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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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嘘と脅しとテロ絡みの武力討幕 NO1

2019年03月31日 | 国際・政治

 明治天皇は、孝明天皇が亡くなったため、慶応3年(1867年)2月13日、元服前の満14歳で践祚の儀を行い皇位についたといいます。今なら中学生の年齢です。その明治天皇が、みずからの父親である孝明天皇の意に反する「討幕の密勅」を下すことがあり得るでしょうか。
 孝明天皇は、いやがる妹和宮を説伏せ、江戸降嫁を求める幕府からの申し入れを受け入れて、和宮を徳川家茂(14代将軍)に嫁がせた関係で、一貫して公武合体を主張し、過激な討幕運動には反対だったといいます。
 ところが、「討幕の密勅」の文章には、”賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し…”とあります。「殄戮」というのは、「殺し尽くす」というような意味だといいます。満14歳で践祚した明治天皇が、討幕の密勅に書かれているような、孝明天皇とは著しく異なる思いを、どのようにして持つにいたったのか、とても疑問です。

 朝廷や天皇と幕府の間に深刻な対立があり、それを聞かされて育ったというのなら、話はわかりますが、孝明天皇は幕府の要請を受けて妹和宮を降嫁させ、その後も和宮を気遣っていたといいます。攘夷を望みつつも、公武合体の立場をとっていたのです。だから、その内容からして「討幕の密勅」は「偽勅」であろうと、私は考えるのです。

 さらにいえば、討幕の方針で手を結んだのは、「関ヶ原の合戦」で敗戦した藩が中心であったといわれています。だから、ながく反幕府の精神を持ち続けたといわれる長州藩が、「討幕の密勅」が下るまえに、くりかえし幕府と衝突していることも見逃すことができません。長州藩は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、幕府から長州征伐の軍を送られているのです。
 そうしたことを考えると、薩長両藩に下された「討幕の密勅」は、幕府と折り合いのわるい長州藩や孝明天皇の死後復活した尊王攘夷急進派公家が画策したものだろうと、私は思います。「四奸二嬪」の弾劾やその後の処分も、そうした動きとひとつのものではないかと思います。

 
 「討幕の密勅」に関しては、「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」井上勲著(中公新書)に、密勅が下る経過や、偽勅であると考えられるいくつかの証拠、また、「討幕の密勅」の目的が記されていますが、著者は、同書のなかで、「討幕の密勅」が「偽勅」であるとしたうえで、

討幕の密勅にかかわる一連の行為、作成と交付と受諾の一連の行為は、共同謀議というに等しい。密勅が偽勅であれば、こら等の作成は犯罪である。 これにかかわった者は、いわば共同正犯である。”

 と書いています。まさに天皇の名を利用した犯罪だということです。

 この文章と関連して思い出されるのが、孝明天皇毒殺説です。「天皇家の歴史(下)」ねずまさし(三一書房)には、孝明天皇の死後”ただちに毒殺の世評おこる”と題して


このように順調に快方に向かっていたにもかかわらず、天皇は突然世を去った。典医の報告は重要な日誌を欠いているため疑惑を一層深めるが、これと符節を合わせたように、毒殺説が早くも数日後廷臣の間にあらわれた。
 とあります。そして、”典医の報告でも毒殺を暗示する”として、毒殺が疑われる事実をいくつかあげ、”天皇は討幕派の闘争の血祭りにあげられたといってよい”と結論しているのです。
 
 尊王攘夷急進派の、こうした討幕に関わる一連の事件を考えれば、「明治時代は、嘘と脅しとテロによって始まった」と言わざるを得ないと思います。

 下記は、「王政復古 慶応三年十二月九日の政変」井上勲著(中公新書)から、一部を抜粋しました。

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                        第五章 慶応三年の冬

                          1 討幕の密勅     
 経過
 慶応三年十月十三日、島津久光・忠義父子に討幕の密勅が下った。同日、毛利敬親・定広の父子に対して、官位復旧の沙汰書が下った。ここに長州藩は、全面復権をとげたということになる。そして翌十四日、毛利敬親・定広に討幕の密勅が下った。これに付随して両藩主父子に、松平容保と松平定敬(サダアキ)の二名の討伐を命ずる沙汰書が下った。
 討幕の密勅を中心に、この一連の文書については、疑問が多い。とくに討幕の密勅について、文書の様式からみて詔書(ショウショ)か綸旨(リンジ)か、また真勅か偽勅か、何ゆえに十月十三日・十四日なのか、くわえて目的は、等々、多くの疑問が呈せられている。ともあれ、討幕の密勅の全文を掲げる。

 詔す。源慶喜、累世(ルイセイ)の威を藉(カ)り、闔族(コウゾク)の強を恃(タノ)み、みだりに忠良を賊害し、しばしば王命を棄絶(キゼツ)し、ついに先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑(コウガク)に擠(オトシイ)れて顧みず、罪悪の至る所、神州まさに傾覆すべからん。朕、今、民の父母たり。この賊にして討たずんば、何を以ってか、上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讎(シンシュウ)に報いんや。これ、朕の憂憤の在る所、諒闇(リョウアン)にして顧みざるは、万やむをえざる也。汝、よろしく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮(テンリク)し、以って速やかに回天の偉勲を奏し、しこうして生霊を山嶽の安きに措くべし。此れ朕の願、敢えてあるいは懈(オコタ)ることなかれ。

 密勅降下の経緯について述べる。九月の、第一次出兵同盟にもづく武力討幕の戦略構想に、勅諚降下があったことは、充分に想像できる。京都で一挙奪玉の政変があり、時をおいて大坂城攻撃がある。そしてその双方を、天皇の名において正当化する文書が必要だからである。
 小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通の三名が相当の宣旨を要請して、その趣意書と上書とを提出した日時が十月八日であったことは、たしかである。そして相当の宣旨が、討幕の密勅と同じ文面である可能性もたかい。けれども、十月八日の上書にいう相当の宣旨と討幕の密勅とは、たとえ同文であっても、その性格を異にする。以下のように、その性格を異にする
 
 この日、十月八日は、大久保利通・広沢真臣・植田乙次郎の三名の薩長芸三藩の藩士が中山忠能(タダヤス)と中御門経之を訪うて、挙兵討幕への決意を述べた日である。そして、この二人の廷臣に、即応の朝廷工作を要請した日である。その朝廷工作の一つに、上書にいう相当の宣旨の降下があった。相当の宣旨は、失機改図(機会を逃した為の計画の変更)以前の、九月の討幕の戦略構想におけるそれであった。
 したがって相当の宣旨は、薩長芸三藩の藩主に布達されるべき文書である。そのことは、宣旨を要請する上書がよく示している。上書は三藩出兵同盟の成立をさして、両三藩制すべからざるの忠義暗号と形容している。ここでいう両三藩は、薩長芸の三藩のことである。だから、十月八日の大久保利通は、広沢真臣に加えて、安芸藩士の植田乙次郎に同道を求めたのである。もしかりに、相当の宣旨が討幕の密勅であるのなら、大久保が植田をともなうことはなかっただろう。安芸藩士をともなって中山と中御門の二人の廷臣に面会しながら、同時に、薩長二藩への討幕の密勅を奏請することは、奇妙というより他あるまい。
 相当の宣旨は、密勅ではなくして、外に公示されるべき性格の文書であった。京都での政変と大坂で挙兵と、これに正当性を付与する役割を期待されているわけだから、外に示されるべきなのである。そして、これが発令される日は、三藩の兵が大坂に上陸してよりのちの何日かであって、十月十三日でもなければ十四日と定まっていたわけでもなかった。
 以上のこと、つまり相当の宣旨と討幕の密勅とが異なる性格をもつ文書であったことは、さらに広沢真臣の行動がこれを裏づける。くり返すが、宣旨降下を要請する上書が提出されたのは、十月八日である。広沢は、その夜に京を去っている。宣旨をうけることなく、帰国の途についている。
広沢は、木戸孝允とならぶ長州藩の指導者である。出兵同盟の遂行について、木戸がいわば後方の指導にあたっていたのに対して、薩芸両藩との交渉を担当したのは広沢であった。もし相当の宣旨が討幕の密勅であれば、広沢に交付されていてしかるべきだろう。けれども交付されなかった。相当の宣旨は、十月八日のこの時点で、広沢──というより長州藩主に交付されるべき性格の文書ではなかった。三藩の兵が大坂に上陸してのちに、交付されるべき文書なのであった。ちなみに、長州藩主父子への官位復旧の沙汰書、討幕の密勅、松平容保・定敬を討伐することを命ずる沙汰書、これらの一連の文書が交付される時には、大久保と広沢とはつねに行動をともにしていて、安芸藩士をともなうことはなかった。

 討幕の密勅は、十月八日以降に生じた何かの事情により、急ぎそして秘密の裡に作成され、そして交付された文書なのである。八日から十四日にいたる四日間、朝廷、幕府、土佐藩に、とくに新たな行動の兆しがあったわけではない。十三ないし十四日という日付は、大政奉還のあった十五日と関係づけて説明されることがあるけれども、これが成立しないことは後記する。

 情況の変化は薩長の側に生じていた。福田侠平が入京して、薩摩藩兵が三田尻に到着していないとの情報をもたらしたのが九日の夜、広沢が大坂からふたたび京に入ったのが十日の夜、広沢と福田との協議ののち、小松・西郷・大久保の三名が改図の方向を定め、藩主の率兵上洛を戦術構想の基本にすえたのが十一日である。十二日が過ぎた。

 十月十三日の夜、大久保は広沢をともなって岩倉具視を訪うた。岩倉は、広沢に長州藩主父子への官位復旧の沙汰書を交付した。本来であれば、中山忠能から手渡されるべきはずのものだがと、このような言葉を添えながら交付した。翌十四日は、徳川慶喜が大政奉還の上表文を朝廷に提出した日である。この日、小松・西郷・ 大久保は協議して、大政奉還の速やかな実現をはかるための行動に着手した。小松は二条城に徳川慶喜への面会を求め、ついで二条斉敬(ニジョウナリユキ)を訪い、大政奉還の上表文の受理を要請した。大久保は、広沢と同道して正親町三条実愛(オオギマチサンジョウサネナル)を訪うた。正親町三条は討幕の密勅を手渡し、請書の提出を求めた。請書が提出された。これに署名した者は、小松・西郷・大久保および広沢・福田・品川の薩長両藩士の六名である。
 十月十五日、朝廷は大政奉還の上表を受理した。大政奉還である。十六日が過ぎた。そして十七日、先の六名の薩長両藩士は、ともに京を去って帰国の途についた。では、改めて討幕の密勅とは何なのか。

 偽勅か
 討幕の密勅は詔の字ではじまる。詔で始まる文書は、詔書である。けれども密勅は詔書ではない。詔書は価値の高い文書であるから、相応の手続きが必要である。律令法の効力が失われて久しい幕末の朝廷においても、少なくとも次の手続きを要した。原案が作成され天皇のもとに提出される。承認すれば、天皇はみずからの筆で、日付の一字を記入する。御画日(ゴカクジツ)である。ついで、この写しが摂政ないし関白に送られる。摂政ないし関白は朝廷会議を開いて、これを検討する。妥当であるとの結論を得たならば、これの施行を奏上する。天皇は可の一字を記入して施行を許可する。御画可(ゴカクカ)である。討幕の密勅には、御画日も御画可もない。正親町三条実愛によれば、討幕の密勅は綸旨(リンジ)であるという。綸旨は、蔵人と限定しなくとも側近の者が、天皇の意向をうけて発行する文書である。したがって文章は、伝聞形の間接の表現となる。書き出しは、綸旨を被(コウム)るとか、あるいは末尾に綸言此の如しとか、天気此の如しとか、そのような表現が用いられる。けれども討幕の密勅は、天皇が直接にことを命じているような文体で、詔書に近い。

 密勅の文章を草したのは、玉松操(タママツミサオ)である。堂上家の父をもつ国学者、そして慶応三年二月いらい、岩倉具視の側近にあった人である。討幕の密勅について、玉松操は意を込めて詔書の文体を用いて作成したのだろう。
 密勅の内容からして、詔書の手続きをとれるはずはない。摂政は二条斉敬である。二条斉敬が徳川慶喜の追討を許可するはずはない。許可しないばかりか、これの作成にかかわった廷臣を処分するかもしれない。事実、詔書の手続きはとられなかった。だから正親町三条実愛は、密勅を綸旨というのである。
 これを綸旨とすれば、側近の者が天皇の意向をうけていなければならない。発行の事前に、天皇からの了解をえておく必要がある。そうでなければ、偽勅ということになる。
 討幕の密勅は、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之の三名が、天皇の意向をうけたという形式になっている。この三名の廷臣のうち、中山が秘かに天皇のもとを訪い、奏上し裁可をえたと、かかる伝承がある。
 けれども、中山は密勅の作成にかかわることが少なかったとの証言がある。王政復古が過去の事件となって、これによって生まれた国家が強力な骨格をもちつつあった明治二十四年のこと、正親町三条実愛は質問に答え、中山が名ばかりの参加であること、くわえて、密勅が秘密の裡に作成されたことを、次のように証言している。

問 討幕の勅書を薩長二藩に賜わりしは、如何なる次第に候や。
答 余と中御門との取計なり。
問 中山公の御名もあり、是は如何なる次第に候や。
答 中山故一位は名ばかりの加名なり。岩倉が骨折なり。
問 右は二条摂政、または親王方にも御協議ありしことにや。
答 右は二条にも親王方にも、少しも洩さず、極内のことにて、自分等三人と岩倉より外、知るものなし。

 そのとおりである。薩摩藩主父子への密勅は、その全文を正親町三条実愛が書いた。三名の廷臣の署名も、実愛の筆である。長州藩主父子への密勅は、中御門経之が書いた。三名の署名も、経之の筆である。二通の密勅の文面に、忠能の筆は加わっていないのである。ただし、これを天皇に密奏する役割が、忠能に求められた。中山忠能は、天皇の外祖父だからである。そして、忠能は天皇に密奏した、そのように推測されることがある。
 中山忠能は、天皇の外祖父であるけれども、なにかの職にあるわけではない。いわば無職の廷臣が、自由に参内することはできない。参内できたとしても、天皇に単独で面会できるはずもない。昼は、摂政・議奏・武家伝奏が御所内につめている。夜は、典侍局(スケノツボネ)・内侍局(ナイシノツボネ)などの女官が奥向につめている。これらの人々の目をさけて、天皇に単独で面会することは不可能にちかい。

 外祖父であるから、密奏が可能であるかのような印象がある。だが、ことは逆なのである。四侯会議のとき、薩摩藩が中山忠能を議奏の職に推薦したことがある。二条斉敬の朝廷首脳部は、これを拒否した。その主たる理由は、中山忠能が天皇の外祖父だからであった。外祖父であるから天皇を訪うことが容易なのではなくして、外祖父であるから、天皇への接近が拒まれるのである。中山忠能が残した史料のうちに、密奏を挙証する文書はない。
 それでも、密奏はあったかもしれない。一度くらいであれば、その可能性を否定することもできまい。中山忠能が密奏したとされる案件は、討幕の密勅、これの中止を命じた沙汰書、王政復古の構想、これの決行を十二月九日に定めること、以上の四件で、その回数は四度にわたっている。一度であればともかく、四度とも密奏があったとは考えにくい。四度にわたって密奏があったように強調されればそれほどに、密奏なるものは一度も行われなかったように思えてくる。

 密奏があったとする。けれども、密奏は逆の効果をもたらしかねない。密奏をうけたとして、天皇がその内容を二条斉敬に伝えぬという保証はない。二条斉敬は摂政である。何かの奏上をえた場合に、天皇がその内容を摂政につたえることは制度上の慣行だからである。二条斉敬が密奏の内容を知ったならば、これを徳川慶喜に通告する可能性なしとしない。そして関係の廷臣を処分する可能性もまた、なしとしない。密奏は、むしろ、なすべき行為ではなかった。
 中山忠能が密奏して天皇の許可をえたというのは、仮構であろう。これども、討幕の密勅には必要な仮構であった。これがなければ、明らかな偽勅になる。討幕の密勅は真勅である必要はないけれども、明白な偽勅であってはならないのである。

 岩倉具視は、天皇の外祖父というそれらしい理由から、中山忠能に密勅を要請した。忠能が密奏しうるか否かにかかわらず、要請した。そして、なされたと否とにかかわらず、忠能からそれらしい言辞をえて、密奏と天皇の裁可があったかのように見なした。岩倉は、中山忠能が密奏する機会をもたなかったことを知っていたにちがいない。また、密奏した場合の、逆の効果も考慮のうちにあっただろう。岩倉にとって必要なことは、現実に密奏があり、天皇がこれを裁可したか否かにはない。中山が、かのような言辞を洩らせば、それでことは済むのである。そして、他に対しては、密奏があり天皇がことを裁可したかのように仄めかした。そして、これをうけた小松・西郷・大久保も広沢も、それらしく密勅に接した。

 長州藩主父子へ、官位復旧の沙汰書が交付された。そして、薩長藩主父子へ、討幕の密勅が交付された。しかして、同じ内容の文書が、後に、改めて発行されている。同じ内容の朝命が、二度にわたって発行されている。前者は十二月八日の官位復旧の沙汰書であり、後者は、よく慶応四年一月七日の徳川慶喜追討令である。このこともまた、十月十三・十四日の沙汰書と密勅の性格を示して印象的なのである。
 十月十三日に官位復旧の沙汰書があった。けれども、これに関与した者はだれも、この沙汰書の効力を信じていなかったようである。小松・西郷・大久保の三名は、これは先に記したことだが、大政奉還が実現されることを予測して、その上で、できるだけ早い時期に長州藩の権利が回復さるべきことを、徳川慶喜ついで二条斉敬に申し入れている。岩倉もまた二条斉敬にたいして、同様な進言を行なおうとしていた。小松・西郷・大久保そして岩倉は、十月十三日の沙汰書が効力をもたず、また公表することのできない文書とみて、行動しているのである。
 そして十二月八日である。この日の朝廷会議は長州藩主父子の官位復旧を決定し、これの沙汰書を布達した。もしも、十月十三日の沙汰書が効力をもち、公表に耐える文書であれば、十二月八日の朝廷会議も無用なら、そこでの決定も不要のはずである。
 長州藩は、十二月八日の沙汰書を正式の文書とみなした。この沙汰書の正本が京から山口に届けられた時、長州藩主毛利敬親・定広の父子は沐浴して正装に威儀をただして、これを拝受した。そして、官位復旧の沙汰書をうけたことを藩内に布告し、歴代藩主の墓前に報告し、吉田廟に代表の使者を送った。吉田廟は、藩祖毛利元就を祭る社である。

 十月十三日の官位復旧の沙汰書は、長州藩に討幕の密勅を交付するための文書である。長州処分はいまだ解除されていなくて、藩主父子は、いうところの勅勘の身である。討幕の密勅を下すためには、その前提として、処分を解除しなくてはならない。官位復旧の沙汰書は、そのための文書であった。
 十月十三日の沙汰書は、効力をもたない、そして公表を憚られる文書であった。したがって、これを前提として布達された討幕の密勅も、薩摩藩主父子へのそれを含めて、効力に問題があり、公表に耐えうるか否かの疑問が生ずるわけである。

 討幕の密勅の内容は、いわば徳川慶喜追討令である。徳川慶喜追討令は、鳥羽・伏見に戦争が起ったその当初から、西郷と大久保そして岩倉が、求めてやまなかった朝命である。けれども反対の声がつよくて、一月七日に漸く発行されたのだった。もしも討幕の密勅を公表することができるのであれば、改めて、慶喜追討令を必要とすることもあるまい。西郷・大久保そして岩倉は、討幕の密勅を公表せずに追討令を要請したのである。

 討幕の密勅は、奇怪な文書という他はない。朝廷会議での決定をへて作成された文書ではない。中山・正親町三条・中御門そして岩倉の手によって、秘密の裡に作成された文書である。様式からみれば、詔書のようにもみえ、綸旨のようでもある。異態の様式文書である。さらに、正親町三条実愛の回想に信憑をおけば、天皇の裁可をうけているわけではない。その意味は、偽勅である。偽勅であるから、これを公表することはできない。
 偽勅であろう。けれどもこれに、密奏と宸裁の仮構が施されている。密勅にかかわった者は、仮構を、あたかも真実であるかのようにみて行動した。だが、仮構であることは認識のうちにある。だから、討幕の密勅、そして長州藩への官位復旧の沙汰書、くわえて松平容保・松平定敬への討伐の沙汰書、これらの一連の文書を他に示すことができなかった。官位復旧の沙汰書も徳川慶喜追討令も、改めて、これを得なければならなかった。

 目的
 では、討幕の密勅が作成された目的は何か、また、それが果たした役割は何か、これについて、しばしば大政奉還と関係づけて説明される事が有る。大政奉還に先んじて武力討幕の名分をえるために、討幕の密勅が作成されたと説明されることがある。だが、かかる解釈は誤りである。大政奉還に抗して名分をえようというのであれば、討幕の密勅に記された日付は、十月十五日より以降でなければならない。討幕の密勅と大政奉還の許可と、ともに朝廷もしくは天皇の意志に出ているとする。十月十三日と十四日の日付をもつ討幕の密勅があり、十月十五日に大政奉還への勅許があった。したがって、朝廷もしくは天皇の最終意志は後者、日付の遅い方、つまり大政奉還にあったということになる。あるいは、大政奉還が勅許されることによって、討幕の密勅は否定されたことになる。名分をえようというのであれば、発行の日付は、大政奉還より後でなければならない。だが事実は、そうではない。
 だから、 密勅によってあたえられた討幕の名分は、大政奉還によって消滅したと解釈されることがある。これも誤りである。討幕の密勅の日付は十月十三日と十四日であり、大政奉還は十五日である。小松・西郷・大久保は、大政奉還が行われたことを目に見て、そして、十七日に京を去っている。したがって、密勅によって討幕の名分をえようというのであれば、その日付を十五日以降におけばよい。そのことは、決して不可能ではなかった。

 小松・西郷・大久保そして広沢は、大政奉還にいたる政情の推移を悠然と見て、たじろぐことはなかった。そして十月十三日と十四日の日付の討幕の密勅をたずさえて、京を去って帰国したのだった。討幕の名分をうるか否かなど、問題ではなかったのである。討幕の密勅が作成され、これが交付されること自体が、必要だったからである。密勅の日付が、大政奉還の前であろうと後であろうと、問う処ではなかった。
 
 討幕の密勅について、これの猶予を命ずる沙汰書がでている。奉勅者として名を連ねているのは、討幕の密勅と同じ三名の廷臣、日付は十月二十一日である。徳川慶喜に悔悟の色がふかいというのが猶予の理由である。ここには、大政奉還が行われて、密勅における討幕の名分が消滅したとの感覚が働いている。小松・西郷・大久保そして広沢は、傲然とこれを黙殺した。
 では改めて、討幕の密勅が作成された目的は何か。また、それが果たした役割は何か、これが問題となる。このことについて、ふたたび正親町三条実愛の回想をひけば、こうである。

 勅書を賜らねば、方向の決し様なきと言う申し出で故、賜わりたることなり。右の勅書にて薩長二藩とも方向は決したるなり。

 密勅によって、薩長両藩ともに方向が決したという、方向とは、武力討幕のそれである。薩摩藩にそくして言えば、藩主島津忠義の率兵上洛の方向である。
 薩摩藩内に出兵に反対する意見が根強くあったことは、くり返し述べてきたとおりである。これが藩主の率兵上洛ということにでもなれば、反対論が噴出して、藩内を混乱にみちびきかあねない。反対派が勝利を収めたとすれば、小松・西郷・大久保の指導力は一挙に低下するだろう。そのおそれも、決してなくはない。反対論は、これを抑えなければならない。
 説得の方法がある。藩主父子に進言し、反対派に説得を重ね、率兵上洛を実現にみちびく方法がある。だが、これに費やすことのできる時間はない。また、説得が成功する保証も充分ではない。とすれば、天皇の権威を動員して、なかば強要して、藩主父子の意向を率兵上洛、ついで武力討幕に方向づけるより方法はあるまい。討幕の密勅は、そのための用具であった。
 討幕の密勅が長州藩に交付されたのは、出兵への反対論を抑えるというよりも、その地位の保証のためであろう。薩長両藩には、文久二年いらいの抗争の歴史があり、慶応二年一月にはじまる同盟の関係がある。この両藩をならび重用することは、岩倉具視の持論であった。薩摩藩へのそれと同文の密勅を長州藩に与えることによってって、地位の対等を承認したのである。

 討幕の密勅にかかわる一連の行為、作成と交付と受諾の一連の行為は、共同謀議というに等しい。密勅が偽勅であれば、こら等の作成は犯罪である。 これにかかわった者は、いわば共同正犯である。作成にかかわった廷臣と密勅をうけた薩長両藩の藩士はとは、密奏があり宸裁があったかのように振舞っているいる。けれども、密奏がなく、したがって宸裁が下っていないことは、暗黙の共通の了解であった。密勅が偽勅であるらしいことは、暗黙の共通の了解であった。だから、密勅を外に示すことはできなかった。
  討幕の密勅は、内に使用さるべき性格の文書であった。密勅の作成にともなって犯罪が生じた。犯罪が生じていることは、密勅にかかわった者の暗黙の了解である。ここに、つよい凝集力をもつ集団が成立する。密勅の作成という犯罪と、作成にまつわる秘密を共有することによって、うちにつよい凝集力をもつ集団が成立した。
 作成にあたっては、中山忠能・正親町三条実愛・中御門経之そして岩倉具視が関与した。密勅をうけて、これの請書に署名した者は、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通そして広沢真臣・福田侠平・品川弥二郎の六名である。密勅の宛名は、薩摩藩主島津久光・忠義の父子および長州藩主毛利敬親・定広父子である。その誰もが、共犯の意識から逃れることはできない。

 正親町三条実愛は、薩長両藩の方向を決するために討幕の密勅を交付したと語った。けれども密勅によって方向を決せられたのは、薩長両藩だけではなかった。関係の廷臣も、そうであった。密勅にかかわった廷臣は、この事実から逃れることはできない。武力討幕の戦略にしたがって、宮中政変の工作に参加せざるをえない。
 討幕の密勅は、これの作成にかかわって誕生した集団に凝集力をあたえ、その持続を、いわば内から強制する文書であった。これを示して、一方では、薩長の両藩主から武力討幕と出兵への同意をうることができる。他方では、関係の廷臣に強いて、宮中政変に参画させることができる。密勅作成にかかわって生まれた集団は、きたるべき王政復古と武力討幕を推進する中核であった。そのまた中心に、岩倉具視そして西郷隆盛・大久保利通がいた。討幕の密勅は、これによって誕生した集団のなかでの岩倉・西郷・大久保の指導力を保証する文書でもあった。

 このような役割を担わされた討幕の密勅は、むしろ、純然たる真勅であってはならなかった。真勅であれば、関係の廷臣を拘束するだけの、共犯の意識は生まれないからである。また、純然たる偽勅であってはならなかった。薩長両藩の藩主を説得することが困難になるからである。外にあらわれれば偽勅であるけれども、内には真勅であるかのように流通する、そのような文書であることが望ましかった。いいかえれば、密奏と宸裁の仮構をともなった偽勅であることがのぞましかった。

 討幕の密勅は、幕末の政治社会の表面にあらわれることはなかった。秘密の裡に作成され、武力討幕の戦略とその遂行の裏に流通し、そして、慶応四年一月七日に徳川慶喜追討令が布達されて、あたえられた使命をおえたのだった。討幕の密勅の存在が知られるようになったのは、明治十年代の末だった。写真版としてではあれ、この実物が公表されたのは、昭和十一年、二・二六事件のあった年に出版された『維新史料集成』においてである。

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恫喝やテロによる即今攘夷と『岩倉公実記』捏造の挿話

2019年03月25日 | 国際・政治

 これからの日本が”平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占める”ためには、真実に基づいた歴史を語り伝えることが大事ではないかと思います。

 ところが、残念なことに2015年5月、親日的と思われている海外の学者や研究者多数を含む187人が、歴史の真実を追求する日本の歴史学者を擁護し、安倍晋三首相のいわゆる「従軍慰安婦」問題歪曲を批判する共同声明を発表しました。
 安倍首相が、「戦後レジームからの脱却」を掲げ 戦前の植民地支配と侵略を反省した「村山談話」や、「従軍慰安婦」問題について謝罪した「河野談話」の見直しを示唆し、「従軍慰安婦」連行に「狭義の強制性」はなかったとの発言をしたためだと思います。また、「従軍慰安婦」問題に限らず、安倍政権が、日本の「歴史修正主義」を先導している姿勢がうかがわれることを懸念したものだと思います。

 私は、こうした歴史の修正や歪曲、捏造、不都合な事実の隠蔽が、倒幕によって権力を手にした薩長を中心とする人たちによる明治新政府発足以降、現在に至るまで続ていると思っているのですが、「幕末維新の政治と天皇」高橋秀直(吉川弘文館)にも、見逃すことの出来ない重要な指摘がありました。しっかり記憶に留めたいと思い、その部分を抜粋しました。

 同書によると、長州藩の長井雅楽は、文久元年(1861年)、「航海遠略説」を唱え、積極的に広く世界と交流して国力を養成し、その上で諸外国と対抗していくことを主張していたようです。そして、文久二年三月には、朝廷工作のために京都に入り正親町三条を訪れ、「航海遠略説」の考え方を記した書面を提出するとともに、中山忠能や岩倉具視を歴訪し、その主張を説いたと言います。吉田松陰なども、当初同じように考えていたようです。でも、長州藩の藩論は、文久二年(1862)七月には、航海遠略説から攘夷論に転換してしまいます。それも「十年以内の攘夷論」ではなく「即今攘夷論」への転換です。
 同書の著者は、その理由を
 
こうした急進化はなぜ生じたのだろうか。何より重視すべきは、当時の京都の政治的雰囲気、尊攘論の高揚だろう。時代が一つの方向に大きく動くときは、その方向の最急進論を唱える者が主導権を握ることができる。長州京都藩邸の藩官僚たちは尊攘論の流れの先端に自らを置くことで政局の主導権を握ろうとしたものと思われる。”

 と書いています。「即今攘夷論」を唱える尊王攘夷急進派の意図は、変化の時代にその主導権を握ろうとしたということだと思います。また、なぜ唐突に浮上し

てきた「即今攘夷論」が力を持ちえたのかということについて、見逃すことの出来ない記述があります。それは、一般民心の攘夷意識の高揚を利用するだけではなく、「即今攘夷論」に同調しない者に対する「恫喝」や「政治テロ」に関する記述です。

さらにもう一つ、私が見逃すことの出来なかった記述は、天皇の権威を高めるために、『岩倉公実記』に「捏造された挿話」が入れられたという、極めて説得力のある記述です。様々な資料を駆使して論証されており、覆すことはできないだろうと思います。

 ”『岩倉公実記』の創った神話は解体されなければならない”と著者は結論づけていますが、言い換えれば、それは日本の歴史は書き換えられなければならないということだと思います。
 だから、日本においては、歴史の修正や歪曲、捏造、不都合な事実の隠蔽 、同調しない者に対する恫喝やテロは、明治維新以来先の大戦における敗戦まで、そして、その基本姿勢は現在の安倍政権に至るまで続いていると、私は思うのです。
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                       総説 天皇と「公議」をめぐる政治過程

                       一 朝廷の政治的浮上──安政五年──

 1 条約勅許奏請という事件
 2 条約勅許問題の紛糾
 ・・・
 もっとも、(外国との条約の)勅許奏請が武家側の一致した意見であるならば、実際に戦うわけではない公家に拒否は困難で、また勅許を与えたとしても批判は武家側に行き朝廷に向くことはないだろう。しかし、この時、武家の意見が割れており、御三家など徳川一門大名が条約に反対しているという情報は朝廷に入っていた。そして大名内の異論の存在は幕府も認めるところであった。堀田上京を伝える所司代の上申は、叡慮をあおぐ理由を、列侯諸藩の「人心居合(オリアワズ)」であると述べていた。公武間ではなく、武家の間の「居合」、つまり、武家内の不一致を抑えるため勅許がほしいというのである。こうした奏請に直ちに応じ勅許を与えれば、それは天皇が対立する両意見のうちの一方に、しかも自分が内心反対する見解の側に、明白に加担することを意味する。さらにそれは外国の要求をのむ便利な道具として朝廷が使われてしまうことでもあり、天皇にとり承知できるものではなかったのである。(「夷人申立之儀 何れに可許と之頼に〔朝廷が〕相成候ては天下之大事、於愚身は承知難致」、1月26日付関白九条尚忠宛孝明天皇書簡、同書、730頁)

 御三家以下に諮問を行い、武家の間で意見の調整をはかれと言う二月の返答は、武家内部で意見が大きく割れていることを考慮すれば、狂気の沙汰ではなく、朝廷にとり筋の通った対応なのであった。武家内部の反対意見を鎮めるために、実質的に関与していない朝廷に条約調印の責任の一部を負わせようという幕閣の目論見にそもそも無理があったのである。さらに三月二十日、朝廷は二度目の勅答(同書808頁)を下したが、これも諸大名に再諮問の上、あらためて衆議し言上するよう命じたものであった。
 以上の返答は二つの天皇像を示していた。一つは攘夷論者としての天皇である。天皇の攘夷主義は二月の勅許では明言されていなかったが、三月のそれには、今度の条約では国威が立ち難く思う、との文が含まれており、条約反対の意向が明確に述べられていた。
 しかし注意すべきことに、この意思表示は最終的なものではなかった。最終決定は諸大名への再諮問をへた上でなす、と三月返答は述べていた。勅許の趣旨は、諸大名の意向を聞きたいということであって、拒絶を命じたわけではないのである(第二章)。こうした公議を開き決定するという対応は、公正な裁定者という像、天皇の第二の像を示すものと言えよう。
 ・・・
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                        第三章 攘夷論時代の開幕

                         ニ 長州藩論の転換

3 即今攘夷論の登場
 このようにして文久二年(1862)七月、長州藩の藩論は航海遠略説から攘夷論に転換した。そして注意すべきは、六日の御前会議に明らかなように其の転換が単なる攘夷論ではなく、ただちに条約を廃棄するという即今攘夷論へのそれであったことである。この時期、朝廷は攘夷論を説いているが、それは即今攘夷論ではない。三事策諮問のさいの御沙汰書は一般的な攘夷論であり、親政勅語が述べるのは、幕府の十年以内攘夷の約束とそれが果たされないときの親政である。そして十年以内の攘夷論は、逆に見れば十年間の攘夷の猶予を意味するものであったことはすでに述べたとおりである。それにもかかわらず、長州側は即今攘夷を問題とし、その実現を目指す方針を決定している。長州は攘夷論に転換しただけでなく、それを急進化させたのである。
 こうした急進化はなぜ生じたのだろうか。何より重視すべきは、当時の京都の政治的雰囲気、尊攘論の高揚だろう。時代が一つの方向に大きく動くときは、その方向の最急進論を唱える者が主導権を握ることができる。長州京都藩邸の藩官僚たちは尊攘論の流れの先端に自らを置くことで政局の主導権を握ろうとしたものと思われる。                
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                       四 即今攘夷論の勝利
2 勅使三条実美の派遣決定と薩摩
文久二年(1862)閏八月二十七日に即今攘夷論承認の勅旨を得た尊攘派は、さらにだめ押しをしようとする。それは、即今攘夷を命じる勅使を再度幕府に派遣しようという構想であった。
 ・・・
 別勅使の派遣は閏八月十四日の猶予沙汰書に矛盾するものであり、また近衛関白・中川宮・議奏の中山が望まないものであった。それにもかかわらずこれが決定されたのはなぜだろうか。
 その中心要因は、尊攘派の圧力であった。先に後半部を引用した別勅使への勅命の前半部は、冒頭部で、一越登用後の幕府の改革について、天皇は満足しているとそれへの高い評価を述べていた。それにもかかわらずなぜさらに勅使を派遣しなければならないのか。それについて勅使の説明は、攘夷方針が一定しなければ、「人心一致」にいたり難く「国乱之程」も如何と天皇が思う故ここに沙汰を下す、というものであった。この「人心一致」の困難、「国乱」という言葉で思い浮かべられているのは、第一に尊攘派の暴発への懸念であったことはこの時期に中山が書いた京都の政情を伝える書簡案(『中山忠能(タダヤス)履歴資料』四、75頁)より推定できる。中山は以下のように嘆く。

 三藩(薩長土)色々周旋……中には過激之説も多端にて、取鎮兼候義も有之苦心候。……〔天誅の横行を列挙〕何とも六ケ敷次第に候。……蛮夷一件関東所置方未申来候に付、此頃又々別 勅使を以て可被 仰遣との御評定最中に候。何分人心折合兼、世上人気形勢は追々切迫に相見、甚以心痛之至に候。ケ様之次第にては何時何成変を生候も難計、実に不容易勢に相成申候

 この背後にあるのは「天誅」と称した尊攘派のテロの横行であった。中山は右の書簡案で、閏八月二十二日の九条家家臣宇郷重国晒し首、九月一日の目明かし文吉の絞殺、二十三日の近江で襲撃された町奉行所の与力三人の梟首に言及している。他にも公家の一員である岩倉などにも九月十二日には脅迫の投げ文が送られていた。有志は伝奏を幕府の官吏のように考えている、もし別勅使を派遣しないなら朝廷当局者は久世・安藤らと同じ売国の逆賊であり、堂上地下の区別なく推参し天下に代わって害を除く、という脅迫文が尊攘派有志より中山に送られていた。こうした恫喝は当然、他の当局者にも行われていただろう。尊攘派が恫喝を背景とした説得を行ったとき、その威力は絶大なものであったろう。
 そして注意すべきことはこの時期、朝廷内外の尊攘派に同調して朝廷内にも尊攘派公家が形成されていたことである。尊攘派公家が、文久二年の五月から八月にかけて孝明天皇の側近を排斥する四奸ニ嬪排斥運動を契機として形成されたことは、すでに原口氏により明らかにされている。そして彼らは、当局者外の存在であったわけではなく、八月下旬の段階で広幡忠礼・正親町実徳・庭田重胤・三条実美のように議奏加勢となっているものもいた。尊攘派は公家内、さらに当局者内にその代弁者を得たのである。そして尊攘派公家は、猶予沙汰書への三条の批判に見ることが出来るように、有志の暴発をその政治的主張の根拠に使っていた。
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3 時代の雰囲気
 尊攘論勝利の第三の要因として、この文久二年(1862)の時代の雰囲気がある。文久二年の時代の雰囲気とはどのようなものであったのか。まず「人心」の動向について見るなら、三年前に行われた開港以後の急速なインフレをはじめとする経済の混乱により、武士や民衆などの生活条件が悪化し、攘夷主義的意識が高まったことはすでによく知られている。一般の民心は攘夷にあり、開国論はそれに逆らうものだったのである。そして、ペリー来航以後、為政者は、世論や人心の動向について次第に強く意識せざるをえないようになっており、そのことはこれまでの検討のなかでたびたびふれたところである。そしてこの人心を背後に持つことが、本来は有志集団であり幕府など既存勢力に対して圧倒的に不利であるはずの尊攘派の大きな力となったことは言うまでもないだろう。
 そして文久二年という時代の雰囲気を見るとき、一般的な民心の動向という以外に、この時期に特有な問題が存在している。それは尊攘派の政治テロの問題である。六月五日東下中の大原勅使は慶喜・春嶽登用論を幕府にこのように主張すると久光に言い送っている。(『鹿児島県史料 忠義公史料』1858頁)

 左なくては〔=幕府が一越登用を請けなくては〕、即今 勅意立不申候、勅意立ち不申ては矢張り請負人諸人不服に候。請人不服なれば又々浪士蜂起いたし、暴発いたし候本と存候

 すぐ直接行動に出ようとする、制御しがたい尊攘派の像である。六月初めの関東でこの像の背後にあるのは、桜田門外の変・坂下門外の変の記憶だろう。大原はこのような主張が幕府に対して説得力を持つと考えていたのである。
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                       第二部 新政体の模索と倒幕  

                       第十章 王政復古クーデター
               
                          三 小御所会議 

1 岩倉具視の一喝をめぐって
 
 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)接見が終わり明治天皇の御前を退出後、しばらくして第二回の小御所会議が行われる。これが普通言われる小御所会議である。
 この会議の議題は辞官納地と会桑の罷免である。この辞官納地問題について激烈な議論が展開したことはよく知られている。この激論に関し『岩倉公実記』が記すきわめて有名な挿話がある。それは、山内容堂と岩倉の論戦、岩倉の容堂への叱責である。まずこれについて検討する。
 会議の最初、容堂は、慶喜をただちに会議に招致するよう主張するとともにクーデターを非難し、「ニ三の公卿は何等の意見を懐き此の如き陰険に渉るの挙をなすや頗る暁解すへからす、恐らくは幼冲(ヨウチュウ)の天子を擁して権柄(ケンペイ)を竊取(セッシュ)せんと欲するの意あるに非さるか」、とまで言った。これを岩倉が叱責し、「此れ御前に於ける会議なり、卿当さに粛慎すへし、聖上は不世出の英材を以て大政維新の鴻業を建て給ふ、今日の挙は悉く宸断に出つ、幼冲の天子を擁し権柄を竊取せんとの言を作す、何そ其れ亡札の甚だしきや」と述べ、これに容堂が恐悚(キョウショウ)し失言の罪を謝した、というのである。(中巻 158~159頁)
 これは一種の名場面であり、小説やドラマによく登場するものである。そしてそれのみではなく、正当性原理を考える場合、重要な位置をしめるものとなる。例えば、安丸良夫『近代天皇像の形成』(岩波書店 1992年)は、この岩倉の一喝により、「歴史は新しい門出をしたのである」と評価する(166頁)。なぜ新しい門出なのか。クーデターの実態は容堂の主張する通りであり、その発言は正当である。しかし、そうした正当な批判は岩倉の叱責により圧倒されてしまう。このことは、誰も表向きには反対できない超越的権威としての天皇という存在が前面に押し出され、権威にみちた中心が作り出されようとしていることを意味するからである。『岩倉公実記』が事実を伝えているなら、そうした位置づけは確かに可能であろう。しかしこれは事実だろうか。

 第二回小御所会議の内容については「丁卯日記(テイボウニッキ)」が最も詳細な一次史料である。『岩倉公実記』の小御所会議の叙述は、議事が紛糾しいったん中断するまでは、「丁卯日記」とほぼ照応しており、おもにこれによっていると思われる。しかし、それにもかかわらず、「丁卯日記」と『岩倉公実記』との間に相違が存在している。
 その最大のものがこの挿話の有無である。「丁卯日記」には容堂の痛烈な発言の記録はあるが、それに対する岩倉の叱責は記されていないのである。すなわち、『岩倉公実記』が、容堂の批判→岩倉の叱責→容堂の恐縮→春嶽の批判→岩倉の再反論→大久保の反論、と続くのに対し、「丁卯日記」では、容堂の批判→春嶽の批判→大久保の反論→岩倉の反論、となっている。そして、容堂の痛烈な「不敬」発言に対して、「丁卯日記」は、叱責のみでなく、それへの反論さえ記していない。「丁卯日記」が伝える、クーデター派の反論の骨格は、慶喜にはこれまでの罪があるし、また大政奉還を現実のものとする彼の「反正」の真偽はいまだ明らかではない。それを見るためにはすぐに彼を招致すべきではなく、辞官納地を受け入れるか否かでそれを確認することが必要だ、というものであったのである。

 では「丁卯日記」、『岩倉公実記』の何れを信じるべきだろうか。
 まず史料面で検討する。『岩倉公実記』の典拠は不明であるが、会議に参加した当事者が、第二回小御所会議について記した同時代史料には以下のものがある。「丁卯日記」・「大久保利通日記」・前掲12月12日付蓑田宛大久保書簡12月21日付藩庁宛大久保書簡(『大久保利通文書』二、133~134頁)・12月13日付松平茂昭宛春嶽書簡(『松平春嶽未公刊書簡集』、77頁)、先に引いた「嵯峨実愛手記」・公家討幕派に賛同する有志公家の一人橋本実麗の「実麗卿記」(写本、東京大学史料編纂所蔵)である。これらの史料はいずれも、容堂発言を不敬とする岩倉の一喝を記していないのである。

 容堂がここで慶喜の即時開催を求めて激しい議論をしたことは、「丁卯日記」・「大久保利通日記」・藩庁宛大久保書簡・松平茂昭宛春嶽書簡・「実麗卿記」がこれを記していることに明らかなように、きわめて衝撃的なものであった。しかし、その容堂を「何そ其れ亡札の甚だしきや」と正面から叱責する岩倉の発言も同じように、あるいはそれ以上に印象的なものであったはずである。(賢君として評判が高く、議定に任命されたばかりの、大藩の国主を下級公卿が公然の場で一喝を加えるなどということは前代未聞だろう)。そうしたことがあったなら、このうち何れかはこれを記して当然であろう。しかし、それにもかかわらず、これが記されていない。
 
 次に議事の流れを見る。「不敬」と咎められそれに恐縮したのであれば、さすがの容堂でも意気は挫け抗論もおさまっていくはずであろう。また、「今日の挙は悉く宸断に出つ」という岩倉の叱責を認めたのなら、慶喜の即時招致など宸断に反する主張は出来ないはずだろう。しかし、容堂は、岩倉の反論にもかかわらず慶喜招致論を屈することなくあくまで言い募ったことは、「丁卯日記」・「大久保利通日記」・「実麗卿記」が記すところであり、これを持て余したクーデター派は結局、会議の中断を余儀なくされたのである。
 そしてこうした議事の進行は、実は『岩倉公実記』が示すものであった。『実記』においても、一喝のくだりは小御所会議記述の流れの中で浮いているのである。
 以上、一次史料、議事の流れの両面より考えるならば、『岩倉公実記』ではなく、「丁卯日記」が妥当であり、一喝の挿話は実際には存在しなかったと見るべきであろう。

 では岩倉の叱責の挿話はいかにして登場したのだろうか。
 明治政府の最初の修史事業である『復古記』は第二回小御所会議の史料(「春嶽私記」等)を収録しているが、そこにはもちろんこの挿話はない。その後、竹越与三郎『新日本史』(1891年)や勝田孫弥『西郷隆盛伝』(1894年)・指原安三『明治政史』(1892年)などの史書が小御所会議の論戦を描くが、いずれも岩倉の一喝はない。そして注意すべきことに、『岩倉公実記』とほぼ平行して、明治政府(宮内省系)が進めていた修史事業であり、その少し前に完成した『三条実美公年譜』(1901年)の記述も、「丁卯日記」と同様であり、一喝の挿話を含んでいないのである。この挿話は『岩倉公実記』においてにわかに登場したものと言えよう。

 『岩倉公実記』でなぜこの挿話が登場したのか。その編纂過程の分析は別になされなければならないが、それが天皇の権威を高めるのに適合するものであったことは、指摘しておかなければならない。「如此暴挙企られし三四卿、何等之定見あつて、幼主を擁して権柄を窃取るせられたるや」「丁卯日記」260頁)、との容堂の批判は、岩倉のみでなく、天皇権威を余り認めない発言である。しかし、この発言はすでに『復古記』で公のものとなっていたし、容堂が岩倉らへ痛烈な非難を行ったことはすでに見たように多くの史書が記し、もはや隠蔽することはできない。この傷口をいかにふさぐべきか。
 岩倉の叱責、容堂の謝罪、という『岩倉公実記』の記述を加えることで、この論戦の意味は逆転する。すなわち容堂の発言・謝罪は、批判しえない権威としての天皇像を定着させるものとなる。ここに災い転じて福と為ったのである。そしてこの像の拘束が現在までも及んでいることはすでに述べたとおりである。
 しかし、小御所会議が行われた折りの、天皇権威をめぐる現実の状況は、天皇を操り人形視する発言、後年よりすれば「不敬」とさえ見える大胆な発言をなしうるものだったのである。『岩倉公実記』の創った神話は解体されねばならないだろう。

 2 小御所会議の意味

 辞官納地問題はこうして紛糾した。容堂・春嶽の激しい論難に薩摩・岩倉側はいったん休会を余儀なくされる。しかし、再開した会議では容堂・春嶽は譲歩し、辞官納地の上表を出すように尾張・越前が慶喜に内諭周旋するという事前に予定されていた通りの決定がなされることになった。
 なぜ容堂・春嶽は折れたのか。先に言及した『岩倉公実記』にいたる史書は、あくまで反対すれば殺害する決意であるとの恫喝を休憩中に岩倉が語り、それが後藤より容堂に伝えられた結果、譲歩となったとしている。前掲12月13日付松平茂昭宛書簡で春嶽が、「越・土両老侯極死にて及激論、薩土指我ならばさせ、死しても我魂は守護天幕する事と決心いたし候」と述べているところより、刺殺の恐れを春嶽に感じていたわけであり、この記述は信じることができよう。テロへの不安が譲歩をもたらしたのである。

 会議のもう一つの議題は守護職・所司代の廃止、会津・桑名の罷免であった。これを命じれば会桑が憤怒していかなる暴挙をなすかわからないという不安よりこの問題でも廟議は難航した。(「丁卯日記」261頁)本章─二─4で述べたように、薩摩にとり会桑罷免は絶対条件であり、今さら躊躇することはありえない。こうした不安を述べたのは、土尾越芸であったろう。新政府発足の日にしてすでに薩摩らクーデター派は廟議で十分な主導権を取れていないのである。
 しかし、この会桑罷免の難題は、慶喜が自主的に買い会桑を罷免したことで解決した。クーデターの順調な進行は、慶喜の「協力」なしにはありえなかったのである。あくまで自重し衝突を避けるというのがこのときの慶喜の方針なのであった(第九章─二)
 ・・・
 辞官納地・会桑罷免は第二回小御所会議前に合意が出来ていたはずである。しかし、実際にはこれで大きな議論となった。その原因は容堂にあった。容堂は8日に上京するまでクーデター計画を知らされておらず、彼にはそうした合意はまかったのである。そのため会議の冒頭、容堂は、慶喜の即時招致という原点に遡った議論を展開する。そしてその勢いに、すでに妥協していたはずの春嶽や後藤もこれに同調し、合意はふりだしにもどってしまったのである。
 こうして廟議は紛糾する。このような場合の切り札として思い浮かぶのは天皇による「聖断」である。そしてこのとき岩倉らは明治天皇の身柄の確保には成功していた。しかし、それにもかかわらずこの札は切られていない。当時における十五歳の天皇の政治的位置を示すものと言えよう。結局、会議を決着に持ち込んだものは、刺殺するという暴力の恫喝であった。
 薩摩・岩倉はこうした非常手段によりなんとか会議を決着に持ち込んだ。しかし、その決着は、もともと容堂以外にとっては合意済みのものにすぎなかった。そしてその合意(内諭周旋方式)は、まさに両者の妥協により成立したものであって、一節でみたように薩摩側にとっては本来、不本意なものであった。そして、実際、翌日以降、薩摩の危惧は現実のものとなり、辞官納地について次々に譲歩に追い込まれていくことになる。小御所会議は薩摩・岩倉側が主導権をにぎり十分な勝利をしめたものではなく、テロの恫喝により最初の妥協点をからくも確認したものだったのである。
 しかし、この暴力も実際には使用が困難なもの、極力、使いたくない武器にこの時なっていたと思われる。なぜなら、新政府発足後、その最初の廟議の場で、春嶽・容堂を刺殺したということになれば、天皇は握っていたにしろ、新政府の正当性、権威は決定的に傷つくことになるからである。暗殺を行えば、内戦は必至であったろう。もっとも薩摩倒幕派は大政奉還以前には内戦を決意していたわけであり、戦争を恐れてはいなかった。しかし、内戦は一面、諸藩の支持の獲得合戦であり、その初発でこうした文字通りの暴挙を犯してしまっては、土越のみならず同志と期待している西国諸藩(例えば、宇和島、因幡、備前)の向背も不明となるだろう。… 
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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

 

 
 

 
 

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張鼓峯事件 NO2

2019年03月20日 | 国際・政治

 「張鼓峯事件」では、「事件」という言葉がつかわれていますが、太平洋戦争の三年前、また、ノモンハン事件の前年に日ソが国境を争った武力衝突であり、局地的な「戦争」です。当時は、大国間の全面的な戦争の危機が語られており、世界で大きく報道されたということです。

 張鼓峯は満ソの国境があいまいな丘陵地帯ですが、その丘陵地帯で、ソ連極東地方におけるNKDV(内務人民委員部隊)全部隊の司令官・G・S・リュシコフが保護を求めて日本に亡命してきました。ソ連側は張鼓峯周辺の国境監視のたるみを察知し、地区司令官の入れ替えを徹底的に行ったといいます。そして、張鼓峯の稜線上に陣地構築を始めたのです。小磯朝鮮軍司令官は黙過する判断だったようですが、地区の防衛を担任する尾高(スエタカ)第十九師団長は奪還を唱え、武力紛争に至ります。

 下記に一部抜粋しましたが、「張鼓峯事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス(原書房)の「夜襲戦」を読むと、前頁の「威力偵察」と同様、日本側が攻撃的であったことがわかります。
 背後には、「国境線明瞭ならざる地域においては、防衛司令官において自主的に国境線を認定」せよ、というようなことを主張する辻正信少佐(関東軍参謀)の考え方の影響もあったのではないかと思います。
 また、張鼓峯における第十九師団の武力発動の「大命案」は天皇に拒否され、裁可されていなかったという事実も見逃すことができません。おまけに、張鼓峯のみならず、「沙草峯」でも大命(聖断)に逆らう独断夜襲をかけているのです。
 「張鼓峯事件」における「夜襲戦法」は、その後、日本軍が敵陣地を襲う際のモデルケースになったといわれているようですが、日本国内では、寝込みを襲うような「夜襲戦法」は、武士道に反し卑怯である、と考えられてきたのではないかと思います。

  皇国日本の軍隊が、武力発動を命じる「大命案」が裁可されず、「朕の命令なしに一兵たりとも動かすことがあってはならぬ」と厳命されたにもかかわらず、「威力偵察」を行い、「夜襲」をかけるという戦争行為を進めたところに、私は明治維新以来の日本の政治や軍事の根本問題があると思います。
 「訳者あとがき」に、張鼓峯事件に関するライシャワー博士の文章が引用されていますが、博士は張鼓峯事件での「意思決定過程は典型的に多層化されており、支離滅裂である」と書いています。
 日本の政治や軍事に反対する人に対しては、天皇に対する「不敬」や「統帥権干犯」を根拠に処分したり、処罰したりしておきながら、軍自ら「大命(聖断)」に逆らうことをやっているのです。だから、日本を動かした政治家や軍人にとって、皇国日本を形づくる帝国憲法や教育勅語、軍人勅諭などの考え方や教えは、自らの政策や取り組みに反対することを許さず、国民を従わせるための道具にひとしい側面が大きかったと思います。
 同じように、明治時代当初からの政治家による汚職事件の数々も、「皇国日本」の実態を示すものであったように思います。政治家でも軍人でも、上層部ほど、自らの考えを持ち、自らの判断に自信を持っていたでしょうから、天皇を「」として受け入れるのは、形式的な部分だけであったのではないか、と思います。言い換えれば、明治維新以来の「皇国日本」の実態は、国民の前に示され、子どもたちに教育されたようなものではなかったということです。
 下記は、「張鼓峯事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス(原書房)から一部抜粋しましたが、漢数字や算用数字の表示の一部を変えたり、空行を挿入したりしています。
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                       第十二章 夜襲戦

七月の最後の二週間、偽農夫たちが問題の土地を偵察して渡河と攻撃を準備しようと、豆満江の下流に沿って動き回っていた。この点は重要なことだが、斥候は河の朝鮮側と共に満州側でも活動していた。
 中野藤七少佐は自分でも偵察を重ね、小隊長や斥候隊長、すべての重火器観測班、それに大隊付き軍医までを甑山(ソウザン)、将軍峯、さらには敵陣の近くまで派遣した。斥候たちは朝鮮服をまとって時には牛を引き、張鼓峯地区を縫うようにして、くまなく通り、時にはソ連軍の移動、土壌や地形、明るさを調べるために、夜の間穴に隠れたりした。こうして集めたデータを基に中野は突撃に必要な参考資料を作成した。平原静雄少佐は古城の国境守備隊本部にいて、後方の高地に三つの監視哨を設置した。将軍峯を占拠してのち彼はそこに防御陣地を構築し、通路を啓開した。張鼓峯に関しては、たとえ二等兵であっても、地形をしっかり研究させることに努力した。竹下俊平大尉のような戦闘部隊の指揮官は自ら進んで事に当たることがしばしばであった。佐藤幸徳連隊長も工兵の手を借りた。小林茂吉中佐は七月十七日に駐屯地進発の命を受けて以来、指揮下の工兵連隊に、通路、橋梁、渡れる浅瀬の偵察を行わせた。

 佐藤連隊の第一中隊長は七月十八日の午後に、五十二高地から先を三時間半掛けて偵察し、足どり図を作成した。
 この山田定蔵大尉の情報は戦術的な決定をするのに、またソ連軍の兵力と準備についての知識を得るのに、大いに役立った。最も貴重な情報は彼による攻撃路についての評価で、出来れば敵の右翼か正面に向かって西側から攻撃することを提案した。この考え方は二週間後の連隊による夜襲に採用されることになり、山田は自ら詳しく調べた緑の斜面で死を迎えることになる。

 七月三十日の曇りの土曜日は終わろうとしていた。七五連隊が張鼓峯頂上のソ連軍に突撃する瞬間は、間近に迫っていた。午後十時三十分に防川頂から出撃した中野大隊の精鋭約350名は、張鼓峯南西一キロの分岐点に集結した。
 進撃する道路は七月二十九日から三十日にかけて断続的に雨が降り、時には土砂降りもあって、「膝も没する泥濘」であった。雨は小やみになったが、十時三十分に幽かな光を投げかけていた月が沈んでからは雲が空を覆った。坂田中隊の第一小隊長が先導する兵士たちは張鼓峯の南麓に向かって粛々と進み、闇は益々深くなって、兵士たちは10メートル先までしか見ることが出来なかった。中隊の将兵は攻撃発起地点までの1000メートルを前進するのに一時間とはかからず、その地点で彼らは攻撃開始時刻になるまで二時間待った。
 斥候兵が200メートルか300メートル離れた最前列鉄条網に向かって前進した。小隊長の天笠清十郎曹長は独りで敵陣に潜入し、高地の南東側を偵察した。坂田英(ヒデル)大尉は斥候から妨害物のことやそこまでの距離と、どのように敷設されているかについて報告を受けた。工兵隊が針路を啓開してくれるのを待つ間に歩兵は可能な限り登っていき、十一時三十分には150メートルの所に達した。

 戦闘詳報ではでは張鼓峯は非常に険しいと言っているが、ソ連軍の主陣地にまで登り着くのは崖があったとしても、さして困難ではなかった。しかし岩でごつごつした頂上に近づくにつれ、岩石やくぼみを利用した敵の防御施設に阻まれて、一気呵成に突入するのは無理だった。緩やかな斜面の麓から頂上までは500メートルあった。頂上の近くは40度の険しい勾配で、大きな丸石が点在していた。ずっと下へ降りると土や砂利が多くなった。麓は草が敷きつめられていた。

 日本陸軍の無線通信は未だ幼稚なもので、連隊本部と前線の歩兵、渡河地点の工兵、それに朝鮮側から豆満江を越えて援護射撃を行う砲兵との間を結ぶ主な連絡手段は、無線と共に伝令が使われた。将軍峯から第一大隊までの通信線は、七月二十九日の朝から開通していた。戦闘用通信線は、二十七名の将兵から成る小さな連隊無線班が運用していた。通信の往来は概して順調で、受信感度は良好であった。
 工兵の支援は一個小隊で行われ、主に鉄条網の切断作業に手を貸した。中野少佐は第一中隊に対し、午前二時までに鉄条網の切断を完了するように命令した。

 午前十一時三十分、稲垣毅治中尉の指揮する三箇班が右側の切断作業を開始した。計画してあった突破口は敵陣から離れており、近くには監視哨もなかったので、稲垣中尉は強行切断作業を進めた。一列目の鉄条網はかなり素早く切り開かれ、次に二列目へと進んだ。午前零時ごろ、切断成功を告げる幽かな光が闇の中に浮かんだ。右側には今や二カ所の裂け目ができた。
 左側の坂田大尉の第二中隊は、有刺鉄線を強行切断するよりもむしろひそかに通り抜けようと考えた。偵察によると幅広く帯状に伸びる鉄条網がひとつだけ南と南東の斜面に沿って敷設されていた。それは実際には、第一列目と第三列目の鉄条網だった。坂田大尉は天笠曹長指揮の援護分隊と共に、歩兵の一隊を長山弘少尉の工兵隊に加えた。二つの通路を隠密に切り開く作業が始まった。ソ連軍の杭は1メートル間隔に打たれており、各作業班はそれぞれの分担箇所の中央を、兵士たちが切れ目を匍匐して通過するのに充分な幅をとって切断した。後方では歩兵がうずくまって今や遅しと待ち構えており、ハーサン湖の方向からソ連軍装甲部隊の轟々たる音が聞えた。

 午前零時十分、第一列の鉄条網を突き抜けて啓開隊が前進した時、ソ連軍の軍用犬が静寂を破って激しく吠え、青白い照明弾が突然斜面上空で炸裂した。「真昼のように明るかった」と工兵の一人は述懐している。「もし霧がかかるか、雨が降り始めてくれたら」と彼は祈った。
 予期せぬ二列目の鉄条網に遭遇した進路啓開隊は、銃火と手榴弾を浴びた。しかし坂田の言によれば敵は仰天して機銃の掃射が高めであった。工兵二人が負傷したが、左翼の警備斥候兵が射撃の的になったようだった。
 坂田大尉は長山少尉の啓開隊のところへ這い登った。ある班は岩の後に隠れ、一人が手を突き出して杭を掴み、鉄線に流された電流の感じをつかもうとしていた。もう一人の兵士は近くに伏せ、線をはさみで切ろうとしていた。少尉は低い声を耳にしたので、敵は日本兵だと気付いたようだと思った。切断班の兵士たちは隠密に作業を続けるようにと言われたものの、新たに丈の低い有刺鉄線の列に突当り、開通作業は予期した程には進まなかった。そこで強行切断作業が開始された。これは兵士が立上るか跪いて、敵の銃弾に目もくれずにただ啓開の速度を上げることに専念するものであった。遅れる訳には行かない歩兵は、工兵が切れ目を作るのと同時に鉄線を這い抜けた。

 敵陣の前面だけでなく、小さな啓開口から10メートル先にも低い位置に細い線が張られ、日本軍を悩ませた。それは地面から30センチ程浮かせて張られており、ピアノ線のワナに似ていた。その鉄線は草に覆われ、夜間は見えなかった。「全く気が抜けなかった。抜け出そうとすると狙撃される。線自身によっても少しだが切り傷ができる」。ある兵士はこう述懐している。坂田は啓開隊を叱咤して作業を続行させた。天笠曹長は自らの判断で、第一列と第三列の鉄線を午前一時五十分までに部下に切断させた。

 一方、中野大隊長は一時二十分に佐藤連隊長に電話を掛け、彼の部隊が大きな抵抗を受けることなく鉄条網を突破したことを報告し、攻撃開始を午前二時より早めるよう具申した。これは多分ソ連軍の警戒態勢がまだ充分に整っていないことが、彼の考慮に入っていたと思われる。佐藤は状況を慎重に「解釈」し(それは提案の却下である)、沙草峯の敵を警戒態勢に入らせてはいけないので、張鼓峯を余り早く占領すべきではないと告げた。

 一度展開した大隊全員は、斜面を突撃して登るために集結した。視界が良くなった時には部隊の前方40メートルまで見えた。午前二時少し前に中野少佐は前進命令を伝える伝令を出した。最後の障害物が切除された時、長田少尉は懐中電灯を振った。そこで白旗が闇に揺れ動き、歩兵が前進した。
 直接張鼓峯の頂上を目指す坂田大尉の第二中隊は、山田大尉の第一中隊より通過する鉄条網帯の距離が短く、突破点は鉄条網の分岐点になっていて、切断を要するのはわずか二条だけだとわかった。兵士たちは膝と片手で匍匐前進し、通り抜けるや否や遮蔽物の陰に身を隠した。第一大隊が有刺鉄線を突破して攻撃を開始したのは午前二時十五分であった。
 日本陸軍の教則には、狙いをつけない射撃は夜間にはほとんど効果がなく、乱射から生ずる混乱の防止が必須であると書かれている。張鼓峯では、鉄砲の使用は連隊命令により禁止されていた。
 部隊が有刺鉄線を突破するまでは、同士打ちの恐れがあるため銃剣を装着していなかった。それを突破すると兵士は着剣した。小銃には弾丸が込められていたが、それでも発射はゆるされなかった。
 彼等は身軽になって行動した。歩兵一人が通常携行する重量30キロの装備(背嚢、武器弾薬、工具、糧食、衣類)の代わりに、鉄兜を被った兵士はなにも背負わず、わずか弾薬六十発、及び手榴弾二個と水筒、ガスマスク各一個をいれた雑のうだけを携行した。規定では物音を立てないように、銃剣の金属部分、水筒、軍刀、飯盒、スコップ、つるはし、靴鋲などは布か藁で包むこととされていた。スコップの木製部分と金属部分は分けられ、水筒を満たし、弾薬入れに紙をつめ、鉄剣の鞘は布で包むことになっていた。

 兵士たちは音を消すために軍靴に代えてゴム底の地下足袋を履いた。その履物は縄で縛ってあったが、時折湿った草に滑った。安全を考えて、緊張緩和のための会話や咳、喫煙が禁じられた。中隊長と小隊長は、手信号用の小さな白旗を携帯した。坂田中隊所属の各小隊は、全員が識別のために背中のガスマスクに白いあて切れをした布を垂らした──三角の白布は第一小隊、四角は第二小隊と決められた。分隊長は鉄兜の下に白い鉢巻を締めた。中隊長は白のたすきを交叉させ、小隊長は一本を掛けた。将校の死傷者がとり分け多いことが後に判ったが、それは識別用のたすきが目立ち過ぎて、伏せた時でも敵の照明弾で良く見えてしまったからであった。

 左翼では精鋭七十から八十名を擁する第二中隊が斥候を先頭に各小隊が並んで進発した。各小隊は10メートルの間隔をとって四列縦隊で前進し、その中央には坂田中隊長と中隊指揮班が位置を占めた。
 右翼の山田大尉の第一中隊とこれに属する二個小隊も同様な態勢をとった。先導各中隊の中央背後には大隊本部と第三中隊所属の一個小隊、及び北原定雄大尉の第一機関銃中隊が中野大隊長から20メートル離れて位置した。機関銃中隊は歩兵中隊とは違って各二個分隊から成る三個小隊を有していた。

 各機関銃小隊は大隊長と共に鉄条網中央の突破口を抜けて進んだ。その後ろは皆一団となり、兵士は肩と肩を寄せて、互いの機関銃はふれるばかりとなった。北原大尉は二個小隊を前に、一個小隊を後ろに置いた。
 漆黒の暗闇で、兵士たちはいずれも、誰が前を行くのか、横にいるのは誰なのかほとんど判らなかった。第二中隊は最後の鉄条網を通り抜けてから一団となり、張鼓峯の頂上目指して真直ぐに進んだ。日本軍の上方にあるソ連陣地から、鉄条網を援護する機関銃が50メートルの範囲を連続掃射した。曳光弾が闇を引き裂いたが、狙いは高めであった。ソ連軍の照明弾が岩の間にある死角の位置をはっきりさせたので、日本軍の進撃は容易になった。
 有刺鉄線から40メートル過ぎて、坂田大尉はソ連軍の第二陣地に突入した。大きな岩の背後から四、五名の敵兵が柄付き手榴弾を投げていた。坂田と中隊指揮班はその背後へ突進して、敵兵を斃(タオ)した。
大尉は今にも手榴弾を投げようとしている一人を斬り倒した。そこで大貫留蔵曹長らが突進して、敵の防衛線を蹂躙した。
 日本軍は未だ発砲しておらず、死傷者も出ていなかった。坂田が突っ込んだ第一陣地には機関銃は無かった。塹壕は50センチの深さがあり、岩で遮蔽されていた。右手には一張りの天幕が見え、敵のめくら撃ちが、二時三十分頃最高潮に達した。ソ連軍は小銃、軽機関銃、重機関銃、手榴弾、擲弾銃(テキダンジュウ)照明弾、速射砲、戦車砲を総動員して抵抗した。「高地は震動したが、我が攻撃隊は激しい抵抗をも顧みずただ銃剣のみを頼りに前進した」。

 大隊長中野少佐が、将校では最初に被弾した。彼は坂田中隊の右翼の小隊の左手に移動して軍刀を振りかざし、耳をつん裂く銃声と真昼のような閃光の中を突進した。彼は敵兵を一人斬り倒し、次いで後から襲いかかろうとしたもう一人を仕留めた。だがそこへ手榴弾が炸裂し、中野は右腕をだらりと下げてくずれ落ちた。彼の胸や右腕には手榴弾の破片が食い込んでいた。意識を取り戻した中野は、助けようとして駆け寄る兵士に向かって叫んだ。「馬鹿者! 進め! 俺にかまうな」。よろめき立ち上がった彼は左手に持ちかえた軍刀にもたれ、突撃の波の後を追って斜面を登って行った。この間に「誰も狂気のように、次から次へと突進した」。
 
 坂田が遭遇したのは、次第に固くなる敵の防備と、激しくなる一方の砲火であった。中隊の主力は鉄条網を突破してから、他の隊との連絡が途絶えた。彼はもう張鼓峯の一角を攻略したのかと思ったが、約30メートル前方に高さ2~3メートルの切り立った大きな岩があり、そこから手榴弾が次々に投げられていた。
 前進を続ける日本軍は、四~五名の擲弾兵が配置されたもうひとつの敵の陣地に出くわしたのである。軍刀を手にした坂田大尉は、大貫曹長とその率いる中隊指揮班の先頭に立って突撃した。

 我々が躍り込んだ時、敵兵は退却するところでした。私が軍刀を振りかぶった瞬間、一人がライフルの銃口で私の腹を突きました。その男は引き金を引きましたが、弾丸は発射されませんでした。彼に殺られる前に私が彼を斬り倒しました。他の敵兵は逃げてしまいましたが、その前に手榴弾のピンが抜いてあったので味方の多くが倒れ、私も腿をやられました。

 大貫は、坂田大尉の背後のソ連兵ニ、三名を斬り倒し、次に横から彼を狙った一人も始末した。時はもう午前三時であった。

右翼では第一中隊が間隔の広く開いた二列の有刺鉄線を突破して、西斜面沿いに比較的速い速度で前進した。二列目を突き抜けたところで部隊は150メートル先に三列目を発見し、敵の機銃が火を吐いた。そこで左翼小隊所属の一人の一等兵が「決死」の進路を強行啓開役を買って出て、歩兵の15メートル先を突進して部隊の進路を切り開いた。午前三時に山田大尉は高地の右翼から高みをめざして部下と共に突進し、予想されなかった敵弾地を蹴散らし、速射砲二門を鹵獲した。
 中隊の死傷者は増大した。山田自身も胸を撃たれたが、部下を励まし続けた。午前三時三十分、彼は主目標──対戦車砲の背後にある丘の上の幕舎群──に向かって、先頭に立って突撃した。彼は幕舎の中でうろうろしていた敵兵数名を斬り倒したが、再び胸を撃たれ、あえぎながら「天皇陛下万歳」と呟いてこと切れた。山田の感状には、「最前衛の敵陣地を占領した後敵の後衛を粉砕し、かくして敵の全戦線を完全に崩壊させる端緒を開いた」と記されている。
 ・・・
ーーー
                     第十五章 既成事実へのつじつま合わせ
 
 第十九師団からの電話による第一報がようやく京城にもたらされたのは、張鼓峯を攻撃しソ連軍を排除した後になってからの事だった。七月三十一日午前五時四十分、朝鮮司令部は山崎隣曔第十九師団参謀が電話で送った報告第一報を受取った。「(1)沙草峯方面の敵が前進してきたため、佐藤部隊はこれに反撃を加え、午前二時四十分頃より戦闘中である。(2)ハーサン湖の東西で砲声が聞こえる。(3)現地は目下霧が深い」。
 この第一報では張鼓峯に対する攻撃には触れておらず、作戦は沙草峯方面で行われた反撃のように聞こえ、さらにソ連軍が砲撃していることを示唆している。報告の曖昧さの言い訳に使ったのが、状況を覆いかくす霧であった。しかし師団司令部は連隊による攻撃が計画的なものであることを──攻撃開始時刻にいたるまで──知っていたし、しかも尾高亀蔵師団長が三十日に佐藤幸徳連隊長を訪れているので、事態が判らなかったので京城へ誤って伝えたということもあり得ない。

 関与した兵力や発生地点に何ら言及せずに、銃火の応酬があったことをようやく軍司令部へ警報した師団は、その後京城あての報告を絶やさなかった。第二報はこう伝えている。「(1)佐藤部隊よりの報告によれば、同隊はその一部を以て張鼓峯と沙草峯南方の縁の中間にある敵陣地を午前二時三十分奪取した。(2)他の部隊は午前二時四十分頃張鼓峯の敵陣地第一線を奪取し、攻撃を続行中である」。
 張鼓峯を正当化する理由としてはっきりしているのは、第一報で述べられた沙草峯方面でのソ連軍の先制攻撃に関する言い分だけしかないが、ともかく戦闘がおこなわれている地域はこれではっきり特定された。この第二報で付け加えられたことは、日本軍の企図が張鼓峯へ向けられたものであって、沙草峯へではないと言うことであり、砲撃のことには何も触れていなかった。
 恐らく師団は上級司令部の反撥を和らげるために、情報を小出しにしていたのである。また、激戦中の前線部隊からの通信が不良であったか、あるいは混乱したということもあったかも知れない。しかしながら師団は参謀の大尉(笹井重夫)に観戦させていたのである。これも師団と七十五連隊双方の思考が絡み合っている証拠の一つといえよう。師団の前進司令部にいた一人の少佐は情報を求めてひと晩中電話にかかりきりだったが、「笹井の奴、とうとう電話口に出なかった」と言っている。

午前五時頃、師団は張鼓峯で勝利を収めたことを知ったが、第一報には味方の死傷者について何も触れてはいなかった。「やれやれ、本当に良かった!」というのが報せを聞いた時の心境であった。尾高とその少佐は祝盃を挙げ、謹んで佐藤連隊の勝利を祝った。
 電話による師団からの報告第三報は張鼓峯を午前五時十五分に占領したことを喜びを込めて明記していた。そして反撃を行ったことの必然性を再び正当化していた。「敵は闇夜にもかかわらず、最初からかなり正確な砲撃を行い、戦車三台をこれに参加させている。この事実から見ても敵の計画的な攻撃であることは一見して疑いない」。

 師団報告第四報は夜襲成功を誇らかに告げていた。「佐藤部隊の一個中隊は、午前六時沙草を占領し、ソ連軍を国境外へ駆逐した」。
 その後まもなく、師団は歩兵第七十五連隊と同様に、我が軍の損害を知らせるに至った。個人的な哀惜の情が最初の揚々たる意気にとって代わったが、それでもそこには無礼なソ連軍を駆逐し、帝国陸軍の威信を保ったという抑え切れない満足感があった。朝鮮軍もこの見方を共有してほしいというのが師団の望みであり、且つ期待でもあった。

 このように京城は日本軍の攻撃について、事が起った後になってやっと、しかも大雑把な形でこれを知らされた。中村孝太郎軍司令官は「沙草峯方面の敵の攻撃前進およびその不法な挑戦に対して、第一線部隊が敢然としてこれに反撃を加え、一挙に張鼓峯を奪取した」ことを知ったのである。
 この罪をかばうような言葉遣いは必ずしも軍司令部内の情況を反映しているものではなかった。軍司令部の反応は、最初は穏やかなものがあった。師団の大半が原駐地へ戻ったものと考えられていたので、岩崎民男大佐は、かつてその軽率な行動に注意を与えたことのある慶興の国境守備隊が関わった事件だろうと考えた。彼は最初は激怒した。中村軍司令官も同様だった。
「死傷者は大変な数でした。それまでに日本軍が戦ったのは、軽く見ていた中国軍だけでした。それなのに、ここでソ連軍に対しても同じやり方でやったのです。もっと慎重に事態を処理すべきだったと軍司令官も言っていました」。中村軍司令官は第一線部隊に対し、当該高地を確保させると同時に、「その方面で使用する兵力をなるべく最小限にとどめて行動を慎重にさせ、事件の不拡大に努めさせた」。
 岩崎は尾高が事前了承をとりつけるべきだったと強く感じている。しかし将軍は叱責されなかった。「結局彼は現場の師団長であり、自らが最善だと判断したことをやっただけなのです」。土屋栄中佐もこれに同意している。「このことから受ける感じでは、多分我々が彼に騙されたのだと言われるかも知れません。しかしもし彼が夜襲を決行しなければ沙草峯の我が軍は殲滅の危機に陥っていたでしょう。だから我々はその行為を承認したのです」。朝鮮軍が細部にわたって作戦を指導する権限をもっているとは思われず、尾高はが何でも事前に報告する義務があったのだという確信はない。と彼は言っている。
 師団参謀たちはこの説明にくみしない。彼らは朝鮮軍に通告しないと決めたのは、京城と意見の一致をみていなかったからで、指揮系統そのものの問題ではなかったとしており、ほとんどの者が、尾高は計画的に指揮系統の束縛を逃れようとしたのだと言っている。「我々と京城の間の連絡は良好でした。夜襲戦の後になってからのことですが」と斎藤敏夫は笑って言った。朝鮮軍当局は師団の抱える「避け難い」問題について、周囲が考えているのとむしろ逆に、かなり理解していたように思われる。
 とはいえ、尾高が危険に満ちたその占領地を確保するために、有力な増援部隊を得られるかどうか
ということは早くから問題になっていた。岩崎高級参謀は、「師団長が非常に熱心だったので、もし彼が自己の裁量で全師団を使用することを承認すると、我々は最悪の場合も予想しなければなりませんでした。彼はソ連に対して独断的な攻撃すら仕掛けたかも知れないのです。 

 部隊をこま切れにして使用するのは良いことではないが、中村軍司令官と岩崎高級参謀は、上級司令部の決定として事態をこの方法で処理することに決めた。
 中村軍司令官の役割については、数多くの論評がある。土屋参謀の主張によると、予想もしなかった夜襲戦の知らせが入った後ですら、軍司令部では参謀全員を集めた会議が開かれなかったという。「決定は余りにも簡単に下されていました。恐らく心の中では反対の気持ちを持つ者もいたでしょうが、誰も口に出しませんでした。それぞれの立場についてある種の誤解があったと思います。それでもこの時の危機は綿密に検討すべきでした。参謀本部による直接の監督がなされなかったのは、全く遺憾です。
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 日本の歴史家は、師団が事件についての報告をゆがめていたようだと、今では認めている。

 独断夜襲の経緯を伝えた軍司令部あての報告書は、いかにも夜襲の直前にまずソ連軍の先制攻撃を受けて、これに反撃したかのように記してあったが
 ──だから、夜襲は反撃ということになるのだが
 ──沙草峯及び張鼓峯付近の情勢は、二十九日午後に小規模の衝突があってからはずっと平穏であり、ソ連軍の攻勢と見られるような事実はなかった。
 しかし報告書は明らかに、ソ連側がその主張によって不法侵入を行い[七月二十九日から31日の間に] 不法な攻撃を加えたというということを中央当局に信じさせるように書かれていた。……尾高と佐藤の行為が大命の趣旨に違反するものであったことは明らかであり、二人の将校はそのことを充分自覚していたものと推察される。
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張鼓峰事件 NO1

2019年03月17日 | 国際・政治

 張鼓峰(チョウコホウ)事件は、1938年の7月下旬から8月上旬にかけて、満州国東南端の琿春(コンシュン)市にある張鼓峰で発生した日ソの国境をめぐる武力衝突です。機密資料によると、日本側の戦没者526名、負傷者913名で、戦闘に参加したと公式に認められる全兵力の21パーセントに相当するといいます。それが、ソ連側の機械化兵力の優位性や日本の陣地の脆弱性を悟られまいとする意図から、公式発表では戦死158名、負傷者740名にされたといわれています。

 張鼓峰は境界線がはっきりしない土地で、満州、極東ロシア、朝鮮が接する地点にあるということすが、もともと近隣の人々は役人も含め、境界線や主権の問題についてあまり気にかけない大らかな生活をしていたといいます。この境界線のはっきりしないところで、ソ連極東地方におけるNKDV(内務人民委員部隊)全部隊の司令官・G・S・リュシコフが保護を求めて日本に亡命してきて以来、徐々に日ソ両国が周辺に部隊を集結させるようになり、少しずつ緊張が高まって、武力衝突に至ったということです。
 その経過や事件の内容は「張鼓峰事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス著:岩崎博一・岩崎俊夫訳(原書房)に詳しく書かれています。著者は序文で

私は本書の執筆のために、日本軍の将校や外交官であった素晴らしい人々にインタビューした日々を思い出す。それらの人々の多くは他界されたが、彼らの面影は私の脳裏にまだ鮮やかである。またその他にも多くの日本の人々が私を援助し、励ましてくれた。そうした人々の名前をすべてここに上げることはとうていできないが、その一部を代表としてここに挙げ、すべての方々への感謝の気持ちをあらわしたい。
 浅田三郎、綾部橘樹、…”

と60名もの証言者の名前を挙げています。そして、その証言をもとに、事件の全貌を明らかにしています。一つのことがらでも、多くの関係者の証言を得る努力がなされています。したがって、証言の一部に、証言者の記憶違いや自身に都合の良い証言が含まれているとしても、張鼓峰事件における日本軍中央と関東軍や朝鮮軍との関係、また、その考え方や行動、天皇の関わりなど、全体としては、まちがいなく同書に記述されたようなものであったと思います。
 諸条件が重なって、張鼓峰事件は、局地的な武力衝突で終りましたが、「勅裁」をめぐる問題その他、考えさせられる問題がたくさんあります。

 当時、事件の処理に関係のあった内閣閣僚は、近衛文麿首相と外相宇垣一成大将および陸相板垣征四郎中将です。また、陸軍次官・東条英機中将や海軍の山本五十六中将、閑院宮載仁参謀総長なども深く関わったようです。参謀本部でこれを担当する人物は稲田正純大佐で、稲田大佐が事件についてのプロジェクト責任者であったといいます。
 
 その稲田大佐は、下記に抜粋したように、武力衝突に至る前の1938年7月中旬には、”日本軍は戦略的な意味合いから威力偵察を行うべきである”と考えたことを証言しています。
 
 また、「第七章 勅裁えられず」には、”だから陛下は陸軍大臣が自分をだまそうとしていると考えておられるように私には、思えた”という松平恒雄宮内大臣の言葉が取り上げられています。
 天皇が、板垣陸相を叱責された様子も書かれていますが、天皇が軍の動きやその考え方をしっかり把握し、総合的に判断して、陸相や参謀総長の求める勅裁を拒否したという重要な事実を確認することができます。

 下記は、「張鼓峰事件 もう一つのノモンハン」アルヴィン・D・クックス著:岩崎博一・岩崎俊夫訳(原書房)から、第四章と第七章の一部を抜粋しました(漢数字を算用数字に変えたり、空行を挿入したりしています)。
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                         第四章 威力偵察

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 1938年7月中旬には、稲田の考えはまとまりつつあった。それは、日本軍は戦略的な意味合いから威力偵察を行うべきであるというものだった。
 それは戦術的な教科書水準で言えば、地域的な戦闘情報を得るために小部隊を敵地に送りこむことであるが、大本営のレベルでは、その意味するところははるかに広範なものとなる。すなわち(稲田の意図では)、ソ連が、1937年7月以来激動してきた「支那事変」で、日本と戦う中国側に立ってどの程度本気で干渉する意図があるかを試し、「それとなく探り出し」、素早く証明することである。ほかにも動員や兵力増強のやり方などの有益な手掛かりが手に入る。張鼓峰での小競り合いはソ連軍が始めたものだが、それによって日本側が探りを入れ易くなるという願ってもない出来事である。
 ・・・
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                        第七章 勅裁得られず

 ・・・
 …予想できることだが、原田男爵の説明の方がはるかに劇的である。松平恒雄宮内大臣が原田に語ったところによると、板垣は、天皇が予想した通り武力行使の問題を持ち出した。そこで天皇は他の関係各閣僚との調整について下問した。板垣は外相並びに海相の二人と意見が一致したと答えた。天皇はこの時にはもう、二人の大臣が承諾したのは軍の展開であって武力の行使ではないことを承知していた。
 
 だから陛下は陸軍大臣が自分をだまそうとしていると考えておられるように私〔松平〕には、思えた。陛下はやや激しい表現で陸軍大臣を叱責された。「陸軍のやり方は当初より誠にけしからぬ。満州事変……の場合も……また現在の〔支那〕事変の初期の段階でも、陸軍はしばしば中央当局の命令にしたがわずに、卑劣にまた局地的な判断のみに基づいて行動している。こうしたことは朕の陸軍に相応しからぬ行動である。こうした一連の問題は誠に不快である。……この度はこうしたこれまでの事変と同じようであってはならぬ」。そして陛下は声を張って付け加えられた。「朕の命令なしに一兵たりとも動かすことがあってはならぬ」。

 七月二十日午後六時十分、謁見室から出てきた板垣は恐懼し、何時になく気落ちして「私は二度と陛下のお顔を拝することはできない」と宇佐美侍従武官長に語った。原田によれば板垣は「私は辞任したい」と述べたという。陸軍の長老である閑院宮も、これ以上天皇輔弼(ホヒツ)の任に耐えずとして「面目を失ったので辞めたい」と語ったといわれている。
 
 天皇は張鼓峰事件を外交交渉で解決するという考え方を事のほかに喜んでいたので、宇垣外相の説明と動員に関する板垣陸相の奏請の間に見られた食い違いにひどく困惑したに違いない。宇垣外相は同日それに先立って次のように上奏していた。

 一部の部隊は集結中でありまして、防衛を目的に待機させることにしています。しかしもし国境を越えて攻撃に転ずる必要がある場合には問題を前もって閣議に懸けることに決定しています。もしかかる事態に立ち至った場合陛下のご賛同を賜りたく存じます。

閑院宮参謀総長と板垣陸相が拝謁中に苦しい立場に立たされた件について、宇垣外相はこう理解している。参謀総長がソ連国境への軍の派遣を奏請したとき、

 陛下はその書面を一瞥してそのまま机上に置かれた。……宮殿下は退出せざるを得なかった。そこで殿下は直ちに板垣を呼びどういうことになっているのか尋ねたので、板垣は私のところにやって来て子細を問い質した。「参謀総長は軍命令にかかわる奏請を行ったが、陛下は『これは外相が話したことと違っている』と言われ、勅裁が下りなかった。いったい貴方は昨夜(ママ)陛下に何を申し上げたのか」。私は答えた「昨夜の協議の結果をその通りに奏上しただけだ──それ以外は何も」。板垣は「そうですか」と言って出て行った。

 しかし宇垣は七月二十日における陸軍の態度にもっと深刻で危険な問題があることに、はっきりと気付いていた。

明らかに参謀総長の奏請文に何らかの変更を加えてから裁可を得ようという試みが行われていた。原文について後になって私が知ったところでは、この奏請は羅南(第十九)師団の動員と、満州に駐屯する二ないし三個師団を近いうちに東部国境へ移動させる軍命令を内容としていた。これは板垣と私が議論したことと全く一致しているが、その文の最後にちょっと見落としそうな追記があった。「これらの軍のその後の使用に関しては参謀総長にその権限を付与されたし」。
これを知ったとき私は深い感慨に捕らわれた。もし奏請が提出されたままの形で勅裁を引き出したとすれば、我が国の命運を左右する極めて重要な問題と言うべきソ連との和戦の決定が、ちょっと付け加えたあと書きによって安々と参謀総長の手に委ねられてしまったであろうし、もっと具体的に言うと、いわゆる統帥の大権は参謀本部──すなわち軍部の手に委ねられてしまっただろうと、と。これほど重要な事項をはっきりと本文に折り込まずに、意図的に、誰の目にも触れないようなどこか隅の方に短い注記として書き込んで勅裁を得ようとしたなどということは常識から言って考えられないことだ。
もしこれを悪い意味にとって言うなら、それはある種の不正な策略であり、英明な陛下の目を欺こうとする企みであると断定せざるを得ない。私はこんな風には考えたくない。それどころか参謀たちは、部隊を動かす機会を失って[ソ連軍に]先手を取られるようなことが有ってはならないと考えていたに違いない。この見方をなんとか通そうとしてやり過ぎてしまったのだろう。……仮にこの解釈が正鵠を射ているとしても、国家を忘れ軍のことだけしか考えない、偏狭な将校たちが採った無分別な行動の結果がこれだと言わねばなるまい。彼らのやり方は明らかに間違っており、この件を裁可されなかったのはひとえに陛下の御英明によるものである。

 天皇は板垣陸相に対し、「このようなきわどい時期にソ連と軽々しく砲火を交えるな」という警告を与えるつもりで述べたのだと稲田大佐は確信している。動員の件が明らかに問題の中心をなしていた。
 第十九師団の現有兵力では全面戦争はとても行い得ない。そこで奏請された大本営命令に基づいて師団の動員を行わなければならなかった。── 内地からの増強は勅裁が必要だった。陸相は勅命案を奏請したとき、当然それが裁可されるものと思っていた。しかし「ソ連に対する動員」を耳にした天皇は、満州事変以来信任の芳しくない陸相が本気で戦いに挑むのを憂慮されたのに違いない、と稲田は推量している。
 挫折感を抱いた稲田大佐は、閑院宮参謀総長が天皇に対してどの程度説明したのか疑問を持ち始め、後になってから総長に会いに行った。宮殿下は彼に対して、七月十六日に、朝鮮軍の集中に関する裁可が下りたときに「最重要事項」である動員について奏上するのを忘れたことを認めた。
 七月二十日の出来事は日本陸軍の内部に深刻な反応を生み出した。板垣を「二枚舌」でだまし、「子ども扱いした」と見られた宇垣外相は猛烈な苦境に陥り、結局1938年9月に在任わずか六ヶ月で辞任した。
 また多くの将校たちは、「役立たずの」宮内省と手を結ぶ皇室の取り巻きと見なしていた「反軍主義者」「太鼓持ち」「奸佞の輩」に対する反感を募らせていった。
 それと表裏の立場になるが、西園寺公望公のように枢要な元老たちの多くが一層陸軍不信に傾いていった。湯浅内大臣も、原田男爵に言っている

 ソ連国境問題に関して、参謀総長は……最初陛下に対して「問題となっている地点はまさに天王山と言うべき決定的なところで、武力に訴えても奪取すべきと考えます」と強い態度をとっていた。だがその後で[閑院宮は]はっきりと「勅裁なしには戦闘は開始いたしません」と申し上げている。……なんとも私には心配だ。

 著者のインタビューを受けた人たちは、板垣に好意をもっていない者も含めて一様に、彼が故意に天皇をだまそうとしたと言う者はいない。しかし極東国際軍事裁判では宇垣と板垣の異議申し立てにもかかわらず、信頼しかねる原田日記に全面的に信を置いて、1948年に次のような判断を示した。

 1938年7月21日[ママ]板垣陸相は参謀総長と連れ立って[ママ]拝謁を許され、……日本の要求を貫徹するため[ハーサン]湖での武力行使の勅裁を天皇に要請した。陸軍大臣と陸軍が軍事行動に訴えることを望んだその熱意は、板垣の天皇に対する偽りの上奏で明らかである。この上奏では、ソ連に対する武力の行使は海相外相と討議され、両者は全面的に陸軍に同意したとされていた。

 板垣を絞首刑とした国際法廷の判決は、彼が陸相当時「ソ連に対する武力行使を目的として天皇の裁可を得るために卑劣な策を弄した」との表決が、その根拠の一部を為している。
 当然のことに、陸軍省と参謀本部の将校たちは、二十日に起きた宮中での予期せぬ事態の進展に動転した。朝鮮軍が今後採るべき行動についての判断は現実とは乖離してしまうし、「洞察を欠いた」責任を執らされるかも知れないという訳である。
 しかしそのうちに、それ程落ち込まなくても良いと宮中筋から知らされた。近衛首相が板垣に言った。

 陛下が貴官を信頼していないと考えるのは全く誤りである。また同じく陛下が陸軍に信を置いておられないと決めてしまうのも真実ではない。陛下はこうした事件がなぜ頻繁に起こるのかを不審に思われているだけである。恐らく陛下は[陸軍が]今後は一層慎重であれとの御趣旨のもとに、激しい調子でこの点を強調されたのだと思う。

 この結果、板垣陸相、閑院宮参謀総長及び次官、次長たちは公式の辞任伺いや自決を迫られずに済んだ。しかし、戦前の意思決定過程における天皇の役割に長い間取り組んできた政治学者たちは、1938年7月20日の重要且つ前例のない動きに、天皇の慎重な態度と、また属僚たちの誤った考えに基づきずさんに組み立てられた計画に天皇自らが反対することがままあったことをかいま見るのである。沢本侍従武官は7月20日の件について感想を記した。

 わずか30名かそこらのソ連兵が侵入してきたことで、この誠に要らざる問題が引き起こされた。これは参謀本部の手抜かりや職務上の過ちだけでなく、海軍大臣も反対したという趣旨の上奏があいにく陛下のお耳に入ったことにも因る。相次ぐ不注意が積み重なって、まるで大事件が起こっているような感を呈してしまうのだ。

 稲田が述べたように、「事態は予期しない出来事が起こるまでは順調に推移していたが、その後になって袋小路に入ってしまった。すべての構想は形式的な手続きにとらわれ、私の趣旨は途中で消えてしまった」。

 宇垣は「気が沈んで落ち着かぬ」まま7月21日の午後五時、板垣の自宅を訪れて協議した。二人は互いに何を語らったのだろうか。沢本は程なく陸軍がもはや攻撃計画を諦めたことを耳にした。「陛下のお気に召さない以上、結局は中止した方がよい。計画は当初、張鼓峰事件はとにかく大した問題ではないという仮定の下に立てられたものだったのだから」。
 7月19日から21日にかけて東京で起こった複雑怪奇な出来事から、なぜ朝鮮の軍当局に対して予想もされなかった「赤信号」が点滅したのかが判ってくる。あるいはひょっとして疑い深い人たちが言い張っていたように、それは単なる黄信号に過ぎなかったのだろうか。

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皇室神道による国民支配 NO2

2019年03月07日 | 国際・政治

 明治維新後、薩長を中心とする政権は、皇室神道の関係者や研究者を巻き込み、国民意識の国家への統合を意図して、様々な布告や布達を発しました。「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から抜粋した下記の文章にあるように、「遙拝式」や「国家的祝祭日」、「大麻配布」など、多岐にわたります。それらが、当時の一般国民の民俗信仰や自然信仰を含む様々な信仰の抑圧にもなったため、記録に残っているトラブル以外にも、いろいろなトラブルがあったのではないかと思われます。

 また、文章中に、『神社廻見記録』が、”村々の信仰の実状と神仏分離政策による変容とを、いきいきと伝えてくれる貴重な記録である”とありますが、「神社改め」で、かなり強引に神道の信仰が強制されたことが窺われます。だから、明治時代は、文明開化の一方で、国民生活のすみずみにまで、皇室神道が入り込んいった時代でもあったといえると思います。

 戦後日本では、かつて「紀元節」であった2月11日を「建国の日」としました。もともと2月11日は、明治時代に、古事記や日本書紀に記された神武天皇即位の紀元前660年1月1日 (旧暦)を、明治6年の改暦の布告を受けて、新暦に換算した日付であるといいます。明治5年、すでに神武天皇紀元を祝う祭りを毎年1月1日 (旧暦)に行うことが布告されていましたが、その後の改暦によって、2月11日に行うことになったというわけです。

 でも、神武天皇の紀元前660年1月1日 (旧暦)の即位に、史実としての根拠がないことは、『日本書紀』や『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる津田左右吉が、誰にでもわかるように、具体的に、そして、ていねいに指摘しました。”神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない”と、神武天皇の即位や神武創業の話について、今から100年近く前に批判しているのです。そこには、記紀神話の勝手な解釈やこじ付けが多々あり、史実とは考えられないということです。でも、津田左右吉の『神代史の研究』その他の著書は発禁処分となり、彼は「皇室の尊厳を冒涜した」として、禁錮刑の判決を受けています。

 その神武天皇の即位は『日本書紀』に「辛酉年(カノトトリノトシ)の春正月(ハルムツキ)の庚辰(カノエタツ)の朔(ツイタチノヒ)」とあるそうです。神武天皇は大和の橿原宮で「辛酉年の春正月の庚辰の朔」に即位したということです。

 辛酉年とは、古代中国で広く信じられていた「讖緯説(シンイセツ)」によれば、天の命令が革(アラタ)まる年であるといいます。讖緯説に従って、日本でも変革は辛酉の年に起こると信じられていたそうです。
 辛酉という数え方は、六十年周期で暦が一回転する干支による年の数え方です。讖緯説では、この一周六十年が二十一回重なる千二百六十年で一蔀(ホウ)という単位になり、一蔀ごとに大きな革命があるとされていたといいます。神武天皇が最初の天皇として位に即いたことは、大きな革命だったと考えられますから、これを一蔀前にさかのぼって設定したものということができます。
 そこで記紀神話を整えた時期から推すと、推古天皇九年(601)が辛酉年なので、この辛酉年から千二百六十年以前に設定したということなのです。そして、初期の天皇の年齢を百四十歳とか百二十歳というように引き延ばして当てはめ、『日本書紀』の年代の辻褄があうように話が作られ、神武天皇紀元が設定されたというわけです。この年代を実年代にあわせてみると、西暦紀元前660年になり、中国では周の恵王の十七年にあたり、日本では縄文時代で、もちろんまだ国家は存在していません。140歳の天皇の存在もあり得ず、史実といえないことは明らかだと思います。

 でも、明治維新直後から、神武天皇紀元を採用すべきであるとの意見が盛んになったといいます。それは、欧米諸国との外交折衝で、西暦よりもさらに古い紀元を外交文書に記して、優越性を誇示しようとする国家意識があったからであると考えられています。
 その2月11日が、様々な反対意見があったにもかかわらず、戦後日本で、再び「建国記念の日」とされました。元号法や国旗国歌法の制定、靖国神社問題などを考え合わせると、皇室神道の復活が意図されているのではないかと思います。
 国民意識の国家への統合のためには、国民が共有する歴史は、史実に基づく必要はないということなのか、と疑わざるを得ません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

               Ⅲ 廃仏毀釈の展開

               Ⅳ神道国教主義の展開

              2 国家神の地方的展開

遙拝式
 四年三月、神武天皇祭を「海内一同遵行」し、地方官では遙拝式をおこなうようにとの布達がなされた。ここで地方官というのは、府藩県庁のことであるが、遙拝式についての神祇官の布達を掲げてみよう。
        遙拝式
一、府藩県庁中清浄ノ地ヲ撰ミ、大和ノ方ニ向ヒ、新薦(アラゴモ)ヲ敷キ、高机一脚ヲ置キ、机上御玉串ヲ安ズベシ。玉串ハ榊ノ小枝ニ白紙ノ四垂(シデ)ヲ付。
        拝辞
 掛麻久毛畏支 神武天皇乃御前乎遥爾拝美(ハルカニオガミ)奉留(タテマツル)
一、官員礼服着用、順次厳重ニ拝礼スベシ。
一、右畢(オワリ)テ御玉串ヲ焼却スベシ。
一、地方ハ郷村氏神神職ヘ遙拝式申渡シ、氏子ノ者ヲシテ、大和ノ方ニ向ヒ遙拝ッセシムベシ。(『法令全書』)

 この布達は、府藩県庁では布達の通りに実施されたであろうが、村々での実施状況はよくわからない。しかし、村々の氏神に国家的祭祀を受容させることにより、村落生活の内部にまで人心統合の網の目をはりめぐらそうとする国家意思は明らかであろう。

国家的祝祭日
 四月十日、元始祭が制定されたが、そのさい、元始祭(正月三日)・皇太神宮遙拝(九月十七日)・神武天皇祭(三月十一日)は海内(カイダイ)であまねく遵行(ジュンギョウ)するように定めたのは、同じ趣旨にもとづいた祭祀の体系化だった。同年十二月には大嘗祭(ダイジョウサイ)がおこなわれたが、その趣旨を告諭して、

 此大嘗会ニ於ケルヤ、天下万民謹テ御趣旨ヲ奉戴シ、当日人民休業、各其地方産土神ヲ参拝シ、天祖ノ徳沢ヲ仰ギ、隆盛ノ洪福ヲ祝セズンバアルベカラザル也。(『法令全書』)

 としているのも、おなじ意味をもつ事実であろう。五年正月には、四方拝があらたな神道方式でなされ、また元始祭がはじめておこなわれたが、そのあと、五日には東京の士卒族が、ついで六~十一日に一般民が、神祇官神殿に詣でることを許された。また、六年一月には、人日上巳(ジンジツジョウシ)、端午、七夕、重陽(チョウヨウ)の五節句を廃し、神武天皇即位日と天長節を祝日とすることが定められた。
 五節句の廃止と新祝日の制定は、新暦への転換(六年一月)とあいまって、国家的祝祭日をもって民間の習俗と行事の体系をつくり変えようとするものだった。翌年十月には、元始祭以下の祝祭日が改めて制定されて、近代日本における祝祭日は体系が完成したが、こうした国家的祝祭日と民間の信仰行事との葛藤は、国民意識の国家への統合をめぐる重要な対抗軸として、明治末年までひきつがれた。

大麻配布
 ・・・
 大麻(天照皇太神宮大麻)の強制配布は、伝統的な宗教体系を破壊するものであったから、各地にそれを忌避するトラブルが生まれた。…

 大麻をめぐる葛藤と対立
  ・・・
 大麻を受けると、それが火を発するとか、祟りをなすなどと、今日の私たちには信じがたい妖言が伝播したところに、大麻の強制配布が人々にもたらした不安や混乱がよく示されたている。

 開化政策の一環
 ところで、伊勢神宮を頂点とする国家的祭祀の体系を地域の宗教生活の中核にもちこむことは、その対極にいた土俗的な神仏の抑圧と没落とを意味していた。だが、そのさい、土俗的な神仏は、対等の敵手として抑圧されたのではなく、迷信や呪術として抑圧されたのであった。…

 御岳講行者の直訴
 五年二月十八日の朝四時ごろ、白衣に長丈をたずさえ、念珠を襷とした十人の者が、皇居大手門にあらわれ、太政官に直訴したい旨があるとして無理に押し通ろうとした。警護の兵が押しとどめると、かえって彼らは抜刀し、門を壊して入ろうとしたので、四人が撃ち殺され、残りは捕らえられた。彼らは神懸りした御岳講の行者たちで、自らは神の加護で弾も当たらない、刀もとどかないと信ずる人たちだった。…

 世界泥海の流言
 …漠然とした不安やうまく表現でされてゆかない動揺・恐れの意識は、この時代には、むしろ一般的なものであったろう。天変がおこり、世界が泥海になるというつぎのような流言は、こうした雰囲気の中で生まれたのであろう。…
 ・・・

 新たな宗教体系の強制
 ・・・
 …国民の内面性をからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんら復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であった。


                Ⅴ 宗教生活の改変
 神田明神 
 
 神田神社は、江戸時代には神田明神といい、江戸の町人のひろい信仰をあつめ、その祭礼は江戸の名物のひとつであった。神田明神の祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)と平将門であったが、庶民の信仰は後者にあり、神田明神は、もともと将門の怨霊信仰として発展してきたものであった。
 ところで、明治七年八月、陸軍の演習を指揮した天皇が、その帰途に神田神社にたちよることとなったが、それにさきだって、教部省では神田神社に祭神を改めるように司令した。国体神学の立場からすれば、神社に祭祀されるのは皇統につらなる人々か国家の功臣のはずであり、逆臣将門を祀る神社など、容認しうるはずもなかったし、ましてそうした神社に天皇が参拝してよいはずはなかったからである。また、これにさきだち、世襲の神主芝崎氏にかえて、本居宣長の會孫(ソウソン)にあたる本居豊穎(トヨカイ)が神田神社祠官に任ぜられたことは、こうした指令を実現するための前提条件となった。

・・・
 …祭神をとりかえた神官たちを「朝廷に諂ゆして神徳に負(ソム)きし・・・人」だとそしり、

              2 民俗信仰の抑圧
 神社改め
 新潟県社祠方に小池厳藻という者がいた。彼は、明治三年三月晦日から六月六日まで、蒲原五郡と岩船郡の各村を巡回し、神社改めをおこなったが、それは、村々の神祠を実際に検分して神仏を分離させ、不都合な神体・飾り物などを取りのぞかせ、神名を定めたりするものであった。彼は多い日には十社以上も検分し、その結果を『神社廻見記録』に書きとどめた。同書は、村々の信仰の実状と神仏分離政策による変容とを、いきいきと伝えてくれる貴重な記録である。
 滝原村の多伎(タキ)神社は、吉田波江という神職が奉斎する村の鎮守神であるが、神体は不動であった。社地の裏に滝があり、また村名にもちなんで、不動明王が祀られていたのであろう。小池が巡回したとき、この地方では、神主も村人も不動を神だと思っており、社造(ヤシロヅク)りで祀られていた。そこで小池は、いまさら仏堂に改めさせることはできないと考え、社は元のままとし、不動像をとりのぞいて鏡を神体とし、幣束(ヘイソク)や鈴などを備えて神社としての様式を整えるように命じた。
 また、小見村は、八幡宮を鎮守としていたが、神体は梵字を彫りつけた青い石であった。小池はこの石を取りはらい、鏡を神体とし、幣束などを飾るように命じた。
 ・・・
氏神のない村
氏神の整備
氏仏廃毀の恐怖
小祠廃併合
民俗行事の抑圧
啓蒙的抑圧
乞食取締り
権力と民俗との対抗

              Ⅵ 大教院体制から「信教の自由」へ

               1 大・中教院と神仏合同布教
島地黙雷
 「方今、妖教(キリスト教)ノ民ニ入ル、日ニ一日ヨリ熾(サカン)也」と神道国教化政策を推進しようとするひとと同じ主張。ただ、仏教を重視し、神仏合同の教化体制を建言

教導職と三条の教則
一、敬神愛国の旨ヲ体スベキ事
一、天理人道ヲ明ニスベキ事
一、皇上ヲ奉戴シ朝旨を遵守スベキ事

 十一兼題 
 神徳皇恩、人魂不死、天神造化、顕幽分界、愛国、神祭、鎮魂、君臣、父子、夫婦、大祓
 十七兼題
 皇国国体、皇政一新、道不可変、制可随時、人異禽獣、不可不教、不可不学、万国交際、権利義務、
 役心役形、政体各種、文明開化、律法沿革、国法民法、富国強兵、租税賦役、産物製物

大・中・小教院
静岡の説教
説教の人気
説教の内実
三条宗
六年三月の越前の一揆は、教部省十一等出仕石丸八郎の寺院改革が、より一般的な新政への疑惑と結びついて、大規模な農民一揆へと発展した事例である。石丸は越前国今立郡定友村唯宝寺(西本願寺派)の出身で、幕末以来、長崎でキリスト教の探索をつづけ、キリスト教排撃のために活動してきた人物であった。石丸はこうした方面の見識が評価されて、教部省設置とともに出仕を求められ。教部省・大教院のもとでの宣教体制の整備に活躍した。
 六年一月、右のような立場の教部省の役人として故郷へ帰った石丸は、今立郡の各宗寺院をあつめ、寺院を廃合して小教院をつくり、そこに各村の氏神と諸寺の仏祖を祀ること、教導職の者は家内とともに長屋をたてて小教院に住み、門徒・同行などの名称を廃して、以後「三条宗」と称し、月に六回、三条の教則を説教することなどを指示した。三条の教則を中心におき、神道を表にたてて仏教をそのなかに包摂してしまうような、大教院体制のもとでの神道中心主義が、中央政府の威信を背景として、ッいっきょに実現されようとしたわけである。
 ・・・
 
 越前の一揆
 こうして、故郷に帰った石丸の活動は、一般民衆のあいだいに、耶蘇教の強要→仏教の廃滅という危機意識を醸成していった。そして、大野郡では、「仏法廃止」に抵抗するための秘密組織が生まれ、村々が連印して耶蘇宗の者がきたら蜂起することが約定された。三月六日、こうした動向の機先を制する目的で二人の指導者を逮捕すると、大野郡一帯で農民たちは蜂起し、「南無阿弥陀仏」と大書した旗をかかげ、竹槍をもって大野町地券役所を襲って焼払い、同町や近在で、富商・戸長役場・商法会社・高札場などを打ちこわし、あるいは焼いた。…

 講社設立
 神風講社
  …そして官許を得た講社は、六年六月の大教院神殿での鎮祭にさいして、「其日、東京及近在神仏ノ講社ハ、旗ヲ捧ゲ太鼓ヲ打テ雲霞ノ如ク参集シテ、衢(ミチ)ニ満テ往来スル事モ叶ハザリキ」(『神教組織物語』)とされるほどだった。
 ・・・
 西山村の騒擾
              2 「信教の自由」論の特徴
 新時代の僧侶たち 
 すでにのべたように、神仏分離政策以下の排仏的な気運のなかでも、東本願寺派に代表される真宗の教勢は、必ずしも衰退に向かっていたのではなかった。成立直後の新政府は、財政的に両本願寺に依存するところが大きかったし、両本願寺の門末教諭にも期待しなければならなかった。…
 ・・・
教部省と大教院は、こうした僧侶たちを中心にして、仏教側から政府首脳にはたらきかけて設立されたもので、常世長胤のような復古派の神道家からすれば、教部省と大教院は、こうした真宗僧の陰謀によって生まれたとしてよいほどで、それに手をかしたのが福羽美静や宍戸璣(タマキ)のような長州閥の宗務官僚であった。常世は、教部省や大教院の設立とともに、そこで活動することになった真宗僧のことを憎悪をこめて記し、「教部省ハ真宗僻ナル妖魅ノ巣屈(窟)トナリテ、他人イラズナリ」(『神教組織物語)と罵倒した。  

 真宗の独自性
 島地の外遊
 木戸の宗教観
  しかも、こうした島地の立場は、岩倉使節団の欧米諸国の実情認識をふまえた政府首脳部の考えと、基本的には一致していた。とりわけ、木戸孝允と島地は、英仏滞在中に十五回も会っているが、そこでの話題は、故国での宗教政策のあり方に集約されるようなものであったろう。木戸は、六年末には、「各人之信仰も自由に任せ候外無之」という認識にたっしており、その立場から、当時、教部省の実権を握っていた薩摩閥の黒田清綱・三島通庸について、「信仰自由などゝ申事は、些(イササカモ)合点入兼(イリカネ)」る「頑固論」者だと慨嘆した(『木戸孝允文書』)
 ・・・

 三条の教則批判
 五年十二月、島地は、熱烈な内容の三条の教則批判の建白書を故国に送ったが、その趣旨は、ヨーロッパの宗教事情をふまえた政教分離の主張にあった。
 ・・・
 こうした主張において島地は、宗教的な発展段階論の立場から、神道をもっとも未開のもの、真宗をもっとも近代的なものと考えるとともに、宗教は「神為」のもので、政治権力が「造作」できるものではないという認識をふまえていた。
 ・・・

 信教の自由とナショナリズム

 西周の「教門論」
 ところで、島地の「信教の自由」論は、西本願寺派僧侶としての苦闘のなかから生み出されたところにその特色があったが、洋行体験をふまえ、欧米流の政教分離論をモデルにしていたという点では、森有や西周など、明六社系の人々の「信教の自由」論と照応する性格をもっていた。
 ・・・「国家ノ政治トムジュンスル者ヲ禁ジテ足ル」…
…また、西は、天照大神を日神として崇拝するようなことは、「古代学(パレオントロジ)」を究むれば   その妄誕があきらかになるとして批判したが、天皇制の万世一系論は「立政ノ大本」だとして、これに抵触するような教えはきびしく禁じなければならないとした。神話の非合理性を批判する啓蒙家ぶりの半面で、万世一系の皇統への此岸的な崇敬を絶対化しているこうした立場も、島地たちと共通するといえよう。

 啓蒙主義と信教の自由
 ・・・
 これらあの事例から理解できるように、啓蒙思想家たちの「信教の自由」論も、人間精神の自由の根源的なあらわれとして信教の自由をもとめていたというよりも、政教分離の原則にたつ近代国家の制度の模倣にすぎなかったと理解されよう。彼らの論理では、国家の安寧や秩序の方が「信教の自由」よりも優先しているのだが、、さらにその啓蒙化としての立場からして、国家の秩序と対立する異端の教派はもとより、民衆の民俗信仰的な宗教生活の大部分も、おなじ立場から当然のように否定されてしまうのである。
 ・・・

 日本型政教分離
 明治四年末からの岩倉使節団の欧米諸国訪問にさいし、一行は各地でキリスト教の迫害について抗議をうけ、欧米諸国は、信教の自由の承認を条約改正交渉のための前提条件とした。そのために、一行は、事実上、信教の自由の承認を各国政府に約束することとなり、二年末以来各藩に分置してきた浦上キリシタンの釈放を本国政府に求めた。そして、六年二月にはキリシタン禁制の高札が撤去され、郷村社祠官祠掌の給料の民費課出の廃止(同月)、氏子調の中止(同年五月)、府県神官の月給廃止(同年七月)などがあいついぎ、神道に対する特別の保護が緩和されていった。
 ・・・
 神道非宗教説にたつ国家神道は、このようにして成立したものである。それは、神社祭祀へまで退くことで、宗教的な意味での教説化の責任から免れようとした。それは、実際には宗教として機能しながら、近代国家の制度上のタテマエとしては、儀礼や習俗だと強弁されることになった。そして、この祭儀へと後退した神道を、イデオロギー的な内実から補ったのが教育勅語であるが、後者もまた、「この勅語には世のあらゆる各派の宗旨の一を喜ばしめて他を怒らしむるの語気あるべからず」(井上毅)という原則によってつくられた。国家は各宗派の上に超然としてたち、共通に仕えなければならない至高の原理と存在だけを指示し、それに仕える上でいかに有効・有益かは、各宗派の自由競争に任されたのである。

 ”信教の自由”
 帝国憲法第二十八条の「信教の自由」の規定は、「日本臣民ハ、安寧秩序ヲ妨ゲズ、及臣民タルノ義務ニ背カザル限リニ於テ、信教ノ自由ヲ有すス」となっている。下記は「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から抜粋しました。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


  

 

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皇室神道による国民支配 NO1

2019年03月04日 | 国際・政治

 薩長を中心とした江戸幕府に対する倒幕運動は、国学・史学・神道などを結合させた尊王思想と、古代天皇制によって形成された「蕃国思想」(天皇の支配する国を神国とし、領域外の国を穢れた野蛮な国と見なす思想)に由来する攘夷論に大きな力を得て、幕府を倒し、明治維新を成し遂げました。

 攘夷を倒幕の手段とした薩長を中心とする明治の政権は、維新後、攘夷から開国に転じ、ヨーロッパにならって、中央官制や法制、地方行政、さらには金融、産業、経済、文化、教育など、あらゆる分野で幅広く近代化を進めました。それは「文明開化」と呼ばれ、それまでの日本社会を大きく変えるものでした。

 しかしながら、私は、その「文明開化」の側面ばかりに注目し、「明治150年を祝う」記念式典などを行うことには問題があると思います。もちろん文明開化には評価すべきことも多々あると思いますが、明治維新以降の日本の戦争の歴史を、明治時代の文明開化と呼ばれる「近代化」と切り離して考えることはできないからです。

 明治150年記念式典における式辞で、安倍総理は
今から150年前の今日、明治改元の詔勅が出されました。この節目の日に、各界多数の御参列を得て、明治150年記念式典を挙行いたしますことは、誠に喜びに堪えないところであります。皆様と共に、我が国が近代国家に向けて歩み出した往時を思い、それを成し遂げた明治の人々に敬意と感謝を表したいと思います。…

というような挨拶をしたということですが、その式辞は、大事なことを無視していると思うのです。

 それは、明治維新が「近代化」ではなく「尊王攘夷」をかかげた「倒幕派」よって成し遂げられたということ、また、明治維新によって日本人が、封建的社会体制から解放され、自由と平等を得て自立的個人である「市民」となり、ヨーロッパのように、民主主義社会を形成したのではなかったということ、そして何より、明治維新における「王政復古」よって、日本人は強く天皇の宗教的権威と政治的権力の影響を受けるようになり、戦争に突き進んで行くことになったということなどが、無視されているということです。

 明治維新における強引な王政復古によって、幼い明治天皇は祭祀大権という宗教的権威のみならず、政治権力や軍事の大権を保持することになりました。そこに、薩長を中心とする倒幕派の人たちの政治的意図があったことを見逃してはならないと思います。
 権力を奪取した後、その権力を安定的に行使するため、天皇を現人神として絶対化し、天皇の「御稜威(ミイツ)」を全世界に及ぼすことが、すべての日本人の使命であるとして、明治政権が「皇室神道」をベースにした国家を構成していったことは、その後の日本の歴史にとって、極めて大きなことだったと思います。
 だから明治以降の日本人は、生活のあらゆる領域で、天皇の政治的権力や宗教的権威、軍事大権のもとにおかれ、日常生活のみならず、精神面でも、より強く権力に支配されることになったのではないか思います。
 
 そういう意味で、皇室神道が国民生活の様々な領域に入り込み、国家神道化されていった経緯を知ることのできる「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)は、貴重だと思います。同書は、下記に一部抜粋したように、同書は「神祇官再興」や「祭政一致」、「神仏分離」や「廃仏毀釈」その他に関わる諸布告をとり上げています。また、「日吉山社」襲撃の事件に象徴されるように、それまで地域住民の信仰を集めていた宗教施設に対する「破壊行為」があったことや、強引な介入があったことも取り上げています。さらに、「東京招魂社」(靖国神社)をはじめとする新たな神社の創建などについても取り上げていまが、それらが、その後の日本の歴史を決定づけた側面をしっかりと見る必要があると思うのです。

下記はすべて「神々の明治維新」安丸良夫(岩波新書)から、一部抜粋したものです。
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                           はじめに

国体神学の抬頭
 ・・・
 王政復古の大号令に神武創業云々の一句をいれたのは、国学者玉松操玉松操の意見によったもので、玉松は、建武の中興よりも神武天皇による国家の創業に明治維新の理念を求めるべきだと主張した。
 ・・・
 …ところが新政府が成立すると、彼らは新政府の中枢をにぎった薩長討幕派によってそのイデオローグとして登用され、歴史の表舞台に立つつことになったのである。薩長倒幕派は、幼い天子を擁して政権を壟断するものと非難されており、この非難に対抗して新政権の権威を確立するためには、天皇の神権的絶対性がなにより強調されなばならなかったが、国体神学にわりあてられたのは、その理論的な根拠づけであった。

                        Ⅰ 幕藩体制と宗教

                        2 近世後期の廃仏論

長州藩の淫祠破却
 長州藩では、天保十三年から翌年にかけて、村田清風を指導者とする天保改革の一環として、淫祠破却が強行された。清風は、『某氏意見書』において、主として財政的見地から仏教批判を試みているが、そこではまた、寺院と村々の小堂宇・小社祠などのすべてを淫祠とみて破却し、一村に一社をおき、天子諸侯がみずから社稷・山川を祭祀するようにすべきだと主張されていた。


                          Ⅱ 発端
                       1 国体神学の登場     
 神祇官再興への動き

 神祇官再興と祭政一致を求める動きは、幕末の尊王思想や国体思想の発展のなかでうまれた。猿渡容盛(安政五年)、三条実方(安政六年)、六人部是香(文久二年)矢野玄道(元治元年)などの建言や意見書は、神祇官再興を求めていたが、慶応二年から三年にかけて、神祇官再興は具体化のきざしを見せるようになった。慶応三年三月二日の岩倉具視の書簡に、

一、神道復古、神祇官出来候由、扨(サテ)〃〃恐悦の事に候。全く吉田家仕合に候。実は委(悉)く薩人尽力の由に候(「岩倉具視関係文書」)

 とあるのは、どのような事実をさすのかは明らかでないとしても、神祇官再興が現実政治の課題になっていたことを伝えている。引用のうち、「薩人」とあるのは井上石見のことで、井上は、薩摩藩主島津氏の産土社諏訪神社の神職、慶応年間には岩倉に近づいて、岩倉と大久保一蔵(利通)との連絡にあたっていた。神祇官再興などを主唱する復古神道派の国学者や神道家は、政治的には、岩倉と薩摩藩を結ぶ線につらなっており、初期の維新政権の政策プランに大きな影響をあたえた玉松操や矢野玄道も、岩倉を通して発言の機会をうることができた。長州藩とのかかわりがふかく、大国隆正の思想に影響された津和野藩の主従(亀井茲監、福羽美静など)をこれに加えると、神祇官再興と祭政一致を推進した勢力のおおよそがとらえられる。

 こうした動向のごく一般的な背景は、水戸学や後期国学に 由来する国体論や復古思想が、幕末維新期の対外的危機のなかで、そうした状況に対応する危機意識の表出として、誰もが公然とは反対しにくい正当性をすでに獲得していたことにあったろう。しかし、神祇官再興や祭政一致のような復古の幻想に本当に心を奪われていたのは、倒幕派諸勢力のなかでも、周辺的な人々にすぎなかった。彼らの主張が維新政権の政策にとりいれられ、神祇官事務局 → 神祇官中心に、彼らが政権内部に地歩を占めえたのは、はじめは、岩倉ー薩摩閥の、ついで木戸孝允ら長州閥の支援によるものであり、むしろ彼らの地位そのものが、岩倉、大久保、木戸などの政治的ヘゲモニーの一部を構成していた。

復古の幻想
 よく知られているように、維新政権は、岩倉ら一部公家と薩摩藩が提携したクーデターによって成立したものだった。慶応三年十二月九日の小御所会議とつづいて発せられた王政復古の大号令は、二条・九条・近衛など名門の公家を斥け、越前藩・土佐藩などの有力諸藩の主張をおさえて強行された。それは、薩摩藩の武力をよりどころにしたクーデターにほかならず、やがて上京してきた長州藩がこれに加わった。薩長両藩が幼い天子を擁して幕府権力を追い落としたというのが、当時の人々の一般的な見方であり、鳥羽伏見の戦いの勝利のあとでも、諸藩の向背はまださだかではなかった。

 こうした状況のなかで、岩倉や大久保がみずからの立場を権威づけ正当化するために利用できたのは、至高の権威=権力としての天皇を前面におしだすことだけだった。小御所会議で、「幼冲ノ天子ヲ擁シテ…」と、急転回する事態の陰謀性をついて迫る山内容堂に、「聖上ハ不世出ノ英材ヲ以テ大維新ノ鴻業ヲ建テ給フ。今日ノ挙ハ悉(コトゴト)ク宸断(シンダン)ニ出ヅ。妄(ミダリ)ニ幼冲ノ天子ヲ擁シ権柄(ケンペイ)ヲ窃取セントノ言ヲ作(ナ)ス、何ゾ其レ亡札ノ甚シキヤ」(『岩倉公実記』と一喝した岩倉は、こうした立場を集約的に表現したといえる。


 神祇官再興や祭政一致の思想は、こうして登場してきた神権的天皇制を基礎づけるためのイデオロギーだったから、その意味では、この時期の岩倉や大久保にとって不可欠のものだった。しかし、冷徹な現実政治家である岩倉や大久保と、神道復古の幻想に心を奪われた国学者や神道家たちとのあいだには、神祇官再興や祭政一致になにを賭けるかについて、じっさいには越えることのできない断絶があったはずである。このことを長い眼で見れば、神祇官再興と祭政一致のイデオロギーは、政治的にもちこまれたものなのだから、将来いつか政治的に排除される日がくるかもしれないと予測することもできよう。しかし、さしあたっては、そうした幻想にとらえられた国学者や神道家に、時と処とえを得た活動のチャンスがあたえられることになった。

 許された領域
 ・・・
 神仏分離と廃仏毀釈につらなる諸政策が具体化してくるのは、慶応四年三月十三日につぎのような布告が出されてから以降のことである。

 此度、王政復古、神武創業ノ始ニ被為基(モトヅカセラレ)、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊(アソバサレ)候ニ付テハ、先(マズ)第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追(オイオイ)諸祭典モ可被為興(オコサレラルベキ)儀被仰出(オオセイダサレ)候。依テ此旨、五畿七道諸国ニ布告シ、往古ニ立帰リ、諸家執奏配下之儀ハ被止(トドメラレ)、普(アマネ)ク天下之諸神社・神主・禰宜(ネギ)・祝(ハフリ)・神部(カンベ)ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡(オオセワタサレ)候間、官位ヲ初(ハジメ)、諸事万端、同官ヘ願立候様可相心得候事。
(『法規分類大全 社寺門』)

 布告ではこの、王政復古、祭政一致、神祇官再興の理念と、全国の神社・神職の神祇官への「附属」の原則がのべられており、その後の宗教政策のためのもっとも基本的な原理を宣言したもの、といえよう。

 神仏分離の諸布告
 この布告が出された三月十三日は、五箇条の誓文発布の前日にあたっている。五箇条の誓文は、この年一月の段階で、由利公正・福岡孝弟の原案がつくられたさいには、公議政体論を理論的なよりどころとして列侯会議をひらこうとするものであったが、誓文発布にいたる過程でその内容に変更を加えるとともに、発布の形式は、天皇が公卿・諸侯・百官をひきいて天神地祇に国是を誓うという様式をとることとなった。こうした形式を主張したのは木戸で、祭儀の具体的様式を立案したのは、神祇事務局の六人部是愛(ムトベヨシチカ)だったという。誓文の内容がより開明的な方向に改められるとともに、そうした開明性も、天神地祇に冥護(ミョウゴ)された神権的天皇制を前面に押したてて公議政体派を押さえ、有司専制政権の方向へ大きくふみだしたこの段階で、神仏分離政策もクローズアップされてきたのであった。

 右の布告にすぐつづいて、三月十七日には、諸国大小の神社に別当・社僧などと称して神勤している僧職身分の者の「復飾」<還俗(ゲンゾク)>が命ぜられ、閏四月四日には、別当・社僧などは還俗の上、神主・社人などと改称して神勤し、それに不心得の者は立退くように命ぜられ、同十九日には、神職の者はその家族に至るまで神葬祭に改めることが布達された。
 これらの布告が、神勤主体についての神仏分離を規定しているのにたいし、三月二十八日の布告は、礼拝対象についての神仏分離をを定めている。
  

一、中古以来、其権現(ゴンゲン)或ハ牛頭天王(ゴズテンノウ)之類、其外仏語ヲ以神号ニ相称(トナエ)候神社不少候。何レモ其神社之由緒委細ニ書付、早早可申出候事。(但書省略)
一、仏像を以神体ト致候神社ハ、以来相改可申候事。
付(ツケタリ)、本地抔(ナド)ト唱へ仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口(ワニグチ)・梵鐘・仏具等之類差置候分ハ、早早取除キ可申事。(『法規分類大全 社寺門』)

 この布告を背景にして生じた著名な事件に、日吉山(ヒエサンノウ)社の廃仏毀釈がある。この事件は、廃仏毀釈のある側面をよく伝えるものなので、つぎにとりあげてみよう。

日吉山社
 比叡山麓坂本の日吉山王社は、延暦寺の鎮守神で、江戸時代には山門を代表する三執行代の管理のもとにあった。この日吉社へ、武装した一隊が押しかけたのは、慶応四年四月朔日(ツイタチ)の昼前のことだった。彼らは、諸国の神官出身の志士たちからなる神威隊五十人、人足五十人、日吉社の社司・宮司二十人ほどからなっていた。彼らは、新政府の「御趣意」はすでに大津裁判所から伝達されているはずだから、それに従って日吉社本殿の鍵を渡せ、と要求した。しかし、山門では、三月二十八日の布告については、まだなにもきいていなかった。当時の行政制度もとでは、新政府の指令は、山門の代表者である座主宮(ザスノミヤ)から三執行代をへて伝えられるか、大津裁判所から三執行代へ伝えられるかするはずであったが、それには若干の日時を要するために、その時点ではまだなにも知らされていなかったのである。驚いた山門では、一山の大衆に事件を報じて会議をひらき、要求を拒むことを決めた。
 何回かのやりとりのあと、押しかけた一隊は実力行使にでて、神域内に乱入して土足で神殿にのぼり、鍵をこじあけ、神体として安置されていた仏像や、仏具、・経巻の類をとりだして散々に破壊し、積みあげて焼き捨てた。仏像にかえて、「真榊(マサカキ)」と称する金属製の「古物」がもちこまれて、あたらしく神体に定められた。日吉社は、本殿のほか二宮社以下七社からなりたっていたが、同様の処置は七社すべてにたいしてもなされた。焼き捨てられた仏像・仏具・経巻などは百二十四点、ほかに金具の類四十八点が奪い去られた、と報告されている。そのなかには、大般若経六百巻が一点に数えられている例もあり、五十人の人足を動員しての反日余の作業だったことも考慮すると、全体としてはきわめて厖大な破壊行為がなされたことになる。一体の指導者樹下茂国は、仏像の顔面を弓で射当て、大いに快哉を叫んだという。
 樹下茂国は、日吉社の社司で、岩倉具視との関係がふかく、のちには岩倉邸に寄寓している。玉松操を説いて岩倉のブレインに招いたのは、三上兵部と樹下だった。樹下は第一次官制の神祇科では、三人の「係」の一人として名をつらね、当時は神祇事務局の権判事四人のうちの一人だった。もう一人の指導者生源寺儀胤も、やはり日吉社社司で、岩倉に近い人物であった。こうした彼らの地位からして、山門へはまだ届いていない三月二十八日の布告を、彼らが知悉していたのは、当然であるが、むしろ彼らこそがこの布告にこぎつけるために奮闘した努力の一部だったのであろう。

 強引な破壊行為
 日吉社の神職身分は、社司と宮仕からなり、彼らは、それまで、延暦寺の僧たちの指示にしたがって神勤していた。一般的にいって、江戸時代の大きな神社には、社僧など僧侶身分のものと、社司・神主・禰宜(ネギ)・社人など神職身分のものがいたが、僧侶身分のものが上位にたち、神職身分のものはその頤使(イシ)に甘んじているのが通例だった。そして、江戸時代後期になると、神道思想や国体思想が勢力をつよめるなかで、こうした状況にたいする神職身分のものの不平が高まり、両者の軋轢がしだいに強くなってきていた。樹下や生源寺が幕末の京都で尊王攘夷運動に加担して活動したのも、こうした情勢のなかでのあらたな自己主張という性格をもっていた。そして、三月二十八日の布告は、彼らに絶好の口実をあたえるものだったから、彼らは、この布告と新政府の威光をよりどころとして、強引な廃仏毀釈を断行し、日吉社を延暦寺の支配からきりはなしてしまったのである。

 だが、このような強引な破壊行為は、新政府の首脳からも地域の民衆からも支持される性質のものではなかった。新政府の首脳にすれば、神仏分離は朝廷に関係のふかい大社寺から漸進的にすすめればよいものであり、この年四月、岩倉の工作によって「一山不残還俗」した興福寺は、そのモデルケースだった。この事件がおこったのは江戸開城の十日前のことであるが、向背定まらぬ藩も多く、新政府の基盤はまだいちじるしく弱体で、のちになべるように、仏教側の動向も新政権の将来を占う要因のひとつとなりかねないというのが、当時の情勢であった。そのため、この事件は政府を驚愕させ、四月十日には、「社人共俄ニ威権ヲ得、陽ニ御趣意ト称シ、実ハ私憤ヲ霽(ハラ)」すような所業があってはならないとし、今後は仏像・仏具等を取りのぞくさいにも一々伺い出て差図をうけよ、「粗暴ノ振舞等於有之ハ屹度(キット)曲事(クセゴト)」である、と布告した。そして、じっさいの処理は明治二年十二月のことであったが、山門側の言い分が全面的に認められ、樹下と生源寺は首謀者として処罰された。

                     2 神道主義の昂揚
 神社創建への動き
 慶応三年十二月、矢野玄道は、国学者の立場からのまとまった政策構想である『献芹詹語(ケンキンセンゴ)』を奉呈して、天下第一の政務は『天神地祇ノ御祭祀』だとし、祀るべくして祀られていない鬼神を国家が祭祀するように主張した。そして、正しく祀られていない神々として、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)以下の天神や若干の皇統神をあげるとともに、さらにつぎのようにのべた。
 
 藤原広嗣(ヒロツグ)朝臣・橘奈良麻呂公・橘逸勢主(ハヤナリノヌシ)・文室太夫(フミノムロノダイブ)等ハ御霊社ニ祭ラレシモ有之候得共、南朝ノ諸名公ノ如キ、尚怨恨ヲ幽界ニ結バレ候モ多ルベク、サテハ時トシテ、世ノ為、災害ヲ生サレ候ハムモ難料(ハカリガタク)候ヱバ、右等ハ史臣ニ被命(メイゼラレ)候テ、其隠没セル鴻功偉績ヲ討論シ、成徳ヲ旌表シ、或ハ官位ヲモ贈賜ヒテ、右宮中ニ一殿トシテ御奉祀被遊度事ニ候。

 また、玄道は、織田信長と豊臣秀吉についても、その功績をたたえて「廟祀」するように主張した。
ここにみられるのは、記紀神話などに記された神々と、皇統につらなる人々と、国家に功績有る人々を国家的に祭祀し、そのことによってこれらの神々の祟りを避け、その冥護をえようという思想である。こうした神々が、たんなる道義的崇拝等からではなく、祟りをなす御霊への恐怖に基づいて祭祀されなければならないとされたことは、注意を要するが、国体神学が日本人の神観にもたらした決定的な転換は右のような神々こそ祭祀すべき神々として措定し、それ以外の多様な神仏を祀るに値しない俗信・淫祀として斥けたことにあった。
 こうした考えにそって、明治元年(慶応四年)以降、神社の創建があいついだ。建武の中興関係の天皇・皇族・功臣を祀るもの、他国に奉遷されていた天皇・上皇などを祀るもの、ペリー来航以来、国事に奔走してたおれた人々を祀るもの、 瓊々杵尊(ニニギノミコト)・神武天皇など皇祖を祀るもの、開港場や開拓地に天照大神を奉斎するするもの、織田信長・豊臣秀吉・毛利元就・上杉謙信・加藤清正などの武将を祀るもの、国学者や幕末の勤王家を祀るものなどである(岡田米夫「神宮・神社創建史)。神社の創建については、同論文を参照した。

楠社
 右のうち、楠正成を忠臣の代表として顕彰する思想にはもっとも長い伝統があり、幕末の尊王攘夷運動のなかで、志士たちの中にあるは楠公祭をおこなう者がふえていた。そして、楠公祭にさいしては、国事に たおれた志士たちの霊もあわせて祀られることが多かった。
 ・・・
白峰宮
 慶応四年八月、讃岐に流されて死んだ崇徳上皇の霊が京都に迎えられて、白峰宮がつくられた。

招魂社
 国事に殉じた人々を祀る招魂社は、こうした人々の多かった幕末期の長州藩では、宰判(サイハン)(長州藩の行政区画で、郡にあたる)ごとにつくられていた。そして、この招魂社と招魂祭の思想は、新政府にうけつがれ、慶応四年五月、ペリー来航以降に国事にたおれた人々の霊を京都東山に祀宇(シウ)を設けて祀ることが定められた。同六月、関東・東北の内戦で戦死した人々のための招魂祭が江戸城でおこなわれ、七月には京都の河東操練場で、やはり戦死者の招魂祭がなされた。さらに、諸藩に戦死者の調査を命じ、明治二年には東京九段に招魂社の仮神殿がつくられた。これが東京招魂社で、同年八年、嘉永六(1853)年以来国事にたおれた人々の霊は、すべて同社が祀ることになり、同社は、翌九年、靖国神社と改称された。こうした慰霊の祭祀は、幕末以来、すべて神道式でおこなわれたが、そのことが日本人の宗教体系の全体を神道へ傾斜させた意義は大きかった。
 一般的にいって、右に述べたような神社が実際に造営されたり、制度的にととのえられたりしたのは、明治四年・五年以降、むしろ七・八年ごろのことであった。しかし、新政府樹立間もない時期の、楠社の創建、京都と東京の招魂祭、白峰宮創建などは、幕末期以来培われてきた国体神学的な観念の具体化として、重要だった。その外、明治元年・二年の段階では、徳川氏と東照宮への対抗の意味をもつ豊太閤社と建勲社(織田信長を祀る)の創建も、顕著な動きであった。

 宮中祭儀
 宮中の祭儀や行事などの神道化も、右のような動向に照応するものといえよう。これにさきだって、幕末の宮中では、仏教や陰陽道や民間の俗信などが複雑にいりまじった祭儀や行事がおこなわれていた。新嘗祭など、のちの宮中祭儀につらなるもののほか、節分、端午の節句、七夕、盂蘭盆、八朔などの民俗行事がとりいれられており、即位前の幼い明治天皇が病気になると、祇園社などに祈願し、護持僧に祈禱させた。これらの祭儀や行事などには、民俗的な行事や習俗などをもっとも煩瑣にしたような性格があった。弘化・嘉永以来、対外関係の切迫のもとで、朝廷から寺社へ祈禱させる機会が多くなったが、それは伝統的な七社七寺を中心とするもので、しかもそのさい、寺社においては、別当や社僧などのはたす役割が大きかった。
 また、天皇その他の皇族の霊は、平安時代以来、宮中のお黒戸(クロド)に祀られていた。お黒戸は、民家の仏壇にあたるもので、そこに位牌がおかれ、仏式で祀られていたのである。天皇家の菩提寺にあたるのは泉涌寺(センニュウジ)で、天皇や皇族の死にさいしては、泉涌寺の僧侶を中心にして仏式の葬儀がおこなわれてきた。皇霊の祭儀が神式に改められたのは、明治元年十二月二十五日の孝明天皇三年祭からである。この日、紫宸殿に神座を設けて祓除(フツジョ)・招神の儀式をおこない、天皇はじめ諸官員が拝礼し、その後、孝明天皇陵をたずねて、やはり神式の拝礼がおこなわれた。

 宮中における神仏分離
 天皇を祀った山陵の復興運動は、江戸時代の尊王思想の具体的な表現の一つであったが、文久二(1862)年、幕府の命令で宇都宮藩の家老戸田忠至(タダユキ)が山陵修補にあたることとなり、戸田の建議にもとづいて、維新のあと、山陵を管轄する諸陵寮が設けられた。
 ところで、慶応四年閏四月、山陵汚穢(オワイ)について審議されたが、その趣旨は、山陵は天皇の死体を葬ったものであるから穢れたものとすべきかどうかということであった。死体によって穢れたとすれば、僧侶にその管理を任せなければならないことになるのである。この問題の検討を命ぜられた国学者谷森種松は、天皇は現津御神(アキツミカミ)であるから、現生でも幽界でも神であり、穢れるということはない旨を答えた。こうして、天皇霊は、寺院と僧侶から切り離されて、べつに祀られることになった。
 明治四年お黒戸の位牌は水薬師寺の一室に移され、ついで方広寺境内に新築された恭明宮に移された。六年には、恭明宮も廃され、位牌は泉涌寺に移された。さらに、七年八月には、皇后・皇子・皇女などの霊祭もすべて神式によることとし、これらはのちに春秋二季の皇霊祭に統合して祀られるようになった。また、宮中の仏教行事としては、真言宗による後七日の御修法、天台宗による長日御修法にひきつづいておこなわれる御修法大法、大元師法などがあったが、これらも四年九月にすべて廃された(阪本健一「皇室に於ける神仏分離」)。これらの事実は、宮中における神仏分離(仏教色払拭)の表現であり、その画期が明治四年にあったことをものがたっている。
 こうした神道化の後日譚として、山階宮晃(ヤマシナノミヤアキラ)親王の葬儀問題がある。熱心な仏教信仰を続けていた山階宮は、明治三十一年、その死にさいして仏式の葬儀をするよう遺言していた。仏葬式の可否は枢密院に諮られたが、皇族の仏式を許すことは「典礼の紊乱」をもたらす恐れがあるという理由で、山階宮の仏葬式は認められなかった。

 あらたな天皇像
 ところで、近世の天皇はさまざまなタブーにかこまれた人神(マン・ゴッド)であり、文字通りの雲上人(ウンジョウビト)であった。水戸学や後期国学の国体論においても、天皇は基本的には祭祀者であり、権力を行使するのは幕府であった。こうした天皇に「九重」(皇居)を出て果断な政治的行動をとるように求めたのは、真木和泉など一部の尊攘激派であったが、こうしたあらたな天皇像をうけついで、至高の権威=権力としての神権的天皇を歴史の舞台の中心に押しあげ、そこに状況を突破してゆくカリスマ的威力を求めたのは、維新政権の主導権を握った人々であった。大政奉還のあと、旧幕府・諸藩・草莽などの諸勢力がひしめきあう政治情勢のなかでは、こうした神権的権威=権力としての天皇を押したてることで、諸勢力の拮抗とそこに生まれる権力の空白状況を乗りこえ、果断に変革の主導権を掌握しなければならなかったのである。
 だが、そのためには、幼い明治天皇は、女官や公卿の手中から奪取され、維新政府の指導者たちの政治的作品にふさわしいように訓練され、あたらしい君主につくりかえなければならなかった。たとえば、大久保の大阪遷都論は、こうした見地から天皇を女官などの旧勢力と旧習から切り離そうとするもので、大久保は、「主上ト申シ奉ルモノハ、玉簾(ギョクレン)ノ内ニ在シ、人間ニ替ラセ玉フ様ニ、纔(ワズカ)ニ限リタル公卿方ノ外拝シ奉ル事ノ出来ヌ様ナル御サマニテハ、民ノ父母タルノ御職掌ニハ乖戻(カイレイ)」することになる、と論じた(『大久保利通文書』二)。

 慶応四年閏四月、天皇は後宮(コウキュウ)から表御殿に移り、毎日辰の刻(午前八時)には御学問所へ出て政務をきくようになった。実態はともかく万機親裁のタテマエがとられ、かつては一藩主にすぎなかった参与たちも、敷居一つを隔てて天皇と話すことができるようになった。おなじころ、天皇に『論語』『孟子』『古事記』などの進講がなされるようになり、同年九月の日割では、四、九の日は和学、三、八の日は漢学、一、六の日は乗馬、五の日は武場御覧となっている。若い天皇はこうしたあたらしい訓練にたちまち適応したが、乗馬はとくに気にいり、やがて毎日のように馬に乗るようになった。

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