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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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3・1独立宣言全文

2009年12月25日 | 国際・政治
 3・1独立宣言文には、「威力の時代は去り道義の時代がきた」とある。しかしながら、総督府はこの独立運動を弾圧するために、軍隊や憲兵はもちろん、警察、鉄道援護隊、在郷軍人、消防隊まで動員したようである。運動が終息するまで続いた武力による弾圧は、当然多くの死傷者出すことにつながった。「道義」の時代は来なかったのである。そして今なお、アメリカやロシアをはじめとした大国が多くの核兵器を所有しながら、イランや北朝鮮の核開発を禁じる世の中である。

 韓国では、毎年3月1日独立運動を偲んで大勢の人々が集うという。「道義の時代」を迎えるために、独立宣言文からを学ぶべきことは多い。下記独立宣言全文は「万歳事件を知っていますか」木村悦子(平凡社)からの孫引きである。
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                   独立宣言全文
 宣言書
 われわれはここにわが朝鮮国が独立国であること、および朝鮮人が自由民であることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を克明し、これをもって子孫万代に教え、民族自存の正当なる権利を永遠に有せしむるものである。半万年の歴史の権利によってこれを宣言し、二千万民衆の忠誠を合わせてこれを明らかにし、民族の恒久一筋の自由の発展のためにこれを主張し、人類の良心の発露にもとづいた世界改造の大機運に順応し、並進させるためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類の共存同生の権利の正当な発動である。天下の何ものといえどもこれを抑制することはできない。旧時代の遺物である侵略主義、強権主義の犠牲となって、有史以来幾千年を重ね、はじめて異民族による箝制の痛苦を嘗めてからここに10年が過ぎた。彼らはわが生存の権利をどれほど剥奪したであろうか。精神上の発展にどれほど障礙となったであろうか。民族の尊厳と栄光をどれほど毀損したであろうか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、裨補(ひほ)できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。

 ああ旧来の抑鬱を宣揚せんとすれば、時下の苦痛を擺脱せんとすれば、将来の脅威を芟除せんとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮、銷残とを興起、伸長せんとすれば、各個人の人格の正当な発達を遂げんとすれば、憐れむべき子弟たちに苦恥的な財産を遺与せざらんとすれば、子々孫々永久、完全な慶福を尊迎せんとすれば、その最大急務は民族の独立を確実なものにすることにある。二千万人民のおのおのが方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とをもって援護する今日、吾人が進んで取ればどんな強権でも挫けないものがあろうか。退いて事をなせばどんな志であれ、のばせない志があろうか。

 丙子修好条規以来、種々の金石の盟約を偽ったとして、日本の信のないことを咎めようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際において、わが祖宗の世業を植民地的なものとみなし、わが文化民族を野蛮人なみに遇し、もっぱら征服者の快楽を貪っている。わが久遠の社会の基礎と卓越した民族の心理とを無視するものとして、日本の少義を責めんとするものではない。自己を策励するのに急なわれわれには、他人を懲弁する暇はない。今日われわれがなさねばならないことは、ただ自己の建設だけである。決して他を破壊するものではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものである。決して旧怨および一時的な感情によって他を嫉逐、排斥するものではない。旧思想、旧勢力に束縛され日本の為政者の功名心の犠牲となっている、不自然でまた不合理な錯誤状態を改善、匡正して、自然でまた合理的な正経の大源に帰そうとするものである。当初から民族的な要求として出されたものではない両国併合の結果が、畢竟、姑息的威圧と差別的不平等と統計数字上の虚飾のもとで、利害相反する両民族間に永遠に和合することのできない怨恨の溝を、ますます深くさせている今日までの実績をみよ。勇明、果敢をもって旧来の誤りを正し、真正なる理解と同情とを基本とする友好の新局面を打開することが、彼我の間に禍いを遠ざけ、祝福をもたらす捷径であることを明知すべきではないか。憤りを含み怨みを抱いている二千万の民を、威力をもって拘束することは、ただに東洋永遠の平和を保障するゆえんでないだけでなく、これによって、東洋安危の主軸である4億の中国人民の日本に対する危懼と猜疑とをますます濃厚にさせ、その結果として東洋全局の共倒れ、同時に滅亡の悲運を招くであろうことは明らかである。今日わが朝鮮の独立は朝鮮人をして正当なる生活の繁栄を遂げさせると同時に、日本をして邪道より出でて東洋の支持者としての重責を全うさせるものであり、中国をして夢寐にも忘れえない不安や恐怖から脱出させるものである。また東洋の平和を重要な一部とする世界の平和、人類の幸福に必要なる階梯となさしめるものである。これがどうして区々とした感情の問題であろうか


 ああ、新天地は眼前に展開せられた。威力の時代は去り道義の時代がきた。過去の全世紀にわたって錬磨され、長く養われてきた人道的精神は、まさに新文明の曙光を人類の歴史に投射しはじめた。新春は世界にめぐりきて、万物の回蘇をうながしつつある。凍氷、寒雪に呼吸を閉蟄していたのが一時の勢いであるとすれば、和風、暖陽に気脈を振るいのばすこともまた一時の勢いである。天地の復運に際し、世界変潮に乗じたわれわれは何らの躊躇もなく、何らの忌憚することもない。わが固有の自由権を護り、旺盛に生きる楽しみを享けられるよう、わが自足の独創力を発揮して春風に満ちた大界に民族的精華を結紐すべきである。

 われわれはここに奮起した。良心はわれわれとともにあり、真理はわれわれとともに進む。男女老少の別なく陰鬱な古巣から活発に起来して、万民群衆とともに欣快なる復活を成し遂げようとするものである。千百世の祖霊はわれらを蔭ながらたすけ、全世界の気運は、われらを外から護っている。着手がすなわち成功である。ただ前方の光明に向かって邁進するだけである


   公 約 3 章

一、今日われわれのこの挙は、正義、人道、生存、尊栄のためにする民族的要求   すなわち自由の精神を発揮するものであって、決して排他的感情に逸走して   はならない。
一、最後の一人まで、最後の一刻まで、民族の正当なる意思を快く発表せよ。
一、一切の行動はもっとも秩序を尊重し、われわれえの主張と態度をしてあくまで
   光明正大にせよ。

    朝鮮建国4252年3月1日
    朝鮮民族代表

    (孫秉煕ほか32名の署名略)

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皇太子妃方子の子「晉」第1王子の死

2009年12月24日 | 国際・政治
 「朝鮮王朝最後の皇太子妃」本田節子(文藝春秋)には、李王家世子(大韓帝国皇太子)李垠と方子(梨本宮守正王第一王女)の子「晉」第一王子の死について、恐るべき説の存在が取り上げられている。それは、李方子が「流れのままに」の中で書いている理解とは正反対ともいえるものである。すなわち、「晉」の毒殺は、高宗皇帝毒殺の仕返しなどではなく、「李王家断絶を意図した日本人による毒殺である」、という説である。当時の日韓関係を考えれば、あり得る話であるだけに、真実を闇に葬むれば、「閔妃、高宗、晉と李氏朝鮮王朝の3人が、次々に日本人によって殺害された」と受けとめる韓国人と、今や、そうしたことは想像もしない日本人の溝は、永遠に埋めることができなくなるのではないかと懸念せざるを得ない。いずれにせよ、真実が明らかになれば乗り越えることは可能であろうが、謎として残れば乗り越えようがないと思うからである。そうした意味で「方子を診察した医師3人は殺された」は、聞き捨てならない。
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                 第6章 王子「晉」の死

 8ヶ月の生命


 ・・・
 韓国では、幼くて逝った場合、葬儀をせず埋葬だけするのが古来からの習わしである。だが、晉の場合は、成人親王の資格で葬儀が執り行われた。そして、祖母厳妃の墓所、清凉里永徽園(チョンリャンリヨンヒウオン)の峰続きに埋葬された。 私がお参りしたとき、盛り土を被う芝の中に一輪のねじり花が風に吹かれていた。

 晉の死因については、「毒殺です」と言下に答える人、「真相はわかりませんが、毒殺に違いないと思います」という人、ほとんどの答えがこのどちらかであった。
 理由は、李太王の仕返しが一番多く、閔甲完側の怨恨説をいう人が何人かあった。その中の数人の人から恐ろしい話を聞いた。その内容を総合すると、方子が天皇家でなく李王家に嫁入りが決まったのは方子が石女(うまずめ)
<不生女(子を産めない女)>だから、というのである。ところが晉が生まれてしまい、方子を診察した医師3人は殺された。だから、晉の死も、李太王や閔家の仕返しなどといわれているが、真実は李王家の血筋を絶やすために日本側がとった処置である、というものであった。
 韓国のある大学の理事長もこの説であり、誰もがこれをいう時声をひそめた。
 石女の診察のことを方子に尋ねると、
「結婚前の私がそんな診察を受ける訳がありません」
 とんでもないという表情であり、語調であった。


 ソウルの街角の立話で聞いた話は毒殺説を全く否定するものであった。その時は帰国の時が迫っていて、くわしい話を聞く時間がなく、改めて問い合わせの手紙を出した。ソウル在住の森田芳夫にである。
「晉殿下のこと──私が直接承ったのは、ソウル(当時京城府)南山町で開業しておられた池田小児科病院院長池田秀雄氏からです(当時私は学生)。『生まれて8ヶ月の赤ちゃんを連れて長い旅行をされ、慣れない土地で大きな行事に参列されたのは赤ちゃんに無理だった。疲労からくる消化不良だよ』と断定されました。池田先生は当時、小児科の開業医として名声の高かった方なので、危急の時に呼ばれて他の医師と共に診察に当たられたのでした」

 森田は当時、池田医師宅に下宿していた。

 母伊都子妃の自伝には、
「帰国を前日にして、消化不良の自家中毒という電報ではありましたが、毒殺以外には考えられませんでした。それをなんとか防ぐ方法はなかったものだろうか。侍女から乳母まで日本人を連れて行って用心はしていたであろうに……。だが、遺体解剖ができない以上、晉の死はやはり永遠の謎として葬り去られる運命にあったのです」
 と書かれている。


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高宗皇帝と「晋」王子の死は毒殺?

2009年12月15日 | 国際・政治
 昭和天皇のお妃候補として噂されていた日本の皇族梨本宮守正の第一王女「梨本宮方子」は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」の方針の流れの中で朝鮮「李王家世子」(朝鮮の皇太子)である李垠(イ・ウン)と結婚し「李方子(イ・バンジャ)」となった。明らかに政略結婚であったが、2人は励まし合い、助け合って様々な困難に対した。
 彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われる怒りを、懸命に押し殺しつつ生きた、皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られている。日本の皇族に、単なる風評が情報として伝えられることはないであろうから、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いない。しかしながら、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったのであろう、「流れのままに」で「……」が多用されている理由は、そんなところにあるのではないかと思う。
 下記の「晋」の死に至る経過を読めば、素人でも、それが毒殺であろうことが想像される。下記は「流れのままに」李方子(啓佑社)から、そうしたことに関連した部分の記述を抜粋したものである。正しい歴史認識のために、そして、歴史の教訓として今後に生かすことができるように、今からでも高宗皇帝や晋の死の真実をきちんと明らかにしてほしいと思わざるを得ない。それが毒殺された2人に対するささやかな償いにもなるのではないかと思う。
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第3章

 前途への不安

 
・・・
 しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
 ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、
総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
 毒殺、陰謀───
 もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
 けれども、
「私だけではないのだから……」
 立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
 しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
 と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。


 殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
 動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
 と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
 3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました

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第5章

 突然訪れた晋の死


 ・・・
 殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
 殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
 好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
 滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。


 やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
 ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかったしんが、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。

「急性消化不良かと思います」
 との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
 母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
 東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。

 石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。
もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
 冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。

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堤岩里(ジェアムリ)事件

2009年12月06日 | 国際・政治
 日本統治時代の1919年3月1日に始まった朝鮮の独立運動(独立万歳運動・万歳事件)は、都市から農村各地に広がるとともにしだいに激しくなっていった。土地調査事業などによって土地を失ったり、米を収奪された農民が、日本の武力による弾圧に、農具で武装し命懸けで抵抗するようになっていったからだという。そして、地方都市では、周辺の農村から人々が集まり、市場が開設される「市日」が蜂起の日にあてられるようになった。堤岩里(ジェアムリ)虐殺事件もそうした流れの中で起こった。時の長谷川総督も「検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スルモ……」と認めざるを得ない犯罪行為であった。事件に関する下記の文書のやり取りからも、できるだけ事実を隠蔽し、責任を転嫁しようとする姿勢が窺われる。「万歳事件を知っていますか」木村悦子(平凡社)からの抜粋である。
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                 第3章 70年を遡る

  信心へ下された重い鉄槌
 
・・・
 「水原・堤岩里事件」の発端も、市日に合わせて行われた近隣の「万歳」デモである。
 3月21日、水原郡郷南面の発安場の騒動の訓戒をしたい、と堤岩里の住民を教会に呼び集め、教会堂を封鎖し、石油を撒いて火を放ち、逃げまどう者には発砲し23名を虐殺したのである。
 この時、なぜ堤岩里だったのか──。
 発安場の「万歳」デモに堤岩里の住民が多数参加していたことは紛れもない事実だが、この近辺で、堤岩里はキリスト教徒の最も多い村だったのである。


 「水原・堤岩里事件」に関して、憲兵隊司令官兼総督府警務部長・児島惣次郎は4月28日、総督府政務総監・山県伊三郎と拓殖局長官・古賀廉造に宛てて、以下の報告を送っている。

     堤岩里騒擾事件

 歩兵第79聯隊附中尉有田俊夫ハ、京畿道水原郡発安場ノ守備ヲ命セラレ4月13日同地ニ到着セリ。当時、発安場地方ハ騒擾ノ余禍ヲ受ケ未タ民心ノ安定ヲ見ルニ至ラス。即チ、3月下旬ヨリ4月初旬ニ亘リ同地方ニ於テハ官公署ノ破壊焼却セラレタルモノ尠カラス。殊ニ花樹、沙江ノ両地ニ於テハ巡査ヲ虐殺シ且其ノ死屍ヲ陵辱セリ。其ノ他所在内地人被害頻々トシテ起リ、民心ノ恐慌憤怒一時其ノ極ニ達セリ。発安場ニ於テハ3月31日市日ニ際シ、約一千名ノ暴民太極旗ヲ押立テ路上演説ヲ為シ、内地人家屋ニ投石暴行シ、終ニ白昼小学校ニ放火シテ万歳ヲ高唱スル等ノ横暴ヲ逞ウシ、翌4月1日晩ヨリ発案場周囲ノ山上80余箇所ニ篝火ヲ焚キ、示威ヲ以テ、内地人ノ退去ヲ迫リ、為ニ内地人婦女子43名ハ幾多ノ危険、困難ヲ排シ三里隔ツル三渓里ニ避難セリ。一面居住民男子9名ハ孰レモ武装シ駐在巡査6(内地人2、鮮人4)及歩兵4名ト共ニ、連夜徹宵警戒ニ努メ恰モ適中ニ在ルヲ感セシメタリ。而シテ兵力ノ増加ニ伴ヒ、漸ク避難民ノ復帰ヲ見タルカ如キ実況ニアリタリ。
 一般ノ情況斯ノ如クシテ諸種ノ流言飛語尚其ノ跡ヲ絶タス。此ノ時ニ当リ有田中尉ハ、同地方騒擾ノ根源ハ堤岩里ニ於ケル天道教徒並基督教徒ナルコトヲ聞キ、之カ検挙威圧ノ目的ヲ以テ、部下11名ヲ率ヒ4月15日午後3時半発案場出発。巡査及巡査補ト同行シ、途中暴民ノ逃亡ニ備フル為、巡査ニ兵2名ヲ附シ、小隊主力ノ反対方面ニ行動セシメ、堤岩里ニ到着スルヤ巡査補ヲシテ天道教徒及耶蘇教徒二十有余名ヲ、耶蘇教会ニ集合セシメ、先回ノ騒擾及将来ノ覚悟ニ関シ、2、3質問ヲ試ミツツアリシ間、1名ノモノハ逃亡セントセシニヨリ之ヲ防止セルニ、他ノ1名ト共ニ打掛リ来リシヲ以テ、直チニ之ヲ斬棄テタリ。此ノ景況ヲ見ルヤ鮮人全部ハ暴行ノ態度ニ出テ、其ノ一部ハ、木片又ハ腰掛等ヲ以テ反抗シ来リシオ以テ、直チニ出テテ、兵卒ニ射撃ヲ命シ、殆ント全部ヲ射殺スルニ至レリ。此ノ混乱中、西側隣家ヨリ火ヲ発シ、暴風ノ為メ直チニ教会堂ニ延焼シ、遂ニ20余戸ヲ焼失スルニ至レリ。
 中尉ハ兵ヲ二分シ、当地人民ノ避難及家財ノ運搬ニ従事セシメ、自ラハ兵2名ヲ以テ背後ノ山上ニ至リ、警戒ヲ為セリ。
 要スルニ、有田中尉ノ行動ハ強烈ニ過キタルヲ免レスト雖、当時ノ実情之ヲ然ラシメタルモノアリタルカ如シ


 以上が憲兵隊司令官にして総督府警務総長の通牒である。
 京畿道水原郡発案場の守備を命ぜられ、軍警の指揮に当たった有田俊夫中尉の措置は、「騒擾」後の実情からみて、万やむを得ぬ手立てであり、必然の帰結であった──と。


 ・・・

 …内閣総理大臣・原敬は、朝鮮騒動に関して”訓令すべき趣旨”を閣議で相談の上、朝鮮総督・長谷川好道に対し以下のような訓電を発している。
 「今回の事件は内外に対し極めて軽微なる問題となすを必要とす。然れ共、実際に於て厳重なる処置を取りて、再び発生せざる事を期せよ。但、外国人は最も本件に付注目し居れば、残酷苛察の批評を招かざる事。十分の注意ありたし」

 ・・・

 水原・堤岩里事件後(4月22日)、総督・長谷川好道は総理・原敬に宛てて以下のような報告をしている。

 3月下旬、京畿道水原安城両郡地方ニ暴民盛ニ暴行シ、官公署及ビ民家ヲ破壊焼棄シ、日本人巡査2名殺害セラレ、殊ニ内一人ハ言フニ忍ビザル惨殺ヲ加ヘラレタリ。此地方暴民ニ対スル威圧ト犯人検挙ノ為メ、稍有力ナル検挙班ヲ派遣シ、4月2日ヨリ同月14日ニ至ル間、64ニ亘リ大検挙ヲ行ヒ約800ヲ検挙シタリ。此検挙中、暴民死10、傷19ヲ生ジ、火災発生17、焼失戸数276ニ及ベリ。又之ト同時ニ 該地方ニ兵力ヲ分散シ、前記検挙ニ協力スルトコロアリシガ、偶々水原郡発案場ニ派遣セラレタル歩兵中尉以下12名ハ4月15日、付近駐在巡査ヲ同行シ、堤岩里基督教会堂ニ基督、天道両教徒約25名ヲ集メ、訊問訓戒ヲ加ヘントシタル際、教徒等、反抗セシタメ、殆ンド全部ヲ射殺シ火ヲ放チタルニ、強風ナリシ為、28戸ヲ焼失シタル事実アリ。
 前述検挙班、コウナコウ(ママ)地方ニ於テ火災ヲ生ゼシハ、取調ノ結果、一部ハ夜間混雑ノ結果失火シタルモノナルモ、他ノ一部ハ暴民ノ獰悪ナル行為。殊ニ巡査2名ノ惨殺ニ報復心ヲ起シ居タル検挙班員ノ放火ナル事ヲ確メタリ。又、堤岩里ノ殺生及ビ放火ハ、嚮ニ発案場(堤岩里ヨリ半里ノ距離)ニ於テ、同地小学校ヲ焼キ暴行ヲ為シタルモノハ、堤岩里基督、天道両教徒ナル旨、同村内地民ヨリ訴ニ接シ、且、彼等ヲ掃滅セラレタシト民ノ懇請ヲ受ケ、前述ノ処置ニ出デタルニ、却テ反抗シタルタメ、斯ノ如キ行為ニ出デタルモノノ如シ。以上、
検挙班員及軍隊ノ行為ハ、遺憾ナガラ暴戻ニ渡リ、且ツ放火ノ如キハ明カニ刑事上ノ犯罪ヲ構成スルモ、今日ノ場合、正当ノ行為ヲ公認スルハ、軍隊並ビニ警察ノ威信ニ関シ、鎮圧上不利ナルノミナラズ、外国人ニ対スル思惑モアレバ、放火ハ凡テ検挙ノ混雑ノ際ニ生ジテル失火ト認定シ、当事者ニ対シテハ、孰レモ其手段方法ヲ得ザル廉ニヨリ、其指揮官ヲ行政処分ニ付スル事トセリ。
 堤岩里付近ノ状況ハ、京城在住ノ外国人ニ宣伝セラレ、英国総領事代理、米国領事、及ビ外国宣教師、一部現状ヲ視察シタリ。御参考迄



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