真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「東京裁判」と「南京大虐殺」(渡辺昇一)を読んで NO1

2016年01月27日 | 国際・政治

「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)の中に、”「南京大虐殺」の真相とは”と題された文章があります。それを読んで、「渡部昇一」というような著名な学者が、様々な資料が存在し、議論のある大事な歴史的事実について、その資料をほとんど検証することなく、一方的、断定的に「南京大虐殺」を論じておられることに、とても問題を感じました。

 そして、渡部氏は、自身で名前をあげておられる、田中正明氏、阿羅健一氏、板倉由明氏、富士信夫氏の研究に全面的に依拠して、南京大虐殺を語っておられるように思えます。渡辺氏自身の記述には、「南京大虐殺」に関わる新たな資料や検証はほとんどありません。出てくるのは、下記のように「南京大虐殺」とは直接関わりのない『名将言行録』(岡谷繁実)や、それに類する「お話」です。

 そして、上記の研究者に依拠しつつ、”なんと、全員殺しても30万に満たない!”などと題して、勝手に枠をはめて、「南京大虐殺」を否定されているように思うのです。いろいろな人の著作に対する疑問点として、すでに指摘してきたことですが、簡単にまとめると、「全員殺しても30万に満たない」「全員」とは、いったいどの範囲のどういう人たちか、ということです。虐殺は、南京陥落前に、南京攻略に向かった時点から始まっていると言われています。それは、上海戦で多くの戦友を失い苦しめられたことや、補給がほとんどない状態での攻略戦であったことが一因であると考えられているのです。
 南京事件に関わる著作の多い、笠原教授は、大本営が南京攻略戦を下命した時の日本軍の侵攻地点をもとに、南京事件の地理的範囲を南京行政区とされています。それは、集団虐殺が長江沿い、紫金山山麓、水西門外などに集中していること、投降兵あるいは便衣兵容疑の者が城内より城外へ連行され殺害されたこと、日本軍の包囲殲滅戦によって近郊農村にいた 多数の市民が巻き添えとなっていることなどを根拠にされています。勝手に南京城内の人口を推察し、「全員殺しても30万に満たない」ということで、「南京大虐殺」を否定することはできないのです。

 戦意を喪失し武器を捨てた敗残兵や投降兵を、捕虜として処遇することなく、揚子江岸などに引率し集団処刑したことは、否定しようのない事実だと思います。下記にその資料の一部を抜粋したように、第十六師団長の中島今朝吾陸軍中将の日記には、捕虜殺害の命令に関する記述があり、第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』などには「…聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク、イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ」などという記述があり、さらに、歩兵第65連隊上等兵の陣中日記には、「…その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した」などという記述が残されてるのです。元日本兵の捕虜殺害に関する証言も少なくありません。

 南京城内で、日本兵が中国人30万人を虐殺したというのではないのです。「全員殺しても30万に満たない」というためには、南京城内の人口ではなく、南京行政区の人口および南京攻略戦以降、日本軍と戦った中国兵の数を確定する必要があるといわなければなりません。

 また、「なんと、陥落直後に人口が急増しているのだ」や「南京陥落の最初の一月ぐらいは20万人であるが、一ヶ月も経つと、5万人増加している」という記述にも問題があると思います。軍が国内向けに流した情報以外に根拠がなく、逆に、南京安全区国際委員会の代表であったラーベは
”…私たちはすべての通りに難民誘導員をおきました。ついに安全区がいっぱいになったとき、私たちはな んと25万人の難民という「人間の蜂の巣」に住むことになりました。最悪の場合として想定した数より、さらに五万人も多かったのです。”
 と書いているのです。5万人増加したのではなく、難民は20万人と予想していたが、実は25万人の難民を抱え込んでいたと書いているのです。

 さらに渡部氏は、

日本中に、そういう帰還兵がいたのに、30万とか40万もの市民を虐殺した話をした兵士が一人もいないということは、実にありえぬことである。
と書いていますが、そうでしょうか。「南京大虐殺」という言葉や、「30万」というような数字は、戦後、調査結果に基づいて語られるようになったもので、南京戦に関わった当時の帰還兵が、そういう話をするわけはないと思います。
 同時に、そうした主張は、当時の軍の姿勢や日本兵の認識・立場を十分踏まえていないようにも思います。学徒出陣によって中国河北省の駐屯部隊に陸軍二等兵とて配属された渡部良三の歌集「小さな抵抗」などを読めば、当時の日本軍の姿勢や日本兵の認識・立場がいろいろわかります。
 「一人もいない」という断定もいかがなものかと思います。

 東京大空襲や広島・長崎の原爆犠牲者数と「南京大虐殺」による犠牲者数の比較も的外れではないでしょうか。「南京大虐殺」は、 南京攻略の命令(大陸命第8号、昭和12年12月1日)が下されて以降、2ケ月近い期間、様々な場所における犠牲者を取り上げて論じられているのです。犠牲者の埋葬に関わる資料なども無視できません。

 下記は、「日本史から見た日本人 昭和編 立憲君主国家の崩壊と繁栄の謎」渡部昇一(祥伝社黄金文庫)からの一部抜粋です。
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               3章 国際政治を激変させた戦後の歩み
                      ─── なぜ、わずか40年で勝者と敗者の立場が逆転したのか                            
(1) 敗者の悲劇 ────  「東京裁判」と「南京大虐殺」                              

 まず、30万人という数字への疑問
 「南京大虐殺」は東京裁判中、日本人を寝耳に水のごとく驚愕せしめた報道であった。
 戦後のラジオ放送に「真相箱」というのがあった。戦争中─特にミッドウェイ海戦敗北後─大本営発表というデマに馴れていた日本人に、「真相箱」は、驚くほど信憑性が高かった。大本営は日本海軍に空母がなくなったことも、大和・武蔵の大戦艦が沈んでしまったことも、国民には少しも知らせなかった。大海軍も、敗戦になったら、ほとんど何も残っていない状態だった。
 そんな時に「真相箱」は駆逐艦一隻の沈んだ場所も時間も知らせてくれた。戦時中の報道は、特にミッドウェイ海戦後はまったくあてにならない大本営発表ばかりだったのに、戦後の報道は「真相箱」に象徴されるように信用できる、ということを国民は強烈に脳裡に烙きつけられていたのである。
 そんな時に、「南京大虐殺」が東京裁判の法廷から証拠付きで報道されはじめたのだから、日本人は、それを頭から信じたのも無理はない。
 
 私もその一人であった。ところが、しばらくすると、その報道を信じた時には、気が付かなかったことを、いろいろ思い付くようになったのである。
 まだ、小学校の六年生の時だった。近所の高等小学生だったO君が、「もう赤城も加賀も沈んだってさ」と話しているのを聞いて、実に不愉快な気持ちになったことを覚えている。赤城、加賀といえば、アメリカのレキシントン、ヨークタウンに対比される日本の代表的空母である。それが沈んでしまっていると聞いては、心が穏やかではない。
 戦後になって考えてみると、それは、ミッドウェイの敗戦のことだったし、O君の情報は正確だったのである。
 高級軍人や政府要員などとはコネのない東北の小市民のところにも、そうした機密情報は、実に素早く伝わっていたことに驚かざるをえない。軍当局は、ミッドウェイの敗戦と損害の程度は、軍事機密として国民に知らせなかったのである。しかし、それは役に立たなかった。生きて帰った水兵たちは、どんなに口止めされても近親者や水兵仲間に洩らすこともあろう。
 軍機に与る高級将校でなくとも、軍が隠したい情報は、このようにして民間に流れていた。

 これに反して、南京大虐殺などという話は聞いたことがなかった。
 日華事変のはじめの頃に出征した人たちの中には、途中で帰還してきた人もずいぶんいる。私の家のすぐ隣の家のご主人も、事変が勃発すると、すぐに出世したが、二、三年で帰ってきていた。そういう例は、ほかにもあった。
 日本中に、そういう帰還兵がいたのに、30万とか40万もの市民を虐殺した話をした兵士が一人もいないということは、実にありえぬことである。                   
 これが、私が南京大虐殺に首をひねりはじめたきっかけだった。
 また、一口に30万とか40万とか言うが、それは途方もない数である。
 昭和20年(1945)3月10日の東京空襲は、約300機のB29が、住宅焼尽・住民殺傷を目的とし、2時間半の間に、約1665トンの焼夷弾を投下したものである。広大な東京は一挙に燃え上がった。その時の死者が8万強である。
 広島の原爆の場合は、市民約30万6500人あまりのうち、推定で24万7000人が死亡、長崎の場合は約7万4000人が死亡している。最近のソ連の地震では、全地域で見渡すかぎり廃墟である。そこでの死者は、全地域で4万人ぐらいと報ぜられている。
 このようなことを念頭において「南京大虐殺」を考えてみなければならない。
 一般に数の把握というものは、はなはだむずかしいもののようである。
 『名将言行録』(岡谷繁実)に、こんな話が載っている。
 武田信玄の姉は、今川義元の妻である。
 この姉から、貝掩い(カイオイ・女子用の遊び道具)にするようにと言って、たくさんの蛤が送ってきた。信玄は大粒のものと小粒のものを選り分け、大粒のものを母のところに届けさせた。
 残った小粒の蛤は畳二畳分ぐらい、高さ一尺ぐらいあった。小姓たちに数えさせたら、3700ぐらいあった。
 そこで出仕してきた将士に、この蛤の数を当てさせた。いずれも戦場で手柄を立てている武士たちで、兵士の数の見積もりなどはできるはずの人だった。
 ところが、どの武将も2万とか1万5000とか言う。
 これを聞いていた信玄は、
「戦場の人数というものは、言われるほど多いものではないに違いない。5000人の人数があったら、何万人とでも称しうるであろう」
と言ったという。
 このときの信玄の年齢は、わずか13という。信玄は後になって、クーデターで父を追い出した形になるが、家来たちが信玄にしたがったのは、このような天才だったからである。
 「5000以下の数は、何万といっても同じ」という話は、戦国時代だけに特別な切実感がある。
 考えてみると、旧制中学の全校生徒が査閲(軍事教練を査閲官という高級軍人に見てもらって、その学校の評価を受けること)のために校庭に整列すると、広い校庭が見わたすかぎりいっぱいという感じであった。しかし、今考えてみると、700人ぐらいのものである。
 これが、全員死体となって転がっているとすれば、見わたすかぎりの死体で、何千と言われても、そう思うだろう。いわんや、5000人ものしたいだったら、信玄の言うとおり、何万と言っても通じるであろう。
 戦場の興奮状態で、印象だけで何万人の死などと言っても、何の信憑性もないと言ってよい。


 なんと、全員殺しても30万に満たない!
 では、まず第一に、昭和12年(1937)12月13日の南京陥落の直前に南京にいた人口はどのくらいであったか。それは当時の数多くの証言から、かなり正確に分かっているのである。まず、市民のほうから見てみよう。(田中・前掲書『南京事件の総括』161ページ)

 15万人 ─ フランクフルター紙特派員リリー・アベック女史が、陥落直前の南京を脱出して書いた『南京脱出記』(『文藝春秋』昭和13年2月号)
 15万人 ─ 『ライフ』誌
 10万人 ─ 張群思少佐(日本軍捕虜)
 20万人 ─ 劉啓雄少将(日本軍捕虜・のち汪兆銘政府軍官学校長)
 12万余 ─ 松井大将の『陣中日記』
 これらは、いずれも当時の証言であることに注目したい。
 では、守備していた唐生智将軍の軍隊の数はと言えば、公文書では5万人。しかし、もっと丁寧に見ると、3万5000人ぐらいである。したがって、一番多い見積もりをしても、軍民合わせて25万、一番少ない見積もりで16万である。よしんば全員殺されても、それがだけということになるが、しかも、なんと、陥落直後に人口が急増しているのだ。
 今日は忘れられがちであるが、日華事変はあくまでも事変であり、日中戦でなかった。おたがいに宣戦布告はしていなかったのである。したがって、当時の南京には欧米諸国の外交機関も赤十字もあり、機能していたのである。
 戦争が南京に迫ると、金持ちたちは避難のため退却するものが少なくなかった。一方、欧米人が中心になって、南京安全区国際委員会が作られ、退却しない非戦闘員の市民の保護にあたっていた。この委員会は、安全区に保護している市民の食糧について心配しなければならないから、人口の把握はかなり正確である。
 これによると、南京陥落の最初の一月ぐらいは20万人であるが、一ヶ月も経つと、5万人増加している。当時の新聞記者も、落城の数日後には銭荘(両替屋)が開かれていたのを目撃している。治安恢復が口コミで伝わると、続々と避難民が帰ってきている。当時の中国人の民衆は自分の国の敗残兵よりは、日本軍の治安を信用していた。その後、南京は8年近く日本軍の下にあるが、民衆は増えこそすれ減らないのである。 
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下記の
資料1は『南京戦史資料集』南京戦史資料編纂委員会編(偕行社)
資料2は『南京戦史資料集』南京戦史資料編纂委員会編(偕行社)

資料3「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記」小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)
資料4『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)
 から、そのごく一部を抜粋したものです。 
資料1  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 

                  中島今朝吾日記
                              第十六師団長・陸軍中将15期
                              12月13日  天気晴朗 
一、天文台附近ノ戦闘ニ於テ工兵学校教官工兵少佐ヲ捕ヘ彼ガ地雷ノ位置ヲ知リ居タルコトヲ承知シタレバ彼ヲ尋問シテ全般ノ地雷布設位置ヲ知ラントセシガ、歩兵ハ既ニ之ヲ斬殺セリ、兵隊君ニハカナワヌカナワヌ

一、本日正午高山剣士来着ス
   捕虜7名アリ直ニ試斬ヲ為サシム
   時恰モ小生ノ刀モ亦此時彼ヲシテ試斬セシメ頸二ツヲ見事斬リタリ

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦騒擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 13日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中ゝ実行ハ敏速ニハ出来ズ、斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ参謀本部ハ大多忙ヲ極メタリ

一、後ニ到リテ知ル処ニ依リ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約1万5千、太平門ニ於ケル守備ノ一中隊ガ処理セシモノ約1300其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約7~8千人アリ尚続々投降シ来タル

一、此7~8千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百 2百ニ分割シタル後適当ノケ処ニ誘キテ処理スル予定ナリ

一、此敗残兵ノ後始末ガ概シテ第十六師団方面ニ多ク、従ツテ師団ハ入城ダ投宿ダナド云フ暇ナクシテ東奔西走シツヽアリ

一、兵ヲ掃蕩スルト共ニ一方ニ危険ナル地雷ヲ発見シ処理シ又残棄兵器ノ収集モ之ヲ為サザルベカラズ兵器弾薬ノ如キ相当額ノモノアルラシ
 之ガ整理ノ為ニハ爾後数日ヲ要スルナラン
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
      第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』12月13日

”八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営  地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
  第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
  捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 [伊藤喜八]陣中日記  所属:歩兵第65連隊第1中隊・編成 階級:上等兵
12月17日
 午前8時出発、湯山鎮から自動車にて途中軍官学校、総理の墓、色々と戦友の墓など思ひもくたう(黙祷)して南京中山門通過、我部隊に復帰出来るだろう、午前10時到着。
 門内、励志社、陸軍軍官学校、警護司令部などあった。
 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。
ーーー
 [宮本省吾]陣中日記  所属:歩兵第65連隊第4中隊・第3次補充  階級:少尉
〔12月〕16日
 警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第2中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。

〔12月〕17日 (小雪)
 本日は一部南京入場式に参加、大部は捕虜兵の処分に任ず、小官は8時半出発南京に行軍、午后晴れの南京入城式に参加、荘厳なる史的光景を目のあたり見る事が出来た。
 夕方漸く帰り直ちに捕虜兵の処分に加わり出発す、2万以上の事とて終に大失態に会ひ友軍にも多数死傷者を出してしまつた。
 中隊死者1傷者2に達す。
ーーー
  大寺隆陣中日記  所属:歩兵第65連帯第7中隊・第4次補充  階級:上等兵
12月17日
 ・・・
 〔空頁への記事〕 
 平安路ヲ南進。
 南京ノ捕虜約10万、
 9、11、13ノ各師団。
 65ノホリヨ1万2千。
12月18日
・・・
 昨夜までに殺した捕リヨは約2万、揚子江岸に2ヶ所に山のように重なつて居るそうだ、7時だが未だ片付け隊は帰へつて来ない。 
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊  大沢一男 1916年12月生まれ 2000年12月取材

  夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあか んと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空 壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっ としている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。

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