真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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河本大作 「私が張作霖を殺した」

2017年02月19日 | 国際・政治

 再び、日本の歴史修正主義の動きが国際的な問題に発展してしまいました。アパグループ元谷外志雄代表の著書「本当の日本の歴史『理論近現代史学II』」アパホテルの客室に置かれており、近隣国で問題視する声が急速に広がったようです。

 札幌冬季アジア大会で韓国選手団が泊まる公式宿泊所になっている関係もあり、大韓体育会は大会組織委員会と日本オリンピック委員会(JOC)に撤去を求める文書を送付したといいます。そして、大会組織委員会は大韓体育会に対して書籍を撤去する方針である旨の回答したとの報道がありました。
 同書は「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」の存在を否定するような内容の記述があるのみならず、「張作霖爆殺事件」は「ソ連の特務機関による謀略であった」などと書かれているといいます。
 2008年に自衛隊の航空幕僚長・田母神俊雄氏が解任されることにつながった政府見解に反するアパグループ懸賞論文受賞作と似通った内容のようです。
 見逃すことができないのは、客室に本を置く目的が、知られていない学説を取り上げ、紹介するというようなことではなく、「事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです」として、日本で一般的に共有されている歴史を、修正しようとしていることです。

 本の内容はもちろんですが、そういう主張が国際社会で通用しないことは、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会(AAS)定期年次大会における公開フォーラムがきっかけとなり、米国をはじめとする海外の歴史家や日本研究者ら187名が、連名で「日本の歴史家を支持する声明」を発表するに至ったことで明らかです。親日を代表するような関係者の名前がズラリとならんでいるのです。声明は、安倍首相が日本の総理として史上初となる米国議会の両議院総会での演説を行った一週間後に発表されました。
 その中には、
「慰安婦」の正確な数について、歴史家の意見は分かれていますが、恐らく、永久に正確な数字が確定されることはないでしょう。確かに、信用できる被害者数を見積もることも重要です。しかし、最終的に何万人であろうと何十万人であろうと、いかなる数にその判断が落ち着こうとも、日本帝国とその戦場となった地域において、女性たちがその尊厳を奪われたという歴史の事実を変えることはできません。
というような記述があります。
 安倍政権が、これまで日本軍の「従軍慰安婦」問題にきちんと向き合わず、逆にその史実を覆そうとする歴史修正主義的な動きを後押しする行動さえ見せていることに対する懸念が、深刻なものであることを物語っていると思います。 
 地道な調査や事実の検証、科学的分析などに基づいて築き上げられてきた史論を無視し、特定の団体や個人の考え方で、歴史を修正するような本をホテルの客室に置くことは、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化につながることに思いを致してほしいと思います。
 
 『「文藝春秋」にみる昭和史』第一巻(文藝春秋)から一部省略して抜粋した下記の「私が張作霖を殺した」という河本大作の文章は、張作霖爆殺前に彼が周囲の人たちに語っていた内容と矛盾なく、また当時の満州の状況や関東軍の好戦的姿勢を正しく記述していると思います。当時を知る人たちの証言とも符合します。張作霖爆殺に関して言えば、ソ連の特務機関がわざわざ手の込んだ謀略など画策しなくても、関東軍は間違いなく戦いを仕掛ける状況にあったのです。それは当時の軍の文書や石原莞爾の文章などからも明らかだと思います。

 抗日勢力を潰し、日本の満州利権を拡大して、満州全体の土地・資源を事実上日本のものにすることは、特に将来の対ソ・対米戦を考える政治家や軍人にとって、謀略をもってしてもやらなければならない死活問題でした。それに、「満州を取れば苦しい生活が解消される」という、不況下で苦しむ国民の感情も重なって、大きなうねりとなっていったのだと思います。
 そして、現実に関東軍の謀略による柳溝湖事件をきっかけとして、傀儡国家・満州国を建国させるに至った事実をしっかり見る必要があると思います。
 多くの歴史家や近隣諸国が受け入れない歴史を「本当の歴史」として広めようとすることが、日本の信用失墜や近隣諸国との関係悪化をもたらす悲劇、またそのために発生する損害には計り知れないものがあるのではないかと思います。
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                     私が張作霖を殺した 
                                               河本大作
 大正十五年三月、私は小倉聯隊附中佐から、黒田高級参謀の代りに関東軍に転出させられた。当時の関東軍司令官は白川義則大将であったが、参謀長も河田明治少将から支那通の斎藤恒少将に代った。 そこで、久しぶりに満州に来てみると、いまさらのごとく一驚した。
 張作霖が威を張ると同時に、一方、日支二十一ヶ条問題をめぐって、排日は到る処に行われ、全満に蔓(ハビコ)っている。日本人の居住、商祖権などの既得権すら有名無実に等しい。在満邦人二十万の生命、財産は危殆に瀕している。満鉄に対しては、幾多の競争線を計画してこれを圧迫せんとする。日清、日露の役で将兵の血で購われた満州が、今や奉天軍閥の許に一切を蹂躙されんとしているのであった。

 しかるに、その張作霖の周囲に、軍事顧問の名で、取り巻いて恬然としている者に、松井七夫中将を始め、町野武馬中佐などがあって、在満同胞二十万が、日に日に蝕まれていくのを冷然と眺めているばかりか、「みんな、日本人が悪いのだ」とさえ放言して顧みない。そして唯、張作霖の意を迎えるのにもっぱらである。
 自分はまったく呆然とした。支那の各地を遍歴してかなり排日の空気の濃厚な地方も歩いたが、それにしても、満州ほどのことはない。満人は、日本人と見ると、見縊(ミクビ)り蔑んで、北支辺りの支那人の日本人に対する態度の方が遙かに厚い。まさに顚倒である。日露戦役直後の満人の態度とまるで変っている。
 そこで、自分は、旅順にジッとしていることも許されず、変装して全満各地に情況を偵察する必要を痛感し、遠くチチハル、満州里、東寧、ポクラニチア等、北満の南北にわたって辺境の地をつぶさに観察したが、東寧辺りでは、街路上で、邦人が、満人から鞭うたれるのを目撃し、チチハルでは、日本人の娘子群が、満人から極端に侮辱されているのを視るなど、まことに切歯扼腕せざるを得なかった。旅順に帰っていても、そうした情報が頻々として来る。奉天に近い新民府では、白昼日本人が強盗に襲われたが、しかもその強盗たるや、正規の軍人であった。邦人商戸は空屋同然となって、日夜怯々として暮らしているというのであった。
 自分自身、つぶさにその暴状を目撃して来たのである。日本人軍事顧問や、奉天にある外交官が、「日本人が悪い」と断言するに足るものが、どこに発見されたか。
 いずれも意識的、計画的に、奉天軍閥が邦人に対し明らかに圧迫せんとしている意図は瞭然たるものがあった。
 しかもその圧迫は、独りそういった暴虐に留らない、経済的にも、満鉄線に対する包囲態勢、関税問題、英米資本の導入など、ことごとくが日本の経済施設、大陸資源開発に対しての邪魔立てである。撫順で出炭する石炭にたいしては不買を強いている。これでは、日本の大陸経営はいっさい骨抜きとされている。
 郭松齢事件で、もしも日本からの、弾薬補給から、作戦的指導に到るまで、少なからぬ援助がなかったら、奉天軍の今日の武威はなかったのである。いわば大恩返しとして、商祖権のごときは、奉天軍が進んで提供した権益である。
 勢いに乗った張作霖は、ソロソロといつもの癖が出て、関外に出て、北京に入り、大元帥の称号を自ら宣して、多年の野望を遂げんとして得々としていた。その股肱、楊宇霆はまた、日本の恩を忘れて、米国に媚態を見せて大借款を起さんといている。
 その忘恩的行動は枚挙にいとまがない。
・・・
 かかる奉天軍の排日は、もっぱら張作霖の意図に出たところで、真に民衆が日本を敵とするという底のものではない。ただ、欧米に依存して日本の力を駆逐して、自己一個の軍閥的勢力の伸張を計り、私腹を肥やさんとするのみで、真に東洋永遠の平和を計るというふうな信念に基いていないことは明らかであった。一人の張作霖が倒れれば、あとの奉天派諸将といわれるものは、バラバラになる。今日までは、張作霖一個によって、満州に君臨させれば、治安が保たれると信じたのが間違いである。ひっきょう彼は一個の軍閥者流に過ぎず、眼中国家もなければ、民衆の福利もない。他の諸将に至っては、ただ親分乾分の関係に結ばれた私党の集合である。
 ことこうした集合の常として、その巨頭さえ斃れれば、彼らはただちに四散し、再び第二の張作霖たるまでは、手も足もでないような存在である。匪賊の巨頭と何ら変わることがない。
 巨頭を斃す。これ以外に満州問題解決の鍵はないと観じた。一個の張作霖を抹殺すれば足るのである。
 村岡将軍も、ついにここに到着した。張作霖を抹殺するには、何も在満の我が兵力をもってする必要はない。これを謀略によって行えば、さほど困難なことでもない。
 当の張作霖は、まだ北支でウロウロして、逃げ支度をしている。我が北支派遣軍の手で、これを簡単に抹殺せしむれば足る--と考えられた。
 竹下参謀が、その内命を受けて、密使として、北支へ赴くことになった。
 それを察したので、自分は竹下参謀に、
『つまらぬ事は止したが好い。万一仕損じた場合はどうする。北支方面に、こうした大胆な謀略を敢行出来得ると信ずべき人が、はたしてあるかどうか、はなはだ心もとない。万一の場合、軍、国家に対して責任を持たしめず、一個人だけの責任で済ませるようにしなければ、それこそ虎視眈々の列国が、得たりといかに突っ込んでくるかわからない。俺がやろう。それより外にない。君は北支へ行ったら、北京に直行して、張作霖の行動をつぶさに偵察し、何月何日、汽車に乗って関外へ逃れるか、それだけを的確に探知して、この俺に知らせてくれ』と言った。北京には建川義次少将が大使館付武官としておった。
 
 竹下参謀からやがて、暗号電報が達した。張作霖がいよいよ関外へ逃れて、奉天へ帰るというのであった。その乗車の予定を知らせて来たのである。そこで、さらに、山海関、錦州、新民府と、京奉線の要所に出した偵察者にも、その正確な通過地点を監視せしめて、的確に通過したか否かを速報せしめる手筈をとった。
 さて奉天では、どこの地点が好いか、種々研究した結果、巨流河にかかった鉄橋こそは絶好の地点であると決した。
 そこで、某工兵中隊長をして、詳細にその付近の状況を偵察せしめると、奉天軍の警備はすこぶる厳重である。少なくとも、一週間くらいはそこに待ち構えていなければならない。厳重なる奉天軍の警備の眼を逃れて、そんなことは到底不可能である。常に替え玉を使ったり、影武者を使うといわれている本尊を捉えるには、ただ一回だけのチャンスでは取り逃がす憂いがある。充分な手配が要る。
 それにはこちらの監視が、比較的自由に行える地点を選ばねばならない。それには、満鉄線と、京奉線とがクロスしている地点、媓古屯、ここなれば満鉄線が下を通り、京奉線はその上を通過しているから、日本人が少々ウロついても目立たない。ここに限ると結論を得た。
 では、今度は如何なる手段に出るかが、次の問題となる。
 一、列車を襲撃するか、
 二、爆薬を用いて列車を爆破するか、
 手段はこの二途しかない。第一の方法によれば、日本軍が襲撃したという証拠が歴然と残る。
 第二の方法によれば痕跡を残さずに敢行することが出来ないでもない。
 そこで第二の方法を選ぶことにした。そして、万一この爆破計画が、失敗に終わた場合は、ただちに第二段の手筈として、列車を脱線転覆せしめるという計画をめぐらせた。そして時を移さずその混乱に乗じて、抜刀隊を踏み込ませて、斬り込む。
 万端周到な用意はできた。
 第一報によれば、六月一日に来る予定が来ない。二日も来ぬ。三日も来ぬ。ようやく四日目になって、確かに張作霖が乗ったとの情報が入った。

 クロス地点を通過するのは、午前六時頃である。かねて用意の爆破装置を取り付け、予備の装置も施した。第一が仕損じた場合、ただちに第二の爆破が続けられることにした。しかし完全にその場で、本尊を抹殺するには、相当の爆薬量が要る。量を少なくすれば、仕損じる懼れがある。分量が多ければ効果は大きいが、騒ぎが大きくなる。これには大分頭を悩ました。
 それから一方、満鉄線の方である。万一この時間に、列車が来ては事だ。そこであらかじめ満鉄に知らせておけば好いが、絶対に最小限の当事者のみが当たっていて秘密裏に敢行するのだから、それは出来ない。万一の場合のために、発電信号を装置して、満鉄線の危害は防止する用意をした。
 来た。何も知らぬ張作霖一行の乗った列車はクロス地点にさしかかった。
 轟然たる爆音とともに、黒煙は二百米も空へ舞い上がった。張作霖の骨も、この空に舞い上がったかと思えたが、この凄まじい爆音には我ながら驚き、ヒヤヒヤした。薬が利きすぎるとはまったくこのことだ。
 第二の脱線計画も、抜刀隊の斬り込みも今は不必要となった。・・・
 ・・・
 張作霖爆死の翌年四月、学良は、奉天督軍公署に楊宇霆霆を招いた。そしてかねて謀っておき、衛兵長の某をして、その場に楊をピストルで射殺させてしまった。
 これを知って、かねて学良擁立を考えていた秦少将、奉天軍に入っていた黄慕(荒木五郎)等は、すかさずこの機会を捉えて、張学良を主権者に推し、学良を親日に導かんと画策した。しかし当時すでに学良周囲の若い要人達は、欧米に心酔して、自由主義的立場にあって、学良もまたこれらの者をブレインとして重く用いたので、学良の恐日は、漸々排日に変移し、ついには侮日とまで進んでいった。

 その現れは、満鉄線の包囲路線となり、万宝山となり、あるいは憑庸大学の排日教育となり、排日、抗日
はむしろ張作霖時代よりもいっそう濃厚となり、日に日にその気勢を高めるに至り、秦少将らの企図した学良懐柔策はまったく画餅に帰したのであった
 こんな次第で、梟雄(キョウユウ)張作霖が亡んで学良と変わっても、何ら満州の対日関係は好転せず、かえって反対の傾向をたどり、学良政権を再び武力によって倒壊しなければ、ついに満州問題を永遠に解決する道のないことが瞭然となった。
 他方、日本の政界では満蒙問題解決に邁進する誠意を欠き、張作霖爆死事件をめぐって、これを善処するどころか、かえってこれを倒閣の具に供さんとさえする一派が出て、中野正剛、伊沢多喜男らはそれに狂奔するありさまであった。
 時の陸相白川義則大将は、いたずらに愚直で、事件に対する答弁は拙劣を極め、ますます中野、伊沢らに乗ずる隙を与え、ついに田中義一内閣はこのため倒壊するに至った。
 さらに、この事件に参画した私は停職処分を受け、村岡軍司令官、斎藤参謀長、永町袈裟六独立守備隊司令官らも相次いで、それぞれ行政処分を受けるに至った。
 政争は国策を誤って憚らない。政党政治の弊はここに極まり、もっとも顕著な悪例を我が憲政史上に残したのはこの時であった。
 かくて私は、昭和四年七月、いったん第九師団司令部附となり金沢に謫(タク)せられ、同年八月停職処分を受けて軍職を退くことになった。そこで旧伏見聯隊時代の縁故をたどって、京都伏見深草願成に仮りの寓居を定め、もっぱら謹慎の意を表した。
 ・・・
 この謹慎生活の裏にあって、私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは、満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱えだす外交官を見るのであった。
 ・・・
 その結果は、日本の将来に直面しているものは、満蒙問題可解決に外ならないことは、不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満州問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。
 ・・・ 

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石原完爾 「東亜連盟」建設綱領と「宣言」及び「運動要領」

2017年02月07日 | 国際・政治

 石原完爾は、関東軍参謀として満州国建国を主導しましたが、その後、参謀本部に入ってからは日中戦争不拡大を主張するようになり、戦後A級戦犯として処刑された強硬派の東條英機と対立します。そのためか、彼の思想や行動を肯定的に捉え、名将として評価する人たちもいるようです。でも、軍人としての石原完爾の評価は、私には分かりませんが、国家の指導者としては、独善的であまりに問題の多い人物ではないかと私は思います。

 満州事変当時、「満州領有」を計画・実行するため関東軍を動かした石原完爾は、その後日中戦争不拡大を主張し、民族協和を唱え、「東亜連盟」建設を呼びかけるようになります。でも、一貫して自らの考えに基づいて、日中の将来を独善的に語っているように思います。

 彼は、「東亜連盟建設綱領」で「満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである」と書いてますが、自ら主導した関東軍の軍事行動の過ちを認め、謝罪することなく、いつのまにか「満州領有」の方針を変更して「民族協和」を唱え「東亜連盟」建設呼びかけるのは、いかがなものかと思うのです。あまりに手前勝手な話ではないでしょうか。

 柳溝湖事件を画策・実行し、満州事変に発展させたことをはじめとする「満州領有」のための関東軍の様々な軍事行動、およびそれを追認するかたちで進められた日本政府の諸政策が、中国民衆の反日感情を高めたということに対するきちんとした自己批判や謝罪がなされないで、「民族協和」や「東亜連盟」の話に進むことが、日本人である私にさえ理解できません。独善的で強引な姿勢は相変わらずではないかと思います。

 彼が「満州領有」ではなく、「満州国の独立」をもとめ、「東亜連盟」を発展させるという主張に変えるというのであれば、そうした自己批判や謝罪をベースに、軍事力によって確立された関係を根本的に改めることが不可欠なはずです。
 そして、欧米列強の帝国主義に対する、東亜の「王道主義」というものが何であるかを、具体的に示し実践しなければ、日本軍によって、欧米帝国主義による圧迫以上に苦しめられた中国の人たちと連帯し、欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思うのです。謀略による柳溝湖事件をきっかけとした関東軍の連続的な軍事行動が「欧米覇道主義ノ圧迫」と、どこがどう違うのかと、疑問に思います。

 さらに言えば、「宣言」に「人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、必勝ヲ期スルコトニ外ナラス」とありますが、「世界最終戦争」を前提にするような独善的な「東亜連盟」の構想で、連帯して欧米帝国主義に対することなどできるものではないと思います。

 下記は、石原完爾選集6 東亜連盟運動」玉井礼一郎編(たまいらぼ)から抜粋しました。
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                     東亜連盟建設綱領
第一章 東亜連盟の必然性
 満州事変の進歩的意義は、東亜大同の理想を、民族協和の理念をもって、現実に闡明したことである。これ東洋復興の唱えられること久しいものあったに拘らず、或いは亜細亜人の亜細亜といい、或いは大亜細亜主義というその内容が必ずしも判然たらず、むしろある場合は民国一部識者をして日本の野心の代名詞ならずやと警戒すらせしめた従来の日支提携論を、その根底に於て一新するものといわねばならぬ。事実、当時の関東軍は外に東亜を西欧帝国主義より解放することを大目標とし、この実力の下に、内に満州国内に於ては民族抗争より民族協和への飛躍、中華民国に対しては対民国侵略主義より東亜連盟主義への転換ある方針を決定したのであるが、この識見は東亜連盟思想発展の上に永く記憶せられるべきことである。
 東洋近世史は過去一世紀に於て亜細亜が如何に巧妙に西欧帝国主義によって残害せられたるかを教える。この意味に於て明治33年、日本の条約改正成功の意義は極めて大である。これによって亜細亜はその半植民地状態脱却の第一歩を踏むことができたのである。孫文はその大亜細亜主義なる講演に於て、「日本の不平等条約の撤廃の日こそ、亜細亜全民族復興の日であり、この不平等条約廃棄によって、全亜細亜の国家及び民族は独立に対して大なる希望を抱いて来た」と述べている。
 しかし、東亜復興史上に表現される日本の歩みは必ずしも単純たる能わなかった。清国は阿片戦争、太平天国の乱、仏清戦争、日清戦争、義和団事件等、相続く事件に全く衰亡し、武漢革命によって、新しき歴史が創られるに至ったのであるが、これに対して吾人は、西欧帝国主義が先ず印度を征服し、次いで清国を侵し、更に日本に迫りつつあった時、必死の努力をもって幕末より明治への偉大なる転換をなし得た業績を追想するものである。英、米、仏、露の勢力の中心に圧迫されながらよく自力をもって国内の紛乱を処理したことは、等しく不平等条約を課されつつも、内争にまで西欧帝国主義の力を利用せる清朝末期、および成立当初の民国がその後全く欧米の力によって左右されざるを得なかった事情と対比して、如何ばかり幸であったか判らぬ。しかし小国日本がその烈しき努力によって一躍近代化し、膨張的本能によって大陸と交渉を持つに至るや、清国は少なからぬ圧迫感を感ぜざるを得なくなった。殊に日本が強国露国に一勝したことは、一面列強の支那分割の大勢を牽制し、爾来、列国の対支進出は領土保全、機会均等、門戸開放の原則をもって代表される経済的競争に変化するに至ったのであるが、他面に於ては日本の地位はこの戦争によって急速に高められ、その資本主義経済の発展と相俟ち、大陸に対し積極的侵攻の態勢をとるに至ったのである。日本の対露戦勝は、最近数百年間に於ける亜細亜民族の欧州人に対する最初の勝利であった。このことが被圧迫民族にあたえた影響の測るべからざるものであったことは、その後、埃及(エジプト)、ペルシャ、トルコ、アフガニスタン、アラビア、印度等が相次いで独立運動を起こすに至ったことより見ても明らかである。亜細亜諸民族がかかる希望を抱いた反面、日本が一方に於て西欧帝国主義的発展の形相をも具えて来たことに対する彼等の失望大なりしこともまた想像出来るのである。しかし、東洋をおおう西洋の圧力は強大であって、殊に支那は列強の差別的特権の下にある。日本は先ず自らの実力を充実する必要があった。殊に日露戦争以後、列強の対日感情は次第に悪化の傾向にある時、日本は東洋防衛のためといいながら、西欧帝国主義の特権に均霑(キンテン)し、自己の脚下を強化せねばならなかったのである。かの二十一ヶ条約問題は、実に日本自ら極東に於ける地位を確保するために、欧州大戦の混乱に乗じて試みた努力というべきであろう。民国の対外憎悪の焦点が日本に結ばれるに至ったことは、弱小日本の急速なる発展が多く民国を土台とせることに対する失望、怨恨によるのであろうが、民国人としても当時の歴史を虚心に研究し、日本が必死となって西欧帝国主義の圧力に抗した事実およびこのためにはあくまで大陸に進出せざるを得なかった事情を理解すべきである。
 かかる成長過程の当然の結果として、日本は知らず識らず二つの思想を持つこととなった。一は西欧模倣の帝国主義思想であり、他は王道文化の思想である。近年に於ける対支政策の不統一は意識せざるこの二重性格に原因を求むべきであると考える。これを現実歴史の上に見るも、民国の対日感情はウイルソンの民族自決の宣言、蘇連革命影響によってますます悪化の一路を辿った。欧州戦後、欧米の力に余裕を生ずるとともに、国際会議のあらゆる機会に於て、日本は民国代表の抗議の的となり、恰も列強に裁判される被告の如き観を呈したのは吾人の今に記憶するところである。同時に、日本に於ても民国に対して確たる国策を有せざるのみか、民国の抗議に対する態度頗る徹底を欠き、屢次の大陸出兵も一貫せる国策によるものとは言い難い。かくて両国の関係は全く軌道を逸脱し、遂に満州事変となったのである。

 満州事変の特異性は、前述の如くその指導原理の明徴なるにある。西欧帝国主義と一戦を辞せざる日本の国防的地位に対する合理的信念の下に、東亜大同の史的必然を確信し、この確信によって、従来の対支観察を根本的に転換するものである。いわゆる「東亜連盟論」が現実的色彩をを帯びるに至ったのはこの時以後である。東亜連盟の基礎観念は次章に於て論ずるのであるが、満州事変によって生まれたる最も貴重なるものは、西欧模倣の帝国主義より王道主義へ転進の指導精神に外ならぬ。故に満州建国後に於て、日本はこの原理に基づき一意満州国の理想的建設に邁進し、満州国の日華提携の橋梁たるべき意義を明白にし、現実をもって中華民国の諒解を求むるとともに、他面、中華民国に対してはその速やかなる国内統一を援助し、一日も早く完全独立国たる実質を有せしめ もって東亜連盟結成の責任を分担せしむべきであった。しかし遺憾ながら満州国建国の意義識者に徹底せず、ために民国に対する日本の伝統的認識は依然残存し、民国に対する政策また、しかく明瞭たる能わなかった。これと同時に民国に於ても東亜解放について正常なる認識をなさず、例によって欧米依存の愚策を踏襲し、かえって抗日を強化し、日本に於ける強硬論を刺激したのである。かかる情勢の下に支那事変は勃発したのである。
 
 今次事変当初、日本政府は不拡大主義を堅持した。それは本年七月、事変二周年記念講演に於て、近衛前首相が自ら表明せる如く、日満支の一体的連関を認識し、いわば東亜の内乱とも言うべき日支衝突は、あらゆる見地より極力これを避けんとしたがために外ならぬ。しかしながらその後、日華の全面的抗争となり、それに伴って大いに暴支膺懲が叫ばれたのであるが、東亜再建の世界史的意義の闡明につれて、国論は漸次適正建設的となり、政府の説くところもまた、長期建設、東亜新秩序建設と変化し、今や日本の優越的希望のなかに事変処理の条件を求むることなく、日満支提携を可能ならしむべき基礎の成立を真剣に考慮しつつあるものと云えよう。即ち、日本は、差当って東亜の一体化に主たる貢献をなすべき自己の使命を自覚し、自ら現在の抗争的地位を克服し、もって今日以後に於ける東亜の新しき進歩を招来せんと意識し来ったのである。この意味に於て西洋模倣の帝国主義をを残存せしめつつも、日本は今や着々と王道主義に目覚めつつあるものと言える。今こそ日本は民国四億の民心を獲得し得るか否かの分岐点に在る。民国に於ける過去政治家の、偽装的非良心的親日主義に幻惑されることなく、民国の新しき青年を心より納得せしめ得る国策をもって、この時局を収拾しなければならぬ。このためには、もはや新しき民国青年より完全に接触を拒絶されて居る、従来の我が対民国指導者陣営の一掃を断行すべきである。日清戦争以来、日本国民の脳裡に浸潤せる強者対弱者の指導者意識に基づくいわゆる大陸経営論は、今こそ正に歴史的終焉を告げるべき時期である。
 かくて先に道義的見地に基づいて主張されたる東亜連盟主義は、今や血肉同胞の尊い犠牲の下に、日華提携の現実的基礎として主唱されるに至ったのである。
 東亜新秩序の建設は、近衛内閣が聖断を仰いで確定したところの、支那事変処理の原則である。今や西欧帝国主義が堅く維持せる旧支配秩序は潮のひくが如く漸やく崩壊の過程にあり、これに対する東亜の大同は世界史発展の自然に雁行する必然の現象と言わざるを得ない。要はこれを王道の大義に則って建設するにある。欧州は列強対立して平和なき姿であり、亜米利加大陸はモンロー主義の名の下に、強者横暴の支配である。近世文明におくれて起てる弱き東亜が、他の大陸を超えて繁栄するためには王道によって心から結合する以外に途はないのである。日華の責任は重大と言わねばならぬ。
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      宣   言

人類歴史ノ、最大関節タル、世界最終戦争ハ、数十年後ニ近迫シ来レリ、
昭和維新トハ、東亜諸民族ノ、全能力ヲ総合運用シテ、コノ決勝戦ニ、
必勝ヲ期スルコトニ外ナラス
 即チ 昭和維新ノ方針次ノ如シ
一、欧米覇道主義ノ圧迫ヲ、排除シ得ル範囲内ニ於ケル諸国家ヲ以テ、
  東亜連盟ヲ結成ス
二、連盟内ニ於ケル、積極且ツ革新的建設ニヨリ、実力ヲ飛躍的ニ増進シ
  以テ決勝戦ニ於ケル必勝ノ態勢ヲ整フ
三、右建設途上ニ於テ、王道ニ基キ、新時代ノ指導原理ヲ確立ス
 
 皇紀二千六百年二月十一日               東亜連盟協会

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                   東亜連盟協会運動要領
  一、協会創立の趣旨
 昭和維新の必然性が信ぜられて既に数年を経過し、幾多の革新案が発表せられた。しかし、多くは観念的なる革新のための革新の範囲を脱せず、現実的迫力を欠く憾みを禁じ得ない。これは国難の圧迫が切実に国民大衆に感ぜられず、維新の目標が明確を欠くためである。
 東亜連盟協会宣言に示す吾人の世界観は甚だ素朴であるけれども明確に昭和維新の目標を捉え、簡明直截に革新の方向を示すものと信ずる。多数の革新運動が展開せられつつある今日、敢えて同志を糾合して協会を創立せるはこの確信に基づくのである。
 特に「東亜連盟協会」と称するゆえんは、昭和維新の核心問題は東亜の大同すなわち東亜連盟の結成にあるがためである。

  二、協会の運動方針
 東亜連盟協会は政治団体ではない。
 吾人の信ずる所によれば、特に革新の時代に於て政治運動をなさんとするものは、自ら責任を持って政治の大任に当り得る自信が必要である。すなわち昭和維新に対する確固たる方針と具体案を有し、かつその実行に当たり得る同志の結成なくして猥りに政治運動をなすは、皇国民の正しき態度と認め難い。殊に挙国一体の新体制を創造すべく全国民が熱望しある今日、徒らに党を樹つるは慎むべきである。
 協会は宣言の示すところに依り東亜連盟の結成を核心問題とする昭和維新の指導原理を研究立案し、これが普及宣伝を目的とする文化団体である。
 吾人は、吾人の主張が国民の理解に依り全面的に国策として採用せらるることを念願し、この目的を達成せば協会は当然これを解消する。
 協会の目的とする昭和維新指導原理の確立は事極めて重大であり、世間普通の文化団体の如き単なる言論文書活動のみに依りてその目的を達成することは出来ない。協会の信念を、許さるる範囲において熱心に実践する会員の同志的結合を必要とする。これがため協会は常に運動の規範を明確にし、的確合理的なる行動をなすべく、細心の注意を払わねばならぬ。
 協会は自ら進んで政治運動に入ることは堅く欲せざるところであるが、国家の最重要事項と信ずることにつき真剣なる研究実践を行なって国民に訴うる以上、協会所期の指導原理確立し、かつ同志の結成拡大し、しかも我等の待望する新体制運動が万一所望の成果をを挙げ得ざる如き事態に立ち至ったならば、国家に対する義務として已(ヤ)むなく、政治の分野に向かって活動を余儀なくせらるること絶無ならざるべきことを心竊(ヒソカ)に覚悟せねばならぬ。

  三、指導原理の立案
イ、「昭和維新論」は指導原理の「方針」草案である。
不断の努力に依って改訂を重ね、大体協会の「方針書」たり得るに至らば、これを「昭和維新指導綱領」と改称する。
ロ、「昭和維新論」に基づき各要綱を起案する。
 「東亜連盟建設要綱」は外政の要綱たる地位を占むるものである。東亜連盟の結成を昭和維新の核 心問題と主張する協会に於てはこの書の価値を極めて重大視する。
 内政の各革新目標につき、なるべく速かにその要綱を起案せねばならない。
ハ、各「要綱」は更に発展して「各論」を生むのであるが、実際に於ては逆に「各論」の具体問題が起案せられ、文化運動としての同志の研究実践に依り検討進展し、これらを総合する努力に依り「各論」「要綱」「綱領」決定の基礎を得るであろう。すなわち直観的なる根本方針の決定に依り具体案制定に方向を与え、その具体案の実践的展開に依り大綱は更に検討確定されるのである。

  四、協会の組織
 東亜連盟協会は現在東京に本部、要地に地方事務所を置き、各地に支部を置く。支部には分会及び班を設く。
イ、本部の任務
 1、指導原理の立案に依り会運動の方向を統制す
 2、満州国および中華民国その他東亜各地における姉妹団体と密接なる連絡協同
 3、中堅会員の訓練
ロ、地方事務所の任務
 1、管内支部の結成
 2、優良会員の訓練
ハ、支部の任務
 指導原理に基づき同志の発見、獲得、訓練に当る。
 協会会員たるものは単なる知識欲に依る参加者であることは許されない。新時代の重要性を体得し、 その普及および宣伝に当るとともに新しい社会生活への協同的実践の熱意に燃えるものでなけれ  ばならぬ。この原則に立つ限り既成陣営の人士の参加を拒否することはない。しかし旧時代の慣習 に依り自己または郷党の利益を中心として動くものは吾人の同志たる資格はない。すなわち主義如 何が問題で、人を排撃するものであってはならぬ。
ニ、中央支部ともにその統制は会員の合議制に依る。合議制と称するも徒らに自己の主張を固持し、 または策謀に依りて多数を獲得せんとする旧時代の方式は絶対にこれを排撃する。
  更に吾人の銘記すべきは、革新の時代に於ては特に多数凡者の意見よりも達識ある天才的人物の  意見を尊重すべきことである。同志は滅私奉公の心境を以って有能なる同志の発見に努力し、有  能者に対してはその年齢、学歴等に捉わるることなくその分に応ずる指導的役割を演ぜしむべき  である。
かくて同志一同の念力は必ず優れた指導者を発見し得ると確信するも、不幸卓抜なる指導者現出せざる場合においても、右の如き同志の心境はよく協同の実を挙げ、正しき方向を堅持して前進
し得る事を信ずるものである。
  決議権は参与会員にある。しかしなるべく広範囲の事項にわたり一般会員に意見を開陳する機会  を与うる如く努むべきである。

  五、会員の訓練
イ、支部以下の訓練
 1、指導原理の徹底
漫然と時代の重要性を考えるのでなく明確に昭和維新の本質を把握せしめるために、会員に「宣言」「昭和維新論」および「東亜連盟建設要綱」「国民組織要綱」「農村改新要綱」等を正確確実に理解体得せしめねばならぬ。これがため簡易なる方法を以って連続その講習会を開催して、その訓練の結果に応じ、更に中央の訓練に参加せしめる。
 2、外地に於ける支部はもちろん、内地における支部もその境遇に応じ、民族協和の実践運動を組   織化し、東亜連盟結成の基礎工作に努力する。
内政の革新目標につきては、可能の範囲内において同志会の方針に基づき会員一致団結の下に実践体験する。指導原理の総合的立案は中央の任務であるけれども、各支部の訓練により生ずる意見は、中央の立案のために最も重要なる資料たるべきものである。
 統制主義時代は協同生活の最も能率的な運営が要求される時代である。東亜連盟、民族協和の主張者たる会員は、協同生活の基礎たるべき協和道義の熱心なる実践者たる責務をもつ。会員は主義の前に己を虚しゅうして同行讃美の精神に生き、先ず以って同志会内部において見事なる共同動作の成果を挙げるとともに、他の同志団体に対してもまた常に敬愛の念をもち、速やかに無理なく結集し得るよう努力しなければならぬ。更に会員が社会人として立つ場合、あるいは隣組において、あるいは職域において、東亜連盟運動者として率先一般より信頼せられる活模範となり、新しき時代の協同生活の道義確立のため挺身すべきである。
ロ、中央の訓練
 1、地方事務所は支部訓練を活用して優良会員の訓練を行う。
 2、本部は中堅会員を集合し、総合的高度の講習会を行う。

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石原完爾の最終戦争論と日蓮宗

2017年02月04日 | 国際・政治

 柳溝湖事件を画策・実行し、満州事変を経て日中全面戦争、さらに太平洋戦争へと至る日本の戦争拡大の導火線に火をつけた石原完爾は、満州事変前に、すでに「日米戦争」を想定していました。

 その石原莞爾が「最終戦争論」(中央公論新社)で、最終戦争と位置づけた「日米戦争」に関わって驚くべきことを語っています。
 石原莞爾は、「宗教の最も大切なことは予言である」と主張し、「日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのとき本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります」というのです。
 そうした予言に基づいて、石原莞爾は日米戦争を中心とする「世界の大戦争」を想定し、「関東軍満蒙領有計画」その他の文書で、「大戦争」の準備を整える必要を呼びかけたということになります。これは見逃すことの出来ないことです。「最終戦争論」石原完爾(中央公論新社)から、その主張の一部を抜粋しました。
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                    第一部 最終戦争論
第五章 仏教の予言

 今度は少し方面を変えまして宗教上から見た見解を一つお話したいと思います。非科学的な予言への、われわれのあこがれが宗教の大きな問題であります。しかし人間は科学的判断、つまり理性のみを以てしては満足安心のできないものであって、そこに予言や見通しに対する強いあこがれがあるのであります。今の日本国民は、この時局をどういうふうに解決するか、見通しが欲しいのです。予言が欲しいのです。ヒットラーが天下を取りました。それを可能にしたのはヒットラーの見通しであります。第一次欧州戦争の結果、全く行き詰まってしまったドイツでは、何びともあの苦境を脱する着想が考えられなかったときに、彼はベルサイユ条約を打倒して必ず民族の復興を果たし得る信念を懐いたのです。大切なのはヒットラーの見通しであります。最初は狂人扱いをされましたが、その見通しが数年の間に、どうも本当でありそうだと国民が考えたときに、ヒットラーに対する信頼が生まれ、今日の状態に持って来たのであります。私は、宗教の最も大切なことは予言であると思います。

 ・・・ 

 ところで、天台大師が仏教の最高経典であると言う法華経では、仏はその闘争の時代に自分の使を出す、節刀将軍を出す、その使者はこれこれのことを履み行い、こうこういう教えを広めて、それが末法の長い時代を指導するのだ、と予言しているのであります。言い換えれば仏滅から数えて二千年前後の末法では世の中がひどく複雑になるので、今から一々言っておいても分からないから、その時になったら自分が節刀将軍を出すから、その命令に服従しろ、と言って、お釈迦様は亡くなっているのです。末法に入ってから二百五十年ばかり過ぎたときに仏の予言によって日本に、しかもそれが承久の乱、即ち日本が未曾有国体の大難に際会したときに、お母さんの胎内に受胎された日蓮聖人が、承久の乱に疑問を懐きまして仏道に入り、ご自分が法華経で予言された本化上行菩薩であるという自覚に達し、法華経に従ってその行動を律せられ、お経に述べてある予言を全部自分の身に現された。そして内乱と外患があるという、ご自身の予言が日本の内乱と蒙古の襲来によって的中したのであります。それで、その予言が実現するに従って逐次、ご自分の仏教上に於ける位置を明らかにし、予言の的中が全部終った後、みずから末法に遣わされた釈尊の使者本化上行だという自覚を公表せられ、日本の大国難である弘安の役の終わった翌年に亡くなられました。
 そして日蓮聖人は将来に対する重大な予言をしております。日本を中心として世界に未曾有の大戦争が必ず起る。そのとき本化上行が再び世の中に出て来られ、本門の戒壇を日本国に建て、日本の国体を中心とする世界統一が実現するのだ。こういう予言をして亡くなられたのであります。

 ・・・

 明治の御世、即ち日蓮聖人の教義の全部が現われ了ったときに、初めて年代の疑問が起きてきたことは、仏様の神通力だろうと信じます。末法の最初の五百年を巧みに二つに使い分けをされたので、世界の統一は本当の歴史上の仏滅後二千五百年に終了すべきものであろうと私は信ずるのであります。そうなってまいりますと、仏教の考える世界統一までは約六、七十年を残されているわけであります。私は戦争の方では今から五十年と申しましたが、不思議に大体、似たことになっております。あれだけ予言を重んじた日蓮聖人が、世界の大戦争があって世界は統一され本門戒壇が建つという予言をしておられるのに、それが何時来るという予言はやっていないのです。それでは無責任と申さねばなりません。けれども、これは予言の必要がなかったのです。ちゃんと判っているのです。仏の神通力によって現れるときを待っていたのです。そうでなかったら、日蓮聖人は何時だという予言をしておられるべきべきものだと信ずるのであります。
 この見解に対して法華の専門家は、それは素人のいい加減なこじつけだと言われるだろうかと存じますが、私の最も力強く感ずることは、日蓮聖人以後の第一人者である田中智学先生が大正七年のある講演で「一天四海皆帰妙法は四十八年間に成就し得るという算盤を弾いている」(師子王全集・教義篇第一輯367頁)と述べていることです。大正八年から四十八年くらいで世界が統一されると言っております。どういう算盤を弾かれたか述べてありませんが、天台大師が日蓮聖人の教えを準備された如く、田中先生は時来たって日蓮聖人の教義を全面的に発表したー即ち日蓮聖人の教えを完成したところの予定された人でありますから、この一語は非常な力を持っていると信じます。
 また日蓮聖人は、インドから渡来して来た日本の仏法はインドに帰って行き、永く末法の闇を照らすべきものだと予言しています。日本山妙法寺の藤井行勝氏がこの予言を実現すべくインドに行って太鼓をたたいているところに支那事変が勃発しました。英国の宣伝が盛んで、日本が苦戦して危いという印象をインド人が受けたのです。そこで藤井行勝氏と親交のあったインドの「耶羅陀耶」という坊さんが「日本が負けると大変だ。自分が感得している仏舎利があるから、それを日本に納めて貰いたい」と行勝師に頼みました。行勝師は一昨年帰って来てそれを陸海軍に納めたのであります。
行勝師の話によると、セイロン島の仏教徒は、やはり仏滅後2千5百年に仏教国の王者によって世界が統一されるという予言を堅く信じているそうで、その年代はセイロンの計算では間もなく来るのであります。

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石原完爾 「満蒙問題解決案」

2017年02月02日 | 国際・政治

 石原完爾は「満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活クル唯一ノ途ナリ」と考え、関東軍を主導しました。満州国建国は石原完爾の考えに基づいて進められたと言っても過言ではないと思います。下記の資料1及び資料2も石原完爾によるものです。

 石原完爾が資料1にあるように、「国内ノ不安ヲ除ク為ニハ対外進出ニヨルヲ要ス」と考え、また、「満蒙問題ノ解決ハ日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル」と主張していたこと、さらには満州事変前に、「対米戦争ノ準備成ラハ直ニ開戦ヲ賭シ断乎トシテ満蒙ノ政権ヲ我手ニ収ム」と対米戦争を想定していたことを見逃すことができません。

 また、資料2の「関東軍満蒙領有計画」には、「軍閥ノ掃蕩其官私有財産ノ没収」や「此等ニ要スル臨時費ハ没収セル逆産及税収ニヨルヲ本旨トス」などの指摘があることから、現地自活の考え方を持っていたことが分かります。そうした考え方は、その後の戦争に様々な影響があったのではないでしょうか。

 石原完爾は、後に「満蒙領有論」から「満蒙独立論」転じ、参謀本部の作戦部長時代には、日中戦争の不拡大を主張したようですが、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を画策・実行した段階で、日本が太平洋戦争へと突き進む導火線に火を付けてしまい、その後火を消そうとしても、もはや消し止めることができなくなっていたといえるのではないかと思います。 

 下記は、「太平洋戦争への道 開戦外交史 別巻 資料編」(朝日新聞社)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               石原中佐案 第三日 於車中 討議
一、満蒙問題ノ解決ハ日本ノ活クル唯一ノ途ナリ
1 国内ノ不安ヲ除ク為ニハ対外進出ニヨルヲ要ス
2 満蒙ノ価値
   満蒙ノ価値
 (イ) 満蒙ノ有スル価値ハ偉大ナルモ日本人ノ多クニ理解セラレアラス
 (ロ) 満蒙問題ヲ解決シ得ハ支那本部ノ排日亦同時ニ終熄スヘシ
3 満蒙問題ノ積極的解決ハ単ニ日本ノ為メニ必要ナルノミナラス多数支那民衆ノ為メニモ最モ喜フヘキコトナリ即チ正義ノ為メ日本カ断行スヘキモノナリ
 歴史的関係等ヨリ観察スルモ満蒙ハ漢民族ヨリモ寧ロ日本民族ニ属スヘキモノナリ

二、満蒙問題解決ノ鍵ハ帝国々軍之ヲ握ル
1 満蒙問題ノ解決ハ日本カ同地方ヲ領有スルコトニヨリテ始メテ完全達成セラル
2 対支外交即チ対米外交ナリ 即チ前記目的ヲ達成スル為メニハ対米戦争ノ覚悟ヲ要ス若シ真ニ米国ニ対スル能ハスンハ速ニ日本ハ其全武装ヲ解クヲ有利トス
3 対米持久戦ニ於テ日本ニ勝利ノ公算ナキカ如ク信スルハ対米戦争ノ本質ヲ解セサル結果ナリ 露国ノ現状ハ吾人ニ絶好ノ機会ヲ与ヘツヽアリ

三、満蒙問題解決方針
1 対米戦争ノ準備成ラハ直ニ開戦ヲ賭シ断乎トシテ満蒙ノ政権ヲ我手ニ収ム
  満蒙ノ合理的開発ニヨリ日本ノ景気ハ自然ニ恢復シ有識失業者亦救済セラレルヘシ
2 若シ戦争ノ止ムナキニ至ラハ断乎トシテ東亜ノ被封鎖ヲ覚悟シ適時支部本部ノ要部ヲモ我領有下ニ置キ我武力ニヨリ支那民族ノ進路ヲ遮リツヽアル障碍ヲ切開シテ其経済生活ニ溌剌タル新生命ヲ与ヘテ東亜ノ自給自足ノ道ヲ確立シ長期戦争ヲ有利ニ指導シ我目的ヲ達成ス

四、対米戦争ノ為メ調査方針
1 東亜カ封鎖セラルヽモノトシテ其経済状態ヲ調査シ之ヲカ対策ヲ立案ス(政府ノ業務ナルモ差当リ大ニ東亜経済調査局ニ依頼ス)
 調査ノ方針ハ徒ニ西洋流ノ学問ニ捉ハルヽコトナク我武力ニヨリ支那積幣ノ中枢ヲ切開シテ四億ノ民衆ニ経済的新生命ヲ与ヘ之ヲ相手トシテ我商工業ヲ振興シナルヘク速ニ欧米列強ニ対シ我工業ノ独立ヲ完ウスルコトヲ根本着眼トスルヲ要ス
2 満蒙及支那本部ヲ占領スル場合ニ於ケル其領有方法ノ立案(軍部自ラ其根本ヲ立案シ細部ハ之ヲ各専門家ノ具体的研究ニ俟ツ)
 戦争ヲ以テ戦争ヲ養フヲ根本着眼トシ要スレハ海軍ニ要スル戦費ノ一部又ハ大部モ亦大陸ノ負担タラシムルモノトス
 支那統治ノ根本要領
〔一〕満蒙総督(長春)
  満洲及熱河特別地区
◎全ク日本軍隊ヲ以テ徹底的ニ治安ヲ維持ス
(二)黄河総督(北京)
 直隷 山東 山西 河南 察哈爾特別区
(三)長河総督(南京)
 江蘇 浙江 安徽 福建
(四)湖広総督(武昌)
 湖北 湖南 江西
◎以上三総督ノ武力ハ日本軍ナルモ地方治安等ニハ在来ノ支那軍隊ヲ用フ(清朝カ支那統治ノ方式)
(五)西方総督(西安)
 陜西 甘粛 青海 新彊 外蒙
(六)南方総督(広東)
 広東、広西   
(七)西南総督(重慶)
 四川 雲満 貴洲 川辺特別地域
◎以上三総督ハ通常支那人ヲ用ヒ支那軍隊ヲ本則トス
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    関東軍満蒙領有計画
  石原中佐案 第 日 於満洲里  説明
第一 平定
一 軍閥ノ掃蕩其官私有財産ノ没収
二 支那軍隊ノ処分
 1 巧妙ナル武装解除(散逸ヲ防ク)
 2 兵卒ノ処分
三 逃走兵及土匪ノ討伐掃蕩
四 此等ニ要スル臨時費ハ没収セル逆産及税収ニヨルヲ本旨トス

第二 統治
(一)方針 「最モ簡明ナル軍政ヲ布キ確実ニ治安ヲ維持スル以外努メテ干渉ヲ避ケ日鮮支三民族ノ自由競争ニヨル発達ヲ期ス」
   其結果日本人ハ大規模ノ企業及智能ヲ用フル事業ニ鮮人ハ水田ノ開拓ニ支那人ハ小商業労働ニ   各々其能力ヲ発揮シ共存共栄ノ実ヲ挙クヘシ
(二) 行政
1 根本方針トシテハナルヘク急激ナル変化ヲ与ヘサルコト
2 行政組織及区域
(イ)総督府ノ編制(位置ハ長春又哈爾賓)
 一 陸軍部ト民生部トノ関係ヲ如何ニスルヘキヤノ問題
  1 総督ノ下ニ庶務部ヲ置キ右両部ヲ統一スルカ
  2 陸軍部ヲ幕僚部トシ民生部ノ事務ハ凡テ幕僚部ヲ経由セシムルカ
 二 重要ナル幹部タルヘキ人ノ予定ヲ内定シ置クコト
 三 守備隊ト警務(憲兵ノミヲ用フ)トノ関係
 四 警務ハ陸軍部所管トスルカ民生部所管トスルカ
(ロ)省ハ支那在来ノ関係上最モ重要ナル単位ナルモ我軍行政第一ノ着眼ハ治安ノ維持ニシテ治安維   持ノ為メニハ道ヲ単位トシ道尹ニ守備隊ヲ備フルヲ最モ簡明ナル制度トスヘシ
(ハ)道ノ境界ハ在来ノモノヲ成ルヘク尊重スルモ鉄道交通ニ重キヲ置キ若干ノ変化ヲ必要トスヘシ  (附図参照-略)
 (ニ)海拉爾 黒河 同江等ハ該地守備隊司令官直接軍政ヲ司ル
 (ホ)日本人ハ如何ナル地位迄之ヲ行フヘキカ
 支那人ヲ必要トスル位置
3 治安維持
(イ)治安維持ノ主体ハ守備隊ナリ 而シテ守備隊ノ活動ハ先ツ鉄道線路ヲ第一トス
   次ニ県城其他ノ諸点ニハ若干ノ兵力ヲ配置ス(最小限一小隊)此守備隊ノ兵力ハ約四十五大隊   トス
鉄道守備隊ヲ地方守備隊ヨリ分離シテ数ケノ守備隊司令部ニ統一セシムルヲ可トスルヤハ研究を要ス
  (ロ)地方ニヨリテハ若干ノ自治警察ヲ許スモ厳ニ其行動ヲ監視ス
  (ハ)憲兵ハ総督ニ直属スルモ必要ナル事項
  (?陸軍部長)
 ハ 道尹ノ区署ヲ受ケシム
   憲兵ハ地方警務ノ為 道尹ニ属スルモ高等警察ノ為総督府直属ノ憲兵ヲモ存置ス
4 財政
 (イ)税ノ種類 成ルヘク間接税ニヨルヲ本旨トス
 (ロ)徴税組織
 (ハ)幾河ノ歳入ヲ予期シ得ルヤ
 (ニ)歳出 
軍事費   守備隊 2500万円
      駐剳師団 4000万円 
計   6500万円
 行政費
5 金融及産業
 交通  通信
  此等ノ事業ノ根本ハ満鉄会社ヲ利用スルモノトス
  産業ハ大体自然ノ発展ヲ待ツト雖モ戦争ノ為満州経済ノ受クル影響ヲ予メ研究シテ対策ヲ計画シ 必要ノ統制ハ総督ニ於テ之ヲ行ハサルヘカラス(例ヘハ大豆輸出ノ減少ニ伴フ対策ヲ必要トシ要ス レハ大規模ノ大豆工業ヲ官営スルカ如キコレナリ)
 予定鉄道ノ研究

(三)司法
 1 当分二重制度トス
 道尹所在地ニ法院ヲ設ケ裁判ニ当ラシム

第三 国防
(一) 約四師団ヲ用ヒテ露国ノ侵入ニ備フ
(二) 帝国ノ国力之ヲ許スニ於テハ対露戦争ノ場合「チタ」又ハ「イルクーツク」ニ向ヒ攻略作戦ヲ行フコト固ヨリ可ナルヘキモ我満洲ノ力ヲ以テ露国ノ侵入ヲ阻止セントセハ竜門 墨爾根 海拉爾附近ニ作戦ノ拠点ヲ編成シ「ブラゴブエ」及「チタ」両方面ヨリ予想セラルヽ敵ノ攻勢ニ対シ内線作戦ヲ以テ其企図ヲ挫折セシム
 開戦ノ時ハ朝鮮ヨリ一兵団沿海州ニ作戦スヘク該方面ハ満洲総督府ニ於テ顧慮ヲ要セサルヘシ
(三)飛行機ノ攻撃ニヨリテハ彼我共ニ未タ戦争ノ決ヲ与フル能ハサルヘシト雖モ長大ナル後方連絡線ヲ有スル両軍特ニ露軍ノ為メニハ飛行機ニヨル後方連絡線ノ攻撃ハ最モ痛痒ヲ感スル所ナルヲ以テ飛行機隊ハ我軍ノ為メ最モ重要ナリ
 平時ヨリ四師団中ノ一、二ヲ減シテ飛行機隊若干増加スルヲ可トスヘキヤニツキテハ大ニ研究ヲ要ス 戦時ニ於テハ速ニ増加ヲ必要トス
(四)北部北満殊ニ呼倫貝爾地方作戦ノ為メニハ軍隊ノ機械化ヲ有利トス
   即チ四師団ヲ三師団又ハ其以下ニ縮小シ砲兵及輜重ヲ自動車隊編成トシ強大ナル装甲自動車隊ヲ属スルヲ可トスヘキカ具体的ナ研究ヲ要ス
 調査方針
 先ツ左ノ三要素ノ調査ヲ急キ本年中大体之ヲ終エウ
一、行政組織ヲ如何ニスヘキヤ ーーーーーーーーーーーーーー 佐久間大尉主任 伊藤主計正
二、財政           ーーーーーーーーーーーーーーーーーー伊藤主計正
三、対米戦争ノ為満蒙経済界ノ受クル影響並ニ之ニ対スル策案ーーーーー伊藤主計正
四、総督府(軍司令部)民生部ノ編制ーーーーーーーーーーーーーーーー  伊藤主計正

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