真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ベトナム 餓死者「200万」と 日本軍 黄麻栽培強制

2014年06月24日 | 国際・政治
 1945年9月2日、ハノイ中心部にある旧総督府前、バーディン広場でベトナム民主共和国の独立式典があった。その時、ホー・チ・ミンによって読み上げられた「独立宣言」の文章に、”200万人以上の同胞が餓死した”という驚くべき文言がある。1944年から45年にかけて、つまり日本軍がベトナムを含むインドシナを占領していた時期のことである。

 それは、1944年11月頃から始まる。もともとベトナム北部は人口過密で食糧不足に陥りがちであった。特にこの年は、収穫直後から食糧の強制供出でほとんど手元に米がない状態であったという。それまでは、食糧が不足するときはトウモロコシなどの雑穀で食いつないだり、南部からの供給に頼ったりして生き延びてきたのであるが、大戦末期には、南部も余裕がなかった上に、戦争によって交通網が寸断されたこともあって、南部からの供給は不可能であった。それに追い討ちをかけたのが、日本軍による黄麻(コウマ、別名ジュート、インド麻、麻袋などに使われた)の強制栽培であるという。黄麻の栽培を強制されたために、雑穀などの収穫もほとんどできなかったのである。

 仏印の黄麻開発のために動員された企業の一つである台南製麻の会計係(河合さん)は、自らが関わった黄麻の強制栽培が「200万」の餓死者を出したという主張に疑問を呈しつつも「多くの行き倒れを目にした」と証言している。また、下段はハイフォン憲兵分隊の司法班に所属していた高田さんが、当時のベトナムで目撃した餓死者に関するものである。下記は、『私たちの中のアジアの戦争 仏領インドシナの「日本人」』吉沢 南(朝日選書314)から、大戦末期のベトナムにおける餓死者の数に関わる部分を抜粋したものである。
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                 2 台南製麻の会計係

「200万」の餓死者

 8月一斉蜂起によって、1945年9月2日、ベトナム民主共和国が成立した。その日、ハノイ中心部にある旧総督府前のバーディン広場で開かれた独立式典で、ホー・チ・ミンが書いた「独立宣言」が、50万の群集を前に、ホー自身によって読み上げられた。それには、次の一節が含まれている。

”1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略すると、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した。その結果、昨年末から今年はじめにかけて、クアンチからバックボにいたるまで200万人以上の同胞が餓死した。”

 1944年から45年にかけて、つまり日本軍がインドシナを占領していた最後の時期において、ベトナム中部のクアンチ省から北部(バックボ)一帯にかけてきわめて多くの餓死者を出したが、「独立宣言」は、その数を「200万人以上」と算定した。「独立宣言」は、餓死者の数について具体的に言及した、最初の文献の一つであろう。

 
 その後、日本政府がこの数を問題にしたことがある。1959年日本政府が「南ベトナム政府」と賠償協定を結ぶ際、国会に提出した政府提案理由の中で、言及されている。やや長文になるが関係部分を引用しておこう。
「……ヴェトナム領域における特殊な様相は、常時8万前後のわが軍の存在及び南方領域に対する割当20万人の兵站補給基地としての役割から生じた。すなわち、交通輸送機関の全面的徴発、主として米軍の爆撃による鉄道線路の寸断等の原因から国内経済流通が極度に乱れ、加うるに、諸物資の大量徴発のため昭和20年に入ってからは餓死者のみで推定30万が出た。ヴェトナム政府[当時のゴ・ディン・ジェム政権]は、この数字を100万とし、日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々は、もっぱら北部地区における餓死者の数は200万としているが、いずれも誇張であろう。しかし、餓死寸前の栄養失調者をも導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない。」

 ここには、餓死者の数について3つの数字が出てくる。
 一つは日本政府自身の推定で、「30万」。上記の文面では、日本政府は「30万」という数に自信ありげだが、しかしながら、その根拠はまったく示されていない。この数字は、敗戦直後ベトナムにいた外交官の報告にもとづいているに違いない、と私は推測する。それがどの報告なのかは確かめられないが、例えば、先に引用した「終戦以後本年3月に至る北部仏印政情報告」には、次の一節がある。


 食糧問題に付いては昨年4、5月の候東京〔トンキン〕各方面を通して数十万の餓死者を出したること(越盟〔ベトミン〕の宣伝によれば其の数200万に上る由)……」
 この1946年の報告では、「数十万」と幅をもたせており、同時に、ベトミンの「宣伝」する「200万」という数字については、疑問視されている。しかしいずれにしろ、日本側は調査したわけでもなかったにもかかわらず、当初からその数を低く見積もる傾向が強かった。したがって、日本政府が「数十万」を「30万」に読み変えたとしても、それほど不思議ではない。

 第2は、「ヴェトナム政府」、つまり59年当時のゴ・ディン・ジェム政権の言う「100万」という数である。ゴ・ディン・ジェム政権が全ヴェトナム国民を代表するかどうかが、当時賠償に関連して国会の内外で議論された。同政権の根拠薄弱な正当性については、ひとまず視野の外に置いて、「100万」について検討すると、この数字についても特に根拠らしいものは示されていない。ゴ・ディン・ジェム政権としては、ベトナム民主共和国の主張する「200万」と日本政府が主張する「30万」との中間を取れば、ベトナム国民を納得させうるであろうし、また日本政府も受け入れやすいと踏んで、「100万」という数字を提出したのであろう。そして同政権は、餓死者に対する賠償として、1人1000アメリカ・ドルと換算し、合計10億ドルを日本に要求した(他の物質的損害に対する賠償と合わせて、総計20億ドルを要求した)。日本政府は「100万」についても「誇張があろう」とした。


 第3は「日本で、この賠償協定に政治的理由で反対している一部の人々」が言う「200万」である。明らかにこの「200万」は、「独立宣言」中の一文ならびにベトナム民主共和国政府のその後の主張を受けたものである。日本政府は、これも「誇張があろう」とかたづけている。
 しかしながら日本政府は、「30万」という数字にも確固とした根拠がなかったのであるから、「100万」ならびに「200万」の数字を虚偽架空として退けることもできなかった。したがって「餓死寸前の栄養失調者も導入すれば、このような数字に達したかもしれない。その他強制労働に従事せしめた数万人の労務者の中からも、相当数の犠牲者が出たことは想像に難くない」と言わざるを得なかったのである。


 それにもかかわらず、1959年日本政府がゴ・ディン・ジェム政権と最終的に妥結した賠償額は、3900万ドル(140億4000万円)である。この内約半分である2000万ドルが、餓死など人的損害に対する賠償である、と仮定してみよう。ジェム政権の換算法(1人=1000ドル)に従うと、日本政府は、わずか2万人分を賠償したにすぎない。まったく不当としか言いようのないほど、餓死者の数を低く抑えてしまったのである。

 上記3つの数字のどれかを支持するにたる十分な資料を今の私は持ち合わせていない。だが、これまでの検討で一つ明らかになったことがある。それは日本政府が調査をまったくしないで、餓死者の数を一貫して低く見積もろうとし、そして最後にはその数字をウヤムヤにしてしまったことである。
 ところで「200万」という、1945年9月2日の「独立宣言」に初めて現れる数字が、かなりの信憑性持っているのではないかと思わせる資料もある。それは省別の餓死者の数である。

 例えば、紅河デルタの最先端に位置するタイビン省は、人口稠密な穀倉地帯であるが、1944年~45年の餓死者の数は約25万という記録がある〔本田勝一『北ベトナム』朝日新聞社1973年〕。また、ベトナムの歴史研究者の推定によると、その数は28万人である(チャン・フイ・リエウ監修『8月革命』第1巻 史学出版社、ハノイ、1960年)。1945年当時の人口を正確に知ることはできないが、1936年当時同省の人口は102万7000人であった。以後の10年で人口の変化があまりなかったとすれば、省人口の4分の1以上が餓死したことになる。この省では、零細な小農民が、ベトナム北部(トンキン)1、2を争う稠密度(1000平方メートル当り676人)で居住していた。しかも日本軍が駐屯していたハノイやハイフォンにも近く、また紅河一つを越えれば工業都市ナムディンに至るという位置関係にあったから、米略奪のために日本軍が直接この省に入ったり、あるいは村役人たちを親日団体に組織し、彼らを通して米取り上げを行なったりした。したがって、タイビン省一省だけで、餓死者が20万人以上にも達してもおかしくない条件を持っていたといえよう。


 以上一例としてタイビン省を取り上げたが、このほかに、ゲティン省については、省内の地域ごとに餓死者の数を算出した比較的完備された統計があるし、ハドン省などいくつかの省についても餓死者の数が公表されている。統計の精密さについて見当を加えつつ、こうした省別の数を加算してゆけば、「200万」かどうかは何とも言えないが、かなりの数に達することは間違いなかろう。
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               4 ハイフォンの憲兵

ハイフォンにおける1945年3月9日

 ・・・
 日本とフランスの関係が抜き差しならないものとなり、ついにはフランス軍を武装解除し、日本の一国支配を実現させた1944年暮れから翌年の冬にかけての時期、ベトナム北部の食糧難は危機的な飢餓状態にいたり、民衆は死の淵に立たされた。ハイフォン市内でも行き倒れの死体が多数ころがっていた。日に何十体と出る死体は、処理にこまると、クアカム河に投げ込まれた。高田さんは、次のように語っていある。

”田舎からハイフォンの町に相当の人がどんどんやってきて……。本来ならば田舎だから、当然食糧があるべきところが、生産は不振で、その上にやっぱし日本軍に強制的に米なんか取られるもんだからして、いよいよ食べるもんがなくなって……。町に出たならば、何か食べられるじゃろと思って、ハイフォンの町あたりにきおったですね。乞食みたいな格好して、バタバタ倒れてましたね、死んで道路に。死体がなんぼでもころがっているのを見ましたもんね。痩せ細って、栄養失調なんていうもんじゃなかったですね。今のアフリカの子供の写真みたいですよ。日本が飢餓対策をたてたかって?ぜんぜん聞いていませんね。師団参謀から、食糧を備蓄せよ、との命令がきました。自分たちだけは守ろうと……。日本兵は食っていまし
たよ。腹一杯食って、遊んでいましたよ。”


 私の聴き取りでも、十中八、九の人が、ベトナムの民衆が飢餓に瀕していた時、日本兵は「腹一杯食って、遊んでいた」と証言している。「先生にですからざっくばらんに話しますが、その頃の女遊びはすごかったですよ」、と高田さんは恥らいながら語った
 

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 インドネシア

2014年06月19日 | 国際・政治
 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)から、「インドネシア」の中学校用『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア 語)マルトノ著(ティガ・スランカイ社 1988年版)の、ごく一部分を抜粋したものである。
 インドネシアの中学校用教科書には、戦時中の日本の軍政がどのようなものであったのか、詳細に記述されている。多岐にわたる日本の加害責任と、その責任の大きさにあらためて驚かされる。

 ところが逆に、日本では 安倍自民党政権が「自虐史観から脱皮する教育を進める」として、教科書検定基準の「近隣諸国条項」を廃止するという。下村博文文部科学相も、教科書検定制度について「日本に生まれたことを誇らしく思えるような歴史認識が教科書に記載されるようにしていく必要がある」と述べている。「自虐史観に陥ることなく日本の歴史と伝統文化に誇りを持てるよう、教科書の編集・検定・採択で必要措置を講ずる」というわけである。

 1985年、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が、「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目になります」という演説をしたことはよく知られているが、日本の戦争における加害責任を教えないことで「誇りを取り戻す」というのは、「未来に対しても盲目」になるということではないのか。きちんと歴史の事実に向き合い、過去を乗り越えて、生まれ変わった日本を示すことで、誇りを取り戻すようにすべきだし、周辺国もそれを望んでいるは明らかだと思う。
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中学校用 『社会科学分野 歴史科 第五分冊』(インドネシア語)マルトノ著 ティガ・スランカイ社 1988年版

               Ⅲ 日本占領時代

B インドネシアは、日本の戦争を支えるために資源および人力を提供させられた
 当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望してきた独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待をもったのだろうか。それは、日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
──日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア
   民族を西洋の植民地から解放することである。
──日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
 その実態はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局、独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培、強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。
 戦時中であったために、日本による占領時代のインドネシアでは、軍政がしかれた。ジャワ島とスマトラ島は陸軍によって、その他の地域は海軍に支配された。そして、戦時にふさわしいように、あらゆる種類の活動の目的が、戦争に必要とするものにむけられた。


 天然資源が、戦争のために搾取された。労働力が、戦争のために搾取された。その搾取は、つぎのように行われた。

a 天然資源と食糧の搾取─原材料は、戦争が必要とする工業材料を得るために使われた。食糧の供給は、とくに軍人による消費のための備蓄にむけられた。
──あらゆる耕作地は、日本軍政府に監視された。収穫物の販売は独占され、価
   格も日本軍政府によって決定された。それは、モルッカ諸島でのオランダ東イ
   ンド会社による香料の独占と、どこが違うのだろうか。
──戦争にあまり役立たないものの栽培は、制限されたり、完全にやめさせられ
   た。例えば、スマトラでの煙草の栽培は壊滅させられ、ヒマの栽培に替えさせ
   られた。ヒマは飛行機の潤滑油の材料として、非常に必要だったのだ。
──必要性があるため、依然として耕作が続けられたものには、キニーネ、ゴム、
   砂糖きびがあった。

──森林は、農地として利用するという理由で伐採された。森林伐採は、ジャワ島
   だけで、50万ヘクタールにおよんだ。
 農地造成のための場当たり的な森林伐採は、結局のところ、食糧増産にはつながらず、それどころか逆に、収穫は減少した。思慮を欠いた森林伐採は、土地の侵食と洪水の原因となった。侵食は土地の肥沃度を低下させ,灌漑に不可欠な水源を涸れさせた。洪水は、稲作を破壊した。
 そのほかにも、農業生産を減少させた原因があった。
──優れた農業技術を欠いたまま、農業が続けられていた。日本は、その国内で
   実施していたような、近代的農法の指導をしたことがなかった。
──日本軍政府は、軍隊の消費のために、家畜を大量に殺した。その結果、家畜
   の数が次第に減少していった。しかし、農民たちは、田を耕すために、家畜が
   必要だった。

──民衆は、各自の庭でヒマを栽培することを義務づけられた。その収穫は日本
   軍政府にひきわたさねばならなかった。これは、オランダ東インド政府時代の
   強制栽培と、どこがちがうだろうか。結果的に、耕地は減少し、農民には田で
   働く時間が不足してきた。
──多くの民衆が無理やりロームシャ(強制労働者)にされた。こうして、田を耕作
   する労働力が、しだいに減少していった。農業生産はすでに減少していたが、
   民衆は依然として収穫の80パーセントを、日本軍政府に引き渡すよう強制さ
   れた。
 この結果、民衆の間では食糧がたいへん不足してきた。多くの人びとが死んでいった。道端や店先など方々で、しばしば死体が目撃された。
 一方、日本軍政府による衣料品の供給も失敗してしまう。オランダの植民地時代には、輸入によって、民衆の衣料需要を満たしていた。日本植民地時代には、戦時であったので、このような輸入はありえなかった。そのため、民衆は綿の栽培を義務づけられた。しかし、十分な成果は上がらず、またインドネシア国内で加工することは、まだできなかった。
 その結果、民衆の衣料は非常に不足し、地方の多くの人びとは、麻やシュロの繊維で作った粗末な服を、身に着けるしかなかった。それさえも買うことができない民衆もまたいたのである。


b その他の物資の搾取──民衆の負担は、日本が戦争に必要なその他の物資の供出を義務づけたために、いっそう重くなった。
 そのような物資に、屑鉄がある。古い鍬や鎌、そして庭の鉄柵まで取り壊して、差し出さねばならなかった。

c 労働力の搾取──労働力の搾取が、社会の階層を問わず、いたるところで行われた。都市から田舎まで、知識層も文盲の人びともまた、そのすべてが戦争のために搾取されたのだ。

 もっともひどい目にあったのは、強制労働者(ロームシャ)にするために動員された人びとだった。彼らは田舎の出身で、一般的に文盲だった。もし教育のある者がいたとしても、小学校卒業がせいぜいであった。
 そのロームシャたちは、橋、幹線道路、飛行場、防衛拠点、防空壕といった、日本の防衛のために重要であった建設工事で労働を強制された。そのような壕が、いまも残っている。カリウラン(ジョグジャカルタ)にあるのは、その一つだ。

 
 ジャワ島の各地方から集められた数千の人びとが、ジャワ島以外の島の森林で働かされた。それどころか、例えばマラヤ、ビルマ、タイ、インドシナなど、国外で労働させられた人びともいた。ロームシャの仕事は、非常に重労働だった。原始林で木を伐採し、丘を掘り崩し、山の中で岩を砕くことなどが、その仕事だった。それとともに、ロームシャたちの待遇は、きわめて残酷であった。彼らが労働中に少しでも不注意だったりすると、平手でたたかれ、銃で殴られ、鞭で打たれ、足蹴にされた。これにあえて抵抗した者は、殺された。また、彼らの健康は、配慮されなかった。衣服は満足に支給されなかった。彼らは食糧を与えられはしたが、米の飯ではなく、タピオカの粉の粥だあった。それも一日一回であり、量もきわめて限られたものだった。
 その結果、数千人ものロームシャは、二度と故郷に戻ることができなかった。彼らは、働かされていた森林で世を去ったのだ


 ・・・以下略

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 フィリピン

2014年06月15日 | 国際・政治
 山本七平は、その著書「一下級将校の見た帝国陸軍」(文春文庫)で、「マニラ埠頭の罵声と石の雨を」思い出しながら、敗戦後の日本軍の撤退を、”字義通りに「石をもって追われた」のであった。”と書いている。そして、小松真一氏『虜人日記』の中の、まったく同じような内容の文章を引用している。

 ”・・・「バカ野郎」「ドロボー」「コラー」「コノヤロウ」「人殺し」「イカホ・パッチョン(お前なんぞ死んじまえ)」憎悪に満ちた表情で罵り、首を切るまねをしたり、石を投
げ、木切れがとんでくる。パチンコさえ打ってくる。 隣の人の頭に石が当たり、血がでた・・
・”

 これが、「アジア人のためのアジア」・「大東亜共栄圏」・「東亜新秩序」などをスローガンに軍を進め戦った「日本軍」に対する、また、「日本国」に対するフィリピン人の偽らざる評価なのであろう。敗戦後の日本軍の撤退は、「護送の米兵の威嚇射撃のおかげで、われわれはリンチを免れた」というようなものだったのである。日本軍によって、「自分たちの愛する土地を戦場にされ、農作物は荒らされ、家は焼かれ、肉親、知人に沢山の犠牲者を出した」フィリピン人が、マッカーサー率いるアメリカ軍の再上陸を、拍手をもって迎えたということも頷ける。

 そして、それは、下記に抜粋したフィリピン小学校4年生読本『歴史』(1977年版)の中の「フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです」や「しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。」の文章に集約されおり、フィリピンの歴史教育の一部になっているということである。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の「フィリピン」に取り上げられている高等学校用『フィリピンの歴史』高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』から、私が記憶しておきたいと思った項目を、いくつか選んで抜粋したものである。また、最下段は、フィリピン小学校4年生読本『歴史』の中の文章である。
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高等学校用『フィリピンの歴史』(タガログ語)テオドロ・A・アゴンシリオ著 ナショナル・ブックストア発行 1981年版

               第17章 太平洋戦争
マッカーサーと軍隊
 1939年、ヨーロッパで戦争が始まったとき、フィリピンの国情は必ずしも悪い状況ではなかった。しかしマヌエル・L・ケソン(フィリピン国民党党首・コモンウェルス政府大統領)は、フィリピンの美しい空に暗雲がたちこめるのではないかと感じた。民族主義者で、作家で、知識人、そして国会議員でもあるクラロ・M・レクトは、日本が一番危険ではないかと考えた。1930年代に日本と中国が戦争を始めたときから、日本は極東アジアを征服したがっていたらしい。もしアジアで戦争が起こったならば、ドイツが太平洋にある列強の植民地を奪ったように、日本もアメリカからフィリピンを奪うのではないか、というおそれを抱いた。ケソンは戦争が起こりそうな情報を受けていたので、マッカーサーにフィリピンを守るように要請した。つまり毎年4万の兵隊を訓練することを提案した。5年間に20万のフィリピン軍の動員を計算した。フィリピンを攻撃することは、どんな国にも容易にできないだろうと考えた。なぜなら、攻撃側は多くの兵隊と武器を失うだろうからである。ルーズベルト大統領はフィリピンとアメリカの軍隊を合体して、指揮官にマッカーサーを任命した。フィリピンの兵隊は13万であった。そのフィリピンとアメリカの軍隊の連合体をユサッフェ(アメリカ極東軍)─USAFFE(UnitedStates Armed Forces in the Far East)といった。



宣戦布告
 1939年ヨーロッパで戦争が始まってから、日本はドイツ、イタリアと同盟関係を結んだ。これらの国ぐにを枢軸国という。1941年7月、日本はインドシナ(現在のベトナム)に侵攻した。アメリカはその侵攻に脅威を感じた。アジアにあるイギリスやオランダの植民地、例えばマレーシアやインドネシアが危険であるように、フィリピンも危険と考えたからである。アメリカは、主権を持った国家同士であるということで、日本に対して相互に理解しあおうと提言した。しかし、日本はそれを拒否した。

 日本とアメリカの関係は険悪になった。2ヵ国の関係改善のため、日本は来栖三郎を野村駐米大使の協力者としてアメリカに派遣した。しかし両者がハル国務長官と交渉しているあいだに、日本はハワイにあるパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。日本は宣戦布告をしないで、アメリカの軍事施設を奇襲したのである。ハワイ時間12月7日だった。奇襲の結果、計5000名のアメリカ海軍将校と兵隊が死傷した。翌日、ルーズベルト大統領は議会で宣戦を提案した。日本はアメリカとイギリスに対して宣戦布告した。米英2ヶ国も日本に宣戦布告した。相互の宣戦布告で、ここに太平洋戦争が始まったのである。



日本の侵略
 真珠湾攻撃の数時間後、日本はフィリピンに侵攻した。それは1941年12月8日である。アメリカは日本の飛行機を撃ち落しにかかったが、日本は各地に攻撃をしかけてきた。アパリ、ダバオ、バギオ、タルラックなどであり、夜にはマニラが爆撃された。とき同じくして、日本はアパリ、リンガエン、アティモナン、そしてラモン湾に上陸した。日本がクラーク基地を爆撃したとき、アメリカは防衛することもできず、飛行機は破壊されてしまった。しかし、フィリピン人は、それにひるむことなく、以前と同じように心には希望を失わず団結した。・・・(以下略) 

 
日本軍はなにをしたか
 ケソンはコレヒドールを発つ前に、ホルヘ・B・バルガスとホセ・P・ラウレルに日本に占領された自国のことを頼んだ。日本軍がマニラを占領したときに、バルガスにフィリピン行政府の長になるように命令がきた。7つの省が設置され、それぞれの長にフィリピン人がなった。しかしどの省にも日本人がいて、フィリピンの一挙一動を監視していた。1943年初頭、日本は、フィリピンに「大東亜共栄圏」に参加するなら自由にするといった。そして日本は、フィリピンの憲法制定のためフィリピン独立準備委員会をつくった。日本はフィリピン独立言以前に、政党活動をすべて禁止し、そのかわりにカリバピ(新生フィリピン奉仕団)を設けた。この組織は新しいフィリピン大統領を選出したが、これは日本の支持によるものだった。
 1943年10月14日、ホセ・P・ラウレルは共和国大統領に就任した。その同じ日、ラウレルは日本と軍事協定(日比同盟条約)を結ぶことを強制された。この協定は無意味なものであった。なぜなら、フィリピンは日本に対し、もともと非協力的であったからである。フィリピン人は、フィリピン全国の学校で教えられた、アメリカとその民主主義の価値観のほうに忠実であった。



ゲリラ
 フィリピンの戦いは、バターンとコレヒドールの陥落とともには終わらなかった。ユサッフェの残軍は山に登り、ゲリラ活動を開始した。ゲリラの数は、町や市の市民が加わったり、また隠れてゲリラになる者もいたので増え続けた。日本軍の残酷さ──とくに地方での女性に対する邪悪な扱い──は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は有罪無罪を問わず捕らえられ、サンティアゴ砦や、日本軍が接収した刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。

 一般市民はゲリラに全面協力し、食糧やお金を与えた。市民はまた、ゲリラに兵力、兵営、武器、艦船の数など日本軍の状況を伝えた。このためオーストラリアにいたアメリカ軍は、フィリピンのどこを攻撃しなければならないかがわかっていた。
 フィリピン全土でさまざまなゲリラ・グループが発生した。軍人出身のゲリラ・リーダーもいれば、民間人のリーダーもいた。パナイ島ではトーマス・コンフェソールが民間人リーダーで、マカリオ・ペラルタ大佐が軍人出身のリーダーであった。レイテ島では、ルペルト・カンフレオン大佐が並ぶもののないリーダーであった。ミンダナオ島では‥(以下略)



アメリカ軍の帰還
 自由への道は長く険しかった。オーストラリアのアメリカ軍は、日本軍の手に陥っていた島々を取り戻していった。1944年9月、アメリカ軍は、フィリピンにいた日本軍に対して容赦ない砲撃をしかけた。フィリピンの人びとはひそかに喜んだが、日本軍はフィリピン人の心まで征服することはできなかった。

 ・・・(以下略)

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高等学校2年生用『フィリピンの歴史と政治』レオディビコ・C・ラクサマナ著 フェニックス出版社 1987年版

              第11章 日本のフィリピン占領

死の行進
 16人の将校を含む7万人以上のフィリピン人およびアメリカ人兵士たちが、バターンで武器を捨てた。降伏後、彼らは勝利者である敵の残忍な扱いを受けた。飢え、渇き、病い、疲労で極度に衰弱してにもかかわらず、彼らは、バターンのマリベレスからパンパンガのサン・フェルナンドまでの全行程を行進するよう強制された。この悪名高き「死の行進」中、フィリピン人約1万人、アメリカ人約1200人が路上で死亡した。サン・フェルナンドで生存者は有蓋貨車につめ込まれて、ターラックのキャパスにあったオンドネル・キャンプにつれてゆかれ、全員が収容された。その結果、飢えや病気でほとんどが死亡した。最終的に家族のもとに帰れたのは、ごく少数であった。


日本の軍政
 日本軍マニラ侵入の翌日、1942年1月2日、日本の軍事政権がフィリピンの政治・経済・文化活動を指揮するため設置された。第一主任将校にハヤシ・ヨシヒデ、第2・第3にタカギ、ワイチ各陸軍少将が就任した。
 東京からの命令を実行して、日本の軍事政権は、いくつかの規定を定め、無力なフィリピン人は、それに従わざるをえなかった。夜間外出禁止令および灯火管制が全マニラ施行された。戒厳令がしかれた。火器、弾薬、その他の武器すべてが没収された。日本軍に敵対するいかなる行動も処罰の対象になった。日本人を1人殺害すれば、有力なフィリピン人を2人射殺するという軍の布告が出された。連合国軍の武装解除された兵隊は逮捕され、ロス・パニョスとサント・トマス両大学、およびその他の収容所に拘禁された。


 すべてが日本支配下に置かれた。銀行、教会、工場、印刷所、学校、劇場は軍当局の厳重な監視を受けた。フィリピン国旗の掲揚は全面的に禁止された。国歌およびアメリカの歌を歌うことも許されなかった。日本の軍票がフィリピンの通貨に代わって配布された。

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参考資料

フィリピン小学校4年生読本『歴史』(タガログ語)コンコルディア・C・ロゲ、フロレンチア・B・バウティスタ編 レックス・ブックストア発行 1977年版

 フィリピンの歴史における暗い時代は私たちの国を日本国が占領したときです。
 日本軍は、来たばかりのころは、自分たちはフィリピンの友だちだといい、フィリピン人と日本人を結びつけるためアメリカを敵としました。
 日本人は、アメリカ人と関係あるものすべてを取り除きました。英語の代わりに日本語にしました。
 彼らはまた、人びとの食糧や家財道具をはじめ、乗りものや大きな家々をも取り上げました。多くの人びとが生活に困り、お腹を空かせていました。彼らはまた、捕らえた人びとを拷問し、殺しました。しかしフィリピン人は、マッカーサー将軍が、戻ってくることを信じていました。将軍がそう約束したからです。

 ゲリラ活動をしていた人、日本人と一緒になるのを嫌がった人びとは、山にこもりました。そしてマッカーサー将軍がフィリピンを救い出してくれるのを待ちました。ゲリラと日本軍はしばしば闘い、ゲリラは人びとの希望となりました。
 日本兵は、ゲリラに復讐するため、フィリピン人のスパイを使いました。これらのスパイは、ゲリラを偵察しました。
 日本人は、スパイがゲリラとみなした人びとに、とても残忍でした。捕らえた者たちを拷問し、要塞に閉じこめました。捕まった者たちに、仲間の名をいわせました。
 罰せられ、殺された者たちの中には、アバド・サントス裁判官、ウェンセスラオ・Q・ビンソン氏、アントニオ・エスコーダ氏、ホセファ・リャネス・エスコーダ夫人、ラモン・ラントス医師らがいます。
 しかしマッカーサー将軍は、フィリピン人との約束を守りました。戻って来て、私たちの国を日本人から救ってくれました。

 

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 ベトナム・ラオス・カンボジア

2014年06月09日 | 国際・政治
 ベトナム・ラオス・カンボジアのインドシナ三国は、かつての「フランス領インドシナ連邦」である。アジア・太平洋戦争当時、日本は、「仏印」という略称を使った。その「仏印」に日本軍が「進駐」したのは、「北部仏印進駐」が1940年9月、「南部仏印進駐」が1941年7月で、真珠湾を奇襲した1941年12月以前である。しかしながら、この「進駐」は、宗主国フランスとの戦闘を伴うものではなく、共同支配のかたちにもちこむものであった。したがって、その戦争被害は見逃されがちのようであるが、ベトナムの教科書の「1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった」の記述に見られるように、その後の日本の戦争は、ベトナムでも深刻な被害を発生させていたことがわかる。

 ラオスの教科書には、日本の戦争による被害の記述は少なく、大雑把である。下記に抜粋したとおり、高等学校2年生用『歴史 2』には、「日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた」とあり、高等学校3年生用『歴史 3』に「日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした」とはあるが、それらの具体的な記述はない。しかしながら、それは、ベトナムやカンボジアのような、日本の戦争による被害が、ラオスにはなかった、ということではないであろう。

 また、カンボジアの歴史教科書は、”フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア”と題して(くびき=牛馬の頸の後ろにかける横木、 自由を束縛するもの)、食糧の強制供出や強制作付けの問題その他を、かなり詳しく取り上げている。そして、大戦末期には食糧不足に陥り餓死者が出た事実を「カンプチア人民の一部が死ぬこととなった」と記述している。
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に、民主カンプチア連合政府は「カンボジア国民政府」に国名を変更した)    

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「ベトナム」「ラオス」「カンボジア」から、私が忘れてはならないと思った項目を選んで抜粋したものである。

ベトナムーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
12年生用『歴史 第1巻』(ベトナム語)教育省編1984年版

10課 ベトミン戦線と8月蜂起にいたる革命の高揚(1941~45年)

1 日仏二重搾取下のインドシナ人民

(1) フランスの、実質的な対日降伏とインドシナ人民搾取のための対日結託
 フランスは、ランソンで日本に降伏して(1940年9月)から、明らかに勢力が衰えた。日本はインドシナを植民地化し戦争の基地とするために、ひき続き地歩を固めた。
 1941年7月23日、ドゥクー総督は日本と「日本・仏印共同防衛協定」と呼ばれる屈服協定を結び、インドシナ全土にわたる日本軍の駐留権を認めた。続いて、1941年7月29日、ペタン政府は直接日本と協定を結び、インドシナのあらゆる空港と港の軍事目的利用を日本に認めた。

 日本は太平洋戦争を起こす(1941年12月7日)と、ドゥクー総督にもう一つの協定を強要し、以下の点について日本への全面協力を約束させた。つまり、日本軍の行軍を容易ならしめるよう協力すること、日本に食糧を供出し兵舎を建設すること、日本軍の後方支援としての安全を保証するために、インドシナ社会の秩序を維持すること、などである。

 それ以来、敵国日本とフランスは緊密に結託して、インドシナ人民を搾取した。日本資本主義の企業は日増しにインドシナへの投資を増大させ、商業や工業の多くの分野で活動した。インドシナ産業会社や大南公司などである。1940年から43年の間に、日本の企業が行った投資額は約1億1100万フランにのぼり、フランス企業のインドシナ総投資額の六分の一に達した。


 米やとうもろこしなどの主食については、日本はフランス植民地政府に供出させた。さらに残虐非道にも、日本は戦争に必要な原料を獲得するために、田畑への麻やヒマの植えつけをわが人民に強制した。
 インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的にあるいはフランスを通じて間接的に、略奪戦争を遂行するため、資源や食糧をできる限り多く獲得することであった。

 一方、フランス植民地主義者は、日本に脅迫を受けながらも、最大の利益を得るため依然としてさまざまな狡猾な手段を弄した。まず第一にフランス植民地主義政権は、いわゆる「指導経済政策」をとった(輸出入・流通機構・価格・生産などの厳しい統制)。実際には、この「指導経済」と呼ばれているものは、戦争状態を利用してインドシナ経済の独占を図り、投機をさかんにしてわが人民から一層の搾取をするための、フランス植民地主義の一手段にすぎなかった。2番目の手段は増税である。このため、1939年から1945年の間に、フランスのインドシナ予算の総収入は倍増した。酒・塩・麻薬による税収入は、その間に3倍にも達した。


 もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用とのために、食糧、とくに米の強制かつ廉価な買いつけをしたことである。この非道な政策こそ、市場における深刻な食糧不足をもたらし、1945年初頭の数ヶ月間に、北部で、200万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった。


(3) 日仏の狡猾な手段
 残虐な略奪行為と侵略の陰謀を隠すとともに、インドシナにおける唯一の支配者の地位に躍り出る準備のため、ファシスト日本は進駐当初から、数多くの邪悪な政策を弄した。まず、チャン・チョン・キム、グエン・スアン・チューなど、フランス植民地主義になにがしかの不満をもつ知識人や名士、あるいはグエン・テー・ギエップのようなフランスの古いスパイといった連中を秘密裏に集め、次のような親日組織作りの手助けをした。「大越民正」「大越国社」「越南愛国」「復国」「大越国家連盟」などである。彼らは南部の「カオダイ」や「ホアハオ」といって反仏傾向のある宗教組織も利用した。そして、これらのグループは「越南復興同盟会」という名の親日統一組織に糾合され、日本の傀儡政権の受け皿作りをした。と同時に、日本は「大東亜共栄圏」なるペテンを謳い文句にして、彼らの文化や力の「無敵」性を宣伝するため、日本語教材を大量に出版したり、日本語学校を開設したり、展覧会や日本映画の上映会を開いたり、またインドシナと日本の留学生交換をおこなったりした。


 ・・・(以下略)

2 ベトミン戦線創設と闘争指導(1941・5~1945・3)(略)

3 日本のフランス打倒クーデターと抗日救国運動の高揚

(1) 日本のフランス打倒クーデター(1945年3月9日)
 ・・・
 クーデターは1945年3月9日夜から10日にかけて決行され、インドシナのフランス勢力は多少の弱々しい抵抗をしただけで、屈辱的な全面降伏をした。
 フランスを蹴散らしたのち、日本政府は「インドシナの各民族の独立を助ける」と声明し(!)、親日裏切り一派は「ベトナム独立!」を叫んだ。しかし、その直後のあからさまな事実が、声明のこけおどしでペテンの所以を明らかにしている。つまり、クーデターの4日後、十指にのぼる日本の軍人や政客が、フランスにかわってインドシナの総督、理事長官、知事などの地位を占めたのである。

 1945年3月16日、日本の同盟通信社はつぎのように報道している。「新政策によれば、安南王朝、カンボジア、ルアンプラバンの各政府は現在の政体を保持するが、フランスの植民地であったナムキーと半植民半保護下にあったバッキーとラオスは、政府が樹立されるまで理事長官や知事の一時的執政下におかれる」(『解放』紙1945年3月11日)。


 まもなく、日本は古い権力機構を廃止し、親日派のチャン・チョン・キムにベトナムの傀儡政府を作らせ、傀儡のバオダイに国王の名称を与えた。この一派も「愛国・愛民」を装おうとしたが、しだいに無力をさらけだした。実際は、インドシナの旧総督にかわって日本の「最高顧問」がすべての権限を握っていたからである。彼らは日本の従順な手先となり、日本がよりいっそう狡猾に、かつより多く、わが人民から搾取することを許した。モミの調達、田畑への麻の強制植えつけなどは依然として行われ、飢饉は一層深刻となった。そのうえに、日本の数限りない残虐行為があった。ベトバックにおけるベトミン根拠地への攻撃、逮捕者の拷問・殴打・拘禁・銃殺・陵辱・強奪などにより、民衆を恐怖におとしいれた。こうして、またたくうちに、ファシスト日本の偽りの恩情の姿が明らかとなり、親日傀儡一派の「独立」の仮面がすっかりはがれてしまった。わが人民は日増しに敵国日本を憎み、親日傀儡一派を嫌悪するようになった。

ラオスーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
高等学校2年生用『歴史 2』(ラーオ語)教育スポーツ文化省編 1980年版

第3部 第2次世界大戦(1939~45年)

第16課 第2次世界大戦の第2段階(1942~44年)
 
2 地中海地域におけるイタリア・ファシストの敗北と太平洋地域における日本ファ  シストの戦争拡大
 (前略)東洋では、日本は1941年4月にソ連と不戦条約を調印し、その後飛行機を使ってハワイの真珠湾を爆撃し、アメリカ海軍を殲滅させた。太平洋戦争はこうして始まった。そののち日本ファシスト軍は香港島、マレーシア、フィリピン、グアム、シンガポール、インドネシア、ビルマ、インドシナ半島などを奪取した。オーストラリアには攻撃すると脅迫した。つまり日本軍は、イギリス、フランス、アメリカの、東洋における植民地すべてを奪いとることになった。こうして日本軍は太平洋、東洋において単独の権力支配者となった。日本はこれら植民地の住民をだますために、大東亜共栄圏のスローガンをかかげて、それぞれの国に偽りの独立を与え、日本の目的や利益のために傀儡政権をつくりあげた。(後略)


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高等学校3年生用『歴史 3』(ラ-オ語)教育スポーツ文化省編 1983年版

6課 ラオス人民の主権奪回(1945年)

2 主権回復前のラオスの状況
 (前略)第2次世界大戦期フランスは、ヒトラー・ファシストによって手ひどく攻撃されていた。したがってフランスの、植民地に対する権力支配は弱くなっていた。アジア東部では、日本が自国の勢力を拡大しようと、大東亜共栄圏をスローガンにかかげ、開戦した。日本ファシストはインドシナ侵攻後、フランス植民地支配者に対し、インドシナをともに保護するという協定を強要した。この結果、インドシナはフランスと日本の植民地支配下におかれた。さらに日本はフランス帝国を駆逐するため、タイをあと押しして大タイ主義をラオスやカンボジアに拡大させた。そこでフランスとタイのあいだで、領土の奪いあいの戦いがおこった。そしてついに日本は、フランスに対して、メコン川右岸にあるチャムパサク州の一部とラオスのサイニャブ州、カンボジアのパッタボンとシアレムリアとシーソフォンを、タイに譲渡するようにさせた。インドシナにおけるフランス勢力の弱体化に乗じて、1945年3月9日、日本はインドシナ全体を奪い取り、自国の利益のために動いてくれる傀儡政権を設置した。


 日本支配下にあって、ラオス国民はきびしい労苦を強いられた。例えば戦略的道路建設を強制されたり、また武器運搬に従事させられたりした。

カンボジアーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
8年生用『カンプチア歴史』(クメール語)教育省編ホー・チミン市出版 1987年版

2課 第2次世界大戦期(1939~45年)のカンプチア
(注:1989年4月に「カンプチア人民共和国」は「カンボジア国」に国名変更)    

一、フランス=日本の二重支配のくびきのもとでのカンプチア

 1939年9月、第2次世界大戦が勃発した。フランスは敗北をこうむった。フランスの反動資本家は、ドイツのファシストに対して、1940年の敗北を受け入れ、ペタン元帥を擁立して、権力の座につけた。
 このような状況のもとで、ドイツと同盟した日本のファシストたちは、フランスを放逐し、インドシナ半島を日本の支配下におこうとして、ただちにインドシナに侵攻した。
 フランスの植民地主義者たちと日本のファシストたちは、互いに敵対し、相手を追放する機会をうかがう段階に入った。
 しかし、はじめのうちは、インドシナ人民の民族解放運動をつぶすために、フランスと日本は友好的関係にあるかのように見せかけていた。

1 フランスの植民地主義者の指導策略
 フランスの植民地主義者は2つの危機に直面していた、つまり、フランスの駆逐を目的とする日本と、インドシナ人民の民族解放革命の炎とである。しかし、巧妙な策略によって、フランス植民地主義者は、みずからの植民地支配制度を確固たるものとすることができた。

 フランスは自身の支配する人民のすべてを失わないようにしようとして、日本に権益の一部を分け与えることで、日本と妥協する道を選んだ。
 1940年8月には、日本からの強制があったわけでもないのに、インドシナにおける日本の軍事上、経済上の権益を認める一つの条約に署名した。(注:松岡・アンリ協定)

 1940年9月には、日本軍はランソン地域に侵入し、支配した。フランス植民地軍7は撤退し、日本にインドシナ北部を譲渡する条約を結ばなければならなかった。
 1941年9月、インドシナ総督ドゥクーは新たに日本との間に「インドシナ地域共同保護条約」という降伏条約を結び、カンプチアを含むインドシナ全土に日本軍が駐留することを承認77した。
 太平洋地域において、アメリカ、イギリスと日本との間に戦争が勃発して(1941年12月)から、日本のファシストたちは、ドゥクーに、一つの条約に署名するよう強制した(注:日・「仏印」軍事協定)。その条約は、アメリカ、イギリスの二国が日本軍を攻撃する場合に備えて、インドシナのフランス植民地政府を、日本と共同して、アメリカ、イギリスを相手に戦わせることを目的とするものであった。

 さらにフランスはその条約で、「日本軍の軍事行動を容易にする条件をつくり」、「日本軍に食糧を供給し、兵舎を建設し、日本軍の安全を保証するために、インドシナにおける社会秩序を維持」しなければならなかった。
 このように、この条約はビシー政府と日本の軍国主義者が、連合国とインドシナ人民とを相手に戦うために結託していたことを証明している。
 この時いらい、カンプチアを含むインドシナ人民は、二重支配のくびきを懸けられたのである。


 ・・・(以下略) 


2 日本のファシストの策略
 日本の帝国主義者たちは、昔からインドシナ進出の意図をもっていた。インドシナは日本経済に役立つ豊富な資源をもっているだけではない、そのうえに、東南アジア諸国に対して日本帝国の拡大主義政策をすすめるための、もっとも重要な戦略上の位置を占めていたのである。

 ヨーロッパ戦線において、日本の同盟国であるドイツにフランスが敗れた隙をついて、日本はフランスに強制して、先に述べたような条約を調印させたが、これはフランスをインドシナから少しずつ放逐するためであった。
 日本が自らの計画をすべて実行に移すための情勢が、まだ整っていないにもかかわらず、インドシナ方面の日本軍は、その侵略政策と拡大主義に利用するため、フランス植民地政府を掌握した。経済の面では、日本はインドシナのすべての市場を独占する手段を手にしようと努めた。日本製品のインドシナ市場への流入を図り、日本はフランス植民地主義者たちに、関税法の廃止を強制した(1941年6月より)。


 このほか、1945年初めの時点で60万人もいたインドシナ方面の日本軍への補給を、責任を持って行うよう、日本はフランスに強要した。日本の指令は、インドシナ銀行に、以下に示すような多額の資金を、日本軍を養うために提供させるようしむけるものであった。
1940年‥ 600万リエル
1941年‥ 5800万リエル 
1942年‥ 8660万リエル
1943年‥1億1720面リエル 
1944年前半の6ヶ月は、日本は3億1600万リエルを要求したが、当時のインドシナ全体の予算は2億1900万リエルであった。この金額を、日本製品への代価として清算しなければならなかった。しかし実際は、代価にみあう日本製品などありはしなかった。これはインドシナ人民に対する新たな重荷だった。さらに、日本はフランスに強制して、カンプチア農民に、田地の一部を供出させ、ジュート、ヒマなど、日本の軍需品のための工業用植物を植えさせた。これがもとで、1944年から1945年までのあいだにカンプチア人民の一部が死ぬこととなった。


・・・

 カンプチア人民に対して、侵略、独占、軍国主義政策を隠しておくため、日本は2つのごまかしのスローガンを掲げた。すなわち、「大東亜共栄圏」と「外国のくびきからの解放のための歴史的使命」とである。日本は「ユバン」という青年団を組織したが、これは、ソン・ゴク・タンとポック・チューンの二人を利用して、フランスから権力を奪取する考え力を養成し、親日的傾向の青年たちに「大クメール」民族主義思想を鼓舞するものであった。
 
 フランスと日本の帝国主義者たちは、ともにカンプチア人民の財産を奪い、カンプチア人民に何も考えさせないようにごまかしておくための策略を考え、、また互いに、権力を奪い取る隙をうかがっていた。
 カンプチア人民は、フランスと日本との二重のくびきに苦しまなければならなかった。


二 第2次世界大戦期のカンプチア人民の闘争運動

 農民階級と富裕階級の弱さがこのような状態をひき起こしてしまった。つまり、日本がカンプチアを支配したとき、声高に民族主義を掲げたのは、知識階級、とくに官吏と僧侶だけだった。その中の一部の人びとは、進歩主義の影響を受け、インドシナ共産党の影響を受けた。しかし、他の一部の人びとは日本軍の欺瞞の宣伝の罠に陥ってしまった。

1 親日派の活動
 フランスを追放する条件を整えようと、日本軍はつぎのスローガンを掲げて欺瞞的宣伝を行った。つまり「大東亜共栄圏」「アジア人民解放のための歴史的使命」を標榜し、そのために、大衆を引きつける手段として「大クメール」を利用したのである。さらに日本は、カンプチアの知識層を動員する基礎を築こうと、信頼のおける人びとを利用して、「カンパイタイ(憲兵隊)」と呼ばれるスパイ組織を作った。これら知識層の中に、あきらかに親日的傾向の2人がいた。ポック・チューンとソン・ゴク・タンである。ポック・チューンはパーリ語学校の教授であり、ソン・ゴク・タンはプノンペン仏教学院の司書であった。
 すでに1941年には、ソン・ゴク・タンとポック・チューンらは、日本と深く関係していた。1942年初めは、この一派は日本からの支援を得て、フランス植民地主義者と戦うために、クーデターの準備をしていた。


・・・(以下略)


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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アジアの教科書に書かれた日本の戦争 タイ

2014年06月05日 | 国際・政治
 タイには、大戦後今日にいたるまで、毎年12月8日に慰霊祭がいとなまれているところがあるという。ナコンシータマラートやプラチュアップキリカンである。そこには、タイ兵士の像をいただいた記念碑が建っているという。1941年12月8日、日本軍がタイの「中立」を侵し、タイの承認を得ないで上陸したため、それを阻止しようと果敢に戦い犠牲となった兵士や住民の慰霊祭であるという。日本軍の「タイ」上陸は、無血上陸ではなかったということである。

 ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発したとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。そして、日本と友好関係を保ちつつ、同時にイギリス、フランスとも、相互不可侵条約を締結した。しかし、日本軍の上陸後、タイ国軍最高司令官であるピブン首相は、タイが日本軍に抵抗する力がないことを確認して、一部閣僚の反対を押し切り、日本と「日本軍のタイ国内通過承認協定」を締結した。そして、12月21日には、「タイ・日攻守同盟」を締結し、さらに、その翌年の1月25日には、当初の中立の立場放棄し、枢軸国の盟友として「対米英宣戦布告」をするに至るのである。

 ところが日本降伏直後の1945年8月16日、タイのプリディ・パノムヨン摂政は、「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものである。日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害についてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。アメリカ政府は、この「対米英宣戦布告無効」の平和宣言を即座に受け入れた。いくつかの要求項目をあげつつ、イギリスもこれを受け入れている。日本の強制を認めたということであろう。プリディ・パノムヨン摂政自身が、タイ国内に抗日地下部隊を設立し、アメリカやイギリスの自由タイ運動と連携しながら、連合軍の援助を続けていたということなども考慮されたのではないかと思う。

 タイの歴史教科書には、「日本の戦争」による被害の記述はほとんどないようであるが、「泰緬鉄道」建設工事には、他のアジア諸国同様、数万人の「ロームシャ」が動員され、過酷な労働を強いられたという。ビルマ経由の援蒋ルートの遮断と、インド侵入のためのビルマ作戦を進めるため、大本営が1942年6月に早期開通建設命令を出した「泰緬鉄道」建設工事は、難所が多く「枕木一本、人一人」といわれるほどの犠牲者を出したことで知られているが、タイのノンプラドックからビルマのタンビュザヤ間約415キロにわたる工事で、常識では考えられない突貫工事であったという。実数はわからないが、地元タイからも相当数の労務者が動員されたことは間違いないであろう。また、タイ国内に駐留する日本軍の軍需物資調達のために、多量の「軍票」が発行され、タイ経済が混乱したということも、他のアジア諸国と同様であったという。
 タイの歴史教科書に、「日本の戦争」による被害の記述がほとんどないということが、被害がなかったということではないことを忘れてはならないと思う。そういう意味で、「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた」という記述や、抗日組織が連合国側と協力し合い動いていたというような記述には、注目する必要があると思う。

 下記は、「アジアの教科書に書かれた日本の戦争 東南アジア編」越田 稜編著(梨の木舎)の、「タイ」から、私が記憶しておきたいと思った部分を、選んで抜粋したものである。

訳注
(1)タイ仏暦紀元は釈迦入滅のときで、西暦紀元前543年としている。したがって、仏暦を西暦におきかえるには、仏暦年号から543年を引けばよい。仏暦2482年は西暦1939年になる。

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中学校2年生用 社会科教育読本『歴史学 タイ2』(タイ語)教育委員会仏暦2523年(1980年)版

           第5章 開国から今日までの各国との同盟関係

 タイ国と第2次世界大戦への参画

 仏暦2382年(1939年)9月3日、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まったとき、ピブン・ソンクラーム陸軍元帥を首相とするタイ政府は、中立的立場をとることを表明した。日本が、ドイツ・イタリアと同盟関係を結び、枢軸国となって以来、タイは戦争が近づきつつある危機を感じていた。そこで、領土保全のため友好条約に調印し、日本との相互友好関係を保った。同時にタイは、イギリス、フランスとも、相互不可侵条約を結んだ。

 ヨーロッパでの戦闘は当初、ヒトラー率いるドイツが、電撃戦でフランスをうち破った。そしてついにパリと北フランスを占領し、勝利を収めた。ペタン政府はドイツとの停戦条約調印を承認し、政府を南フランスのビシーに移さなければならなかった。

 タイ政府は、ペタン政権に文書を送る機会を得て、以前タイが割譲した仏領インドシナのルアンプラバーンとチャンパーの領有権を手に入れようと、国境の変更を要求した(両地域は仏暦2440年にフランスに割譲した領土で、タイとフランスのあいだで国境紛争があった)。要求は自然なものであり、公正なものであると思われていた。フランス政府はタイの要求を拒否した。仏暦2483年11月28日、タイと仏領インドシナとの国境で衝突が起こった。争いは1ヶ月と続かなかった。当時日本は東南アジアに指導力を有し、影響力をもっていた。そこで調停役としての義務を行使したのである。タイとフランスは東京での会議に代表を送り、ともに東京平和条約に調印した。仏暦2484年5月9日のことである。
 タイは要求通りに返却された領土と、プラタボーン、スリーソーパンとシャムラート(仏暦2449年にフランスに割譲したもの)も合わせて手に入れた。その後タイと日本は、二国の相互援助と東南アジアの平和維持に努めるという内容の文書に調印した。このことが、お互いの同盟関係強化を推進し、二国の経済的結束を固めることになった。この紛争問題は、日本に東南アジアでの役割と影響力を増大させるという利点をもたらした。領土返還に満足したタイ国民は、日本に対し大いに気をよくした。


 仏暦2484年12月8日、日本は、ハワイ諸島のアメリカ軍事基地である真珠湾を襲った。同時に、フィリピン群島、シンガポール、マライにも電撃戦で進軍し、攻撃した。それ以前に日本はタイに兵を派遣し、タイを通過するつもりであった。駐タイ日本大使は、英領(マラヤ、ビルマ)進攻のために、日本軍のタイ国領土内通過を要求した。翌朝、すなわち仏暦2484年12月8日、日本は軍勢を率いてタイ国内のいたる所に上陸した。プラチュアップキリカン、ナコンシータマラート、そしてソンクラーのタイ軍は、堅固な日本軍に抵抗して闘った。そのころ、タイ政府はイギリス政府と連絡を取っていた。イギリス政府は、タイが自衛手段に訴えてもかまわない、と返答した。ピブン・ソンクラーム陸軍元帥率いるタイ政府は、タイが日本軍に抵抗しうるかを審議した。そして軍事力が十分でないことから、政府は日本軍のタイ国内通過と、日本との秘密条約調印を承認した。仏暦2484年12月21日のことである。タイは日本と同盟関係を結び、アメリカ、イギリスとの戦争において日本を支援することにした。日本は失われたタイ国領土が、イギリスから返還されるよう働きかけた。そこでイギリスとアメリカはタイを攻撃し始め、雲行きがあやしくなってきた。仏暦2485年1月25日、タイはイギリスとアメリカに対して宣戦布告し、枢軸国の盟友として第2次世界大戦に参加することになった。

 タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人のグループのなかには、日本と同盟関係をもつという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには、連合国側から遣わされたリーダーがいたものと思われる。セーニー・プラモート駐米大使は明らかにその一例である。彼はアメリカ政府に対して、タイ国はやむをえず連合国側に宣戦布告したが、連合国との協力により、自由タイ運動の手はずを整えている、と説明した。アメリカ国内の自由タイ運動は、アメリカ政府の支援を得て順調にことを運んでいた。

 イギリス国内では、スパサワトウォンサニット・サワディワット親王が自由タイ運動の指導者となった。在英タイ人留学生の大部分は運動に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡をとりさまざまな行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また日本兵を拘引したりして連合軍を援助した。


 日本軍が敗北を認めた仏暦2488年8月16日に、プリディ・パノムヨン摂政は国会の同意にもとづき、仏暦2485年1月25日の対英米宣戦布告は無効であると宣言した。また日本がタイに譲り渡した英領マラヤやビルマをイギリスに返還すると提案した(日本が譲渡したサイブリ、ケランタン、トレンガヌ、プルリスのマラヤ4州。これらは、仏暦2451年の条約により、イギリスがタイより譲り受けたビルマのシャン族の領土である。仏暦2489年、タイに返還された)。アメリカ政府は、タイの対米宣戦布告が無効であることを即時に認めた。こうしてタイは、対米宣戦布告の責任から逃れた。

 ・・・(以下略)

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