真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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重慶に至る日本軍の無差別爆撃の始まり

2009年02月27日 | 国際・政治
 1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議においてハーグ陸戦条約(陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約)は採択された。その第25条は「無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず」である。しかし、1935年10月、イタリアは戦闘機など持たないエチオピアを一方的に爆撃した。ジュネーブ議定書で禁止されている毒ガスも使ったという。
 1937年4月には、ドイツ空軍コンドル軍団が無防備都市ゲルニカの無差別爆撃を行った。それは、ピカソの大作「ゲルニカ」によって広く世界中に知られることとなった。ところが、それらより以前に、日本軍によって無差別爆撃は開始されていた。それは、錦州爆撃である。「戦略爆撃の思想 ゲルニカ-重慶-広島への軌跡」前田哲男(朝日新聞社)よりの抜粋である。
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             第1章 重慶爆撃への道(1931-37年)

   石原完爾の錦州爆撃

 真田紐で爆弾を吊して出撃

 ・・・
 関東軍独立飛行第10中隊を主力に実施された石原中佐立案になる錦州爆撃はこのような状況下、地上軍をもってはなし得ない敵行政府所在地に対する長距離機動を敢行して、張学良軍に衝撃を与えるとともに、強力な既成事実を東京の中央政府と軍中央に叩きつけ、事変不拡大を訓令する「軟弱外交」をも併せて爆砕する狙いを秘めていた。爆撃行は10月8日午後、八八式偵察機6機、中国軍から鹵獲したポテー25型軽爆撃機5機の11機編隊で行われ、石原参謀は旅客機に乗って編隊に同行、上空より爆撃の成果を逐一観察した。中国側に戦闘機は1機もなかったので、空から攻撃を受ける心配は無用であった。


 八八式偵察機には、爆弾照準器も爆弾懸吊装置も装備されておらず、攻撃隊は各機、瞬発信管つき25キロ爆弾4発ずつを真田紐で機外に吊し、目標上空に達すると目測によって紐を緩め、爆弾を投下した。この日錦州市街に投じられた爆弾は75発、威力はTNT1.8トン分であったと記録されている。やがて本格化する「戦政略爆撃」の規模から考えると、じつにささやかで泥縄式の出発と見ることもできるが、しかし中国側に恐慌を引き起こすという戦略目的と、東京政府の不拡大政策に対抗して「あとに退けぬ情勢」を強要する政略目的をもって判定するなら、真田紐から放たれた75発の25キロ爆弾は、寸分の狂いもなく目標に命中したというべきであろう。

 飛行隊は10月8日正午、奉天飛行場を離陸、午後1時40分錦州上空に達し、高度1300メートルのところから、張学良の軍政権所在地と推定された交通大学(市西北部)28師兵営(東部)などに爆弾を投下した。交通大学には張学良の東北辺防軍司令部がおかれていた。機上観測による爆撃効果は、交通大学に対しては命中弾10、兵営に向けた分は命中弾22を得たとされる。(戦史叢書「満州方面陸軍航空作戦」)。
 
 無照準投弾による当然の結果だとはいえ、日本側の判定によっても半分以上が目標を逸れて爆発した。錦州駅近くにも落下弾を生じ、死傷者をだした。中国人の初めて体験する都市への空襲であった。中国外交部は、日本軍機からの投弾と機銃掃射によって、ロシア人教授1人、兵士1人、市民14人の死者、20人以上が負傷と発表した。翌年現地入りした国際連盟派遣の調査団報告(リットン報告)の記述によると、爆弾の多くは市内至るところに落下し、病院や大学の建物にも命中したとされた。日本側のいう、爆撃区域は制限されていたという主張には疑問の余地があり、また兵営はともかく(軍政権)政庁の爆撃を正当化はできない──リットン報告は、無差別爆撃を示唆した。
・・・(以下略)


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ティモール島 日本軍占領の傷痕

2009年02月24日 | 国際・政治

 「戦争を語り継ぐ」というMLから「東ティモールの日本軍性奴隷制被害者に関する要請書」(あて先: mm3k-frsw@asahi-net.or.jp (東ティモール全国協議会/古沢)というメールが届いた。東ティモールといえば、当時中立国ポルトガルの領土であったが、日本軍が無断で占領したオーストラリアに近い南半球の島である。占領中も、また日本の敗戦後にもさまざまな悲劇が発生した。忘れてはならない島であると思う。「ナクロマ東ティモール民族独立小史」古沢希代子・松野明久(日本評論社)からの抜粋である。
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               第5章 日本と東ティモール
 日本軍占領時代
 
 1942年2月、日本軍は英連邦(オーストラリア)・オランダ領の駐留下にあるティモール島に上陸した。そして英蘭軍を圧倒して全島を支配下においたが、1年後には、連合軍(オーストラリア軍)の巻き返しによってティモール島の周辺の制海・制空権を失った。その結果、2万の兵士は、連合軍の空爆にさらされながらティモール島に閉じこめられた状態となった。


 ポルトガルは、日本軍の進駐をポルトガルの領土主権と中立を侵害するものとして、外交ルートを通じ日本に抗議したが、「ポルトガルの主権を尊重し、英蘭軍の掃討という進駐目的の達成後には撤退する」という日本側の説明に押し切られ、国交断絶にはいたらなかった。むしろ、東ティモール人のポルトガル政庁に対する反乱が頻繁したため、総督みずから日本軍にポルトガル人の保護を申し入れることになった。日本側は、①ポルトガル人は、日本軍が指定した一定の場所において治安回復のときまで集合自活生活をする(ただし、総督、市長は日本側との折衝のためディリに残留 ②英(濠)蘭軍との協力、利敵行為を今後絶対にしないこと ③ポルトガル側の武器弾薬が英(濠)蘭軍に利用されるのを防ぐため、自衛上の所要分を除き治安が回復するまで日本軍が保管する、という3条件の承諾を前提にその要望を受け入れた。

 このようにして終戦まで3年半日本軍の占領が続くなかで、東ティモールにはさまざまな傷痕が残された。ポルトガルやオーストラリアでは、日本軍占領時代に数千人のティモール人が殺され、さらに多くの人が飢えで死んだと伝えられている。近年、日本側からも占領の実態に関する証言が出はじめた。たとえば、バギアで軍用道路の建設と地区の警備を担当していた岩村正八は、軍の徴用した人々に食糧を与えず、自弁のトウモロコシの粉と水だけで重労働にたずさわる人々から餓死者が出たこと、自分たちの食糧や弾薬輸送用の馬は人々から強制的に供出したこと、同じ部隊の将校が「試し切り」と称して日本刀で捕虜の首を切ったこと、部隊の者がキサル島から女性を連行して「慰安所」を開設したりしたことを報告している。島東端の漁村からラウテンを経て、内陸部の高地アビスに進駐した揚田明夫もまた、強制労働と慰安所開設について語っている。

 「進駐してまず始めたことは飛行場や道路の建設、敵の上陸に対しての陣地の構築であった。現地の住民が動員され、作業には痛々しい老人から5,6才ぐらいの子どもまでが駆りだされた。……島の女たちは乏しい食糧のなかから、毎日のようにヤシの葉で編んだ袋に、畑で取れた果物や豆などを入れて背負い、軍の経理部へ納めていたが、代金は払うあてのない紙屑同然の軍票であった。……こうして最前線にも慰安所が開設された。キサル島から、『アビスで食堂の給仕をさせる』と偽って連れてこられた娘たちであった。敗戦直前、ティモール島から撤退する際、彼女たちは『こんな体になって恥ずかしくて島へは帰れない。ジャワでも日本でもどこでもよいから連れていってくれ』と泣いて懇願したという。」

 プアラカという石油の産地には、日本軍がティモール人を虐殺して埋めたという長方形の穴があると伝えられている。日本軍は異常な関心をこの地に払い、「石油情報を敵に渡した」という理由で多くのティモール人を殺した。

 生き残ったオーストラリア人兵士は、インディペンデント・カンパニーという抗日戦線を組織した。彼らに協力するティモール人およびポルトガル人は「抗日分子」として日本軍に追われ、逆に日本軍に協力したティモール人には、大戦後ポルトガル支配が復活すると、さまざまな制裁が加えられた。

 敗戦とともに日本軍は、連合国側、とりわけオーストラリアの介入を嫌うポルトガルの意向を尊重し、すみやかに武装解除をすませ、ポルトガルに行政権を移譲した。この結果、占領中ティモール人が多大な損害を被ったにもかかわらず、ポルトガルから日本へ賠償請求は行われなかった。

 外務省の幹部たちはインドネシアの東ティモール侵略問題に対して日本が原則的な態度がとれない言い訳として、「日本は大戦中アジア諸国にたいへんな迷惑をかけたので、それらの国の人権問題について大きな口をきく立場にない」ことをあげる。これらを解釈すると、「お互い都合の悪いことには口をださない」ということになるのだが、彼らは東ティモール人もまた日本軍占領の被害者であることをすっかり忘れている。


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関東軍チチハル出撃 嫩江鉄橋実力修理

2009年02月18日 | 国際・政治
 戦後60年の夏、東條由布子編・渡部昇一解説の「大東亜戦争の真実」という本がワックス(株)より出版された。東京裁判東條英機宣誓供述書が中心である。その中で東條元首相は「1941年(昭和16年)12月8日 に発生した戦争なるものは米国を欧州戦争に導入するための連合国側の徴発に原因しわが国の関する限りにおいては自衛戦として回避することを得ざりし戦争」と主張し、「東亜に重大なる 利害を有する国々(中国自身を含めて)がなぜ戦争を欲したかの理由は他にも多々存在します」と述べている。結論はすでによく知られているが、「断じて日本は侵略戦争をしたのではありません。自衛戦争をしたのであります」ということである。
「我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである」という田母神論文も同じような自衛戦争論である。もちろんそういう側面はあったかも知れないが、多くの日本人関係者の証言や資料基づく事実が、それを否定している。下記「嫩江(ノンコウ)鉄橋実力修理」もその一例である。

 満州において関東軍は、21ヵ条の条約等によって得た権益を土台に、いたるところで謀略により軍を進め、言い掛かりをつけて軍を進め、無理難題を押しつけて軍を進めた。チチハル占領もその典型的な事例の一つなのである。洮遼鎮守使の張海鵬を懐柔し、黒竜江省へ進出させ、黒竜江省軍が防衛目的で嫩江鉄橋を破壊するや、その権益保護を根拠に、不可能な期限を設けて復旧工事を強制し、出来ないと判明するや軍を伴って自ら鉄橋の実力修理を行い、ひとたびトラブルが発生すると主力部隊を急派し、追撃するのである。当時政府や陸軍中央部は不拡大方針を繰り返し伝え、臨参委命(参謀総長が天皇から受けた委任命令権を行使して出す命令)まで発しているが(資料1,2)、関東軍は、強硬に自らの方針を押し通すのである。「太平洋戦争への道 開戦外交史2 満州事変」日本国際政治学会 太平洋戦争原 因研究部編(朝日新聞社)より、関連部分の一部抜粋である。
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                第1編 満州事変の展開
                                          島田俊彦
 
第3章 関東軍チチハル出撃

1 嫩江鉄橋の破壊 

 北満進出の条件完備
 さきに関東軍はハルビン進出をはかって中央部から阻止された。しかしこんなことで関東軍が北満進出を断念するはずがなく、やがてなんらかの形で再挙をはかるであろうことは、およそ中央部一般の推測するところであった。はたして1931年11月をむかえ突然チチハル方面への進出となって、それは現実化された。


 この方面を指向する軍事行動の第1歩は、9月22日の一部部隊の鄭家屯進出であり、第2歩は、同24日の装甲列車の洮南前進であった。これと平行して関東軍は満鉄・洮南公所署長・河野正直、関東軍司令部付・前張学良顧問・今田新太郎大尉、予備役中尉・吉村宗吉らを通じて、洮遼鎮守使・張海鵬と連絡し、ひそかにその懐柔をはかった。その結果、張海鵬は10月1日辺境保安司令と称して、張学良と絶縁し、関東軍の後援下に北方を目ざして黒竜江省への進出をはかることになった。

 一方、当時北平にいた黒竜江省長・兼東北辺防軍副司令・万福麟は、10月7日黒竜江省主力をチチハルに集中するよう命令し、翌8日、黒河警備司令・歩兵第3族長・馬占山をその総指揮に任命して、黒竜江省を確保しようという態勢をしめした。これらの情勢について関東軍参謀長は参謀次長にたいし、10月8日次のような報告をした。
(関・第668号)。
 張ハ自ラ辺境保安司令ニ就任シ、屯墾軍ヲ懐柔シテ独立ヲ宣シ、種々の口実ヲ設ケテ黒竜江省ニ進入セントシツツアリ。マタ黒竜江省軍ハ張ノ進攻説ニオビヤカサレ、泰来、チチハルナドニ兵力ヲ集中中ニテ、馬占山コレガ指導ニ任ジアリ。


 張海鵬は10月15日早朝から北上をはじめた。しかし黒竜江省軍は泰来および江橋北方の鉄道橋(嫩江に架橋)を焼き払って、これに備えたので、張軍はたちまち北上不能に陥った。この黒竜江省軍による鉄橋破壊はいままで張海鵬軍の影武者として存在した関東軍を、一躍立役者にする絶好の機会となった。なぜなら、この鉄橋のかかっている洮昮線は日本の利権鉄道の一つであるばかりでなく、当時はまさに北満地方特産物の出回り時期であったので、鉄橋の破壊をそのままにしておくと、満鉄として約五百万円の損害となるので、関東軍はここに日本の権益保護という大義名分のもとに、兵力を用いて鉄道の復旧作業ができるからである。
 10月22日午後、参謀本部は関東軍司令官から次の電報を受取った。
(関参・第806号)

 21日洮昮沿線情況偵察ノタメ、洮南ヲ経テ、チチハル方向ニ向イシ我ガ飛行機ハ、江橋ニオイテ黒竜江軍ノタメ射撃セラレタルヲモッテ、敵陣地ニ対シ、数発ノ爆弾ヲ投下セリ。
 我ガ借款鉄道タル洮昮線ノ橋梁ヲ焼却シ、我ガ飛行機ニ挑戦セシナド、黒竜江軍ノ暴挙ニ対シテハ我ガ領事館ヲ通ジ、厳重抗議セシムルハズナリ。 


・・・以下略


 ソ連へのおもわく
 一方チチハルでは、10月19日付で新設のチチハル特務機関長に任ぜられた林義秀少佐が26日同地に着任し、翌日黒竜江省政府主席代理・馬占山(馬は11日張学良からこの地位を与えられた)に、次の要求書を提出した。
 在奉天関東軍司令官ハ、黒竜江省政府ニ対シ、速ヤカニ嫩江ノ橋梁ヲ修理スベキコトヲ要求ス
修理ノ期間ハコレヲ1週間トシ、ソノ第1日ヲ昭和6年10月28日第7日ヲ11月3日トス。
 コノ期間ニオイテ黒竜江省政府ガ工事ニ着手セザルカ、モシクハ着手スルモ同期日マデニ未完成ノトキハ、以後ハ日本側ニオイテコレヲ修理スベシ。シカルトキハ情況ニヨリ、工事援護ノタメ実力ノ発動ヲミルコトアルベシ。

 この要求はまったく林少佐のいいがかりにすぎなかった。林少佐は満鉄がこれを修理するとしても約2週間を必要とすることを承知していたのだが、「関東軍ガナンラカノ名目ヲモッテ日本軍ヲ黒竜江省内ニ進ムルノ機会ヲ発見セントツトメアルヲ承知シアリシト、黒竜江省側ノ不誠意ナル場合、結氷前ニ満鉄ヲシテ修理ヲ完了セシムルヲ要セシト、カツ事ヲ遷延スルハ支那一流ノ宣伝ニ乗ゼラレ、不測ノ禍ヲ受クベキコトアルヲ顧慮」して、ことさら1週間の期限しかつけなかった。

・・・以下略


 鉄橋の実力修理
 ・・・
 ……こうして11月1日、歩兵第16連隊長の指揮する嫩江支隊主力は、長春および吉林を出発して、翌2日夜、泰来付近に兵力を集め、一方、この日軍司令官は馬占山と張海鵬に、満鉄の行なおうとする鉄橋修理につき次のように通告した。
 1、以後嫩江橋梁ヲ戦術的ニ利用スルヲ許サズ
 2、11月4日正午マデニ両軍ハ橋梁ヨリ10キロメートル以外ノ地ニ撤退シ、修理
   完成マデ10キロメートル以内ノ地ニ入ルヲ許サズ。修理完成ノ期日ハ見込ミ
   ツキシダイ通告ス。
   右要求ニ応ゼザル者ニ対シテハ、日本軍ニ敵意アルモノト認メ、適法ノ武力
   ヲ行使ス。右警告ス。

資料 ------------------------------- 1 参謀総長から関東軍司令官へ第108号電
 関参・915電ミタ。鉄橋修理援護ノタメ電報報告ノ兵力使用ハ本職ニオイテ同意ス。シカレドモ、前電105ノ主旨ニノットリ、右目的達成後ハ速ヤカニコレヲ撤退セシムベシ。要スルニ内外ノ大局ニカンガミ、
嫩江ヲ越エテ遠ク部隊ヲ北進セシムルハ、イカナル理由ヲ以テスルモ、断ジテ許サレザルモノトス。 

2 関東軍司令官へ臨参委命・第1号(第120号電)
 1、現下ニオケル内外ノ大局ニカンガミ、
北満ニタイシスル積極的作戦行動ハ、当分コレヲ実施セザル方針ナリ。
 2、嫩江橋梁補修援護部隊ハ、最小限度ニソノ任務ヲ達成スルタメ、ソノ行動ハ大興駅付近ヲ通ズル線ヲ占領スルニトドムベシ。

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1931年11月 5日嫩江支隊と黒竜江省軍大興付近で戦闘開始
          6日黒竜江省軍を撃退し大興付近占領架橋援護開始
         19日第2師団チチハル占領

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謀略 日本軍の手による排日運動で派兵

2009年02月16日 | 国際・政治
 計画的であったが故に、柳条湖事件(1931年9月18日夜10時半頃勃発)の翌日には、関東軍は奉天、長春を占領し、21日には吉林をも占領した。また、間島やハルビン、チチハルにも進出をはかった。それらはほとんど満州占有を目指す日本側の謀略と言掛りで進められた。ハルビン出兵に関し、繰り返し不拡大方針を指示する政府や陸軍中央部に対する関東軍板垣征四郎参謀の電報の内容は、好戦的な関東軍の姿勢を如実に示している。いったんは阻止されたが、翌1932年2月5日関東軍第2師団はハルビンを占領した。「太平洋戦争への道 開戦外交史2 満州事変」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)からの抜粋である。
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                第1編 満州事変の展開
                                        島田俊彦

 第2章 間島・ハルビン出兵中止

1 作られた危機

 お手製の排日運動
 北満のハルビンでは、9・18事件発生後も、中国側の警戒が厳重であったため、しばらく平静が保たれていた。しかし9月20日の夜になって、中国人街で激越な内容の排日伝単がまかれるようになり、さらに翌21日夜には、日本総領事館、朝鮮銀行、日本人経営の哈爾賓日々新聞社などに爆弾が投ぜられ、急に不安と緊張の空気がハルビンをおおった。
 ところで、
これらの排日運動の一切は、ハルビン特務機関長・百武晴吉中佐を中心に、かつての大杉栄・暗殺事件の下手人、元憲兵大尉・甘粕正彦や予備役中尉・吉村宗吉らの手による謀略であった。お手製の排日暴動の中に出兵理由を求めるという、出先陸軍の常用手段が、ここでも例にもれず採用されたのである。

 そして、こうして製造された不安と緊張は、関東軍によって、ハルビンは「北満唯一我ガ経済的根拠地ニシテ、シカモ我ガ満鉄ノ培養地タル、ハルビンヲ失ワンカ、強硬ナル政府ナラ別問題ナルモ、軟弱極マリナキ現政府ヲ以テセバ、アルイハ将来ツイニ一挙ニ既得ノ我ガ利権ヲモ覆滅セラルベキヲオソレ、マタ4千ノ同胞ガ営々トシテ築キタル努力モ水泡ニ帰ス」という出兵理由に利用された。

 しかも、ハルビンでは大橋忠一・総領事がまったく軍側の同調者・協力者の立場に立ち、製造されたハルビンの不安を理由に、しきりに中央部にたいして出兵を求めた。その点でハルビンは、なにかにつけて出先の軍・外務の両官憲が対立した奉天、吉林、チチハルなどの場合とは、まったく反対の情勢であった。たとえば21日に、大橋総領事が奉天の林久治郎・総領事あてに発した稟請電の内容は次のとおりであった。(第199号電)
 ……万一当地ニオイテ事件発生ヲ見ルニオイテハ、ワガ居留民ハ自衛力ナキヲモッテ、全滅ノ危機ニアルニツキ、今シバラク情勢ノ推移ヲ見タル上、必要ノ場合ニハ軍隊ノ派遣方ヲ申請スルコトアルベキニツキ、右、オ含ミ置キノ上、シカルベク御準備アリタシ 右、軍司令官ニモ御伝達アイナリタシ。

 ハルビンが北鉄(東支鉄道)に関する権益に関連して、帝政ロシアの満州における重要な根拠地であったことはいうまでもない。その事情は、ロシア革命とともにかなり変化したものの、関東軍が同地に進出するならば、当然、対ソ関係を度外視することは許されない。
……

 ・・・

 陸軍中央部が不拡大方針(情勢判断・第1段階)採用と関連して、ハルビン出兵阻止をあえてしたのは、当時の日本の支配層、すなわち陸軍と財界の一部を除く天皇、重臣、政府、政党(ことに民政党)、そして海軍に対する関係からであった。

・・・

 一方20日に東京から陸軍省兵務課長・安藤利吉大佐が飛行機で奉天に飛び、事件を現在以上に拡大しないという陸相の意図を関東軍に伝えた。
 このような中央部の動向にたいし、関東軍は板垣参謀の名で、20日、陸軍省軍事課長・永田鉄山大佐へ

 イタズラニ消極的宣伝戦ニ没頭スルコトナク、千載一遇ノ好機に乗ジ、敢然トシテ満蒙問題解決ニ邁進スルヲ要ス。少ナクモ満蒙ノ天地ニ新国家ヲ建設シエバ、区々タル悪宣伝ノゴトキ毫末モオソルルニタラズ。
 と打電すると同時に、軍司令官も中央部に左記を打電した。
 参謀総長・第39号電オヨビ次長・第42号電敬承。小官モオオムネ同意ナルモ、ハルビン、吉林方面不安ニ陥リ、スデニ、ハルビン総領事ヨリ出兵ノ要アルコトヲ稟請セル由ニテ、軍ハ応急ノ変ニ違算ナカランコトヲツトメアリ。貴方ニ於テモ小官ノ苦衷ヲ了トセラレ、賢察モッテ適宜ノ処置ヲ講ゼラレンコトヲ切望ス。



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満蒙懸案解決交渉 山本・張協定(密約)

2009年02月08日 | 国際・政治
 田母神氏に講演依頼が殺到しているという。彼にはぜひ歴史の事実を無視したり歪めたりしないで、自説を語ってほしいものだと思う。繰り返してはならに理不尽なことが、過去の大戦ではいろいろあった筈である。下記に抜粋するものも、その一つであると思う。すでに、「太平洋戦争への道 開戦外交史1 満州事変前夜」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)第1巻付録「町野武馬(張作霖顧問)談」から、山本・張作霖協定ともよばれる密約の同意に至る生々しい証言の一部を抜粋した。ここでは、その本文の中から密約の内容の一部と同意に至る裏取り引きの部分を抜粋する。排日運動が高揚する中で、無理矢理同意させたものであることが分かると思う。
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               第3編 満州事変前史
                                関 寛治
(東京大学名誉教授)
二 満蒙懸案解決交渉と山本・張協定

 山本・張作霖密約


 田中内閣の成立直後、田中は、張作霖顧問・町野武馬に対して満蒙鉄道問題を解決したいからと協力を依頼した。町野は「絶対できない。もしやれば張作霖に対する内乱になる」と述べたが、田中がさらに「できなければ兵力を用いなければならぬ」と語を継いだため、町野も「仕方がなければやるが、動乱を覚悟しなければならないから総理みずからが責任をもって張作霖に談判に行くべきだ」と答えた。結局山本条太郎・政友会幹事長が満鉄社長に任ぜられて、副社長松岡洋右とともに田中に代わって張作霖と直接交渉を行うことになった。

 山本は、田中と合意のうえで8月12日、外相官邸を訪問し折から田中と会談中の出淵次官に向かって、満蒙に関する外交問題に満鉄社長を参与させることを要求したが、出淵はすでに芳沢公使に交渉させている、とだけ答えた。

 張作霖が排日運動に責任のあった莫奉天省長を劉尚清に代えて、田中首相の面子を保持させた5日後の10月8日に山本は大連の満鉄本社から北京に向かった。町野や江藤豊二による事前の対張作霖および対楊宇霆交渉からえられた情報にもとづいて、山本独特の鉄道交渉が開始された。10月10日、11日の張作霖との劇的な交渉で、山本は張からの同意をえた。山本は新聞記者に向かっては、「交渉は芳沢公使においてなされている」と、カムフラージュを行ないいながら反対者を買収するために約500万円を張作霖に送った。15日になって、山本・張作霖協定ともよばれる密約がようやく成立したが、この密約は敦化(とんか)──老道溝(ろうどうこう)───図們江江岸線、長春───大賚線(だいらい)、吉林──五常線 洮南(とうなん)──索倫線(そろん)、延吉──海林線の満蒙五鉄道の建設を満鉄が請負い、その代金を借款とするという趣旨のものであった。この五鉄道はどれも日露戦争の日中関係の展開のなかに、その歴史的起源をもつ鉄道であった。その反面、打通線の通遼以北延長の禁止、開通──扶余線(ふよ)の建設禁止も密約のなかにふくまれていた。山本は、また、日満経済同盟と攻守同盟とを提案して交換公文を成立させた。
・・・(以下略)

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張作霖と楊宇霆 借款鉄道の調印

2009年02月05日 | 国際・政治
 「太平洋戦争への道 開戦外交史1 満州事変前夜」日本国際政治学会 太平洋戦争原因研究部編(朝日新聞社)の第1巻付録に町野武馬(張作霖顧問)談として、借款鉄道の調印に至る生々しい証言が取り上げられていた。満州における日本の役人や軍人の振る舞いは、張作霖の側近、楊宇霆(ヨウウテイ・日本の陸軍士官学校出)をして「満州で日本の役人や軍人がやり出していることは、高利貸や野盗のような振舞いである」と言わしめたが、条約の内容は、それ以上に屈辱的なものであったことが窺われる。「苦労した借款鉄道の調印」の部分を抜粋する。
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                 張作霖という男
                                        町野武馬(談)
 苦労した借款鉄道の調印

 昭和2年、田中義一が総理大臣になったときに、俺に頼みがある、
満州は日本の生命線だ、張作霖に借款鉄道を申し入れて、彼に名をあたえて、日本が実をとる。ぜひ、これを張作霖に承知させてくれというんだ。俺は即座に断ったよ。いま、そんなことしたら、張作霖が失脚してしまう。全支18省のうち、現在南の4省を残して14省を握っている。あと2年待ってくれ、そうしたら望みどおりにしてみせる。といったら、田中総理が、それでは日本陸軍の内部がおさまらん、借款鉄道がすぐできんのなら、兵力をもって、満州を占領するといってきかんのだ。
 
 そんなことをしたら、日本は亡びると俺はいったよ。ちょうど、銀座街頭で、しずしずと歩いている美女に暴力を加えるようなもんだ。その暴漢は、すぐクリカラモンモンに組み伏せられる。そして、これを見た良民たちもクリカラモンモンに加勢して、その男を、さんざんな目にあわすだろう。日本を敵とする国も、日本に味方する国も、世界中がみんな敵にまわり、日本は亡びてしまうぞといったんだ。ところが、田中総理が、いや、もう待っておれんのだ。それがダメなら、満州を武力占領するといって、引き下がらん。

 日本のためとあれば、やむをえん、張作霖にかけあおうと答えた。そうして、山本条太郎がまもなく満鉄総裁になって、やって来た。田中も、山本も、返事はまだかまだかと、矢の催促だ。俺も弱ったな。とうとう、あすは山本が北京に来て、張大元帥に拝謁を乞うという事態になった。

 俺は進退きわまって、夜半の12時に、江藤豊二をつれて宮中にまかり出た。江藤は満鉄の社員で山本の子分だ。シナ語がうまい。張大元帥と俺との通訳は、いつもは実業大臣するんだが、今夜は秘密が洩れてはいかんというので江藤をつれていった。

 山本が来るのは、この要件ですと、借款鉄道の条約案をみせた。張作霖はそれを見ると、顔色を変えて、こんなものが呑めるかといって、いきなり、条約案の紙を投げすてて、すたすた寝所の方へ歩き出した。俺は、待ってくれといって、張作霖の肩をつかまえて、「あすは、お別れか」といった。

 生死を共にしようと誓った俺が、「お別れか」というのは、これは重大な意味がこもっているんだ。張作霖は黙って寝所へ入っていった。それから、江藤と俺と、長い廊下を渡って、玄関から門へ歩いていった。途中は、池あり、山あり、野あり、門まで2キロもあるんだ。ところどころに、衛兵が立っている。この道中は、幾度も幾度も血が流れたところだ。清朝時代には、何十人という高官の命がここで失われている。江藤は、山本親分に会わす顔がないといって、しょんぼりしている。あの晩の道は長かったな。

 そうして謁見の朝を迎えた。山本は朝9時に北京駅に着いて、旅装を解き、約束の10時、宮中の謁見の間はいった。ところが、張大元帥が出て来ない。10時半になっても出て来ない。11時なっても、来なかったら、俺は心ひそかに決するところがあった。ちょうど、11時、張作霖は頭に白い布をかぶって入って来た。「大元帥は発熱中」と俺は山本の耳にささやいた

 張作霖は人を迎えるときは、大声で「待ってました」と相手の手をにぎって大きく振る人だ。それが、まるで、ゆうれいのように、声も小さく、ひっこめるような恰好で山本の手を握った。山本は大柄で、これが仁王様のように突っ立って、大元帥の手を大きく振りおった。そして、「大元帥、これで喧嘩のしおさめをしましょう」といって、条約書をさし出した。

 ところが通訳の江藤が、2分たっても、5分たっても通訳をしおらん。「江藤ッ!」山本さんの言葉をよく伝えろ」とうながしたが、たった2秒かそこらの日本語を10分以上も考えてから、シナ語で張作霖に話した。俺はどうなることかと、見守っていたら、「楊宇霆をして良きに取り計らわせい」と吐き捨てるようにして座を立った。

 そこで、別室で会談がはじまった。楊宇霆は、日本の陸軍士官学校を卒業して軍人になった。これも稀に見る偉才で、頭の切れる男だ。山本から条約案を見せられて、「私は常々、日本の恩誼を感じているし、いつかは、これに酬いたいと思っていた。ところが最近、満州で日本の役人や軍人がやり出していることは、高利貸や野盗のような振舞いであるしかし、これは小役人だからと気にもかけなかったが、今日、日本政府の要求を見て、私も日本に対する考えが、ただいま、しっかり変わりました」と悲憤慷慨するんだ。そしてら、山本が、即座に「同感」と声を張り上げた。楊宇霆が目を丸くして、気を呑まれたようだった。

 それえから、山本が借款鉄道は日本に莫大な利益をもたらし、これによって満州の物資が日本に入ってくるが、8千万人に満たない人口では、到底消化できるものではない。これをアメリカに送り、また大連、営口から南シナに送らざるをえない。そうなれば、南シナの飢饉は昔話になるというようなことを説いて、とうとう調印にこぎつけた。
 
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換え たり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。 

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停戦 軍命に抗す参謀長

2009年02月01日 | 国際・政治
 「戦争を語り継ぐ」というML(http://www.freeml.com/no_more_war)で、池田幸一さんが「軍隊や軍人があるから戦争は絶えない」と主張されています。最近、私はいろいろな場面や文章で、この主張に共感させらているのですが、下記の文章もその一つです。「満州国と関東軍」(新人物往来社)からの抜粋です。
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               8月15日の関東軍首脳たち
                        草地貞吾(元関東軍作戦班長・陸軍大佐)
藤田参謀長 軍命に抗す

 昭和20年8月16日の深夜であった。南満の通化にいた第125師団参謀長の藤田実彦大佐から私宛に電話がかかってきた。大佐は私より5年の先輩である。ボックスに入って受話器を取ったら少しすわがれたような怒声で前置きも何もなく、きわめて単刀直入に、
「草地君、ワシの師団は関東軍命令はきかないからなあ……」
 ときた。この唐突の電話に私は面食らったが、文句を考える暇もなく、
「つよっと待ってください。軍命令をきかない結果がどうなるかお考えですか。昨日の玉音放送を思い起こして下さい」
 と、声をはずませてやり返した。だが、返ってきた言葉は、
「分かっているよ……なんぼなんでも、停戦や武装解除ができるもんか……師団は玉砕するまでやるだけだ……」
 とものすごい鼻息である。
「それはいけません。日本全部が武器を捨てて、全関東軍が停戦するのに、あなたの師団だけで何ができましょう。また、できたところで何にもなりません。耐え難きを耐えるのです。大綱の順逆とはここのところです……」
 と思わず私の声ももつれた。この言葉のとぎれを横取りにして大声一番、

「なにッ、いらぬ説法するなぁッ、オレは停戦のために軍人になったのではないッ……」
 私もついに激高した。
「なんだと…軍命令を聞かないとは…スグにも逮捕令を出しますぞ。聞かねば聞かないと、もう一度明言しなさい。あなたがいなくても、第125師団には今利中将という立派な師団長がおられる」
 と、一撃をくらわした。
 すると藤田参謀長の声もだいぶ静まった。そのあと、あれこれ2,3の応酬をしたが、結局、
「では、作戦に関して、こういう関東軍命令があった、ということだけは師団全部に伝えることにしよう」
 とまで折れてきた。私もやれやれと一安心し、まずこの分なら師団長やその他の幕僚もいることだし、大抵は大丈夫だろうと思い、

「そうですか、よく考え直してくださいました。どうか、師団長閣下ともお喋りになって、善処方お願いいたします」と言って電話を切った。
 すぐ電話ボックスを出るにしては、私の眼からは、あまりにも不覚の涙が溢れていた。自然に大声をたてた電話のやり取りは、ボックスの外にもひびき渡ったことだろう。きまりわるそうに出た私の顔を二,三の参謀は、”どうしたのですか”と、言わぬばかりに見つめていた。

 私はだまって椅子に腰をおろし、手を拱いた。藤田大佐の気持ちも分からぬではない。
 私自身にしたところで、全く思いも設けぬ停戦処理に奔走したり、武装解除命令を起案伝達するために永い年月を勉強したのではなかった。しかし、それでは個人は立つかもしれないが、全体が立たない。自分だけの気持ちはすむかもしれないが、関東軍や日本全体を危なくする。
 皇威を発揚し、国家を保護すべき軍隊が、その武を一すべき終局の大命の存在を、改めて私が確認したのはこのときであった。その点、藤田参謀長は私の恩人とも言えようか。

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「オレは停戦のために軍人になったのではない」の言葉は、池田さんの主張の正しさを裏付けるものであると思いす。軍人は戦争が仕事であり、田母神氏のような人間の出現も、そういう組織があるかぎり、それほど不思議なことではないだろうと思うようになりました。

 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。

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