真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO4

2019年05月22日 | 国際・政治

 明治の元勲、伊藤博文は、日本に初めて近代憲法を誕生させた人として知られています。でも、その伊藤博文が、 1880年(明治13年)、元老院が提出した「日本国国憲按」に反対したことはあまり知られていないと思います。反対の理由は、「日本国国憲按」では、議会の権限が強く、自分たちの思うような日本をつくることができないことにあったのではないかと思います。

 

 それは、当時「国体」について、資料1の文章にみられるような議論があったことでわかります。伊藤博文は”憲法政治は断じて国体を変更するものに非ず、只政体を変更するのみ…”と主張しているのです。伊藤博文にとっては、ヨーロッパ諸国のような立憲主義の国ではなく、”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”でなければならなかったのだと思います。

 

 それは前頁で取り上げたように、大久保利通が、当時、自らの政府が、”万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし”などという批判を受けているにもかかわらず、そうした批判を”一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候” と受け止めていたこととつながっているのだと思います。”万機宸断ニ出ル”として、”有司専制”を続けることが出来る日本を、薩長藩閥政治家はつくろうとしたのでしょう。

 

 ”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”は、言い換えれば、天皇を抱き込めば「有司専制」が可能な日本ということです。資料1のような、ちょっとした回想文のなかでこそ、伊藤博文の本心が読み取れるような気がします。

 

 資料2は、福島宜三が五代友厚に宛てた書翰です。福島宜三がどういう人物かはよくわかりませんが、文面からかなり親しい間柄であったことが察せられます。「国体」について、自らの考えを披歴しています。

 その主張は、自由民権運動に関わる人たちを、”旧来ノ迷夢、尚、未ダ醒メ”ない”空手徒食ノ窮士族輩”であるとし、”昨是今非、更ニ定見ナキノ投機者流ヲシテ、民権ノ自由ノト、唱ヘシムル迄ノ事ト奉存候” と批判しています。

 そして、” 彼ノ輩ハ、我日本国ノ国体ニ於テハ、万般ノ権利、皆、我聖天子ヨリ下シ賜ハルモノニシテ、決シテ、之ヲ奪ヒ返スト云フガ如キモノニアラザルコト”がわかっていないというのです。すなわち、”外国ノ治者被治者ト、我国君臣ノ関係トハ”根本的に異なることがわかっていないというわけです。

 特に、” 国会開設ノ日ニ至ラバ、政府ハ勿論、恐レ多クモ九重ノ上マデモ、国会ノタメニ左右セラレ、政府ト国会トノ権衡其宜キヲ失ヒ、云フベカラザルノ弊害ヲ現出スル”と書いていることは見逃せません。国会によって、”万機宸断”による政治ができなくなり、”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”ではなくなるということだと思います。「有司専制」が可能な日本をつくらなければならないと宣言しているに等しいと思います。

 当時の藩閥政治家や藩閥政治家と関わる有力実業家は、”万機公論に決す”ることを望んでいなかったのだと思います。極論すれば、公議・公論や世論に左右されることなく、それらを乗り越えることの出来る日本、すなわち天皇を抱き込めば何でもできる「皇国日本」を望んだのだと思います。それが、敗戦に至る日本の歩みを止めることができなかった原因になったのではないかと、私は思うのです。 

 下記資料1は「憲法制定と欧米人の評論」金子堅太郎(日本青年館)から、資料2は「五代友厚伝記資料 第一巻」日本経営史研究所編(東洋経済新報社)から抜粋しました。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                     第二章 国体は變換せぬ国憲起草

 

 是余は毎日宮中に出勤し或る日制度取調局に居ると内閣から(内閣と宮内省とは其の頃赤坂御所の一部にあった)伊藤長官が來られて、余の机の前に椅子を引き寄せ腰を掛けられて、「君は憲法政治になつても國体は變換せぬと言ふそうだがさうか」と突然問はれた。「私は左様に考えます」と答へると、「それは間違って居る憲法政治になれば国體は變換するのだ」と論駁された。

 

佐々木参議官の話

 「今度伊藤参議が独逸に於ける憲法政治の取調の結果を内閣で各参議に話すのを聴くと、伊藤の説では憲法政治を行へば国體が變換すると言ふ。依つて吾輩は是は實に由々敷一大事と思ひ、国體は

 神武以來チャンと極まつて居る。

 然るに其の国體を變換するやうな憲法政治に変へなければならんと云ふことは容易ならざる事であるから、吾輩は反対論を述べた。

 所が伊藤の雄辯と学識だから、僕は散々に論破されて議論を続けることが出來なかった。それから帰つて來て、漢学者を呼んで、支那に國體と云ふ字の解釈をしたものはあるかと相談したけれども、明瞭なる答辯がないので困つて居る。ところで君に相談したいのは国体と云ふ文字は欧羅巴・亜米利加では何と云ふ原語であるか。それを聴きたいと思つて手紙を出した譯だ」

と言はれた。

 依つて余は佐々木参議に向ひ「國體と云ふ文字は日本特有の政治的名稱であつて欧羅巴・亜米利加の政治学、法律学に日本で謂ふ國體と云ふ文字に適当したもののあることを知りません。

 抑々国体と云ふ文字は水戸の烈公が「弘道館記」の碑を建てられた其の文中にあります。それを藤田東湖が解釈して「弘道館記述義」と云ふものを書きまして初めて日本の国体を明瞭に解釈したやうに思ひます。

 卽ち

 恭惟上古神聖立極垂統天地位焉万物育焉其所以照臨六合統御宇内者未嘗不由斯道也宝祚以之無窮国体以之尊厳

とある。是れ日本は萬世一系の天皇が君臨して政治を統御し給ふに依つて宝祚が無窮で国体が尊厳である。萬世一系の天皇が政治を統御せられることが日本の国体である。

 蓋し国体と云ふ文字は日本特有の政治名称であつて欧羅巴・亜米利加にはありません。彼の国には政体と云ふ文字はある。卽ち共和政体又は君主政体と謂ふ。併し日本の国体に適当する文字はありません。又日本に於ても欧米と同じく政体と云ふ文字はある。卽ち、天皇親政の政体之を郡県制度と謂ひ或は幕府政治の政体、之を封建制度と謂ふ。蓋し、時勢と場合に依つて政体は變貼りますけれども国体は變はりません。假令憲法政治になろうとも日本の国体は少しも變はりません。

と答えたという。

 

 その後、明治四十一年二月十一日、憲法発布二十年を祝する園遊会で、伊藤博文が、下記のような演説をしたという。

 

 「皇上陛下が憲法の政治を建てさせられんとするに付いては其の憲法は国体に如何なる関係を及ぼすや否やと云ふの説、當時学者間に於ても種々の議論があつた。然るに我輩は憲法政治は断じて国体を変更するものに非ず、只政体を変更するのみと主張した」と云ふて演説を了られた。(明治41年発行時事評論) 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

四六〇

時下、愈、御安泰御消光可被遊 大賀御事ニ御座候。生モ、其後、時々御左右御伺可申上ノ処、商法会議所ノ改革、参事院ノ諮問等、内外多事、為之、意外ノ不敬相極メ候段、何共無申訳、幸ニ御海容被成下候様、切願ノ至ニ堪ヘズ候。

偖、曾テ鳳眉ニ咫尺(シセキ)シタル際、彼ノ急進党等ノ近状ニ付、意見ノ在ル処ヲ、上陳可仕様被仰聞、早速従事可仕ノ処、前陳ノ通、何角、緊務ニ取紛レ大ニ遷延ニ渉リ候段、又御寛恕被成下度。就テハ、卑見ノ概略ヲ、左ニ筆記シテ、奉仰尊覧条、尊威ヲ冒涜スルノ段ハ 呉々モ御許容ノ程、懇祷ノ至ニ御座候。

第壱 我聖天子ガ、明ニ、来ル明治二十三年ヲ以テ、国会ヲ開設遊バサルベキ旨、御聖勅被為在候ニ付テハ、最早、其遅速ヲ彼是論ジ候ハンハ、臣子ノ分トシテ、恐レ多キ義ニ御座候得バ、更ニ進ンデ、此八年間ニ於テ、十分ノ準備ヲ為シ得ベキカ否ヤノ点ニ、論入可仕候。扨、此条ニ付テハ、生ガ従来ノ持論ト実験ニ依モ、甚ダ以テ、此準備ノ掛念ナルヤニ被存候。何トナレバ、我国当時ノ民権家自由党ナンド、自称致シ候モノゝ中ニ二三ノ有識者ヲ除ケバ、多クハ空手徒食ノ窮士族輩ニシテ、此輩ガ祖先ノ遺物ニヨリテ、今日迄ハ漸クニ其命脈ヲ継ギ来リタルモ、如何セン、旧来ノ迷夢、尚、未ダ醒メズ、為之、自ラ奮ツテ事業ニ着手スルノ念モナク、只々、生計日ニ窮乏ヲ告ゲ来ルニ付テハ、何ガナ、焼眉ノ急ヲ救フベキ策モガナト、此ニ初メテ投機ノ心ヲ萠シ、常ニ世上ニ事アランコトヲ持ツガ如キ姿ヲ現ハセシニヨリ、此ノ如キ場合ヲ奇貨トシテ、亦、私カニ名利ヲ博シ得ント希フ彼ノ二三ノ人々ガ、種々ノ辞柄ヲ設ケテ、右等ノ輩ヲ扇動シ、昨是今非、更ニ定見ナキノ投機者流ヲシテ、民権ノ自由ノト、唱ヘシムル迄ノ事ト奉存候。尤モ、此事ニ付テハ、生モ、決シテ、徒ラニ大言ヲ吐キ候義ニテハ無之、今其一二ノ実験ニ付テ、之ヲ申上候ハンニ、此程彦根地方ニ於テ、急進党ト称スル面々ガ打寄リ、近江自由大懇親会ナルモノヲ開キ候由。右ニ付、新聞紙上ノ広告ヲ一見致候処、其発起人中ニハ、同地銀ノ頭取・取締役ナンドノ姓名モ有之、生モ甚ダ怪訝ノ余リ、右取締ノ某ニ面会仕リ、全体銀行ナルモノハ、政府ヨリ特別ノ保護ヲ辱フシモノナレバ、素ヨリ政府ト其主義ヲ同一ナラシメザルベカラザルハ、論ヲ待タザル義ナルニ、何故ニ、貴殿等ガ、奮ツテ此挙ニ与ミセラレタルモノニヤ、ト問ヒタルニ、始メテ驚キタル姿ニテ、我等ハ、只、当地壮年輩ノ依托ニヨリテ、其発起人トナリタル迄ナリ。又以テ、彼ノ急進ヲ主張スル人々ハ、多クハ定見ナキ壮年輩、若キバ投機者流ニ、外ナラザルヲシ得ベキ義ト奉存候。右等ノ事実ニ付テモ、生輩ノ愚考仕候処ニテハ、先ヅ準備第壱ノ策ハ、憂世愛国ヲ自任致居候モノノミ相謀リ、奮ツテ我国ヲ豊富ナラシムルノ術ヲ講ジ、漸次ニ、彼ノ空手徒食ノ輩ヲ減ズルヨリ外、策ナクト奉存候。尤モ、此一事ニ付テハ、生モ、尚、二三ノ持論アレドモ、徒ズラニ枝葉ニ渉ランコトヲ恐レ、暫ラク他日ニ譲リテ、更ニ本論ニ緊要ナル二三ノ論題ニ移リ可申候。

 

第二 生ハ、当地近傍ノ民権家自由党ナンド申ス人々ガ、平生論議スル処ヲ聞クニ、実ニ抱腹絶倒ノ事ドモ多ク、而カモ、彼ノ輩ガ、日本ニハ、宜ク、日本ノ国会ヲ開カザルベカラズトノ一義ヲ存知セズ、只、口ニ任セテ、立憲政体トハ、斯々ノ組織ヨリ成立スルモノナリ 英ニテハ云々ナリ、日耳曼(ゲルマン)ニテハ斯々ナリト、恰モ政治学ノ論議ヲナスガ如ク、畢竟スルニ、政体ハ国体ノ殊異ナルニ随ツテ、其有様ヲ異ニセザルヲ得ザルノ一大活物ナルコトヲ、悟ラザルモノゝ如ク、立憲政体トサヘ云ヘバ、一概ニ英国モ日本モ、同様ノ政体ヲ施行シ得ベキモノナリ、ト思ヘルニ似タリ。惑ヘルモ、亦甚シト云フベシ。元来、彼ノ輩ハ、我日本国ノ国体ニ於テハ、万般ノ権利、皆、我聖天子ヨリ下シ賜ハルモノニシテ、決シテ、之ヲ奪ヒ返スト云フガ如キモノニアラザルコトヲ、諒知セザルニヨリ、斯クハ五里霧中ニ彷徨シ、遂ニハ、彼ノ国体ノ殊異ナル国々ノ例ヲマデ引証シ来リテ、我国ノ事ヲ論議セントスルニ至リシモノナリト思ハル。実ニ彼ノ輩ヲシテ、外国ノ治者被治者ト、我国君臣ノ関係トハ、自ラ云フベカラザルノ間ニ、深理ノ存スルモノナルコトヲ知ラシメバ、斯ル迷ヒモ起ラザリシモノトス。只管、彼輩ガ心中ヲ憐ムヨリ外無御座候。

 

第三 彼ノ党ガ、斯ル浅薄ナル論拠ヲ恃ンデ、事ヲ為サントスルモ、到底、其望ヲ達スルノ暁キニ至ツテハ、只烟散霧消ニ帰シ了ルヤ、固ヨリ論ナシト雖モ、如何セン、前段ニ述ブルガ如ク、当時我国ノ実況ニ在テハ、彼ノ投機者流ノ幇助モ、亦、痛ク彼党ノ進歩ヲ刺撃シ、此儘ニ打捨テヲキナバ、或ハ由々敷一大事ヲ惹キ起サンモ、亦知ルベカラザルニヨリ、生ノ愚考スル所ニテハ、何卒シテ、早ク、朝野ノ間ニ人望アル人々ガ奮起シテ、正々ノ論旗ヲ樹テ、抑モ、日本ノ国体ニ於テハ、斯々ノ事実アリ、云々ノ秩序アリテ、決シテ、彼ノ舶載ノ書籍通リニハ為シ得ベカラザルモノナリ、ト云ヘル事実ヲ詳ニ論弁シ、彼輩ヲシテ、速カニ前非ヲ悔悟セシムルコト、最モ緊要ノ務メナリト思ハル。然ラズシテ、恣ニ、彼党ノ勢力ヲ熾ンナラシメバ、意外ノ禍機、此間ニ生ゼンモ、亦知ルバカラズ。元来、我国ハ、遽カニ開進シタルノ国ナレバ、随ツテ、長ヲ取リ短ヲ捨ルノ場合ニ於テモ、十分ニ定見ヲ備ヘ、而シテ後、其良否ヲ採択シタルニアラザレバ、彼ノ舶載ノ書籍中ニ於テモ、或ハ著者ガ某本国ノタメ、若クバ当時ノ時勢ノタメニ、已ムヲ得ザルニ、論弁ヲ費シタルモノモアルベク、又他邦ニ在テハ、有害無益、実ニ懼ルベキノ著述モコレアルベシ。是等ノ書ヲシテ、定見ナキノ我国人ニ読マシメバ、実ニ当時ノ勢ヒ、今更、詮方ナキ次第ナリトハ云ヘ、如何セン、先入師トナルハ、凡常人ノ免ルベカラザルトコロナルニヨリ、我国人中、就中、彼党ニ於テハ、或ハ是等ノ書ニ薫陶セラレ、而カモ、亦之ヲ以テ、其論場ノ小楯ト頼ミ居ルモノモ可有之、旁々、此輩ノ迷夢ヲ醒覚セントスルニハ、先ヅ、早ク、我党中名望アルノ士ヲ出シテ、専ラ我国ノ事実ニヨリ、徐々、彼党ガ無謀ノ論陣ヲ破砕セシムルコト、甚ダ以テ、緊要ノ次第ナリト存ゼラル。偖又、此場合ニ於テハ、政府ノ国是ヲ、確乎不動ノ地位ニ安クコト、又最モ一大要件ナリト思ハル。昨年来、政治社会ニ渙発シタル種々ノ事件中、生輩ヲシテ、実ニ隔靴掻癢ノ歎ヲ抱カシメタルモノ、亦少シトセズ。現ニ、彼ノ開拓使一条ノ如キ、其処置ノ是非ハ、暫ラク別個ノ問題ナレバ、之ヲ論ゼザルモ、彼ノ容易ニ取消達書ヲ頒布セラレタルガ如キ、果シテ、民間囂々ノ声ヲ箝スルガタメトセバ、生輩ハ、悚然トシテ、懼ルゝ処ナキ能ハザルナリ、何トナレバ、政府当時ノ現状ニシテ、既ニ斯ノ如クナリトセバ、国会開設ノ日ニ至ラバ、政府ハ勿論、恐レ多クモ九重ノ上マデモ、国会ノタメニ左右セラレ、政府ト国会トノ権衡其宜キヲ失ヒ、云フベカラザルノ弊害ヲ現出スル、猶、彼ノ米国ノ如キ有様ニ立到リ可申ヤ、ト存ズレバナリ。固ヨリ、斯ノ如キ事ハ、杞憂中ノ杞憂ニテ、決シテ、我国体ヨリ組織セル日本ノ国会ニハ、万々去ルコトノ有間敷義トハ存候得共、元来、朝令暮改ハ、最モ政治社会ノ悪弊ナルノミナラズ、而カモ、今回ノ挙ノ如キハ、只僅ニ、二三新聞記者ノ故アリテ、喋々シタル迄ニテ、其他ハ前段申述候投機者流ガ、取消ヲ達セラレタルニ至テハ、聊カ、憂慮ニ過ギ、実勢ニ暗カリシコトナリ、ト申サゞルヲ得ザルヤニ被存候。

 

 

右ノ外、種々開陳可仕義モ有之候得共、要スルニ、我国目下緊要ノ務メハ、只管、富国ノ術ヲ謀ルコト、第一義ナリト申サゞルヲ得ズ。何トナレバ、我国内外ノ近状ヲ見ルモ、彼ノ常ニ東洋ノ好餌ニ垂涎シ、苟モ、其機会アラバ、一搏以テ之レヲ攫取セントスルノ猛鷲(露西亜)ハ、益々、羽翼ヲ伸シテ、其呑噬ヲ逞フセントシ、又常ニ、我国ト唇歯輔車ノ関係ヲ有セル清国ニ於テモ、近来、頼リニ陸海軍備ヲ整ヘ、戦艦兵器ヲ需メ、条理ニ腕力ニ、彼ノ琉球処分ノ正邪ヲ決行シ去ラントスルノ姿アリテ、我レ、若シ、一歩ヲ退ケバ、彼レ将ニ十歩ヲススメメントスル、危急千万ノ時機ニ際会シタルモノナレバ、宜シク、彼レガ、漸次、侵入ノ勢ヲ防禦セザルベカラザルハ、誰人モ皆知ル所ナリトハ云ヘ、如何セン、我国ノ現状ト実力トニ於テ、未ダ、コレガ、十分ノ備ヲナス能ハザルニアラズヤ。又退ヒテ、内地ノ現状ヲ回視スレバ、僅ニ十有余年ノ前ニアツテハ、忠孝節義ノ名ハ山岳ヨリモ重ク、愛国憂世ノ情ハ、河海ヨリモ深ク、之ガタメニハ、死ヲ観ル帰ルガ如ク、栄ヲ捨ル芥ノ如クナリシモ、明治十五年ノ今日ニ至テハ、澆季風ヲ移シ、軽薄俗ヲ為シ、只紛々トシテ、議論ノ聒シキヲ覚ユルノミ。内地ノ近状斯ル場合ニ陥ヒリシモ、只々、前段申述候如ク、所謂、空手ノ徒、瀨惰ノ民多キノ致ス所ナルニ外ナラザレバ、旁々以テ、今日ノ内憂外患ヲ除カントスルノ策ハ、専ラ、国力ヲ豊富ナラシムルノ一事ニアルヤ、生輩ノ信ジテ疑ハザル所ニ御座候。尤モ 此豊国ノ策トハ、如何ナルモノカト、云フニ至テハ、嘗テ卑見ノアル処ヲ筆記シテ、尊覧ヲ煩シタル義モ有之、且ハ本論トハ、自ラ別個ノ問題ナルニヨリ、之ヲ略シヲキ、尚他日二三ノ論ズベキ事件ヲ、併セテ、再応可仰電覧候。

右ハ、生ガ卑見ノ儘ヲ、筆ニ任セテ、列記シタルモノニ御座候得バ、万々誤謬ノ論点モ可有之。何レ、不日拝趨、可仰御高示ト奉存候。乱筆愚文、敬ヲ失スル極メテ多シ。万、御寛恕可被下候。

宜三、恐懼恐懼頓首百拝

二月十六日夜、燈火ニ認ム    (福島)宜三

五代友厚様 御侍史    

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO3

2019年05月14日 | 国際・政治

 日本政府は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人・軍属、および外地や内地における戦災死没者等を含む)を約310万人としています。そのうち、軍人軍属の死没者およそ250万人で、実にその6~7割が、補給のない戦地での餓死であるといわれています。

 また、日本の戦争によって亡くなったアジアを中心とする国々の死没者は、その数倍にものぼるといいます。
 だから、考えさせられるのです。なぜ、これほど多くの人が亡くなる野蛮な戦争が継続されたのか。なぜ、軍部が政治の執行権を握ることになったのか、なぜ、日本軍部隊は降伏を認められなかったのか なぜ、日本は侵略戦争を始めたのか、なぜ、日本軍は捕虜を斬殺したのか…、と。
 
 そして、それらがアジア人を蔑視し、外国人を夷狄とした明治維新期の尊王攘夷の思想や目的のために手段を選ばない武力主義的な戦略思想、天皇主権の帝国憲法の考え方などと深く関わっているのではないか、と私は考えるようになりました。
 なぜなら、明治維新以後、日本の敗戦にいたるまで、琉球処分、台湾出兵、朝鮮王宮襲撃事件、日清戦争、旅順虐殺事件など、昭和の戦争に類似し、昭和の戦争につながるようなことが続いているからです。

 資料1は、「木戸孝允文書 二」日本史籍協会編(東京大学出版会)から抜粋したものですが、木戸孝允は、幕府を倒し、王政を復古させて新政府を樹立するという尊王攘夷派の戦いを
此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひと相成り候は元より終に大舞台之崩れは必然と奉存候然る上は芝居は事止みと相成申候
という文章に見られるように「芝居」あるいは「狂言」と表現し、食い違いがあって失敗すれば大笑いのもとになり、取返しがつかないというようなこと書いています。
 薩長を中心とする尊王攘夷派は、幕府を倒し権力を手にするために、巧みに嘘を交えた戦術を展開しました。だから、長州藩士である木戸孝允は、同志と認める坂本龍馬とのやりとりで、その戦いを「芝居」あるいは「狂言」と表現したのではないかと思います。
 木戸孝允が、坂本龍馬に”乾頭取と西吉座元と得と打合に相成居手筈きまり居候事尤急務歟と奉存候”と書いたのは、板垣退助、西郷隆盛と相談して、しっかりその「芝居」の役割を分担してほしかったからではないかと思います。
  
 ペリー来航以来、外国との貿易による混乱その他の悪条件が重なって、当時の庶民の生活は苦しく、また、外国人が国内に入り込んでくることに対する不安もあり、列強諸国の軍事力を知るすべのない庶民は当然のことながら、攘夷を願いました。でも、その庶民の願いを利用し、攘夷を煽り、年貢半減などを触れ回らせ、伊牟田尚平、益満休之助、相楽総三などに江戸攪乱工作を命じ、偽錦旗を利用をするなどして幕府を倒した尊王攘夷派は、権力を手にしても、庶民の願いである攘夷を実行しませんでした。まさに「芝居」であり「狂言」だったからではないかと思います。
 文末の”御内拆御火中”は、こうしたやりとりが外部に漏れないように、また、幕府だけではなく、庶民をも欺く作戦の証拠を残さないようにするためだったのではないかと思います。

 資料2は木戸孝允が 井上聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)に宛てた書翰ですが、ここでは、”芝居論に付種々之説も有之”と、「芝居論」という言葉を使っています。いろいろな考え方があるので、その考え方を統一し、薩摩とも連携して事を進めるために”有丈け之智恵も力も尽し”て努力しようと呼びかける内容ではないかと思います。

 資料3は、大久保利通が五代友厚に宛てた書翰です。 「五代友厚伝記資料 第一巻」日本経営史研究所編(東洋経済新報社)から抜粋しました。この書翰は、明治七年一月二十五日のものですが、当時の反政府的な動きについて確認する内容だと思います。
 見逃せないのが、自らの政府が、” 万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし” などという批判を受けているにもかかわらず、”一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候” と、そういう主張が、世間ではそれほど支持を得ておらず、幸いであるという考えていることです。
 『五箇条の御誓文』の精神に反する「公議・公論」無視の政治にたいする批判を、受け止める姿勢がないということではないかと思います。そうした「有司専制」を改ようとしない政治の行きつくところが、日本の敗戦ではなかったかと、私は思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                         巻七  

                 三十一 坂本龍馬宛書翰 慶応三年九月四日

  乱筆御高許
爾後爾御荘栄に引継御高配奉遥察候さて滞崎中は色々蒙御高意奉多謝候御迷惑之一條如何御片付に相成候哉早々御済に相成候辺乍蔭心急ヶ敷奉存候于時御内話相窺候上の方之芝居も近寄どもは不仕哉何分にも此度之狂言は大舞台之基を相立候次第に付是非とも甘く出かし不申ては不相済世間且々役に立候頭取株は不申及且々舞台の勤り候ものどもは仲間に引込候工風もまた肝要と奉存候何分にも御工風御尽力奉祈候莊村氏之一條何是もせめて内輪丈けに而も芝居之趣向を立つまり外之大芝居之役に立つ候事六つヶ敷都合に候得は却而内之芝居にて外へ出ぬ丈けに而も可然と奉存候いつれ外之役は六つヶ敷と奉存候且又乾頭取之役前此末は最肝要と奉存られ申候何卒万端之趣向於于此は乾頭取と西吉座元と得と打合に相成居手筈きまり居候事尤急務歟と奉存候此狂言喰ひ違ひ候而は世上之大笑らひと相成り候は元より終に大舞台之崩れは必然と奉存候然る上は芝居は事止みと相成申候御同意に被為在候はゝ一飛脚に而も乾頭取元へ被差越御決定に相成居度候事歟と奉存候是非乾頭取は此後は西吉座元と御同居位にても可然様奉存候御高案如何狂言之之始末一定之處甚肝要に奉存候且また大外向之都合も何卒其御元ひこなどゝ極内得と被仰談置諸事御手筈専要に是また奉存候実に大外向之良し悪しは必芝居の成否盛衰に訖度かゝわり申候乍此上四方八方へ御目を御くばり被成候而御尽力芝居大出来と申處に至り御様御高配乍陰奉祈念候乾頭取之處も場合に後れては凡々狂言は出来不申は元より実にいヶ様考申候而は大舞台は其ぎりと奉存申候則ち義経之早く行てまつことあればいさぎよくおそくていそぐ道は危しとは此場合歟と愚考仕候于時拝借金大に難有奉存候近日御地へ差送り申候間急早々御返上可仕候宜聞済可被遊候奉願候先は任幸便取敢ず愚考之まゝ申上候取捨奉願候乍毫末佐々木君始諸君へ可然御致意奉願候其中時下御自玉第一に奉存匆々頓首拝
      九月四日
  尚々此芝居に付候而は少しも損之行かぬ様御工風被為在且々役に立候ものは御引込被為在度乍迂遠奉存候敬白
  さ  以 様 御内拆御火中                   き  と
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                   四十 井上聞多、伊藤俊輔宛書翰 慶応三年十月二十三日

 乱筆御推覽 可被下候
各盟兄(メイケイ)彌清適に御滞崎大賀此事に奉存候さて先日頃芝居論に付種々之説も有之春兄之御気付も有之色々手を尽見候得共甚艱難之場合有之申候而何分に相運ひ兼候に付無據(ヨンドコロナク)堀など申合不得共
之策に決し廣澤歸畾之上芋国(薩摩)結論之程承知断然出畾之若連中と一結し是非とも芋と同挙動之趣向に決定仕先以広沢へ当て三畾まで申越置候左候は必々後之幕はまた趣向も相立可申と存詰手下しを内々仕置候處廣澤歸着上之相場も益々以此節気合よろしき様子に而本〆坐元(ゾゲン)株も段々とらでは不相叶時節と差向き候様子に付大に機会を得こゝをせんどゝ相さわぎ始終一貫之處を以漸相決し小西(小松帯刀・西郷吉之助)之二氏へも御決答相成申候就而は此余芋と少しも相変わり候事は無之同一致に而一生懸命被為相尽候都合に至り申候間益其含に而乍此上御尽被為在度只々奉祈念候實以今日之機会相失し候而は再不可得義に付御同様に有丈け之智恵も力も尽し不申而は不相済候先は為其大略得御意申置度為其匆々(ソウソウ)頓首

          十月廿三日
 尚々自然世外兄御帰關に相成候はゝ御一覧被下春兄へも早々御廻し可被下候左候へは大略座元相分り出先之都合も有之事と奉存やかんも鰹節も且々あとに付来り候歟にも被相察申候乍去ひき当ては此六つヶ敷候以上
    世外(セガイ・井上馨) 
           各盟兄(内御拆)                           竿  鈴
    春畝(シュウボ・伊藤博文)
  機漏れざるを貴ふ御密拆是祈る

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                                書翰
二一二
 尚々、同志中、何れも堅固、御懸念不被下候。得能君(得能良介)紙幣頭、松方君租税頭、陸奥ハ免、芳川は工部制作頭、小野・岡元・竹内等も辞表免職なり。
一 昨夜、不図、渡辺君御投翰拝読、且御伝言の趣も逐一拝承、誠ニ以、御懇篤(コントク)の至、心肝に銘じ
辱奉厚謝候。各位、弥以(イヨイヨモッテ)、御壮康被成御座候由、大慶奉存候、次ニ小子、今日迄ハ凛然奉職仕候間、少も御懸念被下まじく所祈候。

一 岩公も意外の変ニ御罹候得共、誠ニ高運ニして、最早追々御順快、今、十日もいたし候得バ、御再勤被出来候御容体ニ候。御同慶此事ニ御座候。罪人は県より着手、長人七八名捕縛、当分糾明中の処、不可遁確証も有之、決て相逸無之候付、御安心可被成候。乍去、変動已来、大ニ人心も動揺、挙に乗じて煽惑する者不少、
如何形行可申や。必らず少々混雑も起り候半と期居候処、追々罪人も縛に就、十分政府におひても、断然と取締向も相付、此上、仮令、干戈(カンカ)を動かしても、一挙して可圧制との決定の故、今日ニ成候てハ、少しく挫ケ候様子ニ御座候。鹿児島県、近年辞表帰県等の事も、鼓舞せし源因も有之、甚、可悪次第に御座候。此末、四国、九州辺如何ニ可有之や、少しは騒ギ立可申と卜シ候。土州ニては千人余を募り、政府ニ強訴する企有之趣。是は大蔵省の旧悪等を挙、是を名目にして突崩ストカイヘル事の由。伊東は鹿県へ、林某は高知県へ、到発足候。全少ハ、周旋ニ為との由に被聞申候。迚も格別の事は無之候得共、其用意はなくんバあるべからず。謀を打砕キ候廟算ハ決定候付、必御気遣有之まじく、兼ねて松陰君へ御示談申上置細作の事ハ、殊更に御注意被下度、若、相分候事件は、速に御報知奉伏願候。

一 自ら御聞及も可有之、頃日、旧参議、其余三四名の連名にて、民選議院を起の建白有之。趣意は、当時、万機宸断ニ出ルと覚る名は有之候得共、其実は、三四の有司、擅(ホシイママ)にする政と言うべし。人民各々其権利を有候得ば、両三の有司に、束縛圧制を受る道理無之故、人心鼓動して、是非天下の論を以公議に決し、政府を破らんとの策と相見得候。併此建白の事はよほど失策に陥り、一人として甘心する者無之、何しらぬ者迄訛笑し、外国人迄も種々異論有之由ニ聞え候。大概、是にて其浅深を謀られ、我が為にハ幸に御座候。

一 今日の景況は、丁卯の冬同様の時体に、少も異なる事なく、何れが敵、何れが味方なるをしらず、国家の上におひては、実に遺憾の至候得共、一身上ハ別て難く相成候心持也。されど大事ニ関する今日の際、敢て疎漏軽挙は誓て不致丈は、乍不肖、体認仕候間、其段は御安心可被下候。
右御礼まで、且大略の形行、為御心得申上置度、如此御座候。内務省開店日ならず、喰違御門大変事到来、朝より晩迄やり続キにて、息を突流し候間も無之、御親察可被下候。天賦と明らめ候外無之、御憐笑々々。
敬白
       (明治七年)一月廿五日                                    利通
     税所篤(サイショアツシ)
両高台下
     五松陰
    
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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


  

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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO2

2019年05月09日 | 国際・政治

  幕末の慶応3年12月9日(1868年1月3日)、尊王攘夷派が一方的に宣言した王政復古の大号令で、新たに設置された三職(総裁・議定・参与)による小御所会議がありました。その会議で、尊王攘夷派の進める一連の所業を批判した土佐藩藩主山内容堂(豊信)の発言は、きわめて重要かつ正当なものだったと思います。

 先ずはじめに、山内容堂は尊王攘夷派の脅しを背景とした変革を
此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならす、王政復古の初に当つて兇器を弄する、甚不詳にして乱階を倡ふに似たり
と批判したことが、丁卯日記に記録されていますが、事実に基づく正当な批判だったと思います。

 また、「岩倉公実記」の「小御所会議ノ事」と題された文章のなかに、
豊信之ヲ抗弁シテ曰ク今日ノ舉頗ル陰険ニ渉ル諸藩人戎装(ジュウソウ)シテ兵器ヲ擁シ以テ禁闕ヲ守衛ス不詳尤甚シ王政施行ノ首廟堂宜ク公平無私ノ心ヲ以テ百事ヲ措置スヘシ然ラサレハ則チ天下ノ衆心ヲ帰服セシムル能ハサラン
と、尊王攘夷派が周辺を武装した藩士で固めて事を進めようとしていることを批判したことが記録されていますが、この批判も正当なものだったと思います。

 さかのぼれば、王政復古にいたるまでに、尊王攘夷派の志士により多くの幕閣や幕府と関わる国学者その他の関係者が暗殺されていました。江戸だけではなく、京都でも、天誅と称して要人暗殺が繰り返され、都の人々を震撼させたといいます。象徴的なのが、田中新兵衛、河上彦斎、岡田以蔵、中村半次郎の四人の尊王攘夷派の志士で、それぞれ「人斬り新兵衛」、「人斬り彦斎(ゲンサイ)」、「人斬り以蔵(イゾウ)」、「人斬り半次郎」の異名を取り、”四大人斬り”と称されたという話です。容堂の指摘した通り、公議・公論によってではなく、まさに、”兇器を弄”して幕府を倒し、事を進めようとしていたのだと思います。

 そして、小御所会議において、そうしたことを批判した山内容堂と容堂の発言を支持した諸侯を屈服させたのも、脅しであったことが、尊王攘夷派の安芸広島藩主、浅野長勲の文章に
此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり
とあることでわかります。脅しを指示したのが西郷吉之助(西郷隆盛)であるということも記されています。

 次に、幕政の行き詰まりを認め、難局を乗り切るために大政奉還をした徳川慶喜を、小御所会議から排除することを批判した、
二百余年天下太平を致せし盛業ある徳川氏を、一朝に厭棄して疎外に附し、幕府衆心之不平を誘ひ、又人材を挙る時に当つて、其の政令一途に出、王業復古之大策を建、政権を還し奉りたる如き大英断之内府公をして、此大議之席に加へ給はさるは、甚公議之意を失せり、速に参内を命せらるへし
という容堂の主張も、きわめて正当なものだと思います。尊王攘夷派は、公議・公論に基づいてこれからのことを決定するのではなく、小御所会議を自らの方針を「朝命」とする場として利用しようとしたのだと思います。”公議之意を失せり”という容堂の指摘は、その通りだと思います。

 
 三つめが、孝明天皇がなくなり、践祚したばかりの「幼主」、すなわち元服前の明治天皇の政治利用を批判した
”畢竟如此暴挙企られしう三四卿、何等之定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取せられたるや抔と、したゝかに中山殿を排斥し、諸卿を弁駁せられ、公も亦諄々として、王政之初に刑律を先にし、徳誼を後にせられ候事不可然、徳川氏数百年隆治輔賛之功業、今日之罪責を掩ふに足る事を弁論し給ひ、…”
という指摘も見逃すことが出来ません。容堂のいう”三四卿”は岩倉具視、正親町三条實愛、中御門経之、中山忠能だと思いますが、岩倉具視が玉松操に命じて「討幕の密勅」や「王政復古の大号令」を準備したことは、下記の資料「具視中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト王政復古ノ大挙ヲ図議スル事」の文章で明らかだと思います。

 加えて、「討幕の密勅」や「王政復古の大号令」その他が、”宸断(天皇の判断)”に基づくものでないことは、明治天皇が小御所会議で何も語らなかったことや、下記の文章、また、「岩倉公実記」に明治天皇に関する記述がほとんどないことでも明らかだと思います。明治天皇と難局を乗り越える方策について相談したり、天皇の考えを確認したりしたような記述は全くないのです。したがって、尊王攘夷派は、いつも自分たちが決めたことを、”宸断(天皇の判断)”に基づくものであるかのように装い、「朝命」として押し通す方針であったということです。

 下記の資料は、「岩倉公実記 中巻」(明治百年史叢書)から抜粋したものですが、王政復古の考え方の広がりについて重要な記述があります。それは、最初に岩倉具視が”幕府ヲ廃シ皇室ヲ興スヘキノ時機已ニ来ル”と判断し、”中御門経之ト共ニ図議シ”て”王政復古大挙ノ計”を中山忠能や正親町三条實愛に説いたことが書かれています。そして、二人の同意を得た後、薩摩藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵と謀議し、島田久光を説得し、安芸藩世子松平茂勲(浅野長勲)、家老辻将曹、毛利敬親父子と、次々に同意を取り付けていったことが書かれています。でも、天皇に関しては何も書かれていません。だから、尊王攘夷派にとって、天皇は単なる道具でしかなかったということだろうと思います。そういう意味で、薩長および尊王攘夷派公家の方針を受け入れない孝明天皇が毒殺されたという説の真実性が増すのではないかと思います。

 そうしたことを総合的に考えると、私は、明治維新は「過ち」というより、「犯罪」と表現した方が適切ではないかとさえ思います。
 明治新政府のもとで、 山城屋和助事件や三谷三九郎事件、尾去沢鉱山事件、藤田組贋札事件、北海道開拓使庁事件、小野組転籍事件などの汚職事件が頻発したことも、犯罪的な企みに基づく明治維新の結果であり、私は、不思議ではないような気がするのです。

 「五箇条の御誓文」には、「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」とありましたが、民選議員設立の建白書には

一、政権を薩長のあいだでタライ廻しにして、有司専制で、公議を圧迫している。さきに交付された讒謗律、新聞紙条例は、国民の言論を圧迫する悪法である。
二、中央集権の弊で、地方官は収税の出先にすぎない。地方の国民は政府からほうちされている。各省の事務も、長官の私意のままにうごかされ、朝令暮改、官吏は居座ったら交替しない。
中略
五、財政について、歳出は公表されず、その一部は企業家に流れ、今の財閥をつくった。

などとあります。これが明治政府による政治の実態だったのだと思います。そして、こうした実態は、先の大戦における敗戦まで、根本的な改善がなされず続いたということです。
 公議・公論が尊重され、言論が圧迫されなければ、日本の悲惨な敗戦は避けられたと、私は思います。だから、政府による明治150年を祝う「記念式典」にはとても違和感があります。
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          具視中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト王政復古ノ大挙ヲ図議スル事

是ヨリ先松平慶永松平豊信島津久光伊達宗城朝命ニ応シ上京ス則チ四藩聯合ノ力ヲ以テ大政ヲ革新センコトヲ謀議ス先ツ徳川慶喜ニ説クニ長防ノ処分ト兵庫ノ開港トハ 寛急先後ノ順序ヲ商量シ之ヲ施行センコトヲ以テス慶喜敢テ聴カス而シテ慶永豊信久光宗城ノ意見亦相互ニ齟齬スル所アリ議終ニ一轍ニ帰セス是ニ於テ慶永豊信宗城前後相継キ暇ヲ乞フテ藩国ニ還リ久光亦病ヲ養フト称シテ暇ヲ乞ヒ大坂ニ赴ク此時ニ方リ具視ハ幕府カ譎権ヲ行フテ朝廷ヲ牽制シ列藩?離シテ一隅ニ割拠セント欲スルノ形情アルヲ見テ独リ窃ニ以為(オモエラ)ク幕府ヲ廃シ皇室ヲ興スヘキノ時機已ニ来ルト乃チ中御門経之ト共ニ図議シ王政復古大挙ノ計ヲ中山忠能正親町三条實愛ニ説キ其合意ヲ要(モト)ム忠能實愛之ニ応ス是ニ於テ具視ハ薩摩藩小松帯刀、西郷吉之助、大久保一蔵ト共ニ謀議シ帯刀等ヲシテ之ヲ久光ニ説カシム久光之ヲ善トシ薩摩大隅日向三国ノ力ヲ悉シテ以テ其籌図ヲ贊襄(サンジョウ)セント誓フ此時ニ於テ安芸藩世子松平茂勲(浅野長勲)ハ家老辻将曹ヲ従ヘテ京都ニ滞留ス帯刀等之ヲ説ク茂勲将曹共ニ之ニ左袒ス九月久光ハ一蔵ヲ長門ニ遣リ大挙決策ノ意ヲ毛利敬親父子ニ告ケ以テ応援ヲ乞ハシム而シテ久光ハ病重シト称シテ藩国ニ還リ其準備ヲ為ス一蔵既ニ長門ニ抵ル敬親父子ハ藩臣木戸準一郎、廣澤兵助ニ命シ一蔵ト会商セシム是ニ至リ薩摩長門二藩ノ計議始テ合ス
〔附注〕大久保一蔵カ島津久光ノ命ヲ啣(フク)ミ長門藩ニ使ヒスルノ概要ヲ此ニ附載シ以テ薩摩長門二藩連盟ノ成リシ顛末ヲ明カニス

九月十五日大久保一蔵ハ島津久光ノ命ヲ啣(フク)ミ同藩大山格之助長門藩伊藤俊輔品川弥二郎ト偕ニ汽船豊瑞丸ニ駕シテ大坂ヲ發シ翌十六日ノ夜州防三田尻ニ達ス十七日長門藩御堀耕助来リ一蔵等ヲ迎フ一蔵等耕助ニ誘引セラレ山口ニ至ル此夜木戸準一郎廣澤兵助来リ毛利敬親並ニ其子廣封ノ命ヲ伝ヘテ曰ク明日寡君父子ハ君等ヲ延請シ親ク来使ノ旨意ヲ聴キ且京師ノ近状ヲ問ハント欲ス敢テ請フ之ヲ諾セヨト十八日一蔵格之助毛利氏ノ邸ニ詣ル敬親父子ハ一蔵格之助ヲ引見ス… 

以下略

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                  具視王政復古ノ基礎ヲ玉松操ニ咨問スル事

初メ正月具視ハ三上兵部(三宮義胤)ニ嘱シテ曰ク予ハ時務ヲ論スルノ書ヲ草スル毎ニ筆意晦晦渋シ自ラ不学ヲ憾ム若シ汝カ識ル所ノ人ニシテ心志端正且文筆ノ才ヲ備フル者アラハ当サニ誘引ソテ以テ吾カ廬ニ来ルヘシ予ハ之ニ起草ヲ託セント欲ス兵部曰ク吾カ郷里ニ玉松操ナル者アリ所謂古ノ隠君子ナリ兵部之ニ師事スル年久シ玉松ニシテ明公ノ左右ニ侍スル有アラハ必ス明公カ一臂(イッピ)ノ力トナラン具視曰ク予之ヲ見ント欲ス汝宜ク提携シテ来ルヘシ兵部之ヲ諾ス是ニ於テ兵部ハ操ニ説クニ具視ニ謁センコトヲ以テス操敢テ応セス兵部乃チ樹下茂国ト共ニ之ヲ説ク再三ナリ操始テ之ヲ肯ンス二月二十五日操ハ兵部ト相偕ニ至ル具視之ヲ一見シテ異常ノ器タルヲ知ル待ツニ賓禮ヲ以テス且文学ヲ兒孫ニ教授センコトヲ乞フ操之ヲ諾ス是ヨリシテ操屡具視ノ門ニ出入シ機事ヲ計議ス九月具視ハ中山忠能正親町三条實愛中御門経之ト共ニ王政復古ノ大挙ヲ図議スルヤ忠能等建武中興ノ制度ヲ採酌シ官職ヲ建定セント論ス具視以謂ク建武中興ノ制度ハ以テ模範ト為スニ足ラスト之ヲ操ニ咨問ス操曰ク王政復古ハ務メテ度量ヲ宏クシ規模ヲ大ニセンコトヲ要ス故ニ官職制度ヲ建定センニハ当サニ神武帝ノ肇基キ原ツキ寰宇ノ統一ヲ図リ万機ノ維新ニ従フヲ以テ規準ト為スヘシ具視之ヲ然リトス是ニ於テ新政府ノ官職制度ハ操ノ言ニ従フテ之ヲ建定スト云フ
〔附注〕玉松操ハ具視カ入幕ノ賓ト為リテ明治中興ノ鴻図ニ参画ス頗ル功績アリト雖世人之ヲ知ルモノ至テ希ナリ因テ其略伝ヲ此ニ附載ス

玉松操初メ名ハ重誠後ニ眞弘ト更ム侍従山本公弘ノ第二子ナリ幼ニシテ山城国宇治郡醍醐寺ニ入リ僧ト為ル猶海ト曰フ大僧都法印ニ任敍ス曾テ僧律ヲ革新センコトヲ唱ヘ一山僧徒ノ憎ム所ト為ル髪ヲ蓄ヘ袈裟ヲ脱シテ山本毅軒ト称ス又玉松操ト更ム人ト為リ剛毅ニシテ皇儒仏ノ典籍ニ通シ最モ皇学ニ長ス嘉永安政ノ間泉州貝塚卜半ノ家ヲ主トシテ此ニ留ル屡勤王攘夷ノ大義ヲ卜半ニ説キ其帰俗ヲ勤ム卜半ハ真宗ノ僧ナリト半幕府ノ嫌疑ヲ受ケンコトヲ恐レ稍之ヲ厭フ是ニ於テ操辞シ去テ京師ニ帰ル文久元治ノ間幕府益々政ヲ失フ操之ヲ見テ悲憤ニ堪ヘス乃チ江州坂本ニ隠レ後ニ真野ニ移ル妻妾ヲ蓄ヘス葷肉ヲ食ハス寒ヲ喜ヒ熱ヲ嫌フ厳冬ト雖仍ホ棉布ヲ襲サヌル無ク火爐ヲ近ツクル無シ朝昏読書ヲ以テ自ラ楽ム慶応三年二月始メテ具視ニ謁シテ其器識ニ服シ心ヲ傾ケテ之ヲ輔ク大政復古ノ時ニ方リ朝廷ヨリ出ツル所ノ詔勅制誥多クハ操ノ起草ニ係ル明治元年二月徴士内国事務権判事ト為ル朝廷欧米列国ト締盟ノ事ヲ布告スルヤ操慨歎シ之ヲ具視ニ詰ル具視曰ク宇内ノ形状復タ昔日ノ比ニ非ス列国ト締盟スルハ情勢已ムヲ得サルニ出ツルナリ操長吁(チョウク)シテ曰ク奸雄(カンユウ)ノ為ニ售ラレタリ二年正月堂上ニ列セラレ従五位下ニ敍シ昇殿ヲ聽ルサル三年十月侍讀ト為ル翌四年正月之ヲ辞ス五年二月病テ卒ス文化七年三月ニ生ル年ヲ享クルコト六十三、二十六年一月特ニ従三位ヲ贈ラル蓋シ操カ攘夷ノ念ハ終身少ラクモ衰ヘスト云フ


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