真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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虐殺・粛清

2007年12月26日 | 国際・政治

             虐殺・粛清 
 
 前掲の「華僑虐殺-日本軍支配下のマレー半島」林博史(すずさわ書店)に
は、大西覚憲兵中尉が責任者をしている検問所で、軍作戦主任参謀辻政信中佐

「何をぐずぐずしているのか。俺はシンガポールの人口を半分にしようと思っ
ているのだ」

と憲兵隊を激励したという一文があります。そして、軍参謀の朝枝繁春少佐は
憲兵隊本部に入ってきて軍刀を抜き、
「・・・軍の方針に従わぬ奴は憲兵といえどもぶった切ってやる」
と強引な指導をしたといいます。
 だから憲兵曹長として検問にたった中山三男氏は
「・・・半分くらいは粛清せないかんのだ・・・」「半分もやるならちょっと
くさいものもというわけで・・・」

というようなことを述べているというのです。俄には信じられないのですが、
林博史氏は63人もの住民の証言で、日本軍の忌まわしく非道極まりない虐殺
・粛清の実態を明らかにしています。そして、それは米軍の臨検を受け拿捕さ
れた病院船(偽装)「橘丸」で、日本軍の陣中日誌が没収され、処分されるこ
となく後に返還されたことによって確認されることとなりました。公文書で粛
清の命令や事実が裏付けられることとなったわけです。粛清が一九四二年三月
の約一ヶ月に集中して、下記のように進められたことが分かりました。

 第一次粛清:レンバウ地域    第二次粛清:クアラピラ南部
 第三次粛清:クアラピラ北部   第四次粛清:ジェレブ地域
 第5次粛清:セレンバン県北部  第六次粛清・セレンバン市とマラッカ市

 かつて、高校用英語教科書に、戦争中のマレーシアのこととして日本兵が赤
ん坊を空中に放り投げて銃剣で突き刺したという話
が入っていたそうです。こ
の教科書は、文部省の検定に合格していたにもかかわらず、自民党の圧力で出
版社側が自主的に別の内容に差し替えるという問題が1988年秋に発生した
といいます。自民党や一部マスコミは「そのような残虐行為をおこなったとい
うことは事実かどうか分からない」と主張したようですが、多くの住民の虐殺
・粛清の証言内容と、上記のような赤ん坊の刺殺に関する何カ所かでの住民の
目撃証言、および陣中日誌の粛清命令などを考え合わせると間違いのない事実
であると思われます。 

        http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/

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南京だけではない日本軍による住民の虐殺

2007年12月26日 | 国際・政治

        南京だけではない日本軍による住民の虐殺

 華僑虐殺-日本軍支配下のマレー半島-林博史(すずさわ書店)は、多くの生
存者の証言や虐殺跡の調査、および橘丸事件のおかげで処分されず米軍に没収
され、戦後の1958年に返還された陣中日誌その他関係書類を突き合わせ、日
本軍による虐殺の事実を丁寧に辿っている。

 当時マラヤにあった第二五軍(司令官山下奉文中将)は、御前会議決定「大東
亜攻略指導大綱」に基づきマラヤについて「将来帝国南方経略の軍事基地たらし
むると共に経済的に帝国と緊密なる結合を図り以て帝国の南域に於ける自衛自給
態勢の鎖鑰(さやく)たらしむるを経営の骨幹とす」と(第二五軍軍政実施要項)
位置づけ、シンガポールを「昭南」と改めた。独立を認めない状況で作戦を遂行
したのである。そして、華僑に対しては当初の協力同調を主眼とする誘引工作を
転換し「積極的誘引工作は之を行わず」として「服従をを誓い協力を惜しまさる
の動向を取る者に対しては其の生業を奪わず権益を認め 然からさる者に対して
は断乎其の生存を認めさるものとす」と強硬な姿勢に転じていったのである。
 
 その犠牲者数はシンガポールだけで四~五万といわれ、シンガポールを含めた
マラヤ全土では、一説では十万にのぼるという数字もあるこのマレー半島におけ
る華僑虐殺は、下記のような点で戦時国際法に反していると考えられています。
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 1 マレー作戦は、1942年2月15日のシンガポール陥落によって終了し
   た。しかし、戦闘終了後の一ヶ月を中心に集中的に華僑粛清が行われた。
 2 武装したゲリラではなく、非武装で無抵抗な人々を一方的に殺戮した。殺   
   された人の中に、女性や子どもや老人が非常に多く抗日運動など考えられ
   ない赤ん坊までもが殺されている。 
 3 殺害の仕方が「現地処分」や「厳重処分」という方法で法的手続きなしに
   行われている。交戦中の射殺ではなく、捕らえた者や抵抗できない者を法
   的手続きなしに射殺することは戦時国際法違反なのである。 
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泰緬鉄道俘虜収容所

2007年12月15日 | 国際政治

 元英国陸軍大尉アーネスト・ゴードンの「クワイ河収容所」(ちくま学
芸文庫)は、地獄でさえこれほどひどくはないと思われるような状況の中
で生を喪失した俘虜の世界に生を回復させ、人間の尊厳を取り戻す経緯を
ていねいに描いているが、一面では、泰緬鉄道敷設工事における日本軍の
残虐行為を、意図するかしないかにかかわらず明らかにする一冊となって
いる。
 ゴードンはアカデミー賞映画「戦場にかける橋」の原作小説を読んで、
収容所で起こったことを伝えたい衝動を感じたという。原作は根本的には
娯楽小説だというのである。そして、異国の地で死んでいった戦友のため
に、彼が体験したことを公にする責任を感じたというのである。日本軍が
いかに人権意識や法遵守の意識を欠いていたか思い知らされる。

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泰緬鉄道建設における戦争責任-2

2007年12月02日 | 国際・政治

 -----緬鉄道建設に関わるBC級裁判の問題 -----

 戦後の泰緬鉄道建設にかかわるBC級戦争裁判で有罪の宣告を受けた
人は111人、死刑は32人にのぼったが、残された問題が二つある。

 一つは、この事件の裁判は、俘虜の虐待と虐待致死についてのみであ
り、東南アジアを中心とする人々のいわゆる「ロームシャ狩り」や強制
連行、および10万ともいわれる虐待致死については裁かれていないし
ほとんど何の補償もされていないことである。

 もう一つは、裁かれた人の多くが捕虜に直接関わっていた収容所監視
員で、その大部分が日本軍と捕虜の間におかれ捕虜によくしようとすれ
ば日本軍に責められ、日本軍に従順にしようとすれば捕虜に厳しくなる
という朝鮮人軍属であったことだ。 その一人千葉光麟(千光麟)は、
「私は、捕虜監視員になりたくてなったのではありません。その年ごろ
の青年のひとりとして、日本の警察に強制されてここに来たのです」と
減刑嘆願書の中に書いている。
 鉄道建設の命令やその期限の決定、捕虜を建設作業に従事させること、
食料や医薬品その他の極めて不十分な補給、無理な行軍や作業現場付近
および宿舎の不良・未整備などは監視員レベルの責任ではありえない。
日本人に見下され、軽蔑され、残酷に扱われたていた朝鮮人に捕虜の監
視を命じたのは日本軍の上部組織であり高級将校である。しかしながら、
当時日本軍の中で最も序列の低かった朝鮮人が、泰緬鉄道建設にかかわ
る戦争裁判では、上官よりずっと厳しく罰せらているのある。
 また、1945年8月20日戦犯裁判に対処するため、東京の俘虜収
容所長から各収容所長へ
-------------------------------- 
 「俘虜及び軍の抑留者を虐待し、或いは甚だしく悪感情を懐かれある
 職員は、此の際、速やかに他に転属或いは行方を一斉に晦す如く処理
 す るを可とす。又、敵に任ずるを不利とする書類も、秘密書類同様
 用済みの後は必ず廃棄のこと」
--------------------------------
と緊急電報が送られている。
 さらに、陸軍大臣から関係部隊に「俘虜取扱関係連合側訊問に対する
応答要領等に関する件達」なる通達を発しているが
--------------------------------
 「国内に於ける労務、食糧、医療等の事情及国民の戦争各時期毎に於
 ける対俘虜感情(特に敵愾心)及彼我言語、風習、嗜好(特に食事)
 の差異等に関連して俘虜管理当事者の苦心、特に彼らの社会的軽視、
 誤解、迫害に対する隠忍等に至りては其の実情を充分公明にし且又俘
 虜収容所の編制素質(特に台、鮮人)、教育等の実態を一般部隊等と
 関連対比して能く其の因って来る所以を明にす」
--------------------------------
と虐待の一因が、台湾人や朝鮮人の存在にあるかのような内容になって
いるのである。
 1942年8月にタイ、マレー、ジャワに送られた捕虜監視要員の朝
鮮人軍属は3000人で、台湾人軍属はおもに、ボルネオとフィリピン
の収容所に送られたという。
       (「日本は捕虜をどのように管理したのか」内海 愛子)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 朝鮮人捕虜監視員として、予想外の仕事をさせられ、監視以外にはほ
とんど何の権限も持たず、命令には絶対服従の立場に置かれたのに、絞
首刑の判決を受けた李鶴来さんは、
--------------------------------
 ・祖国が独立した歓喜に溢れているのに、捕虜を虐待した罪で死刑
  になるとは!!
 ・民族に対する申しわけなさと棄民になった寂しさ!!
 ・この凶報を聞いた親兄弟のかなしみ!!
 ・いったい、誰のために、なんのためにしんでいくのか!!
--------------------------------
と悩み続けたといいます。日本人戦犯のような「お国のために死んでい
く」という心のよりどころがなく悩み続けたというのです。幸い減刑さ
れ1956年に仮釈放されたけれど、対日協力者という民族的負い目が
重くかさなり、生まれ育った祖国、愛する祖国に帰れず、仕方なく日本
に住みついたそうです。
 そして、日本政府のきちんとした謝罪と国家補償がないだけでなく、
日本国のための戦争にかり出され、戦犯にまでされた韓国、台湾出身戦
犯者を、国籍条項により、いっさいの援護対象からも排除していること
を絶対容認できないと訴えているのです。
   (「加害者の一員として-朝鮮人元監視員の報告」 李 鶴来)

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泰緬鉄道建設工事における戦争責任-その1

2007年12月01日 | 国際・政治

泰緬鉄道建設工事における捕虜や東南アジア人労務者の酷使には
花岡鉱山や麻生鉱山と通じるものがあります。
 泰緬鉄道(タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約
415キロ)はビルマ経由の援蒋ルートの遮断とインド侵入のため
のビルマ作戦を進めるため大本営が1942年6月に建設命令を出
し、翌年10月に完成した鉄道です。この鉄道の建設工事は大本営
の強い早期開通要求で、常識では考えられないような突貫工事にな
りました。
 当初は、東南アジアの占領地に職業紹介所を設置し、労務者を募
集したようですが、労働条件の悪さが伝わり応募者が激減すると、
役人に命じて集落に一定の人数を割り当てたり、いわゆる「ローム
シャ狩り」や強制連行が行われたといいます。
 建設工事に動員された捕虜はおよそ6万5千人、労務者はビルマ
18万人、マレー8万人、インドネシア4万5千人で、地元タイや
その他を合わせると35万人を上回るといいます。
 この鉄道工事は難所が多く(架橋およそ300)また、悪性伝染
病の地である上に、補給体制の不備で、食料はもちろん医薬品や靴、
衣服などの補給が極めて少なく、「枕木一本、人一人」といわれる
ほどの犠牲者を出しました。犠牲者はイギリス、オーストラリア、
オランダを中心とする連合国の捕虜1万2千、東南アジアの労務者
およそ3万3千といわれています。(10万以上という説もありま
すが、実数は正確にはつかめないようです。Fフォースの捕虜の所
属する中隊の記録には、
・「食料は定量の五分の一、ほとんどが下痢をしている」とか
・「朝、お粥と薄いスープ、昼、お粥とコーヒー半杯、夜、お粥。
 『捕虜が身の置き所がないぐらい空腹だ』という。増水、膝まで
 の泥。」とか
・「捕虜560人中、作業に出られる者60人。『骸骨が靴をはい
 ている』。この日死者50人」
 などというようなことが書き留められているそうです。

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カンチャナブリー憲兵分隊勤務を命ぜられ、はじめて捕虜収容所の
矢来を訪れた時の様子を、永瀬隆氏は次のように書いています。
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「屋根の無い小屋(?)が点在しているだけである。床は大きな青
竹を真二つに割って、山形になったほうを上向きに並べ、壁は小竹
をこれまた並べて立ててあるだけである。青く、切り口のくさい臭
いのするごつごつした床の上に、びしょぬれになった毛布をそれぞ
れまとって、ブルブルふるえているのが病気の捕虜であった。身に
まとった一枚の毛布はすり切れてケバ立ち、しみこんだ雨が動くた
びに滲み出す。マラリア熱の発作で苦しんでいるのだ。そのような
熱発患者が3人・4人と肩を寄せ合って、ガタガタと身をふるわせ、
熱病患者特有の力のないうるんだ瞳で、絶望的に私に訴えかけてい
る。捕虜の将校がやって来て、周囲の状況を指し示しながら『どう
にかならないか』と哀願する。かたわらの日本軍下士官は『連れて
来てみたら、なんも設営の準備もしてなくて』と弁解していたが、
日本軍の小屋には屋根はあった。捕虜将校は『一週間前からこの状
態です。毎日雨ざらしになっているので、病人がどんどん増えて処
置しです』・・・」
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参考図書  ・-「戦場にかける橋」のウソと真実-
                 永瀬 隆
     ・泰緬鉄道と日本の戦争責任
       -捕虜とロームシャと朝鮮人と-
      内海 愛子、G・マコーマック、H・ネルソン(編著) 
          ・50年目の証言
       -アジア太平洋戦争の傷跡を訪ねて-
                 森 武麿 

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