敗戦後、GHQ占領下の日本に、世界に誇るべき「平和憲法」がもたらされた。しかしながら、朝鮮戦争が勃発すると、いとも簡単に日本は再軍備されることになった。それも、警察予備隊を装い、戦車を「特車」などと呼称する欺瞞的な再軍備であった。また、ポツダム宣言で永久に追放されたはずの旧軍将校が、現実に再軍備が進むと追放解除され、次々に入隊することになった。文民統制を揺るがす数々の自衛隊の問題は、そうしたことと無関係ではなさそうである。「シリーズー戦後史の証言ー占領と講話ー⑧ 日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録」フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳(中公文庫)と「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から関係部分を取り出すかたちで抜粋した。
「日本再軍備」---------------------------
第6章 主導権抗争
旧軍人追放
・・・
しかし世界はまだナチおよび日本の軍国主義の恐怖から立ち直っておらず、アメリカの熱狂的軍国主義者でも、最近敗残の憂目を見た日本軍人を抱擁できる人は数少なかったのである。
占領軍が進駐後最初にやったことは日本軍を復員させることであった。日本の軍隊を粉砕し解散したのち、マッカーサー司令官は正規軍人士官(122,235人)をいっさいの公職から追放した。これはポツダム宣言で協定され、米・英・中の三国から発表された日本の降伏条件に基づいてとられた処置である。ポツダム宣言の一部を紹介すると、次のように述べられている。
「無責任な軍国主義者が、世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および努力は永久に除去せられざるべからず」
アメリカ政府もこの世界的意見を支持、1945年8月にマッカーサー元帥に対して日本の占領初期の政策として次のような指令を与えた。
「大本営、参謀本部の高官、政府内の陸海軍人、超国家主義・軍国主義団体の指導者および軍国主義や侵略の主唱者などは拘留し、将来の処置に備える。士官、下士官を含め、元職業軍人および他の軍国主義、超国家主義主唱者は監督職、教職より除外する」
ポツダム宣言が追放の考えを吹き込んだものにしろ、上記の政策は日本国民にとっては革命的祝福であった。もし公職追放がなかったら、意義ある改革を行いえたかどうか疑わしい。……(以下略)
「自衛隊の歴史」------------------------
Ⅰ 草創期──1950~1954
2 警察予備隊発足
・・・
警察予備隊の一般隊員募集に関する発表は、マッカーサー書簡から1ヶ月たった8月9日に行われ、8月13日全国の警察署を窓口にしていっせいにはじまった。応募締切りが15日、試験開始17日、23日から訓練場(各管区警察学校)への集合を開始、10月12日に合格者集合を完了するものとする、とGHQからの命令は確定しており、これが朝鮮戦線への米軍移動の日程に調整されたものである以上抗弁や遅延は許されない。全国の警察署長に対し、「一般警察業務に優先して募集業務を実施する」通達がなされた。
「平和日本はあなたを求めている」──全国の駅、列車内、公共掲示板に張り出された警察予備隊員募集のポスターには、はばたく鳩の絵に配してこの標語がおどっていた。新聞、ラジオ、映画館でも募集呼び掛けが行われた。
・・・
短い予告、わずか3日の募集期間しかなかったにもかかわらず、75,000の定員に対し 382,003人の応募者をかぞえた。警察予備隊をむかえる世論にきわめて冷ややかなものが感じられるなかで、これほどの青年をごく短期間に吸引できたのは、ひとえに月給5,000円と退職金6万円の好条件にあったと考えるしかない。
試験は8月17日より全国183ヵ所の警察署、警察学校を中心に行われ、試験合格者のうち所轄警察署長が身元を確実と認定したものについては、その場で即日合格者として発表、その他を仮合格者扱いにして、総計74,580人の採用を決定した。合格決定者に対しては直ちに集合日時と入隊場所が指示され、出頭した新隊員にとりあえず「二等警査」の階級が与えられた。軍隊でいえば二等兵、警察でなら巡査なので二等警査というわけだった。募集開始から第1回集合(8月23日)までわずか11日間の短時日であったが、日本の官僚組織は手ぎわよくこれをやってのけた。
こうして「新国軍」の二等兵たちは目標通り充足できたとはいえ、これで軍組織としての能力が発揮できるものではない。最高指揮官(部隊中央本部長)が未任命だったし、なにより部隊指揮に責任を持つ将校層がまったくいない状態で警察予備隊づくりは進行していた。だから新入隊員が指定場所に出頭しても指揮をとるべき小隊長、大隊長は空席・不在ということになり、やむを得ず入隊者の管理を米軍側にゆだねる窮余の措置がとられた。『自衛隊十年史』(防衛庁編)には「この期間は米軍指揮官(CampCommander)が事実上人事の一部および管理、運用の命令権の大部を握る形となったため、キャンプによっては時として隊員との間に意思の疎通を欠き、感情のもつれをきたしたところもあった」と記している。ごく控え目に書いても、こうであった。この時期、米軍将校は顧問団(アドバイザー)でなく、警察予備隊の指揮官(コマンダー)そのものとして君臨した。
幹部不在の事態となったのは、旧軍将校の大半が公職追放中の身にあり、GHQ、日本政府ともにこれら旧軍出身者を幹部に登用しない方針を決めたためである。この結果、指揮官なき部隊が米軍キャンプで米人教官から基礎訓練を受ける光景をみるようになった。
・・・
もちろん日米双方ともにこのような指揮系統のあり方は不正常であると認識していたし、それ以上に、星条旗はためく米軍キャンプで米人教官から通訳を通じて命令を受ける「二等警査」たちの間の不満は日々増大する一方だった。あまりに屈辱的だと退職する隊員も出はじめた。
旧軍将校の採用が見送られたので、指揮官充足のため、はじめ一般隊員の幹部登用を積極的に行い、各キャンプで米軍側によって選抜された隊員を、江田島にある米軍の教育訓練施設などに送り込み、4週間の小部隊指揮科程を経させた後、一等警察士(中尉相当)もしくは士補(下士官)に任命する方式がとられた。小隊長、分隊長ならばともかく、しかしこれではいぜん中堅・高級幹部の養成はおぼつかない。そこで旧軍将校を一切採用せずの原則に小さな修正が加えられ、旧満州国軍に所属していた日本人将校および公職追放に該当しなかった(軍学校出身者以外の)旧陸軍の大・中・少尉は応募できるようになった。これにより800人の中堅幹部を得ることができたが、なお幹部不足はつづき、この抜本的解決のため、追放解除による旧軍高級将校の導入にやがて踏み切ることとなる。
・・・(以下略)
「日本再軍備」--------------------------
第2部 私は日本を再武装した──自衛隊誕生の秘密
第13章 暗躍する旧軍人
敵対する旧軍人
・・・
ポツダム宣言は「永久」に公職から追放することを声明していたにもかかわらず、世界、ことに極東の新情勢はそれを許さず、逆コースの道を加速的に押し進まざるをえなかった。1951年の大量追放解除により数千の元陸海軍将校に自由が与えられた。1952年に日本が独立をかちえた頃には、追放リストにはわずか 5,000人の元軍人を残すのみとなっていた。
・・・
予備隊の文官指導者たちも、旧軍人を受け入れるについては慎重を期した。アメリカの教育方法を受け入れていた若い隊員は、旧軍人を迎えて複雑な気持ちであった。しかし公的には、これら旧軍人は予備隊で欠如している統率力と軍事知識を持ち込んでくれることが期待されていたのである。
その頃、予備隊外に残された旧軍人は失望と不信感で沸きかえっていた。旧軍隊の高級将校たちは政府によって復役させられなかったことを不満とした。多数のものが右翼団体を組織したり入団したりして、現在に至るまで日本を悩ましている。彼ら自身で再軍備計画を左右できないと分かると、政府に鉾先を向け、アメリカを批判し、マスコミに軍国主義的声明を流し、若い予備隊員の士気を阻喪し、その人格を台なしにしようと努めた。
・・・(以下略)
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「日本再軍備」---------------------------
第6章 主導権抗争
旧軍人追放
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しかし世界はまだナチおよび日本の軍国主義の恐怖から立ち直っておらず、アメリカの熱狂的軍国主義者でも、最近敗残の憂目を見た日本軍人を抱擁できる人は数少なかったのである。
占領軍が進駐後最初にやったことは日本軍を復員させることであった。日本の軍隊を粉砕し解散したのち、マッカーサー司令官は正規軍人士官(122,235人)をいっさいの公職から追放した。これはポツダム宣言で協定され、米・英・中の三国から発表された日本の降伏条件に基づいてとられた処置である。ポツダム宣言の一部を紹介すると、次のように述べられている。
「無責任な軍国主義者が、世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および努力は永久に除去せられざるべからず」
アメリカ政府もこの世界的意見を支持、1945年8月にマッカーサー元帥に対して日本の占領初期の政策として次のような指令を与えた。
「大本営、参謀本部の高官、政府内の陸海軍人、超国家主義・軍国主義団体の指導者および軍国主義や侵略の主唱者などは拘留し、将来の処置に備える。士官、下士官を含め、元職業軍人および他の軍国主義、超国家主義主唱者は監督職、教職より除外する」
ポツダム宣言が追放の考えを吹き込んだものにしろ、上記の政策は日本国民にとっては革命的祝福であった。もし公職追放がなかったら、意義ある改革を行いえたかどうか疑わしい。……(以下略)
「自衛隊の歴史」------------------------
Ⅰ 草創期──1950~1954
2 警察予備隊発足
・・・
警察予備隊の一般隊員募集に関する発表は、マッカーサー書簡から1ヶ月たった8月9日に行われ、8月13日全国の警察署を窓口にしていっせいにはじまった。応募締切りが15日、試験開始17日、23日から訓練場(各管区警察学校)への集合を開始、10月12日に合格者集合を完了するものとする、とGHQからの命令は確定しており、これが朝鮮戦線への米軍移動の日程に調整されたものである以上抗弁や遅延は許されない。全国の警察署長に対し、「一般警察業務に優先して募集業務を実施する」通達がなされた。
「平和日本はあなたを求めている」──全国の駅、列車内、公共掲示板に張り出された警察予備隊員募集のポスターには、はばたく鳩の絵に配してこの標語がおどっていた。新聞、ラジオ、映画館でも募集呼び掛けが行われた。
・・・
短い予告、わずか3日の募集期間しかなかったにもかかわらず、75,000の定員に対し 382,003人の応募者をかぞえた。警察予備隊をむかえる世論にきわめて冷ややかなものが感じられるなかで、これほどの青年をごく短期間に吸引できたのは、ひとえに月給5,000円と退職金6万円の好条件にあったと考えるしかない。
試験は8月17日より全国183ヵ所の警察署、警察学校を中心に行われ、試験合格者のうち所轄警察署長が身元を確実と認定したものについては、その場で即日合格者として発表、その他を仮合格者扱いにして、総計74,580人の採用を決定した。合格決定者に対しては直ちに集合日時と入隊場所が指示され、出頭した新隊員にとりあえず「二等警査」の階級が与えられた。軍隊でいえば二等兵、警察でなら巡査なので二等警査というわけだった。募集開始から第1回集合(8月23日)までわずか11日間の短時日であったが、日本の官僚組織は手ぎわよくこれをやってのけた。
こうして「新国軍」の二等兵たちは目標通り充足できたとはいえ、これで軍組織としての能力が発揮できるものではない。最高指揮官(部隊中央本部長)が未任命だったし、なにより部隊指揮に責任を持つ将校層がまったくいない状態で警察予備隊づくりは進行していた。だから新入隊員が指定場所に出頭しても指揮をとるべき小隊長、大隊長は空席・不在ということになり、やむを得ず入隊者の管理を米軍側にゆだねる窮余の措置がとられた。『自衛隊十年史』(防衛庁編)には「この期間は米軍指揮官(CampCommander)が事実上人事の一部および管理、運用の命令権の大部を握る形となったため、キャンプによっては時として隊員との間に意思の疎通を欠き、感情のもつれをきたしたところもあった」と記している。ごく控え目に書いても、こうであった。この時期、米軍将校は顧問団(アドバイザー)でなく、警察予備隊の指揮官(コマンダー)そのものとして君臨した。
幹部不在の事態となったのは、旧軍将校の大半が公職追放中の身にあり、GHQ、日本政府ともにこれら旧軍出身者を幹部に登用しない方針を決めたためである。この結果、指揮官なき部隊が米軍キャンプで米人教官から基礎訓練を受ける光景をみるようになった。
・・・
もちろん日米双方ともにこのような指揮系統のあり方は不正常であると認識していたし、それ以上に、星条旗はためく米軍キャンプで米人教官から通訳を通じて命令を受ける「二等警査」たちの間の不満は日々増大する一方だった。あまりに屈辱的だと退職する隊員も出はじめた。
旧軍将校の採用が見送られたので、指揮官充足のため、はじめ一般隊員の幹部登用を積極的に行い、各キャンプで米軍側によって選抜された隊員を、江田島にある米軍の教育訓練施設などに送り込み、4週間の小部隊指揮科程を経させた後、一等警察士(中尉相当)もしくは士補(下士官)に任命する方式がとられた。小隊長、分隊長ならばともかく、しかしこれではいぜん中堅・高級幹部の養成はおぼつかない。そこで旧軍将校を一切採用せずの原則に小さな修正が加えられ、旧満州国軍に所属していた日本人将校および公職追放に該当しなかった(軍学校出身者以外の)旧陸軍の大・中・少尉は応募できるようになった。これにより800人の中堅幹部を得ることができたが、なお幹部不足はつづき、この抜本的解決のため、追放解除による旧軍高級将校の導入にやがて踏み切ることとなる。
・・・(以下略)
「日本再軍備」--------------------------
第2部 私は日本を再武装した──自衛隊誕生の秘密
第13章 暗躍する旧軍人
敵対する旧軍人
・・・
ポツダム宣言は「永久」に公職から追放することを声明していたにもかかわらず、世界、ことに極東の新情勢はそれを許さず、逆コースの道を加速的に押し進まざるをえなかった。1951年の大量追放解除により数千の元陸海軍将校に自由が与えられた。1952年に日本が独立をかちえた頃には、追放リストにはわずか 5,000人の元軍人を残すのみとなっていた。
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予備隊の文官指導者たちも、旧軍人を受け入れるについては慎重を期した。アメリカの教育方法を受け入れていた若い隊員は、旧軍人を迎えて複雑な気持ちであった。しかし公的には、これら旧軍人は予備隊で欠如している統率力と軍事知識を持ち込んでくれることが期待されていたのである。
その頃、予備隊外に残された旧軍人は失望と不信感で沸きかえっていた。旧軍隊の高級将校たちは政府によって復役させられなかったことを不満とした。多数のものが右翼団体を組織したり入団したりして、現在に至るまで日本を悩ましている。彼ら自身で再軍備計画を左右できないと分かると、政府に鉾先を向け、アメリカを批判し、マスコミに軍国主義的声明を流し、若い予備隊員の士気を阻喪し、その人格を台なしにしようと努めた。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。