真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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裁かれなかった民族性抹殺の「皇民化政策」

2009年06月29日 | 国際・政治
 日韓併合条約によて、無理矢理日本の支配下におかれた朝鮮は、戦争の被害が極めて深刻であったにもかかわらず、極東軍事裁判において、日本の戦争犯罪を告発する側に立つことはできなかった。裁かれる側であった(戦犯として有罪を宣告された朝鮮人軍属は148名で、このうち23名が死刑を執行されたという)。
 したがって、下記に抜粋したような民族性抹殺の朝鮮政策については、何も裁かれていない。しかしながら、不問に付してよいとは思えない。いや、むしろ朝鮮民族の告発にきちんとこたえることによってこそ、真に誇り得る日本にすることができると思う。「皇民化政策から指紋押捺まで(在日朝鮮人の「昭和史」)」徐京植(岩波ブックレットNO.128)から、3項目のみ抜粋する。
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             「皇民化政策」───民族抹殺政策

 神社参拝の強要

 日本帝国主義は、1925年に、現在のソウル市南山に「朝鮮神宮」を竣工させ、1934年までに朝鮮全土282ヵ所に神社を建てました。1936年、南次郎が総督になると、「神社規則」をつくり、各村ごとにかならず一神社をつくらせる「一邑面(日本の町村にあたる)一神社主義」を強要し、朝鮮のすみずみまで神社を建て、1938年からは百済の故地である忠清南道扶余に内鮮一体のシンボルとして「扶余神宮」を建設するため朝鮮人を動員して無料奉仕させました。さらに、各家庭にも神棚を作らせ、お札を買わせて礼拝を強要しました。
 神社参拝を拒否するキリスト教徒を拘束する一方、朝鮮基督教聯合会のような御用組織をつくらせました。1938年9月以後、神社参拝に反対した約2000名の牧師・教徒が検挙投獄され、200あまりの教会が閉鎖、50人あまりが獄死しました。



 「皇国臣民の誓詞」

 1937年10月、「皇国臣民の誓詞」が定められ、その日常的な斉唱が制度下されました。

 「皇国臣民の誓詞」<児童用>
 一、私共ハ大日本帝国ノ臣民デアリマス
 二、私共ハ互ニ心ヲ合セテ、天皇陛下ニ忠義ヲ尽シマス
 三、私共ハ忍苦鍛錬シテ、立派ナ強イ国民トナリマス
<学生・一般用>
 一、我等ハ皇国臣民ナリ、忠誠以テ君国ニ報ゼン
 二、我等皇国臣民ハ互ニ信愛協力シ以テ団結ヲ固クセン
 三、我等皇国臣民ハ忍苦鍛錬力ヲ養ヒ以テ皇道ヲ宣揚セン

 この誓詞は、官公署や各職場で朝礼時間や会合の時 など日常的に斉唱が義務づけられました。朝鮮神宮には皇国臣民誓詞之柱が建てられました。
 また「国語(日本語)常用」が進められ、1943年からは「国語普及運動」が大々的に展開されました。役所などでは日本語でなければいっさい相手にされず、陳情書も日本語でしか受けつけられず、学校では朝鮮語を使うと罰をうけたり減点されたりしました。このような日本語強要=朝鮮語抹殺政策の結果、日本語を解する朝鮮人の人口は、1923年に全人口の4.08%、38年12.38%、43年には
22.15%に増加しました(「やや解しうる者」を含む)。
 1942年から43年にかけて、朝鮮語辞典の編集にとりかかっていた朝鮮語学会の会員33人が治安維持法違反で検挙され、2人が拷問のため獄死させられました。このため朝鮮語辞典の編集は、日本敗戦後まで中断させられました。
 


 名前まで奪う

 1939年11月、朝鮮民事令が改定され、朝鮮固有の姓名をを奪って、これを日本式の氏名に統一する「創氏改名」が強要されました(1940年2月18日実施)。日本帝国主義は「創氏改名」を「一視同仁の大理想を具現する」ものであり、「大和大愛の発露」だと宣伝しつつ、施行にあたっては官憲を動員して強制しました。
 創氏改名しない人は、たとえば、子どもが学校に入学できない、官公署などの機関に採用されない、行政機関が事務を取り扱ってくれない、「非国民」「不逞鮮人」として警察に日常的に監視・いやがらせをされる、食糧・物資の配給対象から除外される、「徴用」(強制連行)の対象者にされるなど、あらゆる圧迫をうけました。朝鮮総督府の命令で、末端の派出所にいたるまで警察が創氏改名の強要に動員されました。
 こうして、結局、朝鮮人のおよそ8割が創氏改名に追いこまれたのです。



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安重根 伊藤博文射殺理由の証言

2009年06月17日 | 国際・政治
 安重根に射殺された伊藤博文は、韓国統監府初代統監であり、また、日本の初代内閣総理大臣で、そのめざましい活躍が評価され「明治の元勲」と呼ばれる。そして、その肖像が現在でも使用可能な千円札に印刷されていたことは、日本人なら誰でも知っていることである。しかしながら、彼を射殺した安重根が韓国や朝鮮民主主義人民共和国で「義士」「烈士」「志士」などと呼ばれ、愛国者として最大級の評価をされているのは何故であるか。よりよい日韓関係や日朝関係を築くためには、歴史をふり返り、その溝を埋めなければならないと思う。
 伊藤博文の出身校は松下村塾であるというが、「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)には、吉田松陰の「魯墨(ロシア・アメリカ)講和一定、決然として我より是を破り信を夷狄(いてき)に失うべからず。ただ章程を厳にし、信義を厚うし、其間を以て国力を養い、取り易き朝鮮満州支那を切り随え、交易にて魯墨に失うところは、また土地にて鮮満に償うべし」という言葉が紹介されている。「ロシア・アメリカとの交易において損をした分は、朝鮮・満州・中国の土地を奪って埋め合わせをすればよい」という意味で、伊藤博文、井上馨、山県有朋、寺内正毅など、主として長州閥の有力者の対朝鮮強硬論に受け継がれていった、いわゆる「征韓論」の考え方である。「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)よりの抜粋である。
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               第6章 保護という名の侵略  

 安重根が伊藤を射殺

 ・・・
 伊藤が哈爾浜駅頭で安重根に狙撃されたのは前年(1909年)10月26日午前9時半、3発のピストル弾は僅か30分後には彼の生命を絶った。
 安重根は、その場でロシア側に捕らえられ、日本領事館に連行の上、旅順の関東都督府地方法院へ送られて裁判を受けることになったが、彼は伊藤を射殺した理由として次の15項目を挙げ、伊藤殺害は単なる個人的な殺人事件ではなく、自分は韓国の独立戦争を戦う義兵中将であるから、法廷で裁判を受けるのは間違っていると述べた。

 伊藤博文の罪状
1、韓国皇后殺害
2、韓国皇帝の退位
3、5ヶ条及び7ヶ条協約締結の強制
4、罪もない韓国人の殺害
5、政権奪取
6、鉄道、鉱山、森林、河川の強奪
7、第1銀行券の強制使用
8、軍隊解散
9、教育妨害
10、韓国人の外国遊学禁止
11、教科書押収と焼却
12、韓国人が日本の保護を受けたいなどという欺瞞的世論工作
13、日本天皇を欺く
14、東洋平和を破壊
15、孝明天皇射殺


安重根は、黄海道海州の生まれ、義兵活動に入ってからは、安応七と名乗っており、逮捕された当時も「応七」と言っているが、彼の列挙した15項目の伊藤に対する糾弾は、最後の「孝明天皇弑殺」を除いて、いずれも伊藤が直接間接に干与している部分で、当時はもとより、第2次大戦で日本の植民地支配が崩壊するまで厳重に秘匿されていた事実をも含んでいて、日本側が懸命に擬装を凝らしたり、厳密に付していた謀略工作を彼は既に見破っていたことを示す。
 いや、安重根だけではない。そのころの朝鮮人の多くが日本の陰湿な侵略策を知っており、それに対する抵抗の血を滾らせていたといってよい。
 たとえば、閔妃殺害事件である。また、皇帝の退位を強制した事件である。前者は朝鮮人壮士が犯人とされ、三浦梧楼以下の日本人側は事件との関係がウヤムヤに葬られたし、後者も韓国側の自発的措置であるとされていた。
 最も重要なのは、一進会その他を使っての世論誘導である。保護条約賛成ー併合賛成など、売国団体あるいは個人を使っての謀略的世論工作は、後の満州国や日米安保条約改定に至るまで、まさに日本歴代の権力がお家芸とするところだが、安重根の慧眼は伊藤の侵略工作を見事に喝破していたのである。
 安重根、30歳。彼がそれらの情報をどこから入手したかは不明だが、右に掲げた15項目の指摘は正確である。ただし、15項目目の孝明天皇謀殺については、岩倉具視らにまつわる疑惑として日本国内の一部に流れていたもので、20世紀末の今日でもなお真相は明らかでないが、現代日本国内でさえ知らぬ者が多いのに、当時の安重根がそれを知っていたとは驚きである。
……(以下略)


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韓国併合条約へと至る侵略的議定書・協約

2009年06月15日 | 国際・政治
 日韓・日朝の根本的な関係改善には、共通の歴史認識が欠かせない。しかし、最近日本では「過去の日本のあやまち」を認めようとしない学者や文化人が組織的に動き、その勢力を伸ばしているようである。
 ふりかえると、豊臣秀吉の朝鮮侵略以降、朝鮮と朝鮮人に対する蔑視や偏見、差別感が日本全土に広まっていったというが、さらに、江戸期の儒者・国 学者が皇国史観によって歪んだ朝鮮観を定着させたこともあって、明治維新後続々と征韓論を唱える者が相次ぐことになったようである。
 そして、江華島条約などに見られる、武力を笠に着た威嚇外交が進むのである。それは、下記「日韓議定書」や「日韓協約」、「韓国併合条約」へと進んでいく。したがって、日本は一貫して収奪や搾取をする側、支配をする側であったということになる。「日韓併合の真相」吉留路樹(世論時報社)では、豊富な資料によって、そのことが確認できる。関係資料の一部抜粋である。
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              第6章 保護という名の侵略

  日韓議定書の締結


 ・・・
 ロシアに対する日本の宣戦布告は、明治37年(1904)2月10日であったが、現実には日清戦争のときと同様、前々日の8日午後、日本海軍がロシア艦ワリヤークとコレーツを攻撃し、ワリヤークは自沈、コレーツは撃沈された仁川沖海戦にはじまった。
 結果は、周知の通りである。清国に次いで、ロシアも朝鮮半島から締め出されたわけで、日本の李朝政府に対する干渉は、いよいよ強化 されていく。
 すなわち、仁川沖で先勝した日本は、2月23日には公使林権助と外部大臣代行李址鎔との間に、日韓議定書を締結したが、その第4条には、「大日本帝国政府ハ前項ノ目的ヲ達スル為メ
軍略上必要ノ地点ヲ臨機収用スルコトヲ得」とある。
 これはつまり、「軍略上必要」という掲げるならば、朝鮮の土地を自由に収用することができるというもので、日米安保条約第6条にいう「日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍、及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」に通ずる。


 ・・・

 そこで、明治38年11月2日、政府は駐韓公使林権助に対し、朝鮮に対する外交の一切を「我ガ手中ニ収ムルコト」と訓令し、この条約締結にあたっては「特ニ勅使ヲ派ス」と告げた。
 1年前の議定書では、韓国の「独立」と」「領土保全」を約した日本が、今度は掌をひっくり返して、独立国の主権に属する外交権を奪おうというのである。
 勅使、つまり天皇の親書を持参して韓国皇帝とその政府に対し、外交権の実質的委譲を要求する使者である。政府が駐韓公使に訓令した同日、この重要な勅使には、枢密院議長侯爵伊藤博文が「韓国皇室慰問使」という肩書きで発令され、海軍中将井上良馨、陸軍少将村田淳その他の随員を伴い、同月9日首都漢城に入った。


 伊藤博文の恫喝


 ・・・
 しかし、8人が8人とも「可」とは答えていないのである。伊藤にしてみれば、彼らがどのように答えようと、韓首相と閔度支相以外は「可」にするつもりであったのだから、結論を告げるのに困難はなかった。
「よく相判った。既に協商妥弁の勅を承った以上、各大臣の論じるところは同一ではないにしても、結局、否と答えたのは韓参政と閔度支相の2人にすぎなかった。かくなる上は、主務大臣をして速やかに調印されたい」
 伊藤が語り終わった途端、韓首相は坐ったまま顔面を覆った。泣くな、参政。駄々をこねるな!」
 伊藤は、可・不可の大臣を促して字句の添削修正を求め、統監府設置を含む保護条約5ヶ条を決定、11月18日午前1時半公使林権助と外部大臣朴齊純との間に調印を終えた。

 
    日韓協約
 日本国政府及韓国政府ハ両帝国ヲ結合スル利害共通ノ主義ヲ鞏固ナラシメンコトヲ欲シ韓国ノ富強ノ実ヲ認ムル時ニ至ル迄此目的ヲ以テ左ノ条款ヲ約定セリ

第1条 日本国政府ハ在東京外務省ニ由リ今後韓国ノ外国ニ対スル関係及事務ヲ監理指揮スベク日本国ノ外交代表者及ビ領事ハ外国ニ於ケル韓国ノ臣民及利益ヲ保護スベシ

第2条 日本国政府ハ韓国ト他国トノ間ニ現存スル条約ノ実行ヲ全フスルノ任ニ当リ
韓国政府ハ今後日本国政府ノ仲介ニ由ラズシテ国際的性ヲ有スル何等ノ条約若ハ約束ヲ為サザルコトヲ約ス

第3条 日本国政府ハ其代表者トシテ韓国皇帝陛下ノ闕下ニ1名ノ統監(レジデント・ゼネラル)ヲ置ク。統監ハ専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル為メ京城ニ駐在シ親シク韓国皇帝陛下ニ内謁スルノ権利ヲ有ス。日本国政府ハ又韓国ノ各開港場及其他日本国政府ノ必要ト認ムル地ニ理事官(レジデント)ヲ置クノ権利ヲ有ス。理事官ハ統監ノ指揮ノ下ニ従来在韓国日本領事ニ属シタル一切ノ職権ヲ執行シ、並ニ本条約ノ条款ヲ完全ニ実行スル為メ必要トスベキ一切ノ事務ヲ掌理スヘシ。

第4条 日本国ト韓国トノ間ニ現存スル条約及約束ハ本協約ノ条款ニ抵触セザル限総テ其効力ヲ継続スルモノトス。

第5条 日本国政府ハ韓国皇室ノ安寧ト尊厳ヲ維持スルコトヲ保証ス
右証拠トシテ下名ハ各本国政府ヨリ相当ノ委任ヲ受ケ本協約ニ記名調印スルモノナリ
 明治38年11月18日 

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 実質的植民地支配始まる

 8月2日これまでの光武を廃し元号を隆熙と改めた。新帝の即位式は同月27日惇徳院で行われたが、その3日前の24日、伊藤は新たに新協定7ヶ条の締結を求め、李完用との間に調印した。

第1条 韓国政府ハ施政改善ニ関シ
統監ノ指導ヲ受クルコト
第2条 韓国政府ノ法令ノ制定及重要ナル行政上ノ処分ハ予メ統監ノ承認ヲ経ルコト。
第3条 韓国ノ司法事務ハ普通行政事務ト之ヲ区別スルコト。
第4条 韓国高等官吏ノ任免ハ統監ノ同意ヲ以テ之ヲ行フコト。
第5条 韓国政府ハ統監ノ推薦スル日本人ヲ韓国官吏ニ任命スルコト。
第6条 韓国政府ハ統監ノ同意ナクシテ外国人ヲ傭聘セザルコト。
第7条 明治37年8月22日調印日韓協約第1項ハ之ヲ廃止スルコト。


 伊藤はヘーグ事件を最大限に利用して、この協約を成立させた。先帝が退位し、新帝の即位式前である時期にウムを言わさず、李完用を調印に追い込んだのである。
 外務大臣林薫は新協約成立に際し、実質的に朝鮮支配の全権を掌握した協約は日本政府が伊藤に一任した結果出来上がったもので、これによって伊藤は、「無冠の帝王」になったとまで持ち上げた。
 事実伊藤統監は皇帝の上に位し、朝鮮人民に君臨することとなった。新協約調印から1週間を経た8月1日、韓国軍隊を解散し、10月末には警察権を握った。
 このうち8月1日の軍隊解散は、解散式に先立ち兵器を日本軍の手で押さえたので、まるで武装解除の上で解散式を行ったようなものであった。

 ・・・(以下略)
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   日韓併合条約

 ・・・
第1条 韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス
第2条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ゲタル譲与ヲ受諾シ、且全然韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス。
第3条 日本国皇帝陛下ハ韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下、ナラビニ其ノ后妃及ビ後裔ヲシテ各其ノ地位ニ応ジ、相当ナル尊称、威厳及ビ名誉ヲ享有セシメ且ヲ保持スルニ十分ナル歳費ヲ供給スベキコトヲ約ス。
第4条 日本国皇帝陛下ハ前条以外ノ韓国皇族及其ノ後裔ニ対シ、各相当ノ名誉及ビ待遇ヲ享有セシメ、且之ヲ維持スルニ必要ナル資金ヲ供与スルコトヲ約ス。
第5条 日本国皇帝陛下ハ勲功アル韓人ニシテ、特ニ表彰ヲ為スヲ適当ナリト認メタル者ニ対シ、栄爵ヲ授ケ、且恩金ヲ与フベシ。
第6条 日本国政府ハ前記併合ノ結果トシテ、全然韓国ノ施設ヲ担任シ、同地ニ施行スル法規ヲ遵守スル韓人ノ身体及ビ財産ニ対シ十分ナル保護ヲ与ヘ且其ノ福利ノ増進ヲ図ルベシ。
第7条 日本国政府ハ誠意忠実ニ新制度ヲ尊重スル韓人ニシテ、相当ノ資格アル者ヲ事情ノ許ス限リ、韓国ニ於ケル帝国官吏ニ登用スベシ。
第8条 本条約ハ日本国皇帝陛下及ビ韓国皇帝陛下ノ裁可ヲ経タルモノニシテ、公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス。

隆煕4年8月22日 内閣総理大臣  李完用

明治43年8月22日 統監 子爵 寺内正毅


 併合条約は調印の1週間後、8月29日に公表された。当夜、初代総督となる寺内正毅は祝宴を催し、
 小早川 加藤小西が世にあらば 今宵の月を 如何に見るらむ
 と、一首詠んだというが、ここでいう小早川は隆景、小西は行長のことで、加藤清正と同様、豊臣秀吉の朝鮮侵略に動員された大名たちだが、得意絶頂の寺内とは正反対に、朝鮮全土には怒りと慟哭がみなぎった。
 併合条約では、皇帝・皇族その他支配階級の身分保障は明記されたが、本来この国の主人公である民衆への配慮は皆無であった。彼らの行く手に立ちはだかったのは収奪と搾取、生活の破壊と絶望につながる暗黒の季節だけだった。その結果爆発したのが、1919年3月1日の独立万歳運動である

 ・・・(以下略)
 

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ポツダム宣言違反の現実

2009年06月08日 | 国際・政治
 ポツダム宣言は、昭和20年(1945)7月26日のポツダム会談合意に基づいてアメリカ合衆国、中華民国および英国の3国首脳が、大日本帝国に対し発した第2次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)の終結に関する下記13条から成る勧告の宣言である。
 日本が連合国側に受け入れを申し出たのは8月10日であるが、終戦の詔書には「朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ 受諾スル旨通告セシメタリ」と、ソ連を加えて4国の共同宣言となっている。ソ連は、日本が受け入れを決定する直前の8月8日、受け入れが時間の問題であった時期に、日ソ中立条約の破棄を宣言するとともに、「日本がポツダム宣言を拒否したため連合国の参戦要請を受けた」という理由で、対日宣戦を布告し、宣言に加わったのである。また、関係各国がそれぞれの事情を抱えていたとは言え、このポツダム宣言には、トルーマンがチャーチルや蒋介石の分を含め、3人分の署名を行ったという事実にも驚く。
 中国東北部にいた約60万人以上の日本軍兵士や民間人がソ連の捕虜として連行され、6万人にのぼる犠牲者を出したとされるシベリア抑留問題は、この宣言の9項「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ」からは考えられない。どう考えても、ポツダム宣言違反である。また、同じように、米軍が今なお日本国内に居座り続けている事実や、宣言受諾5年後の日本再軍備開始は、下記宣言の11項および12項などの内容からは考えられないことである。
 にもかかわらず、ポツダム宣言違反の現実に、何ら具体的な対処はなされていない。もっともらしい宣言文で合意はしたが、貪欲に国益を追求する連合国側各国の帝国主義的思惑が、その裏に存在していた証であろう。連合国側各国は、それぞれに関係国の違反を黙認することによって、自国の戦略を展開しているようである。「終戦の詔書」(文藝春秋編:大原康男監修、文藝春秋)からの抜粋である。
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          ポツダム宣言(昭和20年7月26日)

1、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席、「グレート、ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ集結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ

2、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリノ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国ガ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ

3、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業、及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レザル程度ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セレラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スベク又同様必然的ニ日本国土ノ完全ナル破壊ヲ意味スベシ

4、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国ガ引続キ統御セラルベキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履ムベキカヲ日本国ガ決意スル時期ハ到来セリ

5、吾等ノ条件ハ左ノ如シ吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルベシ右ニ代ル条件存在セズ吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ズ

6、吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレザルベカラズ

7、右ノ如キ新秩序ガ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スル為占領セラルベシ

8、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州、四国及吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ

9、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ

10、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障碍ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

11、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルベシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラズ右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許サルベシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ

12、前記諸目的ガ達成セラレ且日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ連合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ

13、吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス


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「終戦の詔書」全文(昭和20年8月15日)

2009年06月01日 | 国際・政治
 「終戦の詔書」(文藝春秋編:大原康男監修)文藝春秋の「終戦の詔書」は語句の説明だけで、歴史的な解説などは全くない。したがって様々な受け止め方が可能な歴史的資料である。
 私は、なぜあのような無謀で極端な人命軽視・人権無視の戦争を、破滅寸前まで継続することになったのか、また、皇国日本とはどういうものであったのか、というようなことについて理解を深めるために一度は読んみる必要があると考え、詔書全文を抜粋することにした。ただし、同書のような平仮名の読み仮名をつけることが難しいため、下段に半角のカタカナで全文の読みを入れた。
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           終戦の詔書(昭和20年8月15日)
 
 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図り萬邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝國ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ 朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カント欲ス

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト 共ニ在リ若シ夫レ情ノ 激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ 時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

  御名御璽


読み

チンフカク セカイノ タイセイト テイコクノ ゲンショウトニ カンガミ ヒジョウノ ソチヲ モツテ ジキョクヲ シュウシュウセムト ホツシココニ チュウリョウナル ナンジシンミンニ ツク チンハ テイコクセイフヲシテ ベイエイシソ ヨンコクニ タイシ ソノ キョウドウセンゲンヲジュダクスル ムネ ツウコクセシメタリ

ソモソモ テイコクシンミンノ コウネイヲ ハカリ バンポウキョウエイノ タノシミヲ トモニスルハ コウソコウソウノ イハンニシテ チンノケンケン オカサル トコロ サキニ ベイエイニコクニ センセンセルユエンモマタジツニ テイコクノ ジソント トウアノ アンテイトヲ ショキスルニイデテ タコクノ シュケンヲ ハイシ リョウドヲ オカスカ ゴトキハ モトヨリ チンカ ココロザシニアラス シカルニ コウセンスデニヨンサイヲ ケミシ チンカ リクカイショウヘイノ ユウセン チンカ ヒャクリョウユウシノレイセイ チンカ イチオクシュウショノ ホウコウオノオノサイゼンヲツクセルニカカワラス センキョクカナラズシモ コウテンセス セカイノ タイセイマタワレニ リアラス シカノミナラズ テキハ アラタニ ザンギャクナルバクダンヲ シヨウシテ シキリニムコヲサッショウシサンガイノオヨフトコロマコトニハカルヘカラサルニ イタル シカモナオ コウセンヲ ケイゾクセムカツイニ ワカミンゾクノ メツボウヲ ショウライスルノミナラス ヒイテ ジンルイノ ブンメイヲモ ハキャクスヘシ カクノゴトクムハ チンナニヲモツテ オクチョウノ セキシヲ ホシコウソコウソウノ シンレイニ シャセムヤ コレ チンカ テイコクセイフヲシテ キョウドウセンゲンニ オウセシムルイニイタレルユエンナリ

チンハ テイコクト トモニ シュウシ トウアノ カイホウニ キョウリョクセル ショメイホウニ タイシ イカンノイヲ ヒョウセサルヲ エス テイコクシンミンニシテセンジンニ シシ ショクイキニ ジュンシ ヒメイニ タオレタルモノ オヨビ ソノイゾクニ オモイヲ イタセハ ゴダイタメニ サクカツ センショウヲ オヒ サイカヲ コウムリ カギョウヲ ウシナヒタル モノノ コウセイニ イタリテハ チンノフカク シンネンスル トコロナリオモフニ コンゴテイコクノ ウクヘキ クナンハ モトヨリ ジンジョウニアラス ナンジシンミンノ チュウジョウモ チン ヨク コレヲシルシカレトモ チンハジウンノ オモムクトコロ タヘガタキヲタヘ シノヒガタキヲシノヒ モツテ バンセイノタメニ タイヘイヲ ヒラカントホツス

チンハ ココニ コクタイヲ ゴジシエテ チュウリョウナル ナンシンミンノ セキセイニ シンイシ ツネニ ナンジシンミントトモニアリ モシソレ ジョウノ ゲキスルトコロ ミダリニジタンヲ シゲクシアルイハ ドウホウハイセイタガイニ ジキョクヲ ミダリ タメニ タイドウヲアヤマリシンギヲ セカイニ ウシナフカゴトキハ チンモットモ コレヲ イマシム ヨロシク キョコクイッカ シソン アイツタヘ カタクシンシュウノフメツヲ シンシ ニンオモクシテ ミチトオキ オモヒ ソウリョクヲ ショウライノ ケンセツニ カタムケ ドウギヲ アツクシ シソウ ヲ カタクシチカッテ コクタイノ セイカヲ ハツヨウシセカイノ シンウンニ オクレサラムコトヲ キスヘシ ナンジシンミン ソレヨク チンカ イヲ タイセヨ


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読み仮名のための行を追加したり、読み仮名に合わせるために空白部分を挿入したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。

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