真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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黒田清隆 北海道開拓使庁事件と妻殺害事件

2018年09月09日 | 国際・政治

 私は、日本の歴史の暗部といえるような部分ばかりを調べているような気がして、時々悲しくなります。なぜ、こういうことを続けているのだろうと悩ましく思うこともあります。しかしながら、世界にあまり例のない日本の戦争の野蛮性は、尊王攘夷をかかげて、武力で幕府を倒した長州や薩摩を中心とする尊王攘夷急進派による明治維新に源があり、それが今なお、きちんとらえられていないと思われ、確認しないわけにはいかないのです。

 日本の第二代内閣総理大臣、黒田清隆には、”北海道開拓使庁事件”といわれる汚職の問題がありました。
 この事件がきっかけで、”將ニ明治二十三年ヲ期シ、議員ヲ召シ、國會ヲ開キ、以テ朕カ初志ヲ成サントス”という国会開設の勅諭が出されることになる大問題でした。
 また、黒田清隆には、妻を斬り殺したり、当時海賊避けのため武装していた商船から、面白半分に大砲を発射し、誤って住民を殺害した問題もありました。それらの殺人や汚職を、仲間の犯罪であるが故に不問に付す藩閥政治は、尊王攘夷急進派が幕末に幕府関係者や幕府を支える人たちを片っ端から暗殺したり、また、異人斬りといわれる外国人殺害をくり返した野蛮性をそのまま、引き継いでいた証ではないかと思います。
 黒田清隆による妻の斬殺を、自らの工作でなかったことにした大久保利通は、紀尾井坂で、島田一郎ら不平士族に襲われて、滅多斬りにされたということですが、その斬奸状には、有司専制の罪として、以下の五つがあったといわれています。

 その一、議会を開かず、民権を抑圧し、政治を専制独裁した罪。
 その二、法令を乱用し、私利私欲を横行させた罪。
 その三、不急の工事、無用な修飾により、国財を浪費した罪。
 その四、忠節、憂国の士を排斥し、内乱を起こした罪。
 その五、外交を誤り、国威を失墜させた罪。

 明治維新以後、要職に就いた長州や薩摩出身の政治家よる汚職事件が続発しますが、それは、斬奸状が指摘するように、彼らが権力を私物化し、私利私欲を優先させて動いていたということだと思います。そして、そうした汚職事件を様々な工作によって闇に葬りつつ、明治政府は、さらに大きな利権を求めて朝鮮や中国に向かっていった側面があるのではないかと思うのです。
 明治時代の近代化に目を奪われて、背景にある日本の政治の野蛮性を見失ってはならないと思います。戦争に向かう必然性が、そこにあったのではないかと思うからです。 

 下記は、資料1は「日本疑獄史」森川哲郎(三一書房)から抜粋しました。
 ただ、黒田清隆が妻を斬殺したという部分については、『「団団珍聞(マルマルチンブン)」「驥尾団子(キビダンゴ)」がゆく』木本至(白水社)に、異なる証言が出ていましたので、抜粋しました。資料2です。殺害の場面を直接見ていたわけではないので、異なる証言があるのではないかと想像しますが、身近にいた人物の証言であり、黒田清隆が妻を殺したという事実については、否定しようがないと思います。  
 資料3は、「団団珍聞」が、政府に真相解明をせまる「茶説」の一文です。文章の中に” 後来其政府ノ大難事ヲ引出スノ端緒タラン乎”とありますが、こうした大問題を隠蔽し放置する政府は、後に”大難事を引き出す”というのは、鋭い指摘だと思います。著者はその”大難事”をどのようなものと考えていたのかはわかりませんが、私は、その”大難事”が、戦争であると考えます。

資料1--------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------
                        北海道開拓使庁事件
                             ーー全官有物を十万円で払下げーー

 サイのお化け

 明治十一年三月の夜。
 黒田清隆は、泥のように酔って家に帰った。彼は酒乱である。酔うと殺気立ち、暴れ出して、手がつけられなくなる癖がある。その夜、妻はその気配を悟ったのか、なかなか出迎えに現れなかった。
どなっているうちに黒田は逆上した。彼は部屋に入ると日本刀をもって待ちうけた。妻のせいが現れると、いきなり真向上段から斬り下げたのである。妻は、血に染まって倒れた。即死であった。
 ・・・
 しかし、悪事千里、病死ということで、ひそかに死体を埋葬してしまったこの事件が、どこからともなくもれて、当時の新聞『団々珍聞』が、デカデカと一頁大風刺画を掲げて、暴露したので、たちまち騒然と噂の種になった。

 ・・・
 世間の噂はごうごうとうずまいて、さすがの黒田も、たまりかねて辞表を出して、家にひきこもってしまった。
 この時、政府部内でも、世論を抑えるためには、黒田を処断する以外にないと、大隈重信が、大久保利通に黒田の逮捕、処断を迫ったという。黒田は維新の功臣としては、序列はかなり上で、薩摩としては、西郷・大久保の次位にあった。
 しかも、大久保としては、西南戦争がようやく終わった直後である。その前には佐賀の乱、秋月、神風連、思案橋の変と続発し、全国不平士族の蠢動は、まだ到底おさまりそうもない形勢の時である。
 西郷を倒したところで、政府に対する信用は低く、全国に憎悪の感情がみなぎっている。そこへ、黒田がとんだ不始末をしでかしてくれた。世論のいうまま、黒田の妻殺しを認めたのでは、政府の威信は甚だしく地に落ちる。これは何としてでも、もみ消さなければならない。
 権謀術策を事とし、目的のためには、どんな手段も辞さずに行ってきた大久保である。
 「黒田は、榎本武揚の処刑をただ一人だけ反対して、命を救ったほどの元来情の厚い男だ。そのようなことをするわけはない。俺が保証する」
 と、はねつけ、すぐ大警視川路利良を呼びよせて、何事か秘策をさずけた。
 
 川路は、長州閥の贋札事件をアバこうとして消された疑いがあるが、また、一方で大久保の権謀政策の右腕をつとめた男で、西南の役の動火点になった西郷暗殺計画も、大久保と川路で企んだといわれている。
 川路は医者も立ち合わせて、黒田の妻のせいの墓をほり起し、棺の蓋をあけさせ、近よって中をのぞきこみ、周囲の者をふり返って、
「どうだ。まるで他殺の形跡など見られないじゃないか」
 といった。これには、みな一言もなく、ただ黙々としていたという。
 検視は、これで終わった。
 大久保は、これで一件を強引に落着する腹を決め、即日黒田を呼びよせ、辞職を思い止まらせた。
 しかし、数日後、大久保利通は紀尾井坂で、参内の途中、石川県士族島田一郎らに襲われて、滅多斬りにされて、見るも無残な最期をとげた。
 その斬奸状の中には、黒田清隆の妻殺しの一件が、斬奸趣意の理由の一つとして書き連ねられていた。
「第二、法律ヲ科スル…黒田清隆酩酊ノ余リ、暴怒ニ乗ジ其妻ヲ殺ス。タマタマ川路利良座ニ在リト。シカシテ政府コレヲ不問ニ置キ、利良マタ知ラズト為シテ止ム。アア、人ヲ殴殺スルハ罪大刑ニ当ル」
 又、奸魁の斬るべき者として
「曰ク木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、是レ其巨魁タル者、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良ノ如キ、亦許ス可カラザル者」
 として、大久保、黒田、川路の名を書き連ねてある。
 いかに、当時の人心が、大久保、川路、黒田の謀略、権謀を嫌ったかが、如実に見られるものといえよう。
 黒田のその後めとった新しい妻が、不貞の噂高く、ついに出入りの呉服商人と通じて離別された事件も有名である。サイのお化けの祟りでもあろうか?

藩閥のボス黒田 ・・・略


 甘い汁を吸える北海道使庁 

 北海道開拓使庁が、札幌に設けられたのは、明治二年であった。初代長官は、鍋島直正、二代目は東久世通禧だった。大名と公卿である。
 表面の目的は、北海道全道の開拓であったが、新政府が、最も恐れてひそかに与えていた使命は、対ロシアへの防備であった。ロシア帝国には、宗谷海峡一つ隔てて隣接しているのだ。
 しかし、当時の日本としては、これは公にいえないことだった。そこで北海道開拓ということで役所をおいたのである。
 二代長官東久世通禧が、明治四年に職を辞すると、三代目長官をだれにするかという問題が、太政官で真剣に討議された。新政府の重要人物は、だれもそのような辺地には行きたがらない。しかし、その使命の重要性からはかると、二流、三流人物を送るわけにも行かない。
 北辺防備の重要性は、年々増している。ロシア帝国は、虎視眈々と、南下の機会をねらっている。ことに薩摩の西郷は、ロシアの野心を恐れていた。いったん北辺に事があれば、自分は、一将として一箇大隊の兵をひきいて、ロシア軍に当たるというのが、西郷の口ぐせであった。西郷としても、北海道警備には、薩摩主体で当たりたかったようである。
 黒田は、五稜郭を陥したときに、幕府の榎本武揚らが、死刑になるところを助けて、いまだに北海道に生存している幕軍の残党に、かなりの人気を得ていた。
 西郷の意志をうけて、北辺防備には、熱意をもっている。そのために、当時すでに、開拓使次官でもあり、陸軍中将でもあった。
 太政官の会議では、圧倒的に、黒田清隆を長官に…という声が強かった。しかし、それは、あくまでも表面の理由であった。内実は、黒田は、太政官の要路者たちに敬遠されていたのである。
 当時、黒田は、太政官内閣参議という新政府内の中で、トップクラスの要人だった。当時の参議のメンバーは、西郷隆盛、木戸孝允、を筆頭に、大久保利通、板垣退助、江藤新平、大隈重信、副島種臣、後藤象二郎、大木喬任に黒田を加えた十名だった。もちろん、薩長土肥出身者ばかりである。
 維新に際し、抜群の功労のあった四つの藩の最高指導者が、選抜され、悪くいえば、結託して、少数の人間で、国政を動かすといういわゆる藩閥政治である。
 黒田は、西郷や大久保には頭が上らなかったが、天性荒々しい気性で、前述のようにその意見に反対されると暴力をふるっても通そうという兇暴な面があったので、他の参議たちも、もてあましていたのである。東久世辞任問題をこれ幸いと各参議は、後任長官に黒田をおした。西郷にとっても、薩摩の自分の子分の手に、北辺防備の使命をにぎらせるのだから、無条件で賛成した。
 ところが黒田は、意外に悦んで、この追い出しドラマを受け入れた。彼は、対露作戦基地として、近い将来北海道が、時代の焦点になるであろうと考えていたからである。

 就任と同時に、黒田は、意欲的に政策をおし進めた。屯田兵をつくり、農学校を設立し、その校長に、アメリカからクラーク博士を招いた。農場、ニシン、タラ、ラッコ、オットセイの漁場、牧場をどしどし増加し、鉄鋼所を造り、倉庫を造り、船舶を補給し、葡萄園を開き、ビール醸造所を造った。もちろん、黒田は、それほど知性的な、経済や工業に明るい男ではなかったが、下僚に優秀な事務屋、技術者がそろっていて、黒田の大まかな性格が、かえってその手腕を発揮させるのにプラスしたようである。

 しかし、彼はこのために、巨額な予算をはしから使いつくした。明治五年十ヵ年計画が立てられ、新政府は、毎年約百万円の予算を黒田に与えたのである。そのために、黒田の任期満了の期限明治十四年には、北海道使庁は、日本一富有な財源をもつ役所に成長していた。
 右に上げた物件のほか、各地に広大な官有地を持ち、永代橋際に建てたレンガ建ての東京出張所を含めると、当時の時価で、三千万円以上の財産といわれた。
 もちろん、この豪傑は、西郷隆盛のように清潔一方の宗教的人物ではない。この間に、多くの利権屋が、彼の周辺に蝟集し、そのふところも、十分あたたまっていたようだ。
 他の男なら、この辺で、中央で政権をとる足場を固めたがるはずなのに、黒田は、中央政界復帰を願わずに、もう一期十年の留任をのぞんだのである。


 大蔵卿をピストルで脅す

 黒田清隆に、中央に帰ってこられては面倒だと思ったのは、伊藤、井上ら長州閥の政治家ばかりではなかった。黒田の後任で北海道に行きたい大物もいない。
「黒田が、あと十年留任を望むなら、やってもらおう」
 という空気が圧倒的に強かった。そのためには、もちろん第二期十年計画に入ることを認め、黒田の要求する予算をわたさなければならない。それにも目をつむろうということで、閣議は、ほとんどこれを支持する方向に動いていた。 
 ところが、意外にも、平生寡黙で、地味な性格で通っていた大蔵卿の佐野常民が、断乎として反対した。反対するだけでなく、
「この際北海道開拓使庁は、継続を打ち切り、廃止すべきだ」
 と主張するのである。佐野は、佐賀の出身で、井上、山県と対立した江藤新平や大隈重信、副島種臣などの同僚であった。長州閥と対立して、自ら墓穴を掘り、憤死させられた江藤新平の例もある。西郷、大久保の亡き後、薩摩閥の頭目格である黒田と事をかまえないようにと忠告する者もあったが、佐野は意にも介さなかった。江藤と同様の頑固者で、理を曲げようとしない。彼は、頭から黒田に反対して闘った。
「いままで、北海道使庁には、千四百九万六千四百四十二円という金をつぎこんできている。北海道の開拓も北辺の防備も重要事には違いない。そう信じたからいままでは、各省を遥かに上廻る予算も大目に見てきた。しかし、今の政府は、財政的にも危機に瀕している。ことに西南の役以後、紙幣整理も断行しなければならないし、国債償還のこともあり、極度の節約をしなければならないときだ。第二期十年計画には、前を上回る四百万円以上の予算を要求されているが、いまの政府には、そのような金はない。ことに、明治初年と異りいまの日本には、国家としてなさねばならぬ事業が多数ある。それに厖大な支出を要求されるときに、そのような巨費を政府が不要の使庁に用うることはできない」
 というのである。不用な使庁といわれて、黒田は激怒した。自分が国家のために絶対必要だと考えて、勢いこんで、予算の分どりに上京してきただけに、その鼻先に開拓使庁廃止と宣言されて、根が逆上症的な血の気の多い男である。かっとなって、大蔵省に馬車を走らせ、大蔵卿の室に、ずかずかあと大股でのりうこむと、佐野常民のテーブルの上に、いきなりピストルを抜き出しておいた。
「おはん。北海道開拓使庁を廃止するといっちょるそうじゃが、おいどんは、北海道に骨を埋めるつもりじゃ。廃止するなら、まずこのピストルで、おいどんを射ち殺してからにしろ」
 大声で一喝すると、佐野を大きな鋭い眼でにらみつけた。佐野は、少しも動じない。
「あんたが、なんと申されても、予算が許しません。脅迫などおよしなさい」
「脅迫ではなか。おはんが射たなければ、おいどんがおはんを射ち申すぞ」
「お好きなようにしなさい。そんなものが恐いようでは、国家の予算は組めません」
 佐野は、もちろん、黒田が、かつて逆上して夫人を斬殺した有名な話を知っている。この男は、激怒すると前後の見さかいがなくなって、何をするかわからない。下手をすると命を失うくらいのことは感じていたに違いない。しかし、佐野は、頑として藩閥の頭目黒田の脅迫に屈しなかった。
 では、北海道使庁を廃止して、未完成の北海道開拓はどうするのか? 佐野はどういう代案をもっていたのか? 佐野の主張はこうであった。
 明治初年と違い、現在は、政府が巨額の費用を支出して、産業を振興する。その産業を官営にして管理する時代は、過ぎ去った。いまは、開拓使庁の管理する官有物を、適正な価格で民間に払い下げ、民力による自由競争をもとに産業の振興をはかる時代だ。その方が、はるかに開拓が早く進むというのである。
 この間、内閣要人たちは、手をつくして佐野に圧力をかけてきたが、佐野はみなはね返して、軟化しなかった。閣議は、多数決では決済できない。ことに大蔵卿の反対とあっては、黒田案は、暗礁にのり上げるほかなかった。内閣はこの問題で大ゆれにゆれた。


 官有物をタダ同様に乗っ取る陰謀

 ちょうど、このころ大坂から五代友厚が、中野悟一を帯同して、上京してきた。
 二人は、黒田の官邸に、馬車をのりつけた。五代は、薩摩出身の豪商であり、中野は、長州閥の豪商である。この二人の提携も異様なら、二人が、この時期に、肩を並べて問題の人物黒田清隆を訪問することも異様である。
 五代友厚は、はじめ才助と称して、薩摩藩切っての俊才であった。文久三年、薩英戦争に藩から選抜されて、談判に行き、そのまま連行されて、ロンドンに行き、二年学び、帰国して維新にも功をあらわし、先覚者といわれた利者(キケモノ)である。
 明治政府ができたときは、外交事務係判事に任命され、伊藤、後藤、陸奥、中井(桜州)、吉井(友実)などとともに、外交担当の高官として活躍した。泉州堺浦で、土佐藩士が、フランス兵士を殺傷したとき、その結着をつけたのは五代であった。その後、大阪府判事、会計官などを歴任した。
 が、幕末に、商社を創立したほどの男である。これからの時代は、商業であると見通しをつけ、官を辞して、野に下り、実業家に転身した。
 もちろん、藩閥と密着して御用商人となり、盛んに貿易も行ってのし上り、またたくまに巨財をつくり上げたのである。大阪中之島に、宏壮な屋敷を構えていた。後にこの屋敷あとに日本銀行支店が建てられたことから見ても、いかに宏大なものであったかが分かる。二町四方あったという。泉州堺に紡績会社も創立していた。
 東京に馬車鉄道をつくるとき、多数の実業家が集まって運動したが、なかなかできなかった。発起人の一人である谷元道之が、五代の後輩であったので、五代に相談したところ、五代は、
「俺が上京するまで、運動はやめろ」
 と釘をさし、まもなく上京して、馬車で二日ほどかけ歩いた結果、あっというまに成立させてしまったという。それだけの実力を持っていた。ということは裏を返せば、藩閥政府内に、彼の後輩や同僚が多く、また、五代も相当に、彼らのふところをうるおしていたということであろう。
 大阪の商業会議所をはじめ大阪高等商業学校、銀行、航海、鉄道、銀行などの諸事業を最初に大阪で創りあげたのも彼である。大阪の実業界における彼の声望は、当時並ぶ者のないほどであった。
 五代は、幕末から明治初期にかけて、薩摩では、西郷、大久保につぐ地位であったから、黒田は、その下風にたっていた。また、薩摩時代、五代は、軽輩の黒田を「了助、了助」と呼びすてにしていた。明治になってからも、そのまま呼びすてにされて、どうにも頭が上らなかった。黒田には、知性的な面が欠如している。五代は、語学もたんのうで、その当時切っての新知識であり、知性豊かである。そんなところからも、どうしても五代には頭が上らなかった。その五代が、いきなりやってきて、
「了助…お前などが、あと十年北海道の開拓をしたところで、できるものではない。あとは俺がやってやる」
 と、頭ごなしにやっつけられた。
「そのかわり、北海道にある官有物は、すべて、俺に払い下げてしまえ。その上で、みごとに開拓の実績をあげてやる。お前の志を果してやるのだ。お前の銅像は、北海道開拓の恩人として、俺が札幌の中央に建ててやる。お前の名は、それで不滅になるのだ」
 と煽り立てた。
「大体、民間人に開拓をまかせるというのは佐野の案だ。これなら佐野にも否やはあるまい。お前の損の行かないようにしてやるよ」
 と、すでにでき上っている官有物払下げの願書をつきつけた。
「これに、同意の判をおせ!」
 というのである。黒田が、その内容を見ると、なんと北海道全道の官有物の価格を三十万円に見積もっている。しかも、それを三十年賦、無利息で払い下げろという内容である。時価三千万円以上はする国有財産をその百分の一に勝手に計算している。これでは、無料(タダ)同然で、奪い去ろうというものだ。払い下げではなく、もらい下げといった方がよい内容である。その上、現金十四万円を諸事業の運転資金として十五年間貸し下げてほしい。開拓使収税品の取扱いについては、十年間委任を受けた上、六パーセントの手数料をくれ、等々あまりにも虫のいい条件を並べてあった。
 内心黒田も驚いたが、五代には手も足も出ない。それに五代の手にわたすなら、将来、自分も十分その恩恵に浴せる。藩閥政府としても好都合だ。
「おいどんは、これでよかと思っちょる。しかし、書記官どもが、どういうか分かりもはん」
「書記官もよべ。おれがいって聞かせてやる」
 鈴木大亮、今井信之、安田定則、折田平内ら書記官が料亭”売茶亭”に呼び出され、五代のさわやかな説明を聞かされて、願書の裏書きを求められた。書記官は、みな同意して、黒田とともに裏書きした。五代の当時の実力と手腕がどのようなものであったか、充分想像のつく話である。もっとも四人とも、関西貿易会社の重役や高級社員で迎えるという餌で釣りあげられたという。いまも役人はこの手によわい。停年後よい条件で行ける会社を探すからである。
 この願書は、黒田の手を経て、内閣へ廻された。ここで、五代が、中野を連れてきた理由が判明する。中野は、帰化長州人といわれるほど長州閥につながりが深い。山口県令もしたことのある人物である。
 当時の政府を抑えていたのは、薩長土肥といっても、実際は、薩長二藩である。薩摩は五代の実力と声望でどうにでもなる。だが、万一長州閥が反対した場合、難行するおそれがあるので、伊藤、井上、山県らと関係の深い中野を用いて説得させればいい。二人ともそれまでに政府部内に、かなり金をまきちらしている、いまをときめく大実業家である。二人で、政府を抑えればよいと協議して、この破天荒な国有財産乗っ取り計画をたずさえて上京してきたのである。
 この作戦は、みごとに成功した。これだけ非常識な内容なのだから、閣議で、猛烈な反対があって当然であるのに、ほとんど異論なしに通過する形勢であった。
 ところが、ただ一人これに反対した者があった。大隈参議である。佐野は、あまりのことに呆然としていたが、同じ佐賀出身の大隈が反対にたちあがったのだから勢いづいた。二人は断乎として、払い下げに反対説を展開した。
 黒田は、またまた激怒した。毎日酒をあおって酔眼をすえて内閣にどなりこんでくる。大隈は、参議だが、内閣に何の力も持ち合わせていなかった。内閣は薩長二派で牛耳られている。大隈の職は、内閣の参議というだけで、閑職に等しかった。
 当時の参議の顔ぶれを見ると、
 薩摩閥  西郷従道、寺島宗則、黒田清隆、河村純義
 長州閥  山県有朋、井上 馨、伊藤博文、山田顕義
 肥州   大隈重信、大木喬任 
 という十人だけである。土佐の板垣、後藤は下野して、自由民権論で、政府に対抗している時代だ。
 八対二で、肥州出身者は、全て薩長から無視されていた。
 大隈にとっては、この体制は、無念でしかたがない。まして、今度のような強奪に等しい払い下げ案を薩長のお手盛りで通そうというやり方には、一泡吹かせてやりたい。むしろこの機会を利用して、薩長藩閥に致命的な打撃を与える工夫はないものかとと考えて、ついに妙案を思いついた。


 新聞を利用して対抗した大隈

 大隈の思いついたことは、新聞の利用である。そこが、大隈らしい着眼力であり、彼の新しさであると同時に、狡猾ともいえる 老獪さでもあった。彼は、つねに、ただのねずみではないのである。
 当時の新聞は、現在ほどには普及していず、強い力があったわけではないが、知識階級に対してはかなり浸透し、影響力を持ちはじめていた。
 もちろん現代のような大新聞はなく、群雄割拠の時代だった。中でも、反政府的論陣で鋭いものに、大隈は目をつけた。
 東京日日新聞には、福地源一郎が、自ら論説を書きまくって人気があった。横浜毎日新聞には、沼間守一がいて革新的な論陣をはっている。郵便報知新聞にも、矢野文雄や藤田茂吉が、活発な筆力で書きまくっている。
 まず、彼らを味方につけ、火の手をあげれば、他の新聞も驚いて騒ぎ出すであろう。それが、全国に燃えひろがって行くことも夢ではない。
 最初の吹こみ方だ。大隈は、大風呂敷といわれたほど、弁舌は冴えている。彼は、まず福地と沼間を招き、
「参議大隈が、職を賭して天下の一大事を打ち明けるのだ。ぜひ、君らの力を貸してもらいたい」
 ともちかけた。二人は、顔を見合わせて、疑わしげに大隈を見る。が、日ごろから大隈には密接な関係にあり、大隈の援助も受けていた。
「いったい、なにごとです。記事になるのですか」
「記事になるどころではない。明治政府はじまって以来の大疑獄だ」
 疑獄と聞いて、二人の顔色が、さっと変わった。ジャーナリストなら、とびつくネタだ。大隈は、人払いをし、声をひそめて、二人に一切を打ち明けた。
「北海道全土の官有物というと、まずどんなものがありますか」
「札幌には、開拓使庁舎がある。函館には、船場の官有物がある。根室には広大な牧畜場があり、札幌にもある。七重に勧業試験場、室蘭に製鋼所、大野に養蚕所、その他ビール製造所、葡萄園と葡萄酒製造所、各種カン詰製造所、また製毛所もある。それに、ラッコ・オットセイの猟場、ニシン・タラなどの漁場、それに加えて、汽船・帆船約三十隻、その工作所、ドック等々がある。また東京永代橋のレンガ造りの出張所とその倉庫、及び物産取扱い所、大阪と敦賀にも倉庫がある。その他屯田兵の調練所、宿舎、各地にある開拓使出張所等々、どんなに安く見積もっても、時価三千万円以上の価格だ。これを三十万円、しかも三十年賦無利息で払い下げろという五代、中野の願書に、黒田も書記官も裏書きをし、内閣参議はこぞって支持し、勅許を得るばかりになっている。当然、薩長のやからは五代から将来にわたって、莫大な見返りをもらうつもりだということは、はっきりしている。これが大々疑獄でなくて何だ」
 と大隈は、まくし立てた。二人の目はみるみるうちに充血してきた。
「よし、やりましょう。薩長を叩き伏せるいい機会です」
 二人は、軍資金まで大隈からもらって、とんで帰った。

 まず、福地の東京日日新聞が、攻撃の火の手をあげた。つづいて郵便報知新聞、横浜毎日新聞が、筆をそろえて、政府攻撃、大疑獄のバクロ記事を発表した。朝野新聞、曙新聞も、歩調をそろえた。
 火はいっせいに燃えひろがったのである。
 大隈は、一方で、福沢諭吉と緊密な連絡をとっていた。二人は、反藩閥という点で深く結びついていた。福沢は、門下生を地方新聞に派遣したり、寄稿させたりして、政府攻撃の論陣をひろげた。福沢につながる報知新聞記者たちは、よろこんでこれにとびつき書きまくった。毎日新聞も呼応した。
 こうなると、地方新聞も黙してはいない。全国津々浦々の新聞が、こぞってこの一大汚職事件を攻撃しはじめた。
 この形勢を見て、よろんだんのは、板垣、後藤らの自由民権派である。彼らは、百万の見方を得たように勢いづいて、政府攻撃の演説をぶって廻った。彼らは、これを国会開設要求に利用し、結びつけた。


 大隈追放ドラマ

 このころたまたま、明治天皇は、奥州から北海道へ約二ヶ月の巡幸を決定した。明治十四年七月二十九日、宮城を出発した。有栖川の宮、黒田、大隈両参議もこれに従った。この形勢を見て、五代らと払い下げ支持の参議たちは、狼狽した。
 策師の大隈のことである。必ず天皇に、北海道の厖大な諸官有物を見せ、これをタダ同然に民間に払い下げすることの不当を非難し、払い下げを阻止してしまうであろうと考えたのである。
 そこで、二人の参議が、天皇の車駕が小休止していた千住の北三丁目中田屋にかけつけ、払い下げの勅許を強引に受けてしまった。
 岩倉はここまで見送って引き返し、八月一日、これを公布した。
 新聞はまた、いっせいに憤激して、攻撃に移ったが、北海道から代表者が上京してきて、政府に陳情した。
「北海道の官有物を払い下げるなら、ぜひ地元の有志に払い下げてもらいたい。価格は政府のいい値にしたがう。支払いも利子つきで、十年間で完納する」
 というのである。しかし、すでに五代らに内定しているので、どうすることもできなかった。もちろん、政府参議は、いんぎん無礼にあしらって、これを追い帰した。
 それどころか参議たちは、大隈のいない間に、大隈弾劾案を出し、参議免官を決議していた。一種のクーデターである。理由は、内閣の極秘事項を新聞に流し、これを扇動して、政府を攻撃させ、内閣の不統一を招いたというのである。
 ・・・
 大隈はこの巡幸中に宮に対して、得意の長広舌を展開して、薩長藩閥を痛罵し、厖大な国有財産がただ同然に奪われようとしていると事件の全貌をバクロした。
 有栖川の宮は
「事は重大であるので、陛下の御還幸まで一切この件に関して、批評をしてはならない。解決は御還幸を待って後する。それまでは自分があずかりおく」
 といって、大隈を抑え、問題を保留した。明治天皇にも宮か大隈が耳に入れたらしい。予定の巡幸を終って、十月十一日還幸したのだが、千住の行在所に着いたとき、また岩倉具視が迎えに出て、留守中の政情を奏上した。この中で、明治十四年の政変、いいかえれば、大隈免官の内定を報告すると、天皇は、大変不機嫌になって、「速やかに御前会議を開け」と命令した。
 御前会議直前、伊藤博文は、大隈追放ドラマの陰謀を正当化するために、大隈を訪問した。辞職勧告である。西郷従道が、伊藤についてきた。明治十四年十月十一日の夜半午前一時ごろであった。
 大隈の回顧談によると、ただ単純な言葉で、
「容易ならざることだから、どうか辞表を出してくれ」
 と伊藤はくり返したという。その直前に内閣会議で、正式に大隈追放は決定したのである。大隈は怒った。
「よし、明日、わが輩が内閣に出る。辞表は、陛下に拝謁してから出す」
 と答えると、二人は当惑した表情をした。が、そのままあたふたと帰って行った。翌日、大隈が宮中に行くと、門衛が厳重にさえぎって入れない。それならと馬車を有栖川の宮家に走らせると、ここでも固く門をとざして、門衛が、大隈を入れようとしない。天皇も宮家も、昨日までとは打って変わった拒絶の冷たい態度だ。
 大隈は、首席参議の身から一転して、罪人あつかいの身分に変わっていた。これは、完全なクーデターで、大隈を謀反人の主犯に見立てて、追放した政変ドラマであった。
 その証拠には、当日の東京は、戒厳令発布と同様の状態であった。政府には、ものものしい警戒網が布かれ、東京鎮台司令官野津道貫に対しては、命令一過即刻出兵し得る態勢をとるよう指示されてあった。
 警視総監樺山資紀は、警部巡査をひきいて、先頭に立って指揮しながら、東京市内を警戒していた。誰の目にも、いまにも内乱でも起りそうな殺気立った空気であった。大隈も福沢も逮捕されるという風説が乱れとんだ。
 ・・・
 政府は、あわてて北海道開拓使庁払い下げを中止した。世論が、薩長藩閥の国有財産掠奪計画を粉砕したのである。その上、政府は、明治二十三年から国会を開設すると発表して、辛うじて国民の憤激をやわらげることができた。
 大隈は、内閣から追放されたが、実質上の勝負に勝ったといえる。しかも、皮肉なことに日本の憲法は、この大疑獄がきっかけになって生まれたのである。国会開設がこの汚職のバクロで早まったことは否定できない。それだけでも、北海道開拓使庁払い下げ事件は、歴史に消えない爪痕を残した。
 御前会議で天皇が、官有物払い下げ問題にふれて、
「あれで三十万円か?」
 と参議たちの顔を見廻し、
「払い下げを取り消せ!」
 といったということが伝えられている。とすると、大隈の有栖川の宮説得工作が成功したともいえる。
 五代友厚は、地団太踏んで口惜しがったが、彼はこの計画で巨財をつかみ、三井、三菱に並ぶ五代財閥をつくり上げるつもりだったという。
 ・・・以下略

資料2------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーー-----------------ーーーー
                   第二部 団珍・驥尾は時代をどう風刺したか

 2 標的にされた黒田清隆

 夫人怪死事件

   〇大久保公(十七)
     ▲友誼に篤き公(一)       千坂高雅氏談

 ▲友情あつき公 今いふ通り大久保(注=利通)は公平無私な男であったが,又情誼には極めて厚かった。大久保が内務卿で居た頃開拓長官の黒田が女房を蹴ころしたといふ有名な事件があった、此の事件は天下の疑問となったもので、今でもまだ疑問に付せられて居るが、おれはその真相をちゃんと知って居る。此真相を知って居るものは、松平正直とおれと二人ぐらゐのものだが、あの天下を騒がした大疑問事件を大久保はタッタ一言で以てピーンと鎮めてしまった。これといふのが皆大久保の友情から出たものだ、事件の起りは黒田清隆が、夜半に女房を蹴ころしたのだ、何も蹴殺す気はなかったのだらうが、誤ってさういふ事になったのさ、おれの娘の光子といふのが、その殺された女房の妹と親友で、丁度年も同じだし、始終遊びに行ったり来たりして居た、その女房の妹が、その晩の夜半におれのとこへ泣込んで来たので、何事かと聞くと、

 

▲黒田が女房を殺した、といふのだ、泣きじゃくって居て、話が分からぬので直ぐ黒田の邸へかけつけて見ると万事分明になった、まったく蹴殺したものには間違ひが無い、何しろ黒田はヒドイ放蕩家で夜分なぞは殆んど毎晩のやうに出てあるいて、夜半でなければ帰って来ない、開拓使長官ではあったし、金にも不自由はしなかったものだから、新橋あたりに可愛い奴が沢山あった、始終酒と遊びに浸って居たのさ、そこへ持って来てお神の腹は大きくなって居るので、猶ほ更ら其頃は遊びは激しかったに違いない、それで黒田の帰ったのを見て何とか言ったのだらう、黒田は何をいふんだ位で寝て居たところへ、お神が蒼蠅(ツルサ)く云ふから大きな声で叱ったのをこりずまたクドクドとお神が何か言ったので、黒田は酒気に任して何だと怒鳴ったかと思うと、ドタンバタンと音がして女房はギャッと言って倒れた。

 

▲黒田青くなる 倒れたッきり女房は黙って居るから起して見ると、血を吐いて死んで居るので、黒田は青くなってしまった、此の細かしい始末はその黒田の女房の妹が、すっかりおれに話したから、おれが一番よく知って居る、おれが行って見ると、黒田は真ッ青になって居て、女房は蒲団の上で血を吐いて死んで居る、早速医者を呼びにやったが、すでに縡(コト)きれて居て手のつけやうがない、それから友人達を呼びにやって、後の始末を相談する事になった

 

   〇大久保公(十八)
     ▲友誼に篤き公(二)
 ▲世間の物議 そこで吉井友実が来る、外にも友人が来て、ともかくも始末をしなければ不可(イケナ)いといふので、医者を呼んで吐血して死んだといふ鑑定にさして診断書を書かした、そしてすぐそれを埋葬してしまった、大久保はその時留守であったが、騒ぎを聞いて帰って来た、黒田の家は麻布にあったが隣りや界隈の家に遠くない為に、この夜の騒ぎは近いところへすぐ知れる、それからそれと噂が広まって、大した騒ぎになった、天下の大臣が酒を飲み女を買って乱れ、剰(アマツ)さへ妻女を蹴殺すとは怪しからんといふので世間も八釜しい

 

▲遂に内閣会議 おれなどは盛に憤慨した連中で、遂には廟堂の内にも之れを不審としていろいろ議する人もある、そこで遂に内閣会議を開く事に決した、其時分は内閣の主な相談は大抵岩倉公の屋敷でしたもので、あそこは大臣参議連中に寄合所のやうになって居た、その日もやはり岩倉の邸で会議を開いた、議長の役目は三条公さ、そこで皆が盛んに黒田の非を譏(ソシ)った、今の大隈さんも来て居たさ、伊藤も居た、伊藤などは盛んに憤慨した連中の一人で、是非とも黒田の女房の死骸を発掘して事の真相を糺さなければ不可(イケナ)いといふのだ、おれなどもその説ではあったが、会議に列せられぬから、岩倉の邸に行って、会議の隣座敷から偸(ヌス)み聞きして居たものだ、松平正直と二人さ

 

▲司法大木は非認 スルと其の頃司法卿をして居た大木喬任は此の憤慨説に反対し、苟くも大臣の行動を法に照して訐(アバ)くといふはよくない、若し悪いと思ったら、自ら会って忠告するか、但しは友人が個人として取りしらべ、実際非行のあったものなら辞職させるなりなんなりしたらよかろう、大臣を捉へて私行を内閣で裁判するやうな先例を作ってはこまる、況んや大臣の妻女の屍骸を発掘するなどは政府の威信に関するといふ説だ、すると伊藤などは非常に激昂して喋る、随分烈しい議論が初まって却々(ナカナカ)結末がつかない

 

▲大久保の一言 ところが大久保は唯だ黙って居る、始めから居るか居らぬか分らぬ様だった、すると三条公は皆さんの意見は承はったが、内務卿は如何です、黙って居られるやうだが、御意見は如何ですと聞いたら、大久保は漸やく口を開いて『世間では大変八釜しいさうだが、私には疑がない、女房を殺した形跡は更にない、どういふ證據からおしらべなさる、私は全然不同意であるのみならず黒田は私と同郷のもので且つ親友ですから私は自分の身に引き受けて、そんな事のない事を保證します、此の大久保をお信じ下さるなら黒田をもお信じ下されたい』と、ピーンと一言やった、おれなどは憤慨党の一人で、どう大久保がいふかと実は内々拳を握って待って居たが、冷っとした、そして『ア、これはもう駄目だ』と思った。

 

▲群議慴服(ショウフク) 今まで猛り立って居た参議連中も今の大久保さんの一言で一遍に黙ってしまった、議論屋の伊藤もすっかり黙ってしまった、大久保が斯う出ては万事駄目さ、そこで三条公は『皆さん今の内務卿のお言葉に御疑惑は有ませんか』と言はれたが、ハゝゝゝ、皆が君疑惑は有りませんと言って頭を下げたよ、偉いもんだね、夫から自然と世の中の黒田に対する議論が鎮圧されてしまった、斯ういふことは善い事か悪い事かはおれは知らん、けれども大久保の友誼に厚かった事と、威望の大きかった事は分るだらう(つづく) 

資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

其事既ニ人口膾炙(カイシャ)シテ掩(オホ)フ可ラザル勢有ルニ至ッテハ 縦(タト)ヒ無根ノ風説ナルモ尚尚能(ヨ)ク其実際ヲ弾劾シテ其浮言流伝タルコトヲ世ニ証明シ 如(モ)シ果シテ其実アラシメバ直ニ之ヲ律ニ照シ刑ニ処シ政府ハ苟モ至公至正ニシテ人ノ為ニ法ヲ枉(マ)ゲザルコトヲ公示シ 以テ世ノ疑団ヲ解クベシ 豈隠秘シテ其朝ノ恥辱ヲ蔽フガ如キ拙劣アルベケンヤ 然ルヲ此ノ如キ大事ヲシテ其儘ニ置ク時ハ自然ニ人民ノ望ミヲ失ナヒ 後来其政府ノ大難事ヲ引出スノ端緒タラン乎 チト他人ノ疝気(センキ)ヲ憂フルニ似タレドモ当路ノ人夫レ之レヲ思ヘト生意気ニモ吾□色ヲ正フシテ云フ

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井上馨 藤田組贋札事件と相つぐ変死事件

2018年09月02日 | 国際・政治

 尾去沢鉱山事件や予算問題などで、当時の司法卿江藤新平との争いに敗れ大蔵省を去った井上馨が、藤田組贋札事件にも関わりがあるという話に驚きます。

 井上馨は、幕末に浪士・宇野東桜の斬殺に加担していますが、司馬遼太郎の暗殺者を主人公とする短編集 「幕末」(文春文庫)の「死んでも死なぬ」と題された文章の中に、公使館焼打ち事件に関わって、下記のような一節がありました。

当時、品川御殿山の景勝の地に、幕府は巨費をもって各国公使館を建築し、ほとんど竣工しようとしていた。
「あれを焼いてしまえ」
 と仲間に提唱したのは、長州攘夷派の領袖高杉晋作である。目的は、水戸藩、薩摩藩の過激分子と攘夷競争をしていた長州藩高杉一派が、競争諸藩の鼻をあかすことと、幕府を狼狽させ、その威信を失墜させるためのものだ。むろん、こういう挑(ハ)ねっかえりの若者は、この当時、長州藩でもまだ高杉以下十七、八人という小人数しかいない。この連中が、維新までの六年間、正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ、途中そのほとんどが死に、生き残った者が気づいたときには、維新回天の事業ができていた。
 聞多と俊輔は、こういう時代から、この仲間に入っていた。

 聞多(井上馨)も俊輔(伊藤博文)も、かつて ”正気とは思えぬほどの暴走につぐ暴走をやってのけ”た仲間です。
そうした暴走をくり返した尊王攘夷急進派の面々が、最終的に武力で幕府を倒して政権を手にしたため、彼らの暴走(蛮行)は何ら咎められることがなかったばかりでなく、彼らが明治新政府の要職を固め、活躍することになりました。それが、その後の日本をあやまらせることにつながったのだろう、と私は思っています。
 権力を手にすれば、過去がどうであろうと、自分たちのやりたい大きなことができるという井上らの成功体験が、尾去沢鉱山事件や藤田組贋札事件をはじめ、様々なその後の事件や戦争にも影響しているのではないかと思うのです。

 藤田組贋札事件は、関係者による隠蔽工作の結果でしょうが、多くの謎が残っています。でも、当時の人々は、感覚的に事件の核心を見抜いていたのではないかと思います。だから、きちんと疑いを晴らすことができなかったのではないかと思います。謎が残ったままであることが、事件の真実性を語っているのではないか、とさえ思います。

 事件の関係者はもちろんですが、誰もが受け入れ難い贋札事件の犯人として、明治の元勲、井上馨の名前が出てきては困る人たちも、隠蔽に加担したり、あるいは、ありもしない事実を勝手に想像して語ったりすることがあったでしょうし、今なお、あるのではないかと思います。したがって、事件に関わる事実については、慎重に判断して受け止める必要があると思います。
 
 藤田組贋札事件を摘発し、藤田伝三郎をはじめ、井上馨と関係の深い中野悟一を逮捕、投獄して、きびしい取調べをした大警視・川路利良は、”急死”ではなく、”病死である”という情報も、その出どころや状況がはっきりわからなければ、信用することができません。

 明治政府は、太政官札や藩札を新紙幣に統一するにあたって、はじめはドイツの印刷業者に紙幣の印刷を依頼し、その後ドイツから印刷設備一式と原版を輸入し、日本で印刷するようになったといいます。そうした新紙幣のニセ札が、真贋の鑑定が難しいほど精巧であったということですが、紙幣印刷の専門家ではない医師・熊坂長庵にそうしたニセ札の印刷が可能であったとは思えません。また、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたということも、個人の犯罪としては考えにくいと思います。あり得ないといっても過言ではないと思います。さらに、川路大警視がベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したと報道された後に急死していることも、そのころベルリンを行き来していた井上馨の策謀を疑わせます。

 下記は「日本疑獄史」森川哲郎(三一書房)から抜粋しましたが、明治という時代をよりよく理解するためには、こうした犯罪的な汚職の事実も見逃してはならないと思います。不都合な事実をなかったことにすることは許されないと思います。 

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                       藤田組贋札事件
                           ーー相つぐ変死事件ー

 川路大警視は藩閥に消された?

 井上は、…尾去沢事件発生直後、例の大蔵省予算問題で江藤に敗れて、野に下ったが、それだけ汚職の黒い噂につつまれている中で、鉄面皮にも、大阪に出て、堂島で大きな買占め事件を起した。
 また、やはり大阪で、先収会社というものを創立開業して、大もうけをしている。これは子分の藤田伝三郎、木村正幹、富永冬樹、吉富簡一らを使って、大阪鎮台の請負をやらせたのである。井上の藩閥のボスとしての顔を大いに用いたのである。

 井上はやがて元老院議員に返り咲いたが、この時、会社は解散して、藤田組と改名した。やはり長州出身の藤田伝三郎と旧幕臣中野悟一が経営したのである。しかも、井上が黒幕で、背後からあやつって大もうけをしていた。
 たとえば、西南戦争のときなどは、井上のあっせんで、軍需品を政府に納入して、死の商人として、巨利を占めている。
 ところが、この悪のグループは、ついに尻尾を出した。これが贋札事件である。当時の社会をゆり動かした大事件である。連日、新聞に書き立てられた。主犯は、井上につながる藤田伝三郎で、大量のにせ札を作って、バラまいていた。その機械は、某国から仕入れたものとまで指摘して、疑いようのない事件として報道されたのである。

 それほど、当時の藤田組の繁昌ぶりは、目につくものがあり、単なる商取引だけの利潤かどうか、かげで何をしているのか、疑われたのである。
 ところが、ここに世にも不思議なことが起った。肝腎の事件追及の中心人物川路に突然洋行の命令が発せられたのである。しかも、川路は、その帰国の途中原因のわからないなぞの死をとげたのである。
 昔から、政治上の汚職事件のカギを握る人物が、事件追及中突如変死したり、急死したり、自殺と言われる死をとげたりすることは、いまと少しも変わりはない。
 山城屋事件も、山県につながる野村和助の切腹、三谷屋事件では、三谷三九郎の義兄の急死がある。この男が三井の返り証文を持っていたのだが、その行方は、この急死によって永久に不明になり、三谷屋の厖大な土地は、永久に三井のものになってしまった。
 今度は、藤田組贋札事件の鍵をにぎる川路大警視が、原因不明の急死をとげたのである。
 白昼の怪談は、政治権力者の黒い事件とともに続くのである。
 しかも、変死者は、川路大警視だけでなく、やはり事件の黒い鍵をにぎる中野悟一も、数年後猟銃自殺したと発表されたのである。
しかも、事件の結末は、藤田伝三郎は贋札犯人ではないということになっておさまってしまった。しかも、大正年間、藤田は男爵に進み巨財を作って、山県有朋の晩年、目白の椿山荘を買い取って、豪奢な暮らしは、世間の目を驚かせた。
 川路の急死は、いまでは藩閥と金権と密着したもみ消し工作に屈服しなかったための犠牲と見られている。

 

死の商人藤田・中野と長州閥のゆ着

 藤田伝三郎は、長州萩の豪商の息子であった。士族ではないが、幕末、高杉晋作の組織した奇兵隊に入隊した。
 明治維新後、三谷家にいたことがあるが、その後幕末の縁故をたよりに、長州閥のらつ腕家・木戸や井上馨に密着して、陸軍御用達になった。もちろん山県とも深い関係があったのである。だから、後に山県の椿山荘を買いとることになったのであろう。
 彼が、山県を利用して行ったことは、軍靴の一手納入であった。これは、実に巨大なもうけを伝三郎にもたらせた。数年で、大阪の高麗橋に宏壮な店をかまえる身分になった。後に軍服や糧食まで、陸軍に納入するようになった。
中野悟一は、藤田伝三郎と違って、旧幕臣である。剣の達人であったという。
 かつて伝三郎が眼病を患って失明しかけたとき、有馬温泉で湯治していたが、そのとき出あって同情し、ヘボン博士を紹介してくれたのが、中野であった。
 ヘボンが手術をして、藤田の目はなおったが、中野に感謝して、長州閥のボス木戸孝允や井上に引きあわせた。
 中野は、長州閥になりきるために、長州に籍を移し、山口県令にのし上がった。これで、彼は、名実ともに長州人になりきり、山口県令をやめた後、藤田とともに、井上の先収会社の経営者の一人となり、後は、その後身の藤田組の重役となって、巨利をむさぼった。
 井上が、堂島で、凄絶な米相場をはったとき、藤田、中野も加わっていたという。
 西南戦争の勃発は、彼らに死の商人として、巨利を与える絶好のチャンスになった。ことに都合のよいことは、山県有朋が、征討軍の軍監になったことである。
 山県は、一時、大阪の藤田軍を本拠として軍務を見たという一事からも、藤田組が、長州閥を足場にして、いかに深く陸軍に食い入っていたかが分かる。
 政府軍は、大阪を軍需品の調達基地にした。もちろん、藤田・中野に特権をあたえたのである。
 この戦役でのもうけ頭は、藤田組よりも規模が大きく、兵器だけでなく兵員輸送もおこなった三菱の岩崎弥太郎であったが、二位は藤田組で、そのもうけは、当時の金で数百万円といわれた。現在では、数百億円に当たろう。


 ニセ札事件の発覚

 しかし、それと同時に、ニセ札事件が発生したのである。事実藤田組のやったことなら、井上・山県らと組んでやったことであろうが、悪質この上ない事件である。
 西南戦争が終わらないうちに、関西から九州一帯にかけて、二円紙幣のニセ札が大量に発見されたのである。
 幕末からニセ札は、かなりの回数で出まわっていた。しかし、今度のは、それまでと違って、精巧きわまるもので、五百倍の顕微鏡で拡大しなければ分からないものであった。
 ことに、藤田組が、このニセ札を作った主犯と見られたのは、元藤田組支配人が告発したからである。木村真三郎という男で、西南戦争当時支配人をしていた男だから、当時の組の事情には、最も精通しているはずである。
 かれは、手記を書き上げ、実地録と名づけ、大阪府の判事補桑野札行へ訴え出たのである。
 その手記の中には、驚くべきことが書かれていた。それによると、ニセ札の犯人一味は、井上馨と藤田伝三郎、中野悟一らになっている。ニセ札は、独仏両国で作り、これを井上参議御用物として日本に送らせていた。木村自身輸入の函(ハコ)や反物の中に、青い紙幣様のものを見たというのだ。
 また、木村が長崎出張中、まだ世間に通用していない新紙幣数万円をとりあつかったことがある。
ところが、伝三郎の甥辰之助と手代の新山陽治から秘密を聞かされ他言しないようにと脅迫されて、誓約書を書かされたというのだ。この手記を眉つばだと現在もいう人がいるが、これだけ現実に即した詳細な手記を単なるフィクションでものにできるものだろうか?
 とにかく、これだけ精巧な技術は、当時の日本としては、望み得ベくもなかった。また、外国で製造してもちこむ場合、最も発見されないで流布できる確率は、取引のさかんな会社、いわば金銭の出入りの激しい店で使うことである。
 この告発にもとづき、明治十二年九月十五日未明、藤田邸は、三十数名の警官に急襲された。社長藤田伝三郎、重役中野悟一らは、もちろん逮捕拘引された。と、同時に徹底的に家宅捜索が行われた。
 これを聞いた山県、井上は激怒した。明確な証拠もあがらない段階で、名誉ある階級の人々を逮捕することは警視局の越権行為だとというのだ。
 ちょうど、このころ、外遊中の川路大警視が、ベルリンで精巧な紙幣贋造印刷機を発見したという報道が伝えられてきた。川路は、この事件追及に、突如警察制度とり調べのため外遊を命ぜられていたのである。しかし、川路は屈せずに、この機会を利用して独自の捜査を進めていたようである。


 疑われる井上の動き

 井上馨は、なぜかこれより少し前に、ベルリンにおもむき、帰国している。ニセ札取引の連絡に行ったのか、事件が日本で発覚したので、処理に行き、口封じをしてきたのか、証拠隠滅に行ったものか、いろいろな推測がされるが、いまもなぞの残る行為である。
 ところが、その川路大警視が、帰国の船中で急死したのである。当然、井上、藤田などの手がまわって、船中で毒殺されたのだという噂がひろまって、疑惑は、井上らの身辺に集中した。
 しかし、その後の追及では、すでに証拠が隠滅されていたのか、警視局に強力な圧力がかかったのか、三か月後に、藤田、中野ら全員は、証拠不十分で釈放されてしまった。
 と、同時に、告発者の木村は、偽証罪で告発された。しかも、川路の腹心で、川路が同事件を徹底的に追及せよと命じたという安藤中警視と佐藤権大警部は、上司の許可を得ないで、大阪に出張したことは不届きであるという理由で、馘首された。贋札事件もみ消しのための弾圧事件であり、復讐でもある。

 ・・・

 

 いけにえか? ニセ札犯人とされた男

 しかし、権力側も、このままで終わらせたのでは、あれだけ騒がれたニセ札事件を完全に葬ることはできない。
 ニセ札が大量に出まわったことは事実で消しようがない。そこで、この男がニセ札を作った真犯人だと一人の男を検挙した。
 医者である。神奈川県愛甲郡中津村に住む熊坂長庵という三十八歳の男であった。彼が、二千八百枚にもおよぶ、精巧きわまるニセ札を作ったというのだ。
 ニセ札作りは、古代から極刑である。彼も無期懲役の宣告を受けて、投獄された。
 当時まだ、鉄道も開通していない時代に、関西から九州にかけて、一時に流布された大量のニセ札を、この男は一人で作り、一人で使って歩いたのか、これも、世にもふしぎな白昼の怪談である。
 しかし、ニセ札問題での大騒ぎで、世人の目は、藤田組と山県・井上・伊藤らとの密着による不断の汚職に対する追及をごま化されてしまった。
 これは、現代もいえることなので、真犯人は誰か、真の黒幕は誰か、そして、事件の真の根元はどこにあるのかを常に追及する姿勢を我々は失ってはならないと思う。

 ・・・

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