薩長を中心とする尊王攘夷急進派は、会津藩が恭順の意志を示し、
”…宸襟を悩まし奉ったことは申し上げる言葉もなく、この上、城中に安居仕っては恐れ入ることであり、城外へ屏居(ヘイキョ)致し、ご沙汰を待つことに致した。何卒寛大のご沙汰を下されたく、家臣あげて嘆願致し、幾重にも厚くおくみ取りくださるよう嘆願仕る”
というような会津嘆願書を差し出したにもかかわらず、それを受けつけず攻撃を続け、戦争終結後も、徹底的に差別し、いじめ抜きました。
本来、徳川慶喜 が江戸城を新政府に明け渡し、寛永寺で閉居を開始した時点で、幕府と討幕派の戦いは終わっているのだと思います。でも、そういう流れにならなかったので、奥州や羽州の諸藩は、京都を守った会津藩と江戸を守った庄内藩に同情し、会津や庄内を助けるために奥羽越列藩同盟を結成したということです。ところが、薩長を中心とする藩閥政権が、あくまで会津や庄内を討伐する姿勢を貫いたため、奥羽越列藩同盟が軍事同盟になってしまったという歴史の事実は見逃されてはならないと思います。
また、薩長藩閥政権側の攻撃は、あまりに残酷非道なものだったと思います。抵抗する会津兵のみならず、武士はもちろん、無抵抗の町人や百姓、逃げ惑う老若男女まで見境なく斬り、撃ち殺したというのです。おまけにその死体の埋葬を許さず、放置させたといいます。そして、最終的には、ニ十八万石の会津藩を滅藩とし、北の果ての下北の地に追いやったのです。それが斗南藩三万石(実質七千石)といいます。だから私は、薩長藩閥政権が、逆らうものは徹底的に潰し、再び逆らうことができないようにしたのだと思います。私は、その野蛮性がその後、朝鮮や中国に向い、日本の敗戦まで続いたように思っています。
問題は、その薩長藩閥政権の流れを受け継ぐ政治家が、現在、再び政権中枢で勢力を拡大し、”日本を取り戻す”などとうキャッチコピーを掲げて、戦後民主化された日本を、着々とつくりかえつつあるということです。
だから私は、明治維新にこだわっているのですが、今回は、「徳川慶喜のすべて」小西四郎(新人物往来社)から、徳川慶喜自身の回想の言葉をいつくか抜萃しました。
前稿で、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から
”鳥羽・伏見の戦いで傷つき、すべてを失った会津の兵士たちは口々に、「豚一(ブタイチ)が弱いために敗北した」と悔しがった。豚一とは慶喜のことである。よく豚を食べた。”
という文章を引きました。会津藩士のこうした思いは、当然のことだと思います。
徳川慶喜が自ら、二条城を出て大坂城に移った時、下記に抜萃した文章にあるように、大坂城にイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を招き、”王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだ”と主張ています。
そして、強気の姿勢を見せ、幕兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」と命じたといいます、でもその夜、慶喜は、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまったというのですから、それは、裏切り行為に等しいものであったように思います。だから、徳川慶喜の、そうした一貫しない姿勢が、”豚一が弱いために敗北した”というような思いを抱かせることになってしまったのではないかと思います。
下記の回想を読むと、幕府側が決して一枚岩ではなかったことがよくわかります。特に徳川慶喜が、浮いた存在であったような気がします。でもそれは、薩長を中心とする尊王攘夷急進派の欺瞞に満ちた戦い方を知悉している徳川慶喜に、大きな不安があったからではないかと想像します。
徳川慶喜は、身近にいた幕臣の多くを殺され、失っています。そしてよくその寂しさを側近に語っていたようです。巧みに朝廷の権威を利用する尊王攘夷急進派は、テロを繰り返す残酷な集団でした。だから、抵抗を続けて敗けると、幕府側の人間が皆殺しにされるような悲惨な事態に至るのではないかという不安に苛まれていたのではないかと思います。そうした事態を避けるためには、自分が何といわれようと、戦いを止め、恭順の意志を示す必要があるという考え方をしたのではないか、と想像します。そうでなければ、聰明で知られる徳川慶喜の矛盾に満ちた態度は、理解できないように思います。
ウクライナ戦争に関しては、アメリカの影響下にある日本では、ウクライナに侵攻したロシア非難一色のような気がします。でも、ロシアを非難することが、ウクライナの戦争を支援することになってはいけないと思います。戦争を止めることが、最重要課題であると思います。だから、ロシア軍がなぜウクライナに侵攻したのかということをつきとめ、その経緯を明らかにして、話し合いに持ち込む努力が続けられなければならないと思います。
アメリカが、ヨーロッパ諸国に対するロシアの影響力拡大を阻止しようとする意図をもって、ノストストリーム2の運用を妨害するような動きを続けていたという情報が気になります。また、その合法性も気になります。
さらに、プーチン大統領がくり返している、東西ドイツ統一の際のNATO東方不拡大の約束の詳細も気になります。そうした事実が、きちんと国際組織の法律家によって聴取され、明らかにされて、客観的に検証される必要があると思います。そして、武力的ではなく、法的に解決される道を模索してほしいと思います。
アメリカやNATO関係国に追随し、ロシア軍のウクライナ侵攻を根拠に、ロシアを屈服させようとする力の政策は、戦争の被害を拡大することになるように思います。武器の供与はもちろん、厳しい経済制裁も、個人資産の凍結も、防弾チョッキやヘルメットの供与も、あらゆる組織からのロシア人の排除も、戦争の被害拡大につながるものではないかと思います。
こうした国際的な争いは、武力衝突に至る前に、第三者的立場に立てる法律家が対処するシステムを、一日も早く確立してほしいと思います。軍人や政治家に任せると、どうしても武力衝突になる傾向があるように思います。
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最後の将軍徳川慶喜と戊辰戦争
佐々木克
慶喜回想
『昔夢会筆記』は、徳川慶喜晩年の回想談速記録(部分的には談話をもとにした筆記)である。
三十歳にして、慶喜は自らの責任で、幕府終焉の幕を引いたが、以後延々と、かつての政敵の演ずる、見たくもない芝居を見続け、四十年という巨大な空間を経たあとで、彼は自分の幕末史を振り返ってみせたのである。
大政奉還
明治四十四年(1911)に行なわれた談話聴取の席で(『昔夢会筆記』第十三)井野辺茂雄が徳川慶喜に、大政奉還について質問した次のような問答がある。(公は徳川慶喜)
井野辺 次を伺います。大政を御奉還になりました時に、その後の御処分はいかが遊ばさるべきお考えでございましたろうか。将来における徳川家のお立場についてのその時の御決心を伺いとうございます。
公 それは真の考えは、大政を返上して、それで自分が俗に言う肩の力を抜くとか安を偸むとかいうことになって(「は」脱か=引用者註)すまない。大政を返上した上は、実はあくまでも国家のために尽くそうという精神であった。しかし返上した上からは、朝廷の御差図を受けて国家のために尽すというのだね、精神は。それで旗本などの始末をどうするとかこうするとかいうことまでには、考えが及ばない。ただ返上した上からはこれまでどおりにいっそう皇国のために尽くさぬではならぬ、肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神であった。後で家来をどうようとかこうしようとかいうことまでには、考えがまだ及ばなかった。
井野辺 あの頃山内容堂などの計画では、議政府というものを設けまして諸大名・旗本・諸藩士、そういう者から俊才を抜擢して、会議制度で政治をやって行こうという案でございます。容堂の腹の底では議政府の議長みたようなものを御前に願って、やはり徳川家が政治の中心であるかの如き形でやってゆきたいというような計画をいたしておりまして、何かそんな風の事柄につきまして……。
公 何かあったか知らぬが、しかしそれは容堂の方にあるのだ。こちらにはない。すべて返上した以上は、朝廷の命を奉じて何でもやろう、こういうだけの精神だ。それまでのことだ。他にはいろいろ何もあっただろうけれども、それは他の方の話で、関係ないことだ。
・・・
…この談話から五か月後、慶喜は「王政復古の基礎を立てられるべきについてはいかなる御成案あらせられしか伺いたく候」と質問され、以下のように答えている。
予が政権返上の意を決したるは早くよりの事なれど、さりとていかにして王政復古の実を挙ぐべきかということは成案なかりき。如何とされば、公卿・堂上の力にては事ゆかず、諸大名とても同様なり。さりとて諸藩士にてはまだ治まるべくとも思われず……(『昔夢会筆記』第十四)
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慶喜の戊辰戦争
・・・
『昔夢会筆記』(第十五)で、中根雪江から王政復古のクーデターの計画を聞いた時の事を、慶喜は次のように述べている。
中根が二条城に来りて、近日王政復古の大号令を発し、関白、将軍、守護職、所司代みな廃せらるるに至るべしと、眼を円くして語れるは事実なり。この時は人払いにて聴たるやに覚ゆ。されど予は別に驚かざりき。既に政権を返上し、将軍職をも辞したれば、王政復古の御沙汰あるべきは当然にて、王政復古にこれらの職の廃せられんこともまた当然なり。
中根退きて後、予は板倉伊賀守を呼びてその旨を告げ、「この上何事も朝廷のままに従う事、なお従来諸大名が幕府の命に従いしがことくすべし」といいしに、板倉も至極同意にて「謹んで朝命をさえ御遵奉遊ばされなば、それにてよろしかるべし」といえり。されど会桑はとうてい承服すべきにあらざれば、これを聞かせては面倒なりと思いて、いまだこれを洩らさず……
この談話にも表われているが、慶喜には討幕派と一戦を交えようとする意志はなかったように思える。強硬派の会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬には内密にしておいた事がそれを物語っていると言えよう。この両藩こそ、在京幕府兵力の中核であった。十二日に二条城を出て大坂城に移った時も、この両者には「遅速緩急あるも、必ず彼が罪を問う可し、予に深謀あり、然れども事密ならざれば敗る、今明言す可らず」(『七年史』下巻)といい、有無をいわさず、大坂に連れて行ったのであった。「あれを残しておけば(戦争が=引用者)始まる」(『昔夢会筆記』)第五)というのが慶喜の理由である。
討幕派の罪を問うとか、深謀があるとか、慶喜は含みのある言葉で強硬派をなだめて、下坂した。会津・桑名両藩主をはじめ、幕府の主戦派は、慶喜が大坂城に拠って陣容を補強して反撃に移るだろうと期待し、大久保利通ら討幕派の首脳部でさえ、そう見ていた。
確かに、大坂城に移ってからの慶喜は、強気の姿勢を見せている。十六日、彼は大坂城でイギリス、アメリカ、フランス、イタリア、プロシアの六国公使を引見したが、そこで、王政復古は、幼い天皇の意見に託して、実は私心を行なったもので、それは万民を悩ませる兇暴の所業であると決めつけ、依然として自分が、日本の主権者であり、幕府が日本の政府なのだと主張していた。
一方討幕派の方であるが、王政復古を宣言したものの、政府の組織も整わず、財政的裏付けもなく、政府部内の意志統一も今一つであった。それに、慶喜の辞官・納地のやり方をめぐって、議論が分かれ、次第に公議政体派の方が力を盛り返して、岩倉具視さえも、慶喜の処分をめぐって軟化しだした。慶喜が自ら上京して、辞官と納地を上奏するならば、慶喜を、王政復古政府の一員たる議定に就任させてもよいとまでいい出した。限定つきではあるが、公議政体派の運動によって、慶喜復権の兆しが見え出して来ていた。
しかしそれでは、討幕派は承知しない。彼らの目的は、あくまでも幕府を排除した薩長討幕派政権の樹立でなくてはならないのだ。そうでなければ、何のための討幕挙兵であり、クーデターであったのか無意味になる。王政復古政府内における討幕派は、下手をすると少数派に追い詰められそうな気配が見え出し、また大坂城を根拠とする幕府軍への恐怖感もあって、次第に焦燥感を強くしていった。討幕派は何かしら局面打開の突破口を見いださねばならなくなっていた。
そうした時に起ったのが、西郷隆盛が指揮する薩摩藩関係者による、江戸市中擾乱工作と、それに対する幕府側の攻撃、すなわち、ニ十五日、庄内藩による江戸薩摩藩邸焼き打ち事件であった。慶喜の目の届かぬ江戸で起こったとはいえ、幕府側は、まんまと薩摩・討幕派の挑発に引っかかってしまったのである。こうなったら戦争しかない。
薩邸焼き打ちの報が大坂城にとどいたのが、暮のニ十八日、城内は蜂の巣をつついたようになった。もはや慶喜も、激昂する会・桑その他幕府側兵士を抑えきることができなかった。おりから慶喜は、辞官・納地を上奏するため上洛の準備中であり、軽装で(つまり小人数を従えて)上洛するともりであったが、勢いづいた幕兵は「残らず行け」という勢いになってしまった。ついに戦争である。年が明けた正月二日、幕兵は伏見まで進んだ。先鋒となった幕府大目付滝川具挙は「討薩の表」を持っていた。翌三日、鳥羽と伏見において、戦争が始まる。幕府崩壊を決定づけた戦争であった。
当時の状況について、慶喜は次のように回想している。
「それ(討薩の表=引用者)は確かに見たようだったが、もうあの時分勢い仕方がない…。とうてい仕方がないので、実は打棄らかしておいた。討つとか退けるとかいう文面のものを、竹中が持って行ったということだ」
「書面などは後の話で、大体向こうが始めてくれればしめたものだ。何方も早くはじめりゃあよい。始めリゃ向こうを討ってしまうというのだ。向こうも討ってしまいたいけれども機会がない。此の方も機会がないといったようなわけで、両方真っ赤になって逆上せ返っているんだ。どんなことを言ってもとても仕方がない。
「私は不快で、その前から風邪を引いて臥せっていた。もういかぬというので、寝衣のまま始終いた。するなら勝手にしろというような少し考えもあった」(以上『昔夢会筆記』第五)
この談話を読む限り、当時の幕兵の勢いを、もはや慶喜個人では抑えきれなかった様子がよくわかる。戦争が始まる時の情況とは、大方こんなものなのだろう。
・・・
正月三日の鳥羽・伏見戦争で幕軍は敗れ退却する。六日夕、慶喜は諸有司・隊長らを大坂城の大広間に集めて対策を尋ねた。答えは依然として再挙を熱望する声ばかりで、その上幕軍を鼓舞するために慶喜の出馬を迫る声が圧倒的であった。慶喜はこの時、すでに江戸に帰る意志を強くしていたという。しかし将兵には「これより打ち立つべし、皆々その用意すべし」(『昔夢会筆記』)第十四)と命じた。
だがそうしておいて、慶喜自身はその夜、ひそかに大坂城を脱出し、江戸に帰ってしまった。慶喜に同行したのは、松平容保、松平定敬、老中酒井忠惇、板倉勝静ら、わずか数名であった。しかも彼らは、慶喜がなぜ江戸に脱走するのか、その真意は伝えられていない。一般の将兵が慶喜の逃亡を知ったのは、夜が明けてからであった。取り残された者たちも、主のいなくなった大坂城を捨てて、われ先にと脱走して行ったのであった。
この時慶喜は「江戸に帰り、堅固に恭順謹慎せんと決心せしかど、そは心に秘めて人には語らず」(『昔夢会筆記』)第十四)という心境であったという。大坂城脱出に際して将兵をだましたのは、東帰恭順を主戦派将兵たちに妨げられるのを恐れたためであった、という意味の事柄も述べている。しかしながら一方では、会津藩兵には、たとえ千騎が一騎となっても退くなといい、桑名藩兵にも大坂城の死守を命じている。これらも、東帰を妨げられないための、カモフラージュ作戦なのであろうか。ともかく、幕府の最高責任者として慶喜を見た時、その行動には不透明な部分が多過ぎはしないか。
ところで、幕軍の敗色が決定的となった六日になってから、急に東帰を決意し、大坂城を急遽脱出したのは、一刻も早く江戸城に帰って、再起の態勢を整えるためであった、と慶喜の意志を解釈する説もある。確かに十二日に江戸城に帰ってからの慶喜は、再び強気の姿勢を見せたり、とても恭順謹慎を決心している人間とは思えない動きをする。十七日には、松平慶永、山内容堂に手紙を送って朝廷に周旋を依頼し、その中で慶喜は、鳥羽・伏見戦争は「先兵の者が争闘」したまでの事で、追討令が出されたのは心外の至りであると述べてさえいた。
結局、慶喜最後の期待に反して、討幕派政権は、慶喜球解の嘆願を無視し、慶喜はニ月十二日に江戸城を出て、上野東叡山寛永寺大慈院に移り謹慎し、恭順謝罪書を政府に提出せざるを得なかった。
ここに彼の政治的生命は、完全に終わりを告げるのであるが…。