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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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中国戦線における毒ガス戦 加害証言

2011年03月21日 | 国際・政治
 台湾の霧社事件で初めて実戦使用された毒ガス兵器は、その後、陸軍によって次々に制式化(兵器として正式に採用すること)された。それを受けて、大久野島での生産体制が確立され、日中戦争の勃発以降は、多くの労災事故や健康被害を伴いつつ大量生産体制に入ったのである。そして、中国戦線を中心として、当初は密かに使用されていた毒ガス兵器が、その後形勢不利な状況に陥ると大量に使用されるようになっていった。下記は、その中国戦線における加害証言を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋したものである。
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                 第9章 戦犯の証言

 「中国帰還者連絡会」


 ・・・
 藤田茂は武家の生まれで、子どもの頃から武士道精神の薫陶と軍国主義的教育を受けて育ち、戦中は中国を侵略し、中国人民を殺戮する鬼となり、残酷非常で眉ねも動かさずに人を殺し、「鬼将軍」の異名をとった。1945年に日本が投降すると、藤田茂は武勲赫久たる天皇の寵児から一転、中国人民の囚われ人となった。撫順戦犯管理所において、当初は毎日陸軍の軍服を着用し天皇を遙拝して、狂信的な武士道精神を見せつけていたが、学習と反省を通じ、特に中国人民が米国に反抗し朝鮮戦争に勝利したことに多大な感銘を受け、1954年8月、自らの罪を認める自白書をしたためる。

 「私は幼少時より高級指揮官師団長となるまで、40年にわたり、日本帝国主義軍の機構の中で、教育を受け、また部下に対して教育、命令、指導を行い、日本帝国主義のために戦い、一切を捧げてきました。
 戦争が終結した後も私は、侵略戦争の罪悪、とくに日本帝国主義の罪悪についての認識がありませんでした。
 戦犯管理所の助けによって、私ははじめて夢から醒めたのです。ここで、私は過去の過ちを心の底から悔い、中国人民の目の前で頭をたれ、徹底的に罪を認めることを決心したのです……。
 高級指揮官の身分により、私の命令の下……殺害した中国人民の数は総計約1万名……私の犯した罪の中でも最も重いものは、兵士の精神を鍛錬する目的で捕虜を刺し殺したことです」。


 戦争の性質を知ることによって、自己の罪をしりことに彼は自分の姉の一家が広島の原爆で亡くなったことを知って、軍国主義こそが凡ての悲惨さを生み出す源であることを強く思い知った。このとき、藤田茂は過去の自己を徹底的に否定することを終え、真理を求める旅をはじめたのである。
 1956年6月、藤田茂は沈陽特別軍事法廷において裁判を受け、懲役18年の判決を下された。
 裁判官にコメントを求められると、藤田は感激してこう答えた

 「私の罪に照らせば、1万人の藤田茂を殺して当然なのです。凶悪な日本帝国主義が私を人食う野獣に変え、私の前半生の天にも恥じる罪を作りました。中国政府は私を教育し真理に目覚めさせ、私に新しい命をくれました。この厳粛な中国人民の正義の法廷において誓います。私の後半生を断固、反戦と平和事業のために捧げます」。

 彼の言葉に偽りはなく、帰国すると「中帰連」の先頭に立ち、戦争の非を暴き、日中友好を促すために多くの仕事をした
。……
 ・・・

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 戦犯たちの戦後50年

 ・・・
 絵鳩さんは朗読を終えると、自分の証言を付け加えた。以下はその証言である。

 「1942年5月から1945年6月のあいだ、私の大隊本部は山東省の新泰県というところにありました。毒ガスにについて詳しくはないのですが、討伐に行くときには必ず防毒マスクの携行を義務づけられていましたし、さらにどのような作戦でも、必ず砲兵中隊はあか筒とみどり筒を携行しておりました。1943年3月、私たちは新泰県から数キロ離れた羊流店というに、討伐に行きました。そこには抗日軍がいて、私たちの大隊は討伐隊を編成して、夜間に出発し、夜明け前に村を包囲しました。隊長の命令で私たちは村に向けて毒ガス弾を発射し、村から飛び出してきた抗日軍に向かって射撃しました。そのとき使ったのがあか筒だったかみどり筒だったか定かではないのですが、毒ガスを使うのはいつものことでした。
 私は初年兵教育を佐倉で受けましたけれども、そのときわれわれの訓練項目のなかには毒ガスの教育が組み込まれていたのです。それは各自に防毒マスクが支給され、どのように毒ガス筒を使うのか、どのように防毒マスクを使うのかを教えられました


 絵鳩さんの話が終わるとすぐ、隣の金井貞直さん(旧姓田村)が立ち上がった。前に出ているなかで彼は比較的健康そうで若く見えたが、すでに76歳であった。彼は中国で戦犯として再教育を受けていた1954年10月8日、毒ガス使用について次の証言を行った。

 「1942年7月中旬、第59師団54旅団独立歩兵第110大隊(兵力約330名)は山東省萊蕪県旧寨鎭西北の九頂山山麓の村落に侵攻しましたが、八路軍とは戦火を交えることはできず、村人を虐殺しました。私は大隊長、藤崎秀一中佐の命令により、歩兵砲中隊長、手塚好雄中尉とともに連帯の砲兵小隊にくしゃみ性ガス弾3発を発射するよう命じました。弾は村の中央の民家に命中し、老人、婦人あわせて15名を殺害しました」

 彼は以上の証言をくり返した後、確信に満ちた口調で、次のように語った。

 「日本軍はこれまで窮地に陥ったとき、もしくは撤退時にしか毒ガスは使わないといってきましたが、それはまったくちがいます。1942年、私が第59師団に編入され中国に赴いた当時、八路軍のいる村を包囲してから毒ガス筒を発射していました。これは明らかに国際法に違反する犯罪です。私は現在、化学兵器を使った行為をひどく恥じ、後悔し、申し訳なく思っています」


 金井さんが発言していたとき、隣に座っていた銀髪の金子安次さんは落ち着かない様子だった。はたして、金井さんの話が終わるか終わらないうちに金子さんは立ち上がると、まず、自分が山東省新泰で参加討伐戦で毒ガスを使った経緯を話し出した。

 「1941年10月中旬、44大隊は新泰県の某村に侵入しました。第2中隊、有森元治大尉の指揮で催涙性毒ガスを放って攻撃をかけ、八路軍の兵士30名および民衆120名を惨殺しました。私はガス弾1個を放ち、わら山に火をつけ、村に火事を起こしました。同時に歩兵銃で、村から逃げ出してきた3名の農民を銃殺しました。火が収まると、村に侵入し、農民5名が井戸に身を隠すのを見つけ、上等兵の鈴木松太郎とともに60キロくらいある石と、さらに手榴弾を井戸に投げ込み、彼らを惨殺しました。

 そのときの進攻は今でも私の記憶に残っています。私は杉という老兵と一緒に一軒農家に踏み込み、1人の女性がいるのを見つけました。杉は強姦しようとしましたが、その女性が必死に抵抗したため、怒って軍刀でその女性の頭をかち割り、その死体を外の井戸に投げ込むのを私に手伝わせたのです。そのとき、4歳ぐらいのこどもが『媽媽(マーマー)(お母さん、お母さん)』と泣き叫びながら、椅子を井戸のところにもって来て、見る間に井戸に飛び込んだのです。杉は井戸に手榴弾を投げ込みました。このときの悲惨な情景は一生忘れません。

 私はいつもいうのですけれども、子どもたちは戦争のことをなにも知らない。知ろうともしない。たとえば私たちの帰還者連絡会で出した侵略戦争を批判した本もたくさんあるんです。その本を読めといってもなかなか読んでくれない。『お父さん、これを読んだら怖くて飯が食えないよ』と途中で投げ出してしまう。私は、若い人が戦争のおそろしさを知り、戦争の事実を知って、戦争が起こることを防いでほしい。それが戦争をやった私たちのやらねばならない任務であると思います」

 多くの人が金子さんの発言に共鳴したのだろう。場内に拍手が起こった。……。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

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Giant Earthquake And Tsunami in Japan 2011.03.11─── What can I do ?

2011年03月20日 | 国際・政治
Giant Earthquake And Tsunami in Japan at 2011.03.11 is called "GreatTohoku Kanto Earthquake Disaster "
I watch the news about the victims of "Great Tohoku Kanto Earthquake disaster" every day.
And I am very sad to watch its predicament of the victims.
I want to do anything and I thought about what I can do.
Now various kinds of Homepage of Japanese language includes many safety informations of persons of a wide area.
And I thought that there are some persons who want to know safety of their blood relationships or their acquaintances or their friends but can't read the Homepage of Japanese language.


I am weak in English. But if things go well,it is possible to inquire intothe confirmation of the safety of your blood relationship or your acquaintanceor your friend instead of you.
I can't write English accurately. But I can read English a little becauseI have my own dictionary. It may be possible for me to inform you of safetyof your blood relationship or your acquaintance or your friend.
If it is possible to help you, I am glad.

3/18 asahi --- This number continues increasing.
The death toll (5,694)
The number of the missing peoples(17,328)
The number of safe shelters(More than 2,000)
The number of refugees(418,827)

I usually study various war crimes of Japan. But Japan is emergency nowso I want to do anything.

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日本軍の毒ガス戦 無辜の被害者 地下道の悲劇

2011年03月11日 | 国際・政治
 中央大学の吉見義明教授は、ワシントンの国立公文書館で見付けた米軍極秘文書や米太平洋陸軍参謀第2部の報告書などによって、日本軍の毒ガス製造の全容が、ほぼ明らかになったという。そして、日中15年戦争時に日本軍が製造した毒ガス兵器は、致死性のイペリットやルイサイトを含み、実に746万発に達するというのである。また、旧陸軍造兵廠の記録の一部からだけでも、200万発の製造が確認できるという。
 ここでは、そうした日本軍の毒ガス兵器によって被害を受けた人たちの、悲惨な被害状況の一例を「日本軍の中国侵略と毒ガス兵器」歩平著ー山辺悠喜子・宮崎教四郎監訳(明石書店)から抜粋した。こうした毒ガス兵器の使用が、下記にあるように「晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表」され 、国際的に知られることとなったと思われる。(但し、村名で・に変わってしまった文字は田へんに童である)
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                第8章 無辜の被害者

 河北定県北?(ペイトワン)村事件

 1942年5月下旬、日本軍第110師団は訳1500名の兵力を動員し、河北省安平県安平北の滹沱(トウオホ-)河と瀦龍(チューロン)河の間で「冀(チー)(河北)中侵略作戦」を展開した。日本軍は大量の毒ガス兵器の使用より、定県北村?の地下道に避難していた農民を虐殺、800余の無辜の市民を毒ガスによって窒息死させるという事件を引き起こした。

 1942年5月26日、日本軍は主力をもって中国八路軍のゲリラ隊を包囲攻撃、27日払暁、付近の東城、西城、東湖、太平湖、解家荘の五か村の全農民を北?村に追い詰めた。1000余名の農民は地下道に避難。戦闘は払暁から正午まで間断なく続いたが、中国軍は弾丸が尽き、日本軍がを占拠すると、定県大隊の副政治委員・趙曙光率いる一個中隊と民兵が、地下戦を行った。日本軍は八路軍との地下道戦に苦しみ、形勢が不利になると、狂ったように地下道を探す。すでに人心を失した日本軍は、地下道口を見つけるとまず、両端をふさぎ、なかに向かって毒ガス弾を投擲した。大量の「あか筒」と「みどり筒」に点火後、地下道にほうり込み、同時に柴草に火をつけて入り口に投げ入れ、すぐにふとんで入り口をふさいだ。地下道内では毒ガスがすぐに充満し、煙が立ち昇ることによって、たくさんの穴の存在が日本軍に知れ、さらに多くの毒ガス弾が投入された。地下道に隠れていた人びとは、まずヒリヒリする刺激臭、火薬臭、甘い臭いを感じ、やがて涙とくしゃみが止まらず、呼吸困難に陥った。まもなく地下道内は混乱をきたし、人びとは出口を求めて逃げ惑い、叫び声、罵り声、うめき声がうずまいた。まもなくそれらの阿鼻叫喚は次第に弱り、うめき声とあえぎ声を残すだけとなり、人びとは苦しみに土壁に爪をたて、つかみ、ころがり、5人10人と窒息して息を引き取っていった。死体のなかには、頭を地面に突っ込んだもの、自分の服をずたずたに切り裂き壁に頭をぶつけているもの、満面唾液と吐物にまみれたもの、子どもを抱いた母子や父子など無残な姿が見られた。

 40過ぎの王牛児が2人の息子を連れて地下道に入り、10歳の長男、8歳の次男は父親の両膝を枕に死んだ。32歳の李菊は、1歳にならぬ乳飲み子を抱き、赤ん坊は母親の乳をくわえたまま、ともに死んだ。ある50過ぎの女性は、両腕に10歳ぐらいの2人の女の子と手をつないで、仰向けに死んでいた。その光景の悲惨さは、目を覆うばかりであった。比較的強健な人びとはなんとか穴まで這って出たものの、そこに待っていたのは虐殺の刀であった。このように、武器を持たない一般の農民約800余名が日本軍の毒ガスによって殺されたのである。

 同村の生存者の一人、李化民の供述によると、このとき(同村および他の村の)800余人(多くが毒ガスによる被毒)が殺害され、農家36軒が焼かれ、62名の青壮年が錦州炭鉱に強制動員され、後に9名が逃げ帰ったが、その他の者は行方不明のままとなった。事件が起こったのは5月、気候が暑くなったころで、北?村全体に屍が散乱し、臭気が天を覆った。何の変哲もない平和で活気のあった村が、日本のファシストによって荒らしつくされ、砲火と毒ガスによって、屍の荒野に変わりはてた。

 この悲惨な事件の発生は、全国各界の強烈な義憤を呼び、晋警察冀軍区司令部は6月26日、全国の同胞、全世界の人びとに向け、日本軍の北?村における残虐行為を打電公表した。世界の公理、公法と正義を守るため、今回日本のファシストが北?村の800人の無辜の人民を毒殺した極悪非道の罪状を世界の人びとの前に明らかにした。呼びかけの電文には義憤があふれ、日本軍の北?村における暴行の全貌が記述されていた。

 「日本軍の悪辣な魔の手の下、地下道に避難した無辜の人民800余名は、大部分が、杖を手にした老人や、無抵抗の婦人、子ども、病弱者、乳児であったが、全員が毒ガスによる窒息死を遂げた! 日本のファシストらがこれらの人びとに行った罪行は未来永劫に消し去ることはできない。これは、公理、公法、正義を公然と無視、冒瀆するものだ。すべての正義の民に対する挑戦である!日本ファシストの強盗どもが共産党根拠地の辺境区で行った放火、殺人、強姦、略奪の各種罪行は、すでに枚挙にいとまがない。が、今回の事件は国際公法に違反し、無辜の民衆に毒ガスを放ったのである!その残酷非道のありさまは、人類を敵に回そうという魂胆をますます明白にするものである。この前代未聞の人民に対する大虐殺は、日本ファシストが、すでに世界の公理、公法と正義の最後の垣根を越えたことを、はっきりと証明するものである。世界の公理、公法、と正義を守るため、我々は全世界のすべての正義の人士にあらゆる手立てを使って、これら公理、公法、正義を破壊する日本ファシストの強盗どもに断固たる制裁を加えることを求めるものである」


 同日、「晋警冀日報」は「敵、冀中において毒ガス放射、北坦(?)の同胞800人が非業死、必ず深い恨みに報復す」と題し、前述の檄文を全文転載し、日本の侵略者が引き起こした北?村事件に血と涙の告発をおこなった(『細菌作戦と毒ガス戦』467~471ページ参照)。


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中国戦線 日本軍の毒ガス攻撃-宜昌攻防戦

2011年03月10日 | 国際・政治
 国民党政府が臨時首都を置いた重慶をにらむ要衝の宜昌(重慶爆撃の中継基地)は、日本軍第13師団が守備していたが、主力部隊が湖南省長沙への攻撃で手薄になったところへ、守備する日本軍に数倍する大兵力で、国民政府軍が奪回の攻撃に出た。1941年10月のことである。
 宜昌の周囲60余りの拠点を占領され、完全に包囲されて危機的状況に陥った第13師団の師団本部は、「通常弾とともに、ありったけのガス弾を撃て」と隷下の部隊に命じ、何とか危機を脱したのである。それに関連する記述が、例証集(ワシントンの米国立公文書館にある国際検察局文書のなかから粟屋憲太郎教授が発見した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」)に残されているという。
 下記は、その宜昌攻防戦に関係する部分と、米国記者の証言の部分を『隠されてきた「ヒロシマ」毒ガス島からの告発』辰巳知司著(日本評論社)から抜粋したものである。
 中国の紀学仁教授によると、攻撃主力の2つの師団だけで1600人以上が被毒し、うち600人が死んだとのことである。防毒マスクなどの防護器材がなかったために、あと一歩のところで撤退を余儀なくされたという。
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                 第2章 宜昌攻防戦

 米国記者の証言

 日本軍の毒ガス戦のなかで、最大規模といわれる戦闘のひとつに1941(昭和16)年に起きた宜昌攻防戦がある。
 湖北省・宜昌は、揚子江で結ばれた華中の都市武漢と国民党政府が臨時首都を於いた重慶の中間点にある要衝で、揚子江沿いの港を中心に市街地が広がり、揚子江を背に三方が丘陵で囲まれた町である。現在では揚子江下りの観光名所「三峡」の大渓谷を形成する大巴山脈の入り口としても知られている。
 藤原彰・元一橋大学教授の『昭和天皇の15年戦争』(青木書店、1991年)によると、日本軍は大本営の命令により、1940(昭和15)年6月中旬、宜昌を占領し、その後、重慶に対する大規模な戦略爆撃の計画が持ち上がると、昭和天皇の意向もあり、重慶爆撃の中継地点として宜昌を再占領し、以降、陸軍第13師団が駐留した。
 宜昌の市街地近くで大規模な毒ガス戦が実施されたのは、第13師団の主力部隊が湖南省長沙への攻撃に加わり、宜昌が手薄になったところへ、中国国民党第6戦区が反転攻勢に出たことがきっかけであった。


 例証集でも、この戦闘について「きい弾及あか弾ヲ稍々大規模ニ使用シ優勢ナル敵ノ包囲攻撃ヲ頓挫セシメタル例」として取り上げ、戦闘のもようを生々しく伝えている。それによると、毒ガス戦は10月7日から11日まで実施されきい弾1000発、あか弾1500発が使われた。例証集では実施年は書かれていないが、別の資料や証言により1941(昭和16)年の出来事であることは間違いない。気象は、10月7日から9日までは晴れ、北西の風1メートル、10日、11日は曇り、北東の風1.5メートル。この毒ガス戦の結果、「敵ノ攻撃企図ヲ挫折シタルノミナラズ密偵報其ノ他諸情報ヲ総合スルニ瓦斯ノ効果ハ大ナリシモノノ如シと、効果が極めて大きかったことを記している。
 例証集はさらに、この戦闘からの教訓として ①毒ガスと通常火力の併用が肝要 ②遠距離にきい弾、近距離にあか弾を使用すると効果的──の2点を挙げた。


 このように、例証集では宜昌での毒ガス戦を成功例として伝えているが、日本軍の戦闘が成功し、規模が大きくなればなるほど、犠牲も増大する。宜昌の毒ガス戦を、攻撃された側から、第3国の立場で取材・証言していた人がいた。米国INS(インターナショナル・ニュースサービス)通信社のJ・ベルデン記者である。

 ・・・

 そしてベルデン記者は10月12日、野戦病院で毒ガスによって殺されたという2人の死体を見たもようを証言している。体は茶色、赤色、黒色の斑点で覆われている、皮膚組織は破壊されているように見えた。外傷はなかった。
 翌日の10月13日、ベルデン記者は司令部で被毒した2人の中国人兵士と会った。以下は証言記録の原文翻訳である。


 「2人とも身体に非常に悪い火ぶくれの徴候がでていた。火ぶくれのいくつかは、手のつめぐらいの大きさで、他のいくつかはテニス・ボール大だった。いくつかは、皮膚がピンと張った状態でふくれあがって硬くなっており、いくつかは、身体からぐにゃりと垂れ下がり、身体が動く度にある種の液体が火ぶくれの内側で動いて、それを揺り動かしていた。火ぶくれができた部分の皮膚は、非常に白く見え、その縁はやや黄色がかって、しわがよっていた。2人にとってより危険なことは、火ぶくれが両腕・両足・腹部それに最もひどいものが背中にあることだった。1人の顔には火ぶくれが破れたところに大きな赤色・黒色・こげ茶色の斑点があらわれていた。小隊副長のこの男は非常な痛みを訴え、私たちが背中の大きな火ぶくれを見ることができるようにするために座るとき、注意して起き上がらなくてはならなかった。彼は全く食欲がなく、頭痛と熱を訴えた。
 彼は、宜昌市の外側にある飛行場を見おろせる高台である東山寺付近を攻撃中に負傷した、と私に語った。日本軍は頑強に抗戦したが 、日本軍の機関銃が激しくなり攻撃が止まるまで、時々攻撃が繰り返され、大隊長はその位置を死守するように命令した。集団はその地点に一昼夜とどまり、10月8日、日本軍はガス弾を撃った。その地区の26人のうち、8人が生きて救出された。ガス攻撃の間、多くの者が視力を失い、幾人かが咳き込み、幾人かはしゃべれなくなった。一人の分隊長は呼吸ができなかった。最初、彼は自分の症状を真剣に考えなかった。彼の目はひりひりと痛み、傷つき、彼は少し泣いた。1時間半後、皮膚がかゆくなり、25分後、身体は火ぶくれができはじめ、大層痛みだした。2時間後、無感覚で半分意識喪失の半まひ状態になった。彼は、約6時間後、自分の手足を正常に動かすことができなかった、といった。
 何が一番痛かったかと言うと、火ぶくれの中の液体が動くことが一番痛かった、と彼はいった。ガスに対して、中国軍兵士は何ができたか、と聞くと、『そこにとどまって死ぬ以外なにもできないよ』と彼は答えた。」


 米陸軍参謀第2部は、ベルデン記者の証言や中国戦線から回収した不発弾の内容の調査結果などの証拠から日本軍の毒ガス使用を確認。米軍記録「中国における日本の毒ガス使用」のなかで、「日本軍は必要な時、利益があると判断した時は、間違いなくいつでもどこでもガスを使うだろう」と結論づけた。
 また、中国人民解放軍の内部研究書「化学戦史」は、この戦闘で1600人あまりが被毒し、うち約600人が死亡した、と記述している。
 


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中国戦線における日本軍の毒ガス戦

2011年03月04日 | 国際・政治
 「未決の戦争責任」粟屋憲太郎(柏書房)によると、日本軍の中国戦線における大規模な毒ガス使用は、下記の北支那方面軍の晋南粛正戦からのようである。その後、中支那派遣軍も徐州会戦・安慶作戦、武漢作戦などであか筒あか弾を多用している(武漢作戦については下段に追加あり)。1939年以降も、修水渡河作戦、新墻河渡河作戦、奉新附近の戦闘、大洲鎮附近の戦闘などで毒ガス攻撃をしており、華南における翁英作戦では、最初のきい剤(イペリット)の使用が確認できるという。さらに、宣昌攻防戦での日本軍によるイペリット使用は、当時すでに国際的にも知られていたという。それは、形勢が不利になると、苦境を脱するために徐々に毒ガス兵器に頼るようになり、毒ガス兵器使用を秘匿するという配慮が影を潜めて、イペリットなどの糜爛性ガスを頻繁に使用するようになっていったことを物語っていると思われる。

 旧軍関係者その他に、日本軍の中国戦線における毒ガス使用を否定する動きがあるが、下記の毒ガス使用を秘匿しようとした軍の意図と重なって見える。しかし、この毒ガス使用の作戦命令が、天皇の裁可を得て発せられており、下記の命令も大陸指(大本営陸軍部指示)である事実を忘れてはならないと思う。当初は、知られてはならない作戦だったのである。また、これらの毒ガス戦は、著者が米国立公文書館にある国際検察局文書の中から見つけ出した陸軍習志野学校案「支那事変ニ於ケル化学戦例証集」などを中心とする日本側公文書によって裏付けされていることも重要である。
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               Ⅴ 毒ガス作戦の真実

 中国戦線での毒ガス作戦


 ・・・
 こうして、38年4月11日、閑院宮参謀総長から寺内寿一北支那方面軍司令官・蓮沼蕃駐蒙兵団司令官に対し、占拠領域の確保安定に関して次のような命令(大陸指110号)が出された。

 「左記範囲ニ於テあか筒軽迫撃砲用あか弾ヲ使用スルコトヲ得
  (1)使用目的 山地帯ニ蟠居スル敵匪ノ掃蕩戦ニ使用ス
  (2)使用地域 山西省及之ニ隣接スル山地地方
  (3)使用法 
 勉メテ煙ニ混用シ厳ニ瓦斯使用ノ事実ヲ秘匿シ其痕跡ヲ残ササ
          ル如ク注意スルヲ要ス」
(大陸指綴」2巻)

 こうして、あか剤の最初の大規模使用の戦場として山西省を中心とする奥地が撰ばれたことになるが、交付された資材は、北支那方面軍に、軽迫撃砲用あか弾15000発・あか筒4万本、駐蒙兵団にあか筒1万本であった。
 駐蒙兵団は、6月中に第26師団が行った綏遠省東南地区(清水河、和林格爾附近)の戦闘であか筒の使用を準備したが、「状況之ニ適セサリシ為」使用を中止した(駐蒙軍参謀長「発煙筒使用ニ関スル報告提出ノ件」1938年7月14日)。


 他方、北支那方面軍司令官は4月21日、「方軍作命甲第293号」において香月清司第1軍司令官にたいし参謀総長の命令を伝達し、岡部直三郎参謀長はあか弾・あか筒の「集結使用」を指示した(「第1軍機密作戦日誌」、以下これによる)。これをうけて第1軍司令官は5月3日、「特殊資材使用ニ伴フ秘密保持ニ関スル指示」を交付した。この文書で注目される点は毒ガス使用の企図、使用した証跡などを徹底して秘匿するために次のような指示をしていることである。
  
 すなわち、(1)ガス資材の筒・収容箱の標記を予め削除すること、(2)使用後のあか筒は蒐集して持ち帰ること、(3)教育には印刷物を使わず、被教育者以外の立入りを禁止し、修得事項の口外を禁止すること、(4)使用の場合「使用地域ノ敵ヲ為シ得ル限リ殲滅シ以テ之カ証跡ヲ残ササル如ク勉ム」ること、(5)住民の居住地域や外部との交通の便利な地点での使用を避けること、(6)毒ガス資材を「敵手ニ委セサルヲ期す」こと、(7)資材の運搬に現地住民や傭役車馬を利用しないこと、(8)毒ガスを使用したとの敵側の宣伝に対しては毒煙でなく単なる煙であると宣明すること、などである。

 国際法を意識し、いかに使用事実を秘匿するかに注意を集中している有様がよくうかがえる。このような指示は、その後の毒ガス戦でもくりかえしだされることになる。


晋南粛正戦
 1938年5月23日北支那方面軍は、徐州作戦の支作戦での毒ガス使用を決意し、第1軍に対しあか弾・あか筒の使用を許可し、これをうけて第1軍は109師団にその使用を許可し、実戦使用の段階に入った。ところが、この間に第20師団が候馬鎮・曲沃方面で中国軍の頑強な抵抗をうけ、臨汾・新絳が危機に陥る中で、27日、第1軍は第20師団にまずあか弾の使用を許可した。しかし、危機的状況が続いたために、6月15日、新任の梅津美治郎第1軍司令官は川岸文三郎第20師団長に対し、「一軍作命甲第263号」であか筒の使用をも許可し、飯田祥二郎参謀長は「主力ノ攻撃ニ際シ急襲的ニ之ヲ使用スル」よう命令した。こうして、毒ガスは晋南粛正戦で大規模に使用されることになる。第20師団には第1~第4特種指導班と迫撃第3大隊が配属されたが、「例証集」戦例11によれば18000本の中あか筒が準備されたという

 そして万全の準備を整えた後、7月6日払暁から、曲沃南方、絳県北方高地帯の中国軍に対し、大規模なガス攻撃が行われた。第20師団の報告(第1報)によれば、その状況は次のとおりであった。

 「第20師団ハ7月6日払暁ヨリノ攻撃ニ当リ其ノ部隊正面ニ於テ儀門村及北楽村各南方高地ノ線ニ4・5千米ニ亘リ6・7千筒ノ特種発煙筒ヲ使用セリ、尚時風北北東1米70、煙ハ克ク低迷ス、最初敵ハ発煙開始ノ信号弾ヲ見テ盛ンニ射撃ヲ開始スルモ煙ノ到達ト共ニ射撃ヲ全ク中止ス
 歩兵部隊ハ直ニ南下環及南樊鎮ノ線ヲ奪取シ更ニ其ノ南方地区ニ向ヒ前進シツツアリ、但シ煙ノ一部(一割以下ナラン)ハ風向及風速ノ動揺ニ依リ我カ方ニモ流来シ一部防毒面ヲ装着スルヲ要セリ」


 ここでの「特種発煙筒」とは、毒ガスのあか筒をさす秘匿保持のための用語である。
 これは「例証集」戦例11に収録されている曲沃附近の戦闘の記述と一致する。これによれば、あか筒の放射数は約7000本で、第1線部隊はほとんど損害なく、一挙に約3粁を突破したが、北董村附近では「毒煙逆流シ成果ノ利用十分ナラザリシ部隊アリ」ともいう。

 しかし、ガス攻撃はこれだけに止まらなかった。翌7日の第20師団の報告(第2報)によれば、「曲沃南方地区ニ於テハ7日未明東韓村ヨリ南吉ニ亘リ約3粁ノ正面ニ亘リ約3千箇ノ特種発煙筒ヲ使用シ煙ハ澮河ニ沿ウ地区ヲ西方ニ流動シ次テ風向ノ変化ニ依リ曲沃西方高地脚ヲ流セル若干ノ煙ハ澮河北岸ニモ流来セリ、曲沃南方澮河北岸ノ敵ハ6日夜盛ニ射撃セルモ朝迄ニハ退却セルモノノ如シ」という状況であった。
 こうして、この戦闘では2日間に約1万本のあか筒が使用されたのである。第20師団は迫撃を続行し、運城を占領して晋南粛正戦は終了した。

 ・・・(以下略)

追加-「毒ガスの島-大久野島悪夢の傷跡」(中国新聞社)--------
 吉見教授は84年、日中戦争の「武漢攻略戦」(38年)で少なくとも375回の毒ガス使用を裏付ける資料を米国議会図書館作成のマイクロフィルムから発見。その後も宣昌攻防戦(41年)などでの日本による猛毒のイペリット大量使用を分析した米軍の極秘文書や、終戦後に大久野島の毒ガス処理を行った英連邦軍の報告書などを次々と発掘してきた。

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