1945年9月2日、ハノイ中心部にある旧総督府前、バーディン広場でベトナム民主共和国の独立式典があった。その時、ホー・チ・ミンによって読み上げられた「独立宣言」の文章に、”200万人以上の同胞が餓死した”という驚くべき文言がある。1944年から45年にかけて、つまり日本軍がベトナムを含むインドシナを占領していた時期のことである。
それは、1944年11月頃から始まる。もともとベトナム北部は人口過密で食糧不足に陥りがちであった。特にこの年は、収穫直後から食糧の強制供出でほとんど手元に米がない状態であったという。それまでは、食糧が不足するときはトウモロコシなどの雑穀で食いつないだり、南部からの供給に頼ったりして生き延びてきたのであるが、大戦末期には、南部も余裕がなかった上に、戦争によって交通網が寸断されたこともあって、南部からの供給は不可能であった。それに追い討ちをかけたのが、日本軍による黄麻(コウマ、別名ジュート、インド麻、麻袋などに使われた)の強制栽培であるという。黄麻の栽培を強制されたために、雑穀などの収穫もほとんどできなかったのである。
仏印の黄麻開発のために動員された企業の一つである台南製麻の会計係(河合さん)は、自らが関わった黄麻の強制栽培が「200万」の餓死者を出したという主張に疑問を呈しつつも「多くの行き倒れを目にした」と証言している。また、下段はハイフォン憲兵分隊の司法班に所属していた高田さんが、当時のベトナムで目撃した餓死者に関するものである。下記は、『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)から、大戦末期のベトナムにおける餓死者の数に関わる部分を抜粋したものである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2 台南製麻の会計係
「200万」の餓死者
8月一斉蜂起によって、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が成立した。その日、ハノイ中心部にある旧総督府前のバーディン広場で開かれた独立式典で、ホー・チ・ミンが書いた「独立宣言」が、50万の群集を前に、ホー自身によって読み上げられた。それには、次の一節が含まれている。
”1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。”
1944年から45年にかけて、つまり日本軍がインドシナを占領していた最後の時期において、ベトナム中部のクアンチ省から北部(バックボ)一帯にかけてきわめて多くの餓死者を出したが、「独立宣言」は、その数を「200万人以上」と算定した。「独立宣言」は、餓死者の数について具体的に言及した、最初の文献の一つであろう。
その後、日本政府がこの数を問題にしたことがある。1959年日本政府が「南ベトナム政府」と賠償協定を結ぶ際、国会に提出した政府提案理由の中で、言及されている。やや長文になるが関係部分を引用しておこう。
「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道線路の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た。ヴェトナム政府[当時のゴ・ディン・ジェム政権]は、この数字を100万とし、日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々は、もっぱら北部地区における餓死者の数は200万としているが、いずれも誇張であろう。しかし、餓死寸前の栄養失調者をも導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない。」
ここには、餓死者の数について3つの数字が出てくる。
一つは日本政府自身の推定で、「30万」。上記の文面では、日本政府は「30万」という数に自信ありげだが、しかしながら、その根拠はまったく示されていない。この数字は、敗戦直後ベトナムにいた外交官の報告にもとづいているに違いない、と私は推測する。それがどの報告なのかは確かめられないが、例えば、先に引用した「終戦以後本年3月に至る北部仏印政情報告」には、次の一節がある。
食糧問題に付いては昨年4、5月の候東京〔トンキン〕各方面を通して数十万の餓死者を出したること(越盟〔ベトミン〕の宣伝によれば其の数200万に上る由)……」
この1946年の報告では、「数十万」と幅をもたせており、同時に、ベトミンの「宣伝」する「200万」という数字については、疑問視されている。しかしいずれにしろ、日本側は調査したわけでもなかったにもかかわらず、当初からその数を低く見積もる傾向が強かった。したがって、日本政府が「数十万」を「30万」に読み変えたとしても、それほど不思議ではない。
第2は、「ヴェトナム政府」、つまり59年当時のゴ・ディン・ジェム政権の言う「100万」という数である。ゴ・ディン・ジェム政権が全ヴェトナム国民を代表するかどうかが、当時賠償に関連して国会の内外で議論された。同政権の根拠薄弱な正当性については、ひとまず視野の外に置いて、「100万」について検討すると、この数字についても特に根拠らしいものは示されていない。ゴ・ディン・ジェム政権としては、ベトナム民主共和国の主張する「200万」と日本政府が主張する「30万」との中間を取れば、ベトナム国民を納得させうるであろうし、また日本政府も受け入れやすいと踏んで、「100万」という数字を提出したのであろう。そして同政権は、餓死者に対する賠償として、1人1000アメリカ・ドルと換算し、合計10億ドルを日本に要求した(他の物質的損害に対する賠償と合わせて、総計20億ドルを要求した)。日本政府は「100万」についても「誇張があろう」とした。
第3は「日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々」が言う「200万」である。明らかにこの「200万」は、「独立宣言」中の一文ならびにベトナム民主共和国政府のその後の主張を受けたものである。日本政府は、これも「誇張があろう」とかたづけている。
しかしながら日本政府は、「30万」という数字にも確固とした根拠がなかったのであるから、「100万」ならびに「200万」の数字を虚偽架空として退けることもできなかった。したがって「餓死寸前の栄養失調者も導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万人の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない」と言わざるを得なかったのである。
それにもかかわらず、1959年日本政府がゴ・ディン・ジェム政権と最終的に妥結した賠償額は、3900万ドル(140億4000万円)である。この内約半分である2000万ドルが、餓死など人的損害に対する賠償である、と仮定してみよう。ジェム政権の換算法(1人=1000ドル)に従うと、日本政府は、わずか2万人分を賠償したにすぎない。まったく不当としか言いようのないほど、餓死者の数を低く抑えてしまったのである。
上記3つの数字のどれかを支持するにたる十分な資料を今の私は持ち合わせていない。だが、これまでの検討で一つ明らかになったことがある。それは日本政府が調査をまったくしないで、餓死者の数を一貫して低く見積もろうとし、そして最後にはその数字をウヤムヤにしてしまったことである。
ところで「200万」という、1945年9月2日の「独立宣言」に初めて現れる数字が、かなりの信憑性持っているのではないかと思わせる資料もある。それは省別の餓死者の数である。
例えば、紅河デルタの最先端に位置するタイビン省は、人口稠密な穀倉地帯であるが、1944年~45年の餓死者の数は約25万という記録がある〔本田勝一『北ベトナム』朝日新聞社1973年〕。また、ベトナムの歴史研究者の推定によると、その数は28万人である(チャン・フイ・リエウ監修『8月革命』第1巻 史学出版社、ハノイ、1960年)。1945年当時の人口を正確に知ることはできないが、1936年当時同省の人口は102万7000人であった。以後の10年で人口の変化があまりなかったとすれば、省人口の4分の1以上が餓死したことになる。この省では、零細な小農民が、ベトナム北部(トンキン)1、2を争う稠密度(1000平方メートル当り676人)で居住していた。しかも日本軍が駐屯していたハノイやハイフォンにも近く、また紅河一つを越えれば工業都市ナムディンに至るという位置関係にあったから、米略奪のために日本軍が直接この省に入ったり、あるいは村役人たちを親日団体に組織し、彼らを通して米取り上げを行なったりした。したがって、タイビン省一省だけで、餓死者が20万人以上にも達してもおかしくない条件を持っていたといえよう。
以上一例としてタイビン省を取り上げたが、このほかに、ゲティン省については、省内の地域ごとに餓死者の数を算出した比較的完備された統計があるし、ハドン省などいくつかの省についても餓死者の数が公表されている。統計の精密さについて見当を加えつつ、こうした省別の数を加算してゆけば、「200万」かどうかは何とも言えないが、かなりの数に達することは間違いなかろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4 ハイフォンの憲兵
ハイフォンにおける1945年3月9日
・・・
日本とフランスの関係が抜き差しならないものとなり、ついにはフランス軍を武装解除し、日本の一国支配を実現させた1944年暮れから翌年の冬にかけての時期、ベトナム北部の食糧難は危機的な飢餓状態にいたり、民衆は死の淵に立たされた。ハイフォン市内でも行き倒れの死体が多数ころがっていた。日に何十体と出る死体は、処理にこまると、クアカム河に投げ込まれた。高田さんは、次のように語っていある。
”田舎からハイフォンの町に相当の人がどんどんやってきて……。本来ならば田舎だから、当然食糧があるべきところが、生産は不振で、その上にやっぱし日本軍に強制的に米なんか取られるもんだからして、いよいよ食べるもんがなくなって……。町に出たならば、何か食べられるじゃろと思って、ハイフォンの町あたりにきおったですね。乞食みたいな格好して、バタバタ倒れてましたね、死んで道路に。死体がなんぼでもころがっているのを見ましたもんね。痩せ細って、栄養失調なんていうもんじゃなかったですね。今のアフリカの子供の写真みたいですよ。日本が飢餓対策をたてたかって?ぜんぜん聞いていませんね。師団参謀から、食糧を備蓄せよ、との命令がきました。自分たちだけは守ろうと……。日本兵は食っていまし
たよ。腹一杯食って、遊んでいましたよ。”
私の聴き取りでも、十中八、九の人が、ベトナムの民衆が飢餓に瀕していた時、日本兵は「腹一杯食って、遊んでいた」と証言している。「先生にですからざっくばらんに話しますが、その頃の女遊びはすごかったですよ」、と高田さんは恥らいながら語った。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です
それは、1944年11月頃から始まる。もともとベトナム北部は人口過密で食糧不足に陥りがちであった。特にこの年は、収穫直後から食糧の強制供出でほとんど手元に米がない状態であったという。それまでは、食糧が不足するときはトウモロコシなどの雑穀で食いつないだり、南部からの供給に頼ったりして生き延びてきたのであるが、大戦末期には、南部も余裕がなかった上に、戦争によって交通網が寸断されたこともあって、南部からの供給は不可能であった。それに追い討ちをかけたのが、日本軍による黄麻(コウマ、別名ジュート、インド麻、麻袋などに使われた)の強制栽培であるという。黄麻の栽培を強制されたために、雑穀などの収穫もほとんどできなかったのである。
仏印の黄麻開発のために動員された企業の一つである台南製麻の会計係(河合さん)は、自らが関わった黄麻の強制栽培が「200万」の餓死者を出したという主張に疑問を呈しつつも「多くの行き倒れを目にした」と証言している。また、下段はハイフォン憲兵分隊の司法班に所属していた高田さんが、当時のベトナムで目撃した餓死者に関するものである。下記は、『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)から、大戦末期のベトナムにおける餓死者の数に関わる部分を抜粋したものである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2 台南製麻の会計係
「200万」の餓死者
8月一斉蜂起によって、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が成立した。その日、ハノイ中心部にある旧総督府前のバーディン広場で開かれた独立式典で、ホー・チ・ミンが書いた「独立宣言」が、50万の群集を前に、ホー自身によって読み上げられた。それには、次の一節が含まれている。
”1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。”
1944年から45年にかけて、つまり日本軍がインドシナを占領していた最後の時期において、ベトナム中部のクアンチ省から北部(バックボ)一帯にかけてきわめて多くの餓死者を出したが、「独立宣言」は、その数を「200万人以上」と算定した。「独立宣言」は、餓死者の数について具体的に言及した、最初の文献の一つであろう。
その後、日本政府がこの数を問題にしたことがある。1959年日本政府が「南ベトナム政府」と賠償協定を結ぶ際、国会に提出した政府提案理由の中で、言及されている。やや長文になるが関係部分を引用しておこう。
「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道線路の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た。ヴェトナム政府[当時のゴ・ディン・ジェム政権]は、この数字を100万とし、日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々は、もっぱら北部地区における餓死者の数は200万としているが、いずれも誇張であろう。しかし、餓死寸前の栄養失調者をも導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない。」
ここには、餓死者の数について3つの数字が出てくる。
一つは日本政府自身の推定で、「30万」。上記の文面では、日本政府は「30万」という数に自信ありげだが、しかしながら、その根拠はまったく示されていない。この数字は、敗戦直後ベトナムにいた外交官の報告にもとづいているに違いない、と私は推測する。それがどの報告なのかは確かめられないが、例えば、先に引用した「終戦以後本年3月に至る北部仏印政情報告」には、次の一節がある。
食糧問題に付いては昨年4、5月の候東京〔トンキン〕各方面を通して数十万の餓死者を出したること(越盟〔ベトミン〕の宣伝によれば其の数200万に上る由)……」
この1946年の報告では、「数十万」と幅をもたせており、同時に、ベトミンの「宣伝」する「200万」という数字については、疑問視されている。しかしいずれにしろ、日本側は調査したわけでもなかったにもかかわらず、当初からその数を低く見積もる傾向が強かった。したがって、日本政府が「数十万」を「30万」に読み変えたとしても、それほど不思議ではない。
第2は、「ヴェトナム政府」、つまり59年当時のゴ・ディン・ジェム政権の言う「100万」という数である。ゴ・ディン・ジェム政権が全ヴェトナム国民を代表するかどうかが、当時賠償に関連して国会の内外で議論された。同政権の根拠薄弱な正当性については、ひとまず視野の外に置いて、「100万」について検討すると、この数字についても特に根拠らしいものは示されていない。ゴ・ディン・ジェム政権としては、ベトナム民主共和国の主張する「200万」と日本政府が主張する「30万」との中間を取れば、ベトナム国民を納得させうるであろうし、また日本政府も受け入れやすいと踏んで、「100万」という数字を提出したのであろう。そして同政権は、餓死者に対する賠償として、1人1000アメリカ・ドルと換算し、合計10億ドルを日本に要求した(他の物質的損害に対する賠償と合わせて、総計20億ドルを要求した)。日本政府は「100万」についても「誇張があろう」とした。
第3は「日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々」が言う「200万」である。明らかにこの「200万」は、「独立宣言」中の一文ならびにベトナム民主共和国政府のその後の主張を受けたものである。日本政府は、これも「誇張があろう」とかたづけている。
しかしながら日本政府は、「30万」という数字にも確固とした根拠がなかったのであるから、「100万」ならびに「200万」の数字を虚偽架空として退けることもできなかった。したがって「餓死寸前の栄養失調者も導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万人の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない」と言わざるを得なかったのである。
それにもかかわらず、1959年日本政府がゴ・ディン・ジェム政権と最終的に妥結した賠償額は、3900万ドル(140億4000万円)である。この内約半分である2000万ドルが、餓死など人的損害に対する賠償である、と仮定してみよう。ジェム政権の換算法(1人=1000ドル)に従うと、日本政府は、わずか2万人分を賠償したにすぎない。まったく不当としか言いようのないほど、餓死者の数を低く抑えてしまったのである。
上記3つの数字のどれかを支持するにたる十分な資料を今の私は持ち合わせていない。だが、これまでの検討で一つ明らかになったことがある。それは日本政府が調査をまったくしないで、餓死者の数を一貫して低く見積もろうとし、そして最後にはその数字をウヤムヤにしてしまったことである。
ところで「200万」という、1945年9月2日の「独立宣言」に初めて現れる数字が、かなりの信憑性持っているのではないかと思わせる資料もある。それは省別の餓死者の数である。
例えば、紅河デルタの最先端に位置するタイビン省は、人口稠密な穀倉地帯であるが、1944年~45年の餓死者の数は約25万という記録がある〔本田勝一『北ベトナム』朝日新聞社1973年〕。また、ベトナムの歴史研究者の推定によると、その数は28万人である(チャン・フイ・リエウ監修『8月革命』第1巻 史学出版社、ハノイ、1960年)。1945年当時の人口を正確に知ることはできないが、1936年当時同省の人口は102万7000人であった。以後の10年で人口の変化があまりなかったとすれば、省人口の4分の1以上が餓死したことになる。この省では、零細な小農民が、ベトナム北部(トンキン)1、2を争う稠密度(1000平方メートル当り676人)で居住していた。しかも日本軍が駐屯していたハノイやハイフォンにも近く、また紅河一つを越えれば工業都市ナムディンに至るという位置関係にあったから、米略奪のために日本軍が直接この省に入ったり、あるいは村役人たちを親日団体に組織し、彼らを通して米取り上げを行なったりした。したがって、タイビン省一省だけで、餓死者が20万人以上にも達してもおかしくない条件を持っていたといえよう。
以上一例としてタイビン省を取り上げたが、このほかに、ゲティン省については、省内の地域ごとに餓死者の数を算出した比較的完備された統計があるし、ハドン省などいくつかの省についても餓死者の数が公表されている。統計の精密さについて見当を加えつつ、こうした省別の数を加算してゆけば、「200万」かどうかは何とも言えないが、かなりの数に達することは間違いなかろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4 ハイフォンの憲兵
ハイフォンにおける1945年3月9日
・・・
日本とフランスの関係が抜き差しならないものとなり、ついにはフランス軍を武装解除し、日本の一国支配を実現させた1944年暮れから翌年の冬にかけての時期、ベトナム北部の食糧難は危機的な飢餓状態にいたり、民衆は死の淵に立たされた。ハイフォン市内でも行き倒れの死体が多数ころがっていた。日に何十体と出る死体は、処理にこまると、クアカム河に投げ込まれた。高田さんは、次のように語っていある。
”田舎からハイフォンの町に相当の人がどんどんやってきて……。本来ならば田舎だから、当然食糧があるべきところが、生産は不振で、その上にやっぱし日本軍に強制的に米なんか取られるもんだからして、いよいよ食べるもんがなくなって……。町に出たならば、何か食べられるじゃろと思って、ハイフォンの町あたりにきおったですね。乞食みたいな格好して、バタバタ倒れてましたね、死んで道路に。死体がなんぼでもころがっているのを見ましたもんね。痩せ細って、栄養失調なんていうもんじゃなかったですね。今のアフリカの子供の写真みたいですよ。日本が飢餓対策をたてたかって?ぜんぜん聞いていませんね。師団参謀から、食糧を備蓄せよ、との命令がきました。自分たちだけは守ろうと……。日本兵は食っていまし
たよ。腹一杯食って、遊んでいましたよ。”
私の聴き取りでも、十中八、九の人が、ベトナムの民衆が飢餓に瀕していた時、日本兵は「腹一杯食って、遊んでいた」と証言している。「先生にですからざっくばらんに話しますが、その頃の女遊びはすごかったですよ」、と高田さんは恥らいながら語った。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です