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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ノモンハン事件と司馬遼太郎

2008年03月25日 | 国際・政治
 1943年12月、司馬遼太郎は大阪外国語学校(現大阪外国語大学)蒙古語学科在学中に学生徴兵猶予停止を受けて仮卒業となり、学徒出陣している。そして、兵庫県加古川の戦車第19連隊に入り、翌年4月には満州で陸軍戦車学校に入学12月には見習仕官として牡丹江の戦車第一連隊に配属されている。ところが、この戦車第一連隊は、「ノモンハン事件」で惨憺たる打撃を受けて還ってきた戦車部隊で、同僚となった兵隊たちから「ノモンハン事件」の戦いの詳細を聞かされたのである。
 戦後、司馬遼太郎は「ノモンハン事件」を書こうと関係者を訪ね歩き、資料を集めたのであるが、謎めいた言葉を残して断筆する。下記は、「ノモンハン 隠された戦争」NHK出版( 鎌倉英也)からの抜粋である。

 上記著者が、司馬遼太郎の死を悼む特集番組編成の関係で、司馬遼太郎の書斎を訪れた際、蒐集資料整理を長年担当してきた伊藤久美子さんと交わした会話である。
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「なんですか?それ」 
「『ノモンハン事件』っていうのがあったでしょ。あれを書きたかったんですって。それでずいぶん資料も集めたし、聞き取り調査もしたんだけど、全部ここに押し込んであるのよ。もう書かないから目に見えないところにしまっといてくれって言われてね。そのくせ、何でもとっておくと手狭になっちゃうでしょう。私が『あれはもう処分していいですか?』って聞くと、決まって『捨てちゃ困るんだ。とっといてくれ』」って言ってね。それが、このダンボール箱なんだけど……」

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 次は、著者が妻の福田みどりさんにインタビューした際のことばである。
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「取材から帰ってくるでしょう。『面白かった?』って聞くのね。すると『ふん』とか言うだけでね。あとから日をおいて『つまらなかった』とか『あんなやつ』とか、いろいろいってましたよ」
・・・
「出版社の方なんかに書くってお約束もしていたんですけれど、だんだんもういつ書くかわからないってことになってしまって…… それで、今でもはっきり覚えていますけれど、編集の方が『ノモンハン、よろしくお願いします』って言ったときに、こう言ったんです。『ノモンハン書いたら、俺、死んじゃうよ』。皆、ハッとして黙ってしまいました」

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  「ノモンハンの夏」の著者半藤一利氏が、文藝春秋の専務取締役であったときに、司馬遼太郎に「ノモンハン事件」の執筆を迫ったのであるが、司馬遼太郎が半藤一利氏に語った断筆の理由が下記である。 
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 調べていけばいくほど空しくなってきましてね。世界に冠たる帝国といい気になって、夜郎自大となった昭和の軍人を、つまりは日本そのものを、きちんと描くには莫大なエネルギーを要します。昭和12年に日中戦争が起こって、どろ沼化し、その間にノモンハンの大敗北があり、そしてノモンハンの敗戦からわずか2年で太平洋戦争をやる国です。合理的なきちんと統治能力をもった国なら、そんな愚かなことをやるはずがない。これもまたこの国のかたちのひとつと言えますが、上手に焚きつけられたからって、よし承知したという具合にはいきません(笑)淋しい話になりましたね。 (『プレジデント』96年9月号半藤一利「司馬遼太郎とノモンハン事件」)
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 司馬遼太郎が書かなかったから、「それなら自分で…」と半藤一利氏が思ったかどうかは分からないが、彼が「ノモンハンの夏」の「あとがき」に書いている文が、何か司馬遼太郎の思いを引き継いでいるようで印象に残ったので抜粋する。「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)
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 ・・・
 戦後少したって元陸軍大佐の辻政信氏とはじめて面談したとき、この『微笑』の青年が二重写しとなって頭に浮かんだ。眼光炯々,荒法師をおもわせる相貌と本文中に書いたが、笑うとその笑顔は驚くほど無邪気な、なんの疑いをも抱きたくなくなるようなそれとなった。
 横光の小説のけがれのない微笑をもつ青年は発狂死した。まともな日常のおのれに帰れば、殺人兵器を完成させようとしていたことは神経的に耐えられない。精神を平衡に保とうにも保たれない。ふつうの人間とはおそらくそういうものであろう。戦後の辻参謀は狂いもしなければ死にもしなかった。いや、戦犯から逃れるための逃亡生活が終わると『潜行三千里』ほかのベストセラーをつぎつぎとものし、立
候補して国家の選良となっていた。議員会館の一室ではじめて対面したとき、およそ現実の人の世には存在することはないとずっと考えていた「絶対悪」が、背広姿で、ふわふわとしたソファに坐っているのを眼前に見るの想いを抱いたものであった。

 大袈裟なことをいうと「ノモンハン事件」をいつの日にかまとめてみようと思ったのは、その日のことである。この凄惨な戦闘をとおして、日本人離れした「悪」が思うように支配した事実をきちんと書き残しておかねばならないと。
 それからもう何十年もたった。この間、多くの書を読みつぎながらぽつぽつと調べてきた。そうしているうちに、いまさらの如くに、もっと底が深くて幅のある、けた外れに大きい「絶対悪」が二十世紀前半を動かしていることに、いやでも気づかせられた。かれらにあっては、正義はおのれだけにあり、自分たちと同じ精神をもっているものが人間であり、他を犠牲にする資格があり、この精神をもっていないものは獣にひとしく、他の犠牲にならねばならないのである。それほど見事な「悪」をかれらは歴史に刻印している。おぞけをふるうほかのないような日本陸軍の作戦参謀たちも、かれらからみると赤子のように可愛い連中ということになろうか。およそ何のために戦ったのかわからないノモンハン事件は、これら非人間的な悪の巨人たちの政治的な都合によって拡大し、敵味方にわかれ多くの人びとが死に、あっさりと収束した。そのことを書かなければいまさら筆をとることの意味はない。ただしそれがうまくいったかどうか。
・・・

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ノモンハン事件 帰還捕虜の処遇

2008年03月22日 | 国際・政治

 18000人もの戦死者を出したといわれるノモンハンの戦闘は、1939年9月15日にモスクワで停戦協定が成立し、翌16日に戦闘が中止された。そして、停戦後捕虜の交換が行われたが、問題はその帰還捕虜の処遇である。聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)より抜粋する。

ノモンハン事件と日本人捕虜----------------------
 ・・・
 もっとも、『日本憲兵正史』には、「停戦協定後……第一回の捕虜交換は9月17日に、日本側から97名、ソ連側から88名を出して交換した。また、昭和15年4月27日には、日本側から2名を返し、ソ連側から204名を受領している」とある。
 捕虜だった日本兵の大半は負傷していたため、吉林省新站陸軍病院などに入院したが、満州里からの輸送の間に、憲兵が、列車に乗り込んだ。チチハル憲兵隊からもそのために派遣された。土屋は行かなかったが、派遣された目的は、「捕虜だった兵たちの言動を見張れ」ということだった。「赤い国、ソ連の捕虜だったのだから、赤化教育を受けたに違いない。スパイにでも仕立てられたのがいたら摘発しろ」という含みだった。お国のためと、力量的には無謀ともいえるノモンハン事件の戦場で倒れ、ようやく戻った兵たちを迎えたのは、こうした仕打ちだった。
 「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過禍の汚名を残すことなかれ」という戦陣訓は、ノモンハン事件より二年後の昭和16年(1941年)一月のの示達だから、この当時は、この考え方にしばられることはなかったのではないか。だが、敵前逃亡については死刑などの厳罰を科していたが、投降罪や俘虜罪はなかった。だが、当時の土屋も「捕虜になったらおしまい」と思っていたように、軍内の空気は「戦陣訓」を先取りしたものに近かった。だから、帰還捕虜は冷酷な扱いを受けた。
 入院先のベッド周辺にまで憲兵が衛生兵の腕章をして入り込んでいた、という記録もある。それに、病院内で略式軍法会議が行われ、帰還捕虜は、一週間の重営倉などの刑罰を受けた。その上、何とか帰国できても、ロシアの捕虜だった男として、特高刑事の再三の訪問を受けねばならない兵もいた、という。
 しかし、将校たちは、さらに悲惨だった。彼らは、病院では個室に入院していたが、個室での略式軍法会議の後、ほとんどがピストルで自殺している。土屋は、捕虜だった将校には、自決をすすめ、ピストルをベッドの下に入れた、という話を聞いている。

 『一億人の昭和史』毎日新聞社編(毎日新聞社)には、ノモンハン事件当時、野戦重砲第一連隊 本部付の兵長で、帰還捕虜だった人が「航空少佐らもみな刑法を受け、憲兵から『貴様など、すでに本にまで出て、立派な戦死者だ』と責められ、自殺せよとの命令で、病院で短銃自殺を遂げた」と書いている。この人自身、好んで捕虜になったのではない。部隊が進退きわまって、同僚と互いにノドを突き合って倒れていたのを捕らえられたのだ、という。
 刑事がまとわりつこうが、帰郷できたのは幸運だったかもしれない。土屋は「これは聞いた話」と、伝聞を強調しながら、こんな話をした。それは消えた帰還捕虜の話だ。将校の大半は病院で自決させられたが、問題は兵たちだ。二回、三回目に戻された合わせて700人近い兵について、土屋はハルビンの南、背陰河までは列車で送られてきたと聞いた。だが、その後の彼らの消息はまったく聞かない。どこへ行ってしまったのか。当時、だれもが「まさか」と思いながら、首をひねった、という。全員が無事帰郷できていれば、もちろん、それにこしたことはない。しかし、土屋は、大半が”わが精鋭がその威武に……”と歌われた関東軍の恥、とばかりに何らかの処分をされたのではないか、と今も疑っている。
 そして声を潜めた。もう一つ伝聞がある。ソ連兵の捕虜についてだ。戦況から、日本兵側が圧倒的に多いのは理解できるが、交換されたソ連兵の捕虜が少な過ぎる。「石井細菌部隊の地下に、間違いなくソ連兵らしい捕虜がいっぱい入っているのを見た」ときいた。それで、少なかったのか、と土屋が納得したのは、上山市に帰った後である。この話をしてくれたのは、石井四郎部隊に所属し、後に南方に転戦、帰国した知り合いの元日本兵だ。

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 捕虜の人数については、諸説あるようなのだが、「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)には、戦死、戦傷、戦病、生死不明や帰還捕虜について、下記のように書かれている。
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 ・・・
 これら連隊長クラスの悲劇をみれば、大隊長、中隊長、小隊長そして下士官・兵のおびただしい犠牲については改めて書くまでもないであろう。いかに救いようのない死闘があったか、これまで、明らかにされている第六軍軍医部調整の資料では、第二次ノモンハン事件にかんして、出動人員58925人、うち戦死7720人、戦傷8664人、戦病2363人、生死不明1021人、計19768人となっている。正しくは、第一次事件の損耗、安岡支隊および航空部隊の損耗、満州国軍の損耗もこれに加えなければならない。さらにいえば帰還後の捕虜となったものの処分も。

・・・ 
 昭和41年10月12日、靖国神社でノモンハン事変戦没者の慰霊祭が行われたとき、翌日の新聞は戦没者を18000人と報道している。
・・・
 ソ連軍の死傷者も、最近の秘密指定解除によって、惨たる数字が公開されている。戦死6831人、行方不明1143人、戦傷15251人、戦病701人、これに外蒙軍の戦傷者を加えると、全損耗は24492人となるという。圧倒的な戦力をもちながらソ蒙軍はこれだけの犠牲をださねばならなかった。
・・・

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 そして、上記生死不明の1021人や帰還捕虜について、下記の説明がある。
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 ノモンハン事件の損耗については、もうひとつ重要なことに、日本兵の捕虜の問題がある。生死不明の1021人(うち将校19人)という数字のうしろにこれが秘められている。捕虜交換で帰ってきた146名を差し引くと、八百余人が行方不明となる。すべて捕虜というわけにはいかないが、かなり多数の捕虜がいたとみられよう。のちのソ連側の発表は567人ということであるが、これもかならずしも正確とはいえないようである。

・・・

・・・
 帰ってきた捕虜の処分について当時、新京憲兵隊公主嶺分隊所属であった林次郎憲兵上等兵の、凄惨というべき証言がある。
「(停戦して)半月も過ぎたころ、関東軍司令部から将校を長とする特設軍法会議が乗りこんできて、非公開で、主に将校が裁判に付された。午前10時から午後4時ごろまでで終わった。その場に居あわせた憲兵の話では、裁判官は終了後、将校には拳銃を与え、何もいわずにさっと引き揚げたという。/その直後、憲兵といえども将校室に近寄ることを禁ずとの命令が出、間もなくケン銃の発射音がひびいた。自決だった」(『ノモンハンの死闘』)

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 将校については、どの証言も内容が似ているが、その他の将兵の帰還捕虜はいったいどうなったのであろうか。数もはっきりせず証言そのものがほとんどない。「赤化教育を受け、スパイに仕立てられているのではないか」と疑われていた帰還捕虜が、もし無罪放免ということであれば、何らかのかたちで憲兵や特高にマークされていたはずであり、様々な証言があって当然である。放置できない謎であると思う。知っている人がいるのであれば教えてほしいとも思う。

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満ソ国境紛争処理要綱とノモンハン事件

2008年03月21日 | 国際政治

 先ず、ノモンハン事件に関わる関東軍司令部下達の『満ソ国境紛争処理要綱』第三項と第四項を抜粋したい。こんな処理要綱』を作成する関東軍作戦課、また、それを下達する関東軍司令部、さらには、「大本営からは、関東軍にたいし国境を明示したことはない。関東軍にまかせていた」という参謀本部作戦課長稲田正純の無責任な言葉、驚くほかはない。これでは、戦争になって当然あると思われる。

第三項  -----------------------------
 「国境線の明瞭なる地点に於いては、我より進んで彼を侵さざる如く厳に自戒すると共に、彼の越境を認めたる時は、周到なる計画準備 の下に十分なる兵力を用い之を急襲殲滅す。
 右の目的を達成する為一時的に『ソ』領に侵入し又は『ソ』兵を満領内に誘致滞留せしむることを得」

第四項-------------------------------
 「国境線明確ならざる地域に於いては、防衛司令官に於いて自主的に国境線を認定して之を第一線部隊に明示し、無用の紛糾惹起を防止すると共に第一線の任務達成を容易ならしむ。
 而て右地域内に於いては必要以外の行動を為さざると共に苟くも行動の要ある場合に於いては、至厳なる警戒と周到なる部署を以てし、万一衝突せば兵力の多寡ならびに国境の如何に拘わらず必勝を期す」

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 次に「ノモンハンの夏」半藤一利(文春文庫)より、ノモンハンというところについて書かれた部分や事件のきっかけとなる部分を抜粋する。
●ノモンハン----------------------------
 ノモンハンとは小さな集落の名である。原義はラマ僧の役職名であるという。最高位の活きぼとけをフトフクといい、ノモンハンはそのつぎに位置した位である。その地に有名なラマ僧の貴人の墓があったことから、地名になったものとされている。
 そのむかしには、ノモンハンとは蒙古語で平和という意味であるとしきりにいわれていた。それはどうやら間違いであるようであるが、このへんをホロンバイルといい、広さはざっと九州ぐらいで一望千里、無人の、広漠とした砂丘と草原が海のように広がっている。ひざの高さに草が茂っているだけで、山もなく、一本の樹もなく、なだらかな起伏が大波のようにゆっくりとつづき、四方の稜線は地平線で雲と接している。羊の群れを追う蒙古人が牧草をもとめてそこを行き来する、牧歌的な、まことに平和そのものの草原地帯ということから、そういわれてきたらしい。
 とくに夏のノモンハン周辺は草の丈が高く、牧草としても上等で、放牧の蒙古人が落ちあう憩いの場所でもあった。そこの井戸の水は動物にも貴重この上ない真水である。
 実は、この水が問題なのである。ホロンバイルには、その名の起こりでもあるホロン湖とボイル(バイル)湖をはじめいくつかの湖沼あるが、そのほとんどが塩水。たいしてハルハ河と、その支流のホルステン河は透明な真水であり、馬や羊にのませるためにもその真水はありがたかった。
 ところが、満州国が成立していらい、ハルハ河が国境線とされ、ノモンハン付近は満州国領内に組み入れられた。ノモンハンの国境警察分駐所には、警士五名が配置され、満州国側がきびしく目を光らせた。そのことを認めない外蒙古側は「失地回復」の意味もあり、しばしば家畜をおって、ハルハ河を越えて進出した。このとき少数の外蒙古軍が護衛についてきた。満州国軍からみればこれは「越境」となる。

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 さらに、実際にノモンハンの地に行ってきたという西牟田靖氏の「僕の見た大日本帝国」(情報センター出版局)から抜粋する。
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 日本では「事件」と事の大きさを矮小化しているが、「飛行機や戦車が参加した世界で初めての大規模な立体戦争」と斎さんが語るとおり、中国では「ノモンハン戦争」モンゴルでは「ハルハ河戦争」と呼ばれていて、それは、日ソが蒙古と満州の国境線をめぐって戦火を交えたまぎれもない戦争だったことを示している。五月から九月という短い期間の「限定戦争」だったが、それは終戦時の日本の悲劇的な結末をすでに示唆したものだった。
 当時このあたりの国境ははっきりと定まっていなかったという。遊牧民の土地だから国境を定めてしまうこと自体に無理があると思うのだが、双方の国の主張が対立していた。満州国(日本)はノモンハンよりもモンゴルよ寄りのハルハ河を国境とし、モンゴルはハルハ河を越えたノモンハン付近までを領土とみなしていた。
 モンゴル軍がハルハ河を「越境」したのを満州国軍が攻撃したのが武力衝突のきっかけだった。


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関東憲兵隊 憲兵の拷問

2008年03月19日 | 国際・政治

 下記は、中国人が「日本鬼子(日本の鬼め!)」と罵倒するような行為を繰り返したという満州関東憲兵隊の元憲兵、土屋芳雄氏の体験をまとめた聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)からの抜粋である。彼は満州で十年以上憲兵として過ごした自分をふり返り「中国では人間ではなく鬼だった。再びあのような侵略戦争を繰り返してはならない」という。まさに「人間ではなかった」憲兵の加害証言である。中国において、中国人に脅迫されて言ったことではなく、朝日新聞山形支局員奥山郁郎、貴志友彦両氏に語った自身の体験である。

拷問の手ほどき---------------------------
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 土地のものではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った網にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄からみて班長級だな」と、土屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それで先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。
・・・

・・・
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで、殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀でもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。土屋と同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」 「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。
 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき、脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は、「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。
・・・

・・・
 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテ探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と土屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッいう音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。
・・・

・・・拷問はさらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。
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・・・
 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持ってこい」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並べ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。男はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚の二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。
 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分はやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。
 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達、三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。
 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。

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捕虜刺突訓練と決めつけ攻撃

2008年03月17日 | 国際・政治

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあった。部下全員を集めて次の如く談話し、教育したというものである。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
 「此には銃殺より刺殺が効果的である」

 上記のような訓練が常態化していたと思われるが、初年兵として実際に中国人捕虜の刺突を命ぜられた土屋芳雄氏(後に憲兵となった)の証言を聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)から抜粋する。

鬼になる洗礼----------------------------
 昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した。男たちは、匪賊で、警察に捕まったのを三中隊に引き渡されたという。はじめに、着任したばかりの大隊長(中佐)が、細身の刀を下げて6人のうちの一人の前に立った。だれかが「まず大隊長から」と、すすめたらしい。内地からきたばかりの大隊長は、人を斬ったことなどなかった様子だった。部下が「自分を試そうとしている」ことは承知していたろう。どんな表情だったか、土屋は覚えていない。彼は、刀を抜いたものの、立ちつくしたままだった。「度胸がねえ大隊長だナ」と、土屋ら初年兵たちは見た。すぐに中尉二人が代行した。
 ヒゲをピアーッとたてた、いかにも千軍万馬の古つわもの、という風情だった。こういう人ならいくら弾が飛んできても立ったままでいられるだろうな、と思った。その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。
 上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。

・・・

・・・
「ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしてい
なかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。
 目前で仲間であろう三人の首が斬られるのを見ていたその中国人は、生への執着はなかった、と土屋は思う。ただ、後で憲兵となり、拷問を繰り返した時、必ず中国人は「日本鬼子」と叫んだ。「日本人の鬼め」という侵略者への憎悪の言葉だった。そう叫びながら、憎しみと怒りで燃え上がりそうな目でにらんだ。今、まさに土屋が突き殺そうという相手の目も、そうだった。
 恐怖心は、むしろ、土屋の側にあった。それを大声で消し、土屋は力まかせに胸のあたりを突いた。・・・

独立守備隊の対ゲリラ戦-----------------------
・・・
 7月7日のある日、鄭家屯のそばの大林駅の近くで鉄道が爆破された。「それ!」と、土屋らは鄭家屯から現場に向かった。すぐ近くまでたどり着いた時、関東軍の飛行機五機が飛んできて、大林駅近くの中国人たちの集落に爆弾を投下した。
八十戸ほどの集落は、爆発音と共に砂煙上げ、約四十戸の民家は完全に崩壊した。爆撃といっても、当時は操縦席から迫撃砲弾を手で投げつける程度のものだった。住民にとっては、たまったものではない。土屋たちの部隊の隊長が、関東軍に鉄道爆破の連絡をしたことによって飛来した爆撃機だが、その八十戸の集落が鉄道爆破と関係あるかどうかは全く不明だった。むしろ、何の関係もなかったのではないか。いわば、盲爆であった。

・・・

・・・
 二日間の行動で一人の抗日軍も捕らえることができなかった。大隊長は怒った。三日目に、配下の四個中隊の約四百人を鄭家屯に集結させ、鉄板で覆われた装甲列車や天井のない貨物列車などを編成して出発した。土屋たちに目的地は知らされていなかった。出発して間もなく、列車は停止した。鄭家屯駅の北、約八キロの小高い丘だった。大隊長は、列車から見える約二キロ先の百五十戸ほどの集落を攻撃目標と指示した。「あそこは抗日軍の巣だ」ということだろう。むだ足二日間で、くたくたになっていた土屋たちにとってはどうでもいいことだった。貨車の上から迫撃砲や重機関銃、擲弾筒などの武器が、その集落をにらみ、「撃て!」で、一斉にジャガジャガ撃った。
 土屋は、その時、重機関銃分隊に配置されていた。土屋はもっぱら弾運びや雑用だった。まず、迫撃砲弾が集落で爆発すると、住民らは逃げ惑った。そこへ、重機関銃が火を噴いた。ダ、ダ、ダ、ダッ…。土屋の分隊の重機関銃は一気に二千五百発を発射し、銃身が赤く焼けたほどだった。一時間ほどで攻撃は終わり、再び鄭家屯へ戻った。まったくの撃ち放しだった。大隊長は「抗日軍の本拠地を殲滅し、戦果は…」と、関東軍に報告したのだろう。その集落が抗日軍の本拠地でないことは、逃げ惑う農民たちを見れば一目でわかったし、何よりも、反撃の弾が、ただの一発も飛んでこなかった。
・・・

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        全文と各項目へリンクした一覧表があります。

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軍の関与と命令-戦犯の供述-NO2

2008年03月15日 | 国際政治
 下記は、中国侵略の実像を関係者本人の認罪のかたちで明らかにしているもので、中国戦犯裁判の法廷に提出された供述書の文である(1998年『世界』誌上ではじめて公表された)。敗戦前後中国や朝鮮でソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された後、1950年7月に中国に移監され、1950年代半ば中国戦犯管理所において書かれたものである。周恩来が直接指揮を執ったといわれる計画的な戦犯対策に基づいて、師団、部隊、憲兵、警察、司法などに所属した者がグループをつくり、いろいろな立場で当時を語り合い、事実を確認し合った上で書かれたこの自筆供述書は、中国人被害者や遺族の告訴状、目撃者の証言、現地調査等との整合性も確認されており、日本軍の戦争犯罪を明らかにする史料として、極めて重要なものであると思う。慰安所設置や経営に対する軍の関与、強制労働や住民虐殺に関わる証言など数多く含まれているが、そのごく一部を抜粋した。(「侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)より)

 陸軍第五十九師団歩兵第五十四旅団長 陸軍少将 長島 勤-----  三、第二次中国侵略第五十九師団歩兵第五十四旅団長 
 3 蟠居地における状況
  (1)1942年7月私の指揮下にありて萊蕪県に蟠居中、110大隊長は萊蕪県九頂  山附近の討伐を行った時、八路軍を免したことを居民が八路軍に内通したこと  と推断し報復の目的を以て瓦斯弾(クシャミ性)3発を歩兵砲で発射し、平和人  民老幼15名を殺害しました。

  (2)其の他1942年4月より1945年7月の間に於て各大隊(45大隊は1942年4  月-1943年6月間師団直轄期間を除く)は私の指揮下にありて所謂警備の任  務を以て治安維持のため担任地域に蟠居中、抗日軍及び平和人民に相当大  なる損害を与へ、且二十余回の討伐にて合計1300余名の抗日軍人と600余  名の平和人民を殺害し、抗日軍人と平和人民1000余名を逮捕しました。又大  多数の人民を強制して長大なる遮断壕の構築、望楼の修建其他兵器、弾薬、  糧食等の軍需品を運搬せしめ3年来これ等の強制労役は五十万工日以上の   中国人民を奴役しました。


 陸軍第三十九師団 師団長 陸軍中将 佐々眞之助---------
 21・・・
   師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日  本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安  所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強   制的に収容せられ、賤業に服して居たのでありました。宣昌、荊門にも同様の  慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵  辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基づくものにて私  の重大な責任であることを認罪します。
 
 22師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありまし  た。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第三十九師団司令部が荊  門から当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援  の下に経営し日本将兵の慰安に供して居たものでありました。春屋の主人は   師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ、野菜等を師団の威力を背景  に利用して、中国人民より安価に収買して各部隊に供給し、中国人民より利益  を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人  に其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であ  ったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収  益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認めら   れます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安し  つつ中国侵略戦争を実行して居たのであろります。此等罪行は私が認可したこ  とであり私の責任であることを認罪します。 
 

 満州国憲兵訓練処処長 少将 齋藤美夫----------------
 抗日聯軍・朝鮮游撃隊への工作
 二、人民鎮圧に対する方針
 (一)略
 (二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重
    処分」に附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、
    偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官40名を以て
    護衛し、偽新京東北方約20吉米の刑場にに押送途中、被護送游撃隊員
    一名が手錠を装したるまま警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、
    其場に斃し離脱を計りました。西田少佐は後部車両にありましたが、急
    遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄より自衛団を集
    めて遂にこの勇敢なる游撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其
    顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対
    し賞詞を与えました。本件は被押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗
    闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直
    前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官西
    田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射
    撃致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、このを実行
    せしめたのであります。しかも当時西田に対して賞詞を与えております。
    私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


 [石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
 (四)1938年1月26日、関憲警五八号をもって石井細菌化学部隊と関係
    のある憲兵隊司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より
    引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は
    右命令に基づき処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の
    人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、
    ここに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌
    化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、
    1938年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年
    ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを
    確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基づいて、
    私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したに相違なく、従っ
    て私は石井細菌化学部隊の試験工作に封幇助協力して国際法規に違反し
    非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であ
    ります。

    
 三 人民鎮圧に関する具体的事項
(二)1939年初頭より海拉爾日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良    の為、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、   防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集しきたりしものであ   ります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給   与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或いは伝染病が多発し   たのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動勤務し、労働者に    酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施   しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令    指示を致しました。其関係においてこの事件に重大なる責任を負う次第であり   ます。


 
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軍の関与と命令-戦犯の供述

2008年03月13日 | 国際政治

 「支那人ハ戸籍法完全ナラザルノミナラズ、特ニ兵員ハ浮浪者多ク其存在ノ確認セラレアルモノ少ナキヲ以テ、仮リニ之レヲ殺害又ハ他ノ地方ニ放ツモ世間的ニ問題トナルコト無シ」
 これは、1933年に出された陸軍歩兵学校の「対支那軍戦闘法のノ研究」の「捕虜ノ処置」の項目の一文である。また、
 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ 」
 これは、1937年8月5日、陸軍省から各支那駐屯軍へ送られ、後に派遣された各軍もこれに従うところの「今次事変ニ関スル交戦法規ノ適用ニ関スル件」と題された通牒の中の一文であり、この中で「戦利品、俘虜等ノ名称」はこれを使うなと指示しているのである。
 日本軍は日中戦争をあくまでも「事変」として、この戦争に国際法を適応しないと決め、「俘虜収容所」を設置した後も、中国人捕虜を法の外に置き、差別感や蔑視感を拡大再生産しつつ、虐殺・虐待・酷使を繰り返したのである。
 下記は1956年に中国の日本人戦犯裁判で有罪判決を受けた9名と不起訴になった高級副官1名の「筆供述書」をまとめた「侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から抜粋したものである。慰安婦問題における軍の関与や「三光作戦」の命令を具体的に示している公文書である。

陸軍第百十七師団師団長 陸軍中将 鈴木啓久 筆供述書より----- 歩兵第六十七聯隊長の時の罪行
 (2)九月、私は師団長熊谷中将の実施せる宣城侵略作戦に参加しました時、宣城西方約40粁付近に於いて、 抗日国民党軍の旁系軍約50名家屋内に退避せるを発見致しまして、私は第一大隊長角田少佐に毒ガス攻撃を命じ其の全員を惨殺致しました。

 (9)私は、巣県於いて慰安所を設置することを副官堀尾少佐に命令して之れを設置せしめ、中国人民及朝鮮人 民婦女20名を誘拐して慰安婦となさしめました。

 (10)7月下旬、日本財閥三井と南京に蟠居せる日本侵略軍司令官西尾大将の直接隷下にある陸軍貨物廠とが結合して、巣県附近に於ける米を掠奪のため来たりしとき、私は之を援助し集荷に助力し約100噸の米を掠奪せしめました。

 第二十七歩兵団長の時の罪行
 (10)11月、私は「某が八路軍と通謀して居る」との報告を受くるや直ちに「其の村落を徹底的に剔抉を行ひ粛正すべし」との命令を副官松原順一郎をして第一聯隊長田浦竹治に伝達せしめたる結果、田浦は当時私の部署下にありました騎兵隊と結合して?県潘家載荘の中国人民の農民1280名を或いは銃殺し、或いは刺殺し、或いは斬殺し、又は生埋めをなす等の野蛮な方法を以て集団し尽し全戸800を焼却し尽し、主食千斤、被服多数を又家畜約40車約40輛を悉く掠奪し尽したのであります。此の惨事は当時第一聯隊長田浦より「多数の中国人民を殺害せり」との報告を副官松原より受け、又騎兵隊よりは騎兵隊の壕掘開担任地の現場に於て同隊の中隊長鈴木某(大尉)より「騎兵隊は多数の中国平和人民を殺害せる為中国人民逃亡しありて工事の為めの労工不足し工事進捗しあらず」との報告を受けながら、私は通常にあるものの如く考え何等意に介せず其の儘に放置してしまったのであります。
   

陸軍第五十九師団師団長 陸軍中将 藤田 茂 筆供述書より-
---
  犯罪事実
 (六)俘虜殺害の教育指示。私は1月中旬将校全員昼食後張良村で次の如く談話し教育しました。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ、強くしなければならない」
 「此には銃殺より刺殺が効果的である」
 此の教育は私の当時最も大なる誤れる感念で此感念が終始私が厳重なる中国人民に対する罪行を犯した基因の一をなしたるものであります。
 
 
陸軍第五十九師団高級副官 廣瀬三郎 筆口述書より--------
 六 山東省駐屯時五十九師団高級副官時代の罪悪
  17 済南に於ける一部後方施設監督時の罪行
 イ ・・・
  星倶楽部は日本軍将兵専用の中国人妓舘でありまして其経営は済南中国人妓舘組合長に委託し 建物は日本軍が済南占領時中国人より押収掠奪せるものを利用内部を改造し使用せしめ 従業員の食糧日用品等は日本軍酒保より廉価にて供給又医療は日本軍に於いて負担するという名目の下に欺瞞し 廉価に日本軍将兵か佚楽し得るの具に供したもので、妓女は約30名、1名1日平均20名多き日は30名の日本軍将兵を相手にせしめました 年歯十七才乃至二十才の若き中国女性の多くを侵畧者の肉慾の対象たらしめ 又其過労による疾病損耗を生せしむるの大罪悪を犯しました 病人は経営者たる組合長か自己組合妓舘の妓女と交代せしめてゐたのでその数は判りませんでした

  ハ 日本軍河南作戦進捗に伴ひ1944年6月頃第十二軍より妓女を前線に送られたき旨の依頼要求がありました 日本人料理組合は当時日本人妓女か著しく減少し此要求に応し難き旨回答がありましたので 済南朝鮮人料理組合に依頼し派遣后の妓女の補充に付便宜を与ふることを条件として 承諾せしめ朝鮮人妓女約30名を危険多き第一線に近い鄭州に派遣(約3ヶ月)するの罪悪を犯しました僥倖にして此間妓女の損害は1名もありませんでした。

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端島・崎戸島、抗夫の脱走

2008年03月09日 | 国際・政治
 端島や崎戸島では、朝鮮人抗夫の命懸けの脱走が絶えなかったことが、「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」林えいだい(明石書店)のいろいろな人の証言で分かる。「坑内で死ぬくらいなら……」と脱走し、たまたま生き延びることのできた人の炭鉱労働についての証言は、まさに奴隷労働以上のものである。人間地獄といわれた圧制から逃れるために、わざと自分の足や手の指を坑内ヨキで切り落とし病院に入ろうとしたり、あえて傷害や殺人を犯す者もあったという。下記は、聞き取り調査の一部である。戦時中の出来事とはいえ、日本人の為したことであり、まだ100年も経っていない歴史的事実であることが信じられない気がする。

リンチ------------------------------
 ・・・
 端島炭鉱に来て五ヶ月目、同じ部屋の者が二人、急に姿を消した。朝鮮人の外勤がきたので、どうしたのかとたずねると知らないと答えた。
 そのうち捕まえられて、事務所へ連れ戻された。坑木を筏に組んで逃亡しているところを監視人に発見され、船で追われたということが分かった。それからリンチが始まった。
 「アイゴー、アイゴー、助けてください!」
 殴りつける音と悲鳴が、部屋まで聞こえてきた。暗い部屋の中でその声を聞くと、両手で耳を塞がないと自分のほうが気が狂いそうになる。金さんは出勤時間になるとそっと寮を出た。
 翌朝、昇坑してくると、前日の二人はどうなったのかと、同室の仲間にたずねた。
 「こっそり見に行ったんだが、半殺しにして海の中に投げ込んだよ。生きているかも知れないのに、可哀そうなことをした」
 二人の布団が、部屋の中に二つ並んだままだった。塔路炭鉱で同じ炭住にいた二人で、女房と子どもたちの姿が思い出された。
 冬の海を、泳いで渡るのは無謀過ぎる。泳ぎ達者な漁師であっても、空腹の状態では無理なことだった。空間がない狭い島の環境と息詰まるような坑内労働で、正常な人間でも精神状態がおかしくなる。圧制の中で生活していると、それだけ自由への憧れは強い。
 逃亡に失敗すると、みんなの前で見せしめのリンチが始まる。それだけひどいリンチが行われても、何処の部屋の誰がいなくなったと聞いた。(逃亡が続いたということ)外勤の動きを見ていると、すぐに誰かが逃亡したことがわかった。寮から逃亡する者が増えるにつれて、外勤の圧制は常軌を逸してひどくなった。
 地下足袋の配給が途絶えがちなると、金さんは栄養補給の道がなくなった。(地下足袋を食糧と交換していたのである)
 「働いたお金を渡してください」
 「お前、何をいうとるんだ。こんな島の中で金を使うようなところはなか」
 「じゃ、家族へ送ってくれてるんですか?」
 「差し引いた賃金の70パーセントは送りよる。後は貯金だ。お前たちに金を渡すとすぐ逃げるからな、半島は油断も何もあったもんじゃなか」
 そう答えているのは、朝鮮人の外勤だった。
 食事と布団代を差し引いた残りから、70パーセントをサハリンの家族へ送っていると勤労課の外勤はいった。金さんは、姜道時さんと同様、敗戦を知らなかった。知らされなかったのだ。
 ・・・・

---------------------------------
 著者(林えいだい氏)が「死者への手紙」を出し、返事のあった遺族を訪ね歩いて聞き取り調査をしたところ、戦後四十数年経過しているにもかかわらず、一部の人を除いては遺骨さえ帰っていず、未だに生死も分からない人たちもいたという。下記の証言が事実ではないかと思われるのである。

証言--------------------------------
 「戦争中は事故が多い。火葬は中ノ島でしたが、戦争が激しくなるとそれどころじゃなくなる。重傷者が、病院に運ばれてきて亡くなると、外勤の労務が引き取りにくる。それから先はどうしたか、分院の者は知らない」                                          (端島炭鉱分院助手 金圭沢)

証言--------------------------------
 「死体を海に流してしまえば、魚の餌になるだけ。遺骨も何も見たことはなか。死ぬと海に捨ててしまったからね。この端島に同胞の遺骨なんかあるわけがなか。海に捨てるのも多かと。所帯持ちの場合は、家族がアパートに住んどるから、そうはいきませんたい。みんながやかましかもんで捨てきりやせん。
 吉田の朝鮮飯場の独身者は、ほとんどみよりがなかもんで、遺体は海に捨てて処分した。うちの主人の兄が吉田飯場にいて、同胞が死ぬと海に捨てるといつも話しとった。坑内事故で死ぬとゲージから上がってきて、すぐに吉田飯場の勘場がやってきて、処分するんだと。独り者は可哀そうなものよ。朝鮮にゃ親兄弟もおろうに……。そこの端島にお寺があったのに、朝鮮人の遺骨は全然なかでっしょうが、それが証拠ですたい」
                    (姜時点)

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働き手を連行された家族

2008年03月07日 | 国際政治
 下記は、「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)の著者「林えいだい氏」が「死者への手紙」の返事を書いた「鄭 琦默さん」を訪ねた時の様子の一部である。
----------------------------------
 「鄭 琦默さんはいますか?」
 ゆっくりガラス戸が開いて、一人の老人が私の前にぬっと顔を突き出した。酒臭い匂いがして、焼酎瓶が横に転がっていた。キムチの食べ残りの皿が、床に放り出されている。
 日本から訪ねてきたと説明すると、鄭さんは私が韓国に出した手紙を、枕元から持ってきた。何度も読み返したのか、手紙はしわくちゃになっていた。
 「体がうすごく悪いんだ。座っているだけでもきつい。これも働き過ぎ、弟の分まで働いたから体の全部が痛い。お前の手紙を見て、昔のことを思い出して気分が悪くなった」
 と鄭さんは吐き捨てるようにいった。それから突然口をつぐんでしまった。<BR>
 「今から45年前、弟は日帝時代に徴用された。その時のことを思い出すと、もう言葉にはならない……」
 涙をためて深い溜息をついた。
 弟の現默さんが1944年(昭19)強制連行された時は、柳谷里にはもう若い者はいなかった。鄭さんも徴用を逃れるために、ずっと山奥の洞窟に隠れていた。夜になると山から出て、暗い畑で農作業を済ませ、夜明け前に弁当を持って山へ引き返して行った。
 三菱から直接強制連行にきた労務係は、にやってきては働けそうな者を探し回り、捕まえると面事務所へ連れて行った。そこにはすでに戸籍抄本が用意され、拒否することは許されなかった。
 「家の宝物を連れていったんだからね、残されたアボジ(父親)は大変なものだ。新婚早々の女房は狂ったようになった。日本人のやることは人間じゃない。恨みの相手だ。
 生きて帰ってきたのならいいが、弟を殺してしまい、日本は仇だよ。弟は死ぬために日本へ行ったようなものだ。の人たちは、ただ可哀そうなことをしたというだけで、どうすることもできない。日帝時代のことで文句もいえなかった」
 弟が強制連行された二ヶ月後の7月26日、崎戸炭鉱から死亡の電報が届いた。どのような理由で死んだかわからないまま、鄭さんは借金をして旅費をつくり、関釜連絡船に乗って長崎へと向かった。
 崎戸炭鉱の親和寮で弟と対面したがすでに火葬が終わって遺骨になっていた。
変わり果てた弟の姿に声もなく、本当に死んでしまったのかと、一夜遺骨を抱いて寝た。翌朝、弟と一緒に強制連行された同じ洛東面の三人に会わせてくれと、労務係に頼み込んだ。すると彼らは、「同郷の仲間の死を知らせると、戦意高揚に影響する」と、一言のことに鄭さんの願いをはねつけた。
 埋火葬認許証交付簿にある死因は、「左側湿性肋膜炎兼急性腸カタル」で、7月18日に発病して、26日に死亡している。鄭さんにとっては、健康であった弟がどうして死亡したのか、同郷の仲間に確かめたかったというのだ。
 鄭さんの話によると、弟の死亡補償金はもちろん、働いた賃金ももらわず、往復の旅費も炭鉱側は支払わなかったという。
 「遺骨だと渡されただけで、弟は日本のためにまるで犬死にだ。今もそのことを忘れることはない。弟の女房に会うのがつらかった。
 自分の主人が死んだんだから、補償金をもらって帰ってくるとばかり思っていたのに、死んで遺骨だけが帰ってきたのだからね」
 鄭さんは、弟の女房に説明がつかなかった。
 逆に補償金を自分のものにしたのではないかと疑われた。鄭さんの立場を考えると、女房が疑うはずである。たとえ植民地時代といえども、人間一人を死亡させた代償を払うのは当然なこと。それを炭鉱側は無視してきたわけであるから、鄭さんが心の底から怒りをぶつける気持ちはわかる。
 父親は十年後に、悲しみのうちに亡くなった。
 最期まで息子の死を信じようとせず、墓をつくっても一度も参ろうとはしなかった。
 「お前の手紙を見てからというもの、わしは朝から焼酎ばっかり飲んで、気分をまぎらわせている。どうだ一杯飲まないか」
 転がった焼酎瓶を這いながら手に取ると、飲みかけの茶碗を差し出した。
 鄭さんと会って、韓国での第一歩がこれでは大変な取材になると体がひきしまる思いがした。次の星州郡へ向かう間、韓国の遺族へ手紙をだしてよかったのかどうか考え直してみた。

 
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高島・端島・崎戸島の朝鮮人坑夫

2008年03月07日 | 国際・政治

 かつて一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島と怖れられた孤島の炭鉱における労働者の実態については、語られはしても記録がなく証拠がなかった。しかし、端島の桟橋に残る石造りの門は一生出られない”地獄門”と言われ崎戸島は”鬼ヶ島”、高島は”白骨島”と呼ばれて脱出不可能の孤島の存在が人々から怖れられてはいたのだという。
 ところが、1986年、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の会員が、炭鉱閉山後無人島となった端島の高島町役場端島支所の廃墟で、1925年から1945年に至る20年間の「火葬認許証下附申請書」と「死亡診断書」の束を発見し、それがきっかけで、島における悲惨な労働者の実態が少しずつ明らかにされていった。
 その経過や聞き取り調査の内容は「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」林えいだい(明石書店)で明らかにされているが、ここにそのほんの一部を抜粋する。

発見された資料から-------------------------
 ・・・
 端島炭鉱では、朝鮮人強制連行が始まった1939年(昭14)から1945年(昭20)まで「変死」9人、「事故死」17人で、病死23人を上回っている。埋没に因する窒息死が14人とあり、朝鮮人の死因は不自然な変死に満ちているいることがわかった。孤島という密室で何が行われたのか、外傷や打撲の変死が多く、労務係や坑内係のリンチではないかという疑問が出てくる。1944年(昭19)と翌年の45年(昭20)になると、日本人に比較して朝鮮人の死亡率が高くなっている。朝鮮人は43年(昭18)に9人から、44年(昭19)になると23人、翌45年(昭20)には8ヶ月で19人死亡している。

-------------------------------

 著者は、上記の資料発見をきっかけに、あちこち資料を探し回り、崎戸町役場で埋火葬許認証交付簿を手にする。そこには、1940年(昭15)から45年(昭20)までの6年間、日本人、中国人捕虜、朝鮮人のものがあったという。死因についての部分を抜粋する。
不審な死に方---------------------------
 死因で目立つのは朝鮮人抗夫の死亡者130人中に「変死」45人「事故死」32人、「病死」が53人で、端島と同様、変死と事故死が病死を上回っていることだった。事故死を見ると、落盤によるものが32人中に19人と圧倒的に多いことがわかる。変死の中で注目に値するのは、頭蓋底骨骨折や内臓破裂などが約半数以上にのぼり、不審な死に方をしている。

・・・

 (これらは)炭鉱側の医師が検死した結果であることを念頭に置く必要がある。頭痛とか風邪、高熱を訴えても、骨折や外傷がない限り診断書を書いてくれなかったと、朝鮮人抗夫たちは証言している。リンチで殺されても、変死で片付けられる場合も当然ありうることである。警察は黙殺して事件にはしなかった。
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 著者林えいだい氏は、埋火葬認許証書かれている出身地の死者宛に下記のような手紙(一部抜粋)を出し、返事のあった人たちを訪ね、当時の連行の実態を探ったのである。
死者への手紙--------------------------
 拝啓、暑い夏を如何お過ごしでしょうか。突然このような失礼なお手紙を差し上げることをお許しください。
 私のことから先に書きますが、日本の朝鮮植民地時代のこと、特に第2次世界大戦中、韓国・朝鮮人を強制徴用した歴史を調査記録して、日本政府と企業の責任を追及している者です。
 現在、北はサハリン、北海道から沖縄に至るまで、実態を調査して記録を残しています。
 九州の長崎県西彼杵郡にあった、三菱崎戸炭鉱と端島炭鉱で亡くなった、韓国人の埋火葬認許証の中に、韓国人 死亡者の名簿を発見しました。この人たちは、主に炭鉱で働
いているうちに、事故や病気で亡くなった方々だと思います。
 戦後45年経ったこんにち、亡くなったことをお知らせすべきかどうか迷いましたが、もしもその事実を知らなかったとしたら大変不幸なことだと、失礼をかえりみず思い切って手紙をしたためました。本来ならば、ご家族様名でお出しすべきでありますが、お名前がわかりませんので、亡くなられた御本人宛にいたしましたことを、重ねてお詫びいたします。
 あなたのご家族○○○○様は、19○○年○○月○○日、○○炭鉱で病名は○○○○によって亡くなられたことが判明しましたのでお知らせします。

 お願いですが、もし、事情が許すならば、徴用された当時のこと、その後の御家族様の暮らしについておたずねいたします。
 お忙しいところ誠に恐れ入りますが、お返事いただければ幸いに思います。
 9月13日から韓国のソウルで、強制徴用の写真展を開催する計画で準備を進めています。崎戸炭鉱と端島炭鉱の戦時中と、現在の写真も展示することにしています。当日は会場にまいりますので、ご連絡いただければお会いすることもできると思います。どうかよろしくお願い申し上げます。

     1990年9月1日
                                       林 えいだい拝

    貴下
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 下記は、返事の中の一つである。
返事の一つ---------------------------
  謹啓
 先生のご健勝を心からお祝い申し上げますとともに、先生の愛国心と同胞愛には、深く感謝いたします。
 まず、書面にてご返事を差し上げます。
 私は山本現默(死亡者)の実の兄に当たる者です。当時の状況は、現默が徴用で日本の炭鉱に行ったため、大変困難になりました。
 そのほかには特別なことはありませんでした。これで先生のご質問に不十分ではありますが、回答とさせていただき、先生の益々のご健闘をお祈り申し上げます。

   9月10日
                                         兄 鄭 琦默

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 著者林えいだい氏は、返事のあった人たちの住所を頼りに訪ねて行き、粘り強く聞き取り調査を進めていくのである。ほんとうに頭の下がる取り組みである。この返事には「大変困難になりました」と記されているだけであるが、聞き取り調査の内容(次回)は、大変なものである。

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サハリン残留韓国・朝鮮人問題

2008年03月04日 | 国際・政治

  大戦末期の日本は、物資の不足や人員の消耗が激しく、労働力の不足を補う必要に迫られた。そこで最初は「募集」の形式を取っていたが(募集方式の集団連行と呼ばれる)、とても間に合わず「官斡旋」「徴用」と公権力の暴力的行使に頼る方向に人員確保の方法を移行させながら連行を繰り返した。そして、多くの朝鮮人を樺太に送り込み、極寒の地で石炭生産や鉄道敷設、道路工事などの過酷な労働に従事させた。ところが日本人(皇国臣民)として連行し、自由を与えず強制労働をさせておきながら、戦後の引揚げの時には、「日本人とその配偶者および子どもに限る」として、およそ四万三千名の韓国・朝鮮人を引揚げ対象から外し、サハリンに放置したのである。国籍問題については、1987年4月28日付けで、ソ連赤十字社のベネディクトフ総裁が日本赤十字社社長に宛てた書簡の中に、次のような表現があるという。
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 1945年から1948年にかけて、日本国籍者の日本人は日本に引揚げて行きましたが、朝鮮人については、日本当局は、ポツダム宣言の条文を引用して、以後日本公民とみなさないように公式に要請してきました。その結果、朝鮮人は無国籍者として定住すべく残留しました
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 ということは、日本政府の論に従えば、韓国籍に戻っていない人たちは日韓条約による請求権放棄の対象ではないことになり「補償」の対象であるはずであるが、それもなされていない。引き揚げの対象から外すだけではなく、無国籍となった韓国・朝鮮人を補償の対象からも外しており、まさに棄民である。サハリン残留韓国・朝鮮人の方々の怒りはいかばかりかと恐ろしくなる。
 このサハリン残留韓国・朝鮮人問題の本質は、この問題に取り組む高木健一弁護士の体験に象徴的に現れていると思われるので、「サハリンと日本の戦後責任」高木健一(凱風社)より、ここに抜粋したい。

「父をかえせ」「夫をかえせ」----------------------
 ・・・
 私は、1981年以後毎年のように8月15日には、韓国・大邱市で開かれる中蘇離散家族会の総会に参席するようにしている。そこで、日本での問題の進展ぶりを報告するためにである。しかし、日本政府と日本人に対する非難と糾弾の叫びが渦巻く会場の中で、遅々とした問題の展開ぶりを 日本人の一人として報告せざるえを得ないのは、もとより覚悟しているとはいえ、辛いことである。もちろん、その場のほとんどの人々は、温かく迎えてくれ、当方の努力をそれなりに評価してくれている。とはいっても、毎年必ず一人か二人、身内の不幸や取り返しのつかない半生の鬱憤をぶつけてくる人が現れる。
 1984年12月、日弁連の桃尾弁護士と私が大韓弁護士協会からの招請によりソウルでサハリン残留韓国・朝鮮人問題について講演したことがあったのだが、その時のことである。講演に参加していた離散家族会の役員の一人が突然立ち上がり、お前たち日本人は私の父を連行したまま返さない」「信用できない」と、口を極めて非難し始めた。司会役の韓国の弁護士会会長が、「この人たちは、その解決を図るために努力しているのだから」と取りなそうとしても、もうだめなのである。
 その翌年の離散家族会の総会で再会した際、本人は、この間は興奮して失礼なことをしたと、私に謝っていた。ところが、その後、同会の役員の一人として、李斗勲会長らと来日した
際、東京の外人記者クラブで、「アジアにたいする戦後責任を考える会」の大沼保昭東大教授と私が記者会見している最中に、突然持参していたカミソリで自分の指を切り、白い布に「日本は私の父を返せ」とハングルで血書し、居合わせた多くの外国人記者を驚かせた。
 1987年の中蘇離散家族会総会では、ある中年の男性が、私の手を強く握りしめながら、自分の父は最近サハリンで死んでしまった、なぜ早く解決しなかったかと非難をし始めて、周囲の人が説得しても、私の手を強く握りしめて離さないのだ。
 88年の総会では、会場のすぐ外でそこにいた人たちからそれぞれ事情を聴取していたところ、一人の婦人が近寄ってきて、突然、「私の夫もきれいな背広を着た日本人に連れていかれた。お前もそんな背広を着て、きれいなことを言うが、日本人はみんな信用できない」「私の夫は死んでもう戻ってこない、どうしてくれるか」と、延々と追及を始めた。まさしく「恨み」を嘆く「身世打鈴(シンセーターリョン)」なのである。周囲の人たちもその話を聞くばかりで間に入ろうとしなかったし、私自身も下手な韓国語ではこちらの気持ちがわかってもらえると思わないから、何もできないで困惑するばかりなのであった。

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樺太 棄民 朝鮮人の証言

2008年03月02日 | 国際・政治

 極寒の地”樺太”(現サハリン)で6万から7万といわれる朝鮮人が炭砿や軍事施設、道路建設などの過酷な労働を強いられた。そして、皇国臣民として強制連行された多くの人たちが、日本の敗戦とともに「あなた方は日本人ではないので、引き揚げの対象ではない」と帰国の機会を与えられなかった。30万人の日本人は数百人を残しほぼ全員引き揚げたが、4万3000人の朝鮮人は千人弱が引き揚げたのみで、サハリンに置き去りにされたのである。ソ連国籍を得なかった人たちは無国籍となった。韓国で夫の帰りを待ち続ける妻や家族、また、家族を樺太に呼び寄せたが、敗戦直前、石炭船の回航が困難になったため「樺太転換坑夫」として配転を命ぜられ(約2万人)、再び離散を強いられた家族、戦後半世紀以上が経過した今なお、サハリン、韓国、日本のそれぞれ地で苦難の日々を送る人たち。写真記録 樺太棄民 残された韓国・朝鮮人の証言 伊藤孝司著 高木健一解説(ほるぷ出版)は、こうした97名の貴重な写真入り証言集である。下記は、その中から5人の証言を抜粋したものである。

金 正極(キム・ジョングク)----------------------
  1920年3月4日生まれ ソ連国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

 樺太に行くまでの朝鮮での生活は大変でした。お父さんは農業をしていましたが、食べる物はありませんでした。戦争中でしたから、畑を耕しても全部供出させられてしまい、配給も満足に貰えませんでした。貧乏だったので、学校にも行けず、おじさんに漢字を教えてもらいました。
 名目は「募集」だけれども、「徴用」と同じ事でした。「募集」に来たのは、日本人の指令で来た朝鮮の役人でした。「今、世界は戦争をしているから、石炭を掘るために樺太に行かなければならない」と、応じさせられたのです。行かなかったら警察に捕まるんですから。
 樺太での仕事は、炭坑で石炭を乗せたトロッコを押す仕事でした。飯場には、同じ地方からの朝鮮人がいました。飯場では布団や枕に草を入れても、寒くてたまりませんでした。朝、起きると、口や布団の上に氷がついているほどです。なぜ、人間がこんな布団に寝なくてはいけないのか、私たちは人間ではないのかと、その時は思いました。
 契約では、8時間労働で8円払うという事になっていましたが、行ってみると一律3円50銭でした。その内から、食事、布団代と物品代を除くと、何ぼも残らないのです。それでも、10円くらいたまったら、朝鮮に送金しました。
 1943年の11月に樺太に着いたので、2年間の徴用期間が終わらない内に、戦争が終わったんです。8月15日の仕事は、三番方だったんで、飯場にいました。そこには、ラジオは1台しかなかったんですが、昼の12時頃、天皇陛下さんの発表を聞きました。その時は、日本が勝った方が良かったと思ったんです。朝鮮人も「皇国臣民」だといって、教育されていましたからね。
 本国と連絡できなくなり、お金もないので、労働者たちは会社に預けてあった貯金を払ってくれと、日本の親方に詰め寄りました。危なくなったその日本人たちは、みんな逃げてしまいました。
 朝鮮から一緒に来た78人の内、みんな死んでしまって、今まで生き残っているのは5人だけです。韓国には妻と娘がいますが、娘が小さい時に樺太に来てしまったので、私の顔を覚えていません。樺太で、私はずっと1人で暮らしてきました。なぜ、ここで結婚しなかったかというと、明日には、来年には帰国できると信じていたので、40年が過ぎてしまったんです。

金 泰鳳(キム・デボン)-----------------------
 1915年生まれ、1990年1月18日、ソ連サハリン州アニワ地区より永住帰国、 韓国大邱市在住

 村の区長が「徴用」の通知を持って来たので逃げたが、捕まってしまいました。行き先も知らされないまま、同じ密陽(ミリャン)郡の350人と一緒に、サハリンへ連れて行かれたのです。着いた所は、内幌炭砿でした。1944年9月の事です。
戦後は床屋・時計の行商・警備員をやり、後は自分で農業をしてきました。
 私は死ぬ前にやっと帰れましたが、サハリンで再婚し、30年一緒に生活した妻を連れてこられませんでした。妻は北朝鮮国籍だからです。妻は大邱の出身ですが、北朝鮮からサハリンへ漁業のために派遣された労働者でした。バザールでジャガイモなどを売って、1人で暮らしをしています。
 日本が私たちを異国へ連れて行ったのだから、残っている人たちが早く帰れるように、何とかしてほしいです。

辛 相根(シン・サングン)----------------------
 1918年生まれ 1990年1月14日、ソ連サハリン州ホルムスク市より、妻の李 達任(イ・ダリム)と共に永住帰国  韓国国慶尚南道固城(コソン)郡在住

 私が「徴用」されたのは、21歳の時です。面(村)長から行くようにと、直接いわれました。父がいないので、私が「行きたくない」といったら、面の役人3人に、棒で力いっぱい殴られました。
 同じ郡からの66人が、馬山(マサン)までトラックに乗せられ、釜山(プサン)までは汽車で運ばれました。期限の2年が過ぎて帰って来たら、復讐してやるという気持ちで、頭に包帯を巻いたまま、サハリンへ行っのです。
 着いたら、渡辺組のタコ部屋入れられて、馬群潭で道路工事をさせられました。
 戦争が終わってからは、ホルムスクで建築を、港で荷物運びや、道路建設をしたりしていました。
 その頃、今の妻と一緒になりました。子どもはいません。韓国に残して来た妻は、私を7年待ってから再婚したそうです。
 韓国に帰ることを考えて、今まで2人とも不利益を承知で、無国籍を通してきました。この事でずいぶん厭味や北朝鮮かソ連の国籍を取るようにいわれました。
 釜山に着いた時は、何ともいえない気分でした。死ぬのは韓国でと、思っていたからです。いくらソ連で年金を貰えても、やはり自分の国で暮らす方が良いと思います。

鄭 然寿(チョン・ヨンス)----------------------
 1915年6月20日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住

 親戚の人に「徴用」が来たのですが、私は農業をしていたけど貧しかったので、金儲けができると思い代わったんです。その時、私は29歳で子どもが3人いました。
 国後島では、テント生活をしながら飛行場と塹壕建設をしました。それから、樺太の川上炭鉱へと回されましたが、契約の2年が過ぎたのに、そのまま働かされたんです。
 食事は1日4回、玄米を茶碗に1杯だけで、おかずもありませんでした。いつも空腹をかかえていました。タコ部屋に入れられてしまい、働いたお金も実際に見た事はありませんでした。すべて朝鮮に送っていると聞いていました。家族からの手紙も届きませんでした。
 戦後すぐに、一度だけ韓国から便りがありました。返事を出したのですが、その後、手紙が来ることはありませんでした。南北での戦争が始まって、連絡を取り合うのはあきらめました。

 この世でひとりぼっちになったと思い、ロシア人の女性と結婚しました。結婚は正式なものではありませんでした。この妻がものすごい酒飲みで、働いたお金をすべて使ってしまったのです。隠しておいても見つけ出して、酒に替えてしまいました。子供は女の子が1人生まれました。
 韓国に残した妻と3人の子どもたちは、私が韓国を出た日を命日にして10年間法事をしたそうですよ。私の近所に住んでいた人が韓国に行って、釜山にいる長男に会ってわかったのです。ここで再婚したロシア人の妻は亡くなってしまい、一人娘は永住帰国してもいいといってくれています。

朱 玉姫(チュ・オッキ)-----------------------
 1926年12月28日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ポロナイスク市在住

 終戦の時は、東海岸の国境近くの遠内に住んでいました。子供を背負って逃げ、敷香に着いたら、街は火の海でした。憲兵の車に乗せてもらい、内路まで行き、列車に乗ったのです。
 その時、乗っていた男を、憲兵が銃で頭を叩いて降ろしてしまいました。日本人が「朝鮮人のために戦争に負けたから降ろせ」と言ったので、朝鮮人も次々と降りてしまったんです。
 豊原に着いて敷香からの組に入って、お寺に泊まりました。その晩にソ連の空襲がありました。ここでも、「ここには半島人がいるから殺さなければならない」という、日本人がいたんです。

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