港より上流の諸部隊はことごとくパルチザン軍の勢力下に帰すると、尼港の白衛軍はまったく意気消沈し、投降者の続出でその兵力は50内外にまで減ってしまった。これを補うため自警団も編成されたが、1月中旬以降、尼港防衛戦の主役を担ったのは日本軍である。日本軍守備隊は1月11日から周辺地域に出動してパルチザン軍と交戦を開始した。激しい風雪に行動の自由を奪われ苦戦が続いた。
 日本軍陸戦隊が尼港を占領し、その約12キロ下流にあるチヌイラフ要塞を接収したのは1918年9月である。歩兵第一大隊を基幹とする守備隊が配置され、はじめは第十二師団の一部が駐屯したが、1919年6月から第十四師団の水戸歩兵第二連隊第三大隊(大隊長石川正雄少佐)に交代した。うち一中隊は要塞警備隊としてチヌイラフに駐屯した。チヌイラフには海軍無線電信隊も配置された。
 アムール河は11月18日頃まで氷結し、翌年5月初頭ないし中旬まで航行不可能となる。その間、尼港との連絡は尼港・ハバロフスク間の有線電信によるか、チヌイラフ要塞の無線通信所を経由するほかないが、前者はアナスタシエフカ協議会の数日後に切断され、不通となっていた。1月中旬以降の戦闘にはチヌイラフ要塞系部隊からも一小隊だけ残して兵を出動させたので、外界との唯一の連絡路の警備は手薄となった。
 日本軍は治安維持の面でも白衛軍に代わって前面にでた。石川守備隊長は市民と周辺住民に夜間外出を禁止し、これに違反した場合は即刻死刑に処するとの布告を1月10日づけで発している。
 1月24日にパルチザン軍の使者が日本守備隊にきて、和平を提議した。ところが守備隊長はパルチザン軍を「一ノ強盗団体ト目シテ」その提議を峻拒し、軍使の身柄を憲兵隊に留置した。そして衛戍司令官メドヴェーヂェフ大佐から要求されると、これを白衛軍の防諜部に引き渡した。白衛軍はこの軍使を殺してしまった。
 一年前、脱営して保護を求めたカルムイコフ軍の兵士を収容して身柄引き渡しに応じなかった米軍司令官の気骨と比ぶべくもないが、軍使を拘束の上、易々として処刑を許した日本軍守備隊長の政治的見解の狭さ、それ以前のルール違反は大方の認めるところであろう。もっとも日本軍のパルチザン軍に対する蔑視と過少評価は石川少佐に限った話ではない。チタ特務機関長の黒沢準中佐がヴェルフネウヂンスク周辺のパルチザンを「大部分ハ地方民ニシテ固ヨリ団体的訓練ナク所謂百姓一揆ノ類ナリ」とみていたのもその例である。
 29日、尼港・チヌイラフ間の電信電話線が切断された。
 2月2日、チヌイラフの無線電信所は武市の白水第十四師団長から守備隊長宛ての訓令を受信した。貴官は居留民保護など駐屯の目的遂行上に妨害を加え、あるいはわが軍に対して攻撃的態度をとるのでないかぎり、いかなる政治団体といえどもわれより進んでこれを攻撃すべきではない、という趣旨である。この訓令にもかかわらず、守備隊長は戦闘継続の方針をとった。これに対してパルチザン軍はチヌイラフ要塞を占領し、赤衛隊が退却時に隠しておいた砲の閉鎖器を掘り出して日本軍兵舎に砲撃を浴びせた。
 6日夜、日本軍はチヌイラフ要塞と海軍無線電信所を放棄した。これで尼港は外界から完全に孤立した。
 21日、パルチザン軍のトリャビーツイン司令官はハバロフスクの日本軍司令官宛てに電報を送り、無益の犠牲を避けるめ、外界と遮断されて日本軍の局外中立方針を了知していない尼港守備隊に所要の指示を与えるよう提議した。これをうけて白水師団長の再度の訓令が23日づけで打電された。わが軍はロシアの内政に干渉せず、アムール州からは近日中に撤退する。浦潮、ニコリスク、ハバロフスクでもわが軍は同じく中立の態度をとり、すでに革命政府の樹立をみている。

 貴官ハ従来ノ関係ニ拘束セラルルコトナク我居留民ヲ害シ若クハ我ニ対シ攻撃的態度ヲ執ラサル限リ中立ヲ保持シ事ヲ平和的ニ解決スルニ努メ大勢ニ順応スヘシ

ようやく日本軍守備隊は和平交渉に同意した。しかし26日に石川少佐の名で提示された日本軍側の和平条件は、すべての砲を日本軍に引き渡せとか、入市するパルチザンの人数を制限せよ、新政権と意見の合わない将兵は日本軍および日本領事館の保護をうけ解氷に伴う航行開始後妨げられずに出国する権利が保障される、といった項目が並んでいた。
 パルチザン側はこれを突っぱねた。結局日本側は右の条件を取り下げ、白水中将の宣言を実施すること、白衛軍は完全に武装解除されること、などを盛り込んだ和平協定がまとまった。28日、これに日本側から塚本中尉と河本中尉、パルチザン側からトリャピーツイン司令官、ナウーモフ参謀長以下が署名し、軍事行動は停止された。 

 29日にパルチザンは労働者・市民に迎えられて市内に入った。目撃者の証言によると、入市に際して掲げていたプラカードには、「資本に死を」「国際強盗団打倒」「ブルジョイに死を」「将校団に死を」などと書かれていた。「将校団、ブルジョアジー、ユダヤ人を殺せ」のスローガンを掲げて入ってきた、との証言もある。白衛隊は戦々兢々としていた。市内の監獄にいる政治囚を殺さないように求めたパルチザン側の勧告を黙殺して少なからぬ政治囚を銃殺刑に処し、軍使まで殺害した彼らが報復を恐れたのは当然である。資本家も報復を恐れたが、彼らの恐怖にも理由がなくはなかった。この点についてはあとで述べる。

 パルチザン軍は尼港に入ると直ちにソビエトを組織して、臨時執行委員会を設置し、サハリン州ソビエト大会の招集を準備し、労働者・市民から志願兵を募集した。オムスク政府の官吏と将校、資本家に対しては逮捕と審理を実施した。印刷所は接収され、既存の新聞を廃刊にして『ウスチアムールスカヤ・プラウダ』紙が発刊された。その第二号、3月5日づけには白衛軍の武装解除と処分についての記事が載っている。                        

 白衛軍部隊は完全に武装解除され、まず銃約300梃、三インチ砲二門と付属の弾丸、探照灯3個が引き渡された。降伏した大隊の残部の中から中隊を編成中である。主な反革命分子とすべての将校は逮捕され、そのうち3名は銃殺された。主たる犯罪人のメドヴェーヂェフ大佐は服毒自殺していた。

 行方不明となっていた軍使の消息についてはこう書かれている。

 日本=白衛軍により拷問をうけた軍使オルロフ同志の遺体は変わり果てた姿で発見された。眼球はえぐられ、鼻と踵は焼かれ、背は切り裂かれていた。遺体は日本軍が軍使について取り決めた国際法に違反して犯した残虐行為を記録にとどめるため、諸外国領事館代表者の立会いのもとで解剖された。この残虐行為の犯人に対しては審理が行われるであろう。

 赤軍が白衛軍将校・資本家らを逮捕・銃殺し(最初の数日間で400人以上が逮捕され、革命法廷の審理ののち数十人が一夜にして銃殺されたという説がある)、しかも市内の中国人、朝鮮人、下層労働者を部隊に編成しているのをみて、日本軍幹部は憤慨し、次は自分たちの番だとみて戦慄したに違いない。参謀本部編『出兵史』によれば、石川少佐は3月7─8日頃、こうした点についてトリャビーツインに詰問した。しかし赤軍本部は内政問題だとしてとりあわなかった。次いで11日午後、ナウーモフ参謀長が守備隊本部にきて12日正午までの回答期限つきで武器弾薬の引き渡しを要求したという。
攻撃を秘かに準備してきた日本軍は、ここにおいて12日午前2時を期して攻撃を開始することに決した。
 この点についてソ連側の文献は武器弾薬引き渡しの最後通牒を発したことにはふれず、パルチザン入市後の日本軍との関係が友好的であったことに言及する。しかしその友好が実は表向きのものであり、警戒心を緩めさせるための欺瞞であったと主張する。ニコラエフスク地区赤軍本部の公式声明はこう述べている。

 日本軍は 武装したまま自由に市内を往来していた。関係はきわめて友好的なものに思われた。……彼らの将校たちはしばしばわれわれの本部に訪ね、実務的な会話のほかに仲睦まじい話合いも交わし、ソビエト政権に共感をもっているといい、自分はボリシェヴィキだと称し、赤いリボンをつけたりした。武力でも、できることなら何でも赤軍を助けたいと、約束した。だがのちに判明したように、これは準備されていた裏切りを隠すために着せた仮面にすぎなかったのだ(『ウスチアムールスカヤ・プラウダ』3月30日づけ所載)

 事件参加者の一人、ドネプロフスキーの回想によれば、3月11日の夕刻パルチザン本部では宴会が催され、石川少佐、石田領事も出席した。やがて日本人は帰り、パルチザン側でも帰った者がいたが、多くは残って度外れに飲んでいたという。これが事実とすれば、その直前に重大な内容の最後通牒をつきつけたりしているだろうかという疑問がわく。敢えて挑発しながら本部員多数が泥酔、とは考えにくいのである。日本軍守備隊に対する武装解除要求というのが、作り話ではないにしても、誤ってまたは故意に曲解した筋書きだった可能性は否定できない。(香田一等卒の日記では「武器弾薬ノ借受ヲ要求」とある)。
 ともあれ日本軍は12日午前1時30分に行動を起こし、宴会が終って寝静まっている赤軍本部を包囲して戦闘の火蓋を切った。本部は火焔に包まれ、トリャピーツインは炸裂した手榴弾で足に負傷、ナウーモフは窓の外に飛び降りたところをつかまって瀕死の重傷を負った。しかし突如の闇討ちをうけて狼狽した赤軍側は間もなく盛り返した。その抵抗は予想外に頑強であり、日本軍は守勢にまわった。
 ここで中国砲艦の動向が戦闘の帰趨を決する重要な意味をもった。尼港には松花江の防備のため上海からハルピンに赴く途中で冬籠りを余儀なくされた四隻の中国砲艦が停泊中であった。中国砲艦はパルチザンの入城に先立つ尼港の攻防戦で中立の姿勢をとっていたが、3月12日の戦闘ではパルチザン側を擁護して市有桟橋付近の日本軍に猛射を浴びせ、その敗北を決定的にしたのである。乗組員は中国人居留民と結びついており、彼らのパルチザンへの加担は自発的な行為であった。
 1919年1月の調査によれば尼港には2329人の中国人、916人の朝鮮人が居住し(日本人は291人、総人口1万2248人)、周辺の金鉱に出稼ぎにくる中国人、朝鮮人労働者も多かった。白衛軍が組織した自警団に中国人、朝鮮人の参加はみられなかった。逆に市を包囲したパルチザンには中国人、朝鮮人が加わっており、やがて彼らは同胞に迎えられて市に入ったのち市内の同胞の応募者をえて勢力を増した。参謀本部編『出兵史』によれば、3月12日の時点で旧兵営とライチェン家に各600と300の中国人部隊、リュリ兄弟商会に約500の朝鮮人部隊が宿営していたとされる。彼ら武装した中国人、朝鮮人に対する日本軍の敵愾心が3月12日決起の一動機をなしていたことは疑いない。
 ハバロフスクでも2月20日のパルチザン入城後ただちに市長とブルジョアジーが逮捕された。これは尼港と同様だが、異なるのはハバロフスクの場合、中国人居留民が釈放要求に立ち上がり、パルチザン側は激論ののちに要求をいれて釈放した点である。ハバロフスクの中国人企業は要求がみたされなければ活動を停止すると宣言した。「商業の75パーセントは中国人の手中に握られていたのでこの威嚇はきわめて重大だった」という。
 一方尼港では3月16日に開催されたサハリン州ソビエト大会の席上、中国領事が韓民会代表とともに挨拶を述べている。尼港の中国人居留民はハバロフスクの同胞と比べるとはるかにパルチザンに好意的な態度をとっており、尼港の日本軍と日本人居留民は完全に孤立していたといえる。
 日本人居留民の多くは決起の巻添えを食って戦死し、一部は捕虜となった。この点について参謀本部編『出兵史』は、「敵ハ我夜襲隊ノ大部ヲ撃退スルヤ直ニ市内ノ我居留民ヲ襲ヒ老若ヲ問ハス虐殺シテ其財貨ヲ奪ヒ辛ウシテ難ヲ免レ中隊兵舎ニ入リシ居留民僅ニ十三ニ過ス」とし、戦闘の局外にあった民間人が敵軍の手で皆殺しになったような書き方をしている。
 たしかに3月の戦闘時点で尼港日本人居留民の一部が略奪されたリ殺されたりしたことは否定できない。しかし全体としては、のちに救援隊とともに現地入りした外務省の花岡書記官が報告したように「当地居留民ハ今春3月12日事件ノ際領事及軍隊ト行動ヲ共ニシ大部分戦死」したとみるのが至当であろう。3月末に尼港を出てサハリン島に帰来したアメリカ人毛皮商は知合いの二人の日本人に避難を勧めたところ断られた。彼はこう証言している。

 在留日本人ハ全部一団トナリ日本軍ト共ニ抵抗スルノ決心ヲナシ両人亦此集団ニ加ハリ島田商店ニ立籠リタリ……3月11日12日ニ亘ル戦闘ニ於テ日本憲兵隊モ火災ニ罹リ全焼ス奮闘シタル日本軍ハ上下火中ニ投ジ在留民亦兵士ト行動、共ニ万歳ヲ叫ビ悉ク火中ニ投ゼリ

 もっと悲惨なケースとして、楼主の手にかかって次々殺されたという十数人の薄幸な酌婦たちの話すら伝えられている。この楼主は「女たちが足手まといになるのを恐れて」ピストルで次々と殺し、自分は助かろうとしたということである。これは極端な話としても、日本人居留民の全滅は敗戦の過程での集団自決を抜きにしては考えられない。しかもこのことは、居留民保護の衝に当たるべき石田虎松副領事が自ら領事館に火をつけて妻子を道連れにし、三宅駸五海軍少佐と刺し違えて自刃してしまったのを思えばなおさらである。
 戦闘は二日目に概ね終わった。12日の戦闘における日本軍兵力は陸軍戦闘員288、同非戦闘員32、海軍無線電信隊43、ほかに在留民自警団・在郷軍人からなっていたが、13日に残った兵力は100(うち居留民13)、ほかに陸軍病院に院長以下8、患者18を数えるだけであった。しかし中隊兵舎に立て籠った兵士は抵抗をやめなかった。17日午後五時に在ハバロフスク歩兵第二十七旅団長山田少将と杉野領事の戦闘中止勧告が伝えられて、18日朝ようやく日本軍は降伏し、残存する兵士と居留民は俘虜として収監された。
 救援隊はまだ小樽を出港していない。すでにふれたように尼港救援隊の編成は2月21日に下っている。これを受領した第七師団長は直ちに部隊の編成に着手し、部隊は3月1日に小樽に集合、3日に乗船を終って出港命令を待ったが、現地における和平成立の情報に基づく出発見合わせの命令が6日に出て、部隊はいったん旭川と札幌に帰還していた。しかし、仮に3月初頭に出発しても厚い氷に阻まれて目的地のはるか手前で立往生したであろう。
 19日、カムチャッカにあるペテロパヴロフスクの日本領事館は前日尼港からの来電を本省に打電した。

 3月18日「ニコライエフスク」来電ニ依レバ同市ニ於テ日本軍ト過激派トノ間二昼夜ニ渉ル激戦アリ其結果同地駐屯軍隊及ビ在留民約700名ハ殺害セラレ残リ約百名負傷シ司令部領事館其ノ他邦人家屋ハ全部焼キ払ハレタル趣ナリ

 外務省はこの電報を29日接受する。各紙は「過激派ト我軍の衝突 我軍の損害多くニコラエウスク
の我領事館は焼かれ副領事石田虎松氏は生死不明」(『大阪朝日』3・29夕刊)などの大見出しのもとに事件をとりあげ、この日から「尼港の惨劇」の悲報で日本中が大騒ぎになった。1─2月にみられた撤兵世論の盛り上がりはいまや鎮静化した。背信的な奇襲をかけた結果の自殺行為に近い全滅だったとは知らされず、世人はただ同胞の悲惨な運命に同情し、パルチザン=「過激派」の暴虐に憤慨した。この状況下で、日本軍が沿海州で惹き起こした第二の冒険的事件に世人の関心はほとんど向けられなかった。

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日本軍による非戦闘員の殺害

2019年10月14日 | 国際・政治

 1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」と同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」が採択されました。同条約は、交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などを細かく規定していますが、これによって、戦争中といえども軍服を着ておらず武器を携帯していない敵国一般市民(非戦闘員)を殺傷することが禁じられました。また、敵兵であっても、兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷することも禁じられました。

 しかしながら、日本軍は、その後あちこちの戦地で非戦闘員である一般住民を殺しました。保護されるべき捕虜も殺しました。それが問題視されるようになったのは、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」や同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」を無視した日本軍の作戦に対する中国の”三光作戦(「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」)”なる呼称による批判が展開されたからではないかと思います。そして、見逃せないのが、三光作戦のような日本軍の攻撃は、日中戦争に限ったことではないということです。
 ここでは、イヴァノフカ事件と呼ばれる住民殺害の事実を「シベリア出兵 革命と干渉1917─1922」原暉之(筑摩書房)から抜粋しましたが、下記のような証言があるのです。

”…… 間モナク日本兵ト「コサック」兵トガ現ワレ枯草ヲ軒下ニ積ミ石油ヲ注ギ放火シ初メタ 女子供ハ恐レ戦キ泣キ叫ンダ 彼等ノ或ル者ハ一時気絶シ発狂シタ 男子ハ多ク殺サレ或ハ捕ヘラレ或者等ハ一列ニ列ベラレテ一斉射撃ノ下ニ斃レタ 絶命ゼザルモノ等ハ一々銃剣テ刺シ殺サレタ 最モ惨酷ナノハ廿五名ノ村民ガ一棟ノ物置小屋ニ押シ込メラレ外カラ火ヲ放タレテ生キナガラ焼ケ死ンダ事デアル 殺サレタ者ガ当村ニ籍ノアル者ノミデ二百十六名、籍ノ無イ者モ多数殺サレタ 焼ケタ家ガ百三十戸、穀物農具家財ノ焼失無数デアル……”
 
 そして、こうした殲滅作戦を展開する理由として、歩兵第十二旅団長山田四郎少将が、当地において

第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ〔以下略〕

 と主張していることを見逃すことができません。良民(村民)を装って攻撃してくる敵兵(パルチザン)がいるので、”村落ヲ焼棄”し、皆殺しにするなどということは、当時においても許さることではなかったはずです。
 でも日本軍は、日清戦争における旅順攻略戦の際の「旅順虐殺事」件以来、「南京大虐殺事件」至るまで、上記と同じような理由で、こうした作戦をくり返したことを忘れてはならないと思います。

 戦後の日本は、皇国史観に基づく軍国主義と侵略戦争を否定し、再出発したかに見えました。私の父母は、戦争がもたらす惨禍や理不尽、人権無視や人命軽視を実感し、戦争は最悪である、絶対にやってはいけないと、事あるごとにくり返し言っておりました。そして、戦争を放棄し、平和国家として歩む日本を喜んでいたように思います。そうした思いは、戦争を体験した世代の多くの日本人に共通だったのではないかと思います。

 にもかかわらず、不都合な事実はなかったことにし、日本の戦争を正当化する人たちによって、徐々に日本の戦前回帰が進められ、とうとう北方領土について「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」などと質問したり、「戦争しないとどうしようもなくないですか」というようなことをいう国会議員が出てくるまでになってしまいました。

 だからこそ、今、あまり知られていない日本の戦争の暗部も、しっかり学ぶことが大事ではないかと思います。そして、植民地支配や戦争の過ちを認め、日本国憲法の精神に基づく政治によって、近隣諸国の信頼を取り戻したいと思います。
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                       19 パルチザン戦争

「焼打ちして殲滅すべし」
 1918年秋、州都ブラゴヴェシチェンスク(武市)、アムール鉄道の沿線と要地ゼーヤを占領した日本軍は、引き続き、アムール州内各地で「過激派残党」の討伐作戦を展開した。「過激派」が出没しているという通報があるとそのつど出動した。「情況不穏ニシテ人民中官憲ノ命ニ従ハサルモノ多ク」というだけで、討伐隊を派遣し掃蕩を行う理由は立派に成立した。
 武市より東方36キロにあるイヴァノフカ村出身のパルチザン指導者ベズロードヌイフの回想によれば、反革命勢力は都市でこそ権力を組織しえたが、農村には通達を送ってくるだけで、所によって実施されたリ、されなかったりという状況であった。十月革命のち他村に先駆けて村ソビエトを結成し、ガーモフの反乱に際しては武市の赤衛隊に志願兵を送り出したこのイヴァノフカはまさに典型的な「官憲ノ命ニ従ハサル」村の一つであって、 隠匿武器の供出命令を拒否し、ゼムストヴォ(地方自治機関)設置の説明に来た役人は野次り倒されてしまった。
 ゼムストヴォ設置問題で頑強な拒否の姿勢をみせるこの村に対して、アタマン・ガーモフは武力で決着をつけることにし、日本軍に応援を頼んだ。村はやく400の日本軍部隊とカザーク三中隊によって包囲され、しらみつぶしの捜索と武器押収、逮捕と銃殺、笞刑が実施された。白衛軍と日本軍の蛮行は住民を憤激させた。その中で革命派の地下組織は農民のあいだに根をおろしていった。
 アムール州農民の最初の本格的な蜂起はマザノヴァ村で起きた。ソ連の歴史家カルペンコは次のように書いている。

 1919年1月7日か8日マザノヴァ村の農民は日本軍現地守備隊の暴力に耐えかねて武器をとり、ソハチノの本部に救援を求めて代表を送った。本部は近隣諸村の農民(1000人以上)を動員した。1月10日、蜂起民はマザノヴァに到着するや、日本軍を襲撃した。戦闘は終日続き、蜂起民の勝利に終わった。彼らは公共の建物に赤旗を掲げ、ソビエト権力が復活したことを宣言した。……1月10日、スヴォボードヌイからその地の守備隊長マエダ大尉の率いる日本軍討伐隊がゼーヤ河沿いに上がってきた。道中日本軍は手当たり次第に村々を焼き、無防備の農民を銃殺した。1月11日正午頃、日本軍は蜂起民が明け渡したマザノヴォを占領した。1月13日の未明、すでに蜂起民は引き払っており、村民は和平代表団を送ったにもかかわらず、マエダの部隊はソハチノ村を襲撃した。日本軍は代表団と女子供を含む逃げ遅れた全村民を銃殺し、村を徹底的に焼き尽くした。

 スヴォボードヌイというのはアレクセーエフスクの別名。皇帝ニコライ二世の長子、皇太子アレクセイに因む旧名に代わり、革命後「自由な町」を意味するこの名で呼ばれるようになった。アムール鉄道がゼーヤ河と交差する要地にあり、日本軍はここに歩兵第四十七連隊本部・大隊本部と歩兵二中隊を配置していた。マザノヴォはここよりゼーヤ河上流、セレムジャ河との合流点に位置し、やはり要地ということで、日本軍はアレクセーエフスクの第一中隊のうち一小隊を分遣していた。
 この日本軍守備隊は1月10日に襲撃をうけ、気温零下42度という悪条件のもとで長時間にわたる応戦ののちに弾薬尽きて退却した。この戦闘で日本側は戦死6、負傷7、行方不明4、凍傷患者34を出し、守備隊の軍需品全部を喪失するという大損害を蒙った。救援のため、前田多仲大尉の指揮する第一中隊が同村に派遣された。この部隊は右の引用文にあるように、マザノヴォを掃蕩したのちソハチノを襲撃したが、ソハチノでの無慈悲な復讐の事実は「同地ニハ我守備隊ヨリノ掠奪品ヲ隠匿シアリシヲ以テ懲膺ノ為過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」と『出兵史』も認める通りである。
 討伐行動における現地日本軍の露骨に抑圧的な姿勢は、陸軍中央部すら眉をひそめたほどで、福田雅太郎参謀次長は1月28日、浦潮派遣軍参謀長に宛てて「万一前記ノ趣旨未タ徹底セスシテ徒ニ死傷者ヲ出シ或ハ一方誤リテ日、露両国間ノ感情ヲ害スルカ如キコトアリテハ誠ニ遺憾ナリ」と行き過ぎを戒める訓電を発している。
日本軍憲兵隊は「密偵ノ使用、住民殊ニ父母妻子ヲ殺害セラレテ怨恨深キモノノ利用」を通じて情報を収するなど、「過激派有力者ノ捜査ニ腐心」した。とりわけ、地下に潜行中の武市ソビエト議長兼アムール州人民委員会議長ムーヒンに対しては「小倉師団と旭川師団とが、競争的に、懸賞的につかまへてやろふと、いきり立っていた」といわれる。
 ムーヒンは秘かに村々を回って同志を糾合しつつあった。はじめ地下の諸組織はバラバラで統一を欠いていたが、12月から1月にかけて州内のあちこちで開かれた活動家会議を経る中で、ゼーヤ河以西(第一地区)と以東(第二地区)の地区割り、地区本部の結成と統一的活動計画の討議が進んだ。マザノヴォの事件以後、指導部は農民の自然発生的決起を抑えることにつとめた。1月26日にクラスヌイ・ヤールで開かれた活動家会議でも、即時に蜂起するか、勢力の総結集まで待機するかの問題をめぐって議論が沸騰し、農民代議員の圧倒的多数は即時蜂起を主張した。
 討論がいまやたけなわというとき、ヴォスクレセーノフカ付近で待ち伏せていたパルチザンが日本軍の部隊を撃破した、との情報が入り、即時蜂起論者は小躍りして喜んだ。慎重論に立っていたム-ヒンも、蜂起の指導を引き受けることを決意した。ボロダフキン、ベズロードヌイフらから成るアムール州革命本部が選出された。ムーヒンは武市に潜入した。武市でも蜂起の目標は一昼夜でも市を占領して武器庫と銀行を制するにあったという。

 パルチザンの装備といえば、クリミア戦争当時のも含むあらゆる国の銃が混じり、弾は一人に100発もあれば恵まれた方だったという。第二地区のパルチザン部隊は2月4日のヴィノグラーツカヤでの戦闘ののち、イヴァノフカに結集して武市の蜂起を待ち受けた。しかし、蜂起の準備工作は進捗せず、武市からの合図はなかった。
 イヴァノフカの部隊は近隣の蜂起農民を集めて13個中隊、6000人にふくれあがったが、こうした部隊の膨張と武器弾薬の不足は入念な作戦行動を困難にさせ、この理由からも、労働者の決起に呼応して州都に突入するという当初の構想は実現不可能になった。武器と食糧の確保は不可欠であり、他方日本軍の討伐はこの地区に集中的に実施されたので、部隊はアレクセーエフスク市の日本軍守備隊に対する襲撃と武器・糧食の奪取を計画して同市に向かった。しかし結局この計画も断念され、ゼーヤ河を越えて第一地区の部隊に合流することになった。
 この動きを察知した討伐部隊はパルチザンを追い詰めようとして、逆に地形を熟知するパルチザンによって袋の鼠となった。2月25日から26日にかけてアルクセーエフスクの西北方、アムール鉄道ユフタ駅付近の戦闘においてである。この戦闘でまず田中勝輔少佐の率いる歩兵七十二連隊第三大隊が「最後の一卒に至るまで全員悉く戦死」、救援に向かった野砲兵第十二連隊第五中隊と歩兵七十二連隊第十一中隊の一小隊も衆寡敵せず、「歩兵の負傷兵卒五名を除き他は悉く枕を並べて戦死」、野砲二門を奪われた。合わせて日本側の戦死者数は280名にのぼった。
 ユフタでの大敗北は日本軍に深刻な衝撃を与えた。この直後にユフタ村に入った松尾勝造二等兵は2月27日の日記に以下のように書いたが、これをみても衝撃の度合いが窺える。
 
 朝食の用意をしながら昨日に於ての戦死傷者等、その他のことをあれこれのひとに聞いた。……田中支隊全滅、野砲隊32名のうち2名生き残ったほか30名は戦死等であった。それに次いで野砲二門、弾車も敵に取られた由。……この砲を取られた兵が全滅したことは、日清、日露、青島の戦にも未だかつて例を見ない、一大珍事だそうな。このユフタの敗戦は日本始まって以来の大恥辱とせねばならぬ。敵はいつも日本を山の間に誘い入れ、尖兵や斥候を通してをいて日本軍に安心油断させておき、本隊を叩きつける作戦である。敵ながらそのやり方はうまいものである。何時も味方はこの手に陥って不覚を取りつつあるのが残念で仕方がない。将校じゃ、隊長じゃと言ふのがあまりに対敵観念の薄いのに呆れ果てる。そして敵に手向ひもし得ずして全滅するとは何事ぞ。

 不名誉な敗北の汚名を雪ぐため、第十二師団長大井成元中将は、「師団全力ヲ以テスル大討伐」をなすに決し、今度はゼーヤ河の東方に移動したパルチザンに対し大規模な追撃戦を展開する。かくして3月3日のバーヴロフカ、ポチカレヴォ付近の戦闘は激戦となった。両地での日本側の戦死者は51人にのぼった。ベズロードヌイフによれば、バーヴロフカの戦闘では日本軍から奪った機関銃がよく働き、ユフタ付近で奪った野砲も「次々と日本側に砲弾を送り込んだ」という。「彼らが蒙った大損害と蜂起民がみせた強い抵抗はおそらく日本軍に重々しい印象を残した」。その翌日、武市に駐在する平塚晴俊副領事は書いている。

 過激派軍ハ有力ナル首領ノ統一アル指揮ノ下ニ行動シ相当ノ武器ヲ所持シテ堂々戦闘行為ヲ敢テスルヲ見レバ彼等ハ決シテ支那馬賊ノ類セル無頼漢ノ集団所謂烏合ソ衆トモ思ハレズ

 兵士たちは、敵は「独墺俘虜ト之レニ加勢スル者」(『兵士の心得』)だと吹き込まれてきた。もともと戦争の意味がまったく曖昧で、戦意が低下しがちなだけに、たかが烏合の衆と軽視していた敵軍によって戦友の無惨な戦死があい次いでいる様をまのあたりにした兵士たちは、異常なまでに敵愾心を掻き立てられ、捨て鉢の報復者集団になっていった。しかも休養不足と想像を絶する厳寒の中、連日連夜の悪戦苦闘はただでさえ殺気立っていた兵士をいっそう神経過敏にさせた。ニ月初頭から三月半ばにかけてアムール州内各地守備隊を視察した第十二師団参謀の河村砲兵大尉は、「要地ニ残置シ守備ニ任セル微弱ナル守備隊ニ於テハ終始露人側ノ通報ニ依リ附近諸村落ニ於ケル敵情ノ為メ脅迫セラレ連日連夜至厳ナル警戒勤務ニ服シ疲労困憊シテ神経過敏ニ陥レリ」と報告している。

 侵略戦争にあっては、このように神経過敏に陥り、理性の抑制がきかない状態での敵愾心の亢進は、厳格な統制手段が講じられない限り、一般民衆に対してまで闇雲の殺戮に走る傾向をもつ。
 軍幹部はそれを防止するよう然るべき抑制措置をとったであろうか。たしかに「農民ト過激派トヲ分離セシムルノ策ヲ講スルヲ要ス」(河村大尉報告書)という見方もあった。しかし本来「暴徒」と「良民」が分離不可能である点に困難があるのであり、こういっただけでは机上の空論である。かくて「村落焼棄」を実施して構わぬとの方針が打ち出された。二月中旬の頃、歩兵第十二師団山田四郎少将は「師団長ノ司令ニ基キ」大要次のようなビラを武市付近に散布させた。

 第一、日本軍及ビ露人ニ敵対スル過激派軍ハ付近各所ニ散在セルガ日本軍ニテハ彼等ガ時ニハ我ガ兵ヲ傷ケ時ニハ良民ヲ装ヒ変幻常ナキヲ以テ其実質ヲ判別スルニ由ナキニ依リ今後村落中ノ人民ニシテ猥リニ日露軍兵ニ敵対スルモノアルトキハ日露軍ハ容赦ナク該村人民ノ過激派軍ニ加担スルモノト認メ其村落ヲ焼棄スベシ〔以下略〕

 さらに、ユフタとバーヴロフカ、ボチカレヴォの戦闘をはさんで、山田少将は改めて強硬な「村落
焼棄」方針を告示する。この方針は浦潮派遣軍政務部長松平恒雄の内田外相宛て電報から内容を窺い知ることができる。すなわち松平の3月6日づけ「第158号」には、「当地新聞ハ山田少将ノ告示文トシテ大要別電159号ノ如キ記事ヲ報道シタルニ……」とあり「別電159号」には、次のように記されているのである。  

 最近州内各地ニ於テ過激派赤衛団ハ現地政府及日本軍ニ対シ州民ヲ扇動シ向背常ナク我軍隊ニシテ其何レガ過激派ニシテ何レガ非過激派ナルカ識別ニ苦マシメ秩序回復ヲ不可能ナラシメツゝアルガ斯クノ如キ状態ハ到底之ヲ容スベカラザルモノト認メ全黒竜州人ニ対シ左ノ通リ告示ス 
 一、 各村落ニ於テ過激派赤衛団ヲ発見シタル時ハ広狭ト人口ノ多寡ニ拘ラズ之ヲ焼打シテ殲滅スベシ〔以下略〕
 浦潮派遣軍参謀長は、この第一項が文字通りに実施されれば「諸種ノ問題ヲ惹起スルニ至ルベク又永久ニ庶民ノ怨ヲ買フガ如キ結果ニ陥ルナキヤヲ惧ル」旨、第十二師団参謀長に電諭した。これに対する第十二師団からの回電には次のようにある。
 家屋焼却等ハ戦闘上避クヘカラサルモノ「チェクノフカ」及「パーロフカ」等十数軒ニ止マリ農民ハ案外ニ小数ナルニ驚キアラント思ハル 良民ヲ虐殺スル等ハ絶体ニ無ク強姦等ハ勿論ナリ
 この回電においても、「家屋焼却」の事実ははっきり肯定されている。
 
 ソ連の歴史家アムール州内で1919年3月に焼き打ちを蒙った村落として、クルーグラヤ、ラズリフカ、チェルノフスカヤ、クラースヌイ・ヤール、パーヴロフカ、アンドレーエフカ、ヴァシリエフカ、イヴァノフカの各村落、ロジェストヴェンスカヤ郷のすべての村を挙げている。
 これらのうち最も大規模かつ残虐な被害を蒙ったものとして知られるのがイヴァノフカである。同村の掃蕩の直後、山田旅団長は宣言を発して、同村が「黒竜州ニ於テ過激派ノ跋扈シタル其ノ当初ヨリ既ニ彼等ノ有力ナル巣窟」であり、ガーモフの反乱に際しては「其ノ住民中男子ハ殆ント赤衛軍ニ参加」したと理由を挙げて焼打ちを正当化した。日本軍はイヴァノフカを眼の仇にしていたのである。
 ところで、この事件のほぼ半年後、浦潮派遣軍政務部は民間人の佐藤熊男と沢野秀雄、それに通訳官と従卒の計四名の調査団をアムール州に特派し、事件を調査させている。この調査団の経緯は不明だが、彼らによって「黒竜州『イワーノフカ』『タムホーフカ』村紀行」と題する報告書が残されている。。もとより「過激派ノ為メニ田中大隊全滅ノ悲惨ヲ見タル九州男子ノ憤怒ヨリシテ此ノ大活劇ゝヲ演ジタトシテ見レバ焼イタ方ニモ無理ハ無サソウデアル」と、弁護論に立った報告書ではあるが、村長はじめ村民からの聴き取りを含む点で貴重な史料である。村民は調査団に次のように語った。やや長文だが、この部分は引用を必要とする。

 本村ガ日本軍ニ包囲サレタノハ三月二十二日午前十時デアル 其日村民ハ平和ニ家業ヲ仕テ居タ 初メ西北方ニ銃声ガ聞ヘ次デ砲弾ガ村ヘ落チ初メタ 凡ソ二時間程度ノ間ニ約二百発ノ砲弾が飛来シテ五、六軒ノ農家が焼ケタ 村民ハ驚キ恐レテ四方ニ逃亡スルモアリ地下室ニ隠ルゝモアッタ 間モナク日本兵ト「コサック」兵トガ現ワレ枯草ヲ軒下ニ積ミ石油ヲ注ギ放火シ初メタ 女子供ハ恐レ戦キ泣キ叫ンダ 彼等ノ或ル者ハ一時気絶シ発狂シタ 男子ハ多ク殺サレ或ハ捕ヘラレ或者等ハ一列ニ列ベラレテ一斉射撃ノ下ニ斃レタ 絶命ゼザルモノ等ハ一々銃剣テ刺シ殺サレタ 最モ惨酷ナノハ廿五名ノ村民ガ一棟ノ物置小屋ニ押シ込メラレ外カラ火ヲ放タレテ生キナガラ焼ケ死ンダ事デアル 殺サレタ者ガ当村ニ籍ノアル者ノミデ二百十六名、籍ノ無イ者モ多数殺サレタ 焼ケタ家ガ百三十戸、穀物農具家財ノ焼失無数デアル 此ノ損害総計七百五十万留(ルーブル)ニ達シテ居ル 孤児ガ約五百名老人ノミ生キ残ッテ扶養者ノ無イ者ガ八戸其他現在生活ニ窮シテ居ル家族ハ多数デアル
 
 翌年ニ月、アムール州にソビエト権力が回復されると、武市の新聞『アムールスカヤ・プラウダ』の編集者、ジュコフスキー=ジュークは内戦期の犠牲者について情報の提供を呼びかけ『赤いゴルゴダ』と題する殉教者列伝を出版した。全国に知られたといわれるこの本には、他の多くの犠牲者と並んで、一歳半の女児を含む二百九十一人の氏名がイヴァノフカの焼討ちの犠牲者として記載されている。
 アムール州とりわけザゼーヤ(ゼーヤ以東)地区は極東ロシアの穀倉として知られた。中でもイヴァノフカは「人口8000カラアル」屈指の大村で、随所にみられる「米国式の農具」に象徴されるように「富ニ於テモ亦州内其比ヲ見ナイ位ノ村」であった。日本軍はこの豊かな村の全村民を敵に回した。「殺サレタ者ノ内ニハ過激派デ無イ者ガ多ク焼カレタ家ハ過激派ノ家デハナイ 寧ロ反過激派トモ称スベキ資産家許リ」だったと「紀行」の筆者は記している。「此ノ事アッテ以来村民ノ大部分ハ極度ニ日本軍ヲ恨ンダ ソシテ自然過激派ニ変ズルモノモ少ナクナカッタ」──日本軍の所業の当然の帰結である。別の記述によれば、掃蕩を受けたのち、イヴァノフカ村民はドロゴシェフスキーのパルチザン軍に十三個中隊を編成したという。
 イヴァノフカの掃蕩について、山田旅団長は「根抵的懲戒ノ実ヲ示ス」ものとしてその意義を宣言するとともに、「赤衛軍ニ援助ヲ与ヘ若ハ日本軍ニ敵対セントスル村落ハ尽ク『イヴァノフカ』ト同一運命ニ遭遇スヘキヲ覚悟スヘシ」と威嚇を繰り返した。

 一方、武市では蜂起計画を実現しないまま、3月7日─8日にボリシェビキ党地下組織の66名の工作者が一斉検挙に遭った。ムーヒンも8日の朝に逮捕されたが、それは「予テ日本軍ニ秘密探偵トシテ雇レタシト称シ居タル露婦人ノ案内ニ依リ日本軍憲兵及露軍事探偵協同シテ探査ニ従事」した結果の逮捕であった。日本軍はこのロシア婦人と探偵に懸賞金1万3000ルーブリを与えた。
 ムーヒンは9日の軍事法廷で死刑を宣告されたが、「泰然自若、其態度感心スヘキモノアリ」と日本軍の報告は記している。このあと、同夜監獄に護送の途中、ムーヒンは白衛軍将校によって射殺され、非業の死を遂げた。日本軍が白色テロに自ら手を下した事例も記録に残されている。3月26日、武市監獄に収監中の政治犯17名を連行し、そのうち15名を勝手に処刑してしまったというものである。
 武市特務機関の作成になる「アムール州附近過激派主要人物名簿」が旧陸海軍記録の中に見出されるが、ブラック・リストもまた、白色テロルへの日本軍の加担を窺わせる史料である。大正7年6月25日調、とあり、前年の9月の反革命政権成立以後6月24日までに、(1)処刑されたもの19名(ムーヒンほか、ドロゴシェフスキーも含まれる)、(2)収監中の者19名、(3)放免された者7名(「右ノ外過激派下級幹部約500名捕縛セリ」の但し書がある)、(4)「捕縛ヲ要スル」者83名の氏名がリスト・アップされている。そして、「捕縛ヲ要スル」者のうち、クラスノシチョーコフら数名には〇印がつけられ、「最モ速ニ行フヲ要スルモノトス」の注記がある。この頃、クラスノシチョーコフは本名秘匿のままイルクーツクの監獄に収監されていたのであるが。
 平塚副領事の4月10日づけ報告に「過激派残兵其後我軍ノ厳重ナル討伐ノ為メ如何トモスルコト能ハス」とあるように、アムール州のパルチザン運動は「師団全力ヲ以テスル大討伐」の結果、表面上は下火になったかにみえた。実際には、運動の指導部はパーヴロフカの戦闘以後、その教訓からより効果的な戦術に転換すること、蜂起隊をひとまず解散し、日本軍から奪った砲は捨て、軽装備少人数のグループをタイガに後退させて機を待つことを決定したのである。
 

 

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「日韓請求権協定」の問題

2019年10月02日 | 国際・政治

 昨年、韓国の大法院(最高裁判所)が、新日鐵住金を被告としたいわゆる「徴用工」による損害賠償請求訴訟で下した判決に対して、安倍首相は「国際法に照らしあり得ない判断」だと指摘しました。そして、日韓関係は悪化の一途をたどり、改善の見通しが立ちません。安倍首相は過去の日本政府の考え方を変えたんでしょうか。それとも、二枚舌なんでしょうか。

 安倍首相が依拠とするのは、1965年に日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約と同時に締結された付随協約のひとつ「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」の第二条、
両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、千九百五十一年九月八日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
という文言でしょうが、これは、 私人の財産・権利とりわけ国家に対して有する権利もしくは請求権を、個人に代わって国家が放棄したものでなく、国家が放棄したのは国家による「外交保護権」であるといわれているものです。すなわち、「徴用工」の問題に関して、韓国政府が日本政府に請求権を行使することはできませんが、韓国の元「徴用工」個人が請求権を行使することは禁じていないということです。したがって、韓国の大法院判決は、「国際法に照らしあり得ない判断」では決してなく、かつて日本政府も「条約では個人の請求権は消滅しない」と力説し、原爆被爆者やシベリア抑留被害者の賠償や補償請求を退けたということです。


 そのことのはじまりは1951年のサンフランシスコ平和条約で、この条約には「連合国及びその国民に対する日本国及びその国民のすべての請求権を放棄し…」という文章があるので、これを理由に、広島の原爆被爆者が日本国に対して補償請求訴訟を起こしたところ、被告である日本国は次のような主張をしたといいます。
 ”国家が個人の国際法上の賠償請求権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利が外国との合意によって放棄できることは疑ないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。従って、対日平和条約第19条(a)にいう「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本国の賠償請求権、すなわちいわゆる外交保護権のみを指すものと解すべきである。…国民自身の請求権はこれによって消滅しない。従って、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日平和条約により放棄されたものではないから、何ら原告等が権利を侵害されたことにはならない。”(東京地裁1963年12月7日判決による被告主張要旨)

 また、「日ソ共同宣言」で、日ソ双方が「戦争の結果生じた、すべての請求権を相互に放棄する」(第6項)と定めたので、シベリア抑留被害者が日本政府に補償を要求した(シベリア抑留訴訟)ときも、日本政府は、サンフランシスコ平和条約や日ソ共同宣言によって放棄したのは国家の外交保護権のみであり、被害者個人のアメリカやソ連に対する損害賠償請求権は消滅していないから、日本国は被害者に対して補償する義務はないと主張したといいます。
 シベリア抑留者が、日ソ共同宣言によってソ連に対する賠償請求権を日本政府が放棄したから、その賠償を日本政府に求めた訴訟に関して、日本政府は、個人の請求権は放棄されていないとして、被害者の補償を拒んだのです。
 韓国大法院判決は国際法違反という、日本の大合唱は、いったい何なのかと思います。


 また、韓国大法院判決が「国際法に照らしあり得ない判断」をしたということであれば、韓国大法院を批判すべきで、文政権を批判するのはまったく筋違いであり、それは、三権分立を否定することにほかならないと思います。安倍首相の独裁性が疑われますし、報復的に対韓輸出規制に走るのでは、積極的平和主義の内実が問われます。日本政府はとても好戦的だと思います。

 さらに見逃すことができないのは、連行朝鮮人労働者(徴用工)に対する朝鮮人聯盟の補償要求を「不当要求」として拒否した日韓請求権協定締結以前の諸問題です。特に1946年6月21日付厚生省の「朝鮮人・台湾人及中国人労働者の給与に関する件」という「次官通牒」は、日韓請求権協定が如何なる考えで締結されたのかを窺わせます。
 厚生省次官通牒の内容は、下記のように、日本人と植民地労働者との差別的取扱を禁じたGHQの「覚書」を、補償要求拒否の根拠として逆利用し、ポツダム宣言を持ち出すことによって戦時中の差別的賃金格差その他のすべてを帳消しにした上、未払い金の委託要求は、朝鮮人聯盟が労働組合法で規定された労働組合ではないとしてこれを拒むというものだったのです。そして、その姿勢を変えることなく、日本が日韓請求権協定へ進んでいったということは、参議院日韓条約特別委員会において椎名外務大臣が 「…これを裏づけるよすがもない。…」とか「事実関係を実証するような材料というものはもうみなくなっておる」として、 連行朝鮮人労働者(徴用工)に対する賠償や補償を「経済協力」に置き換える方針を決定したことにあらわれているということです。でも、当時供託金や供託報告書は地方法務局に保管されていたということが指摘されており、日韓請求権協定そのものにも、連行朝鮮人労働者(徴用工)に対する賠償や補償を回避しようとする日本側の意図があったということだと思います。
 
 下記は、「在日韓国・朝鮮人の戦後補償」戦後補償問題研究会(明石書店)から、抜粋しましが、嫌韓・反韓の主張があふれている今、下記の文章が明らかにしている事実は重大だと思います。
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                        Ⅴ 朝鮮人強制連行の戦後処理

      三 政府と資本家団体の対応

 厚生省は、1946年1月10日付の省令第二号で、日本政府の「職業政策」(=雇用政策)を明示した。その中で同省は、「工場・事業場其ノ他ノ場所ノ事業主ハ其ノ使用スル労務者ノ賃金、給料、就業時間其ノ他労働条件ニ関シ国籍、宗教又ハ社会的地位ノ故ヲ以テ当該労働者ニ対シ有利又ハ不利ナル差別的取扱ヲ為スコトヲ得ズ」(「労務者ノ就業及従業ニ関スル件」)として日本人労働者と植民地労働者の差別的取扱を禁じ、さらに同月17日付次官通牒では「差別的取扱ノ禁止トハ技能能力其ノ他ノ条件ニテ同等ナル日本人ト同等ノ権利、特権、恩典、機会ヲ与フルコトヲ意味シ不利ナル取扱ハ勿論特ニ有利ナル取扱モナスコトヲ得ザルモノナルコト」(「厚生省省令第二号事務取扱ニ関スル件依命通牒」)と差別的取扱の意味を明らかにした。
 GHQの「日本政府ニ対スル覚書」を規定化したこの省令を日本政府は朝鮮人聯盟の「不当要求」=補償要求を禁止するための法的根拠にしようとした。しかしそれは、補償要求を押さえ込む上で何の役にも立たなかった。1946年一・ニ月の大手建設会社の朝鮮人聯盟への大幅譲歩は、この点を白日の下にさらした。1946年2月、内務省警保局は公安課長名で通牒を出し、朝鮮人の「暴行脅迫等」に対しては「機ヲ失セス警察力ヲ集中配備シ、不法行為ノ排除ニ断固タル検挙取締ヲナシ彼等ノ乗スヘキ間隙ヲ与ヘサル等之カ取締ノ強化ニ遺憾ナキヲ期セラレ度」(「朝鮮人団体ノ不当要求ニ随伴スル不法行為取締方ニ関スル件」)と、警視庁警務部長および府県警察部長に指令した。またこれと連携して、日本鉄鋼協議会も「此種事件ノ発生ノ節ハ速に関係警察部ト連絡善処相成度候」と事務局長(藤井丙午)を通じて同協議会加盟の各社に指示し、併せて、3月13日連合軍司令官マーナム大佐が朝鮮人聯盟幹部を招き、内務省保安局長および公安課長立合い下に、「朝鮮人聯盟ヨリノ不当要求ハ今后絶対為スヘカラスト申渡スト共ニ、朝鮮人台湾人ハ連合国人トシテ取扱ヲ為サス、日本人ト同一ノ取扱ヲ為ス旨申渡」(「朝鮮人聯盟ノ不当要求ニ係ル内務省ノ取締方針ニ関スル件」『二一鉄協総』第三三号)したことを付言している。GHQを取り込み、国籍による差別的取扱を禁じたGHQの対日職業政策を連行朝鮮人労働者の補償要求の封殺策として利用し、これに対する抵抗は警察力の集中配備・取締の強化によって押さえ込むという政府と資本家団体の政策が、こうして形づくられた。しかしそれは、補償要求封殺の決め手とはならなかった。「不当要求」と言う場合の「不当」とは何を指すのかがまったく不明確であったからである。厚生省、日鉄本社の反対にもかかわらず、6月5日補償要求を大幅に認める岩手県内務部長の調停案が成立したのは、朝鮮人聯盟岩手県本部による突き上げの激しさや彼らに対する盛岡進駐軍司令部の好意的な態度ばかりでなく、この点とも深く関わっていた。
 政府と資本家団体は新たな対応が迫られた。1946年6月21日付で、厚生省は、「朝鮮人・台湾人及中国人労働者の給与に関する件」なる次官通牒を発して省令の意図を明確化し、これに基づいて朝鮮人聯盟の補償要求に対処するよう地方長官(県知事)に指令した。
 通牒の主な内容は
(一)省令は1946年1月10日より施行されているがGHQの「覚書」の趣旨を考慮し、特に賃金に関しては前記省令の趣旨を前年の11月28日まで、退職手当については同年9月2日までさかのぼって実施させること、
(二)1945年11月27日および同年9月1日以前にさかのぼって、前記省令の趣旨を事業主に実施させようとする要求は法令上根拠がないばかりでなく不当である。
(三)労働組合法第二条の規定に該当する労働組合でない朝鮮人聯盟その他の団体は、朝鮮人、台湾人および中国人のための賃金に関して事業主と交渉する権限をもたず、金を集める権限ももたないこと、この三点であった。この次官通牒は、日本人と植民地労働者との差別的取扱を禁じたGHQの「覚書」を補償要求拒否の根拠として利用したばかりではない。ポツダム宣言を持ち出すことによって戦時中の賃金格差その他のすべてを帳消しにし、それでカヴァーできない未払い金の委託要求は、朝鮮人聯盟の法的性格を問題にすることによってこれを拒否するという、まったく理不尽そのものであったが、それは補償要求・未払金委託要求を拒否する上で決定的な重みをもった。

 盛岡進駐軍司令部の支援もあって調停案を成立までこぎつけた岩手県内務部長は、この次官通牒
によって集中砲火を浴びることになった。通牒がだされたのは7月3日であったが、これに先立ち6月25日には厚生省において通牒に関する懇談会が開かれ、山田給与課長から趣旨説明がなされた。
 この懇談会に労務課長を送った釜石製鉄所は、厚生省給与課長に依頼して「貴管下朝鮮人労務者ノ慰籍料ノ件ニ付調停方取運中ノ由ナルガ右ニ関シテハ近ク厚生省次官ヨリ通牒アル筈ニ付一時見合セラレ度」(「朝鮮人労務者問題ニ関スル件」『釜労』486号)と県当局に圧力をかけさせた。が、さらに同月28日帰釜の途中同労務課長は県当局を訪ね、今回の通牒の内容を説明、製鉄所としては通牒の趣旨に従い調停案は受諾しがたい旨を申し入れ、併せて通牒到着前に予想される聯盟の活動に対する取締り上の措置についても、県保安課長に依頼した。釜石製鉄所のこうした動きに連動して、県内の大鉱山三菱鉱山と松尾鉱山もこの問題で出県、協議の結果通牒の趣旨に従って調停案を拒否することに決定した。こうした状況の中で県当局も、「既往ノ行キ懸リニ拘泥スルコトナク県調停案ノ見合セヲ諒承」し、「正式通牒到着ヲ俟テ県ヨリ聯盟ニ対シ県調停案ノ白紙還元ト通牒内容ヲ徹底セシムルコト」(同上)を釜石製鉄所に確約した。

 9月26日、県内務部長は調停案について改めて協議したいとして関係者を県庁に招集した。この協議会には進駐軍側から軍政部長、憲兵隊長、通訳の三名、朝鮮人聯盟から岩手県本部委員長以下五名、業者側から三菱鉱業、日本鉱業、松尾銅山、釜石製鉄所、釜石鉱山等八社、県庁側から内務部長、公安、厚生両課長および係官五名が出席した。軍政部長、憲兵隊長立合いの下での協議会では、内務部長=業者対聯盟の間で数時間にわたって激論がたたかわされた。聯盟の攻撃は県当局と4月5日の懇談会で県当局に無条件一任をした釜石製鉄所以外の業者に向けられた。しかし、聯盟側の「絶対反対」にもかかわらず、結局、厚生省通牒の趣旨に沿って、当局は調停案を白紙撤回した。軍政部もこれを確認した。6月25日の厚生省給与課における懇談会の席上、山田給与課長は「マ司令部デハ朝鮮人問題ニ付テハ詳細ニ研究シアリ、之ガ取締ニ付テハ相当峻烈ナル意向アリ、米第八軍管下ニハソノ趣旨徹底ヲ計ルコトトナッタ」(『朝鮮人労務者関係』)とマ司令部の朝鮮人政策を説明しているが、このことが軍政部の方針転換を促したのであろう。なお、県調停案の白紙撤回と同時に県内務部長は「全然別の観点」から業者の寄付問題を提案した。業者間で協議の結果、聯盟事務費として終戦帰国送還人一名当たり十円を一応の算定基準とすること、千円未満の場合は千円とし最高は五千円を超えないことで合意をみ、県当局もこれを了承した。釜石製鉄所は県内業者のこうした合意をもとに
(一)軍政部に対する県当局の立場も考慮せざるを得ないこと
(ニ)対聯盟問題は昨年以来の懸案でありこの機会に解決したいこと
(三)聯盟側が個々の朝鮮人労働者から委任状を集めて個別的に事業主に対して交渉するという嫌がらせ戦術を採用し始めていることなどから、県を通じてこのさい五千円を聯盟に寄付し、政治的に本件を処理するのが得策であると本社に書き送り、その同意を求めた。しかし、日鉄本社はこれを拒否した。在京関係企業(日鉄、三菱、日鉱、松尾鉱業、田中鉱業)は、10月14日岩手県鉱業会主事和泉武を招いて現地報告を聞くと同時に、厚生省、内務省、全国鉱山会、石炭鉱業会の意向も聴取の上「事務費名目ノ寄附金ハ一切之ヲ拒絶スルコト」を決定、その旨を釜石製鉄所その他関係企業に通告した。(全国鉱山会労務課長「朝鮮人聯盟岩手県支部ノ要求ニ係ル寄附金ニ関スル件」)その理由として業者側は、6月21日の通牒により朝鮮人聯盟岩手県本部との契約も当然無効となったこと、制限会社はマ司令部の資産移動禁止により、正常な業務遂行上のこと以外の寄附的性質の支出は禁止されていることの二点を指摘しているが、これは単なる口実にすぎず、その真のねらいは「本件ハ単ニ本件ノミノ問題ニ止マラズ全国ニ波及スル惧」(同上)があるという点であった。日鉄本社をはじめとする関係企業は、このように強制連行された朝鮮人やその利害代弁機関としての朝鮮人聯盟に対しては一切の支払いを拒否しながらも、その反面で朝鮮人聯盟の要求額を現実に支払ったものとして「管理費」の名目で国庫から多額の資金を引き出した。日鉄本社が受け取った「管理費」は総額五千万に達した。(日本製鉄株式会社「朝鮮人労務者の休業手当等の国庫補償獲得の為の資料提出に就て」「総勤」第212号)。

      四 未払い金の供託

 朝鮮人聯盟の補償要求・未払い金の委託要求を次官通牒によって押さえ込んだ日本政府は、その一方で、供託制度を設け、連行朝鮮人を雇傭した企業に対して未払い金の供託を義務づけた。「未払賃金等ハ事業主側ノ保管ノママニシテイルト時日ノ経過ト共ニ不道徳資本家ハ之ヲ奇貨として証拠隠滅ヲ計ル等相続人ニトツテ不利ノ結果ヲ生ズルカラ是非聯盟ニ供託サレタシ」(『朝鮮人労務者関係』)という朝鮮人聯盟の要求はそれ自体根拠のあるものであり、朝鮮人聯盟の批判をかわすためにはこうした措置が不可欠であった。室蘭進駐軍司令部が「一切の朝鮮人関係未払手当金は該軍政部に於いて清算処理すること」(『輪労』第683号)を決定、1946年7月29日までに内訳書類を添付のうえ、未払い金を同司令部に納入するよう終戦連絡札幌地方事務局室蘭出張所長を通じて通告したことは、これを加速させた。厚生省は、こうした地方軍政部の動きに対抗してGHQとも協議を重ねる一方、各社に対して未払い金の申告を命じ、次官通牒によって同年7月中にも供託制度を発足させようとしていた。しかし、「マ司令部許可遅延ノ為」、結局それは同年9月初旬までずれこんだ。連行朝鮮人に関するGHQの方針が、室蘭進駐軍司令部の場合と同様「軍政部を経て総司令部宛該金を送付し、朝鮮進駐軍に依託の上それぞれ本人に交付する」(『朝鮮人労務者関係』)というものであったかどうかは即断できないけれども、少なくともこれを許容していたことは確かであり、そのことが「マ司令部許可遅延」の一因だったと解される。
 供託所は都道府県の司法事務所(後の地方法務局)に設けられ、朝鮮人労務者を雇傭した企業は、未払い金を債務履行地の供託所に供託するとともに、供託完了時には未払い金の総額とその内訳を記載した報告書二部を地方長官(県知事)に提出することが義務づけられた。また、地方長官は、関係者(債権者)の要求がある場合には前記報告書を閲覧させ、記載事項に異議があれば再調査をし、未払い金の公正化を図ることとされていた。(厚生省労政局長「朝鮮人労務者等に対する未払金その他に関する件」)。日鉄釜石製鉄所の場合、1946年12月、同八幡製鉄所は翌47年1月、同大阪製鉄所は47年4月にそれぞれ供託を完了していることからみて、供託の完了は1946年末から翌47年初頭にかけてのことであった、と推測される。
 朝鮮人労働者を雇傭した企業が供託した未払い金の総額がどの位になるかは、供託報告書が公開されていない現段階では明らかではないが、日本製鉄株式会社の場合、表3にしめすように総額66万4077円にのぼっている。
 ・・・
 …「日鉄釜石製鉄所愛国貯金会規約」によれば、職員は毎月賃金の百分の七以上を、また男子工員は一円以上を貯蓄銀行に貯金することが義務づけられ、同会を退職するとき、軍隊へ入隊するとき、病気により長期欠勤するとき、国債または貯蓄債を購入するとき以外は、払戻請求はできなかった。
(『岩手県工場鉱山関係調査資料』1940年)釜石製鉄所にはこのほか任意貯金があり、預金通帳は前者は会社側が、後者は各自保管となっていた。
 …しかし、朝鮮人が同製鉄所に連行される同年末以降貯金率は急速に高まり、1942年初頭には20%を超えた。
 ・・・ 
 …釜石製鉄所の場合、1945年12月まで連行朝鮮人を拘束したこともあって、逃亡者や事故帰国者が続出したが、製鉄所は前者はもちろん、製鉄所との合意の上で帰国した後者に対しても賃金・退職積立金等を中心とする未払い金の支払いや保険金の立替えは一切しなかった。それのみか「満期帰国」者に対してさえ、未払い金を支払っていない。

     五 日韓協定と未払い金問題

 朝鮮人聯盟の補償要求は、日本政府と資本家団体によって圧殺され、未払い金の委託問題も供託所への供託によって凍結された。だが、それは問題の解決とはならなかった。事実、強制連行された朝鮮人労働者に対する補償問題は、日韓会談における最重要議題の一つとなった。朝鮮人聯盟の補償要求、未払い金の同盟への委託要求を拒否する法的根拠となった6月21日付の例の次官通牒の中で、「このような要求は或は将来日本政府に対する全般的な要求の中の一項目となり得るかも知れないと想われる」(「朝鮮人労務者等に対する未払金その他に関する件」 厚生省発労第36号 )と厚生省は述べたが、それがまさに現実のものとなった。韓国政府は世論に押されて執拗に問題の解決を迫ったが、日本政府はこれを頑なに拒み続けた。しかし1961年の池田=朴会談では、韓国の対日請求権は個々の韓国人が日本に対してもつ恩給、未払い賃金などを中心とする請求権であって、決して賠償的なものではないことを韓国政府に認めさせ(中川信夫『日韓問題の歴史と構造』81頁)翌62年の大平=金会談(「金・大平メモ」)では、無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款1億ドル以上の「経済協力」とひきかえに、一切の対日請求権の放棄を韓国側に「了解」させ、1965年も日韓協定においてこれを追認させた。その結果、強制連行された朝鮮人は何らの補償もされなかっただけでなく、個々の労働者に返還されねばならなかった未払い賃金、退職積立金、預貯金、保険金、弔慰金等の未払い金さえも日本政府に没収された。日韓条約を審議した第五十回国会で、後宮アジア局長は法務省に供託されていた未払い賃金や郵便貯金、あるいは恩給局保管の恩給等の個人請求権はどうなるのかという議員の質問に対して、「いわゆる金・大平了解の線で片付きましたので、全然個別の請求はないわけなんです」(外務省条約局条約課『日韓条約国会審議要旨』269頁)と答弁している。日韓請求権交渉を未払い賃金・恩給等を中心にした未払い金に限定させた日本政府は、その未払い金さえ連行朝鮮人労働者から奪い去ったのである。それは、警察力の集中配備・取締りの強化とセットされたかの次官通牒による補償要求の全面拒否、供託所への未払い金の供託という対朝鮮人政策をさらに押し進めたものといってよいだろう。朝鮮植民地支配についての日本政府と議会の反省の欠如が日韓請求権協定の決着をこうしたものにしてしまった。朝鮮植民地支配の最大の犠牲が強制連行された朝鮮人であったという認識が政府と議会にあったとすれば、かれらの犠牲の上にこうした協定が取り結ばれるようなことはなかったろう。…
・・・
 それにしても、日韓協定において「強制労働者に対する請求権が経済協力に置き換えられた事情」(前掲『日韓条約国会審議要旨』228頁)は何であったのだろうか。1965年12月3日の参議院日韓条約特別委員会において椎名外務大臣はこの点についてこう答えている。「この問題は、それはもう長い時日を経過しておるし、それから日本にも敗戦という、それからまた本土爆撃という大混乱がありました。朝鮮半島においても、御承知のように大動乱があったわけです。これを裏づけるよすがもない、こういうことで、それは合意の上完全かつ終局的に終了したことにいたしまして、そして経済協力という方法によってその問題を置き換えるということに相成った次第で、御了承願います」(『前掲書』222-223頁)。椎名外務大臣の言わんとするところは、彼が別の箇所で述べているように、「経済協力」と「請求権問題」というそれ自体何ら法的因果関係をもたない二つの問題を同時に、「並行的に」処理せざるをえなかったのは、「事実関係を実証するような材料というものはもうみなくなっておる」(『前掲書』227頁)という点にあった。椎名外務大臣のこの答弁は果たして事実だったのだろうか。日韓協定の正統性の有無にかかわる論点なので、若干この点を事実に即してみてみよう。…
 ・・・
 …しかし、重要書類は私物といえども一物も残さずに焼却したといわれる日本建設工業統制組合でさえ、「会計経理に関するもの」は焼却しなかったとの証言があり(『華鮮労務対策委員会活動記録』附録98頁)また空爆や艦砲射撃によって大きな被害を受けた日本製鉄株式会社所属の八幡、釜石、大阪、輪西、広畑、富士の各製鉄所は、1946年7月から翌47年4月にかけて死亡者や逃亡者等に対する未払い金を供託報告書とともに所在地の供託所に供託しているが、このことは、これらの製鉄所がそれを可能にするだけの会計経理に関する資料を保存していたことを示している。同様のことは、未払い金を供託したすべての企業についてもいえる。後者については戦後の1946,7年に提出したもので、長い時間の経過にも「本土爆撃という大混乱」や「敗戦」や「朝鮮半島」の「大動乱」にもかかわりなく、地方法務局に保管されてきたし、いまも保管されているとみられる。それは次の事実から容易に推測することができよう。…
…さらに1971年の法務局・地方法務局供託課長会議では富山地方法務局から「朝鮮人労務者に対する未払金弁済供託金について時効処理の先例<時効完成を事由とする処理はすべきでない>は維持されていると解してよいか」との照会がなされ、合同会議は「維持されている」との判断を下している(『登記研究』288号40頁)。以上の事実は、日韓協定締結の時点では、供託金の歳入納付の手続き原則としてとられておらず、これとセットされた供託報告書もまるごと地方法務局に保管されていたことを示している。「事実関係を実証するような材料というものはもうみなくなっておる」という椎名外相の国会答弁は、その意味ではまったくの虚言であった。それは「金・大平了解の線」で日韓協定を強行するための単なる方便でしかなかった。だが、『日韓条約国会審議要旨』をみるかぎり、未払い金を奪われた朝鮮人労働者に対する同情的な発言はあっても、政府答弁のこの虚偽を見抜き、事実をもってその背理、その不当性を訴えた議員はいなかった。
 第五十回国会で、後宮アジア局長は韓国側では日本から供与された3億ドルの中から基金を作り、「証拠書類」を提出した者にはある程度弁済するようにきいていると答弁している(前掲『日韓条約国会審議要旨』269頁)。しかし、預金通帳その他の「証拠書類」を供託局に保管されている朝鮮人労働者にとって、「証拠書類」を提出することなどありうるはずもなく、韓国側がこうした措置をとったとしても、それは形だけに終わらざるをえなかった。事実、韓国では「対日民間請求権申告法」(1971年)、「対日民間請求権補償法」(1974年)が制定され、1971年5月から72年3月まで申告を受けつけ、1977年6月まで補償を行った。支払総額は91億8769万ウォンで、その内訳は財産補償66億2209万ウォン(7万4967件)、人命補償25億6560万ウォン(8552名)であった。死亡者一名の補償額は30万ウォン、補償対象は軍人・軍属と徴用労務者に限られた(『ハッキリ通信』創刊号28頁)。韓国政府が補償したものは総額で無償三億ドルの10.2%、人命のみについていえば2.9%にすぎなかった。軍人・軍属のみで戦没者は21919名にのぼっているので、補償を受けた人は4割にも満たない。これに強制連行された朝鮮人の死没者を加えると受給率はさらに低くなるだろう。在日韓国人は日本の軍人恩給・遺族年金の対象外とされたばかりか、韓国の補償法の対象からも外されている。在日韓国人は日韓両国の谷間に放置されている。

       六 結語 ・・・略
 

 

 

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