真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「国体の本義」 文部省1937年(昭和12年) 一部抜粋

2017年07月31日 | 国際・政治

 1935年(昭和10年)2月の帝国議会で、美濃部達吉の天皇機関説が問題として取り上げられたのを受けて、文部省は「国体ノ本義」にそって、任務を達成するよう全国の教育機関に通達を出しています。そして、8月には岡田啓介内閣の松田源治文相が「国体明徴に関する声明」を発表しています。ところが、美濃部達吉の天皇機関説が「国体ノ本義ヲ愆(アヤマ)ル」ものであることを明らかにするだけでは不十分だとする軍部の要求によって、天皇機関説の「芟除」を盛り込んだ「第二次国体明徴声明」が発表され、その具体化のために「教学刷新評議会」が設置されました。そうした中で、「国体ノ本義」の編纂が行われていったのです。

 「昭和教育史 上」久保義三(三一書房)を読むと、この「国体ノ本義」の編纂にあたって、文部省は、多くの学者・研究者に編纂委員を委嘱し、また、学校教育の現場にある人々からも要望意見を聴取するなどして、かなり大掛かりで丁寧な作業をしたことが分かります。それは、編纂手続きそのものにもあらわれており、まず、「『国体の本義』内容(考)草案」を起草、それが検討され「『国体の本義』要項」となり、次に「『国体の本義』要綱」となり、さらに検討が重ねられて「『国体の本義』要綱草案」となって、編纂委員会に提示されていったということです。編纂委員からは、その都度細部にわたって個別に様々な発言・意見があり、また文書も寄せられ、それらを踏まえながら「国体ノ本義」編纂作業が進められていったようです。
 編纂委員の一人であった和辻哲郎は、次のような書翰を送ったことがあったといいます。

拝啓 国体の本義要綱草案に意見・記入御送附申し上ぐべきの処、簡単には記入致し難き問題多々有之、一切差控候 要はこれらの項目を如何に論述するかに有之、その仕方如何によって先日の会議に於て
御説明の目的を全然果し得ざるものとなる恐れ有之と存候、特に国体の概念の根本的規定等に於て現代のインテリゲンチャを納得せしめる様論述し得るか否かは相当重大なる問題と存候、この点特に御配慮願上候
                                  和辻哲郎 
  小川義章殿

 和辻哲郎が「国体の概念の根本的規定等に於て現代のインテリゲンチャを納得せしめる様論述し得るか否か」と問題にしたのは、具体的には、当時すでに津田左右吉が、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを明らかにしているので、そうした批判に堪えられる論述ができるかどうか、ということだったようです。でも、大掛かりで丁寧に進められた「国体の本義」の編纂も、和辻哲郎が指摘した重大問題は避けて進められ、津田左右吉の『神代史の研究』や『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などの研究書は、美濃部達吉の著書同様、その後発禁処分となっているのです。
 私は、「国体ノ本義」編纂の関係者が、津田左右吉の学問的業績に対処できないので、それを無視するかたちで編纂を進めたことが、戦時における皇国日本の狂信性を生んだ側面があるのではないかと思います。
 
 しかしながら、元外交官で作家の佐藤優氏が、そんな「国体ノ本義」のテキストを高く評価し、「国体ノ本義」の考え方で、再び日本の社会と国家を強化しようと主張されていることに驚きました。「日本国家の神髄 ~禁書『国体の本義』を読み解く~」佐藤優(扶桑社新書 175)の新書版まえがきに次のようにあります。

 ”…大東亜戦争後、GHQ(占領軍司令部)によって禁書に指定された『国体の本義』は、天皇機関説批判、国体明徴運動を体現する非合理的で神憑り的なテキストであるという印象だけが独り歩きしている。しかし、このテキストを虚心坦懐に読めば、明治維新以降、急速に流入した西洋の思想をわれわれが消化し、土着化させるというテーマを掘り下げていることがわかる。<私は『国体の本義』の読み解きを通じて、読者を高天原に誘いたいと考えている。その意味で、本書は、アカデミックな研究と本質において性格を異にする。南北朝の動乱において、南朝の忠臣北畠親房卿が『神皇正統記』を著し、「大日本者神国也(オオヤマトハ「カミノクニナリ)」というわが国体を、復古の精神によって再発見した作業を私なりの言葉で反復しているのである。日本人にとって重要な教育は、われわれの根源、すなわち神の道を探求することである。その根源に欠けた形で、量的に知識を詰め込んでも、それが日本人の血となり、肉となることはないのである。>”

 私は、「本書は、アカデミックな研究と本質において性格を異にする」とあらかじめ断ることによって、アカデミックな研究を無視する「神話に基づく歴史」を若い人たちに教え込もうとしておられるように思います。優越感に訴え、選民意識を持たせることによって、日本社会や国家を強化しようとするものではないか、と恐れるのです。
 下記は、「国体の本義」(文部省)から、その一部を抜粋しましたが、「一、肇国」はあくまでも神話であり、これを史実とすることができるとは思えません。
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 緒言 ・・・略
                      第一 大日本国体
一、肇国 
 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いている。而してそれは、国家の発展と共に彌々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事実の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。
 我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫瓊瓊杵ノ尊に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する。而して古事記・日本書紀等は、皇祖肇国の御事を語るに当つて、先づ天地開闢・修理固成のことを伝へてゐる。即ち古事記には、
 天地(アメつチ)の初発(ハジメ)の時高天原(タカマノハラ)に成りませる神の名(ミナ)は、天之御中主(アメノミナカヌシ)ノ神、次に高御産巣日ノ神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日(カミムスヒ)ノ神、この三柱の神はみな独神(ヒトリカミ)成りまして身(ミミ)を隠したまひき。
とあり、又日本書紀には、
天(アメ)先づ成りて地(つチ)後に定まる。然して後神聖(カミ)其の中に生(ア)れます。故(カ)れ曰く開闢之初洲壌(アメツチノワカルルハジメクニツチ)浮かれ漂へること譬へば猶游ぶ魚の水の上に浮けるがごとし。その時天地の中に一物(ヒトツノモノ)生(ナ)れり。状(カタチ)葦牙(アシケビ)の如し。便ち化為(ナ)りませる神を国常立(クニノトコタチ)ノ尊と号(マヲ)す。
とある。かゝる語事(カタリゴト)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。
 而して国常立(クニノトコタチ)ノ尊を初とする神代七代の終に、伊弉諾(イザナギ)ノ尊・伊弉冉(イザナミ)ノ尊二柱の神が成りましたのである。古事記によれば、二尊は天つ神諸々の命(ミコト)もちて、漂へる国の修理固成の大業を成就し給うた。即ち
 是に天つ神諸々の命(ミコト)以(モ)ちて伊邪那岐ノ命・伊邪那美ノ命二柱の神に、この漂へる国を修理(ツクリ)固成(カタメナ)せと詔(ノ)りごちて天の沼矛(ヌボコ)を賜ひてことよさしたまひき。
とある。かくて伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は、先づ大八洲を生み、次いで山川・草木・神々を生み、更にこれらを統治せられる至高の神たる天照大神を生み給うた。即ち古事記には、
 此の時伊邪那岐ノ命大(イタ)く歓喜(ヨロコ)ばして詔(ノ)りたまはく、吾(アレ)は子(ミコ)生み生みて生みの終(ハテ)に三貴子(ミハシラノウヅノミコ)得たりと詔りたまひて、即ち其の御頸珠(ミクビタマ)の玉の緒(ヲ)もゆらに取りゆらかして、天照大神に賜ひて詔りたまはく、汝(ナ)が命は高天原を知らせと、ことよさして賜ひき。
とあり、又日本書紀には
 伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊共に議(ハカリ)て曰(ノタマハ)く、吾(ア)れ巳に大八洲及び山川草木を生めり、何(イカ)にぞ天下(アメノシタ)の主(キミ)たるべき者(カミ)を生まざらめやと。是に共に日神(ヒノカミ)を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメノムチ)と号(マヲ)す(一書に云く、天照大神一書に云く、天照大日孁ノ尊)。此の子(ミコ)光華明彩(ヒカリウルハ)しくして六合(アメツチ)の内に照徹(テリトホ)らせり。
とある。
 天照大神は日神又は大日孁貴とも申し上げ、「光華明彩しくして六合の内に照徹らせり」とある如く、その御陵威は広大無辺であつて、万物を化育せられる。即ち天照大神は高天ノ原の神々を始め、二尊の生ませられた国土を愛護し、群品を撫育し、生成発展せしめ給ふのである。
 天照大神は、この大御心・大御業を天壌と共に窮りなく弥栄えに発展せしめられるために、皇孫を降臨せしめられ、神勅を下し給うて君臣の大義を定め、我が国の祭祀と政治と教育との根本を確立し給うたのであつて、こゝに肇国の大業が成つたのである。我が国は、かゝる悠久深遠な肇国の事実に始つて、天壤と共に窮りなく生成発展するのであつて、まことに万邦に類を見ない一大盛事を現前してゐる。
 ・・・(以下略)

 二、聖徳 ・・・略
 
 三、臣節
 我等は既に広大無辺の聖徳を仰ぎ奉つた。この御仁慈の聖徳の光被するところ、臣民の道は自ら明らかなものがある。臣民の道は、皇孫瓊瓊杵ノ尊(ニニギノミコト)の降臨し給へる当時、多くの神々が奉仕せられた精神をそのまゝに、億兆心を一にして天皇に仕え奉るところにある。即ち我等は、生まれながらにして天皇に奉仕し、皇国の道を行ずるものであつて、我等臣民のかゝる本質を有することは、全く自然に出づるのである。

 我等臣民は、西洋諸国に於ける所謂人民とは全くその本性を異にしている。君民の関係は、君主と対立する人民とか、人民先づあつて、その人民の発展のため幸福のために、君主を定めるといふが如き関係ではない。然るに往々にして、この臣民の本質を誤り、或は所謂人民と同視し、或は少くともその間に明確な相違あることを明らかにし得ないもののあるのは、これ、我が国体の本義に関し透徹した見解を欠き、外国の国家学説を曖昧な理解の下に混同して来るがためである。各々独立した個々の人間の集合である人民が、君主と対立し君主を擁立する如き場合に於ては、君主と人民の間には、これを一体ならしめる深い根源は存在しない。然るに我が天皇と臣民との関係は、一つの根源より生まれ、肇国以来一体となつて栄えて来たものである。これ即ち我が国の大道であり、従つて我が臣民の道の根本をなすものであつて、外国とは全くその撰を異にする。固より外国と雖も、君主と人民との間には夫々の歴史があり、これに伴ふ情義がある。併しながら肇国の初より、自然と人とを一にして自らなる一体の道を現じ、これによつて弥々栄えて来た我が国の如きは、決してその例を外国に求めることはできない。こゝに世界無比の我が国体があるのであつて、我が臣民のすべての道はこの国体を本として始めて存し、忠孝の道も亦固よりこれにこれに基づく。

 我が国は天照大神の御子孫であらせられる天皇を中心として成り立つてをり、我等の祖先及び我等は、その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉るのである。それ故に天皇に奉仕し、天皇の大御心を奉体することは、我等の歴史的生命を今に生かす所以であり、こゝに国民すべての道徳の根源がある。

 忠は、天皇を中心として奉り、天皇に絶対随順する道である。絶対随順は、我を捨て我を去り、ひたすら天皇に奉仕することである。この忠の道を行ずることが我等国民唯一の生きる道であり、あらゆる力の源泉である。されば、天皇の御ために身命を捧げることは、所謂自己犠牲ではなくして、小我を捨てて大いなる御陵威に生き、国民としての真生命を発揚する所以である。天皇と臣民との関係は、固より権力服従の人為的関係ではなく、また封建道徳に於ける主従の関係の如きものでもない。それは分を通じて本源に立ち、分を全うして本源を顕すのである。天皇と臣民との関係を、単に支配服従・権利義務の如き相対的関係と解する思想は、個人主義的思考に立脚して、すべてのものを対等な人格関係と見る合理主義的考へ方である。個人は、発生の根本たる国家・歴史に連なる存在であつて、本来それと一体をなしてゐる。然るにこの一体より個人のみを抽象し、この抽象せられた個人を基本として、逆に国家を考へ又道徳を立てても、それは所詮本源を失つた抽象論に終るの外はない。

 我が国にあつては、伊弉諾ノ尊・伊弉冉ノ尊二尊は自然と神々との祖神であり、天皇は二尊より生まれました皇祖の神裔であらせられる。皇祖と天皇とは御親子の関係にあらせられ、天皇と臣民との関係は、義は君臣にして情は父子である。この関係は、合理的義務的関係よりも更に根本的な本質関係であつて、こゝに忠の道の生ずる根拠がある。個人主義的人格関係からいへば、我が国の君臣の関係は、没人格的の関係と見えるであらう。併しそれは個人を至上とし、個人の思考を中心とした考、個人的抽象意識より生ずる誤りに外ならぬ。我が臣民の関係は、決して君主と人民と相対立する如き浅き平面的関係ではなく、この対立を絶した根本より発し、その根本を失はないところの没我帰一の関係である。それは、個人主義的な考へ方を以てしては決して理解することの出来ないものである。我が国に於ては、肇国以来この大道が自ら発展してゐるのであつて、その臣民に於て現れた最も根源的なものが即ち忠の道である。こゝに忠の深遠な意義と尊き価値とが存する。近時、西洋の個人主義的思想の影響を受け、個人を本位とする考へ方が旺盛となつた。したがつてこれとその本質を異にする我が忠の道の本旨は必ずしも徹底してゐない。即ち現時我が国に於て忠を説き、愛国を説くのも、西洋の個人主義・合理主義に累せられ、動もすれば真の意味を逸してゐる。私を立て、我に執し、個人に執著するがために生ずる精神の汚濁、知識の陰翳を祓ひ去つて、よく我等臣民本来の清明な心境に立ち返り、以て忠の大義を体認しなければならぬ。
 ・・・(以下略)

 四、和と「まこと」 ・・・略
第二 国史に於ける国体の顕現
 一、国史を一貫する精神
 国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。歴史には、時代の変化推移と共にこれを一貫する精神が存する。我が歴史には、肇国の精神が厳然として存してゐて、それが弥々明らかにせられて行くのであるから、国史の発展は即ち肇国の精神の展開であり、永遠の生命の創造発展となつてゐる。然るに他の国家にあつては、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。従つて他の国家に於て歴史を貫くものを求める場合には、抽象的な理性の一般法則の如きものを立てるより外に道がない。これ、西洋に於ける歴史観が国家を超越して論ぜられてゐる所以である。我が国に於ては、肇国の大精神、連綿たる皇統を基とせずしては理解せられない。北畠親房は、我が皇統の万邦無比なることを道破して、

 大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき日神ながく統を伝へ給ふ。我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。

と神皇正統記の冒頭に述べている。国史に於ては維新をみることが出来るが、革命は絶対になく、肇国の精神は、国史を貫いて連綿として今日に至り、而して更に明日を起す力となつてゐる。それ故我が国に於ては、国史は国体と始終し、国体の自己表現である。
 ・・・(以下略) 

 二、国土と国民生活 ・・・略
 三、国民性 ・・・略
 四、祭祀と道徳 ・・・略
 五、国民文化 ・・・略
 六、政治・経済・軍事
 ・・・
 我が憲法に祖述せられてある皇祖皇宗の御遺訓中、最も基礎的なものは、天壌無窮の神勅である。この神勅は、万世一系の天皇の大御心であり、八百万ノ神の念願であると共に、一切国民の願である。
従つて知ると知らざるとに拘らず、現実に存在し規律する命法である。それは独り将来に向つての規範たるのみならず、肇国以来の一大事実である。憲法第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるのは、これを昭示し給うたものであり、第二条は皇位継承の資格並びに順位を昭かにし給ひ、第四条前半は元首・統治権等、明治維新以来採択せられた新しき概念を以て、第一条を更に紹術し給うたものである。天皇は統治権の主体であらせられるのであつて、かの統治権の主体は国家であり、天皇はその機関にすぎないといふ説の如きは、西洋国家学説の無批判的の踏襲といふ以外には何等の根拠はない。天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神(アマツミカミ)として肇国以来の大義に随つて、この国をしろしめし給ふのであつて、第三条に「天皇ハ神聖ニシテ侵スへカラス」とあるのは、これを昭示せられたものである。外国に於て見られるこれと類似の規定は、勿論かゝる深い意義に基づくものではなくして、元首の地位を法規によつて確保せんとするものに過ぎない。
 尚、帝国憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の「君臨すれども統治せず」でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。これは、肇国以来万世一系の天皇の大御心に於ては一貫せる御統治の洪範でありながら中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかつたが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである。

 帝国憲法の政体法の一切は、この御親政の原則の拡充紹術に外ならぬ。例へば臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫滋養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は統治権者の分立ではなくして、親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を弥々確実ならしめんとするものである。
議会の如きも、所謂民主国に於ては、名義上の主権者たる人民の代表機関であり、又君民共治の所謂
君主国に於ては、君主の専横を抑制し、君民共治するための人民の代表機関である。我が帝国議会は、全くこれと異なつて、天皇の御親政を、国民をして特殊の事項につき特殊の方法を以て翼賛せしめ給はんがために設けられたものに外ならぬ。
 我が国の法は、すべてこの典憲を基礎として成立する。個々の法典法規としては、直接御親政によつて定まるものもあれば、天皇の御委任によつてせいていせられるものもある。併しいづれも天皇の御陵威に淵源せざるものはないのである。その内容についても、これを具体化する分野及びその程度には、種々の品位階次の相違はあるが、結局に於ては、御祖訓紹術のみことのりたる典憲の具体化ならぬはない。従つて万法は天皇の御陵威に帰する。それ故に我が国の法は、すべて我が国体の表現である。
 ・・・
 我が国体の顕現は、軍事についても全く同様である。古来我が国に於ては、神の御魂を和魂(ニギミタマ)・荒魂(アラミタマ)に分かつてゐる。この両面の働の相協ふところ、万物は各々そのところに安んずると共に、弥々生成発展する。而して荒魂は、和魂と離れずして一体の働をなすものである。この働によつて天皇の御陵威にまつろはぬものを「ことむけやはす」ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも称すべき尊き武の道がある。明治天皇の詔には「祖宗以来尚武ノ国体」と仰せられてある。天皇は明治六年徴兵令を布かせられ、国民皆兵の実を挙げさせ給ひ、同十五年一月四日には、陸海軍人に勅諭を賜つて、
 我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある。
と仰せ出され、又、
 朕は汝等軍人の大元帥そされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きて…。
 ・・・(以下略)

 結語・・・略 

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 

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平泉澄批判 永原教授、色川教授他

2017年07月22日 | 国際・政治

 「皇国史観」(岩波ブックレットNO20)の著者である永原慶二教授が、戦時中、東京帝国大学国史学科に入学した時、平泉澄は主任教授であったといいます。同書の平泉澄に関する部分の一部を抜粋しましたが(資料1)、まず、東京帝国大学国史学科で平泉澄の助手であった村尾次郎氏が、戦後、教科書調査官制度が発足したとき、最初の社会科主任調査官になったという指摘に驚きました。また、”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘が、的を射たものにちがいないと思いました。まさに、”天皇制的身分秩序をわきまえさせること”そして、”一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ”きことを学生に教えることが、自らの使命であると考えていたのだと思います。


 「歴史家の嘘と夢」(朝日選書8)の著者である色川大吉教授も、同じように戦時中に、東京帝国大学国史学科で平泉澄の講義を聞いています。そして、「Ⅱ わだつみの友へ」の中の「学徒出陣二十五年に」と題した文章で、平泉澄について語っています(資料2)。特に、出陣する学徒に向かって、最終講義で、”しばらくお別れです、いや永遠にお別れです”といって出ていった、という部分が、いかにも平泉澄らしいと思いました。平泉澄は、「我が子には散れと教へておのれまづあらしに向ふさくら井の里」などという歌を取り上げ、桜のような散り際の潔さを説いたり、「花は桜木、人は武士」というのが、日本人の精神であると説いて、”一旦緩急あれば直ちに剣を執って起ち、勇猛敢為、進むを知って退くを知らざる気象こそ、日本人の誇りなのだ”と教えるのでしょう。平泉澄が「永遠にお別れです」というのは、桜の花の散り際の潔さを見習い、「天皇の御為に」、君たちも潔く散っていかなければならないということなのでしょう。何とかして犠牲者を出さないようにしようとする人命尊重の発想はほとんどないのだろうと思います。

 「天皇と戦争と歴史家」(洋泉社)の著者、今谷明教授の”平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している”という指摘も重要だと思います。今谷教授は、平泉澄の差別的言辞を取り上げていますが、私は、古事記の神話を史実とする平泉澄の考え方では、基本的に大衆蔑視や人種差別から逃れることができないのではないかと思います。その平泉澄の「歴史なき人種」などという差別的言辞に関わる部分を抜粋しました(資料3)。

 「神の国と超歴史家・平泉澄 東条・近衛を手玉にとった男」(雄山閣出版)著者、田々宮英太郎氏の平泉澄に対する指摘も見逃すことができません。田々宮英太郎氏は、平泉澄の考え方の本質に迫ろうと、戦時中の学徒、色川大吉や林勉の証言などを取り上げ考察していますが、平泉史学の「科学性」の問題に関する指摘は、最も重要だろうと思います。
 永原教授の”学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる”という指摘と重なるのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                      二 皇国史観とは何か

私の体験
 はじめに思い出話になって恐縮であるが、読者に皇国史観の支配した時代の雰囲気を感じとっていただくために私の体験を紹介しよう。私は1942(昭和17)年四月に当時の東京帝国大学国史学科に入学した。教授にどんな先生がいるのかなどということも考えず、歴史を勉強してみたいという気持ちだけで進学したのであった。入ってみると、主任教授は、戦後超国家主義皇国史観の代表的歴史家として位置づけられた平泉澄氏であった。もっとも当時の私は平泉教授がそのような存在であることさえよく知らなかったが、入学すると早々に助手の村尾次郎氏から平泉教授の演習に出ないと二年になれないと説明されたため、まずそれに出席した(この説明はウソであることがあとでわかった)。ついでにいえば、村尾次郎氏は戦後の1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物であることはよく知られているとおりである。
 演習は本居宣長(宣長のことは「先生」といわないと叱られた)の「うひ山ぶみ」であったが、さいしょの時間にテストがあった。示されたいくつかの事項について何らか知っていることを書けというものだったが、私はほとんど書けなかった。いまおぼえているところは、そのひとつに「佐久良東雄」という名前があった。これもそのときはまったく知らなかったが、あとでこの人物が平田国学派の志士・歌人であることを教えられた。
 この佐久良東雄は、じつは平泉教授の(『伝統』1940年刊、所収「真の日本人」)のなかでたいへんな評価を与えられている人物で、教授の著書さえ読んでいれば難なく答えられるはずだったのである(どうもこのテストは一種の思想調査だったらしい)。そしてその高い評価の根拠は、結局、この人が「君に親にあつくつかふる人の子のねざめはいかにきよくあるらむ」「すめろぎにつかまつれと我を生みし我が垂乳根は尊くありけり」などという歌を詠んだところにあったようである。
 歌の意味はかんたん明瞭であるが、ここでとくに重視されたのは、「忠」と「孝」という二つの、場合によってはたがいに矛盾する(「忠ナラント欲スレバ孝ナラズ」)価値が統合され、いわば孝が
忠に高められている点である。家と国家の一体化、「皇室は臣民の宗家」などが説かれ、日本は天皇を家長とする一大家族国家という国家イデオロギーが強調されていたこの時代からすると、 佐久良東雄は卓抜した先覚者だというわけである。

 当時、平泉氏の皇国史観はもっともはげしくもえあがっており、学生にたいしても歴史研究の学問的方法を教えるというより、「教化」を重視していたように思われる。教授はわれわれ学生を「○○サン」とよび、けっして「○○クン」とはいわなかったし、学位同士でも「クン」よびはよくないといっていた。その意味は、「君」とは「上御一人(カミゴイチニン)(大君)」のことであるから「臣民」に「君」を使うのはたいへんなあやまちだというのである。学生たちに、このような天皇制的身分秩序をわきまえさせることが教授の使命であると考えていたのではなかろうか。
 こうして入学早々皇国史観による洗脳を受けたわけであるが、その後、これと関連してもうひとつの小事件があった。それはしばらくして私も、「国史」の学科の学生らしくなり、「十一日会」とよぶ学生の月例研究会で研究発表をした。そのとき、「うひ山ぶみ」がきっかけで国学の問題を報告したのであるが、私のタネ本は羽仁五郎の「国学の誕生」「国学の限界」という連作論文であった。当時私は思想的に羽仁氏に共鳴していたからというのではなく、ただ国学関係の論文を読みあさってゆくうちにゆきあたった羽仁論文がもっとも私の心をゆりうごかしたため、未熟な学生としてはそれによりかかるような報告をしただけのことであった。ところが同席した平泉教授は散会後ただちに私をよびとめ、あのような論文はよくないから読まぬ方がよいと厳粛な顔つきで私をいましめたのである。
 いささか私的経験をのべすぎたが、これによっておよそ当時の雰囲気は分かっていただけたと思う。そこで本題にもどって皇国史観とは何か、それにもとづく日本歴史像とはどんなものか、という問題に進もう。

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     Ⅱ わだつみの友へ
 学徒出陣二十五年に
 忘れもしない昭和十八年十月二十一日、明治神宮外苑競技場のスタンドで、私は降りしきる秋雨に濡れ、数万の学友たちの分列行進を見送っていた。かれらはいちように大人びた沈痛な顔をし、黒い制服にゲートルをまき、銃剣のついた三八式歩兵銃をかついで、東条首相の前を行進していった。
 スタンドは満員で、女子学生が多く、なかには急いで結婚した新妻たちの姿も見うけられた。そこに女たちの姿が多かったということが、かれらの心をいっそう悲壮なものにしていたであろう。
 かれらは日本の国難を救う、”民族の華”として称揚された。東条英機の「死して悠久の大義に生きよ」の叫びや、「天地正大の気、粋然として神州に鍾(アツ)まる」との藤田東湖の詩による訓示、文相の和歌の朗詠などがおこなわれ、”防人”のつもりの学徒を、葉隠れ武士の”出陣”の儀式に凝して壮行するという、まさに国をあげての日本浪漫派ぶりの演出であった。

 1943年、その年は、日本軍の南方撤退からはじまって、山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、日本軍のアッツ島での全滅、イタリアの降伏と、戦局は日ごとに悪化していた。そのため東条内閣は、不足した飛行要員の補充に、速成のきく大学生の動員を考え、九月二十二日、文化系学生の徴兵猶予を停止し、十二月一日をもっていっせいに入隊することを命じたのである。
 当時、東大文学部に入学したばかりの私には、これは青天の霹靂(ヘキレキ)であった。自分の人生が突如大ナタをふるって断ち切られた想いであり、その先には「死」しか見あたらなかった。私たちはまだ、はたちになったか、ならないかの少年なのに、もう老人のように”末期(マツゴ)の眼”で自分自身や周囲を見まわすようになっていた。翌年戦死した、ある法学部の戦友はこう語っている。
「一体私は陛下のために銃をとるのだろうか。あるいは祖国のために、又は肉親のために、つねに私の故郷であった日本の自然のために、銃をとるのであろうか。だがいまの私には、これらのために自己の死を賭するという事が解決されないのだ」と。
 この心の解決の問題が当時の学生たちを最も苦しめていた。この解決を求めて私たちは学び、もだえたのである。

 学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で、平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや永遠にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。私はまるで芝居を見ているような錯覚におちいっていた。そのあと、学生たちが何の反応も示さず、静かに何事もなかったかのように退席していったことが、いっそうの”演出”の印象をあざやかに記憶させてくれたのであろう。
 二十五年ぶりで、偶然、私はその同じ教壇に立ってみて、無期限スト中のだれもいない教室の空席を見回したとき、そこかしこの席にいたはずの帰らなかった友人たちの顔を想い浮かべて、感慨のあふれるのをおさえがたかった。あのときいっしょに入学した文学部四百余名の学友の約半数は、ついに卒業することができなかったのである。
 出征前にあわただしく結婚して、レイテ沖で死んだA君の未亡人は、いま四十代のなかばを越えて、どこでどのように生きているのだろう。ある学友は、海兵団への入団前夜、「僕と貴女とのことは神をのぞいて誰も知らないでしょう。それでよかった。それでこんなにも美しく悲しい想い出となることができたのです。……さようなら僕のローズ・マリー、ああもう永遠に逢うことはできないでしょう」と書き残している。

 若者は愛に飢えている。美にもろい。この特性を利用して、支配の意図を遂げようとする政治家は残酷である。それに力を貸す詩人や思想家も許しがたい。私はいまでも、あの時代をおおっていた一種名状しがたい悲痛な陶酔感といったもの、悲壮美といったものをありありと想い浮かべることができる。なにかといえば民族の危機を誇張し、民族の伝統や運命的な一体感を強調して、冷酷な殺し合いのための近代軍隊への入隊を”防人”の別れや、詩的な中世武士の”出陣”として幻覚させ、進んで若者を”死地におもむかしめた”人びとのことを想い浮かべる。
 
 その人びとはいまなお生きていて指導者の座にすわり、活発な発言をしているが、私はその人びとの罪は”万死に値する”と思う。非常の事態に国家が若者をどのようにあつかうか。どのように美的な演出が仕組まれるか、そして深く心情をまでとらえようとするかを、私たちは自己の体験を通して戦争を知らぬ世代に訴えたい。
 君たちのある者は、私たちより生き甲斐のない時代に生まれたと嘆いているかもしれない。しかし、その”生き甲斐”とは何か。いまでも私たちは、心の暗い海原で”死んでも死にきれない”霊の声を聞いているのだ。
「おれたちはなんのために死んだ? 大東亜の建設、日本の隆昌を信じて死んだ。その大東亜の建設が成らなかったらどうなるのだ。死んでも死にきれないではないか」(『きけわだつみのこえ』)
 大東亜の建設どころか、なんの罪もないアジアの民を数千万も殺して、平和の破壊者、虐殺者としての罪業を負った。「おれたちはなんとために死んだのだ!」
 その若い死霊の叫びが二十五年後の今日、もう全く君たちの魂に訴えるものをもたないとしたら、戦後の日本の歴史が虚妄であったのか、それとも君たちが成長しすぎてしまったのか。”繁栄”の中にある君たちのまえに私は疑問を投げかけたい。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    Ⅱ 超国家主義者・平泉澄と「皇国史観」
三、初期著作物の検討

 ・・・
 誤解がないように一言すれば、筆者は平泉の優れた実証能力まで否定してしまおうというのではない。平泉の歴史学には幅広いしかも力強い実証主義的手法と、狭隘な神秘主義・精神主義とが初期の段階から同居している点を強調したいのである。平泉の後年の矯激な言動との関連で注目される初期の述作では、1925年2月に発表された「『文化人類学』を読む」がある。これは早大教授西村真次『文化人類学』に対する書評であるが、西村が史学と人類学との融合接近を説くのに対し、平泉は二種の学問の混同として斥け、次のようにいう。

 試みに一つの点をあげて史学が人類学と截然として相違するを明示しやう。例はエスキモーでもいい台湾の生蕃でもいい。彼等は人である。それ故に人類学の対象になり得る。(中略)しかしながら彼等は今日のところ未だ嘗て歴史をもたざる人類である。歴史に目ざめず、従って未だ歴史の光に浴せざる人類である。(中略)しかもそれは山河鳥獣が何かの機縁によって文化人の歴史にあらはるると全然同じ性質のものである。いかんとするも彼らは歴史なき人種であり、史学の主題となるを得ざるものである。

 このように平泉は人類・民族を二つに大別し、片方を”歴史なき人種”として差別し蔑視し、次のように極論するのである。

 かくの如き野蛮人には、過去もなく将来もない。今日に生き、刹那に生きる。明かに歴史はない。それは猶犬や雀に歴史がないのと同じであらう。

 この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。平泉の根深い大衆蔑視、人種差別は一貫しているといえよう。
 ・・・
資料4ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    第五章 本土決戦と松代大本営

 学徒出陣と教室風景
昭和十七年六月のミッドウェー海戦、十八年二月のガダルカナル撤退はいずれも惨憺の一語に尽きよう。ヨーロッパでもこの二月には、スターリングラードの独軍が殲滅され、枢軸側の敗勢は覆うべくもない。こうした背景のもとで実施されたのが昭和十八年十二月二日の学生、生徒の徴兵猶予停止の緊急勅令だった。文化系学生の一斉入営のことで、世にいう「学徒出陣」である。およそ十三万人の学徒兵が陸海軍に送り込まれた。
 ところで、この「学徒出陣」に関連した色川大吉氏の文章が問題にされている。その文章は、先に私も氏の『歴史家の嘘と夢』から引用しているが、同趣旨なので、ここでは氏の『ある昭和史』から引用することとする。

 十一月の送別講義のときであったと思う。文学部長の今井登志喜教授(西洋史)が「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。また、同じ文学部の平泉澄教授(国史)は、教壇で短刀を抜きはなち、「国を想ひ眠られぬ夜の霜の色、ともしび寄せて見る剣かな」と誦し、淡々たる調子で「お別れです、永遠にお別れです」とつぶやいて去った。(色川大吉『ある昭和史』)
 ・・・
次に問題としたのは平泉教授の態度だが、今井教授にくらべていかにも冷淡な態度を暗示しており、それが平泉澄という人間像に不信感をいだかせるものだと非難しているのである。
 そこで、教室における平泉教授の生態を、色川氏の別の文章からも取上げて見よう。

 平泉教授は、日に十数回も手を洗う潔癖家で(話によると手先でミソギをしているつもりなのだそうだ)、痩身のひどく神経質そうな、冷たい感じをあたえる人間だった。教室に懐剣をもってやってきて、北畠親房だとか尊壌派の志士などの話ばかりして(いま思えば内容のない、まことにいいかげんな講義だった)、中途でキラリと抜いてみせ、「国を想いねられぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣かな」などと誦してみせたりした。
 「ホホウ、コレガトーキョー大学ノコーギトイウモノカ」と頬杖などついて感心していると、「無礼者!師に対してなんたる態度」と、チョークの箱が飛んでくる。
 ある演習(今のゼミ)の日のこと。「古事記を読んでどう思うか」と聞かれたから、「面白いと思います」と答えたところ、「なに!古事記を読んで面白いとは何事です・・・・・古事記は畏れ多くも文武天皇のおんみことのりとして・・・・」と怒られる。
 私たち二、三の学生は、「退席せよ」といわれるまでもなく、するどい沈黙の中を、ゆっくりとドアをあけて出ていった。(色川大吉『明治の精神』)

 かなり長い引用になったが、教授の人柄や教室の雰囲気がリアルに描かれていると思われるからである。
 そこでも見られるように、平泉教授の言動に暖かいものがあるとは思えない。ことに引っかかるのは『古事記』に対する接し方で、「面白いとは何事です」という一喝である。近代思想の洗礼を受け、知識欲に燃える青年学徒にとって、「面白い」とは言い得て妙である。「ご名答!」と言いたいところである。平泉教授の言葉として文武天皇とあるが、天武天皇の誤りだろう。また「おんみことのりとして」の後には「勅撰された古典」と続くのだろうが、学者としての硬直ぶりには呆れるほかない。

 戦時下とはいえ、その学問的レベルの低俗さに、呆れるほかない。『古事記』こそは、宇宙開闢から推古朝までの、まさに古代の物語りなのである。色川氏の取り上げた教室風景にも優って、それが「面白い」のは確かである。

 教室風景をもう一つ紹介するが、林勉という学徒のばあいである。

 忘れられない平泉教授の演習。「古事記はおもしろい」と答え、叱られて出て行った者もあった。「大日本史の三大特筆は?」と尋ねられた。第一南朝正統、第二に神功を除き弘文を入れたことをいっしょにした。第三に歴史を神武から始めた科学性、といったら、一喝された。次の時間から出なかった。戦後もらった成績表ではこれだけ「丙」だった。複雑な感情だった。(東大十八史会編『学徒出陣の記録』)
 「科学性」がお嫌いなところ、平泉教授の面目躍如たるものがある。これでは心ある学徒の信頼をつなぐことは難しかろう。

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悲劇縦走 平泉澄 NO2

2017年07月19日 | 国際・政治

 学生に対し、「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」などという言葉をなげかけ、また「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」というような指導をしたという皇国史観のリーダー平泉澄は、自らの戦争責任について、「本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」というのですが、「悲劇縦走」で、自らの責任の大きさを語っているように、私には思えます。

 下記に抜粋した「七十四 終戦(其二)」の文章にあるように、自ら阿南陸相に下記のようなことを”強くお願いした”と書いているのです。まさに軍の作戦に介入する、学者らしからぬ提案です。
”…東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい…”
 
 また、敗戦間際になお、茨城県沿岸防衛軍野田善吾中将の要請に応じて石岡や水戸で将士に講演したのをはじめ、広島市宇品の暁部隊、江田島の海軍兵学校、神ノ池の海軍航空隊等々、日本全国を飛びまわり講義・講演を続けていたことを書いています。その上、宮城事件の首謀者たちとも密に連絡を取り合い、
「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか
などと話し合っているのです。「至純の忠誠」を語り、「只々一途に己か本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟」して戦うことを説いて回ったのでしょう。戦時中、日本軍兵士の士気を鼓舞することで、平泉澄以上に活躍した人はいないと思います。

 「 Ⅱ わだつみの友へ-学徒出陣二十五年に」と題して色川大吉氏が、平泉澄の講義について下記のようなことを書いています。

学徒出陣壮行会が行われる数日前、私は東大文学部の階段教室で平泉澄教授の日本思想史の最終講義を聞いた。そのとき平泉澄が教壇で短刀を抜き放って、「国をおもひ眠られぬ夜の霜の色 ともしび寄せて見る剣(ツルギ)かな」と誦じ、終わって「しばらくお別れです」「いや、永久にお別れです」といって出てゆかれたのには、驚き、あきれた。”「歴史家の嘘と夢」色川大吉(朝日選書8)

 「永久にお別れです」ということは、「死んでこい」ということを意味するのではないかと思いますが、文学部長の今井登志喜教授(西洋史)は
 ”「前途ある若き諸君を、今痛恨の思いをもって戦場に送る。今回の政府の措置は、まさに千載の痛恨事とせねばならぬ。願わくは諸君、命を大切に、生きてふたたびこの教室に会せんことを」と涙とともに訴えられた。
というのですから、平泉澄の思想の人命軽視は否定しようがないと思います。
 平泉澄の考え方では、どんなに大勢の日本兵が死んでも、「己か本分の忠節を守り」、自ら立派に死んだということで、大した問題にならないのかも知れません。したがって、平泉澄が、兵士の死に対する自身の「責任」の問題に向き合うこともないのだろうと思います。
 
 平泉澄の文章に、赤紙一枚で召集され、地獄の苦しみを味わって死んでいった兵士や残された家族に思いを寄せる文章を見つけることが困難なのは、そうした考え方からくるのだろうと思います。


 敗戦が避けられない状況の中でなお
当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。
などという、平泉澄は、「朕の命令」を利用して、理不尽な戦争を続けた軍を支えたこと、否定しようがない事実だと思います。人命よりも「終戦の条件を善く」することが大事だとするところに、「神国日本」・「皇国日本」の正体が示されているのではないでしょうか。 

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    七十四 終戦(其二)

 ・・・
 兎も角正月九日の阿南大将邸、大将と私とは色々話をしました。その中で、私が強くお願ひした事が二つあります。その第一は、陸軍部内に於いて当時噂があり、もしくは計画せられてゐた、陛下御動座の案を、断然破棄していただきたい、と云ふ事であります。卒然として私の説を耳にして、「あなたは陛下の御安泰を冀はないのか」と、憤りを帯びて反問した人もあります。私が陛下の御安泰を祈らぬわけはありませぬ。然し私は何よりも天皇の御徳に傷のつく事を恐れるのであります。過去の歴史を顧れば、苦難に遭遇し給うた天皇は、数多くおはしまし、殊に絶海の孤島に沈淪し、寒山幽谷に埋没し給うたと申上げてよい痛ましい晩年を送らせ給うた方々、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の如き、その御事蹟を仰ぎ見る時、私共は泣いても泣ききれないのであります。しかも、同時に、その苦難が、日本の道を明かにし給はむとの思召より発してゐる所に、私共は無限の感動を覚えるのであります。今若し宣戦の大詔を発せられたままで、命を棄てて前線に向ふ軍隊と、苦難に喘ぐ国民を置去りにして、陛下を何処かへ御移し申上げて了ったとあっては、君臣の間の道義は、一体どうなるのでありませうか。皇子皇女は、どうぞ安全な場所へお移し申上げて下さい。陛下には何とぞ今のまま宮城におはしまして御統裁遊ばされたく、若しお移りになるのであれば、一歩でも前の方へお進み願上げます、と云ふのが、国体護持を本願とする私の願望でありました。先きに皇紀二千六百年記念事業として、吉野山なる後醍醐天皇御陵の前の山道を、陛下御親拝の便宜を計り、自動車道を開かうといふ宮内省と奈良県との案に反対して、先帝の御苦難を回想し給うての御親拝ならば、此処は御車を横付にし給ふべきではなく、出来れば御ひろひ、いけなければ御駕篭を御使用願ふべき所ですと主張して、その筋の怒りを受けた事がありますが、今の問題はそれ以上に重大であって、是れは下手をすれば一大事と考へ、第一に阿南大将にお願したのでありました。
 大将は、即座に快諾せられました。云はれますには、「全く同感であります。自分は先きに中佐でありました時、多くの反対を押切って、宮中の防空壕、心をこめて造り、強固の上にも強固を期して築造しましたが、その後、陸軍次官在任中、之を拡大強化しました。今後一層注意して万全を期する事にしませう。皇后陛下始め皇子皇女方は別であって、安全な所にお移り願ふべきでありませうが、陛下には宮城以外に御動座をお願申上ぐべきで無い事、全く同感です」と云はれました。

 第一の、問題は之で解決して、私は大いに安堵しました。次には第二の問題であります。日米の戦勢、昭和十七年六月ミッドウェーの戦を界として、攻守、所をかへました。彼れは図に乗って進み、我れはやむを得ず、退いて守る態勢となりました。然るに攻撃に出づる者は、その時機と、その場所とを、己れの自由に選択し、而して防守する者は、戦場と時機との二つを彼れに制約せられて、初めより頗る不利であります。それ故に小を以て大と戦ひ、劣勢にして優勢を討たうとするには、先づ攻勢を取戻すべきでありませう。たまたま昭和十九年七月、東大工学部航空研究所員高月教授の苦心製作したる発動機は、之を満州に於いて実験したる所、東京より太平洋、アメリカ大陸、更に大西洋を越えてフランスにまで到達し得べき事、明かになりました、然らばこの長距離を以て米国本土を襲撃する事、容易でありませう、若しそのガソリンを半減して爆弾を積めば米軍の要地を破砕し、その油田を焼却し、米軍の半をその本土防衛の為に釘付けにする事も出来るでありませう。攻守の勢いを一変すべく、何とぞ此の案を御詮議いただきたく、而して若し此の案を御採用の時は、その一番に私を便乗させて下さい。直接のお役には立ちませぬが、いよいよ米本土襲撃となり。その一番機に平泉まで乗込んで戦死したとなれば、ミッドウェー以来の萎靡沈滞を一掃して、三軍の士気旺盛となり、踊躍して海を越える者、相継ぐでありませう。是れが私の阿南大将に提言した第二の点でありました。大将は楽しく之を聴いて居られましたが、やはり無理があり不可能であるとしてか、可否を云はれず、云はば黙殺の形でありました。大将は、実践の経験から見て、米軍恐るるに足らず、そのやうな無理をしないでも、大丈夫勝てると信じて居られるようでありました。
 昭和二十年正月九日、午後五時より七時に至る二時間、阿南大将との懇談、要点は以上の通りでありました。今後はいつでもお会ひ出来ると思って、談他事に及ばず、久振りの御帰宅ですから、いそいで辞去しましたが、実際お会ひしたのは、その後一回、六月二十二日の夕だけでした。
 その後、形勢日々に非にして、空襲の被害は益々激しくなりました。就中三月九日の如きは、全市火の海と化し、満天炎となったかと想はれ、罹災者五十七万七千余人、戸数十四万五千余戸、死者一万八百三十二人と発表せられました。次に激しかったのは、四月十三日の夜で、被害は木戸侯、尾州徳川家、浅野家、菊池家、岡田大将等の邸宅を主とし、宮中の一部にも及んだと承りました。曙町の寓居が灰となったのも、是の時でありました。…
 ・・・
 六月十三日、井田中佐と畑中少佐、相携えて来訪。同二十二日、阿南大将が会ひたいと云はれるとの事で、その夜おたづねしました。大将は、四月七日陸軍大臣に任ぜられましたが、陸相官邸焼失の為、わづかに焼け残った副官の官舎に居られましたので、そこで七時半より九時半まで懇談しましたが、主たる要用、は、本土防衛の諸方面軍、いづれも平泉の来援を希望する中に、最も熱心なるは、茨城県沿岸防衛軍司令官野田善吾中将、ここへ行って貰へませんか、と云ふ事で、直ちに快諾し、七月十一日出発、十二日は石岡に於いて七百名の将士に、十三日は水戸に於いて六百名の将士に講演し、十四日は山本茂雄連隊長を始め、篤志三十余名の将校と共に、小田、關、大宝の古城址を廻りましたが、巡拝終はって解散する時、山本聯隊長が一同を代表して述べられた感謝の辞は、凛然として懦夫を起たしめ、勇士を鼓舞するものでありました。
 その間に戦勢は、日に日に非となりました。大本営の発表はどうあるにせよ、第一線の情況は、私にはよく分ってゐました。昭和二十年正月には、十七、十八、十九の三日連続、広島市宇品の暁部隊に於いて講演しました。暁部隊は隷下凡そ二十数万、北はアリューシャンより、南はニューギニアに至って奮闘中であります。そのうち交戦中の隊を除き。、北は石巻より、南は鹿児島に至る間の将校一千五百名、講堂を埋め尽くしての集まり、司令官佐伯中将、部付北沢中将、参謀長磯矢少将、練習部長馬場少将いづれも颯爽として不屈の精神漲ってゐました。
 暁部隊を終って、江田島へゆき、海軍兵学校で講義をしてゐるうち、航空本部伊東大佐より依頼があり、茨城県神(カウ)の池航空部隊へ行く事になり、二十日夕、岩国の講義を午前に繰上げて、午後一時四十四分岩国発東京行の急行に乗りましたが、途中たびたび爆撃を受けて不通の箇所があり、結局列車は京都止り、二十一日暮れの七時にようやく新橋へ着きました。
 正月二十三日は神(カウ)の池の海軍航空隊、司令は岡村基春大佐、豪壮精悍を以て鳴る人、小田原大佐の二期下で、その指導を受けたと云って居られました。副長五十嵐中佐、飛行長岩城少佐、いづれも百戦の勇士でした。講演は三時半より五時半まで、題は「尽忠」、聴者は士官と下士官と合せて数百名、すべて搭乗員であって、その三分の一は特攻隊と云ふ事でした。驚いたのは此の人々、私の講演を最後として神の池を立ち、その夜のうちに全部前線へ向って飛び去った事でありました。その中に京都青々の同学緒方襄中尉(二十四歳)も在って、爽かな挨拶の言葉を残して、やがて、沖縄の空に花と散りました。
 二月九日には霞ヶ浦海軍航空隊へ行き、二晩つづけて講演。司令は和田三郎大佐、ガダルカナル以来歴戦の勇士、磊々落々たる人物でした。飛行長は河本中佐、穏かなお方で、飛行場を案内していただきました。左足の無い角野少佐、指の無い關谷大尉が、熱心に後輩を指導して居られる姿を見たのは、是の時でした。
 四月十日には、仙台青々の同学寺田壽夫氏より葉書が届けられました。
 「小生此度第二次宇佐八幡護皇隊員として本日出撃仕り候、唯々必死必中、以て皇国護持之道に殉ずべく候、先生の御健祥切に祈上候、歌一首詠み遺し置き候、
  戀闕
  桜花 散りの間際に 益荒男は
      君をおもひて 心悲しも  四月四日」
 此の人の写真、特殊の事情あって気の毒に思ひ、三十年の後まで、私は旅行のたびに持ちあるき、方々の景色を見せて、心を慰めて貰ひました。
 四月二十六日、七日は、土浦へ行って、海軍気象学校で講演しました。校長は関少将。五月十一日は、大津の海軍航空隊で講演、司令は松木通世大佐、此の部隊は、いよいよ重大なる使命を帯びる事となり、一段の緊張でありました。
 六月十二日の夕七時五十分沖縄の部隊に対して感謝と激励の言葉を放送しました。恐らくは是れが最後であらうといふ事で、感慨悲痛でありました。西片町より放送局まで、焼跡ばかりつづいて、帰りは暗黒、爪先さぐりに歩くのでした。
 かやうにして戦況は、特に報告や説明を受けるまでも無く、私には自然に明瞭でありました。それ故に不満に思ひましたのは、政府や重臣の怠慢であります。小磯内閣は、為すなくして退陣し、代って鈴木内閣は、昭和二十年四月七日成立しました。その鈴木首相の人物、立派である事はいふまでもありませぬが、さて何をしようとされるのか、それが一向に分りませぬ。大廈将(タイカマサ)に倒れむとするに、悠揚迫らず出納帳つけてゐる番頭に似て、旧例古格口やかましい様な政府、例をあぐれば皇国正史編修の議、驚いた事には、昭和十八年の八月に閣議決定となり、私に協力を要請して文部省の企画課長が来訪したのが八月三十一日、それは不急不要なるのみならず、寧ろ有害であるとして、数箇条の難点をあげて中止を勧告しましたが、文部大臣は耳を傾けず、たびたびの会議に反対しましたが毫も反省なく、小磯内閣に引継ぎ、鈴木内閣に継承せられ、やがて発令せられて国史院創立を見たかと思ふ間もなく終戦となって、一切ご破算となった如き、先見の明なく、断行の勇なき、著しい例といふべきでありませう。
 他方、平和主義者の講話策は、極秘のうちに論議せられてゐましたが、是は亦、実に恥づべきものでありました。それを知りましたのは、徳永中将の懇請により、二十年六月三十日、海軍技術研究所に赴いて相談に応じた時からであります。研究所には、専門委員として大学教授等の学者を集めて審議を重ねて来たが、どうも心配だから私にも参加してほしいとの事でありましたので、七月六日、同二十日の二回出席して、研究報告の発表を聴きました。その内容は、くわしく記録して置きましたが、到底発表するに忍びざるもの、言語道断でありました。此のやうな説が、海軍の機関に入って堂々と陳述せられてゐるとは、説をなす者の不逞はいふまでもなく、国の衰へ窮まり、病はすでに膏肓に入ったものかと嘆息した事でありました。
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                     七十五 終戦(其の三)

 昭和二十年七月、大学より選ばれたる専門委員によって、所もあらう海軍技術研究所に於いて、滔々陳述せられたる研究報告が、言語道断の放言でありました事は、私をして国の健康状態のすでに危篤に陥ってゐる事を痛感せしめ、此の状態に陥るまで放置して、決戦の奮励もしなければ、終戦の努力も一向に見られざる当局の怠慢を嘆くのでありました。
 当時私が同士同学と共に米軍の撃破に鋭意奔走してゐましたのは、終戦阻止の為にあらずして、終戦を可能ならしむる為、そして彼に痛撃を与へる事によって、終戦の条件を少しでも善くしたいと願ったからであります。一年前の十九年六月二十五日、同学数名会合し、時局に就いて意見をまとめ、和平絶対反対といふに落着いた由、私に申し出た事があります。その時の私の答、手帳に控へがあります。
 「諸兄は宣戦の大詔を何と拝読せるや、陛下は初めよりこの戦乱の一日も早く終りて和平の再び来らん事を望ませ給ふ也、和平絶対反対などは、いふべき事にあらず、我等の考ふべきは、実にその条件に在り、(日露戦争の時など児玉参謀総長は出馬に際して、和平の事を政治家に依頼して出かけたり)」
 切迫せる戦勢と優柔なる政府、之を見くらべて嘆いてゐるうちに、二十年八月六日、広島に原子爆弾が落され、八日の夜、軍務局の畑中少佐西片町へ来訪、相談がありました。あくる九日、海軍軍令部より電話、昨夜ソ連宣戦布告、ソ連国境に戦始まった由、さては一昨日ソ連大使館にて庭の手入中なりと云はれたのは、機密書類の焼却であったのか、と驚いた事でした。九日午後一時半、徳永中将西片町へ来訪あり、事態緊迫、憂慮に堪へず、信頼し得る将士、陸海提携、国体の守護に当たるべしとして、御相談がありました。よって直ちに、陸軍の阿南大将に書状をしたため、同時に竹下・井田両中佐、畑中少佐にも手紙を届けました。その夜は憂憤の士数名西片町へ来訪、鳥巣氏と窪田少佐とは、そのまま一泊。夜中の三時に島田少佐より電話、人々の態度、それぞれの反応を報じてくれました。明くる十日、横須賀の海軍航空隊司令柴田武雄大佐来訪。その司令辞去して間もなく徳永中将来訪、情勢は甚だ悲観すべき事を告げられ、ついで書状を以て更に奮励すべき由、申越されました。
 よって十一日宮内省へ参り、宗秩寮総裁松平慶民子爵をたづねて、陛下の思召くはしく承りました。子爵は、政治的色彩の全くない無色透明、純忠至誠のお方で、御信任頗る厚く、間もなく宮内大臣に任ぜられた人であります。松平子爵によって宮中の御様子はよく分かりましたので、次には内務省へ行き、情報局に第二部長加藤祐三郎氏をたづねました。これは頗る有能な士で、ここ数日の複雑に紛糾せる問題を明快に記憶し分析して、戦争指導会議及び閣議の模様、一々掌を指すが如くに説明、そして最後に聖断は下り、連合国の申入を受諾する事に決したのです、と告げてくれました。よって其の日の午後、東大の研究室に於いて、数通の書状をしたため、之を全国各地主要の同学に告げました。十二日もつづいて書状をしたため、就中阿南大将には、「国内特に陸軍の一隅危激の輩、暴発妄動のおそれ有之、小生も力の及ぶ限り防止いたすべく候へども、微力にて不安に候、何とぞ閣下の御高配願上げ候」とお頼みしたのでありました。同時に竹下・井田両中佐及び畑中少佐にも、連名で一書を送り、「小さき事にこだわらず、大局に御着眼ありたく候、又右翼的妄動をせず、あくまで忠誠の臣として御奉公下され度、御依頼申上候」と頼みました。
 ・・・
 しかるに私が、しきりに暴発を誡めてゐるうちに、畑中少佐飛んで来て桑港(サンフランシスコ)放送を伝へてくれました。それによれば米国務長官バーンズは、連合国を代表して日本の降伏条件を承諾するといふのでありますが、その中に、日本の天皇及び政府は、降伏条件を実行に移す間、連合国最高指揮官に従属すべきものとし、日本国民は、国民の自由意思に従ふ政体を樹立すること許さる云々とあるのを見て、陛下に対し奉って、臣子の情まことに忍ぶべからざるものあると共に、一体連合国は、日本に天皇制廃止を強ひようとしてゐるのか、どうか、分からなくなり、非常に心配しました。そこで、畑中少佐と相談して、「陸海軍としては、天皇制の存続を保証せられないかぎり、応諾する事は出来ない」として、今一押し、押す態勢を取らうではないか、と云ふ事になりました。…
 ・・・
 あくる十三日午前九時半ごろ、研究室に畑中少佐来訪、その話によれば、今朝、首相は陸相を招いて、彼の回答は、言葉は拙なれども、趣旨は大体あれにてよしと云はれ、而して海軍大臣米内大将は、固く執って和平の進行を図りつつあり、此の上は海軍部内にて海相の更迭を計るやうにいたしたい、との事でありました。是に於いて私は、宮中の思召がいかにあるか、又軍がいかやうに分裂してゐるか、を知り得ましたので、
 「此の状態に於いて断乎として戦を遂行する為には、現実に必勝の兵器と戦術とあるを要す、その用意は」
と尋ねたところ
 「その用意はなし、只やるだけだ」
との答でありましたから、その軽率無謀を固く誡め、国家存亡の重大事、慎重に考へて足を踏みはづさないやうにしなければならぬ、と説きました。
 ・・・(以下略)

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悲劇縦走 平泉澄

2017年07月12日 | 国際・政治

  平泉澄は、戦後「悲劇縦走」の自序に、

開戦の昭和年、私はかぞへ年四十七歳、終戦の昭和二十年、私は五十一歳、年齢に於いて既に、国家に対して、最も重き責任を荷ふ者の一人であった。無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈であるが、不思議なる運命は、大学教授の私をして、その学問を通じて、政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与へしめた。
と書いています。でも私は、平泉澄は単なる学者ではなく、皇国日本の戦争遂行に欠かせないアジテーターであったがために、”政界にも軍部にも、深甚なる関係を結ばしめ、重大なる影響を与えしめた”のだと思います。だから、「皇国史観の教祖」と言われるのだと思います。
 日本の降伏を阻止しようと企図した「宮城事件」の首謀者の一人、陸軍少佐・畑中健二が、平泉澄の直弟子であることなどもそうしたことを裏付けているのではないかと思います。

 したがって、平泉澄の責任は決して軽くないと言わざるを得ません。
 平泉澄は、自身の国粋主義的な神国思想によって、深くかつ広く国民を思想的に引っ張り、異論や反論を許さない状況を作り出した中心的人物であり、また一方では、「一途に君を仰ぎまつりかしこみまつる至純の忠誠」を最高絶対の道徳として、 軍人の死も厭わない勇猛果敢な戦闘行為を精神的に支え、戦争を後押しする重要な役割を担ったのだろうと思います。

 見逃すことができないのは、その平泉澄が、下記の「内外の誹謗」の文章にあるように、戦後も、日本は「崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります」などと、日本の戦争を正当化していることです。
 そして、戦前・戦中には遠く及ばないでしょうが、戦後も執筆活動や講演活動を続け、「日本を守る国民会議」の結成に発起人として関わるなどしているのです。政権中枢に、その考え方を受け継いでいる人たちが、かなりいるのではないかと危惧します。

 日本人だけでも三百万人を超える犠牲者を出した先の大戦における責任を、自ら「無論私は、本来学者の身であって、政治、外交、軍事の方面に、何等の地位も権限ももたず、従って責任も軽い筈である」などと言えるのは、「神国日本」の思想家・平泉澄にとっては、赤紙で召集された日本兵や一般国民の死が、あまり問題ではないからだろうと考えざるを得ません。下記のような発言もあるのです。

 …この平泉の民族(人種)差別感は、中村吉治が1928年に卒論題目を平泉に相談したとき投げ返された「百姓に歴史がありますか」「豚に歴史がありますか」なる暴論と同じ根をもつものであろう。北山茂夫が1934年、平泉の自宅において「百姓が何百万おろうが、そんなものは研究の対象にはならない」と申し渡されたのも同様である。…(「天皇と戦争と歴史家」今谷明-洋泉社より)


 また、平泉澄は、「重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ」というのですが、文書が失われたのは、日本の政府や軍部が焼却処分を命じたからであることを意図的に無視しているように思います。敗戦当時、官房文書課事務官であった人が、『内務省の文書を全部焼くようにという命令がでまして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか判らないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で三日三晩、えんえんと夜空を焦がして燃やしました』と回想していることが、そのことを示していますし、文書の焼却は、機密文書が存在する様々な場所で行われ、多くの目撃証言があることを忘れてはならないと思います。

 大事な公文書が一年もたたずに廃棄されている事例が続出している安倍政権に対し、過去の反省はどこに行ったか、として2017年7月11日の朝日新聞天声人語に下記の文章がありました。
1945年にポツダム宣言を受諾した後、日本の軍人や役人たちには急ぐべき大仕事があった。公文書の焼却である。これから進駐してくる連合国軍に文書を押さえられては、戦争犯罪の追及に言い逃れができなくなる。火をつけてなきものにした…” 

 さらに、「一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れら場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります」というような主張も、とても受け入れ難いものです。体験に基づくものや証言をもとに考察された説得力のある史論がたくさんあると思います。

 下記に抜粋した「予期せざる友情」の中の、小学生との会話や小学校長との会話にも、何か不自然で、引っかかるものがあります。小学一年生の子どもが「君が代」を知らず「日本」という国を知らないと答えたのであれば、歴史学者であれば、普通、それが一般的状況であるのかどうを確認し、その背景を考察するのではないでしょうか。そして、そこから教訓を得ようとするのだと思います。でも、神国日本の来し方行く末を憂える平泉澄にとっては、事実の客観的把握や社会科学的な分析は無用なのかも知れません。
 また、小学校長が「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などと平泉澄に反論したということも、引っかかります。特に、「戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」などという言い方をするとは思えないのです。小中学校における道徳教育の問題に関する指摘を、「本能の是認…」などと言って歪めているのではないかと想像します。道徳教育は、価値観の強制である「修身」復活の側面があるため、問題視されたのではないでしょうか。

 「教職適格の審査委員会」におけるやり取りにも疑問を感じます。審問官に問われて、「博士(平泉澄)は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました」答えたというのですが、「中正の道」とはなんでしょうか。平泉澄は戦時中、「中正の道」を主張していたでしょうか。東条英機の依頼を受けて、士官学校で講義を繰り返すようになり、それが縁で、平泉・東条の結び付きが強くなっていったといいますが、平泉澄は、軍人相手に、「中正の道」を語っていたのでしょうか。

 古事記の神話抜きには成立しない歴史を語る平泉澄とって、歴史というものは、神国日本の来し方行く末と関わる「父祖の辛苦と功業」を子孫に伝え、子孫もまたこの精神を継承して進むためのものなのでしょう、その文章は、戦後もなお「皇国史観の教祖」と言えるもののように、私には思えます。
 科学の進歩が著しい現在、「日神(ヒノカミ)ながく統(トウ)を伝へ給ふ神国(カミノクニ)」を史実とする歴史が、世界に通用するでしょうか。

 下記は、「悲劇縦走」平泉澄(皇學館大学出版部)から抜粋しました。
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                     一 内外の誹謗

 ・・・
然るに此処に一つの問題となりますのは、大東亜戦争であります。此の大東亜戦争は、昭和の御代に於ける最大最重の事件であります。戦争そのものは、足掛五年で終りましたが、その源流を尋ね、その後遺症を辿りますならば、昭和の御代全体を葢ひつくすでありませう。従ってそれは、昭和の御代を代表する大事件として、当然此の時代の性格を決定するに違ひありませぬ。それ故に若し此の大戦争が、他国において誹謗せられ我国に於いても戦後は他国よりの非難に同調して、或は譏り或は慚愧してゐますように、侵略の欲心を起し、交渉の最中に奇襲をかけたりして、つまり野心と暴挙から戦争となり、殆どん全世界の袋叩きに遭ったのであれば、それによって代表せられ、それによって性格づけられる昭和の時代は、罪悪の時代であり、凶暴の時代と云はれても仕方ありますまい。もし果してさうとすれば、此の大戦の結末は、悲劇といふにも価しないでありませう。悲劇といふのは、正しい者、美しい者が苦しむから、見る人の心をうち、涙を誘うのであって、若し邪悪なる者が叩きつけられるのであれば、それは悲劇ではありますまい。
 
 然るにまことは日本、崇高なる理想をいだいて起ち、正義の旗をかざして進んだのであります。そしてそれが、常に他国の謀略によって歪められ、妨げられて、進退二つながら困難になるに及んで、やむを得ず一條の血路を開かうとしたもの、それが真珠湾の攻撃であり、プリンス・オブ・ウェールズの撃沈であったのであります。惜しい哉、国土狭小にして物資少なく、交戦四年五年と延びては、力殆んど尽きましたものの、その目標、その趣意に於いては、公明正大、他の誹謗を許さないのであります。此の重大事実を明かにする事は、昭代の為に自他のいはれなき非難を排除して、上は今生天皇の御為に、下は二百数十万忠勇の士の英霊の為に、報謝する道でありませう。しかし戦敗れたる国の常として、肝腎の責任者は、近衛公・東条大将を始めとして、殆んど皆非業の最期を遂げられ、重要なる文書も大抵失はれて、事実の究明、容易ではありませぬ。

  若し支那の昔、漢のように、政府に史官が置かれてゐて、重要なる文書記録を閲覧し、之を史料として歴史の編纂に従事する事が許され、否、許される所か、その権利が与へられ、それを義務づけられて居り、そして其の地位に太史令司馬遷の如き、卓越せる大歴史家が存在したならば、国家最高の機密に接触し、最大の方策を理解して、栄光の朝も、悲涙の夕も、崇高なる日本の理想を、その独創独自性に於いて表現し得たでありませう。然るに我国に於いては、文書記録の整備保存に当る官吏はあるにしても、之を基礎として歴史を組立てる事は、要求せられて居らず、許されても居なかったのであります。

  一方には歴史家と呼ばれる学者が、大学、又は民間に、数多くあります。然し大抵は現代と懸隔せる遠い過去に没頭し、普通現代人の難読難解とする古文書記録を操作して、之に解釈を与へるを以て本領とし、その点に於いてはすばらしい専門家も見えるものの、一たび時代の埒を越えて現代に足を踏み入れた場合には、大抵は新聞雑誌の論調に引摺り込まれて、何等の見識も無き付和雷同の境涯に陥るのであります。
 ・・・以下略
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                    六 予期せざる友情
 ・・・
 その頃、私は驚くべき事を発見しました。山路を歩いてゐて、小学校一年生の子供二三人と道連れになりました。話のついでに、「君が代」を知ってゐるかと尋ねましたところ、「そんな歌知らぬ」と答へました。「日本」といふ国は知ってゐるだらうねと尋ねると、「日本?そんな国、聞いた事無い」といひます。「アメリカは?」と聞けば「アメリカ?聞いたことあるね。」
 その頃ある県へ旅行して教育者の集まりに接触した事があります。その時、私に抗論したのは、三四人の小学校長でありました。彼等は強く主張しました。「道徳などは戦前の拘束だ、戦後の今は本能が是認せられてゐるのだ」

 或る県に於いては、教職適格の審査委員会に、左の如き審問が行はれました。問、あなたは平泉博士に私淑してゐると聞いたが、訪ねて行った事がありますか。答、あります。問、終戦後も会ってゐますか。答、お会いしてゐます。問、博士は軍国主義だ、戦争中はそれも意味があるが、今はどう思ひますか。答、博士は軍国主義でありませぬ。中正の道を説かれるのです。左右両翼を非として、常に正道を進むやうに教へられて来ました。問、吉田松陰をどう思ひますか。答、あなたはどう思はれますか。委員曰く、尊皇攘夷論者だらう。答、いや尊皇開国論者です。さればこそ、ペルリの船に乗ってアメリカへ渡らうとされたのです。
 右の審問は、昭和二十二年二月の事でありましたが、その前後、私の著書は、光栄にも吉田松陰全集と共に、荒縄に縛られて、学校の縁の下へ投込まれてゐるといふ噂が、其処此処にありました。不思議な事には、私自身は当時まだ追放処分を受けて居らず、二十三年三月、中央公職適否審査委員会にて決定の上、二十二日の官報に掲載せられたのでありますが、その理由は「国史の眼目」を著した事よろしからずとして、文筆追放に処するといふのでありました。「国史の眼目」の中の、どの箇所がいけないのか、明記してありませぬが、支那事変の意義を説いて、是れは背後にある所の露・英・米との戦であって、真の相手は支那では無いとし、「寧ろ日本の使命はそれ等の力に対して支那を救ふといふ点にある」と説いたのが、連合軍の不快とする所であったのではないか、など云はれてゐました。
 かういう時勢でありますから、国体とか、大義とか、忠孝とか、いふ言葉は禁物になり、忠烈の英傑を祭る事はうしろめたく思はれていましたのに、珍しいのは伊知地に於ける畑将軍のお祭りでありました。畑時能(トキヨシ)の事蹟は太平記に見えてゐますが、南風競はず、北陸に於いては宮方の勢力衰へて賊軍猛威を逞(タク)ましくした時に、わずか二十人前後の兵を以て足利の大軍に対抗し、さんざんに之を悩ました勇将であって、是の人戦死してより後は、北国の官軍また振はなかったとあります。その最後の拠城が鷲ヶ獄であり、その麓にあるのが伊知地の村であります。村では古くより秦荘軍の墓を祭り、戦前六百年祭を挙行しました時には、参集二万人、村の草創以来初めての賑と謳うはれました。そのお祭、戦後になっても続けて行ふからと云って、村長自ら迎へにこられ、毎年十月二十五日、墓前祭に参列しました。村長、前村長、区長、村のお歴々みんな揃って、楽しいお祭りでありました。
 ・・・以下略

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自主憲法 マッカーサー憲法 平泉澄

2017年07月06日 | 国際・政治

 平泉澄は「国体と憲法」のなかで、

憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。

と書いていました。
 関連して気になるのが、改憲の動きを本格化させている安倍政権のいわゆる「自主憲法」の内容です。特に現在、憲法に関して世間で注目され議論されているのは、「前文」や「第九条」に掲げられた平和主義の問題であり、自衛隊の問題ではないかと思います。でも、同時に見逃すことができないのは「自主憲法」が、戦前・戦中の神国思想に基づく「国体」を取り戻そうと意図しているのではないかということです。
 今は、まず改憲することが課題のようで、平泉澄のように、露骨に「欽定憲法」を持ち出したり、「日本国憲法」を「マッカーサー憲法」と表現したりはしていません。しかしながら、改憲しようとする人たちの考え方は、平泉澄の考え方と大きく異なるものではないように思われます。したがって、改憲が意図するところを見定めず、「憲法」は時代に合わせて変えられて当然などと、簡単に「改憲」を認めることは、いかがなものかと思います。
 また、「日本国憲法」は「押しつけられた憲法」であるとして、改憲を認めるのも、問題があると思います。たしかに、日本国憲法には手続上の問題もあるかも知れません。でも、大事なのは多くの国民が、日本国憲法の平和主義を支持し、「自主憲法」が意図するような改憲を望んではいないということだと思います。

 平泉澄は、明恵上人を「最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だ」と高く評価し、下記のように「国家の命脈」の中で、明恵上人が北条泰時を叱りつけたときの言葉を引いています。でも私は、
一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべくんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし
などという明恵上人の考え方は、とても受け入れることができません。そして、日本軍の人命軽視は、こうした神国思想の考え方と深く関わっているのではないかと思います。

 戦時中、役所の関係者が、「おめでとうございます」と言って「赤紙」(召集令状)を渡したり、赤紙によって戦地へ向かわなければならない人が「ありがとうございます」と答えて受け取ったり、出征する若者を地元関係者が「万歳」で送り出したりしたことなども、天照大神の末裔である天皇が現人神とされていた「神国日本」だからこそ可能だったのではないでしょうか。「おめでとうございます」も「ありがとうございます」も「万歳」も、自然な日本人の感情の表現だったとは思えません。 

 あるジャーナリスト(倉田 宇山氏)が、取材でフィリピンのセブ島を訪れ、遺骨を掘り出す作業をしていた現地の人に、「戦後、大きな復興を遂げて経済大国となった日本が、何故フィリピンの民家の裏山に遺骨を放置しているのですか? フィリピンは貧しい国ですが、その多くはクリスチャンです。クリスチャンは遺体を火葬しないので、どんなに貧しくて立派な墓石が建てられなくても、たとえ土饅頭であっても、お墓を造ってそこに遺体を埋葬します。日本人は自分たちの祖国を守ろうとして頑張ったナショナル・ヒーロー(民族的英雄)を放置するのですか?」と言われ、”皆さんだったら、どうお答えになりますか? 私は、答える言葉がありませんでした。”と投げかけていましたが、皇軍兵士は、天皇のために死ぬことを喜びとしなければならなかった結果ではないかと、私は思います。現地の人にとっては、アメリカ軍は、戦闘が終われば米兵の遺体はすべて引き上げて持って帰ったのに、日本軍はなぜ兵士の遺体や遺骨を放置するのか、その違いが不可解だったのだと思いますが、それは、やはり神国思想を抜きには理解できないのではないかと思います。


 軍人勅諭には「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ」とあります。また、教育勅語には「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」とあります。皇軍兵士は、文字通り「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼ス」べく、自ら「鴻毛よりも輕い」命を捧げたという考え方なので、戦地の遺骨収集にはあまり熱心ではなかったということではないでしょうか。
 出征兵士が、ほんとうに日本国民のために戦わなければならないと自覚し戦死したのであれば、また、送り出した人たちが、ほんとうに出征兵士が自分たちのために戦って死んだのだと受けとめていれば、遺骨が長く放置されることはないのではないかと考えるのです。
 改憲の意図するもの、特に神国思想の復活の兆しを見逃してはならないと思っています。

 下記は、「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から抜粋しました。

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                     国家の命脈                   
 ・・・
 次に武家時代におきましては、我が国の国体が著しくそこなわれて居りましたことは、長い間、われわれの先輩が慨嘆した通りであります。ただし私は、鎌倉幕府においても、源頼朝あるひはその子、実朝といふ源氏の二代の将軍は、これは全然別のものだと思ひます。いはゆる武家政治の中に入るにしましても、ほかの武家とは全然趣を異にするものである。日本の国体におきましては、これらの人々は何びとにも劣らない、最も純粋にして清潔なる考へを持って居たと思ふのであります。
 それは、平家が亡びまして、すでに天下が頼朝一人の武力に服しましたときに、頼朝が申しました言葉、文治元年の六月に、尾張のある武士が、勅命にそむきましたときに申しました言葉でありますが、「綸命(リンメイ)に違背するの上は日域に住むべからず」貴様は、天皇の勅命にそむくつもりか、それならば日本の国に居てはならぬ、この国を出て行け。これが頼朝の言葉であります。日本の国体は、当時最も危殆に瀕してをりましたが、それが頼朝のこの一言によって天下は治まったのであります。すばらしい言葉と言はなければなりません。

 これは吾妻鏡文治元年六月十六日の条に見えてゐます。尾張の玉井四郎助重に対して、頼朝の申付けましたのは、「綸命に違背するの上は、日域に住すべからず、関東を忽緒せしむるに依りて、鎌倉に参るべからず、早く逐電すべし」といふ強硬なる裁断でありました。

その子、実朝に至りましては、御承知のごとくに「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも」といふ歌を詠んでおります。この歌の意味するところは実に深刻であります。これは当時、後鳥羽上皇をはじめとしまして、朝廷におかれましては政権を朝廷に回収せられる御計画がございました。そして実朝に対して密かに連絡をおとりになりまして、実朝をさとして大政を奉還せしめる御計画があったのであります。そのときの歌でありますが、きわめて簡単な歌でありながら、非常な決意をもって勅令に随順奉る意思をここに表明しております。「山は裂け、海はあせなん世なりとも、君に二心、わがあらめやも。」当時、実朝をして大政を奉還しようとしますならば、鎌倉は一瞬にして血の海と化するでありませう。北条は必ずこれに反対するに決まってをります。鎌倉においてはすぐに殺戮が行はれるであらう。さういふ非常な事態を予想して「山は裂け海はあせなん……」かう詠んだのであります。どんなことが起こるかもしれませんが、陛下の勅命には絶対に随順し奉る考へでございますといふことを申し上げたのであります。事は外に漏れたでありませう。彼は間もなく北条の陰謀によりまして、鶴岡八幡宮の社前に暗殺されるのであります。
 ・・・
 その実朝を殺して天下をわがもの顔に振舞はうとしました北条、やがて大軍を提げて京都をおかすのであります。東海道を攻めのぼるもの十万、東山道五万、北陸道四万、合わせて十九万騎を急速に出発せしめまして、京都を攻撃いたしました。そしてやがてお三人の上皇を島々へお流し申し上げたのでありましたが、その非違をあへてしました北条泰時に対して、真向からこれを叱りつけられたのは、栂尾(トガノオ)明恵上人 (ミョウエショウニン)でありました。この明恵上人は、わが国仏教史の中において、もし十人の高僧をとるならばその十人に入り、五人を選んでもその五人の中に入りませう。最もすぐれたる人物の一人であり、ことに日本思想史のなかにおいては最高の地位に位する人だと思いますが、その明恵上人が、泰時を叱りつけて言ふには「一朝の万物はことごとく国王のものにあらずといふことなし」。およそ日本の国にあるものは全部陛下のものであって、それをわれわれは拝借して使わせてもらってをるに過ぎないのである。したがって、もしこれをよこせといふ勅命があれば、どんなものも差しあげてしかるべきである。もしこれを背くべくんば、この朝の外に出、日本の朝廷の御稜威の外に出て、天竺、震旦(シンタン)にも渡るべし。 支那にも、印度にも行くがよい。これは頼朝の言葉と明恵上人の言葉と全く同じことであります。「勅命に違背する者、日本に住すべからず」出て行くがよい。この言葉をもって泰時を叱ったのでありました。
 明恵上人が北条泰時を諭した事は、栂尾明恵上人伝記に見えてゐます。「忝(カタジケン)くも我朝は、神代より今に至るまで九十代に及んで世々受継ぎて、皇祖他を雑(マジ)へず、百王守護の三十番神、末代といへどもあらたなる聞(キコエ)あり、一朝の万物は悉く国王の物に非ずと云ふ事なし、然れば国王として是を取らしむを、是非に付いてまんずる理なし、縦(タトヘ)無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕(ハラ)まゝ類、義を存せん者、豈いなむ事あらんや、若(モシ)是を背くべんば 此朝の外に出で、天竺震旦(シンタン)にも渡るべし、伯夷叔斎は天下の粟を食はじとて、蕨(ワラビ)を折りて命を継ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰(ツ)められて、其理必然たりしかば、蕨も食せずして餓死したり、理を知り心を立てる類、皆是の如し、すれば公家より朝恩召放たれ、又は命を奪ひ給ふと云ふとも力無し、国に居ながら惜み背き奉り給ふべきに非ず、然るを剰(アマツサ)へ私に武威を振て官軍を亡ぼし、王城を破り、剰(アマツサ)へ太上天皇を収奉て遠島に遷し奉り、王子后宮を国々に流し、月卿雲客を所々に迷(マド)はし、或は忽ちに親類を別れて殿閣に叫び、或は立所(タチドコロ)に財宝を奪はれて路巷に哭する躰を聞くに、先づ打見る所、其理に背けり、若理に背かば冥の照覧、天の咎め無からんや、(中略)なみなみの益を以て此罪を消す事有るべからず、是を消す事なくば、地獄に入らんこと、矢の如くならざらんや。」

 かういふ古いところのいろいろの事実をみてきまして、日本の国体がいかなる人々により、いかに重大な決意をもって守られてきたかといふことを考へまして、さて今日の問題に及ばなければならないのでありますが、徳川時代になりますと、足利は言ふまでもありませんが、徳川の世におきましても、この国体の大義は
幕府の全体としてはほとんど無視せられてきたのであります。これは慨嘆の至りであります。武家全体としては、前の源氏の二代は全く別格であります。それ以外は日本の国体においては、ほとんど理解するところがないといってよい。
 ・・・以下略 

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改憲 平泉澄 「国体と憲法」

2017年07月02日 | 国際・政治

 しばらく前に、YouTubeの動画をみて驚きました。平成24年5月10日 憲政記念会館で、第3回創生「日本」東京研修会が行われ 長勢甚遠・第一次安倍内閣法務大臣が、「国民主権、基本的人権、平和主義、これをなくさなければ本当の自主憲法ではないんですよ」と発言している動画です。安倍総理や下村元文科大臣、稲田防衛大臣などの閣僚が顔を揃えているのですが、みんな咎めるどころか拍手をしています。私は、どういうことなのか意味がよく分かりませんでした。でも、皇国史観の教祖といわれる平泉澄の書いた文章をいくつか読んで、少しわかったような気がしてきました。

 平泉澄は、戦前・戦中大学で講義するのみならず、軍人相手に講演をしたり、「青々塾」を開き門下生に指導を繰り返したり、皇族に進講したりして、まさに皇国史観の「教祖」の如く大活躍をしましたが、戦後もその主張を変えることなく様々な論文を書き、講演を繰り返したようですので、今尚多くの人がその影響下にあるのではないかと思います。上記の日本国憲法の三大原則である「国民主権」「基本的人権の尊重」「平和主義」を否定するような発言や教育勅語擁護の発言を、平泉澄の下記のような文章と考え合わせると、改憲を急ぎ、「日本を取り戻す」と主張する安倍総理や関係者の最終目標は、「萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ」ところの「一大家族國家」の日本であり、再度の「王政復古」なのではないかと想像します。

 日本国憲法を蔑ろにするような閣議決定や問題の多い数々の法案の強行採決は、平泉澄が、下記の「国体と憲法」で、「マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。」と書いているような考え方が背景にあるからではないでしょうか。

 平泉澄の文章には、しばしば明治維新の精神的指導者といわれる吉田松陰が出てくるのですが、資料2は、その吉田松陰の「士規七則」と平泉澄のまとめ部分の一部です。「人ノ人タル所以ハ忠孝ヲ本トナス」ということの意味を考えないわけにはいきません。

 下記は、「先哲を仰ぐ」平泉澄(錦正社)から抜粋しました。漢字の旧字体は新字体に変えました。平仮名表記は、できるだけ変えないように努めました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       国体と憲法 
 ・・・
 今憲法について考へますに、われわれが個人個人の感情を述べ、意見を通して議論いたし、構想を練らうといたしますならば、各人各様の意見が出まして、到底まとまるものではあるまいと思います。これについて参考にすべきものは、幕末の俊傑、然もわが国古来幾千年の間における最大の俊傑の一人であります橋本景岳の国是の論であります。この国是の論は、安政三年の四月二十六日に中根雪江送りました手紙の中に見えておりますが、「国是と申す者は、国家祖宗の時、既に成り居り候にて、後代子孫に在りては、其の弊を救ひ候へば宜しき義に御座候。子孫の代に在りて別段国是を営立すると申す例もなく、道理もなし」かういふことを申してをります。すなわち国体とか国是といひますのは、今日は憲法とか国家の大方針とかいふ意味でありますが、これは歴史がこれを決定してをるものであって、後世子孫のときになって勝手にこれを構想すべきものでないといふことを言ってをるのであります。
 なほこれについて私見を申し上げることをお許し願ひたいと思ひます。世間にはマッカーサーの憲法を用ひましても国体は変らないと説かれる方もだんだんあるやうであります。それは恐らくやはり皇室のために憂ひを抱き、日本の国を愛する誠意から出てをるのであると思ひます。私はさういふ方々の誠意を疑ふわけではございません。しかし私ども学者の末端に列する者として、恐るるところなく事実を直視したしますならば、かくの如き考は耳を抑へて鈴を盗むの類でありまして、若しマッカーサー憲法がこのまま行はれてゆくといふことでありますならば、国体は勢ひ変わらざるを得ないのであります。民主主義はこれを強調する、天皇はわづかに国の象徴となっておいでになる。歴史は忘れられ家族制度は否定せられてゐる。現在のみが考へられて、歴史は考へられず、家族制度は無視されて個人のみが考慮せられ、人権はほとんど無制限に主張せられ、奉仕の念といふものはない。その限りなく要求せられる個人の権利の代償としては、ただ納税者の義務のみが明らかに規定せられてをる。忠孝の道徳の如きは弊履の如くに棄てて顧みない。かくの如き現状において、日本の国体が不変不動であるといふことは萬あり得ないところであります。マッカーサー憲法によりましても、国体の不変を信じたいといふ、その善意は了解できますけれども、しかしながら、その希望に拘わらず、この憲法並びにこの憲法に基く幾多の法令の下におきましては、日本の国体は変動し、変化してゆくことは如何ともし難いのであります。論より証拠、この憲法の下につくられてをります幾多の歴史教科書、それは文部省の検定を経てをるものでありますが、それらは根本において共産主義の歴史理論を採用し、日本人でありながら祖国の歴史を侮辱し、嫌悪し、罵詈雑言してをるのであります。文部省の検定を経たものにして猶且さやうでありますから、世間に氾濫してをる俗書の中に、天皇を誹謗し皇室を侮辱するものの多いことは如何とも致し方のないことであります。私は先年、近衛公が、支那の教科書が公然と排日侮日の記事を連ねてをり、日本国の排斥をもつて支那の国の教育方針としてをることを憤慨し痛憤せられまして、かういふ例が世界の何所にあるであらうか、かう言って憤激せられたのを覚えております。近衛公の憤激の声は今猶私の耳に残ってをるのでありますが、それは然し支那の教科書でありました。今日見るところ、わが国の教科書が日本の歴史を侮蔑し、蹂躙して憚らないのは一体これを何といふべきでありましょう。今現状につきましては、一々申し上げることは致しません。過去一箇月の中に起こりました幾多の紛乱を見ますと、かくの如きものが一体国家であらうかといふ感じを私どもは深くするのであります。国体の根本は動揺し、国家の方針はたたず、国家の威信といふものが地を払ってをるのであります。この威信をとり戻し、国家の大方針を立て、国体の根本を確立しようといふならば、三千年の歴史の上に思ひを致さなければならず、この三千年の歴史の上に考へをいたしますときにおいては、先づ第一に明治天皇の欽定憲法に立ち還るの外はないのであります。
 殊に事理の明白に考へられますことは、国軍再建の問題についてであります。凡そ軍隊は潔く死地に入り、喜んで一命を捧げる覚悟をもって始めて軍隊といふことが出来るのであります。生命を捧げることを拒否する軍隊、即ち戦意なき軍隊といふものは、われわれの考へ得ざるところであります。而して今日聞くところによれば、保安隊中、宣誓を拒否する者、約七千人に及ぶといふことでありますが、かかる戦意なき軍隊がどうして出来たかといへば、蓋しこれは国本立たず、国体くづれてをるがためでありまして、かくの如く世界において重大なる恥をここにさらしてをるのであります。かつて浅見絅齋はかういふことを申してをります。「国天下を治むるには、先づ、国是を早く極めて、上下共に其の旨を明らかに知らしめ置く事第一なり、治世は固よりなり、別して乱世に及びては、上下の心ばらばらに成りて、躁ぎ動き易き時なれば、上下一体の合点立たずしては、一言の下知成り難し」、この国全体が一つの目標の下に立ち、一つの精神で統一されてをらないといふことであれば「緩急の間、必ず頽れ立ちて、また取返すべきやうなし」、かう言って、国是を立てることを根本において重要なこととしてをります。支那におきましては、宋の高宗が狐疑逡巡しまして、国是をきめるだけの気力、気迫を持たず「ぐらぐらするほどに上下が離れて、あれのなれの果を見よ」─ かう痛論しまして、国是の立たないところ、国全体がひとつの精神で統一されないところは必ず崩壊する、その国は必ず滅亡するといふことを説いてをるのでります。日本国を今日の混迷から救ふもの、それは何よりも先に日本の国体を明確にすることが必要であります。而して日本の国体を明確にしますためには、第一にマッカーサー憲法の破棄であります。第二には明治天皇の欽定憲法の復活であります。このことが行はれて、日本がアメリカの従属より独立し、天皇の威厳をとり戻し、天皇陛下の万歳を唱えつつ、祖国永遠の生命の中に喜んで自己の一身の生命を捧げるときに、始めて日本は再び世界の大国として立ち、他国の尊敬をかち得るのであります。
 憲法の改正はこれを考慮してよいと思ひます。然しながら改正といひますのは、欽定憲法に立ち戻って後の問題でありまして、マッカーサー憲法に関する限り、歴史の上よりこれを見ますならば、日本の国体の上より見るならば、改正の価値なし、ただ破棄の一途あるのみであります。
 以上は日本の歴史より考へ、日本の国体より考へ、日本の命脈より考へ日本の道徳より考究して得た結論であります。然るに若し更に視野をひろめまして、世界史的見地に立って、各国亡盛衰の跡より考察し、殊にフランス革命、マルキシズム、アメリカンレボリューションの跡に思をいたしますならば、ここに述べましたところは、これに十倍し百倍する重みを加へまして、われわれにこの信念を確固たらしめるのであります。而してこのことは、明治欽定憲法に貢献するところ多かったドイツ人ロエースレルの「仏国革命論」といふ著述のありますことを見ますときに意義の殊に深きを覚えるのであります。(昭和二十九年六月三十日)
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     士規七則講義

 ・・・
 吉田松陰「士規七則」
冊子ヲ披繙(ヒハン)スレバ、嘉言林ノ如ク、躍々トシテ人ニ迫(セマ)ル。顧(オモ)フニ人読マザルノミ。即チ読ムモ行ハザルノミ。苟モ読ミテ之ヲ行ヘバ、則チ千万世ト雖モ、 得テ盡スベカラズ。噫(アア)復(マタ)何ヲカ言ハン。然リト雖モ、知ル所アリテ言ハザル能ハザル人ノ至情ナリ。 古人諸(コレ)ヲ古(イニシヘ)ニ言ヒ、我今諸ヲ今ニ言フ。亦詎(ナン)ゾ傷(イタ)マン。
士規七則ヲ作ル
一、凡ソ生レテ人トナル。宜シク人ノ禽獣ト異ナル所以ヲ知ルベシ。蓋シ人ニ五倫アリ、而シテ君臣父子ヲ最大トナス。故ニ人ノ人タル所以ハ忠孝を本トナス。

一、凡ソ皇国ニ生レテハ、宜シク吾宇内(ウダイ)ニ尊キ所以ヲ知ルベシ。蓋シ皇朝ハ万葉一統ニシテ、世々禄位(ヨヨロクイ)ヲ襲(ツ)ギ、人君ハ民ヲ養ヒテ、以テ祖業ヲ続ギタマフ。臣民ハ君ニ忠ニシテ、以テ父ノ志ヲ継グ。君臣一体、忠孝一致、唯吾国ヲ然リトナス。

一、士ノ道ハ、義ヨリ大ナルハナク、義ハ勇因リテ行ハレ、勇ハ義ニヨリテ長ズ。

一、士ノ行ハ、質実欺カザルヲ以テ要トナシ、巧詐過(コウサアヤマチ)ヲ文(カザ)ルヲ以テ恥トナス。光明正大皆是ヨリ行ズ

一、人古今ニ通ゼズ、聖賢ヲ師トセザルハ鄙夫(ヒフ)ノミ。読書尚友ハ君子ノ事ナリ

一、徳ヲ成シ材ヲ達スル、師恩友益多キニ居ル。故ニ君子ハ交遊ヲ慎ム。

一、死シテ後巳ムノ四字ハ、言簡ニシテ義広シ。堅忍下決、確乎トシテ抜クベカラザルモノハ、是ヲ舎(オ)キ術ナキナリテ

 右ノ士規七則、約シテ三端トナス。曰ク、立志以テ万事ノ源トナシ、撰友以テ仁義ノ行ヲ輔(タス)ケ
、読書以テ聖賢ノ訓(オシヘ)ヲ稽フ。士苟クモコゝニ得ル有ラバ、マタ以テ成人トナスベシ

右の士規七則は、要約して三つにのことになります。志を立てることが万事の根本であり、交友をあらぶことが仁義の道を行ふのを助けることになり、読書することが聖賢の教を学ぶ道であるといふことであります。こゝに聖賢といひますのは、支那の聖人賢者のみでなく、日本の聖人を含んゐます。我々は今日、楠公を仰ぎ、北畠親房公を仰ぎ、吉田松陰先生を仰ぐことによって、益々道を学び、弘めてゆかねばなりません。

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