真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本再軍備 旧軍人公職追放解除で採用

2009年04月20日 | 国際・政治
 敗戦後、GHQ占領下の日本に、世界に誇るべき「平和憲法」がもたらされた。しかしながら、朝鮮戦争が勃発すると、いとも簡単に日本は再軍備されることになった。それも、警察予備隊を装い、戦車を「特車」などと呼称する欺瞞的な再軍備であった。また、ポツダム宣言で永久に追放されたはずの旧軍将校が、現実に再軍備が進むと追放解除され、次々に入隊することになった。文民統制を揺るがす数々の自衛隊の問題は、そうしたことと無関係ではなさそうである。「シリーズー戦後史の証言ー占領と講話ー⑧ 日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録」フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳(中公文庫)「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から関係部分を取り出すかたちで抜粋した。

「日本再軍備」---------------------------
 第6章 主導権抗争

 旧軍人追放


 ・・・
 しかし世界はまだナチおよび日本の軍国主義の恐怖から立ち直っておらず、アメリカの熱狂的軍国主義者でも、最近敗残の憂目を見た日本軍人を抱擁できる人は数少なかったのである。
 占領軍が進駐後最初にやったことは日本軍を復員させることであった。日本の軍隊を粉砕し解散したのち、マッカーサー司令官は正規軍人士官
(122,235人)をいっさいの公職から追放した。これはポツダム宣言で協定され、米・英・中の三国から発表された日本の降伏条件に基づいてとられた処置である。ポツダム宣言の一部を紹介すると、次のように述べられている。
「無責任な軍国主義者が、世界より駆逐せらるるに至るまでは、平和、安全および正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるをもって、日本国民を欺瞞し、之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力および努力は永久に除去せられざるべからず」
 アメリカ政府もこの世界的意見を支持、1945年8月にマッカーサー元帥に対して日本の占領初期の政策として次のような指令を与えた。
「大本営、参謀本部の高官、政府内の陸海軍人、超国家主義・軍国主義団体の指導者および軍国主義や侵略の主唱者などは拘留し、将来の処置に備える。士官、下士官を含め、元職業軍人および他の軍国主義、超国家主義主唱者は監督職、教職より除外する」
 ポツダム宣言が追放の考えを吹き込んだものにしろ、上記の政策は日本国民にとっては革命的祝福であった。もし公職追放がなかったら、意義ある改革を行いえたかどうか疑わしい。
……(以下略)

「自衛隊の歴史」------------------------
               Ⅰ 草創期──1950~1954

 2 警察予備隊発足


 ・・・
 警察予備隊の一般隊員募集に関する発表は、マッカーサー書簡から1ヶ月たった8月9日に行われ、8月13日全国の警察署を窓口にしていっせいにはじまった。応募締切りが15日、試験開始17日、23日から訓練場(各管区警察学校)への集合を開始、10月12日に合格者集合を完了するものとする、とGHQからの命令は確定しており、これが朝鮮戦線への米軍移動の日程に調整されたものである以上抗弁や遅延は許されない。全国の警察署長に対し、「一般警察業務に優先して募集業務を実施する」通達がなされた。
「平和日本はあなたを求めている」──全国の駅、列車内、公共掲示板に張り出された警察予備隊員募集のポスターには、はばたく鳩の絵に配してこの標語がおどっていた。新聞、ラジオ、映画館でも募集呼び掛けが行われた。


 ・・・

 短い予告、わずか3日の募集期間しかなかったにもかかわらず、75,000の定員に対し 382,003人の応募者をかぞえた。警察予備隊をむかえる世論にきわめて冷ややかなものが感じられるなかで、これほどの青年をごく短期間に吸引できたのは、ひとえに月給5,000円と退職金6万円の好条件にあったと考えるしかない。
 試験は8月17日より全国183ヵ所の警察署、警察学校を中心に行われ、試験合格者のうち所轄警察署長が身元を確実と認定したものについては、その場で即日合格者として発表、その他を仮合格者扱いにして、総計74,580人の採用を決定した。合格決定者に対しては直ちに集合日時と入隊場所が指示され、出頭した新隊員にとりあえず「二等警査」の階級が与えられた。軍隊でいえば二等兵、警察でなら巡査なので二等警査というわけだった。募集開始から第1回集合(8月23日)までわずか11日間の短時日であったが、日本の官僚組織は手ぎわよくこれをやってのけた。


 こうして「新国軍」の二等兵たちは目標通り充足できたとはいえ、これで軍組織としての能力が発揮できるものではない。最高指揮官(部隊中央本部長)が未任命だったし、なにより部隊指揮に責任を持つ将校層がまったくいない状態で警察予備隊づくりは進行していた。だから新入隊員が指定場所に出頭しても指揮をとるべき小隊長、大隊長は空席・不在ということになり、やむを得ず入隊者の管理を米軍側にゆだねる窮余の措置がとられた。『自衛隊十年史』(防衛庁編)には「この期間は米軍指揮官(CampCommander)が事実上人事の一部および管理、運用の命令権の大部を握る形となったため、キャンプによっては時として隊員との間に意思の疎通を欠き、感情のもつれをきたしたところもあった」と記している。ごく控え目に書いても、こうであった。この時期、米軍将校は顧問団(アドバイザー)でなく、警察予備隊の指揮官(コマンダー)そのものとして君臨した

 幹部不在の事態となったのは、旧軍将校の大半が公職追放中の身にあり、GHQ、日本政府ともにこれら旧軍出身者を幹部に登用しない方針を決めたためである。この結果、指揮官なき部隊が米軍キャンプで米人教官から基礎訓練を受ける光景をみるようになった

 ・・・

 もちろん日米双方ともにこのような指揮系統のあり方は不正常であると認識していたし、それ以上に、星条旗はためく米軍キャンプで米人教官から通訳を通じて命令を受ける「二等警査」たちの間の不満は日々増大する一方だった。あまりに屈辱的だと退職する隊員も出はじめた。
 旧軍将校の採用が見送られたので、指揮官充足のため、はじめ一般隊員の幹部登用を積極的に行い、各キャンプで米軍側によって選抜された隊員を、江田島にある米軍の教育訓練施設などに送り込み、4週間の小部隊指揮科程を経させた後、一等警察士(中尉相当)もしくは士補(下士官)に任命する方式がとられた。小隊長、分隊長ならばともかく、しかしこれではいぜん中堅・高級幹部の養成はおぼつかない。そこで旧軍将校を一切採用せずの原則に小さな修正が加えられ、旧満州国軍に所属していた日本人将校および公職追放に該当しなかった(軍学校出身者以外の)旧陸軍の大・中・少尉は応募できるようになった。これにより800人の中堅幹部を得ることができたが、なお幹部不足はつづき、この抜本的解決のため、追放解除による旧軍高級将校の導入にやがて踏み切ることとなる。

 ・・・(以下略)


「日本再軍備」--------------------------
         第2部 私は日本を再武装した──自衛隊誕生の秘密

 第13章 暗躍する旧軍人

 敵対する旧軍


 ・・・
 ポツダム宣言は「永久」に公職から追放することを声明していたにもかかわらず、世界、ことに極東の新情勢はそれを許さず、逆コースの道を加速的に押し進まざるをえなかった。1951年の大量追放解除により数千の元陸海軍将校に自由が与えられた。1952年に日本が独立をかちえた頃には、追放リストにはわずか 5,000人の元軍人を残すのみとなっていた。

 ・・・

 予備隊の文官指導者たちも、旧軍人を受け入れるについては慎重を期した。アメリカの教育方法を受け入れていた若い隊員は、旧軍人を迎えて複雑な気持ちであった。しかし公的には、これら旧軍人は予備隊で欠如している統率力と軍事知識を持ち込んでくれることが期待されていたのである。

 その頃、予備隊外に残された旧軍人は失望と不信感で沸きかえっていた。旧軍隊の高級将校たちは政府によって復役させられなかったことを不満とした。多数のものが右翼団体を組織したり入団したりして、現在に至るまで日本を悩ましている。彼ら自身で再軍備計画を左右できないと分かると、政府に鉾先を向け、アメリカを批判し、マスコミに軍国主義的声明を流し、若い予備隊員の士気を阻喪し、その人格を台なしにしようと努めた。

 ・・・(以下略)


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日本再軍備担当幕僚長 コワルスキー大佐の証言

2009年04月18日 | 国際・政治
 戦争放棄・戦力の不保持をうたった日本国憲法は、GHQの占領下、1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。その日本国憲法が、1950年6月25日の朝鮮戦争勃発によって、いとも簡単に踏みにじられることになった。戦力としての日本軍4個師団の編制が、警察予備隊としてカムフラージュされスタートしたのである。GHQ民事局長シェパード少将の下で、在日米軍事顧問団幕僚長として日本軍4個師団の編制を担当した著者のコワルスキーは、日本再軍備の動機や経過を米軍自らの対応の拙さも含め、正直かつ正確に書き記している。「シリーズー戦後史の証言ー占領と講話ー⑧ 日本再軍備 米軍事顧問団幕僚長の記録」フランク・コワルスキー、勝山金次郎訳(中公文庫)からの抜粋である。
 下段は、マカーサー元帥名の「日本警察力の増強に関する吉田首相への書簡」(1950年7月8日付)を「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から抜粋したものであるが、朝鮮に出動した米軍4個師団に取って代わる警察予備隊を装った日本軍4個師団の編制を「許可する」というかたちで、命令しているものである。
1--------------------------------
        第1部 かくて再軍備は始まったーその動機と構想

 第1章 天恵と朝鮮動乱

 対日占領政策


 ・・・
 これらの指令や政策(連合国極東委員会から連合軍最高司令官マッカーサーに伝送されたもの)は、部分的には異常にきびしくまた制約的なところもあるが、総じて言えば、進歩的な近代民主主義国家を設立することを目的としており、これに基づいて、連合軍最高司令官マッカーサー元帥は世界史上未曾有の平時大革命を実行したのである。
 まず日本を完全に武装解除し、天皇を除く戦争責任者および戦争支持者を容赦なくパージした。パージリスト(追放者名簿)には、すべての正規軍人将校および戦時中強い影響力をふるい、勢力を誇った政界・財界・実業界の指導者の名が含まれていた。また天皇を神格より格に引きおろし、婦人に参政権を与え、軍隊および戦力保持を永久に禁ずる超民主的な憲法を無理押しに制定発布させた。

 ・・・(以下略)

 マッカーサー元帥の決断

 ・・・ 
 ……こうして朝鮮戦争勃発より3週間後には日本国内に残されていたのは第7師団と若干の陸軍管理部隊と空軍部隊のみとなり、その第7師団も出動態勢をとるよう指令されていた。
 この危機に臨み、アメリカは共産軍の侵略を阻止するに必要な兵力はもはや日本には存在しないと認識した。更にいろいろ検討を加えた結果、本国からの増援は少なくともここ数ヶ月は期待できないことが分かった。われわれには原子爆弾はあったが、地上予備軍はなかったのである。第7師団が朝鮮に出動すれば、海外からの攻撃は言うに及ばず、国内の反乱からも日本政府やわれわれの基地を守ってくれる地上部隊はいなくなってしまう。9000万の日本はその時までには完全に武装解除を終わっていた。その時持っていた軍艦、航空機、戦車、軍用車、火砲、機関銃、小銃などはすべて屑山と化した。日本将校の身につけていた軍刀までも米国へ帰る米軍人・軍属などが記念品として荷物の中に入れて運び去ってしまっていた。日本は完全な無防備状態にあった。


・・・

 彼(マッカーサー)はポツダムにおける国際協定に反し、極東委員会よりの訓令を冒し、日本国憲法にうたわせた崇高な精神をほごにし、本国政府よりほとんど助力を得ずして日本再軍備に踏み切ったのである。 
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 第3章 忍び足の再軍備

 開戦下の総司令部


 ・・・
 オフィスに入ると彼は(GHQ民事局局長シェパード少将)、「ドアを閉めてかけたまえ」と命令した。私は胸の鼓動を感じながら、いわれる通り彼と向かい合ってすわった。少将は手を組み合わせて机の上に置き、深刻な面持ちで語り始めた。

「フランク、きみが連隊長の職を望む気持ちはよく分かるが、きみは朝鮮へは行けないよ。わしがきみを放せないんだ。2人で日本でしなければならぬ大役があるのだ。わしはマッカーサー元帥から、警察予備隊を組織する大役を仰せつかったんだ。警察予備隊というのは、さしあたり4個師団編制で、定員75,000の日本防衛隊のことだが、将来の日本陸軍の基礎になるものだ。きみはわしの幕僚長になるのだ。だから、朝鮮はあきらめろ」

 私の頭は少将の今言った事柄のもつ重大な意味をはかり知ろうとして渦を巻いている間に、彼は手さげ鞄をあけて、中から極秘の書類を取り出して私に渡しながら、「これが基本計画だ。きみは全文を暗記するまで何度も繰り返して読みたまえ」と命じた。私が日本軍隊のバイブルともなるべき「基本計画」をめくっているのを横目で身ながら、少将は話しを続けた。

 「朝鮮のみならず日本の事態も予断を許さないのだ。日本列島に配置してあるわれわれの4個師団は全部朝鮮へ出動する。2,3週間のちには、空軍部隊および少数の陸軍管理部隊を除いて、日本にいる米軍部隊はなくなる。われわれはこれら米軍部隊にとってかわる日本の4個師団を編制し訓練する仕事を与えられた。きみも知っている通り、日本には大部分女子供の25万の在留同胞がいるのだ」
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 第7章 指揮する米軍顧問団

 やりがいのある仕事


 ・・・
「そこでだね、スティーブンス少佐(総司令部の命でコワルスキーのもとに来た少佐)」話はこれからが大切だと、私は語気を強めて言った。
「ここできみにやって貰わなくてはならん仕事はなまやさしいことではないんだよ。おそらくきみが陸軍に入隊以来、今までにやったことのないような、困難でスリルに満ちたほんとうの意味でやりがいのある仕事になるんじゃないかと思うんだ。
 きみは 日本の新しい軍隊の父になるんだ。日本の新陸軍の最初の歩兵大隊を編成し、収容し、管理し、装備し、訓練するんだ。しかもそれらの日本人将兵には、自分たちは警察大隊以外の何物でもないのだというふうに思い込ませるなければいけないんだよ」


・・・

「きみのキャンプの中で、いや、そのキャンプのある地方全域において、人多しといえどもきみが歩兵大隊を編制していることを知っているのはきみだけだよ。ほかのものはもちろん疑いはするだろうが、知らせてはBならない。たとえ県知事、警官、あるいは予備隊員であろうとすべて日本人が知るかぎりにおいては、きみは警察の予備隊を編制することになっているのだ。
 
日本の憲法は軍隊を持つことを禁止している。したがってきみは兵を兵隊と呼んだり、士官を軍隊の階級で呼んだりしてはならないのだ。兵は警査と呼び、士官は警察士とか警察正とか呼ぶのだ。もし戦車が見えたら、それは戦車ではなく特車だというのだ。トラックはトラックでよいがね。ぼくのい言わんとしているところが分かるかね」
「はい、分かります」


・・・
 
 焦点・北海道
 
 予備隊キャンプがつぎつぎに設置されていた頃、一方では米軍が急テンポで日本を離れていた。1950年7月以後は第7師団を残すのみとなり、それも朝鮮増援に赴くことを切望されていた。しかしわれわれが予備隊を編制し配置するまでは、第7師団は動けなっかった。
 朝鮮における戦況が悪化するに従い、第7師団への要求は高まり、ついに同師団が9月10日に離日することが約束された。この9月10日は予備隊にとっては遅れることの許されぬ絶対的な期限であり、われわれ顧問団はおかげで夜もろくろく眠れなかった。第7師団が離日したあとには、主として婦女子からなる留守家族など25万の在留米人は無防備状態におかれることになる。

 それよりも、もっとわれわれの心胆を寒からしめたことは、北海道の北端より目と鼻の先にあるソ連占領下の樺太には、日本人共産主義者によって編制された2個師団が展開されているという、恐ろしいうわさであった。
 これらのうわさの真偽のほどは、今になっても明らかにされていないが、当時はいろいろな情報がさかんに入ってきており、それによると、アジア大陸には、第2次大戦中の日本人捕虜を交えた数個師団のソ連軍が、配置されているということであった。樺太に配置されている部隊は装備もよく整い、完全に共産主義の洗脳をうけており、彼らの任務は、第7師団が朝鮮に向け出発した直後、北海道に侵入しこれを攻略することにあった。

 これらのうわさを額面通り受け取らない人も一部にはあったが、相手がソ連のことではあるし、やろうと思えば北海道くらいは簡単に攻略する能力を持っていることを十分知っているので、われわれはうわさだからと言って、むげにこれを無視することはできなかった。
2--------------------------------
              Ⅰ 草創 1950~1954

 1 「日本再軍備」命令


 ・・・
 この良好な状態を持続し、法の違反や平和をみだすことを常習とする不法な少数者によって乗じられるすきを与えないような対策を確保するために、日本の警察組織は民主主義社会で公安維持に必要とされる限度において、警察力を増大強化すべき段階に達したものと私は確信する。
 従って私は日本政府に対して7,500人からなる国家警察予備隊を設置するとともに、海上保安庁の現有海上保安力に8,000名を増員するよう必要な措置を講ずることを許可する」
と、「国家警察予備隊」の設立を命じていた。
……願い出もしない「許可」を吉田内閣は与えられたのである。

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「憲法改正の歌」、中曽根康弘と三島由紀夫

2009年04月13日 | 国際政治
 すでに「自衛隊『影の部隊』三島由紀夫を殺した真実の告白」元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)より、三島由紀夫の「」および「武士道と軍国主義」の一部を、また、「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より三島の「決起呼びかけの演説」を抜粋したが、ここでは同じ「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)から、憲法について、三島と同じような思いを表現している、中曽根康弘の「憲法改正の歌」を抜粋する。
 中曽根康弘は、三島事件当時、防衛庁長官という立場にあった。したがって、立場上、「直接行動は容認できない」と主張せざるを得なかったようであるが、「その思想の純粋性は理解できる」と自らの思いを告白している。三島も中曽根も、現在の日本国憲法を占領憲法として受け入れず、戦死したり、自決したり、また処刑されたりした「帝国軍人」(陛下の赤子)の意志を受け継ごうとしている点で共通であるように思われる。「憲法改正の歌」のような考え方が、現実の「憲法改正の動き」を陰で支える力だとすれば恐ろしいと思う。二度と戦争を繰り返してはならないと思うからである。
 下段2は、元第五区隊長 村内村雄大尉が、陸軍省陸運部長中村肇少将とともに阿南陸軍大臣自刃の連絡を受けて大臣官邸に駆けつけたときの様子を書いたものの一部抜粋である。阿南陸軍大臣の自刃を批判的に受け止めることができなければ、日本国憲法を受け入れることも難しいのではないかと思われる。
1---------------------------------
           Ⅱ 発展───1955~1974

12 中曽根防衛庁長官


 ・・・
 政治家・中曽根康弘が、保守政治家のなかでもひときわ調子の高い改憲論者として聞こえていた。吉田茂によって形成された親米「保守本流」との間に一線を画し、保守合同後もとくに防衛・安保政策に関して改進党時代以来の主張を改めようとはしなかった。1956年に「憲法改正の歌」を作詞し発表しているが、当時にあってもそれはかなり時代がかった印象を人々に与えた。占領期間中、「国家の死」に服喪する意味をこめて黒いネクタイを外したことがなかったという青年政治家・中曽根康弘の心情吐露ともいえる

 一、嗚呼戦いに打ち破れ
   敵の軍隊進駐す
   平和民主の名の下に
   占領憲法強制し
   祖国の解体計りたり
   時は終戦六ヶ月

 二、占領軍は命令す
   若しこの憲法用いずば
   天皇の地位請け合わず
   涙をのんで国民は
   国の前途を憂いつつ
   マック憲法迎えたり

 五、この憲法のある限り
   無条件降伏つづくなり
   マック憲法守れるは
   マ元帥の下僕なり
   祖国の運命拓く者
   興国の意気挙げなばや


 心中にこのような思いを抱く中曽根にとって、保守本流の安保政策や自衛隊の位置づけはいかにも微温的なものとうつったにちがいない。彼は一時、日本独自核武装論を展開し、日米安保体制に批判的な立場をとって安保条約採決の衆議院本会議にも欠席、棄権したほど、この分野における政治姿勢をきわだたせていた。のちに書いた「私の政治生活」と題する英文版の文書で、この時期の言動をつぎのように説明している。
「私は占領下でも、日本がみずから統治し防衛でき、他国の安全と福祉に何らかの形で貢献できるようになって初めて日本の独立が達成できると信じ、独立に伴って直ちに憲法を改正すること、文民統制にもとづく独自の防衛組織を作ることを要求していた。今でもこれらの主張が全く理にかなったことだと思っている。しかし、アメリカ人は私を過激な国家主義にかぶれた危険人物とみなした」


 このような再軍備積極論の持ち主を吉田茂の後継者たる佐藤栄作が防衛庁長官に登用したことじたい不可解に思えてくるが、佐藤にしてみれば、党人派閥・河野派を引き継ぎ非主流の立場を守る中曽根派を手元に引き寄せるには、中曽根の望む防衛庁長官の椅子を差し出すのが政権運営のうえから得策と計算したのであろう。それに、えてして人間得意の分野でつまづくものだ──「首相の度胸」をうんぬんする新長官就任の弁を聞いて、「人事の佐藤」は心中そうつぶやいていたのかもしれない。
・・・(以下略)

2-----------------------------
床の間には切腹のとき短刀をまいた和紙が置かれ、ベットリと血がにじんでいて、毛筆で、
「一死以て大罪を謝し奉る
       昭和二十年八月十四日夜
               陸軍大臣 阿南惟幾  花押」
と書かれていた。

もう一枚の和紙には
「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すべき片言もなし
       八月十四日夜陸軍大将 惟幾」
鮮烈な文字が読みとれた。


・・・

 私達が弔問したのは、大臣絶命後二時間位たってのことであったろうか。
 その日、この大臣の自決の報が伝わると、全陸軍の血が引いた。陛下のお言葉に従えよ、決して暴走してはならぬぞ、と。死はこの陸軍大臣一人でいいのだ、日本の国体の存続を歯をくいしばって守れよ、との大臣のご意志は陸軍軍人全員に直感的に理解された。そしてその為に大過なく終戦の幕は引かれた。尊く偉大なる大臣の自決だった。



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「憲法改正」と三島の決起呼びかけの演説

2009年04月12日 | 国際・政治
 どれほどのものか定かではないけれども、憲法を変えようとする動きの中に、三島由紀夫の歴史観や思想と同じものがあり、かなりの力を持っているのではないかと不安に思う。「交戦権の放棄」を放棄し、自衛隊を国軍と認め、旧日本軍と変わることのない建軍の本義を得ようとする考え方があるのではないかと思うのである。
 敗戦をさかいに180度方向を変えたかに見える日本の再出発は、米ソの力関係や朝鮮戦争の勃発によって大いに歪められた。GHQの占領下、アメリカの都合で密かに理不尽な取り引きによる戦犯免責が行われ、公職追放解除なども行われた。その結果、「旧日本軍」が様々なかたちで戦後の日本に生き延びたことは間違いない。したがって、日本国憲法の基本的な部分を、三島由紀夫のように、再び大日本帝国憲法へ逆戻りさせようと画策する動きがあっても、不思議ではないと思うのである。「自衛隊の歴史」前田哲男(ちくま学芸文庫)より抜粋する。
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                    事件と論争

 7 三島由紀夫と自衛隊

 70年11月25日、三島由紀夫は東京市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部・総監室バルコニーから、眼下に参集した自衛隊員に向かって決起呼びかけの演説を行った。三島生前最後の声であり、かつ自衛隊との断絶宣言ともなった。

「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ! 日本を守ること、日本を守るとは何だ! 日本を守るとは天皇を中心とする、歴史と文化と伝統を守るんだ!
 よく聞け!聞け、聞け、聞けい、静聴せい!男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ!いいか、いいか!
 おれがだ、いまの日本人がだ、ここでもって起ち上がらなければ、自衛隊が起ち上がらなければ、憲法改正というものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ!
 諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ。自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ。
 諸君の中には一人でもおれと一緒に起つやつはいないのか。一人もいないんだな。よし、おれは死ぬんだ。憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた。自衛隊に対する夢はなくなったんだ。
 それではここで天皇陛下万歳を叫ぶ。天皇陛下万歳!万歳!万歳!」。

 
 三島の演説に営庭集められた制服自衛官ははげしい野次でこたえた。「降りてこい」、「引きずり降ろせ」、「気狂い」、「銃で撃て」 などの言葉が録音されている。総監監禁さるの報は、隊員たちに敵意を燃え上がらせるに十分だった。自衛隊と三島の関係は、蜜月から破局へ、劇的に変わった。
・・・(以下略)


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