真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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本島等元長崎市長 「広島よ、おごるなかれ」

2016年06月24日 | 国際・政治

『回想 本島等』 N04

 本島等元長崎市長の、下記「広島よ、おごるなかれ」の主張と関連して、無視することなく、対応しなければならないと思ったことが3つあります。

 まず、2015年5月、欧米を中心とする187人もの日本研究者や歴史学者が連名で、「日本の歴史家を支持する声明」(Open Letter in Support of Historians in Japan)と題する文書を発表した件です。その文書は首相官邸にも送付されたといいます。日本の歴史認識を懸念する声が、海外で強まっていることがわかります。その文書では、特に深刻な問題として「慰安婦」問題を挙げていますが、それだけに止まるものではなく、日本の植民地支配や戦争における加害の認識にも、懸念があるのだろうと思います。やはり、歴史認識は歴史学者や研究者の客観的研究に基づくべきで、「結論ありき」の政治家や活動家に左右されてはならないと思います。

 次に、同じ2015年08月に、中国メディア・人民網が、ドイツメディアの日本批判を取り上げ、報じたという問題です。それは、ドイチェ・ヴェレの評論記事で、「平和を作り出すのは軍備ではなく和解だ」として、「日本が平和の意志を示したいのであれば、歴史を正視することが必要だ」と指摘し、「終戦から長い年月が経ったが、アジアの国々で働いた数々の暴行を差し置いて、日本は戦争被害者の身分を強調している。だが、日本はなにより戦争の加害者である。日本は今日まで歴史を反省して近隣諸国と和解することを拒んできた」というものです。
 残念ですが、頷かざるを得ない指摘だと、私は思います。社会科の教科書からは、次々に日本軍の戦争犯罪や加害の事実が消え、それらを後世に伝えようとする取り組みも一層難しくなっているように思います。
 また、日本には戦争被害を知ることのできる資料館や記念館、記念碑は多いですが、日本軍の戦争犯罪や加害の事実を知ることのできる資料館、記念館、記念碑は、様々な困難を乗り越えて自主的に運営されているごくわずかなものをに限られているのが現状ではないでしょうか。本来、日本には、国として戦争被害の事実のみならず、加害の事実も後世に伝える義務があると思います。

 三つ目は、先日、その報道姿勢が世界的に高く評されているフランスの「ル・モンド」紙が、伊勢志摩サミットにおける安倍首相の発言を取り上げ、「安倍首相の根拠のないお騒がせ発言がG7を仰天させた」というような見出しの記事を掲載したという問題です。安倍首相が都合のよい資料を使い、世界経済の現状が「リーマンショック前の状況とそっくりだ」と言って、各国に財政出動を促したことを問題視したようです。ドイツのメルケル首相やイギリスのキャメロン首相が「世界経済は安定成長への兆しをみせている」として、同意しなかったことは一部日本でも報道されました。でも、サミット開催国の首相の発言が、このような形で真っ向から批判されることは、異例ではないかと思います。問題は、安倍首相の発言が、あまりにも政治的で、ご都合主義的解釈に基づくものであっただけではなく、かなり信頼を失っている証拠ではないか、と思われることです。世界平和のためにも、国際社会で、広く信頼を得る努力が必要だと思います。

 こうした状況にあるからこそ、私は、本島等元長崎市長の「広島よ、おごるなかれ」という主張を、しっかり噛み締めなければならないと思います。特に、「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ・・・」の詩で有名な原爆詩人「峠三吉」に対する「峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ」という呼びかけが、強く印象に残りました。
 下記の文章は「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)から抜粋しました。
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「広島よ、おごるなかれ
 原爆ドームの世界遺産化に思う」
(平和教育研究年報vol24・1966、広島平和研究所 1997年3月)
1、中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録
 メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録されることに決定した。
 今回の登録は、米国、中国、日本、メキシコ、フィリピンなど21カ国の代表の合意で決定するものだった。
 「広島原爆ドーム」は原爆の悲惨さ、非人間性をすべての国で共有、時代を超えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として推薦された。しかし登録決定の過程で、米国と中国が不支持の姿勢を示した。
 米国は世界遺産登録に参加しない。「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」と指摘、「こうした戦跡の登録は適切な歴史観から逸脱するものである」と主張した。
 中国は「われわれは今回の決定からははずれる」と発言した。
 このようなことは満場一致で、拍手のなかで決定されるべきものである。
 私は、この記事を新聞で見て、日本のエゴが見えて、悲しさと同時に腹が立った。
 広島は原爆ドームを、世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、中国、米国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空爆によって、多くの人々がもだえ死んだ重慶の防空壕や真珠湾に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されるときの日本の心情を思えば「原爆ドーム」を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う。
 アジア、太平洋戦争は、90%中国と米国を相手とした戦いであった。両国の不支持はまさに「恥の上塗り」であった。
 アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国との間には、共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省があれば、世界遺産登録はなかったと思う。
 広島の被爆者たちは「核兵器廃絶のスタート地点に立とう、という世界の意志が読みとれる」と歓迎している。しかし、中国、米国が核兵器廃絶のスタートには立たないと言っているではないか。
 「何よりも、原爆は、この国ではいつもそうであるように、歴史、因果、責任、さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。原爆投下の原因より、原爆の惨事そのものに関心を集中する傾向は、第二次大戦に対する日本社会全体の態度を表している。このような態度のおかげで、戦争責任を問われた時、日本はドイツよりも素直さに欠けるようになってしまった」
 原爆の惨害は多く語られている。しかし原爆投下の原因はかたられることは少ない。私はここでそれを語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったということを。

2、なぜ原爆は投下されたのか
なぜ原爆投下は、喜ばれたのか


一、日本の最重要軍事基地、広島 ・・・略
二、アメリカ人たちの憤激 ・・・略
三、原爆投下ーアメリカの声明  ・・・略

四、世界は、広島の原爆投下を喜んだ
(1) 戦後フランスで最も活動的な作家、ボーヴォワールの『レ・マンダラン』(1954)に作者とサルトルとカミュが登場する。
 3人は南フランスを旅行中、新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原子爆弾を投下す」 日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれもただ、恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。
 「ドイツの都会だったら、白人種の上だったら、彼らも敢えてなし得たかどうか疑問だね。黄色人種だからね、彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとっては原爆投下は大きな喜びであった。 
(2) シンガポールのセントサ島の「ワックス(ロウ人形)博物館」の、第二次世界大戦コーナーでは、広島の原爆雲と焼け野原の市街地の写真が展示されている。
 それも、上下は天井から床まで、横幅はその2倍ほどの大きさで。それは、他の展示物に比べて、ひときわ大きいものである。また、他の展示物が戦時下のマレー半島とシンガポールのことばかりであるのにくらべて異質なものである。なぜ、広島の原爆投下が強調されるのか。
 1942年2月15日シンガポールは陥落し、3年8ヶ月、日本に占領された。日本軍は華僑の抗日組織を探すために、シンガポールの華僑20万人を集めた。検問する憲兵も、各部隊から集められた補助憲兵も中国語も英語も満足に話せなかった。当然の結果として、検問は、おおよそでたらめなものだった。日本側は戦犯法廷で華僑6千人を虐殺したといっているが、現地では数万人虐殺されたといわれている。
 シンガポールの人びとにとって、広島の原爆は日本の敗北を決定づけ、自分たちの死の苦しみから解放してくれた「神の救い」であったことを意味している。

五、中国、方励之 ー(中国の反体制物理学者、天安門事件のアメリカに亡命)
 最初に原爆の歴史を眼にするために、私は広島に行った。資料館の配置はゆきとどいており、被爆後の惨状をよく復元していた。
 原爆投下はまことに驚くべきものであった。六千度の高温、九千メートルものきのこ雲、強い高圧、大火と黒い雨、熱風。
 焼死した者、潰されて死んだ者、反射熱で死んだ者、即死し、つぎつぎと息絶えていった。このようなありさまに心を傷めぬ者があろうか。
 毎年八月六日、ここで式典が催され、西欧人も参加し、平和を祈願する。
 だが中国人である私は、解説の最後のことばをそのまま受け入れるわけにはいかなかった。『戦争の名の下に大量殺人を許してはならない』ー このことば自体は間違っていない。
 しかし、ある種の日本人から中国人にむかって言われるべきことばではない。
 広島は明治になって、軍事基地化した。瀬戸内海最大の軍艦造船所を持ち、日清戦争の前進基地とされた。戦争の名の下に中国人を殺すことはこの街から始まった。だから広島の壊滅は仏門のことばでいえば因果応報なのである。
 もとより、多くの罪なき者がこの報いに遭ったことは、まことに悲惨なことである。
 けれども、広島がこの百年の戦禍のうち最大の受難の地、最も心を傷めるに値する場所で、それゆえに平和のメッカ、ヒューマニズムを心から愛する聖地だというのであれば、私はやはり断固として、首を横に振るだろう。なぜなら、日本軍の爆撃によって、万にのぼる人がもだえ死んだ重慶の防空壕の跡、南京の中華門に今も人目につく弾痕。中国こそこの百年間の戦争における、最大の受難の地なのである。悲惨の程度においても、悲惨の量においても。
 にもかかわらず、中国じゅう、どこへ行っても平和記念公園は一つもない。一年に一度の慰霊祭のための国際大会もない。慰霊の常夜灯も、その前に置かれた献金箱もない。
 もしかすると、一つの民族も一個人も同様に、あまりにも悲惨すぎると、泣くことも、わめくこともしなくなるということがあるのかも知れない。

3、広島に欠ける加害の視点
  峠三吉の「原爆詩集」を読んで
  ちちをかえせ ははをかえせ
  としよりをかえせ こどもをかえせ
  わたしをかえせ わたしにつながる
  にんげんをかえせ
 峠三吉は、36年の生涯のうち、戦後わずか8年生きて、原爆の非人間性を告発し続けた原爆詩人の第一人者である。
 峠三吉は誰にむかって「ちちをかえせ ははをかえせ」と言っているのだろうか。
 この詩を読んで、私は日本軍が中国、華北で繰り広げた「三光作戦」を思い起こした。
 日本軍は中国華北において、特に1940年、中国共産党、八路軍と「百団大戦」を戦い、たいへんな痛手を受けた。この戦いで、日本軍は八路軍とそれを支える抗日根拠地の実力を知った。
 そこで抗日根拠地の討伐作戦をおこない、村や集落を焼き払って「無人区」にした。その残虐さがあまりにも凄まじいものであり、中国側はこれを「三光作戦ー①殺光(殺しつくす)②焼光(焼きつくす)③搶光(奪いつくす)」と名づけた。
ー中国華北でー
 私の部隊は毎日、谷間に残る家を焼き払い無人地帯から立ち退きに遅れた人びとを射殺しました。ある時、谷間に一軒家があるのを見つけました。家の中には年老いてやせ細った重病人と二人の男の子がいました。まず屋根に火をつけました。老人は焼け落ちる梁の下で焼け死にました。そのとき、焼ける屋根の下で、ボロを着てはだしで恐怖に震え、立ちすくみ、父母の名を呼んで泣きじゃくり、目は日本鬼子を見据え、銃弾をあびて血しぶきをあげてふき飛んで死んだ幼い二人の男の子。
ー広島ー
 日本侵略軍の根拠地、最重要軍事基地広島に原爆が落ちて、熱と爆風と放射線でボロぎれのような皮膚をたれ、焼けこげた布を腰にまとい、泣きながら群れ歩いた裸体の行列、片眼つぶれの、半身あかむけの丸坊主、水をもとめ、母の名をつぶやきながら死んだ娘。
 この三人の子どもの死はどちらが重かったか。
 峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ。悪いのは日本だよ。無差別、大量虐殺も日本がはじめたことだよ。原爆の違法性は言われているよ。しかし世界中原爆投下は正しかったといっているよ。原爆で日本侵略軍の根拠地、広島は滅び去った。広島、長崎で昭和20年8月から12月まで約22万人が被爆で亡くなった。
 日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。
 1941年~43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。
「ちちをかえせ ははをかえせ 何故こんな目に遇わねばならぬのか」
 峠三吉よこのことばは、親を皆殺しされた、中国華北の孤児たちのことばだったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか。

むすび
 原爆の被害は人間の想像をこえるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし、日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかにこえるものであった。
 今、われわれがやらなければならぬことは中国をはじめアジア、太平洋の国々と国民に謝罪することである。心から赦しを乞うことである。日本の過去と未来のためにも。
 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が、原爆投下を赦すということである。怒りや憎しみは個人にとっても、国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を殺すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。
 広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。二十一世紀は「和解の世代」でなければならない。
 核兵器のない世界への努力と、「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。

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『回想 本島等』 NO3

2016年06月16日 | 国際・政治

 2016年5月27日にオバマアメリカ大統領が、現職大統領として初めて被爆地・広島を訪問するにあたって、日米のメディアが、それぞれアメリカの原爆投下について、大統領の「謝罪」問題を取り上げました。

 様々な議論がありましたが、「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)には、本島等元長崎市長が、このアメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張していたことや、その考え方について触れた論考があります。

 菅原潤(元長崎大学教授・日本大学教授)が、『原子野の「ヨブ記」』に収められた無名の男性の証言から、本島等元長崎市長が、同じカトリック信者である永井隆(被爆医師)の「浦上燔祭説」を読み解く鍵を見出したことを紹介し、”本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察”を書いているのです。

 「浦上燔祭説」というのは、1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬の弔辞で、永井隆が展開したカトリック信徒としての考え方です。被爆医師である永井隆は、弔辞で「燔祭」(ハンサイ=ホロコースト)という言葉を使いました。その「燔祭」という言葉に注目した高橋真司教授が、その弔辞を「浦上燔祭説」と呼んで批判して以降、永井隆が「弔辞」で展開した考え方が、「浦上燔祭説」と呼ばれるようになったということです。

 「原爆投下は仕方なかった」という発言で物議を醸し、アメリカの原爆投下を”「赦す」と言わなければならない”と主張した本島元長崎市長の考え方に関わる重要な文章であるとともに、永井隆医師を恩師の一人とする秋月辰一郎をして”「原爆の長崎」「長崎の永井」というイメージが全国を風靡した”といわしめるきっかけとなった「弔辞」なので、全文を含む関係部分を抜粋しました(資料1)。

 この弔辞は、永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の中に出てくるのですが、そのなかの「浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します」には、正直私も驚き、どのように受け止めるべきか戸惑いました。
 でも、この弔辞の考え方は、傷つきながらも生き残ったカトリック信者を慰め、家族や親しい人たちを失った信者に生きる力を与えるためには、最も効果的な考え方ではないかとも思いました。
 ただ、それは戦争に関わる国際社会の歴史を振り返り、その歴史を社会科学的に分析したり考察したりする考え方はもちろん、被爆体験をもとに、非人道的な原爆投下にいたる戦争の原因やその責任を追及し、核のない世界平和を実現しようとする考え方とは、次元の異なる宗教的な考え方のように思いました。

永井隆の「長崎の鐘 マニラの悲劇」の全文が掲載されている「日本の原爆記録」(日本)図書センター)には、著者永井隆の「自序」がありますが、そこには、「原子爆弾について知りたいとだれも思っています。その場に居合わせていた私は、見たこと聞いたこと調べたこと感じたことをそのまま知らせたいと思いました」と書いています。また、「この本の目的は、原子爆弾の実相をひろく知らせ、人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせるにあります」とも書いています。

 確かに、政治的レベルで考えれば、永井の弔辞は、高橋教授がいうように日本の戦争指導層の責任を免除し、また、原子爆弾を投下したアメリカの責任をも免除してしまう内容のものだと思います。でも、永井は「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせる」ことを意図して「長崎の鐘 マニラの悲劇」を書いたと言っていることを見逃すことはできません。永井の「弔辞」の内容と「人々に戦争をきらい平和を守る心を起こさせ」ようとする意図とは、直接つながるものではないからこそ、本島元長崎市長が、永井の「浦上燔祭説」をどのように読み解き、どのように受け継いでいるのかということを、理解したいと思いました。

 資料2は、永井を恩師の一人とする秋月辰一郎医師(被爆当時浦上第一病院、戦後、聖フランシスコ病院に改名)が、自身の著書『長崎原爆記』と『死の同心円』で展開したという「弔辞」に対する批判的な考え方が読みとれる文章の一部と、色紙に書き記された文章です。永井の「浦上燔祭説」を読み解く上で、踏まえておかなければならない文章だろうと考え、「長崎にあって哲学する・完」高橋真司(北樹出版)から抜粋しました。 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          「ナガサキ」から「フクシマ」へ
          ───  本島等による「浦上燔祭説」の解釈をめぐる一考察 ─── 
                                      菅原 潤 / 日本大学教授・元長崎大学教授
四 原爆投下を「赦す」ことの背景
 原爆投下を赦す発言としていちばんまとまっているのは、1996年の軍縮問題資料の冒頭にある次のような一節である。

”被爆者をはじめ日本人の心の中に原爆投下に対する限りない憎しみの念が燃えさかっていることだろうが、広島、長崎の被爆者たちは、被爆51年目の今日、アメリカの「原爆投下」を「赦す」とはっきり言わなければならない。
 被爆者をはじめ日本人は、心を冷静にして、アジア、太平洋戦争の侵略と加害の深い反省と謝罪を考えながら、原爆投下によって、無差別に大量虐殺された原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」といわなければならない。 
 太平洋戦争は、日本の真珠湾攻撃にはじまり、広島、長崎の原爆投下によって終わった。日本人は、真珠湾の奇襲攻撃をアメリカに謝罪し、アメリカは日本への原爆投下を日本に謝罪しなければならない。
 日本人が謝罪しない限り、アメリカは原爆投下は正当であったと言い続けるだろう。
 私たち日本人が、原爆投下を赦さなければならない理由は、中国をはじめアジアの人たちが、日本の15年にわたる侵略と加害を「赦す。そして決して忘れない」と言っていることである。
日本人が中国はじめアジアの人たちに赦しを請い続ける条件は、アメリカに原爆投下の無差別、大量虐殺を赦すと言うことである。”

 注意しなければならないのは、アメリカによる原爆投下を「赦す」にあたって、日本による侵略戦争の被害者である、中国をはじめとするアジア諸国の立場を考慮していることである。先に触れたようにこの発言の4年前に本島は、在日韓国人の被爆者の補償を問題にしている。それゆえ本島は、被爆者の差別を決しておこなわないようにする考えから出発して、視点を次第に国内から国外へと向けていくうちに、国内の被爆者を特別視する見方を補正するようになり、それが「原爆の犠牲者に代わって、アメリカの原爆投下を「赦す」」という発言にいたったと考えられる。
・・・

五 いわゆる「浦上燔祭説」について

 それでは手短に、永井隆について紹介しておきたい。永井は1908年に松江市にて出生、長崎医科大学(現長崎大学医学部)に入学後は当初内科を専攻する予定だったが耳の病気が理由で断念し、放射線医療を専攻することとなった。戦時中はフィルム不足のため肉眼での透視によるX線検診を続けたことが原因で白血病にかかり、原爆投下の二ヶ月前の診断では余命3年と宣告された。
 1945年8月9日の原爆投下の際に永井は爆心地からわずか700メートルしか離れていない勤務先にいたが、昏睡状態におちいりながらも一命を取りとめた。けれども大学在学中に結婚した潜伏キリシタンの末裔である妻は死去し、そうしたなかで懸命な救護活動をおこなった。自らの療養のため設けた庵の如己堂にて死去したのは、1951年である。
 これから検討したい永井の発言は、原爆投下から約三ヶ月後の1945年11月23日におこなわれた、原子爆弾死者合同葬弔辞である。かなりの長文になるが、これまで激しい論争があった経緯を踏まえて、全文引用することとする。
ーーー 
 昭和20年8月9日午前10時30分ごろ大本営に於て戦争最高指導者会議が開かれ降伏か抗戦かを決定することになりました。世界に新しい平和をもたらすか、それとも人類を更に悲惨な血の戦乱におとし入れるか、運命の岐路に世界が立っていた時刻、即ち午前11時2分、一発の原子爆弾が吾が浦上に爆裂し、カトリック信者八千の霊魂は一瞬に天主の御手に召され、猛火は数時間にして東洋の聖地を灰の廃墟と化し去ったのであります。その日の真夜半天主堂は突然火を発して炎上しましたが、これと全く時刻を同じうして大本営に於ては天皇陛下が終戦の聖断を下し給うたのでございます。8月15日終戦の大詔が発せられ世界あまねく平和の日を迎えたのでありますが、この日は聖母の被昇天の大祝日に当たっておりました。浦上天主堂が聖母に捧げられたものであることを想い起します。これらの事件の奇しき一致は果たして単なる偶然でありましょうか?それとも天主の妙なる摂理であありましょうか。

 日本の戦力に止めを刺すべき最後の原子爆弾は元来他の某都市に予定されてあったのが、その都市の上空は雲にとざされてあったため直接照準爆撃が出来ず、突然予定を変更して予備日標たりし長崎に落とすこととなったのであり、しかも投下時に雲と風とのため軍事工場を狙ったのが少し北方に偏って天主堂の正面に流れ落ちたのだという話を聞きました。もしもこれが事実であれば、米軍の飛行機は浦上を狙ったのではなく、神の摂理によって爆弾がこの地点にもち来たられたものと解釈されないこともありますまい。

 終戦と浦上壊滅との間に深い関係がありはしないか。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして日本唯一の聖地浦上が祭壇に屠られ燃やされるべき潔き羔として選ばれたのではないでしょうか?
 智恵の木の実を盗んだアダムの罪と、弟を殺したカインの血とを承け伝えた人類が神の子でありながら偶像を信じ愛の掟にそむき、互いに憎しみ殺しあって喜んでいた此の大罪悪を終結し、平和を迎える為にはただ単に後悔するのみでなく、適当な犠牲を捧げて神にお詫びをせねばならないでしょう。これまで幾度も終戦の機会はあったし、全滅した都市も少なくありませんでしたが、それは犠牲としてふさわしくなかったから神は未だこれを善しと容れ給わなかったのでありましょう。然るに浦上が屠られた瞬間始めて神はこれを受け納め給い、人類の詫びをきき、忽ち天皇陛下に天啓を垂れ終戦の聖断を下せ給うたのであります。

 信仰の自由なき日本に於て迫害の下4百年殉教の血にまみれつつ信仰を守り通し、戦争中も永遠の平和に対する祈りを朝夕絶やさなかったわが浦上教会こそ神の祭壇に捧げられるべき唯一の潔き羔ではなかったでしょうか。この羔の犠牲によって今後更に戦禍を蒙る筈だった数千万の人々が救われたのであります。
 戦乱の闇まさに終り平和の光さし出ずる8月9日、此の天主堂の大前に焔をあげたる嗚呼大いなるかな燔祭よ! 悲しみの極みのうちにもそれをあな美し、あな潔し、あな尊しと仰ぎみたのでございます。汚れなき煙と燃えて天国に昇りゆき給いし主任司祭をはじめ八千の霊魂! 誰を想い出しても善い人ばかり。
 敗戦を知らず世を去り給いし人の幸よ。潔き羔として神の御胸にやすたう霊魂の幸よ。それにくらべて生残った私らのみじめさ。日本は負けました。浦上は全くの廃墟です。みゆる限りは灰と瓦。家なく衣なく食なく、畑は荒れ人は尠し。ぼんやり焼跡に立って空を眺めている二人或いは三人の群。
 あの日あの時この家で、なぜ一緒に死ななかったのでしょうか。なぜ私らのみ斯様な悲惨な生活をせねばならぬのでしょう。私らは罪人だからでした。今こそしみじみ己が罪の深さを知らされます。私は償いを果たしていなかったから残されたのです。余りにも罪の汚れの多き者のみが神の祭壇に供えられる資格なしとして選び遺されたのであります。

 日本人がこれから歩まねばならぬ敗戦国民の道は苦難と悲惨にみちたものであり、ポツダム宣言によって課せられる賠償は誠に大きな重荷であります。この重荷を負い行くこの苦難の道こそ罪人吾等に償いを果たす機会を与える希望への道ではありますまいか。福なるかな泣く人、彼等は慰められるべければなり。私らはこの賠償の道を正直に、ごまかさずに歩みいかねばなりません。嘲られ、罵られ、鞭打たれ、汗を流し、血にまみれ、飢え渇きつつこの道をゆくとき、カルワリオの丘に十字架を担ぎ登り給いしキリストは私共に勇気をつけてくださいましょう。
 
 主与え給い、主取り給う。主の御名は讃美せられよかし。浦上が選ばれて燔祭に供えられたることを感謝致します。この貴い犠牲によりて世界に平和が再来し、日本に信仰の自由が許可されたことを感謝致します。
 希わくば死せる人々の霊魂天主の御哀憐によりて安らかに憩わんことを。
 アーメン。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 第2編 秋月辰一郎 ―  長崎の被爆医師

第3節 『死の同心円』復刊の意義

 ・・・

 長崎に投下された原爆をどうとらえるか。それを戦後、いちはやく定式化したのが秋月の恩師の一人、永井隆であった。秋月の主著『長崎原爆記』と『死の同心円』には、永井の長崎原爆の受け止め方(思想化)に対する微妙な異議申し立てが見出される。秋月の文章を引いてみよう。

 

 〔永井〕先生は肉体を蝕まれ、衰弱が激しくなるにつれて、つまり白血病の進行と反比例して、被爆地ののろしとなり、全国の耳目を集めた。信仰的にも人間的にも、先生は、浦上の信徒が、長崎の人々が復興するための中心的存在になった。その文才、詩情、心情、絵心、そういったものが、先生の肉体の衰えとは逆に、やがてはなやかに開花していくのである。
 先生が長崎の原爆を世界に紹介した功績は大きい。”原爆の長崎””長崎の永井”というイメージが日本全国を風靡した。しかし、その訴えが、いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れてしまったきらいがないではない。そのために、長崎の原爆は、永井博士が一人で証言を引き受けたような結果になってしまった。放射能の二重苦に悩まされ、肉体的に疲れ果てていた先生は、原爆というものを宗教的にとらえるよりほかはなかったのだろう。

 わずか一、二小節の引用ではあるが、なんと行き届いた理解であり評価であろう。師の永井隆を浦上の信徒、長崎の復興の「中心的存在」として肯定的に評価しつつも、なおその訴えが「いささかセンチメンタルにすぎ、宗教的に流れたきらいがないではない」と、二重否定の論理を用いて、慎重のうえにも慎重に書き記すのである。

 ・・・

図2-1 秋月辰一郎色紙  

 私は永井先生の「神は、天主は浦上の人を愛しているがゆえに浦上に原爆を落下した。浦上の人びとは天主から最も愛されていたから何度でも苦しまねばならぬ」といった考え方にはついていけないものを持っている                    聖フランシスコ病院 秋月辰一郎

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『回想 本島等』 NO2

2016年06月02日 | 国際・政治

 「回想 本島等」平野伸人 編・監修(長崎新聞社)の中で、私が特に考えさせられたのは、舟越耿一教授の下記”「異例の発言」に導かれて”という文章でした。本島市長の「天皇の戦争責任はあると私は思います」という発言は、長崎市議会で質問があったので、質問に答えるかたちで、歴史的な事実を踏まえて市長が自らの考えを述べたに過ぎないものです。ところがそれを「異例の発言」という。そういう受け止め方こそ異常なのだ、ということに気付かなければならないと思いました。

 多くの歴史家や研究者が、戦時中の天皇の立場や側近の証言および日記の記述、天皇の裁可を受けて発せられた数々の軍命、御前会議における天皇の発言等から、天皇の戦争責任を明らかにしています。舟越教授も下記に抜粋したように”私の知っている学界では「天皇の戦争責任」を否定する見解を探し出すことさえ難しい”と書いています。

 でも、世間ではそうした天皇の戦争責任に言及すると、「異例の発言」と受け止められる。
 それは、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判で、昭和天皇がアメリカの都合によって訴追されることなく免責され、全く裁きの対象にならなかったことや、一旦公職を追放された戦争指導者・戦争協力者などが、「逆コース」といわれるGHQの対日占領政策の転換によって、公職追放を解除され、要職に復帰したことなどが影響して、日本は戦後も皇国史観に基づく戦前、戦中の意識を引きずることになってしまったからではないか、と私は思います。
 また、一部の政治家や活動家によって、意図的に天皇の戦争責任を否定するプロパガンダとしかいいようのない主張がくり返されたことなども影響しているのかも知れません。
 そうしたことがあって、歴史家や研究者が明らかにした天皇の戦争責任に関わる史実が、広く共有されてはいないことが銃撃事件の背景にあるのではないでしょうか。

 同書に掲載されたそれぞれの人の文章によって、当時の状況や本島市長の様々な側面を知ることができましたが、特に長崎原爆中心碑裁判原告団長の阪口さんの文章が、私には貴重でした。。本島市長が平和公園一帯の整備計画を構想していたこと、また、裁判の中で
その時、気づいた。平和公園には世界中から、さまざまな宗教を持つ人が訪れる。ところがイスラム教など多くの宗教は偶像崇拝を禁じている。平和祈念像という巨大な偶像が周囲を圧する公園では、心穏やかに祈りをささげることができない人が大勢いるのではないか。公共の祈りの場はいかにあるべきか、真剣に考える必要があると痛感した
と証言したことなどを知り、「平和公園」というもののあり方について考えさせられたからです。
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「異例の発言」に導かれて
                                                舟越 耿一
 ・・・
 それは、1988年12月7日の長崎市議会一般質問への答弁だった。
 以下に26年と一ヶ月ぶりに抜粋する。これが「異例の発言」だったといえるか。
ーーー
  お答えいたします。
  戦後43年たって、あの戦争がなんであったのかという反省は十分できたというふうに思います。
 外国のいろいろな記述を見ましても、日本の歴史をずっと、歴史家の記述を見ましても、私が実際
 に軍隊生活を行い、特に、軍隊教育に関係しておりましたが、そういう面から、天皇の戦争責任は
 あると私は思います。
  しかし、日本人の大多数と連合国側の意思によって、それが免れて、新しい憲法の象徴になった。
 そこで、私どももその線にそってやっていかなければならないと、そういうふうに私は解釈いたし
 ているところであります。
ーーー
 ほんとに久し振りに目にしたが、さて読者の皆さんは、一読どのような感想をもたれただろうか。要は、命を狙われるような、よっぽど何かのご機嫌を損なうような、きわめて不謹慎な、というようなそんな発言に読めるだろうかということ。「エーッ! こんなもの? なんてことないじゃないの!」とわたしは言いたくなる。何も特別なことは言っていない。
 前段では、内外の文献を読んでも、また私の軍隊経験に照らしても、天皇の戦争責任は肯定せざるを得ないと述べ、後段では、にもかかわらず日本国民と連合国側の意思によってそれを追及せず、憲法上象徴たる地位に置くことになったので、私たちもそれに従わなければならないことになったと述べている。天皇制を否定していないばかりか、象徴天皇制を支持すると言っている。品格を欠いているわけでもなく、かえってそれなりに配慮の行き届いたバランスのとれた発言だという印象さえ受ける。
 改めて当時の新聞報道を検証してみたい気もするが、マスコミは「天皇の戦争責任はあると私は思います。」というところだけとりたてて強調するという報道ぶりだったのだろうか。しかし、私の知っている学界では「天皇の戦争責任」を否定する見解を探し出すことさえ難しいということを考えると、とりたててどうということはない発言だったと私は思う。そんな発言を長崎新聞は「異例の発言」と報じていた。
 何をもって「異例」というのか、またそのことが検証されたことがあるのか否か定かでないが、ともかくその後発言の趣旨と位置がずれて受け取られていったと私は思う。どうってことはない「一般質問への答弁」と「異例の発言」とでは大いに違う。

 本島発言があったときの社会状況はこうだった。昭和天皇が吐血し重篤の病床にあった。マスコミは連日病状報道をした。そして一方では、各地に平癒を祈願する記帳所が設けられ、記帳の行列と記帳者数が報じられた。他方では、テレビのCMやバラエティ番組が、学校では運動会や学園祭などが、市民社会では、花火や祭り、個人の祝宴まで、笑いや歌舞音曲が「自粛」を求められ、規模縮小中止にに追い込まれた。長崎では諏訪神社の恒例の秋祭り・長崎くんちが中止になった。そのほか驚くようなことが多々あったのだが、ここにあげたくらいは40歳台以上の人なら任意に思い出すことができるだろう。
 こうして昭和天皇のXデー状況の中、「記帳」と「自粛」によって昭和天皇の病状回復を祈願することが社会的・心理的に強要され、天皇重体のさなかの各種行事は「不遜、不敬、不謹慎」にあたるという社会的雰囲気ができていった。その現象をわたしは天皇制コンフォーミズム(大勢順応主義、あるいは集団同調主義)と名付けていた。日本中の政治と社会が、まさに過剰に「右へならえ」で自粛に誘導されていったのどこかで何らかの政治的決定がなされたわけではないのにそうなった。
 そんな雰囲気下に本島市長の議会答弁があり、発言は「天皇の戦争責任はある」という短い言葉にされ、「右へならえ」に従わない「不遜、不敬、不謹慎」な発言として受け取られていった。まさに「異例の発言」はそう受け取ったということを示している。
 発言とその報道の後、長崎の街は、右翼街宣車の「天誅」の怒号に埋め尽くされていく。1988年12月21日には、右翼団体が62団体、車両82台をもって長崎に集結し、市役所・市議会を取り巻き、市内中をノロノロ運転した。このような事態の延長線上に銃撃事件は起こった。その時の恐怖、またその過敏症状の感覚は今も残っている。
 ここまでのところで、もう「異例」とされた背景と意味が明らかになっているが、もっと具体的な表現を探ってみよう。それは、平野伸人編・監修『本島等の思想』(長崎新聞社、2012年)の71ページ以下にもある。
 「天皇ご重体のときに不謹慎極まる発言で、心ある国民を愚弄するものだ」とか「公人である立場もわきまえず軽率な発言だ」といったもの、さらに具体的に、そもそも天皇の戦争責任追及が恐れ多いことだ。言論の自由はあっても発言の時期と場所を配慮すべきだ、といった表現もある。
 これに対して本島市長は、89年7月、インタビュアーに求められて、時期、場所・立場をわきまえよという自制論・自粛論に関して「議会制民主主義の本質」という観点を押し出して次のように語っている。前掲書72ページ。
 「思想・表現の自由が時と場所で守れないようでは、民主主義は成立しない。天皇の戦争責任についても同様で、『なぜあんな戦争を始めたのか』『なぜもっと早くやめなかったのか』。市民や被爆者、そして私自身が深いこだわりをもっている。おれを正直に良心的に答えた。不謹慎、軽率だと言われようとも、これだけは撤回するわけにはいかない。議会でも私が答弁した直後は平静で、何の反論もなかったんです。
 それをマスコミが取り上げ、タブーを破ったということで騒ぎが大きくなり、撤回せよ、辞職せよ、さもなければ天誅を加える、というのでは議会制度など成立しない。」
 ・・・
 天皇は「神聖ニシテ侵スヘカラス」とされ、反天皇制の活動には死刑さえ準備されていたという時代が長く続いた国柄であるだけに、時期・場所・立場をわきまえよという身の処し方を当然だと思う人にとっては、「異例」と「天誅」はいまでも簡単につながっているのではないかと私は思っている。
 しかしそんなものに畏怖して沈黙すれば議会制度は死ぬと考えたのが本島さんだった。
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実行委員の感想から
 《銃撃事件25年展》に思う
                                          高實 康稔/長崎大学名誉教授
 《25年展》の実行委員会が結成された直後に本島先生がお亡くなりになり、ご本人がお見えになれなかったことが残念でなりません。昨年7月6日の中国人原爆犠牲者追悼式であれほどお元気で、追悼の言葉を述べられたのですから。
 展示会場の設営も大変でしたが、事件の重大さにあらためて衝撃を受けるとともに、2万通の手紙、37万人の書名など、市民や労働者が示した反応の迫力にも圧倒され、社会の健全な反応を照射する展示として大いに意義があったと思います。来場者も、暴力を許さない市民社会の形成にとって一人ひとりが声をあげることの重要さを痛感したことでしょう。
 ・・・
 …舟越実行委員長がオープニング・セレモニーで言われた「平和と民主主義は絶えず到達目標」という指摘を肝に銘じたいものです。歴史修正主義やヘイトスピーチが横行する日本の現実を克服するためにも、この到達目標を日々目指したいと強く自覚した《銃撃事件25年展》でした。
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  本島さんのいる情景
                                              山川 剛/被爆者

 「物が語る」というが、背広の銃弾の痕や手術時に切り裂かれた血染めのワイシャツは、どんな言葉も寄せ付けない生々しさで25年前の銃撃事件を語っていた。5ミリにも満たない背広の穴の向こうに、民主主義と暴力のせめぎ合いという現代の巨大なテーマが拡がっている。
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 「校長を辞めたらなんばすっとか」と唐突に電話があった。私が定年退職した日の夜だった。私を校長と思っていたのは本島さんだけである。このあたりが、情の本島だろう。”皆勤”だった元日座り込みでの口癖は「話はうまいのだがながくなる」だった。するめの味があった。平和公園の中国人原爆犠牲者追悼碑の除幕式で「この碑こそ一番先に建てられるべき碑だった」という本島さんの言葉が耳にこびりついている。
 これからも、おずおずと本島等の思想を受け継いでいきたい。
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  『本島等さんとの出会い』 
                                    阪口 博子/長崎原爆中心碑裁判原告団長
 本島さんんの人となりを初めて知ったのは、爆心地に設置された母子像には宗教性があるとして、私が像の撤去を求める裁判の原告の一員として出会ったときです。元市長としての話を伺い、原告側証人として法廷に立ってもらいました。2003年ごろだったと思います。本島さんは市長として、平和公園一帯の整備計画を構想し、完成を見ぬまま選挙で敗れてしまいました。後任となった伊藤一長氏が構想案にはなかった爆心地にある原爆中心碑を撤去して、その跡に母子像を建設する計画を議会に提出しました。中心碑の撤去と母子像建設に対する大きな反対運動が起きて市民運動に発展し、中心碑は残りました。しかし爆心地公園内に設置された母子像は爆心地にはふさわしくないと市民4人が撤去を求めて裁判をおこしました。その裁判の過程でした。
 本島市長が平和公園聖域化検討委員会を立ち上げ、平和公園一帯をどのような思いで整備しようとしたのか、中心碑を撤去しようという案はあったのか、母子像計画は知っていたのか、などこの計画の本来の目的を知ることが重要だったからです。
 3回ほど時間をさいていただいたでしょうか。本島さんの話は尽きることがありませんでした。軍隊時代への反省、カトリック教徒としての思い、信念、その中から語られる市長としての思い、原爆投下への思いなどなど。
 証人として法廷に立たれた時も、ユーモアを交えつつ多弁で、しかし、確信の部分ははっきりと答えてくれました。ローマ法王ヨハネ・パブロ二世が来崎した際、広島では平和公園で祈りを捧げたのに、要請したにも関わらず、長崎では平和公園を訪れず、市陸上競技場で野外ミサを行ったことから「その時、気づいた。平和公園には世界中から、さまざまな宗教を持つ人が訪れる。ところがイスラム教など多くの宗教は偶像崇拝を禁じている。平和祈念像という巨大な偶像が周囲を圧する公園では、心穏やかに祈りをささげることができない人が大勢いるのではないか。公共の祈りの場はいかにあるべきか、真剣に考える必要があると痛感した」と整備計画の核心に至った経緯を証言していただきました。私たち原告が主張していた、公共空間に偶像はふさわしくないという考えのもと、公園整備を構想していたということだったのです。新旧市長対決と言われ、その後に証人台に立った伊藤市長に比べて、人間としてのスケールの大きさに圧倒されたことを思いだします。
 今回、銃撃事件25年展が遺品展となってしまい、とても残念でした。展示されていた付箋紙付きの愛読書の数々、話の奥行きの深さ、幅広さはこのような本を血肉とされていたのかと納得しました。
 ・・・
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『本島等さんの思い出』
                                     丸尾 育朗/長崎県被爆二世の会会長
 …本島さんの信念は、戦争と原爆、加害と被害、そして赦し、生涯変わることがなかったと思う。政治家としての顔、平和を求めた顔、カトリック信徒として、自らを傷つけられても、赦すと言える、私にとっては鵺のような存在でした。話し出すと様々な本から引用して話すので大変おもしろく、良く本を読んでいるなと感心もし、多岐にわたっており、参考になる事も多かった。今回自宅にあった本の展示を行ったが、一冊の本の中には、線が引かれ、付せんが貼られ、読み込んでいる事がよく分かった。そういう本が何冊もあった。カトリックの中では、「正義と平和」を基調につくられた委員会の長として、平和を考え共に活動してきた。常に視野を広くもたなければ平和を作り上げることは出来ないと、先鋭的になる事を戒めてきた。…。
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銃撃事件25年展を終えて
                                              本多 初恵
 ・・・
 本島氏が天国にいけるかもしれない、と思えるのは氏が弱者の視点を持ち、情に厚い面があったことだ。いろんな人の相談にのってそれを解決した話の中にそれを感じたし、次の市長の時代に市の乳児院が廃止になった時には心を痛めていらした。また、本島氏は市長を辞めてから外国人被爆者に関心を持ったわけではなく、在任中から心を砕いていらした。韓国人被爆者に援護法の適用がなかった時代に、長崎市長として韓国の被爆者を訪問しお見舞いをされた。八者協の会議では韓国人被爆者の援護を訴えて、他市の市長から「お前は何人か?朝鮮人か?」と怒鳴られた。この市長は学徒動員をまぬがれた理科系秀才だったそうだから、シモジモのことは眼中になかったのだろう。「しかし裁判で解決しようなんて発想はなかったよ。平野さんはエライ。」とおっしゃっていた。

 さらにブラジル在住の被爆者、森田氏からお聞きした話が、本島氏は天国にいけるかも知れない、と思わせる。かつては日本国籍を持っていても、海外に居れば被爆者手帳は何の役にもたたなかった。韓国の被爆者と手をつないで数々の裁判をして今の状況を勝ち取ったのは数年前のことだ。海外の被爆者にとって被爆者手帳が紙切れ同然だった時代、森田氏らブラジルの被爆者たちは、日本国内の被爆者なみの援護を訴えようと厚生省を訪れた。しかし「国を棄てた者が何をいうのか」と、ケンもホロロな対応だった。そんなひどいことを言うなんて、お役人たちはブラジル移民が国策であったことを忘れていたのだろう。次に広島市役所を訪れたが、同様の扱いを受けた。打ちひしがれて長崎市役所を訪れると「遠いところから大変だったでしょう」と丁寧な対応で話を聞いてくれ、役に立ちそうな資料をたくさんくれた。森田氏らの地元であるため、再度広島市役所をおとずれて長崎の資料を見せると、職員らは驚き、「ちょっと貸してください。」と争って資料を持っていったそうだ。森田氏はこの時から長崎を愛し、いまでも日本に来たときは長崎まで足をのばして下さっている。長崎市長が本島氏で本当に良かった。
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「銃撃事件25年展」~平和と民主主義は守られたか~へ
                                               竹下 芙美
 1月15日から19日までの5日間、危惧したような事もなく無事、終わることができた。展示された写真パネルを見ながら、当時のことが思い出された。
 本島氏の発言、その後の銃撃事件後に立ち上げられた「言論の自由を求める長崎市民の会」では、全国から寄せられた多くの賛同、激励文、書名などの整理に追われた。街頭書名に立った時は、まだ携帯もいまほどには普及していない時代で、公衆電話の位置を確認し、緊張に包まれていった。また、福島菊次郎写真展の時にも、会場周辺を取り囲んだ街宣車が回り、騒然としたなかでの開催だった事等々…。
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