真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

戦争に関わる歴史の真実は・・・ http://hide20.web.fc2.com に記事にリンクの一覧表


田久保忠衛の竹島論(竹島領有権問題22)

2010年04月13日 | 国際・政治

 「日本の領土 そもそも国家とは何か」田久保忠衛(PHP研究所)は、著者略歴に「法学博士」とあり、時事通信ワシントン支局長や外信部長、編集局次長を経て杏林大学社会科学部教授となり、92年から学部長、と紹介されていたので、何か得るものがあるのではないかと思って読んだ。しかしながら、その内容は竹島領有権問題に関しては、日本側主張の単なる繰り返しであり、結論的には「砲艦外交」にも通じる「気構え必要論」といえるようなものであった。その「まえがき」の一部と竹島問題の一部を抜粋するが、法学博士でありながら、公平な法に基づく問題解決や世界的に受け入れられる法に基づく秩序を志向されていないことが察せられると思う。

 ただし、竹島問題を国際司法裁判所(ICJ)に持ち込もうとする日本側の提案を受け入れない韓国側の姿勢の問題は、すでに
「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」から抜粋したように、国際司法裁判所(ICJ)が、かつての列強諸国の植民地主義的領有を認める判例に基づき判断する可能性が大きいからであって、真に公平な裁判を避けようとしているからではないことをふまえておかなければならないと思う。<…端的にいって、現存の世界に大国のご都合に左右されない「確立された権威」ある国際法慣行などというものはない。帝国主義世界分割の時代に形成された古い国際法体系と新興国の国際法変革の構想とが鋭く対立しているのが現実である。日本が国際調停を強調することは、それだけ既存の帝国主義的国際法を絶対化して楯にとろうとすることを意味し…>というようなことを、理解しておかなければならないと思うのである。日本が、北方領土問題を国際司法裁判所に持ち込もうとはしていない理由もそこにあるのではないかと思う。したがって、国際司法裁判所に提訴することを受け入れない韓国を、あたかも不法国家のような言い方をして攻撃する人たちがいることは、とても残念であり、悲しむべきことであると思う。
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 まえがき

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 欲求不満の対象は2つある。関係諸国のあまりの傲慢無礼、執拗、冷淡など、腹に据えかねる思いをさせる態度である。それに、日本政府のはっきりいって生ぬるいとしか考えられない対応である。
 性格は異なるが、沖縄問題もこれに加えないわけにはいかない。大田前沖縄県知事時代の那覇と東京との関係も、領土問題をめぐる外国との紛争に共通する面があった。大田氏の本土政府に対する強烈な要求と、東京側の過度の低姿勢だ。本土側には沖縄の歴史に対する無知がある。少々沖縄の事情を知り始めると、行き過ぎと思われるほどの「かわいそうだ」という同情論が飛び出す。大人同士の交渉にならないのだ。

 沖縄以外の領土問題には、戦後の日本の異常さがつきまとっていると思う。国家とは何か、主権とは何か、の理解が固まっていないのである。国家は支配階級が被支配階級を搾取する機関だから「悪」だ、というマルクス主義的な考え方を無意識のうちに持っている人々がいるせいか、国民は心の中で欲求不満を募らせながら、それが素直に公然と表現できないでいるように観察される。国家とは何かが念頭にない人たちには、サッチャー元英首相がフォークランドに英国の大艦隊を派遣し、「フォークランドの人々よりも重要な国家としての名誉を守るため」に戦うと述べた意味がわからないのではないだろうか。
 いくらボーダーレス時代になったとはいえ、サッチャーの気構えがなければ領土問題を国際司法裁判所に持ち込むキッカケもつくれないと思う。だから、日本が戦後やってきた「平和主義」とやらに基づいて口だけで抗議し、こちらに非があるときは(ときには非がないにもかかわらず)、ひたすら謝罪する以外に方法があるまい。欲求不満をじっとこらえる以外の選択は存在しないのである。

 領土が外国の手によって浸食され、かすめ取られていくのは目に見えている。恐ろしいのは、自主独立の精神の浸食と崩壊が同時に進行することである。これでは日本に明日はない。以上のような問題意識でまとめた次第である。

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                    竹島問題

竹島問題に解決の道はあるのか

「弱い国家はいじめられる」という原則

 かつて米国大統領セオドア・ルーズベルトは、「棍棒片手に猫なで声の交渉を」といった。21世紀を目前にして、おおっぴらに「砲艦外交」を口にし、実施する国は少なくなったが、竹島の領有権をめぐる韓国側の反応には棍棒が見え隠れするようだ。

 韓国世論も「独島はわが領土!」などの新聞見出しは地味な方で、「日本の巡視艦現る!警備隊緊張!」などと、あたかも戦争突入寸前のようなおどろおどろしい記事が出る。日本の国旗を平気で踏みにじり、燃やし、池田外相に似せた人形を蹴倒し、火あぶりにしているのを多くの韓国市民が盛大な拍手で雀躍している様子をテレビで見た日本人は少なくない。日本の一般市民の心の中に嫌悪感を静かに、しかも着実に蓄積していくような運動が一時期つづいた。これらに対して、気の強いことで知られた橋本首相であったが、竹島の領有権は日本にあると当たり前のコメントをしたうえで、「友情をもって話し合いをつづけることが第一だ」と繰り返すだけであった。

 中国の徐敦信駐日大使は、「中国人民は苦しい歴史の中から、自分の国が弱ければいじめられるという教訓を得た」と語ったことがある。19世紀的な砲艦外交がまかり通る中で、日本は世界に類を見ない丸腰の商人国家の道を選んだ。砲艦の代わりになる切り札は金銭以外に何があるのか。国際社会でいじめを受け、泣きつく先が米国で、その米国もいじめる側に身を置き始めているとしか考えられない例があるのは、すでに紹介したとおりだ。いつまでも「棚上げ」や「先送り」ではすまされまい。


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竹島問題と国際司法裁判所-ICJ (竹島領有権問題21)

2010年04月09日 | 国際・政治
 1977年2月、時の福田首相が「竹島は一点の疑いもなき日本固有領土」という発言をした時、それがきっかけで、一時日韓関係に緊張があった。その竹島=独島問題について、日本は国際裁判で解決しようというのに対して、韓国はこれに反対しているという。したがって、それを知った多くの日本人が、竹島=独島問題を国際裁判により平和的に解決しよう、という日本の提案を受け入れようとしない韓国は、法的に自信がない証拠ではないか、と単純に思い込み、”竹島は国際法上も日本固有の領土”という思いを一層深くしている側面があるように思う。しかしながら、国際裁判による紛争の解決は、それほど単純ではないようである。北方領土は、現在ロシアが占有しており、日本が領有権を主張して返還を求めているが、日本は積極的に国際裁判により解決しようとはしていない。むしろ、ロシアが積極的で、日本はロシアの提案を拒否し直接交渉で解決しようとしている、といわれている。国際司法裁判所(ICJ)にもいろいろ問題があるようである。「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)から、国際機関の調停問題の部分を抜粋する。
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                 Ⅳ 日本人と朝鮮

 国際法とは何か?

 ところで、日本では一般に「権威ある国際機関の調停」にも応じようとしない韓国の態度は、不可解・横暴としか受け取られていない。「本当に自信があるならば堂々と裁判をうけたら良いではないか」と。だが、果たしてどうなのか?これに対する韓国側のたてまえは、本来「紛争」ですらなく、韓国固有領土なのだからそうする必要はないということである。だがそれだけではない。自信がないというのではなく現存の国際司法機関への根底的な不信が横たわっていると見るべきである。


 端的にいって、現存の世界に大国のご都合に左右されない「確立された権威」ある国際法慣行などというものはない。帝国主義世界分割の時代に形成された古い国際法体系と新興国の国際法変革の構想とが鋭く対立しているのが現実である。日本が国際調停を強調することは、それだけ既存の帝国主義的国際法を絶対化して楯にとろうとすることを意味し、いきおい意外にも韓国側は変革の論理に基礎をおくことになっているという配置を、我々は認識しておく必要がある。

 そもそも国際法の領域には国内法における憲法等のような成文法体系があるわけではない。あるのは、グロチウス以来主に帝国主義国の学者が構築してきた論理の体系と国際司法機関が残した判例だけで、それも比較的安直にほごにされてきた。現在 UNCTAD 等で作られつつある新国際秩序に関する文書等も、国際司法機関を直接拘束するものではない。国際司法機関の最初のものは、第1次大戦後に設けられた常設国際司法裁判所(PCIJ)であるが、それは帝国主義国同士の領土のぶんどりあいを一々戦争で解決するのは大変だからある程度のルールを作ろうというような感じで生まれたものである。第2次大戦後はその任務が現存の国際司法裁判所(ICJ、在ハーグ)にひきつがれたといえよう。こういうものだから当然PCIJ も ICJ も主権国家に対してたいした権威は持っていない。紛争があっても、これを提訴するかしなかは主権国家の自由であり、また紛争の双方国が提訴に合意してはじめて裁判がはじめられることになっている。従来も、一方の国が提訴しようとしても他方が応じなかった例はいくらでもある。また、たとえば判決がくだされ、それが実行されないばあいでも、ICJには何ら強制力はないから、それなりの非難や報復を覚悟すれば、判決に従わなくても自由ということになる。なお、従来もいまも国際司法裁判所の裁判官はそのほとんどが白人であり、それも「先進国」に属する人であった。かくして、従来、PCIJ ICJ が扱ってきたのは、帝国主義国相互間のそれも比較的些細な事件に限られ、アジアでの事件が扱われた例はほんのわずかである。逆に、インドが提訴などせずにゴアを直接接収した行為は、既存の国際法に従うならこれを肯定しうる論拠はどこにもないが、反植民地主義の直接行動として新興国からは広く支持された。

 ところで、もし竹島=独島問題を ICJ に提訴した場合、1905年の日本編入の評価が大きな争点になろうが、歴史的経過よりも実効的占有ということを重視する現在のICJ が、かりに歴史的事実はすべて韓国の主張どおりと認めたとしても、これを帝国主義的侵略と認めるか実効的占有の手続きとして形式的に手落ちがないと判定するかは、客観的にみて微妙である。帝国主義的侵略という概念には今のICJ はあまりなじんでいない。竹島=独島事件とよく似ているといわれるものに、1953年に判決された英・仏間の「マンギエ並びにエクレホ群島事件」というのがある。マンギエ並びにエクレホ群島というのはフランスのノルマンディ半島のすぐ沖合にある岩礁群で古くはノルマン族の支配下にあったが、13世紀の英仏間の条約で、もとのノルマンディ公の所領はすべてフランスに権利が移ることが規定された時、この島の名は明示されなかった。フランス側は当然フランス領と考えつつ、何の行政措置もとらずにいる間に、19世紀にいたり、その漁業的価値を認めたイギリス人が利用しはじめ、イギリスが種々の行政措置を講じてきた。ICJ は、フランスの歴史的正当性の主張よりも、イギリスの詳細な19世紀以来の実効的占有の例証を重視し、フランスがこれに何ら抗議しなかったことを領有権の放棄とみなしてイギリスを勝訴させたのである。もちろん、竹島=独島問題は、問題となる期間の長さや帝国主義侵略途上の事件である点で、この事件とは大きく異なっているが、もし裁判官にこの差異を見分ける感覚がなければ、マンギエ・エクレホのこの判例に従って、朝鮮人が領有権の維持をおこたったことにされてしないかねないのである。

 ICJ が扱った唯一のアジアの事件であるタイと旧カンボジアの間のブレ・ヴィヘル寺院事件は、いわば乱暴なアジア人蔑視の判例といえる。1904年にタイ王国が当時の仏領インドシナと国境確定条約を結んだ時、条約文上は分水嶺のタイ側にあるこの寺院はタイ領となったが、タイ王の委任で付図を作成したフランス軍人が、故意か偶然か、カンボジア領に入れておいたことから、後に紛争が起こった。ICJはタイ王がこの付図の訂正を申し出なかったうえ、後に自らリプリントして配ったりしていることを、タイ側が付図を黙認したものととらえ、カンボジア勝訴の判決をくだした。タイ側にすれば、条約文に正しく記載されているのだから問題ではないし、些細な誤りを別にすれば便利な地図だからというつもりで配布したのかもしれないが、いわば、自ら地図の誤りを訂正する能力もなくぼんやりしている国は罰を受けても当然というのが、ICJ の見解だったのである。条約正文より付図の方を重視した点は、従来の判例のつみかさねを一挙にひっくりかえしたものであった。

 アジア的感覚からみればこういうことはどこかおかしい。この点、一個人の見解であるが、李漢基氏が ICJ の帝国主義的性格を批判しつつ、「アジア地域国際司法裁判所」(ICJA)」というような機関が生まれるなら、韓国も安心して独島問題をここに付託することができようと論じているのは、注目される。韓国・朝鮮側はやみくもに横車を押すことを望んでいるわけではない。韓国政府についていえば、第3世界の側に立ちきれず、一方では欧米的感覚に受け入れられやすい「実効的占有」の形を作ることに専念しているものといえよう。


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「竹島の帰属意識」梶村秀樹(竹島領有権問題20)

2010年04月07日 | 国際・政治
 日露戦争最中の1905年(明治38年)1月28日、海軍大臣など11名参加の閣議で竹島の領土編入が決定された。その際、「…… 無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク、……」と、無主地の先占取得を根拠とした。しかし、その時すでに韓国は鬱陵島の空島政策を廃し、1900年10月25日に勅令第41号を発して、その第2条で、「郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄すること」と規定していた。韓国はこの石島を現竹島=独島であると主張している。だとすれば、日本の無主地先占取得による竹島の島根県編入は成立しない。また、「実効的経営」の面でも、竹島=独島に関しては、ほとんどその事実がないとのことである。「梶村秀樹 著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)からの抜粋である。
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                 Ⅳ 日本人と朝鮮人

 竹島=独島の帰属についての意識

 以上のように、前近代における竹島独島の「実効的経営」の実態は、日朝両国とも、それを継続的なものと主張するほどのものではなかった。その利用の程度は時期によってむらがあり、17世紀を中心とする時期には確かに日本側の方が高かったとみられるが、それは「竹島経営」と関連する一時的な性格のことがらであった。この絶海中の無人島は、基本的には、アシカの天国たるにとどまり続けていたのである。しかし、その存在自体は、少なくとも17世紀からは、日朝双方に明確に認知されていた。では、当時の人々はこの無人島が両国のいずれに帰属すると意識していたのか?


 まず、朝鮮側には、安龍福の件についての『粛宗実録』(スクジョンシルロク)、の記述のように明白に朝鮮に属するというものがあり、「いうまでもなく鬱陵島と一体」とみるのが通念であった。少なくとも積極的に朝鮮に属することを否定する文献は全くない。一方、日本側には、日本に属するとみなす文献と、朝鮮に属する、ないし少なくとも日本固有の領土とは異なるとする文献とが並存するが、前者はむしろ少なく断片的であり、後者になかり近いところに通念があったとみられる。

 例えば、北园通菴編『竹島図説』(18世紀なかばのもの)における「隠岐国松島」という表現は確かに前者といえよう。しかし、日本側では前者の例証としている文献の中には、すなおにはそう読めないものがある。前掲『隠州視聴合記』の表現は韓国側の指摘のように、隠州を日本の境域の限界とのべたものと解すべきであろう。また、矢田高当『長生竹島記』(1801年)の、「松島(いまの竹島=独島)」沖を「本朝西海のはて」とのべた記述は、「松島」を日本領とみていた証拠にはならず、逆に日本領でないとみていた証拠である。領海観念のない当時としては、もし「松島」が日本領なら、「本朝西海のはて」は松島のてまえではなくて、鬱陵島のてまえでなければならない。また17世紀中、大谷・村川両家がしばしば、「松島」やさらに「竹島(鬱陵島)」をまで、幕府から「拝領」したと表現している事実があるが、幕府側は、両家に両島への「渡海免許」を与えたにすぎず、両島を両家に所領として与えた事実はなく、両家のあつかましい拡大解釈にすぎない。ないしは、正確には「渡海免許状の拝領」というべきことの省略語とみるべきであろう。逆に、「渡海」という文言自体、国外への渡航を意味する(内国の離島への渡航には別に「渡海免許状」はいらない)から、「松島」への「渡海」を免許したこと自体、幕府が日本領ではないとみなしていたことを意味する。なお、特定の限定された国外渡航の免許はほかにも例があるとおり、決して全般的鎖国体制と矛盾することではない。「拝領」という字句の表面的な印象を利用して「固有領土」キャンペインをしてきたジャーナリズムは、日本国民の認識を誤らせている。大谷・村川両家は、「松島」以前に「竹島(鬱陵島)」を「拝領」したと称しているのである。

 このような混乱した日本側の認識状況、竹島=独島を日本領とみない通念は、明治初年まで続いた。明治初年の海外渡航ブームの中で、再び、物産豊富な鬱陵島への渡航・開拓許可を政府に願い出る者が、1876~78年の間に続出した。明治政府はこれらを一切却下したのだが、前述したこの時期の島名の混乱の中で、ある者は鬱陵島を「竹島」と呼び、ある者は「松島」と呼び、また鬱陵島と別の島のように見せかけた申請もあったりしたので、関連して「松島(いまの竹島=独島)のことも論議せざるをえなくなった。この時の外務省内の論議では、ある者は、「松島ハ我邦人ノ命セル名ニシテ其実ハ朝鮮鬱陵島ニ属スル于山ナリ」といい(公信局長田辺太一の文書)、ある者は「ホルネットロックスノ我国ニ属スルハ各国ノ地図皆然リ」(記録局長渡辺洪基。ただしそんなことはない)といい、大勢は「版図ノ論今其実ヲ視ズ」(前記田辺文書)つまりははっきり分からないから、まず調査しなければならないという結論であった。「実効的経営」が江戸時代以来一貫してきたのなら、中央集権的な明治政府の外務省の見解がこんなにあやふやであるはずがない。明治初年には、「いうまでもなく竹島=独島は日本の固有領土」というような観念はまだなかったのである。

 ところで、明治政府のこうした公式態度にもかかわらず、改良された造船技術によって朝鮮人より一足先に船足をのばした日本人は、明治10年代頃から再び非合法に鬱陵島にわたりはじめた。1881年鬱陵島捜討官李奎遠の報告によってこのことを知った朝鮮政府は、直ちに日本政府に抗議するとともに、従来の空島政策を一転させ、朝鮮本土から住民を移住させて(83年)積極的な経営政策に乗り出した。日本政府はこの抗議に対して陳謝するとともに、1883年には鬱陵島在留邦人254名を全員引き揚げさせる措置をとった。以後、明治20~30年代にかけて公式には鬱陵島には日本人は一人もいないことになっていたが、実際にはこっそりと渡航する者は絶無ではなかったようである。しかし、それは10年代に比べれば小規模なものであった。明治10から20年代を通じて、渡航の主目的はやはり伐木が第1で、アワビ・テングサを目的とする漁民も若干いたが、アシカとりはいなかった。この間、いまの竹島=独島について、鬱陵島への往復の途中で立ち寄った例は1,2あるが、それ自体を目的とする渡航は依然絶無であったことが確認される。

 ・・・

 要するに、詳細不明でさほど系統的であったかは疑問としても、1881年以降、朝鮮人民の竹島=独島への認識と出漁が、ある程度進んでいた可能性を全く否定することはできない。そしてそうした実態を反映するものとして、1900年10月25日付韓国政府勅令41号第2条の「鬱陵(郡庁を台霞洞におき、その区域は鬱陵島全島と竹島・石島を管轄とす」という文言があると考えうる。この法文中の「竹島」は鬱陵島の小属島である竹嶼のことだろうが、「石島」はもう一つの小属島である観音島をさすとは地形からしても沿革からしても考え難く、いまの竹島=独島をさすと解するのが最も自然であろう。この史料は、従来あまり注目されてこなかったが、「1905年以前に朝鮮政府が何ら竹島=独島に施政を行ったことがないから、島根県編入当時無主地の状態にあった」とする日本側の見解にたいする反証として重要である。

   
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竹島の「実効的経営」梶村秀樹(竹島領有権問題19)

2010年04月06日 | 国際・政治
 現在、日本において「竹島」と呼ばれている島は、かつては韓国の鬱陵島のことであった。そして、今日の「竹島」は、その時「松島」と呼ばれていた。ところが、鬱陵島にその「松島」という名をあてたシーボルトの日本図が逆輸入されたために、名称の混乱が起こり、島名の入れ替わり問題が発生したのである。そのことに関しては、韓国・朝鮮の研究者も日本の研究者も同じように理解しており、異論はないようである。しかしながら、17世紀の竹島(鬱陵島)渡航の史実をもって、あたかも、日本が現在の竹島を「実効的経営」してきたかのごとく主張する論者があることを「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」(明石書店)は指摘している。17世紀の「竹島」の実効的経営は、現在の竹島のそれではないのである。「推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのはフェアな態度ではない。」というわけである。下記は、その「実効的経営」に関わる項の抜粋である。
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                 Ⅳ 日本人と朝鮮人

 17世紀の実効的経営

 大谷・村川家のいわゆる「竹島経営」は、1617年たまたま村川の商船が遭難して鬱陵島に漂着し、その物産の豊富なのに着眼して幕府に渡航許可を申請したのが発端で、朝鮮側の空島政策のおかげで、この17世紀の80年間だけ続いた。それは具体的には、春に数隻数十人の船団を組織して鬱陵島に渡り、1~2ヶ月採取活動を行って、順風を待って帰って来るということであるが、当時の技術からしてやや冒険的な事業であり、渡海免許当初の数十年間は、毎年恒常的に渡航していたかどうか疑問である。しかし1650年代から約40年間はかなりしばしば往来していたと認められよう。採取活動の主眼は、桐・センダンその他の価値ある銘木におかれていたようで、付随的にアワビとアシカの油などの順序であったと思われる。後者だけを目標とするには渡航はあまりにも冒険的すぎた。こうした一時的な「経営」の事実に「先祖が血と汗を流して築いた」というような形容詞をつけて誤ったイメージを与えることは犯罪的でさえある。それなら歴代の朝鮮人民が鬱陵島で流した血と汗はどうなるのか?そもそもこの時期の「竹島経営」の対象はもっぱら鬱陵島であって決していまの竹島=独島ではなかった。だから「竹島経営」の事実を論拠に日本固有領土論をごり押ししていけば、「それなら日本がまず領有を主張すべきは竹島=独島よりも鬱陵島である。そのかわり朝鮮は対馬を経営した事実があるから対馬は朝鮮領だ」というような八方破れの反論が出ても不思議はないのである。


 こうした「竹島経営」と全く別途に、「松島(いまの竹島=独島)だけを対象とする船団が組織され「経営」が行われたと考えるのは無理がある。いかなる理由からか1661年に大谷・村川両家が、「竹島」とは別個に「松島渡海」の免許を得ている事実はあるようだが、それ以前もそれ以後も「松島」だけのために恒常的に出漁したとは思えない。アワビは、隠岐でも鬱陵島でもいくらも採れたろうし、アシカの油はまださほどの商品価値をもつものではなかった。「松島」には将軍様がよだれをたらしてほしがるような銘木もなかった。川上前掲書の提示する諸史料を総合すれば、当時の日本人の「松島」利用状況は次のごとくであろう。まず第1に、鬱陵島への航行の目標としては必ず利用した。しかし常時は沖合を通り過ぎるだけで、必ず寄港するということはなかった。はしけならともかく、大きな帆船が安全に接岸できるような地形ではなかったし、わざわざ上陸するメリットも、別になかったからである。だが、時には、風待ちの都合、またゆきがけの駄賃的な意味で小船をおろして上陸し、多少のアワビとアシカを採取することもあった。日本側が、直接にはこの程度のそれも一時的な事実を物語る史料をもとに、推論に推論をかさねて、あたかも恒常的な「松島経営」があったかのように描き出しているのは、フェアな態度ではない。

 ところで、こうした大谷・村川両家の朝鮮政府の空島政策の間隙をついた「竹島経営」は、ついに1693年にいたり、やはり集団的に慶尚道方面から鬱陵島に出漁していた朝鮮漁民安龍福らとの大規模な争闘事件をひきおこした。安龍福自身の供述によれば、この時かれは鬱陵島も竹島=独島も朝鮮領土であることを主張して日本人を追い払い、93年と96年の2回にわたって追撃して日本に渡り(1回目について日本側の記録は人質として連行したと称する)、朝鮮政府の架空の官名を自称して独断で外交交渉を行い、丁重なもてなしを受けた。川上前掲書などが、安龍福の豪胆な行動をつとめて卑小に描き出そうとしているのを読むと、気恥ずかしい思いがする。ともかくかくして、問題は江戸幕府と李朝政府の公式外交ルートにのせられ、紆余曲折の後、1696年にいたり江戸幕府は「竹島(鬱陵島)」が朝鮮固有領土であることを確認して、日本人の渡航を一切禁ずる措置をとった。

 この時、江戸幕府は「松島(いまの竹島=独島)」についても同様に渡航を禁じるのかどうかを明示しなかった。このため、「竹島」と「松島」を一体とみる通念からして、当然同様に禁じたとみる韓国・朝鮮側と、明文で禁じていないのは渡航を許していたということだとする日本側の主張が水掛け論になっている。だが、江戸幕府が「竹島」と「松島」の扱いを意識的に区別していたことを積極的に証明する史料は全くなく、逆に一体と通念されていた史料の方が多い。ただ一つ、1836年の石州浜田の回船問屋会津屋八右衛門の「竹島密貿易事件」の判決文に「松島へ渡海の名目をもって竹島にわたり」という浜田藩家老の言が引用されているものが検討に値するくらいだが、それ自体当時の少数説だし、この事件は、「松島」渡航の可否自体に判断をくだす性質のものではなかった。事実問題として、「竹島(鬱陵
島)」渡航禁止以後、独自の経済的価値のない「松島」だけのために渡航することも、幕末まですっかりなくなっていたことは確かである。「松島」単独渡航を積極的に証明しうる史料は一つもない。


 この間朝鮮側でも空島政策が続いており、鬱陵島はともかく、竹島=独島の「実効的経営」がどの程度進行したかは定かでない。ただ安龍福のような行動半径をもつ漁民があとを断つはずはないから、民間の知見はいくらか拡がったかもしれない。それを反映してか、『正宗実録』1796年の項に、突然可支島の名があらわれる。この島名は明らかに可支魚(カジェ=アシカ)に由来するもので、韓国・朝鮮側では、いまの竹島=独島をさすとしているのに対し、川上前掲書は鬱陵島と竹島=独島の間を3日間で往復するのは不可能として、鬱陵島東北部とみなしているが、順風に乗れば3日間の往復も必ずしも不可能といえないし、記述と照合すれば川上の比定に合うような小属島は見当たらない。「実効的経営」の証明にはならないが、可支島を竹島=独島とみなすこと自体はそう無理ではないと思われる。

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「鬱陵島から竹島は見える」梶村秀樹(竹島領有権問題18)

2010年04月04日 | 国際・政治

 「梶村秀樹著作集第1巻 日本人と朝鮮人」梶村秀樹(明石書店)には、竹島=独島についておもしろい推論がある。現在の竹島=独島は、江戸時代には日本では「松島」と呼んでいた。そして鬱陵島を「竹島」ないし「磯竹島」と呼んでいた。松が生えない岩礁をなぜ「松島」と呼んでいたのか、という謎についての推論である。まず「竹島」の呼称の方が先にあって、それと対になる名称として後から「松島」なる名称が生まれたと考えられるというのである。そして、それは日本側も韓国側同様に、当時、竹島=独島を鬱陵島の属島ないしは兄弟島としてとらえていたことのあらわれだろうというのである。

  梶村秀樹著作集第1巻の竹島関連の記述は、固定観念を持って断定的に書かれたものとは異なり、客観的で公平であると思う。ところどころに、朝鮮史を知り尽くした人ゆえであろうと思われる鋭い指摘がある。川上健三説と比較すると、無理のない判断に基づいて書かれていることは、下記の抜粋部分からも感じられるのではないかと思う。(ただし、文献や史料の紹介が少ないことがやや残念ではある)
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                Ⅳ 日本人と朝鮮人

 竹島=独島の地理的位置

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 歴史的経過についての論争と関連する大きな論点として、鬱陵島から竹島=独島が見えるかどうかという問題がある。日本側は一貫して見えるはずがないと強調してきた。特に川上健三前掲書(『竹島の歴史地理学的研究』古今書院、1996)は数式まで掲げてその主張を詳論している。
 川上によれば地球が球体であることから、地上の二点間の絶対的物理的視達限界は次の公式で表されるものとなるという。

 D=2.09×(√H+√h)(ただし、Dは視達<海里>距離、Hは対象物体の海面上の高さ<メートル>、hは観測者の眼の高さ<メートル>

 
 この公式から川上は、海面上に浮かぶ船上から観測して竹島=独島の最頂部が見える限界は約30海里と算出し、49海里離れた鬱陵島からは見えないと説く。この計算自体は正確であるが、川上は、鬱陵島の海抜0メートルの浜辺から眺めると仮定している。しかし、鬱陵島の最高峰聖人峰は海抜985メートルもあり、李漢基氏が反論しているように山に登れば同じ公式を使っても視達距離は全く異なってくる。竹島=独島の最高峰を174メートルとして計算したばあい、49海里離れた鬱陵島からでも、海抜120メートル以上の所からなら見えることになる。ただし、120メートル地点からでは、頂上の一点が点として見えるにすぎない。竹島=独島の海抜50メートル以上の部分が面として視認できるのは、鬱陵島の海抜284メートルの地点である。また海抜200メートルの地点からなら、約96メートル以上の部分が見えることになり、少なくとも竹島=独島の西島頂部の三角形が見えることになる。つまり鬱陵島の、200~300メートルの高度の東南がひらけた場所からなら、竹島=鬱陵島は水平線上に小さくではあるがとにかく見える。そうした視達可能地点は地図を開いてみれば鬱陵島には随所にあることが分かる。川上氏もこういう単純な事実に気づいていないわけではなく、そこで、「往時の鬱陵島は全島密林におおわれていたから高所に登ること自体困難であり、たとえ登っても樹木にさえぎられて見えなかったにちがいない」と説くのだが、これはやはり無理な推論であろう。985メートルの所まで登らねばというならともかく、300メートルまで登ればいいのだから、それ以上の高度の地点は無数にあるのだ。実際、1438年に空島政策が最終的に実行されるまでは少なくても、公式的にも鬱陵島には多くの朝鮮人が定住していた。つまり当然漁業だけでなく農業を行っていたと推定されるのだが、鬱陵島もやはり海岸部は概して急峻で、むしろ200~300メートルの台地上に比較的平坦な開墾適地が多く、現在もそんな土地に少なからず人家があり畑がひらかれている。特に旧時の火田式農耕なら、そんな土地がまず開墾された可能性が高いはずなのである。従って、密林にさえぎられてどこからも見えなかったとはどうしても考えられない。

 なお、以上の議論は空気の明澄度は一応度外視してのもので、気象条件のよい時なら見えるということである。現に東京から富士山までの絶対距離は、鬱陵島と竹島=独島の間よりかなり遠いが、我々は冬の晴れた日に東京から肉眼で難なく富士山を見ることができる。もっとも水平線部分ほどもやがたまりやすいから、高度が低いほど視認条件が悪くなることは確かだが、スモッグの東京より日本海のどまん中の方が空気が澄んでいることも確かであろうから、空気の明澄度ゆえに肉眼視認が絶対不可能と論ずることは無理があろう。なお、真偽は定かでないが18世紀の日本側史料に、隠岐の島北部の山頂からさえ竹島=独島が視認できたとする記述がある。鬱陵島に何百年も定住し、農耕も営んでいながら、竹島=独島の存在に全く気づかなかったろうと推論することは、朝鮮人民をよほどぼんやりした人々とみなす偏見に基づくことだ。

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