真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO5

2019年06月29日 | 国際・政治

 私は、日本軍慰安婦の問題は、国連人権委員会クマラスワミ報告書やマグドゥーガル報告書の指摘するように、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」で解決済みとすることはできない問題だと思います。日本軍慰安婦であったことを名乗り出た人たちにきちんと向き合って解決すべき名誉・尊厳・人権に関わる戦争犯罪の問題であり、単なる財産請求権の問題ではない上に、当時知られておらず、議論もされていないからです。したがって、被害者に向き合うことなく、見舞金のようなもので決着させ、和解を図ってはならないと思っています。それは、日本軍慰安婦であったことを名乗り出た人たちはもちろんですが、日本の将来や韓国の将来のためにもならないと思うからです。

 ところが、「帝国の慰安婦」の著者は、当時の日本軍や日本政府の法的責任を問うことはできないと、いろいろなところで書いており、日本政府の方針に沿った見舞金による和解をよしとされているように思います。
 だから、下記に抜粋したように、”マグドゥーガル報告書も、このように誤った認識のもとに出されたものだった”などと、国連人権委員会で、「歓迎する」と評価され採択された報告書を、いとも簡単に否定されるのだと思います。 

 p201
 この報告書( マクドゥーガル報告書)も、「20万人」もの「女性と少女」がすべて「強かん収容所」的な施設に収容されたと理解している。しかも「なんの賠償もされていない」(同)としている。98年の報告書(同88頁)では、多くが「11歳から20歳」で、誘拐とだましの主体が日本軍であり、日本軍が女性の売買禁止条約に違反したとしている。生き残った人は25パーセントに過ぎず、「14万5千人」が生きて帰ってこられなかったとする。しかし国家が違法者を放置したのが問題とも言っていて、マグドゥーガルは日本軍が個人的にだましと誘拐をしたものと理解したのだろう。そうだとすれば、98年の報告書はきわめてまっとうな指摘と言える。
 それに反して支援団体は、「慰安」を日本軍の体系的なシステムとみなし、国家犯罪と考えた。もっとも、「慰安」というシステムが、根本的には女性の人権にかかわる問題であって、犯罪的なのは確かだ。しかし、それはあくまでも<犯罪的>であって、法律で禁止された<犯罪>ではなかった。
当時の基準で責任を問えるのは、業者による過酷な強制労働や暴行、そして軍人による逸脱行為としての暴行と強姦の方である。
 マグドゥーガル報告書も、このように誤った認識のもとに出されたものだった。にもかかわらず、国連の権威を借りて、韓国や日本の支援団体はこれを韓国の見解の正しさを証明するする根拠にしてきたのである。

 これはマクドゥーガル報告書の曲解と言えるのではないかと思います。国連人権委員会の報告者マグドゥーガルが、”日本軍が個人的にだましと誘拐をしたものと理解したのだろう”などと、どうして言えるのか、と疑問に思います。また、”それに反して支援団体は、「慰安」を日本軍の体系的なシステムとみなし、国家犯罪と考えた”というのも、おかしな話です。マクドゥーガルは一貫して”、日本政府と日本帝国軍隊による奴隷制、人道に対する罪、戦争犯罪という最も重大な国際犯罪に対する責任”の問題を論じているのであり、日本軍の個人的なだましや誘拐を問題にしているのではないのです。だから、”それに反して支援団体は…”などと、いかにも矛盾があるかのようにいうことも、おかしな話だと思うのです。

 「マクドゥーガル報告書 附属文書」には、”第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析”と題して、その「はじめに」の「」で 
1932年から第2次大戦終結までに、日本政府と日本帝国軍隊は、20万人を越える女性たちを強制的に、アジア全域にわたる強かん所(レイプ・センター)で性奴隷にした。これらの強かん所はふつう、「慰安所」と呼ばれた。許し難い婉曲表現である。これらの「慰安婦」たちの多くは朝鮮半島出身者であったが、中国、インドネシア、フィリピンなど、日本占領下の他のアジア諸国から連行された者も多かった。この10年間に、徐々に、これら残虐行為の被害女性たちが名乗り出て、救済を求めるようになってきた。この付属文書は、第2次大戦中の強かん所の設置・監督・運営に対する日本軍当局の関与について、日本政府が行った調査で確定した事実のみに基づいている。日本政府が確認したこれらの事実に基づいてこの付属文書は、第2次大戦中に「慰安所」で行われた女性たちの奴隷化と強かんについて、日本政府が現在どのような法的責任を負っているか、を判定しようとするものである。責任を問う根拠はいろいろありうるが、この報告書は特に、奴隷制、人道に対する罪、戦争犯罪という最も重大な国際犯罪に対する責任に焦点をあてる。この付属文書はまた、国際刑法の法的枠組みを明らかにし、被害者がどのような賠償請求を提起できるか検証する。
と書かれています。”日本軍が個人的にだましと誘拐をしたものと理解”などしていないことは明らかだと思います。

 また、著者が”それはあくまでも<犯罪的>であって、法律で禁止された<犯罪>ではなかった”というのは、事実に反すると思います。強姦が”法律で禁止された<犯罪>ではなかった”ということはないと思います。そして、日本軍の慰安所では、本人の意思を無視した強姦がくり返されたのです。拒否したため、脅されたリ、傷つけられたという証言も少なくありません。

 強姦に関しては、「マクドゥーガル報告書 附属文書」の「17」に下記のようにあります。
奴隷制と同様、強かんと強制売春は戦争法規で禁止されていた。戦争法規に関する初期の権威ある法典で複数のものが戦時中の強かんや女性に対する虐待を禁じているが、そのなかでも最も傑出しているのは1863年のリーバー法である。さらに第2次大戦後、多くの者が強制売春や強かんの罪を含む犯罪で訴追され、このような行為の不法性がさらに明確になった。ハーグ陸戦規則はさらに、、「家族の名誉と権利は……尊重されなくてはならない」とした。既存の国際慣習法を成文化し、ハーグ陸戦条約にあった「家族の名誉」という用語をとり入れたとされるジュネーブ第4条約第27条は、まさに、「女性は、女性の名誉に対する侵害、特に強かん、強制売春その他のあらゆる形態のわいせつ攻撃から、特別に保護されるべきである」と明記している。強かんの性格づけが暴力犯罪としてではなく、女性の名誉に対する犯罪とされている点は残念であり、不正確だが、少なくとも「慰安所」が初めて設置された時期には、強かんと強制売春が国際慣習法で禁止されていたことは、十分に立証されている。

 また、日本軍慰安婦の問題は、人身売買に関する国際条約に違反した問題でもあります。「醜業婦ノ取締ニ関すスル1910年5月4日国際条約」にはその第一条に、
何人ニ拘ラス他人ノ情欲ヲ満足セシムル為メ売淫セシムル意思ニテ未丁年ノ婦娘ヲ傭入レ誘引若クハ誘惑シタル者ハ仮令本人ノ承諾アルモ又犯罪構成ノ要素タル各種ノ行為カ他国ニ於テ遂行セラレタルトキト雖モ処罰セラルヘキモノトス
とあります。「未丁年」すなわち未成年の女性は、本人の承諾があっても、売春目的で売買することを禁じているのです。

 さらに言えば、日本軍慰安婦の問題は 「強制労働ニ関スル条約(第29号)(日本は1932年11月21日批准)にも、違反しているのだと思います。「強制労働ニ関スル条約」は、その第一条で
本条約ヲ批准スル国際労働機関ノ各締盟国ハ能フ限リ最短キ期間内ニ一切ノ形式ニ於ケル強制労働ノ使用ヲ廃止スルコトヲ約ス”と強制労働を禁じています。これにも違反していたということです。

 そして、日本軍慰安婦の証言のみでなく、「上海から上海へ 戦線女人考 花柳病の積極的予防法」兵站病院の産婦人科医 麻生徹男(石風社)の中の文章が、現実に法律違反であった事実を証明しています。同書には『麻生徹男「従軍慰安婦資料」をめぐって』と題する「天児 都」(著者軍医麻生徹男の二女)名の付録がついているのですが、そこに慰安婦「半島婦人80名、内地婦人20余名」について、重要な記述があります。「軍陣医学論文集」と題された文章の「一 花柳病ノ積極的豫防法」の「2、娼婦」のなかに、下記のようにあるのです。

 昨年1月小官上海郊外勤務中、1日命令ニヨリ、新ニ奥地ヘ進出スル娼婦ノ検黴ヲ行ヒタリ。コノ時ノ被験者ハ、半島婦人80名、内地婦人20余名ニシテ、半島人ノ内花柳病ノ疑ヒアル者ハ極メテ少数ナリシモ、内地人ノ大部分ハ現ニ急性症状コソナキモ、甚(ハナハ)ダ如何(イカガ)ハシキ者ノミニシテ、年齢モ殆ド20歳ヲ過ギ中ニハ40歳ニ、ナリナントスル者アリテ既往ニ売淫稼業ヲ数年経来シ者ノミナリキ。半島人ノ若年齢且ツ初心ナル者多キト興味アル対象ヲ為セリ。ソハ後者ノ内ニハ今次事変ニ際シ応募セシ、未教育補充トモ言フ可キガ交リ居リシ為メナラン。

 一般ニ娼婦ノ質ハ若年齢程良好ナルモノナリ。…

 福岡県ニ於ケル年齢40歳マデノ調査ニテ、20歳以下ノ者ノ数ハ

 芸妓 56.3% 娼妓 29.1%   酌婦 44.6%  女給 46.5% 

 ヲ示セリ。即チ娼婦ノ約半数ハ年齢20歳以下ノ者ト言フヲ得ベシ。故ニ若年ノ娼婦ニ保護ヲ加ヘル事ガ重要ニシテ、意義アル事ナリ。サレバ戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス。而シテ小官某地ニテ検黴中屡々(シバシバ)見シ如キ両鼠蹊部(ソケイブ)ニ横痃(オウゲン)手術ノ瘢痕ヲ有シ明ラカニ既往花柳病ノ烙印ヲオサレシ、アバズレ女ノ類ハ敢ヘテ一考ヲ与ヘタシ。此レ皇軍将兵ヘノ贈リ物トシテ、実ニ如何ハシキ物ナレバナリ。如何ニ検黴ヲ行フトハ言ヘ。”

 したがって、 日本軍慰安婦の問題が ”法律で禁止された<犯罪>ではなかった”というのは、明らかに間違いだと思います。

 

 p210
 運動は成功したが、様々なケースの女性の問題を「性」を媒介にして等しく扱ったために、朝鮮人慰安婦の特徴を消去し、欧米の「植民地支配」の影を消してしまった。つまり「慰安婦」問題を「紛争下の女性に対する暴力の象徴」としたことは、「慰安婦」間のさまざまな「差異」を消してしまったのである。
 おそらく、朝鮮人慰安婦問題が「植民地支配」ゆえのことと認識されていたら、欧米諸国が日本だけを批判することはできなかったであろう。日本の植民地支配下に入って慰安婦という存在を作ってしまった韓国が、ほかの西洋諸国に対して日本帝国の問題を訴えたことになるのだから、アイロニーと言わざるをえない。

 日本軍慰安婦の問題は、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの名誉・尊厳・人権をいかに回復させるかという問題であって、日本と慰安婦の出身国との関係や日本軍慰安所の歴史的位置づけ、日本軍慰安婦となった人たちの経緯を研究する歴史学の問題ではないのです。植民地支配や帝国主義の問題と日本軍慰安婦の問題を無理矢理関連付けて、論点をずらしてはならないと思います。「慰安婦」間のさまざまな「差異」は、慰安婦であったことを名乗り出た人たちの訴えている名誉・尊厳・人権の回復の問題とは直接関係のないことです。

 「帝国の慰安婦」は、作家田村泰次郎の小説「」の強姦の場面をとりあげています。著者は下記のように書いているのです。

 p220
 移動中に強姦されなければならなかった朝鮮人慰安婦たちが、ときに厖大な数を相手するほかなかったというのは、否定者たちが考えるように一方的な被害ではないにしても、そこが想像を絶する過酷な労働の現場だったことを示す。

 ”一方的な被害ではないにしても…”とは、どういう意味でしょうか。合意があったということでしょうか。また、”労働の現場”という言葉を使えば、朝鮮人慰安婦が、日本の軍のために、仕事として性行為を受け入れていた、ということになるのではないでしょうか。こうした表現は、朝鮮人慰安婦だった人たちの思いを理解する人のものとは思えません。マグドゥーガルは慰安所を「強かん所(レイプセンター)」と呼んだのです。

 p221
 もっとも、ここでの場面は、慰安所の外で行われたという点で例外的なことであって、慰安婦たちにもともと要求されたや役割ではない。しかし数字では少ない例外的なことだとしても、いつでも起こりうることだったという意味で、本質的なことでもある。ここで起こっていることは、男女差別の上に宗主国国民による植民地差別の構造が支えてこそ可能なことだからである。彼らの行為は「国家のため」という美名の下に許され、被害者たち本人さえも、そのイデオロギーを内面化しているからである。彼女たちが不満をいいながらも自分たちを守ることなく従ってしまうのは、そのためである。

 朝鮮人慰安婦が、「国家のため」というイデオロギーを内面化していたということは、私には信じられません。根拠を示してほしいと思います。「国家のため」というイデオロギーを内面化し、日本の国民として慰安婦であることを受け入れていた人が、名乗り出ることは考えづらいです。
 また、”彼女たちが不満をいいながらも自分たちを守ることなく従ってしまうのは、そのためである。”と、何を根拠に断定するのでしょうか。慰安婦だった人たちは、ほんとうに、”自分たちを守ることなく”自ら、従ったのでしょうか。なぜこうした断定に、それを推察させる証言がないのでしょうか。 

 p226
 「蝗」での慰安婦の移送は、その移送が単なる戦場での民間人保護のレベルでないこともみせてくれている。しかも当時は、内地・半島と中国との移動は厳しく制限されていて、国家の官吏を受けなければならなかった。したがって、移動するには今のパスポートのような、国家の許可証が必要だった。ところが、日本内地では売春の前歴のない女性や21歳未満の女性は渡航を禁止しながら、そのような制限が朝鮮や台湾では設けられなかった(吉見義明2009夏季)。それは、大日本帝国が、植民地の女性に対しては国家の保護意識を作動させなかったことを意味する。ここでも、朝鮮人慰安婦問題は、普遍的な女性の人権問題以上に<植民地問題>であることが明白だ。そして個人を過酷な状況に追い込む制度を国家が支えていた以上、「軍の関与」はまぎれもない事実となるほかないのである。

 植民地であったために、朝鮮人女性(少女)が慰安婦にさせられたことは、日本軍の文書で明らかですが、日本軍慰安婦の問題は、慰安婦であった人の名誉・尊厳・人権の回復の問題であり、どこの国の慰安婦であろうと同じことだと思います。 植民地問題にすりかえてはならないし、日本軍慰安婦の問題に植民地の問題を絡ませて、論点をずらしてはならないと思います。

 p228
 慰安婦たちがたとえ慰安婦になる前から売春婦だったとしても、そのことはもはや重要ではない。朝鮮人慰安婦という存在が、植民地支配の構造が生んだものである限り、「日本の」公娼システム──日本の男性のための法に、植民地を組み込んだこと自体が問題なのである。慰安所利用が「当時は認められていた」とする主張は、「朝鮮人慰安婦」問題の本質を見ていない言葉にすぎない。
 
 日本軍の慰安所に拘束され、性奴隷といわれるような苦痛を味わったのは朝鮮人慰安婦だけではありません。中国、台湾、インドネシア、フィリピンなど、日本軍が駐屯した他のアジア諸国にもいるのです。”植民地支配の構造が生んだもの”などということはできないと思います。日本軍慰安婦の問題は、すべての地域や国の慰安婦の名誉・尊厳・人権の回復に関する問題です。植民地は関係ないのです。

 p229
 「慰安婦」の「強制連行」は、基本的には戦場と占領地に限られると考えられる。吉見教授は、インドネシアの「アンボン島で強制連行・強制使役があったことは明らか」(吉見義明2009夏季)としといるが、先に見たように、そこでの強制性を朝鮮人女性をめぐる強制性と同じものとすることはできない。彼女たちの中には貧しい生活の中で「白いごはん」を夢見たり、女の子が勉強することを極端に嫌悪していた家父長制社会の呪縛から逃れて、一人で独立的主体になろうとした人も多かった。
 しかし、たとえ<自発的>に行ったように見えても、それは表面的な自発性でしかない。彼女たちをして「醜業」とよばれる仕事を選択させたのは、彼女たちの意志とは無関係な社会構造だった。彼女たちはただ、貧しかったり植民地に生まれたり、家父長制の強い社会に生まれたがために、自立可能な別の仕事ができるだけの教育<文化資本>を受ける機会を得られなかった。

 
 名乗り出た日本軍慰安婦の立場で考えるのではなく、国、特に日本の国の立場で考えるからこういうとらえ方になるのではないかと、私は思います。”そこでの強制性を朝鮮人女性をめぐる強制性と同じものとすることはできない”と無理に朝鮮人慰安婦を、他国の日本軍慰安婦と切り離し、朝鮮人は、植民地であったから仕方がなかったと主張しておられるように思います。でも、朝鮮人慰安婦の証言は、他国の日本軍慰安婦の証言と基本的に異なるものではないと思います。
 例えば、「証言 強制連行された朝鮮人慰安婦たち」に、十二歳のとき、近所の子とゴム跳びをしていたら、日本人一人と朝鮮人一人が来て、「あんたのお父さんんがチョさんの家で碁を打っているんだが、あんたに来るようにといっているよ」というので、ついて行くと納戸に押し込まれた、というような証言があります。そして、「そこには、私のようにだまされて連れてこられた女の子が三人しました。」とあります。本人の意思に反していることは明らかで、強制連行に類するものだと思います。
 朝鮮においては、このように、強引な強制連行をせず、「副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案」のなかにあるように、「将来是等(慰安婦)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度、依命通牒ス」を踏まえたかたちで、「騙す」という方法がとられたのだと思います。でもそれは基本的に強制連行に類するものだと思うのです。
 だから、”彼女たちをして「醜業」とよばれる仕事を選択させたのは、彼女たちの意志とは無関係な社会構造だった。彼女たちはただ、貧しかったり植民地に生まれたり、家父長制の強い社会に生まれたがために、自立可能な別の仕事ができるだけの教育<文化資本>を受ける機会を得られなかった。”というのは、違うと思います。名乗り出た朝鮮人慰安婦は、「慰安婦」という仕事を選択したのではありませんし、社会構造が選択させたのでもなく、彼女たちを慰安婦にしたのは、日本軍だと思います。

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「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO4

2019年06月27日 | 国際・政治

 「帝国の慰安婦の数々の断定を、見逃すことができません。
 日本軍慰安婦問題に対する日本政府の対応は、少しずつ変化しているのではないかと思いますが、基本的に変わらないのは、「強制連行」の証拠が見つからないので、公的謝罪や法的賠償はしないということです。そのかわり、「元慰安婦の方々に対する償いの事業」などを行うことを目的に財団法人「女性のためのアジア平和国民基金」を設立し、募金活動によって償いの事業の事業資金を得るとともに、必要な場合は政府が運営資金を拠出するなどして、全面的にその財団法人に協力するというのです。
 でも、このような国の責任を認めない対応は、日本人慰安婦だった人たちの証言を信用しないところからでてくるものなので、当然、慰安婦だったことを名乗り出た人たちは、これを受け入れませんでした。「強制連行」の証拠が見つからないということが、「強制連行」がなかったということではありませんし、騙されたという証言が多いとはいえ、「強制連行」されたという証言をする人もあり、また、日本軍慰安婦の問題は、何も「強制連行」だけではないからです。だから、公的謝罪や法的賠償がなければ、日本軍慰安婦だったことを名乗り出た人たちは、嘘つき扱いされているに等しく、それでは自分たちの名誉・尊厳・人権は回復はされないということだと思います。
 そういう意味で、法的な日韓の論争は重要なので、長くなるのですが、「帝国の慰安婦」から、そのまま要所を抜粋します。

177
2011年秋頃から慰安婦問題が再び注目を浴びるようになったのは、同年の夏、韓国の憲法裁判所がある判決を下したからである。2006年に支援団体と慰安婦64名が「韓国政府が慰安婦問題解決のために努力しないのは違憲」として起こした訴訟で、韓国の憲法裁判所がその主張を受け入れたのである。
 
 p179
2006年に開始された被害者たちの訴訟請求内容は次のようなものだった。

 日本国が請求人たちを性奴隷とした人権蹂躙行為は「醜業を行わしむるための婦女売買禁止に関する国際条約」「強制労働禁止協約(国際労働機関第29号条約)」などの国際条約に反するものであり、この事案の協定(財産および請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と韓国との協定)には含まれていない。この事案の協定によって打開されたのは我が国の政府の国民に対する外交的保護のみであり、我が国の国民の日本などに対する個人的損害賠償請求権は放棄されていない。しかし日本はこの事件の協定第二条第一項に従って日本国に対する損害賠償請求権が消滅したと主張し、請求人に対する法的な損害賠償請求を否定しており、これに対して我が国の政府は2005年8月26日、日本軍慰安婦問題に関連して日本国の法的責任が、この事件の協定第2条第1項によって消滅しておらず、そのまま存続している事実を認め、両国間に解釈上の紛争が存在する。(中略)(4)しかし、韓国政府は請求人たちの基本権を実効的に保障できるような外交的保護措置や紛争解決手段の選択など具体的な措置を取っておらず、このような行政権力の不作為は上記の憲法規定に違反する。(「判例集」、373頁)

 この請求の根拠は最初にあるように「婦女売買禁止条約」に日本が違反したというところにあった。そして、被害を受けた「個人」の「損害賠償」が請求されていないと言う。つまり「婦女売買」の責任主体を日本国家にのみ帰している。しかし人身売買の主体はあくまでも業者だった。日本国家に責任があるとすれば、公的には禁止しながら実質的には(個別に解決したケースがあっても)黙認した(といっても、すべて人身売買であるわけではないので、その責任も人身売買された者に関してのことに限られるだろうし、軍上層部がそういったケースもあることを認知していたかどうかの確認も必要だろう)ことにある。そして、後で見るようにこのような「権利」を抹消したのは、韓国政府でもあった。
 実際に、このとき外交通商部は、被害者が日本の賠償を受けるように動くことが政府の義務ではなく、政府が憲法違反をしているとは言えないと、強く反論している。しかし五年もかかった裁判の末に、裁判所は訴訟者たちの味方になった。裁判所が、日本国家だけを責任主体とする考えに同調した形となる。

  「帝国の慰安婦」では、どういうわけか、業者が徹底的に悪者にされています。人身売買の主体は業者、慰安婦を奴隷状態においたのは業者、慰安婦を戦地に置き去りにしたのは業者と…。でも、数々の証言や文書資料に基づいて、当時の状況を考えると、日本軍や日本政府が業者の背後で動いていたことは間違いありません。すでに触れたように、そのことを窺わせる文書は存在しますし、慰安婦の証言も存在します。何より、強姦したのは日本の軍人です。もちろん、業者にも責任はあるでしょうが、すべてを業者の責任にすることはできないと思います。
 だから、被害者の証言を受けとめた第三者機関である国際法律家委員会(ICJ)や国連人権委員会報告者の法的判断を尊重するべきだと思います。日本政府が、「強制連行」の証拠がなかったなどと言い逃れをして、慰安婦の証言が「嘘」であるかのような対応をするから、日本軍慰安婦であった人たちが、名誉・尊厳・人権の回復を求め続けていることを忘れてはならないと思います。

 p183
 被害者団体は2006年の告訴文で次のように訴えている。

 日本軍慰安婦問題は、この事件の協定締結のための韓日国交正常化会談が進行する間、まったく議論されず、八項目の請求権にも含まれておらず、この事件の協定締結後の立法措置による補償対象にも含まれていなかった。(「判例集」378頁)
 
 これも、慰安婦が「強制連行」されたとの認識による訴えであったろう。「そして、慰安婦たちの全てでないにしても、多くの女性が戦場に動員されて日本軍を支えた以上、そしてその過程で多くの強姦と過重な労働が強いられた以上、これは主張自体としては妥当な主張と言える。しかし、それでもそこでの強姦や過重な労働が、軍の承認を得たものでもなく、すべての慰安婦に該当するものでもない限り、それを軍全体の責任とすることはやはり難しいと言うほかない。
 問題は、日韓協定に補償の<法的根拠>がなかったところにある。日本人たちは「日本国民」として徴兵・徴用され、事後に戦没者墓地や恩給(年金)が支給された。徴兵自体は国民として国家総動員法に基づいて行われたものなので、「日本国民」でなくなった韓国人はいまや日本による補償の対象ではないことになる。しかし、そのことに含まれる矛盾は明らかである。国家が必要としたとき国民の地位を与えて<国民の義務>を与え、必要でなくなったとき、「国民」から外して<国民の権利>だけを奪った形になるからだ。
 とはいえ、根本的な問題は、日韓併合が、国民に知らないところで少数の人によって「合意」の形を取って行われたことにある。つまり、たとえ賛同者がいたにしても、ほとんどの国民には「強制」されたことでしかなかった日韓併合が、朝鮮人すべてが進んで「日本国民」になる意思表明をしたかのように、合法の形になってしまったことこそが問題の根源にあると言えるだろう。

 何を根拠に”しかし、それでもそこでの強姦や過重な労働が、軍の承認を得たものでもなく、すべての慰安婦に該当するものでもない限り、それを軍全体の責任とすることはやはり難しいと言うほかない。”というのでしょうか。ところどころに、こうした事実に反する記述があることを見逃すことができません。
 例えば、「比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所の慰安所(亜細亜会館 第1慰安所)規定」(「従軍慰安婦資料集」吉見義明編─大月書店)には、下記のようにあります。

一、本規定ハ比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所管理地区内ニ於ケル慰安所実施ニ関スル事項ヲ規定ス
二、慰安所ノ監督指導ハ軍政監部之ヲ管掌ス
三、警備隊医官ハ衛生ニ関スル監督指導ヲ担任スルモノトス接客婦ノ検黴ハ毎週火曜日拾五時ヨリ行フ
四、本慰安所ヲ利用シ得ベキモノハ制服ヲ着用ノ軍人軍属ニ限ル
五、慰安所経管(営?)者ハ左記事項ヲ厳守スベシ
 1、家屋寝具ノ清潔並日光消毒
 2、洗浄消毒施設ノ完備
 3、「サック」使用セサル者ノ遊興巨止
 4、患婦接客禁止
 5、慰安婦外出ヲ厳重取締
 6、毎日入浴ノ実施
 7、規定外ノ遊興拒止
 8、営業者ハ毎日営業状態ヲ軍政監部ニ報告ノ事
六、慰安所ヲ利用セントスル者ハ左記事項ヲ厳守スヘシ
 1、防諜ノ絶対厳守
 2、慰安婦及楼主ニ対シ暴行脅迫行為ナキ事
 3、料金ハ軍票トシテ前払トス
 4、「サック」ヲ使用シ且洗浄ヲ確実ニ実行シ性病予防ニ万全ヲ期スコト
 5、比島軍政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ナクシテ慰安婦ノ連出シハ堅ク禁ズ
七、慰安婦散歩ハ毎日午前八時ヨリ午前10時マデトシ其ノ他ニアリテハ比島軍
   政監部ビサヤ支部イロイロ出張所長ノ許可ヲ受クベシ尚散歩区内ハ別表1ニ依ル
八、慰安所使用ハ外出許可証(亦ハ之ニ代ベキ証明書)携帯者ニ限ル
九、営業時間及料金ハ別紙2ニ依ル

 別表1 公園ヲ中心トスル赤区界ノ範囲内トス (地図略)
 別表2
   区分      営業時間       遊興時間  料金 第1慰安所    亜細亜会館
   兵     自 9:00至16:00  30分    1,00       1,50
下士官・軍属   自16:00 至19:00 30分    1,50       2,50
 見習士官    自19:00 至24:00 1時間    3,00       6,00


 日本軍は、敗戦が避けられない状況に至ったときに、機密文書を中心に大部分の関係文書を焼却処分したわけですが、こうした慰安所規定は、いくつか発掘されています。
 でも、著者は、”軍の承認を得たものでもなく”などと事実に反することを言って、日本軍や日本政府の責任を法的に追及することはできないと言っているのです。理解できません。

 また、”問題は、日韓協定に補償の<法的根拠>がなかったところにある。日本人たちは「日本国民」として徴兵・徴用され、事後に戦没者墓地や恩給(年金)が支給された。徴兵自体は国民として国家総動員法に基づいて行われたものなので、「日本国民」でなくなった韓国人はいまや日本による補償の対象ではないことになる。”とありますが、これも日本政府の方針を追認するもので、とてもおかしと思います。日本国民として被害を受けた被害者には、当然、日本が補償を行うべきだと思います。日本の被爆者と韓国の被爆者の扱いが全く異なることをはじめ、さまざまな日韓の戦争被害者における扱いに違いがあるようですが、私はそれは恥ずかしいことだと思います。日本は、公平なドイツの戦後補償を見習うべきだと思います。
 特に問題なのは、そうしたことを”日韓併合が、国民に知らないところで少数の人によって「合意」の形を取って行われたことにある。”などと、日本軍慰安婦の問題に、植民地支配の問題を無理矢理関連付け、絡めることです。日本軍慰安婦の問題は、あくまでも戦時性暴力の問題であり、違法行為(犯罪行為)に対する謝罪と法的賠償の問題です。
 
 p191
 何よりも、訴訟者の被害者団体の賠償要求の根拠は「強制労働」と「人身売買」であり、それが当時の国際法に違反するものだということにあった。しかしそのことを<直接に>犯した主体が「業者>だった以上、日本国には、需要を作った責任<時に黙認した責任>しか問えなくなる。そういう意味でも、法的責任を前提とする賠償要求は無理というほかない。

 第三者の立場にある法律の専門家が、全く逆の判断をしていることは、すでに触れました。国際法律家委員会(ICJ)の「結論と勧告」のなかには、「日本は今、完全に責任を取り、被害者とその家族に適切な原状回復を行うべきである」とあります。

 p197
1996年の国連の「クマラスワミ報告書」(「女性に対する暴力、戦時にいける軍の性奴隷制度の問題に関して、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国及び日本への訪問調査に基づく報告書」)は、日本政府に対して「法的責任を受け入れ、賠償支払い、文書公開、公式謝罪、関係者処罰」などを勧めている。しかし二年後の1998年に提出された報告書(女性に対する暴力その原因と結果」)には次のように書かれている。
 日本政府は「慰安婦」に対する過去の暴力という問題に対処すべく、ある程度努力しているのは歓迎すべきである。…

 この報告書が基金に対する日本の立場や努力を明言しているのは、アジア女性基金などに関する日本政府の説明を受け入れたからだろう。そして支援団体がこのような報告書の変化に気づいていなかったはずはない。しかしそのことが韓国に伝わることはなく、このクマラスワミ報告書は「法的責任」「賠償」を要求する根拠の一つとして使われ、韓国ではやがてメディアや政府までが同じことを言うようになった。
 ・・・
 ところでこの報告書では、「強制連行」をしたと話した吉田清治の本を引用している。また慰安婦のほとんどは「14~18歳」で、挺対協の初代会長だったユン・ジョンオク教授の言葉を引用して慰安婦募集に学校制度が利用されたと述べている。さらに、慰安婦たちが相手をした軍人の数は一晩に60~70人だともしている。しかしここまでの数字を話している人は、少なくとも韓国で刊行された慰安婦証言にはない。そしてそう語った人は北朝鮮出身の慰安婦だが、彼女は13歳のときに連れていかれ、クリスマス釘の出た板の上で転がされる少女や、局部の消毒のために鉄棒を突っ込まれた少女を見たと語っている。彼女は「日本陸軍の守備隊に連れていかれた」といい、少女たちを「拷問」したのは中隊長と語る。しかしそこまで具体的な証言が、韓国側の証言ではほとんど見られないのは偶然だろうか。

 さらに、「この報告書は二十万人の朝鮮人女性」、「その後大半の女性を殺した」としながら、1995年の日韓協定は個人の請求権は含まれていないので、この問題とは関係ないと結論づけている。(以上、「デジタル祈念館 慰安婦問題とアジア女性基金」ホームページ参照)。
 このような「慰安婦」理解は「二十万人」の「少女」を朝鮮人とすることや、彼女たちがほとんど殺されたとする点で、挺対協の認識、あるいはその運動初期の頃の認識といえるだろう。にもかかわらず、このあとに出るようになる報告書は、ほとんどがこの報告書の影響を大きく受けることになる。

 「クマラスワミ報告書」に関するこうした記述にも、受け入れ難いものがあります。”吉田清治の本を引用している”ことで、この報告書を否定できるものでないことは、その後のインタビューで、クマラスワミ自身が「報告書は多くの元慰安婦の聞き取り調査に基づき作成した。(朝日新聞の誤報があっても)報告書の見直しの必要はない」とか「吉田証言は報告書作成の入手した証拠のひとつ」とか「吉田証言は報告書の核心でなく、元慰安婦の証言がより重要だ」と述べたことが報道されており、明らかです。
 また、クマラスワミは報告書のなかで、「特別報告者の作業方法と活動」と題して、
第2次世界大戦中のアジア地域における軍事的性奴隷の問題に関して、特別報告者は、政府および非政府組織の情報源から豊富な情報と資料を受け取った。そこには被害女性たちの証言記録がふくまれていたが、それらは調査団の出発前に注意深く検討された。本問題についての調査団の主要な目的は、特別報告者がすでに得ている情報を確かめ、すべての関係者と会い、さらにそのような完全な情報に基づいて国内的、地域的、国際的レベルにおける女性に対する暴力の現状、その理由と結果の改善に関して結論と勧告とを提出することであった。その勧告は、訪問先の国において直面する状況を特定したものになるかもしれず、あるいはグローバルなレベルで女性に対する暴力の克服を目指すもっと一般的な性格のものになるかもせれない。
と書いています。北朝鮮慰安婦の証言にだけ依拠した報告書でないことがわかります。極端な北朝鮮慰安婦の証言だけを引いて、「クマラスワミ報告書」そのものが、価値のないものであるかのようにいうことは、やはりおかしいと思います。
 私も、日本軍慰安婦の証言が100%真実であるとは思いません。きちんとした教育を受けることができず、読み書きさえできなかった慰安婦には、記憶違いや誤解もあったと思います。また、憎しみが募って大げさに言うこともあったでしょうし、悪夢のような日々の中で、夢にみたことが、現実とごちゃまぜになることも考えられると思います。でも、クマラスワミは、「徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない」として、報告書を作成しており、当然、そうしたことも踏まえていたと思います。謙虚に受け止めるべきだと思います。

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「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO3

2019年06月25日 | 国際・政治

 「帝国の慰安婦」における問題意識が、私には理解できません。甘言や強圧などによって、意思に反して戦地の慰安所に連れて行かれ、性奴隷といわれるような状況におかれた朝鮮人慰安婦にとって、一番大事なことは、名誉・尊厳・人権の回復ではないかと思います。ところが、「帝国の慰安婦」では、そこのところが曖昧のまま、直接関係のないことがいろいろ語られているような気がします。

 p157
 日本による被害を記憶することは大切なことだ。しかし、大使館前の少女像は本当の慰安婦とはいえない。朝鮮人慰安婦が、朝鮮人のままでいられず、「日本人」にならなければならなかったために経験した悲しい記憶が、そこでは消されている。少女像は、今や韓国のみならずアメリカにまで拡散されるようになった。アメリカの記念碑では、「強制的に連れていかれた二十万の少女」という言葉をチマチョゴリを着た少女の台座に刻んでいるが、それは<アジア全域の慰安婦>ではなく、<韓国>の公的記憶を形にしたものでしかない。そのようなひとつの記憶だけを表している以上、慰安婦問題の否定者たちは、彼らの記憶──<ただの売春婦>の記憶にこだわりつづけるだろう。
 慰安婦の苦痛を共有し、記憶することが目的なら、その像が立つべきは、慰安所があった場所か彼女たちが戦争で命を落とした場所がよりふさわしいはずだ。また、ノイズを除去した怒りよりは、複数のアイデンティティを生きるほかなかった植民地の悲しみを表したほうが、より普遍的な共感を得られるだろう。少女像が本当に<平和>を作る可能性も、そこから初めてうまれてくるはずだ。

 これは、国際的に「戦時性暴力」の問題と認知されている日本軍慰安婦の問題に、無理矢理当時の日本による植民地支配の問題を関連付け、絡ませる著者独特の認識ではないかと思います。大使館前の少女像に、”朝鮮人慰安婦が、朝鮮人のままでいられず、「日本人」にならなければならなかったために経験した悲しい記憶が、そこでは消されている”というような思いを持っている朝鮮人慰安婦が存在するとは、私には考えられません。
 日本軍慰安婦は意思に反して慰安婦にされ、奴隷的生活を強いられたので、名誉・尊厳・人権の回復を求めて名乗り出たのであって、たとえ、”朝鮮人のままでいられず、「日本人」にならなければならなかったために経験した悲しい記憶”があるとしても、それは、意思に反して慰安婦にされたことと別の問題としてあるのではないと思います。だから、”大使館前の少女像は本当の慰安婦とはいえない”などというのは、難しい環境のなかで名乗り出た朝鮮人慰安婦の思いとは別の著者独特のものだろうと、私は思うのです。

 また、日本大使館前に慰安婦の少女像が設置されたのは、朝鮮人慰安婦の名誉・尊厳・人権の回復のためにくり返し求めた日本政府よる公式謝罪や法的賠償を、日本政府が受け入れないので、抗議の意思表示をすることがきっかけだったのではないでしょうか。慰安婦の少女像は、単に慰安婦の苦痛を共有し、記憶することが目的ではないと、私は思います。いろいろなところに、次々に像が設置されることになったのも、日本軍慰安婦の名誉・尊厳・人権の回復に欠かせない公式謝罪や法的賠償がなされないことへの抗議の意味が込められていると思います。著者は、そういうことをどのような考えているのか、と疑問に思います。 

  p163
 韓国政府は、みずから解決を迫っておきながら、「支援団体の意向」を気にして日本の提案を受取らなかった。そして、「人道的措置」を提案していた韓国政が日本政府の提案を受け入れなかったのには、これに先立っての支援団体のイ・ミョンバク大統領批判が影響した可能性が高い。三月に大統領が「人道的措置」がいいとの意見を出した時、挺対協は声明書を出して大統領を強く批判していた。<イ・ミョンバク大統領は日本政府が主張する「人道的解決」に同調せず、公式的に日本政府に法的解決を要求しろ>
 イ大統領はソウルで開催される第二次核安保会議を前に、本日国内外のマスコミ六社と合同記者会見を開き、日本軍「慰安婦」問題に対して「法よりも人道的に解決」しなければならないと発言した。我々は被害者の思いを無視し、本質から遠ざかったこうした発言に、強く抗議する。今まで日本軍慰安婦被害者と挺対協は日本政府に対し、日本軍慰安婦問題に対する罪を明らかにし、罪に対する反省を元に、被害者の名誉と人権を回復するための公式謝罪と法的賠償を求めてきた。日本軍慰安婦問題は当時の国家として管理し行った制度的犯罪であり、日本政府が国家として責任を認め、法的に解決しなければならない問題だからだ。そして日本政府が未だ誇らしげに広報しているアジア女性基金が失敗に終ったということからも、国家ではない民間の責任にすり替えた「人道的支援」は問題解決を困難にするだけだからである。(後略)(2012年3月23日)

 挺対協の主張をそのまま紹介していることは評価したいと思いますが、挺対協のこうした基本的認識に対する著者の考え方が示されていない上に、何か不当な圧力をかけたかのような表現が気になります。

 p66
 国家や社会や家族によって遠くへと移動させられ、つらい体験を強いられた慰安婦たちを、そして、帰ってきてからも数十年間、同じく国家と社会と家族の冷たい視線にさらされながら苦痛に満ちた生を営んできた彼女たちを、九十年代から、また、あらたに二十年以上も<韓国の自尊心>の中心に立たせてしまったのは、酷なことではなかったろうか。彼女たちに<正しい民族の娘>の役割を要求してきたのは、果たして彼女自身のためだったろうか。
 おそらく、日本兵と恋愛し、慰安を<愛国>することと考えてもいた慰安婦たちの記憶が抑圧されてきたのは、彼女たちがいつまでも民族を代表する存在でなければならなかったからである。彼女たちがいつまでも十五歳の少女被害者かあるいは闘士として生き続けなければならなかったのも、その結果である。
 完璧な被害者であることを確認し続けようとする欲望は、日本兵に対する愛も、朝鮮人業者や親に対する憎しみも、解放後五十年も続いた韓国人自身の冷たい視線も覆い隠してきた。「慰安婦問題」とは、そのような欲望と期待が優先され、当事者たちの<今、ここ>の苦痛は十分顧みられなかった問題でもある。

 なぜ、慰安婦募集に関する軍の文書や『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』のなかにある慰安婦集めに関わる文書に基づいて、日本軍や日本政府が主導した慰安婦集めの実態に迫ることなく、逆に” 国家や社会や家族によって遠くへと移動させられ”というように、責任の所在を曖昧にする表現をするのでしょうか。
 ”また、あらたに二十年以上も<韓国の自尊心>の中心に立たせてしまったのは、酷なことではなかったろうか”というのはその通りだと思いますが、慰安婦であったことを名乗り出た朝鮮人慰安婦は、日本政府がきちんと対応しなかったから、名誉・尊厳・人権の回復のために、苦痛に堪えて声をあげ、二十年以上も頑張り続けているのではないでしょうか。だから、一日も早く朝鮮人慰安婦の名誉・尊厳・人権を回復するために、公式謝罪と法的賠償を行って、そうした苦痛から解放することこそが、何より大事なのに、”完璧な被害者であることを確認し続けようとする欲望は、日本兵に対する愛も、朝鮮人業者や親に対する憎しみも、解放後五十年も続いた韓国人自身の冷たい視線も覆い隠してきた。「慰安婦問題」とは、そのような欲望と期待が優先され、当事者たちの<今、ここ>の苦痛は十分顧みられなかった”などと言って、日本政府ではなく、朝鮮人慰安婦の名誉・尊厳・人権回復の運動の方を批判するのは、本末転倒ではないかと思います。

 p170
 挺対協はこれまで日本を外から圧迫することに多くの力注いできた。そして、90年代に挺対協が慰安婦問題を中心に、世界の女性や人権活動家たちと連帯して「戦時における女性への暴力」という問題を世界の関心事にした功績は大きい。そして挺対協の運動は、今や世界まで味方につけた。
 しかし、そのような外からの圧迫は、いまだに慰安婦問題を解決できていない。逆に反撥者を数多く作り、ますます混迷状態に追い込む結果となった。実らずに終わってしまったが、2012年春に日本が動き出したのは、韓国以外の圧迫ゆえのことではなく、韓国の大統領が直接訴えたからだった。日本の応答を導き出せるのは、ほかの国を集めての「圧迫」ではなく、日本と向き合うことによってである。
 世界を相手にした挺対協の運動が成功したのは、同時代の戦争と連携して「世界的人権問題」として訴えたからだった。そのような連帯は女性問題には効果的でも慰安婦問題、しかも朝鮮人慰安婦問題とは構造が違う以上、この問題をめぐる矛盾を隠した連帯でしかない。いずれその矛盾は露呈されるだろう。

 ”外からの圧迫”という表現や、”日本の応答を導き出せるのは、ほかの国を集めての「圧迫」ではなく、日本と向き合うことによってである”という考え方にも、とても問題を感じます。多くの人や組織と連帯して日本軍慰安婦の名誉・尊厳・人権回復を求め、日本政府に働きかけることが、どうして”外からの圧迫”であるとして否定できるのでしょうか。日本軍慰安婦の名誉・尊厳・人権回復のために、日本政府に公式謝罪と法的賠償を求めることは、日本軍慰安婦であったことを名乗り出た人たちや、これからの日本にとって必要なことではないでしょうか。
 ”そのような外からの圧迫は、いまだに慰安婦問題を解決できていない。逆に反発者を数多く作り、ますます混迷状態に追い込む結果となった”ということは、日本軍慰安婦の名誉・尊厳・人権回復のために、日本政府に公式謝罪と法的賠償を求めることが誤りであり、反発は当然で、混迷状態の責任は日本政府にはないと主張されているように受けとめられるのですが、そうでしょうか。私には理解できません。
 また、女性に対する「戦時性暴力」としての、日本軍慰安婦の問題に、無理に当時の日本による植民地支配の問題を絡ませて、”朝鮮人慰安婦問題とは構造が違う”とか”矛盾を隠した連帯”とか言うことも、ずいぶんおかしなことだと思います。

 p171
 オランダ女性を集めて「売春収容所」を作った主導者は日本の敗戦後に処罰され、オランダは国民基金を受け入れてもいる。何よりも、挺対協とオランダとの連帯には、オランダがもう一つの「帝国」としてそこにいたこと──つまり元帝国の一員としてインドネシアにいたがために、そういう事態に遭ったという認識がすっぽり抜け落ちている。「慰安婦問題」が「戦争での性暴力問題」ならば、朝鮮戦争での韓国軍の問題、ベトナム戦争での韓国の問題、米軍基地周辺の公娼を許容することで、軍隊慰安婦制度の維持に加担している韓国も、また同様に批判されなければならない。

 戦時性暴力としての日本軍慰安婦の問題は、意思に反して慰安婦にさせられ、性奴隷と表現されるような状態におかれた女性の問題であって、慰安婦にさせられた人がどこの国の人かということや、どういう階層の人か、どういう家庭で育ったのか、などということは、関係のないことだと思います。
 ”挺対協とオランダとの連帯には、オランダがもう一つの「帝国」としてそこにいたこと──つまり元帝国の一員としてインドネシアにいたがために、そういう事態に遭ったという認識がすっぽり抜け落ちている。”などというのも、戦時性暴力としての日本軍慰安婦の問題に、無理矢理帝国主義の問題を関連付け、絡ませる著者独特の認識で、元日本軍慰安婦の人たちの名誉・尊厳・人権の回復とは関係のないことだと思居ます。
 また、朝鮮戦争での韓国軍の問題、ベトナム戦争での韓国の問題、米軍基地周辺の公娼の問題なども「戦時性暴力」の問題として共通部分があると思いますが、日本軍や日本政府主導の日本軍慰安婦問題とは異質の面もあり、”また同様に批判されなければならない”などといって、日本政府の責任を問わず、免責することは許されないと思います。

 p171
 挺対協は2013年はるから「世界一億人署名運動」というのを始めている。しかしこのような外からの圧迫の方法では、日本を動かすことはできない。これまでの日本への圧迫が効をなさなかったことがそれを証明している。慰安婦の記念碑をアメリカに建てるのは、世界の裁判官の役割をアメリカに期待してのことだが、日韓に軍事基地を持っていて、今でも新しい慰安婦を作り続けているアメリカにそれを建てることはアイロニーでしかない。アメリカ下院が(その後ニューヨーク州上院決議案などが続いた)この問題をめぐって韓国の味方だったのは、アメリカの慰安所問題を指摘されなかったからでしかない。そして下院での証言者の中に白人女性(オランダの女性)が入っていたのが影響した可能性が高い。
 少女像が本当の「平和碑」になるためには、<怨恨の記憶>だけでなく、<許しと和解の記憶>も刻むべきである。今の運動は、平和ではなく不和をのみ作り続けているだけだ。

 日本政府が公式謝罪や法的賠償に応じないことをまったく問題とせず、”今の運動は、平和ではなく不和をのみ作り続けているだけだ”というのは、なぜでしょうか。日本軍慰安婦であったことを名乗り出た人たちの思いを押し潰すものではないでしょうか。また、”日韓に軍事基地を持っていて、今でも新しい慰安婦を作り続けているアメリカ”というのは、本当でしょうか。アメリカ軍やアメリカ政府が主導して、慰安所を作り、女性の意思に反して慰安所に拘束し、性奴隷のような状態に置いているとすれば、大問題ですが、著者が問題を正しくとらえていない証しのように思います。

 p172
 日本に対する挺対協の具体的な要求の中心は、「法的責任」と「公的賠償」である。
 軍を派遣し続けるために必要な慰安婦システムとは、言うまでもなく倫理に悖る行為である。しかし、システム自体が禁止されていなかった限り、それを「法的」に追及できる根拠はない。慰安婦を対象とした暴力は規定では禁止されていたのだから、暴力を受けていたとしたら、それを犯罪視することは可能で、暴力を行った個人を対象とした法的処罰の要求も可能だろう。しかし強姦や暴行とは異なるシステムだった「慰安」を犯罪視するのは、すくなくとも法的には不可能である。
 慰安婦問題における総責任者は、慰安婦を必要として容認し、兵士の福祉の名目で個人の性欲を管理し、戦争機械としての能力を長持ちさせようとした<国家>と言うほかない。しかし、法的賠償を求める挺対協の要求は、「強制連行」の指示や実践が、軍全体の系統だった方針と命令系統が確認されない限り、妥当なものとは言えない。法的賠償は問えないのである。しかも「業者」をも法的責任を問うべき対象と想定すると、韓国人もまた共犯者としての対象になるほかない。彼女たちが慰安婦になった道義的責任を問うなら、彼女たちを守れずに慰安婦にした家父長制や、国家制度に依存していたすべての人にも、責任を問うべきだろう。

 なぜ、事実や証言に基づいて、戦時中の日本軍や日本政府の責任を問わず、免責することに熱心なのでしょうか。それで、日本軍慰安婦だった人たちの名誉・尊厳・人権の回復ができるのでしょうか。それとも、それは必要ないということでしょうか。
 なぜ、簡単に” システム自体が禁止されていなかった限り、それを「法的」に追及できる根拠はない”などと断定するのでしょうか。
 世界の著名な法律家30人によって構成された国際法律家委員会(ICJ)が、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また資料を収集し、10章からなる厖大な報告書を作成しています。その結論と勧告は21項目にわたります【『国際法からみた「従軍慰安婦」問題』国際法律家委員会(ICJ)著:自由人権協会(JCLU)・日本の戦争責任資料センター訳(明石書店)】。ICJの法的判断には、世界の法曹界から深い信頼が寄せられてきたということです。なぜ、その報告書の判断を無視するのでしょうか。また、日本軍慰安婦に関する国連人権委員会の報告者ラディカ・クマラスワミやゲイ・マクドゥーガルも法律家です。日本弁護士連合会も、1995年2月に「従軍慰安婦」問題について、被害者個人に対する国家補償のための立法による解決を提言しています。なぜ、そうした専門家の法的判断を無視して、”強姦や暴行とは異なるシステムだった「慰安」を犯罪視するのは、すくなくとも法的には不可能である”など断定するのでしょうか。
 ”法的賠償を求める挺対協の要求は、「強制連行」の指示や実践が、軍全体の系統だった方針と命令系統が確認されない限り、妥当なものとは言えない”とありますが、甘言や強圧があったことは日本政府も認めているのに、慰安婦の証言がすべて嘘であるかのようにいうのはなぜでしょうか。すでに触れたように、慰安婦集めでは、当初、日本国内でも誘拐に類することがあり、業者が検挙されているのです。 そして、国際法律家委員会も国連人権委員会の報告者も日弁連も、日本軍慰安婦であった人たちの証言や当時の文書資料などに基づいて法的判断をしているのに、なぜ、それらを尊重しないのかと疑問に思います。
 さらに言えば、日本軍慰安婦の法的問題は、「強制連行」の問題だけではありません。性奴隷といわれるような慰安所における慰安婦の生活実態や人身売買その他の問題もあるのです。

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「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO2

2019年06月23日 | 国際・政治

 日本軍が日本軍兵士のために設置した「慰安所」は、国連人権委員会小委員会で採択されたはマクドゥーガル報告書の附属書では、「強かん所(レイプ・センター)」と位置づけされています。そして、そこに拘束された若い女性を、「日本軍性奴隷制」の被害者として、日本政府に対応を勧告しているのです。だらから、慰安婦問題を、帝国主義や植民地支配の問題に置き換えたり、帝国主義や植民地支配の問題の中に埋没させたりしてはならない、と私は思います。でも、「帝国の慰安婦」には下記のようにあります。(前稿とおなじようにp142というような表示は「帝国の慰安婦」における頁を示しています。)

 p142
 もっとも、慰安婦の身体の<主人>が自分自身ではなかったという意味で、ほとんどの慰安婦は奴隷である。しかしその奴隷的労働の物理的な<主人>は、軍隊ではなく業者だった。「奴隷」の辞書的意味が「自由と権利を奪われた他人の所有の客体となる者」(韓国版ウィキペディア)である限り、彼女たちの「自由と権利」を奪った直接的主体が、慰安婦たちが図らずも「主人」と呼んでいた業者たちだったことは記されないのである。
 もっとも、そのような構図を作ったのは慰安婦を必要とした国家なのだから、日本こそが、奴隷の「主人」と言えないわけではない。しかしそれは、「植民地とは奴隷情態のこと」あるいは「女性は家父長制的な家庭の奴隷だ」というような、大きな枠組みの中のことであって、構造的権力と現実的権力の区別は必要だ。
 朝鮮人慰安婦は、植民地の国民として、日本という帝国の国民動員に抵抗できずに動員されたという点において、まぎれもない日本の奴隷だった。朝鮮人としての国家主権を持っていたなら得られたはずの精神的な「自由」と「権利」を奪われた点でも、間違いなく「奴隷」だった。
 しかし、慰安婦=「性奴隷」が、<監禁されて軍人たちに無償で性を搾取された>ということを意味する限り、朝鮮人慰安婦は必ずしもそのような「奴隷」ではない。たとえそういう状況にいたとしても、それが初めから「慰安婦」に与えられた役割ではないからだ。
 何よりも、「性奴隷」とは、性的酷使以外の経験と記憶を隠蔽してしまう言葉である。慰安婦たちが総体的な被害者であることは確かでも、そのような側面のみに注目して、「被害者」としての記憶以外を隠蔽するのは、慰安婦の全人格を受け入れないことになる。それは、慰安婦たちから、自らの記憶の<主人>になる権利を奪うことである。他者が望む記憶だけを持たせれば、それはある意味、従属を強いることになる。
 植民地だったがために朝鮮人慰安婦となった彼女たちは「皇国臣民ノ誓詞」を覚えさせられながら日本軍の戦争を支えた存在でもあった。それは、韓国が植民地になった瞬間からさけられなかった矛盾であった。しかし挺対協の慰安婦理解は、そのような植民地の複雑な側面を隠蔽してしまう。そのことは、「植民地」とはどういう事態だったのか、「朝鮮人慰安婦」とはどういう存在だったのかに対する理解をいつまでも拒むだろう。

 私には、そういう慰安婦の存在は信じ難いのですが、たとえ朝鮮人慰安婦の中に、皇国臣民としての意識を持って日本の戦争を支え、日本軍兵士のために慰安所で尽くしたという人がいたとしても、常にそういう意識で性行為を受け入れていたとか、朝鮮人慰安婦がみんなそうであったかのように言うことは許されないことではないかと思います。なぜなら、挺対協の見解や国連人権委員会報告者の勧告は、日本の公式謝罪や補償を求めて、自ら名乗り出た元慰安婦やその他の関係者の証言に基づいたものだからであり、戦時性暴力の問題だからです。「…挺対協の慰安婦理解は、そのような植民地の複雑な側面を隠蔽してしまう」などと言って、日本軍慰安婦の問題すなわち戦時性暴力の問題を、植民地の問題にすり替えたり、植民地の問題に埋没させたり、慰安婦個人の意識の問題したりしてはならないと思います。

 p144
 太平洋戦争の時、日本が慰安婦を必要とし、慰安婦の効果的な供給のために<管理>したのは間違いない。しかし<責任>を問うべき主体を明確にし、その責任を負わせることが運動の目的なら、まずは慰安婦をめぐる実態を正確に知る必要がある。
 慰安婦を否定してきた人たちが<強制性>を否定してきたのは、慰安婦をめぐるさまざまな状況のうち、自らの記憶にのみこだわるためである。そしてその多くは「強制連行」や「二十万人」という数字に反発した。韓国の支援団体の記憶もまた、それに対抗するもう一つの記憶でしかなかった。
 日本の否定者たちは植民地朝鮮との関係を見ないまま単なる「売春」とのみ考え、韓国は被害者としての思いを「強姦」のイメージに集約させたが、そこでは植民地だったゆえに強いられた協力的構造が両方によって否認されていた。

 私には、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”たという著者が、なぜ、慰安婦を支援する人たちの運動を、”しかし<責任>を問うべき主体を明確にし、その責任を負わせることが運動の目的なら…”などという言い方で語るのかわかりません。名乗りを上げた朝鮮人慰安婦の人達に寄り添い、慰安婦を支援する人たちの運動の目的は、先ず何より、慰安婦の名誉回復であり、法的賠償であって、責任の追及は、そのためになされるものではないかと思います。
 また、”韓国は被害者としての思いを「強姦」のイメージに集約させたが、そこでは植民地だったゆえに強いられた協力的構造…”というようなことを考えるのも、多くの慰安婦の人たちの訴えを受けとめた結果とは思えません。
 戦時中、意志に反して慰安所に連れて行かれ、慰安所に拘束され、意志に反して性行為を強いられた慰安婦の立場に立てば、それは「強姦」でなくて何でしょうか。奴隷的状況下にあった朝鮮人慰安婦にとって、植民地であったことや、「植民地だったゆえに強いられた協力的構造」などというのは、直接関係のない別の問題ではないでしょうか。名乗り出た朝鮮人慰安婦の人たちが求めているのは名誉回復であり、法的賠償です。
 
 p145
 「ナヌムの家」から100メートルほど離れたところで、犬一匹とともに一人暮らしをしていたある元慰安婦は、「ナヌムの家」が嫌いだと言っていた。そしてその慰安婦は、行き違いがもとで、愛した日本兵と別れてしまったという昔の恋愛談を話してくれた。
 彼女に「ナヌムの家」が居心地が悪かったのは、そこが愛の記憶をも抱きとめてくれる空間ではなかったからだろう。言い換えれば「ナヌムの家」は完璧な被害者の記憶だけを必要とした空間だった。日本の補償金を受け取った慰安婦たちがいまだに声を出せない理由もそこにある。

 ”そこが愛の記憶をも抱きとめてくれる空間ではなかったからだろう”や”ナヌムの家は完璧な被害者の記憶だけを必要とした空間だった”というのは、本当でしょうか。また、”日本の補償金を受け取った慰安婦たちがいまだに声を出せない理由もそこにある”というようなことを断定する根拠はあるのでしょうか。日本に名誉回復のための公式謝罪を求め、補償を要求する運動を継続するには、大変なエネルギーがいるのではないかと思います。長くつらい生活を強いられた人たちにとっては、果てしなくくりかえしの必要な日本政府に対する運動から身を引いて、「もう、静かに暮らしたい」というような思いがあるのではないでしょうか。”声を出せない理由もそこにある”と断定するのであれば、そうした証言を示してほしいのです。

 p149
 2012年の春から夏にかけて放映されたドラマ「カクシタル(花嫁の面)」も、大日本帝国朝鮮軍司令部の「陰謀」が介入した募集として描写されている。軍が主体となって慰安婦を募集したことを「隠すために」親日派業者を軍が利用したようになっているのである。それは、必ずしも嘘とばかりは言えないだろう。しかしそこでは、慰安婦の募集以前から存在し、自分の利益のために動いた業者の姿は見えてこない。なによりも、そこでの業者に「親日」的要素があったのなら、それが民族を裏切る特別な姿ではなく、皇国臣民化された植民地の普通の姿でもあったことが見えてこないのである。

 『「帝国の慰安婦」を読んで NO1』で取り上げましたが、当時、内務省警保局長が、各庁府県長官宛(除東京府知事)に発した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」と陸軍省兵務局兵務課による「副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒」の「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」の内容は大事なところが異なります。それは、国内世論や国際世論の批判をかわすために、国内向けには国際条約に則って「慰安婦」集めに7つの制限項目を設けた文書を発し、植民地や占領地での「慰安婦」集めには、現地の軍医の要請にこたえるために、そうした制限を設けない文書を発する必要があったからだと思います。

 また、日本の政府が「婦人児童売買禁止国際条約」になかなか調印せず、調印にあたっては、”下記署名ノ日本「国」代表者ハ政府ノ名ニ於テ本条約第5条ノ確認ヲ延期スルノ権利ヲ留保シ且其ノ署名ハ朝鮮、台湾及関東租借地ヲ包含セサルコトヲ宣言ス”と朝鮮、台湾を外したことにも触れました。そこには、明らかに植民地差別がありましたが、慰安婦集めは、そうした差別的な方針に基づいて行われたのだと思います。

 命令か、指示か、依頼かはわかりませんが、植民地であった朝鮮においては、急に多数の慰安婦を集めることになったのですから、それまでそうした仕事をしていた人たちだけでできることではなかったと思います。そして、もし慰安婦集めにおける日本軍や日本政府の二重基準を知って、業者や新たにそうした仕事に従事した関係者が、大勢の少女を本人の意志に反する慰安婦として集めたのなら、その業者や関係者は間違いなく裏切り者であり、”皇国臣民化された植民地の普通の姿でもあった”などと言うことはできないと思います。また、業者や関係者が二重基準を知らずに慰安婦を集めたとしても、朝鮮の人達を裏切る日本の皇国臣民化政策に従ったのであり、民族を裏切る者の協力者であって、意志に反して慰安所に連れていかれた朝鮮人慰安婦だった人たちはもちろん、その親族や一般の朝鮮の人にとっても、植民地だったから仕方がなかったとして受け入れることはできないことだと思います。

 
 P151
 そして証言では、自分にアヘンを打ったのは「主人」だったとしているが、アニメーションでは「軍人」が打ったかのように描かれる。「主人」の姿は消えて、軍人だけが前景化しているのである。阿片に関する話はほかの証言でも時折現れるが、阿片は、身体の痛みをやわらげる一方で、時には性的快楽を倍増するためにも使われていた(『強制』2 157~158頁 「強制」3 133~134)。そしてそのほとんどは、主人か商人を通して買われていた。しかしそのような阿片使用の元の目的は消えて、ただ日本軍の悪行の証拠としてのみ位置づけられる。証言を加工した二次生産物が、慰安婦のありのままの生をますます見えにくくしている最近の代表的な例といえるだろう

 You Tubeにアップされている「少女物語」における”証言とアニメーションの内容の微妙な違い”のことは、私にはよくわかりませんが、この記述にも、とても問題があると思います。当時の日本軍や日本政府の阿片政策に触れることなく、このようなことを書くことに問題を感じるのです。
 近代史家の江口圭一氏は、日本が戦争中に朝鮮、満州、内蒙古で広範にアヘンを生産し販売した事実を論証しながら、「占領地と植民地でこのように大量のアヘンを生産・販売・使用した戦争は史上ほかに例をみない」と指摘し「日中戦争はまさに真の意味でアヘン戦争であった」として、それが中国を「毒化」したと、さまざまな事実をあげて断定されています。そして、その「毒化政策」が出先の軍や機関のものではなく、また偶発的ないし一時的なものでもなくて、日本国家そのものによって組織的・系統的に遂行されたということを論証されています。日本の阿片政策は、首相を総裁とし、外、蔵、陸、海相を副総裁とする興亜院およびその後身の大東亜省によって管掌され、立案され、指導され、国策として計画的に展開されたというのです。
 また、「続・現代史資料(12)阿片問題」(みすず書房)には、日本の針路を左右したといわれる多額の軍事機密費が阿片・麻薬売買から生み出された事実が明らかにされています。その阿片・麻薬売買に関わった里見機関の里見甫は「阿片王」と呼ばれていたといいます。「ヘロイン 戦闘機に化ける」というような論文も取り上げられており、日中戦争が、麻薬で得られた利益によって支えられていた事実も分かります。

 したがって、”アニメーションでは「軍人」が打ったかのように描かれる。「主人」の姿は消えて、軍人だけが前景化している”という批判はあたらないと思います。たとえ「主人」が打ったとしても、それは、日本のアヘン政策によるものだからです。

 また、そのこと以上に問題なのは、”阿片に関する話はほかの証言でも時折現れるが、阿片は、身体の痛みをやわらげる一方で、時には性的快楽を倍増するためにも使われていた(『強制』2 157~158頁 「強制」3 133~134)。そしてそのほとんどは、主人か商人を通して買われていた。しかしそのような阿片使用の元の目的は消えて、ただ日本軍の悪行の証拠としてのみ位置づけられる”という部分です。主人か商人を通して買われていた、とあたかも軍は関係ないかのようにいうのですが、”買われていた”というより、むしろ「売りつけられていた」といえるような実態が背景にあることを無視してはならないと思います。まして、慰安婦が、”性的快楽を倍増するために”自らの意志で阿片を使っていたかのようにいうことは許されないことではないかと思います。日本軍や日本政府の阿片政策の実態や慰安婦のおかれた状況を無視して、このようなことを書くことが、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませ”た結果であるとは、私にはとても考えらません。

p152
 おそらく、2012年に韓国で慰安婦の公式名称を「性奴隷」にすべきとの議論が出たとき、本人たちが拒否した理由もそこにあったはずだ。長い間、自分の慰安婦生活が性奴隷的生活だったと言われることを了解しておきながら、いざその名称が固着しそうになったときにこだわったのは、意識したどうかとは別にして、その名称が自分たちの過去のすべてを表現するものとは思わなかったからであろう。彼女たちを「性奴隷」としてのみイメージし続けるのは、過酷な生活の中であえて持とうとした、彼女たちのわずかな誇りさえも踏みにじることでしかない。「慰安婦のための」物語であるはずの「少女物語」は、彼女たち自身の誇りを守ることには関心がなかった。
 慰安婦の誇りが注目されるのは、ただ日本を相手にした朝鮮人としての誇りであるときに限られる。日本に虐げられた被害者であることのみが、彼女たちを代表するアイデンティティとして選ばれているのである。彼女たちには、日本を相手に闘う闘士としてのイメージもあるが、それはあくまでも彼女たちが「性奴隷」であることを受け入れる限りにおいてのことでしかない。性奴隷以外の記憶を抑圧しつつ慰安婦自身の生きた記憶をより理想化された<植民地の記憶>を、彼女たちは代表することになっている。

 韓国において、慰安婦の公式名称について、いつどんな議論がなされたのか、私は知りませんが、この文章も大事な部分が、”本人たちが拒否した理由もそこにあったはずだ”と著者の推察になっており、引っかかります。特に、”「慰安婦のための」物語であるはずの「少女物語」は、彼女たち自身の誇りを守ることには関心がなかった”という著者の批判には疑問を感じます。ほんとうに関心がなかったのでしょうか。私は、”彼女たち自身の誇りを守る”ために最も大事なことは、まず何より、事実に基づいて、朝鮮人慰安婦だったことを名乗り出た人たちの名誉や尊厳を回復することではないかと思います。なぜ、彼女たちが求めている名誉や尊厳の回復について論じることなく、”彼女たち自身の誇り”について語るのか、私には理解できません。

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「帝国の慰安婦」 事実に反する断定の数々 NO1

2019年06月21日 | 国際・政治

 朴裕河世宗大学教授の書いた「帝国の慰安婦」が、韓国において裁判沙汰になり、彼女が有罪判決を受けたということを知ったので、「帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い」朴裕河(朝日新聞出版)を手に取り、昔読んだ日本軍慰安婦関係の書籍や資料を思い出しながら読みました。

 そして、有罪であるかどうかは別にして、反発があるのは当然だろうと思いました。私自身がいろいろ疑問を感じました。したがって、そうした部分の一部を抜粋し、私自身の考えたことや疑問をまとめておくことにしました(「p101」などとあるのは、同書の101頁に書かれている文章であることを示します)。
p101
これまで慰安婦たちは経験を淡々と話してきた。しかしそれを聞く者たちは、それぞれ聞きたいことだけを選びとってきた。それは、慰安婦問題を否定してきたひとでも、慰安婦たちを支援してきたひとたちでも、基本的には変わらない。さまざまな状況を語っていた証言のなかから、それぞれ持っていた日本帝国のイメージに合わせて、慰安婦たちの<記憶>を取捨選択してきたのである。

 著者は、序文で”「慰安婦」に関する世界の理解は「第二次世界大戦中に二十万人のアジアの少女たちが日本軍に強制的に連行されて虐げられた性奴隷」というものです”と書き、”「慰安婦」を否定する人たちは「慰安婦は売春婦」と主張しています”として、その対立をなんとかしたいと思い、したことは、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”と書いています。
 そして、多くの証言を取り上げて、自分は、そうした対立を乗り越えているかのように書いておられるのですが、”慰安婦たちの<記憶>を取捨選択”するのは、何が問題の本質かを突き詰めていくとき、当然なされることで、「日本軍慰安婦」として戦地に連れて行かれた人と、「売春婦」として自ら納得して戦地に行った人の証言を等しく扱えば、日本軍慰安婦問題の本質は、理解できなくなるのではないかと思います。
 私は、教授の”慰安婦たちの<記憶>を取捨選択”することが間違いであるかのような考え方が、日本軍慰安婦問題の本質理解を歪めることにつながったのではないかと思います。

P106
しかし、資料や証言を見る限り、少女の数はむしろ少数で例外的だったように見える。しかも幼い少女たちまで集めたのは、軍の意志よりは業者の意志の結果だったと考えられる。そこにはあきらかに行動主体としての「業者」の意志が反映されている。多くの慰安婦を確保するのは、まずは業者の利益につながることであり、慰安婦強制募集が軍の命令でないかぎり、そこに存在した業者の意志を無視することはできない。集めてきた少女たちに性労働を強制していたのが、軍人以前に業者だったことを見ることは重要だ。

 巻末の参考文献には、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成(財)女性のためのアジア平和国民基金編』が入っています。したがって、著者が、その中の「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」という文書(当時和歌山県知事が、内務省警保局長などに宛てた文書)を知らないはずはないと思います。和歌山県下田辺警察署で婦女誘拐被疑事件が発生し、検挙したした犯人が「…派出所巡査ニ対シ疑ハシキモノニ非ス軍部ヨリノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来リタルモノニシテ…」と語ったので、軍部が酌婦(慰安婦)募集を命じるというようなことがあるのか、と問い合わせているのです。その回答が「…上海派遣軍慰安所従業酌婦募集方ニ関シ内務省ヨリ非公式ナガラ当府警察部長ヘ依頼ノ次第モ有之当府ニ於テハ相当便宜ヲヘ既ニ第1回ハ本月3日渡航セシメタル次第ニテ目下貴管下ヘモ募集者出張中ノ趣ナルカ左記ノ者ハ当署管内居住者ニシテ身元不正者ニ非サル者関係者ヨリ願出候ニ就キ之カ事実ニ相違ナキ点ノミ小職ニ於テ証明書致候間可然御取計願上候」とあるのです。慰安婦募集が軍命あるいは軍の依頼であることは否定できないことだと思います。当時、他県の知事からも業者による「慰安婦」集めを問題視する指摘が寄せられているのです。

 また、陸軍省兵務局兵務課起案の「軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件」には、「支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス」とあり、軍・憲兵・警察などが業者と一体となって「慰安婦」集めが続けられていたことを窺い知ることができます。「是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ」とあるのに、「… しかも幼い少女たちまで集めたのは、軍の意志よりは業者の意志の結果だったと考えられる」と言えるでしょうか。

p107
こうした事業は軍が取り仕切っており、細かい規則を決めていた。(中略)
将校は毎晩でも来ることが認められていた。兵士たちは行列で順番がくるのを待った。女性たちは客をとるのを拒む権利を与えられていた。
「舎監」(業者のこと──引用者注)は、女性たちの借金の度合いに応じて彼女たちの「稼ぎ」のうち50~60%を取った。平均して彼女たちの一ヶ月の「稼ぎ」は1500円だった。「舎監」の多くは食費を高くして、カツカツの生活をさせた。(船橋 297頁)

 慰安婦の体験は、慰安婦がいた慰安所の設けられた時期や地域、戦況その他の状況によって大きく異なります。したがって、慰安所の設けられた時期や地域、戦況その他の状況に触れることなく、多くの日本軍慰安婦の「拒むことができなかった」という証言と正反対の、「女性たちは客をとるのを拒む権利を与えられていた」というような内容を含んだ文章を引用をすることには、問題を感じます。また、証言集などを読んでいない人たちは、慰安婦は拒む権利があったと誤解するのではないかと思います。”彼女たちの一ヶ月の「稼ぎ」は1500円だった”などと言う文章も同様ですが、こうした従軍慰安婦問題にとって極めて大事な内容を含む文章を、何の説明を加えることなく引くことが、”「朝鮮人慰安婦」として声をあげた女性の声にひたすら耳を澄ませることでした”ということの結果なのか、と疑問に思いました。お金を受取ったことはない、という証言も数多くあるのです。

p113
朝鮮人慰安婦をめぐる複雑な構造に向き合わずに、慰安所をめぐる責任の主体を日本軍や日本国家だけにして単純化したことは、逆にこの問題への理解を妨害し、結果的に解決を難しくした

p106のところで触れたように、日本国内でさえも、「…軍部ヨリノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来リタルモノ…」という業者の言葉が残されており、また、慰安婦の募集に関して「…募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス」というような文書が残されていることを無視してはならないと思います。責任の主体を「業者」にすることこそ、日本軍慰安婦問題の理解を妨げることになるのではないかと思います。

p137
 挺対協のホームページは続けて、「どんな女性が慰安婦として連れて行かれたのか知っていますか?」との質問を作り、「アジア太平洋全地域に渡る各国の未婚女性が慰安婦になったが、その中の80パーセントが韓国人未婚女性だった」と答えている(以下も2012年7月現在)。これは韓国人女性がどのようにして慰安婦になったのかを説明しないため、「アジア太平洋地域」の女性と「朝鮮人」女性の位置が日本軍に対して同じであるかのように思わせる。しかし、すでに見たように、同じ「アジア太平洋地域」といっても、それぞれの地域と日本との関係は異なっていた。当然ながら、そこに属する女性たちと「日本軍」との関係も同じではなかった。
 この説明は、「朝鮮人女性」もその他の地域の女性と同じく、「強制連行」されたかのようなイメージを抱かせる。だまされて行ったとはいえ、「朝鮮人の未婚女性」が<帝国支配以下の日本国民>として戦場へと移動させられたことが、ここでは見えにくいのである。朝鮮人女性が「日本人」として動員された、日本人女性を代替・補充した存在だったこと、軍人を励まし補助するために動員された存在であることも、そこでは見えない。
 朝鮮人女性が多かったのは確かでも、そのことが宗主国日本が意識して植民地の女性をターゲットにして動員した、ということになるのではない。それは、植民地となった朝鮮が、大日本帝国内において相対的に貧しかったために、動員の対象になりやすかった結果だったはずだ。そして戦争末期には、「内地慰安婦の補充は、東支那海、揚子江の航行の困難が増すにつれて、先細りになる」(長澤健一 1983、221頁)というような、地理的要因も手伝ってのことだった。
 つまり、植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない。内地という<中心>を支える日本のローカル地域になり、改善されることのなかった貧困こそが、戦争遂行のための安い労働力を提供する構造を作ったのである。そのことが、朝鮮を政治的のみならず経済的にも隷属する、実質的な植民地として、人々を動員しやすくした。しかも彼女たちは、中国やその他の地域の女性に比べて日本語の理解度が高く、外見も日本人女性に近かった。朝鮮人女性が日本軍を支える慰安婦として多用されていたのは、彼女たちが日本人を代替するにもっともふさわしかったからであろう。皇民教育さえも施され、精神的にも国家に必要な存在として鍛えられたことこそが、日本軍を支える慰安婦として朝鮮人女性が多かった理由だったと考えられる

という文章にも疑問を感じました。特に、”朝鮮人女性が多かったのは確かでも、そのことが宗主国日本が意識して植民地の女性をターゲットにして動員した、ということになるのではない。それは、植民地となった朝鮮が、大日本帝国内において相対的に貧しかったために、動員の対象になりやすかった結果だったはずだ。”という指摘で、群馬県知事が内務大臣や陸軍大臣等に宛てた「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」の文書を思い出しました。当時、日本国内から次々に慰安婦を戦地におくることに批判が高まっていたのです。「神戸市 ○○○○○○、貸座敷、大内○ ○、右者肩書地ニ於テ娼妓数十名ヲ抱エ貸座敷営業ヲ為シ居ル由ナルカ今回支那事変ニ出征シタル将兵慰安トシテ在上海軍特務機関ノ依頼ナリト称シ上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(醜業)ヲ為ス酌婦三千人ヲ必要ナリト称シ本年1月5日之カ募集ノ為、管下前橋市 ○○○○○○ 芸娼妓酌婦紹介業 反町○○方ヲ訪レ其ノ後屡々来橋別記一件書類[契約書(一号)承諾書(二号)借用証書(三号)契約条件(四号)]ヲ示シ酌婦募集方ヲ依頼シタルモ本件ハ果シテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且公序良俗ニ反スルカ如キ募集ヲ公々然ト吹聴スルカ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ厳重取締方所轄前橋警察署長に対シ指揮致置候條此段及申(通)報候也」と慰安婦を集める者を取り締まることを報告しているのです。
 また、山形県知事が内務大臣や陸軍大臣等に宛てた「北支派遣軍慰安婦酌婦募集ニ関スル件」の文書にも、「管下最上郡新庄町桜馬場芸娼妓酌婦紹介業者戸塚○○ハ右者ヨリ「今般北支派遣軍ニ於テ将兵慰問ノ為全国ヨリ2500名ノ酌婦ヲ募集スルコトトナリタル趣ヲ以テ500名ノ募集方依頼越下リ該酌婦ハ年齢16歳ヨリ30歳迄前借ハ500円ヨリ1000円迄稼業年限2ヶ年之カ紹介手数料ハ前借金ノ1割ヲ軍部ニ於テ支給スルモノナリ 云々」ト称シアルヲ所轄新庄警察署ニ於テ聞知シタルカ如斯ハ軍部ノ方針トシテハ俄カニ信シ難キノミナラス斯ル事案カ公然流布セラルルニ於テハ銃後ノ一般民心殊ニ応召家庭ヲ守ル婦女子ノ精神上ニ及ホス悪影響尠カラス更ニ一般婦女身売防止ノ精神ニモ反スルモノトシテ所轄警察署長ニ於テ右ノ趣旨ヲ本人ニ懇諭シタルニ之ヲ諒棏シ且ツ本人老齢ニシテ活動意ニ委セサル等ノ事情ヨリ之カ募集ヲ断念シ…」とあります。
 慰安婦集めが国内では行き詰まっていたことがわかります。それで朝鮮から集めることにしたのであって、「…植民地となった朝鮮が、大日本帝国内において相対的に貧しかったために、動員の対象になりやすかった結果だったはずだ」というのは、ちょっと違うと思うのです。
 それは、内務省警保局長が各庁府県長官宛に出した「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」という文書に「最近支那各地ニ於ケル秩序ノ恢復ニ伴ヒ、渡航者著シク増加シツツアルモ、是等の中ニハ同地ニ於ケル料理店、飲食店ニ類似ノ営業者ト聯繋ヲ有シ、是等営業ニ従事スルコトヲ目的トスル婦女寡ナカラザルモノアリ、更ニ亦内地ニ於テ是等婦女ノ募集周旋ヲ為ス者ニシテ、恰モ軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄スル者モ最近各地ニ頻出シツツアル状況ニ在リ、婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ、実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルルモ、是等婦女ノ募集周旋等ノ取締リニシテ、適正ヲ欠カンカ帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フノミニ止マラズ、銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フルト共ニ、婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キヲ保シ難キヲ以テ、旁々現地ノ実情其ノ他各般ノ事情ヲ考慮シ爾今之ガ取扱ニ関シテハ左記各号ニ準拠スルコトト致度依命此段及通牒候」とあることでもわかります。
 また、同文書で、当時の政府が国際法上、国内から戦地に送る「慰安婦」は「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航ハ、現在内地ニ於テ娼妓其ノ他、事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上、且ツ花柳病其ノ他、伝染性疾患ナキ者ニシテ、北支、中支方面ニ向フ者ニ限リ、当分ノ間、之ヲ黙認スルコトトシ昭和12年8月米三機密合第3776号外務次官通牒ニ依ル身分証明書ヲ発給スルコト」とせざるを得なかったことがわかるのですが、戦地の軍医は全く反対の「戦地ヘ送リ込マレル娼婦ハ年若キ者ヲ必要トス」と主張し、「事実上醜業ヲ営ミ、満21歳以上」ではだめであるという姿勢なので、板挟みになった軍や政府が朝鮮の少女をその対象にしていったのだと思います。朝鮮が貧しかったためではないのです。
 それはまた、当時の日本政府が、「婦人児童売買禁止国際条約」になかなか調印せず、督促され追い込まれて、「帝国ニ於テモ余リ遅レサル方然ルヘシト思考」するに至って、調印したものの、調印にあたって”下記署名ノ日本「国」代表者ハ政府ノ名ニ於テ本条約第5条ノ確認ヲ延期スルノ権利ヲ留保シ且其ノ署名ハ朝鮮、台湾及関東租借地ヲ包含セサルコトヲ宣言ス”と、わざわざ朝鮮、台湾を外している事実からも明らかだと思います(第5条は慰安婦の年齢に関わるものです)。
 

 
 P139
 韓国に於ける代表的な慰安婦写真として知られている妊娠した慰安婦の写真に関しても、「日本軍は戦争で日本軍の慰安婦女性をそのまま捨てて行った」という説明だけがついている。しかしこれも、「敗戦後の慰安婦と日本軍」を十分に語っているものではない。本来なら彼女たちを保護すべき「業者」の存在がすっぽり抜けおちて、日本軍だけが慰安婦を置き去りにした主体として認識されているからである。もちろん「国民」を守るのは軍人の役割だったはずだが、日本軍人は日本人さえも守ってはいない。中国東北部や北朝鮮にいた日本人はシベリアに連行されたリ、飢餓、寒さ、伝染病で数万人が死亡した。自分の命すら維持するのは至難だった極限状況の中で、民間人より自分の家族を優先する場合もあった。日本軍が慰安婦を「捨てた」とするためには、そうした全体の状況の中でも語られるべきである。
 それは何も、慰安婦の悲惨さを軽く扱うためではない。戦争に動員された全ての人々の悲劇の中に慰安婦の悲惨さを位置づけてこそ、性までをも動員してしまう<国家>の奇怪さが浮き彫りになるからだ。そして、それぞれの境遇が必ずしも一つではなかったことを認識して初めて、「慰安婦問題」は見えてくるだろう。

 という指摘にも違和感を感じます。戦地で多数の慰安婦を必要としたのは軍であり、軍の働きかけで業者が動いたことを無視してはならないと思います。また、戦時中、慰安婦を戦地に送り込むことも、慰安婦を連れて帰ることも、軍の力を借りなければ、業者にできることではなかったと思います。したがって、”…本来なら彼女たちを保護すべき「業者」の存在がすっぽり抜けおちて…”ということには、違和感を感じるのです。「捨てる」ということが、連れて帰れたのに、そうしなかったということであると考えれば、当時、連れて帰れることが可能だったのは、軍だったのではないかと思います。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

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大久保利通暗殺事件 斬杆状

2019年06月13日 | 国際・政治

 大久保利通暗殺事件の「斬杆状」は、嘘と脅しとテロによって明治維新を成し遂げた討幕派による明治の政治が、どんなものであったのかをよく示していると思います。 

 その一として”公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私す”とありますが、「五箇条の御誓文」における「廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スベシ」が、全く実現されておらず、”広く会議を起し、万機公論に決するの御誓文をして、殆んど地を払はしむ”ような実態であることを明らかにしています。
 私は、それは当然の結果ではないかと思います。なぜなら、日本に初めて近代憲法を誕生させたといわれる伊藤博文が、元老院の提出した「日本国国憲按」に反対し、また、憲法発布二十年を祝する園遊会で、”憲法政治は断じて国体を変更するものに非ず、只政体を変更するのみ…”などと主張しているからです。伊藤博文をはじめ、薩長を中心とする藩閥政治家にとっては、ヨーロッパ諸国のような立憲主義の国ではなく、天皇を抱き込めば「有司専制」が可能な”萬世一系の天皇が政治を統御せられる日本”でなければならなかったということです。
 また、 ”要路数人の吏輩に至ては、依然其等位を占有し、殆んど門地を以て官を為すが如し”という指摘も、明治政府や陸海軍の要職が、長く「薩長土肥」出身の有力者によって占められていた事実をふり返れば、当然の指摘だと思います。

 その二には、”法令漫施(マンシ)、請託(セイタク)公行 恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る”とあります。
 ここでは、”井上馨が銅山の事の如き、世上頗る物議に渉る。槇村正直會て司法に拘留せらるゝや、卒然(ソツゼン)特命を以て放たる”と、井上馨の「尾去沢銅山汚職事件」と槇村正直の「小野組転籍事件」の二つを取り上げ、その不正な裁きを明らかにしていますが、当時、他にも官僚が絡んだ汚職事件が続発しており、全体にそうした私利私欲にもとづく政治が行われていたことを指摘したものだと思います。

 その三には、”不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す”とあります。
 国家予算が大事なことに当てられていないという指摘です。”夫れ開化文明は形容にあらずして実力に在り。実力は本なり、形容は末なり、本を務めて而して後末に及ぶは、猶草木の根本を培養して枝葉随て繁茂するが如し”というわけです。まず、ヨーロッパ諸国のように、”境域を開き、威力を四外に張り、国富み兵強く、独立を致して”その後、考えるべきことを、先にしているということだと思います。一部の人間の利益のための支出や人気取りのような国家予算の利用があったのだと思います

 その四には、”慷慨忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す”とあります。
 征韓論で下野した西郷隆盛・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣や前原一誠などに対する対応が不正であるということだと思います。”夫れ征韓の議、姦吏輩若(モ)し其見を異にし、国家の為め其職掌を盡さんと欲せば、何ぞ廟堂に於て公平を執り、理非を明らかにして、以て抗議せざる”というわけです。すべてを明らかにして、議論せず、”政府自ら保護の任に背き、保護の具を破り、反(カエッ)て無罪の人民を暴害”していると指摘しています。国家のため、人民のための行動が、受け入れられていなかったということだと思います。

 その五には、”外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す”とあります。
 目先の事に夢中になって、大事なことに予算が使われていないので、日本に不利な条約を改正することができないのだ、という指摘だと思います。
 ただ、明治政権を批判する人たちも、”抑も三韓の我国に隷属する…”と考えたり、“仲哀、応神の朝に始まり、爾来歴朝韓使弊を絶たず。中世我内乱に会し、久しく貢献を缺くを以て、豊臣氏武力を振ふて稍々(ヤヤ)旧権を復するに至る。然るに今代に至て彼れと対等の交際を修む。豈に歴朝皇霊の震怒(シンド)を恐れざらんや。且つ彼れ今ま猶使弊を支那に致し臣僕の体を執る。則ち我既に甘じて支那の下風に立つ者に似たり”というような自国中心主義的な考えを持っていたことも見逃せないことだと思います。

 下記は「自由党史(上)板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂(岩波文庫)から抜粋しました。
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                   第三編 愛国社の興起(明治七年四月至明治十三年二月)

                        第三章 国会開設の建白

   斬杆状中條挙するところの五罪の事実を詳明する左の如し。   
五罪を列挙するの理由
 其一、公議を杜絶し民権を抑圧し以て政事を私す。
一 明治一新初め大に公卿列藩を会し、御誓文を掲げて曰く、広く会議を興し万機公論に決すと。因て当初公議所を開き、諸藩の公議人を会集し、政治の得失将来の施設を論じ、傍ら人民の建議を取り、以て普(アマネ)く衆論公<評>〔議〕を盡す。而して幾ばくなく<して>之を廃し、暫らく集議院を設け、又廃して後左院を以て之れに代ふ。而して近来元老院を立るに及で、又左院を廃す。集議院及び左院に在ては凡そ建白いたす者あれば、其姓名住所を簿録(ボロク)し、時に建白者を招致して其趣旨を陳弁せしめ、其建議に於る可とする者は之を大政府に進達し、否とする者は之れを建白者に下附し、可否相半する者は院中に置て後日の参考に備ふ。而して皆な之を建白者に告示す。建白者猶異論あれば、議官等面議し反覆討論し務めて建白者をして其意中を竭(ツク)さしむ。言路猶(ゲンロナオ)通達する所あるが如し。方今元老院に在ては則ち然らず、凡そ建議の件、其<事>理の<可>〔正〕否を論ぜず。採用の有無を令せず唯之を黙収(モクシュウ)するのみ。譬へば物を水中に投ずる如し。已に入て而して其跡を滅す。如斯(カクノゴトク)なれば誰れか口舌筆紙を費し、此の無益に事を為す者あらん。故に方今絶へて建言を為す者あらず、縦令(タトイ)之れあるも、復た其言を用ひず、徒らに言路〔涸開〕の名あつて、而して其実なし、広く会議を起し、万機公論に決するの
御誓文をして、殆んど地を払はしむ。姦吏輩(カンリハイ)或は言はん、西洋各国建白の規則に於て、固より事理の可否を論ぜず、採用の有無を令せず、是れ文明国の通法なりと。是れ実際の得失を弁ぜずして、妄りに文明国の事を以て口実とする者なり。夫れ西洋各国の人民に於る、自由の理を全ふし、立法議政の権を有す。而して平<生日用>〔常所思〕、官民の間近切通暢(ツウチョウ)して、復た圧制束縛の弊(ヘイ)なし。故に其政治の是非法度の利弊(リヘイ)の如きは、大小議会に於て其所見を盡すを得、其一身一家の得失便否の如きは、則ち当路衙門(ガモン)に於て其志意を達するを得。既に如斯なれば則ち言路  
涸開して下情通達せざるなし、猶何の建白を要せん。故に其規則に於る彼れの如くにして可なり。本邦人民の如きは則ち然らず。未だ大小議会に於て、政治の是非法度の利弊を弁ずる能はず、未だ当路
衙門に於て、一身一家の得失便否を弁ずる能はず、人民の親しく下情を通達すべき者、独り建白の一路あるのみ。如何ぞ之を以て西洋各国に比するを得ん。且若し建白の規則をして文明国の通法に模擬せしめんと欲せば、宜しく先づ人民をして自由の理を全ふし、立法議政の権を得せしむべきなり。今ま建白規則のみ<専ら>文明<国>の通法に傚(ナラ)ひ、人民をして自由発論の権利を得せしむるの事に至ては、会て文明<国>の通法に従わざるは何ぞや。豈に姦吏輩己れに便なる者は之れを取り、己れに不便なる者は之れを取らざらんと欲すす歟。故に曰く妄りに文明国の事を以て口実とすと。明治八年四月、明詔を下し立憲政<治>〔体〕を建立するの旨を諭す。有司因て之を天下に布告す。夫れ西洋各国の立憲政体なる者を稽(カンガ)ふるに、立法、行政、司法の三権を部分し、而して立法の権は全く国会議院に帰す。即ち政治の大綱皆な人民の議定する所に在り。故に本邦既に立憲の政治たらば、速かに三権を分ち、議政立法<の権>をして人民に附すべし。抑も明治六年、前参議副島種臣輩、民選議員設立の議を建てしより、民会の論大ひに起り、当時の論是非相半すと雖ども、時勢漸く進歩し、今や之を非とする者なし。而して政府独(ヒトリ)之を設立するに及ばざるは、豈(ア)に姦吏輩猶之を否とする<者>歟。姦吏輩将(マ)さに云はんとす、民会の事未だ本邦人民開化の度に適せずと。姦吏輩の政治の体裁、百般の規則より、屋舎、道路、器具、雑品の末に至るまで、本邦人民開化の度を問はず、既に悉(コトゴト)く文明国の法を取る。而して独り民会の事に至て、因循猶豫(インジュンユウヨ)して其適否を論<ず>〔ぜざ〕るは何ぞや。夫れ明治一新の初め、既に広く会議を興すの、御誓文あり。後ち遂に立憲政治の詔令あるに至る。是れ 叡旨夙(エイシツト)に民会を興すに在り。而して、詔令下るにより已に数年、人民の之を希望する大旱の雲霓(ウンゲイ)を求むるが如し。而して姦吏輩独り之を欲せざる者、豈に亦己れに不便なるが為め歟。一新の初め<に当り始めて>、職制を立、則ち記して曰く、諸官員在職四年を期とし、公選を以て之を取捨すと。爾後屡々(ジゴシバシバ)職制を改むと雖ども、未だ在職年限の伸縮を明言せず。且つ諸省各寮の間々廃置黜陟(チッチョク)ありと雖ども、要路数人の吏輩に至ては、依然其等位を占有し、殆んど門地を以て官を為すが如し。所謂公選取捨なる者果して何くに在るや。以上指陳する處、姦吏輩陽に公平を称し、陰に私曲を行ひ、民権を掠奪し、下情を壅塞(ヨウソク)するの事に非ざるなし。此れ之を言路を杜絶し、民権を抑圧し、以て政事を私すと謂ふ。

其二、 法令漫施(マンシ)、請託(セイタク)公行 恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る。
一 近来政府の令禁を出し、規則を設くる、皆な人民の得失を問はず、一に官吏の便否に依る。故に数々(シバシバ)変ず、所謂朝令暮改(チョウレイボカイ)ならざる者なし。人民其繁苛に堪へず、其厳刻に苦しむ。甚だしきに至て謾(ミダ)りに西洋各国の政令を取り、妄意軽挙(モウイケイキョ)、強(アヘ)て人民をして遵守履行(ジュンシュリコウ)せしむ。人民其実際の苦情を訴へ、其<急>〔究〕困を免れんと欲すれば、官吏叱咤して曰く、是れ人民の義務のみ、是れ人民の職掌のみ、或は曰く、是れ某の国の法に従ふ。是れ某の国の国法に因ると。下民愚昧(グマイ)、義務と云、職掌と云何物たるを知らず。某の国の<治某の国の>法、何の状たるを審(ツマビラ)かにせず、遂に語窮し、意塞(フサガ)り、唯々黙々(イイモクモク)、退(シリゾキ)て嘆息す。或は怨望(エンボウ)を懐くも、其権勢犯す可らざるを視て、怨(ウラミ)を呑み、苦を忍び、空しく黙止するのみ。当今諸県下の民多く此の状あり。我が石川県の如き、官吏の虚勢を張り、私曲を行ふ、最も甚し。古語に云、上之れを好む者あれば下之れより甚しき者ありと。意(オモ)ふに大政府を謾施(マンシ)するに非ざれば、何ぞ各地方独り如此を得んや。法律は上下一般の正邪曲直を理する所以の者なり。而して方今の法律、姦吏輩の私する者多し。井上馨が銅山の事の如き、世上頗る物議に渉る。槇村正直會て司法に拘留せらるゝや、卒然(ソツゼン)特命を以て放たる。然れども是れ豈に真の聖旨に出んや。固より姦吏輩の矯為(キョウイ)に<由る者必せり>〔依るものに似たり〕。故に当時司法の官吏数名之に因て職を辞す。尾崎三郎、井上毅が井上三郎、尾崎毅の論説を取り、新聞社に対して訴訟を為すが如き、縦令(タトイ)其姓名を作為する者と認定するも、豈に己の姓名に非ざるものを取り、疑似を以て訴訟を為すの理あらんや。此の事や既に之を審判し、然る後始めて其作為に出るを知ると雖ども、其始め井上等が訴訟を為すに当て、未だ他の証左なく、偏(ヒトエ)に想像疑察するのみ。司法官之を受理する。最も法に違(タゴ)ふ。若し想像疑察と雖亦之を受理するとせば、今ま人其畜(ヤシナ)ふ所の鶏を失ふ者あり、時に適々(タマタマ)隣家鶏を食する者あるを以て、他の確証なしと雖ども之を訴へ、法官たる者亦能く之を受理するや。其他新聞条例の始めて出づるに当て、其条例に触るゝと為し獄に繋(ツナガ)る者、多く其理の覚る可らざる者あり。甚しきに至ては法官の認定する所を以て抂(マ)げて罰例に擬する者ありと云。<夫れ姦吏輩の法律を私する率(オオム)ね如斯(カクノゴトシ)。独り>〔頃日世上に伝ふ、黒田清隆、酩酊の餘り、暴怒に乗じ、其妻を殴殺すと、罪大刑に当る、而して頓に其事世上に伝播す。被殺人の親屬之を告るを待て其罪を治めんと欲するも未だ知るべからずと雖も、利良(川路利良)は何物ぞ、身警視の長となり、天下の非違を検するの任に在り、而して黙々不知を為(ツク)る者、豈に之を私庇せんと欲するか。夫れ姦吏輩の〕法律を私するのみならず、凡そ官路の事、結託相依り、引謁(インエツ)相計り、互に曲を助け私を成すに非ざるなし。遂に一般風靡し、小官細吏に至る、款を求め縁を攀(ヨ)ぢ、黜陟(チッチョク)の用捨、一此に由る。且つ商賈(ショウゴ)輩の如き、亦謏(ユ)を呈し、媚を納れ、贈賄(ゾウワイ)を行ふて以て利を釣る。吏輩相集る必ず曰く、其の仕途を得る某氏の推挙に因る、某の何官に就く某氏の周旋に係ると。商賈輩相会す必ず曰く、某の長官に就かば此の請願を了せん。某の局頭に依らば此の許可を得ん、或は曰く、某卿は某等と謀て何の社を立つ、某の大輔は某等と共に何の業を起すと。其官路相請託して非曲を謀るの話、官民相結納して私利を営するの談、喋々として醜声(シュウセイ)を掩(オオ)ふに至る。以上指陳する所姦吏輩令禁法律を私して、以て人を軽重休戚し、内託私謁を専らにし、以て恩恵をうるの事に非ざるなし。此れ之を法令謾施、請託公行、恣に威福を張ると謂う。

 其三、不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費す。
一、近来姦吏輩の施設する所専ら営築工造、或は道路市街を繕ひ、或は官宅府庫を作り、或は宮室器具の粧(ヨソオ)ひ、華を競ひ美を争ひ、形容虚飾(キョショク)を之れ務め、以て天下の経営此れに止まると為すが如し。姦吏輩或は云はん、是れ亦開化文明国の形容、学ばざる可らずと。夫れ開化文明は形容にあらずして実力に在り。実力は本なり、形容は末なり、本を務めて而して後末に及ぶは、猶草木の根本を培養して枝葉随て繁茂するが如し。今ま姦吏輩の学ぶ所、其末を学で其本を学ず、その形を求めて其実を求めざるなり。欧州各国都城街衢(ガイク)の盛なる、宮室器具の美なる、鉄道を布(シ)き電信を通じ、瓦斯燈を點じ、民事日用、至便至利を極むるに至る所以の者は何ぞや。各国英雄輩出して境域を開き、威力を四外に張り、国富み兵強く、独立を致して、然る後其餘力を以て国内を修成す。然れども其盛整全備を為すは亦多年を待て以て之れに至るなり。然るに我今日、中興維新の初め、百事未定の時に於て、<遽かに>〔速に〕彼の隆盛極治の景況に比し、及其備<はるを一時に求め為めに益財用を消費す本末緩急>〔らん事を求む、事〕の序を失すると云べし。<此れ>之を不急の土工を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費すと謂ふ。

  其四、慷慨忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成す。
一 明治六年<十月>西郷等五名の参議職を辞し、廟堂解体す。爾来(ジライ)物議紛起し内乱相尋(アイツク)ぐ。其原因を推すに、征韓の議姦吏輩の沮止(ソシ)する所と為り、五参議奮激(フンゲキ)、官を解くに至る。夫れ征韓の議、姦吏輩若(モ)し其見を異にし、国家の為め其職掌を盡さんと欲せば、何ぞ廟堂に於て公平を執り、理非を明らかにして、以て抗議せざる。事此に出でず陰に相結納し、左右支吾(シゴ)して、遂に其事を沮喪する者、確乎不抜の論旨なく、自から其説の立たざるを知るが故なり。佐賀県士の征韓議を唱ふるや、其初め未だ兵を挙げ政府に抗せんと欲するならず。其同志の徒集集し事を議するを以て、政府其異図(イト)あるを疑ひ、卒然縣官をして兵を率ひ之に臨ましめ、遂に以て彼徒(カノト)の激動沸起を致せり。是れ此の騒擾、政府の之を激するに非ずして何ぞや。夫れ政府の人民に於る、撫をして之を鎮するに在り。焉(ナ)んぞ激して之を乱すを得んや。前原一誠の挙の如き事端彼より発する者の如しと雖ども、其原、亦姦吏輩の彼れを疏斥する甚しく、彼をして居常憤懣せしむるに由る。政府の人民に於る、公正以て之れを服するに在り。焉んぞ憎悪嫌疑して之を怒らしむるを得ん。夫れ江藤前原二徒の挙激動憤起に出、未だ全其正しきを得ずと雖ども、政府固より失体少なからず、姦吏輩二徒を指して賊とすと雖も姦吏輩反(カエリ)て真の国賊なる者なり。上を謾し、下を欺き、坐して政権を弄し、以て私利を営す。二徒豈に敢て
聖天子に敵し、国家を(キユ)するならん、亦憂国の至情、忍びざるに出づるのみ。姦吏輩焉(ナ)んぞ之を目にするに反賊を以てし、自ら居るに朝廷の大臣を以てするを得ん。昨年鹿児島の事に至ては、則ち全く姦吏輩の陰謀密策に出する所にして、世亦粗々(ホボ)其由を聞く。然れども未だ其本末は審かにせざる者多し。故に今ま之を証明せん。嚮(サ)きに西郷、桐野等官を解くに当て、近衛兵中沸騰し、各(オノオノ)病を称して職を辞す。其徒去て国に帰るに及で、西郷等之を撫循(ブジュン)し、学校を設けて之を教励す。是れ今日姦吏輩の偸安無事にゝを以て、国家の外艱の至るに際せば、一朝保つ可らざるを知る故に其時に当て国民の義務を盡さんと欲するなり。豈に他意あらんや。而して姦吏輩自ら忌憚措く能はず、密かに間諜を遣り、其動静を窺はしめ剰(アマツサ)へ密諜を嘱して、将さに隙に乗じ西郷、桐野、篠原の三名を害せんとす。而して其事発覚し、西郷等自ら上京して、其曲直を推糾せんと欲するなり。姦吏輩刺客の事を以て私学校徒の構造に出ると云と雖も、是れ甚だ其理なし。如何となれば、姦吏輩をして、<本と>虚心ならしめば、何を以て初めより中原已下(イカ)数十名、自ら間諜を遣るの事<あらん、又中原已下をして直に密某を受るに非ざらしめば何を以て自ら>刺客云々の事を吐露せんや。縦令拷尋(ゴウジン)の苦に堪へずして其一両人或は無根の言を吐くも、其言をして虚ならしめば、人々区々の事を云べし。何ぞ数十名符合の事を陳ぜん。豈に之を以て卒(ニワ)かに斥(シリゾ)けて以て強誣(キョウブ)の事となすべけんや。若し姦吏輩初めより中原已下(イカ)をして間諜たらしむるに非ず、又之に嘱するに密諜を以てするに非ずして而して中原已下一同無根の事状を吐露すと為さば、姦吏輩此に於て公平を執り、之れを処置するに、先づ西郷等の兵を引て<出するを>咎むべき歟、抑も又中原已下無根の言を吐露するを糺すべき歟。西郷輩は固より中原已下の辞を信じて出る者なり、故に先づ中原已下を糺さゞれば、其事情を審かにするに由しなからん。然るに事斯に出ずして、事情を曖昧に誘し、力を盡して之を撲滅せんと欲する者は、姦吏輩固より其事由を糺すを欲せず、将に厭当して其跡を掩はんとするや明なり。姦吏輩或は言はん、西郷等既に国憲を紊(ミダ)る、固より誅滅せざる可らず、而して其事甚だ急遽勢ひ猖獗(ショウケツ)、是を以て其事由を糺すに暇あらずと。夫れ政府の以て政府たる所、公明正大以て事を至当に処するに在り。縦令西郷等到底誅すべきの罪あるも、其事由に於ては詳かにすべき者之を詳かにし、糺すべき者は之れを糺し、然る後誅を加ふべきなり。豈に政府の職掌に於て事急遽勢ひ猖獗と云て、是非を分たずして以て事を処するの理あらんや。且つ堂々全国の勢力を有するの政府にして、何ぞ一の私学校徒を恐れ、事由を糺すに暇あらずと云を得ん。此の時に当て姦吏輩直に公明正大、以て事を至当に処せんと欲せば、亦何の難き事あらん。当路の者一人其事に任じ、勅命を啣(ハ)み、法吏其他の理事者を率ゐ、西郷等の出路に臨み、勅命を伝へて其出進を止めて、其事由を審理し、情実を判決し、其事全く中原已下の虚言に帰するや、之を罪し、或は西郷等の構造に出るや、之を刑し、以て諸事至当に処すべきのみ。政府既に如斯公明正大の処分を為し、而して西郷猶之に服せずして、軽挙妄動する者あらば、則ち是れ正に国家の反賊、人民の讐敵なり、政府討て之を滅する固より其義なり。天下後世孰(イズ)れ歟之を非議する者あらん。姦吏輩豈に是等の道理を弁ぜざらんや。唯自ら顧るに、竟(ツイ)に免れざる所あり。是を以て勅命を矯めて、王師を私用し、西郷等を誣(シ)ゆるに反賊を以てし、以て天下人民を欺き、己れが姦計の跡を掩ふ。然れども天地誣ゆ可らず、衆人欺く可らず、世上悉く其姦計を覚る。今ま其暴威を憚るがゆへ、敢て之を其口より出さずと雖ども、後世自(オノズカ)ら公論の在るあり。豈に其悪名を遁(ノガ)れんや。世人或は西郷等兵を引て出るを咎め、国憲を蔑棄する<者にして>罪誅を免れずと云と雖ども、是れ其一を知て其二を知らず、其本を計らずして其末を論ずるなり。夫れ政府は人民を保護する所以にして、而して国憲は人民を保護するの具なり。故に政府能く保護の任を盡し、国憲能く保護の用を為さば、則ち人民之を奉戴遵守して、以て其安寧を受くべきなり。今ま政府自ら保護の任に背き、保護の具を破り、反(カエッ)て無罪の人民を暴害するに至ては、則ち政府其政府に非ずして、国憲亦守るを得ず。且つ人民亦自ら本分の権利を有す、豈に故なくして其暴害を受くるの理あらんや。故に西郷等出て其事由を糺さんと欲する、固より其権利の在る所なり。西郷等既に出でんと欲するに当て、私学校徒保護随行せんと欲する、亦其義の在る所なり。彼徒多年西郷等に親近追随する者、他なし共に国家の為め盡す處あらんと欲するなり。故に彼徒の西郷等を保護するは、即ち国家の為め之を保護する者なり。其兵器を携ふる者は、政府既に保護の任に背き、反て之を暴害せんと欲す、人民に於て何ぞ自ら戒心せざる可んや。事斯に及び大本既に<廃す>〔立つ〕、而して猶区々枝葉の法則を言ふ、則ち一を知て二を知らず、本を計らずして末を論ずると云べきなり。我輩務めて西郷等を保庇(ホヒ)するに非ずと雖も、世人多く本末常変の理に暗く、燕雀(エンジャク)の心を以て大鵬を非するを以て、聊か之を弁ずるのみ。以上指陳する所、姦吏輩の暴戻至らざるなく、以て物議紛擾を致す者如斯(カクノゴトシ)。此れ之を慷慨忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成すと謂ふ。

  其五、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜す。
一  我国海外の軽侮(ケイブ)を受来る〔久し〕。蓋し旧幕時代以来已に<久し。而して其弊害今日に至て益甚し。凡そ>彼我政府人民の交際応接の事皆な彼れ我れを拒むの勢あり。我れ彼れに順(シタガ)ふの情あり。殊に民間日用通商貿易の際、常に彼れ驕(オゴリ)而して我れ屈す。然れども其情勢馴致して此に至る者、一朝遽(ニワ)かに之を挽回せんと欲するも得べからず。宜しく条理を遵守し順序を履行して、以て徐(シズ)かに之を処すべきなり。而して其最も急要なる所の者、条約改正に過ぐるなし。条約を改正せざれば以て国権を回復する能はず。然れども之を改正する至難の事とす。其故何ぞや。我国の武備未だ張らず、国力相対せざるを以てなり。故に今日の先務、専ら武備を張り、守禦(シュギョ)の固め、攻戦の具を備ふるに在り。而して之に供する所の費額莫大<則ち〔なるを以て〕 冗費を去り、不急無用の事を止め、当時の支度を節減して、以て非常の用に供せざる可らず。故に一良(島田一良)等、外交の得失を論ずる、今日交際上の是非を言はずして、而して条約改正の事を言ふ、条約改正の事を言はずして、而して武備の充実を言ふ。而して武備の充実は、必ず当時の支度を節減して、以て非常の用に供するに在り。然るに方今姦吏輩の所為を視るに、安<に依り>〔を偸み〕無事に習(ナ)れ、不急の工造、無用の虚飾を事とし、武備の充実置て而して問はず、<当時の支度益夥多にして以て>非常の用に供するなし。一新已來、既に十餘年、堡塁や、船艦や、銃砲や、凡そ守禦の固め、攻戦の具、未だ一の整頓修備する者あらず、今日の状を以て之を推すに、将来幾年を待て而して能く武備を充実する、是れ未だ知る可らず。故に条約改正の期去て之れを改むる能はず、今年改めず明年正さず、国家をして遂に大患に至り、人民をして至難に赴かしむるや必せり。明治七年、台湾の事の如き抑も何の所為ぞ。徒に武を瀆(ケガ)し、兵衆を傷残し、国財を耗費し、竟(ツイ)に支那の篭絡する處となり、道路修繕等の費と名け、僅かの金額を収取し、反て内国に広布するに償金と号す。其人民を欺く何ぞ一に斯に至るや。朝鮮修好の事亦無稽の甚しきと云ふべし。抑も三韓の我国に隷属する
仲哀
応神の朝に始まり、爾来歴朝韓使弊を絶たず。中世我内乱に会し、久しく貢献を缺くを以て、豊臣氏武力を振ふて稍々(ヤヤ)旧権を復するに至る。然るに今代に至て彼れと対等の交際を修む。豈に歴朝皇霊の震怒(シンド)を恐れざらんや。且つ彼れ今ま猶使弊を支那に致し臣僕の体を執る。則ち我既に甘じて支那の下風に立つ者に似たり。其国体を汚す最も大ひならずや。樺太交換の事に至ては、実に無前の国辱、千載の失態と云べし。是れ名は交換と云と雖ども、其実は劫奪せらるゝが如し。如何となれば、我が興ふる所は則ち有用の地にして、彼れより受くる處は則ち不益の土なり。譬(タト)へば棄物を以て宝貨に易(カ)ふるが如し。且つ我れより求むるに非ずして彼れの望に随ふなり。古へ支那宗末の時夷狄の侵凌する所と為り、売国の姦臣目前の安きを苟偸し、内地を割興して一時の無事を貪る者、則ち是れなり。本朝開国已未だ此の汚辱を被らず、今日にして始めて此の事あり。
今上陛下をして 
皇祖の神意に負かしむるは、則ち姦吏輩の所為にして、其大罪に容れざる者なり。琉球の事甚だ非理なる者あり。彼れの歎訴する處其故なきに非ず、何ぞ其請ふ所を許し、直ちに支那に応接して以て判然我版図に帰せざる。而して彼れの小弱を侮慢し、劫迫して其国政を改革し、其民情を紛乱す。姦吏輩の魯と琉球とに於る何ぞ其驕諂(キョウテン)相反するや。姦吏輩彼の狼話を聞かずや、狼の虎に向う、尾を垂れ舌を巻き、叩頭屈足、唯其免がれん事を計る、其狐狸に向ふ、牙を鳴し、爪を厲し、威怒甚だ猛なりと云。姦吏輩の為す處是れに異ならず。夫れ外交の主とする所、弱を侵さず、強に屈せず、条理を正ふし、信義を重ずるに在るなり。姦吏輩何ぞ之を思はず、専ら驕逸諂媚(キョウイツテンビ)を事とするや。以上指陳する所、姦吏輩の、偸安(トウアン)を以て国体を汚し、益々外侮を招く者如斯。此れ之を外国交際の道を誤り、以て国権を失墜すと謂う。」

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


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明治維新 敗戦への歩みの始まり NO5

2019年06月07日 | 国際・政治

 1868年1月3日(慶応3年12月9日)突然発表された王政復古の大号令は、将軍徳川慶喜の辞職はもちろん、京都守護職・京都所司代を廃止し、幕府を廃止するとともに、摂政・関白をも廃止するものでした。その内容や決定過程は、山内容堂が小御所会議で、”此度之変革一挙、陰険之所為多きのみならす、王政復古の初に当つて兇器を弄する、甚不詳にして乱階を倡ふに似たり”と指摘した通り、全く陰険で正当性のないものだったと思います。摂政・関白を廃止したのは、摂政二条斉敬や親幕派の賀陽宮朝彦親王(中川宮)の存在が、討幕派の計画の遂行に邪魔であるという手前勝手な理由によるものだったことは否定できないと思います。

 王政復古の大号令が、大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家が画策した策謀であったことは、下記資料1の書翰などで明らかではないかと思います。一五〇の書翰に”今般御発動に就ては機密を肝要とし”とあることで、計画が秘密裏に進められていたことがわかります。公議に基づくものではないのです。
 また、”摂政尹宮抔へ漏洩等も難図誠に御大事の御事と奉苦心候”とあることで、摂政二条斉敬や尹宮(親幕派の賀陽宮朝彦親王・通称中川宮)を無視して計画を進めようとしていたことがわかります。
 同じように、一五四の「王政復古に関する建言書」に”三卿へ御断決被為在候様”とあります。中山卿・中御門卿・正親町三条卿等の同意を取り付けるように依頼するものですが、計画の遂行が一部の人間によるものであることがわかります。
 一六三の書翰には”推て御参朝にて右御運ひ相付候様奉願候”とあります。王政復古の計画が大久保利通の主導するものであったことが窺われます。

 当時、大久保利通は頻繁に岩倉具視とやり取りをしていますが、王政復古の大号令はもちろん、小御所会議における大久保利通の発言も合意済みであったと思います。見逃せないのは、話し合う以前に、仲間内で結論が決定されており、もし同意が得られなければ、武力を行使するということで、一連の計画が進められていったことです。まさに、大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家によるクーデターです。
 その内容や決定過程が、あまりにひどいものであったために、新政府樹立後の最初の三職会議(小御所会議)でも出席者の合意が得られず、西郷隆盛の指示があって決着に至ったことは、浅野張勲の「小御所会議の事」という文章の中に、”此時西郷吉之助は軍隊の任に当りたれば、此席に居らざりしが、薩土の議論衝突せしを聞き、唯之れあるのみと短刀を示したり”とあることで、明らかだと思います(「幕末維新史料叢書4 逸事史補 松平慶永 守護職小史 北原雅永」(人物往来社)。

 大久保利通を中心とする薩摩と岩倉具視を中心とする討幕派公家が画策したクーデターで新政府を樹立した人たちが、その後どんな政治を行ったかは、紀尾井坂において、大久保利通を暗殺した島田らがもっていた「斬姦状」で、その概略を知ることができると思います。
 実行犯は石川県士族島田一郎・長連豪・杉本乙菊・脇田巧一・杉村文一および島根県士族の浅井寿篤の6名ということですが、彼らは有司専制の罪として、五つの罪を挙げています(下記資料2)。
〇 公議を杜絶(トゼツ)し、民権を抑圧し、以て政事を私(ワタクシ)する、其罪一なり
〇 法令漫設(マンセツ)、請託(セイタク)公行恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る、其罪ニなり
  法令をころころ変え、官吏の登用などで不正があるということだと思います。
〇 不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費(トヒ)する 其罪三なり
〇 慷慨(コウガイ)忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する、其罪四なり
  不正を憎み、国家に盡そうとする士を排斥して、内乱のきっかけをつくりだしているということだと思います。
〇 外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する、其罪五なり

 だから、明治維新以後、日本の政治は”やくざ化”したのであり、敗戦に至る歩みが始まったのだと思わざるを得ないのです。
 下記資料1は、「大久保利通文書」日本史籍協会編(東京大学出版会)から、資料2は、「自由党史(上)板垣退助監修 遠山茂樹・佐藤誠朗校訂(岩波文庫)から抜粋しました。

資料1 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

一五〇 岩倉公への書簡 慶応三年十二月七日

【按】大号令渙発ヲ尾越両侯ニ内示ノ時機ニ関シ岩倉公ニ建言シタルモノナリ
尾越へ御内諭急速との儀後藤言上之趣意尤には御座候へ共兎角今般御発動に就ては機密を肝要とし意外の御英断人心戦栗仕候程ニ御威光拡充不仕候ては
朝廷の御基礎確立仕候儀万々無覚束奉存候然るに尾越を以御発表未然ニ幕中の周旋致さしめ候ては所謂帷幄(イアク)中の秘籌密策を通し候同様且は如何の辺より摂政尹宮(通称に中川宮)抔へ漏洩等も難図誠に御大事の御事と奉苦心候最早幕を私疑致し候儀は固より於公論無之況乎尾越ニ於寸毫不疑候得共
皇国之御存亡ニ相係候成否之際ニ付ては機事之密なるを
以て主と致し候外無御座幕にも渋沢其外之俗論あり尾にも正論而已にも無之甚以可恐次第に御座候古今事を発するに臨み敗亡を取候例不少既に明日迄之處種々懸念仕候次第も有之実に不安寝食焦思痛心罷在候此段後藤之説を拒候道理に相当如何ニ奉存候得共全左に無御座不可止之至情奉申上候及直談候こと当然に御座候得共是は四卿之御決断ニ被為在候事にて私共より御評議を動し候様ニては甚奉恐入候儀ニ付幸中卿も御出被為在ニ付御熟評御決議是非明日遅方尾越云々之御運相成様山卿正卿へ早々御封中を以被為示候様万々奉誠禱候全四卿御決議ニて
朝廷上之御都合辺明日遅方之方ニ御決被為在候ては於後藤其上可奉申上筋合無御座候此旨至憂之餘奉言上候謹言
        十二月七日                     大 久 保 一 蔵
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
一五四 王政復古に関する建言書 慶応三年十二月八日
【按】岩倉公ニ提出セシモノニテ徳川氏ノ処置ニツキ中山・中御門・正親町三条卿等ノ決断ヲ促シタルモノナリ

今般以
御英断
王政復古之御基礎被召立度御発表ニ付ては必一混乱を生し候哉も難奉図候得共二百有余年之太平之旧習に汚染仕候人心ニ御座候得は一動干戈候て返て天下之眼目を一新中原を被定候御盛挙と可相成候得は戦を決候て死中活を得之
御着眼最急務と奉存候乍然戦は好て不可成事ハ大条理上ニ於て不可動者ニ可有御座候然るニ無事にして
朝廷上の御尽力貫徹大政官代三職之公論ヲ以大政を議せられ候日ニ至候ては戦より亦難とすべく従古創業守成之難易議論難定俊傑之士ニおひても後世識者之評を免れ不申候况乎衰体の今日ニては詳考深慮
御初政之一令を御誤不相成儀第一之御事ニ奉存候就ては徳川家御処置振之一重事大略之御内定奉伺候處尾越をして真ニ反正謝罪之道を為立候様以
御内諭周旋を被
命候儀実ニ至当且寛仁之
御趣意奉感伏候全体
皇国今日之危ニ至候事大罪之幕ニ帰れるハ不待論して明なる次第ニて既に先々十三日云々
御確断秘物之 御一条迄被為及候御事ニ御座候此末之處如何様之論相起候共諸侯ニ列し官位一等を降領地を返上
闕下ニ罪を奉謝候場合ニ不至候ては於公論相背天下人心固より承伏可仕道理無御座候間右ニ
御内議ハ断として寸分
御動揺不被在尾越之周旋若不被行候節は
朝廷寛大之
御趣意を不奉公論ニ反し真之反正為らざるもの顕然候得は早々
朝命断然右之通り
御沙汰可相成儀ト奉存候右
御定議より下ツテ之
御処置は公論条理上ニおひて更ニ有御座間舗若寛大之名被為付
御処置其当を被失候得は
御初政ニ條理公論を御破り相成候筋ニて
朝権不相振ハ論ずる迄も無之必昔日之大患を可生儀相違無御座候若
御趣意通真之反正を以実行擧り謝罪之道相立候上ハ無
御顧念御採用可相成事は勿論ニ御座候前條預御尋問尚修理太夫趣意を奉し評決之形行奉申上候一点之私心を以大事を不可論ハ兼而奉言上通ニ而
候間宜舗
御熟考外
三卿へ御断決被為在候様
御示談千祈萬禱仕候頓首謹言
    十二月八日                               岩下佐次右衛門
                               西 郷 吉 之 助
                                                                       大 久 保 一 蔵
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一六三 岩倉公への書翰 慶応三年十二月廿三日
【按】岩倉公ノ疾ヲ推シテ参朝アランコトヲ促シタルモノナリ
越前侯ヨリ下参輿中ㇸ示談之趣華城一條時日遷延今日ニ至リ候儀ハ實ニ大罪無申訳次第此上ハ両條
朝命ヲ奏して尾越下坂致し必死尽力に及フヘク其上奏せさるこのハ親藩と雖も断して討つより外無之事ニ候乃て右
御沙汰相降候様尽力頼むとの趣御座候就いては 御沙汰振の處御大事にて辞官且領地返獻の文字明瞭御達不被為在候て難相済只今正三卿へ奉伺候處 御沙汰相成候得共御前御参朝不被為在との御事候由承申候得共右の次第に付ては推て御参朝にて右御運ひ相付候様奉願候甚御無理トハ奉存候得共尾越よりも昨日よりの続合有之トカ申し頻りに御前の御参朝を奉願由ニ相聞候御前御一人様の故を以テ相決不申候も如何ニ奉存候別て大幸の機会御座候ニ付既ニ今朝云々御大決も被為在候御事ニ御座候間願くハ御参朝にて断然ト朝命の御運相成候様奉願参殿奉申上度候處尾越より御使差立候トの事故態ト此段不願恐以紙面言上仕候謹言
    十二月廿三日                    大 久 保 一 蔵  
資料2--------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     第三編 愛国社の興起
                     第三章 国会開設の建白
民間党の苦楚
 今や政府は驕陽(キョウヨウ)の勢を以て天下に蒞(ノゾ)み、大久保の声望、隆々として中外に震ひ、復た何物の怖るべきを見ず、軽薄(ケイハク)の士庶、争ふて万歳を頌(ショウ)し、且つ民権党を擠陷(サイカン)するに
朝敵国賊等の文字を以てし、公議の聲杜絶して隻響(セキキョウ)だもなく、群衆之に和して自由を口にする者を蛇蝎(ダカツ)の如く憎忌(ゾウキ)するに至る。当時立志社の刊行せる雑誌の如き、京阪の書賈(ショコ)、之を店頭に陳列するを峻拒せしを見るも、亦た以て其一斑を想察するに難からず。此の如くして政府は実に巨獄の坤軸(コンジク)を抜くと同じく、其盛運凡そ幾十百年の長きに亙る乎をも知るべからざるが如かりき。太平の象宛(アタ)かも洋々乎('コ)たり、寧ろ料(ハカ)らや禍は不虞(フグ)より起り、良巫(リョウブ)の子却(カエツ)て多く鬼(キ)に死し、聰明(ソウメイ)の士却て多く壅蔽(ヨウヘイ)に躓(ツメズ)者くあらんとは。
是歳(コノトシ)五月十四日の早暁、時の実権者たる参議兼内務卿大久保利通は、参朝の途、紀尾井坂清水谷の畔に於て、飛刃空を破つて来り 忽ち首を路傍に授く。腥血(セイケツ)地を染て紅なり。年四十九。刺す者は誰ぞ、曰く石川県士族島田一郎、長連豪、脇田功一、杉本乙菊、杉村文一、島根県士族浅井壽篤の六人、而して懐にする所の斬杆状(ザンカンジョウ)、其理由を條陳(ジョウチン)し、辞気頗る矯激(キョウゲキ)を極めたり。報、東西に伝はり、満朝愕然咸(ミ)な色を失す。蓋し島田、長等は嘗(カツ)て愛国者の会合に参し、国政改革の志を同ふせり。其所謂斬杆状中記する所、主として公議を杜絶し、民権を抑圧するを以て第一罪に数え、専ら木戸、大久保を排せしを見れば、其意西郷の事に、大久保の政略に反対するに在りしが如し。一旦時勢に激し、方向を惨竅(ザンキョウ)の行動に誤る。而して両(フタツ)ながら倶に斃れて徒に國殤(コクショウ)を醸せしは、何等の恨事(コンジ)ぞや。世を挙(コゾ)つて之を惜む。

                         斬姦状
 石川県士族島田一郎等、叩頭昧死(コウトウマイシ)、仰で 天皇陛下に上奏し、俯して三千有餘萬の人衆に普告す。一良等今ま我 皇国の時状を熟察するに、凡そ政令法度(ハット)、上(カミ)
天皇陛下の聖旨に出ずるに非ず、下衆庶(シュウショ)人民の公議に由るに非ず、独り要路官吏数人の臆断専決する所に在り。夫れ要路の職に居り、上下の望に任ずる者、宜しく国家の興廃を憂(ウレウ)る、其家を懐(オモ)ふの情に易(カ)へ、人民の安危を慮(オモンバカ)る、其身を顧る<の心>〔者〕に易へ、志忠誠を専にし、高速バス行節義を重じ、事公正を主とし、以て上下に報対すべし。然り而して、今日要路官吏の行事を親視するに、一家の経営之れ務めて、其職を尽す所以(ユエン)を計らず、一身の安富之れ求めて、其任に敵(カナ)ふ所以を思はず。狡詐貪婪(コウソドンラン)、上を蔑(ベツ)し下を虐(ギャク)し、遂に以て無前(ムゼン)の国恥(コクチ)、千載(センザイ)の民害を致す者あり。今其罪状を條挙する左の如し。曰く、公議を杜絶(トゼツ)し、民権を抑圧し、以て政事を私(ワタクシ)する、其罪一なり。曰く、法令漫設、請託公行恣(ホシイママ)に威福(イフク)を張る、其罪ニなり。曰く、不急の土木を興し、無用の修飾を事とし、以て国財を徒費(トヒ)する 其罪三なり。曰く、慷慨(コウガイ)忠節の士を疏斥(ソセキ)し、憂国敵愾(テキガイ)の徒を嫌疑し、以て内乱を醸成する、其罪四なり。曰く、外国交際の道を誤り、以て国権を失墜する、其罪五なり。公議は国是を定むる所以、民権は国威を立つる所以なり。今ま之を杜絶し、之を抑圧するは、則ち国家の興起を疎隔(ソカク)するなり。法令は国家の大典、人民の標準なり。今ま之を漫施(マンシ)するは、則ち上王綱(オウコウ)を蔑棄(ベッキ)し、下民心を欺誣(キブ)するなり。国財は人民公供の貲用(シヨウ)、以て天下の要急に備ふるなり。今ま之を徒費するは、則ち民の膏血(コウケツ)を洩亡(エイボウ)するなり。慷慨忠節の士、憂国敵愾の徒は、則ち国の元気にして、其興廃の係る所以の者なり。今ま之を疏斥し、之を嫌疑するは、則ち国家の衰廃を求むるなり。国権は国の精神にして、其独立を致す所以の者なり。今之を失墜する、則ち国家の滅亡を招くなり。凡そ此の五罪、是れ其上を蔑し、下を虐し、以て国家を紊(ミダ)るの最も大なる者なり。今又其事実を<詳明する別紙に録する所の如し。其餘細大凡百の罪悪に至ては悉く枚挙(マイキョ)す可らず>〔詳挙せざる可らず〕而して粗々(ホボ)天下衆庶の指目する所と為るを以て、今復之を具載(グサイ)せず。夫れ今日当路姦吏輩(カンリハイ)の罪悪已に如斯(カクノゴトシ)。是を以て天下囂々(ゴウゴウ)、物情紛々、或は切論風議、以て其非曲を指責し、或は抗疏建白、以て其姦邪(カンジャ)を排斥す。而して姦吏輩猶反躬悔悟(ハンキュウカイゴ)の意なく、益暴を振ひ、虐を恣(ホシイママ)にし、罰を設け、刑を制し、以て論者を執囚(シツシュウ)し、議者を拘束し、遂に天下の志士憂国者をして、激動沸起(フッキ)せしむるに至る。則ち 勅命を矯め、国憲を私し、王師を弄し、志士憂国者を目するに、反賊を以てす。甚しきに至ては、隠謀密策を用ひて、以て忠良節義の徒を害せんと欲す。而て事敗るゝに及では、則ち天下の民命を駆り、闔国(コウコク)の武備を盡して、之を滅し、以て其跡を掩(オオ)ふ。西郷、桐野等、世に<在るに>有ては、姦吏輩大ひに畏憚する所あり。未だ其私曲を極むるを得ず。今や彼徒既に逝(ユ)くを以て、姦吏輩復た顧慮する所なし。是を以て更に其暴悍(ボウカン)を
肆(ホシイママ)にし 転(ウタタ)其姦兇(カンキョウ)を逞ふし、内は以て天下を翫物(ガンブツ)視し人民を奴隷使し、外は以て外国に阿順し、邦権を遺棄し、遂に以て 皇統の推移、国家の衰頽 生民の塗炭を致すや、昭々として掌に指すが如し。一良等一念此に至る毎に、未だ曾て流涕(リュウテイ)痛息せずんばあらず。昨年西南の事起るに会し一良等固より西郷等非望を図るの反賊に非ずして、而して事端の起る姦吏輩の隠謀に由るを審(ツマビラカ)にし、且西郷等若(モ)し亡びば、国家前途の事遂に已むを知る。故に其名分条理を唱へ、其正邪曲直を鳴し、遥かに起て彼の徒を助け、以て姦吏輩の罪悪を討せんと欲す。<而して>遂に機宜(キギ)を得ず。事務不可なる者あり、以て其志を遂る能はず。既にして而して思惟す、今姦吏輩の亡状如斯、苟も此の輩をして猶其職に在り、久しく政事を執らしめば、将来国家の事状 復た測る可らず、今の計を為す者、速かに姦吏を斬滅し、上は国害除き、下は民苦を救ひ、以て四方の義気を振起し、天下の衰運を挽回(バンカイ)するに在りと。乃ち議を転じ、策を移し、以て斬姦の事を謀る。因て当時姦魁(カンカイ)の斬るべき者を数ふ。曰く、木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、是れ其最も巨魁<たる者>、大隈重信、伊藤博文、黒田清隆、川路利良の如き亦許す可らざる者、その他三条実美等数名の姦吏に至ては、則ち斗筲(トショウ)の輩算(カゾフ)るに足らず。其根本を断滅せば、枝葉随て枯落(コラク)す。然れども一良等、同士の者寡少なるを以て、数名の姦魁(カンカイ)挙げて以て之を誅する能はず。故に先づ孝允、利通、両巨魁中其一を除かんと欲す。而して図らず孝允疾を以て死す。蓋し皇天其大姦を悪(ニク)み、既に其一を冥誅(メイチュウ)し、又一良等をして其一を斬戮(ザンリク)せしめ、以て二兇を併せ亡ぼすなり。故に一良等、今に天意を奉じ、民望に随ひ、利刃を振ふて以て大姦利通を斃(タオ)す。其餘の姦徒、岩倉具視以下の輩に至ては、想ふに天下一良等の事を挙るを観て、必ず感奮興起(カンフンコウキ)して、以て遺志を継ぐ者あり、此輩應(マサ)に不日斬滅を免れざるべし。臣一良等頓首頓首仰で
天皇陛下に白(モウ)し、俯(フ)て闔国(コウコク)人<衆>〔民〕に告ぐ。一良等既に事忍びざるに出で、敢て一死以て国家に盡す。前途政治を改正し、国家を興起するの事は、即ち
天皇陛下の明と闔国人衆の公議に在り。願くば明治一新の 御誓文に基づき、八年四月の詔旨に由り、
有司専制の弊害を改め、速に民会を興し、公議に取り、以て 皇統の隆盛、国家の永久、人民の安寧を致さば、一良等区々の微衷(ビチュウ) 以て貫徹するを得、死して而して冥す。故に決死の際、上下に俯仰し、聊か(イササ)か卑意を陳ず。併せて姦吏の罪悪を状し、以て 聖断に質(タダ)して、而して公評を取る。一良等感激懇迫(コンパク)の至に堪へず。叩頭昧死(コウトウマイシ)、謹言
   明治十一年五月十四日
                                石川県士族
                                 島田 一良
                                 長 連 豪
                                 杉本 乙菊
                                 脇田 巧一
                                 杉村 文一
                                島根県士族                           
                                 浅井 壽篤 

 

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