真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本軍の私的制裁の種類や理由

2019年12月28日 | 国際・政治

 明治維新を成し遂げた薩摩・長州(薩長)が、自らに都合よく解釈した歴史観は、「薩長史観」と呼ばれます。そして、それは薩長が勝者として歴史を創作しているという批判的意味で使われているように思いますが、大事なことは、明治以来の日本の歴史教育は、概ねこの薩長史観に基づいて行われてきたという事実ではないかと思います。

 戦後の歴史教育も戦前と変わらず、「薩長=官軍=開明派」「旧幕府=賊軍=守旧派」という単純な図式で色分けされ、開明的な薩長だからこそ、新しい日本をつくりあげることができた、というように描かれていると思います。
 でも、もともと尊王攘夷をかかげて幕府を倒した薩長が、その後一転、領土拡張(大陸侵略)政策をとったこと、神話に基づく天皇支配の正当性を国民に押し付け皇国日本をつくって、天皇の軍隊である日本軍兵士に降伏を許さなかったこと、したがって、捕虜となることも許さなかったことなどは、日本にとってきわめて重大な過ちだったのではないかと思います。
 先の大戦で、日本軍が多数の中国人捕虜を虐殺したり、情報を得るために一般住民まで拷問したりしたということは、そこに源泉があるように思うのです。

日本軍閥の祖」といわれる山縣有朋は、日清戦争当時、すでに、
敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。決して敵の生擒(セイキン)する所となる可からず。寧ろ潔く一死を遂げ、以て日本男児の気象を示し、日本男児の名誉を全うせよ
と、後の「戦陣訓」を先取りしたようなことを言っています。

 その戦陣訓には、「第三 軍紀」に
皇軍軍紀の神髄は、畏(カシコク)くも大元帥陛下に対し奉る絶対随順の崇高なる精神に存す。
 上下斉(ヒト)しく統帥の尊厳なる所以を感銘し、上は大権の承行を謹厳にし、下は謹んで服従の至誠を致すべし。尽忠の赤誠相結び、脈絡一貫、全軍一令の下に寸毫紊るるなきは、是戦捷必須の要件にして、又実に治安確保の要道たり。特に戦陣は、服従の精神実践の極地を発揮すき處とす。死生困苦の間に處し、命令一下欣然として死地に投じ、黙々として獻身服行の実を挙ぐるもの、実に我が軍人精神の精華なり
とあり、「第八 名を惜しむ」に、あの有名な
恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈愈(イヨイヨ)奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ
という一節があります。

 また、何度も取り上げていますが、1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜したという「軍人勅諭」は、徳目として「忠節」、「礼儀」、「武勇」、「信義」、「質素」の五つをあげ、その「忠節」に関して、下記のように記しています。
一 軍人は忠節を盡すを本分とすへし凡(オヨソ)生を我國に稟(ウ)くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况(マ)して軍人たらん者は此心の固(カタ)からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固(ケンコ)ならさるは如何程(イカホド)技藝に熟し學術に長するも猶偶人(グウジン)にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正くとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同(オナジ)かるへし抑(ソモソモ)國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消長(セウチョウ)は是國運の盛衰なることを辨(ワキマ)へ世論(セイロン)に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山嶽(サンガク)よりも重く死は鴻毛(コウモウ)よりも輕しと覺悟せよ其操(ミサヲ)を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ

 日本軍の大部分の兵士は、こうした考え方によって、自らの行動はもちろん、自らの生死さえ自ら決めることができない異常な精神状態に追い込まれていたということではないかと思います。
 だから日本軍は、厳正さを維持するために、軍規を犯した者を厳罰に処するしかなかっのではないでしょうか。

 日本の陸海軍は、1929年にジュネーヴで締結された「俘虜の待遇に関する条約」、いわゆるジュネーヴ条約の批准に反対しました。吉田裕教授によると、海軍は、
本条約の俘虜に関する処罰の規定は帝国軍人以上に俘虜を優遇しあるを以て海軍懲罰令、海軍刑法、海軍軍法会議法、海軍監獄令等諸法規の改正を要することとなるも右は軍紀維持を目的とする各法規の主旨に徴し不可なり”(「極東国際軍事裁判速記録」第261号
という理由をあげたといいます。軍紀維持のために、ジュネーヴ条約の批准は受け入れられないというわけです。だから、日本の軍隊は、軍紀が厳しくなければもたない軍隊だったということではないかと思います。それが、日本軍の内務班で広く行われたという私的制裁とも深く関わっていたのではないでしょうか。

 俘虜の処遇や俘虜の考え方に、日本軍の人命軽視、人権無視の体質が象徴的にあらわれているように思うのですが、それが、下記に抜粋したような日本軍の私的制裁とも深くつながっていたのだろうと、私は思うのです。

 先日、日本大学アメリカンフットボール部反則タックル問題で警視庁に告訴された監督とコーチが、選手への指示が認められなかったとして「嫌疑不十分」により不起訴処分となったことが報じられました。反則行為をした選手本人が、以前、会見で深々と頭を下げて謝罪したにもかかわらずです。あの謝罪が偽りであったとは私には思えません。真実はわかりませんが、何か戦前から受け継いでいる悪弊がいまだに残っているような気がしてなりません。いろいろなスポーツの団体や組織で、パワハラや体罰が報道されたびに、そんな気がするのです。

 下記は「日本陸軍 兵営の生活」藤田昌雄(光人社)から抜粋しました。
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④内務班の問題
 内務班での教育は「内務班長」と「二年兵」たちが、新兵である「初年兵」に対して教育を行うことになっているが、実際の場合は洗濯や装具手入れなどをはじめとして「二年兵」の身辺の世話を「初年兵」が行うことになるため、「初年兵」自身の自己の時間が欠如することから、結果として自己の被服の洗濯ができなかったり、毎日の入浴が不可能なケースも多く、また「教育」や「学科」の名称での理不尽な私的制裁も多々行われた。
 このほかにも内務班内で物品を紛失した時に、物品の定数を合わせるために他の内務班より盗んできて定数を合わせる、いわゆる「員数合わせ」が一般的に兵営内で行われていた。

⑤私的制裁
 陸軍では私的制裁は禁止されていたが、多くの内務班で教育・指導の名目で初年兵は二年兵より公然と私的制裁を受けるケースがほとんどであった。
 私的制裁の種類には「ビンタ」「花魁(オイラン)」「魚の絵」「チャンチュー」「安全装置」「自転車」「せみ」「鶯の谷渡」「洗矢(アライヤ)見習士官」「三八歩兵銃殿」「カンカン踊り」「最敬礼」「整頓崩し」等があるほか、班全体で「無視」を行うなどの精神的な制裁もあった。
 これらの制裁は各部隊によって大小の差異はあるが、P139表に代表的な私的制裁のスタイルを列記する。(表をもとに、下記に書き出しました)

 私的制裁一覧
〇ビンタ
 一番スタンダードな私的制裁の方法であり、平手で頬を殴るのが一般的であるが、時として拳を用いる「鉄拳制裁」や、エスカレートすると「帯革」や「上靴」を用いるケースもある。
 また、初年兵同士を向かい合わせて、お互いにビンタを行わせる「対抗ビンタ」もあり、二列横隊に並んだ初年兵に対して「前列一歩前へ、回れ右。後列足を開け。奥歯をかみしめろ。前列。前の者を殴れ」等の号令がかけられ、対抗ビンタが行われた。

〇花魁
 内務班の銃架から小銃を1~2挺外した個所を遊郭の飾り窓と見立てて、罰を受ける初年兵が遊女役となり、廊下を通る二年兵を客と見立てて「兵隊さん、寄ってらっしゃい」等と声をかけさせる制裁

〇魚の絵
 枕覆(枕カバー)が汚れている場合に、汚れを落とす洗濯と、魚が水をもとめることをかけて枕覆にチョークで魚(金魚)の絵が描かれることがあり、落とすのに苦労するほか、この枕覆を頭部に被ったり胸に懸けたりして他の内務班に挨拶に行かされる場合もある。

〇チャンチュー
 右手の人差指で鼻の頭をはじく制裁であり、一気に飲むと鼻にくるアルコール度数が高い「チャンチュー」と呼ばれている「支那酒」に由来している。

〇安全装置
 小銃の安全装置を動かす要領で、安全装置に見立てた相手の鼻の頭に右手の掌を強く押しつけて左右に動かす制裁。

〇自転車
 並べた机の間に腕で身体を支えて、自転車をこぐ動作をさせる制裁であり、二年兵からは「上り坂」「下り坂」等の注文が付けられ、自転車をこぐ速度が指示される。
 時として片手での敬礼や、手放し運転等の理不尽な注文をつけられることもある。

〇蝉
 初年兵を蝉に見立てて、内務班の柱に登らせて「ミーン、ミーン」等と蝉の鳴き声を出させる制裁。

〇鶯の谷渡り
 並べた寝台の下を初年兵に潜らせて、最後の寝台から顔を出させて「ホーホケキョ」と鶯の鳴き声を出させる制裁

〇洗矢見習士官
 小銃手入れ用の「洗矢」を軍服上着の剣釣に引っ掛けて、帯剣した見習士官の真似をさせて、各内務班を練り歩かせる制裁

〇三八式歩兵銃殿
 小銃の手入れが不十分な場合に行われる制裁であり、小銃に対して詫びを入れさせながら長時間にわたり捧銃(ササゲツツ)を行なわせる。

〇カンカン踊り
 炊事場で行われる制裁であり、返納した食器類が汚い場合に飯櫃(メシビツ)や汁桶を頭に被らせてカンカン踊りを行わせる。

〇最敬礼
 同じく炊事場で行われる制裁であり、返納した食器類が汚い場合に、調理のために切り落とした魚の頭などに最敬礼を行わせる。

〇整頓崩し
 内務班の初年兵の装具類の整理・整頓が悪い場合に、積んである被服・装備類を崩して内務班中にまき散らす制裁
 その惨状から「台風」「台風通過」等とよばれる場合もある。

 

 私的制裁の原因の多くは「二年兵が初年兵に対して義憤を感じて行なう」ケースが多く、このほかに「自分が過去に加えられたため」「二年兵ぶって行う」「叱責を受けた場合」「進級に遅れたため」「他人の制裁に同調する場合」等がある。
 私的制裁の行われやすい時間は、「夕食後等、班長が自室に戻った後」「日夕点呼後」「消灯後」が多く、行われやすい場所は「内務班」を筆頭に「倉庫の裏」「洗濯場」「物干」「炊事場」「中隊の自習室や空室」「教練実施中」等であり、多くの内務班では「私的制裁」を「学科」等の呼称で呼んでいた。
 これら私的制裁の原因と詳しい内容をまとめると右表のようになる。(表をもとに、下記に書き出しました)

私的制裁原因一覧
二年兵が初年兵に対して義憤を感じて行なう
〇初年兵が二年兵に礼儀を失した場合   ・敬礼を忘れる     
                    ・物の言い方が乱暴な場合                           
                    ・態度が不遜な場合
                    ・二年兵の注意を聴かない場合


〇初年兵が自己の任務を完全に遂行しない ・怠慢に失する場合
 場合                 ・横暴な場合           
                    ・上官の注意を守らない場合               
                    ・内務の実行が不確実な場合
                    ・武器・被服・装具の手入れが不十分な場合                   
                    ・諸規定の実施が不確実な場合


〇自分が過去に加えられたため      ・自分が初年兵の時に制裁を受けたために、自分やらなければ損であるという考えから私的制裁を行うケース


〇二年兵ぶって行う           ・ただ単に二年兵ぶって、漫然と初年兵に私的制裁を加えるケース


〇叱責を受けた場合           ・上官より叱責された場合に、腹立ちまぎれに初年兵に当たり散らすケース
                    ・上官より叱責された原因を、初年兵のために怒られたと曲解して私的制裁を加えるケース


〇進級に遅れたため           ・進級に遅れた私憤を初年兵に持っていくケース


〇他人の制裁に同調する場合       ・他人の制裁を見て、自分も参加するケース
          

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日本軍の「私刑」と「殺人教育」

2019年12月24日 | 国際・政治

 皇軍といわれた日本の軍隊は、いろいろな面で特異な軍隊でした。でも、今はその特異性が忘れられつつあるように思います。だから、今回は「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から、日本軍の内部で広く組織的に行われた「私刑」すなわち私的制裁(リンチ)と「殺人教育」についての部分を抜粋しました。日本軍の人権無視や人命軽視の体質は、日本の戦争や皇国日本の実態を考える上で、無視されてはならないことだと思うからです。

 「第七章 私刑」では、殴る、蹴るについての制裁部分のみを抜粋しましたが、「ウグイスの谷わたり」や「セミ」、また「自転車乗り」などと名づけられた制裁についても、証言に基づいて、取り上げています。こうした日本軍の野蛮な側面は忘れられてはならないことではないかと思います。
 また、「第十一章 殺人教育」についてでは、下記の文中に”殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。”とありますが、見せるだけではなく、命令したこともあったことを見逃すことができません。

 陸軍第五十九師団師団長陸軍中将藤田茂筆供述書に「俘虜殺害の教育指示」というのがあります。部下全員を集めて、次の如く談話し、教育したというものです。
 「兵を戦場に慣れしむる為には殺人が早い方法である。即ち度胸試しである。之には俘虜を使用すればよい。4月には初年兵が補充される予定であるからなるべく早く此の機会を作って初年兵を戦場に慣れしめ強くしなければならない」
「此には銃殺より刺殺が効果的である

 次々に初年兵が送られてくるために、こうした考え方に基づいて、国際法違反の捕虜の殺害が常態化していったのではないかと思います。当時初年兵として実際に中国人の捕虜刺突を命ぜられた土屋芳雄氏の証言が、「聞き書きある憲兵の記録」朝日新聞山形支局(朝日文庫)に出ていました。

昭和7年(1932年)1月のある日だった。入営して二ヶ月にもならない。兵舎から200メートルほど離れた射撃場からさらに100メートルの所に、ロシア人墓地があった。その墓地に三中隊の60人の初年兵が集められた。大隊長や中隊長ら幹部がずらりと来ていた。「何があるのか」と、初年兵がざわついているところに、6人の中国の農民姿の男たちが連れてこられた。全員後ろ手に縛られていた。上官は「度胸をつける教育をする。じっくり見学するように」と指示した
 ・・・
その中尉の一人が、後ろ手に縛られ、ひざを折った姿勢の中国人に近づくと、刀を抜き、一瞬のうちに首をはねた。土屋には「スパーッ」と聞こえた。もう一人の中尉も、別の一人を斬った。その場に来ていた二中隊の将校も、刀を振るった。後で知ったが、首というのは、案外簡単に斬れる。斬れ過ぎて自分の足まで傷つけることがあるから、左足を引いて刀を振りおろすのだという。三人のつわものたちは、このコツを心得ていた。もう何人もこうして中国人を斬ってきたのだろう。
 首を斬られた農民姿の中国人の首からは、血が、3,4メートルも噴き上げた。「軍隊とはこんなことをするのか」と、土屋は思った。顔から血の気が引き、小刻みに震えているのがわかった。そこへ、「土屋!」と、上官の大声が浴びせられた。上官は「今度は、お前が突き殺せ!」と命じた。
 ・・・
ワアーッ」。頭の中が空っぽになるほどの大声を上げて、その中国人に突き進んだ。両わきをしっかりしめて、といった刺突の基本など忘れていた。多分へっぴり腰だったろう。農民服姿、汚れた帽子をかぶったその中国人は、目隠しもしていなかった。三十五、六歳。殺される恐怖心どころか、怒りに燃えた目だった。それが土屋をにらんでいた。…”

 こうした証言には、受けた衝撃の大きさから、多少の誇張が含まれている部分もあるかも知れないと思いますが、似たような証言は多々あり、大筋間違いのないことだと思います。

 また、初年兵教育とは別ですが、多くの捕虜の殺害に関して、「宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊戦闘詳報」には、

〔13日午後2時〕連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第127旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛し逐次銃殺してはいかん。
 〔13日夕方〕各中隊長を集め捕虜処分につき意見の交換をなさしめたる結果、各中隊に等分に配分し、監禁室より50名宛連れだし、第一中隊は路営地南方谷地、第三中隊は路営地西南方凹地、第四中隊は路営地東南谷地付近において刺殺せしむることとせり。
(中略)各隊ともに午後5時準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後7時30分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。特に隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。”(『南京戦史資料集』678頁
 などという記録も残されています。日本軍の人命軽視、国際法違反は否定しようがないことだと思います。 

 下記は、「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から抜粋しました。
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                           第七章 私刑
 下級兵士から上級の兵・下士官の将校に対する反抗を「対上官犯」と呼ぶなら、反対に上位の者から下位者に対して行われる暴行は、私的制裁または私刑(リンチ)と呼ばれる行為である。日常化したリンチが、「天皇の軍隊」の秩序維持にとってどれだけ必要なものであったかを、さらに「衣」師団の諸氏が証言する。
 天皇の軍隊は私的制裁(私刑=リンチ)を禁じていた。あらゆる規律違反は天皇の名のもとに厳然としていたはずであり、規律の乱れについては、やはり天皇の名において軍法会議以下幾種もの処分決定機関がある。1942(昭和17)年12月にも陸軍省名で「私的制裁の根絶」を通牒している。しかし
私的制裁は連綿と絶えることがなかった。皇軍内部におけるリンチは、将校と初年兵、下士官と初年兵など階級差があまりに大きい者同士の間では起こりにくかった。むしろ古年兵から初年兵に、下士官から上級兵に対してというふうに接近した階級間でより残酷に現れる。直接の下手人はその上位者の暗黙の了解または教唆のもとに行われ、それは自己保身と出世にとってむしろ必要なものと考えられていた。米国における黒人へのリンチも、下手人の役目は下層白人階層によって担われていたことのアナロジーである。膨大な差別の体系は、近代では法律や規範のみで禁止することはむずかしい。法的には許されなくとも、差別構造の不安定な部分を補強するために、リンチは”立派な”存在意義をもっていた。天皇絶対制と私的制裁とは切っても切れない関係にあったといえよう。
 別の例でいえば、ベトナムの末端での犯罪「ソンミ事件」は、合衆国のたてまえとして、また法的にも許されぬことになっているが、ニクソン大統領は事実上これをすべて無罪とし、ソンミはニクソンと切っても切れない関係にあった。天皇とリンチの関係、天皇と中国人虐殺との関係も全く同様である。ここでは皇軍内部のリンチの証言だけを幾つか記すことにする。
「衣」第四十二大隊第四中隊の小林栄治氏は、館陶事件より少し前の一等兵時代に、兵営内で自分の同期兵がやられた例をあげた。この場合は加害者も被害者も同じ一等兵だが、一方は二年先輩であった。二年以上軍隊にいておなじ一等兵に留まっているのは、かなり出世が遅い部類にはいる。
 小林氏の友人U一等兵は、古参兵一等兵二、三人に囲まれて、むりやりダルマストーブの前に坐らせられていた。石炭がどんどん投げ込まれたストーブの前に、U氏はパンツ一枚で正座したままの姿勢で「お説」教される。お前はふだんの動作がなまいきだ、誰それの銃をよく手入れしない、誰それ古参兵殿の衣服の洗濯をサボっていた、などと色々理由をつけられていた。一時間後にはU一等兵のヒザがしら全体が大きな水ぶくれとなったが、なおしばらく私刑は続いた。U一等兵が元の元気な身体に戻るまでには一ヶ月以上かかった。しかし彼はまだ幸運なほうだったといえるかもしれない。リンチで殺された場合に較べれば
 リンチで殺された者はまったくの犬死である。しかし、事件を公にせずにしかも鮮やかに処理するやり方があった。次の証言は「衣」第五十四旅団第四十五大隊砲兵中隊の坂倉清兵長(1942年当時)による。
 独立混成第十旅団(「衣」師団の前身)第四十五大隊第一中隊の本部は、かつて大汶口(ダイモンコウ)西方地区にあった。中隊のひとりに山下一等兵という古参兵がいた。酒好きで、中隊のもてあまし者だったという。ある日、人事係のT曹長が酒に酔った山下一等兵を連れてきて、中隊本部前に掘ってあった壕の中にほうりこんでしまった。さらにT曹長が彼に縄をかけようとしたとき、山下一等兵は抵抗したようだ。T曹長は直ちに山下一等兵を射殺してしまった。
「徂徠山付近に敵兵現わる」として非常招集が懸けられたのは、その晩のことだった。 兵士たちは夜中に叩き起こされ、何のことやらさっぱりわからぬままに軍装備をほどこし、中隊本部からほど遠からぬ山のふもとまで行った。だが結局何事もなく基地に引き返した。戦闘があろうはずがなかった。単なる偽装行動に過ぎなかったからだ。戦闘行動が成立するためには、中隊から大隊本部へ向けて電報を一本打つだけで事足りた。「徂徠山方面に敵兵あり」と。そして、翌日には下士官が「陣中日誌」か「戦闘詳報」を書いてただ一行をつけ加えればよかった。
「同地ニオイテ、陸軍一等兵山下某、壮烈ナル戦死ヲ遂グ」
 この様にしてリンチで虐殺された兵隊もまた、もちろん靖国神社に「英霊」としてまつられているはずだ。この話は坂倉氏が「衣」師団に移る前の1940(昭和15)年春、新兵教育を受けている間に、その年の一月にあったことだとして古参兵から教えられた話である。その先輩兵士はこうも言った。── 「だから、へたに上の者にさからったら、えらいことになるかも知れんからな」
 すると他の古参兵がそのコトバを解説するように付け加えた。──「まあ言ってみりゃあ、処罰は何も軍法会議とか営倉入りとかいったもんだけじゃないっちゅうわけだ。上官には刀というものがあるからなあ」「軍隊じゃ、お前たち一人くらいなくなっても構わんということだ。また一銭五厘(召集令状の葉書代)で新しいのを連れてくりゃあいいっちゅうことになる」
 これらの話はどれも、皇軍では少しでも上官にとがめられるようのことでもあれば命さえ保障されない、ということをたとえ話として解説入りで説明したものだった。「教育的配慮」ともいえるかもしれない。古参兵たちが語ったように、山下一等兵が果たして本当に飲んだくれで、部隊のもて余し者だったものか、それとも山下氏がただT曹長から嫌われていたに過ぎないのか、本当のところは坂倉氏も知らない。本当の飲んだくれだったとしても、だからリンチで殺してよいことにはもちろんならないが、そんな正論が「天皇の軍隊」に通じることはあり得ない。

 何んといっても最もありふれた制裁は殴ることだ。殴る理由は何でもよい。命令に絶対服従しなければ殴られるのに勿論十分な理由となるが、そうでなくとも顔つきが気に食わなかったり、洗濯物のボタンがひとつとれかかっていたり、朝くつがちょっとばかり汚れていたリ、あらゆる一挙一動について上級兵は下級兵を殴る理由を見つけるのにこと欠かなかった。読者がもし若い人であれば、こうした情況については1932~1933年(昭和7~8年)以前に生まれた男たちの、とくに旧制中学に少しでもいたことのある人にきいてみることだ。軍隊のこの野蛮性は中学にまでもちこまれて、上級生による下級生へのリンチは片田舎にいたるまで日常化していた(実はこれは、戦後も一部の反動的右翼大学の体育系クラブ活動の中にみられ、あるいは、赤軍派事件のような形でもみられる。)
 こういう有様だから、元「衣」師団の兵士たちに向かって、「あなたは皇軍兵士になってからの一年間に何回くらい殴られた経験があると思いますか。大体でよいのですが」とか、「入隊して初めて殴られた経験なら思い出せるのでは?」とか「どんな理由で殴られることがいちばん多いのでしょう」などと聞いてみても、満足のいく答は得られそうにない。「そりゃ数え切れんくらいと言うしかないですよ」とか、「さあ毎日殴られるほどですから思い出せません。入隊してその日に自分の名を呼ばれる。外の社会でやったように普通の大きさで『ハイ』と返事をしたら、もうパンチがとんでくるんですわ。凄い大声で返事をせんけりゃいかんというわけです」という具合である。後者の例は
「衣」第四十五大隊第一中隊の石神好平上等兵(1942年当時)の返事だが、これが彼自身の場合だったのか、それとも他人の場合であって一般的にそういう場合が最も多い、という意味なのか、本人でさえ正確に思い出せないほどなのだ。この事実を坂倉氏は「殴られるのはほとんど毎晩ですから、そのことを”総まとめ”で覚えているだけ」と表現し、鈴木氏は「理由が一切ないのが皇軍です」と述べている。
 元「衣」兵士・石神上等兵((53)は、千葉県千葉郡豊臣村字古和釜823番地(現・船橋市小和釜)の小作農民出身、当時の米の収穫量は反当り6俵が相場(71年度産米は玄米ベース7.6俵=農林省調べ)だが、そのうち地主に4俵を納めると手元に2俵しか残らなかった。──「当時貧農には悪い田んぼしか借りられなかったなあ。女は乳まで泥につかるような田んぼで収穫も反当り5・6俵、それでも4俵納めんけりゃならなんだですよ。そんな田を3反借りてました」
 応召した1940(昭和15)年の5月には父親が胃ガンで死んだが、それでも母親と石神氏の四人の兄弟妹、それに石神氏の妻と子ひとりが食えなかった。12月4日の入隊の前日に親戚へのあいさつ回りを済ませると当日の朝までにイモ掘りと小麦の種まきをすませて東京・上野の集合場所に駆けつける有様だった。一週間後には鈴木・坂倉氏らと同じ船で中国・青島(チンタオ)に送られていた。とたんに、リンチに明け暮れる初年兵の日常が始まる。
「最近の初年兵はたるんどるな」
 小隊長か中隊長または週番下士官が、分隊長か専任兵長(含分隊長各)にわざと聞こえよがしにそんなひとりごとを言った場合は、初年兵たちはその晩たっぷり殴られることを覚悟しなければならなかった。そしてそんなセリフは演習が終ったあとだけでなく、点呼に遅刻する者が出たり馬の世話が少し足りなくても、部隊内に病人が出ても、食事中誰かのハシの上げおろしが気に食わなくても、ポツリと言われるのである。
 将校とか下士官が直接手を下すことはほとんどなかった。殴り役は専任兵長とか年期のはいった上等兵や一等兵の担当する場合が多い。また初年兵同士二列に向かい合わせに並んで、互いに思い切り殴り合う方法も行われた。「対抗ビンタ」というのがそれだ。その場合兵長らは直接手を下さないが、もし誰か殴り方に手加減をしたと見られれば、上官から直接制裁を受けることになる。今からみれば狂気のサディスト大集団であった。
 殴り方はボクシングでいう顔面フックのように拳を固めてやるか、平手打ちが普通だが、平手のほうが殴る側も殴られる側もより痛みが強い。しかし拳打ちか平手打ちでやられているうちはまだ大けがをせずに済むだけ救いがあるほうかも知れない。
 初年兵教育で「教える側」に立つ教官、助教らは、手に標悍(ヒョウカン)を短くしたものを常に持ち歩いていた。標悍とは、射撃の標的やその目安にするために地面に立てるポールで、鉄パイプでできている。鉄かぶと(ヘルメット)をかぶった兵隊を、頭上から標悍で打ちすえると、やがて鉄かぶとの下から鮮血がタラタラと流れ落ちることがある。初年兵がそれを拭うことは「反抗心あり」とみなされた。また殴られることになる。そんなときこの鉄パイプのほうも曲がることがある。殴りどころが悪いと目をはらすこともあり、これは殴った側も「下手クソ」だと笑われることになった。といってもこれはあくまでも「下手だ」といわれるだけであって、決して「けしからん」と非難されるほどのことではなかった。
 前頭部をあまりに強く殴られたために、1943(昭和18)年夏のある日、北海道出身のある兵隊の両眼がとび出してしまうという事件が、この「衣」師団で起きた。さすがにこのときは殴った上官も重営倉入りを命じられたりしているが、この件についてはあらためて別の機会に触れることになろう。
 また「にぎり」とよばれる木銃も若手兵士を殴る道具によく使われた。木銃は銃剣術等の初歩的訓練をするために鉄砲の形に造った木型のこと。さすがにこれで顔面を殴ることは滅多になく、下級兵士を寝台へ腹ばいにさせておいて、その尻を殴る例が多い。
 携帯天幕も、内務班内では最も手近にあるリンチの”小道具”としてよく使われた。皇軍兵士は軍装備をするとき、携帯天幕を背嚢のいちばん上部に縛りつけて運んでいる。野営する場合には、このおよそタタミ二畳敷き(3.3平方メートル)の天幕にカシ(樫)の棒の支柱を立てて使用する。それらを折りたたむと、カシの棒の上部に固く天幕をまきつけて縛った形になる。布がまいてあるとはいっても、シン棒は固い。ヘルメットなしのとき頭を殴られると、裂傷ができて血が額を伝わるほどの威力があった。
 また上靴(スリッパ)とか編上靴(ヘンジョウカ・軍靴)・帯革(タイカク・革バンド)で顔面を殴りつけることもあった。だからリンチの数多く行われる部隊では顔面に靴底のビョウが走った傷跡をもつ兵士が多かったり、革バンドの巻きついた跡が首筋や額に残っている兵士をよく見かけたものだ。
「要するにリンチの道具には何でも使うんですが、銃剣はまず使いませんでしたね」と坂倉氏は言う。「これは日本人同士の場合には危険が大きいという理由もありますが、中国人民に対しては銃剣に血のりをつけるとあとで武器の手入れがいやだからです。さびやすくなって。それでついスキ・クワなどの農機具やコン棒などを使って虐殺したんです」
 皇軍兵士にとって中国人の生命は、自分の銃剣のサビほども重んじられるものではなかったことになる。

 このように何が何でも下級兵を殴ることが普通である「天皇の軍隊」にあっては、殴らないリーダーはその上級者からかえってにらまれ、制裁をうけることにもなる。鈴木丑之助氏の話はその一例だ。──「私自身は初年兵教育の期間中あまり殴らなかったせいですかねえ、同年兵が殴られてるの
を見るのがいやだったし、いざ自分が教える側に回っても殴るのはいやでした。もう殴らんでも物がわかる年齢ですから」
 ・・・
 「教育」が始まって二ヶ月ほどたったある晩のこと、教官である納冨少尉(佐賀県出身)の当番兵が、「教官殿がお呼びですから教官室へ来て下さい」と彼を呼びに来た。何の用件かわからず、もしかしたら明日のカリキュラムについての打ち合わせかなというぐらいに考えながら将校の部屋に行ってみた。青年将校(納冨氏は当時25、6歳)がうす笑いを浮かべていた。鈴木氏は当時22歳ぐらいである。
教官「鈴木、お前は初年兵の殴り方を知らないのか」
助手「はい、知っております」
教官「知っていてなぜ殴らん。本当は知らんだろうが。ひとつおれが見本を見せてやろう」と言うと腰を上げ、直立不動の姿勢の鈴木助手の前に立ちはだかった。六尺豊かの大男で、一段と威圧的に見えた。将校に呼び出された理由がやっと分かった。
教官「さあ、ちゃんと歯を食いしばっておれ。足も踏んばれ」と準備姿勢をとらせた。これは握りこぶしで相手にパンチを食らわせるときの、もっとも普通の合図でもある。…
 ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                           第十一章 殺人教育
 ・・・
 精神教育は「天皇の軍隊」の重要な部分である。第二中隊の須藤中隊長がまた、とくに精神教育が得意だった。ときには、「お前たちの母親から俺の所に手紙が来た」といってそれを初年兵たちに見せながら、「息子の命は中隊長殿に差し上げます。どうか天皇陛下様に恥ずかしくない子供にしてください」という文面を読み上げる。そしてシンミリと故郷を思い出させるので、これら二十歳になったばかりの青年たちは涙を浮かべて話に聞き入るのだった。またあるときは、自分の手柄話だといって武勇伝を聞かせる。「俺はその反日分子である支那人を誘って酒をくみかわした。そのあとでスキを見つけてそいつをズドンと一発で殺したのだ。これみな天皇陛下のおん為である」という調子だ。そんなとき須藤中隊長は、弾痕のついた野戦刀をなでながら、自分の話に自分で酔っているように見えた。その刀の傷も彼が野戦で中国軍に切り込んでいく途中、中国側の狙撃で受けた傷だという。その男自身私生活はずいぶんでたらめなものだということを2、3年兵は陰口していたが、当時は結構初年兵の尊敬の的であった。
 しかし、基礎訓練といい精神教育といい、その目的は中国をいかに侵略・支配するかに尽きるのだから、中国人民をいかに殺すかは極めて重要な「実地訓練」とならざるをえなかった。つまり初期の教育はいかにスムーズに殺人ができるかを習得する機関だといって言い過ぎではない。殺人は初年兵に最初からさせるというより、初めは先輩兵が「お手本」を示してみせるケースが多かった。「天皇の軍隊」は、成長すると自主的に中国人殺しに参加するようになる。つまり殺人とは、「天皇の軍隊」にとってあまりにも日常的な事柄となっていくので、「殺した側」の兵士たちがその殺人体験をひとつひとつ記憶してはいないことが多い。しかし人生で初めて自分が目撃したり下手人となった殺人は忘れ難いものになる。
 第二中隊の初年兵たちには、初年兵の基礎教育期間の終わりに近い1941(昭和15)年6月、初めてその「お手本」が示された。実験台に供されたのは三人の中国農民だった。いずれも30代の男だ。木綿の綿入れズボンと上着姿で布靴をはいた三人が、大隊本部のはずれにある広場に連れて来られた。三人とも両手を前にして麻縄で縛られていた。大隊本部は全体が鉄条網で囲まれているだけなので、外側からも営庭の中が見えるのだが、西側の一隅だけは高さ2メ-トルくらいの土塀で三方から囲まれているため、一般中国人はのぞきこめないようになっている。
 第二中隊の古年兵たち十人ほどに連れられた中国人と、六十人の新兵とが向かい合う形で営庭に立った。その間の地面にはすでに円形の穴が掘られている。直径2メートル、深さ2.5メートルくらいの穴だ。中国人たちも初年兵たちも、これから間もなくここで起こることを予想してただならぬ空気だった。突然、古年兵たちの陰に隠されていた軍用犬が5、6匹とびだしてくるなり、三人の中国人に飛びかかった。軍用犬はそのように訓練されていたとみえて、人間にとびかかると首筋を狙ってかみついて行った。中国人たちはそれを、いったんはたくましい腕で払いのける。しかし一匹のイヌが相手の背中にかみつき、それをふり払おうとした農民が両手を背中に回そうとした瞬間に、もう一匹のイヌが男の首筋にくらいつくという”分業”をやってのけるのだ。5、6分もそんな虐待が続いただろうか。三人の農民の衣服はほとんどひき裂かれ、身体は至る所に裂傷ができて、肉がムキ出しになった箇所でいっぱいとなった。抵抗をあきらめることなく頑張っていた農民は、皇軍兵がいったん軍用犬を引き離すと、力尽きたようにばったりと倒れた。次に古年兵たちはその倒れた男たちを引き起こして、今度は穴の前へ引っ張って行き、坐らせようとした。一人の男が懸命に力をふりしぼって、古年兵の足にタックルするようにしがみついて大声で何か中国語で叫んだ。
 「自分は炊事係でも何でもして働くからどうか殺さないで使ってほしい、といっています」と、通訳係の兵士が無表情で伝える。足を抱えられた下士官は、その農民をふり払うように、持っていた銃剣を農民の背中に突き立てた。そうされながら、這うようにして穴の近くまで追いたてられていったとき、衛生兵・広金軍曹の日本刀が農民の首の後部から全部にかけて思い切りふりおろされた。切り口から血しぶきが50センチ以上もドッと噴き上げた。
 「イヌをけしかけられて心臓が躍っているからあんなに血が噴き上がるんだ。いきなり切りつけたらあんなに出んのだが」──ひとりの古参兵が恐ろしく冷然と、初年兵たちに聞こえよがしに分析してみせた。広金軍曹がふた太刀目を振り下ろすと、男はドーッと穴の中に落ちこんだ。初年兵たちが息をのんで穴の中をのぞきこんでみると、農民はまっさかさまに穴に落ちたのに、彼の頭部は皮一枚残した形で反転して、穴の上部をすごい様相でにらみつけていた。
「やっぱり官製品の刀はもうひとつ切れ味が悪いわい」と、広金軍曹が、”寄り目”の表情を引きつらせながら笑ってみせた。二人目の男も必死で抵抗を試みたが、穴の中で天をにらんでいる友人をのぞき込んだ瞬間、たちまち首を切られてしまった。初年兵たちは、人間は日本刀で切られると、その部分の筋肉が切断されるため、その部分で皮が反転して裏返しになるものだ、ということを教わった。
 三人目の中国人は、すでに皇軍の”首切り人”たちから逃れられないということを悟っていた。彼は、前の二人のような抵抗をあきらめ、自分で穴を前にして坐り込んだ。そして大声で叫んだ。
「中国共産党万歳!」
 その一瞬ののち男の首は宙に飛んでいた。「やっぱりパーロ(八路軍)だったんだ」と誰かがつぶやいた。
 若者たちは故郷・房総を出発して半年にして「殺人教育」をいま終えた。誰の顔もまっ青だった。しかし彼らは、さもショックは受けなかったように平静さを保つよう努力していた。これまでに彼らが受けた皇軍「教育」からすると、兵士はこのような惨劇を見ても決して動じてはならないはずだ。向かい合って立っている古参兵たちが、自分たちの表情を見守っていることがよくわかった。「なんでえ、思ったほど大したことじゃあねえじゃねえか。そうだっぺ」と誰かがお国なまりでわざとらしくつぶやいているのが聞こえた。しかしそれから二、三日は食事をしていても何か喉につまるような気がしてうまくなかった。
 最後の殺人劇のあと、「やっぱりパーロだったんだな」と言う言葉に誰でも納得した。しかし後になってふり返ってみれば、あの農民たちが八路軍の一員であった証拠なぞどこを捜してもなかったであろう。事実は次のようであることを、若い皇軍兵士たちは徐々に学ぶようになる。つまり殺人の”実験台”にしようと思えば、その中国人を”パーロ”と呼ぶことにすればそれでこと足りるのだ、ということを。したがって三人目の農民は、自分の「立派な最期」の証(アカシ)しとして「中国共産党万歳!」と叫んだこともありえた。あるいは死の寸前に「やはり八路軍のいう通りだった」「八路軍こそ正義だ」と悟った場合もあろう。
 しかし、国民党軍の兵士たちを殺人の”モルモット”に使う際には、まさか”パーロ”呼ばわりするわけにはいかなかった。たとえば逆井氏が単なる目撃者としてではなく、その年の末に下手人となることを命令されたとき、相手は国民党軍の中佐であった。
 

 

 

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日本軍の徴集令状と徴兵忌避行為

2019年12月20日 | 国際・政治

 「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者で、 元第二十五航空戦隊参謀・海軍中佐であった奥宮正武氏が、”…あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。”と書いていたことはすでに取り上げました。また、”近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ている”というようなことも書いていました。

 私も全く同感で、残念ながら日本は、時代が進むにつれて、再び、法や道義・道徳、あるいはルールがほとんど意味を持たない国に突き進んでいるように思います。
 
 一例をあげれば、先日(2019年12月11日)、セブンイレブン残業代未払いが2012年3月以降だけで、8129店、3万405人にのぼり、未払い額は遅延損害金を含め4億9千万円にのぼるという記事が朝日新聞に出ていました。問題が深刻なのは、2001年に加盟店が労働基準監督署から是正勧告を受け、本部も未払いの事実を把握していたにもかかわらず公表せず、放置してきたという犯罪的事実です。
 似たような組織的不正は、大企業や行政でも次々に起きており、まさに、国内のいろいろな組織が、再び腐りはじめているように感じます。
 そうした実態を是正すべき安倍政権自体にも、森友学園問題、加計学園問題、「桜を見る会」の問題、元TBS記者の逮捕揉み消し問題、リニア新幹線の汚職疑惑その他多くの問題が指摘されています。
 セブンイレブンは、24時間営業の問題でも批判されていますが、セブンイレブンに限らず、現在の日本は、企業や行政のトップに権力が集中し、様々な現場の意見を吸い上げることなく、自らのやりたいようにトップダウンで事を進めているのではないでしょうか。

 だから、奥宮正武氏が書いているように、台湾沖航空戦における「幻の大戦果」や、大本営発表が「嘘の代名詞」といわれるような事態に至るまで続けられた当時と変わらないのではないかと思います。いろいろな組織の経営トップが、自らに権力を集中させ、現場の声を無視しているため、組織がきちんと法や道義・道徳その他のルールに基づいて動かなくなっているのだろうと想像します。
 それが、セブンイレブンだけの問題ではなく、多くの企業や行政、また安倍政権に共通の問題であることは、日々の報道で明らかです。かんぽ生命の保険の不適切な販売問題なども深刻な問題だと思います。
 また、文科省の大学入試改革の象徴でもあった共通テスト英語民間試験の活用と記述式問題の導入という2本の柱が折れたことにもあらわれているのではないでしょうか。現場の声をきかないから2本の柱がどちらも折れたのだと思います。だから、かつての日本軍と同じで、奥宮正武氏の指摘通りだと思うのです。”絶対的権力は絶対的に腐敗する”という言葉を思い出します。
 組織は、合意に基づいて事を進めることによって、法や道義・道徳、関係するルールが意味をもつようになるのではないでしょうか。

 だからこそ、今、歴史、特に日本にとって不都合な事実や加害の事実にきちんと向き合い、検証する必要があると思うのです。

 そういう意味で、今回は「天皇の軍隊」本多勝一・長沼節夫(朝日文庫)から、徴兵などの無理強いの問題を取り上げることにしました(資料1)。
 下記のように、「徴集令状(召集令状)」を届ける村役場の兵事係りが、徴集される人の家を訪ね、「おめでとうございます」と言って「徴集令状」を渡したことや、両親は、大事な一人息子を兵隊にとられ、胸の奥に深い悲しみと大きなショックを感じていても、決してそれを口に出すことができなかったという事実は、忘れられてはならないことだと思います。
 多くの人たちが苦しんだそうした無理強いが可能だったのは、日本軍が「天皇の軍隊」だったからだと思います。
 軍人勅諭には、その前文に、

兵馬の大權は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望むなり

とあります。中世の武士の世が「失体(失態)」であったのだとしています。天皇が、文武の大権を掌握するのが、日本本来の姿だというわけです。そして、徳目として、忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五つをあげ、”己か本分の忠節を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ”とか”上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ”などとして、天皇に対する絶対的自己献身を強要しました。そして、それを軍人・軍隊の最も重要な道徳的価値として強制したため、逆らうことは不可能だったのだと思います。
 だから、本当は悲しく辛いことなのに、「徴集令状」によって入隊することを「天皇陛下に召された」といって喜ばなければならなかった不幸は、日本軍が「天皇の軍隊」だったからだと思います。
 また大戦末期、他国にほとんど例のない特攻作戦が、陸、海、空で展開され、多くの若者が命を投げ出すことになったのも、日本軍が「天皇の軍隊」であり、”義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ”などといわれていたからだと思います。天皇のために命を投げ出すことは当然であり、名誉なこととされていたのです。

 でも、口には出せないけれど、現実にはどうしても徴兵を受け入れられない人たちがあり、いろんな方法をとったようです。戦争を語り継ぐためには、そうした事実にも目を向ける必要があるのではないかと思います。
 資料2は「皇軍兵士の日常生活」一ノ瀬俊也(講談社現代新書)から、「徴兵検査忌避行為」に関する部分を抜粋しました。中には、針で自ら目を刺すというような忌避行為もあったようです。どういう状況の中で、そうした忌避行為がなされたのかは書かれていませんが、それぞれ深刻な問題を抱えていたことが想像されます。
 なお、こうした忌避行為とは別に、兵役を免れたり、兵役が延期されるように、海外へ移民として出たり、出稼ぎに出たり、また進学したりする者があったという事実も見逃せません。
 多くの人たちの声を無視し圧殺する権力が腐敗するのは当然であり、「天皇の軍隊」でも、兵役逃れや徴兵忌避行為というようなところから腐敗はすでに始まっていたのではないかと思います。そして、組織の腐敗が進行すると、国家の滅亡につながるようなとんでもないことが起きることは、歴史が証明しているのではないかと思います。

 同書の著者・一ノ瀬俊也氏 は、「あとがき」に

本書の執筆中、第三章の「応召手当」の項では、現在社会問題となっている「派遣社員切り」のことを、第四章の戦死者「死亡認定」の項ではいわゆる「宙に浮いた年金」問題のことをそれぞれ想起せざるをえなかった。われわれの住む国も社会も、実は六十数年前から変わっていないということがわかったように思う。

と、「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者・奥宮正武氏と同じようなことを書いています。
 戦時中のことを研究している多くの人が、こうした思いを書いていることを私は、見過すことができません。次々に発覚する悪質な組織的不正の報道に、私は、日本が再び危険水域に達していることを告げられているような気がするのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      第一章 「衣」師団の編成完結

 1938(昭和13)年12月10日午前8時、千葉県匝瑳郡南条村芝崎709番地の菊池義邦氏は、日本陸軍佐倉歩兵第五十七連隊に現役入隊した。満ニ十歳だった。
 菊池氏の兄弟は姉一人妹二人の計三人だったから、彼は一人息子である。徴兵検査で甲種合格になれば、自動的に現役入隊しなければならない。「徴集令状」は村役場の兵事係りが家に直接とどけた。「おめでとうございます」といって係りが渡した令状には、次のように書かれていた。
「右の者、左記の通り徴集を令す」
 そして、入隊の日時と携行品目が並べてある。この令状のほか印鑑、日用品、油紙。油紙は入隊したとき私物を家へ送るための梱包用紙だった。両親は一人息子を兵隊にとられれ、胸の奥には悲しみとショックを秘めていたが、家族同士でもそんなことは決して口に出さなかった。「天皇陛下に召された」といって喜んだ。それ以外の反応は、まず平均的な家庭ではありえなかった。
 佐倉歩兵第五十七連隊は、甲府歩兵第四十九連隊・麻布歩兵第三連隊・青山歩兵第一連隊とともに、関東周辺での「強い連隊」として知られていた。12月と1月は雨の少ない季節だから、新兵の野外訓練に適している。入隊を12月としたのはこのためであった。入隊前にやっておくべきことは、村の「青年学校」での兵隊訓練と、軍人勅諭・戦陣訓を暗記することだ。「わが国の軍隊は世々天皇の統率したまふところにそある……」に始まる長文の「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」(明治15年1月4日発布)は、便所に持ちこむまでして、けんめいに空んじた。こうして、何よりもまず「天皇の軍隊」であることをしっかり認識することが、兵隊になるための第一歩であった。青年学校では、歩兵操典・軍隊内務令・陸軍礼式令・作戦要務令などを勉強した。

 入隊すると、個人装備として次のものが「支給」された。
 襦袢(ジュバン・下着)・袴下(コシタ・ももひき)・単衣(上)・軍袴(グンコ・ズボン)・戦闘帽・巻脚絆(マキキャハン)・飯盒(ハンゴウ)・水筒・帯剣・小銃・兵器手入袋・被服手入袋・食器袋。
 着ていたものは身ぐるみぬいで、あの油紙に包んで家に送った。すべては「天皇陛下から支給」されたもので身をかためたのであった。紛失しては大変だ。こうした道具をめぐっての小さな失敗が、先輩兵や上官にぶんなぐられるための口実によくなった。三八歩兵銃には、薬室の上に十六枚の花弁の「菊の御紋章」が彫りつけられていた。
 当時の現役兵の義務年限は2年間だったが、軍人になろうとする者は、「下士官候補」を志願して軍隊に残る。菊池氏もそうした。入隊して四年目には軍曹になった。
 その四年目の1942(昭和17)年5月21日夜。この佐倉歩兵第五十七連隊から、菊池氏をふくむ1200人の大隊が、12輌連結の軍用貨車で下関へ出発した。一個大隊は普通800人だが、この場合は独立大隊なのでとくに多い。歩兵五個中隊と機関銃中隊などから成り、一個中隊は四個小隊、一個小隊は四分隊、一分隊は15人を原則とした。同じような大隊が、 甲府歩兵第四十九連隊と麻布歩兵第三連隊からも同時に出発し、計三個大隊が下関に集結した。
 菊池氏は機関銃中隊の第二小隊第一分隊長であった。中隊は「九二式重機関銃」八梃を備えている。分隊は、馬二頭・機関銃一梃・弾丸2400発・兵10人から成り、兵のうち4人が機関銃操作、4人が弾運びを担当した。馬は一頭が機関銃を運び、一頭が弾丸を運ぶ。600発入りの箱四個。この600発という数字は、射撃しっ放し一分間で撃ち尽くす弾丸の量である。「九二式」という重機関銃の名は、「皇紀2592年夏」(1932年=昭和7年)に因んでつけられた。当時の時点では世界的に優秀だとされていた。それまでの機関銃は、おもな使命は防禦用であって、敵が来るのを待っていて撃ちまくるという性質がつよかった。ところが、「九二式」は、軽くて持ち運びがかんたんにできるように改良されており、攻撃用としてたいへん優れていた。それでも重さは55.5キロ。ほぼ米一俵ぶんであった。
 下関に集結した三個大隊は、一隻の貨物船で朝鮮の釜山に向かった。兵隊たちは小銃にサラシを巻いて、海の潮風に当たらないように気を使った。「菊の御紋章」のついた「天皇の小銃」が潮風に当たらないように。
 朝鮮を列車で北上して奉天(現在の中国東北地方の瀋陽)、山海関を経由し、5月30日の午前9時ごろ山東省の泰安(タイアン)に着いた。佐倉を出て九日目である。軍用貨車の窓には幕がおろされ、外が見えないようにされていた。支給の個人装備は次の通りだった。
 背嚢・略帽・携帯天幕・飯盒・小銃・擬装網・雑嚢・水筒・帯剣(背嚢の中には、着替え用襦袢・乾パン三食分、筆記具・日用品・兵器手入袋・被服手入袋がはいっていた)。

このほか、個人でウメボシなど用意している者もいた。下士官以上は軍刀(日本刀)を個人で用意する者も多かった。
 ・・・
資料2--ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
                     第一章 皇軍兵士はこうして作られる

1 皇軍兵士となるまで
 身体毀損・詐病
 これらの処分未済者とは別に、「昭和13年 徴兵事務摘要」は「身体を毀傷(キショウ)、疾病を作為、または傷痍疾病を詐称した者」と「逃亡または潜匿(セントク)した者、その他詐偽の行為があった者(傷痍疾病を詐称した者を除く)」を「徴兵忌避者」と位置づけ、頁を割いている。
 前者の身体毀損・詐病について、1938(昭和13)年の検査で発見されたのは18人である。(告発された者3人(処刑せられたる者1人、その他の者2人)、告発しなかったがその疑いある者15人に区分される)。過去の身体毀損・詐病者は1933年は222人、34年は359人、35年は145人、36年は82人、37年は55人であるから、大きな流れとしてはしだいに減っている。
 後者の「逃亡または潜匿した者、そのた詐欺の行為があった者(傷痍疾病の詐称者を除く)」は、前出の「所在不明者」とは異なり、たとえば隠れていて検査までに見つかった、生活困難を偽って申告したといった人びとであろうか。1938(昭和13)年のそれは46人(=告発された者41人<処刑された者10人その他の者31人>)、告発せざるもその疑いある者5人)である。過去の人数は1933年は84人、34年は58人、35年は123人、36年は70人、37年は69人と、こちらも減っていっている。菊池邦作『徴兵忌避の研究』によれば、1917(大正6)年の忌避者は、身体毀損692人、逃亡1124人であったから、日中戦争期にはかなり減っている。「徴兵忌避者」やその家族に対する監視的な視線の強化が背景にあるのではないだろうか。
 翌1939(昭和14)年からの「徴兵忌避者」数の推移は【表2】(略)の通りである。1941年に「身体毀損」で「告発された者/その他の者」、「告発されなかったがその疑いある者」が群を抜いて多い理由は何だろうか。同年の『徴兵事務摘要(一橋大学所蔵)によると、身体毀損・詐病「告発された者/その他の者」21名中14名が神奈川県(つぎに多いのは熊本県の3名)から、「告発されなかったが、その疑いある者26名19名が同じく神奈川県(つぎに多いのは新潟県の3名)から出ている。つまり、同県で何らかの集団的忌避行為が発生し、それが1941年の忌避者数を押し上げたのではないかと想像される。なお、翌1942年になると、今度は大阪府で、逃亡により『告発された者/その他の者』58名中41名が出るという事例がみられる。
 このことは日本における徴兵忌避の歴史を考える上で大変興味深い事例だが、史料不測のため、いまはそうした事実があるということを指摘するに止めざるをえない。

 忌避を見抜くノウハウ
 こうした身体毀傷による徴兵忌避を見抜くのは、軍医にとって重要な任務の一つであった。第九師団軍医部『部外秘 第九師管徴兵検査医務指針』(1916<大正5>年)は、第九師団(金沢)の軍医部が軍医たちのために作った、徴兵検査時に用いるマニュアルである。身体毀傷・詐病行為を見抜くためのノウハウと鑑定書の書き方が例示されている。いささか古い資料(私の所持品には大正7年改定時の書き込みがあり、少なくとも同年までは生きていたマニュアルである)ではあるが、先に述べたような徴兵忌避行為を見抜くためのノウハウは後代もさほど変わりなかったと考えられるので、紹介しておきたい。

① 視機能の障害を詐(イツワ)った例
 高度の両眼近視を訴えるので、眼底検査をおこなって異常がないことを確かめたうえで零度の眼鏡をかけさせたところ1.0の視力を示した。詐欺的行為を看破されるとその後は態度を一変し、以後はの検査では正当な陳述(答え)をした→本人は懲役二ヶ月に処せられた。

② 肛門に水疱を作った例
 肛門に粟粒大ないし豌豆(エンドウ)大の水疱17、8個がある者がいたので尋問したところ、徴兵忌避の手段として祖父・母からある毒草の汁を肛門につけて糜爛させる方法を教唆された、母とともに野生しているその草の葉を取りに行き、葉24枚と食塩一さじを混ぜてその汁を肛門につけた、と答えた。類似の疾患は他にないので徴兵忌避と判断された→懲役四ヶ月

③ 右人差し指を切断した例
 検査で右人差し指末節を切断した者がいたので尋問すると、自宅で藁切り包丁を研いでいて手を滑らせ、切断したと答えた。しかし手を滑らせたなら包丁と右手は同速力・同惰力を有していたはずなので切断にまではいたるはずがない、受傷するとすれば斜めの傷ができるはずであるが実際の傷口は垂直で、他の指にはまったく損傷がない、「従来の経験上徴兵忌避者の選択せる右示指〔人差し指〕末節の受傷は故意の毀傷として有力の価値あり」などの理由で過失ではなく自傷と認定→懲役2ヶ月・罰金5円
 なお、同人は長男で家にリューマチにかかっている老父がおり、受傷は本人の本意ではなく、家族の「誘惑脅迫等に起因するもの」のようであった。

④ 難聴を詐った例
 両耳高度の難聴を訴えるので、耳鏡検査をおこなって異常ないことを確かめたうえで囁語検査・音         叉検査をおこなった。翌日再度検査をおこなうと、詐欺行為を疑われていると覚ってか、前日は50センチの距離でようやく聞こえるとした音が、翌日は2メートルの距離で聞こえた。その他の検査の結果とあわせて徴兵忌避行為と認められた→懲役一ヶ月

⑤ 片耳聾を詐った例
 右の耳が聞こえないと主張するので、開口漏斗を(ロウト)を挿入(本人には耳が密閉されたと思わせるため)、右耳付近で対話を試みると何も聞こえないというので詐称と認められた。翌日、再度漏斗で左耳をふさぎ右耳の検査をおこなった。1メートル以内の近距離での大声に対しては、左が聞こえている以上、生理的に何らかの反応をすべきであるのに、耳元での大声にさえ反応を示さなかった。その他の検査の結果と合わせて詐称と看破した。これにより、ようやく正常の聴力を示した。→懲役一ヶ月   
 引用文中に「従来の経験上」の文字があったが、こうした忌避行為の見抜き方も、軍医たちが後輩に引き継いでいくべき「経験」の一つだったのであろう。
 
 「魚鱗を角膜に」「下顎部にパラフィン」
 徴兵検査の項でもふれたが、陸軍三等軍医正嘉悦三毅夫・陸軍歩兵大尉内田銀之助共述『徴兵検査研究録』という史料がある。陸軍軍医団が軍医たちのため1928(昭和3)年に刊行した一種のマニュアルで、徴兵制度と徴兵検査の概要がこれ一冊で理解できるようになっている。
 同書にも、第九師団のものと同様、身体毀損行為の数々が列挙されている。

 醤油を呑んで動悸を昂進させ心臓病・脚気を疑わせる者
 絶食によって体重を減少させた者
 大腿部を緊縛して下腿に浮腫を来さしめた者
 角膜を刺傷または火傷させて角膜翳(エイ)を作為した者(多くは誤って松葉で刺したと言うが、検査    の2,3日前焼針で刺した場合は睫毛、眼瞼縁に火傷痕が残るし、眼球内の傷が深いときは実験上松葉 によるものではないので察知できる)
 高度の凹面鏡を長時間使用して仮性近視を作為した者
 卵黄を外聴道内に注入して化膿性中耳炎を装った者
 貝殻、豆、豆の皮、蠟を外聴道内に注入して難聴を装った者
 下顎部にパラフィンを注入して下顎骨腫瘍を装った者
 針で陰嚢を刺し、血腫を作為した者
 
 眼球を突き刺すという話は、明治期の事例が菊池邦作『徴兵忌避の研究』に紹介されているが、その後も各地で発見されていたのだろうか。また、パラフィン云々は素人には多分思いつかないことで、おそらくそういう智恵をつけた医者がいたのではないか。そうだとすれば、詐病・身体毀傷は本人が血迷ってとっさに単独でとった行動ではなく、計画的かつ組織的犯行だったということになる。

 

 

  

 

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大本営発表と「想定外」の津波

2019年12月02日 | 国際・政治

 なぜ、大本営は「幻の大戦果」を発表したのか。それも、台湾沖航空戦での大戦果の発表のみならず、大本営発表が「嘘の代名詞」といわれるような事態に至るまで続けられたのか。そして、そうした重大な問題が、不問に付されるような歴史教育が、現在の日本でなされているのはなぜなのか、と考えさせられています。

 台湾沖航空戦は、1944年10月12日に始まりましたが、21日に天皇が、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対し下記の勅語を発するまで、台湾沖航空戦に関する幻の戦果の大本営発表が続いたようです。

勅語 朕カ陸海軍部隊ハ緊密ナル協同ノ下敵艦隊ヲ邀撃シ奮戦大ニ之ヲ撃破セリ 朕深ク之ヲ嘉尚ス 惟フニ戦局ハ日ニ急迫ヲ加フ汝等愈協心戮力ヲ以テ朕カ信倚ニ副ハムコトヲ期セヨ

 
 天皇にも正しい情報は伝わっていなかったということです。もし、正しい情報が伝わっていれば、日本の敗戦は決定的であり、降伏はもっと早くなって、多くの命が救われたのではないかと思います。日本はこの台湾沖航空戦で航空機 312機と優秀な搭乗員を失い、その後の捷号作戦に必要とされたT攻撃部隊は壊滅的な打撃を受けていたといいます。それでもなお、幻の戦果の発表とともに、戦争は続くのです。
 「ラバウル海軍航空隊」(朝日ソノラマ)の著者で、 元第二十五航空戦隊参謀・海軍中佐であった奥宮正武氏は、幻の戦果の大本営発表について、下記の抜粋文のように、当事者でないとできない考察をし、「人命尊重についての日米の相違」の具体的な比較などもしています。
 また、「あとがき」の文章にも、注目すべきことを書いています。「あとがき」の中には、

”…あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。このことは近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ていることからも察知できるであろう。

とあります。全くその通りだと思います。

 現在もなお、政権中枢や企業の経営トップが、当時の日本軍と同じような体質を持っていることは、原発事故に関する動きのなかにも現れているように思います。
 福島第一原発の事故前、2005年12月14日、東京・霞が関の経済産業省庁舎会議室で、原子力安全・保安院、原子力安全審査課審査班長の小野祐二氏は、東京電力で原発を担当する八人の技術者に「想定外事象の検討を進めてほしい」と要請しています。四か月前の宮城県沖地震で設計上の想定を上回ったことがきっかけだったようです。また、2004年のスマトラ島沖大地震による津波で、インドの原発の海水ポンプが水没するトラブルなどもあり、原子力安全・保安院首席統轄安全審査官、平岡英治氏は、見過ごすことのできないリスクがあると判断して、研究を進めさせていたと言います。だから、小野祐二氏は「できるだけ早く想定外事象を整理し、弱点の分析、考えられる対策などを教えてほしい」と東電の持術者に言っているのです。そうした要請を受けて、東京電力原子力設備管理部の土木調査グループは、沖の防潮堤、敷地の防潮壁その他、15.7メートルの津波対策の検討を進めていたのです。しかしながら、2008年7月の社内会議で、検討中だった対策にストップがかかり、津波の想定高さそのものの算出方法を「研究する」ということになったといいます。発案は、当時の東京電力、武藤栄常務です。だから、土木調査グループ元課長、高尾誠氏は「それまでずっと対策の計算をしたり、かなり私自身は前のめりになって検討に携わっていましたので、そういった検討のそれまでの状況からすると、予想していなかったような結論だった」ので「力が抜けてしまった」と法廷で証言しているのです。朝日新聞は、この事実を「技術判断を経営判断で覆す 見送られた津波対策」と題して2019年11月12日、記事にしています。言いかえれば、人命尊重の判断を利益優先の判断で覆したということだと思います。関係者が15.7メートルの津波を想定し、動いていたにもかかわらず、東電の経営陣が、利益のために、その専門家による「想定」を受け入れなかった、ということだと思います。人命尊重を考慮すれば、あってはならないことだろうと思います。
 でも、東京地裁は、検察審査会の議決によって強制的に起訴された東京電力の旧経営陣3人、勝俣恒久元会長と武黒一郎元副社長、武藤栄元副社長に無罪の判決を言い渡しました。検察官役の指定弁護士は、3人に「禁錮5年」を求刑していたにもかかわらず、です。驚きます。この判決に、私は、日本の人命軽視が、戦前と変わらず、いまだに続いていると思わざるを得ません。

 私は、東電の経営陣が主張する「想定外」は、多くの専門家の「想定」を無視した、勝手な「想定外」であり、「幻の大戦果」と同質だと思います。また、最近海外から批判のある日本の歴史修正主義にも通じるものだと思います。多くの歴史家によって、すでに明らかにされた客観的な事実に基づく歴史認識を無視し、過去の出来事を都合よく誇張、捏造、解釈して、都合の悪い過去はなかったことにする、そうした歴史修正主義が、日本の政権中枢や企業の経営トップのなかに存在することが、同書の「あとがき」書かれている”太平洋戦争の経過に似ている”ということのあらわれのひとつではないかと思います。

 ただ、奥宮正武氏の、下記指摘に関しては、私は、もう一歩突っ込む必要性を感じます。

最後に、戦争の経過が望ましい状態で発表されなかった背景には、わが国の戦争指導者や高級の軍人に、戦争には敗北があることをよく知っていた人が極めて少なかったのではないかと疑われるふしがあったことである。これは、明治開国以来のわが陸海軍の連戦連勝の歴史がそうさせたのであろう。このことが、勝つための条件をつくることには精魂を傾けても、万一の場合に備える真剣さに欠けた結果となっていたようである。大本営発表もその一例に過ぎない。”

 この指摘は、間違ってはいないと思うのですが、それは、日本の軍隊が「現人神」である天皇の軍隊であり、降伏することが許されず、捕虜になることも許されなかったことが大きいのではないかと思うのです。
 だから、戦果の事実をきちんと確認せず、自分たちの期待や思いで報告し、報告を受けた者が、そのまま、あるいはさらに自分たちの期待や思いを込めて誇張して報告を上にあげ、大本営発表に至ったのではないかと思います。敗北があることを知らなかったというより、むしろ敗北を考えることができない軍隊だったということではないかと思うのです。
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                             第七部 結び

      第一 敗因の数々 ・・・略

      第二 なぜ発表された戦果と実際の差が著しく大きかったか
 太平洋戦争の経過に関心をもつほとんどすべて人々が、等しく抱いている大きな疑問は、「なぜ、大本営発表と戦場での実際との差があのように大きくなったのか」
 ということであろう。
 第二次世界大戦を契機として、戦争とは”自らの意志を強制する目的をもって二つあるいはそれ以上の政治的権力集団相互間において、武力の直接行使を含むあらゆる実力を組織的に用いて行われる敵対闘争の現象”であるといわれるようになっている。したがって、戦争の当事国が、その勝利のために、各種の手段を用いてきたことは歴史がそれを証明している。そのような時、敵に与えた打撃をより大きく発表し、自国軍のこうむった被害を最小に伝えて、自国民の意志の動揺を防ぎ、一時的にでもせよ友好国の信頼を繋ぎ、第三国が過早に敵国に近づくことを妨げるために、窮余の一策として、戦況の発表に手心を加えることはありうることである。
 しかし、太平洋戦争中におけるわが陸海軍の発表が必要な限度をはるかに超えたものであったことは、すでに周知の事実となっている。
 では、どのようにこの問題を理解したらよいであろうか。海軍、特に航空部隊関係については、大別して、次の三つの場合に分けると大過がないであろう。

 第一は、わが飛行機隊の実力が、敵側のそれに比して、極めて優秀であった場合であった。太平洋戦争の初期、すなわち昭和16年12月の開戦から昭和17年4月頃までの期間がそうであった。この時期には、わが方が制空権を確保していたので、戦果の報告はほとんど事実と変わらなかったばかりでなく、時には過小に報告していたことすらあった。
 ハワイ海戦(真珠湾攻撃)、マレー沖海戦、フィリピンやオランダ領インド(現インドネシア)方面への進攻作戦、インド洋作戦などはその好適例であった。これらの場面では、写真、スケッチその他の方法によって戦果を確認する余裕があったからであった。特に真珠湾では、米艦隊に与えた損害は飛行機隊が写真をそえて報告したものよりは大きかった。その時の写真に写っていた戦艦で、その後沈没したものがあったからである。
 第二は、彼我の実力が互角の場合であった。昭和17年5月から約一カ年間がこれに相当する。この頃のわが方の戦果報告は、実際より大きい場合が少ないないが、撃沈した敵艦戦や撃墜破損した飛行機の数を重複して数えたり、艦船の種類を見誤ったり、与えた損害を課題に報告したりした疑いはあっても、全く根拠のない報告はほとんどなかった。
 例えば、昭和17年10月26日の南太平洋海戦の戦果について、大本営は10月27日、
「敵航空母艦四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻、ヲ撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻ヲ中破シ、敵機二百機以上ヲ撃墜其ノ他ニヨリ喪失セシメタリ」
 と発表したが、11月16日には艦船の項をを次のように訂正している。
「敵艦船撃沈、戦艦一隻、航空母艦エンタープライズ、同ホーネット、大型航空母艦一隻、
巡洋艦三隻、駆逐艦一隻、大破又ハ中破、艦型未詳三隻、駆逐艦三隻」
 米軍の公式発表によれば、空母ホーネットと駆逐艦スミスを失い、空母エンタープライズは大破し、戦艦サウスダコタ、軽巡サン・ジュアンも命中弾を受けたとのことである。わが方の発表は別の飛行機が重複して報告した疑いが多分にあるが、架空のものではなかったと視てよいだろう。

 第三は、彼我の実力差が大きく、わが方が機数と練度を総合した力でもかなり、時には著しく劣っていた場合であった。このような時には、しばしば、敵に与えた損害が過大に報告されたことが多かったばかりでなく、架空の報告がなされたこともあった。
 このような状態は、ガダルカナル島の攻防戦の末期から現れはじめ、昭和18年中期以降には、それが顕著になっていた。
 それらの中で目立ったものととしてはすでに述べたレンネル島沖海戦(昭和18年1月29日~30日)や一連の「ボーゲンビル」島沖海戦などがあった。特に第五次「ボーゲンビル」島沖海戦では、航空母艦三隻ほかを撃沈したと報告したが、当日、南東方面のわが基地航空部隊の攻撃可能範囲には、米空母は存在しなかったことが戦後判明している。また、第六次「ボーゲンビル」島沖航空戦では、航空母艦三隻ほかを撃沈したと報告したが、米空母は存在したが損害を受けていないとのことである。
 しかし、敵兵力とそれに与えた戦果を誤認したのは、航空部隊のみではなかった。

 ・・・

「ボーゲンビル」島沖航空戦の時から、飛行機魚雷に艦底起爆用の頭部(それまでの魚雷は艦船に直接命中しなければ爆発しなかったが、この頭部を使えば、艦低を通過しただけでも爆発させることができた。特にそれが艦船の最も弱い艦低で爆発するので効果は絶大であると信じられていた)を使用したことが、戦果を過信するに至った大きな理由といわれていたが、この点も再検討の必要があった。
 それはそれとして、歴戦の搭乗員の中には戦場でこの種の体験を重ねて、訓練の不足を補い、ほぼ正確に判断できるものもいたが、相ついだ激戦のために、そのような搭乗員は極めて少なくなっていた。したがって、飛行機隊指揮官が戦死した時などは、戦果報告が過大にされがちであった。南太平洋海戦などがその好適例であった。
 いま一つは、航空戦の特殊性があげられる。ガダルカナル方面でくり返された海上戦闘では、ほとんどの場合、大尉以上の指揮官が先頭に立っていた。ところが、昭18年中期以降の飛行機隊指揮官の
ほとんどが大尉以下であった。老練な飛行将校の多くが戦死したからであった。
 このような飛行機隊指揮官の戦果報告を受ける時には、航空部隊の指揮官や参謀たちは、たとえ若干の疑問を感じても、自らが現場を見ていないので、その報告を否定することができにくかった。そこで、人情として、ほとんどの場合、飛行機隊指揮官の報告通りに上級司令部に報告せざるをえなかった。その結果、大本営発表となるのであるが、その場合、被害を少なくすることはあっても、与えた損害を割り引いて発表することはないようであった。
 こうして、太平洋戦争の中期以後には、いわゆる大本営発表という悪い印象が生まれたものと思われる。
 最後に、戦争の経過が望ましい状態で発表されなかった背景には、わが国の戦争指導者や高級の軍人に、戦争には敗北があることをよく知っていた人が極めて少なかったのではないかと疑われるふしがあったことである。これは、明治開国以来のわが陸海軍の連戦連勝の歴史がそうさせたのであろう。このことが、勝つための条件をつくることには精魂を傾けても、万一の場合に備える真剣さに欠けた結果となっていたようである。大本営発表もその一例に過ぎない。
 もしわが陸海軍の最高の指導者たちに、戦争には敗北があることを真に知っている人々がいて、そのことが然るべき形で各級指揮官に伝えられていたとすれば、飛行機隊をはじめ海上部隊の報告はより正確なものとなっていたであろう。
 これを要するに、戦争中、指導者たちの言葉は多かったが、真に国を愛し、長い目で国の歩みを考えていた憂国の士が果たしてどれくらいいたかは、この戦争の敗戦が何よりも雄弁に物語っているのではあるまいか。  

          第三 人命の尊重についての日米の相違
 飛行機は人が操縦するものである。その固有の性能は同じであっても、操縦者の技量によって、その戦闘力は著しく変化する。しかも、有能な搭乗者を養成するには優秀な素質をもった人材と、多額の経費と、長年月を要する。したがって、彼らが遭難した場合には万難を排してこれを救助せねばならない。
 理論的にはほとんど異論のない人命尊重も、具体的な手段、方法にあると日本軍と米軍の間には大きな相違点があった。端的にいえば、アメリカ側では遭難者が生存の可能性がある間の救助活動に最大の重点を置いていたのに対し、わが方は死んでからの行事を重視する傾向が強かった。
 このことは平時からそうであった。私の知る限り、わが海軍では、機体、発動機、救命用具などの欠陥が指摘されても、なかなか改善されなかった。ところが、その飛行機が事故を起こし、殉職者が出ると、ただちにそれが改修されるのが例であった。また、明らかに死亡と判定されている遭難機の乗員の捜索には多額の経費を惜しまないが、遭難させないための、あるいは遭難者を生存中に救助するための努力は、どちらかといえば、軽視され勝ちであった。
 このような日米の差が戦場にも現れていた。それまでもそうであったが、敵の基地がラバウルに近づくにつれて、地上にいるわれわれにもわかるようになってきた。米軍は、ラバウルへの空襲を終える毎に、搭乗員救助用の飛行艇を飛ばしては、空中戦闘のあった付近の海上や陸上を捜索して救助に当たっていた。そして、それにはおおむね九機ないし十二機の援護戦闘機をつけていた。時にはラバウルの基地から見えるところまで近づいてする危険きわまりない作業であったので、私は、アメリカ人はよくも勇敢に任務を遂行するものだと、敵ながら感心せずにはいられなかった。最悪の場合にはミイラとりがミイラになるたとえのとおり、一人の戦闘機パイロットを救おうとして、十人近くも乗っている飛行艇が撃墜される危険すらあったからであった。
 人命を尊重すること、その重要性は百も承知でありながら、日本人はそろばんをはじいたり、遭難者を救うための犠牲を厭(イト)うあまり、当然救助できたであろう搭乗員すら見捨てたと思われることもあった。一人の搭乗員を救うために、数人乗りの飛行艇を犠牲にするには忍びない、という論理である。そして、たとえ救助を命令されても、それを遂行する熱意に欠けていたのではなかろうか。他人の命をこのように考えるのだから、自分が同じ運命に陥った時には、これが宿命であるとでも諦めていたのかも知れない。とかく、日本の海軍軍人は、全体として、搭乗員の救助に関しては米軍に比べて関心が足りなかった。私も海軍軍人であり、なかでも飛行将校でもあったから、とやかく言う資格はないが、敵地の目前まできてパイロットを救助して行くPBY飛行艇を見て、彼我のあり方の差について考えさせられた。
 しかし、幸いなことに、19年の初め頃には、ラバウルに有能な水上偵察機の指揮官と勇敢な搭乗員がいて、極めて積極的に、かつ自発的に搭乗員の救助に努力してくれたが、三座の水上機であったこと、機数が少ないことなどのために思うようにならないようであった。
 昭和8年に、私が霞ケ浦海軍航空隊の飛行学生になって飛行機に乗りはじめてからすでに十年余り、その間に、落下傘、救命胴衣、飛行機搭載用の浮舟などについて若干の教育を受けたほかは、本格的な遭難機の捜索、発見、救助の訓練が行われたことも、遭難した場合の搭乗員の心得などについての教育が特に改善されたということも、ともに思い出せなかった。そして、いま、私が痛切にその必要性に気づいた時には、わが海軍にはそのような任務に適した機材も、装備も無きに等しかったし、ましてや救助機に援護戦闘機をつける余裕などは全くなくなっていた。
 人命尊重についてのいま一つの大きな欠陥は、戦地における軍人や軍属の健康の保持に関することであった。
 当時の海軍の医学や治療の水準は、わが国全般のそれから見て、第一級であったといっても過言ではなかった。したがって、ラバウル方面でも、いち早く、相当すぐれた設備をもった病院がつくられていた。このことは戦地であることを考えると評価できることであった。が、問題は防疫の分野であった。
 南東方面は熱帯で、しかも人口が極めて希薄な地方であったために、衛生環境が著しく悪く、マ
ラリア、テング熱、アメーバ赤痢その他の巣窟のようなところであった。しかし、わが海軍では、このような地方での防疫についての経験も、準備もほとんどなかったので、その虚をつかれた形となっていた。また一般の軍人や軍属も、軍医官の中尉を素直に受け入れようとする常識的な素養も持ち合わせていないようであった。国外では艦船での勤務が多く、陸上でのそれがほとんどなかったために、安易に考えていたためであろう。
 以上のような理由から、兵科の別や、階級の上下に関係なく、ほとんどすべての人々が何らかの熱帯病にかかり、わが海軍の戦力を著しく低下させていた。南東方面の海軍最高指揮官であった塚原三四三中将がマラリアのために激務に耐えられなくなって、ガダルカナル攻防戦の最中の昭和17年10月1日に草鹿任一中将との交代を余儀なくされたほか、各航空戦隊の指令官や参謀、各航空隊の司令やその他の幹部はもとより、飛行機搭乗員や一般隊員にいたるまで、ほとんどの者が少なくとも一回はこれらの病気を経験していた。
 私が知り限りでも、連合艦隊参謀長の宇垣纒少将、南東方面艦隊の首席参謀であった三和義勇大佐、第三艦隊首席参謀の高田利種大佐、第二十六航空戦隊の首席参謀柴田文三中佐、第十一航空艦隊参謀で、軍令部部員に予定されていた源田実中佐などがいた。
 その他の部隊も同様であった。ガダルカナル島で戦った陸海軍将兵のほとんどがこれらの病気にかかっていたことは、同島から撤退した艦上における健康調査から見ても明らかであった。このことは前からわかっていたので連合艦隊司令長官山本大将も、”ガダルカナル島の衛生状態の改善については工夫が必要である。ただ漫然と兵員を送っても効果が上がらない”の旨の注意をしていたほどであった。ガダルカナル島より恵まれた環境にあった航空基地でさえ以上のような有様であったから、ソロモン群島南部やニューギニアの地上部隊の状況は察するに余りあった。
 私は、何回か南東方面の航空基地に勤務した。その間、私が航空参謀として勤務していた第二航空戦隊司令部、第二十六航空戦隊司令部には合計して司令官三人、首席参謀三人、砲術参謀二人、整備参謀三人、通信参謀二人の総計十三人がいたが、極めて短期間であった「い」号作戦参加者のほかは、私を除いては、全員病臥せざるをえなかった。その間、私が終始健康でありえた最大の理由は、常に第三種軍装の長いズボンを着用していたからではないかと考えている。他の人々は、暑さを凌ぐために、防暑服という短いズボンをはいていた。そうすれば当然露出する下半身が蚊に刺されることになるが、ここは神経が少ないので、蚊に刺されてもなかなか気が付かないことがあったからである。
 わが海軍の各種の作戦命令には、当然のことながら、衛生や防疫に関することが含まれていたが、防疫に関することは第一線の部隊の努力のみではどうすることもできない要素が多分にあった。そのためであろう、飛行場周辺の湿地その他に、蚊の防除用の薬剤を散布しているのを私が見かけたのは、昭和19年に入ってからのことであった。当時ラバウルには軍医官それぞれ三名を幹部とする第二、第三の二つの防疫班があるに過ぎなかった。
 南東方面の陸軍部隊も同様な悩みを持っていたことには疑問の余地がなかった。このことは、陸軍航空部隊の活動がしばしば空中勤務者の健康状態が著しく不良なために、大きく妨げられていると伝えられていたことからも容易に想像できた。
 米軍も、ガダルカナル島へ上陸の当初は、我が陸海軍と同様な苦い経験をしたと伝えられているが、その後間もなく、スイス人ミュラー博士の発明したDDTの大量使用が可能となり、17年末頃からは、防疫については大きな問題は起こしていないようであった。ここにも、日米間の間に大きな差があった。
 ない、米陸軍の資料によれば、ニューギニア戦に参加したアメリカの地上軍の将兵一万三千六百四十五名中、戦死は六百七十一名、戦傷ニ千百七十二名、病気送還者約八千名という記録がある。
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                            あとがき

 戦争や戦闘に関する記録には、大別して、三つの型があるようである。そのひとつは、努めて客観的に事実を列挙したものであり、他の一つは、いかに勝ったかについて誇らしげに述べたものであり、いま一つは、なぜ敗れたのかということに重点を置いたものである。
 太平洋戦争中の日本の陸海軍の歴史に関心をもつ人々が最も求めているのは後者に属するものではあるまいか。古来、敗戦国の歴史が勝利国の歴史よりも価値があるものが多いといわれているのは、それがより素直に書かれているからだろう。
 それはそれとして、明治開国以来、対外戦争では連戦連勝であったわが国が、しかも緒戦の大勝にもかかわらず、遂に無条件降伏をしなければならなかった原因は何かを知ることが、日本および日本人を知る上に役立つはずである、当時は、軍人がわが国民を代表していたに過ぎなかったからである。
 ところが、敗戦後のわが国では、軍隊を廃止し、軍人がいなくなったのだから、いまさら軍人が主役を果たした戦争の研究をしてみたところで、大した意味がないというような空気が支配的であった。
その結果、あれほど多くの国民の生命と莫大な財産を代償として得た貴重な経験が、その後のわが国の運営にほとんど生かされていないように思われる。このことは近年わが国の政治や経済などの動きが、あまりにも太平洋戦争の経過に似ていることからも察知できるであろう。
 本書は、前大戦中の最も重要な一コマであったラバウルを中心とした海軍航空部隊の作戦をとりあげたものであるが、これが当時の史実を知るのに役立つばかりでなく、わが国民性のいったんを知るよすがともなれば、筆者にとって望外の喜びである。
 本書は、主として、戦争中の筆者の体験および戦争直後に集めた資料によったものであるが、正確を期するためと、米軍側の状況を知るために次の各種の資料を参考とした。
 ・・・

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