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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「大きな三日月地帯」におけるアメリカの新戦略

2025年04月07日 | 国際・政治

 下記は、『朝鮮戦争の起源2⃣ 1947年─1950年 「革命的」内戦とアメリカの覇権』【上】』ブルース・カミングス:鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)>「第二章 封じ込めと国際協調主義  第一部 アメリカ」「大きな三日月地帯」─ アチソンが朝鮮に線を引く」からの抜萃です。

 この「大きな三日月地帯」の「封じ込め政策」は、バイデン政権で「攻撃型」に転換され、活発に進められてきたように思います。

 そういう意味で、ブルース・カミングスが明らかにした、”「大きな三日月地帯」── アチソンが朝鮮に線を引く”は、重要だと思います。

 当初、極東地域で日本・フィリピン・アリューシャン列島に対するソ連の軍事侵略にアメリカは断固として反撃するとしたアチソン・ライン(不後退防衛線)が、その後、日本・韓国・台湾・フィリピン・タイ・中東諸国などを含む「大きな三日月地帯(大新月地帯)」で、共産主義の拡大を封じ込めるという政策から、さらに攻撃型に発展し、現在に至っている現実が、見逃せないと思うのです。

 日本では、岸田前首相が20231月にアメリカを訪問し、バイデン大統領と首脳会談を行って帰国するや、防衛費の大増額に対処するよう、防衛大臣と財務大臣に指示しました。国内での議論は全くなかったと思います。

 また、その少し前には、日本の「国家安全保障戦略(NSS」を改定し、安保関連3文書で、反撃能力の保有を明記、「対敵基地攻撃能力(反撃能力)」の保有を決定しています。

 さらに溯れば、安倍政権当時から、自衛隊の「南西シフが進められ与那国島、奄美大島、宮古島、石垣島に陸上自衛隊の駐屯地を新設、奄美には警備部隊や地対空、地対艦誘導弾部隊、電子戦部隊などを配置しています。 

 その上、防衛省設置法等の一部が改正されて、自衛隊内に新たに陸海空の自衛隊を一元的に指揮する統合作戦司令部が創設され、自衛隊と米軍の指揮統制機能強化が表明されています。

 そして、台湾有事を想定し、空自戦闘機が中国艦を攻撃するという日米共同演習が計画されているのです。

 そうした日本の戦争準備と並行して、「大きな三日月地帯」では、米国主導の「ハブ・アンド・スポーク(hub-and-spoke)」型同盟(日米、米韓、米比、米豪などの二国間同盟)から多国間同盟への移行も進められています。「インド太平洋戦略」AUKUS」「クアッド(QUAD)」も、そうした流れと連動するかたちで動いてきたと思います。

 フィリピンは、しばらく前、米国との「防衛協力強化協定」に基づき、米軍が新たに使用できる国内の軍事基地4カ所を公表しました。南シナ海や台湾を巡って中国との緊張が高まる中で従来の5カ所からほぼ倍増したのです。

 だから中国は、排他的な「小サークル」の形成に反対し、くり返し「新冷戦的思考がアジアの分断を招く」と警鐘を鳴らし続けています。

 朝鮮戦争以来、アメリカの外交政策や対外政策は、今まで、この封じ込め政策に基づいて展開されてきたと思うのですが、アメリカの覇権の維持が難しくなり、バイデン政権は、それを攻撃型に転換したから、こうした動きが活発化しているのだと、私は思います。ウクライナ戦争も、そうした流れの中で理解する必要があると思います。

 だから、尹大統領の「非常戒厳」宣布や台湾の頼清徳(ライ・チントー)総統の「主権」発言も、こうした流れと無関係ではないだろうと想像します。攻撃的になっているのは、中国やロシアではなく、衰退しつつあるアメリカだろうと思います。

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                       第一部 アメリカ 

                   第2章 封じ込めと国際協調主義

 もはやわれわれは、朝鮮人やアゼルバイジャン人のことを気にかけることもなく日光浴などしていられなくなった。                                                     

                                            ヘンリー・ルース

 南朝鮮に限定的な政府を組織し、日本と経済的に結びつける方向で計画を起草されたい。

                                           ジョージ・マーシャル 19471

「大きな三日月地帯」── アチソンが朝鮮に線を引く

 1947年、アチソンは封じ込めの理論を打ちたて、これを以後3年のあいだ維持した。 この理論に軍部や議会は反対したのだが、結局は朝鮮戦争へのアメリカの介入を支配することになった。実質的には、1945年から1947年にかけてアメリカ占領軍が敷いた事実上の封じ込め政策が、アチソンの頭のなかで作用し、1947年以降朝鮮をトルーマン・ドクトリンの事実上の封じ込めに引きこむという行動をとらせたのである。

 南部の分断政権を支持するという考えが政府高官レベルまで浸透していったのは1947年初め だったが、これは李承晩(イスンマン)のアメリカ訪問の時期とも重なる。19471月末、陸軍長官 ロバート・パターソンは省庁の合同会議で、朝鮮に対する「不安は募るばかり」だと発言した。「朝鮮情勢は 他の占領地域と比べ物にならないくらい差しせまって」いるというのである。「事態を破綻に導いて面目を失うよりは手を引いたほうがよい」との声もあがっていたという。モスクワ協定を放棄し、その代わりに「南朝鮮共和国を樹立すべき」だとパターソンは語っている。 これを受けて アイゼンハワー元帥は「分断政権を支持したい」、なぜなら長期的に見ると、「朝鮮にわれわれが駐留しつづけるための費用よりも「朝鮮からの撤退」によって生じるであろうコストの方がはるかに高くつくと思われるからだ、と答えている。

 しかし朝鮮での封じ込めを強く推したのはアチソンと国務省だった。それは1947327日の省庁合同委員会の報告書にも反映されており、アチソンはこれを個人的に承認している。報告書の初めには、もし全面的な戦争になった場合「朝鮮は軍事的負担になる」、このためアメリカにとっては「朝鮮に部隊や軍事基地を置いても戦略上いかなる利益もない」とある。しかしそうであっても、「全朝鮮がソ連、またはソ連の影響を受けた勢力に支配されるならば……それは極東におけるアメリカの戦略に対する脅威になる」、特に日本にとって「非常に深刻な政治的・軍事的脅威」になるという。

 前置きに続き、報告書は無遠慮にも朝鮮封じ込め論を展開する。

 

 ソ連の封じ込めという確固たるわれわれの方針にはすきも緩みもあってはならない。なぜなら、手綱を緩めたのが一ヶ所であっても、ソ連は必ず、それを全域で政策を緩和していることの暗示と受け取るからである。朝鮮から手を引いたり朝鮮のソ連軍から逃げたりすれば、ドイツをはじめ、われわれにとって朝鮮よりもはるかに重要な意味を持つ地域において、ソ連の態度はすぐに硬化するだろう。 一方、朝鮮でしっかりと「方針を維持すれば」、ほかの問題に関する交渉においてもわれわれはソ連に対して実質的に強い姿勢で臨むことができる。

 この重要な文書が書かれた時期と文脈は、ギリシャとトルコにトルーマン・ドクトリーを適用する計画と時期や文脈とを同じくする。現にロバート・パターソンは35日、アチソンに当てた 書簡のなかでこのように調査の必要性を説いた。いわく、ギリシャとトルコは「イギリスの力に変化が生じたことに起因する、はるかに大きな問題のごく一部にすぎません」 したがって「 われわれの財政・技術・軍事援助を必要とするであろう他のあらゆる地域の情勢について調べることが……重要であり焦眉の急を要するのです」。

 朝鮮に関して計画立案者らは「攻撃的、積極的かつ長期的な計画」が望ましく、向こう3年間のコストは、政治・文化・経済面に限って、軍事費用を除いても6億ドル以上になるとはじいた。 (ちなみにトルーマンがギリシャとトルコのために必要と言っていたのはたったの4億ドルである。) さらにこの文書によると、アメリカ軍の帰国はいつかの「防護法対策」を講じてからになるという。「防護対策」とは、それぞれの人工比に応じた人数の代議員からなる南北合同の代議政体、「国連によるなんらかの保証」、「実効的な権利章典」、そして(非常に重要な点であるが)「世界銀行による財政援助と監督」のことである。なお、信託統治機構の失敗を受け、国連に朝鮮問題を引き渡すという案が浮上したのもこの時期だった。

 しかし 国務省は1946年初め頃の時点で、南北の人口比に対応する代議政体の設置という案をソ連は受けれないであろうということは分かっていた。というのも1945年に引いた線はソ連とアメリカで朝鮮を均分していたのであって、ニ対一に分けていたのではなかったからだ。また上記の文書のなかに権利章典への言及があるが、これは占領軍の支持していた朝鮮の指導者を、国務省が嫌悪していたことを強調するためだった。文章に添付された付録には「金九(キムグ)と李承晩のグループ」は過激派で朝鮮人民の「代表」ではない、また、現下の状況でふさわしく望ましい政治家のモデルは金奎植(キムギュシク)であり、自由主義の理論を実践できそうな指導者であるとはっきり書かれている。この文章では明確ではないものの、ほかでおこなわれた審議の記録からは、自由主義の国際協調主義者がホッジや陸軍、「軍事的思考」に南朝鮮の問題に対する責任があると見なし、占領軍から遠ざけようと官僚組織内で苦闘していたことがよくわかる。それは文民「弁務官」を指名するという計画にも現れていたが、結局、大使のジョン・ムチオがその役割を担うことになり、計画は実らなかった。

 この政治的勧告から、国務省の初期の計画における改革主義的傾向を新しい政策にどの程度残しておこうと考えられていたかがはっきりと分かる。しかし今や改革主義は抑えられた格好になり、封じ込めがそれよりも重要な目標になった。いうなれば、これがトルーマン・ドクトリンに見られる国際協調主義の残影というものを的確に示しているのである。文書の中でなされていた世界銀行による監督という重要な指摘は、この計画から導かれる当然の帰結と結びついていた。 当然の帰結とはアメリカ派遣の「よく訓練されたトップレベルの管理者と技術者」の指導のもとでの土地改革と朝鮮の産業の復興のことであり、これはまた日本における「逆コース」の推進力が強まっていたことの帰結であった。

 ロイド・カードナーの指摘によると、イギリス人は「アメリカの朝鮮政策の転換があまりにあつかましいのにあきれた」という。またイギリス外務省のME・デニングはすぐに、この計画は「大胆な行動」だと判断している。1947326日付のメモにデニングは「この計画について アメリカ人が十分考えたのかどうか、疑いを禁じえない。だがこの難しい課題が世界的規模のものであることを、朝鮮への援助が示しているのは確かだ」と書いている。ほかにも興味をそそる エピソードがある。1947年に外相のベヴァンがソ連の外相モノトフと会談し、ソ連はトルコやオーストリアにまで進出すべきでないと語った上で 「朝鮮がご所望ですか。 それは無理ですな」とモロトフに大声で言った そうである。

 もしこの省庁合同の調査が動かぬ証拠にはなり得ないというのなら、19473月に上院外交委員会で開かれた秘密会でアチソンが行った証言が決定的証拠となるだろう。 朝鮮は「ソ連とわれわれの間の境界線がはっきりと引かれた地帯」だという趣旨の発言で、途方にくれた上院議員たちの議論の引き金となったが、この議論については(永遠に)「非公開」で、歴史の闇に葬られている。しかし、証拠もその背後の論理に比べれば重要ではない、というのが常のならいである。  アチソンもケナンと同じように、封じ込めに制限を設け効き目のあるところにだけ薬を投与することを好んだ(例えば 中国には適用しない、など)上院議員とは、どの地域に封じ込めが適していてどの地域には向いていないかということを話し合った。アチソンはいくつかの地域に言及した後、「われわれが力になれる地域は他にもある。一つは朝鮮で、ここはソ連とわれわれの間の境界線がはっきりと引かれた地帯」だと述べている。ここで問題になっていたのは、朝鮮が戦略的に重要だということなのではなく、朝鮮がアメリカの関与に対する信頼性と威信を高めるということだった。それが意味するところは、1950625日日曜日の午後にアチソンが考えたことに正確に表れていた。威信とは「力の投げかける影」だというのである。朝鮮に駐留し続けることに陸軍省が難色を示すやいなや、アチソンはフォレスタルとパターソンとの会談で、自分もマーシャルも撤退には賛成しかねる、「撤退するようなことがあれば」アメリカの威信が「著しく傷つく」からだと、応じた。また議会がギリシャとトルコへの援助を承認すると、アチソンは朝鮮に関する法案も必要だとした。

 両者の違いは、朝鮮の軍事・戦略的重要性ともいうべきものと、政治・戦略的重要性との違いであった。朝鮮が戦場として適しているかどうかということはかかわりなく、アメリカはすでにそこにいて関与しているわけであるから、良い医者と認められる必要があり、さもなければ朝鮮以外の地域でも力が低下したと目される状況であった。他方軍部の議論では、朝鮮は戦略的には重要でないという論理がどんな議論においても通用する可能性があった。(19506月におけるフレアハウスでのブラッドリ大将の発言も含めて)。というのもそうした議論の前提が心理的 政治的なもので、具体的でも軍事的でもなかったからだ。

 他方、軍部と議会の反対を押しきってまで朝鮮に対する封じ込めを3年間にわたり主張していたアチソンには、大統領の後ろ盾があった。朝鮮戦争が始まると、アチソンは議会からの批判に身構え、自分の部下にこう伝えている──朝鮮は拡大するかもしれない。(つまり朝鮮の問題は、という意味。)ジョン・ヒルドリングからの手紙はバーバラのところにあるが──それに1947年のわれわれのプラン、1947年にヴァンデンバーグが拒否したプランの話が出ている」。またこの1950年夏には、国家安全保障会議について説明するなかで、次のように書き残している。「大統領は、ポーリー氏、ハリマン氏と話し合ってはどうかとわれわれに言われた。……そして1947年のポーリー氏の報告とヒルドリング氏の提案にあった手順をまとめ、朝鮮に関しわれわれが過去に何を提案し大統領が過去に何を承認したか──その手順は第80議会で否決されたが── について記録を示すようにと話された」

 ポーリーのことがちらりと出てくるが、これはアチソンの考えを知るヒントになる。〔ポーリーは財界出身。〕 東アジアにおけるアチソン流封じ込めの基底にあったのは世界経済の理論であり 、これは日本から東南アジアを通ってインドにのびる「大きな三日月地帯」というアチソンのメタファーによく表れている。1947年初頭の時点ではまだ朧げなものであったが、この構想こそがアチソンによる南朝鮮の封じ込め政策の拡張や後のアジアにおける「不退転防衛線」の考案、さらに朝鮮戦争に介入するという決断の重要な背景だったのである。

 もし日本の産業の復興によって地域経済が成長し、それだけでなく大陸の市場やこの地域で算出される原料が確保できるなら、これはもう一石二鳥どころか数鳥だ。そうなれば社会主義の国家統制経済の脅威にさらされている国は連帯し、日本とアメリカの経済的総合依存性という強力な支えが形成され、日本は自立する。さらにアジアのポンド圏とフラン圏内の入り口に日本とアメリカが足を踏み入れることができるようにすれば、ヨーロッパの植民地を縮小できる。これはすべて、世界システムの概念──三要素からなり相互に重なり合う複数のヒエラルキー──にぴったりと合う。つまりアメリカを世界の支配的な中心経済とすると、日本とドイツが地域の中心となるシステムを補強することになる。また、排他的な結束から成り立っていた諸帝国が解体していくなかで、日本とドイツは周辺部を再統合する助けにもなる。両国は資本・技術・防衛・資源の面で依存状態にある以上、世界市場で戦う力のあるアメリカの産業にとっては恐れるに足りない存在だった。これに対して朝鮮は不安定な半周辺の地域で、システムのなかで上昇する可能性も下降する可能性もあったうえ、反システム運動の脅威に晒されてもいた。ローズヴェルトは単一の世界のための政策を立案していたのだとしよう。だがその政策は失敗し、アチソンたちは第二の戦略を練った。排他的で自立的な国家統制経済の大規模な崩壊が起きるのを待たずに機先を制して、非共産主義の「グランド・エリア」内でいくつかの地域に中心地を作るという戦略である。

 第一巻でも述べたが、石油企業家エドウィン・ポーリーは1946年の晩春、敗戦国日本の賠償金に関する調査団の団長として朝鮮と満州に赴いた。ポーリーは、朝鮮半島の開発に大きな貢献をしたのは日本なのだから、そのために何もしてこなかった(とポーリーは見なしていた)人民委員会の手に産業や近代的施設を渡すのは恥ずべきことだ、と説いてトルーマンに強い印象を与えた。そのかわり、朝鮮は「民主主義(資本主義)的基礎」の上に開発すればよいと勧告している。ハーバート・フーヴァーも重要な役割を果たした。フーヴァーは19465月に日本と朝鮮を訪問したのち賠償政策を批判したり、日本とドイツの重工業に限度が設けられていることに対し1947年初めに異を唱えたりした。同年5月にはパターソンに宛てた書簡のなかで、日本の戦争犯罪人を寛大に扱うよう要求しつつ、「これ以上産業に圧力をかけるのはやめ」日本を「共産主義によるアジア侵略をせき止める防波堤」にするべきだと主張している。

 しかし、この15週間、指導的な立場にあったのはアチソンとケナン、ドレバー〔陸軍次官〕だった。1月末には国務長官のマーシャルがアチソンに走り書きのメモを渡し、驚くほどはっきりとした言い方でこのように伝えている。「南朝鮮に限定的な政府を組織し、日本と経済的に結びつける方向で計画を起草されたい」。また予算の問題を根拠に朝鮮からの撤退を提案していた陸軍省は、影響力のある日本にその肩代わりをさせたいという願望を表明することがあった。例えばトレバーは「朝鮮と日本が貿易圏と商業圏を形成するのは自然なことだから、そのうちに日本の影響力は再び拡大するだろう」と述べている。

 彼らは全員、日本とヨーロッパの「ドル不足」を解決し経済復興のペースを速める道は、重工業への規制を緩和し、ドイツや日本とかつての原材料供給地・市場とを結びつけることだと考えていた。ウィリアム・ボーデンは、この意味でドイツと日本は「勢力均衡のカギ」となっていたと論じており、ドイツが日本の復興計画よりも大きなマーシャル・プランにおいて単なる「軸」にすぎないのに対し「日本の復興計画は、アジアにおけるアメリカの広範囲にわたる単独での活動を形づくるものだった」という鋭い指摘を行っている。ドイツは分割されて数カ国の占領下に置かれたため、単なる軸となった。これに対して日本は分割されずにアメリカ一国の支配下に置かれ、アジア三日月地帯の中心になったのである。中国が陥落してからは、日本の裏庭とは主に東南アジアを指すようになったが、1947年から1948年にかけては朝鮮も満洲も中国北部もすべて日本への再統合の候補地だった。アチソンはその方法についてほとんど公にしていないが、194758日にミシシッピー州クリーヴランドで行った演説ではめずらしくこの点に触れ、アメリカは二つの大陸のために二つの作業場を作ることになるだろうと語った。この政府内部者たちはまた部外者からも助力を得てもいた。アヴェレル・ハリマンや『ニューズ・ウィーク』、ハリー・カーン〔同誌本社外信部長兼国際版編集長〕をはじめとする「ジャパン・ロビー」のことである。彼らは19471月になると、占領軍に財閥解体をやめるべきだと盛んに訴えるようになった。

 このように、朝鮮に封じ込めを行うための論理が二つのものを前提にしていた。つまりアメリカによる関与に伴う威信と日本での逆コースである。そしてこれが朝鮮を日本経済の裏庭、そして日本の防衛の前提にした。第一巻でも見たように、国務省の官僚で一般には「親日派」と見られっている者は1940年代初め頃、対立占領政策は緩やかなものにするべきだと主張しており、戦後の日本の安全保障と朝鮮の安全保障を関連づけて考えていた。親日派は朝鮮について考える時この国を必ず戯画化して「ミニ日本」に置きかえていし、中国国民党の支持者と反対派は李承晩が良いか悪いかについては意見が分かれていたものの、双方とも李承晩をミニ「蒋介石」と見なしていた。ヒュー・ボートンは初期の頃にも1947年にも計画の立案に力を貸したが、前回と異なるのはボートンらがハリマンやフーヴァー、ジョセフ・グルーといった大物の親日派に相談したことだった。 この省庁合同委員会の報告書は、5月初めに大筋で承認された。各省の長官が出席した57日の会議の席で、アチソンは、以下のような「決定」を読み上げている。──ギリシャおよびトルコ関連の法案が通過した後に「可能な限り速やかに」議会が朝鮮への一年計画を承認するよう要求する。文民弁務官を指名し、国務省が占領政策の非軍事的な側面に責任を負う。そして「適切な選挙法が通過し次第、南朝鮮に暫定政府を樹立〔しなければならない〕。」──後段で述べるように、その2日後、南部を攻撃から守るように命じた電報がホッジところに届いている。アチソンは1948会計年度だけ21500万ドルにのぼる計画を提案した。この一年計画にフォレスタルもパターソンも賛成した。ただ、パターソンだけはまだ、(マーシャルはこの意見に反対していたけれども)軍隊を引きあげるべきだと主張した。こうして陸軍省は少なくとも一年間だけ、新しい計画を実施することに同意したのである。


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