真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「田中上奏文」と満州侵略の思想的背景

2021年09月27日 | 国際・政治

 「昭和史の謎を追う」(文藝春秋)の著者・ 秦郁彦教授は、下記抜粋文にあるように、”政治家の出る国会討論会を見て、いつも思うことだが、論破されても「参った」とカブトを脱がぬ人士があまりにも多い。学問上の論争でも似た例は少なくないが、どうやら上奏文の真偽論争もこのたぐいらしい。”などと書いていますが、私は、それは日本の満州侵略の事実を直視しない議論のように思います。

 また、”さすがに、わが国の史学界では戦前・戦後を通じ、本物説を取る論者は少なく、自虐的史観に立つ歴史学研究会系統の史家も「細かい記述について事実の間違があり、そのまま信用できないが、東方会議の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合いに出されるのも無理からぬ」(傍点筆者、歴史学研究会編『太平洋戦争史』第一巻、1953)と同情的に書くのが精一杯だった。それも1971年の改訂版では「なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」と改めている。”などという記述にも、とても抵抗を感じます。

 確かに、秦教授は、「田中上奏文」についていろいろ調べ、「偽書」であることを明らかにされたように思いますが、現在もなお、「田中上奏文」を本物と考える人が少なくない理由を、きちんと受け止めるべきではないかと思います。「偽書」であることを明らかにしたからといって、日本の満州侵略の事実や「田中上奏文」にあるような考え方が、なかったことになるわけではないことを忘れてはならないと思います。

 現に、「田中上奏文」にあるような考え方が、日本の軍部に存在し、中国の主権を無視した行為によるトラブルも発生しています。だから、当時の中華公使・重光葵も、「田中上奏文」について、”日本軍部の極端論者の中には、これに類似した計画を蔵したものがあって、これら無責任なるものの意見書なるものが何人かの手に渡り、この種文書として書き変へられ、宣伝に利用されたもの、と思はれる。要するに田中覚書なるものは、左右両極端分子の合作になったものと見て差支へはない。而して、その後発生した東亜の事態と、これに伴ふ日本の行動とは、恰かも田中覚書を教科書として進められたやうな状態となったので、この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。”と嘆いたのです。私は、”この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。”という思いを忘れてはならないと思うのです。

 また、「田中上奏文」が、それまでの幣原喜重郎外相の協調路線を軟弱として批判し、「対中外交」の積極方針に転換した田中義一政友会内閣成立後のものであった経緯も踏まえる必要があると思います。

 さらに言えば、日本は明治維新以来、「田中上奏文」にあるような、”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず。……之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦我が日本帝国の存立上必要事たるなり”というような考え方で、休むことなく領土を拡張し続けていたと思います。したがって、少し時計の針を巻き戻せば、「田中上奏文」に、”満蒙を征服せんと欲せば、朝鮮を征せざるべからず”という一文を加えることになっていたのではないかと思います。
 なぜなら、朝鮮民族の独立闘争が、1919年三月一日の民族大蜂起になるまでに発展し、朝鮮に接する満洲の間島地方が朝鮮独立運動の重要拠点となると、日本はそれを弾圧するために、満洲の「治安維持」が日本の権利であるかのように主張し、日本政府は、「禍根ヲ一掃シ我接壌地帯ニ対スル脅威ヲ芟除スル」を口実に、中国側の反対にもかかわらず、中国領土に軍を侵入させているからです。まさに、朝鮮を征し、その結果起こった朝鮮独立運動による混乱を利用して、満州を征しようということになるからです。

 「岩波講座 日本歴史20 近代7」(岩波書店)で、そうした領土拡張の歴史を簡単にふり返ると、まず、朝鮮をめぐって争われた日清戦争後の下関条約で遼東半島(三国干渉で返還)や台湾を取得しています。
 また、日露戦争の和平交渉が進むなか、樺太攻略作戦を実施し、樺太全島を占領しました。そして日露戦争後のポーツマス条約によって、日本は遼東半島(関東州)の租借権、東清鉄道の長春~大連の支線、朝鮮半島の監督権を得、その後、韓国を併合しています。
 さらに、第一次世界大戦中の「対華ニ十一ヶ条の要求」でも、領土拡張の姿勢が貫かれていたと思います。

 そして、田中内閣の下で、外務省・軍関係者・中国駐在の公使・総領事などを集めた対中政策についての「東方会議」が開かれ、「対支政策要綱」が発表されているのです。田中内閣成立の翌年の1928年には、「済南事件」や「張作霖爆殺事件」を起こしています。

 特に満州に関しては、第二次桂内閣が決定した「対清政策」において、すでに日本の満州における「特殊の地位」について
同国ニ対スル帝国ノ関係ハ政事上並ニ経済上極メテ密接ナルモノアルヲ以テ、帝国ハ如何ナル場合ニ於テモ常ニ同国ニ対シ優勢ナル地位ヲ占ムルノ覚悟ナカルベカラズ。加フルニ帝国ガ現ニ満州ニ於テ有スル地歩ハ容易ニ之ヲ抛擲スベキモノナラザルヲ以テ永ク現在ノ状態ヲ将来ニ持続スルノ策モ亦今日ニ於テ之ヲ講ゼザルベカラズ。[中略]帝国ハ列国ニ共通ナル事項ニ関シテハ列国ト協同シテ同一ノ歩調ヲ取リ……満州ニ於ケル我特種ノ地位ニ関シテハ、漸次列国ヲシテ之ヲ承認セシムルノ手段ヲ取ルベシ”と考えられていました。

 また、清浦内閣の外務、陸軍、海軍、大蔵四省協定の「対支政策綱領」は、「満蒙ニ於ケル秩序ノ維持ハ帝国ニ於テ該地域ニ対スル重大ナル利害関係殊ニ朝鮮ノ統治上特ニ重要視スル所ナルヲ以テ之ガ為常ニ最善ノ注意ヲ払ヒ且自衛上必要ト認ムル場合ニハ機宜ノ措置ニ出ルコト」とし、「満蒙」の秩序維持を日本の任務・権利であるかのように位置付けているのです。

 また、日本の「特殊利益」をアメリカにも認めさせようして、1917年六月、政府は石井菊次郎を特派大使としてアメリカに派遣していますが、そのさいの内訓には、日本が中国に有する権益は経済的にははるかに米国をしのぎ”政事上ノ方面ニ至リテハ帝国ノ有スル利益ハ欧米諸国ノ比儔(ヒチュウ)ヲ絶シ特殊且緊切ニシテ適サニ自国ノ安危休戚ニ関スルモノアリ”とあり、したがって、何国といえども帝国の地位を無視しまたは損傷するような方法で政治勢力を扶植することあれば、”帝国ハ自衛ノ措置ヲ講ゼザルヲ得ザルハ当然ノ情勢ナリトス”とあるのです。

 またこの内訓は、南満東蒙については”其特殊利益ニ影響ヲ及ボスベキ事業例ヘバ鉄道・鉱山等ノ経営ニ関シ、外国人ガ日本トノ協定ナクシテ支那官憲ト契約シ直接ニ支那官憲ニ対スル権利義務ノ主体トナリテ投資ヲ行フハ、帝国政府ニ於テ我特殊利益擁護ノ責務ニ顧ミ到底黙視スルヲ得ザル所ナリ”として、完全に中国の主権を否認し、あたかも「南満東蒙」日本の領土であるかのような内容になっているのです。

 したがって、「田中上奏文」の考え方は、多少の強弱の変化はあっても、明治維新以来一貫して存在していたと、私は思います。そして、「田中上奏文」の背景には、すでに取り上げた『宇内混同秘策』の著者・佐藤信淵や、「幽囚録」の著者・吉田松陰の考え方、さらには、

かくして政治の基を立て、教えを明らかにして、兵はかならず天つ神の命を受け、天人一体、億兆一心、祖宗の徳をあらわし、功業を掲げて国威を海外にひろめ、夷狄を駆逐して領土を開拓すれば、天祖の御神勅と天孫の御事業に含まれた深い意味ははじめて実現されのである”(「国体中」会沢正志斎
 や
神の御子孫がよくその明らかな徳をうけつがれ、臣下たる公卿士庶のものがみなその広大な御恩に感じ、孝と敬の道をひたすらつくして天照大神の御威霊をおしひろめるならば、ひとり日本の人民がかぎりない徳化に浴するばかりでなく、遠く海をへだてた外国の国々もまた、わが国の徳を慕い、その恵みを仰ごうとしないものはなくなるであろう。実にすばらしいことではないか。”「弘道館記述義 巻の上」藤田東湖
 というような、「皇国日本」の教えがあったのだろうと思います。

 したがって、「田中上奏文」が、現実に存在した考え方をまとめたものであるとすれば、それがたとえ「偽書」であったとしても、国際連盟理事会の席上で松岡洋右代表と論戦した中国代表・顧維鈞の”偽書であるかはともかく、「田中上奏文」に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追及を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである”という主張は、きちんと受け止めるべきだと思います。

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              「昭和史の謎を追う」秦郁彦(文藝春秋)

              第一章 田中上奏文から『天皇の陰謀』まで
 
 上奏文をめぐる真偽論争
 ところで、田中上奏文が本物ではなく、偽作である証拠は、専門家たちによって早くから指摘されていた。表1(略)はわかりやすい項目を抜き出したものだが、いずれも上奏文にあるまじき単純ミスばかりで、これだけ材料がそろえば、偽作の証拠としては充分すぎるだろう。
 しかも、記述ミスは上奏文の執筆時期に貴重なヒントを与えてくれる。つまり、吉海鉄道の開通と国際工業動力会議の日付に前記の堀内電気を加味すると、昭和四年六月から八月あたりにしぼられてくるのだ。
 ところが、上奏文=本物説は消滅するどころか、何度も息を吹き返しては生きのび、現在に及んでいる。東京裁判の法廷でも真偽が論じられ、判事団の大勢は偽作と認めたのか、判決文には引用しなかったが、ソ連や中国はその後も公式には本物説を捨てていない。
 たとえば、1960年ニ月、フルシチョフ・ソ連首相は、インドネシア議会での演説で「田中の神がかり計画」に言及しているし、1976年に刊行された『蒋介石秘録』第七巻サンケイ出版)は「田中上奏文の内容の真実性は歴史が証明するとおりである」として、要点と入手経路(後述)を詳しく紹介している。
 中国大陸でも、南開大学の兪辛焞教授が書いた「中国における日本外交史研究」(『愛知大学国際問題研究所紀要』73号、1983)によると「中国史学界では偽造説もあるけれども、本物であるとする説が多数」だそうである。兪教授自身は、東方会議に関する日本外務省のマイクロフィルム史料を分析した結果、会議では上奏文に書かれた内容が審議されていないことから、本物説に疑問を呈す立場をとる。
 上奏文問題に限らず、日中戦争期に関する史的争点については、概して中国よりも台湾の方が硬直した姿勢を示すが、これは台湾の置かれた国際政治的条件に起因するのかもしれない。
 さすがに、わが国の史学界では戦前・戦後を通じ、本物説を取る論者は少なく、自虐的史観に立つ歴史学研究会系統の史家も「細かい記述について事実の間違があり、そのまま信用できないが、東方会議の決議の基本的方向を示すものとして屡々引合いに出されるのも無理からぬ」(傍点筆者、歴史学研究会編『太平洋戦争史』第一巻、1953)と同情的に書くのが精一杯だった。それも1971年の改訂版では「なにものかがつくりあげた偽書であると考えられる」と改めている。
 政治家の出る国会討論会を見て、いつも思うことだが、論破されても「参った」とカブトを脱がぬ人士があまりにも多い。学問上の論争でも似た例は少なくないが、どうやら上奏文の真偽論争もこのたぐいらしい。
 古くは1932年十一月、国際連盟理事会の席上で松岡洋右代表と論戦した顧維鈞中国代表は、「この問題の最善の証明は、実に今日の満州における全事態でる」と反ぱくした。つまり真偽は問題ではなく、上奏文が出たあとの日本の行動が事実を証明している、との論法だった。
 東京裁判でも、秦徳純証人はやはり真偽論争を避け、顧維鈞と同じ論法で切り抜けている。歴研旧版の『太平洋戦争史』もこの亜流で、上奏文問題に関するかぎり近年は影をひそめたが、他の分野ではこの種の論法はまだまだ通用するようだ。

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「田中上奏文」、国際連盟における松岡洋右と顧維鈞の論争

2021年09月17日 | 国際・政治

 「田中上奏文」には、
 ”支那を征服せんと欲せば、先づ満蒙を征せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、必ず先づ支那を征服せざるべからず。……之れ乃ち明治大帝の遺策にして、亦我が日本帝国の存立上必要事たるなり”
 というような一節があり、日本の中国侵略を裏づける考え方だと思います。でも、この文書が「偽書」であるという説があり、真偽をめぐっては、下記抜粋文が示すように、国際連盟でも議論があったことが分かります。

 でも、私は「偽書」かどうかということだけではなく、こうした考え方が、存在したかどうかということを確認することも重要であると思います。

 そこで思い出すのが、やはり幕末の思想家・佐藤信淵です。
 すでに取り上げたことがありますが、佐藤信淵は、大東亜攻略を述べた人物として、戦前大いに称揚され、軍人を中心に多くの人が、その著書『宇内混同秘策』(ウダイコンドウヒサク)を読んだといいます。その内容は、明らかに「田中上奏文」に通じるものであると思います。
 「宇内混同大論」の冒頭には、”皇大御国(スメラオオミクニ)は大地の最初に成(ナ)れる国にして世界万国の根本なり。故に能く根本を経緯するときは、則ち全世界悉く郡県と為すべく、万国の君長皆臣僕と為すべし”とありました。だから私は、それが明治維新によってつくられた「皇国日本」のなかで、「田中上奏文」へと発展したのではないかと思います。
 「宇内混同秘策」には
凡そ他邦を経略するの法は、弱くして取り易き處より始るを道とす。今に当て世界万国の中に於て、皇国よりして攻取り易き土地は、支那国の満州より取り易きはなし。
ともありました。
 また、”支那既に版図に入るの上は、その他西域、暹羅(シャム)、印度亜(インデイア)の国、佚漓鴃舌(シュリゲキゼツ)、衣冠詭異(イカンキイ)の徒、漸々に徳を慕ひ威を畏れ、稽顙匍匐(ケイソウホフク)して臣僕に隷(レイ)せざることを得ん哉。故に皇国より世界万国を混同することは難事に非ざるなり。
 とか、
大泊府の兵は琉球よりして台湾を取り、直に浙江の地方に至り、台州(タイシュウ)寧波等の諸州を経略すべし。
 などという記述もありました。

  また、「宇内混同秘策・劍懲 皇国精神講座第三輯」の著者、小林一郎は、同書の中で、
佐藤信淵について、佐藤信淵は徳川時代の末期に生まれた、最も勝れた学者の一人で「二宮尊徳と一対の人物」であると書いています。
そして
 ”但し、尊徳の方は主として各地方に於ける農業の振興を図るといふことがその一代の主張の大体でありまして、日本の国の力を外に伸ばすといふやうなことに就いては、餘り研究もして居らず、また特に説いて居る所もありませぬ。ところが佐藤信淵の方は二宮尊徳より餘ほど積極的でありまして、無論国力を盛んにしなければならぬのは言ふまでもないのであるけれども、日本が永く日本にのみ限られてはいない、日本は東洋地方の各国民を指導すべき天職を持って居るのだといふやうな確信を持って其の説を立てて居ります。それですから、此の二人の大家に就いて必ずしも優劣を論ずる必要はないのでありますが、各々其の特色があるといふことを認めなければならぬので、尊徳のやうに此の国の内容を充実せしめることに力を尽して行くに就ての意見も尊重すべきでありますが、また信淵のやうに外に全力を伸ばすといふ大理想を以て国内を整頓するといふ考へも、実に卓見と謂はなければならぬのでありまして、此の二人は徳川時代の末期に於ける学者の中に於て、最も大なる光輝を放つて居る人と申して差支へないと思はれます
 と評価しています。
 だから私は、神話的国体観の下での領土拡張政策は、明治以来、先の大戦における敗戦に至るまで一貫していたと思うのです。

 また、佐藤信淵とともに、吉田松陰の「幽囚録」の一節を思い出します。
 戦前・戦中、東大における講義はもちろん、学内の組織「朱光会」や、学外の組織「青々塾」および、海軍大学校や陸軍士官学校などで講義・講演を繰り返し、昭和天皇や秩父宮などに「進講」もして、「皇国史観の教祖」といわれるような活躍をした歴史家・平泉澄は、「先哲を仰ぐ」(錦正社)という本の中で、先哲として、山鹿素行、山崎闇齋、藤田東湖、橋本景岳、佐久良東雄、大橋訥菴、眞木和泉守などとともに、吉田松陰の名前を上げ、”今あげました数多くの諸先生の中に於て、吉田松陰はひときわ秀れたお方であります”と書いていました。

 その「幽囚録」の「自序」に”皇国は四方に君臨し、天日の嗣の永く天壌と極りなきもの…”と書いています。見逃すことができないのは、外国と対等の関係を追求しようとはしていないことです。特に、領土的拡張について、”蝦夷を開墾して諸侯を封建し、間(スキ)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲(チョウキン)会同すること内諸侯と比(ヒト)しからしめ、朝鮮を責めて質を納(イ)れ貢を奉ること古の盛時の如くなら占め、北は満州の地を割(サ)き、南は台湾・呂栄(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢いを示すべし”と書いているのです。こうした考え方も
田中上奏文」に通じるものだと思います。

 戦前・戦中、佐藤信淵吉田松陰の思想を学んだ人たちが、皇国日本の戦争の指導者であったと考えられることも忘れてはならない思います。明治維新以来、第十八代内閣総理大臣まで、薩摩・長州以外の総理大臣は、西園寺公望と大隈重信の二人だけなのです。田中義一も長州の出身で、陸軍大学校を卒業した元帝国陸軍軍人です。明治維新というクーデターによって皇国日本をつくった長州を中心とする人たちが、日本の政治を主導し、神話的国体観に基づく領土拡張政策を進めるなかで、「田中上奏文」が出てきたと考えれば、たとえ流布したものが「偽書」であったとしても、「田中上奏文」は、事実上存在したといえるのではないか、と私は思います。

 1906年五月、「満州問題に関する協議会」で、当時、韓国統監府の統監であった伊藤博文は、”児玉参謀総長らは満州における日本の地位を根本的に誤解している。満洲方面における日本の権利は、講和条約によって露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外には何物もないのである。……満州は決して我属地ではない。純然たる清国領土の一部である。属地でもない場所に我主権のおこなわるる道理はない。満州行政の責任は宜しくこれを清国政府に負担せしめねばならぬ”と陸軍の考え方や方針を批判しているのです(「日本帝国主義の形成」井上清(岩波書店)。

 その伊藤博文は、吉田松陰の松下村塾で学んでいますが、吉田松陰は”魯墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失うべからず。ただ章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし”(ロシア・アメリカとの交易において損をした分は、朝鮮・満州・中国の土地を奪って埋め合わせをすればよい、という意味)と教えています。そして、それが伊藤博文、井上馨、山県有朋、寺内正毅などの長州閥の有力者に、対朝鮮強硬論として受け継がれ、朝鮮併合後は、満州へと進んでいったのだと思いますが、その伊藤博文が、満洲に対する陸軍の姿勢を批判していることは重大だと思います。当時の中国はもちろん、国際世論を一顧だにしない陸軍の姿勢が受け入れられなかったのではないかと思います。したがって、そういう流れからも、「田中上奏文」の考え方が、軍部や田中義一政権には存在したのだ、と私は思います。それを知る誰かが、「田中上奏文」を書いたのであろうと思うのです。

 だから、「田中上奏文」(田中メモリアル)を何度も報じた『チャイナ・クリティク』誌が、”「田中メモリアル」の真偽について質問も寄せられたが、日本人は”自らの行為によってこの文書に署名した”という一文にも、無視できないものがあると思います。
 
 当時の中華公使・重光葵も、「田中上奏文」について、
 ”日本軍部の極端論者の中には、これに類似した計画を蔵したものがあって、これら無責任なるものの意見書なるものが何人かの手に渡り、この種文書として書き変へられ、宣伝に利用されたもの、と思はれる。要するに田中覚書なるものは、左右両極端分子の合作になったものと見て差支へはない。而して、その後発生した東亜の事態と、これに伴ふ日本の行動とは、恰かも田中覚書を教科書として進められたやうな状態となったので、この文書に対する外国の疑惑は拭い去ることが困難となった。
 と回想していることも、忘れられてはならないと思います。「田中上奏文」が「偽書」であるかどうかということだけが問題ではないということです。

 さらに言えば、官報號外 昭和21年1月1日 詔書「人間宣言」の
 ”然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ。
 との一節は、「田中上奏文」の考え方が、存在したといってもあやまりではないことを、物語っているのではないか、と私は思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー      

       「日中歴史認識」服部龍二著(東京大学出版会) 

            第二章 満州事変後の日中宣伝外交

一 満州事変

 『チャイナ・クリティク』誌
 ・・・
 柳条湖事件の直後から中国国民党の中央宣伝部は、「九月十八日は我が国の有史以来最大の国辱記念日である」といった抗日宣伝の標語を作成し、各省各特別市の党部などに伝えた。中央宣伝部は、中央広播無線電台や中央通信社にも宣伝工作を要請して抗日宣伝に動員する。
 柳条湖事件から約一週間には、注目すべき記事が上海の英語雑誌『チャイナ・クリティク(China Critic)』に発表された。1931年九月二十四日の同誌に、「田中メモリアル」が掲載されたのである。
「田中メモリアル」とは、英語版の「田中上奏文」であった。そこから「田中メモリアル」は、中国で小冊子などに転載されただけでなく、諸外国にも浸透していった。
 英語版「田中メモリアル」の出現はこれが最初ではなく、1929年秋に「田中メモリアル」がアメリカへ流入していたことは、第一章二で論じたとおりである。それでも、『』チャイナ・クリティク』誌の影響は大きかった。
 ・・・
 英語版「田中メモリアル」は、『チャイナ・クリティク』誌から大量に複製されて世界中に流布していった。複製された小冊子の多くは四十二ページから成るものであり、Tanaka Memorial published by the China Critic , Shanghai China, 1931 と表紙に記されている。
 その頒布に一役買ったのが、中華民国拒毒会である。この中華民国拒毒会は上海に置かれた団体であり、唐紹儀(トウショウギ)や施肇基(シチョウキ)、蔡元培(サイゲンバイ)、伍朝枢(ゴチョウスウ)などの政府要人が名誉職に就いていた。YMCAなどとも関係する中華民国拒毒会は、麻薬密輸を告発する書簡に「田中メモリアル」を同封している。中華民国拒毒会の書簡は、「田中メモリアル」を「比類なき日本の帝国主義構想」と訴えた。中華民国拒毒は、その書簡とともに、「田中メモリアル」をアメリカなどの海外にも発送した。
 ・・・
 その後も『チャイナ・クリティク』誌は「田中メモリアル」を何度も報じ、「田中メモリアル」を掲載することで「世界中にセンセーションを起こした」と自賛している。同誌によると、「田中メモリアル」の真偽について質問も寄せられたが、日本人は「自らの行為によってこの文書に署名した」という。つまり、過去数年に及ぶ日本の侵略に鑑みて、「田中メモリアル」が本物であることは明らかだというのである。

 リットン報告書
 ・・・
 リットン報告書は、満州事変における日本軍の軍事行動を合法的な自衛措置とは認めなかったし、満州の独立運動は日本軍によってのみ可能となったものであり、満州の政権は自発的な独立運動で出現したものではないと結論づけた。その半面でリットン報告書は、中国のボイコットが合法的に行われたという中国側の主張を支持しなかった。のみならず、日本が満州に多数の権利を有し、満州とは特殊な関係であることにも配慮しており、原状回復および満州国の存置をいずれも不適切と退けた。
 報告書で解決の原則として掲げられたのは、日中双方の利益の両立、満州における日本の利益の承認、日中間における新条約関係の設定、将来の紛争解決に有効な措置の検討、満州の自治、地方的憲兵隊と不可侵条約による安全保障、日中間における経済的接近の促進、中国の改革に関する国際協力などであった。
 具体的に報告書で提起されたのは、東三省に自治政府を設置して特別憲兵隊を外国人教官の協力の下で組織し、自治政府には外国人顧問を任命することであった。さらに居住権や鉄道など日本の利益にかかわる日中条約、調停や不可侵に関する日中条約、組織的なボイコットの禁止を含む日中通商条約の締結についても発案されていた。

 日中「協力」
 リットン報告書に込められた意図については、ブレークスリ(G.H.Blakeslee)の声に耳を傾けておきたい。ブレークスリはクラーク大学の教授であり、リットン調査団でアメリカ側委員を務めたマッコイの顧問だった。
・・・
 もちろんリットン報告書は、満州事変を日本による自衛権の行使とは見なさなかったし、満州国が中国人によって自発的に建国されたとも認めなかった。それでも、解決策として報告書は、「現状維持でも満州国の承認でもなく」、中国主権のもとで「アメリカにおける州のような自治政府」を創設するように推奨したのであり、「中国の統一を維持しつつも、日本には満州事変前に主張していたものをすべて与える」という意図だったとブレークスリは述べる。
 リットン報告書は日本に必ずしも不利な内容ではなく、調査団の一員としてブレークスリは、交流のあった日本人に好印象を示すところすらあった。そのことは、リットン報告書が日本に宥和的であったことと無関係ではなかろう。だとすれば、日本側の宣伝外交は徒労ではなかったことになる。
 にもかかわらず、ブレークスリが語るように、「中国代表団はリットン報告書を交渉の基礎として受理する意向を示したものの、日本は報告書を非難している」のであった。報告書に不満な日本は国際連盟から脱退していくのだが、その前に連盟で審議が行われた。連盟での審議は、「田中上奏文」論争の頂点となる。

              六 国際連盟──松岡洋右・顧維鈞論争

 松岡・顧維釣(コ・イキン:洋名・ウエリントン・クー)論争
 リットン報告書が日本に宥和的だったにもかかわらず、斎藤内閣はリットン報告書に不満であり、とりわけ満州事変と満州国について誤認が多いと結論づけた。そこで日本は1932年十一月十九日、リットン報告書を批判する意見書を国際連盟に提出した。
 中国国内にも、リットン報告書への不満はあった。一例として、参謀次長の賀耀組(ガヨウソ)による意見書がある。報告書では日中紛争の原因が誤解されており、「日本の朝野では、中国の分裂による漁夫の利を望まない者はなく、そのことは枚挙にいとまがないのであり、『田中上奏文』からも自明である』という。
 リットン報告書は十一月二十一日、国際連盟理事会において審議された。日本の首席代表は、元外交官の松岡洋右衆議院議員である。中国は顔恵慶を首席代表として、顧維鈞と郭泰祺(カクタイキ)も代表を務めた。それ以前から顔は、ニューヨークで刊行された『中国は中日紛争に声明する(China Speaks on the Conflict between China and Japan)』という本の序文で、『歴史的にも感情的にも、数世紀にわたって満州は数百万もの中国人の故郷であった』とアメリカの世論に訴えていた。
 十一月二十一日の国際連盟では、松岡と顧維鈞(コ・イキン)が激論を戦わせる。得意の英語で松岡は、満州事変を自衛権の行使と主張し、満州国の建国は日本の手引きによるものではないものの、日本の政策が極東に安定をもたらしてきたと強調した。つまり松岡は、リットン報告書の見解を批判したのである。
 かつて参与としてリットン調査団を補佐した顧維鈞はこれに反論し、日本軍の行動は自衛権の行使として正当化できないと言い立てた。さらに顧は「東三省支配は世界征服の第一歩にすぎない」と論じて、「田中上奏文」の一節をこう引用した。

 In the future, if we want to control China we must first crush the United States just as in the past we had to fight in the Russo-Japanese war. But in order to conquer China we must first conquer Manchuria and Mongolia. In order to the world,  We must first conquer China. If we succeed in conquering China, the rest of the Asiatic countries and the South Sea countries will fear us and surrender to us.  Then the world will realize that Eastern Asia is ours and will not dare to violate our  
right. This is the plan left to us  by Emperor Meiji,  the success of which is essential to our national existence 

 顧維鈞が読み上げたのは、「田中上奏文」の著名なくだりである。「田中上奏文」を偽書と確信していた松岡は、十一月二十三日の国際連盟理事会で顧に反駁した。
  
 松岡「そのような文書が、天皇に上奏されたことはない。1930年四月、当時の王正廷南京国民政府外交部長は、偽造文書の流通によって生じ悪影響を防ぐために、しかるべき措置を講じると駐華日本公使に約束しているではないか」
 顧維鈞「偽書であるかはともかく、「田中上奏文」に記された政策は、満蒙の支配や華北と東アジアにおける覇権の追及を説くものであり、数十年来に日本が進めてきた現実の政策そのものである」
 松岡「中国代表は『田中上奏文』の信憑性を確信されているようである。中国代表が文書の存在を次の会議で立証されることを期待したい」

 このように顧維鈞は、「偽書であるかはともかく」と松岡の追及を巧みにかわしながら、「田中上奏文」の内容は日本の政策そのものだと国際連盟理事会に訴えた。これに対して松岡は、「田中上奏文」の証拠を次回に提示するよう求めたのである。
 「田中上奏文」をめぐる松岡と顧維鈞の論争は、1932年十一月二十四日の連盟理事会でも続けられた。まず発言したのは顧であった。 
 
 顧維鈞「この問題についての最善の証明は、今日の満州における全局である。仮にこれが偽書であるとしても、日本人によって偽造されたものである。その点について松岡氏も、近著『動く満蒙』のなかで同意されている」
 松岡「中国代表は、証拠を提出せず拙著に論及された。拙著は日本語で書かれたものだが、おおよそ正確に引用されたようである。したがって、『田中上奏文』を偽書と見なす拙著の記述に、中国代表は賛意を表したといわねばならない」

 このように顧維鈞は、「田中上奏文」の真偽を断言することなく、「最善の証明は、今日の満州における全局である」と切り抜けた。これに松岡は、 顧が事実上「田中上奏文」を偽書と認めたものと判断し、議論を打ち切ったのである。
 「田中上奏文」の真偽論争としては顧に分が悪いものの、松岡がこの問題に固執したため、かえって「田中上奏文」は、国際世論に印象づけられたであろう。

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「鎮魂 特別攻撃隊の遺書」を読んで思う

2021年09月10日 | 国際・政治

 下記は、「鎮魂 特別攻撃隊の遺書」原勝洋編著・靖国神社協力(KKベストセラーズ)から、四人の遺書を抜粋したものです。4の大西瀧次郎以外は、いずれもニ十歳代の若い将校のものですが、その文章から、父母に深く感謝し、子や妹を思いやる心優しい若者であったことが分かります。そうした礼儀正しさや優しさは、他の将校の遺書でも同じように感じられました。また、彼らの多くが、飛び立つ前に、詩を書き、歌を詠み、達筆な書を残しています。そんな優秀で優しい彼らが、従容とし死に就いたのはなぜなのか、を考えることは、我々日本人には大事なことだと思います。
 
 彼らの思いは、”帝國勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。”とか、”お前が大きくなって、父に会ひたい時は九段へいらっしゃい。”とか、”大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国の為散って逝く、私を孝行者と云ってください。”というような記述で、察することが出来ます。 

 彼らの思いは、すでに触れたように「大日本帝国憲法」、「教育勅語」、「軍人勅諭」、「国体の本義」、「戦陣訓」、「臣民の道」などの教義・教説を通じ、また、御真影奉安殿拝礼神社参拝宮城遙拝祝祭日の行事など、日常生活のあらゆる側面で徹底的に注入された「神話的国体観」に基づいていたのだ、と私は思います。日々の報道や軍国美談などからも、彼らは影響を受けただろうと思います。
 だから、特攻による自らの「死」を、何の抗議も、抵抗もせず、”靖国の神”となることを信じて受け入れたのだと思います。当時の将校には、天皇を現津神(現人神)とする神話的国体観に疑問を抱く余地などなかったのではないか、とも思います。 
大君の御楯となりて天翔る 希望遥かに明けの空征く”とか、”いさぎよく散るこそ武士の道と知れ 恵みを受けし君が御為に”という歌を詠んで飛び立った将校などの遺書もありましたが、みな神話的国体観を学んで、「海ゆかば」に歌われているような心をもって、飛び立ったことは間違いないと思います。 

 当然、当時の日本人も、大日本帝国の戦争の意味を、神話的国体観を離れて問い直し、他国の主張を考えるというようなことはしなかったと思います。それは、国際連盟におけるリットン報告書の採択で、44か国中42か国が賛成(日本反対、シャム棄権)したにもかかわらず、日本は、自らの方針を変えることなく、国際連盟を脱退して突き進み、一般国民もそれを歓迎したことでわかります。東京朝日新聞も、『連盟よさらば! 遂に協力の方途尽く 総会、勧告書を採択し、我が代表堂々退場す 四十二対一票、棄権一』と報じているのです。国際連盟脱退を非難したり、批判したりする姿勢はなかったのです。
 日本がそんな強引な姿勢を貫いたのも、皇軍兵士をはじめ、当時の日本人がみんな、”深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期”し、戦うことを当然のことと受け止めていたからではないかと思います。

 だから、日本の戦争は、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(天皇の「人間宣言」)に基づくものであったことを、私たち日本人は素直に認め、近隣諸国との関係改善に努めるべきだと思うのです。

 また、ポツダム宣言の、”吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”の指摘は、決して不当なものではなかったと思います。

 国際社会の寛大な対応で、主権を回復することができた日本が、再び戦前の日本を取り戻そうとしたり、戦争の”過ち”を認めようとしなかったり、戦時中の主張と変わらない考え方で、外交を進めたりすることは、許されないことだろうと思います。「国家神道」は、戦後の民主化政策の一つである「政教分離」によって、国家と切り離されました。にもかかわらず、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す”とか”建国の精神を以て、無秩序なる社会的混乱の克服を期す”というような綱領をもってスタートし、今なお”「戦後日本の歪められた精神を一刻も早く回復するため」悲願である憲法改正の運動に尽力するというような組織(神政連)が存在します。

 そしてその「神政連」とつながる「神道政治連盟国会議員懇談会」(会長・安倍晋三)まで組織されていますそうした組織に結集する政治家に、日本の政治を委ねていては、中国や韓国をはじめとする近隣諸国との関係改善や、国際社会の信頼回復はできないと思います。

 日本人は、日本を「神国」とし、”皇国を四方に君臨”させようとして戦った戦争が、神話的国体観に基づく”架空ナル観念”によるものであり、”過ち”であったことを、きちんと受け止めなければならないと思うのです。
 アメリカが、日本を追い込んだので、戦争が避けられなかったとか、日本は、欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指して戦ったというような言い訳は、たとえそういう側面があったとしても、国際社会では通用せず、日本の戦争を正当化できるような話ではないと思います。特別攻撃隊の遺書が、そのことを示していると思います。

 4の大西瀧次郎は、フィリピン・レイテ島に進攻してきた米軍の大部隊に対し、初めて特攻出撃を命じた軍人で、「特攻の父」とも呼ばれたといいます。
 飛行機に爆弾を抱いて敵艦に体当りする、日本海軍の「神風特別攻撃隊」は、戦況が日本に決定的に不利となった時、日米両軍の決戦場となったフィリピンで、大西瀧治郎中将の命により編成されたということです。
 だから、”終戦の大詔を拝した夜”、大勢の部下を追って、下記4の遺書を残し、”腹を一文字にかき切って自刃した。”といいます。彼の自刃も、神話的国体観に基づく”架空ナル観念”にとらわれていたことを物語っているように、私は思います。
1 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             第2章 特攻隊員の偉勲と遺書

海軍中佐
關行男命(愛媛県出身 大正十年生まれ 二十三歳 海軍兵学校第七十期 敷島隊)

 父上様、母上様
 西条の母上(注:実母)には幼時よりご苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。
 今回帝國勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐることはありません。
 鎌倉の御両親(注:満里子夫人のご両親)に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ゆる事も出来ず征く事を、お許し下さいませ。
 本日帝國の為、身を以って母艦に體当りを行ひ君恩に報ずる覚悟です。
 皆様御體大切に。
    ※
 満里子(注:妻)殿
 何もしてやる事も出来ず、散り行く事はお前に対しては誠に済まぬと思って居る。
 何も云はずとも、武人の妻の覚悟は充分出来て居る事と思ふ。御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様、色々思出をたどりながら出発前に記す。
 恵美ちゃん坊主も元気でやれ。
    ※
 教え子へ(第四十二期飛行学生へ)
 教え子は散れ山櫻此の如くに 
2---ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍大尉
植村眞久(東京都出身 大正八年生まれ 二十五歳 立教大学 海軍第十三期飛行予科予備学生
     第一神風特別攻撃隊大和隊)
 素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
 私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるようにと思って、お父様が考へたのです。
 私は、お前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても、決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなって、父に会ひたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。父はお前は幸福ものと思います。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されてゐた。またお前の叔父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。
 お前が大きくなって私の事を考え始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。
   昭和十九年月吉日
 植村素子へ
 追伸、素子が生まれた時おもちやにしていたお人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると 困りますから教へて上げます。
3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍少尉
高瀬丁命(北海道出身 大正十五年生まれ ニ十歳 丙種飛行予科練習生第十二期 神風第九建武隊)

 御恵み深き父母上様、聖戦に参加せんとして愛機に搭乗する前に書します。この世に生を享けて十幾星霜、夏の日も冬の日も慈しみ励まし日本男子にお育て下さいました。──
 父母上様、何一つとして御恩に報いませんでしたが、大日本帝国軍人として大君に命を捧げて皇国の為散って逝く、私を孝行者と云ってください。── 決してお嘆きくださいますな。私は幸福でした。── 私は最後の最後まで御訓育に背きませんでした。そして晴々とした気持ちで祖先の御前に行けます。唯一つ残念なのは御高恩に報いられなかった事のみです。──
父母上様、父母上様よ、お姿を心に秘めて御名を心で叫びながら散ります。父母上様さやうなら、さやうなら。
                                     高瀬丁
父母上様へ
  二伸
   一、吾に金銭貸借なし
   一、吾に婦女子関係なし
   一、吾に罪なし
      ※
 妹よ
 兄は、今死場所を得て、武人の本懐と勇んで征く。
 妹よ、此の兄死すとも嘆くなかれ。五体はなくとも魂はいつもお前たちのもと、悠久の大義に生きてゐる。嘆かず頑張ってくれ。
 妹よ、お前たちは、帝国海鷲の妹なるぞ、兄の死に方に恥ぢないやう、何事にも頑張ってくれ。父母上を頼んだぞ。兄が残す言葉は、父母に孝、君に忠を尽くせのみだ。
 妹よ、たのむぞ。
 兄は勇んで死んでゆく。
 妹よ、体を大切に。永く永く幸福に暮らしてくれ。
 お前達の面影を偲びつつ征く。
                                   出撃の日
4 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
海軍中将
大西瀧次郎命

    遺書
 特攻隊の英霊に曰(ノタマワ)す。善く戦ひたり、深謝す。最后の勝利を信じつゝ肉弾として散華せり。 然れどもその信念は遂に達成し得ざるに到れり。吾れ死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝さんと す。
 次に一般青壮年に告ぐ。
 吾が死にして、軽挙は利敵行為なるを思ひ、聖旨に添ひ奉り、自重忍苦する誡めとならば幸なり。
 穏忍するとも日本人たるの矜持を失ふ勿れ
 諸子は國宝なり。平時に処し猶克く特攻精神を堅持し、日本民族の福祉と世界人類の和平の為最善を尽されよ。

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GHQによるマインド・コントロール NO4 平和教育とヴェノナ文書

2021年09月06日 | 国際・政治

  私は、木佐氏や木佐氏と同じようなことを言う人たちの本を読んで不思議に思います。彼らは、

1、GHQが日本人を計画的にマインド・コントロールし、その呪縛が現在も続いている。

2、戦後日本の歴史観が、東京裁判によって決定づけられた歪んだもので、史実を反映していない。

3、米軍の原爆投下は、一般市民を大量虐殺したもので、戦争犯罪であり、人道に対する罪であった。

などと主張しています。

 では、なぜアメリカと同盟関係を強化し、日本における米軍のやりたい放題を黙認し、諾々とアメリカに従う安倍前首相を中心とする自民党政権を支え、活動しているのかと。

 

 私は、原爆投下は確かに、一般市民(非戦闘員)を大勢殺害した戦争犯罪であり、人道に対する罪にあたると思います。だから、謝罪を求め、補償を求めるべきだったと思います。そして、同時に核兵器廃絶に向けた取り組みを開始してほしかったと思います。また、一日も早くそうした姿勢に転換してほしいと思います。

 

 私は、問題にすべきはことは、GHQによる日本の民主化や東京裁判の内容にあるのではなく、公にされず、秘かに進められた計画や、議論や裁判の対象にならなかった問題、また、敗戦後の政治的取り引きにあると思います。私は、力が支配する世の中を、法の支配する世の中にするために、下記のようなことを明かにしてほしいと思っています。

 

1、なぜ、米軍は日本の反撃能力がほとんどなくなり、ポツダム宣言が発表されて、日本の降伏が見えてきていたのに、大勢の一般市民(非戦闘員)を殺害する原爆を、予告せず、二発も投下したのか。

 

2、なぜ、アメリカは情報を得ながら、石井機関と七三一部隊の人体実験を含む残虐事件や細菌戦に関する問題を東京裁判で取り上げなかったのか。

 731部隊の人体実験を含む残虐事件や細菌戦については、ハバロフスク裁判の証言があり、中国戦犯管理所における関係者の自筆供述書があります。また、米軍自身、細菌戦調査官を四次にわたって日本に派遣し、「サンダースレポート」、「トンプソンレポート」、「フェルレポート」、「ヒルレポート」などと呼ばれる4本のレポートを得て、その内容をつかんでいました。でも、だれも訴追されませんでした。アメリカは731部隊の研究成果を独占入手する代わりに、石井四郎以下731部隊関係者を戦犯免責するという取り引きを行ったと言われています。だから、731部隊の犯罪行為は闇に葬られたに等しいと思います。日本にとって不都合であっても、そうしたことを放置せず、明らかにしなければ、力の支配は克服できないと思います。

 

3、なぜ、戦争終了後に、沖縄県民の一部を収容所に入れ、土地を取り上げ、強引に米軍基地を作ったのか。ポツダム宣言には、”前記諸目的ガ達成セラレ且日本國國民ノ自由ニ表明セル意思ニ從ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ聯合國ノ占領軍ハ直ニ日本國ヨリ撤収セラルベシ”とありました。でも、米軍基地建設は、国民的合意や地主との法的手続きを欠いたまま進められたのではないかと思います。その経緯を明らかにしてほしいと思います。

 

4、なぜ、十一回にわたる天皇とマッカーサーの会談内容がきちんと公表されなかったのか。

5、なぜ、日本の主権を侵すような「日米地位協定」が締結され、いつまでも改定が進まないのか。 

 

 このようなことを、明らかにしようとせず、戦前の日本を正当化する姿勢は、力の支配を当然のこととし、再び日本国民を欺くものだと思います。方針転換前のGHQによる日本の民主化や東京裁判そのものは、法に則って進められ、問題にする必要はないのであり、問題はその外側にあると思うのです。

 

 そうしたことを考えながら、『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』木佐芳男(幻冬舎)を読むと、「平和教育」や「ヴェノナ文書」に関する記述内容も、問題があると思います。

 木佐氏は、戦後の歴史教育を、高橋史朗教授の文章を引いて、”占領軍は、日本人の「精神的武装解除」を実現しようと、日本人に犯罪意識を刷り込むため、共産主義者や社会主義者を利用した。教育の名の下に左翼を使って「内部からの自己崩壊」を画策した。”としています。

 でも、日本の戦後歴史教育はそんなものではないと思います。日本の歴史教育は、日本国憲法や教育基本法に基き、日本の歴史学者が、歴史学の基本を踏まえ、事実に基づいて書いた教科書でなされているのであり、著者もちろん多くの現場教員に”日本人に犯罪意識を刷り込む”意図など少しもないと思います。まして、”「内部からの自己崩壊」を画策”など、あり得ないことだと思います。

 どのような記述や指導が、事実に反し、”日本人に犯罪意識を刷り込む”歴史教育なのか、きちんと示してほしいものだと思います。

 木佐氏や高橋教授は、しばしば「左翼」「共産主義者」「社会主義者」という言葉を使っています。それは、かつて「治安維持法」が存在した日本で、そうした思想の持ち主が、”國體ヲ變革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ從事シタル者”として、”死刑又ハ無期若ハ七年以上ノ懲役ニ處”す、と定められていた当時の考え方を、少なからず受け継いでいることを示しているのではないか、と私は思います。

 現在の日本では、憲法で、思想の自由や学問の自由、信教の自由などが保障されています。「共産主義者」も「社会主義者」も、法を犯さない限り、自由に活動できる時代です。具体的な問題点や事例を示さず、「共産主義者」や「社会主義者」を、あたかも、犯罪者のように書き立てるのはいかがなものかと思います。

 また、きちんと検証することの出来る資料や根拠を示すことなく、”ルーズベルトは、『ダム』を放流したかのように、ソ連の工作員をアメリカ政府機関に潜入させてしまいました”とか”ソ連のスパイが日米開戦のシナリオを書き日本を追い込むように仕組んだというのだ。”などというのは、いわゆる「陰謀史観」の類ではないかと思います。

 

 「ヴェノナ文書」と題された文章には、”日本国憲法の骨格を決定したのがアメリカの内部に入り込んでいたソ連のスパイたちだったことも判明しつつある”などとあります。「ソ連のスパイ」という言葉にも、「共産主義者」や「社会主義者」という言葉と同じような犯罪的ニュアンスが込められていると思いますが、大事なのは、それが日本国憲法のどこに、どのような問題としてあらわれているのか、ということを指摘することではないかと思います。そうした中味がないのです。ただ、拒否感や恐怖感を煽るような、まさに「印象操作」といえる文章なのではないかと思います。

 しばしば木佐氏が引用している明星大学教授・高橋史朗氏の「天皇と戦後教育 戦後世代にとって天皇とは何か」(ヒューマン・ドキュメント社)のはしがきに、下記のような記述があります。

戦後教育を受けて育った私の脳裡に焼きついて今も離れないのは、高校時代の日本史の先生がいつもニヤニヤしながら、天皇のことを「天ちゃん」「天ちゃん」と連発したことがある。なぜこの先生はいつも意味ありげな嘲笑を浮かべながら、毎時間「天皇」のことを茶化すのだろうか、という素朴な疑問を私は抱き続けてきた。

 それまで天皇という存在を実感して受けとめる機会を全く持たなかった(ほとんどの戦後世代がそうであるように)私にとって、日本史の先生がほとんど「怨念」に近い屈折した感情を込めて「天ちゃん」にこだわり続ける姿は、まさに”異様”そのものであった。

 天皇および天皇制に関する私の関心は、この高校時代の異様な戦後教育体験に源を発しているといっても決して過言ではない。当時、高校教師をしていた父に、この疑問を話し、父は天皇をどう思うかと尋ねたところ、父は和歌日記(戦後四十三年間、父は毎日和歌を数首作って日記がわりにし、自分の部屋を「敷島の間」と名づけていた)の中から、昭和二十一年一月一日の天皇の「人間宣言」に際して作った次の和歌を私に示した。



   すめろぎは神にまさずと宣(ノ)らすとも

             我疑はずすめろぎは神



 この二人の戦前生まれの高校教師の全く対照的な天皇観に触れ、果たして日本人は戦前・戦中、戦後を通して天皇をどのように見てきたのか、深く知りたいと思うようになった。…”



 高橋教授は、自ら、天皇を「現津神(現人神)」とする父親の「神話的国体観」を受け継いだことを語っているのだと思います。だから当然、木佐氏と同じように、戦後の日本が受け入れられないのだと思います。

 また、天皇が「人間宣言」をしてもなお、”我疑はずすめろぎは神”という高橋教授父子にとっては、「共産主義者」や「社会主義者」は、許されない存在なので、「現津神(現人神)」ではなく、「人間の尊厳」を基本原理とする日本国憲法下の民主化された日本が、「共産主義者」や「社会主義者」の影響下にあるように見えるのだろうと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

           第Ⅱ章 GHQによるマインド・コントロール



6 マインド・コントロールa6 平和教育

 マインド・コントロールa1からa5を、教育の現場で浸透させたのが日教組だった。日本の教員・学校職員による労働組合の連合体である日教組もGHQの主導で作られたが、当初から左翼とのつながりがあった。

 教育史に詳しい明星大学教授・高橋史朗は、「戦後の歴史教育はすべて『太平洋戦争史』に沿って教えられています」としている。(『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』)。高橋によると、占領軍は、日本人の「精神的武装解除」を実現しようと、日本人に犯罪意識を刷り込むため、共産主義者や社会主義者を利用した。教育の名の下に左翼を使って「内部からの自己崩壊」を画策した。

 評論家・江崎道朗によると、進歩主義と社会主義が「欧米を代表する思想」として日本に入ってきたのは、すでに明治の日清戦争より前の1880年代だった。進歩主義は「歴史・伝統・文化を敵視し、それらを解体しなければ進歩がない」とするもので、軍人をふくむエリートたちは日本の近代化にそれが不可欠と信じていた。「戦前の日本では、労働問題や貧困問題に真面目に取り組んでいたのは、キリスト教徒と社会主義者であった。また、日本のアカデミズムは戦前からすでに社会主義に染まっていた」(『コミンテルンの謀略と日本の敗戦』)

 元ウクライナ大使の馬淵睦夫によれば、大戦中にアメリカ大統領だったフランクリン・ルーズベルトの取り巻きの多くは社会主義のイデオロギーをもった者たちだった。大統領夫人のエレノアは根っからの社会主義者であり「レッド」と呼ばれていた。第Ⅰの側近ハリー・ポプキンスも社会主義者だったという。(『反日中韓』を操るのは、じつは同盟国・アメリカだった!』)。

 元米太平洋艦隊司令官ジェームズ・A・ライアンは、こう語っている。「ソ連とルーズベルト大統領の関係について知ることで、日米開戦の経緯についての正しい認識を得ることができます。ルーズベルトは、『ダム』を放流したかのように、ソ連の工作員をアメリカ政府機関に潜入させてしまいました」(WiLL20182月号)。ソ連のスパイが日米開戦のシナリオを書き日本を追い込むように仕組んだというのだ。



 ヴェノナ文書

 アメリカ政府は、1995年、「ヴェノナ(VENONA)と名づけた文書を公開した。江崎道朗によると、これは19401944年、アメリカにいるソ連のスパイとソ連本国との暗号文をアメリカ陸軍が傍受し、

194380年、アメリカ国家安全保障局(NSA)がイギリス情報部と連携して解読した「ヴェノナ作戦」についての文書のことだ。

 この文書の公開によって、ルーズベルトの側近だったアルジャー・ヒスらがソ連のスパイだったことが立証された。これをきっかけに、アメリカでは「ルーズベルトと共産党の国際機関コミンテルンの戦争責任を追及する」という視点から、近現代史の見直しが進んでいる。(江崎道朗『アメリカ側からみた東京裁判史観の虚妄』)。

 また、この文書などによって、日本国憲法の骨格を決定したのがアメリカの内部に入り込んでいたソ連のスパイたちだったことも判明しつつある(WiLL201611月号)。

 しかし、わが国の左派現代史研究者は、ヴェノナ文書をほぼ無視している。日本の憲法制定過程や戦後史にソ連のスパイがかかわっていたという事実は、左派にとって「不都合な真実」だかららしい。

 日本近現代史研究家の渡辺惣樹によると、米ハーバード大学出身のロークリン・カリーは、ルーズベルト政権で史上初めて米大統領付き経済アドバイザーとなったが、戦後、ソ連のスパイだったことが明らかになった(『戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実』)

 コミンテルンの史観とアメリカの史観は、本来、質がまったくちがうはずだ。高橋史朗は、そのふたつの史観の合体が可能となったのは、「日本が対外戦争を起こした軍国主義や超国家主義の根底に天皇制・天皇信仰を中心とする日本文化や神道があり、それらに根差した日本人の国民性があるという共通理解があったから」だとみる。そして「占領軍と共産主義者が癒着して戦後日本の歴史教育をつくっていったことは注目すべき点です」とする。(『日本が二度と立ち上がれないようにアメリカが占領期に行ったこと』)。

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GHQによるマインド・コントロールと「印象操作」NO2  公職追放と慰安婦問題

2021年09月03日 | 国際・政治

『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』(幻冬舎)の著者・木佐芳男氏は、「6 マインド・コントロールa2 公職追放」で、”大学をはじめとする教育の場やメディア機関には、追放された人びとのあとに極端な左翼分子が入り込み、組織が急速に左傾化していった。”と書いていますが、その実態や根拠、またその結果の問題点などは示されていません。木佐氏はここでも、「極端な左翼分子」とか「急速に左傾化」という言葉を使い、戦後日本の評価を下げる「印象操作」をしているように思います。

 そして、GHQがわれわれを計画的に洗脳(マインド・コントロー)し、その呪縛は現在もつづいているという木佐氏の主張が、完全に逆立ちしているために、こういう「印象操作」をせざるを得ないのだろうと思います。


 GHQの政策のもとをたどれば、第二次世界大戦に突入していた昭和十六(1941)年一月、ルーズベルト大統領の年頭教書の中に、すでにそれが示されているといいます。日独伊枢軸国の脅威とそれに対する自由主義諸国の戦いについて、合衆国政府が目指す世界を語ったというのです。そして、戦後の世界が基礎づけられるべき原則として『四つの自由』をあげたといいます。その四つ自由とは、「言論の自由と表現の自由」、「神を崇拝する自由」、「欠乏からの自由」、「恐怖からの自由」です。どれも戦前・戦中の日本にはなかったといえる「自由」ではないかと思います。
 それは、ポツダム宣言の”六 吾等ハ無責任ナル軍國主義ガ世界ヨリ驅逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本國國民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ擧ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ”に通じるものだと思います。
 だから大戦終了後、GHQは、アメリカが、第二次世界大戦の果てに確立すべきと考えていた”四つの自由”を日本に定着させ、日本人のマインドを、当時の支配層による、天皇を現津神とする「国家神道」のコントロールから解くために頭を悩ませたのです。だから、特に問題は、「神を崇拝する自由」を、日本にどう”適用”するかということだったようです。そして、極端な国家主義と結びついている「国家神道」を、政教分離というかたちで、国家と切り離す「神道指令」発したのです。その結果、国家神道に関わる人たちや、国家神道の教え(天皇を現津神とする神話的国体観・皇国史観)を煽っていた人たちが公職を追放されました。それが日本の民主化の最重要課題であったのだと思います。

 したがって、そうした公職追放を”「思想が瞬時に大転換」するとは、つまり、日本人への強烈な心理操作がおこなわれたことを意味するだろう。”と言ったり、”急速に左傾化”と言ったりする木佐氏は、民主化=強烈な心理操作 民主化=左傾化という受け止め方で、GHQによる日本の民主化政策を受け入れていないように思います。

 また、公職追放された人びとが復帰しても ”教育の場や多くのメディアの左傾化は変わらなかった”ということの実態やその理由についても、木佐氏は何も示していません。言葉だけのような気がするのです。

 また、敗戦前後の日本における公文書焼却処分を問題にすることなく、”現代史のエアポケット”などを語るのも、いかがなものかと思います。どのような隠蔽の事実があったのかや、どのような不都合が考えられるのかを明らかにし、法的に不正を正すという姿勢を示してほしいのです。

 次に、「5 マインド・コントロールb4」に書かれている問題です。
 2013年に、当時日本維新の会共同代表であり大阪市長であった橋下徹氏が、「慰安婦」問題に関し、”(1)戦争時の軍隊に「慰安婦制度」は必要であった,(2)沖縄海兵隊司令官に風俗業を活用して欲しいと述べた。”といいます。だから岡山弁護士会が問題視し、すぐに”橋下徹氏の「慰安婦」等に関する発言に対する会長声明”を出したということです。木佐氏の引用は、その際の発言に関わるものだと思いますが、この発言に関しては、橋本氏自身が、その後「私の認識と見解」と題する文書において弁明し,”「女性の尊厳は,基本的人権において欠くべからざる要素」であり,「日本兵が『慰安婦』を利用したことは,女性の尊厳と人権を蹂躙する,決して許されないもの」であることを認め,風俗業を活用して欲しいとの発言については「アメリカ軍のみならずアメリカ国民を侮辱することにも繋がる不適切な表現でしたので,この表現は撤回するとともにおわび申し上げます。」”と述べたといいます。この撤回とおわびが重要だと思います。


 また、籾井勝人氏の発言は、NHK会長に就任した時の就任会見でのものだと思います。その中で、”旧日本軍の慰安婦問題について「どこの国にもあった」「なぜオランダには今も飾り窓があるのか」との見解を示し、元慰安婦への補償を求める韓国を「すべて解決したことをなぜ蒸し返すのか」と批判した。”というのです。
 この「どこの国にもあった」という主張が問題なのです。橋本氏や籾井氏に限らず、多くの著名人が、同じような発言をしています。確かに、日本が海外に慰安所が設けた当初は、「どこの国にもあった」ようなものであったようです。でも、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』を読めば分かりますが、日中戦争で戦線が拡大し、長期化するとともに、問題は深刻になっていくのです。
 例をあげると、当時の山形県知事が、内務大臣や陸軍大臣、警視総監などに宛て、「北支派遣軍慰安婦酌婦募集ニ関スル件」という、下記のような内容の文書を送っています。軍部の方針として慰安婦を募集することは、とんでもないことではないかというのです。その理由として、”銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響尠カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スル”と述べています。そして、同じような内容の文書が、群馬県や和歌山県からも寄せられるのです。


”…管下最上郡新庄町桜馬場芸娼妓酌婦紹介業者戸塚○○ハ右者ヨリ「今般北支派遣軍ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ2500名ノ酌婦ヲ募集スルコトトナリタル趣ヲ以テ500名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢16歳ヨリ30歳迄前借ハ500円ヨリ1000円迄稼業年限2ヶ年之カ紹介手数料ハ前借金ノ1割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ云々」ト称シアルヲ所轄新庄警察署ニ於テ聞知シタルカ如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄カニ信シ難キノミナラス斯ル事案カ公然流布セラルルニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響尠カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノトシテ所轄警察署長ニ於テ右ノ趣旨ヲ本人ニ懇諭シタルニ之ヲ諒棏シ且ツ本人老齢ニシテ活動意ニ委セサル等ノ事情ヨリ之カ募集ヲ断念シ曩ニ送付アリタル一切ノ書類ヲ前記大内ニ返送シタル状況ニ有之候 右及申(通)報候也

 そこで、 内務省警保局長が、各庁府県長官宛(除東京府知事)に「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」という文書を発し、また、陸軍省兵務局兵務課起案の「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件、副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案」という文書が発せられるのです。さらに、婦女子の人身売買にかかわる国際条約との関係を指摘する声にも配慮せざるを得ず、日本国内から「慰安婦」を戦地に送ることが極めて難しくなったのです。そこで、いわゆる「植民地」から送るようになっていったのだと思います。そして、国内では、「慰安婦」問題が見えなくなると同時に、差別も絡んで「どこの国にもあった」ようなものではなくなっていくのです。確かに、売春や強姦事件、集団レイプのような残虐な戦時性暴力の問題は、どこにでもあったと思います。でも、軍が慰安所を作り、慰安所規定を作り、慰安所を利用する部隊や時間を指定し、軍医が定期的に慰安婦の性病検査をし、慰安婦が性病を発症すると、中央に補充を要請し、軍が送り届けるというような慰安所が広範囲に数多く設置された例は、他国にはないと思います。日本政府の正式な謝罪が必要な理由は、そこにあると思います。
 日本軍が設置し、運営に関与した「慰安所」は、まさに軍による組織的な「性奴隷制」であり、諸外国における戦時性暴力とは異なるものだと思います。本来であれば「強制売春」や強姦は犯罪であり、軍法会議で裁かれるはずですが、組織的になされたことによって犯罪とはされず、日本兵は罪悪感を持つことなく女性の性を凌辱することができたのだと思います。そうした国家ぐるみの「性奴隷制」が、他国の戦地における残虐な強姦事件とは異なるのであり、「どこの国にもあった」と言うのなら、具体的に示す必要があると思います。


 だから、著名な橋本氏や籾井氏の根拠の示されていない発言を引いて、”メディアは「他国にもそういう制度が本当にあったのか。あったとすれば、なぜ、政治・外交問題になっていないのか」を調べ、報道すべきだった。だが、そういう動きをするどころか、発言者を根拠もなく叩いた。”というのは、「印象操作」と言わざるを得ないのです。
 また、「慰安婦」問題が”朝日新聞など日本の一部が火を点けて大騒ぎになり、日韓関係はこじれてしまった”という主張にも問題があると思います。私は、「慰安婦」問題に火が点いたのは、元日本軍「慰安婦」の金学順さんが自ら名乗り出て、日本政府を相手に謝罪と賠償を求めて訴訟を起こしことがきっかけだと思います。でも、考えるべきは、問題がなければ火が点くことはないのであり、誰が火が点けたかは、問題の本質とは直接関係のないことだと思います。
 女性の人権や尊厳に関わる重大な問題が、元日本軍「慰安婦」が自ら名乗り出て、日本政府を相手に訴訟を起こすまで放置され続けてきたこと、そして、訴えられてもなお、勝手な解釈で、事実にきちんと向き合わず、名誉と尊厳の回復に取り組まないこと、それこそが問題なのだ、と私は思います。

 韓国が、「すべて解決したことをなぜ蒸し返すのか」というのであれば、どこで、どう元日本軍「慰安婦」の名誉や尊厳が回復されたのか、示さなければならないと思います。日韓基本条約締結時、元日本軍「慰安婦」の問題はほとんど知られていませんでしたし、交渉でも全く取り上げていないのです。だから、この問題関する国連人権委員会の日本政府に対する二人目の勧告者であるマグドゥーガルは、この問題は「戦後締結された平和条約や国際協定によって、完全に解決済みである」と繰り返す日本政府の主張に対し、「条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本の直接関与は隠されていた。これは、日本が責任を免れるためにこれらの条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されない」と、厳しい指摘をしているのです。


 下記は、『「反日」という病  GHQ・メディアによる日本人洗脳を解く』木佐芳男(幻冬舎)から抜萃しました。
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            第Ⅱ章 GHQによるマインド・コントロール

6 マインド・コントロールa2 公職追放
 GHQの指令によって、1946(昭和21)年から1948(昭和23)年にかけて、いわゆる公職追放が実施された。京大名誉教授・中西輝政によると、戦争犯罪人や戦争協力者、職業軍人、国家主義者とされた人など計二十万人以上が、職を追われた。政治家や教員、メディア関係者などで、日本の世論形成や政策決定などに影響を与える人びとだった。
 ドイツでは、占領当局の非ナチ化政策によって、1946年一月以降、すべての成人に対してアンケート調査を行い、五段階にランクづけし、これにしたがって指導的地位からの追放、罰金などを科した。
 日本ではこれとちがい、戦前・戦中の大企業や軍需産業の幹部までもが追放された。なかでも、大学をはじめとする教育の場やメディア機関には、追放された人びとのあとに極端な左翼分子が入り込み、組織が急速に左傾化していった。
 中西はこう指摘する。
「そういう(指導的な)立場の人々が一挙に二十万人もいなくなるということは、国や民族の根幹部分が一夜にして変質し、恐怖のため人々の思想が瞬時に大転換せざるを得なかったことを意味している」
「思想が瞬時に大転換」するとは、つまり、日本人への強烈な心理操作があこなわれたことを意味するだろう。中西は「この公職追放に関しては、信頼できる研究書はほとんど出されておらず、公文書を含め入手できる資料も限られているのが不思議」とする(正論2015年2月号)
 つい七十年前の重要なことなのに、われわれには知らされていない現代史のエアポケットがあるのだ。今後の研究が望まれる。
 公職追放された人びとの多くは、その後、米ソ冷戦の深刻化など世界情勢の急変で復帰することになる。だが、教育の場や多くのメディアの左傾化は変わらなかった。この公職追放をマインド・コントロールa2 としておく。
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           第Ⅴ章 左派とエセ平和勢力の没落

 5 マインド・コントロールb4
テレビ・ラジオを含む日本の各左派メディアは、慰安婦報道について朝日社長が正式謝罪するまで、慰安婦をめぐる事実の検証をして日韓摩擦の鎮静化ないし東アジアの平和に貢献しようとはしてこなかった。
 むしろ、朝日の慰安婦報道を「過去を反省する良識派の姿勢」として、好意的に報道するメディアさえたくさんあった。<推定有罪>の心理メカニズムを背景とした<善い日本人>ぶった姿勢だった。言葉を換えれば、朝日イズムがわが国のメディア界を席巻してきた。進歩的文化人とその系譜に連なる知識人も、朝日イズムの一翼をなしている。
 大阪市長・橋下徹は、2013年、「世界各国の軍にも慰安婦制度はあった」という内容の発言をし、2014年には、NHK会長・籾井勝人も同様の発言をした。メディアは「他国にもそういう制度が本当にあったのか。あったとすれば、なぜ、政治・外交問題になっていないのか」を調べ、報道すべきだった。だが、そういう動きをするどころか、発言者を根拠もなく叩いた。
 それは、メディア関係者や知識人の多くがマインド・コントロールされ、倒錯した正義感にとらわれているためにほかならない。日本の多くのメディアも、朝日の亜流として病んでいる。
 ドイツにも、強制売春という名の慰安婦制度があった。日本とちがい大がかりな強制連行の事実も歴史家によって裏づけられている。
 ワルシャワでポーランド高級紙『ジェチュポスポリタ』の女性論説委員コウォジェイチクにインタビューしたとき、なぜドイツの強制売春の過去を問題にしないのか聞いた。彼女はこう答えた。
「ドイツ人はどんな残虐なことでもしました。ドイツ兵たちは、妊婦を殺すまえにお腹をふみつけ赤ん坊が出てくるかどうか試した、などという記録さえあります。一ヶ月とか一年ではなく、六年ものあいだ毎日毎日、こうした残虐行為がつづきました。ポーランド人は、ただ殺されたリ強姦されたりしただけではなかったんです。強制売春はドイツ人による迫害のほんの一部にすぎません」
 だから、強制売春などいまさら問題にならないというのだ。筆者の取材に応じてくれたヨーロッパ三国の歴史家、政治家、ジャーナリストらは、旧日本軍の慰安婦問題とその成り行きに関心を寄せ、みな韓国側が最初に持ち出し外交問題になったと思い込んでいた。筆者が「いや、朝日新聞など日本の一部が火を点けて大騒ぎになり、日韓関係はこじれてしまった」といきさつを説明すると、信じられないようだった。そういう病的でアブノーマルな<反日日本人>らの話を、ヨーロッパ知識人が理解できるわけがない。日本でさえ、問題の本質は、これまであまり理解されていなかった。

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