真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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欧米の恣意的パレスチナ政策とオスマン帝国の遺産ぶんどり合戦

2024年01月30日 | 国際・政治

 「君はパレスチナをしっているか」(ほるぷ出版)の著者、奈良本英佑氏は、同書のなかで、

第一次大戦は、中東から見た場合、「瀕死の病人」オスマン帝国の遺産ぶんどり合戦にほかならなかった。
 形のうえでは、オスマン帝国はドイツ側につくのだが、この大戦の実態は、イギリス、フランス、ドイツを中心とするヨーロッパの強大国、いわゆる「帝国主義列強」によるオスマン帝国の分割戦争だったといってよい。”
 と書いていましたが、その後、イギリスやフランスは、ぶんどった領土を「委任統治」という名目で支配するのです。その「委任統治」について、奈良本氏は 
”イギリスは戦争に勝ってパレスチナを手に入れた。もう少し正確にいうと、「委任統治」というかたちでパレスチナを支配することになった。委任統治の建前は、この大戦後につくられた国際連盟にかわって統治するということだ。本来なら国際連盟が直接統治すべきだが、それはむずしいので、かわり文明国であるイギリスがその役割を引き受けようと言う理屈だ。
 この委任当地は、永久につづくものではなく、その地域の人々が自分たち自身で独立した政府を運営できるようになるまでの、一時的なものとされた。この人々があたらしい政治の機構をつくり、それを運営するのに必要な人々を教育するために、イギリスが国際連盟にかわってお手伝いするのだ、と説明された。
 と書いていますが、「委任統治」が、名ばかりで、実態はかけ離れたものであったからです。それは、今回取り上げた「ピール報告書」が示しています。ピール報告書には、”ユダヤ人が古い故郷に帰る権利を国際的に認められたかれらといって、ユダヤ人がアラブ人をかれらの意に反して支配する権利まで認められたわけではない。”などという記述もあります。

 見逃せないのは、そうしたパレスチナ人の主権や権利侵害が、現在のイスラエルによるパレスチナ政策に引き継がれていることです。だから、イスラエルを含む欧米のパレスチナに対する姿勢は、国際法に反しているのです。

 先月、イスラエル軍がガザ地区で続けている軍事作戦について、南アフリカが、パレスチナ住民の「集団殺害」であり、「ジェノサイド条約に違反している」として、国際司法裁判所に訴えました。
 訴えを受けて、国際司法裁判所は、イスラエルに対して、判決を言い渡すまでの間、住民の大量虐殺などを防ぐため、あらゆる手段を尽くすという、「暫定的な措置」を命じました。それは残念ながら南アフリカのの求めた「軍事作戦停止」を命じたものではありませんでしたが、一歩前進だと思います。
 それは、南アフリカの国際関係・協力相が、記者団の取材に対し、「われわれの主張に基づいた措置が命じられたことに満足している。この措置を実行し、機能させるためには停戦が必要となる」と述べ、南アフリカのラマポーザ大統領が、この「暫定的な措置」について、「これは国際法や人権、そして正義の勝利だ。国際司法裁判所が大多数の判事の賛成で措置を命じたことを歓迎する。裁判所の命令がパレスチナの人々に苦痛を強いているこの危機を終わらせる道を開くことを願っている」と述べたということでわかると思います。

 南アフリカ政府は、イスラエルによるパレスチナの占領や、ガザ地区の封鎖を、かつてのアパルトヘイト=人種隔離政策と同じだと以前から非難していましたが、この南アフリカの主張を受け入れないイスラエルやイスラエルを支えるアメリカ政府を中心とする西側諸国が、世界平和の障害になっていることは、否定できないだろうと思います。

 イスラエルの ネタニヤフ首相は「ユダヤ人国家への差別 拒絶する」などと言ったようですが、とんでもないことだと思います。また、「イスラム組織ハマスに対するガザ地区での軍事作戦は、イスラエルの自衛権の行使だ」と主張したことも報道されていますが、実際は、イスラエル軍の見境のない攻撃によって、女性や子どもを中心とする一般市民が多く犠牲になっていることから、その主張のごまかしは通用しないと思います。イスラエル政府の高官や軍人の諸発言から、イスラエルは「ハマス殲滅」を掲げつつ、実際は、パレスチナ人を難民として周辺国に追い出す作戦、さらには、留まるパレスチナ人の殲滅作戦を続けていることが察せられるのです。

 イスラエル軍の攻撃が続くガザ地区南部のラファで避難生活を送る人たちからは、国際司法裁判所が「軍事作戦の停止」を命じなかったことに対する不満の声があがっているということ、また、南部ハンユニスから避難している男性が、「国際司法裁判所の判断はパレスチナの人々に不公平でイスラエル軍の利益になるものだと思う」と言ったということを、NHKのウェブニュースが伝えていますが、「君はパレスチナをしっているか」奈良本英佑(ほるぷ出版)を読めば、パレスチナがイスラエル建国以来、欧米によって、主権や利益が侵害され続けてきた歴史がわかります。そして、それがいまだに終わっていないということだと思います。
 私は、エルサレムに住むパレスチナ人の男性が、「ICJの決定は完璧なものではないが、正しい方向だと思います。これによってイスラエルはパレスチナの人々に対する戦争犯罪者という立場におかれました」と主張したことに、同意するものです。
 課題は、イスラエルに対する国際司法裁判所の「暫定的な措置」の命令を、次の段階に進めることだと思います。
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                 4 失敗したイギリスのパレスチナ支配  1937年、「ピール委員会の報告書を発表」


 イギリスパレスチナ「委任統治」にのりだす
 イギリスは戦争に勝ってパレスチナを手に入れた。もう少し正確にいうと、「委任統治」というかたちでパレスチナを支配することになった。委任統治の建前は、この大戦後につくられた国際連盟にかわって統治するということだ。本来なら国際連盟が直接統治すべきだが、それはむずしいので、かわり文明国であるイギリスがその役割を引き受けようと言う理屈だ。
 この委任当地は、永久につづくものではなく、その地域の人々が自分たち自身で独立した政府を運営できるようになるまでの、一時的なものとされた。この人々があたらしい政治の機構をつくり、それを運営するのに必要な人々を教育するために、イギリスが国際連盟にかわってお手伝いするのだ、と説明された。
 イギリスがこのようにして手に入れた元オスマン帝国領は、シリア・パレスチナの南部とメソポタミアだ。フランスも、やはり委任統治というかたちで、シリア・パレスチナ北部、それに小アジアの一部を手に入れた。
 この委任統治というあたらしい制度は、「抑圧された民族の解放」という表向きの戦争目的と、オスマン帝国の領土ぶんどり合戦という戦争の実際とのあいだの矛盾をとりつくろうためのものだった。 また、この制度は、イギリスが、シオニスト、アラブ人、フランス人に対してそれぞれ行った。互いに相いれない三つの約束のあいで、なんとかつじつまをあわせようとするものでもあった。アラブ人たちは、こんな大国の「お手伝い」など「余計なお世話だ」と断った。とくにシリア・パレスチナの分割には激しく抵抗した。だが、イギリス、フランスを中心とする諸国は、強引にこの制度を押しつけてしまった。

 委任統治領が切りきざまれた
 こうして、それまで人々が自由に行き来きしていたこれらの地域は、二大国が支配するそれぞれいくつかの「委任統治領」に切りきざまれてしまった。現在の中東諸国の国境線は、このときの境界線をもとにしている。定規で引いたような不自然な国境線は、当時の列強のごり押しを反映している。  
 かつてのシリア・パレスチナから切りはなされたパレスチナは、こうしてつくられた委任統治領のひとつなのだ。
 イギリスはパレスチナの統治にあたって、バルフォア宣言の目的実現の責任を持つことになった。「非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利を損うことなく」「パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設する」というあの目的である。
 こうしたことの大わくは1920年4月の「サン・レモ会議」で、イギリス、フランス、イタリア、日本の四か国によって決められ、細かいことは1922年7月、国際連盟で承認された。日本はイギリスとフランスが前もって取り決めていたことを黙って認めただけだが、全く責任がないとはいえないだろう。
 今日、私たちがパレスチナというとき、この委任統治領となった地域を指している。面積は約16,300平方キロ。北半分は、ざっと、海岸平野、丘陵地帯、ヨルダン渓谷の三つに分けられ、南半分は大部分が砂漠だ。また、現在「パレスチナ人」とは、この地域で生まれた人々と、その子孫の全体を指す。
 だが、ここでは、当時の呼び方に従って、パレスチナの住民を「アラブ人」(地元のムスリムとキリスト教徒)と「ユダヤ人」(地元のユダヤ教徒とヨーロッパ出身のユダヤ人移民」に大きく分けて、話を進めよう。

 委任統治が破産する
 さて、パレスチナの委任統治は八方破れのイギリスの東方政策につぎはぎをあてたものにすぎなかったので、たちまち、ほころびが出てきた。そして、バルフォア宣言からちょうど20年後の1937年、イギリス政府によって任命された調査団の報告書は、委任統治の破産を公に告げるのだ。
 これは一般に「ピール調査団」と呼ばれ、その報告書は、パレスチナをユダヤ人の国とアラブ人の国とに分割するよう、初めて提案したことでも知られる。
 ピール報告書のさわりの部分を、ざっと訳してみよう。
「ユダヤ人が多数派となりユダヤ人の国をつくることを望んで彼らの移民を援助することと、アラブ人の意志に逆らって、パレスチナを力ずくでユダヤ人の国に変えることでは、まったく話が別である。 これが、委任統治制度の精神とそのめざすところに反しているのは明らかだ。これでは、パレスチナでアラブ人が多数を占めている間は、民族自決の原則を認めず、ユダヤ人が多数を占めたとき、はじめてこの原則を認めるということになる。……これは、事実上、……トルコ人の支配をユダヤ人の支配に置きかえることにほかならない」
「今、このせまい地域のなかで、二つの民族のあいだに争いが起きていて、これをしずめることは不可能だ。約百万人のアラブ人が、ざっと40万人のユダヤ人と陰に陽に対立している。かれらのあいだに共通の場はない。アラブ人社会は基本的にアジア的だが、ユダヤ人社会は基本的にヨーロッパ的だ。かれらは、宗教も言葉もちがう。かれらのそれぞれの文化、社会生活、ものの考え方、立ち居ふるまいは、たがいに調和しない。もちろん、彼らの民族的な願望も両立しない」
 これは、パレスチナの委任統治制度が最初からかかえて矛盾をはっきりと指摘している。「民族の自決」といえば、「ユダヤ人の民族郷土」と「非ユダヤ人の権利」は、パレスチナで両立するはずがなかったのだ。

 パレスチナ分割を提案したピール報告書
 そこでピール報告書は、苦肉の策としてパレスチナ分割を提案する。海岸平野部と、北部丘陵地帯のうち、ガリラヤ地方と呼ばれる一帯、ヨルダン川上流の二つの湖の西岸周辺をユダヤ人の国に、残りの大部分をアラブ人の国にする。そして、エルサレム周辺と、ヤーファをふくむ小さな地域だけを委任統治領として残すものだ。
 海岸と内陸の湖周辺、この二つを連絡するマルジュ平原は、シオニストが土地の買取と、入植地の建設を計画的に進めていた部分だ。これが提案された「ユダヤ人の国」の骨格になっている。
 この国はパレスチナ全土の五分の一にすぎなかったが、最も肥沃な農地と、テル・アビブ、ハイファ、アッカという重要な海岸都市をふくんでいた。このうち純粋にユダヤ人の都市といえるのはテル・アビブだけだ。しかも、この提案は、ガリラヤ地方のアラブ人を集団で移転させる計画をふくんでいた。
 シオニストは条件つきでピール分割案を認めるつもりだったが、アラブ側は拒否した。パレスチナの土地の一番いいところがユダヤ人に与えられたうえ、アラブ人の移住まで要求されたからだ。そこで、イギリスは、分割は不可能とあきらめ、委任統治政策の大転換を行う。1939年のことだ。
 だが、その前に、時計の針を前にもどして、なぜ「委任統治は失敗」というピール報告書がつくらなければならなくなった、もう少しくわしく見てみよう。
 委任統治がはじまって20年にもならないうちに、パレスチナでは何もかもが大きく変わってしまった。この時期に中東の他の地域でパレスチナほどはげしい変化に見舞われたところはあまり例がない。
 第一に、人口、なかでもユダヤ人の人口が急激にふえた。第二に、土地、特に農業に適した土地が、あっという間にユダヤ人によって買い占められていった。第三に、その結果、パレスチナの社会や経済の構造が足もとからゆらいだ。人と人、家族と家族、村と村、町と町、これらと政府、こうしたものを結びつけていた、これまでの約束をごとや仕組みが役に立たなくなったのだ。
 まず人口から見よう。1920年以後、ヨーロッパから大変な数のユダヤ人移民が、この小さな土地へ押し寄せて来たことがわかる。それは「流れ」よりも「波」といったほうがよい。最初の大きな波は1924年~26年。第2のさらに大きな波は、1933年か~39年に寄せている。第1のピークは1925年の33,800人、第二のピークが1935年の61,800人だ。
 1920年頃までの移民は、ロシア・東ヨーロッパからの社会主義者や理想主義者が多く、共同農場や労働組合の基礎をつくった。これに対し、この第1の波をつくったのは主にポーランド出身の中産階級(商工業者や職人)で、かれらによってパレスチナのユダヤ社会の都市が発展する。第二の巨大な波は、ドイツのナチス政権が生み出したもので、ドイツやオーストリアなどの出身者が多い。かれらの大部分は、シオニズム運動への賛否にかかわりなく国を追われた難民だった。これによって、パレスチナに多数の起業家が移住し、多額の資金が持ち込まれた。

 ナチスとアメリカ、イギリス 
 この事情を簡単に説明しよう。極端な反ユダヤ主義で知られるナチスは、1933年に政権を取るが、第二次世界大戦をはじめるまでは、「ユダヤ人絶滅」ではなく、追放政策を進めていた。そこで、シオニストとナチスと取引して裕福なユダヤ系ドイツ人を、その財産と共にパレスチナへ移住させる協定(1933年、「ハアヴァア協定」)を結んだ。
 一方ナチスに迫害されたユダヤ人を救おうと、アメリカのルーズベルト大統領が呼びかけて1938年7月、フランスのエビアンで三十二ヶ国の国際会議が開かれた。しかし、南米の小国ドミニカ共和国を除けば、いずれの参加国も多数のユダヤ人難民を受け入れる意志のないことがはっきりした。
 ナチスは、アメリカやイギリスの偽善の化けの皮が剥がれたと喜び、シオニストも会議の失敗に満足した。ユダヤ人はパレスチナに逃げるほかなくなったからだ。
 こうしてパレスチナの人口は、委任統治の前の年(1919年)にアラブ人53万3千人、ユダヤ人5万7千人だったのが、10年後には、それぞれ約74万人と16万人に、ピール報告の出された1937年には、先に見たように約100万人対40万人になった。さらに10年後には約130万人対60万人となる。全人口の1割にもならなかったユダヤ人が、三分の一を占めるようになるのだ。
 つぎに土地を見よう。「買い占め」という言葉を使ったのは、シオニストたちがアラブ人の地主から買った土地は二度とアラブ人には売り渡さず、また、その土地でアラブ人が働くことを認めなかったからだ。
 別表を見て欲しい。委任統治の直前までのユダヤ人の所有地は4万5千ヘクタールあまりと推定されている。これが土地の買い占めを通じて、10年後には。10万ヘクタールに近づいた。
 ユダヤ人の所有地は、イスラエルの独立宣言(1948年5月14日)が発表される直前、委任統治政府から与えられたものなども含め。18万から20万ヘクタールに達していたと推定される。小さい方の数字によると、パレスチナ全土の約7%。耕作適した土地の約12%になる。この。数字は頭に入れておいてほしい。ピール調査団の分割案や、つぎの章で話す国連の分割案にアラブ人が強く反対した理由のひとつがよくわかかるはずだ。
 シオニストに土地を売ったのは、主として都市に住むアラブ人の不動産地主だった。かれらにとっては、大金さえれば、アラブ人農民の生活がどうなろうと知ったことではなかったのだ。

 ラブ人社会の抵抗と敗北
 最後に、アラブ人社会の構造がどう変わったか。
 アラブ人が無抵抗だったわけではない。かれらは、シオニストの移民と土地の買占めの禁止、または大幅な制限、委任統治制度そのものの廃止、そして、アラブ独立国家の承認を求めて激しくたたかった。
 1920年代には、国際連盟や他の中東諸国、イスラーム諸国への働きかけ、デモや請願など平和的なやり方で、イギリスの政策を変えるよう訴えたが、効果はなかった。シオニストの土地買い占めによって実に多くの小作農民が農地から追い出され、ユダヤ人の商工業者の流入によって、アラブ人の同業者は破産に追い込まれていった。
 これらに対する不満は、1929年の「西の壁(または、嘆きの壁)事件」と呼ばれる暴動となって爆発する。おどろいた委任統治政府は、はじめて本気で政策を変えることを考えるが、シオニストに抗議されると、たちまち、これまでどうりの政策を続けることを約束してしまう。
 アラブ人はこれにはげしく怒り、イギリス政府に対して強い不信感をいだくことになった。第二の巨大な移民の波に危機感をつのらせたかれらは、1936年、全土で六ヶ月のゼネストに入った。港で働くアラブ人労働者は貨物の積みおろし作業をやめ、アラブ人の商店主たちはユダヤ人の生産者やお客との取引を拒否した。アラブの農民たちは武装して、イギリスの兵隊や警察を襲いはじめた。パレスチナ・アラブの「大反乱」と呼ばれるものだ。
 前に述べた「ビール報告書」は、これを見て「委任統治は失敗」と結論したのである。
 このころ、土地を失った農民は都市へ流れ込み、都市ではアラブ人商工業者の破産がつづいていた。こうしたなかで、大家族を中心にまとまっていた伝統的なアラブ人社会が解体していく。一方、アラブ人のなかから、学校の教育・委任統治政府の職員や、鉄道、港湾労働者といった人々からなる新しい階級が生まれてくる。だが、これらの階級を中心とした近代的なアラブ人社会が形づくられる前に、大反乱はイギリス軍によって粉砕される。
 こののち、イギリスははじめて委任統治政策を大きく手直しして、ユダヤ人移民と土地の売買をかなりきびしく制限する。しかし、すでにおそすぎた。
 この政策は、シオニストを敵に追いやっただけで、アラブ人を味方につけることもできなかった。アラブ人は、もはや、イギリスを信用しなくなっていたからだ。こうして委任統治の失敗は決定的になった。
 第二次世界大戦が終わってまもなく、イギリスはパレスチナを手放すことになる。この大事なときにパレスチナのアラブ人たちは、結束してつぎの時代にそなえることができなかった。アラブ人社会は大反乱で力をつかい果たし、バラバラに解体れていたのだ。
資料ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      ビール報告書 
 ……確かに、歴史に照らしてみれば、ユダヤ人がパレスチナを支配することと、トルコ人の支配とを同じように考えることはできない。しかし、ユダヤ人が古い故郷に帰る権利を国際的に認められたかれらといって、ユダヤ人がアラブ人をかれらの意に反して支配する権利まで認められたわけではない。……
 今、この狭い地域のなかで、二つの民族の間に争いが起きていて、これを鎮めることは不可能だ。約100万人のアラブ人が、ざっと40万人のユダヤ人と、陰に陽に対立している。かれらの間に共通の場はない。アラブ人社会は基本的にアジア的だが、ユダヤ人社会は基本的にヨーロッパ的だ。彼らは宗教も言葉も違う。彼らのそれぞれの文化、社会生活ものの考え方、立ち振る舞いは互いに調和しない。もちろん、彼らの民族的な願望も両立しない。こうしたことが平和にとって最大の障害になっている。もしアラブ人とユダヤ人が、彼らがそれぞれの民族的な理想について互いに譲り合い。それらを一つにするよう真剣に努力し、時間をかけて一つの国籍ないしは二重国籍を持った国民を作り上げていく。まだそれらは共に暮らし、共に働くこともできるようになるだろう。だが、これらは不可能である。世界大戦とこれにつづく一連の出来事によって、アラブ人たちは自由な統一されたアラブ世界の中に、過去のアラブの黄金時代を復活させるのだという希望を抱くことになった。ユダヤ人たちも同じように、過去の歴史に魅せられている。だからアラブ人とユダヤ人の民族的な融合と同化は問題なのだ。アラブ人の描くユダヤ人は、エジプトやかつてのアラブ人が支配したスペインのユダヤ教徒でしかない。1937年6月22日

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「サイクス・ピコ協定」と欧米支配

2024年01月24日 | 国際・政治

 1月20日朝日新聞は、「ウクライナ停戦戦略は」題する石井正文氏に対するインタビュー記事を掲載しました。聞き手は小村田義之氏ということです。石井氏は、1957年生れの元駐米公使で、現在学習院大学特別客員教授だということですが、その主張には、いろいろ問題があると思いました。
 私は停戦には大賛成ですが、石井氏が主張するようなの停戦の仕方には賛成できないのです。
 石井氏の言うように、人間の尊厳や人命を考慮するのであれば、まず停戦することが大事であり、停戦は無条件でなされるべきで、両国がどのように妥協するかは、停戦後に話し合うべきだと思います。
 彼は、
ウクライナの戦地で多くの命が失われている状況は、昨今、日本政府が唱えている人間の尊厳にも反しています。これ以上、戦争を続けるのはやり過ぎでしょう。欧米には『支援疲れ』が広がり、米大統領選挙で共和党のトランプ前大統領は『自分が大統領になればウクライナ戦争を止める』と明言しています。」
「トランプ氏が返り咲くかはまだわかりませんが、いずれにせよ欧米の支援が細っていけばウクライナは戦えなくなります。こうした事態を想定し、停戦を模索すべきタイミングです。ロシアが侵略で得をした形にならないような停戦条件を各国が話し合い、共通認識を築くことが必要です
 と主張しています。”これ以上、戦争を続けるのはやり過ぎでしょう”とか、”停戦を模索すべきタイミング”とかいう考え方は問題だと思います。また、負けそうだから停戦した方がよいと言っているようにも思います。それは、戦えるのであれば、停戦しなくてもよいと言っているに等しいと思うのです。ウクライナ戦争は最初から、”人間の尊厳”に反するするものであったと思います。
 また、ロシアが侵略で得をした形の停戦にならないようにというような、西側諸国に都合の良い条件を関係国で事前に話し合って、停戦を提起するというのは、いかがなものかと思います。
 停戦には妥協が必要です。ウクライナ戦争が、ロシアの侵略で始まったというようなことを前提にしては、停戦は実現しないと思います。また、”人間の尊厳”や人命を考慮して、なによりも停戦を優先すべきで、話し合いが進まなければ、戦争を続けるというようなことではいけないと思います。

 特に問題だと思うのは、石井氏が、「停戦の結果 ロシアが得をする形にしないことが重要です。侵略したロシアに甘く対応すれば、戦争が多発する世界になってしまいます」と主張していることです。停戦して、国際社会が法に基づいて対処すれば、「戦争が多発する世界」などには決してならない、と私は思います。この主張は、バイデン政権の戦略に基づくプロパガンダだと思います。

 ふり返れば、圧倒的な軍事力と経済力をもって、あちこちで武力行使をくり返してきたのは、アメリカを中心とする西側諸国であり、また、現在パレスチナを攻撃しているイスラエルです。イスラエルは不当に領土を占領し、圧倒的に有利な軍事力を背景に、パレスチナ人の人命や人権を無視する対応をくり返してきたと思います。
 イスラエルのユダヤ人は、誰も住んでいない荒れ地に入植したのではないのです。何世代にもわたってパレスチナの地に住み続けてきたパレスチナ人から土地や家を奪って移住したのです。だからそれは「入植」などではなく、「侵略」です。「入植」などという言葉でごまかしてはいけないと思います。
 でも、それがイギリスの「二枚舌外交」とか「三枚舌外交」といわれるような外交によってもたらされたので、国際機関は、そうした不当なイスラエルの「侵略」を、国際法に基づいて裁くことをしなかったし、できなかったのだと思います。
 だから、西側諸国が国際法を遵守すれば、戦争が多発することなどないと思います。ハマスヒズボラフーシの戦いは、抵抗の戦いであり「ジハード」であることを理解すべきだと思います。だから、石井氏の主張は、バイデン政権の戦略からきているのではないか、と私は想像せざるを得ないのです。

 さらに、次期大統領がトランプになりそうだから、その前に停戦した方がよいというのも、いかがなものかと思います。それは、人々を欺瞞する停戦であることを、告白しているようなものだと思います。

 下記は、「君はパレスチナをしっているか」奈良本英佑(ほるぷ出版)から「3 大国のエゴイズム」の「サイクス・ピコ協定」と「シオニストの計画にイギリスが力を貸す理由」を抜萃しました。「バルフォア宣言」と「フサイン・マクマホン書簡」に、この「サイクス・ピコ協定」を加えて、イギリスの「三枚舌外交」と揶揄されるようですが、世界中でやりたい放題をやってきたのは西側諸国であることがよくわかると思います。だから、西側諸国が一致して国際法を遵守すれば、「戦争が多発する」ことなどないと思うのです。

 朝日新聞は、イスラエルの ネタニヤフ首相が  ガザのイスラム組織ハマス提案の「停戦」について、「拒否する」との声明を発表したことを報じました。そして、”人質解放のための停戦などを目指した協議を促す米政府にも反発した”ということで、”米側との「溝」も改めて浮き彫りとなった”というのですが、私は、アメリカとイスラエルの間に、「」などないと思っています。
 バイデン政権は、ハマス殲滅のみならず、パレスチナ人の殲滅を目標としているイスラエルが、国際社会で孤立することを避けるために、あえて「」があるようにふるまって、イスラエルのパレスチナ人殲滅戦争を支えているのだと想像します。

 バイデン政権がイスラエルを支援する背景には、アメリカに600万人前後のユダヤ人が存在し、ユダヤ・ロビー(イスラエル・ロビー)が影響力を行使していることがあると思います。それは、イスラエル建国の父といわれるベングリオンが、ユダヤ人国家の樹立を宣言した時、当時のアメリカ大統領トルーマンが、世界に先駆けてイスラエルを国家承認したことにもあらわれていたと思います。
 また、ケネディ大統領が、イスラエルとの関係を「特別な関係」と呼んだこともよく知られていることだと思います。
 現在アメリカは、アラブ諸国に接近する中国やロシアに対抗するため、イスラエルとの関係を今まで以上に強固なものにする必要に迫られていると思います。
 アメリカがイスラエルを見放せば、中東における足がかりを失うことになり、影響力の衰退に拍車がかかってしまうので、バイデン政権は、イスラエルがどんなに人道犯罪をくり返しても、決して見放すことはないと思います。
 だから、国際世論を欺くために、あえてイスラエルと「」があるように装っている、と私は想像しているのです。

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                      サイクス・ピコ協定


 さて、もう一つの約束は、ふつう「サイクス・ピコ協定」の名で知られる。
 サイクス・ピコ協定は、アラブの反乱が始まる1916年5月までに成立した秘密協定だが、その要点は、シリア・パレスチナとメソポタミアという、アラブ地域のなかでももっとも重要なところを、イギリスとフランスが勝手に分割して、それぞれの「縄張り」にすることだ。
 この協定のなかで、エルサレムを中心とするパレスチナだけは国際管理されることになっていた。国際機関(例えば今日の国際連合)とか、数か国からなる共同管理委員会のようなものがパレスチナを統治するという方法だ。
 前に書いた「聖地問題」でもわかるように、ここではキリスト教のさまざまな宗派、それぞれに結びつくヨーロッパ諸国の利害関係が複雑に入り乱れていた。だからどこか一国が縄張りを主張すれば、おさまりがつかなくなっただろう。
 要するに、この協定は、戦争に勝ったら、連合国側のヨーロッパ諸国の間で、オスマン帝国の遺産を「仲良く」分けあおうというものだった。東問題の産物そのものと言ってもいい。
 オスマン帝国に住む人々から見れば、まったくひとをばかにした話だった。だから連合国側にすれば、こんな協定を表ざたにできるわけがなかったのだ。
 こんな秘密協定などつゆ知らず、フサインはこの一ヶ月後、オスマン帝国に反旗をひるがえす。
 そしてこの一年五カ月後に、あのバルフォア宣言が出る。
 同じ月のソビエト革命で権力をとったばかりのボルシェビキ政権がこの秘密協定を暴露して、世界はおおさわぎになる。このさわぎの結末はつぎの章にゆって、話をバルフォア宣言にもどそう。
 実をいうと、シオニストは、敵同士のイギリスとドイツの双方に対して、このような約束をとりつける工作をつづけてきた。だが、ドイツはオスマン帝国の同盟国なのでイギリスよりも慎重にならざるを得なかった。
 しかし、イギリスも、この宣告を出すにあたって、八方気をつかわねばならなかった。たがいに矛盾する約束のあいだに、つじつまをあわわせる余地を残しておきたかったからだ。
 それだけではない。イギリスのユダヤ系市民の多数派は、シオニスト運動に猛烈に反対した。
 かれらは、自分たちを「ユダヤ人」とはみなさず、キリスト教徒に何らひけをとらない立派なイギリス市民だと思っいた。この宣言が、パレスチナ以外の「他の地域に住むユダヤ人の権利や政治的地位」の保障をわざわざうたっているのは、かれらの抵抗をかわすためのものであった。
 さらに連合国側は、戦争目的として「圧迫を受けている諸民族の解放」をかかげていた。これは、のちに連合国側に立って戦争に加わったアメリカのウィルソン大統領と、革命によって戦争をやめてしまったロシアのボルシェビキ政権が。共に強調した原則である。
 だから、ともかく、パレスチナの「非ユダヤ人社会」の権利にも触れないわけにはいかなかった。

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                   シオニストの計画にイギリスが力を貸す理由


 こんなに無理を重ねても、なお、パレスチナにユダヤ人の国をつくるというシオニストの計画にイギリスが力を貸すことにしたのはなぜか? 多くの理由が考えられるが、もっとも重要なのはつぎの三点だろう。
 第一ににスエズ運河のすぐ東側に、将来、イギリスの従属国 または、友好国をつくって、運河の安全を確保したいと思った。第二に、メソポタミア北部に発見された油田からのパイプ・ラインの出口を地中海沿岸側に求めていた。最後に、これらの要求を満たすには、シリア・パレスチナにおけるフランスの縄張りに割り込む必要があった。
 第一点は、シオニスト自身がイギリスの援助を求めた際におおいに強調したことだ。イギリスの世界帝国にとってもっとも大切なのは、インドの植民地だった。本国とインドをつなぐスエズ運河は、この帝国の「いのちの綱」といってもよかった。イギリスは、パレスチナを、この海を守る「防壁」にしたかったのだ。 
 第二点は、この大戦までにイギリス海軍の燃料が石炭から石油切り替えられていたこと、大戦中、その石油輸送船がドイツの潜水艦攻撃の的となったことと関係する。イギリスは、より安全なパイプラインによる陸上輸送ルートの必要性を強く感じていた。メソポタミアから地中海に抜けるルートは、シリア・パレスチナを横切る以外なかった。
 だが、シリア・パレスチナはすでにフランスが勢力を伸ばしていた。伝統的なアラブ・カトリック教徒の保護者として、フランスはこの地域との強い経済的つながりを持っており、ここは自分の縄張りだと主張していた。
 これに対抗するため、イギリスはやはりパレスチナを聖地とするユダヤ人の保護者を名乗って登場したわけだ。いったんは国債管理することに合意していたパレスチナへの縄張りを主張して、シリア・パレスチナの一角に割り込もうとしたのである。これが第三点目だ。
 ともかく、イギリスはこうしてパレスチナに足がかりを築く。だが、それが本当にイギリスの利益になったかどうかは、また別の問題だ。

(資料)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                            サイクス・ピコ協定(抄)
 ……前略……
 フランス政府とイギリス政府は以下のことを了解する。
一、フランスと大英帝国は、付属地図のA領域とB領域において、アラブ人首長をいただく国家。またはアラブ国家連合を承認し、保護する。 A領域ではフランスが、B領域では大英帝国が、企業活動と借款の優先権を持つ。A領域でフランスが、B領域では大英帝国が、それぞれアラブ国家またはアラブ国家連合の求めに応じて、顧問ないし外国人公務員を提供する。
二、青領域はでフランスが。赤領域では大英帝国が。……直接または間接の統治を行うことを許される。 
三、茶色領域には国際的な行政機構が設立される。その形態は、ロシアとの協議、さらに他の連合国およびメッカのシャリーフの代表との協議の後に決められる。

 ……後略……

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「フサイン・マクマホン書簡」と欧米の支配

2024年01月21日 | 国際・政治

 前回取り上げた「バルフォア宣言」の日本語訳と、今回、資料として取り上げている「フサイン・マクマホン書簡」の日本語訳を読むと、まさに「大国のエゴイズム」に基づいて、イスラエルという国が建国されるに至ったことがわかります。
 そして、そういう過去を反省することなく、人道犯罪を続けるイスラエルを支援し、ハマスに連帯して、イスラエルに向かう船舶を攻撃したイエメン・フーシ派の拠点を爆撃しているのが、米英を中心とする欧米であることを見逃すことができません。「二枚舌外交」とか、「三枚舌外交」と揶揄されるようになった過去の過ちの上塗りしているように思うからです。 

 昨日、下記のようなニュースを目にしました。
【AFP=時事】昨年10月7日にイスラエルとイスラム組織ハマス(Hamas)との軍事衝突が始まって以降、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)の男性数千人がイスラエル軍に拘束され、拷問に等しい状況に置かれている可能性がある。被占領パレスチナ地域の国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)代表を務めるアジス・ソンガイ(Ajith Sunghay)氏が19日、明らかにした。
 このニュースでもわかるように、イスラエルのネタニヤフ政権やイスラエル軍は、「ハマス戦闘員」のみならず、パレスチナ人の人権を完全に無視しており、人間扱いしていないと思います。
 だから、国際社会の「法の支配」が機能していれば、即座に国連でイスラエル非難の決議をし、イスラエルを国際司法裁判所で裁き、厳しい経済制裁を科し、イスラエルの指導者や現地の指揮官に逮捕状を出していると思います。
 でも、残念ながら、世界中に軍事基地を置き、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの意向に逆らうことが難しいため、ガザの事態は改善されないのだと思います。
 だから、問題は、そういうことが分かっているのに、政府やメディアが対応しないこと、また、できないことではないかと思います。

 オサーマ・ビン・ラーディンは、「ジハード宣言」で、アラブ人が「シオニスト・十字軍連合」からの攻撃迫害を受け、塗炭の苦しみを味わっていると言っています。そして、最悪の攻撃は米軍による「二聖モスクの地(マッカとマディーナ)の占領である」と言うのです。これが「預言者ムハンマド没後、ムスリムが蒙った最大の攻撃である」と断言し、「全てのムスリムはこの諸悪の根源を除去するために立ち上がらねばならない」と言うのです。聖地を占領する米軍は十字軍にほかならず、彼らに対する攻撃は、ムスリムにとっては、「ジハード」に他ならなというわけです。

 また、9・11の後、 オサーマ・ビン・ラーディンは下記のようなことを言ったといいます。
アメリカが今、味わっていることは、われわれが数十年間にわたって味わってきたことに比べれば大したことではない。ウンマ(ムスリム共同体)は(オスマン帝国崩壊以来)80年以上にわたってこのような屈辱と不名誉を味わってきたのだ。息子達は殺され、血が流され、その聖域が攻撃されたが、誰も耳を貸さず、誰も注目しなかった。
 また、
数百万の無実の子供たちが殺されている。何の罪も犯してない子供たちがイラクで殺されているが、われわれは支配者から非難の声もファトワーも聞いてない。このところイスラエルの戦車が大挙してパレスチナを襲っている。ジェニーン・ラーマッラー、ラファハ、ベイト・ジャラーなどのイスラームの地においてである。誰かが声をあげ、行動にでたということも聞かない”
 とも言ったということです。
 
 ムスリムの人命軽視、人権無視、不当な差別、極端な搾取や収奪、そうした現実の隠蔽、巧みな情報操作、そして、ムスリムの聖地に臆面もなくつくられた米軍基地、それらが、ムスリムの「ジハード」を正当化する根拠になっていることを見逃してはならないと思います。
 だから、ビン・ラーディンの声明の内容やイスラエル建国以降の、パレスチナの人たちの思いを多少でも理解すれば、ネタニヤフ首相のように、ハマスをテロ組織と断じて、一方的に「ハマス殲滅」を宣言することが許されることではないことは明らかだ、と私は思います。
 
 「ハマス憲章」の九条は、ハマスの目標を「虚偽を失墜させ、真理を優越せしめ、郷土を回復し、モスクの上からイスラム国家の樹立を宣言する呼びかけをなさしめ、人びとと物事のすべてを正しい位置に戻すこと」と規定しています。

「エレクトロニック・インティファーダ(THE ELECTRONIC INTIFADA)]というサイトに、先日下記のようにありました。

白人至上主義のバイデン政権は、イスラエルにジェノサイドを犯すことを白紙委任している。現在のアメリカの中東政策は、トランプのときと同じように、パレスチナ人の存在そのものの否定である。
BIDEN'S WHITE SUPREMACY GIVES ISRAEL CARTE BLANCHE TO COMMIT GENOCIDE
Current US Middle East policy, like Donald Trump’s, is a denial of the very existence of the Palestinian people.”
 私は、これが、イスラエルの猛烈な攻撃を受ける、ハマスを含むパレスチナ人の正直な気持ちだろうと思います。 そして、アラブの人々が、そうしたパレスチナ人に連帯して、犠牲を覚悟で抵抗するに至っているのだと思います。
 犠牲者を増やさないために、南アフリカ共和国が集団殺害の疑いでイスラエルを国際司法裁判所(ICJ)に提訴したことを支持し、イスラエルに「即時停戦」の判決が下るようにしてほしいと思います。
 下記は、「君はパレスチナをしっているか」奈良本英佑(ほるぷ出版)から「3 大国のエゴイズム」の「イギリスのおかしな約束」と「フサイン・マクマホン書簡」を抜萃しました。
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                    イギリスのおかしな約束

 「バルフォア宣言」は連合国側の内部に大変な波風を立てることになった。これは、イギリス政府が他の相手に対して約束していたことと矛盾するからである。イギリスは、アラブのナショナリストに対して、アラビア半島、メソポタミア、シリア・パレスチナを含むアラブ国家の独立を支援することを約束していた。他方、フランスやロシアに対しては、これらの地域を分割してお互いに分け合うこと、パレスチナだけは別個に切り離して国際管理の下におくことを約束していた。
 「アラビアのロレンス」の本や映画を見た人は、アラブへの約束については知っているだろう。「アラブの反乱」を起こしたマッカのシャリーフ(守護職)フサインと、イギリスの高官、マクマホンの間に交わされた「フサイン・マクマホン書簡」は有名だ。
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                    フサイン・マクマホン書簡

 この書簡は、1915年7月から1916年1月にかけてやりとりされた。このなかで、イギリス政府は、フサインがオスマン帝国に対して反乱を起こすことの見返りに、アラブのナショナリストが要求するほぼ全領域での「アラブ人の独立を承認し、支持する用意がある」ことを伝えていた。ただし、マクマホンは「同盟国フランスの利益をそこなわないために」、ごく一部の地域を独立アラブ国家の領土から除外したい、といっている。だが、このくだりを普通に解釈すれば、除外される地域がパレスチナよりもっと北よりの地中海沿岸地域であることは明らかだ。しかも、マクマホンの手紙には「パレスチナ」「シオニスト」「ユダヤ人」などという言葉や、これらを意味する表現は全く見られない。  
 このアラブ・ナショナリズム運動は、今世紀のはじめに起こった非常に若い運動である。それは、オスマン帝国による上からの近代化、その結果としてトルコ人による支配が強まったことに対する反発として生まれた。その中心的な担い手になったのは、シリア・パレスチナ地方の新しい地主階級だった。
 このオスマン帝国が第一次世界大戦に参戦すると、アラブ・ナショナリストに対する締めつけが強まり、一方、かれらの反発も激しさを増した。
 これに目をつけたイギリスが、アラブ・ナショナリストを味方につけ、オスマン帝国を分裂させようと持ち出したのが、前に述べた書簡でのアラブへの約束だった。ロレンス大佐はこのような工作のためにイギリスが送り込んだ軍人のひとりだったのだ。

 

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バルフォア宣言と欧米の支配

2024年01月18日 | 国際・政治

 第二次世界停戦前、欧米はアジア、中東、アフリカ、中南米などの国々を植民地とし、搾取・収奪を続けていました。
 戦後、多くの植民地が独立しましたが、搾取・収奪がなくなったわけではないと思います。欧米は、かつての植民地に対して、政治的独立を認めながら、経済関係や軍事同盟などを通じて、巧みに植民地時代とかわらない関係を維持し、搾取・収奪を続けていると思います。
 変ったのは、直接的な権力の行使による搾取・収奪がなくなったということだけであって、本質的な関係は、植民地時代とそれほど変わっていないと思うのです。
 だから、欧米の繁栄は、そうした世界支配に支えられてきたといっても過言ではないと思います。
 そして今、ガザやヨルダン川西岸地域でイスラエルが続けている人道犯罪は、その延長線上にあると思います。
 下記は、「君はパレスチナを知っているか」奈良本英佑(ほるぷ出版)からの抜萃です。イギリスの二枚舌外交を象徴する「バルフォア宣言」は、第一次世界大戦中のものですが、イスラエルの独立は第二次世界大戦後のことであり、欧米の植民地支配的な政策が、そのまま進めらているといえるように思います。同書の著者、奈良本英佑教授も、”そしてこの大戦中とそののちのイギリスの政策が、「パレスチナ問題」と今日呼ばれているやっかいな問題の発生に決定的な役割を果たしたことは、誰もが認めている。”と書いています。

 イスラエルは、空爆をくり返し、さらに、地上軍をガザ市街に侵攻させ、避難せず市街に残っていた市民のみならず、指示に従って避難した市民をも無差別に殺し続けています。その多くが女性や子どもであると言います。イスラエルの政府や軍は、「ハマス殲滅」のための空爆であり、攻撃だと言うのですが、実は、ガザやヨルダン川西岸地域に住む「パレスチナ人の殲滅」を意図的にやっているのだと思います。
 ハマスのイスラエル襲撃で死んだ人は1200人といわれ、その後その数にほとんど変化はありませんが、パレスチナ人の死者はその20倍をこえたことが報道されています。ハマスが運営するガザ地区の保健省のデータによると、7日間の一時戦闘休止期間を除き、紛争開始から現在まで、1日当たり平均300人近くが殺されているということです。
 世界保健機関(WHO)のリチャード・ブレナン地域緊急ディレクター(東部地中海地域担当)は、この数字は信頼に値するとしている。”と言っています。また、保健省によると、”ガザでの死者数は病院で死亡が確認された人しか集計していない。倒壊した建物の下敷きになっている死者や、病院に運ばれずに埋葬された死者は含まれていないため、ガザ地区の医師らは、実際の犠牲者数はさらに多い可能性があるとしている”ということです。
 だから、イスラエルの人道犯罪を、国際司法裁判所に提訴した南アフリカの弁護団が、”イスラエルの政治指導者や軍のトップ、公職者らが明確な言葉でジェノサイドの意図を宣言した”、と指摘し通り、この戦争は自衛の戦争などではないのです。イスラエルの政治家や軍人に、パレスチナ人とは共存できないと公言している人たちがおり、その人たちがイスラエルの戦争を主導しているということです。

 だから、そうしたイスラエルの人道犯罪を受け入れることのできない人々が存在することは、当然だろうとと思います。
 先日、イエメンのフーシ派、ナセルディン・アメル報道官は、攻撃対象を米国の船舶にも拡大すると述べたといいます。
 アメル報道官が、テレビ局アルジャジーラに対し「われわれが標的とする船舶は必ずしもイスラエルに向かう船舶である必要はない。米国の船舶であれば十分だ」と主張したことが報じられました。
 大事なことは、西側諸国では、ほとんど報じられていませんが、紅海の船舶攻撃が、無差別なものではなく、イスラエルに向かう船舶に対する攻撃であったという事実です。
 にもかかわらず、アメリカ主導の軍が、イエメンフーシ派の拠点に対する攻撃に踏み切ったので、アメル報道官は、攻撃対象の拡大を公にしたということです。

 米英軍のイエメン・フーシ派拠点に対する攻撃が、国際社会の同意を取り付けていないばかりでなく、事前に何の話し合いも行われていないことも見逃すことができません。
 民主的な手続きを踏むことなく、再びアメリカの軍事力が行使されたことは、重大なことだと思います。逆らうものは容赦しないという軍事力の行使は、植民地時代と何ら変わらないと思います。 
 バイデン米政権は、イエメンのフーシ派を「特別指定国際テロリスト(SDGT)」に再指定する計画だといわれます。アメリカに逆らう国や組織は、すべて「独裁国家」であり、「テロ組織」なので、アメリカの軍事力行使は、当然だという考えなのだろうと思います。

 でも、下記のような報道を合わせて考えると、事実がそれほど単純ではないことが窺われると思います。
マクロン仏大統領は会見で、フランスは地域の情勢緊迫化を避けるため米主導の攻撃には参加しないことを選択したと説明。紅海で取っている「防衛的」な姿勢を堅持すると述べた。

英国は紅海の紛争に巻き込まれることは望まないとしつつ、航行の自由を守ることにコミットしていると表明。シャップス国防相はスカイ・ニュースで、フーシ派拠点へのさらなる攻撃の可能性について状況を見守る考えを示した。
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                                          大国のエゴイズム

 バルフォア宣言
 シオニズム運動の成功にもっとも大きな力を貸したのはイギリスだった。この成功の記念碑は、なんといっても、1917年の「バルフォア宣言」だ。
 これはイギリス政府がシオニズム運動の目的を支持することを、はっきりとうたったものだ。この支持をとりつけるには、ワイツマンが非常に大きな役割を果たした。「政治的シオニズム」と呼ばれる運動がバーゼルでスタートしてわずか20年後に、大部分の人々が「夢物語」だと考えていたものが「正夢」になったのだ。
 「バルファ宣言」が出されたのは、第一次大戦のまっただなかだった。
 イギリス、フランスを中心とする「連合国」側、ドイツを中心とする「同盟国」側との生死をかけた戦いの行方は、まだはっきりしているとはいえなかった。この世界大戦が、シリア・パレスチナだけでなく、「中東」と呼ばれる地域のその後の運命にどれほど大きな影響を与えたか、いくら強調してもしすぎることはない。そしてこの大戦中とそののちのイギリスの政策が、「パレスチナ問題」と今日呼ばれているやっかいな問題の発生に決定的な役割を果たしたことは、誰もが認めている。
 イギリスの「二枚舌外交」とか「三枚舌外交」という言葉は、パレスチナや中東の現代史をテーマにした本には必ずといっていいほど出てくる。問題は、イギリスだけを悪者にしてすむほど単純ではない。だが、当時、最大の世界帝国だったこの国の外交政策をよく調べてみることは、パレスチナ問題を歴史的に理解するのにたいへん役に立つ。

 遺産ぶんどり合戦
 第一次大戦は、中東から見た場合、「瀕死の病人」オスマン帝国の遺産ぶんどり合戦にほかならなかった。
 形のうえでは、オスマン帝国はドイツ側につくのだが、この大戦の実態は、イギリス、フランス、ドイツを中心とするヨーロッパの強大国、いわゆる「帝国主義列強」によるオスマン帝国の分割戦争だったといってよい。別の言葉で言うと、あの「東方問題」に決着をつける戦争だった。だから帝国主義列強の代表格であり、中東での分割戦争に最大の勝利を収めたイギリスが、この分割戦争の中でどのように振舞ったかということが人々の関心を引くのである。つまり、この大戦前の「東方問題」から、どのようにして戦後の「中東問題」が発生したかを見るのに、イギリスの外交政策というプリズムを通すと非常にわかりやすいのだ。さて、そのような外交政策の産物の一つである「バルフォア宣言」とは、どういうものか。日付は1917年11月2日、ロシアの11月革命の5日ばかり前だ。
 「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土を建設することを好ましいことだと考える。わが政府は、この目的の達成を助けるために最善の努力をするだろう。ただし、次のことはははっきりと理解しておかなければならない。パレスチナに存在している非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利、あるいは他の諸国に住むユダヤ人の権利や政治的地位をそこなうことは何もしてはならないということである」
 全文を少しかみくだいて意訳するとこのようになる。英文にしてわずか119語の短いものだ。非常にまわりくどい言い方をしているのに気づくだろう。しかも、この「宣言」は、バルフォア外相が、ロスチャイルドという富豪への手紙を通じて、イギリスのシオニスト組織への伝達を依頼するという、間接的な方法で行われた。この表現といい、伝達方法といい、当時のイギリス政府が八方に気をつかわねばならなかったことを物語っている。

 だが、この宣言の意味を解くカギは「パレスチナに存在している非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利」といういいまわしにある。
 当時のパレスチナの人口は、ざっと70万人。うち「ユダヤ人」は約6万人とみつもられている。ここの「ユダヤ人」には、アラビア語を話す現地のユダヤ教徒と、ヨーロッパから移民してきたユダヤ人とがふくまれる。「非ユダヤ人」社会の大部分はアラビア語を話すムスリムとキリスト教徒、つまり「アラブ人」だが、こちらが人口の90%以上を占める。住民の圧倒的多数派なのだ。
 ところが、この宣言を読むと、まるでユダヤ人の方が多数派で、アラブ人の方が少数派であるかのような印象を受ける。実は、このユダヤ人を多数派にして、アラブ人の方を少数派に転落させるというのがシオニストの本当のねらいだったのだ。
 また「市民的・宗教的権利」とはいいながら、「政治的権利」とはいっていない。これは、パレスチナの多数派である「非ユダヤ人社会」が、将来、ひとつの独立国家を要求しても、認められるとは限らないことを暗示しているのだ。大戦後の外交交渉の中で、イギリスのライバルになったフランスがこの点をついている。これは、連合国側が戦争目的としてかかげた「民族自決」の原則に反するのではないか、と。
 ここでひとつ注意してほしい。そもそも、パレスチナの住民を「ユダヤ人」と「非ユダヤ人」に二分する考え方は、ヨーロッパから持ち込まれたものだ。現地の人々が「アラブ人」という場合は、ムスリム、キリスト教徒だけでなく、ユダヤ教徒も含んでいた。
 宗教のちがいを利用してこの地域の人々の関係を引きさくやり方が、「東方問題」の産物であることは、第一章にも書いた。このように、バルフォア宣言は、イギリスの「東方問題」への対応、つまり東方政策」から生まれたものということができる。
バルフォア宣言ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー資料
 親愛なるロスチャイルド卿

 イギリス政府を代表して、私は、ユダヤ人・シオニストの願望への共感を表す、以下の宣言をお伝えします。これは閣議で承認されたものです。
「イギリス政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族郷土建設することを好ましいことだと考える。わが政府は、この目的の達成を助けるために最善の努力をするだろう。
 ただし、つぎのことは、はっきりと理解しておかなければならない。パレスチナに存在している非ユダヤ人社会の市民的・宗教的権利、あるいは他の諸国に住むユダヤ人の権利や政治的地位を損なうようなことは、何もしてはならないということである」
 この宣言をシオニスト連盟にお伝えいただければ幸いです。
                                    1917年11月2日

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「旧約聖書」とイスラエルの所業

2024年01月13日 | 国際・政治

 下記は、「聖地 エルサレム」月本昭男監修(青春出版社)からの抜萃です。 「旧約聖書」で、神がイスラエルに与えたという「約束の地」、カナン(パレスチナ)には、どんな歴史があるのか、概略を知ることができると思います。
 そして、「旧約聖書」の記述を根拠に、ユダヤ人が、何世代にもわたって住み続けてきたパレスチナ人から土地や家を奪い、カナンの地(パレスチナの地)に住みつくこと、また、パレスチナの地に、イスラエルという国家を建国し、そのイスラエルという国からパレスチナ人を追い出そうとしているユダヤ人の方針が、許されるものでないこともわかると思います。
 なぜなら、紀元前に書かれた「旧約聖書」には、とても史実とは考えられないことがいろいろ書かれているからです。「旧約聖書」に限らず、「創世記」のような紀元前の話には、時の為政者が、自らを絶対的な存在とするために神と関連付けたり、また、自らに都合のよい「つくり話」を史実に含めて書いていることを考慮しなければならないのです。
 同書の著者も、”たしかに、このイスラエル民族のカナン定住は歴史上の事実である。とはいえ、この征服物語は、どこまでが史実たり得るだろうか。”と書いています。疑わしいことが書かれているのです。
 神代史の研究で知られる津田左右吉も、古事記日本書紀の既述、また、その解釈に関して、そうしたことを詳しく書いています。    

 先月、南アフリカイスラエルの「ジェノサイド」を非難し 国際司裁判所(ICJ)に提訴した問題に関して、昨日その審理始まったとの報道がありました。国際社会の力関係に左右されず、国際司裁判所(ICJ)が、事実に基づいて、法的な判断を下すことを期待したいと思います。

 南アフリカは、イスラエルのガザでの行為はジェノサイドであり、一刻も早いイスラエル軍による戦闘行為の停止や、パレスチナの人々への食料や水、医療などの提供を求めたと伝えられています。それは、世界中の人々の願いでもあると思います。
 日本のメディアは、こうした事実を詳しく取り上げてほしいと思います。また、その経過を取材し、くり返し取り上げてほしいと思います。そして、イスラエルに連帯の意を表明した政府を追及して、方針転換を促してほしいと思います。

 この件に関し、CNNニュースは、下記のように伝えています。 
” 南アの弁護団は「イスラエルの行為はジェノサイド行為のパターン」を示していると指摘。ICJに提出した84ページにわたる文書の中で、イスラエルがガザのパレスチナ人を殺害したり、深刻な害を心身に与えたりして「パレスチナの人々の身体的破壊をもたらすように計算された」状況を作り出すことでジェノサイドを行っていると主張した。
 加えて、イスラエルの政治指導者や軍のトップ、公職者らが明確な言葉でジェノサイドの意図を宣言したと指摘し、こうした言葉がガザで戦うイスラエル軍の兵士らによって繰り返されているとした。
 また、陳述の冒頭では、1948年以来、パレスチナ民族はイスラエルに組織的かつ強制的に土地を奪われてきた、などとこれまでの経緯にも言及した。

 この記事の中で見逃せないのは、
イスラエルの政治指導者や軍のトップ、公職者らが明確な言葉でジェノサイドの意図を宣言したと指摘し、こうした言葉がガザで戦うイスラエル軍の兵士らによって繰り返されている
 という部分です。私も、何人かのイスラエルの政治家や軍人の発言、主張を取り上げてきました。
 イスラエルは、ガザ北部の市民に、南部に移動するように指示しておきながら、その南部も容赦なく爆撃し、攻撃していることに示されているように、ジェノサイドの意図は、パレスチナ人をガザやヨルダン川西岸から追い出そうということなのです。パレスチナ人とは共存できないということを、公然と主張しているのです。
 だから、エジプトの大統領は、現在のイスラエルとパレスチナの戦争は、ガザ地区を支配するハマスとの戦いを目的とするだけでなく、「同地区に住む市民をエジプトへと追いやる試みでもある」と指摘し、ガザ地区のパレスチナ人の受け入れを拒否しているのです。隣国ヨルダンの国王も、「ヨルダンへの難民もエジプトへの難民もあってはならない」と同じようなメッセージを発したことが伝えられています。
 両国の難民受け入れ拒否の根底には、イスラエルがパレスチナ人を永久的にエジプトやヨルダンへと追い出し、彼らの国家樹立の要求を無効にしようとしているとの考えがあり、また、集団移住によって、平和がもたらされるのではなく、逆にパレスチナ人が移住地からイスラエルに対する攻撃を行うことで、平和が脅かされると恐れているのです。
 確かに、現在のイスラエルの残虐行為を見れば、追い出しに成功したとしても、パレスチナ人が、何とかしてイスラエルの暴力的仕打ちを乗り越え、パレスチナの地に戻ろうとすることは避けられないのではないかと思います。エジプトやヨルダンが恐れていることには、根拠があるように思います。

 関連して、CNNの下記のニュースも目が離せないと思います。
 英米が、イランに支えられたイエメンのフーシ(Iran-backed Houthis in Yemen)に対する攻撃を始めたというのです。
 現在のイスラエルのやりたい放題を受け入れない組織は、西側諸国では、「抵抗の枢軸」などと呼ばれるようですが、「ハマス」だけではなく、レバノンのイスラム教シーア派組織「ヒズボラ」やイエメンの反政府勢力「フーシ派」、イラクやシリアの民兵組織などがあるといいます。

  イスラエルは、日々敵を増やしているのではないかと思います。
 ”US and UK strike Iran-backed Houthis in Yemen
The strikes come after the US and its allies warned of consequences for the militant group’s repeated attacks on shipping in the Red Sea”

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                      第一章 聖書の時代

               有史以前のエルサレム  聖地のはじまりはオフェルの丘に

「創世記」に記された天地創造の記述。
 エルサレムを聖地とするユダヤ教、イスラム教、キリスト教の原点となっているのが、『旧約聖書』の中の「創世記」である。その記述によれば、天地は神によって創造された。
 神が「光あれ」というと光がつくられ、光と闇に分けられた。また、大空がつくられ、その上と下に水が分けられた。さらに、第三の日には、大地と海がつくられた、地には草、木を芽生えさせた。 
 その後、神は太陽、月、星をつくり、昼と夜をつかさどらせる。また、水に群がる生き物や鳥などを創造し、地の獣、家畜、土を這う生き物を創造した。
 その次に神が創造したのが、人間の男女アダムとエヴァである。当初、ふたりはエデンの園で自由に暮らしていたが、神から食べることを禁じられていた善悪を知る木の実を食べてしまい、追放されてしまう。その後、アダムとエヴァには、セトという男の子が生まれ、この家系からノアが生まれる。だが、ノアの時代には、人間は神から離れ、地上に悪がはびこってしまった。
 すると神は人間を創造したことを後悔し、これを滅ぼそうと考えた。ただし、「義人」ノアとその家族だけは助けようと考え、ノアに方舟をつくらせて、ノアの家族とその妻子、すべての動物をひとつがいずつ乗せた。そして、神は洪水起こし、方舟に乗ったもの以外はすべて滅ぼしてしまったのである。

 周辺文化の影響の下で成立したパレスチナの「創世記」
 では、史実に目を移そう。
 メソポタミアにおいて、のちに強大な統一国家を生み出す、高度な文明が築かれ始めるのは、紀元前3500年頃のことである。
 だが、パレスチナには強大な権力が誕生することがなく、常に文明の辺境の地であり続けた。
 パレスチナが政治的統一を見るのは、紀元前1000年頃のダビデの登場を待たねばならないのである。 とはいえ、パレスチナに人間が住み始めるのは意外に早い。石器時代の紀元前8000年頃まではナトゥーフ文化と呼ばれる狩猟文化の跡が見られる。この時代の遺跡からは狩猟・採集生活に寄りながらも、集住生活を営んでいた形跡が発見されている。
 さらに紀元前7000年頃には、オアシス地域にエリコのような都市が建設され始める。発掘によれば、この時代のエリコは2000人もの人々が住み、高さ4mの城壁に囲まれていたという。
 紀元前3000年以降、パレスチナの地は青銅器時代に入る。この頃になると、メギドやアラド、ゲゼルなどの都市の基礎が築かれ、「エブラ」という王国も北シリアに登場している。
 現在のエルサレム付近に人間が住みつき始めたのもこの頃とされる。後世に「神殿の丘」と呼ばれる場所の南に位置するオフェルの丘を中心に発展したとみられ、ここからは墓所など当時の生活の跡が発掘されている。
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                        族長アブラハム

                   カナンの地にやってきた諸民族の祖

 混迷のパレスチナにやってきたアブラハム
 紀元前3000年頃、北シリアではエブラ王国が登場し、エジプトとの交易を通じて繁栄した。やがてメソポタミアにアッカド王国が台頭し、エブラを征服。そのアッカド王国が衰退すると、パレスチナの地には新しい住民が侵入した。アモリ人と呼ばれる民族が現れ、メギド、シケム、ハツォルなどに堅固な城壁を持つ都市国家を築き上げたのだ。
 だが、ほどなくこの都市国家群もエジプトの影響下に取り込まれる。以降、アモリ人が築いたパレスチナの都市国家群は、エジプトの主権を認めながらも、互いに争いを続ける時代へと入って行く。『旧約聖書』において、神の啓示を受けたアブラハムがカナン(パレスチナ)にやってきたのは、こうした情勢下であると考えられる。
 伝承によれば、アブラハムは南メソポタミアのウルに生まれ、一族と共に北シリアのハランに移り住んでいたが、神に命じられ、妻と甥とともにカナンに着いた。ここで神はアブラハムに対して彼の子孫にこの土地を与えると約束したという。このアブラハムの物語には、サレムの王という人物が登場するが、このサレムこそエルサレムを指す。
 また、紀元前1900年頃のエジプトの呪詛文字にエルサレムの名が見える。この時期、エルサレムは既に都市国家となっていたのである。

 相争う民族の祖となった2人の子ども
 アブラハムには子がなく、妻サラも高齢だったため、仕え女のハガルがアブラハムの子を産むことになる。ハガルは、やがてイシュマエルという男の子を出産した。
 さらにアブラハム100歳のときに、信じられないことが起こる。なんと90歳の妻サラが、彼の子どもを出産したのだ。その男の子はイサクと名付けられた。
 イサクの誕生は、サラと、長男イシュマエルを出産したハガルとの関係を悪化させた。これに悩んだアブラハムに、神は「すべてサラの言うことに従いなさい。あなたの子孫はイサクが伝え、イシュマエルは一つの国民の父とする」と告げる。そこで、アブラハムはサガルとイシュマエルを追放。のちに追放された長男イシュマエルは、エジプト人の女性と結婚し、アラブ民族の祖となったと伝えられる。
 一方、次男イサクはアブラハムとともに、ベエル・スエバへ下り、その地にとどまった。年老いた母サラは、寄留先のマレム(ヘブロン)の地で亡くなり、その遺体を葬った場所は、のちにアブラハムの墓ともなり、イサクなど代々の族長の墓所として守られた。
 1974年から76年にかけた前述のエブラ王国の首都の発掘調査の際、多数の粘土板の文章が発見されている。この文書には、ヤハウェ、アブラハムなどに似た神の名や人名が見出されたと一部の学者が主張し、アブラハムに始まるイスラエルの始祖伝承との関係が議論の的となった。

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                      ヤコブとヨセフ
         
              ヨセフに導かれてエジプトへ移動したイスラエルの民。
 
 兄エサウの復讐におびえた弟ヤコブ
 アブラムの次男イサクは、父の死後、一族の長となった。彼の妻リベカは双子の男児を出産し、エサウとヤコブと名付けられた。イサクは勇猛な兄エサウを気に入っていたが、リベカは優しい弟ヤクブを愛していて、兄弟の間に争いが絶えなかった。
 やがて年老いたイサクは、エサウに相続権を譲ろうとした。エサウが狩りで得た獲物を料理させて食べ、その後彼を祝福しようというのだ。だが、これを知ったリベカは一計を案じた。年老いてすでに目の見えないイサクには、エサウとヤコブの区別も付かないと考え、ヤコブをエサウになりすまさせて、祝福を受けさせようというのである。
 作戦はまんまと成功し、ヤコブは相続権を得た。だが、エサウの復讐を恐れて、母の勧めによって母の故郷に逃亡。その途中、天国に昇る階段の夢を見たヤコブは、自分の子孫が偉大な民族になるという神の約束を受ける。
 その後、ヤコブはハランに住む伯父ラバンのもとに身をよせ、やがて独立する。そして、兄エサウとの和解を志して会いに行く途中で、天使と格闘したという。その際、相手から「イスラエル」の名を与えられる。これがのちにイスラエルの民族名の由来となった。

 軍事的変革とともに訪れたカナンの社会的変革
 ヤコブには12人の息子ができた。このうちヨセフは母違いの兄たちによってエジプトに奴隷として売られてしまう。しかし、彼には夢占いの特技があり、王の信任を得て、エジプト王朝の高官にまでのぼりつめる。
 その頃、飢饉による流民が近隣諸国に発生し、エジプトに流入する。その中には、ヨセフの兄弟たちも混じっていた。故郷に残る父ヤコブの姿を思い浮かべたヨセフは、兄弟たちと和解し、彼らと父をエジプトに呼び寄せたいと希望する。

 故郷に戻った兄弟たちの話を聞いたヤコブは、一族のすべての者を連れてエジプトに移住することを決意し、ナイル川下流のゴセンの地で、平和な生活を始めたのだった。
 これ以降、イスラエルの民は、この地で子孫を増やして行く。同時にやがて生まれる一神教の概念の基礎が形成されていったと考えられている。それまでは自然神や地縁神など、その土地の神を信じていたのだが、徐々にそれら排して、自分たち独自の神を立てて、それを信じるようになっていたといわれる。イスラエルの民がエジプトにやってきたのは、一般にヒクソスの支配下にあった時代とされる。ヒクソスは紀元前1700年前後にエジプトに定着した民族で紀元1650年頃に王朝を樹立した。その勢力はパレスチナにも及び、同地を支配下に収めている。そのヒクソス支配下の時代、パレスチナには新しく戦車の導入が盛んに行われ、社会に大きな変革が起った。
 武力を用いて土地を支配する貴族が、納税を義務付けられた臣民を支配する構図が出来上がったのである。また町は堅固な城壁で囲まれた要塞都市へと変貌していた。
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                        カナン征服

                約束の地はいかにして手にいれられたのか

 土地を割り当てられ定住を開始した十二部族
 モーセに率いられたイスラエルの民が、いよいよカナンの入口まで迫っていた頃、当時のカナンでは前述のように、都市国家が分立する状況にあった。各都市国家は、それぞれがエジプトを宗主国としていたが、エジプトの勢力が衰えるにつれて、互いに激しい抗争を繰り広げるようになっていた。『旧約聖書』によれば、イスラエルの民は、モーセの後継者となったヨシュアに率いられて、ヨルダン川の渡河を開始。エリコを攻撃したとされる。
 エリコは、世界最古の町のひとつといわれ、堅固な城壁が築かれていた。だが、包囲七日目に城壁が崩れ落ち、イスラエルの民は、とうとう町を占領する。伝説によれば、エリコの城壁は祭司たちが吹く角笛と民の叫びの前に崩壊したといわれる。
 この戦いによって、ヨシュアの名声が一気に高まり、カナンの王たちは次々に彼の軍門に降った。   
 その後、カナン中部にも進出したヨシュアは、ついにイスラエル12部族に土地を割り当てたのである。
 たしかに、このイスラエル民族のカナン定住は歴史上の事実である。とはいえ、この征服物語は、どこまでが史実たり得るだろうか。
 これについては、人口のまばらな山地から低地に向かって浸透するように定住圏を広げていったとする平和浸透説、ヨシュアの征服を概ね事実とする軍事征服説、都市国家に対して周辺の農民たちが反乱を起こして支配権を確立したとする叛乱説の三つが挙げられてきた。
 近年の調査で、紀元前13世紀末から12世紀にかけて、パレスチナ東部の山岳地帯の広い範囲にわたり、小規模な居住地が突如として300以上も出現したことが判明した。しかも、そこから出土した土器はのちのイスラエルの特徴を示しているという。
 この発見から、イスラエルの民は、まずカナンの山地で生活し、農耕生活へと移行していたことが判明した。このため、イスラエルの成立については平和浸透説が有力視されるようになっている。

 激化の一途をたどった周辺民族との抗争
 かくしてイスラエルの各部族はカナンの地に住み着いたわけであるが、この時期にカナンにやってきた民族は彼らだけではなかった。
 ヨルダン川東岸にはエドム人、モアブ人、アンモン人が定住し、国家を築きつつあったのである。このため、実際には征服が完成したわけではなく、その後も周辺民族との間で激しい争いが続いていく。
 これに対して、イスラエル部族連合を一つにまとめ、いざとなれば自ら戦争指導者となって戦った士師(シシ)と呼ばれる指導者たちが登場したと『旧約聖書』は伝えている。
 『旧約聖書』には、デボラやサムソンといった12人の士師の名前が書かれ、彼らの活躍によってイスラエルの民は何度も危機を乗り越えるのである。
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                       サムエルとサウル

                 ペリシテ人の侵入を阻んだイスラエルの王

 最新鋭の武器を用いて侵入を続けるペリシテ人
 カノンを占領し土地を取得したイスラエルの民だったが、それで平穏が訪れたわけではない。周辺民族による侵入が盛んに行われた。その中でも、よく知られているのがペリシテ人による侵入だ。彼らは、もともとエーゲ海のミノア文明で有名なクレタ島から出てきた人々と考えられている。
 紀元前180年頃、ペリシテ人たちはエジプトと戦い侵入を阻止される。そこで、東部地中海の海岸線一帯に、それぞれの部族ごとにガザ、ガト、アシュケロン、アシュドド、エクロンという五つの都市国家を建設した。
 ペリシテ人はこの頃から、当時としては最新鋭の鉄製の武器を駆使して、内陸部への進出を始めた。ペリシテ人たちはカナンに侵入してさらに都市を築き、王を戴く国家をつくりあげていったのである。 イスラエルの民はそんなペリシテ人と抗争を展開するようになったのだが、紀元前11世紀頃にイスラエルを主導したのが士師サムエルである。
 ・・・以下略

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「反ユダヤ主義」とイスラエルの犯罪行為

2024年01月08日 | 国際・政治

 年が明けてからの報道は、ほとんど能登地震と羽田空港の飛行機衝突事故に関するものでしたが、そんななかで朝日新聞は、米ハーバード大学のクローディン・ゲイ学長が、論文盗用疑惑に加え、学内の「反ユダヤ主義」に関する議会証言を巡り、ハーバードのユダヤ系コミュニティーや一部議員から辞任圧力を受けて、辞任を表明したことを伝えました。朝日新聞の報道は、見逃されてはならない重大な問題だ、という意識があるからだと思います。
 私は、バイデン政権を支える人たちの正体が、垣間見えるような気がしました。証言内容の過ちを指摘したり、批判したり、また、その撤回を求めたりするのではなく、圧力をかけて、民主的に選ばれた学長を辞任に追い込むということだったからです。
 ネット上のニュースでは、ペンシルベニア大とマサチューセッツ工科大(MIT)の学長も、イスラエルとハマスの戦闘勃発を受けた大学構内での「反ユダヤ主義」の高まりについて、下院公聴会で証言したということです。そして、ゲイ学長を含む3人は、ユダヤ人の虐殺呼びかけが、いじめやハラスメントに関する大学の行動規範に違反するかどうかについて問われたのに対し、明確な回答を避け、文脈が重要であり、言論の自由を考慮に入れなければならない、と発言したことが問題視されたといいます。
 見逃せないのは、 米ハーバード大学理事会のハーバード・コーポレーションが、学長の続投を支持する、と声明を発表したことです。外部の者が、大学の人事に口を出し、学長を辞任に追い込むということがまかり通れば、大学の自治や学問の自由は危うくなると思います。
 民主国家では、学問は、”真理探究のためにいかなることを研究し,発表し,教授しても,政治的・経済的・宗教的な諸権威による侵害を受けない”ことを保障されているはずです。
 民主国家を自認するアメリカで、こういうことが平然と行われるところに、アメリカという国の本性が垣間見えるように思ったのです。

 さらに言えば、パレスチナに対するイスラエルの建国以来の人権侵害、また、国際法無視を無視した入植地の拡大、さらに、くり返されてきた無差別なガザ爆撃や地上侵攻による民間人の殺害行為は、断じて「反ユダヤ主義」というような考え方やイデオロギーの問題ではなく、現実に実行されている犯罪行為の問題だと思います。
 ナチス・ドイツのホロコーストに至ったユダヤ人に対する偏見や差別にまみれた「反ユダヤ主義」の考え方やイデオロギーを持ち出して、現在進行中のイスラエルの犯罪行為を正当化することはできないと思います。過去の「反ユダヤ主義」の過ちを利用し、現在のイスラエルに対する批判や非難を封じることは許されないと思うのです。

 イスラエルのユダヤ人には、同情すべき歴史があるとは思いますが、それをもって、パレスチナ人に対する日常的な人権侵害や無差別爆撃による民間人殺害に目をつぶってはならないのです。
 私は、国際社会がイスラエルの対パレスチナ強硬派の過ちを指摘し、抑えることができなければ、悲劇は何度でもくり返されると思います。
 イスラエルのリクードを中心とする対パレスチナ強硬派は、パレスチナ人と共存することを受け入れていません。旧約聖書に示された「約束の地」全域への領土拡大を目指しているのです。
 最強硬派の中には、イスラエルの国会(クネセト)からアラブ人議員を追放するとともに、非ユダヤ人のイスラエル国外退去を奨励して、ガザ地区再占領を主張する人も少なくないといいます。
 そして、2018年7月19日にクネセトで可決された「ユダヤ人国家法」では、現実に「イスラエルではユダヤ人だけが自決権を持つ」されているのです。
 だから、イスラエルの人口約900万人のうち約2割を占めるアラブ系住民は「ユダヤ人優位を制度の根幹に据えることを明言し、アラブ人を常に『2級市民』とする法律」として反発しているといいます。


 また、 1月1日の朝日新聞、「紛争の時代に 暴力を許さぬ関心と関与を」と題する社説のなかに
下記のような一文がありました。
戦況を注視して驚かされるのは、パレスチナとイスラエルが互いに向ける憎悪の深さだ。とりわけイスラエル高官たちが発する言葉の苛烈さは耳を塞ぎたくなるほどだ。
 イスラエルの国防相は語った。「私たちはhuman animals(人間の姿をした動物)と戦っている」。けだもの扱いである。
 軍の報道官は、戦闘の死者を「ハマス1人にき民間人2人の割合」としたうえで、「市街戦の困難さを考慮すれば、非常にポジティブだ」と言い放った
 
 この記事は誇張でもなんでもないと思います。イスラエルは、ハマス殲滅を掲げつつ、実は、「約束の地」から、パレスチナ人を追い出すための戦争をしているのです。そのイスラエルをアメリカが支援し続け、日本は連帯の意を表明していることを忘れてはならないと思います。
 中東に関する執筆を20年以上に渡って行い、その文章が国際的に配給されているコラムニストでメディアコンサルタントのラムジー・バロウド氏は、見逃すことのできない指摘をしています。いくつか抜萃します。

〇イスラエルによるガザ戦争の根底には、相手を非人間的に扱う虐殺の言葉がある
〇アラブ人は「瓶の中で薬漬けにされたゴキブリだ」
〇多くの人が忘れているようだが、直近のイスラエルによるガザ侵攻より遥か以前、さらにはイスラエルが建国される1948年よりも前から、イスラエルのシオニストによる主張は常に人種差別的で、相手を非人間的に扱い、排除的で、場合によっては明白に虐殺を訴えるものであり続けてきた。
〇イスラエル史から時代を無作為に選んで政府関係者、機関、さらに知識人の政治論を検証してみれば、行き着く結論は同じものになるだろう。それは、イスラエルが常に扇動と憎悪のナラティブを形成し、パレスチナ人の虐殺を絶えず主張し続けてきたということである。
〇イスラエル建国以前、シオニストはパレスチナ人の存在自体を否定していた。多くの者は未だに否定を続けている。そうなってくるとイスラエルの集団意識としては、そもそも存在しない人々を殺すのは倫理的に責められるべきものではないという結論に達するのが合理的だということになる。
〇今こそ、いかにしてイスラエルの虐殺的な言葉が現場での実際の虐殺に結びついているかということに目を向け始めるべきなのだろう
〇パレスチナ人がイスラエルの政治論において考慮される場合でも、彼らは「血に飢えた獣」、「テロリスト」、「瓶の中で薬漬けにされたゴキブリ」として扱われる。
〇ベンヤミン・ネタニヤフ首相のリクード党に所属する国会議員のアリエル・カルナー氏は、ガザ侵攻の背景にあるイスラエルの目的を説明している。「現在の目標はひとつ、ナクバです。1948年のナクバが霞むようなナクバです」
〇ヨアフ・ガラント防衛大臣も同じ心情を表明している。彼こそイスラエルの宣戦布告を行動計画へと変えた責任者である。「我々が戦っている相手は野蛮人たちであり、相手に合わせた行動を取ります」ガラント氏は10月9日にそう述べている。「相手に合わせた」行動とは、つまり「電気、食料、燃料を断ちます。すべてを遮断します」ということだ。当然ながら、数千人の民間人が犠牲になっている。
〇既にイスラエルの政治権力のトップの1人が10月7日の事件はパレスチナ人全員に集団的責任があると宣言しているということは、ガラント氏の評価ではパレスチナ人は全員が慈悲に値しない「野蛮人」であるということになる。
〇予想通り、米国やその他西側諸国のイスラエル支持者たちもこのコーラスに加わり、極めて暴力的かつ相手を非人間的に扱う言葉を用いている。それにより、イスラエルの一般市民の間で主流となっている今の政治的論調が形成されているのである。たとえば、米国の大統領候補の1人であるニッキー・ヘイリー氏はFOXニュースに対し、ハマスの攻撃はイスラエルだけでなく「米国への攻撃」でもあると述べている。そしてヘイリー氏は真っ直ぐにカメラを見据え、「ネタニヤフさん、奴らを仕留めて、仕留めて、仕留めて」と悪意を込めて宣言した。
〇リンゼー・グラム上院議員は米国の保守派と宗教支持者を集めて「我々は宗教戦争の只中にいます。なすべきことをしてください。あの場所を跡形もなく消し去るのです」と述べている。
〇同じように邪悪な言葉が、数多く発せられ続けている。その結果は絶え間なく放映され続けている。イスラエルはガザ地区の民間人を「仕留め」、数千という家屋、モスク、病院、教会、学校を「跡形もなく消し去り」つつある。まさに、またしても痛ましいナクバを生み出しているのである。
ゴルダ・メイア氏のパレスチナ人は「存在しない」、メナヘム・ベギン氏のパレスチナ人は「2本脚で歩く獣だ」、イーライ・ベン・ダハン氏のパレスチナ人は「動物のようなものだ。彼らは人間ではない」をはじめ、人種差別的で相手を非人間的に扱う発言が繰り返されるシオニストの論調は変わらぬままだ。
〇今ではそれらすべてが一体となりつつある。言語と行動の完璧な同調だ。今こそ、いかにしてイスラエルの虐殺的な言葉が現場での実際の虐殺に結びついているかということに目を向け始めるべきなのだろう。残念ながらパレスチナの数千人の民間人にとっては、この気付きは遅きに失するものなのだが。

 下記は、「パレスチナ紛争地」横田隼人(集英社新書 0244D)から「第二章、第一次インティファーダとハマスの誕生」の「立ち上がった民衆」と「ハマスの旗挙げ」の抜萃ですが、ハマス誕生の経緯を踏まえれば、イスラエルやアメリカの主張に弁護の余地はない、と私思います。
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                第二章、第一次インティファーダとハマスの誕生
 立ち上がった民衆
 1987年12月8日。中東といえば、ガザが寒気に包まれるこの時期にしては、暖かい日だった。この日の午後、エジプト国境に近いガザ地区とイスラエル側の境界にあるエレズ検問所でその事件が起きた。イスラエル人が運転するトラックがコントロールを失い、イスラエルへの出稼ぎパレスチナ人労働者を乗せた車に突っ込んだ。この事故でパレスチナ人4人が死亡し、けが人も出た。それは明らかに事故だった。
 ところが運転していたのがイスラエル人だったため。パレスチナ人がそれを事故だと思わなかった。折しもその2日前、ガザの市場でイスラエル人セールスマンが刺し殺される事件が起きたばかりだった。これはイスラエルの報復だ──。それの夕方までにはビラがばらまかれた。噂はまたたく間に広まる。現場がエレズ検問所だったことも火に油に注いだ。エレズは、パレスチナ人がイスラエルへの出稼ぎの労働許可を得るために早朝から長い列に並び、屈辱的なセキュリティチェックを受ける場所で、パレスチナ人に対する抑圧を象徴する所でもある。ただの交通事故が、長年にわたり鬱積していたイスラエルに対する憎悪を爆発させたる起爆剤となった。
 
 その日の夕方、ガザ市に隣接するジャバリア難民キャンプで、葬儀を終えた民衆がキャンプ内のイスラエル衛所に向かって投石を始める。イスラエル兵は空に向かって発砲したが、「ジハード(聖戦)、ジハード」と叫ぶ民衆との衝突は収まらなかった。ところが、イスラエル軍は当初、事態を深刻に受け止めていなかった。ガザ地区を統括する同軍南部司令部の司令官は、エレズ検問所で交通事故が起きたことを知らなかった。ジャバリア難民キャンプに外出禁止令を出すこともなかった。それまでパレスチナ人の抗議行動は夜には収束するのが常だったが、この日は深夜になっても続いた。
  9日朝。イスラエルの衛所から200mのところで事件が起きた。イスラエル兵が投石するパレスチナ人の若者を拘束したため。その身柄を取り戻そうとするパレスチナ群衆と睨み合いになった。近づいてくる群衆の足を狙って撃てとの命令を受けたイスラエル兵が発砲。銃弾を受けた17歳の少年がその場で死亡した。
 これをきっかけに、イスラエルに対する抗議行動がガザ地区全体とヨルダン川西岸に広がった。パレスチナ民衆が石を手に自主的に立ち上がったインティインティファーダ(民衆蜂起)の始まりだった。
 パレスチナの若者らは、「カフィーヤ」と呼ばれる格子模様のスカーフで顔を隠し、少数のグループでパトロール中のイスラエル兵に向かって石を投げつけた。道路にはイスラエル兵のジープが入れないようにバリケードを築き、古タイヤを燃やした。連日のように。横断幕を掲げた反イスラエルデモが繰り広げられた。イスラエルはゴム弾や催涙ガスで応戦、外出禁止令を出したり、水や電気を遮断するなどして対抗する。しかし効果がないとみると、重装備の部隊を占領地に大量投入した。

 イスラエルによる占領地支配が始まったのは、1967年からである。この年の第三次中東戦争でイスラエルが圧勝し、それまでヨルダン領だった東エルサレムとヨルダン川西岸地区、エジプト領だったガザ地区がいずれもイスラエルの支配下に置かれた。イスラエルは東エルサレムを自国領に併合し、ガザと西岸では軍政をしいた。それ以来20年に及ぶイスラエルの占領政策は、パレスチナ人の生活を圧迫し、占領軍として振る舞うイスラエル兵に、彼らの自尊心を大きく傷つけられてきた。

 イスラエル政府は西岸とガザでパレスチナ人の土地を収用し、ユダヤ人入植地を次々と建設した。特に、右派政党リクードはヨルダン川西岸地区をユダヤ教の教えに基づいてイスラエル領とみなす「大イスラエル主義」をとり、77年に建国以来初めて労働党から政権の座を奪うと、ユダヤ人入植政策を強力に押し進めた。入植地の拡大はパレスチナ人にとって、先祖から引き継いだ土地を奪われること以外の何物でもなかった。中東では貴重な水資源もイスラエルが優先的に確保し、地下水の60~75%がイスラエルに振り向けられたという。
 後に首相として歴史的な和平合意を成し遂げる労働党のイツハク・ラビンも、84年に成立した大連立内閣の国防相として厳しい占領政策をとり、占領政策の費用を賄うために課した税金を払えないパレスチナ人を次々と刑務所に入れた。また、英国の委任統治時代の法律を復活させて「行政的拘束」を導入、具体的な容疑なしにパレスチナ人を逮捕・拘束できるようにした。


 ハマスの旗挙げ
 1987年12月9日。インティファーダ勃発を受けて、ヤシンの自宅に、同師を含むガザ支部の幹部7人が集まる。医師、薬剤師、大学職員、エンジニア、教員と職業はまちまちだが、いずれもガザのエリート層であった。ヤアシン自身も体の障害がひどくなる84年までガザで教師をしていた。その中には2004年3月のイスラエルによるヤシン暗殺後、ハマスの指導者となるものの、やはり暗殺されるアブドゥルアゾズ・ランティシの姿もあった。ヤシンらはその数日後、イスラエルの占領に対して立ち向かうよう呼びかける声明を記したビラをヨルダン側西岸とガザでばらまく。イスラム過激派「ハマス」の実質的な旗揚げであった。
 88年8月に発表された「ハマス憲章」は、パレスチナの地はイスラムの土地であり、神からイスラム教徒に委託された土地だと規定し、「敵がイスラム教徒の土地を奪った場合は、ジハード(聖戦)は全てのイスラム教徒の義務であり、ユダヤ人による不当なパレスチナ占領に立ち向かうためにジハードの旗印を掲げる必要がある」として、イスラエルに対する宗教的な聖なる戦いへの参加を呼びかけている。

 ヤシンはエルサレムのイスラム聖地に立つ「アルアクサ・モスク」の若い説教師と連携し。ヨルダン川西岸でもハマスの組織を立ち上げる。それ以降、ハマスはPLO各派と競い合うように、インティファーダの組織化に乗り出す。その規模において、ハマスを上回る動員力を持つのはアラファト議長率いるPLO最大勢力のファタハだけだった。
「それ(インティファーダ)は神に運命づけられて始まったのだ。イスラムに自然発生という概念はない」。単に反イスラエルだけでなく、イスラムの宗教概念を通して語るヤシンの言葉には、宗教色の薄いPLO系組織の指導者にはない、独特の説得力があった。
 ハマスは当初、表立ってデモを呼び掛けることを控えるほど、イスラエルによる摘発を恐れていた最初の一年間で、ハマスによる軍事行動はイスラエル兵への銃撃など十件に留った。しかし、小規模ながらライバルであるイスラム原理主義組織イスラム聖戦が先行して武装闘争を展開していたため、対抗せざるを得なくなる。89年の2月と5月にハマスは、イスラエル兵の誘拐殺人事件を起こす。これを受け、イスラエルはヤシンの逮捕に踏み切り、同年6月にはイスラム聖戦と共にハマスをテロ組織と認定して非合法化した。

 イスラエルへの出稼ぎ拒否や商店のストライキといった経済手段による闘争はイスラエルに打撃を与えた反面、パレスチナ民衆は仕事をしない、占領地の経済は大打撃を受けた。こうした闘争を継続すればするほどインティファーダを主導するPLO系のUNLやハマスは支持を失いかねない状況に陥った。ハマスは否応なく、武装闘争に傾斜して行く。

 「敵に立ち向かうのに、銃以外の手段はないではないか」。ヤシンは力しか信じないイスラエルからパレスチナの地を奪還するには、イスラエルに対する「聖戦」以外に方法はないと説いた。これに対して、イスラエルはハマス幹部を次々に拘束するなど摘発を強めたが、こうした対応がハマスを一段と尖鋭化させていく。摘発から「表」の組織を守る必要もあり、ハマスは91年に「イッザルディンマルカッサム」と呼ぶ軍事部門を設立。武装闘争は地下に潜ると共に、より過激な闘争に傾いた。92年初めにガザでユダヤ人入植者殺害事件を起こしたほか、車に爆弾を仕掛けてイスラエル市民を殺害し、その活動が注目を集め始める。
 イスラエルのラビン政権は92年12月、ハマス幹部らイスラム原理主義組織のメンバー約420人をレバノン国境へ追放した。厳冬の荒野に活動家を放置する行為は、人道面から国際的な批判を浴び、イスラエルは結局活動家の帰還を認めた。

 実はこの追放事件をきっかけに、ハマスはレバノン南部を拠点にしているイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラとの関係を深め、自爆テロのノウハウ提供を受けたと言われている。ヒズボラは80年代に駐留米軍やレバノンに侵入していたイスラエル軍などに対して頻繁に自爆テロを行った。83年4月にベイルートの米国大使館を狙った初めての自爆テロでは63人が死亡し、同年10月の駐留米軍を標的にしたテロでは米兵とフランス兵約300人が犠牲になった。相次ぐテロはイスラエル軍や米軍の撤退のきっかけになった。その後、イスラエルに対する越境ロケット攻撃や攻撃などに武力闘争の比重を移したが、ヒズボラは中東では自爆テロの「パイオニア」とみなされているのである。
 この追放劇を境に、ハマスは自爆テロに手を染め始める。初めての自爆テロとされるのは、93年4月にヨルダン川西岸のユダヤ人入植地メホラ近くにあるカフェテリアの駐車場で起きた爆発事件である。パレスチナ人が乗ったバンが駐車してた二台のバスの間で爆発し、バスに乗っていたイスラエル兵8人が軽傷を負った。バンには調理用ガスボンベを使った爆弾を仕掛けられており、乗っていた2人のパレスチナ人のうち一人が死亡した。奇跡的に被害は小さかったが、イスラエル域内で初めて自爆テロとみられる事件が起きたことは、イスラエルに大きな衝撃を与えた。これ以降、ハマス対イスラエル武装闘争の主な手段として、爆弾テロと自爆テロを展開し始める。

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イスラエルの軍事ドクトリンと「マサダ・コンプレックス」

2024年01月01日 | 国際・政治

 あちこちから即時停戦の声が上がっているにもかかわらず、ウウライナ戦争もイスラエル・パレスチナ戦争も終わることなく、新年を迎えてしまいました。そればかりか、戦争は、少しずつ周辺に広がりを見せているようにさえ思います。
 アメリカが、イランに支援されたグループの船をヘリコプターで攻撃し、乗っていた人たちを殺害したとCNNニュースが、下記のように伝えました。 
”US helicopters sank the boats and killed those aboard, marking the first occasion since tensions broke out in October that America has killed members of the Iranian-backed group”
 また、プラウダ(english.pravda.)は、ウクライナが、ロシアの都市ベルゴロドを砲撃し、子どもを含む18人以上を殺害したと伝えました。
Ukraine shelled Russia's Belgorod in the afternoon of December 30. According to most recent reports, 18 people, including children, were killed, more than a…”

 私は、こうした人殺しが日常化する現実は、ネタニヤフ首相をはじめとするイスラエルのリクードの政治家のような考え方を乗り越えない限り、くり返されるのではないかと思います。
 ネタニヤフ首相をはじめとするリクードの政治家や軍人の考え方は、パレスチナの人たちにイスラエル人と同等の権利を認めようとしないもので、その対応はいろいろな面で法に反するものだと思います。
 パレスチナの地は、1967年の第三次中東戦争によってイスラエルに軍事占領され、以後、インフラや産業が破壊されたまま整備されず、人口の多い貧しい地域になりました。見逃すことができないのは、その際、肥沃な土地はイスラエルの入植地として没収し、ガザの人々は低賃金労働者としてイスラエルに出稼ぎに行かざるを得ない状態に陥ったということです。さらに、ガザの周囲がコンクリートの「分離壁」で覆われ、パレスチナの人たちは、自由に出入りすることさえできない状態に置かれました。だから、ガザは「天井のない監獄」呼ばれるようになりました、そこに住むパレスチナ人は、その人権侵害に対し、「インティファーダ」と呼ばれるイスラエルへの抗議運動を始めました。ハマスの誕生も、自然な成り行きだったのだろうと思います。

 「オスロ合意」によって、ガザ地区とヨルダン川西岸地区が「パレスチナ自治区」になったにもかかわらず、イスラエルは、ガザの軍事封鎖を続けました。イスラエルの封鎖政策は、 国際法で禁じられている「集団懲罰」であると国連や人権団体などから強い批判を受けているということです。でも、アメリカがイスラエルをささえているために、効果のある措置をとることができていないのだと察します。
 また、イスラエルが、入植地を作り続けていることも大問題です。国連安全保障理事会では、国際法上、入植地は違法だとしているのですが、イスラエルはこの判断を拒否して、違法行為を続けているのです。まさに無法者の所業だと思います。

 先日、【AFP=時事】は
イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は12月31日、同国はパレスチナ自治区ガザ地区での「自衛のための戦争」で比類のない「道徳」を示しているとして、同国がガザで「ジェノサイド(集団殺害)」を行っているとの南アフリカの主張を否定した
 と伝えました。
 また、ネタニヤフ氏はテルアビブで行われた閣議で、
われわれは自衛のための戦争を継続する。その正義と道徳は比類のないものだ
と主張したとの報道もありました。それは、南アフリカが、イスラエルはガザで「ジェノサイド」を行っているとして、国際司法裁判所(ICJ)に提訴したからのようです。
 国際司法裁判所(ICJ)が、国際社会の力関係に左右されず、きちんと法に基づいて裁けば、イスラエルの有罪は確定的だと思います。病院や学校、難民キャンプの爆撃、また、地上侵攻による襲撃が、正当防衛や自衛の戦争というのは通用しないことだと思います。
 イスラエルのハマスとの戦いは、「パレスチナ紛争地」の著者・横田隼人氏が書いているように、明らかに過剰防衛であり、正当防衛とか、自衛の戦争といえるようなものではないと思います。
 

 さらに言えば、先日、ネタニヤフ首相は、”パレスチナ自治区ガザの住民を地区外へ自発的に移住するよう促す方針”を示しましたが、爆撃や襲撃は、その目的で行われていることは、他のリクードの政治家の発言でもわかると思いますし、過去の歴史がそれを示していると思います。また、入植地を増やしている理由も、住民を追い出すことが目的なのだろうと思います。

 下記は、「パレスチナ紛争地」横田隼人(集英社新書 0244D)の「第七章、イスラエルの論理」からの抜萃ですが、なかに、”イスラエル独立のために行った武装闘争は正当化し、パレスチナ人の民族解放のための武装闘争はすべてテロと非難するのは、部外者には勝手な論理に聞こえる。”とあります。過去に同情すべきことがあったとはいえ、イスラエルのあまりにエゴイスティックな主張や戦争犯罪は見逃してはならないと思います。

 イスラエル人は、過去の悲劇を、「マサダコンプレックス」と呼ばれるかたちでひきずっており、それが、イスラエル独自の軍事ドクトリンとなってパレスチナで悲劇を生みだしているという経緯は、イスラエル人のエゴイスティックな主張や戦略を理解し、パレスチナ問題を解決するために、踏まえられるべきことだろうと思います。
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                   第七章、イスラエルの論理

 ユダヤ同胞への思い
 パレスチナに対する強硬姿勢が支持される背景は、ナチス・ドイツによる大虐殺などユダヤ民族の苦難の歴史や建国以来四度の中東戦争を戦ったイスラエルの歴史を抜きに説明することはできない。  
 イスラエルでは年に二回、ごく短時間だがすべての機能を停止する日がある。ホロコースト記念日と戦没者記念日である。戦没者記念日の昼前、サイレンの音と共に全国民がその場で直立不動の姿勢をとり、国に命を捧げた同胞約二万人に対して黙祷を捧げる。この時は走行中であっても車を止め、運転手は道の真ん中で戦死者を悼む。ラジオ放送で明るい音楽を流すのを一日自粛し、エル・アル・イスラエル航空は乗客へのヘッドホン・サービスを行わない。イスラエルでは、この日、全国民が厳かに過ごすのである。
 
 ナチス・ドイツによって民族消滅の危機にさらされたユダヤ民族にとって、同胞の命は極めて重い。 それを象徴する出来事の一つが、91年5月に実行された「ソロモン作戦」エチオピア内戦による飢餓と干ばつで生命の危機にさらされた同国ユダヤ社会の同胞を救出するため、軍の輸送機、民間チャーター機など33機を動員して14,400人のユダヤ人をエチオピアから脱出させ、イスラエルに連れ帰った。イスラエル政府は84年から85年にかけて、ユダヤ系エチオピア人8500人を秘密裏に移民させる「モーゼ作戦」も実施している。ユダヤ系といえ、長い歴史の中で現地社会に同化し、見た目は肌の黒いアフリカ人だ。欧米並みに豊かなイスラエルとはまるで違う貧しい環境で暮らしていた人々である。それでもユダヤの同胞である以上、苦悩しているのを見過ごす訳けにはいかないのである。

 ユダヤ民族の歴史の中で、長く語り継がれてきた悲劇がある。紀元前40年にローマ帝国の支配下に置かれたユダヤ人は、その圧政に耐えかね、皇帝ネロの晩年に反乱を起こす。西暦70年にエルサレムが陥落し、約百万人のユダヤ人がエルサレム攻防で命を落としたとされる。約千人のユダヤ人は死海のほとりの岩山に作られた要塞(マサダ)を占拠して最後の抵抗を試みる。ローマ軍の攻勢に数ヶ月耐えた末、降伏するよりも死を選ぶことを決める。ローマ軍に突入される前に、クジで選ばれた十人が残り全員を殺し、その十人のうち一人が残り九人を殺した。最後の一人は全員が息絶えているのを確認した後、要塞に火を放ったと伝えられている。それ以来、マサダの悲劇は「ユダヤ人の全滅を繰り返さないために後世に言い伝えられてきた。マサダの遺跡は、現在は観光地として整備されているが、イスラエル軍の入隊宣誓式はマサダの遺跡で行われ、最後に「マサダを二度と陥落させるな」と誓う。
 ただ、このようなユダヤ同胞への強い思いは、同胞の命を救うためにパレスチナ人が犠牲になるのはやむを得ないとの気持ちにつながりがちだ。いかなる犠牲を払っても民族の生き残りを優先するイスラエルの心理を「マサダコンプレックス」と呼ぶことがある。こうした感情も、パレスチナ側に対する過剰な報復を容認する背景になっている。

 「報復は当然」
 イスラエルのパレスチナ政策については、多くの戦火を通じて確立された独自の軍事ドクトリンを抜きには語れない。ひと言で言えば、圧倒的な軍事的優位を確保し、先制攻撃を重視する一方、攻撃を受けた場合には報復攻撃が不可欠とみなすのがイスラエルの安全保障の基本政策である。
 イスラエル国防副大臣を務めたイスラエル・タルは著書で、同国軍の正式名称はイスラエル国防軍(Israel Defense Forces)だが、実態は、”Israel Offense Forces(イスラエル攻撃軍)”だと述べている。建国以来、イスラエルの存在を認めないアラブ諸国に囲まれて常に侵略される危機にさらされてきたイスラエルにとって、アラブ諸国に侵略を思い止まらせることが最大の課題であった。そのためには攻撃しても無駄と思わせるだけの優位を確保する必要がある。人口の少ないイスラエルは特に質での優位が重要視され、最新鋭の兵器を調達してきた。イスラエルが配備しているF15は、世界最強の戦闘機とされてきたが、極めて高価なため、保有しているのは米国以外では日本、サウジアラビアなど一部の豊かな国だけである。

 兵力17万弱のイスラエルでは、戦争が始まると予備役に頼らざるを得ず、長期の戦争は国を疲弊させるため、圧倒的な優位を維持して戦争を短期に終わらせる必要がある。また、予備役の動員には時間がかかるため、第四次中東戦争のように先制攻撃を受けると不利な立場に立たされる。このため、イスラエルは常に軍事的優位を保ちつつ、必要とあれば直ちに先制攻撃に打って出ることを基本政策にしているのである。イスラエルが空軍を重視しているのもそのためだ。

 一方、建国以来、周辺アラブ国による国境侵犯や国外のパレスチナゲリラによる攻撃を恒常的に受けてきたイスラエルは、相手の意欲をくじく狙いで報復攻撃を欠かさずに行い、1950年代には、国境を越えた報復攻撃を任務の中心とする「101部隊」を創設した。この創設に関わり、初代司令官になったのが若き日のシャロンである。攻撃には報復によって断固たる措置をとるとのイメージを相手に植えつけることが抑止力につながるというのがイスラエルの考え方である。前出のイスラエル・タルは、イスラエル国内でも誰もが報復攻撃に賛成しているわけではないとしながら、「他に手段はなく、こうした議論は意味がない」と断じている。

 このような軍事的発想は、自治区の住民であるパレスチナ人に対しても適用される。投石するパレスチナ人には圧倒的な優位な装備で立ち向かい、テロや発砲には、時にはその何倍かの規模で必ず報復する。やはり報復することが抑止につながるとの発想である。確かに冷静な計算が働く国家に対しては報復は抑止効果を生んでいるかもしれないが、死を覚悟でイスラエルに対する攻撃を試みるパレスチナ人には効果はない。イスラエル軍は報復として、しばしばテロに関わった人物の住居を破壊するが、パレスチナ側にテロを思い止まらせる効果があるとはとても思えない。単にパレスチナ社会でイスラエルに対する憎しみを増幅しているに過ぎない。これまで見てきたように、パレスチナ人との紛争では報復の論理は抑止どころか、それが逆に、新たな報復テロを招いて事態てを悪化させているのが明らかである。正規軍同士の戦争論理が、軍事的に「非対照的」であるインティファーダには当てはまらないということだろう

 過剰報復批判にPRで対抗
 2000年9月にアるアクサ・インティファーダが始まって、重装備のイスラエル兵に向かって。素手で投石するパレスチナ人の若者の映像が外国メディアによって繰り返し流されると、イスラエルの過剰な対応を巡って国際的な非難が沸き上がった。イスラエル政府はこうした批判に強く反発すると同時に、PR不足が原因と考えて、広報体制の強化で対抗しようとする。エルサレム市内のホテルにビデオプロジェクターなどを備えたプレス・ルームを開設し、政府関係者や軍の高官らによる記者会見や、ブリーフィングを連日のように行った。
 確かに。テレビ映像では伝わらない部分があるのは事実である。投石するパレスチナ人のグループの後ろには実はカラスニコフ銃を持った武装パレスチナ人が控えていて、イスラエル部隊に向かって発砲しているケースは少なくなかったが、映像ではイスラエル部隊が無防備なパレスチナ人の若者に向かって自動小銃を撃っているようにしか見えない。このため、イスラエル政府は前線の兵士にビデオ・カメラを持たせたり、軍の報道部隊を衝突現場に派遣して、イスラエル人の目から見た映像を外国プレス向けに用意した。また、イスラエルを非難してインティファーダ参加を呼びかけるパレスチナの公共放送の映像などを編集して、自治政府の意図でインティファーダが行われていることを強調した。
 しかし、外国メディアの説得に成功したとは言い難い。記者会見の席で、欧米のメディアから「なぜ放水車を使わないのか」という素朴な疑問も出た。彼らは武装しているというのはイスラエル側の答えだったが、インティファーダ勃発の最初の段階からそうだったわけではないし、武装パレスチナ人の姿が明らかに見えない状況でも、イスラエル兵の対応に変化はない。別の対応がないわけではないはずである。実際、インティファーダが勃発した後、エルサレム旧市街の「アルアクサ・モスク」周辺では金曜礼拝後の衝突が恒例のようになったが、若者が入れないようにイスラエルが年齢制限を実施した途端、衝突はピッタリと収まった。最初から臨機応変に対応していれば、インティファーダが広がるのを防げたかもしれない。
 イスラエル人は危機に直面していると感じている時に、国際的な非難を浴びると強く反発し、ますます頑なになる。これも「マサダ・コンプレックス」の現れなのだろうか?

 イスラエル独立とテロ
 イスラエルは、パレスチナ人による発砲や自爆行為をイスラエル兵やユダヤ人入植者に対するものを含めてテロとみなす。これに対して、パレスチナ側はイスラエルの報復を「国家テロ」と非難する。民族解放のための武力闘争をテロと呼ぶのかを含め、何がテロなのかを定義するのは難しい。
 今でこそパレスチナ人による武装闘争をすべてテロとするイスラエルも、第一章で紹介したように、独立前は「占領軍」でユダヤ国家独立の障害だった駐留英国軍に対するテロ行為を繰り返してきた。「イルグン」は1946年にキング・デービッド・ホテルに入っていた当時の英軍司令官に対する爆弾テロを行って英国人将校ら90人以上を殺害したほか、在ローマの英国大使館爆破事件を起こしたこともある。こうしたことが背景となって、帝国はパレスチナの委任統治を諦め、国連にパレスチナ問題の解決を委ねたのである。つまり、もし民族解放運動まで含めてすべてテロと呼ぶならば、イスラエルが現在あるのはテロの成果ということになる。当時のユダヤ社会の主流は、こうした過激派に批判的だったのは事実だが、過激派メンバーはその後、イスラエル国防軍に編入された。当時イルグンを率いていたのはのちにイスラエル首相となる、メナヘム・ベギンである。やはり首相になったイツハク・シャミルはより過激な武装組織「レヒ」導者の一人だった。
 ユダヤ人がイスラエル独立のために行った武装闘争は正当化し、パレスチナ人の民族解放のための武装闘争はすべてテロと非難するのは、部外者には勝手な論理に聞こえる。民族の生残りを最優先に考えるユダヤ人独特の独善性の現われであり、パレスチナ人に対する過剰な対応の背景になっているとも言える。ただ、これはかつてヨーロッパ人がユダヤ人を迫害し、ナチス・ドイツがホロコーストでユダヤ民族を存亡の危機追いやった歴史の裏返しであることを忘れてはならない。ヨーロッパ人によるユダヤ人迫害が巡り巡って現在のパレスチナの悲劇につながっているのは、歴史の皮肉にほかならない。 

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