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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ツイッターは HAYASHISYUNREI

曽根製造所-毒ガス充填施設工員の証言

2011年02月25日 | 国際・政治
 曽根製造所で、砲弾に毒ガスを充填するなどの作業をした元工員たちは、「今、自分が日々苦しんでいる病気や、かつての同僚たちの死が、毒ガスと結びついているとは、想像もしなかった」という。そして、「何もいわなかった私たちも落度があるが、国も私たちに何も教えてくれなかった」というのである。
 忠海(大久野島で働いた人たち)では、みんな医療手帳をもらっていると聞いて驚き、補償を要求すると、厚生省の担当者は「曽根製造所で毒ガスを扱っていたという記録はありません」と拒否し、3つの証拠が必要であるとされたという。まず曽根製造所で確かに毒ガスを充填したという「歴史的証拠」。二つ目は曽根製造所で働いていたという「雇用関係を示す証拠」。三つ目は毒ガス障害についての「医学的証拠」である。
 本来これは国が調べるべきことだろうと思うが、国が調べないので、関係者は救済制度の適用を受けるまで、大変な苦労を強いられたのである。証拠隠滅をはかり、戦争責任を回避しようとした旧軍関係者の姿勢が、戦後に受け継がれた結果ではないかと考えざるを得ない。「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)からの抜粋である。
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            第3章 もうひとつの毒ガス工場

 (1)忘れられた毒ガス障害者

 44年目の証言

 「私たちは国の恥になることはいってはならないという風潮のなかで、戦後を生きてきました。でも、大久野島の工員たちが医療手当がもらえて、私たちがもらえないのはおかしい。このまま黙っていては運動はできません。」(朝日新聞西日本本社版1989年8月13日)

 1989年の夏、北九州市小倉南区にあった兵器工場で働いていた男女300人が、国に補償を求めて互助組織を発足させた。戦時中旧陸軍の毒ガス充填施設であった東京第2陸軍造兵廠曽根製造所(以下、曽根製造所)の従業員たちである。
 戦後44年目にして、初めて名乗りをあげた彼らの行動は、歴史の闇に埋もれようとしていた「もうひとつの毒ガス工場」の存在を再び浮かびあがらせることになった。


 曽根製造所。それは旧陸軍の毒ガス戦遂行のために、なくてはならない施設だった。
 1937年10月、日中戦争が始まった年に開設され、終戦までに約150万発もの毒ガス弾が製造された。大久野島で製造された毒ガスのほとんどが、関門海峡を渡って運び込まれ、加農砲、軽迫撃砲、野砲、山砲などの砲弾に充填された。製造された膨大な数の毒ガス弾は、旧日本軍の制式兵器として海を越え、前線に送られていったのである。


 曽根製造所には最大時、約1000人の従業員が働いていたという。毒ガス弾の製造に関わった多くの人が、戦後も後遺症に苦しみ続けることになった。大久野島と同じ状況が、ここでも起こっていたのである。
 歩くだけで肩で息をする、体がだるくてたまらない、いつも何かが咽喉につまったよう、咳が止まらなくて苦しい……。
 結成されたばかりの「曽根毒ガス障害者互助会」の会合で、会員たちが堰を切ったように健康の悩みをぶちまけた。気管支炎など呼吸器系の病気や、肺、心臓などを患う人が多く、工員仲間が次々と亡くなっていくことに、不安と恐れを抱いていた。

 「曽根製造所にいたころは、みんな若かったし、ガスがどのくらい危ないか知らなかった。戦後工員たちが上司に会っても、しゃべっちゃいけんよ、しゃべっちゃいけんよ、と言われていた。今になってみればそれがかえっていけなかったんですね」
 会員の吉岡多鶴子さんはそう語っている。(同前)
 大久野島の毒ガス障害者たちが、戦後早い時期に国への補償を求めて立ち上がったのに比べ、曽根の障害者たちはあまりにも対照的だった。
 なぜ彼らは44年も沈黙を守り続けていたのか。国からなんの補償もないまま、見捨てられたも同然の長い歳月をどんな気持ちで過ごしてきたのか。戦時中彼らは曽根製造所でどのような仕事をしていたのか。
 いくつもの疑問を抱いて、私は現地を訪ねたのだった。



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大久野島 毒ガス工場へ「青紙」の徴用令状

2011年02月22日 | 国際・政治
 毒ガスが制式化(軍が兵器として正式に採用を決定)されると、大久野島の毒ガス工場は大量生産体制に入る。
 制式化された毒ガスは、その種類によって「きい1号」(イペリット)「きい2号」(ルイサイト)「あか1号」(ジフェニール・シアンアルシン)「ちゃ1号」(青酸ガス)「みどり1号」(塩化アセトフェノン)などの秘匿名でよばれ、砲弾などにもこれらの色の帯をつけて、その内容物が識別できるようになっていた。
 イペリットは「毒ガスの王様」として知られ、ベルギーのイーペルでドイツ軍が最初に使用したためこの名がついたという。からしのようなにおいがあることからマスタードガスの別名をもつものである。
 ルイサイトは第1次大戦中にアメリカで開発され、研究にあたったルイス大佐の名をとってルイサイトと呼ばれるようになったが、「死の露」と恐れられた毒ガスである。
 「ちゃ」の青酸ガスは日本軍が、後期に最も研究に重点を置いた毒ガスで、対戦車用にガラス容器に入れて使われた。それは「ちゃ」を入れた「瓶」の「ちゃ瓶」を縮めて「ちび」と呼ばた。
 「あか」はくしゃみ性ないし嘔吐性の毒ガスで中国の戦場で多用されたものである。
 「みどり」は現在もデモ隊などに対して使われる催涙ガスである。
 ここでは「毒ガス島からの告発ー隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)から、「青紙」の徴用令状を受けり、毒ガスのにおいが漂う大久野島の工場の中で危険な作業に取り組んだ徴用工の証言の部分を抜粋する。
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Ⅰ 大久野島

 第2章 毒ガス工場最盛期

 青紙の青春

 24時間態勢で毒ガスの生産が続いた大久野島で、工員らはどんな思いで生産に従事し、人生にどう影響したのか、希望入所ではなく国家総動員法の徴用令状により、ほとんどが16-17歳という未成年のまま、強制的に大久野島行かされた徴用者。「赤紙」といわれた軍隊への召集令状に相応する徴用令状「青紙」を受けとり、大久野島行きを命令されたことに対する恨みは、後遺症の進行とともに深まる。「徴用工は大久野島では消耗品同然だった」「徴用名簿をつくった人間がわかれば、いまでも告訴してやりたい」元徴用者からは、こうした怒りの言葉が飛び出す。元徴用者3人に、大久野島での青春とその後を聞いた。


▽上田春海さん(69)=広島市安佐北区=

 ・・・(略)

▽小野政男さん(70)=広島市中区十日市町=

 「大久野島での徴用期間となった1年半の間、ずっとルイサイト工場で働いた。工場から屋外に出たら、からし臭とも何とも表現しがたいルイサイト特有のにおいがしたため、調べてみると、工場内で帽子にルイサイトがわずかに付着したことがわかったことがある。すぐに医務室に行ったが、『手当はできない。手当ができるようでは兵器ではない』と軍医にいわれた。2時間後、頭痛がはじまり、三日三晩にわたり七転八倒した。かなづちで頭を殴られ続けているような痛みだった。綿の帽子に浸透したルイサイトが、ほんのちょっとだけ頭に触れただけなのに、こんな激しい痛みに襲われ、初めて自分がつくっている毒ガスの恐ろしさを知った。
 当時、悪いものをつくっているんだな、という意識はあった。毒ガスが国際法違反ということも知っていた。
 私たち徴用工だけでなく、希望して入った一般工員も自由に辞めることができなかった。半強制的な労働だったと思う。徴用工は寮生活だったが、一般工員も長く休むと憲兵が家を訪ねることもあった。
 大久野島で働いた後、軍隊に行ったが、とにかく体が疲れやすくなっていた。戦後、気管支や臓器もやられ、坂をのぼるのもしんどかった。そこで無理をした人間は大勢、死んでしまった。体は言えんぐらい悪い。
 戦中、写真屋で働いていた際に徴用され、戦後も写真館の仕事を続けた。」


▽山崎一男さん(69)=広島市南区北大河町=

 「入所して1週間、軍事訓練を受けた後、『あか筒』に配属され、箱詰め作業をした。作業部屋に入っただけでも目やのどが痛んだ。
 徴用者のなかに一人だけ妻帯者がいた。この人がある日、故意に裁断機で小指を切り落とした。軍法会議にかけられたまま消息はわからずいまでも気がかりだ。
 あの頃は、命ぜられるまま国のために毒ガスをつくった。日本軍を勝利に導くものと信じていた。いまから思うと、一枚の青紙で人生がすっかり変わってしまった。
 当時、楽しみといえば、仕事帰りに忠海にあったうどん屋で食べること。育ちざかりだったので、与えられた食事だけでは足りなかった。軍事将棋に『毒ガス』と書かれた駒があったね。」


 こうして大久野島でつくられた毒ガスは、砲弾類以外の「あか筒」「みどり筒」「みどり棒」などは島内で充てん作業が行われた後、戦地へ送られ、弾丸などへのてん実が必要な「きい」などの砲弾類用の毒ガスは、てん実工場の福岡県・曽根兵器製造所へ50キロ、100キロの鉄製専用容器などを使って運ばれた後、戦地へ送られた。また「きい」「ちゃ」などの毒ガスが、原液のまま直接中国へ送られることもあり、輸送には鉄道と船が使われた。


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毒ガスの島-地図から消された島-大久野島

2011年02月21日 | 国際・政治
 1929年(昭和4年)5月19日、 広島県竹原市忠海町から沖合いおよそ3キロメートルの瀬戸内海に浮かぶ大久野島で「陸軍造兵廠火工廠忠海兵器製造所」の開所式が行われた。極秘の毒ガス製造基地のスタートである。そして、大久野島での毒ガスの製造は、様々な悲劇を生んだ。それは兵器として使われたための悲劇に止まらなかった。
 毒ガスを作るための原料産出鉱山労働者などを「砒素中毒」にした。また原料の「亜砒酸」の輸送にあたった海運業者も、砒素中毒の症状に苦しんでいる。もちろん、大久野島で直接毒ガスの製造に当たった工員はもとより、大久野島で働いた人のほとんどが何らかのかたちで被毒し、生涯苦しむこととなったことはいうまでもない。また、大久野島で製造された毒ガスや化学兵器を荷造りしたり、発送したり、保管したりした旧広島陸軍兵器補給廠忠海分廠の関係者も被毒している。さらに、大久野島で製造された毒ガスを砲弾や爆弾に装填する作業をしていた北九州市の「東京第2陸軍造兵廠曽根製造所」の関係者も毒ガスに汚染され、同じように毒ガスのために慢性気管支炎などで生涯苦しむことになった。戦後毒ガスの廃棄にあたった帝人三原工場の従業員までもが被毒したという。作業中の様々な事故による死者も、関係各所で発生した。広島大学医学部第二内科研究室には被毒者の医療データが集められているという。「毒ガス島からの告発 隠されてきたヒロシマ」辰巳知司(日本評論社)によると、1991年度時点でその数は6589人である。また、慢性気管支炎とともに、被毒者を苦しめるもう一つの病に「がん」がある。被毒者の発がん率は異常に高いのである。

 中国では、毒ガスの遺棄弾による被害が跡を絶たず、今なお、多くの問題を抱えて、遺棄弾に悩まされ続けているのである。

 したがって毒ガス兵器の製造は、関係者の多くを生涯苦しめる悲劇を生んだだけではなく、現在なお新しい悲劇を生み出し続けていることを忘れてはならないと思う。日本が毒ガスの製造を開始した当時、すでにジュネーブ議定書が調印され毒ガス兵器や生物兵器の使用は禁止されていた。国際法違反を承知で製造が始まったといえる。製造は当然極秘裏に進められた。大久野島の工員は、毒ガス工場について、家族を含めて一切口外しないことを誓約させられていたし、憲兵の監視も厳しく、大久野島をのぞむ忠海の海岸線を走る呉線の列車内では、海側のよろい戸を閉め、見ることさえ許されなかったという。そうした極秘の製造と敗戦前後の証拠の隠滅は、戦後の毒ガス被害者の救済にも様々な困難を残すことになった。
 下記は「毒ガスの島 大久野島悪夢の痕跡」中国新聞社(阿座上俊英・岩崎誠・北村浩司)から、毒ガス製造の概要を記述した部分のみを抜粋したものである。
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               第1章 悪夢の痕跡

旧日本軍と毒ガス 日中戦争から生産量が急増

 大久野島で製造したのは5種類の毒ガス。びらん性のイペリット(きい1号)とルイサイト(きい2号)、くしゃみ性のジフェニール・シアンアルシン(あか1号)、青酸ガス(ちゃ1号)、催涙性の塩化アセトフェノン(みどり1号)で、1931-37年までに陸軍が相次いで制式化(兵器として認定)した。
 中でも「毒ガスの王様」と呼ばれたイペリットについては、ドイツ式製法の「甲」、フランス式の「乙」に加え、ソ連や中国東北部など寒冷地での毒ガス戦に備えた不凍性の「丙」も、独自に開発された。

 中央大学商学部吉見義明教授(日本現代史)は、旧日本軍の毒ガスについて海外資料などから研究を続けている。米国で入手した終戦直後の米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などを分析し、大久野島での毒ガス生産量をの全容を初めて突き止め、94年夏、専門誌「戦争責任研究」で発表した。

 それによると、敗戦時までの毒ガスの総生産量は6616トン。日中戦争が始まる37年から急増し、41年には総生産量の4分の1に当たる1579トンに達した。日中戦争で最も多く実戦使用されたジフェニール・シアンアルシンは、日中戦争開戦翌年の38年、実に前年の10倍に当たる310トンを製造を製造。大久野島ではこうした毒ガスを使った13種類の化学兵器も製造しており、中国に大量に持ち込まれた「あか筒」の生産は265万発になることも分かった。これを含め、陸軍の毒ガス弾の総量は739万発にのぼっていた。


 毒ガスを日本が最初に使ったのは、30年、台湾の先住民たちが起こした暴動「霧社事件」の鎮圧の際と言われる。やがて大久野島での毒ガス製造の本格化に伴い、陸軍の毒ガス戦に向けた組織づくりも進んだ。33年には化学戦教育にあたる「習志野学校」が発足、死者も出た危険な演習で養成された約1万人の化学将校、下士官たちは、日中戦争での毒ガス実戦の中心になった。

 39年には中国東北部を支配した関東軍に516部隊と呼ばれる化学部隊が設けられ、細菌戦を展開する731部隊などとともに、大久野島から送られた毒ガスの人体実験を中国人に対し行った、とされている。
  
 国内でも毒ガス戦の準備は進められ、各地の陸軍部隊にも配備された。市民の防毒訓練も広島市、呉市などでひんぱんに実施された。戦争末期には陸軍は各地の師団司令部に「制毒隊」を組織、米軍が上陸した際の「本土決戦」の毒ガス戦に備えた。第5師団司令部のあった広島市中区の広島城にも極秘に制毒隊が設置されていた。当時の制毒隊長だった広島市中区の元会社役員、富田実さん(75)は「被爆直前まで、長門市の仙崎港米軍を迎え撃つ作戦を練った」と証言する。

 大久野島で、終戦までこうした毒ガスの製造を支えたのは、一般工員や徴用工、忠海中、忠海高等女学校などの動員学徒、女子挺身隊員たちだった。
 その総数は判明しただけで約6600人。工場の稼働率の高まりとともに、島に林立する毒ガス工場群は屋外の窓ガラスまで原料の亜砒酸などで白く曇り、島の松も茶色く枯れた。風の弱い雨天には、島全体が有毒な排煙に包まれ、劣悪な労働条件は多くの毒ガス障害者を生み出していった。


 終戦後、大久野島で毒ガスの処理に当たった英連邦軍が、島とその周辺で確認した毒ガスの原液は3600トン余り。総生産量から差し引いた約3000トンが、戦地に送られたとみられる。中国政府が92年に国連へ提出した報告書では、中国に残る毒ガス遺棄弾は約200万発、毒性化学物質は約100トンにのぼり、ほとんど手つかずのまま遺棄されて、現在に至っている。


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霧社事件 日本軍の毒ガス実戦使用の開始

2011年02月18日 | 国際・政治
 第1次世界停戦でドイツ軍は大量の塩素ガスを使用した。およそ5000人の死者を出したという連合軍のイギリス・フランスは防毒マスクなどの装備を開発する一方で、同じように塩素ガスを毒ガス兵器として開発し使用した。それがエスカーレートし、2年あまり後にはドイツ軍が糜爛性猛毒ガスの「イペリット」を開発し使用した。1917年のことである。その1年あまり後には、イギリス・フランス両軍も防毒マスクでは防御困難なイペリットガスを開発し、実戦で使用している。その結果100万人をこえる死傷者を出したのである。第1次世界大戦終結後、これを教訓とし、化学兵器の使用を抑制しようと、1925年、戦争における毒ガスや生物兵器などの使用禁止を定めたジュネーブ議定書(正式名称「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」) が調印された。

 しかしながら、日本では1929年、瀬戸内海の大久野島で兵器製造所が建設され開所式が行われている。密かに戦時国際法違反の毒ガス製造が始まったのである。そして翌年、実験段階にあった毒ガスが台湾において実戦使用された。当時台湾はすでに日本の統治下にあったため、国際連盟に訴えがあったけれども「国内問題」として調査がなされることはなかったようである。「悪夢の遺産 毒ガス
戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)
からの抜粋である。
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               第1章 毒ガス戦の幕開け

(3)毒ガス戦の暗い闇

 毒ガス使用は実験

 Kさん
(霧社事件鎮圧に出動した台湾飛行第8連隊第1中隊整備班長)の話しを聞いてから、霧社を訪れてからずっと抱いてきた謎が解けたように思えた。それはタイヤル族との戦いで日本軍は圧倒的優位な立場にあったにもかかわらず、なぜ毒ガスを使ったのかという点である。ジャングル地帯でのゲリラ戦に不慣れだった日本軍は、地形的な問題で、化学的攻撃方法=毒ガスを使う必要があった。そのことは当時の記録でも裏付けられていた。
 だが、私は、それだけの理由ではないとも考えていた。霧社での毒ガス使用は実験ではなかったのか。タイヤル族をモルモット代わりにしたのではないか。取材を通じて、そうした疑惑がだんだん大きくなっていったのである。


 「毒ガスを使ったと知って驚きましたか」という問いかけに、「別に驚きませんよ。当然くらいに思っとりました」とKさん。当時、日本軍の化学兵器が実用段階にあったことは常識だった、とかれは語った。
「私が兵隊にいく前だから、昭和3年ですよね。その頃には瀬戸内海の大久野島で毒ガスを作っていることは、たいていの者が知っていましたよ。さっきもいいましたが、日本のスパイに対する警戒がどれくらい甘かったか、ということですね。昭和4年では、もう台湾の飛行8連隊の連隊被服庫のなかに、ガスマスクがありました。みんなで、これが毒ガスのマスクじゃいうて、被ってね、これからこう……(ガスマスクをかぶる動作)。ガスマスクがありましたよ」


 日本軍の毒ガス研究・開発の歴史を調べてみると、確かに1927(昭和2)年には、すでに87式防毒面が制式化(軍が正式に採用したことを意味する)されていた。また、その翌年の夏には、台湾北部の新竹で、糜爛性のイペリットを使った毒ガス演習も行われている。(厚生省引揚援護局資料室 『本邦化学兵器技術史年表』)

 霧社事件の鎮圧で、唐突に毒ガス兵器が登場したわけではなく、実戦で使う準備が整い、使用の機会を待ち構えていたとき、霧社事件が起こった。そんなふうに考えられるのである。
 当時の記録にもこうした見方を裏付ける意見が記されている。そのひとつが台湾総督府警務局がまとめた霧社事件についての報告書にある「某官吏」の言葉だ。


 「霧社事件に軍隊の出動を見たるが僻地なる蕃地のこととて気候等の変化あり、且つ給与等行き届かざる為め出動部隊に対しては誠に気の毒なり。然れ共軍隊に執りては平素新兵器を執り幾多の訓練を重ねられ演習のみにては実際の効を知ることは能はざりしも、今回は現実に其の効果を試練せらるることにて誠に生きたる好試練なり」(前掲書『現代史資料22台湾』666ページ)

 新兵器の訓練をいくら重ねても、演習では実際の効果を知ることはできないが、霧社では現実にその効果を試すことができ、生きた好試練だった、というわけである。
 同じ記録には、「元蕃務警視加来倉太」という人の、「軍隊は此の機会に於て新兵器の実際的試験為さんとするが主たる目的なるべし」(同前644ページ)という意見も収録されていた。

 実験であったとの視点から日本軍の記録を読み直せば、いろいろな事実が浮かび上がってくる。
 毒ガスとともに新兵器とされた焼夷弾について、「焼夷弾ハ霧社事件ノ為態々試作セラレタルモノニシテ、効果大ナルモノノ如ク候故、是非共使用セラレ度意見ニ候」(日誌。11月10日)という、参謀長からの前線への電報。その使用の指導と効果を調べるために、陸軍科学研究所の担当者が現地入りしたこと。また、毒ガス弾についても「瓦斯弾(青酸及催涙弾)ノ効果試験ヲ為ス予定ナリ」という電文もあった。私はそれまで糜爛性ガスの使用についてばかりに気を奪われ、これらの電文が何を意味するのかを、深く考えていなかった。

 霧社事件鎮圧の指導にあたった服部兵次郎台湾軍参謀陸軍歩兵大佐は、「各方面とも特殊の地形特殊の対手だけに珍しい研究や経験が出来た用(ママ)であります」と記していた。毒ガス弾や焼夷弾だけでなく、第1次ハーグ条約で禁止されていたダムダム弾も、試験的に使われた。(戴国煇『台湾霧社事件──研究と資料』553ペ-ジ)
 
 実験目的で使用されたなら、必ず、その効果についての報告書が存在するはずだ。
 私は春山さんにアドバイスを求めた。ところが意外な事実を知らされた。
 霧社事件の『陣中日誌』の内容には、「戦闘詳報」と「機密作戦日誌」という二つの記録の存在が明らかにされている。これらの史料には、毒ガス使用の実態や効果について詳しく記されている可能性が高い。にも関わらず、どんなに探しても発見できないというのだ。
 私の頭には台湾大学の許教授がいった「日本側の証拠」という言葉がチラついて離れなかった。ふたつの史料の行方がわからないことが不可解に思えたのだ。



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霧社敵蕃討伐、「科学的攻撃法を顧慮せられたし!」

2011年02月11日 | 国際・政治
1、霧社事件で毒ガス弾が使われたという確証を求めて、様々な文書に当たり、現地に入って被害関係者に取材し、毒ガス弾の製造に当たったという工員をつぶさに訪ねて歩き、台湾飛行第八連隊第一中隊に配属されて霧社事件の鎮圧に出動したという軍関係者にまで話しを聞いて書かれた本がある。それは「悪夢の遺産 毒ガス戦の果てに ヒロシマ~台湾~中国」尾崎祈美子著 常石敬一解説(学陽書房)である。読み終えたとき”「敵」も「味方」も傷つけて”という言葉に深く同感せざるを得なかった。まさにその通りであると思う。その中から、台湾軍司令官と陸軍大臣(副官)のやりとりの部分を抜粋する。

2、また、「現代史資料(22)台湾2」編者山辺健太郎(みすす書房)から「台湾秘話 霧社の反乱・民衆側の証言」林えいだい(新評論)で取り上げられている”毒ガスを使用した「敵蕃(山地原住民)」討伐に関わる文書”を抜粋する。文書の中の敵兜(鉄兜)は防毒マスクのことであろうという。効果のなかった爆撃に関して「外部に対する発表は禁ずるものとす」などという文書や「敵蕃人」に取られた機関銃や小銃にかんする文書なども、当時の状況をよく物語るものとして、追加抜粋した。

3、さらに、下段は毒ガス使用を非難追求する台湾民衆党の動きに関する警務局の文書(「霧社蕃人騒擾事件経過」)の中の一部である。同じく「現代史資料22 台湾2」からの抜粋であるが、毒ガスの使用が、かなり広く話題になっていたことが分かる。

1「悪夢の遺産」から-------------------------
                第一章 毒ガス戦の幕開け

 (1) 台湾・霧社事件

 「暗号ヲ以テセラレ度」


 ・・・
 そういって、彼は(春山明哲-国会図書館勤務)ガリ版刷りの紙を出した。
「これが研究会で発表したレジュメです。霧社事件の陣中日誌や憲兵隊の電文などから、毒ガス使用に関係した記述を抜き出したものがこちらです」
 そこには毒ガスをめぐる当時のやりとりが、A4用紙4,5枚にわたって、細かい字でびっしりと書き込まれていた。
 こうした記録から、催涙ガスと青酸ガスが使われたことまでは確認できるという。
「ただ致死性の糜爛ガスが使われたかどうかは不明なのです。ちょっとここの所を見てください」

「申請
 反徒ノ退避地区ハ断崖ヲ有スル森林地帯ナルニ鑑ミ、
糜爛性投下弾及山砲弾ヲ使シ(ママ)度至急其交付ヲ希望ス」<昭和5年11月3日陸軍大臣宛 台湾軍司令官発>(「霧社事件関係書類綴」)

 台湾軍司令官から東京の陸軍大臣へあてられたその電文の内容は、糜爛性投下弾、つまりマスタードガスを至急送れというものだった。
「この申請にたいする返事が、これなんですが、……」
春山さんの指先を目で追いながら、私はハッとした。


 「糜爛性弾薬ノ使用ハ対外的其他ノ関係上詮議セラレス将来瓦斯弾ニ関スル事項ハ暗号ヲ以テセラレ度」(昭和5年11月5日台湾軍参謀長宛 副官発)(同前)

「つまり糜爛性ガスについては国際問題になるから、この先は暗号でやりとりしようといっているわけですね」
春山さんは大きくうなずいた。


「現代史資料(22)台湾2」から---------------------
                 23 反乱の状態

 ・・・
 第175号 
  昭和5年11月2日午後2時20分受
                               台中州知事
総督宛  
      軍隊よりの報告左の通御参考迄
一、戦闘に依る死傷者は悉くそれを運び去るを蕃人の風習とするを以て一日迄の   托送及彼我射撃による敵の損害は詳細不明なるも目撃するもののみにても
   尠くも70~80名を下らざるが如し。
二、2日敵蕃に対し焼討を行ふ企図を有するも焼討攻撃爆撃等を以てしては地形
   上不徹底の虞れあるを以て 
エーテエテリツホスゲン等を以てする科学的攻
   撃法をも顧慮せられたし。

三、
敵兜(鉄兜)500、擲弾筒、甲手榴弾又は其の代用品800、照明弾至急送られ
   たし、為し得れば歩兵約一大隊(鉄兜共)増員望む。
四、司令部主計の配慮を乞ふ


第482号
    11月18日午後6時25分受
                               桂警部
総務局長宛
 川西部隊は「タウツア」及「トロック」蕃人を率ゐ18日午前9時10分霧社を出発、
 正午石井部隊に到着せり。午後3時軍隊の攻撃終りたる以て同部隊は隊を二に
 分ち一隊は巡査5、警手9,公医1、「タウツア」蕃159名を部隊長これを率ゐ、石
 田部隊の前方森林地帯内の偵察に向ひ、他の一隊は巡査部長1,巡査5、警手
 16、「トロック」蕃人136名を香坂巡査部長引率、「マヘボ社」安達大隊占領地を
 出発し敵蕃の岩窟付近に接近し、催涙弾の効果を確かむべく同方面に向へり。
                                           以上


第486号(11月18日午後11時50分受)、
                              台中州知事 
総督宛  
       軍隊の情報
一、飛行隊は午前8時飛行を開始し、マヘボ渓の敵蕃に対し低空冒険飛行を敢行
  し多数の爆弾をマヘボ渓敵の根拠地に対し投下せり。
  午後は緑弾(甲一弾)の射撃効力を減殺するを虞れ飛行を禁止せしむ。
二、砲兵隊は早朝よりマヘボ渓谷岩窟に対し榴弾を猛射し、渓谷為に濛々たり。
  正午より約1時間
緑弾(甲一弾)百発を渓谷に向ひ集中し、其の威力を渓谷内
  に充満せしめたるに、第4岩窟付近に泣声を聞きたるのみにて現在地より之を
  探知し得ざるを以て蕃人を使用し之を偵察せしむ。右偵察の為タウツア、トロッ
  ク蕃約300名を午後2時頃マヘボ渓に進入せしめたるに、其の状況左の如し。

(1)其の蕃人は安達大隊占領地前方稜線より敵の根拠地たる岩窟(第4岩窟なら
  ん)に近付きたるに、岩窟前にある敵の歩哨発砲と共に敵蕃数名(人員明瞭な  らず)設備せる掩堡に拠り交戦せり。
(2)両蕃中勇敢なる者更に近付きたるに、臭気甚しく且涙を催したるにより渓水を飲
  みたるに其の効力を失ひたるにより更に猛烈なるものに非ざれば効力無しとい
  ふ。如此敵は歩哨を配置し直ちに応戦するを以て、蕃人のみにては攻撃不可
  能なれば軍隊を更に前方に進められたしといふ。(軍隊を進めることは殊に引
  継当時なる関係上不可能にして、又山砲射撃に両岸に妨げられ命中せず、依
  て歩兵を使用することとせり、又旧松井大隊より接近不可能なるものの如し。)
三、午後2時頃緑弾射撃終了後、焼夷弾約10発を森林に向け射撃せるも全く其
  の効無きを以て、将来に於て之が使用を中止することとせり。
四、飛行隊は21日頃計画により撤退する如く命令せり。



第675号(11月26日午後6時40分受)
                              台中州知事
総督宛
     軍隊の情報
  本日午前9時半より同11時迄の間に於てマヘボ渓左岸及元安達大隊占領地
 上方密林に対し飛行機より焼夷弾12発を投下せり。其の状況左の如し。
                       記
 投下と同時に白煙300程上り約30分発火し居るも延焼せず。効果大ならず。
外部に対する発表は禁ずるものとす。


11月24日午前11時24分受
                              坂口警視
警務局長宛
  軍隊に於ては撤退をひかへ曩に
敵蕃人に取られたる機関銃並に小銃の奪還
 に焦慮し
、憲兵分隊長自ら最前線にて警察に対して内密に捕虜蕃人を操縦し居
 るも到底見込なき模様。


号外(昭和5年11月27日午後9時受)
                              坂口警視
警務局長宛
  予て陸軍より依頼を受けたる機関銃発見に出て向へたる石田部隊の捕虜蕃丁
 4名蕃婦1名は27日午後4時該銃1挺を蕃称リヒンカヲタツセル(岩窟の淵)より
 拾得、石田部隊に帰来せり。


号外昭和5年11月27日午後10時20分受
                              台中州知事
総督宛
               機関銃に関する件
  11月27日石田部隊所在地滞留し居る憲兵は捕虜蕃人アウイパワン、同ワビ
 コワン、同タダオパワン、同タワンキグイ、同マヘンモーナ及憲兵隊通訳ワイスバ
 タン、同パラハカコンの7名をして午前6時出発せしめ、蕃称リジンガオタツセル
 岩窟の淵にモーナの長男のタダオモーナが投入せる機関銃1台を拾得、午後4
 時石田部隊に着するや
人目を避けて憲兵隊の小屋に該銃を納めたり


11月28日午前1時40分受
                              坂口警視
警務局長宛
  27日マヘボ岩窟の淵より捕虜蕃人の持帰りたる機関銃は11年式1418号な
 り


号外(11月30日午前9時受)
                            霧社森田理蕃課長
警務局長殿
  軍隊に於て敵に奪われたる残一挺の機関銃捜査の為石田部隊にある憲兵3
 人は司令官の命令なりとて之が捜索、提供の
懸賞金的金数を捕虜蕃人に示し、
 或は蕃人蕃婦を集めて夜半迄飲酒する等今後警察に於ける捕虜の収容上支障
 なきやを保せず、注意を与え居れり。御参考迄。


3「現代史資料(22)台湾2」から--------------------
                 霧社蕃人騒擾事件経過
                                          警務局
5 原因に対する憶説、風評の
第2 左傾分子の策動
(ハ)台湾民衆党の策動
  台湾民衆党は、11月5日内閣総理大臣、拓務大臣、陸軍大臣宛左の如き無
 根の電報を発送せり(本電報は通信部に於て、公安に害あるものとして差し止め
 たりと)。
  「今回蕃人に対し
国際間に使用禁止せる毒瓦斯を以て攻撃せり、非人道の行
 為なり
、    台湾民衆党」
 本件は一時新聞紙に誤報せられたるを根拠として軽率にも此の挙に出てたるも
 のなり。


 ・・・

第3 流言蜚語

 (ハ)民衆党幹部蒋渭水の常備車夫林宝財は11月4日午前10時30分蒋渭水
   宅前掲示場に霧社事件に関する新聞記事を訳載したる掲示を見るべく蝟集し
   たる群衆に対し
「飛行機より毒瓦斯を投下するは不都合なり、新聞紙に発表
   を禁ずるも己に我が中国人も知り諸外国人も知悉せり、何れ国際問題となる
   べし」
と無根の流言を放ち検束せらる。

 ・・・

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霧社事件後 密かに「保護蕃(投降してきた蜂起蕃)」を処刑

2011年02月07日 | 国際・政治
 霧社事件が、日本の台湾統治政策(特に山地原住民に対する理蕃政策)によって、あらゆる権限を与えられた現地駐在所の巡査の多くが、山地原住民の生活を無視し、人間扱いすることなく、様々な命令を発したために引き起こされたことは、山地原住民の訴えはもちろん、当時拓務省が派遣した生駒管理局長による調査報告書(政府極秘文書)によっても明らかである。にもかかわらず、理蕃警察と台湾軍は何ら法的手続きを経ることなく討伐隊を組織し、圧倒的な武力(毒ガスも使用)を用いて「敵蕃(蜂起した山地原住民)」の皆殺し討伐を敢行するとともに、敵蕃の首に賞金をかけて「味方蕃(蜂起しなかった山地原住民)」を利用し討伐に協力させた。
 さらに、味方蕃を嗾けて第二霧社事件を引き起こし、「敵蕃」幼老男女216人の命を奪ったことは、小島源治巡査の告白により明らかである。
 また、「ハヤクコウサンスルモノハコロサナイ」などと投降を呼びかけておきながら、投降してきた敵蕃壮丁を、密かに処刑した事実も明らかにされている。これらは、山地原住民の側からみれば、まさに悪魔の如き所業である。
 明治31年在台の官民有志が「蕃人」に関する研究のために「蕃情研究会」を設けたが、同組織を主催した持地氏は「生蕃は社会学上から見ると人間なれども国際法から見れば動物の如きなり」と語ったと言う。そうした歪んだ日本人の考え方によって、台湾の山地原住民が繰り返し残酷な仕打ちを受けたことを忘れてはならないと思う。 
 「回生録」の一部は訳者の解説・修正文にしたが、その他は「霧社緋桜の狂い咲き-虐殺事件生き残りの証言」ピホワリス(高 永清)著-加藤 実編訳(教文館)からそのまま抜粋した。(密かに処刑された山地原住民の人数が(30)と下段の「回生録」で異なっている理由不明)
---------------------------------
(30)日本官憲の仇憤感尚止まず
日本官憲は暗にタウツア社の者を扇動して 多数の 第二ム社事件を起こして 多数の無辜の人々を殺傷したにも不拘 尚 仇憤心止まず知らぬ振りをして昭和五年10月27日の兇行嫌疑者を調したパーラン社のローバオクルフが石川源六巡査部長に提供した密告 樺沢警部補の甘いい(ママ)誘導等に依って 次々と犯罪人の名簿が出来た 昭和6年10月15日 帰順式をやると詐って 川中島の成年男女みんな埔里まで連れて行き 婦女は2台のバスに乗せて埔里の街中をアチコチ走らせて観光と言った
成年男子は警察課の集会場に入れて坐はらせた 警戒の網が周囲にはられた すなわち着剣に実弾を入れ込んだ巡査が周囲をげん重に囲んだ 脱走を未然に防止するためであったと思ふ


先ず三輪警務部長が一場の訓示があった 彼曰く 「お前達は敵だった(反乱人)が 今日帰順式を行ふ 今日からは 又善良な大日本帝国国民となれる 只今名前を呼ぶから呼ばれた人は立て」と指示した 私達は静聴して坐ってゐた
次々と32人(如後頁)が呼ばれた 一人呼ぶ毎に2人の巡査が両側に依って腕をつかまへて留置場(拘留所)に入れた 同じ日同じ時間 にパーラン社でも家長会と青年会を併せて開会すると云ってパーラン社 カッツク社 タナカン社の成年男子をム社分室前の集会場に呼んだ ところが何もない分室主任高井九平の一場の訓示があった後 之又次々と名前を呼んで 16人留置場に入れた(後頁列名)


埔里でもム社でも入れられた人々の衣服は直ぐ脱いで 在場の代表人に渡して持たして帰へした 官吏曰く「留置された者はまだ少し用件がある 用件終り次第すぐ環へす」と 併し二度と此の世の人となって来なかった。只ピホサッポ一人だけ 埔里の死刑場からすきを見て丸はだかで故郷まで逃げて帰へったが 逮捕すべく官憲は待ってゐたし 又民にも捕まえて出すことを厳命してゐたので、家まで帰へることが出来ず 山の中で1ヶ月くらい生活した後 糧食拾いのためロルツオケダンと云ふ水田で糧食を探してゐるのを万大の人に見付けられて 逃げようとしたところを銃殺された
 
尚同じ日に(10月15日)万大のサッポカハをも逮捕の名簿に入れてゐたのを 万大駐在所勤務の日本人友人(サッポカハは万大駐在所勤務の台中州警手であった)から山へ行くことをすすめられて 不在にしてゐたために逮捕することが出来ず 後日逮捕する予定のところ彼サッポは其のまま事情を知って 永久に山から出て来なかった 官憲の指令に依って 捕へて役所(ム社分室)に差出すやうに探したところが万大蕃は既に川中島の帰順式 パーラン社 カッツク社 タカナン社の家長会 青年会のニュースを聞いていたので 反対に山へ行ってサッポカハの糧食をだまって提供して行った数ヶ月后 いよいよ見込みがないと知った彼サッポカハの親戚は 山の中の自殺をススメた サッポは 19年式修正村田銃の引金に足指をかけて引弾自殺をとげた
万大蕃人は自殺死体の発見を政府に報告して 事の成行きを約束した
 

(31)サッポカハ其の人
サッポカハは昭和5年10月27日 政府(駐在所)の傭(ママ)人であり乍ら 真先に運動場に来て歓迎門の下で州嘱託菅野政衛の首を切て頭を地上に落とした人であり 帰へて知らぬふりでまじめに勤務してゐた 其の中に 同僚日人の中に友誼に深い人に出会って 昭和6年10月15日に逮捕されることを1日前に知らされたので 15日山へ待避して不在をした。友情に深い同僚日人も知らぬふりをして 上官に不在と報告したと云ふ


(32)逮捕された人々は何故一人も帰へって来ないム社で逮捕した16人は 夜になって闇の中に埔里の警察課留置場に押送された法律裁判もないで殺害された 食べさせる御飯を倹約したのか 或は仇の意味で殺したのか はっきりしない 後で私は乙種巡査1年をやったその机(機)会に 川中島駐在所の須知簿と云ふ最高机(機)密の帳簿を見ることが出来て 私は何げなしに読んで見た そうしたら中の記載は 川中島の歴史とか頭目 勢力者 不良青壮年等人の人となりや色々と重要なことが書いてあった
中でも 埔里で逮捕された32人のことも書いてあった 皆 同じくない日に腸炎とかマラリア 肺炎で何時獄死したと書いてあったが  事実はそうではない 埔里の梅仔脚と言ふ処に 日本人の共同墓地があった 其の付近に水田を持ってゐた平地人のお話に聞くと 約1週間通行止めの命令があった と


異常なことだから 夜になると黙って其の付近をうろついて歩いた 其の時 墓地の中で オ母さんと叫ぶ異様な泣き声もきこえた 棒で人が人を打ってゐる音もきこえたから 其のまましずかに戻ったと云ふ 
それは日本人が 10月27日兇行の疑いがあると云ふ恨みで 日本刀で音が出ないように行動に付せられたものであると考へられるそれをうち(ママ)付ける本当の証拠が次の様であった。
須知簿の記載は皆儘造(思いの儘の捏造)であり騙しにしかすぎない


(32)尊敬する井上伊之助公医
当時眉原に井上伊之助と云ふ公医が居た 少坡趾(ビッコ)の人であったとおぼいてゐる 恐らく子供の時小児麻痺に患ったのかも知らない
 後にマレッパやアチコチのヘンピな処に勤務して 困ってゐる病人を助けた 私の妻オビンタダオがタッキスナウイの遺児アウイダッキスを産む時も 井上伊之助公医が眉原から川中島へ急ぎ足で来て 接生助産(取り上げ)をして下さったと云ふてゐる 私はまだタウツアの小島源治宅に寄食してゐたから分からない


 或る日 私は台湾の図書館で書籍をあさって読んでゐたら 突然 井上伊之助の故事(お話)が出てゐた 私は詳しく読んだ 只今 脳溢血のために頭も悪くなり おぼへも悪くなったので おぼへてゐない 記事に依れば 井上伊之助公医の父は 昔に巡査(ママ)として台湾の蕃人討伐に従事してゐるうちに 蕃人から殺されたと 彼は子供でお母さんと日本に置かれてゐた 此のニュースを耳にした彼は 台湾に人を殺すような野蕃な行為をする人がゐるとは びっくりした。

 是非共は 是正しないといかないと思って 自らキリスト教の信者になって台湾に渡り 伝道の力で野蛮人を開明にみちびきたいと思った ところが官憲は 神教(神道)以外の伝道を許可しなかった 思案に困った彼は 医術を習得して病気をなほす一方 うらで伝道したいと考へた 自ら山の中を撰んだが 矢張り官憲は許さない 仕方なく まじめに病気をなほす意味で山に勤務した 私が川中島に移住し時や 10月15日は まだ眉原に務めてゐた
 15日以后 何日かしてから 彼は警察課に出頭を課長から電話で会議に呼び出された 参加の結果は 皆警察のお偉いお方ばかりであった 会議を主催してゐる偉い人が 井上公医に向かって口を開いた「留置してゐる蕃人30余人を殺したいが 手前に人の薬はないか」と 彼はビックリして返事した「私は人を助ける為に台湾に来たのだ 殺す為に来たのではない」と言って 即坐に退席したと その功労と良心が戦後数年になってから やうやく追認されて 老死后勲五等を追賞されたと書いてあった 
之から追察すると 毒殺の計画は成功しないで 日本刀の首切りで殺したものと思ふ 何ちらが野蕃か私には判らない 大東亜戦争で川中島の青年も多数徴用されて 南方綫(線)で戦死した 人的資源に困った時 自分の考へることだけで自由に自分のよいようにしてゐる日本人 今尚 戦争に川中島の青年を徴用した 全く先知後(覚)に欠けてゐる(先見の明もなければ後で悔いて覚ることもできない)と見てよい 

---------------------------------
回生録  第壱冊・第二冊

◎抗日戦争は如何様の状況で進行し、何の様に結束したか?

5 日憲
(日本官憲の略?)は復仇に対して止まるところをしらない、第二次事件
  (第二霧社事件)
製造して又吾々同胞216人の貴い生命を奪った、川中島(清
  流)へ移住させて後内密的に10月27日に日人(日本人)を殺害した人々を調
  べ上げて翌6年(民国20年)10月15日帰順式を理由に吾々を川中島より埔里
  へ連れて行き一場の訓示を終へて又次の人々を逮捕して永遠に帰へさなかっ
  た。


 ・・・(32人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)

  霧社に於ては同日を利用してパーラン社頭目ワリスブニに対して家長会及青
  年会を召開すべく属下の壮丁を全部霧社分室に帯同すべく厳命を下した。ワリ
  スブニは何の疑いもなく命に従ってパーラン社(トンタナ チェッカー フーナツ)
  タナカン社、カアツック社壮丁を午前9時霧社分室に連れて行った、計らずも此
  の事は日警(日本警察?)の陥阱でった。会議当場以上の18名は逐一検呼の
  下に逮捕された、後日18名は埔里に送られて処刑されたと漢民族の口述より
  社会に流布された、処刑の場所は現在の電台中継所(梅仔脚共同墓地)と専
  らの噂である。
  日警方面に於ては、判刑の上拘留所で病死したと言ってゐるが当時拘留所犯
  粮食供給人の話に依ると、まさに虚構の詭弁である。


 ・・・(同様に18人の社別 姓名 性別 推定年齢 備註は省略)


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第二霧社事件の陰謀-小島源治巡査部長の告白

2011年02月01日 | 国際・政治
 台湾霧社において、理蕃政策に抗議し蜂起した山地原住民壮丁(ソウテイ)は、日本人だけではなく、漢民族や山地原住民も大勢が集まっている運動会場を襲い、女・子どもを含む134人の日本人を集中的に斬首するなどして虐殺した。総督府は直ちに台湾全島より警察官約1000名を動員して討伐隊を組織するととに、台湾軍にも出動を要請した。そして蜂起した山地原住民「皆殺し」の討伐に乗り出すが、討伐に手こずった日本側は、その際蜂起しなかった蛮人(山地原住民)を味方蛮として利用した。蜂起蛮(蜂起した蛮人で敵蛮・反抗蛮などとも呼ばれ、投降し保護されてからは保護蛮とも呼ばれた)の首に破格の賞金をかけた日本側の作戦によるこの同族同士の殺し合いが、第二霧社事件の悲劇へと発展するのであるが「昭和の大惨劇 霧社の血桜」江川博通(森永印刷)には、第二霧社事件を嗾けた小島源治巡査部長の告白文がある。下記、秘録タウツア蛮(味方蛮)保護蛮襲撃の動因の<>内がそれである。
 この本の著者「江川博通」は、当時の事件地を管轄する能高郡警察課長であったという。彼は同書の中で、「第二霧事件と筆者の感慨」と題して「また、飛行機は日に数回波状爆撃を敢行し、焼夷弾、催涙弾、爆弾投下を続行し、その都度家は焼け、巨木は裂け倒れ、人畜にも数十の死傷をだした。斯くの如くして、反抗蛮のせん滅を期したのであるが、かかる威力を有する討伐隊が、なお且つ、いわゆる味方蛮なるものを駆り立てて、彼ら間の怨恨仇敵感を一層増長深刻化せしめ、蛮地に不穏な空気を醸成せしむる必要があるであろうかとも思った。然るにはしなくも、この後者の戦術が第二霧社事件の主因となったのである。」と書いている。

※ 当時、台湾の山地原住民を蛮人(蕃人)とか生蕃と呼んでいた(また彼らの居住地は蕃地などと呼ばれた)が、差別的であるということで、その後、高砂族などと呼ばれるようになった。ただここでは著者の使った漢字(蛮)や言葉遣いに従った。
----------------------------------
                   第二霧社事件

 昭和6年4月25日、台湾台中州能高郡蕃地霧社地方において、昨秋の霧社事件の際我官憲に強力した、味方蛮中のタウツア蛮が保護蛮(霧社事件の反抗蛮にして、討伐中投降したる男女514名を収容保護中の者)を奇襲して、一挙に男女計190名を殺害し、その他縊死者19名行方不明者9名を出した。いわゆる第二霧社事件なるものがぼっ発した。

 ・・・(以下略)
----------------------------------
   秘録タウツア蛮保護蛮襲撃の動因

 私は昭和43年3月14日小島源治氏に対し、昨年9月受領した同氏よりの書簡中、理解し難い点があったので、質問状を書いたところ3月18日回答があった。それはタウツア蛮が、保護蛮を奇襲殺害したと伝聞した瞬間、私の脳裏に走った、もしかしたらと思ったものに対する回答でもあった。則ち次の通り書いてある。


 お手紙によれば、霧社事件のことを「霧社の血桜」という題名で、追想録を著作なされている由。私共33年も在住して本籍地同様の台湾霧社は、桜の名勝で観光地として有名であったが、今日では外国となり淋しさを感ずる破目に落ちたるものを追想されるとは、万感の思い出であります。歴史は幾多の犠牲的精神のこもった昔を振り返り、後生に伝えるべき当然の義務であります。宜敷御願い致します。───と前置きして筆を進めている

 <私が前に霧社事件について終始まで完結同然だと申したのは、同事件のあったことだけを差したのではなく、霧社事件、第二霧社事件にあったことに、思いを及ぼして書いたものであります。御承知の通り、第二霧社事件の原因は、敵蛮ボアルン社、マエボ社、ホーゴー社等の蛮人を桜駐在所附近に収容して、桜社と称し、保護したことに問題があるのです。霧社事件が片付き収容中の敵蛮が耕作農業を開始し、彼らが農作に従事しているところを、味方蛮が襲って馘首するので、官憲としては味方蛮に銃器を貸与しておいては不穏情勢は絶えないとして、味方蛮に貸与銃器弾薬の返納を勧告することとなり、三輪警務部長、宝蔵寺警察課長一行は、警察隊、機関銃隊2個小隊を率いて、タウツア駐在所に来て勧告しました。私がタウツア社頭目勢力者と話し合った結果の蛮情は、今貸与銃を取られたら、われわれは味方蛮として反抗蛮討伐の際、相当の犠牲を出している。敵意はこの後にある。われわれが埔里、または霧社に出入りする際マヘボ社、ボアルン社の蛮人から、何時なんどき殺されるか知れない。貸与銃を取り上げられることは、蟹が足をもぎ取られると同然であるから、平穏になるまで貸しておいてもらいたいとの陳情があった。宝蔵寺さんも困り三輪さんと打ち合わせた結果、本日は考えてみるということになった。タウツアは至難と見た一行は、トロック社を先にすることに変更した。

 このとき宝蔵寺課長は、密かに小島ちょっと来いと駐在所裏に回った。談合はいろいろあったが、詳細は抜きにして要点だけ述べると、極秘密裏に今夜中に、保護蛮を襲撃して鬱憤を晴らさせては如何か、そして其後で銃器全部を提供させるという、内容のものだった。依って小島は、警備員に秘密に駐在所を抜け出し、タウツア蛮頭目勢力者と会い、前記話の内容を示したところ、彼らは喜んで諾し、警備員にかくれて蛮社を出発し、途中警備配置のある道を避け山越えして、夜明前に桜社を襲撃した。タウツア蛮が保護蛮の首級101個を馘首したこと、ご存じと思います。駐在所では、私が職員、警備員にも極秘にしていたため、誰一人としてタウツア社の行動を知れる者なく、桜駐在所の樺沢警部補からの電話通報で始めて知って驚いた。

 トロック宿泊中の宝蔵寺課長の命令で、小島は事件阻止のため、巡査27名を引率して、現場桜社に向かった。途中首を取った者、負傷した者たちの帰社するのに出会った。彼らの中には、桜駐在所の日本人警察から、機関銃で射たれ酷い目に合った。機関銃さえなければと、くやしがる者もあった。現場に着きなお活躍中の者をやめさせ、これを伴い帰途についた。途中まで私を迎えに来た宝蔵寺課長は、私に対し密かに言った。「警察部長さんには蛮人の出草を少しも知らず、申訳ないとあやまって呉れ、それだけでよい。他のことはなにも言わないで、ただあやまれ」と申されたので、三輪さんには申訳ないの連発であった。然し、貸与銃引き揚げは直ちにやれと申されるので、午後1時ごろまでに弾薬並びに銃器一ちょうの残りもなく押収提出した。この事件でタウツア蛮丁は機関銃のため、死者1、負傷者5~6名を出した。

 官憲では、再度の襲撃を憂い極度に恐怖している生存保護蛮の、川中島移住を説得し、1週間も経たぬ間に移住せしめた。その後味方蛮へは、反抗蛮討伐の功績により、トロック蛮にマヘボ、ボアルン両社の耕地を与え、タウツア蛮にはホーゴー社の土地を分割して与え、一部をそれぞれの土地に移住させた。私に残された問題は、タウツア蛮が無断で保護蛮を襲撃した責任者として、不届のかどで罰俸処分を受け、警部補任官も昭和9年4月6日に延期され、昭和11年3月31日依願免官となった。これも、宝蔵寺さん、三輪警務部長さん、坂口警務部長さん、並びに総督府斎藤警部さん方の大変なお骨折りで、懲戒免職にもならず、今日田舎で恩給生活をしています。昔勤めた思い出の多い霧社は、永遠に忘れられません。

 この返事には、ロードフ収容保護蛮襲撃のことは書いていないが、前記馘首した101の首級は、スーク、ロードフ2カ所における合計である。ロードフ収容所襲撃部隊は、スーク襲撃隊と同時にタウツアを出発、文字通り胸突くような険路を、いわゆる草木も眠る丑満ごろ粛々として、蛮路を辿って攀ぢ登り立鷹に到達した。この辺一帯は標高2700メートル以上の連山で、この高地から一気にロードフに馳せ下り、源九郎義経の鵯越逆落としさながらの奇襲戦法で、本意を成し遂げたのである。かくてこの両所襲撃で大戦果を挙げた、タウツア蛮の会心の笑を面のあたりに見る心地がする。これが彼らの哀惜措く能わざる銃器弾薬を、断固全部提出をもたらしたる所以でもあり、また小島源治氏の言う、犠牲的精神発露の成果でもある。

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