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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)に対する異論 NO2

2020年02月28日 | 国際・政治

 さらに、「第二章 自立する国家」の”「A級戦犯」をめぐる誤解”と題された文章の中には、
「A級戦犯」についても誤解がある。「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判=東京裁判で、「平和に対する罪」という、戦争が終ったあとに造られた概念によって裁かれた人たちのことだ。国際法上、事後法によって裁いた裁判は無効だ、とする議論があるが、それはべつにして、指導的立場にあったからA級、と便宜的に呼んだだけのことで、罪の軽重とは関係がない。
 ・・・
 「A級戦犯」として起訴された28人のうち、松岡洋右らふたりが判決前に死亡し、大川周明が免訴になったので、判決を受けたのは25人である。このうち死刑判決を受けて刑死したのが東条英機ら7人で、ほか5人が受刑中に亡くなっている。
 ところが同じ「A級戦犯」 の判決を受けても、のちに赦免されて、国会議員になった人たちもいる。賀屋興宣さんや重光葵さんがそうだ。賀屋さんはのちに法務大臣、重光さんは、日本が国連に加盟したときの外務大臣で、勲一等を叙勲されている。
 日本はサンフランシスコ講和条約で極東国際軍事裁判を受諾しているのだから、首相が「A級戦犯」の祀られた靖国神社へ参拝するのは、条約違反だ、という批判がある。ではなぜ、国連の場で、重光外相は糾弾されなかったのか。なぜ、日本政府は勲一等を剥奪しなかったのか。
 それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。1951年(昭和26年)、当時の法務総裁(法務大臣)は「国内法の適用において、これを犯罪者とあつかうことは、いかなる意味でも適当ではない」と答弁している。また、講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているので ある。「B・C級戦犯」といわれる方たちも同様である。ふつう禁錮三年より重い刑に処せられた人の恩給は停止されるが、戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない。また、戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづいて遺族年金も支払われている。”
と書かれています。「A級戦犯」を犯罪者とは認めない一方的な解釈や考え方だと思います。 
 安倍首相は”事後法によって裁いた裁判は無効だ”という考え方を”べつにしても”と言いながら、べつにすることなく、その考え方に立脚して論じているように思います。
 確かに、極東国際軍事裁判にはいろいろな問題があるとは思います。また、それまで使われたことのない「平和ニ対スル罪」とか「人道ニ対スル罪」という言葉が使われました。でも「極東国際軍事裁判所条例第5条」(下記資料)に書かれているそれらの内容は、”戦争が終ったあとに新しく造られた概念”だとは思えませんし、極東国際軍事裁判におけるキーナン首席検事も、”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と言っています。言葉は新しいですが、それまでなかったまったく新しい概念で裁いたのではないということです。
 だから、当時の世界各国の法に基づいても、当時の国際法に基づいても、日本の戦争責任者は無罪ではあり得ないのではないかと思います。
平和ニ対スル罪」とか「人道ニ対スル罪」という言葉では有罪にできないという主張を受け入れれば、それらの言葉の説明であげられている個々の罪で有罪の判決が下ることになるのではないかと思います。重大な国際法違反の戦争犯罪がくり返されたことを考えれば、無罪ではありえないと、私は思うのです。
資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
極東国際軍事裁判所条例第5条
(イ)平和ニ対スル罪
即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪
即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪
即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 また、靖国神社公式参拝をめぐって、”ではなぜ 、国連の場で、重光外相は糾弾されなかったのか”とか、”なぜ、日本政府は勲一等を剥奪しなかったのか”などと言うのも、受け入れ難いです。それは、首相の靖国神社公式参拝を正当化する理由にはならないと思います。国連で、重光外相が糾弾されなかったのは、国際社会が、日本の戦犯が無実であり犯罪人ではなかったと判断したからではないと思います。重光外相は禁固7年の判決をうけ、4年以上服役した後、減刑されて刑の執行を終えているのです。その重光外相を他国が糾弾することは、内政干渉になるのではないでしょうか。
 また、刑の執行を終えた重光外相の有罪判決が取り消されたわけではないことを、無視してはならないと思います。

 さらに、当時の戦争指導層の影響下にある日本政府が、勲一等を剥奪するわけはないと思います。
 叙勲は、戦後の日本で、極東国際軍事裁判の判決内容を受け入れず、日本の戦争を侵略戦争と認めない、かつての戦争指導層が、アメリカの対日政策転換による「公職追放解除」で、要職に復帰した結果ではないかと思うのです。「公職追放解除」がなければ、重光外相にたいする叙勲もなかったのではないかと思います。まして、戦時中の軍人の階級によって金額の異なる軍人恩給が支給されている日本で、重光外相の勲一等が剥奪されることは考えられません。

 日本敗戦の翌月、アメリカはポツダム宣言第六項を受けて、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」なるものを発表しますが、その中に
軍国主義者ノ権力ト軍国主義ノ影響力ハ日本国ノ政治生活,経済生活及社会生活ヨリ一掃セラルベシ軍国主義及侵略ノ精神ヲ表示スル制度ハ強力ニ抑圧セラルベシ”とか、”軍国主義及好戦的国家主義ノ積極的推進者タリシ者ハ公職及公的又ハ重要ナル私的責任アル如何ナル地位ヨリモ排除セラルベシ
 とあります。いわゆる戦争指導層の公職追放を規定したのです。そして、敗戦の翌年、連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、「公職に適せざる者」を追放するのですが、戦後の米ソ対立の激化や朝鮮戦争、また日本の労働運動の高まりなどに影響されて、それまでの「日本の民主化・非軍事化」の対日政策が、「逆コース」と呼ばれる反共産主義路線に政策転換され、公職追放が解除されるなどしたため、多くの戦争指導層が要職に復帰し、日本の戦前回帰の動きが活発化したことを、私は見逃すことができません。 

 戦犯について、「国内法の適用において、これを犯罪者とあつかうことは、いかなる意味でも適当ではない」と答弁した、木村篤太郎法務総裁(法務大臣)自身が、かつて公職追放された人であることも見逃せません。”講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているのである。”ということも、戦争犯罪の事実がなかったことを意味するものではなく、したがって、戦犯が無実であることを意味するものでもないと思います。

 特にA級戦犯については、減刑された人はいるようですが、赦免され人はいないと聞いています。それを”各国の了解もえたうえで”と、あたかも、国際社会が戦犯の有罪判決を取り消したかのような言い方をしていることには違和感を感じます。特に、国際社会が、処刑され、靖国神社に合祀されている「A級戦犯」を「戦争犯罪人ではない」と認めたことはないと思います。
 だから、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない”という主張にもごまかしがあるように思います。
 大日本帝国憲法下で作られた恩給法、特にGHQによって廃止された軍人恩給を、日本国憲法公布後の日本に復活させたのは、どういう考えの、どういう人たちなのかを踏まえてほしいと思います。
 また、一貫して軍人恩給権の復活に反対する人たちが存在したことや、今なお戦後補償の問題として議論されていることが無視されてはならないと思います。
 どういう人たちがどういう、考えで軍人恩給を復活させたのかということを無視して、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない”などと言うことは、私には受け入れ難いのです。

 ”それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。”と言う言い方にも、ひっかかります。
 この”国民の総意”という言葉が、どういう意味でつかわれているかよく分かりませんが、たとえ、当時の日本国民のすべてが、”かれらを犯罪者とは扱わない”ということに同意したとしても、それは、戦争犯罪がなかったということにはならないと思いますし、戦犯が無実で、犯罪者ではないということにもならないと思います。
 なぜなら、長い間、大日本帝国憲法や教育勅語に基づく皇国臣民としての軍国主義教育を受け、軍国美談を聞かされ、鬼畜米英の精神をたたき込まれた日本国民が、敗戦と同時に国民主権や基本的人権や平和主義を基調とする日本国憲法の精神に基づく判断をすることは難しいと思うからです。法が変わっても、日本人の意識や慣習は、そんなにすぐに変わるものではないと思うのです。

 また、それ以上に大事なことは、当時の大部分の日本国民は、戦地における戦争犯罪の実態をほとんど知らされていなかったし、理解もしていなかったと思うからです。
 日本軍が、敗戦前後に、あらゆる場所にある戦争犯罪に関わる膨大な文書を焼却処分したことはよく知られています。また、舞鶴港に最後の引き揚げ船が入港したのは、1958(昭和33年9月)だということですが、戦地から引き揚げてきた人たちや従軍兵士、その他の証言や手記をもとに、歴史家や研究者が、残されたわずかな資料をかき集め、日本の戦争の実態を研究し、明らかにするのにも長い年月を必要としたのではないかと思います。
 例えば、細菌戦に使用する生物兵器の研究開発や実戦使用、また、残酷な人体実験をくり返したことで知られる731部隊に関する研究書やノンフィクション作品、小説などが出てきたのは1970年代後半からだと思います。広く日本国民に知られることになったきっかけは、森村誠一氏の『悪魔の飽食』ではないかと思いますが、それが、『しんぶん赤旗』日刊紙版に連載されはじめたのは、1981年(昭和56年)からだといいます。
 また、くり返し国連人権委員会から適切な対応を勧告されているいわゆる「従軍慰安婦」の問題が広く知られるようになったのは、金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍”慰安婦”であったことを名乗り出た1991年以降のことです。
 「南京大虐殺」に関する論争や研究がさかんになり、広く知られるようになったのも、本多勝一氏の『中国の旅』が、朝日新聞に連載されはじめた1971年以降ではないかと思います。また、「南京大虐殺」をきっかけに、日本軍による国際法違反の捕虜の虐待や虐殺の事実が次々に明らかにされていったように思います。
 一般国民が、そうした日本軍の国際法に反する数々の戦争犯罪を知っていれば、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではない”という考え方を支持することはなかったと思います。
 だから、当時の”国民の総意”には問題があるのです。
 にもかかわらず、いろいろな戦争犯罪が明らかにされている今、”それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。”などと強調して、戦犯を擁護することは、歴史の否定であり間違いだと、私は思います。

 さらに、”国民の総意”という言葉で、問題の本質を覆い隠すのはいかがなものかと思います。何度か取り上げているのですが、特にそうしたことを根拠とする軍人恩給の復活には重大な問題があり、大事なことだと思うので、再確認したいと思います。
 軍人恩給は、太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部が、”この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである”と指摘し、”惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない”として、廃止させたものであることを忘れてはならないと思います。
 ”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”を”かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである”ということを根拠に、復活させた軍人恩給を認めることは、ポツダム宣言の考え方や、日本国憲法の考え方に反する、日本の戦争指導層の人たちの戦前・戦中の考え方であると思います。

 『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)には
軍人恩給の復活には、日本遺族厚生連盟も組織を上げて運動した。軍人恩給は「天皇の軍隊」の軍人の階級に基づき、勤続による年金制を採り、生きても死んでも生活を保障するという「約束」によって民衆を戦争へと動員するシステムとして機能した。したがって、軍人恩給の復活は、旧体制下の「天皇の軍隊」の「約束」を実行することであった。
 とあります。重要な指摘だと思います。

 日本政府の戦後補償と援護行政をふり返ると、旧軍人・軍属(戦争加害者)およびその遺族を厚遇し続けてきたことが分かります。例えば、原告が外国人籍の69の戦後補償請求裁判や日本の民間人戦争被害者補償請求裁判の判決は大部分「棄却」されていますが、講和条約締結後の国会では、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給法改正法(軍人恩給の復活)をはじめ、旧軍人・軍属・戦没者遺族に対する経済的援護法案が、次々に承認されました。その結果、アジアを中心とする多くの戦争被害者や日本の民間人戦争被害者を置き去りにしたまま、戦争加害者ともいうべき旧軍人・軍属とその遺族に、いたれりつくせりの手厚い援護が続けられてきたということです。
 日本の戦争犠牲者の補償・援護制度は、ドイツとは異なり、旧軍人・軍属・戦没者遺族を優遇する恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法、を中心とするものになってしまったため、多くの戦争犠牲者が補償・援護から漏れるを結果になったといわれています。
 軍人恩給復活にあたって、日本遺族厚生連盟などが組織を上げて運動したこと、また元大本営や参謀本部の高官、政府内の要人、軍国主義団体の指導者など、いわゆるかつての戦争指導層が強い影響力を発揮したことを見落としてはならないと思います。
 また反対に、”軍人・軍属以外の多くの人も戦争被害を受けた第二次世界大戦の総力戦としての実態と,日本国憲法の平和主義と国民平等の観点に立脚して,新たな補償・援護の制度を立ち上げるべきだ”とする考え方が、当時の議会や新聞紙上、公聴会などで示され、今なお存在することなども見落としてはならないと思います。
 戦後復活した軍人恩給は、まさに”大日本帝国憲法下の「天皇の軍隊」の「約束」”を、当時の考え方で実行するもので、ポツダム宣言が指摘した”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”を擁護するものであり、日本国憲法の考え方に反するものだと思います。
 なぜ日本国憲法公布後に、民間戦争被害者には何の補償もなく、大将には 8,334,600円の軍人恩給が支給され、兵には 1,457,600円が支給されるのか、また、大将と兵のこの金額の差の根拠は何なのか、と疑問に思います。いまだ大日本帝国憲法下の法が生きているということではないかと思います。
 だから復活した軍人恩給は、空襲被害者をはじめとする民間の戦争被害者や赤紙で召集された国民の思いはもちろん、日本国憲法にも反するもので、再度廃止が検討されてもよいのではないかと思います。
 東條内閣の商工大臣であった岸信介氏を祖父に持つ安倍首相は、”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”に逆らえず、批判ができず、そのまま引き継いでいるのでしょうか。日本国憲法の精神を体現する首相になってほしいと思います。

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安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)に対する異論 NO2

2020年02月28日 | 国際・政治

 さらに、「第二章 自立する国家」の”「A級戦犯」をめぐる誤解”と題された文章の中には、
「A級戦犯」についても誤解がある。「A級戦犯」とは、極東国際軍事裁判=東京裁判で、「平和に対する罪」という、戦争が終ったあとに造られた概念によって裁かれた人たちのことだ。国際法上、事後法によって裁いた裁判は無効だ、とする議論があるが、それはべつにして、指導的立場にあったからA級、と便宜的に呼んだだけのことで、罪の軽重とは関係がない。
 ・・・
 「A級戦犯」として起訴された28人のうち、松岡洋右らふたりが判決前に死亡し、大川周明が免訴になったので、判決を受けたのは25人である。このうち死刑判決を受けて刑死したのが東条英機ら7人で、ほか5人が受刑中に亡くなっている。
 ところが同じ「A級戦犯」 の判決を受けても、のちに赦免されて、国会議員になった人たちもいる。賀屋興宣さんや重光葵さんがそうだ。賀屋さんはのちに法務大臣、重光さんは、日本が国連に加盟したときの外務大臣で、勲一等を叙勲されている。
 日本はサンフランシスコ講和条約で極東国際軍事裁判を受諾しているのだから、首相が「A級戦犯」の祀られた靖国神社へ参拝するのは、条約違反だ、という批判がある。ではなぜ、国連の場で、重光外相は糾弾されなかったのか。なぜ、日本政府は勲一等を剥奪しなかったのか。
 それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。1951年(昭和26年)、当時の法務総裁(法務大臣)は「国内法の適用において、これを犯罪者とあつかうことは、いかなる意味でも適当ではない」と答弁している。また、講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているので ある。「B・C級戦犯」といわれる方たちも同様である。ふつう禁錮三年より重い刑に処せられた人の恩給は停止されるが、戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない。また、戦傷病者戦没者遺族等援護法にもとづいて遺族年金も支払われている。”
と書かれています。「A級戦犯」を犯罪者とは認めない一方的な解釈や考え方だと思います。 
 安倍首相は”事後法によって裁いた裁判は無効だ”という考え方を”べつにしても”と言いながら、べつにすることなく、その考え方に立脚して論じているように思います。
 確かに、極東国際軍事裁判にはいろいろな問題があるとは思います。また、それまで使われたことのない「平和ニ対スル罪」とか「人道ニ対スル罪」という言葉が使われました。でも「極東国際軍事裁判所条例第5条」(下記資料)に書かれているそれらの内容は、”戦争が終ったあとに新しく造られた概念”だとは思えませんし、極東国際軍事裁判におけるキーナン首席検事も、”裁判の準拠法は文明国間に長年にわたっておこなわれた慣習法である”と言っています。言葉は新しいですが、それまでなかったまったく新しい概念で裁いたのではないということです。
 だから、当時の世界各国の法に基づいても、当時の国際法に基づいても、日本の戦争責任者は無罪ではあり得ないのではないかと思います。
平和ニ対スル罪」とか「人道ニ対スル罪」という言葉では有罪にできないという主張を受け入れれば、それらの言葉の説明であげられている個々の罪で有罪の判決が下ることになるのではないかと思います。重大な国際法違反の戦争犯罪がくり返されたことを考えれば、無罪ではありえないと、私は思うのです。
資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
極東国際軍事裁判所条例第5条
(イ)平和ニ対スル罪
即チ、宣戦ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。
(ロ)通例ノ戦争犯罪
即チ、戦争ノ法規又ハ慣例ノ違反。
(ハ)人道ニ対スル罪
即チ、戦前又ハ戦時中為サレタル殺人、殲滅、奴隷的虐使、追放、其ノ他ノ非人道的行為、若ハ犯行地ノ国内法違反タルト否トヲ問ハズ、本裁判所ノ管轄ニ属スル犯罪ノ遂行トシテ又ハ之ニ関連シテ為サレタル政治的又ハ人種的理由ニ基ク迫害行為。
上記犯罪ノ何レカヲ犯サントスル共通ノ計画又ハ共同謀議ノ立案又ハ実行ニ参加セル指導者、組織者、教唆者及ビ共犯者ハ、斯カル計画ノ遂行上為サレタル一切ノ行為ニ付、其ノ何人ニ依リテ為サレタルトヲ問ハズ、責任ヲ有ス
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 また、靖国神社公式参拝をめぐって、”ではなぜ 、国連の場で、重光外相は糾弾されなかったのか”とか、”なぜ、日本政府は勲一等を剥奪しなかったのか”などと言うのも、受け入れ難いです。それは、首相の靖国神社公式参拝を正当化する理由にはならないと思います。国連で、重光外相が糾弾されなかったのは、国際社会が、日本の戦犯が無実であり犯罪人ではなかったと判断したからではないと思います。重光外相は禁固7年の判決をうけ、4年以上服役した後、減刑されて刑の執行を終えているのです。その重光外相を他国が糾弾することは、内政干渉になるのではないでしょうか。
 また、刑の執行を終えた重光外相の有罪判決が取り消されたわけではないことを、無視してはならないと思います。

 さらに、当時の戦争指導層の影響下にある日本政府が、勲一等を剥奪するわけはないと思います。
 叙勲は、戦後の日本で、極東国際軍事裁判の判決内容を受け入れず、日本の戦争を侵略戦争と認めない、かつての戦争指導層が、アメリカの対日政策転換による「公職追放解除」で、要職に復帰した結果ではないかと思うのです。「公職追放解除」がなければ、重光外相にたいする叙勲もなかったのではないかと思います。まして、戦時中の軍人の階級によって金額の異なる軍人恩給が支給されている日本で、重光外相の勲一等が剥奪されることは考えられません。

 日本敗戦の翌月、アメリカはポツダム宣言第六項を受けて、「降伏後ニ於ケル米国ノ初期ノ対日方針」なるものを発表しますが、その中に
軍国主義者ノ権力ト軍国主義ノ影響力ハ日本国ノ政治生活,経済生活及社会生活ヨリ一掃セラルベシ軍国主義及侵略ノ精神ヲ表示スル制度ハ強力ニ抑圧セラルベシ”とか、”軍国主義及好戦的国家主義ノ積極的推進者タリシ者ハ公職及公的又ハ重要ナル私的責任アル如何ナル地位ヨリモ排除セラルベシ
 とあります。いわゆる戦争指導層の公職追放を規定したのです。そして、敗戦の翌年、連合国最高司令官覚書「公務従事に適しない者の公職からの除去に関する件」により、「公職に適せざる者」を追放するのですが、戦後の米ソ対立の激化や朝鮮戦争、また日本の労働運動の高まりなどに影響されて、それまでの「日本の民主化・非軍事化」の対日政策が、「逆コース」と呼ばれる反共産主義路線に政策転換され、公職追放が解除されるなどしたため、多くの戦争指導層が要職に復帰し、日本の戦前回帰の動きが活発化したことを、私は見逃すことができません。 

 戦犯について、「国内法の適用において、これを犯罪者とあつかうことは、いかなる意味でも適当ではない」と答弁した、木村篤太郎法務総裁(法務大臣)自身が、かつて公職追放された人であることも見逃せません。”講和条約が発効した52年には、各国の了解もえたうえで、戦犯の赦免の国会決議もおこなっているのである。”ということも、戦争犯罪の事実がなかったことを意味するものではなく、したがって、戦犯が無実であることを意味するものでもないと思います。

 特にA級戦犯については、減刑された人はいるようですが、赦免され人はいないと聞いています。それを”各国の了解もえたうえで”と、あたかも、国際社会が戦犯の有罪判決を取り消したかのような言い方をしていることには違和感を感じます。特に、国際社会が、処刑され、靖国神社に合祀されている「A級戦犯」を「戦争犯罪人ではない」と認めたことはないと思います。
 だから、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない”という主張にもごまかしがあるように思います。
 大日本帝国憲法下で作られた恩給法、特にGHQによって廃止された軍人恩給を、日本国憲法公布後の日本に復活させたのは、どういう考えの、どういう人たちなのかを踏まえてほしいと思います。
 また、一貫して軍人恩給権の復活に反対する人たちが存在したことや、今なお戦後補償の問題として議論されていることが無視されてはならないと思います。
 どういう人たちがどういう、考えで軍人恩給を復活させたのかということを無視して、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではないので、恩給権は消滅していない”などと言うことは、私には受け入れ難いのです。

 ”それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。”と言う言い方にも、ひっかかります。
 この”国民の総意”という言葉が、どういう意味でつかわれているかよく分かりませんが、たとえ、当時の日本国民のすべてが、”かれらを犯罪者とは扱わない”ということに同意したとしても、それは、戦争犯罪がなかったということにはならないと思いますし、戦犯が無実で、犯罪者ではないということにもならないと思います。
 なぜなら、長い間、大日本帝国憲法や教育勅語に基づく皇国臣民としての軍国主義教育を受け、軍国美談を聞かされ、鬼畜米英の精神をたたき込まれた日本国民が、敗戦と同時に国民主権や基本的人権や平和主義を基調とする日本国憲法の精神に基づく判断をすることは難しいと思うからです。法が変わっても、日本人の意識や慣習は、そんなにすぐに変わるものではないと思うのです。

 また、それ以上に大事なことは、当時の大部分の日本国民は、戦地における戦争犯罪の実態をほとんど知らされていなかったし、理解もしていなかったと思うからです。
 日本軍が、敗戦前後に、あらゆる場所にある戦争犯罪に関わる膨大な文書を焼却処分したことはよく知られています。また、舞鶴港に最後の引き揚げ船が入港したのは、1958(昭和33年9月)だということですが、戦地から引き揚げてきた人たちや従軍兵士、その他の証言や手記をもとに、歴史家や研究者が、残されたわずかな資料をかき集め、日本の戦争の実態を研究し、明らかにするのにも長い年月を必要としたのではないかと思います。
 例えば、細菌戦に使用する生物兵器の研究開発や実戦使用、また、残酷な人体実験をくり返したことで知られる731部隊に関する研究書やノンフィクション作品、小説などが出てきたのは1970年代後半からだと思います。広く日本国民に知られることになったきっかけは、森村誠一氏の『悪魔の飽食』ではないかと思いますが、それが、『しんぶん赤旗』日刊紙版に連載されはじめたのは、1981年(昭和56年)からだといいます。
 また、くり返し国連人権委員会から適切な対応を勧告されているいわゆる「従軍慰安婦」の問題が広く知られるようになったのは、金学順(キム・ハクスン)さんが日本軍”慰安婦”であったことを名乗り出た1991年以降のことです。
 「南京大虐殺」に関する論争や研究がさかんになり、広く知られるようになったのも、本多勝一氏の『中国の旅』が、朝日新聞に連載されはじめた1971年以降ではないかと思います。また、「南京大虐殺」をきっかけに、日本軍による国際法違反の捕虜の虐待や虐殺の事実が次々に明らかにされていったように思います。
 一般国民が、そうした日本軍の国際法に反する数々の戦争犯罪を知っていれば、”戦犯は国内法でいう犯罪者ではない”という考え方を支持することはなかったと思います。
 だから、当時の”国民の総意”には問題があるのです。
 にもかかわらず、いろいろな戦争犯罪が明らかにされている今、”それは国内法で、かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである。”などと強調して、戦犯を擁護することは、歴史の否定であり間違いだと、私は思います。

 さらに、”国民の総意”という言葉で、問題の本質を覆い隠すのはいかがなものかと思います。何度か取り上げているのですが、特にそうしたことを根拠とする軍人恩給の復活には重大な問題があり、大事なことだと思うので、再確認したいと思います。
 軍人恩給は、太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部が、”この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである”と指摘し、”惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない”として、廃止させたものであることを忘れてはならないと思います。
 ”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”を”かれらを犯罪者とは扱わない、と国民の総意で決めたからである”ということを根拠に、復活させた軍人恩給を認めることは、ポツダム宣言の考え方や、日本国憲法の考え方に反する、日本の戦争指導層の人たちの戦前・戦中の考え方であると思います。

 『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)には
軍人恩給の復活には、日本遺族厚生連盟も組織を上げて運動した。軍人恩給は「天皇の軍隊」の軍人の階級に基づき、勤続による年金制を採り、生きても死んでも生活を保障するという「約束」によって民衆を戦争へと動員するシステムとして機能した。したがって、軍人恩給の復活は、旧体制下の「天皇の軍隊」の「約束」を実行することであった。
 とあります。重要な指摘だと思います。

 日本政府の戦後補償と援護行政をふり返ると、旧軍人・軍属(戦争加害者)およびその遺族を厚遇し続けてきたことが分かります。例えば、原告が外国人籍の69の戦後補償請求裁判や日本の民間人戦争被害者補償請求裁判の判決は大部分「棄却」されていますが、講和条約締結後の国会では、戦傷病者戦没者遺族等援護法や恩給法改正法(軍人恩給の復活)をはじめ、旧軍人・軍属・戦没者遺族に対する経済的援護法案が、次々に承認されました。その結果、アジアを中心とする多くの戦争被害者や日本の民間人戦争被害者を置き去りにしたまま、戦争加害者ともいうべき旧軍人・軍属とその遺族に、いたれりつくせりの手厚い援護が続けられてきたということです。
 日本の戦争犠牲者の補償・援護制度は、ドイツとは異なり、旧軍人・軍属・戦没者遺族を優遇する恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法、を中心とするものになってしまったため、多くの戦争犠牲者が補償・援護から漏れるを結果になったといわれています。
 軍人恩給復活にあたって、日本遺族厚生連盟などが組織を上げて運動したこと、また元大本営や参謀本部の高官、政府内の要人、軍国主義団体の指導者など、いわゆるかつての戦争指導層が強い影響力を発揮したことを見落としてはならないと思います。
 また反対に、”軍人・軍属以外の多くの人も戦争被害を受けた第二次世界大戦の総力戦としての実態と,日本国憲法の平和主義と国民平等の観点に立脚して,新たな補償・援護の制度を立ち上げるべきだ”とする考え方が、当時の議会や新聞紙上、公聴会などで示され、今なお存在することなども見落としてはならないと思います。
 戦後復活した軍人恩給は、まさに”大日本帝国憲法下の「天皇の軍隊」の「約束」”を、当時の考え方で実行するもので、ポツダム宣言が指摘した”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”を擁護するものであり、日本国憲法の考え方に反するものだと思います。
 なぜ日本国憲法公布後に、民間戦争被害者には何の補償もなく、大将には 8,334,600円の軍人恩給が支給され、兵には 1,457,600円が支給されるのか、また、大将と兵のこの金額の差の根拠は何なのか、と疑問に思います。いまだ大日本帝国憲法下の法が生きているということではないかと思います。
 だから復活した軍人恩給は、空襲被害者をはじめとする民間の戦争被害者や赤紙で召集された国民の思いはもちろん、日本国憲法にも反するもので、再度廃止が検討されてもよいのではないかと思います。
 東條内閣の商工大臣であった岸信介氏を祖父に持つ安倍首相は、”惨憺たる窮境をもたらした軍国主義者”に逆らえず、批判ができず、そのまま引き継いでいるのでしょうか。日本国憲法の精神を体現する首相になってほしいと思います。

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安倍晋三著「新しい国へ 美しい国へ 完成版」(文藝春秋)に対する異論 NO1

2020年02月27日 | 国際・政治

 最近の日韓関係の悪化はどうしてなのか、「新しい国へ 美しい国へ 完成版」安倍晋三(文藝春秋)読めば、何かわかることがあるのではないかと思って読みました。違和感を感じるところが多々ありました。だから、自分の考えを深めるためにも、それらをきちんとまとめておきたいと思いました。下記です。

 先ず「第一章 わたしの原点」の”その時代に生きた国民の目で歴史を見直す”と題された文章の中に、

例えば世論と指導者との関係について先の大戦を例に考えてみると、あれは軍部の独走であったとのひと言でかたづけられることが多い。しかし、はたしてそうだろうか。

 たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。だが、昭和1718年の新聞には「断固、戦うべし」という活字が躍っている。列強がアフリカ、アジアの植民地を既得権化するなか、マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか。

 とあります。当時の新聞に「断固、戦うべし」と書かれていたから、”マスコミを含め民意の多くは軍部を支持していたのではないか”と受けとめることには、とても問題があると思います。

 なぜなら、そうした記事が書かれた当時、日本には学問の自由や思想の自由、集会、結社及び言論、出版その他の自由がなかったからです。戦争に反対することや疑問を投げかけることなど出来る世の中ではなかったと思います。

 なぜなら、昭和17年には、「大日本翼賛壮年団」が結成され、「大東亜戦争翼賛選挙貫徹運動基本要綱」が、閣議決定されているのですが、「運動の目標」として

大東亜戦争ノ完遂ヲ目標トシテ清新強力ナル翼賛議会ノ確立ヲ期スル為衆議院議員総選挙ノ施行セラルルニ際シ一大挙国的国民運動ヲ展開シ以テ重大時局ニ対処スベキ翼賛選挙ノ実現ヲ期セントス

と掲げられているのです。

 昭和18年には、中野正剛の「戦時宰相論」を掲載した朝日新聞が、”東条英機首相の怒りを買って発売禁止”になったといいます。政府や軍の意向に反する記事を掲載することは、簡単なことではなかったと思います。

 日本の産業構造も、「戦時行政特例法」や「戦時行政職権特例」によって、軍需生産を中心としたものなり、その指揮系統も内閣総理大臣のもとに一元化されて、あらゆる企業活動が戦争につながっていった当時の状況を踏まえて受け止める必要があると思います。

 また、昭和18年には、「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されていますが、その方針に

大東亜戦争ノ現段階ニ対処シ教育練成内容ノ一環トシテ学徒ノ戦時動員体制ヲ確立シ学徒ヲシテ有事即応ノ態勢タラシムルト共ニ之ガ勤労動員ヲ強化シテ学徒尽忠ノ至誠ヲ傾ケ其ノ総力ヲ戦力増強ニ結集セシメントス

と掲げられています。「断固、戦うべし」は明らかに国の方針であり、それに逆らうことは許されない状況にあったと思います。「断固、戦うべし」は、民意といえるようなものではなかったと思います。私は、安倍首相に”たしかに軍部の独走は事実であり、もっとも大きな責任は時の指導者にある。”という言葉の意味を、しっかり掘り下げて、具体的に記述してもらいたいと思います。

第二章 自立する国家」の中には”はたして国家は抑圧装置か”と題した下記のような文章があります。

 ”国家権力は抑圧装置であり、国民はそこから解き放たれなければ本当の自由を得たことにはならない、と国家と国民を対立した概念でとらえる人がいる。

 しかし、人は他人を無視し、自ら欲するまま、自由にふるまうことが可能だろうか。そこには、すべての要求が敵対し、からみあう無秩序──ジャングルの中の自由があるだけだ。そうしないために、近代社会は共同体のルール、すなわち法を決めた。放埒な自由でなく、責任のともなう自由を選んだのである。

 ルワンダ共和国では、1962年の独立前からフツ族とツチ族が対立し、独立後、フツ族が政権の座にあったときは、ツチ族にとっては国家は抑圧装置、いや虐殺装置でしかなかった。かつてのユダヤ人にとってのナチスドイツも、そして多くの共産主義国も、その国民にとっては抑圧装置だった。

 安全保障について考える、つまり日本を守るということは、とりもなおさず、その体制の基盤である自由と民主主義を守ることである。外国では少なくともそう考える。ところが日本では、安全保障をしっかりやろうという議論をすると、なぜか、それは軍国主義につながり、自由と民主主義を破壊するという倒錯した考えになるのである。

 しかし、少し考えればわかることだが、先にあげた独裁国家では、自由と民主主義が否定され、報道の自由が認められていない。存在するのは、一部の権力者が支配する閉ざされた政府だ。問題なのはその統治のかたちであって、国家というシステムではないのである。”

 この文章には、日本の政府や軍部が、戦時中、学問の自由や思想の自由、集会、結社及び言論、出版その他の自由などを認めていなかったことも、また、厳しい報道統制や検閲があったことも抜けています。当初、共産主義者や無政府主義者を対象にした治安維持法も、その後、戦争に異を唱える人や自由主義者、宗教家らに適用が拡大されました。そして、約7万人が送検され、拷問死させられた人約90人を含め、少なくとも400人が獄死したといわれています。

 戦時中の日本も、自由や民主主義を否定する軍部独裁の国であり、国家が国民の抑圧装置であったことは紛れもない事実であると思います。なぜ、ルワンダやナチスドイツや共産主義国の抑圧の恐ろしさを取り上げながら、日本の過去の事実には何も触れず、安全保障を語るのでしょうか。抑圧された側から、日本の過去をふり返って見ることをしないので、安倍首相には、日本の安全保障がかかえる危険性や国家が抑圧装置となる危険性が見えないのではないでしょうか。

 

 また、”「靖国批判」はいつからはじまったか”と題された文章の中には、

中国とのあいだで靖国が外交問題化したのは、85815日、中曽根首相の公式参拝がきっかけである。

 中曽根参拝の一週間前87日、朝日新聞がつぎのような記事を載せた。

「(靖国参拝を)中国は厳しい視線で凝視している」

 日本の世論がどちらのほうを向いているかについて、つねに関心をはらっている中国政府が、この報道に反応しないわけがなかった。参拝前日の814日、中国外務省のスポークスマンは、はじめて公式に、首相の靖国神社の参拝に反対の意思を表明した。「(首相の靖国神社参拝は)アジア諸国の人民の感情を傷つける」というわけである。「A級戦犯が合祀されているから」という話がでたのは、このときだ。

 「A級戦犯」といういい方自体、正確ではないが、じつは、かれらの御霊が靖国神社に合祀されたのは、それより7年も前の1978年、福田内閣のときなのである。その後、大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘と、三代にわたって総理大臣が参拝しているのに、中国はクレームをつけることはなかった。

 1978年に結ばれた日中平和友好条約の一条と三条では、たがいに内政干渉はしないとうたっている。一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である。また、その国の伝統や文化にのっとった祈り方があるのも、ごく自然なことであろう。

とあります。

 でも、中国が問題視した1985815日の中曽根首相の参拝は、それ以前の参拝と異なり、日本政府を代表する総理大臣としてはじめての「公式」の参拝であり、閣僚とともに「玉串料」を公費から支出して参拝したからではないのでしょうか。朝日新聞が煽ったからだというような主張は、いかがなものかと思います。私的参拝ならいざ知らず、日本の首相が、「玉串料」を公費から支出して、公式に靖国神社に参拝することは、政教分離の点でも明らかに問題だと思います。「玉串」は神道の神事において参拝者や神職が神前に捧げるものだといいます。だから「玉串」を携えて参拝することは宗教的行為なのではないでしょうか。

 

 さらに言えば、”一国の指導者が、その国のために殉じた人びとにたいして、尊崇の念を表するのは、どこの国でもおこなう行為である”と言うのも、大事なことを無視していると思います。

 処刑されたA級戦犯を、”国のために殉じた”ととらえ、”尊崇の念を表する”ことは、日本の侵略戦争を肯定することにつながり、日本の侵略戦争の被害者や被害国には受け入れ難いであろうと思います。靖国に祀られているA級戦犯は、犯罪者として処刑されたのであって、”国のために殉じた”というとらえ方は、日本が受諾したポツダム宣言に反するのではないかと思います。ポツダム宣言の第六項には

吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

とあります。A級戦犯は、軍国主義者であり、侵略戦争によって世界の平和、安全および正義の秩序を乱し、日本国民を欺瞞した犯罪者であるということです。その「A級戦犯」が祀られている靖国神社に、日本政府の代表である総理大臣が、公式に参拝することは許されないと、私は思います。

 ヒトラーを国のために殉じた首相として、現在のドイツの首相や閣僚が、ヒトラーの墓やヒトラーを祀った施設に、花を携えて公式に参拝しても、何の問題もないというのでしょうか。被害者は、”その国の伝統や文化にのっとった”ものとして、それを受け入れなければならないというのでしょうか。

 

 

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労務係の強制労働の証言と対韓外交 NO2

2020年02月23日 | 国際・政治

 「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)に取り上げられている下記のような証言を読めば、強制連行され、炭鉱で強制労働を強いられた朝鮮人労働者の死者の絶えない過酷な実態はもちろん、現場からの逃亡や見せしめのリンチがくり返され、報復があったことも分かります。
 だから、日本政府が、きちんと資料の発掘や被害者に対する聞き取り調査を行い、誠意をもって対応することなく、1965年の「日韓請求権・経済協力協定」によって”完全かつ最終的に解決”などと簡単に言ってはいけない問題だと思います。
 徴用工の問題は、単なる賃金未払いの問題ではないですし、経済協力で済む問題でもないと思います。被害者が納得していないのに、勝手に、”完全かつ最終的に解決”などと加害者側である日本政府が言い張ることは、おかしなことだと私は思います。
 また、日本政府は、いわゆる韓国大法院(最高裁)の徴用工判決を「本件は1965年の日韓請求権協定で完全かつ最終的に解決している。今般の判決は国際法に照らしてあり得ない判断だ」と非難し、「日本政府としては毅然と対応する」と繰り返しましたが、個人の請求権が国家間の条約で消滅しないことは、かつて、原爆被害者やシベリア抑留者が日本政府に補償要求をしたときに、日本政府が主張したことであり、明らかに矛盾しています。
 戦前・戦中、日本の植民地支配のもとで、軍や企業が行った強制連行や強制労働その他、数々の残忍かつ非人道的な行為に対し、戦後、日本政府はきちんと被害者に向き合っておらず、謝罪や補償も行っていないことを見逃すことができません。
 日本側は、1965年の日韓基本条約締結にあたって、謝罪や補償という言葉を使うことなく、「日韓請求権・経済協力協定」で、”完全かつ最終的に解決”としています。だから、いまだに植民地扱いしているのではないかとさえ思えます。

 最近、日韓関係の悪化をもたらした日本政府の主張がどこからくるのか、手掛かりをもとめて、「新しい国へ 美しい国へ 完成版」安倍晋三(文藝春秋)を読みました。そして、なぜこんな勝手な解釈をし、偏った見方をするのかと、とても苛立ちを感じました。
 安倍首相は、日本の戦前・戦中の人権無視や人命軽視、違法行為やあやまちなどが全く見えなくなる色眼鏡をかけているのではないかと思われました。
 だから、後日、特に受け入れ難い部分をまとめたいと思いました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  第七章 無言の帰国   
                       ───三井鉱業所
                               元三井山野工業所漆生炭鉱坑内係                
                                   大牟田市在住 大坪金章
1 逃亡援助
(1) 差別
 昭和13年11月9日、私は大牟田の三井三池炭鉱のガス爆発事故でCO患者となって、毎日苦しい闘病生活を続けています。
 事故に遭うまでは、下請けの組夫(クミフ)なんか人間の数に入れてなかった。彼らと同じような境遇になって、はじめてその立場が理解できるようになった。私が三井鉱山から切り捨てられ、差別されてからというもの、戦時中の朝鮮人が受けた傷みが、同じであることをやっと知ったのです。それが分かるまで、長い時間がかかりました。
 私が三井山野鉱業所漆生炭鉱の抗夫になったのは、昭和十四年の末でした。大牟田の三井染料工場の事務員をしていたが、あんまり安月給で食えないので、そこを止めて筑豊へやって来ました。
 大東亜戦争の直前に召集を受けて、下関の砲兵連隊に入隊して、編成後、一週間して長崎へ行った。
そこから輸送船で奄美大島に渡り、実久(サネク)要塞の警備についた。負傷して一年で除隊、漆生炭鉱に戻って来ました。
 先山(サキヤマ)抗夫が応召されて少なくなっていたので、採鉱保安助手として発破係をしました。
 朝鮮人寮は、抗口の近くに三棟あって、管理は朝鮮人の指導員がして、徹底的に締め上げていました。その指導員はインテリで、労務係の機嫌を取りました。上には受けがよかったが、部下を虐待したので彼らの反発を買っていました。
 最深部の大焼層の開発をしている時でした。
 坑道を広げるためダイナマイトを使って、岩盤を削り取る仕事です。そこでは十五人の朝鮮人が働いていたが、ガスが異常発生しているところで酸欠状態になり、ちょっと体を動かすと息切れしました。ものをいう力もなく、私たちは黙々と穴刳(アナグ)りをしていました。発破をかける時に避難場所を決めるが、障害物がないため三人が逃げそこなった。岩石が坑道を一直線に走って、朝鮮人抗夫を直撃しました。これは自分の不注意で殺したと思った。それでも日本人でなくてよかった、三人が朝鮮人でホッとしたということでね。
 三人は全身血だるまになって、のたうち回わとった。坑内詰所から担架を持って来て、急いで昇坑させたが、三井病院に着いた時にはもう脈がなかった。
 真珠卸(シンジュオロ)しの三尺層は、炭層が特別に薄くて作業が困難でね。
 最上部の曲片(カネカタ)払いの上が、発破のショックで落盤して車道が埋まった。
 部下の朝鮮人に、
 「早くボタを除けろ! 急ぐんだ」と命令した。
 しかし、言葉が全然通じなかった。彼らも危険だということは、こっちの態度や言葉で分かるのよ。その時、炭車が音を立てて降りてきました。シャベルで十四、五杯はね出すと間に合うと思った。
 炭車がその中に突っ込んで来たら、脱線転覆することは確実だった。それがどんな大事故を誘発するか分からない。
 「早くボタを出せ!」
 逃げようとする二人を掴えて、ボタを取り出せといった。一人は危険を察して素早く逃げた。そこへ炭車が来て脱線転覆してですな。そのはずみで、大きな音がして天井がバレて落盤しました。
 土煙が濛々と舞い上がって、何が起こったか判断がつかない。とにかく大事故だということしか分からない。高さ三尺、長さ五尺の落盤でした。
 私は坑内電話を握ると、事故の発生を知らせて応援を頼んだ。朝鮮人たちは、埋まった仲間の名前を呼びながらボタを取り除き始めました。
 救助作業を始めてから約一時間半、埋まった抗夫が生きていることが確認された。倒れた抗木の下に大きな岩石があって、その隙間に体を挟んでいたので生命だけは助かった。
 だが、脊髄骨折して半身不随のまま、鴨生の三井病院で治療した。もう再起の見通しもなく、一時補償金をもらって朝鮮へ送還されました。
 後で考えて見ると、炭車が来る直前に避難させておれば、事故に遭わずに助かったのではないかと思うと悔やまれた。やはり朝鮮人のことよりも、炭車が脱線することのほうを重視したわけですね。もし、日本人の抗夫であればどうしたでしょうかね。私も誠意がないといえばない。よく注意しておけばこんなことにならなくてすんだ。

(2) ある相談
 私の部下で金山という青年が、ある日、家に訪ねて来た。真面目な青年で、私は最も信用していた。
 「先生、折いって相談があります」
 そういうと、外のほうばかり気にして落ち着かなかった。
 「この部屋には自分だけしかいないから、遠慮せんでいうてよか」
 「先生、実は炭鉱というところは、もう一日も勤まりません。早く止めてしまいたい。朝鮮から無理に連れて来られて、残した両親のことが心配です。どうか逃がしてください」
 と、片言の日本語でいった。金山は慶州の町で、友人と一緒に歩いている時に人狩りに遭って、トラックに放り込まれて強制連行されたとは以前に聞いたことがある。両親に会わないままだから、一度だけ帰りたいと私に訴えてね。
 「帰れないのなら寮から脱走します」
 と、思い詰めた表情でした。
 私は坑内事故で何人もの朝鮮人を死なしているので、内心どうしても負い目がありました。
 その頃、四国の愛媛県から勤労報国隊として来ていた一人に事情を話して、金山の逃亡に協力してくれるように頼んだ。勤労報国隊の二ヶ月の勤めが終って四国に帰ると、まもなく四、五人なら引き受けると連絡がありました。一端、炭鉱から脱走して、それから朝鮮へ帰ればいいと私は考えた。私は喜んでそのことを金山に伝えた。
 金山は同室の仲のいい青年たちと相談して、五人一緒に逃亡することを決めた。私も彼らの逃亡を成功させるために、四国の松山まで送って行こうと思ってね。
 逃亡の際、寮から荷物を持ち出せないので、入坑の度に少しずつ私の家に持って帰って隠した。
 大出し日翌朝、昇抗して風呂に入っている時、体を洗いながら五人は密談していた。
 坑内の指導員の一人が、隣で体を洗っているのに彼らは気がつかなかった。
 「おい、お前たちは、何か悪いことを相談しとるのじゃないか。風呂から上がったら、ちょっと労務まで来い!」
 労務へ連れていかれた五人は、そこで徹底的にしごかれたのです。そのうちの一人が、遂に逃亡のことを白状してしまった。労務から特高へ報告され、さらに憲兵隊へ取り調べが進むにつれて私の名前が上がった。
 私の部屋も家宅捜査されて、五人の荷物が発見された。私が金山たちから金を受け取って、逃亡を斡旋したということにされてしまった。当時の炭鉱では逃亡援助とか抗夫斡旋は、最も罪が重いことだった。
 そうした事件を全く知らない私は、午後三時、交代勤務で昇抗して来ると、抗口に労務係と憲兵が待っていた。
 「おい、大坪。ちょっと憲兵隊の詰所まで来い!」
 憲兵隊の詰所まで行くと、年配の上津原労務主任が、腕組みしてきびしい顔で私をにらみつけた。
 部屋の隅には、金山たち五人の朝鮮人が、全員血まみれでうずくまっていた。その異様な光景に接して、私はそこで何が行われていたのか察しがついた。四国への脱走計画がバレたことをはじめて知った。
 巡査が来て手錠をかけて体中を紐でがんじがらめに縛って、今度は労務事務所へ連れられて行った。そして柱にくくられて動けなくなった。手錠というものは面白いもので、外そうともがけばもがくほど一層強く締まって、金属が両手の肉に食い込んで血がにじんで来る。
 それから見せしめのためだろうか、朝鮮人のいる東寮に移された。そこで憲兵、巡査、労務は二十四時間というもの、交代で私を殴りつけた。
 「貴様は何という大それたことをするのか。この非常時に国賊だ! 今までに半島を何回逃がしたのか!」 
 上津原労務主任が怒鳴った。その後で、朝鮮人の労務が青竹を持って来ると先を割って広げ、水を漬けると私の背中を殴りつけた。
 日本人労務からやられる時は仕方がないと耐えとったが、朝鮮人の労務から殴られると口惜しくて涙が出てね。それはもうなぶり殺しですたい。
 一日中ひっきりなしに叩かれると、このまま死んでもいいような気持ちになる。痛いと感じる時はまだ意識がある時で、最後には何もかも分からなくなる。
 戦地で負傷して、まだ完全によくなっていない足腰を叩くので、悲鳴を上げて転げ回った。
 今までの労務のリンチと言えば、やられるのは朝鮮人ばかりだった。今度は逃亡をそそのかした日本人だというので、そのリンチたるや想像を絶する激しさだった。窓を開け放して、彼らにこれ見よがしにみせしめをした。
 何度も失神して倒れると、頭を掴んで起こして青竹を取り替えた。

(3) 転がったパン
 二日目、叩き疲れた労務が居眠りを始めると、寮の朝鮮人抗夫の一人が、自分たちに配給されたパンを、こっそり転がしてくれた。
 それでやっと意識が戻った。素早く足でパンを寄せると、殴られて敗れた口の中に押し込んだ。
 何か食べてさえおれば、体力がつくに違いないと思った。
 体は失禁状態で、たれかぶって(もらして)汚れていた。
 窓からはいくつもの目がのぞいて、私のことを心配そうに見ていた。
 私は死んでも四国の勤労報国隊の人のことは、自白しないぞと心に決めた。どんな迷惑がかかるか分からない。自分が五人の朝鮮人から品物を取って、逃亡させるつもりだったことにしておけば、自分の責任ですませる。
 憲兵の長靴の尖った先で腹部を蹴られると、息が止まりそうになった。
 私は最後の力を振り絞って、
 「俺を殺してくれ。俺は戦争で名誉の負傷をした男だ。もう、一度死んだ体だ。どうでも勝手にしろ!」
 と叫んだ。憲兵が傷痍軍人を足蹴りにして、殴りつけたとなると笑い者だった。途端に憲兵は蹴るのを止めて出て行った。夜が明ける頃には、一人去り二人去りして、最後に残った労務がバツの悪そうな顔をして近寄って来た。
 「大坪さん、悪う思いなんな。これも半島に対するみせしめのためにやったんやけな。あんたが傷痍軍人ち早ういいさえすりや、こんなことにならんのに……」
 私はそれを聞いて芯から腹が立って来た。
 「よし、貴様たちが傷痍軍人に対して、こんな乱暴をするとはけしからん。このまま死んでやるからな」
 すると労務は、頭を地面にすりつけて謝った。それから私の足の紐を解いて、急いで手錠を外した。
 「あの五人はどうしたとか?」
 「はい、飯塚署の特高が連れて行ったきり帰ってきません」
 私はそのまま五、六時間、転がったまま動けなかった。
 私は金山たちに同情したまでのことで、決して悪意でやったことではないですばい。ただ歩いているところを捕まえられて、両親にも会えずに強制連行されたと聞いて、止むに止まれずに助けた。私を叩いた朝鮮人の労務は、報復を恐れてそれからすぐ姿を消していた。その翌日、私は不都合解雇をいい渡されて、漆生炭鉱から追放されました。
 
 
 

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労務係の強制労働の証言と対韓外交 NO1

2020年02月20日 | 国際・政治

 日本が安全保障上の理由を上げて、韓国に対してレジストや高純度フッ化水素、フッ化ポリイミドの3品目の輸出規制を強化すると発表して以降、日韓関係は急速に悪化しました。
 韓国の主力産業である半導体産業を支える素材の輸出規制は、韓国経済を苦境に追い込むことが分かっているのに、なぜ規制に踏み切ったのか。韓国政府が厳しい状況に立たされ、態度を硬化させることは分かっていたのではないでしょうか。 
 輸出規制によって韓国では反日感情が高まり、日本製品の不買運動が起こりました。特に日本のビールや酒などの嗜好品の類は大きな影響を受け、また、観光分野のダメージもとても大きいといいます。政府はなぜ強引に、そうした事態が予想されるのに輸出規制に踏み切ったのか、と疑問に思います。
 政府は、”韓国から兵器に転用できる3品目を含む戦略物資が密輸出された案件が明らかになったからだ”というような安全保障上の理由を上げましたが、突然の発表であり、詳細はよく分かりません。本当でしょうか。密輸出の情報があれば、輸出規制をする前に、何かすることや、できることがあったのではないでしょうか。
 韓国が、対抗措置として防衛協力協定である「軍事情報包括保護協定・GSOMIA(日韓秘密軍事情報保護協定)」を破棄すれば、かえって安全保障上深刻な問題をかかえることになるということは考えなかったのでしょうか。
 そんな疑問は、さらに、日本政府の輸出規制のほんとうの狙いは、安全保障上の問題ではなく、輸出規制によって韓国経済を苦境に追い込み、文在寅政権に対する批判や反発の声を大きくすることだったのではないのか、と膨らみます。そして、文在寅政権に対する批判や反発の声を利用して、文在寅政権との間の歴史認識問題や防衛問題を巡る対立その他を有利に進めようとする安倍政権の意図を疑うのです。

 疑わざるを得ないのは、安倍政権の法や道義・道徳を蔑ろにした政権運営があまりにも目立つからです。学校法人「森友学園」問題や、首相の長年の友人である加計孝太郎氏の学校法人「加計学園」の問題、また、「桜を見る会」の問題などをめぐる数々の疑惑に、安倍首相は何ら説明責任を果たすことなく、平然と政権運営を続け、独裁的ともいえる体制を固めつつあるように思います。だから、安倍政権を律するのは、法や道義・道徳ではないのだと、私は思います。

 安倍政権の疑惑がほとんど明らかにされないのは、第2次安倍内閣によって、2014年に「内閣人事局」が創設されて以降、人事権を握られた官僚側に、安倍政権を忖度する姿勢が強くなったからだといわれています。嘘をつかざるを得ない官僚がかわいそうだという声もあるようですが、安倍政権に批判的では、官僚の仕事は勤まらなくなっているのではないかと思います。
 だから、
”安倍政権下では首相に対する官僚の「忖度」の度合いがどんどん強まり、霞が関全体に蔓延しつつある”などといわれているのだと思います。 

 安倍政権のそうした傾向は「内閣人事局」が創設さる前からあったのではないかと思います。たとえば、安倍首相の「お友だち」が多数送り込まれているといわれたNHKの経営委員会が、松本正之会長の後任に安倍首相に近い籾井勝人氏を決めました。
 その籾井氏は、NHK会長就任直後に理事全員に「日付のない辞表」を提出させ、人事権の掌握強化を行ったという趣旨の報道があり驚きました。
 また、竹島問題・尖閣諸島問題について”日本の立場を国際放送で明確に発信していく、国際放送とはそういうもの。政府が「右」と言っているのに我々が「左」と言うわけにはいかない”とか、NHKの放送内容について”日本政府と懸け離れたものであってはならない”というような政府寄りの発言も報道されました。
 その後も、NHKの経営委員は安倍首相と近い人物が選ばれているといいます。放送法に規定されている「不偏不党」や公共放送 に求められる「中立性」から、安倍政権前には、政治色の濃い人事は控えられてきた経営委員に、首相と距離の近い人物が揃い、異例であるといいます。

 特に見逃すことのできない人事が、2013年の「内閣法制局長官の人事」です。”霞が関が驚愕するサプライズ人事”だと言われました。
 なぜなら、前例を覆し、内閣法制局に一度も在籍したことのない外務省OBの小松一郎駐フランス大使を長官に抜擢したからです。考えられない人事だったようです。当時、「集団的自衛権」の行使容認を実現したい安倍首相が、行使容認積極派の小松氏を起用して、これまで「法制局が違憲としてきた憲法解釈」を見直させるためだったといいます。あまりに強引な人事です。
 その思惑通り、小松氏は集団的自衛権の行使容認への道筋をつけたといいます。そしてその後、「法の番人」といわれる内閣法制局も、しっかり安倍政権を支え、「法の番人」から「内閣の番犬」となり、あらゆる内閣の方針にお墨付きを与え続けているというのです。
 小松長官の意思を継いだ後任の横畠長官は、解釈改憲により集団的自衛権の行使を容認しました。そして、「法の番人」ではなく、「内閣の番犬」的発言を続け、”身体の隅々まで安倍首相の意向が染み渡っていることは疑いようもない”などと言われました。

 さらに安倍政権は、つい最近、「検察庁法と国家公務員法の関係」について政府解釈を変えて、「黒川弘務・東京高検検事長の定年延長」を閣議決定しました。野党や法曹経験者らの反発が相次いだといいます。またしても、過去の国会審議で示された政府見解が、安倍内閣の解釈で変更されることになり、”法治国家が崩された異常事態”などの声が出ているようです。

 こうした安倍政権の政治姿勢から、私は、輸出規制のほんとうの狙いが、実は安全保障上の問題ではなく、輸出規制によって韓国経済を苦境に追い込み、文在寅政権に対する批判や反発の声を大きくして、自らの思いを通そうとする政治的思惑を疑うのです。

 私は、安倍政権のように法や道義道徳を蔑ろにし、独裁体制を固めて、不都合な事実を隠蔽するような姿勢では、日韓関係の改善はできないと思います。また、両国の間に横たわる深刻な問題を、政治力や経済力や軍事力を背景に決着させようとする姿勢では、韓国のみならず、中国その他の近隣諸国の信頼を得ることもできないと思います。
 「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)には、下記の他にも、60人を超える人たちの証言が取り上げられていますが、本来、強制連行された人たちや強制労働させられた人たちの補償にかかわるこうした聞き取り調査は、国が率先して行うべきことだと、私は思います。国が誠意を持ってこうした聞き取り調査を行い、実態を明らかにするだけでも、韓国の受け止め方はずい分変わるだろうと思います。
 でも、残念ながら戦後の日本でも、こうした聞き取り調査を続ける人が、賞賛されるのではなく、逆に脅されることがあるというのが、現状です。
 戦前・戦中同様、不都合な事実を隠蔽する姿勢を続けていては、将来世代が近隣諸国との関係に苦しみ続けることになるのではないかと私は思っています。だから、過去に何があったのか、下記のような証言から事実を学ぶことが大事だと、私は思うのです。

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                      第五章 同胞管理
2 労務は嫌だ
                                          元豊州炭鉱古長鉱業所労務係 
                                              田川市在住 安元錫
(1) 募集ブローカー
 1939年5月。強制連行が始まる直前、自由渡航で日本へやってきた。朝鮮にいた時は百姓をしていたが、米のご飯は11月頃二、三日食べるだけだった。
 米は全部供出したので、後は粟を買って食べた。二年続けて兇作で、とてもじゃないが生活が苦しくて生きて行くのがやっとでね。日本はいい。金儲かるいう噂を聞いて、じっとしておれなくなった。最初は二、三年働いてから帰国しようと気楽に考えていた。それがそもそもの間違いだった。
 渡航して一年半経った頃、田川市伊田で彦山川の堤防工事の土方人夫をしていた。休日に伊田の町をぶらついていると、募集ブローカーから声をかけられて。
 「お前、炭鉱で働かんか。給料はいいし、飯は腹いっぱい食わせるぞ。土方と違って、坑内は雨降りでも仕事が出来るぞ、だからいいじゃないか」
 土方をしていて、風雨にはさんざん泣かされて来とるから、それを聞いてすぐ炭鉱に行く気になった。それでとうとう川崎町の豊州炭鉱に志願しました。半年後、祖国から強制連行の第一期生がやって来ました。
 大場労務課長が私のところに来て、
 「安君、お前は今度朝鮮から来た者の先輩じゃないか。彼らの言葉が分かる労務がうちの炭鉱におらんから、一つ坑内へ連れて下がってくれないか。これから先、毎年増えるだろうから頼むぞ」
 といわれた。
 労務課長の頼みは、私としては嫌とはいえんからね。
 それから約一ヶ月、寮生を坑内へ連れて下がったが、とてもじゃないが気苦労があって、もう死んでも行くまいと思った。
 寮生は朝鮮から来たばかりで、炭鉱の経験がないので、簡単に土方作業ぐらいにしか考えておらん。炭鉱の恐ろしさを知らないから、見ているこっちのほうがはらはらする。
 日本人の抗夫が嫌がるような、一番危険な切羽(採炭現場)にわざと行かせて採炭させたから、私はもう完全にノイローゼだよ。
 「炭鉱は私の性に合わんから止めさせてくれ」
 と、労務課長にいうたとです。
 彼は私の顔をじっと見て、
 「お前には坑内の採炭は向かんかも知れんねえ」
 といった。
 今度は、捲き揚げする気缶場の釜焚きですたい。それでほっとして生命拾いをしました。
 私の仕事が重労働だと知っとるので、女房は朝飯の残りを全部弁当に詰めてくれた。子供と女房の顔を見るとかわいそうになって、弁当をわざと忘れて来ることもあった。
 坑内の採炭に比べて、坑外の釜場の賃金はぐっと安かった。女房は少しでも稼ごうと、寮生の布団縫いのアルバイトね。夫婦で働いたが、食べるのがやっとの毎日でした。
 石炭を釜に投げ込む仕事はとっても熱く、体中の水分が一度に蒸発しそうで、息が出来んように苦しい。坑内とは全く違ったきつさでね。あまりの苦しさに、とうとう一週間休んだ。
 すると労務課長が家にやって来た。私は大納屋の抗夫と違って、ビタ一文も肩入金をもろうてないから、文句をいわれる筋合いはない。
 私はかなり脅されると覚悟していた。
 「やっぱりお前がおらんと労務が困る。何とか出勤してくれんか」
 と、逆に説得されました。
 再び嫌な労務に引き戻されて、振り出しに戻ってしまったよ。
坑内に入ることは嫌だといったが、別に通訳がいないから絶対に受けつけてもらえんやった。
 労務は人から恨まれる損な仕事だよ。朝鮮人の同胞を殴ったり、逃亡した者を探すことが主な仕事でした。外の炭鉱とか土方飯場まで追いかけて行ったからね。
 「川崎の豊州炭鉱から迎えに来た」
 そういうだけで、相手は黙って引き渡してくれた。それほど豊州炭鉱といえば怖れられた存在だった。

 (2)大声を上げて叩くふりを
 捕まえて帰ると、必ずみんなの目の前でみせしめリンチをしなければならない。気の弱い私は、これが苦痛で殴るふりをして軽く叩いた。
 「貴様、ここを何処と思うとるか! 豊州炭鉱ちいうことを忘れたとか」
 声だけは、それはもう力いっぱい大きく張り上げてね。すると日本人労務が、私の叩く動作を見て分かるのね。叩く音で判断するわけ、
 「安、お前がそんなことじゃ駄目だ。あれらは、朝鮮人のお前から叩かれるのが一番こたえるはずだ。もっと気合いを入れて叩け。ちょっと俺に木刀を貸してみろ、叩くとはこういうことだ。よう見ておれ」
 桜の木刀を私の手から取り上げると、無抵抗の同胞をばしばし殴りつけました。模範を示したつもりでしょう。私は五十回殴るところを、半分の二十五回くらいで止めて、日本人労務がいない時は注意するだけにした。同じ朝鮮人を、たとえ労務の仕事とはいえ、とても殴れるものではありません。
 私は思いあまって、労務課長のところに行きました。
 「もう、労務だけはどうしても勤まりません。これ以上やらせるのだったら炭鉱を止めます」
 そういって二週間無断欠勤しました。すると今度は炭鉱側は、通訳する人間がいなくなって困ってしまったらしい。
 「仕方があるまい。何んとか考えよう」
 と再び釜場に戻った。
 故郷を離れて、強制されて炭鉱に連れて来られた彼らがかわいそうでね。私のように、希望して自由渡航したのとは性格が違います。
 どうしてあれほど虐待しないといかんのか、半殺しにしてまで強制労働させたのか。これも戦争のせいでしょうか。
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                     3 一億総火の玉

                                               元豊州炭鉱古長鉱業所元労務課長

                                             川崎町在住 大場重治


(1) 大隊長
 朝鮮人寮は、古長も上田も橋川政市が大隊長をしとった。私は橋川にはたまに指図しましたが、彼が解決出来ん場合はこちらでやりました。
 出炭成績を上げるためには、一人でも多く入坑させないと困るからね。
 昔の納屋制度の圧制が、そのまま朝鮮人の寮制度に生かされたから。炭鉱にはそこの炭鉱の習慣というものがある。
 大納屋になると三十五円の肩入金(支度金)を払っているから、仕事をしないうちに逃亡すると炭鉱は丸損になる。だから、労務係は抗夫が逃亡しないように監視した。
 昭和十四年頃、朝鮮人は四十人程度で、それは全部所帯持ちが多く、小納屋(所帯持ち)暮らしで炭住に住まわせたからね。その翌年から独身の朝鮮人が来たので、自然と合宿所的な朝鮮人寮をつくった。いわば大納屋(独身者)ですよ。
 朝鮮募集が始まると、オンドル入りの親和寮と協和寮、それは売店のすぐ横につくりました。
 高いところに一望のもとに見える刑務所のような監視所があって、そこに労務係が詰めとった。不満があると、直接、採炭に影響があるから、週に一回休日にクラブに集めて、みんなの不満や意見を聞きました。 
 橋川には、古長と上田の両方の朝鮮人寮の労務管理を任せたし、朝鮮募集の時には一人についていくらと請負わせました。炭鉱に連れて来ても、一日一人入坑させるとまとめて橋川に手数料を払った。さらに出炭成績で計算するから、朝鮮人の中でも余計もらう者もおるし、少ない人も当然出て来る。その上まえをピンはねすることになるから、少々体がきついといっても大隊長は無理して部下を入坑させるわけだ。
 朝鮮人寮には監視を兼ねて労務を詰めさせ、それは指導員と呼ばせました。逃亡したりサボる者があると、指導員が徹底してヤキを入れるから、同胞の中で圧制の要素がありました。
 当時は増産増産で、古長鉱業所は月産一万トンも出していましたから、朝鮮人は相当の戦力ですよ。
 一人減ると一人分だけ生産が落ちるから、労務係も必死になりますよ。力で圧制するから反発もあるわけで、当然逃亡は続きました。
 七人が集団を組んで、タオルに石炭を包んで労務の前を堂々と出ようとしてね。それを止めようと労務と乱闘になって、結局は七人とも捕えました。これはひどい目に遭わせんと癖になるから、労務事務所で一日中殴らせました。それは他の朝鮮人の手前もあるから放っておけない。
 「もうそれくらいで止めとけ」
 叩くのを止めさせて、私は何故逃亡したのかを聞きました。取り調べ中に七人のうちの一人に召集令状が来て、朝鮮までの旅費を出して帰らせもした。
 朝鮮人は肉体労働には適しているが、知能的な技術に関しては全くないんですね。教育を全くといっていいほど受けていないから。
 坑内は非常に単純労働だから、三、四ヶ月もするとすぐ慣れました。朝鮮人は採炭などの労働に一番適していたのではないでしょうか。坑内にはコンベアという機械があるし、発破をかけて石炭を掘りさえすればよかったから。それは素人でもすぐ出来るわけ。
 朝鮮募集がだんだん難しくなって、月産一万トンを割るようになった。募集するために郡長とか関係者に賄賂を贈らないと集まらない。遠くへ募集に行くほど釜山に戻るまでの経費が高くなり、募集期間が倍以上かかった。一人百円の募集費は、彼らの前借金として毎月の給料から差し引いたからね。本人が働いて返済するわけだから、炭鉱が負担する必要はなく立替えたに過ぎないんだ。
 炭鉱は石炭増産の使命があるから、政府から米とか酒の特配を受けた。贅沢ではなかったが、朝鮮人寮は一般よりも特別によかったことは確かだよ。炭鉱で真面目に働けば、食う物に困るということはなかった。
 メチルアルコールを飲んで一人が死亡したことがあるが、夜伽(ヨトギ)に行った朝鮮人が残りを飲んで二人が死んで大騒動した。
 ある日、坑内で自然発火があって密閉したところ、それを朝鮮人の誰かが小倉憲兵隊に投書して、中にいる抗夫を何故殺したのかと油を絞られました。

(2) 圧制の要素
 圧制の要素というのは、いっぱいありましたからね。橋川は入坑させるだけ自分の収入になるので、指導員を使ってかなり脅していましたよ。彼は翼賛会と協和会の県の幹部で”一億総火の玉”と朝鮮人にハッパをかけていました。
 寮の構造は中央に通路があって、両端に部屋があるから、中の行動が手に取るように分かった。
 陰に隠れて賭博をやる朝鮮人もいたので、すぐに止めさせたですよ。賭博のやり過ぎは、翌日の採炭に支障をきたすからね。
 実際、橋川に全部の管理を任せたが、頭に乗って私を通り越して抗長などと、直接話をすることがあった。
 「おい、橋川。俺には後にも目があることを忘れるな」
 と、どやしつけたことがあります。休んでいる抗夫まで入坑したように報告して、その分を猫ババしたわけでね。それを指摘されると、自分のやっていることが全部バレてしまうから私だけには一目置いて恐れとった。同胞を食いものにしたことだけは確かだね。

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戦時中の朝鮮人労働者募集に関わる証言と日本の人権無視の体質

2020年02月14日 | 国際・政治

 戦時中、徴兵による労働者不足で、日本のあちこちの炭鉱や工事現場から、大勢の関係者が働き手を求めて朝鮮に行ったようですが、その実態が、下記の「朝鮮人狩り」の文章で分かります。「募集」という言葉が使われていますが、特に大戦末期は、事実上人権を無視した強制連行であったと思います。

 長田氏は、自分は強制連行していないというようなことを、「朝鮮人狩り」の文章の最後に書いていますが、下記は、強制の圧力がかかっていたことを物語っているように思います。  
ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 
 また、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)には、元日炭遠賀鉱業所高松炭鉱第一抗労務係長・野村勇氏の証言なども取り上げられていますが、その中には、
募集業務というのは、炭鉱側が是非とも労働者が欲しい熱意と、郡役所の募集担当、面長、面の募集係、それに面巡査の協力がないと絶対に集まらなかった。大東亜戦争になると、もう朝鮮の現地では労働者は底をついている時代で、以前のように日本に行くことを希望している連中は一人もいない。それだけに十分対策を立てなければならない。何処の炭鉱でも大っぴらに賄賂を使うとか、関係者に飲ませ食わせしました。それが一つの習慣となって、最後の清算がつかなくなってしまうんです。
とか、
募集を通じて一番痛切に感じたのは、面事務所とか面巡査との人間関係がうまく出来るかどうかにかかっています。来ましたからお願いしますじゃ、とても集まるものじゃありません。農村にとって、働き手を持って行かれると困るから、どうしても嫌がることになる。
というような証言もあります。
 
 こうした証言から、戦時中の朝鮮人労働者募集は、まさに相手の立場を考慮しない人権無視の強制であったと思います。そして、こうした人権を考慮しない日本人の考え方が、戦後の日本に、いろいろなかたちで残っているのではないかと思います。

 私は、最近の若い人たちに、人権意識の高まりを感じることもありますが、政権中枢やいろいろな分野で大きな力を持つ人たちには、戦前・戦中と同じような人権無視の姿勢が受け継がれているように思います。
 それが、すでに触れた、「人質司法」の問題や「外国人技能実習生」の問題、入管収容施設の問題等に現れているのではないかと思うのです。
 いろいろなスポーツ団体や学校の部活動における体罰や暴力、パワハラなどの問題についても、その背景に「陸軍現役将校学校配属令」に基づき配属された現役将校の軍事教練・学校教練などの軍国主義的教育があるとする説や、戦後、軍隊経験者が学校やスポーツ団体の活動に関わり軍隊の行動様式を持ち込んだとする説などもあるようですが、そうした戦前・戦中の人権意識の欠如を引き継いでいるからこその日本独特の現象である側面があると思います。


 最近、「ブラック校則」などといわれる丸刈りや黒髪を強制する校則なども、そうした流れと無縁ではないように思います。
 そういう意味で、過去の人権無視や人命軽視の事実をきちんとふり返ることは大事であると思うのですが、安倍自民党政権の戦前回帰の動きに合わせて、むしろ人権無視や人命軽視の考え方が復活しつつあるように思います。
 明治維新以来、先の大戦における敗戦に至るまでの軍国日本(皇国日本)の人権無視や人命軽視の体質は、いまだ乗り越えられていないばかりでなく、根本的なところで復活しつつあるように思われるのです。

 下記は、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)から抜粋しました。
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                    第十二章 朝鮮人狩り        

                     1 鉱業報国会
                                   元福岡鉱山監督局・元日炭遠賀鉱業所福利課

                                            北九州市在住 長田信俊

(1)鉱業報国会
 明治42年、私は門司の大里で生まれた。
 昭和9年、早稲田大学卒業後、商工省に入って、翌10年、福岡鉱山監督局に転勤した。鉱政課の監督官として、鉱業出願、労務登録を担当した。その当時は柏原局長で、炭鉱事故が発生すると労務担当と技術担当の監督官が調査にいった。私の仕事は鉱山監督行政で、その権限は絶大なものがあった。
 日中戦争が勃発すると、石炭増産が急務となって、その体制づくりで各鉱山と炭鉱を指導して回った。
 「長田君、ちょっと来てくれ・話がある」
 ある日、榎本勝造鉱政課長から呼ばれた。
 「実は、戦局がこんな状態で、石炭掘れ掘れと炭鉱にハッパをかけるばかりじゃ駄目だ。
 その基本となる精神運動を、各炭鉱で盛り上げたいが…」
 「私にそれを企画しろというのですか?」
 それから二人で構想を練って、運動のやり方として、”鉱業報国運動”をやることに決まった。二人だけで計画を立てるよりも、福岡鉱山監督局全体が協力して旗振りしないと、各炭鉱は動かないぞということになった。立山方(タモツ)、佐久洋の二人をスタッフに加えて、運動としてどう波及、広めて行くかを研究して素案をづくりをした。
 日中戦争になるとそれまで激しかった労働運動は、急に影をひそめました。
 社会大衆党が労働問題に介入してくると、炭鉱側の鼻息のほうが強くて、「お前たちが交渉に入ったら、金を払ってよらないぞ!」と、逆にはねつけることもあった。
 鉱業報国運動の基本は、労使一体となって石炭を増産、国のために尽くそうではないかということだった。戦争遂行のために裸になって石炭を掘り、労働運動なんかをして利己的に考える時代ではない。資本家も石炭を掘らせて、儲けることだけを考えるなと、戦時体制へ向けての精神運動にすることにした。
 ・・・


(2)医者連れの募集・・・略


(3)虎の鳴き声
 ・・・
 昭和16年でしたが、そう簡単に労働者は集まらない。最初は医者を連れて行ってサービスをしたからとたかをくくっていたが、都市部と田舎では全く違っていた。面の中では、誰でも若い働き手をすべて募集できるわけではない。一家の主もおるし、炭鉱という危険性もあって嫌われる。二年契約ということで、長期間家を空ける不安がある。途中で一回も帰さないので、先祖の法事などが出来ないと思い込んでしまっている。
 ある面に行くと、どうしても集まらないと募集係が泣きそうな顔をしていた。その募集係を読んで事情を聞くと、割り当ての人数を供出するには、強制的にならざるをえない。もし、自分の兄弟とか身内を外すと、他の者から文句が出る。身内のものを決めると、親戚のくせに思いやりがないと今度は責められる。無理に連れて行くと、一生恨まれてこの面におれなくなる。いっそのこと、自分を日本に連れて行ってくれないかと哀願されたこともある。
 小さい面になるといろんな人間関係があって、送り出す側にも深刻な問題があることを知って驚いた。
 募集状況を知りたいので、慰労を兼ねて郡役所の幹部と郡の警察関係者を沃州の町の料理屋へ招待した。募集係の説明によると、二十人の予定をまだ十人しか集めていないところがあった。朝鮮巡査をしていた池田が酔い始め、宴の席がたけなわになると、じわじわとからみ始めた、朝鮮時代はこの地方の警部補で、警察署長は昔の部下だといった。出席していた郡長も、池田には頭が上らないほどの顔だった。朝鮮の内情に詳しいし、風俗習慣や住民の心情も知り尽くしている。第一、朝鮮語を自由に話せるということで、日産化学工業が特別採用で労務係にした男だった。その顔を利用して、募集係の一員に入れていた。
 「大体、お前たちは誠意をもって募集しているのか。お土産はただで持って来たんじゃないぞ。募集を頼むからこそ頭を下げているんだ。もし予定の募集人員に達せんやったら俺にも考えがある」
 「いえ、私たちは悪意じゃありません。毎年、毎年いろいろなところからの募集が続いて、あなたが要求するような該当者が非常に少なく、ほんとに申し訳なく思っています」と、郡長はいいわけをした。
 「何をほざいているか! 医者を連れて、何のために朝鮮くんだりまで来るかっ。田圃や畑にゃ若い者がいっぱい仕事をしとるじゃないか。お前たちは俺の顔を潰す気か!」
 いきなり立って、テーブルを倒してしまった。
 「池田君、止めんか!」
 私は池田の肩を押さえてもう一度座らせた。
 せっかくの酒席は、そのことで目茶目茶に壊れた。一時はきまずい空気が流れた。
 「お前たちはもう一度それぞれの面に催促して集め直せ! そして二日以内に確実に集めて俺に報告しろ。もし不足したら承知せんからな」そういう池田は、怒って席を立った。
 私は池田の無礼を彼らに詫びた。私にも割当て人数を募集する責任があるから、是非協力して欲しいと彼らに頼み直した。炭鉱にしても、これから先、沃州地方で募集のことでお世話になる。もし郡長や警察を怒らせると、それ以後の募集は絶対に集まらない。それから場所を変えて、別な料亭に席を移し、芸者を上げて大騒ぎした。
 第二陣百人は沃州に集まり、四十日目に釜山から関釜連絡船に乗った。
 私は福利係の仕事で、炭鉱の配給所の関係の仕事も担当していたので、特配などの物資を各訓練所(朝鮮人寮)に渡したので、労務管理については直接タッチしていない。

(4)首吊り
 ある日、訓練所の外勤労務係の池田が、福利係の私のところに顔色を変えてやって来た。二百人強制連行して来た者の一部が、逃亡していなくなったから、探してくれといった。私は朝鮮から帰ると、時々訓練所に遊びに行って、彼らと卓球などして親しくなっていた。
 「お前、探してくれといっても、どの訓練所で何時逃亡したのか、それを話さんと分からんじゃないか」
 訓練所に入ってから、まだ10日しか経っていなかった。
 「芦屋の飛行場の飯場におるらしいです。あそこは軍関係の飯場なので、長田さんしか行く人はありません」
 叔父が予備役の志岐中将で、私も福利係で兵事関係をしているので軍関係者には知り合いが多い。  
 「芦屋に行っても追い返されます。一歩も踏み込めんとです」
 「そんな馬鹿なことがあるか。暑い夏を四十日もかけて朝鮮から連れて来て、それは困るよ」
 津守先生と一緒に、山の中を歩き回った苦労を思い出した。当時、飛行場や軍の工事場の飯場に逃げ込んだら、そこに確かにいると分かっても、民間人は一切手出しが出来なかった。軍関係の仕事にお前たちはケチをつけるか、そんな人間はいないといわれるとそれまで。あげくの果てには、軍の工事を妨害したから憲兵隊にわたすぞとすごまれる。
 炭鉱のトラックを出して、池田を乗せて憲兵隊芦屋分遣隊に行くと、知り合いの隊長に事情を話して許可をもらった。
 飛行隊の本部で司令官に会うと、そんな朝鮮人は一人として軍で使用していないから帰ってくれと突っぱねられた。憲兵隊長の許可をもらっていることを話すと副官を呼んだ。
 「ここの飛行場の飯場におる証拠でもあるのか?」
 すると池田が、「はい、逃げたうちの一人がうちの訓練所の朝鮮人を誘いに来て、それらを捕えてやきを入れると、ここの飯場に五人ほど逃げ込んでいることを白状しました」
 司令官は嫌な顔をしたが、副官に命令して私たちを飯場に案内するようにいった。土砂をモッコで運んでいる者、避難用の地下壕を掘っている者を片っ端から探して回った。私にはそこで働く朝鮮人はみんな同じ顔に見え、誰が訓練所から逃亡して来ているのか見分けがつかなかった。
 四、五百人働いている中から、池田は二人を見つけた。その二人を連れ出すと、芦屋警察署の留置場へ放り込んだ。逃げないように池田が一人ひとり両手を結び、それを首にかけて窓の鉄格子に止めた。残った三人を探して帰って来ると、一人が苦しそうにもがいていた。もう一人は頭をぐったりと垂れて、鼻水を垂らして意識を失っていた。私たちはあわてて縄を解くと、二人を床に降ろした。逃げようともがいているうちに、縄が二人の首を縛めてしまったらしい。ちょうど首を吊った状態であった。仮死状態なので、カツを入れると息を吹き返した。
 「池田、早う医者を呼べ!」
 医者が来て診察を始めると、二人は狂ったように暴れ出して訓練所に帰るのは嫌だといった。「哀号! 哀号!」と泣いて助けを求めた」
 「池田、この五人は俺が軍からもらい下げた朝鮮人やから、訓練所に連れて帰ってリンチなんか手荒なことをしたら承知せんぞ」
 彼らは訓練所から逃亡しているので、労務係から報復されることを極端に恐れていた。
 「それは分かっています。長田さんのお陰で探し出したのですから」
 それを聞くと五人は、私に手を合わせて拝んだ。
 何処の炭鉱でも逃亡には手を焼いた。私の持論として、逃亡者を捕まえてひどい目に遭わせることは反対でした。叩けば労務係の気はすむだろうが、体を痛めて働けないようにしたら、それだけ炭鉱にとってはマイナスになる。ただ飯を食わせるためにわざわざ朝鮮から連れて来たわけではなく、働かせるために連れて来たのだからね。そうかといって彼らの自由にさせるわけにはいかない。逃亡させないように労務係が監視するし、捕まえると当然見せしめの仕置きをする。そうしないと、朝鮮人の労務管理は出来ないからね。
 日産コンツェルンの鮎川義介が三好鉱業を買収して、日炭になって近代的な労務管理に切り替えたが、以前の高松炭鉱の労務係の残党がいて圧制の伝統は残っていた。高松炭鉱時代の労務係は、ピストルをと仕込杖を持ち歩いていた。高松キナコとか、サガリグモなどのリンチは有名だった。
 昭和18年頃でも、まだ暴力的な名残りがあって、朝鮮人抗夫を虐待した。古賀訓練所に行くと、寮生の一人が反抗したといって、労務係のSが労務の詰所のコンクリートの上に正座させていた。バリカンで頭を十字狩りにして、「おいちょっとこっちに来い」と水道の蛇口のところに連れて行った。頭の上から水をかけて、鉄製のブラシで頭をごしごし洗った。
 「お前の頭はフケが多いか、石鹸をつけたほうがよかろう」というと、石鹸をつけてさらに鉄ブラシで洗った。 
 「哀号! 哀号!。先生こらえてくださ」と、ひーひー泣き叫んだ。石鹸の泡が血だらけになっても、Sは何時までも鉄製ブラシで洗い続けた。
  朝鮮人抗夫は、不真面目で全部逃亡したりするわけではなく、日本人抗夫の模範になるような抗夫もいた。ドイツの鉄十字章にちなんで、福岡鉱山監督局は優良抗夫に黒十字章を与えた。昭和18年には、朝鮮人抗夫の一人が選ばれた。七、八千人の中から選ばれるので、抗夫代表として神前に玉串を捧げましたから。黒十字章が二つになると、商工大臣から表彰された。
 強制連行というけど、私なんか現地で強制的に連れて来たのではない。炭鉱の知らないうちに、郡役所や面事務所が強制的にやったのなら別ですがね。向こうでは日本の内地にきたがっているのを連れて来るという、そんな感じでしたからね。彼らがこちらに来るためには募集費用をかけているので、逃亡されたりすぐ止められては炭鉱としては困る。炭鉱に慣れて真面目な者は故郷に送金して、結構楽しくやっていた。
 強制連行といえば、日本人だって勤労報国隊とか徴用工には、徴用令を適用して強制的で同じこと。静岡とか、富山からどっと徴用されて合宿所に入れられたからね。
   

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「朝鮮人内地移入斡旋要綱」と「大日本労務報国会要覧」

2020年02月09日 | 国際・政治

 前回「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)から抜粋した沈在煥の証言の中に、
炭鉱じゃ働いても郵便貯金をしているといって、決して現金を渡さんやったから、故郷に金を送るどころか、送ってもらったぐらいだ。現金を渡すとお前たちはすぐ脱走するというんだ
という話がありました。それが、沈在煥の働いた炭鉱だけの話ではなく、国家的な対応であったことが、下記の資料1「朝鮮人内地移入斡旋要綱」の「隊ノ編成及指導」の中に”賃金ハ、生活費ニ必要ナル額以外ハ貯蓄スベキコト”とあることでわかります。
 また、通則の三には”斡旋シタル朝鮮人労務者ノ処遇ニ付テハ、出来得ル限リ内地人労務者トノ間ニ差別ナカラシムルモノトス”と、朝鮮人差別に関する記述があります。私はこの記述が、当時差別があったことを示していると思います。そして、”出来得ル限り”という表現が、当時あった差別を一定程度容認するものとして受け止められるように思います。だから、酷い差別も黙認されることになったのだと思います。
 さらに、「斡旋」といいながら、日本の都合で強制的に朝鮮人労務者が集められていたことが、”職業紹介所及府邑面ハ、常ニ管内ノ労働事情ノ推移ニ留意精通シ、供出可能労務ノ所在及供出時期ノ緩急ヲ考慮シ、警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体其ノ他関係機関ト密接ナル連絡ヲ持シ、労務補導員ト協力ノ上、割当労務者ノ選定ヲ了スルモノトス”などとあることから推察できると思います。

 資料2は、日本軍”慰安婦”強制連行の話で有名な、吉田清治の「謝罪の碑」という文章の中にある「大日本労務報国会要覧」を抜粋したものです。吉田証言に偽りがあるとしても、この要覧に偽りはないと思います。皇室神話に基づく軍国日本の精神をよくあらわしているのではないかと思います。当時の日本は、この精神から外れることを許さなかったことを忘れてはならないと思います。
 元朝鮮人徴用工や日本軍”慰安婦”だった人たちの証言と、こうした資料を合わせ読むと、より深く当時の実態が理解できるような気がします。
 下記資料1および資料2は、「消された朝鮮人強制連行の記録 関釜連絡船と火床の抗夫たち」林えいだい(明石書店)から抜粋しました。
          
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
[資料]
                   昭和17年2月20日 朝鮮総督府 

                    朝鮮人内地移入斡旋要綱
 労務動員実施計画ニ依ル、朝鮮人労務者ノ斡旋ニ依ル内地移入ニ関シテハ、別ニ定ムルモノヲ除クノ外、本要綱ニ基キ之ヲ実施ス。

第一 通則
 一、本要綱ニ依リ、内地ニ移入セラルベキ朝鮮人労務者ハ、総テ之ヲ労務動員産業ニ従事セシムルモノトス。
 二、本要綱ニ依リ、内地ニ移入セシムベキ朝鮮人労務者ノ数ハ、毎年度労務動員ノ実施計画ニ示サルル数ヲ限度トスルモノトス。
 朝鮮人労務者ニシテ、出動期間ヲ満了シ帰郷シタルモノノ補充ニ付テハ、爾後同数ヲ本要綱ニ依ル方法ニ依リ、移入セシメ得ルモノトス
 三、本要綱ニ依リ、斡旋シタル朝鮮人労務者ノ処遇ニ付テハ、出来得ル限リ内地人労務者トノ間ニ差別ナカラシムルモノトス
 四、本要綱ニ依リ、斡旋スル朝鮮人労務者ノ出動期間ハ、原則トシテ二カ年トスルモノトス。

第二 斡旋ノ申込及処理
 一、朝鮮人労務者移入雇傭ニ付、道府県ノ承認ヲ得タル事業主ニシテ、本要綱ニ依リ朝鮮人労務者ノ斡旋ヲ受ケントスル者ハ、下記ノ書類ヲ朝鮮総督府ニ提出スルモノトス。
 (イ)朝鮮人労務者斡旋申請書(別紙第1号様式)正副二通
 (ロ)道府県朝鮮人労務者移入雇傭承認書写


 二、必要アルトキハ、事業主ノ所属タル関係産業団体ノ職員ヲ朝鮮ニ駐在セシメ、前項ノ手続ノ代行其他労務者ノ斡旋ニ関シ、事業主ヲ代理シ朝鮮総督府、及関係各道トノ連絡ニ当ラシムルコトヲ得ルモノトス 
 前項ノ代行、又ハ代理ヲ為ス場合ニアリテハ、之ヲ証スルニ足ルベキ書面ヲ朝鮮総督府ニ提出スルモノトス。


 三、朝鮮総督府第二次ノ申請書ヲ受理シタルトキハ、道府県ヨリ朝鮮人労務者移入雇傭承認通報アリタルモノニ付テハ、之ガ内容ヲ審査ノ上要員充足ノ緊要度従来ノ縁故及地盤、又ハ、鮮内労務調査等ノ関係ヲ考慮シ選出、道別斡旋人員及斡旋期間ヲ決定シ、別紙第二号様式ニ依リ、関係道ニ通牒スルモノトス。


 四、各道朝鮮総督府ヨリ、前項ノ割当ヲ受ケタルトキハ、従来ノ縁故、地盤関係ヲ考慮シ、五日以内ニ府郡島別選出人員ヲ決定シ、直ニ別紙第三号様式ニ依リ、之ヲ当該職業紹介所、又ハ府郡島ニ通牒スルト共ニ、別紙第四号様式及第五号様式ニ依り、朝鮮総督府及事業主ニ報告(通知)スルコト。

 五、職業紹介所及郡島道ヨリ、前項ノ割当通牒ヲ受ケタルトキハ、五日以内ニ更ニ邑面別選出人員ヲ決定シ、直ニ別紙第六号様式依リ、邑面ニ通牒スルト共ニ、別紙第七号様式ニ依リ道ニ報告スルモノトス。

 六、職業紹介所及府邑面ハ、常ニ管内ノ労働事情ノ推移ニ留意精通シ、供出可能労務ノ所在及供出時期ノ緩急ヲ考慮シ、警察官憲、朝鮮労務協会、国民総力団体其ノ他関係機関ト密接ナル連絡ヲ持シ、労務補導員ト協力ノ上、割当労務者ノ選定ヲ了スルモノトス。

 七、職業紹介所及府郡島邑面ハ、割当労務者ノ取纏ヲ完了シタルトキハ、割当官庁ニ其ノ旨直ニ報告スルモノトス。
 八、道前項ノ報告ヲ受ケタルトキハ、直ニ其ノ旨及引継地ヲ事業主ニ通知スルモノトス。
 九、事業主第四項、及第八項ノ通知ヲ受ケタルトキハ、其ノ指定セラレタル時期、又ハ必要ト認ムル時期ニ本人、又代理者ヲシテ関係道職業紹介所、又ハ府郡島ニ出頭セシメ、指揮ヲ受ケシムルモノトス。
 
   第三 隊ノ編成及指導
 一、勤労組織ノ編成
(イ)本要綱ニ依リ、出動セシムル朝鮮人労務者ノ勤労組織ハ「隊組織」トスルモノトス。五班内外ヲ以テ一隊ヲ組織スルモノトス。
(ロ)一組ハ五名乃至十名トシ、二組乃至四組ヲ以テ一班トシ、五班内外ヲ以テ一隊ヲ組織スルモノトス。
(ハ)隊ハ成ルベク府郡島毎ニ、班ハ邑又ハ面毎ニ編成スルモノトス。
(ニ)各事業場ニ対スル配置ハ、原則トシテ編成当時ノ隊組織ヲ存置スルコトトシ、職場組織ニ付テモ成ベク之ヲ活用スルモノトス。
(ホ)職業紹介所及府郡島ハ予メ関係者ト協議シ、成ルベク当該郡島所在地ニ於テ隊ノ編成ヲ為スモノトス。
(ヘ)隊ノ名称ニハ成ルベク府郡島名ヲ冠シ、何々勤労出動隊トスルモノトス。
(ト)隊ノ編成ヲ了シタルトキハ、別紙第八号様式ニ依リ、出動隊ニハ名簿五通ヲ作制スルモノトス。
(チ)邑面ハ自己ノ選出シタル労務者ノ名簿ヲ別紙第八号様式ニ準ジ作製ノ上、之ヲ保管スルモノトス。

 二、隊幹部及隊員ノ銓衡
(イ)隊員ノ選定ハ、職業紹介所及府郡島ニ於テ、次ノ条件ヲ具備スルモノノ内ヨリ之ヲ行フモノトス。
 1 思想堅実、身元確実、身体強健ナルモノナルコト。
 2 成ル可ク国語ヲ解スルモノナルコト。
(ロ)隊長ハ前号ノ条件ヲ具備スルノ外、更ニ次ノ条件ヲ有スルモノノ内ヨリ、職業紹介所、又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。
 1 人望アリ指導力ノアルモノタルコト。
 2 成ルベク国民学校終了程度以上ノ学力ヲ有スルモノタルコト。
 3 成ルベク年齢三十年以上ノモノタルコト。
(ハ)班長ハ隊長ノ具備条件ニ応ジテ之ヲ銓衡シ、職業紹介所又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。
(ニ)組長ハ隊員中ヨリ資質良好ナルモノヲ選ビ、職業紹介所又ハ府郡島ニ於テ任命スルモノトス。

 三、隊及事業主ノ指導
(イ)道、府郡島、職業紹介所及朝鮮労務協会ハ、予メ隊員ニ対シ隊組織ニ依ル出動ノ趣旨ヲ徹底セシメ、国家的使命ヲ認識セシメテ、職責重大ナルコトヲ自覚セシムルト共ニ、特ニ下記ノ各項ヲ承知セシメ置クモノトス。
 1 時局産業ニ従事シ、勤労ヲ以テ国家ニ貢献セントスルモノナルコト。
 2 内地渡航後ハ、六ヶ月間訓練ヲ受クベキコト。
 3 内地渡航後ノ勤労方法、生活環境等ニ付予メ予備知識ヲ与ヘ、到着後ニ於テハ速ニ内地ノ生活風習ニ順応スル様、了得セシムルコト。
 4 従業条件ヲ特ニ徹底セシムルコト。殊ニ賃金統制令ノ趣旨ヲ了知セシムルト共ニ、各個人別ノ収入ニ付テ、能力ニ依リ当然差異アルベキモノナルコトヲ了得セシムルコト。
 5 労務調整令ノ趣旨ヲ徹底セシメ、就業場ノ移動ハ濫ニ為サザルコト。
 6 協和会ニ加入シ、其ノ会員章ヲ所持スベキコト。
 7 賃金ハ、生活費ニ必要ナル額以外ハ貯蓄スベキコト。
 8 困苦欠乏ニ耐ヘ、公休日以外ハ濫ニ休業セザルコト。
 9 国民職業指導所職員、警察官、協和会職員ノ指導ニ服ス可キコト。
(ロ)職業紹介所、府郡島及朝鮮労務協会、隊出動前出来得ル限リ之ニ対シ、規律アル団体訓練ヲ施スモノトス。
(ハ)事業主ハ、朝鮮人労務管理上必要ナル事項ヲ考究実施スルモノトシ、特ニ次ノ各項ハ至急実施スルモノトス。
 1 指導組織ノ充実ヲ期スルコト。各隊ニハ指導員ヲ置クコト。指導員ハ、隊長ヲ指導シ、隊員ニハ作業及生活各般ニ亘リ、指導誘掖並ニ連絡ニ当ルコト。指導員ノ任命ニ当タリテハ、適任者ヲ厳選スルコト。
 2 訓練施設ヲ設クルコト。
 3 朝鮮人労務者ノ熟練化ヲ図リ、特ニ優良隊員ニ対シ技術教育ヲ施スコト。
 4 技術優秀ナル者ヲ役付ニ昇進セシムルコト。
 5 期間中ハ、成ルベク特定ノ場所ニ於テ、規律アル生活訓練ヲ行ウコト。
 6 適切ナル慰安娯楽施設ヲ設クルコト。
 7 隊長、班長及組長ノ処置ニ付テハ特ニ考慮スルコト。

 第四 労務補導員
 一、事業主ハ、次ノ割合ヲ以テ、朝鮮ニ於ケル官庁ノ労務者供出斡旋ニ協力セシムル為、適当ナル者ヲ選出スルモノトス。
 朝鮮人労務者斡旋申請人百人ニ付二人トシ、百人ヲ増大毎ニ一人ヲ加フルコト。但シ五百人以上ハ三百人ヲ増大毎ニ一人ヲ加フルコト。
 二、道知事ハ前項ノ協力者ニ対シ、労務者供出ニ関スル事務ヲ嘱託(無給)シ、之ニ労務補導員ノ名称ヲ付スルモノトス。
 此ノ場合内地所轄警察署長ニ対シ、其ノ身元其ノ他ニ付支障ノ有無ヲ調査スルモノトス。
 三、労務補導員ハ、事業主若ハ事業主ノ雇傭スル職員、又ハ関係産業団体ノ職員ニシテ、身元確実ナル者トス。
 四 労務補導員ハ、官庁ノ指導監督ヲ承ケ、鋭意労務者ノ選定ニ協力スベキモノトス。
 五 労務補導員ニ要スル経費一切ハ、事業主ノ負担ナルモノトス。

 第五 引継及引率
一、職業紹介所、府郡島ハ、其ノ編成シタル隊ヲ出発地ニ於テ之ヲ事業主、又ハ代理者ニ引継グモノトス。
 出発地ハ、概ネ府郡所在地トスルモノトス。
 上記引継ノ場合、職業紹介所、又ハ府郡島ハ、別紙第九号様式ノ引継書正副三通ヲ作成シ、正本ハ職業紹介所、又ハ府郡島ニ、副本ハ道及事業主ニ於テ之ヲ保有スルモノトス。
 上記引継書ニハ、隊員名簿ヲ添附スルモノトス。
 職業紹介所、及府郡島ハ、隊編成地所轄警察署長ノ奥書紹介状ヲ受ケタル隊員名簿二通ヲ、事業主ニ交付スルモノトス。
 二、隊ノ引継ヲ了シタルトキハ、職業紹介所、又ハ府郡島ハ引継書副本ヲ添ヘ、其ノ状況ヲ直ニ報告スルモノトス。
 三、道割当ヲ受ケタル労務者ノ引継完了セルトキハ、直ニ其旨朝鮮総督府ニ報告スルモノトス。
 四、隊引継後ノ鮮内輸送及離鮮地ヨリノ引継輸送ニ付テハ、朝鮮労務協会ハ之ニ協力スルモノトス。
 五、事業主ハ、隊ノ引継ヲ受ケ之ヲ引率輸送スルニ当リテハ、下記ノ事項ニ留意スルモノトス。
 1 事業主、又ハ責任アル代理者之ガ引率ニ当ルコト。
 2 引率者ハ、少ナクトモ労務者五十人ニ付一人以上ヲ附スルコト。
 3 引率者ハ、就業地所轄国民職業指導所ノ発行スル引率証明書ヲ携帯スルコト。
 4 引率者ハ、乗船地所轄警察署長ニ対シ隊員名簿ヲ提出シ、所定ノ奥書査証ヲ受クルコト。 

 第六 到着後ノ処置
一、事業主ハ、移入朝鮮人労務者ノ災害、紛擾(フンジョウ)其ノ他重大ナル事件発生シタルトキハ、遅滞ナク朝鮮総督府、及関係道ニ報告ヲ為スモノトス。
 二、事業主ハ、移入朝鮮人労務状況ヲ、毎年6月末、及12月末ヲ以テ朝鮮総督府ニ報告ヲ為スモノトス。
 三、内地移入後隊長、班長、組長ニシテ、不適当ト認ムルニ至リタルトキハ、事業主ニ於テ他ノ適任者ニ之ヲ変更スルコトヲ得ルモノトス。
 四、隊長等ニハ、必要ニ依リ協和会ノ役職員ヲ嘱託スルコトヲ得ルモノトス。

第七 移動ニ対スル措置
 一、出動期間満了後、尚引続キ従業セシムル必要アルトキハ、希望アルモノニ限リ其ノ出動期間ノ延長ヲ認メ得ルモノトス。
   出動期間満了後、同一事業主其ノ経営ニ係ル同種ノ他ノ事業場ニ引継ギ従業セシムル必要アルトキ、又同様ニ取扱ヒ得ルモノトス。
 二、出動期間満了前、事業ノ縮小廃止、又ハ終了ノ場合ハ、同一事業主ノ経営ニ係ル、同種ノ他ノ事業場ニ従事セシムル必要アルトキ希望アルモノニ限リ、継続従業ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 三、出動期間満了ノ場合、若ハ出動期間満了前事業ノ縮小廃止終了ノ場合、事業主ノ変更アルモ、同一事業場ニテ引続キ従業セシムル必要アルトキ、希望アルモノニ限リ之ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 四、前各項ノ場合、道府県ハ其ノ承認後朝鮮総督府、及関係道ニ其ノ旨通報スルモノトス。
   土木建築事業ニ於テ、出動期間満了後尚引続従業セシムル必要アルトキハ、道府県ハ予メ朝鮮総督府ニ協議スルモノトス。
 五、出動期間の満了後、又ハ事業の縮小廃止終了ニ依リ、出動期間満了前同種ノ事業ニ属スル他ノ事業主ノ事業場ニ従事セシムル必要アルトキ、希望アル者ニ限リ道府県ハ予メ朝鮮総督府ニ協議ノ上、之ヲ認ムルコトヲ得ルモノトス。
 六、帰郷者確定シタルトキハ、所轄道府県ニ於テ、事業主別ニ帰郷スベキ労務者ノ出身地、氏名、朝鮮ニ於ケル下船地、帰郷予定年月日、及斡旋ヲ受ケタル年月日ヲ、遅滞無く朝鮮総督府、及関係道ニ通報スルモノトス。
 七、労務者出動期間(事業縮小廃止終了ノ場合ヲ含ム)ニ依リ帰郷シタルトキハ、事業主、又ハ其ノ代理者ハ、帰郷労務者ノ氏名、帰郷年月日ヲ遅滞ナク関係府郡島ニ報告スルモノトス。

   第八 其他
 一、事業主、又ハ財団法人職業協会ハ、斡旋ニ要スル宣伝費、隊ノ編成費、引率輸送費(職員旅費)及雑費等ノ経費ヲ、朝鮮労務協会ニ前納スルモノトス。
 二、隊事業場ニ到達シタルトキハ、事業主ハ遅滞ナク其旨ヲ朝鮮総督府及関係道ニ報告スルモノトス。
    第九 附則
 本要綱ハ、昭和17年2月20日ヨリ之ヲ実施スルモノトス。
(別紙様式略) 

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                     第十六章 はるかなる海峡
                       7 謝罪の碑
                                                   吉田清治
                      大日本労務報国会要覧
 綱領
一、我等ハ皇国臣民タル光栄ヲ体シ、克ク忠ニ克ク孝ニ醇厚(ジュンコウ)俗ヲナシ以テ皇恩ニ報イ奉ランコトヲ期ス
一、我等ハ皇国産業ノ使命ヲ体シ、力ヲ公益世務ニ竭(ツク)シ以テ愈々国本ヲ固クシ皇猷(コウユウ)ヲ恢弘(カイコウ)センコトヲ期ス
一、我等ハ本会創立ノ趣旨ニ体シ、各々其ノ業務ニ淬励(サイレイ)シ協戮邁往以テ此ノ世局ニ処シ時艱(ジカン)ヲ克服センコトヲ期ス

 創立宣言
 肇国以来悠久二千六百余年。我ガ皇国ハ八紘一宇ノ大理想ノ下、生生発展窮(キワマリ)リ無ク、今ヤ又新ニ世界ノ大転期ニ際会シテ大東亜共栄圏ノ洪謨(コウボ)ヲ立ツ。
 曩(サキ)ニ米英撃滅ノ大詔ヲ奉戴スルヤ、皇軍ノ威武忽チ万国ヲ震撼セリ。然レドモ敵亦侮ルベキニ非ズ。益々国民総力ヲ結集シテ、戦力ノ増強ニ努ムベキ秋ナリ
 各種重要産業ノ基礎的部面ヲ担当スル我等同志愛ニ見ルトコロアリ。新ニ大日本労務報国会ヲ創立シ、渾然偕和シテ報国精神ヲ昂揚シ、勤労能力ヲ最高度ニ発揮シ、国民動員ノ完遂ニ協力シ、以テ国家ノ負託ニ応ヘントス。
 凡ソ勤労ハ皇国民ノ責任ニシテ又栄誉ナリ。
 一人ノ安逸ヲ容サズ。一日ノ懈怠アルベカラズ。素ヨリ業ニ貴賤ノ別ナク、職ニ高下ノ差アルナシ。只管国家ノ要請スルトコロニ応ジ、欣然事ニ当ランノミ。
 我等ハ先ヅ従来ノ因襲ヲ蝉脱(センダツ)シ、私利ヲ離レ、私慾ヲ捨テ生活ヲ刷新シ、日々ノ責務ニ励精シ、以テ職分奉公ノ実ヲ挙ゲンコトヲ誓フ
 神明ノ感応恐ラクハ我等ガ上ニ在ラン。我等ノ前途ハ今ヤ光明ニ満チタリ。重責双肩ニ懸ツテ志気愈々高シ。イザ万障ヲ排シテ一路勤労報国ニ邁進セン。
  右宣言ス
                                                 昭和18年6月2日 

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戦時中の炭鉱における虐待や報復と人質司法

2020年02月02日 | 国際・政治

 戦時中の日本の炭鉱で、朝鮮人労務が、同胞である朝鮮人坑夫を、死者が出るほど虐待するということがくり返され、逆に敗戦前後には朝鮮人坑夫が、虐待され、仲間を殺された報復として、朝鮮人労務を叩き殺し、その家族をも殺すという悲劇が起きたことが、下記の沈在煥の証言で分かります。
 「地図にないアリラン峠 強制連行の足跡をたどる旅」林えいだい(明石書店)によると、朝鮮人労務を叩き殺して報復した朝鮮人抗夫の一人、沈在煥は、その後、朝鮮から徴用されてくる時に日本語を話せるというだけで労務係に採用された朝鮮人が、日本人に増産を強要され、労務の仕事を遂行するために、上の命令に従わざるを得なかったことに思い至り、朝鮮人労務は加害者である一面、自分たちと同じ被害者でもあることに気付いたといいます。
 だから、私はこうした野蛮で深刻な殺し合いをもたらすことになった徴用工の問題は、日本から韓国に対して,無償3億ドル,有償2億ドルの経済協力を定めた日韓請求権協定で「完全かつ最終的に解決」などというような簡単なものではないだろうと思います。
 また、明治維新以来の日本の人命軽視や人権無視が、戦後の日本国憲法によって否定はされましたが、戦時中責任ある立場にいた人たちが裁かれることなく、その後の日本で再び活躍したために、今なお、そこここに人命軽視や人権無視の問題を残しているように思います。

 そういう意味で、ゴーン容疑者の海外逃亡で注目された日本の「人質司法」といわれる司法のあり方も気になるのです。
 ゴーン容疑者は当初、自らの報酬を過少に申告した疑い、すなわち金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)で逮捕されました。でも、その後「虚偽記載」とされたのは、実はゴーン容疑者が、日産から「実際に受領した報酬」ではなく、退任後に別の名目で支払うことを「約束した金額」だという、驚くような報道がありました。有価証券報告書の虚偽記載罪というのは、有価証券報告書の重要な事項に虚偽の記載をした場合に成立するもので、退任後に「支払の約束」をした役員報酬は、記載義務があるかどうか疑問だといいます。だから、検察の逮捕容疑となった「役員報酬額の虚偽記載」が、まだ現実に支払われてもいない退任後の「支払の約束」だったとすると、「虚偽記載」を根拠とする逮捕には疑問があるということです。虚偽記載は、契約書を確認できれば事実は明白になり、検察の捜査によらなければ明らかにできないような話ではないというのです。
 そればかりではなく、東京地検特捜部は、その後、ゴーン容疑者が自身や第三者の利益を図って日産に損害を与えていたとして、「会社法違反(特別背任)」容疑で再逮捕しました。まさに、長期拘留によって、自白させる「人質司法」を裏づけるものではないかと、私は思います。証拠が得られていないので、取り調べで得られる供述で立証するために、自白を得ることを目的として再逮捕するというやり方です。
 さらに、妻のキャロルさんとの長期にわたる接触禁止も問題だと思います。検察は、ゴーン容疑者の指示で妻のキャロルさんが事件関係者と接触し、証拠隠滅を図る可能性を指摘しましたが、それはとりもなおさず、いまだ有罪を立証する証拠を掴んではいないということではないかと思います。弁護団が「接触禁止は大きな人権侵害。ゴーン被告とキャロルさんは精神的に弱っている」と話したことが伝えられましたが、長期の接見禁止も、取り調べで得られる供述で立証するために、精神的に追い詰めて自白を得ることを目的としているのではないかと疑われます。
 だから、私は、多くの海外のメディアが、日本における容疑者の長期身柄拘束や長時間の取り調べ、取り調べに弁護人の立ち会いが認められていないことなどを取り上げ、人権侵害であると批判していることにきちんと向き合って対応すべきではないかと思います。日本国内でも、別件による再逮捕などで被疑者を長期間拘束し、密室で自白を促すやり方が、数々の冤罪を生んできたとの指摘がくり返されてきました。
 日本も、国際人権規約14条にある
刑事上の罪に問われているすべての者は、法律に基づいて有罪とされるまでは、無罪と推定される権利を有する。”
という条文を尊重し、”日本には「推定無罪」という法治国家の原則が欠如している”などといわれないようにすべきだと思います。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       第二章 死神
(2)同胞管理
 父親のかわりに
 江原道溟川郡江東面出身の沈在煥は、1943(昭和18)年10月に長崎県北松浦郡の炭鉱に徴用されてきた。西彼杵郡高島町の高台にあるアパートで独り暮らし、週に数回長崎市内の病院に、腰骨折治療のために通院している。
 長男だった沈在煥は、面の普通学校へ入学した。すると日本人教師は、朝鮮語をしゃべる子供たちに、日本語で話せと強要し殴りつけた。毎日学校から泣いて帰る姿を父親が見て、勉強どころでなく殺されると怒って、かれを退学させてしまった。
 太平洋戦争が勃発すると、面の若者たちが次々と強制連行された。半農半漁の暮らしなので漁師になった。漁に出て獲った魚は、遠くの漁港へ水揚げして、殆ど家に寄りつかなかった。帰ればすぐ徴用されることは分かっていた。それも危険になって、こんどは山の中に逃げ込んだ。長男の彼が日本へ強制連行されると、両親と弟二人の生活の面倒が見られなくなるからだった。
 面書記は毎日のように家にやってきて、息子を出せと父親に迫った。
 「息子が行かないなら、その代わりにお前が行け!」
 六十過ぎの父親が強制連行されるという知らせがあり、沈在煥は逃亡生活に見切りをつけて家に帰ってきた。江東面には炭鉱から労務係がニ、三人きていた。
 「賃金は一日五円だ。一週間に一日は必ず休ませるし、米飯は食い放題だ。どうだ、いいところじゃないか」
  沈在煥と父親を前にして、うまいことをいって勧誘した。しかし、同じ面の者が何人も事故死して、炭鉱は危険であることをよく知っていた。そうかといって父親をやるわけにはいかない。
 溟川郡で二百人が集まると、列車で釜山まで行き旅館に宿泊した。その夜、二階の屋根から数人が飛び降りて逃走した。翌朝、関釜連絡船の崑崙丸(コンロンマル)で下関港に着いた。 
 下関駅から列車に乗ると、長崎まではシャッターを降ろして、外の風景が見えないようにした。その翌朝、下関まで乗船した崑崙丸が、アメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈んだことを知った。
 潜龍炭鉱の隣にある、ダンゲツ炭鉱(当時そういう事業所は見当たらない、本人の記憶違いかも)に着いた。バラック建ての朝鮮人寮の一部屋に十人入れられた。二交代制で、半数が入坑すると、在室の者が空いた布団に寝て、帰ってくると交代で入坑した。
 労務係が、募集の条件として五円だといったことは全くの偽りで半分の二円五十銭だった。
 「芋ばかりで、たまに雑炊があるが、手を突っ込んんでも指先より大きいものはない。どんぶりの底に米粒が僅かやった」
 入坑する時の弁当箱には、芋の蒸かしたものが数個はいっていた。
 お汁は海水を汲んできて、カボチャとか大根の葉が浮いていた。沈在煥たちは、入坑した日から、お腹が空いて死ぬほどの苦しみを味わった。
 言葉が分からないので叩かれた。坑内ではすべての朝鮮人に通訳がつくとは限らない。坑内係や先山たちから命令されても、ぽかんと立っていることがある。
「こらっ、 貴様! 成木(ナルキ)をとれというのが分からんのか!」
 日本人の先山がいきなり坑木で殴りつけることがあった。叩かれて命令されるうちに、一ヶ月が経つ頃には、相手が何を要求しているかを理解できるようになった。
 掘進とか採炭作業は、炭鉱に慣れない彼らにとっては危険だった。目の前で落盤事故があって死んでも、ボタと一緒に炭車に積んで運び出すので、後はどうしたのかも知らされなかった。
 「朝鮮人にとっては毎日が地獄やったよ」
 沈在煥がしみじみと語るが、落盤、ガス爆発、出水、炭車の暴走事故があって、朝鮮人は毎日のように死んでいった。十人事故死すれば十人、朝鮮から強制連行してきて補充した。
 飛行機の燃料が不足するといって、山の松油を取るようになり、勤務明けの日には山に動員された。そのために体を休めることができず、実質的には連続労働となった。
 ある日、沈在煥と話していると面白いことをいい出した。
 「何処の国も松の木が枯れたら国は滅亡する前兆なんだと」
 「どうして松と国の滅亡とが関係あるんですか?」
 私は思わず問い返した。
 「松と人間の命は同じだと。松は一回切れば絶対に芽を出さないんだ。人間も首を切れば死んでしまう。普通の木は切られても、必ずそこから新芽を出すんだ。松だけはそうじゃなか」
 何処でも松が枯れたら国が滅亡すると、とてもうがった見方をしていると思った。朝鮮には、昔からそんないい伝えがあるといった。実際に松油を長く取ると松が枯れて、山の中に茶色の部分が増えた。日本は戦争に負けると予測していたのだ。

 逆さ吊り
 石炭増産命令が出て、各炭鉱が軍需工場に指定されると憲兵が派遣され、労務管理にも口を出すようになった。食事は脱脂大豆が中心となり、中にコーリャンが混じった。
 脱脂大豆の腐ったものをたべると、消化不良を起こして毎日下痢が続いた。栄養失調のところを長時間労働が続き、昇坑すると病人のように倒れた。翌日は疲労で起きられずにいると「朝鮮人はわざと生産妨害ののサボタージュをしている。怠けるな!」と、その場で木刀で叩いた。
 病気で寝ている者を殴りつけ無理に入坑させた。
 沈在煥が病気で休んでいると労務係がやってきた。
 「とても体がきつくて働けません。休ませてください」と、拝むように労務係にいった。
 「貴様、ケ病を使うつもりか、よし労務までこい!」
 労務詰所に呼ばれるとそこで何が起こるか、朝鮮人抗夫なら誰でもよく分かっていた。アイゴー、アイゴーの悲鳴が朝鮮人寮に一日中聞え、その翌日には冷たくなった人間が、車力で運び出されるのを何人も見てきた。それを知っているだけに、労務詰所に連れていかれて命が助かろうとか甘い考えは捨て、死ぬ覚悟で行かなければならなかった。
 労務詰所に入ると、外勤の朝鮮人労務がいきなり沈在煥を木刀で叩いた。何故休みたいのかとたずねることはなかった。十数回木刀で叩かれると、座ることもできずに倒れた。そこを数人で体を押さえて、足をロープで結ぶと、天上の梁にぶら下げた。頭を下にされて人間が逆さになると、それだけで意識が朦朧となる。そこをニ、三人で交代して鶴嘴の柄で叩き始めた。三十数回叩かれるうちは痛みを感じるが、それを過ぎると麻痺して感覚がなくなる。筋肉がかちかちに固くなり、叩く音だけが耳に聞こえた。
「朝鮮人の労務はひどかったねえ。それはもう親の仇打ちをするように殴りつけた。何故、同じ朝鮮人をあれほど虐待するのか、わしにはその気持ちが分からんやった」
 沈在煥は、その労務係の顔の特徴を忘れなかった。いつかは彼らに報復しようと腹に決めた。
 逆さ吊りを一週間続けられると精神状態がおかしくなる。若さがあるからそれに耐えられたが、病弱な者はひとたまりもなく死んでしまった。
 労務係の仕置きが終ると、部屋の仲間が迎えにきて、肩に担いで寮まで連れて帰った。飯になっても起きられず、ただ水を飲むだけだった。その頃、寮には一週間に一回だけ合成酒の配給があった。沈在煥は悲観のあまり、酒を一気に飲んで自殺しようと考えた。
 空腹で働けないので故郷に手紙を出して、食べ物を送ってくれるように頼んだ。親は心配して現金や朝鮮アメ、餅などを送ってよこした。品物が届くと全部労務係たちが小包をこっそり開け、金は自分たちで料理屋へ行って女を抱いて遊んでしまう。それを知っていても、抗議することさえできなかった。
 ある日、起きると隣に寝ていた同胞の一人が冷たくなって死んでいた。風邪をこじらせて肺炎を起こし、高熱が続いて前の晩まで呻いていた。労務係は肺炎で苦しんでいても、決して休んでよろしいとはいわなかった。入坑させるほど自分の成績が上がり、炭鉱からは受け持ちの抗夫の稼働率が高いという評価を受けた。そのために各寮ごとの生産競争となって、その成績を廊下に張り出し償金を出した。そうした生産競争が、圧制の一つの要素になった。
 その制度のことを”半島表彰”といった。
 沈在煥の目の前でも拷問が行われ、二人の同胞が血を吐きながら絶命した。数日前に寮から脱走して捕まえられ、全員を集めた前で見せしめのために殴り殺されたのだった。

 決死の脱走
 事故で死ぬか、拷問で死ぬか、いずれ死ぬのなら脱走しようではないかと、沈在煥たち同じ部屋の三人は相談した。
 朝鮮人寮から脱走すると、写真をつけた手配書が、県内の各警察署に配られた。炭鉱側は、交通の要所に見張り人を出張させていた。駅員なども怪しい朝鮮人の姿を見ると、すぐ警察へ連絡した。土地勘がない上に、現金を持たないので彼らはすぐ捕まった。
 沈在煥は、一度捕まった同胞から、失敗した原因をいろいろ聞いて研究した。町に出ると捕まるので山中を逃げ、お腹が減ると民家のところまで降りてきて、畑の野菜を盗んで再び山へ引き返した。三人で集団行動をとると、人目について危険だった。話し合って単独行動をとることにした。三人はそこで別れると、沈在煥は山の中を北へ夜だけ歩き続け大志佐に出た。チマ・チョゴリ姿を見て再び山へ戻り、夜になるとこっそりその家を訪ねて事情を話した。するとそこの主人が同情して、すぐ近くの朝鮮人が経営する土方飯場を紹介してくれた。そこの飯場は朝鮮人が三十人いて、みんな炭鉱から脱走した者ばかりだった。
 大志佐の仕事が終わると、親方と一緒に崎戸炭鉱へと一緒に移り、飯場の親方は坑外の土木現場を請け負った。
 ”一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島”といわれるほど、崎戸炭鉱の圧制振りは天下にとどろいていた。三千人以上の朝鮮人が強制連行され、その悲惨な姿を見るとタンゲツ炭鉱のことを思い出した。飯場の親方はそれを見て、坑内に入れられたら大変だと、工事が終わるとすぐ大村の飛行場へと移った。
 軍工事は炭鉱からの脱走者にとってはいわば安全地帯だった。労務係が探しにきても、軍関係の工事に文句をつけるのかと兵隊が追い返した。海軍関係の工事だけに、どうしたわけか白米飯を腹一杯食べることができた。ところが飯場の親方たちは、彼らが脱走してきたという弱みを握っているので、働いた賃金は一銭も沈在煥たちには支払わなかった。みんなで抗議すると、親方はやっと一日に二円五十銭支払うようになった。
 「私たちは怪我をしても病気をしても、誰も助けてくれる者はいない。怪我せんように病気せんようにと、そんなことばかり考えて、もう人間として生きた気持ちはせんやったですよ。これから私たちはどうやって生きていくのかと。
 炭鉱じゃ働いても郵便貯金をしているといって、決して現金を渡さんやったから、故郷に金を送るどころか、送ってもらったぐらいだ。現金を渡すとお前たちはすぐ脱走するというんだ」
 大村飛行場は敗戦近くなると毎日のように敵機の爆撃を受け、空襲警報のサイレンが鳴ると、艦載機のグラマンはもう上空にきて爆弾を投下して、激しい機銃掃射を繰り返した。防空壕から出て、滑走路を修理していると、すぐ空襲警報で作業を中止した。

 報復
 8月9日の長崎原爆投下以後、飛行場の工事は一時中止になった。防空壕の中では、炭鉱から脱走した朝鮮人が集まって話し合いをした。もう日本の敗戦を肌で感じとって、前に働いていた炭鉱へ行き、労務係に報復しようと相談をした。彼らの殆どの者が、一度や二度それ以上に労務係から死ぬほど虐待された経験を持っていた。報復をしないと気持ちが治まらなかったのだ。
 8・15の解放を迎えると、軍工事だけに仕事は午後から中止となった。沈在煥は仲間と相談してタンゲツ炭鉱へその日のうちに行った。
 先ず朝鮮人寮に行くと、昔の仲間たちと会った。
 約半数が脱走していたが、十数人が捕まって労務係から虐殺されたことを知った。その中には同じの人で、沈在煥と一緒に強制連行された仲間もいた。
 「労務係の奴を生かしておくな。みんなで仇討ちに行くぞ!」
 五、六百人が、どっと労務詰所を取り囲んだ。
 日本人労務係は、報復を恐れて、解放の日に姿を消していたが、朝鮮人労務係は職員社宅にそのまま住んでいた。
 日頃からみんなが受けた恨みを晴らそうと集団で襲うから、群集心理で狂暴になってくる。
 「助けて下さい、命だけは─」
 朝鮮人労務係たちは、みんなの前で土下座すると、泣きながら命乞いをした。
 「やってしまえ!」
 家族が見ている前で叩き殺した。
 「種を残さないように、みんな殺してしまえ!」
 誰かが叫ぶと、逃げようとする家族に襲いかかって皆殺しにした。
 一人で殺すとなると、ある種の良心とためらいがあるが、集団で殺せば恐くはなかったと沈在煥は語るが、怒り狂っている時は人間は見境がつかなくなる。戦争というのはそういうものであって、人間を狂喜にしてしまう。
 朝鮮人労務係の報復が終ると、今度は日本人労務係に目を向けた。
 9月になると、全国的に朝鮮人聯盟が各地に発足して、北松浦郡内に各支部が結成された。そこへ労務係と坑内係を呼び出すと、今度は彼らがやったと同じ方法で拷問を加えた。沈在煥自身、もし逃走して捕まえられたら、必ず虐殺されていたと思った。そうなると炭鉱全体が恐怖のどん底に落ちて、石炭生産はストップした。 
 戦後復興に石炭が必要なこともあって、炭鉱経営者は佐世保進駐の米軍に泣きついて派遣してもらい警備するようになった。炭鉱側からは警察が立ち合いのもとで謝罪させてくれと申し込みがあり、朝鮮人連盟はそれを認めた。
 沈在煥は彼らに報復をして、炭鉱時代の恨みを晴らし、戦前の結着をつけるつもりだった。 
 「しかし、今になって冷静に考えると、彼らも可哀そうな人たちなんだ。朝鮮人労務係もある意味で犠牲者なんだ」
 報復した直後と今とでは、相手に対する思いはずい分違っている。
 朝鮮から徴用されてくる時に、日本語を話せるというだけで、労務係に採用された者が多い。自分の意志とは別に、命令されると拒否できない時代である。職務上増産を強要されるので労務の仕事を遂行するために、上の命令を忠実に守ったわけだ。もし可哀そうだといって同胞を助けたりすると、自分の命さえ危険にさらされる。
 沈在煥は、もし自分がそういう立場になったとしたら、果たして拒否できたであろうかと、やっと近頃になってそのことに気付いたという。
 そうした朝鮮人労務係をいちがいに責めることのできない事情もある。彼らは加害者の一面を持つと同時に、被害者でもあったのだ。沈在煥がそういう思いまで到達するには、やはり長い時間がかかったようだ。
 戦後、沈在煥は帰国するため、北松浦郡内の中小炭鉱で必死になって働いた。長男であるし、帰国するには少しお金を持って帰らなければならない。平戸から密航船が出ることを知って、仲間数人と帰国を相談した。すると済州島や対馬近海で海賊が出没して、品物や現金を奪い取り、海に投げ捨てるという噂が広がって、危険を感じて遂に帰国を諦めた。そのうち一度故郷に帰って、闇船でUターンしてくる同胞たちが、朝鮮の生活は苦しいから帰国しないほうがいいと彼に話したからだった。
 沈在煥は、唯一の帰国のチャンスをそれで逃してしまった。北松浦郡の炭鉱で働いている時、同胞の女性と結婚して子供を設けた。故郷のことを思うと、やけっぱちになって焼酎を飲んで家庭内で暴れて女房を殴りつけた。日本酒なら三升(一升は1.8リットル)、焼酎なら一升を一気に飲んだというからかなりの酒豪である。家庭内暴力に耐えかねて、女房は乳呑児を連れて家出した。

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