戦後60年の夏、
東條由布子編・渡部昇一解説の「大東亜戦争の真実」という本が
ワックス(株)より出版された。東京裁判東條英機宣誓供述書が中心である。その中で東條元首相は
「1941年(昭和16年)12月8日 に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するための連合国側の徴発に原因しわが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争」と主張し、
「東亜に重大なる 利害を有する国々(中国自身を含めて)がなぜ戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します」と述べている。結論はすでによく知られているが、
「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません。自衛戦争をしたのであります」ということである。
「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」という田母神論文も同じような自衛戦争論である。もちろんそういう側面はあったかも知れないが、多くの日本人関係者の証言や資料基づく事実が、それを否定している。下記「嫩江(ノンコウ)鉄橋実力修理」もその一例である。
満州において関東軍は、21ヵ条の条約等によって得た権益を土台に、いたるところで謀略により軍を進め、言い掛かりをつけて軍を進め、無理難題を押しつけて軍を進めた。チチハル占領もその典型的な事例の一つなのである。洮遼鎮守使の張海鵬を懐柔し、黒竜江省へ進出させ、黒竜江省軍が防衛目的で嫩江鉄橋を破壊するや、その権益保護を根拠に、不可能な期限を設けて復旧工事を強制し、出来ないと判明するや軍を伴って自ら鉄橋の実力修理を行い、ひとたびトラブルが発生すると主力部隊を急派し、追撃するのである。当時政府や陸軍中央部は不拡大方針を繰り返し伝え、臨参委命(参謀総長が天皇から受けた委任命令権を行使して出す命令)まで発しているが(資料1,2)、関東軍は、強硬に自らの方針を押し通すのである。
「太平洋戦争への道 開戦外交史2 満州事変」日本国際政治学会 太平洋戦争原 因研究部編(朝日新聞社)より、関連部分の一部抜粋である。
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第1編 満州事変の展開
島田俊彦
第3章 関東軍チチハル出撃
1 嫩江鉄橋の破壊
北満進出の条件完備
さきに関東軍はハルビン進出をはかって中央部から阻止された。しかしこんなことで関東軍が北満進出を断念するはずがなく、やがてなんらかの形で再挙をはかるであろうことは、およそ中央部一般の推測するところであった。はたして1931年11月をむかえ突然チチハル方面への進出となって、それは現実化された。 この方面を指向する軍事行動の第1歩は、9月22日の一部部隊の鄭家屯進出であり、第2歩は、同24日の装甲列車の洮南前進であった。これと平行して関東軍は満鉄・洮南公所署長・河野正直、関東軍司令部付・前張学良顧問・今田新太郎大尉、予備役中尉・吉村宗吉らを通じて、洮遼鎮守使・張海鵬と連絡し、ひそかにその懐柔をはかった。その結果、張海鵬は10月1日辺境保安司令と称して、張学良と絶縁し、関東軍の後援下に北方を目ざして黒竜江省への進出をはかることになった。 一方、当時北平にいた黒竜江省長・兼東北辺防軍副司令・万福麟は、10月7日黒竜江省主力をチチハルに集中するよう命令し、翌8日、黒河警備司令・歩兵第3族長・馬占山をその総指揮に任命して、黒竜江省を確保しようという態勢をしめした。これらの情勢について関東軍参謀長は参謀次長にたいし、10月8日次のような報告をした。
(関・第668号)。
張ハ自ラ辺境保安司令ニ就任シ、屯墾軍ヲ懐柔シテ独立ヲ宣シ、種々の口実ヲ設ケテ黒竜江省ニ進入セントシツツアリ。マタ黒竜江省軍ハ張ノ進攻説ニオビヤカサレ、泰来、チチハルナドニ兵力ヲ集中中ニテ、馬占山コレガ指導ニ任ジアリ。 張海鵬は10月15日早朝から北上をはじめた。しかし黒竜江省軍は泰来および江橋北方の鉄道橋(嫩江に架橋)を焼き払って、これに備えたので、張軍はたちまち北上不能に陥った。この黒竜江省軍による鉄橋破壊はいままで張海鵬軍の影武者として存在した関東軍を、一躍立役者にする絶好の機会となった。なぜなら、この鉄橋のかかっている洮昮線は日本の利権鉄道の一つであるばかりでなく、当時はまさに北満地方特産物の出回り時期であったので、鉄橋の破壊をそのままにしておくと、満鉄として約五百万円の損害となるので、関東軍はここに日本の権益保護という大義名分のもとに、兵力を用いて鉄道の復旧作業ができるからである。
10月22日午後、参謀本部は関東軍司令官から次の電報を受取った。
(関参・第806号) 21日洮昮沿線情況偵察ノタメ、洮南ヲ経テ、チチハル方向ニ向イシ我ガ飛行機ハ、江橋ニオイテ黒竜江軍ノタメ射撃セラレタルヲモッテ、敵陣地ニ対シ、数発ノ爆弾ヲ投下セリ。
我ガ借款鉄道タル洮昮線ノ橋梁ヲ焼却シ、我ガ飛行機ニ挑戦セシナド、黒竜江軍ノ暴挙ニ対シテハ我ガ領事館ヲ通ジ、厳重抗議セシムルハズナリ。 ・・・以下略
ソ連へのおもわく
一方チチハルでは、10月19日付で新設のチチハル特務機関長に任ぜられた林義秀少佐が26日同地に着任し、翌日黒竜江省政府主席代理・馬占山(馬は11日張学良からこの地位を与えられた)に、次の要求書を提出した。
在奉天関東軍司令官ハ、黒竜江省政府ニ対シ、速ヤカニ嫩江ノ橋梁ヲ修理スベキコトヲ要求ス。
修理ノ期間ハコレヲ1週間トシ、ソノ第1日ヲ昭和6年10月28日第7日ヲ11月3日トス。 コノ期間ニオイテ黒竜江省政府ガ工事ニ着手セザルカ、モシクハ着手スルモ同期日マデニ未完成ノトキハ、以後ハ日本側ニオイテコレヲ修理スベシ。シカルトキハ情況ニヨリ、工事援護ノタメ実力ノ発動ヲミルコトアルベシ。 この要求はまったく林少佐のいいがかりにすぎなかった。林少佐は満鉄がこれを修理するとしても約2週間を必要とすることを承知していたのだが、「関東軍ガナンラカノ名目ヲモッテ日本軍ヲ黒竜江省内ニ進ムルノ機会ヲ発見セントツトメアルヲ承知シアリシト、黒竜江省側ノ不誠意ナル場合、結氷前ニ満鉄ヲシテ修理ヲ完了セシムルヲ要セシト、カツ事ヲ遷延スルハ支那一流ノ宣伝ニ乗ゼラレ、不測ノ禍ヲ受クベキコトアルヲ顧慮」して、ことさら1週間の期限しかつけなかった。・・・以下略
鉄橋の実力修理 ・・・
……
こうして11月1日、歩兵第16連隊長の指揮する嫩江支隊主力は、長春および吉林を出発して、翌2日夜、泰来付近に兵力を集め、一方、この日軍司令官は馬占山と張海鵬に、満鉄の行なおうとする鉄橋修理につき次のように通告した。 1、以後嫩江橋梁ヲ戦術的ニ利用スルヲ許サズ
2、11月4日正午マデニ両軍ハ橋梁ヨリ10キロメートル以外ノ地ニ撤退シ、修理
完成マデ10キロメートル以内ノ地ニ入ルヲ許サズ。修理完成ノ期日ハ見込ミ
ツキシダイ通告ス。
右要求ニ応ゼザル者ニ対シテハ、日本軍ニ敵意アルモノト認メ、適法ノ武力
ヲ行使ス。右警告ス。資料 -------------------------------
1 参謀総長から関東軍司令官へ第108号電
関参・915電ミタ。鉄橋修理援護ノタメ電報報告ノ兵力使用ハ本職ニオイテ同意ス。シカレドモ、前電105ノ主旨ニノットリ、右目的達成後ハ速ヤカニコレヲ撤退セシムベシ。要スルニ内外ノ大局ニカンガミ、嫩江ヲ越エテ遠ク部隊ヲ北進セシムルハ、イカナル理由ヲ以テスルモ、断ジテ許サレザルモノトス。
2 関東軍司令官へ臨参委命・第1号(第120号電)
1、現下ニオケル内外ノ大局ニカンガミ、北満ニタイシスル積極的作戦行動ハ、当分コレヲ実施セザル方針ナリ。
2、嫩江橋梁補修援護部隊ハ、最小限度ニソノ任務ヲ達成スルタメ、ソノ行動ハ大興駅付近ヲ通ズル線ヲ占領スルニトドムベシ。----------------------------------
1931年11月 5日嫩江支隊と黒竜江省軍大興付近で戦闘開始
6日黒竜江省軍を撃退し大興付近占領架橋援護開始
19日第2師団チチハル占領
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