真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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明治維新、徳川慶喜の回想と会津、+ウクライナの戦争

2022年03月13日 | 歴史

 薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、
”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る
 というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。
 本来、徳川慶喜 が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。ところが、薩長を中心とする藩閥政権が、あくまで会津や庄内を討伐する姿勢を貫いたため、奥羽越列藩同盟が軍事同盟になってしまったという歴史の事実は見逃されてはならないと思います。

 また、薩長藩閥政権側の攻撃は、あまりに残酷非道なものだったと思います。抵抗する会津兵のみならず、武士はもちろん、無抵抗の町人や百姓、逃げ惑う老若男女まで見境なく斬り、撃ち殺したというのです。おまけにその死体の埋葬を許さず、放置させたといいます。そして、最終的には、ニ十八万石の会津藩を滅藩とし、北の果ての下北の地に追いやったのです。それが斗南藩三万石(実質七千石)といいます。だから私は、薩長藩閥政権が、逆らうものは徹底的に潰し、再び逆らうことができないようにしたのだと思います。私は、その野蛮性がその後、朝鮮や中国に向い、日本の敗戦まで続いたように思っています。

 問題は、その薩長藩閥政権の流れを受け継ぐ政治家が、現在、再び政権中枢で勢力を拡大し、”日本を取り戻す”などとうキャッチコピーを掲げて、戦後民主化された日本を、着々とつくりかえつつあるということです。

 だから私は、明治維新にこだわっているのですが、今回は、「徳川慶喜のすべて」小西四郎(新人物往来社)から、徳川慶喜自身の回想の言葉をいつくか抜萃しました。 

 前稿で、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から
鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。
 という文章を引きました。会津藩士のこうした思いは、当然のことだと思います。
 徳川慶喜が自ら、二条城を出て大坂城に移った時、下記に抜萃した文章にあるように、大坂城にイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を招き、”王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだ”と主張ています。
 そして、強気の姿勢を見せ、幕兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」と命じたといいます、でもその夜、慶喜は、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまったというのですから、それは、裏切り行為に等しいものであったように思います。だから、徳川慶喜の、そうした一貫しない姿勢が、”豚一が弱いために敗北した”というような思いを抱かせることになってしまったのではないかと思います。

 下記の回想を読むと、幕府側が決して一枚岩ではなかったことがよくわかります。特に徳川慶喜が、浮いた存在であったような気がします。でもそれは、薩長を中心とする尊王攘夷急進派の欺瞞に満ちた戦い方を知悉している徳川慶喜に、大きな不安があったからではないかと想像します。
 徳川慶喜は、身近にいた幕臣の多くを殺され、失っています。そしてよくその寂しさを側近に語っていたようです。巧みに朝廷の権威を利用する尊王攘夷急進派は、テロを繰り返す残酷な集団でした。だから、抵抗を続けて敗けると、幕府側の人間が皆殺しにされるような悲惨な事態に至るのではないかという不安に苛まれていたのではないかと思います。そうした事態を避けるためには、自分が何といわれようと、戦いを止め、恭順の意志を示す必要があるという考え方をしたのではないか、と想像します。そうでなければ、聰明で知られる徳川慶喜の矛盾に満ちた態度は、理解できないように思います。

 ウクライナ戦争に関しては、アメリカの影響下にある日本では、ウクライナに侵攻したロシア非難一色のような気がします。でも、ロシアを非難することが、ウクライナの戦争を支援することになってはいけないと思います。戦争を止めることが、最重要課題であると思います。だから、ロシア軍がなぜウクライナに侵攻したのかということをつきとめ、その経緯を明らかにして、話し合いに持ち込む努力が続けられなければならないと思います。
 アメリカが、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止しようとする意図をもって、ノストストリーム2の運用を妨害するような動きを続けていたという情報が気になります。また、その合法性も気になります。
 さらに、プーチン大統領がくり返している、東西ドイツ統一の際のNATO東方不拡大の約束の詳細も気になります。そうした事実が、きちんと国際組織の法律家によって聴取され、明らかにされて、客観的に検証される必要があると思います。そして、武力的ではなく、法的に解決される道を模索してほしいと思います。
 アメリカやNATO関係国に追随し、ロシア軍のウクライナ侵攻を根拠に、ロシアを屈服させようとする力の政策は、戦争の被害を拡大することになるように思います。武器の供与はもちろん、厳しい経済制裁も、個人資産の凍結も、防弾チョッキやヘルメットの供与も、あらゆる組織からのロシア人の排除も、戦争の被害拡大につながるものではないかと思います。
 こうした国際的な争いは、武力衝突に至る前に、第三者的立場に立てる法律家が対処するシステムを、一日も早く確立してほしいと思います。軍人や政治家に任せると、どうしても武力衝突になる傾向があるように思います。
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                  最後の将軍徳川慶喜と戊辰戦争
                                               佐々木克
 慶喜回想
『昔夢会筆記』は、徳川慶喜晩年の回想談速記録(部分的には談話をもとにした筆記)である。
 三十歳にして、慶喜は自らの責任で、幕府終焉の幕を引いたが、以後延々と、かつての政敵の演ずる、見たくもない芝居を見続け、四十年という巨大な空間を経たあとで、彼は自分の幕末史を振り返ってみせたのである。

 大政奉還
 明治四十四年(1911)に行なわれた談話聴取の席で(『昔夢会筆記』第十三)井野辺茂雄が徳川慶喜に、大政奉還について質問した次のような問答がある。(公は徳川慶喜)
 
井野辺 次を伺います。大政を御奉還になりました時に、その後の御処分はいかが遊ばさるべきお考えでございましたろうか。将来における徳川家のお立場についてのその時の御決心を伺いとうございます。
公 それは真の考えは、大政を返上して、それで自分が俗に言う肩の力を抜くとか安を偸むとかいうことになって(「は」脱か=引用者註)すまない。大政を返上した上は、実はあくまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷の御差図を受けて国家のために尽すというのだね、精神は。それで旗本などの始末をどうするとかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からはこれまでどおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。後で家来をどうようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった。
井野辺 あの頃山内容堂などの計画では、議政府というものを設けまして諸大名・旗本・諸藩士、そういう者から俊才を抜擢して、会議制度で政治をやって行こうという案でございます。容堂の腹の底では議政府の議長みたようなものを御前に願って、やはり徳川家が政治の中心であるかの如き形でやってゆきたいというような計画をいたしておりまして、何かそんな風の事柄につきまして……。
公 何かあったか知らぬが、しかしそれは容堂の方にあるのだ。こちらにはない。すべて返上した以上は、朝廷の命を奉じて何でもやろう、こういうだけの精神だ。それまでのことだ。他にはいろいろ何もあっただろうけれども、それは他の方の話で、関係ないことだ。

 ・・・
 …この談話から五か月後、慶喜は「王政復古の基礎を立てられるべきについてはいかなる御成案あらせられしか伺いたく候」と質問され、以下のように答えている。

 予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。如何とされば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とても同様なり。さりとて諸藩士にてはまだ治まるべくとも思われず……(『昔夢会筆記』第十四)

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                    慶喜の戊辰戦争
 ・・・
『昔夢会筆記』(第十五)で、中根雪江から王政復古のクーデターの計画を聞いた時の事を、慶喜は次のように述べている。

 中根が二条城に来りて、近日王政復古の大号令を発し、関白、将軍、守護職、所司代みな廃せらるるに至るべしと、眼を円くして語れるは事実なり。この時は人払いにて聴たるやに覚ゆ。されど予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職をも辞したれば、王政復古の御沙汰あるべきは当然にて、王政復古にこれらの職の廃せられんこともまた当然なり。
中根退きて後、予は板倉伊賀守を呼びてその旨を告げ、「この上何事も朝廷のままに従う事、なお従来諸大名が幕府の命に従いしがことくすべし」といいしに、板倉も至極同意にて「謹んで朝命をさえ御遵奉遊ばされなば、それにてよろしかるべし」といえり。されど会桑はとうてい承服すべきにあらざれば、これを聞かせては面倒なりと思いて、いまだこれを洩らさず……

 この談話にも表われているが、慶喜には討幕派と一戦を交えようとする意志はなかったように思える。強硬派の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬には内密にしておいた事がそれを物語っていると言えよう。この両藩こそ、在京幕府兵力の中核であった。十二日に二条城を出て大坂城に移った時も、この両者には「遅速緩急あるも、必ず彼が罪を問う可し、予に深謀あり、然れども事密ならざれば敗る、今明言す可らず」(『七年史』下巻)といい、有無をいわさず、大坂に連れて行ったのであった。「あれを残しておけば(戦争が=引用者)始まる」(『昔夢会筆記』)第五)というのが慶喜の理由である。
 討幕派の罪を問うとか、深謀があるとか、慶喜は含みのある言葉で強硬派をなだめて、下坂した。会津・桑名両藩主をはじめ、幕府の主戦派は、慶喜が大坂城に拠って陣容を補強して反撃に移るだろうと期待し、大久保利通ら討幕派の首脳部でさえ、そう見ていた。
 確かに、大坂城に移ってからの慶喜は、強気の姿勢を見せている。十六日、彼は大坂城でイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を引見したが、そこで、王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだと主張していた。
 一方討幕派の方であるが、王政復古を宣言したものの、政府の組織も整わず、財政的裏付けもなく、政府部内の意志統一も今一つであった。それに、慶喜の辞官・納地のやり方をめぐって、議論が分かれ、次第に公議政体派の方が力を盛り返して、岩倉具視さえも、慶喜の処分をめぐって軟化しだした。慶喜が自ら上京して、辞官と納地を上奏するならば、慶喜を、王政復古政府の一員たる議定に就任させてもよいとまでいい出した。限定つきではあるが、公議政体派の運動によって、慶喜復権の兆しが見え出して来ていた。
 しかしそれでは、討幕派は承知しない。彼らの目的は、あくまでも幕府を排除した薩長討幕派政権の樹立でなくてはならないのだ。そうでなければ、何のための討幕挙兵であり、クーデターであったのか無意味になる。王政復古政府内における討幕派は、下手をすると少数派に追い詰められそうな気配が見え出し、また大坂城を根拠とする幕府軍への恐怖感もあって、次第に焦燥感を強くしていった。討幕派は何かしら局面打開の突破口を見いださねばならなくなっていた。
 そうした時に起ったのが、西郷隆盛が指揮する薩摩藩関係者による、江戸市中擾乱工作と、それに対する幕府側の攻撃、すなわち、ニ十五日、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き打ち事件であった。慶喜の目の届かぬ江戸で起こったとはいえ、幕府側は、まんまと薩摩・討幕派の挑発に引っかかってしまったのである。こうなったら戦争しかない。
 薩邸焼き打ちの報が大坂城にとどいたのが、暮のニ十八日、城内は蜂の巣をつついたようになった。もはや慶喜も、激昂する会・桑その他幕府側兵士を抑えきることができなかった。おりから慶喜は、辞官・納地を上奏するため上洛の準備中であり、軽装で(つまり小人数を従えて)上洛するともりであったが、勢いづいた幕兵は「残らず行け」という勢いになってしまった。ついに戦争である。年が明けた正月二日、幕兵は伏見まで進んだ。先鋒となった幕府大目付滝川具挙は「討薩の表」を持っていた。翌三日、鳥羽と伏見において、戦争が始まる。幕府崩壊を決定づけた戦争であった。
 当時の状況について、慶喜は次のように回想している。
「それ(討薩の表=引用者)は確かに見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない…。とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中が持って行ったということだ」
「書面などは後の話で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方も早くはじめりゃあよい。始めリゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない。此の方も機会がないといったようなわけで、両方真っ赤になって逆上せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。
「私は不快で、その前から風邪を引いて臥せっていた。もういかぬというので、寝衣のまま始終いた。するなら勝手にしろというような少し考えもあった」(以上『昔夢会筆記』第五)

 この談話を読む限り、当時の幕兵の勢いを、もはや慶喜個人では抑えきれなかった様子がよくわかる。戦争が始まる時の情況とは、大方こんなものなのだろう。
 ・・・
 正月三日の鳥羽・伏見戦争で幕軍は敗れ退却する。六日夕、慶喜は諸有司・隊長らを大坂城の大広間に集めて対策を尋ねた。答えは依然として再挙を熱望する声ばかりで、その上幕軍を鼓舞するために慶喜の出馬を迫る声が圧倒的であった。慶喜はこの時、すでに江戸に帰る意志を強くしていたという。しかし将兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」(『昔夢会筆記』)第十四)と命じた。
 だがそうしておいて、慶喜自身はその夜、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまった。慶喜に同行したのは、松平容保、松平定敬、老中酒井忠惇、板倉勝静ら、わずか数名であった。しかも彼らは、慶喜がなぜ江戸に脱走するのか、その真意は伝えられていない。一般の将兵が慶喜の逃亡を知ったのは、夜が明けてからであった。取り残された者たちも、主のいなくなった大坂城を捨てて、われ先にと脱走して行ったのであった。
 この時慶喜は「江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず」(『昔夢会筆記』)第十四)という心境であったという。大坂城脱出に際して将兵をだましたのは、東帰恭順を主戦派将兵たちに妨げられるのを恐れたためであった、という意味の事柄も述べている。しかしながら一方では、会津藩兵には、たとえ千騎が一騎となっても退くなといい、桑名藩兵にも大坂城の死守を命じている。これらも、東帰を妨げられないための、カモフラージュ作戦なのであろうか。ともかく、幕府の最高責任者として慶喜を見た時、その行動には不透明な部分が多過ぎはしないか。
 ところで、幕軍の敗色が決定的となった六日になってから、急に東帰を決意し、大坂城を急遽脱出したのは、一刻も早く江戸城に帰って、再起の態勢を整えるためであった、と慶喜の意志を解釈する説もある。確かに十二日に江戸城に帰ってからの慶喜は、再び強気の姿勢を見せたり、とても恭順謹慎を決心している人間とは思えない動きをする。十七日には、松平慶永、山内容堂に手紙を送って朝廷に周旋を依頼し、その中で慶喜は、鳥羽・伏見戦争は「先兵の者が争闘」したまでの事で、追討令が出されたのは心外の至りであると述べてさえいた。
 結局、慶喜最後の期待に反して、討幕派政権は、慶喜球解の嘆願を無視し、慶喜はニ月十二日に江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に移り謹慎し、恭順謝罪書を政府に提出せざるを得なかった。
ここに彼の政治的生命は、完全に終わりを告げるのであるが…。
  

 

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明治維新、会津は「朝敵」ではなく「長敵」

2022年03月05日 | 歴史

 とうとうウクライナで戦争が始まってしまいました。ロシアのウクライナ侵攻は非難されて当然だと思います。声をあげるべきだと思います。
 でも、私は、ロシアのウクライナ侵攻に反対することは、ウクライナに武器を供与したり、ロシアをあらゆる国際組織から排除したり、厳しい経済制裁を課したりすることとはイコールではないように思います。そこが曖昧なまま事態が深刻化していくようで心配しています。
 毎日のようにプーチン大統領の険しい顔、怖い目つき、怒りに満ちたしゃべり方を映像で見せられていますが、プーチン大統領を怒らせているのは何なのかをしっかり受けとめ、事態の悪化を、何とか防いでほしいと思います。
 プーチン大統領は、NATOの東方拡大を自国の命運がかかった重大問題だと訴えているようです。そして、1990年のドイツ統一交渉の過程で、欧米はNATOを東方に一ミリも拡大しないと約束したのに、その後、一方的にその約束を反故にしたと怒っているようです。でも、アメリカのバイデン大統領はそんな約束はなかったと突っぱねているようです。
 だから私は、アメリカではなく、国連や国際司法裁判所などの国際組織が間に入って、その事実について検証し、問題の解決に向けた取り組みを提案するシステムを確立して欲しいと思います。多くの法律家を集め、対立する両方の意見や考え方を公的な場で聴取し、それらを記録に残し、国際社会で共有した後、法律的判断を下してほしいと思います。政治家や軍人は、自国の利益を守ることが仕事で、決して譲ろうとしない側面があり、武力に頼る傾向が強いのではないかと思うのです。
 今回の問題も、それほど簡単な問題ではないように思います。なぜなら、「ノストストリーム2」などが有効に機能し、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力がますます大きくなると、アメリカの利益が損なわれるという懸念や焦りが、この問題の背景にあるような気がするからです。
 バイデン、アメリカ大統領は、ロシアのウクライナ侵攻前、毎日のように各国首脳と電話会談をくり返し、G7等の会合でも、この問題を取り上げ、ウクライナ問題の対処を主導する姿勢を見せていました。先日、バイデン大統領は、ウクライナ情勢をめぐるロシアへの金融制裁をはじめとする日本政府の対応について、岸田首相に対し謝意を伝えたとの報道がありましたが、それは、この問題について、アメリカが主導していることを示していると思います。私は、そこが気になるのです。
 あらゆる問題は、武力ではなく、法に基づいて、平和的に解決されるべきだと思います。今、アメリカにこの問題の対処を委ねれば、それが難しくなるように思います。 
 
 明治維新をとらえ直すことは、日本の法や道義道徳の問題と関わることであり、ウクライナのような国際問題とも無関係ではないように思います。

 私は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)には、明治維新を正しく理解するために欠かせない重要な事実がいろいろ書かれていると思います。だから記憶しておきたいと思ういくつかの文章を抜萃しました。

 まず、鼎談(テイダン=三人で会談をすること)で、一力氏が、会津藩は、”「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。”と発言している部分を見逃すことができません。短い言葉で、ズバリと歴史の真実を表現していると思います。
 また、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”の戦争であったという指摘も重要だと思います。戊辰戦争で函館まで攻め込んだ戦いは、幕府や会津藩が、恭順の意思表示をした後の戦いであり、それ以外の理由は考えられないからです。したがって、正当性のない戦争であったということです。

 さらに、「五日市憲法」のルーツが、戊辰戦争の敗者である奥羽越列藩同盟の一つ、仙台藩であるという事実も見逃せないと思います。大日本帝国憲よりも進んだ内容を多く含んでいるからです。
 このところ、朝日新聞が、日本初の人権宣言とも言われている「水平社宣言」から100年、ということで、今なお部落差別に苦しむ人々やその解決に向けた取り組みとりあげていますが、新しい時代を切り開く進んだ考え方は、やはり、苦しみを強いられた人たちや、そういう人たちに寄り添う人たちから生まれるということではないかと思います。
 だから、五日市憲法を生んだ仙台藩が母胎となるような政権であれば、朝鮮王宮占領事件や閔妃虐殺事件、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、アジア太平洋戦争と突き進んだ日本の野蛮な戦争のくり返しは避けられたのではないかと思うのです。

 「容保の沈黙」のなかで取り上げられている「会津嘆願書」は、戊辰戦争が、”長州、薩摩が私怨を晴らすため”のものであったことを示す何よりの証拠ではないかと思います。そして、逆らう者は二度と立ち上がれないように叩きのめすというような薩長を中心とする尊王攘夷急進派の戦略が、その後の日本の戦争のなかに受け継がれていったように思うのです。

 だから、学校教育では、薩長を中心とする尊王攘夷急進派によって創作された歴史ではなく、客観的な事実に基づく歴史を教えるようにしてほしいと思っています。
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                     第七章 奥羽越列藩同盟の心

                                                
 一山百文
 ・・・
 この連載の最後に、当時の福島県知事松平勇雄氏、歴史家で東北大学名誉教授の高橋富雄氏、河北新報社長一力一夫氏の「戊辰の役と現代」と題する鼎談(テイダン)があった。
 松平氏は会津藩主松平容保の孫に当たる。これは興味深い鼎談だった。

【一力】 まず初めに、戊辰の役がどうして起こらざるを得なかったのでしょうか。それがなくとも明治維新は達成できたように思えるのですが。

【松平】 会津藩は決して戦争を望んでいたわけではありません。会津藩の本懐(ホンカイ)は宗家である徳川家への忠誠、祖父(容保)としては家訓を守り、徳川家のために一生懸命働いたまでで、その徳川家が白旗を揚げたのだから戦争をする必要はなかったわけなんですよ。

【高橋】 明治維新は、本当の意味の近代化をなしとげたのだったら、あの戦争はやむを得なかった。しかし、歴史的に見ると明治維新は、太平洋戦争後に改めて近代化する必要があったほど、不徹底な変革でした。封建的なところがかなり残り、ある意味では「薩長幕府」になっていった。本当の近代化を求めた変革ではなかったのだから、回避できたし回避すべきだった。
【一力】 すると、明治維新のためには戊辰戦争はなくてもよかた、むしろその方がよりよい近代化ができたかもしれないわけですね。
【高橋】 そうです。薩長藩閥政治程度の近代化なら、大政奉還の平和的な改革のなかでも達成できた。戊辰の役は確かにある種の新しさをもたらしてはいるが、そのために大きな犠牲をはらった。たとえば、日本の40パーセントを占める東北、北海道が後々まで「賊軍」の風土となり、日本のなかで敵味方になってしまった。しかもそれは人々の意識の上にだけではなく、実際にさまざまな形の上に表われたのです。
【一力】 おかしいと思うのは、幕府の本丸である江戸城の開城で戦争が終わるのが歴史的常識なのに、その後から東北での戦いが本格的に始まっていることです。
【高橋】 総責任者の徳川慶喜でさえも許されているのに、なぜ会津と庄内だけが、朝敵とされるのか。公平に見て禁門(蛤御門)の変や、江戸藩邸焼き打ちで煮え湯を飲まされた長州、薩摩が私怨を晴らすため、無理な理屈をつけてきたとしかいえません。奥羽諸藩はこれに納得できず、一致団結したわけで、もし正義が基準となる戦争なら、奥羽の側に十分理があります。
【松平】 こちらは恭順の意を表わしたいるんですが、どうしても会津を徹底的にやっつけなきゃならんと攻めて来るんだから、抵抗せざるを得なかったのです。
【一力】 「朝敵」ではなく「長敵」(長州の敵)というわけですね。
【松平】 そうです(笑い)。祖父は孝明天皇の信任が厚く、感謝する旨の宸翰(手紙)まで頂いて、それが天皇がお亡くなりになった途端、立場が逆転して「賊軍」にされたのですから、驚き、嘆いたことと思います。

 なるほどと思わせる言葉がいくつもあった。
 容保の末裔が、忌憚のない感想を述べた点にも迫力がある。
 三人の思いは、まったくその通りであり、異議を挟むところはなかった。
 これが東北人の率直な感想といってよかった。
 私にとっても胸のつかえが下りる鼎談だった。

 五日市憲法 
 平成十四年(2002)、仙台開府四百年に当たり河北新報社では、またも戊辰戦争を取り上げ、「奥羽越列藩同盟」について考察した。学芸部副部長の佐藤昌明記者が私のところに見え、私はいくつかの質問を受けた。
 佐藤記者は、東北と越後の理念を詳しく話すように求めた。私は奥羽越列藩同盟は、東日本政権の樹立を目指した一大政治・軍事結社だったと強調した。その政権構想のバックボーンにあったのは、人民平等の共和政治だったと持説を述べた。
「それで共和政治の具体的内容ですが」
 と佐藤記者が質問した。
 これが問題だった。この立案に当たった玉虫左太夫(タマムシサダユウ)が自刃したため、彼の構想が後世に伝わらなかった。史料も焼却処分されたとみられ、残っていない。
「新しい史料がみつからないかなあ」
 私はいささか神頼みの話を佐藤記者とあれこれ喋った。
 それからしばらくして、三月の中旬ころだった。私は河北新報を広げてびっくりした。
「敗者が生んだ民衆憲法」と題して、憲法草案をまとめた仙台藩士千葉卓三郎のことが紹介されていた。
 これは玉虫に関連がありそうだ」
 私は直観的にそう思い、食い入るように新聞を読んだ。
 やはりすだった。卓三郎は玉虫が副学頭をしていた仙台藩校「養賢堂(ヨウケンドウ)」に学んでいたからである。「五日市憲法草案」なるものが、東京都あきる野市の北西部の山間にある深沢家の土蔵から見つかったのは昭和四十三年(1968)のことである。
 東京経済大学の教授だった色川大吉氏の日本近代史グループが見つけたのだった。
 草案は、明治十四年(1881)、国会開設を前に卓三郎が起草したもので、全文ニ百四条、実に多岐に及んでおり、新聞はそのなかから五カ条を抜き出して紹介していた。
「ううん、すごいなあ」
 私は一つ一つの条文に感動した。
 45条 日本国民は各自の権利自由を達すべし、他より妨害すべからず、かつ国法これを保護すべし。(自由の保障、基本的人権の保障)
 47条 およそ日本国民は族籍位階の別を問わず、法律上の前にたいしては、平等の権利たつべし。(法の前の平等)
 49条 およそ日本国に居住する人民は内外人を論ぜず、その身体生命財産名誉を保護す。(外国人を差別しない)
 76条 子弟の教育において、その学科および教授は自由なるものとす。しかれども子弟の小学の教育は父兄たる者も免ずべからざる責任とす。(教育の自由と受けさせる義務)
 77条 府県令は特別の国法をもってその綱領を制定せらるべし。府県の自治は各地の風俗習慣に因るものなるが故に必ずこれに干渉妨害すべからず。その権益は国会といえどもこれを侵すべからざるものとす(地方自治の完全保障)

 この史料は、自由民権の研究者の間では知られていたが、私は勉強不足で知らずにいたのである。私は早速、佐藤記者に電話を入れた。
「あれはいい記事ですよ、知らなかったなあ」
「そうでしたか。私は自由民権に首を突っ込んだ時期があり、今回、取り上げてみました。あきる野市にも取材に行って来ましたが、玉虫の影響があるように思いましてね、どうですか」
 佐藤記者がいった。
「まったくそのとおりだと思いますよ、卓三郎があ大槻磐渓(オオツキバンケイ)の弟子でしょう。磐渓の一番弟子が玉虫ですからね。いい話を教えてもらいました。
 私は礼をいった。
 玉虫研究に間違いなく一つの道が見えてきたように感じた。

 仙台藩の戦争
 千葉卓三郎は仙台領志波姫(シワヒメ=現・栗原市志波姫地区)に生まれた。宮城県北の玄関口である。栗原市とあきる野市とは姉妹都市の関係にある。
 卓三郎は下級武士の出だが、向学心に燃えて仙台藩校「養賢堂」に入学した。学頭が大槻磐渓、副学頭が玉虫左太夫だった。
 養賢堂が奥羽鎮撫総督府の宿舎に占領されたとき、生徒たちが憤慨して、斬り込みをかけんと騒ぎ、薩長軍に敵意を燃やした。生徒たちを焚き付けたのが玉虫だった。藩の上層部がこれを聞きつけて玉虫に自粛を求める一幕もあった。
 十六歳の卓三郎も、そうした玉虫にの激しさに、大いに感化されたに違いない。
 卓三郎は戊辰戦争時、激戦を繰り広げた白河口の戦いに加わった。ひどい惨敗だった。会津、仙台藩合わせて三千以上の軍勢が数百人たらずの薩長軍に敗れた。まさかの敗退だった。以来、何度も白河城の奪還を試みたが、奪いか返すことはできなかった。
 ・・・

 容保の沈黙
 ・・・
 会津の人はどちらかといえば寡黙である。運命に逆らうこともなく、堪えに堪えて生きてきた。
 その具体的な例を一つあげよう。
 会津が朝廷に恭順の意を表わしたときの嘆願書である。
 どこまでも自分を責め、すべての責任を自分で取ろうとする生真面目(キマジメ)な文体であった。なぜ幕府の命令だと開き直らないのか、なぜここまでへりくだる必要があるのか、そう思わせる文体である。以下はその大要である。

 【会津嘆願書】
 弊藩(ヘイバン)は山谷(サンコク)の間に僻居(ヘキキョ)し、風気陋劣(ロウレツ)、人心頑愚(ガング)にして古習になずみ、世変に暗く、制御難渋の土俗(ドゾク)である。老君が京都守護職を申しつけられて以来、及ばずながら天朝を尊崇し、宸襟(シンキン)を安んじ奉りたい一心で、粉骨砕身して参った。万端行き届かない面はあったと存じるが、朝廷からはご垂憐(スイレン)を賜り、多年の間、なんとか奉公致すことができた。臣子の冥加(ミョウガ)この上なく、鴻恩(コウオン)の万分の一も報い奉りたく奮励いたし、朝廷に対しては闇(クラ)き心など毛頭なく、伏見の一件は突然に起こったやむを得ないことで、異心など毛頭もあるはずもないが、天聴を驚かせたことについては恐れ入り奉る次第につき帰国の上、退隠恭順した。ところがこのたび鎮撫使がご東下され、尊藩に征討の命令を下され、愕然の至りである。
 宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る。
                            松平若狭守(ワカサノカミ)家来
                            西郷頼母(タノモ)
                            梶原平馬(ヘイマ)
                                                                      一瀬要人(カナメ)

 この嘆願書が拒否され、一気に奥羽越列藩同盟の結成となるが、そうであれば、これほどへりくだった嘆願書は必要なかった。孝明天皇から厚いご信任を戴き、職務を遂行したと書くべきであった。
 あまりにも謙遜したので、「風気陋劣、人心頑愚」だけが残映として残ってしまった。
 晩年の容保はいつも二十センチばかりの竹筒を背中に背負っていた。
 竹筒の両端に紐をつけ、首から胸にたらし、その上から衣服をつけ、入浴の時以外は就寝時でさえはずさなかったといわれる。
 私が見た何枚かの写真には、竹筒はなかったので、少し誇張しているだろう。
 それはともかく竹筒の中身は、いわずと知れた孝明天皇の御宸翰である。
 鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、
「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」
 と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。
 慶喜が敵前逃亡さえしなければ、情勢はどう転んだか分からなかった。
 会津の人々はもっと慶喜をなじってもよかった。
 だが容保も重臣たちも、声を荒げてまで慶喜を非難することはなかった。
 一様に寡黙であり続けた。それが保守的に映ることもあった。
 幕末の会津藩は、全力を尽くして使命をまっとうした。
 その結果が予想だにしない転落の歴史であったが、それは会津藩に問題があったのではなく、戦う勇気を失った将軍慶喜のせいであり、正義が陰謀に敗れたに過ぎなかった。
 朝敵という論拠は、どこにもないのである。

 世代交代
 会津と薩長との怨念はいつまで続くのか。この問題もここで触れねばなるまい。
 私は『よみなおし戊辰戦争』(ちくま新書)で、長州とは手を握らないと強く主張する会津の歴史研究家宮崎十三八(トミハチ)氏を紹介した。
 宮崎氏は司馬遼太郎、綱淵謙錠(ツナブチケンジョウ)氏ら中央から訪れる作家たちのよき案内者であった。ご自分も会津に関して何冊もの本を書いた。
 そのなかの最高傑作が『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)だ。宮崎氏は会津人の怒りを詳細に述べ、手は結ばないと明快にいい切った。
 偽勅の問題、会津を踏みにじり、略奪の限りを尽くし、なおかつ戦死者の埋葬を認めなかったことへの怒り、戦後、米もとれない最果(サイハテ)ての地、下北半島に会津人を流し、塗炭の苦しみに追いやったこと、さらには戊辰戦争に参戦して戦死した官軍兵を祀った靖国神社の存在をあげ、痛烈に明治維新を批判した。
「会津人の怨念はそう簡単には消えません」
 と、よく語っていた宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。その宮崎氏が他界されてもう十年がたつ。私は宮崎氏の意見には基本的に賛成である。宮崎氏は、全国的にも評価の高い人だった。
 第一、朝敵は謀略によってつくり出され差別用語であった。
 このことを事実として国民が認識するまでは、手を結ぶべきではないことは明らかだった。薩摩や長州の人が憎いのではなく、歴史の欺瞞を解くことが必要だった。
 ・・・

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偽勅、朝敵、毒殺と尊王攘夷急進派

2022年02月27日 | 歴史

 『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)にも、薩長史観に基づいているといえる日本の歴史教科書では取り上げられていない様々な事実が書かれています。そしてそれは、著者の単なる憶測や思い込みではなく、多くの歴史学者や歴史家の研究の積み重ねに基づいて書かれていることが明らかです。
 京都が、長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロによって荒らされていた1862年(文久二年)、藩兵およそ八百人とともに、京都東山の山麓に本陣を置いたのは、幕府から「京都守護職」に任ぜられた松平容保を中心とする会津藩でした。でも容保は病弱で、禁門の変の直前には寝込んでおり、会津の医師団や幕府の侍医に看病されるような状態でした。そんな容保を心配した孝明天皇は、「朕が最も信頼するのは容保である」というような「御宸翰」を、一度ならず届けさせたといいます。
 明治維新史や自由民権運動が専門の歴史学者、遠山茂樹教授は、”天皇が容保に下した「御宸翰」は、天皇の意思が素直に出ていて、切々たる哀情がこもっている”と評価しているとのことです。
 だから、孝明天皇の絶大な信頼を得て公武一和に努力した会津藩が、「朝敵」であるはずはないと思います。
 「朝敵」というなら、御所を砲撃し、天皇を拉致しようとした長州藩こそが朝敵であると思います。
 でも、このとき天皇を守るために戦った会津藩や「禁裏御守衛総督」として戦うための身なりを整え、”仁王立ちになって天皇を守った”という徳川慶喜が、「朝敵」として薩長に倒されたのです。だから、すでに取り上げたように、津田左右吉は、討幕の密勅を”真偽是非を転倒したもの”と断じているのです。
 孝明天皇の死によって、突然天皇の地位に就いた祐宮(サチノミヤ=明治天皇)は、当時まだ十代半ばであったといいます。そんな少年ともいえる明治天皇が、父親である孝明天皇の思いをつぶすような勅命を、猛者の集団ともいえる薩長に下すというようなことがあり得るでしょうか。もしそれが真実なら、何かそれに関わる情報や、予兆があってしかるべきだと思います。

 さらに言えば、”真偽是非を転倒”した「偽勅」で、会津藩や幕府を攻めた薩長は、「朝敵」というような言葉を使い、天皇を政治的に利用することによって、自らの言行の矛盾や欺瞞性を隠蔽する狡賢い考え方をしたのだと思います。そして、明治維新を成し遂げ、権力を手にした後も、そうした考え方で、さらに朝鮮の王宮を占領したり、閔妃を殺害したり、を相手とする野蛮な戦争に突き進んでいったりしたのだと思います。

 でも、日本の政権は、そうした明治維新の諸問題を伏せ、近代化に焦点を合わせるようなかたちで「明治百年祭」や「明治百五十年祭」を実施したようです。
 また、”明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人は、それを盛大に祝賀しようとしない”などと不満をもらす人さえいるようです。そうした薩長の流れを汲む人たちが政権を牛耳っているようでは、日本の歴史の真実は明らかにされず、その野蛮性はとても克服できないように思います。 
 だから、政治家や活動家が枠づけた歴史ではなく、歴史学者や歴史家が積み上げてきた研究に基づく客観的事実に基づく歴史教育を、私は一日も早く実施してほしいと思うのです。

 下記に抜萃しましたが、孝明天皇の「毒殺」についても、名だたる歴史学者や歴史家が、様々な史料をもとに論証しているのです。孝明天皇の毒殺説を知ることによってだけでも、明治維新の受け止め方は変わるのではないかと思います。また、その後の日本の歴史の認識もより客観的なものとなって、韓国や中国の信頼を取り戻すことも可能になるように思います。
 でも、残念ながら、政権の意に反する学者や研究者は、いまだに学術会議などの組織から排除される傾向があるようです。思想の自由や学問の自由を尊重する立場に立てば、あってはならないことだと思います。
 さらに言えば、日本軍「慰安婦」や徴用工の問題を、世に知らしめようとする人たちには、大変な圧力がかけられているばかりではなく、「あいちトリエンナーレ」・「表現の不自由展・その後」に関わっては、愛知県知事リコールための署名でっち上げ事件さえ起きました。
 
 日本の政権の歴史的事実の否定や隠蔽、歪曲に関して、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会定期年次大会のなかの公開フォーラム、及びその後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたという「日本の歴史家を支持する声明」は、主に第二次世界大戦中の日本軍「慰安婦」に関わるものですが、 欧米の日本研究者や歴史学者ら187人もが署名しています。政治家はもちろんですが、日本人はみんな、しっかり受け止めるべきだと思います。

 下記は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から、「第一章 もっと知りたい戊辰戦争」の一部と、「第三章 孝明天皇謎の崩御」の一部を抜萃しました。
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                  第一章 もっと知りたい戊辰戦争

 勤王史観・官賊史観  
 もう一つは研究者による講演会である。
 作家の場合は自分の描いたイメージで話すが、研究者の場合は基本的に史料を積み上げた講演になる。
 司馬氏から四年ほどあとの昭和五十三年(1978)の十二月三日に、会津若松市の文化福祉センターで、東大名誉教授小西四郎先生の講演会があった。
 この講演で会津の人々は、衝撃を受けることになる。
 昭和四十年(1965)、私が『会津若松史』の編纂に加わったとき、近代史の編集責任者が東大史料編纂所教授だった小西四郎先生だ。私は小西先生の指導のもとに戊辰戦争を執筆したが、先生は一方の史観に偏らない非常にリベラルな方であった。
 小西先生のこの日の演題は「幕末の会津藩」で、特に官軍、賊軍の問題について詳細に話された。
「私は明治維新は二つの顔をもっていると考えます。二つというのは戊辰戦争で勝った方の顔と、負けた方の顔です。維新史は勝った方の顔だけが出てきて、負けた方はあまり出てこない。会津藩は負けた方だからほとんど触れられなかった。そして勝ったほうだけが強調されて、明治維新は薩長土肥がやったんだと国民に教え込まれたのです」
 小西先生は明治維新史のゆがみを最初に話された。
「薩長政権は自分たちを正当化することによって、その地位を守ってきた。その犠牲になったのは会津です」
 と会津の立場に同情し、維新史観のからくりを説いた。 
「明治維新は古(イニシエ)の天皇の政治に復すという主張が強く出されています。それと同時に、王政復古には、どこの藩が貢献したとか、勤王であったのは何藩であったかが強く主張されたのです。いわば王政復古の歴史観、あるいは勤王史観という歴史観が明治維新史観をつくりあげ、それが明治維新の成果であるといわれたのです。そういう歴史観が明治維新史の主流を占めていて、ここから天皇の軍隊は官軍、それに反対したのは賊軍という官賊史観が生まれ、これによって会津は賊であると評価されてしまったのです」
 官軍、賊軍のからくりを、先生はこのように解き明かした。
 会津の人々が待ち望んでいた明快な史論だった。
 日本の歴史教育は、まさにこの路線上に進められてきた。会津の人々がどのように悔しがっても、薩長中心の歴史観は盤石の重さで頭上にのしかかり、会津はなにをいっても敗者としてさげすまれてきた。こうした一方的な歴史観で、本当の歴史が分かるのか、それが小西先生の問いかけであった。
 会津藩は京都で存分に働き、孝明天皇から絶対の信頼を勝ち得た。その会津が朝敵となったのはなぜか。それは密勅だと小西先生は語った。
 公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允らが幕府を倒し、会津を誅伐する秘策として思い付いたのが密勅だった。
 幕府、会津は朝敵なので追討せよ、という天皇のお言葉である。

 欺瞞に満ちる
 偽造した密勅の効果は抜群だった。
天皇はまだ政治的には、いわばロボット的存在である。天皇の遺志でもない密勅を唯一の武器として討幕が行なわれてしまう。だから戊辰戦争は、会津側にとってはまったく迷惑な話だった。自分たちは天皇に対し反抗しているわけではない。わずか十六歳ぐらいの天皇の側を固めている薩長こそ敵である。我々は君側の奸(カン)を打ち払うんだと戦ったのです。私は、このような会津側のいい分の方が正しいし、もっともな意見だと思います」 
 小西先生はずばりと、いい切った。
 会場を埋めた人々は感動し、興奮した。
 この言葉は会津人に歓喜の涙を流させるに十分であった。孝明天皇が不慮(フリョ)の死を遂げられたあと、まだ十代半ばだった明治天皇の名前で幕府、会津に朝敵という汚名を着せ、武力制圧に踏み切った薩長の行為は、いかに虚偽、疑惑に満ちたものであったか、長い間、会津人が胸に抱いてきた歴史の欺瞞を小西先生は一刀両断した。会場にどよめきが起こるのも当然であった。
 小西先生は、戊辰戦争後の会津藩に対する見せしめについても論及した。
「戊辰の戦いで、結局は会津藩は敗れる。そこで、政府としては他の藩に対してはそれほどでもないのに、会津藩に対してだけはきわめて厳しい処置をとりました。ニ十八万石を三万石にしてしまう。三万石といっても本州最果(サイハテ)ての地斗南(トナミ)青森県下北半島周辺)ですから、実質はずっと少ない。仙台藩でも減らされてはいるが、会津からみると問題ではない。徳川宗家なんかも駿府(スンプ=静岡市)に移されてひどいことになるが、それでも駿府の殿様は八十万石をもらう。ところが斗南の三万石はまったくひどい仕打ちです。政府が一番の見せしめに、会津藩に対して罰を加えたということではないかと思う」
 小西先生は明治政府を断罪した。
 これほど明快な講演会は、あとにも先にもそうはなかった。
 さらに小西先生は、京都守護職の研究をもっと進めなければならないと語った。そのためには、もっとオープンな情報公開が必要だった。
「うっかり見逃してしまいがちな錦絵、旧家に残る一通の古い書き付けが重要な史料になることもしばしばあるのです。いままでの単なる殿様や武士階級などの上層部の動きではない、民衆の動きを経済社会的視野から深く検討することも大事です」
 小西先生は、さらなる研究を呼びかけて講演を終えた。
 明治政府の勤王史観、官賊史観の最たるものが官製の歴史書『復古記』である。この史料はどこを見ても官軍と賊軍の戦闘記録であり、会津は徹底的に賊にされている。
 その思想が今日もなお、教科書のなかに堂々と生き続けているのである。
 すべからくそう簡単ではない。
 対立の構図の根は深い。
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                   第三章 孝明天皇謎の崩御

 あまりにも純粋な天皇と容保
 孝明天皇の絶対的な信頼で会津藩の力は一段と強まった。
 松平容保は長州征伐を強く求め、宮廷内部における会津藩の存在は一層重みを増した。 
 会津藩は隠然たる勢力を京都で築いたのである。
 容保の実弟桑名の定敬(サダイキ)も確乎たる意志の持ち主で、この時期を一橋(ヒトツバシ)、会津、桑名の一会桑(イチカイソウ)政権とみる研究者もいる。
 私がここで問題にしたいのは容保の政治家としての資質である。徳川慶喜は毀誉褒貶がすごく、その意味ではしたたかな政治家の面があった。仮病を使い、前言をいとも簡単に翻すなど日常茶飯事だった。
 政治家とはある意味でそうした使い分けも必要だろう。
 ところが、容保はそうした面が全くない。 
 慶喜に代わって天下を取ろうという野心は微塵もない。あるのは天皇に対する絶対的な忠誠心である。
 幕府にはさすがに不信感をもっていたが、これも決定的なものではない。
 ところが、慶喜はに至っては孝明天皇をも信じてはいなかった。
 軽蔑していたふしさえある。
「まことに恐れ入ったことだが、天皇は外国の事情はなにもご存じない。昔からあれは禽獣だとか、なんだということがお耳に入っているから、どうもそういう者が入ってくるのは嫌だとおっしゃる。煎じ詰めた話が犬猫と一緒にいるのは嫌だとおっしゃるのだ」
 と後日、当時のことをぶちまけている。
 たしかに、孝明天皇は対外的には鎖国復帰、国内的には佐幕という徹底的な保守主義者であった。
 その強固さは、誰がなんといおうが、頑として曲げなかった。
 この頑固さという点では会津に共通する部分があった。
 その意味では、孝明天皇と容保の二人はリズムが合った。
 容保は真面目一徹、人を疑うことなど知らずに育った純粋培養の殿様だった。
 二人の純粋培養が京都で結び付いたのである。
 つまり、一会桑政権は脆弱ではあるが、孝明天皇が存在する限り、存在の重みはあった。
 その孝明天皇が突然、病に倒れる大事件が起こった。

 根強い毒殺説
 慶応二年(1866)十二月十二日のことである。
 天皇が風邪をひいた。
 高熱が続き、十七日になって侍医が痘瘡と診断した。
 容保は定敬と一緒に参内して天機(天皇の機嫌)を窺い、ニ十一日には慶喜も参内した。
 ニ十三日ごろまで痘瘡初期の経過で、順当な症状だったが、二十四日になってにわかに病状が悪化した。
 激しい嘔吐と下痢を繰り返し、ニ十五日には顔に紫の斑点が現れ、虫の息となり、同日夜、苦しみもだえながらこの世を去った。まだ三十六歳の若さだった。
 この不思議な死はたちまち都の噂になった。
 孝明天皇は絶対の存在だった。慶喜がどう悪口をいおうが、孝明天皇が会津を支持する限り会津の軍勢は天皇の軍隊であり、官軍だった。
 開国派にとって天皇は厄介な存在だった。
 私は『幕末の会津藩』(中公新書)にも書いたが、天皇が反幕府勢力の公家に毒殺されたという噂がアッという間に広がった。
 この問題を史料解析をもとに毒殺と最初に判定したのは、歴史家ねずまさし氏だった。『中山忠能(タダヤス)日記』や毎日、加持祈祷に参内した湛海権僧正(タンカイゴンノソウジョウ)の日記をもとに検証した。中山忠能の娘慶子(ヨシコ)の「二十五日には御九穴より御脱血」という記述は、毒殺に砒素が使われたことを示していた。
「誰かが痘毒を天皇に飲ませたので天皇が罹病した。その証拠は容体をかくし、内儀の者(妻)さえも少しも容体を知らず、ニ十五日の姉の敏宮の見舞いも廷臣が止めようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だと噂されている」
 慶子は、孝明天皇の典侍で明治天皇のご生母である。
 中山忠能は明治天皇の外祖父にあたる。そんなことで『中山忠能日記』の信憑性は高いとされたのだった。
『中山忠能日記』のなかには、後宮(コウキュウ)に通じていた老女浜浦の手紙もあった。
 岩倉具視が犯人と見られるというものだ。幕府・会津派の孝明天皇のを邪魔に思い、毒を盛ったというのだった。
 戦前に毒殺説を出した人がいた。
 昭和十五年(1940)のことである。大阪の学士クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が、孝明天皇の典医伊良子光順(イラコミツオキ)の日記をもとに「岩倉具視が女官の姪(メイ)をして、天皇に一服毒を盛らしめた」と発表した。

 石井孝先生の理論
 その後、私の恩師でもある日本近代史の権威石井孝先生が数々の論文を発表し、毒殺説を主張した。
 石井先生は私が東北大学で国史を学んだとき、教授として在籍されていた。歯に衣着せぬ辛口の寸評で、怖い先生であった。
 そのころから石井先生は『増訂明治維新の国際的環境』や『日本開国史』『維新の内乱』『戊辰戦争論』などの作品を相次いで発表され、カリスマ的存在として我々の上に君臨していた。
 ただし、石井先生は『会津若松史』の編纂には参加せず、戊辰戦争の項は小西四郎先生が参画し、そのことで私は小西先生に会津戦争の指導を受けた。
 石井先生の作品『近代史を見る眼』(吉川弘文館)に、孝明天皇の死に関する詳細な記述がある。
 冒頭で石井先生は次のように述べている。
「孝明天皇は(中略)その保守的信念の強固なことにおいて、井伊直弼にも比すべきである。その天皇が、王政復古にさきだつ約一年の慶応二年十二月ニ十五日(1867.1.30)、突如、疑惑に包まれた最期をとげた。天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の1954年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」
 ねず氏を全面的に支持し、病死説をとる歴史家の原口清氏と雑誌『歴史学研究』(青木書店)で大論争を繰り広げた。
 石井先生は、急性ヒ素中毒について、法医学者の協力を得て徹底的に検証した。
 その結果、孝明天皇の症状は明らかに急性ヒ素中毒であり、痘瘡が回復した段階で激しい嘔吐、下痢があったのは、それに間違いないと断定した。
 泉秀樹著『日本暗殺総覧』(ベスト新書)でも孝明天皇の暗殺を取り上げており、著者の泉氏は、犯人として孝明天皇の愛妾(アイショウ)堀河紀子の存在をあげている。
 これが事実なら討幕派の決定的なからくりが、ここにもあったわけで、明治維新が一層いまわしいものにねってくる。
 やはりそうかというわけである。
 ただ私自身は、この問題に関して史料に当たっておらず、率直にいえば、石井先生はこう見ているという紹介の域を出ないのである。
 作家なので自由奔放に推理してもいいのだが、なまじっか歴史を学んだ手前、そうもいかない部分がある。
 限りなく灰色というところであろうか。

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統帥権の独立と薩長政権の策謀

2021年12月30日 | 歴史

 下記は、「木戸孝允文書二」日本史籍協会編(東京大学出版会)の「巻七 慶応三年  四十七 品川弥二郎宛書簡 慶応三年十一月二十二日」に書かれている文章です。私は、薩長など尊王攘夷急進派による明治維新との関わりで、この文章は、極めて重大だと思っています。
 これは、長州藩の木戸孝允が、同じ長州藩の品川弥二郎に宛てた書簡の文章ですが、尊王攘夷急進派の本音をうかがい知ることが出来る文章だと思うのです。
 それは「乱筆御免御熟読後御投火可然と奉存候」とあることからも察せられますが、熟読語は”火に投げて然(シカ)るべしと奉(タテマツ)り候(ソウロウ)”というのですから、他人に知られてはいけない内容であるということだと思います。次のような内容です。
”…此度之御上京も兼て申承り候辺とは余程旁不平之次第に候呉々も御抜目なく御迫り立申も疎に御座候今日之体たらくにては大機を失し候事は眼前之被思いかにも不安心の至に御座候實以皇国之御大事に相係り申候間誓而御油断無之様奉祈念候此段大略任幸便得御意置候〇至其期其期に先じ而甘く玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了に御座候間此處は詰度乍此上岩西大先生達ちへも御論し一歩一厘は御拔り無之様御盡誠尤肝要第一之御事に御座候諸子よりも西翁などへも得と相論し置
世子君よりも西翁へ御直々に被仰聞何分にも此儀真之大眼目に付返す々々も御丹誠御盡力千禱萬祈之至に御座候ちら々々と風説書上など一見候處に而も彼も余程こゝへは惣に心を用ひ気を着け居候處趣相顕れ懸念に堪へ不申候誓而御抜り無之様蒼生挙而奉祈候…”

 見逃すことができないのは、”玉を我方へ奉抱候御儀千載之一大事に而自然万々一も彼手に被奪候而はたとへいか様之覚悟仕候とも現場之處四方志士壮士之心も乱れ芝居大崩れと相成三藩之亡滅は不及申終に 皇国は徳賊之有と相成再不復之形勢に立至り候儀は鏡に照すよりも明了…” というところです。
 玉(天皇)を我が方へ抱き奉り、万々一も彼手(幕府)に奪われては、その計画は大崩れとなって、三藩(長州、薩摩、土佐)の亡滅は申すに及ばず、皇国には、徳を損なう者があるということになって、再起不能になることは明らかだというような内容だと思います。
 ”玉(天皇)を我が方へ抱き”幕府を倒して権力を手にしようという重大な政治的意図を伝えているので、他人に知られてはいけないということなのだと思います。
 だから、それが、其の後の薩長の数々の策謀の疑念とつながるのです。
 討幕のために、「孝明天皇を毒殺」し、戊辰戦争では「偽錦旗」を使い、また「討幕の密勅(偽勅)」を利用し、討幕のために働いた「赤報隊」を、その後「偽官軍」として主要メンバーを処刑し、守る意志のない「攘夷」を掲げて幕府を倒したということです。そして、明治維新以後の日本の歴史は、まさに薩長の計画通りに進んだといえるように思うのです。 

 桂太郎の自伝からは、それを裏づけるような内容を読み取ることができるように思います。
 山縣有朋を支えて参謀本部を設置し、それを天皇の直轄とすることによって、「統帥権独立」に道筋をつけ、軍部大臣現役武官制を定め、反立憲的制度を創始した意図の背後に、権力を保持しつづけるための長州藩の政治的意図が見えるような気がするのです。”玉(天皇)を我が方へ抱き”つつ、軍を天皇の直轄とし、軍の権力を保持し続ければ、たとえ議会や内閣が、自由民権派その他の影響下に入っても、明治維新を成し遂げた長州藩を中心とする尊王攘夷急進派が、日本を動かす影響力を行使できると考えたのではないかと思います。そして、事実そのようになったのではないかと思うのです。
 桂は、”参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり”と書いているのです。でも、その”自然の空気”は、尊王攘夷急進派だけのものだと思います。 

  「自伝巻一」で、長州藩が1861年には”西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を伝ふ)”を兵制に加えたことがわかります。すでに、西洋の先進的な軍制を取り入れる必要性が認識されていたのだと思います。
 また、桂は、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦いに足軽隊二番小隊の小隊長として参加していることも見逃せません。戊辰戦争の記述のなかには、”君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし”などと、後の戦陣訓を思わせるような考え方が読み取れるように思います。

 「自伝巻二」で、近衛兵の暴動、「竹橋事件」に触れていますが、それが参謀本部の天皇の直轄とそれに伴う統帥権の独立に影響を与えたことも分かります。また、”西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり”とも書いています。竹橋事件西南の役が、日本式の軍制を考えるきっかけになっているのだと思います。
 参謀本部の設置と関わって、”教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。”と書いているのです。
 桂は、”我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。”と書いていることでわかるように、先進的な海外の軍制を学んでいいます。

 にもかかわらず、大日本帝国憲法に定められた”天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス”や、軍人勅諭の”天皇躬(ミ)つから軍隊を率ゐ給ふ御制(オンオキテ)”ということをその中心とする日本式の軍制でなければならないと考えたのだと思います。

 だから、”非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行する”ことは当然なのだと師団条例を越えた行動をするのだと思います。それは、”明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じ”と同様、「統帥権の独立」の考え方だと思います。

 また、人材登用にあたって、”薩長人を排斥すべしとの論”があったことも分かります。それは、ほとんどの要職を、薩長出身者が占めたからだと思います。いろんな差別や不都合があったのではないかと思います。そうしたところに、何があっても、軍権を掌握し続けようとする薩長政権の意図が読み取れると思うのです。

 下記は、「桂太郎自伝 東洋文庫563」宇野俊一校注(平凡社)から「自伝巻一」と「自伝巻二」の一部を抜萃しました。
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                桂太郎 自伝巻一

 我が歳萌て甫(ハジメ)て十三歳なりしとき、本藩に於て西洋式の銃陣(当時西洋式の調練を
伝ふ)を兵制に加へらる。其時父の仰せられけるは、従来の兵器のみを用いて戦場に臨まんことは、将来に於て甚だ覚束なきわざなれば、必ず西洋の銃器を携帯し、西洋式の訓練に依らざるべからずと。
父は、従来の武芸には、錬磨の功を積み熟達の域に到りし人にて、最も槍術に長ぜられけるが、時勢に応じて兵制を改革するの已むべからざることを夙に看破せられなければ、西洋式の操練を学ぶことを今より心がけずばあるべからずと、指導したまひけるなり。我も亦父の指教に随ひて自ら志を立て、西洋流の節制を訓練するに努めたり。
 文久三年(1863)癸亥(ミズノトイ)の夏、我が十七歳の時なりき。本藩の兵、馬関に於て米・英・蘭・仏四国の軍艦と戦へり。これを俗に馬関の攘夷といふ。翌元治元年甲子の春、我は諸友と謀り、攘夷の為めに馬関に赴かんと欲し、父に請ひて許可せられたりしかば、直に馬関に到り、足軽隊二番小隊の小隊長となりて、暫く該地に駐屯したりき。
 明治元年(1868)戊辰の夏、我の奥羽鎮撫副総督に従ひて羽州に在る頃、奥羽諸藩同盟して官軍に抗敵し、鎮撫総督の一行は全く賊中に陥りたる事あり。父は其一行の死生の消息すら定かならずと聞きたまひしかば、我が児の危難に陥りしことを案じ煩ひたまふ中にも、我が児に万一卑怯未練の挙動もあらんかとて 深く心を痛められ 常に人に向ひて語られけれるは、君の為、国の為に討死せんことは、士たる者の本分なり、唯々児が未練の最期を遂ぐるが如き事あらば、一家の汚辱これに過ぎたるはなし、児が討死はもとより覚悟せる所にて、聊(イササ)かも哀み傷むべきにあらずと雖も、唯々其死を潔くせんことを希ふのみと仰せられたりと、後に人の我に語るを聞きたりき。我の奥羽より凱旋して、明治二年郷里に帰りたるとき、父は少しく異例の気味にておわせし由なるが、我を玄関に出迎へて、先づ第一に我が戦争中の動作を聞き、且つ我の恙(ツツガ)なく凱旋して再び相見るを得たることを深く喜びたまひき。これより病蓐(ビョウジョク=病床)に就き、荏苒(ジンゼン)重症に陥りて、今は頼みすくなげに見えたまひしが、湯薬に侍すること三月にして、遂にはかなくなりたまひぬ。
 我が父はかくの如き性行の人にておはしき。概言すれば、忠愛の年深く、忍耐の力強く、時勢を達観するの見識を具へ、家庭に於ては児子を教誨すること厳正に、一家を率ゐるに温和なりし人なり。
 
 我が母におはせし人は ・・・
 又我の父の許しを得て馬関に赴かんとする時にも、母は、速に馬関に到り、尊王攘夷の志を果し遂げよと、父もろともに励まされたりき。又戊辰の年に我の奥羽に赴きて敵中に陥りたる際には、或る神社に日参せられたりと聞けり。而して祈願の趣旨は、我が子の無事ならんことを禱られしにはあらで、我が子が其任務を全くし、苟も未練の最期を遂げ、家名を汚すが如きことなからんやう、祈請に丹誠を抽んでられしなりけり。
 我の海外に留学せしは、明治三年の秋にて、同じ六年の暮に至りて帰朝せり。翌七年八月に我が母亡せたまひぬ。その頃我は僅に陸軍少佐たりしが、母は今はの際に臨みて、最早心おくことなしと宣ひしとぞ。不幸にして母の臨終に其側に侍する能はざりしは、深く遺憾とする所なれど、身を立て家名を興さん者ぞと思ひ定めたまひけん、心おくことなしと宣ひしと聞くこそ、せめてもの孝養なりけんかしと、聊か心安う覚えたりき。
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                桂太郎 自伝巻ニ

 ・・・
 公使館附武官は参謀局の所轄なれば、我は帰朝後再び参謀局に勤務す。此時は恰も行政各部の事をも充分の調査を遂げて、改良せざるばからずといふ議論ありし時とて、我は太政官少書記官兼勤を命ぜられ、陸軍の調査漸く終りて後、我が希望する所の意見を陳べ、陸軍に法則係といふを置き、山縣陸軍卿が曩に我の企たる如く、実地と学理とを研究し、漸次陸軍の改良に着手するの方鍼(ホウシン)を執れり。
 此年(明治十一年)の八月二十三日に於て近衛兵の暴動あり(竹橋事件)。此の暴動は種々の原因より起りしものなるが、茲に記する必用なければ之を記せず。此の事あるに際し、軍事の改良を以て急務とし、中に就て西南の役に参謀事務の不完全なりし為、大に陸軍に不利なりし故に、参謀事務を改良せざるべからずとの論起れり。然れども其論者と雖も、参謀事務とは如何なるものなりやは、未だ其脳裡に明々白々にはあらざりしならん。兎に角参謀事務の不完全といふ点より、参謀本部を置かざるべからずといふことゝなれり。此参謀本部設置を唱和したる人々と、我が参謀本部を置くといふ論とは、大に逕庭(ケイテイ=へだたり)ありしものゝ如し。然れども陸軍の一大改革を為すべき機運の来りしには相違点無かりしなり。
 此に依て従来参謀局は陸軍省に隷属せしが、此の年の十二月に、参謀本部は天皇の直轄たらしめざるべからずとし、純然たる軍事を陸軍省と引分け、軍命令は直轄となり、軍事行政は政府の範囲に属すべしといふ自然の空気が起りしなり。然れども未だ如何なる方法、如何なる組織といふ研究をなして此の論を立てたるにはあらず。而して愈々参謀本部を置き、軍事命令は天皇の直轄と為さざるべからずといふ事となり、其年の十二月を以て参謀本部を置くことに決し、我は参謀本部の方に従事することゝなり、如何にして参謀本部を組織すべきやの諮問をうけたり。本来我が計画は軍事行政を整頓し、その残余の事務が即ち純然たる参謀本部の事務なりと推考せしに、この全体の意嚮とは反対したれども、俗にいふ田を往くも畔を往くも同じ道理なりと決心し、最初参謀本部御用係を命ぜられ、同本部の組織に参与し、此時を以て陸軍中佐に進み、次で同本部管西局長に補せられたり
   管西局より各鎮台に命じて、参謀本部員に充るため、少佐大尉中尉各一人宛を徴し、成るべく
   硬骨なる人物を選抜して上京せしむべき旨を以てせり。而して此時その選に当りし輩は他日み   
   な有為の将官たるに至りしも亦奇なり。
 此の時山縣陸軍卿は参謀本部長に転ぜり。又当時参謀本部の組織は、別に条例ありて明かなれば茲に記せず。而して一般の取調事務は、依然継続せられたれば、我が太政官権大書記官を兼ね、山縣参謀本部長は参事院議長を兼ねぬ。我はまた参事院員外議官補を兼ね、軍事と政治とに従事したり。

 ・・・

 此の時歩兵科の大佐として、川上近衛歩兵聯隊長(子爵・操六)が随行を命ぜられけるが、之より前川上大佐は所謂実地的の人にて、我が学理的応用を為す考察とは殆んど正反対なりし。然るに大山陸軍卿は、到底川上と桂とを和熟せしめ、共に陸軍に従事せしむることを謀らざれば、一大衝突を来すべし、是非この両人を随行せしめんとする意思ありしと見えたり。又川上大佐も大に其点に見る所あり、我も亦大に川上大佐に見る所ありて、此の随行を命ぜらるゝと同時に、川上と我と両人の間に誓ひて、前に大山陸軍卿の意思ならむと思ふ如く、我々両人の間が将来相衝突することあれば、我が陸軍の為に一大不利益なれば、冀(ネガ)はくば将来相互に両人の肩頭に我が陸軍を担ふべしと決心し、互ひに長短相補ひ、日本帝国の陸軍のみを眼中に措かば、毫も帯芥(タイカイ=わだかまり)なきにらずやと。我又曰(イワク)、子は軍事を担当せよ、我は軍事行政を担当せんと。この時初めて二人の間に此
誓約は成立たり。而して明治十七年のニ(一)月、横浜を解纜(カイラン=船出)するより、川上と船室を共にし、欧州巡回中も、殆んど房室を同じくし、互ひに長短を補ふの益友となり、我は渠儂(彼?)が欧州に於て必要とすべきものには、充分の便利を得る様に力を添え、兎に角我等両人にて陸軍を担うべしとの考案は、相互に脳裡に固結するに及べり。

 伊仏独露墺等欧州大陸諸国の軍事を視察し、又英国及び米国を視察し、明治十八年ニ月を以て帰朝したり。同年五月我は陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長に補せらる。川上も同時に陸軍少将に任じ、参謀本部次長に補せられたり。爾来我と川上と互ひに相提携して、大に軍事上に尽すことを得たるの第一着なりき。是全く大山陸軍卿の処置の公平なりしのみならず、斯くあらざれば大に軍事上の進歩を計ること能はざりしなり。然るに我と川上とは新参将校中より擢用せられて、枢要の地位を占めたるより、物論囂々(ゴウゴウ)ともうふべきありさまなりし。時恰も本邦の陸軍に在りては、参謀本部設立巳来学理上の研究漸次に勢力を得るに至り、我々が明治十七年の一個年間海外に在りし中に於て、学理の必要といふ風気を、希望以上の程度にまで上進せしめたりき。
 この物論囂々といふことも、事実に於ては当時陸軍卿の人材を登用したることゝ、他の一方に於ては薩長人を排斥すべしとの論を唱和せしに依れり。而して其論は新進有為の輩の賛同し結合する所にして、有為の輩がその結合中に在る野心家の為に利用せられたる事実ありしは、後に至りて大に明瞭なるを得たり。又是等の輩は如何なる方法を以て当局者に反抗を試み来りしやといふに、野心家が野心家を利用し、当時の将官中却て排斥せらるべき部分に属する某々等を首領とし、此の人を利用して当局に反抗するものにて、其表面より観れば、学派の競争の如く、独逸派、仏蘭西派と二派に分かれたる如き気味あり、又其二派分立の状を来したる原因は、前にいふ如く学理の進歩を謀らんが為に、独仏の兵書を得るに任せて翻訳せしめ、原書の何物たるを玩索(ガンサク)せず、主義の奈何を問わず、雑然として純駁を混淆したり。是即ち我が所謂希望以上の点まで、学理を重んずる風気が上進即ち暴進し来たりしなり。之に加ふるに前のニ個の原因を裏面に包含するを以て、一時は非常に困難なる事態なりし。更に他の一方に於ては、政府が行政の整頓上より財政整理問題の起りたる時に際したれば、軍事費も成べきだけ削減して、経費節約の実績を挙げざるべからずとの論が陸軍以外に起りて、彼れと此れと混合して、一時に論難鋒起し、更に一層の困難を加へたり。此に於て如何なる方法を設け、如何なる処置をなすべきかは、大体の軍政上の改良よりも、一時はこの鋒起を鎮圧して善後の策を講ずるの必用を見るに至れり。殊に当時陸軍大学校には独逸人の教師を雇聘し、又士官学校戸山学校等には仏蘭西人の教師を雇聘しあり。その教師の間に勢力上の軋轢を起したるも、亦一の困難なりし。我は此時に於て如何なる決心を以て、如何なる方法に依り、以て長官を輔佐して陸軍部内の紛雑を処理せんか、又予て眼目とする所の軍政の改良は、如何なる方法に依て着手すべきかといふに就ては、左の方法に依てこの二つの問題を解決することゝなしたり。

 先づ軍政上の改良は、従来我が目的となし来りし初心を貫徹ぜざるべからず。其方法如何と云に、学術并行せしめて軍事教育の改良を謀る事、軍事行政の乱雑を整頓して、一般行政と齟齬無く進行せしめんことを期せざるべからず事、この二事を遂行するを要す。教育の事に就ては、兎に角独逸といひ仏蘭西といふ如く、碌々他に模倣して事を成さんとする如き考案にては到底不可なり。断乎として一の方針を執て進まざるべからず。一の方針とは何ぞや、則ち独逸に取るに非ず。畢竟独逸を基礎としたる日本式を創制せざるべからず。若し日本式にして未だ定らざれば、其目的基礎の始動動揺する弊を免かれざればなり。之に依て従来陸軍省に管轄したる所の軍事教育の一切を、尽(コトゴト)く担当すべき一部を組織するを必要と認む。是即ち監軍部がすべて軍の教育を担任することゝ定められたる起原にして、曩に陸軍省より軍事を引離して参謀部を置き、第二に同省より教育行政を引離し、学術は一切監軍の下に統べしむることゝする計画なり。(監軍部の組織は、別に条例あるを以て茲に掲ぐるをも須(モチ)ゐず。)
 
 軍事行政の事は、既に明治廿三年には帝国議会を開設すべき大詔を煥発(カンパツ)せられたるを以て、議会の開くるまでには渾(スベ)て整頓せざるべからずとして、着々整理の歩を進むべきものなれば、第一着に行政機関の改良を謀らざるべからず。故に陸軍省は各兵科毎に局を置き(兵部局・騎兵局の類なり)たるを廃し、軍務局を置き、各兵科をその内の一課として縮小し、即ち陸軍省には単に軍務局・経理局・医務局の三局のみとし、之に数課を設けて組織する事とし、此を以て教育の統一と行政の統一を謀る方法とす。而して其内部に起れる各種の教育問題を一にし、又行政の区画を簡明にし、事務の繁閑を謀り、行政の整理を為すべしとの考案なり。此の意見を以て大山陸軍大臣に提出せり。然れども其改革の小事に非るのみならず、大山伯は新進の我を抜擢して枢要の地に挙げたりと雖も、其改革を遂行し得るや否やは、稍遅疑する所ありしことを疑わず。殊に従来は将官を以て各局長に任じたりしを、次官兼軍務局長をして一括統管せしむることは、甚だ前途を危ぶむ内外の情況を斟酌して、陸軍大臣が断行し得ざりしも其理(コト)はり無きにしも非ず。然れども我は是ほどの事をも断行せざるときは、内部の混雑を整頓しがたく、又明治二十三年帝国議会開会の暁には、陸軍経費の点に就て、議会の協賛を求むるといふことは、即ち内部の協議にあらず、即ち他人の検査をうけて我が目的を貫ぬかんとする場合に当り、不可なるべしと固く信じたるを以て、強(アナガ)ちに之を陸軍大臣に勧めしによりて、先づ監軍部を置くことのみは、此時を以て断行し得たれども、陸軍省の改革に至りては、一時我が意見と大臣の意見とを折衷したるものを実施する事となり、我が課とまで縮小すべしとせし各局をば、そのまゝ存置し、将官の局長を罷めて大佐を以て其任に当らしむる事となり、而して大臣も我が意見をば他日必ず採用すべしと雖も、暫く折衷の組織を以て施行するとの条件を付したり。我は殆ど進退を賭して此の改革を行はんとせしが、斯る理由に依て長官の意に随ひ、その組織成て発表せられ、事務に着手するに及べり。其各種の条例は、当時の官制に詳かなれば茲に贅せず。此の際に在て我は陸軍次官に任ぜらる。即ち明治十九年三月なり。

 軍事教育と軍事行政との刷新を遂るに就ては、陸軍省・参謀本部・監軍部鼎立したるものが、合体して其事業に着手ぜざるべからず。参謀本部には川上少将あり。監軍部参謀長には児玉大佐(男爵・源太郎)あり。我は陸軍次官たるを以て、この三人が方針を同じくする必要あり。幸ひに川上参謀本部次長は、前に云如く将来我と共に帝国の陸軍を担はんとする同志の人なり。又児玉大佐は我と志を同じくする人にして、殊に監軍部の長官には山縣伯の其任に当るあり。先づ参謀本部に雇聘せし独逸人メッケル少佐を一標準となし、
   此の人は曩に大山陸軍卿が欧州に趣きし時、独逸政府に依頼して雇聘したる人にて、殊に我が 
   旧友たり。且独逸軍隊中に於ても最も卓抜なる将校にして、中に就く教育軍政に於ては異常の  
   技量を擅有(センユウ)したる人なり。
 而して陸軍省・参謀本部・管軍部より、将校を選抜して各種の委員を置き、児玉大佐を以て委員長とし、此の委員に於て陸軍各種の事項を調査せしめ、その成案を以てメッケルに諮問し、其の結果として教育即ち学校の組織系統、行政の組織系統、全く調査を了へて、秩然たる組織を成すことを得たり。…
 ・・・
 右の如き方法を以て、陸軍内部の改良を成し、又経費の整理をなし、各種の方面に向ひて整頓し得たる所以のものは、第一に我が登用せられし後、大山陸軍大臣の信任をうけ、又外に在ては山縣伯の信用を得たるに在り。并せて川上・児玉両少将と心を一にし、私を棄てゝ公に奉ずる決心より、此結果を収むることを得たり。…

 ・・・

 全体師団長は職権を以て擅(ホシイ)まゝに兵を動かすことを許されず。師団条例の規定する所に拠れば、地方の擾乱若は事変といふ場合には、地方官の要求に拠て初て兵を出すことを得る外、師団長は兵を出すを得ざるの制たり。我が所為は少しくその範囲外に逸したり。左れば我は此の手段を執るに方(アタ)りて、自ら以為く、師団条例には斯る非常災異の場合を示さゞれば、或は越権の責を免かれざるべし。然れども地方鎮護の為に常置せられたる兵は、斯の如き災異の起りたる場合に於ては、此に応ずるの処置を為すべきは勿論にして、師団長の決心に依らざるべからず、即ち自ら責任にあたりて其職務を実行せんか、若しくは条例の命ずる所に随ひ、地方官の要求を待て、平々凡々初めて手を下さんか、死守と活用との由て分かるゝ所なり。非常の異変に方りては、天皇に直隷する師団長たる者、自ら責を引て所信を実行するは、唯其決心に在りと。是我が最初より覚悟したる所にして、また師団長たる重大な責任ある者は、斯る決心のなかるべからずとの模範を示すに足るべきを信ぜり。 

 

 


 

  

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