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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍人勅諭 全文

2017年04月30日 | 国際・政治

 下記の「軍人勅諭」は、戦時中に発行された「軍人勅諭謹解」三浦藤作著(鶴書房・昭和19年9月発行)から抜粋しました。したがって、最近あまり目にしない漢字の旧字体が多く使われていますので、その一部は新字体に変えました。また、同書の「勅諭」の文章では、すべての漢字に読みがなが付けられていますが、その一部の読みがなを半角カタカナで漢字の後に括弧書きしました。旧仮名遣いについては、維持するようにしました。

  『軍人勅諭』(正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』)は、1882年(明治15年)1月に明治天皇が陸海軍の軍人に「下賜」したものですが、それは、参謀本部を政府(当時の太政官)のもとにある陸軍省から独立させ、天皇が直接統帥権を掌握し親裁することに決定した、いわゆる「統帥権の独立」(明示11年)や、陸軍卿山県有朋の名において、陸軍部内に頒布された「軍人訓戒」(西周の起草・明治11年)を、発展的に「勅諭」というかたちにまとめ、より一層天皇制絶対主義的なものにしようと意図した結果だろうと思います。

 山県有朋は、明治天皇の名により宣言された王政復古の大号令による天皇親政のもと、日本では初めての近代軍隊の組織化に取り組み、天皇の統帥権を確立するとともに、天皇の命令に絶対服従する軍隊を作り上げ、政権を強化しようと、「軍人訓戒」を改め、さらに進めて、天皇直々の「軍令」にも等しい「勅諭」というかたちで、軍人・軍隊に示したのだと思います。

 その勅諭は、前文において、「兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)り肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり」として、武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。
 徳目としては、下記のように「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、「己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ」、とか「上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ」などとして、天皇に対する絶対的自己献身を軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値にしています。

 
 同書の著者・三浦藤作は、「前篇 軍事勅諭謹解通義、第三章 勅諭下賜当時の国情」で、「明治天皇には、国民思想の混乱、社会情勢の紛糾を深く御軫念あらせられ、明治十四年に、国会開設及び憲法制定についての詔勅を賜り、明治十五年に、陸海軍人に勅諭を賜り、明治二十三年に、教育に関する勅語を賜り、政治上・軍事上・教育上の大本を明らかにしたもうたのであつた」と書いていますが、「国民思想の混乱、社会情勢の紛糾」の原因は、主として欧化主義によるものであったと受け止めたようです。天皇や天皇を取り巻く関係者が、欧化主義により「日本伝統の美風」が失われていくことを憂慮し、日本を天皇制絶対主義の国として発展させるため、「軍人勅諭」や「教育勅語」を「下賜」したのだというわけです。

 関連して見逃すことができないのは、当時、自由民権運動の指導者の一人であった「植木枝盛」が、国民に兵役の義務を課さない志願兵制を主張し、天皇制絶対主義的軍隊ではなく民主制軍隊の必要性を主張していたことです。彼は、天皇制絶対主義的軍隊が、民主主義の成立・発展に障碍となることを見ぬいていたということだと思います。
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   勅諭
我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬(ミ)つから大伴物部の兵(ツハモノ)ともを率ゐ中国(ナカツクニ)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ高御座(タカミクラ)に即(ツ)かせられて天下(アメノシタ)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ此間世の様の移り換(カハ)るに随(シタガ)ひて兵制の沿革も亦屡(シバシバ)なりき古(イニシエ)は天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)にて時ありては皇后皇太子の代(カハ)らせ給ふこともありつれと 大凡(オホヨソ)兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき中世(ナカツヨ)に至りて文武の制度皆唐国(カラクニ)風に傚(ナラ)はせ給ひ六衛府(ロクエフ) を置き左右馬寮(サウメリョウ)を建て防人(サキモリ)なと設けられしかは兵制は整ひたてとも打続ける昇平(ショウヘイ)に狃(ナ)れて朝廷の政務も漸く文弱に流れければ平農おのづから二つに分かれ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変はり遂に武士となり兵馬の権は一向(ヒタスラ)に其武士ともの棟梁(トウリヤウ)たる者に帰し世の乱れと共に政治の大権も亦其手に落ち凡(オヨソ)七百年の間武家の政治とはなりぬ世の様の移り換(カハ)りて斯(カク)なれるは人の力もて挽回(ヒキカヘ)すへきにあらすとはいひなから且(カツ)は我国体に戻(モト)り且つは我祖宗(ソソウ)の御制(オキテ)に背き奉(タテマツ)り浅閒(アサマ)しき次第なりき降(クダ)りて引化嘉永(コウクワカエイ)の頃より徳川の幕府其政(マツリゴト)衰へ剰(アマツサヘ)外国の事とも起りて其侮(アナドリ)をも受けぬへき勢(イキオヒ)に迫りければ朕は皇祖(オホヂノミコト)仁孝天皇皇孝明天皇いたく宸襟(シンキン)を悩し給ひしこそ忝(カタジケナ)くも又惶(カシコ)けれ然るに朕幼(イトケナ)くして天津日嗣(アマツヒツギ)を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統(カイダイイットウ)の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼(チュウシンリョウヒツ)ありて朕を輔翼せる功績(イサヲ)なり歴世祖宗の專(モハラ)蒼生を憐み給ひし御遺澤(ゴユイタク)なりといへとも併(シカシナガラ)我臣民の其心に順逆の理を辨(ワキマ)へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更(アラタ)め我國の光を耀(カガヤカ)さんと思ひ此十五年か程に陸海軍の制をは今の樣に建定(タテサダ)めぬ夫(ソレ)兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々(ツカサヅカサ)をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親(チンミヅ゙カラ)之を攬(ト)肯(アヘ)て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再(フタタビ)中世以降の如き失體なからんことを望むなり朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱(ココウ)と頼み汝等は朕を頭首と仰(アフ)きてそ其親は特に深かるへき朕か國家を保護して上天(ショウテン)の惠に應し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡(ツク)すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威(ミイヅ)振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維(コレ)揚りて其榮を耀さは朕汝等と其譽(ホマレ)を偕(トモ)にすへし汝等皆其職を守り朕と一心(ヒトツココロ)になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平の福(サイハイ)を受け我國の威烈は大(オオイ)に世界の光華ともなりぬへし朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶(ナホ)訓諭(ヲシヘサト)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

一 軍人は礼儀を正くすへし凡軍人には上元帥(カミゲンスイ)より下一卒(シモイッソツ)に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承(ウケタマハ)ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己(オノレ)か隷屬する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧(フル)きものに對しては總(ス)へて敬禮を盡すへし又上級の者は下級のものに向ひ聊(イササカモ)も輕侮驕傲(ケイブキョウゴウ)の振舞あるへからす公務の爲に威嚴を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇(ネンゴロ)に取扱ひ慈愛を專一(センイチ)と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若(モシ)軍人たるものにして礼儀を紊(ミダ)り上を敬(イヤマ)はす下を惠(メグ)ますして一致の和諧を失ひたらんには啻(タダ)に軍隊の蠧毒(トドク)たるのみかは國家の爲にもゆるし難き罪人なるへし

一 軍人は武勇を尚(トウト)ふへし夫武勇は我國にては古よりいとも貴(トウト)へる所なれは我國の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし况(マ)して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し軍人たらむものは常に能く義理を辨(ワキマ)へ能(ヨ)く膽力(タンリョク)を練り思慮を殫(ツク)して事を謀(ハカ)るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼(オソレ)れす己か武職を盡さむこそ誠の大勇にはあれされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人(ショニン)の愛敬を得むと心掛けよ由(ヨシ)なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼(サイロウ)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ

一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難(カタ)かるへし信とは己か言を踐行(フミオコナ)ひ義とは己か分を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(ツマビラカ)に思考すへし朧氣(オボロゲ)なる事を假初(カリソメ)に諾(ウベナ)ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(キハマ)りて身の措(オ)き所に苦むことあり悔(ク)ゆとも其詮なし始に能々(ヨクヨク)事の順逆を辨(ワキマ)へ理非を考へ其言は所詮踐(フ)むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速(スミヤカ)に止(トドマ)るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍(ワザハイ)に遭ひ身を滅し屍(カバネ)の上の汚名を後世(ニチノヨ)まて遺(ノコ)せること其例(タメシ)(スクナ)からぬものを深く警(イマシ)めてやはあるへき

一 軍人は質素を旨(ムネ)とすへし凡質素を旨とせされは文弱(ブンジャク)に流れ輕薄に趨(ハシ)り驕奢華靡(ゴウシャクワビ)の風を好み遂には貪汚(タンヲ)に陷りて志(ココロザシ)も無下(ムゲ)に賤(イヤシ)くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪(ツマ)はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚(オロカ)なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の傳染病の如く蔓延し士風(シフウ)も兵氣(ヘイキ)も頓(トミ)に衰へぬへきこと明なり朕深く之を懼(オソ)れて曩(サキ)に免黜條例(メンチュツデウレイ)を施行し畧(ホボ)此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(コトサラ)に又之を訓(オシ)ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡(オシヘ)を等閑(ナホザリ)にな思ひそ
右の五ヶ條は軍人たらんもの暫(シバシ)も忽(ユルガセ)にすへからすさて之を行はんには一の誠心(マゴコロ))こそ大切なれ抑(ソモソモ)此五ヶ條は我軍人の精神にして一の誠心(マゴコロ)は又五ヶ條の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言(カゲン)も善行も皆うはへの裝飾(カザリ)にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし况(マ)してや此五ヶ條は天地の公道人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧(コゾ)りて之を悦(ヨロコビ)ひなん朕一人の懌(ヨロコビ)のみならんや

明治十五年一月四日
御名

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捕虜刺殺訓練と戦陣訓

2017年04月20日 | 国際・政治

 「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋した下記の文章の中で、捕虜の刺殺ができなかった大越二等兵に投げかけた中尉の言葉

よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい
は、日本軍特有の残虐性を示すものとして、私は見逃すことができません。なぜなら、捕虜を裁判なしに殺害することは、「ハーグ陸戦条約」に反する行為ですが、当時の日本軍が「 俘虜は人道をもって取り扱うこと」という原則を中心に、細かく定められた捕虜に関する国際法を無視し、初年兵の訓練のために、捕虜を殺害させていたという事実を、はっきり示していると思うからです。そして、それは第五十九師団師団長・藤田茂中将の次のような言葉を思い出させます。

兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない
此には銃殺より刺殺が効果的である

 また、下記の文章(「閉ざされた少年の眸」)を読んで、私は、刺殺訓練のための捕虜殺害を拒否し、リンチを受けたという”渡部良三”に、下記のような歌があったことを思い出しました。

いかがなる理にことよせて演習に罪明らかならぬ捕虜殺すとや
捕虜五人突き刺す新兵(ヘイ)ら四十八人天皇の垂れしみちなりやこれ

 日本軍兵士は、「皇軍」の兵士であるがゆえに、「皇軍」の「訓」(オシエ)である「戦陣訓」に反して「捕虜」になることは受け入れられず、兵士が「捕虜」になることは「死」を意味しました。だから、敵国の捕虜の人命も尊重されることがなかったのではないでしょうか。

 ”深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せん”ことを義務づけられた皇軍兵士は、”生きて虜囚の辱めを受け”てはならず、”死して罪禍の汚名を残すこと”が許されなかったわけですが、なぜ、捕虜になることが「辱めを受け」ることなのか、なぜ捕虜になることが、「汚名を残すこと」なのか、そこに人命軽視の落とし穴があるのではないか、と考えさせられるのです。

恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
というような「皇軍の訓(オシエ)」がなく、完全に弾薬が尽きたり、食糧が尽きたり、あるいはまた、銃が持てなくなったり、失明したりして、戦いを継続することが不可能になったら降伏する、ということが認めらていれば、戦地における「餓死」「玉砕」などという酷い死はなく、捕虜の刺殺訓練などというものもなかったのではないでしょうか。
 したがって、「戦陣訓」というような「皇軍の訓(オシエ)」から、日本軍の人命軽視や残虐性がうまれたのではないかと思うのです。
 
 下記は、「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。
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                   閉ざされた少年の眸
                                               大越千速
 教官室、石油ランプの灯は暗い。粗末なテーブルを前に、木椅子に腰かけている中尉と、その中尉に向かって直立不動の姿勢で立っている二等兵。室内は重くよどんでいる。
 若い中尉の色の白い細面の顔には、鋭さは見られず怒りの表情もなかった。二等兵は困惑のあまり茫然としていた。二人は向かいあったまま長い沈黙の時間が続いていた。
「お前は他人から殴られても、殴りかえさないか」
 沈黙を破って中尉が静かに言った。
「はい……その時になってみなければ……」
 二等兵は細い声で答えた。
「そうか、その時になってみなければわからないというのか。それではお前が殺されようとした場合はどうか。自分を守るため相手を殺そうとはしないのか」
「……」
「どうなのだ、世の中は常に戦争が絶えないのだ。歴史がそれを証明している。簡単に言うと正義と不正義の戦いだ。不正なやつがお前の生命を奪おうとした場合、お前はそいつに黙って生命を与えてやるのか」
「……」
「どうして答えられないのだ。与えるか与えないか、二つに一つ、簡単ではないか。与えるときは自分が死ぬ。与えないときは相手を殺して自分が生きる。ただそれだけのことだ」
「……」
「どうして返事が出来ないのだ、どっちも嫌だなどという馬鹿なことはないだろう」
「……」
「よし、最後に聞こう。正義と不正義とお前はどちらを愛するか」
「はい、正義を愛します」
二等兵は蚊の鳴くような声で答えた。
「よし、正義を愛するならば、不正義を撲滅することが出来るはずだ。つまり敵を殺すことが出来るわけだ。このことがよく解れば捕虜を殺すことはなんでもない。二度と今日のようなことがないように、戦場に出る時のために十分に度胸をつけるのだ。そのための訓練に震えてしまうようではいけない。いいな、解ったら帰ってよろしい」
「はい」
 二等兵は教官に敬礼して室外にさった。

 愛しき者よ、父はわが子御前たちを、そう呼ぼう。父が体験した戦争、太平洋戦争について、かつて父は多くを語らず、お前たちも多くを聞こうとしなかった。
 父は言うべくして戦争を語る自信がなく、おこがましさを許してくれるなら、正義の所在を模索し続けているのだと言おう。
 色即是空。仏教の言葉を借りるならば、実在的独断を極力打破して、世の中の実相を把握しようと……だが暗中模索の中、いたずらに時日は流れ去るのみ。結論のない戦争体験の父の言葉は、愛しき者お前たちよ、お前たちの正しい判断に委ねよう。
 教官室の二等兵は、従軍中の父である。私が従軍した駐屯地の城壁には、巨大な文字が横に書かれていた。その文字は、同文同種、防共和平、の八文字である。円形の白地の中に一字一字黒く書かれたそれらの文字、その文字の見える城外で、或る晴れた早春のその日、捕虜刺殺の実地訓練に、初年兵の私は、青くなって震えあがり刺殺することが出来なかった。教官室での説教は、そのためであった。

 共産軍少年兵捕虜の朱良春に、私が初めて接したのは、私が震えてしまった刺殺訓練の日の数日後である。
 私は、その日初めて城門分哨の勤務についたのである。そして、その哨舎の中に朱良春を見たのだ。古年兵の話によれば朱良春は、数日前に初年兵の実地訓練に供された数名の者と同様、共産の攻略戦における捕虜だという。そして朱良春は、少年兵のために処刑されないで、やがて釈放されるのだと。
 古年兵からその話を聞き、後ろ手に縛られている朱良春と視線をあわせた時、私は心の中で思わず微笑するのを覚えた。
 昼食、夕食、食事当番が哨舎に運んでくるそれらの食事は、朱良春にも全く同じ物が与えられた。
 駐屯地に、黄昏が迫る頃、黄色い大きな月が東の空に出て、砂丘に波状の陰をつくった。
 城壁の上を動哨する兵士の耳に、何処からともなく幽かな鈴の音が響く。此処は内蒙古オルドスの草原、あの砂丘の何処かをキャラバンが通っているに違いない。城壁の兵士は幻想の中に鈴の音を聞くのである。
 哨舎の中の少年兵捕虜は、後ろ手に縛られたまま舎屋の壁に背をもたせて眠った。
 私は控兵として、銃を手にし木椅子に腰かけて、戦争にはやはり勝たなければと、そんなことを、ふと考えたりした。
 二十四時間の分哨勤務を終わって、翌朝、私たちは新しい分哨要員と交替した。哨舎を去る時、私は昨夜支給された甘味品、飴玉の残り数個を、軍衣のポケットから出して少年に与えた。後ろ手に縛られ壁を背に、土間に両足を投げ出している彼の前に、それを差し出したのである。勤務についた古年兵の一人が、
「よし、俺にまかせろ」
と、飴玉を受取り、一個の包紙をとって朱少年の口許に出した。朱少年は、素直に口を開けた。
 勤務あけの古年兵とともに、中隊に帰りながら私は、朱良春が何歳なのか、何故彼は軍服を着ないで普通一般人の衣服を着ているのかを聞いた。そして、彼が十五歳であること、共産地区の民は、平素はにあって農耕に従事し、戦闘の際には、その服装のまま男も女も、老人も子供も、武器を手にする事の出来る総ての者が戦うことを知らされた。
 古年兵が言った。
「朱良春も正規軍ではない兵隊ってわけさ」

  万朶の桜か襟の色
花は吉野に嵐吹く
大和男子と生れなば 
散兵線の花と散れ

 午前の演習のため完全武装した初年兵は、軍歌を歌いながら城外へ向って行進していった。私が城門の分哨勤務についた日から二日後のことである。城門を過ぎる時、私は朱少年のことを、ちらと思いうかべたが、私自身も声をはりあげて歌う軍歌のために、その思いは瞬時にかき消された。
 城門を出ると急に視界が拡がって、遙か北方に連なる陰山山脈は、樹木のない岩石の肌を早春の淡い霞の中に見せていた。
 その一連の山系の外は、東、南、西と視界の総ては、海洋の波濤のうねりように起伏する砂丘の彼方に模糊としてかすむ地平線がオルドス草原の広大さを思わせた。やがて隊列は停止した。私はその時、停止した隊列の前方に、数名の古年兵とともに立っている朱良春の姿を見た。そして名状するすることの出来ない予感に襲われた。
 古年兵はシャベルで大地を掘り木柱を立てた。朱良春は、白布で目隠しをさせられて木柱にくくりつけられた。私は陰山山系に視線を移した。
 駐屯軍がA山と名づけた高峯に、白い雲が流れていた。更に今私たちが通って来た方をふりかえると城壁が夢のように浮かんでいた。
 同文同種、防共和平
「気をつけ!着剣!」
 鋭い号令に私は、我にかえって歩兵銃に腰の剣を装着した。
「○○二等兵、前へ出ろ」
教官が私を呼んだ。
「はい」
鸚鵡がえしに私は答え、隊列から数歩前へ出た。
「今から突撃の訓練を実施する。○○二等兵よいか、お前が今日は一番乗りだ。目標はあの敵だ。号令は教官がかける」
 教官は木柱の方を手で示すと腰の軍刀の鞘を払った。
私は木柱の朱良春を見つめた。
「突撃!進め!」
教官の号令に私は、銃剣を右手にさげ大地を蹴って走った。二十メートル、十五メートル、十メートル ――
「突っ込め!」
 私の横を走る教官の号令。
「ウオー」
 私は絶叫し銃剣を両手に構えた。朱良春の姿が目前に大きく迫る。そして私が絶叫したその時、朱良春の唇を洩れる悲痛な声を、私は聞いた。
「ムーチン(母親)」
 母を呼ぶ声である。私は目標の数歩前で停止した。全身にはりつめていた気力が虚脱したのである。「こいつ!」
 教官の黒い長靴が私の脚を蹴った。私は地上に倒れ鉄帽をかぶった頭や、背や腰に、教官の足蹴りの洗礼を受けた。
「立て!」教官にひきたてられて、再び朱良春を見ると、どうしたことか彼の目隠しの白布が少しずれ下がって、双眸が現れ私を見つめていた。
 静かな眸の色であった。そうだ、それが私が城門分哨の勤務についた日に、初めて彼と視線をあわせた時の眸の色であった。朱良春は眸を閉じた。
「構え!銃」
 教官の号令に私は銃を両手で構えた。
「突け!」
 私は突いた。殆ど手ごたえもなく銃は朱良春の胸を貫いた。
 朱良春は声もなく頭を前にがくんと垂れた。

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戦陣訓 自決

2017年04月12日 | 国際・政治

 藤原彰教授によると、戦地における日本の軍人軍属の戦没者はおよそ230万名で、そのうち140万名を餓死とみることができるといいます(一般邦人30万、内地での戦災死者50万を加えると戦没者は全体でおよそ310万とのことです)。

 私は、「解説 戦陣訓」における、陸軍中将・岡村寧次の解説を読んで、なぜ、これほど酷い戦争を続けることができたのか、ということの答えを見出したように思いました。

 「解説 戦陣訓」において、「本訓第七 死生観」および「本訓第八 名を惜しむ」の項目の解説を担当した陸軍中将・岡村寧次は、資料1のように書いています(但し、漢字の旧字体は新字体に変えています)。
 岡村寧次は、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが「崇高な戦陣死生観」であるといいます。また、一時捕虜となった空閑昇(クガノボル)少佐が「奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたこと」を賞讃しています(空閑昇少佐の自決について詳細を知りたいと思ったのですが、空閑昇少佐に関する書籍が見当たらないため、「Wikipedia」で検索したところ、下記のような文章がありました)。

しかし空閑は中華民国の将校甘介瀾に救われ(甘は陸軍士官学校区隊長時代の空閑に教育指導を受けたと報道された)、一時は捕虜として真茹野戦病院に収容される。3月の日中捕虜交換によって身柄は上海兵站病院に移された。空閑は捕虜となったことを恥じ、部下らの戦没五七日忌にあたる3月29日、自らの部隊が奮戦した地点へ戻り拳銃により自決した。その死は美談として映画や小説等が作られた。1934年4月に靖国神社に合祀された。

 下記に抜粋した資料2の「戦陣訓は許すことなし」における「鈴木一等兵」同様、一時「捕虜」となった空閑少佐も生きることを望まず、自ら命を断ったのですが、岡村中将はそうした「自決」を賞讃しているのです。「戦陣訓」に書かれていることは、命を投げ出しても「皇国」の「(オシエ)」を守れ、ということなのだと思います。「皇国」の「訓」に従うということは、捕虜になってはならないということです。このような皇国の訓に従うことは”人命よりも尊い”ことなのだという考え方が、前線部隊や兵自らが降伏することを許さず、また、補給の不可能な戦地においてさえ、命を投げ出しての戦いを強いる無謀な作戦命令を出すことにつながったのだろうと思います。そして、それは七三一部隊における捕虜の「人体実験」や様々な部隊における、いわゆる「刺突訓練」で、初年兵に捕虜を突き殺させるというような人命軽視を生み出していったのではないかと思うのです。
 さらにいえば、特攻隊の戦死者第一号といわれる海軍大尉(戦死後に海軍中佐)「関行男」を、その死後、「軍神」などと称して畏敬の対象としましたが、同様のことが繰り返され、命を投げ出して戦った様々な兵士が「軍神」として靖国神社に祀られました。それは、「全滅」を「玉砕」などと美化して伝えることにもつながっているのではないかと思います。

 諸外国の軍隊では、命をかけて勇敢に戦い、食糧や弾薬が尽きて戦うことが不可能になったら降伏する、というのが常識で、何ら恥ずかしいこととは考えられていないため、捕虜の扱いや自決に対する考え方が日本とは根本的に違うのだと思います。だから、「天皇陛下万歳」と叫んで死ぬことが、「世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観である」などと主張するところに、日本の戦争の特殊性があり、そこにひそむ人命軽視の考え方が、数えきれない悲劇を生み出す結果につながったのだと思うのです。

 「皇国」の「訓(オシエ)」(戦陣訓)を、自らの命を投げ出しても守るべき「訓(オシエ)」した「皇国日本」の復活の兆しは、閣僚の靖国神社参拝にとどまらず、様々な法案の成立や憲法を変えようとする動きの中に感じます。そして、戦時中、父母が味わった塗炭の苦しみの話を思い出します。 

 下記資料2は「父の戦記」週刊朝日編(朝日選書212)より抜粋しました。こうした悲劇は忘れられてはならないことだと思います。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   「天皇陛下万歳」を叫ぶ心
                                              陸軍中将 岡村 寧次
 本訓第七『死生観』― 戦陣に臨む将兵が哲学といふ程の死生観を持ってゐるわけではないでせうが、将兵の全部が日本精神に徹してゐるといふことはいひ得ます。大きな戦闘が始まる前、陣中の将兵は何を思ふかといへば、一様に、故郷の父母兄弟に、知友に、小学校の先生に、これが最後となるかも知れないと便りを書く。このことは孝道の現はれと見るべきです。そして、いよいよ戦ひに臨むと、中隊長は兵を想ひ、兵は中隊長を想ふ ― の一念に一致してしまふ。敵弾を受けて倒れた刹那、兵が口にする言葉は「陣地は奪(ト)れたか」といふことであり、最後に息をひきとる瞬間は「天皇陛下万歳」であります。内地などでよくいろいろの会合の時など「大日本帝国万歳」と唱へますが、 将兵が戦死する瞬間は「天皇陛下万歳」であります。このことは日本人の精神の中(ウチ)に天皇陛下の兵 ― といふ意識が潜在してゐるからで、この点、世界のどこの軍隊にも見ることの出来ない崇高なる戦陣死生観を持ってゐます。
 私の部下には、インテリ部隊と呼ばれた学士の兵隊が五、六百名はゐたでせう。かうした兵隊について心配しましたが、いざ戦ひに臨んでみると、いづれも立派な態度で戦ひ、戦死してゐます。日本は武士道の国であり、武士道は死ぬことを教へたものであります。悠久三千年に亘る祖先の血は、立派な日本精神として、我々の中に生きてゐることが、よく判ります。

 本訓第八「名を惜しむ」― 軍人として、絶えず念頭に置くべき訓(オシエ)であります。上海事件において、空閑昇(クガノボル)少佐が奮戦の想出深き地点で壮烈なる自殺を遂げたことは、今尚、世人の記憶に存するところであります。少佐の遺書の一節に「武士の本領として腹一文字と行きたかったが、軍刀は先の奮戦で刃がこぼれピストルを使用するのやむなきに至った」とあります。
 生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れこの項については、多くを語るを要しますまい。将兵の凡てが、空閑少佐の心意気を持って、戦陣に臨むならば「名を惜しむ」の項を冒涜するするやうなことは起こらぬでありませう。”
 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    戦陣訓は許すことなし
                                                 平野 正巳
 昭和十六年、私たちの部隊は、北支那山東省の南西、河南省との省境に駐屯していた。川ひとつへだてた対岸は、共産第八路軍の政治工作の行届いたであって、わが部隊の動向は、たえず敵側につつぬけになっていた。
 私は部隊の主計として、糧秣、給与、酒保などを受けもっていたが、炊事係の兵隊に召集兵の鈴木一等兵がいた。炊事には人夫として、李、王、方の三人の現地人がいた。ともに二十歳くらいの青年であったが、私たちは便宜上、背の高い李を太郎と呼び、以下二郎、三郎と日本名で呼んでいた。中でも、太郎は主人(鈴木一等兵)思いで、行動は常に正しく、正義と人間愛に燃える青年であった。三人の中で一番教養もあり、日本語もよく理解していた。
 酷暑の八月、部隊は敵の一隊が対岸より十キロ離れたに集結していることを情報で知り、鈴木一等兵も急遽戦列に加わり、夜襲を敢行すべく出動して行った。
 敵は予想外の、われに十数倍する大部隊であり、わが方は数多くの戦死者と行方不明一名を出す大激戦であった。その行方不明が鈴木一等兵であった。

 鈴木一等兵は戦死したのかも知れない。しかし死体がない以上、行方不明として処理しなければならない。行方不明であっても、捕虜にはならないで、きっと戦死しているだろう。これが部隊幹部の希望的憶測であった。
 鈴木一等兵の行方不明を知った太郎は、声をあげて泣いた。炊事下士官に、早く救出してくれと嘆願し、私のところにも「何とかして、日本兵全部で探し出してくれ」といって来た。
「鈴木大人(ダイジン)には妻も子供もいる。その妻と子供のために探すべきではないか」と、しまいには私にくいつくような始末だった。私には兵を動かす指揮権はない。しかし、太郎の言葉が胸に強く響いたので、部隊長に進言した。
「太郎よ、私も小さくして父を失った。父のない子の悲しさは誰よりも私が一番よく知っている。だけれど、部隊長は兵隊を出すことを許可してくれない。だからあきらめてくれ」
と言うと、太郎は悲しい顔をしていた。太郎の国境を越えた人間愛に打たれて、私は思わず涙を流した。  
 太郎の父は県庁の要人であったが、共産軍に殺されたとのことであった。太郎が日本軍に入ったのも、何かそこに原因があったのだろうし、鈴木一等兵の子供に、父を失った悲しみを味わわせてはならないという人間愛も、己の体験に根ざした真実の叫びであったのだろう。
「太郎よ、鈴木がいなくたって、鈴木の妻や子供は手厚い国家の保護を受けて、不自由なく暮らせるのだから安心してくれ」
 私の言葉を聞く太郎の目から涙がこぼれ落ちていた。
「平野大人、この金を鈴木大人の家族に送ってくれ」と、太郎は大切にしまっていた三十円を私の目の前に差し出した。
 太郎の月給はたったの三円である。炊事場の片隅に寝泊まりして貯めたとはいえ、彼らの三十円は苦力(クーリー)として妻一人買える金額である。いつの日か妻を持ち、家庭を築きたいと、血と汗と涙で貯めた貴い金である。私は太郎の善意を断ったが、太郎も頑としてきかなかった。「太郎よ、ありがとう」私は声がつまって後の言葉が続かなかった。
 二郎も三郎も少しではあったが金を出した。私は部隊長室に太郎を連れて行った。部隊長も涙を流して太郎たちの金を受取り、礼を言った。
 この時の太郎は、鈴木一等兵をさがしてくれない憎しみの感情からなのだろうか、敵意を持った目で部隊長を見ていた。部隊長の言葉が終わると、太郎はハッキリとした日本語で「バカ野郎」といって逃げるように去り、そのまま部隊から姿を消して行った。
 太郎が去って十二日目の夕方、突然、二郎が私の部屋に来た。太郎が「ぜひ会いたい」といっているから来てくれとのことだった。
 薄暗い炊事場の裏に太郎が立っていた。 
 平家荘(ピンチャシャン)と言うに鈴木一等兵は捕虜になっている。大腿部骨折の貫通銃創を受けて、共産軍の手厚い看護を受けている。敵の主力部隊はすでに移動して、十二、十三人の敵兵の監視の中で治療している。二郎たち三人で救出に行ってくるから鉄砲を貸してくれ…とのことだった。
 私はびっくりした。生きているのは嬉しいことであるが、捕虜になっているのは悲しいことである。部隊長に話せば直ちに救出するであろうが、捕虜になった以上、せっかく帰って来ても、軍法会議で銃殺刑にされるのは必至である。戦死であるならば、鈴木一等兵の家族は靖国の妻として、子として、周囲からも暖かく迎えられるだろうが、銃殺刑に処せられた夫の遺骨を受け取った妻の悲しみはいかばかりか、それを考えるとどうすることも出来ない。
 日本軍隊には、捕虜になったら死ね…と言う戦陣訓がある。死ぬことが国家の至上命令なのである。
 私は迷った。しかし、太郎の必死の涙の嘆願で私の腹は決った。部隊長に黙って、私一人が救出に行こう。私は自分の拳銃を太郎に渡し、二郎と三郎に手榴弾を、私は兵隊の鉄砲を借りて布で巻き、支那服を着て兵営を脱出した。
 平家荘は三十戸に足りぬである。救出作戦はすべて太郎のいう通りにした。途中のを通過する時、太郎は適当なことを住民にいって、ようやく平家荘にたどりついた。
 太郎と二郎は敵の詰所(衛兵所)でしばらく話していたが、難なく通り過ぎた。私と三郎は詰所の裏の草ムラの中にひそんだ。太郎の拳銃の音とともに行動を起こす作戦だった。十分もたったころ拳銃の音がした。私と三郎は詰所に手榴弾を投げ込み、逃げる敵兵に銃弾を浴びせた。
 救出にかけつけた私を見て鈴木一等兵は、
「申し訳ありません」
といって泣いた。足には副木をあててあり、目は落ちくぼんで、顔はやつれはてていた。
 体の大きい太郎は、鈴木一等兵を背負って高梁(コウリャン)畑の中を走って行った。私たちは太郎が安全地帯に逃れるまで応戦した。
 夜の明けきらぬ内に部隊にたどりつき、鈴木一等兵を炊事当番室に寝かせた。
「鈴木、お前は捕虜ではない。重傷で動けなくなっていたのを親切な民家の人が助け、私たちが収容したことにする。だから決して捕虜になったのではない。従って軍法会議にはかけられない。お前は病院に収容され、名誉ある戦傷者として内地に送還されるのだ。安心してくれ」
 事実を知っているのは私だけである。私はウソをあくまでも通して助けるつもりでいた。
 まだ起床ラッパまで二時間もある。私は自分の部屋に戻った。部隊長にどんなふうに報告しようかと考えた。
 五時二十分、爆発音が窓ガラスを響かせた。胸騒ぎを押さえて炊事場に走った。鈴木一等兵はうつ伏せになり、腹に手榴弾をあてて自決したのだった。腸がちぎれ飛び手首が血の海の中に転がっていた。
 ―捕虜になって申しわけありません ― たったこれだけの遺書であった。
 せっかくここまで連れてきたのに … 太郎は死体に取りすがって泣いていた。やがて部隊長が来た。私は詳細に報告した。
「鈴木、よく死んでくれた。武人の花である」とほめたたえ、ニコニコしながら副官に、「行方不明を戦死と訂正するよう師団司令部に電報を打てと命令した。
 これを聞いた太郎は部隊長に向かって「東洋鬼(トンヤンキー)」と叫び、私に向かって「平野大人再見(ツァイチェン・さようなら)」と言って出て行った。そして二度と再び帰ってこなかった。
 ― 恥を知る者は強し。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すことなかれ ―
 戦陣訓のこの一節は氷のごとく冷たく、一片の人間愛もなかった。二十八歳の鈴木一等兵は、このために自らの命を断ったのだった。
 太平洋戦争では二百五十万の若き命が、アッツ、サイパンなどに玉砕し、ニューギニア、ビルマなどでは食糧のない餓鬼地獄の中で散って行った。食糧、弾薬が尽きたなら、すでに戦いの責任は果たしたはずだ。降伏さえすれば、どのくらいの貴い命が助かったことであろうか。
 そして現在、よき父、よき夫として暖かい家庭の中に生きていることであろうか。
 思えば、この戦陣訓は憎みてもあまりあり、本人はもとより、遺族にとっても、痛恨きわまりなきものであった。
 いったい、だれがこの戦陣訓をつくったのだ。そしてこれを全軍に布告した者こそ、太郎のいう人命の貴さ、人間愛を知らぬ東洋鬼である。
 昭和十七年、日本は太平洋戦争の勝利に明け暮れていた。しかし、それとは逆に、われわれの部隊は激しい敵の攻撃を受け、多くの犠牲者を出していた。
 東洋鬼と叫んで去って行った太郎は、そのころ共産第八路軍の若き中隊長となっていた。そして豪胆、沈着、神出鬼没、東洋鬼を撲滅せよと、日本軍に激しい攻撃をかけていたのだった。
 あれから二十五年、現在、太郎が生きていれば、きっと中華人民共和国の大幹部になっていることであろう。
 そして火の玉のごとき正義感と、あの人間愛を持って、真に民衆のために働いていることであろう。

 

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戦陣訓 全文

2017年04月07日 | 国際・政治

 下記の「戦陣訓」は、「解説 戦陣訓」と題され、昭和十六年三月に、東京日日新聞社および大坂毎日新聞社によって発行された本から解説部分を除き、抜粋したものです。当然かも知れませんが、当時の陸軍大臣、東條英機の言葉が「陸訓第一号」として掲載されています。そして、井上哲次郎東大名誉教授や今村均中将、西原勝少佐、岡村寧次中将、荻洲立兵中将、谷壽夫中将、田中隆吉少将、桑木崇明中将、馬淵逸雄大佐、藤田進中将、作家の菊池寛、末松茂治中将が、項目を分担して解説に当たっています。

 すべての漢字には、読みがなが付けられ、それぞれの項目で、難しい用語の意味が説明されていますが、読みがなの一部はカタカナでかっこ書きにし、難しい用語の意味の説明は、一部のみ抜粋しました。また、「陸海軍軍人に賜りたる勅諭」(軍人勅諭)の「五ヶ条」も、「序」の部分で、簡単な説明がされていましたので、合わせて抜粋しました。

 この「戦陣訓」が、戦時中どれほどの悲劇を生んだのかを学ぶにあたっては、まず、「戦陣訓」そのものをしっかり理解しておく必要があると思いました。

 今なお、森友学園の諸問題が毎日のようにメディアに取り上げられていますが、塚本幼稚園では、園児たちに「教育勅語」を集団で暗誦させるという、常識では考えられない教育がなされていたといいます。まさに「洗脳」教育ではないか、と私は思うのですが、見逃してはならないのは、それを後押ししていたと思われる、安倍自民党政権を中心とする政治勢力の存在です。

 ふり返れば、そうした教育が平然と行われる背景は、着々と準備されてきたのではないかと思います。
 例えば、1948年に占領軍 (GHQ)によって廃止された「紀元節」が、 1966年には「建国記念の日」と、名前を変えて復活しています。また、 日本国憲法にあわせ、1947年に制定された現皇室典範では条文のない元号が、1979年に「元号法」として法制化されました。さらに、戦時中重要な意味を持った「日章旗」(日の丸)や「君が代」を、何ら変更することなく、そのまま戦後日本の「国旗」、「国歌」と定める「国旗及び国歌に関する法律」が、1999年に成立しました。そして、最近、ある閣僚からは「教育勅語」の内容を肯定する発言があり、政府も、「憲法や教育基本法に反しない形で教材として使用することは否定しない」と述べるに至っています。
 安倍自民党政権の「日本国憲法改正草案」では、天皇は元首とされ、国旗は日章旗、国歌は君が代、そして、元号の規定も新設される内容になっているようです。2013年に政府主催で行われた「主権回復の日」の式典では、最後に「天皇陛下 万歳!」という「万歳三唱」が行われています。だから、「主権在民」を否定し、皇国史観に基づいた日本を復活させようとしているように思われるのです。「戦争法」といわれる「安全保障関連法」や「特定秘密保護法」などの成立と考え合わせると、日本の前途多難は避けられないように思います。

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陸訓第一号

  本書を戦陣道徳昂揚ノ資ニ供スベシ
                      昭和十六年一月八日 

                            陸軍大臣  東條英機


戦陣訓

 夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海に宣揚せんことを期せざるべからず。

 惟ふに軍人精神の根本義は、畏くも軍人に賜りたる勅諭に炳乎(ヘイコ)として明らかなり。而して戦闘並びに訓練等に関して準拠すべき要綱は、又典令の綱領に教示せられたり。然るに戦陣の環境たる、兎(ト)もすれば眼前の事象に捉はれて大本を逸し、時に其の行動軍人の本分に戻るが如きことなしとせず。深く慎まざるべんや。乃ち既往の経験に鑑み、戦陣に於て勅諭を仰ぎて之が服行の完璧を期せむが為、具体的行動の憑拠(ヒョウキョ)を示し、以て皇軍道義の昂揚を図らんとす。是戦陣訓の本旨とする所なり。

※軍人に賜りたる勅諭
 明治十五年一月四日、明治天皇が陸海軍人に対し、天地の公道、人倫の常経として服膺(フクヨウ)すべき忠節、礼儀、武勇、信義、質素の五ヶ条を賜り、これを貫く一誠を以てすべき旨御諭しになったところの軍人精神の信条である。その五ヶ条は
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尚(タット)ぶべし
一、軍人は信義を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすへし。

【御稜威】天皇陛下の御威光 【四海】世界 【炳乎として】はっきりとして 【憑拠】よりどころ(服膺)心にとどめて忘れないこと

                  本訓 其の一
 第一 皇国
 大日本は皇国なり。万世一系の天皇上に在(オワ)しまし、肇国(チョウコク)の皇謨(コウボ)を紹継して無窮に君臨し給う。皇恩万民に遍く、聖徳八紘に光被す。臣民亦忠孝勇武祖孫相承け、皇国の道義を宣揚して天業を翼賛し奉り、君民一体以て克(ヨ)く国運の隆昌を致せり。
 戦陣の将兵、宜しく我が国体の本義を体得し、牢固不抜の信念を堅持し、誓って皇国守護の大任を
完遂せんことを期すべし。

【肇国】皇祖が我が国をおはじめになったこと 【皇謨】天皇の大きな御はかりごと
【聖徳八紘に光被す】天皇の御めぐみが地の隅々にまで広く大きく及ぶ

 第二 皇軍
 軍は天皇統帥の下、神武の精神を体現し、以て皇国の威徳を顕揚し皇運の扶翼に任ず。
 常に大御心を奉じ、正にして武、武にして仁、克く世界の大和を現ずるもの是神武の精神なり。武は厳なるべし仁は遍きを要す。苟(イヤシク)も皇軍に抗する敵あらば、烈々たる武威を振ひ断乎之を撃砕すべし。假令(タトヒ)峻厳の威克く敵を屈服せしむとも、服するは撃たず従ふは慈しむの徳に欠くるあらば、未だ以て全(マッタ)しとは言ひ難し。武は驕らず仁は飾らず、自ら溢るるを以て尊しとなす。皇軍の本領は恩威並び行はれ、遍く御稜威を仰がしむるに在り。
【威並び行はれ】なさけと威光が共々に行はれ


 第三 軍紀
 皇軍軍紀の神髄は、畏(カシコク)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉(ヒト)しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極地を発揮すき處とす。死生困苦の間に處し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として獻身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり。

【大権の承行】天皇陛下の御命令を承け奉ってこれを行ふこと  【脈絡一貫】つながりがあってすじみちが一つに通っていること   【獻身服行】一身をささげ心から身につけて実行すること

 第四 団結
 軍は、畏くも大元帥陛下を頭首と仰ぎ奉る。渥き聖慮を体し、忠誠の至情に和し、挙軍一心一体の実を致さざるべからず。
 軍隊は統率の本義に則り、隊長を核心とし、強固にして而も和気藹々たる団結を固成すべし、上下各々其の分を厳守し、常に隊長の意図に従ひ誠心を他の腹中に置き生死利害を超越して、全体の為己を没するの覚悟なかるべからず。

【聖慮】天皇陛下のお心持

 第五 協同
 諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし。 各隊は互いに其の任務を重んじ、名誉を尊び、相信じ、相援け、自ら進んで苦難に就き、戮力協心相携へて目的達成の為力闘せざるべからず。

【戮力協心】力をあはせ気持ちをひとつにすること  【没我協力】 我が身のためということを離れて多勢と力をあはせること。

 第六 攻撃精神
 凡そ戦闘は勇猛果敢、常に攻撃精神を以て一貫すべし。
 攻撃に方(アタ)ては果断積極機先を制し、剛毅不屈、敵を粉砕せずんば已(ヤ)まざるべし。防御又克く攻勢の鋭気をを包蔵し、必ず主動の地位を確保せよ。陣地は死すとも敵に委すること勿(ナカ)れ。追撃は断々乎として飽く迄も徹底的なるべし。                    
 勇往邁進百事懼(オソ)れず、沈着大胆難局に処し、堅忍不抜困苦に克ち、有ゆる障碍を突破して一意勝利の獲得に邁進すべし。

 第七 必勝の信念
 信は力なり。自ら信じ毅然として戦ふ者常に克く勝者たり。
 必勝の信念は千磨必死の訓練に生ず。須(スベカラ)く寸暇を惜しみ肝胆を砕き、必ず敵に勝つの実力を涵養すべし。
 勝敗は皇国の隆替に関す。光輝ある軍の歴史に鑑み、百戦百勝の伝統に対する己の責務を銘肝し、勝たずば断じて已むべからず。

【千磨必死】幾度も危ない目にあふことによって心が鍛へられ何時でも死んでよい覚悟が出来ること

                  本訓 其の二
 第一 敬神
 神霊上(カミ)に在りて照覧し給ふ。
 心を正し身を修め篤く敬神の誠を捧げ常に忠孝を心に念じ、仰いで神明の加護に恥ぢざるべし。

【照覧】神仏が御覧になること

 第二 孝道
 忠孝一本は我が国道義の精粋にして、忠誠の士は又必ず純情の孝子なり。
 戦陣深く父母の志を体して、克く尽忠の大義に徹し以て祖先の遺風を顕彰せんことを期すべし。

【忠孝一本】忠義と孝行とは一つであるということ

 第三 敬礼挙措
 敬礼は至純なる服従心の発露にして、又上下一致の表現なり。戦陣の間特に厳正なる敬礼を行はざるべからず。礼節の精神内に充溢し、挙措(キョソ)謹厳にして端正なるは強き武人たる証左なり。

【挙措謹厳】動作が慎しみ深くて重々しいこと

 第四 戦友道
 戦友の道義は、大義の下死生相結び、互いに信頼の至情に致し、常に切磋琢磨し、緩急相救ひ、非違相戒めて、倶(トモ)に軍人の本分を完うするに在り。

【非違相戒め】間違ったことをしないように互ひに戒め合ふ

 第五 率先躬行(キュウコウ)
 幹部は熱誠以て百行の範たるべし。上正しからざれば下必ず紊(ミダ)る。戦陣は実行を尚ぶ。躬(ミ)を以て衆に先んじ毅然として行ふべし。

 第六 責任
 任務は神聖なり。責任は極めて重し。一業一務忽(ユルガ)せにせず心魂を傾注して一切の手段を尽くし、之が達成に遺憾なきを期すべし。
 責任を重んずる者、是真に戦場に於ける最大の勇者なり。

 第七 死生観
 死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。
 生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。身心一切の力を尽くし、従容として悠久の大義に生くることを悦びとすべし。

 第八 名を惜しむ
  恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。
 生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ。

【郷党家門】郷里の仲間や一家一門の者  【虜囚の辱】捕虜となるはづかしめ   

 第九 質実剛健
 質実以て陣中の起居を律し、剛健なる士風を作興し、旺盛なる志気を振起すべし。
 陣中の生活は簡素ならざるべからず。不自由は常なるを思ひ、毎事節約に努むべし。奢侈は勇猛の精神を蝕むものなり。

 第十 清廉潔白
 清廉潔白は、武人気節の由って立つ所なり。己に克つこと能わずして物欲に捉はるる者、争(イカ)でか皇国に身命を捧ぐるを得ん。
 身を持するに冷厳なれ。事に處するに公正なれ。行ひて俯仰天地に愧(ハ)ぢざるべし。

【俯仰天地に愧ぢず】心中やましい事がなく公明正大なこと

                  本訓 其の三
 第一 戦陣の戒め
一、一瞬の油断、不測の大事を生ず。常に備え厳に警(イマシ)めざるべからず。
 敵及住民を軽侮するを止めよ。小成に安んじて労を厭うこと勿れ。不注意も亦禍の因と知るべし。
二、軍機を守るに細心なれ。諜者は常に身辺に在り。
三、哨務は重大なり。一軍の安危を担ひ、一隊の軍紀を代表す。宜しく身を以て其の重きを任じ、厳粛に之を服行すべし。
 哨兵の身分は又深く之を尊重せざるべからず。
四、思想戦は、現代戦の重要なる一面なり。皇国に対する不動の信念を以て、敵の宣伝欺瞞を破摧(ハサイ)するのみならず、進んで皇道の宣布に勉むべし。
五、流言飛語は信念の弱きに生ず。惑うこと勿れ、動ずること勿れ。皇軍の実力を確信し、篤く上官を信頼すべし。
六、敵産、敵資の保護に留意するを要す。
 徴発、押収、物資の燼滅等は總べて規定に従ひ、必ず指揮官の命に依るべし。
七、皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし。
八、戦陣苟も酒色に心奪はれ、又は欲情に駆られて本心を失ひ、皇軍の威信を損じ、奉公の身を過るが如きことあるべからず。深く戒慎し、断じて武人の清節を汚さざらんことを期すべし。
九、怒りを抑へ不満を制すべし。「怒りは敵と思へ」と古人も教へたり。一瞬の激情悔いを後日に残すこと多し。
 軍法の峻厳なるは特に軍人の栄誉を保持し、皇軍の威信を完うせんが為なり。常に出征当時の決意と感激とを想起し、遙かに思を父母妻子の真情に馳せ、仮初めにも身を罪科に曝すこと勿れ。

【軽侮】相手を軽んじて馬鹿にすること 【哨務】哨兵のつとめえ 【敵産、敵資】敵の財産と物資
【燼滅】焼きすてること

 第二 戦陣の嗜(タシナ)み
一、尚武の伝統に培ひ、武徳の涵養、技能の錬磨に勉むべし「毎事退屈する勿れ」とは古き武将の言葉にも見えたり。
二、後顧の憂を絶ちて只管奉公の道に励み、常に身辺を整へて死後を清くするの嗜みを肝要とす。
 屍を戦野に曝すは固より、軍人の覚悟なり。縦(タト)ひ遺骨の還らざることあるも、敢えて意とせざる様予て家人に含め置くべし。
三、戦陣病魔に斃るるは遺憾の極みなり。特に衛生を重んじ、己の不節制に因り奉公に支障を来すが如きことあるべからず。
四、刀を魂とし馬を宝と為せる古武士の嗜みを心とし、戦陣の間常に兵器資材を尊重し、馬匹(バヒツ)を愛護せよ。
五、陣中の徳義は戦力の因なり。常に他隊の便益を思ひ、宿舎、物資の独占の如きは慎むべし。
「立つ鳥跡を濁さず」と言へり。雄雄しく床しき皇軍の名を、異郷辺土にも永く伝へられたきものなり。
六、総じて武勲を誇らず功を人に謙は武人の高風とする所なり。
 他の栄達を妬まず己の認められざるを恨まず、省みて我が誠の足らざるを思ふべし。
七、諸事正直を旨とし誇張虚言を恥じとせよ。
八、常に大国民たるの襟度を持し、正を踏み義を貫きて皇国の威風を世界に宣揚すべし。
国際の儀礼亦軽んずべからず。
九、万死に一生を得て帰還の大命に浴することあぱらば、具に思ひを護国の英霊に致し、言行を慎みて国民の範となり、愈々奉公の覚悟を固くすべし。

【後顧の憂】自分のゐない後が心配になる  【異郷辺土】他国や片田舎  【襟度】度量、心のひろいこと

                   結び
 以上述ぶる所は、悉く勅諭に発し、又之に帰するものなり。されば之を戦陣道義の実践に資し、以て聖諭服行の完璧を期せざるばからず。
 戦陣の将兵、須く此の趣旨を体し、愈々奉公の至誠を擢んで、克く軍人の本分を完うして、皇恩の渥きに答へ奉るべし。

【聖諭服行の完璧】天皇陛下のお諭(サトシ)をしっかり身につけてあます所なく実行すること
【皇恩の渥き】天皇陛下の御恩の深いこと

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