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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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自民党憲法改正草案第21条、第54条、第56条、第63条、第66条、第72条の問題点を考える NO3

2021年05月28日 | 国際・政治

 オリンピック開催に向けて、菅政権はコロナの対策で突っ走っており、様々なところから戸惑いや驚き、批判の声があがり続けています。それは、安倍政権も同じでした。安倍前首相は昨年2月末、新型コロナウイルス感染症対策として、突然、全国の小中学校と高校、特別支援学校に臨時休校を要請し、3月には、感染防止策として布マスクの全戸配布を決定しています。きちんと専門家や現場の関係者、また、一般国民の声を聞くことなく独断的に決定されたために、あちこちから戸惑いや驚き、批判の声があがりました。当然だと思います。
 現在の日本では、「学校保健安全法」に、児童生徒の生命安全の保護と学校を感染ルートとする感染拡大防止を目的として「児童生徒の出席停止」(第19条)並びに「学校の全部又は一部の臨時休業」(第20条)の定めがあります。そして、前者は校長、後者は学校の設置者である教育委員会の権限に属するのです。
 だから、文部科学省は、安倍前首相が、全国の小中学校と高校、特別支援学校に臨時休校を要請する前に、「学校の卒業式・入学式等の開催に関する考え方について」で、「政府として一律の自粛要請を行うものではない」と断った上で、感染が発生している地域では学校の設置者において、実施方法の変更や延期などを含め、対応を検討するよう、事務連絡で求めていたといいます。(事務連絡 令和2年2月25日
 一時的にせよ、児童生徒の教育を受ける権利を制限することになるわけですから、地域や学校の感染状況を考慮し、学校の設置者に対応を検討するよう求めた文部省の対応が、通常の行政の対応だと思います。
 でも、安倍前首相は、そうした手続きを無視して、「緊急事態条項」先取りをするかのように、突然、全国一斉休校を要請したのです。そこで、文部科学省は再び「新型コロナウイルス感染症対策のための小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校等における一斉臨時休業について」(元文科初第1585号 令和2年2月28日)という文書を、各都道府県・指定都市教育委員会教育長その他に宛てて出したのです。その結果、どれほどの人たちが対応に苦慮することになったかは、改めていうまでもないと思います。
 感染者が一人も確認されていない地域にまで、休校を要請をした安倍前首相の、法や権利、地域や現場を考慮しない政治を、私は見逃すことができません。

 PCR検査体制などについても、WHOの提言を取り入れることなく、官邸主導で検査が抑制されることになったので、現在も新型コロナウイルスの感染が周辺国の中では、最も深刻な状態になっているのではないかと、私は思います。日本では変異ウィルスが広がり、収束が見通せないばかりでなく、治療を受けることが出来ず亡くなる人が続出しているからです。でも、高橋洋一内閣官房参与は、そういう日本国内の感染状況についてツイッターで『さざ波』などと表現し、批判を浴びました。私は、ある意味で正直な発言ではないかと思いました。それが、かつての戦争指導層の考え方を受け継いでいる自民党政権中枢の、人命や人権に対する感覚なのではないかと思ったのです。

 また、一昨日の新聞に、「教員免許更新制」の廃止の話が進んでいるとの記事がありました。しばらく前には、「大学入試共通テスト」での「英語民間試験の活用」と「国語・数学の記述式問題導入」見送り決定の見通しも示されていました。教育現場からは、その度に、戸惑いや驚きや批判の声があがっていました。それらも、専門家や現場の関係者、当事者の声等をきちんと聞かず突っ走る、官邸主導の政治がもたらした問題なのだと、私は思います。コロナ対策に限らないのです。

 そしてそれは、戦時中の実態把握や情勢分析を軽視し、現場の意向を無視した無謀な作戦とダブって見えるのです。インパール作戦をはじめ、あちこちで大勢の戦死者や餓死者を出した作戦の過ちを、自民党政権はくり返しているのではないか、と思うのです。 

 そうしたことを踏まえつつ、自民党の憲法改正草案を見ると、様々な問題が潜んでいるように思います。
 日本国憲法第21条には

1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
 とあります。

 でも、自民党憲法改正草案第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。
 となっています。

公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。”が付け加えられているのです。政治的対立が激しくなった時に、「公益」や「公の秩序」が、時の政権によって利用されることを考えれば、これは重大な問題をもつ付け加えではないかと思います。
 すでに見てきたように、自民党の憲法改正草案は、自然権思想に基づく個人の人権を、「公益」や「公の秩序」によって制限したり、「家族国家観」に基づく「家族」の中に埋没させようとする条文がありましたが、この付け加えも、かつての「治安警察法」や「治安維持法」と同じように、国家のために人権を制約することを可能とすることになるのではないかと思います。

 次に、日本国憲法「第四章 国会」の、第54条には、
衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行ひ、その選挙の日から三十日以内に、国会を召集しなければならない。
② 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
③ 前項但書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであつて、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失ふ。”
 とあります。

 自民党憲法改正草案第54条
衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。
2 衆議院が解散されたときは、解散の日から四十日以内に、衆議院議員の総選挙を行い、その選挙の日から三十日以内に、特別国会が召集されなければならない。
3 衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。ただし、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
4 前項ただし書の緊急集会において採られた措置は、臨時のものであって、次の国会開会の後十日以内に、衆議院の同意がない場合には、その効力を失う。
となっています。

 ”衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する。”と付け加えられています。選挙において、政権が有利な立場にあるときに、恣意的に衆議院を解散するというようなことがなされないように、逆に、法的制約が考慮されてもよいのではないかと、私は思います。そういう意味で、合議に基づくことなく、内閣総理大臣個人に衆議院の解散権を与える付け加えには問題があると思います。

 また、日本国憲法第56条には

両議院は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない。
 ② 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
 とあり、

自民党憲法改正草案第56条
両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数で決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。
2 両議院の議決は、各々その総議員の三分の一以上の出席がなければすることができない。”
と変えられています。

 すでに、政権は、国会における話し合いを避ける傾向が強いように思いますが、総議員の三分の一以上の出席がなくても、議事を開くことができるようにすれば、そうした傾向に拍車がかかると思います。だから、第56条では、”議事を開き”の削除が問題だと思います。国会における話し合いが、軽視されてはならないと思います。話し合ってもしかたない、というような現状を改善するためにも、こういう条文には問題があると思います。進む方向が逆だと思うのです。

日本国憲法第63条には
内閣総理大臣その他の国務大臣は、両議院の一に議席を有すると有しないとにかかはらず、何時でも議案について発言するため議院に出席することができる。又、答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。
とあります。

自民党憲法改正草案第63条
内閣総理大臣及びその他の国務大臣は、議案について発言するため両議院に出席することができる。
2 閣総理大臣及びその他の国務大臣は、答弁又は説明のため議院から出席を求められたときは、
出席しなければならない。ただし、職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。
となっています。
 ”職務の遂行上特に必要がある場合は、この限りでない。”などという例外を認めることも、話し合いの軽視であり、国会軽視ではないかと、私は思います。大臣が説明責任をきちんと果たさないことの多い現状を考えると、答弁や説明を逃れるために、恣意的にこうした例外規定を利用することも考えられるのではないかと思います。

日本国憲法第66条には
”内閣は、法律の定めるところにより、その首長たる内閣総理大臣及びその他の国務大臣でこれを組織する。
② 内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。
③ 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。”
とあります。

自民党憲法改正草案第66条
内閣は、法律の定めるところにより、その首長である内閣総理大臣及びその他の国務大臣で構成する。
2 内閣総理大臣及び全ての国務大臣は、現役の軍人であってはならない。
3 内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。
となっています。”文民でなければならない。”が”現役の軍人であってはならない。”に変えられています。
 議員内閣制の日本では、内閣総理大臣や国務大臣は、国民が選ぶわけではありません。日本国憲法第67条”内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する”に基づき、事実上政権政党が決め、国務大臣は、指名された内閣総理大臣が任命しているのです。そして、日本国憲法第68条に、”内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は国会議員の中から選ばれなければならない”とあることから、自民党の改正草案では、昨日まで軍人であった人間を、大臣に任命することも可能になるのです。
 でも、軍事に関わる安全保障政策の基本的判断や決定は、選挙で選出された国民の代表である文民であるべきで、軍事組織は政治や外交に干渉せず、国民が選挙で選んだ政治家の指導に服することが求められるのではないかと思います。総理大臣の一存で、昨日まで軍人であった人間が、大臣に任命されるようでは、「文民統制」が危ういものになると思います。政治家、特に大臣は、できるだけ軍事組織と直接的なつながりのない人が望ましいのであり、”文民でなければならない。”を”現役の軍人であってはならない。”に変えることは、かつて、軍事組織と内閣が一体となり、軍国主義といわれる政治によって、国家存亡の危機を経験したことを思い起こせば、極めて不適切だと思います。現役の軍人だけではなく、かつて軍人であった人も、内閣総理大臣や国務大臣には相応しくないと思うのです。

日本国憲法第72条には
 ”内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、
並びに行政各部を指揮監督する。
 とあります。

自民党憲法改正草案第72条で
内閣総理大臣は、行政各部を指揮監督し、その総合調整を行う。
2 内閣総理大臣は、内閣を代表して、議案を国会に提出し、並びに一般国務及び外交関係について国会に報告する。
3 内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。

 改正草案に付け加えられた”総合調整を行う”が何を意味しているのかよく分かりませんが、独裁的な権力の行使を許すことにつながることが懸念されます。また、”内閣総理大臣は、最高指揮官として、国防軍を統括する。”という付け加えも、何の制約もない総理大臣の権限強化の一つとして、とても気になります。制約がなければならないと思いまし、実力組織の縮小廃止の方向性をはっきり示すべきだと思います。
 

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自由民主党憲法改正草案第15、18、20条の問題点を考える NO2

2021年05月23日 | 国際・政治

 憲法改正の動きをめぐっては、現在、国民投票法改正案の論議が進められていますが、先だって、自由民主党の憲法改正推進本部の最高顧問に安倍晋三前首相が就任したとの報道がありました。私は、安倍前首相は、就任以来憲法改正の運動を主導し、今なお、憲法改正に強い思いをもっているのだと思いました。だから、”自民党総裁の任期中に憲法改正を成し遂げていきたい”とくり返していた安倍氏は、また首相に返り咲くのではないかと、私は思います。

 それは、”現行の憲法が占領下による「押し付け憲法」であり、民族的自信と独立の気魄を取り戻すためには、これを変えて、われわれ日本人の手で作った憲法を持たねばならい”というようなことを言っていた祖父、岸信介元総理(戦時、東条内閣の商工大臣)の意志を受け継いでいるのだろうと思います。

 そして、安倍前首相の周辺には、同じようにかつての戦争指導層の意志を受け継いでいる人たちが集結し、憲法改正の運動を主導しているように思います。

 例えば、安倍氏は首相当時、NHKの経営方針、事業計画、番組編集計画などを決める経営委員会メンバーに、哲学者の長谷川三千子埼玉大学名誉教授を任命しました。その長谷川教授は、安倍応援団を自認する学者ですが、すでに触れたように、「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)に、民主主義を正面から否定し、日本国憲法の精神に反する、下記のようなことを書いています。

人間の不和と傲慢の心を煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムが民主主義なのである。まさに本来の意味での「人間の尊厳」を人間自らにそこねさせるのが民主主義のイデオロギーであると言える。

 また、人権については”インチキとごまかしの産物──人権”とか、”人権──この悪しき原理”などというテーマで文章を書いているのです。

 自由民主党の憲法改正推進本部の最高顧問に就任した安倍前首相も、少なからずそうした考え方を共有しているのではないかと思います。

 自由民主党の憲法改正草案を日本国憲法と比較し、その違いや問題点を明らかにした文章は、いろいろな著書や新聞紙上で目にしたことがあります。また、ネット上でも見ることが出来ますが、前記のようなことを踏まえて改正草案を読むと、単なる、法的問題を超えた、人間の存在に関わる考え方の問題が潜んでいるように思います。随所に見逃すことの出来ない日本国憲法の精神に根本的に反する考え方が潜んでいるように思うのです。だから、追加されたリ、削除されたりした条文や、あえて変更された言葉について、しっかり考える必要があると思います。それらを、前回に続いて、さらに幾つか拾い出していきたいと思います。

 

 現行日本国憲法第15の”3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。”が、

改正草案では、”3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。”と変えられています。成年者に、”日本国籍を有する”がつけ加えられているのです。

 

 私は、この外国人を排除するような”日本国籍を有する”の付け加えに関連して、下記のような事実を想起せざるを得ません。自民党政権に、外国人、特にアジアの人々の人権を軽視する戦前・戦中の体質が受け継がれ、敗戦直後からくり返されてきているように思うのです。

 

 例えば、「写真記録 樺太棄民 残された韓国・朝鮮人の証言」伊藤孝司著 高木健一解説(ほるぷ出版)には、敗戦後まもなく、樺太(現サハリン)に、”あなた方は日本人ではないので、引き揚げの対象ではない”と帰国の機会を与えられなかった4万をこえる朝鮮人が残されたことが明らかにされています。戦時中、皇国臣民として有無を言わせず動員し、樺太の炭砿や軍事施設・道路建設などで過酷な労働を強いた朝鮮の人たちです。大部分の日本人は引き揚げさせたのに、朝鮮人は引き揚げの対象とされず、引き揚げ船乗船を拒否されて、サハリンに置き去りにされたということです。だから、ソ連国籍を得なかった人たちは、敗戦後、無国籍となりました。韓国で夫の帰りを待ち続ける妻や家族、また、家族を樺太に呼び寄せたが、敗戦直前、石炭船の回航が困難になったため「樺太転換坑夫」として配転を命ぜられ、再び離散を強いられた家族が、それぞれ地で苦難の日々を送ることになったのです。

 

 また、先日亡くなった日本在住の韓国人元BC級戦犯、李鶴来さんを思い出します。李さんは、17歳のときに日本軍の軍属になり、タイの捕虜収容所に派遣されて、連合軍の捕虜たちを過酷な泰緬鉄道建設労働現場に送り出す任務を命ぜられたのです。だから敗戦後、捕虜虐待の罪に問われ、BC級戦犯として死刑判決を受け、しばらく後、減刑されたといいます。でも、サンフランシスコ平和条約が調印されると、朝鮮半島の出身者は、本人の意志と関係なく日本国籍を失いました。そして、日本政府によって遺族年金その他の援護対象から外されたのです。だから、ずっと韓国人の元BC級戦犯らとともに「救済」と「名誉回復」を求める活動を続けていましたが、先日、日本政府に受け入れられることなく亡くなりました。戦時中、皇国臣民として働かせたのに、敗戦後は、”あなた方は日本人ではないので、…”と援護の対象から外したままにしたのです。私は、理不尽だと思います。それは、韓国人原爆被害者などにも通じます。日本人として日本で働き被爆したのに、韓国在住の被爆者は戦後長い間、日本政府からも韓国政府からも支援を受けられず、苦しんできたのです。”あなた方は日本人ではないので、…”ということで。

 私は、自由民主党憲法改正草案第15条に、”日本国籍を有する”がつけ加えられたのは、そうした日本人中心主義的な政策に見られる考え方と同じなのではないかと思います。そしてそれは、自然権思想に基づく国際社会の考え方とは異なる、明治維新以来の皇国日本の考え方なのだと思うのです。 

 

 国際的には、在住外国人の参政権を認める国が増えていると言いますし、日本国憲法は、在住外国人の地方選挙権を禁じていないといわれています。それをあえて”日本国籍を有する成年者”に限定することは、在住外国人の選挙権を認める傾向にある国際社会の流れに逆行するものだと思います。時代と共に、国境を超えて生活する人々は増えているのであり、在住外国人の人権も、日本人同様に尊重されなければならないのではないかと、私は思います。

 

 また、今なお深刻な外国人差別のなくならない日本の現状を考えると、”日本国籍を有する”というつけ加えは、きわめて重大な問題だと思います。GHQ草案では、参政権は人民の権利とされ、永住者であるか否かを問わず、全ての外国人参政権を認める内容だったといわれているのです。

 

 下記のような問題も、かつての皇国日本と同じような日本人中心主義的な考え方によるのではないかと思います。

 先日、外国人の収容や送還のルールを見直す「出入国管理法改正案」について、政府・与党は、今国会での成立を断念したことが報道されました。入管施設でスリランカ人女性が、訴えを受け入れてもらえず、適切な治療が受けられないまま死亡したので、法案に対する反対の声が強くなったからだと思います。

 この出入国管理法改正案に関しては、国連人権委員会の特別報告者が「国際的な人権基準を満たしていない」と再検討を求める書簡を日本政府に送ったといいます。また、国連難民高等弁務官事務所も「重大な懸念」を表明しているといいます。だから、難民支援団体や野党が、出入国管理法改正案を「国際人権基準に基づいて改めるべきだ」と問題視したのは、当然のことだと思います。

 さらに、国連人権委員会の特別報告者が1990年代に、戦時中の日本軍「慰安婦」の尊厳を回復する取り組みを促す勧告をくり返したにもかかわらず応じないことも、外国人の人権軽視として、切り離して考えることができないと思います。

 また、日本の「外国人技能実習制度」が、海外では”最悪なインターンシップ”と批判されたり、”現代の奴隷制度”などと言われていることも、外国人の人権に関する深刻な問題のひとつだと思います。

 さらに、朝鮮学校高等学校授業料無償化の対象から除外したことや、極めて悪質なヘイトスピーチと指摘されている民族差別的表現や憎悪の表現の取締りが充分なされない現実を、見逃すことが出来ません。こうしたヘイトスピーチやヘイトクライムは、人種差別撤廃条第4(下記資料)で、国際的に禁じられていることですが、日本政府は、表現の自由を根拠に、その(a)(b)を留保し、憎悪や暴力を助長する言動を法律で厳しく禁止しようとしません。人種差別撤廃委員会は、この留保の撤回を求め続けているといいますが、それに応じない日本政府は、外国人の人権を軽視していると言わざるを得ないように思います。

 また、人種差別撤廃委員会が求め続けている「国内人権機関の設置」も、いまだに実現していません。日本政府は、外国人の人権も、日本人同様に尊重すべだと思いますが、こうした人権軽視の現状を踏まえると、憲法改正を意図する自由民主党政権の姿勢が、”日本国籍を有する”に象徴的にあらわれていると思うのです。

 

 次に、私は第18条が、気になります。

 日本国憲法の第18条には、

(奴隷的拘束及び苦役からの自由)

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

とありますが、改正草案第18条は、

身体の拘束及び苦役からの自由)

1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。

2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 となっています。

 なぜ、”いかなる”を”社会的又は経済的関係”に限定するのでしょうか。政治的関係なら許されるということでしょうか。法的関係なら許されるということでしょうか。家庭内なら許されるということでしょうか。

 また、なぜ、”奴隷的拘束”を”身体の拘束”に限定するのでしょうか。

 私は、安倍政権が、強引に「特定秘密の保護に関する法律」を成立させたのみならず、従来の憲法解釈を変更し、「集団的自衛権行使容認」を閣議決定をしたこと考えると、将来、アメリカと共に戦闘に参加し、苦しい戦いを強いられて自衛隊員の増員が必要となったり志願者が減った場合に、徴兵制を導入する考えがあるのではないかと考えてしまいます。日本国憲法第18条があれば、徴兵制の導入は難しいでしょうが、改正草案第18条の条文なら、可能になるのではないかと思うのです。

 

 次に、私は第20条が気になります。

 日本国憲法の第20条には

信教の自由、国の宗教活動の禁止)

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 とありますが、改正草案第20条は、

信教の自由)

1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 と変えられています。問題は、”ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。”という付け加えです。こうした内容をはっきり限定しない例外規定を設けると、信教の自由や国の宗教活動の禁止が、骨抜きにされる恐れがあるばかりでなく、議論の続く、閣僚の靖国神社公式参拝も、憲法に反しないことになってしまい、歯止めがなくなってしまうと思います。

 明治維新の王政復古によって生まれた皇国日本は、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する国でした。だから、社会的儀礼や習俗的行為の多くは、神道に関わるものになっていたと思います。それを憲法で例外として認めれば、「政教分離」はあまり意味がなくなり、神道は再び特別な宗教として、大きな力をもつものになるのではないかと思います。

 関連して見逃すことができないのは、「神道政治連盟」が、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。”とか、”神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。”とか、”日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造発展につとめ、もつて健全なる国民教育の確立を期す。”という戦前と変わらないような「綱領」をもって、現に日々活動していることです。また、”2012年(平成24年)12月に発足した第2次安倍内閣以降、入閣した議員のほとんどが「神道政治連盟国会議員懇談会」もしくは「日本会議国会議員懇談会」のどちらかに所属していることが判明している。”とウィキペディア(Wikipedia)で明らかにされている事実も見逃すことができません。だから、憲法で改正草案のような例外規定を認めると、次第に例外規定でなくなっていくのは間違いないと思います。そして、神道は再びいろいろな場面で、前面にでてくるのではないかと思います。

 

 

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自由民主党憲法改正草案「第三章 国民の権利及び義務」を考える、NO1

2021年05月17日 | 国際・政治

 自由民主党憲法改正草案には、「第三章 国民の権利及び義務」にも重大な問題があると、私は思います。
先ず第一に、日本国憲法第12条のなかの、「公共の福祉」という人権制約に関わる重要な意味をもつ言葉を、「公益及び公の秩序」に変えようとすることが問題だと思います。
 「公共の福祉」という言葉は、日本国憲法第12条のみならず、第13条・第22条・第29条などでも使われていますが、憲法が国民に保障する自由及び権利は、無制限ではなく、この「公共の福祉」に反しない限り…、という制約があり、「人権制約原理」と呼ばれています。
 また、「公共の福祉」は、「社会全体の共通の利益」であり,「ほかの人の人権との衝突を調整するための原理」であるともいわれています。
 この「公共の福祉」という言葉は、当初のGHQ草案では、”the general welfare (一般ノ福祉)"とか、"the common good(共同ノ福祉)"とか、"the public welfare(公共ノ福祉)"などと、様々な表現がなされていたそうです。それを、日本国憲法では、この"the public welfare(公共の福祉)"に統一したのだといいます。したがって、「公共の福祉」には、国家的な意味合いはないということです。その、「人権制約原理」である、「公共の福祉」を「公益及び公の秩序」に変えてしまえば、時の政権が「公益」と判断すれば、憲法が保障する自由や権利を制約することが可能となってしまうと思います。特に、憲法の人権保障規定に「公の秩序」などという言葉を入れ、人権制約を可能とすることは、極めて重大な変更で、問題があると思います。
 現在も、ミャンマーでは抵抗運動が続いていますが、政権を掌握した国軍のデモ隊に対する発砲を正当化する言い分は、「公の秩序」の維持ではないでしょうか。また日本では、「大日本国憲法」に、”日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス”(第二十九条)などと定められていたために、「治安維持法」や刑法の「皇室ニ対スル罪」すなわち「不敬罪」などによって、自由権が制約されていた過去がある事も忘れてはならないと思います。日本国憲法の「公共の福祉」以外の人権の制約は、許されるべきではないと思うのです。

 また、第13条の「すべて国民は、個人として尊重される。」を「すべて国民は、人として尊重される。」に変えていることも見逃せません。その背景には、「個人」の人権を軽視する戦前の「家族国家観」があると、私は思います。
 それは、第二十四条に新たに、”家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。”と加えられていることや、先だって、丸川珠代・男女共同参画担当相や高市早苗・元男女共同参画担当相ら自民党の国会議員有志が、埼玉県議会議長など地方議会の議員に送った、「選択的夫婦別姓の導入に賛同する意見書」を地方議会で採択しないように求める文書の内容が、その条文の内容と符合するものであることで分かります。
 もともと人権は、すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利であり、人間が人間らしく生きる権利であって、人間”ひとりひとり”の存在に関わるものだと思います。したがって、それは「個人主義」ですが、一部の人たちが言うような「利己主義」とは無縁のものだと思います。


 選択的夫婦別姓の導入によって、結婚しても生まれたときからの姓名で暮らしたいという人の願いを叶えることは、その人の「自己決定権」の行使を認め、「幸福追求の権利」の行使を認めることだと思います。諸外国が、夫婦別姓を認めているのは、それが「人権」だからだと思います。
 家族制度の維持や強化を意図する第二十四条の、”家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。”と追加し、夫婦同姓を法律で義務づけること、また、13条の「個人として尊重される」を「人として尊重される」に変えることは、そういう意味で、戦前の「家族国家観」を復活させることであり、「個人」の人権を軽視することにつながると思うのです。「個人」の人権を、家族の尊重なかに埋没させるような考え方は、時代錯誤だと思います。
 まして、”家族は、互いに助け合わなければならない。”などと憲法に位置づけることは、育児や介護を初めとする様々な現実問題を、すべて家族に押し付け、社会保障の後退をもたらすことになるのではないかと思います。

自由民主党憲法草案ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                第三章 国民の権利及び義務
第10条(日本国民)
 日本国民の要件は、法律で定める。
第11条(基本的人権の享有)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である
第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
第13条(人としての尊重等)
 全て国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されなければならない。
第14条(法の下の平等)
1 全て国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、障害の有無、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第15条(公務員の選定及び罷免に関する権利等)
1 公務員を選定し、及び罷免することは、主権の存する国民の権利である。
2 全て公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。
4 選挙における投票の秘密は、侵されない。選挙人は、その選択に関し、公的にも私的にも責任を問われない。
第16条(請願をする権利)
1 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願をする権利を有する。
第17条(国等に対する賠償請求権)
 何人も、公務員の不法行為により損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は地方自治体その他の公共団体に、その賠償を求めることができる。
第18条(身体の拘束及び苦役からの自由)
1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第19条(思想及び良心の自由)
 思想及び良心の自由は、保障する。
第19条の2(個人情報の不当取得の禁止等)
 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、又は利用してはならない。
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。
第21条(表現の自由)
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。
3 検閲は、してはならない。通信の秘密は、侵してはならない。
第21条の2(国政上の行為に関する説明の責務)
 国は、国政上の行為につき国民に説明する責務を負う。
第22条(居住、移転及び職業選択等の自由等)
1 何人も、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 全て国民は、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を有する
第23条(学問の自由)
 学問の自由は、保障する。
第24条(家族、婚姻等に関する基本原則)
1 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。
2 婚姻は、両性の合意に基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
3 家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
第25条(生存権等)
1 全て国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、国民生活のあらゆる側面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第25条の2(環境保全の責務)
 国は、国民と協力して、国民が良好な環境を享受することができるようにその保全に努めなければならない。
第25条の3(在外国民の保護)
 国は、国外において緊急事態が生じたときは、在外国民の保護に努めなければならない。
第25条の4(犯罪被害者等への配慮)
 国は、犯罪被害者及びその家族の人権及び処遇に配慮しなければならない。
第26条(教育に関する権利及び義務等)
1 全て国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する。
2 全て国民は、法律の定めるところにより、その保護する子に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、無償とする。
3 国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に努めなければならない。
第27条(勤労の権利及び義務等)
1 全て国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律で定める。
3 何人も、児童を酷使してはならない。
第28条(勤労者の団結権等)
1 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、保障する。
2 公務員については、全体の奉仕者であることに鑑み、法律の定めるところにより、前項に規定する権利の全部又は一部を制限することができる。この場合においては、公務員の勤労条件を改善するため、必要な措置が講じられなければならない。
第29条(財産権)
1 財産権は、保障する。
2 財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない。
3 私有財産は、正当な補償の下に、公共のために用いることができる。
第30条(納税の義務)
 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。
第31条(適正手続の保障)
 何人も、法律の定める適正な手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。
第32条(裁判を受ける権利)
 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を有する。
第33条(逮捕に関する手続の保障)
 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、裁判官が発し、かつ、理由となっている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第34条(抑留及び拘禁に関する手続の保障)
1 何人も、正当な理由がなく、若しくは理由を直ちに告げられることなく、又は直ちに弁護人に依頼する権利を与えられることなく、抑留され、又は拘禁されない。
2 拘禁された者は、拘禁の理由を直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示すことを求める権利を有する。
第35条(住居等の不可侵)
1 何人も、正当な理由に基づいて発せられ、かつ、捜索する場所及び押収する物を明示する令状によらなければ、住居その他の場所、書類及び所持品について、侵入、捜索又は押収を受けない。ただし、第33条の規定により逮捕される場合は、この限りでない。
2 前項本文の規定による捜索又は押収は、裁判官が発する各別の令状によって行う。
第36条(拷問及び残虐な刑罰の禁止)
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、禁止する。
第37条(刑事被告人の権利)
1 全て刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 被告人は、全ての証人に対して審問する機会を十分に与えられる権利及び公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを付する。
第38条(刑事事件における自白等)
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 拷問、脅迫その他の強制による自白又は不当に長く抑留され、若しくは拘禁された後の自白は、証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされない。
第39条(遡及処罰等の禁止)
 何人も、実行の時に違法ではなかった行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。同一の犯罪については、重ねて刑事上の責任を問われない。
第40条(刑事補償を求める権利)
 何人も、抑留され、又は拘禁された後、裁判の結果無罪となったときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

現行日本国憲法ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第三章 国民の権利及び義務
第10条
 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第11条
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第13条
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第14条
1 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
3 栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。
第15条
1 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
4 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
第16条
 何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第17条
 何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
第18条
 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。
第19条
 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第21条
1 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
第22条
1 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。
2 何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない。
第23条
 学問の自由は、これを保障する。
第24条
1 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
第25条
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
第26条
1 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。
第27条
1 すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 児童は、これを酷使してはならない。
第28条
 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
第29条
1 財産権は、これを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる。
第30条
 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。
第31条
 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
第32条
 何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。
第33条
 何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
第34条
 何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
第35条
1 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第33条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2  捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。
第36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第36条
 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
第37条
1 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。
第38条
1 何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第39条
 何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
第40条
 何人も、抑留又は拘禁された後、無罪の裁判を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。

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自由民主党憲法改正草案第二章、「戦争の放棄」から「安全保障」へ

2021年05月13日 | 国際・政治

 「自由民主党憲法改正草案」にはいろいろ問題があると思いますが、特に、この「第二章 第九条」には重大な問題があると思います。
 もともと、憲法第九条で、”国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄”するとして、” 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない”と定めたにもかかわらず、日本に自衛隊が存在するのは、1950年の朝鮮戦争勃発時に、日本に駐留していた米軍を朝鮮に派遣した穴埋めのため、GHQの最高司令官マッカーサーが吉田茂首相に、「警察予備隊」の創設と海上保安庁増員を指示したことが始まりだといいます。指示を受けた吉田首相は、その時、国会に諮ることなく政令(「ポツダム政令」と呼ばれます)によって「警察予備隊」を創設したということです。この警察予備隊が、その後、改編されて「保安隊」となり、さらに「自衛隊」に発展していくことになったのです。だから、自衛隊に関しては、日本国憲法の下での議論が全くなされなかったため、当初から違憲論があったのだと思います。自由民党政権は、その違憲論を抑え込んで、自衛隊を少しずつ強固な組織にしてきたのです。

 自衛隊の防衛白書に「相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し,その防衛力行使の態様も,自衛のための必要最低限度にとどめ,また保持する防衛力も自衛のための必要最低限度のものに限られる」とあるのは、違憲論を抑え込むためだと思います。

 このいわゆる「専守防衛」の考え方は、「平和憲法」といわれる憲法を持つ戦後日本の基本的姿勢であったと思います。でも、日米軍事同盟を強化する姿勢をとる自由民主党政権は、アメリカの要求に応じるかたちで、国際協力を名目に、自衛隊の海外派遣をくり返すようになり、年々その活動領域や内容を広げてきました。そして、「集団的自衛権行使」容認の閣議決定に至り、「日本に対する攻撃」の場合のみに限定されていた自衛隊の武力行使を、「他国への攻撃」の場合も. 可能とするようになりました。
 だからこそ、自由民主党憲法改正草案の「第二章 安全保障」の条項は、重大であると思います。 
 日本国憲法に反するような自民党政権による自衛隊の任務の拡張・拡大の傾向や憲法改定の動きに危機感を持った人たちが、2004年に九条改定の阻止を目的として、「九条の会」を結成しました。以来、その呼びかけに応じるかたちで、全国各地、各分野に「九条の会」が広がりました。団体の数は数千に及ぶと聞いています。「九条科学者の会」や「9条の会・医療者の会」や「映画人九条の会」などもあるようですが、それぞれの地域、それぞれの立場で、九条を守ろうと結成されたのだと思います。
 それに比して、憲法第九条を改定しようと主張し活動しているのは、かつての戦争指導層の考え方を受け継いでいる一部政治家やそういう政治家と一体となっている関係者および活動家ではないかと思います。いわゆる「九条の会」のような一般の人たちの組織や運動は、ほとんどないのではないかと思います。だから、憲法第九条の改定は、許されないのです。

 自由民主党憲法改正草案に関して言えば、まず、第二章のテーマが「戦争の放棄」から「安全保障」に変えられています。
 そして、日本国憲法第九条2の”前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。”が削除され、変わって、”前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。”とされています。
 さらに、日本国憲法にはなかった第9条の2(国防軍)と第九条の3(領土の保全等)が追加されました。

 改正草案も、日本国憲法を引き継ぐように、”国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。”と定めていますが、現実には、日本は、今までアメリカの武力行使を容認し追随して、後方支援などのかたちで支えてきました。だから、改正草案が通れば、それらが、すでに閣議決定されている「集団的自衛権の行使」ということで、日本人による武力行使が展開されるようになると思います。

 また、第9条の2(国防軍)で、”我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。”と文民統制を維持し、2で”国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。”と歯止めがかけられているように見えますが、これらは、すでに成立している「特定秘密の保護に関する法律」によって、ほとんど意味のないものといえるように思います。
 なぜなら、憲法改正を中心になって進めてきた安倍前首相が、「特定秘密の保護に関する法律」成立後の2014年の衆議院予算委員会で、集団的自衛権に関し、自衛権行使の条件となる武力行使の新三要件に達したとの判断に至った根拠となる情報が、特定秘密保護法に基づく特定秘密に指定され、政府の監視機関に提供されない可能性があるとの考えを示しているからです。
 この「特定秘密の保護に関する法律」に関しては、海外からも「秘密保護法は日本の平和憲法の精神を破壊」するとか、「日本の秘密保護法はジャーナリストをテロリストに変える」という声が上ったと聞いています。すでに、そういう法案が成立していることも見逃してはならないと思います。

 さらに、第9条の2(国防軍)の5に”国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。”とありますが、これはかつての「軍法会議」の復活で、現在の日本国憲法に反するのではないかと思います。日本国憲法「第六章 司法」の「第七十六条」には、下記のようにあります。
第七十六条 すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する。
② 特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は、終審として裁判を行ふことができない。
③ すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。
 したがって、”国防軍に審判所を置く”ということは、日本国憲法に反し、なぜ、こうした条項が定められたのかという歴史的経緯を無視するものではないかと思います。
 現在の自衛隊にも、国民が知り得ない機密が多々あるのに、自衛隊を国防軍に変え、日本の兵隊が武器をとって戦うようになれば、当然秘匿するべき機密が飛躍的に増え、国防軍内部の問題で、一般の裁判官が軍人を裁くことは難しくなると思います。だから審判所で裁くことを定めようということでしょうが、それが軍法会議の復活であり、さらにそれが報道の自由や国民の知る権利、表現の自由等の制限につながるであろうことは、日本の戦争をふり返れば、明らかだと思います。日本には、広範な検閲などによる言論統制で、都合の良い事実しか国民に知らされなくなった過去があることを忘れてはならないと思います。

 第九条の3では、 「領土等の保全等」を定めていますが、こうした義務的な規定を設けることは、近隣諸国との領土問題に関するねばり強い話し合いや、話し合いに基づく妥協、譲り合いを難しくすると思います。竹島も尖閣諸島も、北方領土も、簡単に「日本固有の領土」とすることのできない難しい歴史や国際関係が絡む問題あることを踏まえる必要があると思うのです。

 また、こうした憲法の改定は、地道に続けられてきた平和に対する国際社会のあゆみに逆行するとともに、好戦的な人々を勢いづかせることになると、私は思います。
 戦争をいかに規制し防止するかについては、国際的に様々な努力が継続され、少しずつ法が整備されてきているのです。
 例えば、1864年に、スイス・ジュネーブで「赤十字条約」が締結され、戦時の捕虜に対する扱いが国際的に定められました。また、1899年にはオランダ・ハーグで第一回万国平和会議が開かれ、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」が採択されています。第一次世界大戦後の1928年には、フランス・パリで「不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)」が締結され、締約国間で国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄を行い、紛争は平和的手段により解決することを規定しました。その後も、オタワ条約(「対人地雷全面禁止条約」)や、オスロ条約(「クラスター爆弾禁止条約」)などが締結され、2017年には、国際連合総会で「核兵器禁止条約」が採択されています。
 日本国憲法の「戦争の放棄」を定めた第九条を改定し「安全保障」に変えることは、そうした国際社会の流れに逆行し、日本人だけではなく、世界中の人達を失望させるものだと、私は思うのです。

 日本は、かつて大きな過ちを犯したが、それがきっかけで、世界で最も進んだ憲法を持つに至り、世界平和をリードする「平和国家」となったと、国際的に認知されるようにするべきだと思います。憲法第九条の「戦争の放棄」を「安全保障」に変え、武力主義的な道を歩んではならないと思います。「自衛隊」を「国防軍」に変えてはならないと思うのです。
 下記は、自由民主党憲法改正草案と日本国憲法の「第二章 第九条」です。  

自由民主党憲法改正草案ーーー
                  第二章 安全保障
第9条(平和主義)
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

第9条の2(国防軍)
1 我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。
2 国防軍は、前項の規定による任務を遂行する際は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
3 国防軍は、第一項に規定する任務を遂行するための活動のほか、法律の定めるところにより、国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調して行われる活動及び公の秩序を維持し、又は国民の生命若しくは自由を守るための活動を行うことができる。
4 前2項に定めるもののほか、国防軍の組織、統制及び機密の保持に関する事項は、法律で定める。
5 国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合の裁判を行うため、法律の定めるところにより、国防軍に審判所を置く。この場合においては、被告人が裁判所へ上訴する権利は、保障されなければならない。

第9条の3(領土等の保全等)
 国は、主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない。

日本国憲法ーーーーーーーー
                 第二章 戦争の放棄
第9条
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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自由民主党憲法改正草案に込められた思い

2021年05月09日 | 国際・政治

 「前文」に続いて、それぞれの条文についても、現在の日本国憲法と比較して、いくつか問題点をあげておきたいと思います。

 まず、第一章の「天皇」に関する部分についてですが、改正案では
第一条 天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
 となっています。現在の日本国憲法では
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。
となっており、”日本国の元首であり”という文言が追加されていることが分かります。私は、そこにも、”現在の日本国憲法を改正したい”という自由民主党の強い思いが込められているような気がします。
 現在の日本国憲法では、天皇は”国政に関する権能を有しない”と定められているのに、なぜ、その文言と矛盾するような、”日本国の元首であり”を追加するのかということを考えるとき、憲法で天皇を「元首」と定め、将来、それを根拠として国政に関与する権限を持たせようとする意図があるのではないかと疑わざるを得ません。天皇の行為については、現在すでに、「国事行為」でも「私的行為」でもない、「公的行為」がなし崩し的に行われるようになっているという指摘もあるのです。

 もともと、「象徴」とはいえ、「基本的人権の尊重」や「国民主権」を定めた日本国憲法に、「天皇」に関する条項がもうけられたこと自体に矛盾があり問題があったと、私は思います。そして、敗戦後の日本に天皇制が残され、大日本帝国憲法にならって、日本国憲法の第一章が「天皇」に関する条項になった経緯を考えると、”日本国の元首であり”という追加部分には、戦前の「皇国日本」にちかい日本国にしようとする自由民主党の並々ならぬ思いが込められており、追加部分を根拠として、天皇の行為が次第に広がり、天皇の存在がいろいろな場面で、一層重視される国になっていくような気がするのです。そして再び、天皇が政治的に利用されることを、私は恐れます。 

  また、第一章の「天皇」に、下記の条文が追加されていることも見逃せません。
第三条 国旗は日章旗とし、国家は君が代とする。
  2 日本国民は、国旗及び国家を尊重しなければならない。
第四条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する。

 「日の丸」「君が代」は、最初、「学習指導要領」により、学校現場で浸透が図られましたが、当時、全国的に様々な反対意見や抵抗運動がありました。「ウィキペディア(Wikipedia)」の「国旗及び国歌に関する法律」には、法制化に至る経緯が、下記のように示されています。


1996年(平成8年)頃から、公立学校の教育現場において、当時の文部省の指導で、日章旗(日の丸)の掲揚と同時に、君が代の斉唱が事実上、義務づけられるようになった。しかし、反対派は「日本国憲法第19条が定める思想・良心の自由に反する」と主張して、社会問題となった。
 埼玉県立所沢高等学校では、卒業式・入学式での日章旗と君が代の扱いを巡る問題が生じ、1996年(平成8年)より数年にかけて、教育現場及び文部省を取り巻く関係者に議論を呼んだ。
 1999年(平成11年)には、広島県立世羅高等学校校長が卒業式前日に自殺した。君が代斉唱や日章旗掲揚に反対する教職員と文部省の通達との板挟みになっていたからである。
これらを1つのきっかけとして法制化が進み、本法が成立した。
 詳細は「広島県での解放同盟による教育介入」を参照
 当時の内閣総理大臣小渕恵三は、1999年(平成11年)6月29日の衆議院本会議において、日本共産党の志位和夫の質問に対し以下の通り答弁した。

学校におきまして、学習指導要領に基づき、国旗・国歌について児童生徒を指導すべき責務を負っており、学校におけるこのような国旗・国歌の指導は、国民として必要な基礎的、基本的な内容を身につけることを目的として行われておるものでありまして、子供たちの良心の自由を制約しようというものでないと考えております。
国旗及び国歌の強制についてお尋ねがありましたが、政府といたしましては、国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。したがって、現行の運用に変更が生ずることにはならないと考えております。

 そして、下記のような「国旗及び国歌に関する法律」が定められたのです。
国旗・国歌法は本則2条、附則3項、別記2により構成される法律である。
第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
 附則 施行期日の指定、商船規則(明治3年太政官布告第57号)の廃止、商船規則による旧形式の日章旗の経過措置。
 別記 日章旗の具体的な形状、君が代の歌詞・楽曲。

 その、「日の丸」「君が代」を、自由民主党は、今度は法律ではなく、さらに進めて憲法の第一章天皇」で定めようとしているのです。
 じわじわと「皇国日本」復活が進んでいることが分かるのではないかと思います。なぜなら、「日の丸」は日本の戦争のシンボルともいえるものでしたし、「君が代」は、「皇国日本」を誇り、”天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼”するための歌であったからです。その歌詞は、どう考えても、日本国憲法の精神とは相容れないものだと、私は思います。
 「国旗及び国歌に関する法律」制定にあたって、当時の小渕恵三内閣総理大臣が”国旗・国歌の法制化に当たり、国旗の掲揚に関し義務づけなどを行うことは考えておりません。”と言って法制化したのに、今度は、それを憲法第一章「天皇」の第三条で定め、その「二項」で、”日本国民は、国旗及び国家を尊重しなければならない。”としているのです。


 アジア太平洋戦争当時、戦闘によって日本軍が占領した占領地では、日の丸が掲げられ、現地の人々は日の丸の小旗を振って日本軍を迎えさせられたといいます。だから、日本の植民地であった朝鮮や台湾の人たちはもちろん、日本軍の支配下におかれた国の人々にとっては、日の丸は日本の戦争行為を連想させ、苦い経験を思い出させるものとして嫌悪感を持つ人が少なくないと言います。国旗・国家の法制化に反対した人たちは、自らの考えや感情だけではなく、多くの人たちのそうした思いを踏まえて反対したのです。だから、多くの人たちの思いを無視して、「日の丸」を「日本国憲法」第一章「天皇」に定めることの意味を考える必要があると、私は思います。

 さらに「元号」に関しても、上記の通り、憲法の第一章「天皇」の「第四条」に入れられています。
  天照大神を祖先神とする天皇が、日本を統治する権力をもち、”神聖ニシテ侵スヘカラス”と定められていた天皇主権の戦前なら、元号の使用は当然かも知れませんが、天皇が、敗戦後いわゆる「人間宣言」を発し、国政に関する権能を有しない「象徴」となったにもかかわらず、なぜ、憲法で元号について定め、一人の天皇に一つの元号(一世一元制)で時代を区切り続けるのでしょうか。
 かつて天皇は国家を支配するだけでなく、時間も支配する存在と考えられていたために、元号によって時代を区切ったのだと誰かの著書で読んだ記憶がありますが、国民主権の日本国憲法に相応しくないのではないかと、私は思います。
 現在、国際社会で例のない「元号」を、日本国憲法に定めて使い続ける意味はどこにあるのでしょうか。私は、国際社会における「日本異質論」が、ますます深まり広がるのではないかと思います。

 

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自由民主党憲法改正草案「前文」を読んで思ったこと

2021年05月07日 | 国際・政治

 自由民主党憲法改正草案には様々な問題があると思うのですが、それは、その前文に象徴的にあらわれていると思い、まとめておきたいと思いました。

 きっかけは、5月3日(憲法記念日)の朝日新聞、世論調査の数字でした。それによると、”改憲「必要」45%、「必要ない」44%”ということです。過去の戦争指導層の思想を受け継いでいると思われる自民党政権の、憲法改正を目指す長年の取り組みによって、とうとう「改憲」必要と考える人が、「必要ない」と考える人の数を上回ることになったのではないかと思います。また、この世論調査で見逃すことができないのは、改憲派が数で上回ったということだけではなく、30代では55%が改憲を必要と考え、70歳以上の35%を大きく上回っていることです。

 現在、日本の学校で使われている教科書は、日本の戦争の実態、とくに加害の事実をきちんと取り上げていないと思います。また、戦前・戦中の日本では人権が著しく制限され、学問の自由や思想の自由、集会の自由や結社の自由、信教の自由や表現の自由などがほとんどなかった実態や人権無視の事実もきちんと取り上げていないと思います。
 そして、自民党政権が、戦争の事実を直視することなく、日常的に中国や韓国を敵視するような外交をくり返し、法や法の精神を無視するような政治をやっている結果が、世論調査の数字に出たのだろうと、私は思うのです。
 敗戦後、世界的に高く評価され、多くの日本国民に広く受け入れられた日本国憲法の重要性や歴史的意味が、現在の若い人たちには理解しずらい状況になっているのだろうと思います。それに対して70歳以上の高齢者は、教育されずとも、直接見聞きしてきた話から、日本国憲法の重要性や歴史的意味が、認識されているということではないかと、私は推察します。

 戦後まもないころから、ずっと”憲法改正”を主張してきた自由民主党の改憲の草案は、明らかに戦前回帰的で国家主義的だと、私は思います。また、人権を軽視する面もあるように思うのですが、それは前文によくあらわれているように思います。自民党改憲草案の前文は、下記の通りです。

日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 すべての文章に問題を感じるのですが、
日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
 では、まず最初に「国」を取り上げること、そして、その特質を誇るように語ることが問題だと思います。現在の日本国憲法は、「日本国は」ではなく日本国民は」で始まっているのです。最初の文章の主語を「日本国は」に変えたところに、私は自由民主党の国家主義的意図を感じます。
 また、”長い歴史と固有の文化”を”天皇を戴く”などという「神話的国体観」を想起させるような言葉で「国家」に結び付けることにも問題があると思います。そうした特定の歴史観に基づくような記述は、憲法にはふさわしくないと思うのです。

 二つ目の文章は
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 となっていますが、日本国憲法にある、”政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し”という過去の歴史に関する反省の文章が削除されていることが、とても問題だと思います。

 「大日本帝国憲法」に変わって、「日本国憲法」が発布されるきっかけとなった無謀な戦争の反省を拒否し、発展の側面にしか注目しないようでは、近隣諸国との関係も改善されないと 私は思います。

 三つめの文章は
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 とありますが、国民に”国や郷土を誇”ることや”気概をもって自ら守”ることを義務づけるかのような内容だと思います。国家のために国民が存在するかのような感じがするのです。
 さらに言えば、日本国民が、”国と郷土を誇”ることや、”気概を持って自ら守”ることは、国家によって定められてはならないことではないかと、私は思います。
 そうしたことは、「国連憲章」や「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」に定められた、「自決権」の問題だろうと思うのです。それらは自らの意志で決することではないかということです。

 四つめの文章は、
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 とありますが、この文章も、国家のために、その努力目標を国民に示しているような内容で、国家主義的な感じがします。国民は”経済活動を通じて国を成長させる”道具ではないと思います。国家のために、国民がどうあるべきかということではなく、国民のために、国家がどうあるべきかということが定められなければならないと、私は思います。

 最後の文章は
日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。
 とあります。この文章も、国民が、国の伝統やその継承のために存在するかのような内容になっていると思います。”良き伝統”という言葉が、何を意味しているのか明らかではありませんが、そうした歴史の評価を押し付けることも、”国家を末永く子孫に継承するため”に憲法を制定するという考え方も、やはり国家主義的な感じがします。

 そして何より、日本国憲法前文にある平和に対する考え方や姿勢の表明がすべて削除されていることが問題だと思います。また、過去の悲惨な戦争を踏まえて、平和な国際社会を実現するために表明した「覚悟」も、完全に削除されています。
 ”われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する”という「平和的生存権」と呼ばれる人権に関わる文言の削除も見逃すことができません。
 国境を超えて、人権を尊重しようという「平和的生存権」の記述を削除するということは、戦争ができる国にするためではないか、と考えてしまいます。

 日本国憲法が、日本の敗戦の結果生まれたものであることを、自民党の憲法改正草案は消し去っていますが、そこに私は、かつての戦争指導層の日本国憲法改正に対する思いを感じます。
 
 下記資料1は「日本国憲法」の「前文」です。資料2は、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)」の「第1条」です。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                日本国憲法(前文)
  日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
          市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)
第1条
1 すべての人民は、自決の権利を有する。この権利に基づき、すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。
2 すべての人民は、互恵の原則に基づく国際的経済協力から生ずる義務及び国際法上の義務に違反しない限り、自己のためにその天然の富及び資源を自由に処分することができる。人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。
3 この規約の締約国(非自治地域及び信託統治地域の施政の責任を有する国を含む。)は、国際連合憲章の規定に従い、自決の権利が実現されることを促進し及び自決の権利を尊重する。

 

 

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