真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

原発 高木仁三郎の鳴らした警鐘1

2013年03月31日 | 国際・政治
 前政権が掲げた「2030年原発ゼロ」を白紙に戻し、再び原発を稼働し維持する方向に進みそうな気配である。大きなリスク、処理方法の定まらない核廃棄物、高くつく費用、どう考えても納得できるものではない。

 原子力の研究者であり、「反原発の市民科学者」として長く原子力資料情報室の室長をつとめた高木仁三郎は、原発の推進に警鐘を鳴らし続け、「巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険」を指摘し、その悩ましさを最後のメッセージに書き残して亡くなった(2000年10月8日)。そして、多くの人が頻発する事故に不安を抱き、懸念を表明している中で、東京電力福島第一原子力発電所の事故が起きた。にもかかわらず安倍自民党政権は「原発ゼロ」政策を見直すというのである。

 高木仁三郎が指摘している「日本の原子力産業の自己検証のなさ」と、原子力行政を推進してきた関係者の無反省は、福島の事故後もほとんど変わっていないように思われる。

 朝日新聞に連載された、「プロメテウスの罠」によれば、東日本が壊滅的事態を免れたのは偶然である。東京電力福島第一原子力発電所4号機使用済み核燃料一時貯蔵プールは、外部電源が途絶したため、燃料プールへの冷却水注入が止まっていたが、3月15日に発生した火災に伴う爆発の衝撃で、隣接する場所から偶然水が流れ込み、プール内にあった核燃料の過熱を免れたのだという。
 もし、津波被害の直前の工事ミスや遅延という偶然がなければ水の流入はなく、したがって過熱が続いて大量の核燃料が溶融し、現状を大幅に上回る放射性物質が放出されて、福島の一部地域にとどまらず、東日本全体が警戒区域や避難区域に入るという、最悪の事態に陥るところだったというわけである。しかし、偶然水が流れ込んだために、その後の作業が可能となり、現在に至っているのである。(米海軍が国務省や国防省に回したメモには「4号機の使用済み燃料プールの水がなくなって燃え出したら、東京も高い放射性物質で覆われる危険がある」と記されていたという。)

 燃料プールの問題以前にも、1号機、2号機とも爆発を防止するためのベントに手間取っている。特に2号機では原子炉自体がいつ爆発するかもしれない緊迫した状況が続いた。そんな中、東京電力本店にのり込んだ菅元総理は、東京電力の社長や会長を前にして

 今回の事の重大性は皆さんが一番分かっていると思う。政府と東電がリアルタイムで対策を打つ必要がある。私が本部長、海江田大臣と清水社長が副本部長ということになった。これは2号機だけの話ではない。2号機を放棄すれば、1号機、3号機、4号機から6号機、さらには福島第2のサイト、これらはどうなってしまうのか。
 これらを放棄した場合、何ヶ月か後にはすべての原発、核廃棄物が崩壊して放射能を発することになる。チェルノブイリの2倍から3倍のものが10基、20基と合わさる。
 日本の国が成立しなくなる。何としても、命がけで、この状況を抑え込まない限りは。撤退して黙って見すごすことはできない。


と言ったという。

 また、同じ「プロメテウスの罠」によると、事故直後、官邸で下記のようなやり取りがあったという。

 清水は(事故当時の東電社長)経済産業省の海江田万里らに撤退問題で頻繁に電話をしてきていた。
15日午前3時すぎ、内閣危機管理監の伊藤哲朗は執務室で菅にいった。
「決死隊のようなものをつくってでも頑張ってもらうべきだ」
 菅も「撤退はあり得ない」といった。経緯はこのシリーズの前半で報じた通りだ。
 その後、清水は官邸に呼ばれ、撤退しないことを即座に了承した。伊藤は「東電はあれだけ強く撤退といっていたのに」と不審に思う。
 そう思ったのは午前3時前、総理応接室にいた東電幹部が「放棄」「撤退」を伊藤に明言したからだ。
 元警視総監の伊藤はそのやりとりを鮮明に記憶している。
 伊藤「第1原発から退避するというが、そんなことをしたら1号機から4号機はどうなるのか」
 東電「放棄せざるを得ません」
 伊藤「5号機と6号機は?」
 東電「同じです。いずれコントロールできなくなりますから」
 伊藤「第2原発はどうか」
 東電「そちらもいずれ撤退ということになります」


 このやり取りを2号機や4号機燃料プールの件と合わせて考えると、背筋が寒くなるのを感じる。原発の稼働・維持は、こうした原発事故のリスクの大きさや原発事故の可能性の高さを理解してのこととは思えない。
 3号機の原子炉建屋の爆発で、2号機のベント弁の回路が壊れ、弁が開かなくなるというようなこともあり、原子炉の爆発を防ぐ作業は、まさに綱渡りのような状況であった。その上、4号機の燃料プールには大量の使用済み核燃料が入っていたのである。
 原子炉が爆発したり、燃料プールに偶然水が流入することがなければ、東京電力福島第一原子力発電所の1号機から6号機に加え、第2発電所も放棄せざるを得ない事態に陥る危険性があったことを、東電幹部が指摘していたということであろう。

 驚くことはそればかりではない。放射性物質の拡散を予測するシステム(「SPEEDI」と呼ばれる)の事故直後のデータは、なぜか地域住民の避難には生かされなかった。でも、文科省は外務省を通じて直ちにアメリカ軍には提供していたことが明らかになっているという。
 また、福島第一原子力発電所の事故後の2011年3月中旬、放射線量の高い地域が原発の北西方向に広がっていることを示す地図がアメリカ政府から提供されたにもかかわらず、文部科学省や保安院などがそれを公表していなかったということも明らかになった。さらに、先日(2013年3月14日)の朝日新聞は、東京電力が国会事故調査委員会の福島第一発電所の現地調査を虚偽の説明で妨げた事実を報じた。
 なぜ次々にこうした不可解な対応が続くのか…。

 「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎(岩波新書ー703)は、くりかえされる原発事故について、様々な観点からその理由を考察しているが、「なるほど」と思う。そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故や上記のような東電及び関係機関の事故後の対応が、まさに高木仁三郎の指摘通りであることに驚かざるを得ない。「隠蔽・改ざん・捏造」の繰り返しである。

 同書で、高木仁三郎は、「原子力がほとんど議論なく導入された」という歴史に注目している。「1954年突如として、いわば国会議員の青年将校みたいな中曽根康弘氏と財界人の正力松太郎氏が一体となって、国会の閉会間際の土壇場の3月2日に補正予算という形で原子力予算を通したことに始まります」というのだ。科学的実態や技術的実態がないまま、また、産業的基盤もないまま、「札束で学者のほっぺたを引っぱたけばいいんだ」という中曽根氏の言葉に象徴されるような政治的思惑によって原子力が導入され、三井や三菱、住友など旧財閥を巻き込み、トップダウン型で開発が進んだために、様々な問題をかかえることになったというわけである。事故があったら<国まかせ>も、高木仁三郎の指摘通りである。

 また、高木仁三郎は、原子力産業の「議論なし、批判なし、思想なし」の実態やその理由も考察している。それも、「原子力というのは産業技術主導型ではなくて、むしろ国家主導型というか、政治主導型で始まっていったのです。かえって産業資本はこれにたじろいでいました。たとえば原子力事故が起こった場合の損害賠償の大きさであるとか、責任であるとか、直観的にピンとくるわけですから、日本の伝統的な技術産業というのは、積極的に手をださなかった部分もあるのです」と、その導入のしかたと関わる問題であることを明らかにしている。そうした意味では、原子力産業や原子力行政は、企業倫理や関係技術者個人の倫理を押さえ込み潰すかたちで進められてきたといっても過言ではないであろう。原子力産業や原子力行政は、一企業、ましてや一個人が、国家的推進体制に異を唱えることなどできない状況下で、寄せ集めの技術によって進められてきたといえる。そして、「議論なし、批判なし、思想なし」の推進が、「隠蔽や改ざん、捏造」を生み、事故がくり返されてきた、ということであろう。

 原発は、戦争と同じように国を滅ぼす危険性がともなうものである。そして、否応なくすべての人々を巻き込む。

 下記は、「原発事故はなぜくりかえすのか」高木仁三郎(岩波新書ー703)から、茨城県東海村JCO社の臨界事故について触れている 「はじめに」の一部と、「隠蔽・改ざん・捏造」の一部分を抜粋したものである。但し表は罫線なしの順序表記にした。
----------------------------------
はじめに

 臨界事故

 1999年9月30日に茨城県東海村のJCO(ジューシーオー)社のウラン加工施設の再転換工程において、だれしも予想だにしなかった臨界事故が起こり、日本全体があらためて原子力事故の恐怖に包まれました。この臨界事故は、核燃料の加工の過程で、本来の作業手順を逸脱して、ウラン-235の高濃度のウラン溶液を一つの容器に集中したために核分裂反応が持続し、中性子が環境に放出された事故です。現場作業員などが被爆し、付近の住民に退避要請がだされるなど、原子力施設の安全管理体制に大きな波紋を投げかけました。
 この事故は単独の事故としてあったのではなく、1995年12月の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市、動燃=動力炉・核燃料開発事業団)のナトリウム漏れ事故に始まり、97年3月の同じく動燃(98年改組、現・核燃料サイクル開発機構)の東海再処理工場のアスファルト固化処理施設における火災爆発事故に続く、いわば3段階のステップの中で起こってきた事故でした。


 また、事故以外にも、背景として現在の原子力行政に対する大きな国民的な不信や不安、懸念を増大させるような要因が多く起こって、顕在化してきていたのです。さらに、原子力産業の退潮化、衰退ということが重なり、それにともなってデータの改ざんなどもありました。
 そうしたことが重なって、この間、原子力をめぐる状況について、これまでには見られなかったような広い国民的な議論がありました。しかし、それから1年ばかり経ってみると、忘れっぽい日本人はまた、すでにそういう問題はわすれようとしてしまっているかに思えます。この状況が私には非常に怖い。提起された問題は、戦後の日本の原子力のあり方の総体を、根本から問い直すような問題ではなかったのか。1年やそこらで忘れてもよいこととは思えないのです。


 ・・・(以下略)
---------------------------------
6 隠蔽から改ざんへ

 技術にあってはならない改ざん


 ・・・

 データのその後の解釈については、人によってねじ曲げて解釈することがあったとしても、最初に観測した生の数字を書き換えるということは、それをやってしまったら技術というものが存在しなくなってしまう、いわば基礎の破壊です。ですから、改ざんが行われるようになってきたということは、それによって安全性が損なわれるというレベルのことにとどまらず、それ以前に技術者の基本的な倫理というものが問われる。もっと根本的な問題です。社会的な正義を云々する以前の問題なのです。観測したことに忠実である、自然の現象に忠実である、それが科学技術の基本ですから、技術の倫理の基本にもその忠実さがなければなりません。それが崩れてしまったということを、このとき(プルトニウム輸送容器検査データ捏造)感じたのです。私にとっては大きなショックでした。

 そう思って見ていくと、その後も似たような隠蔽・改ざん・捏造が頻発しています。詳細については、次ページの一覧表を参照してください。1997年には原発の配管の溶接の焼きなましのデータに関して、検査をやっていないのにやったように、ありもしないデータをあったかのごとく済ませてしまったということがありました。これは日立製作所の系列の伸光という子会社で起きたことです。内部告発によって事が明らかになり、日立も認めています。1997年9月のことです。

        主な隠蔽・改ざん・捏造(1991年~)

発覚年月日  種別 事項 告発者 当事者 
の順
1991年7月 隠蔽 「もんじゅ」配管設計ミス 内部告発 動燃
1992年3月 隠蔽  「もんじゅ」蒸気発生器細管溶接ミス 内部告発 動燃
1994年5月 隠蔽 プルトニウム工程内滞留 内部告発 動燃
1995年6月 隠蔽 再処理溶解槽配管の目詰まり運転  内部告発 動燃
1995年12月 隠蔽 「もんじゅ」事故で一連の情報隠蔽  内部告発 動燃
 〃      隠蔽 六ヶ所村再処理プールポンプで欠陥 内部告発 日本原燃
1997年3月 虚偽 再処理アスファルト固化施設事故で一連の虚偽報告・隠蔽
        動燃
1997年8月 不法管理 動燃東海で廃棄物のずさん管理 動燃
1997年9月 捏造 プルトニウム輸送容器検査データ 動燃
1997年9月 改ざん 原発配管の溶接焼きなましデータ  内部告発  動燃
1998年5月 隠蔽 使用済み燃料輸送容器の表面汚染 内部告 BNFL.COGEMA
1998年10月 改ざん・捏造 使用済み燃料輸送容器の遮蔽材データ 内部告発         原電工事
1998年12月  隠蔽 東海再処理溶解槽・臨界防止設備故障運転 内部告発
        核燃機構
1999年9月 改ざん MOX燃料製造外径データ  BNFL.COGEMA
1999年9.10月 検査漏れ 低レベル放射性廃棄物ドラム缶の液垂れ  東電・中電2000年2月 サボタージュ MOX燃料にネジなど混入  BNFL
2000年3月 点検・製造ミス 六ヶ所村再処理・廃液貯槽の部品欠落  日本原燃・        日立
2000年3月 データ処理ミス MOX燃料検査データ処理ミス  内部告発              COGEMA 
2000年3月 破壊行為 高レベル廃棄物固化施設でアーム破壊   BNFL

 1998年には、今度は使用済み燃料の輸送容器の遮蔽材のデータの改ざんがありました。使用済み燃料の輸送容器というのは、放射線にたいして遮蔽されていなければなりません。特にこのケースでは、輸送容器にレジンを使って中性子の遮蔽をしていたのですが、その遮蔽が実は十分でなかったのです。ところが十分ではないにもかかわらず、データを捏造し、実際に測定された値を改ざんして済ませてしまった。これは、日本原電の系列の原電工事という子会社が請け負っていた工事です。

 もしも改ざんした実測値が大きく違っていたならば、事態としては重大です。この容器は、大変強い放射能を運ぶ容器ですから、その遮蔽体に不適当なことがあれば、運搬者に過大な放射線被曝が起こる可能性があったからです。大変重要なデータなのですが、国があとから調べた結果では、実際にはそれは危険というほどではなくて、安全の範囲内での遮蔽不足でした。データの改ざんは正しいことではなかったけれども、危険性をもたらすようなものではなかったから問題はないのだというようなことになって、大きな罪には問われずに済んでしまいました。


 また、日本の例ではありませんが、その後1999年に、イギリスでの日本向けのMOX燃料の検査データの改ざんが大変大きな国際問題になりました。国際的スキャンダルと言うべき事件でした。どういう種類の改ざんかというと、輸送用のMOX燃料のペレットの寸法データの改ざんです。
 ペレットの寸法は、安全性に直接影響しますから大変重要で、二重にチェックしなくてはならないのですが、チェック過程において、実際には検査していないのに、コンピューターから別の検査データを丸まる持ってきてコピーして貼つけ、検査していたように見せかけていたのです。このようなことは内部告発でもなければわからなかったでしょう。内部告発があって、調べてみるとまったく同じデータがくりかえされていて、データの捏造がわかりました。つまり、日本だけではなくて、1990年代半ば以降は国際的にもデータの改ざんや捏造がおこなわれるようになってきているのです。


 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、段落全体の省略を、「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発 高木仁三郎の鳴らした警鐘2

2013年03月31日 | 国際・政治
 東京電力福島第一原子力発電所の事故が起こる前に、高木仁三郎は「巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険」を指摘していた。そして、不幸にもその指摘どおり、2011年3月に巨大事故が起きた。

 全電源喪失による原子炉の爆発を防ぐため、放射性物質を含む水蒸気を放出するベントの命令が下されたが、様々な事情が重なって、なかなか実行できず、緊迫した状況が長く続いた。そして、第一原発のみならず、第二原発でも原子炉の圧力を制御できなくなり、原子力緊急事態宣言が発令された。建屋は次々に爆発した。避難指示は2キロから3キロ、10キロ、20キロと徐々に拡げられていった。これが原子炉の爆発であったら、東日本全体が人の住めないところになる可能性があった。建屋の爆発だけでおさえることができ、原子炉の爆発を免れたのは、不幸中の幸いだったといえる。

 東電に乗り込んだ菅元総理に、「ベントはやります。決死隊をつくってでもやります」と吉田昌郎東京電力福島第一原子力発電所所長が言ったという。福島第一原発および第二原発の放棄という最悪の事態を避けるために、建屋の爆発による負傷者や被爆者を出しながら、まさに死と隣り合わせの作業が続いたということであろう。

 また、4号機の使用済み核燃料貯蔵プールは、全電源喪失よって、冷却水注入が止まり、核燃料の過熱の可能性があった。こちらの使用済み核燃料は原子炉圧力容器や原子炉格納容器に入っているわけではないので、過熱があるとそのまま放射性物質が放出される。しかし、3月15日に発生した火災に伴う爆発の衝撃で、そのプールに隣接する場所から偶然水が流れ込み、大量の放射性物質放出とう最悪の事態を免れたのだという。偶然に救われたのである。

 にもかかわらず、今なお、原発を維持し稼働させようという人たちがいる。のみならず、前政権が方向を変えようとしていた国の原発に対する基本的な姿勢さえ、元に戻そうという気配である。また事故後の対応も、高木仁三郎の指摘する「隠蔽、改ざん、捏造」の継続発展のように思われる。

 スリーマイルの原発事故も、チェルノブイリの原発事故も、地震や津波が原因ではないことを忘れてはならないと思う。福島の事故によって、原発の「多重防護システム」がいかにもろいものか、思い知らされた。いや、ほんとうは「多重防護」などと言えるものではなかったのだと思う。したがって、国益のために原発を稼働させるのは、極めて危険であり、間違いであると思う。高木仁三郎の鳴らした警鐘をしっかり受け止め、原発は1日も早くすべて廃炉にしてほしい。安全確保を蔑ろにしなければ、原発は高くつく、ということも知らなければならないと思う。
 「原子力神話からの解放 日本を滅ぼす9つの呪縛」高木仁三郎(光文社10-307)から、何カ所か抜粋した。

---------------------------------
第5章 「原子力は安全」という神話

 「多重防護システム」で放射能は閉じ込められるのか


 ・・・
 図5-1(略)は、1999年12月に出された通産省の安全問題のパンフレット「原子力発電所の安全確保の方針」に掲載されています。やや専門性を含んでいますが、まあ一般向けのパンフレットでしょう。メインタイトルは「『安全』を『より安心』にしたい」。さきほどの安全委員会とまったく符丁を合わせたような感じですが、安全確保の基本的な考え方として、放射能を閉じ込めるために5重の壁が作られていると説明されています。

 第1の壁は原子力発電の燃料ペレットです。これは二酸化ウランの素焼きの粒ですが、その中にまず核分裂で発生した灰が閉じ込められます。そのまわりに、厳密には合金ですが、ジルコニウムできた燃料被覆管という鞘管(サヤカン)があって、その鞘の中に放射能が閉じ込められます。これが第2の壁になります。

 第3の壁は、原子炉圧力容器とか、原子炉容器と言われる原子炉のお釜の部分です。原子炉はその全体が冷却水の中で冷却されているわけですが、その冷却水全体が原子炉圧力容器とか原子炉容器とか言われる、要するに原子炉のお釜に納められています。厚い鋼(ハガネ)の壁でできた厚いお釜で、もちろん高温高圧の運転に耐えられるように作られています。その外側にある第4の壁は、原子炉格納容器というコンクリートと鋼との複合的な構造でできた容器です。容器と言われていますが、お釜を覆っている部屋であって、これによって、もし原子炉容器の外側に放射能が漏れた場合でも、そこの中に閉じ込めることになっています。その外側にコンクリートの原子炉建屋とい構造物があって、その建屋によっても原子炉が守られています。それで5重だというわけです。しかし、これを一つ一つ点検してみると、決して放射能を閉じ込めて安全を確保するような防護システムなどではないことがわかります。


 たった一つの要因で、防護システムが総崩れになることもある。

 まず、第1の壁と言われる燃料ペレットだとか、第2の壁の被覆管などというのはちょっとしたことがあれば、かなり頻繁に壊れることがあって、大きな事故を考えたら、これらはほとんど何の役にも立ちません。
 いちばん肝心なのは第3の壁、原子炉容器(圧力容器)の健全性ですが、この原子炉容器が爆発し、これが吹っ飛ぶようなことがあれば、その外側の第4の壁、格納容器もまずもたないでしょう。第5の壁、原子炉の建屋に至っては、放射能という観点から見れば、かなりスカスカにできていて、役に立たないというのが実状だと思います。比較的客観的に公正に言えば、原子炉容器と格納容器の2つは、それなりに放射能を閉じ込められる容器として、かなり強固に作られています。しかし、かつてのチェルノブイリ事故のように、これが一気に吹っ飛ぶこともあるし、スリーマイル島事故でも、この健全性がかなりの程度に傷つけられました。スリーマイル島の原発事故では、たとえば圧力容器は底にひび割れまで起こしたけれども、かろうじて大破壊までは至りませんでした。きわめてきわどいところまでいったけれども、幸運にもそこで止まり、このおかげで大惨事にはならなかった事故だったという気がします。そうしたことからも、この5重の壁は考えられているほどに意味がない、つまり5重であることの意味はあまりないように思います。


 ・・・(以下略)
---------------------------------
 工学的な「壁」では防げない人為ミス

 多重防護について、別の観点から考えてみましょう。ここまでは機械的な部分に目を向けて話をしおてきましたが、じつは事故というのは、人間の操作が絡むところで起こっています。JCO事故がそうでしたし、東海再処理工場の事故もそうですけれども、かなりの部分が人間が絡むところ、いわば人為ミスが絡んで大きな事故に発展していくのです。

 私はかつての事故の分析をやって、『巨大事故の時代』(弘文堂、1989年)という本を書いたことがありますが、この本の中で分析的にある程度明らかにしたことは、人間と機械が絡んで、人為ミスのようなことが発端で事故が起こると、今度は装置の欠陥みたいなものに伝播していくということです。また装置の方のトラブルに伝播して、ことが大きくなっていくと、それを運転する側にも困難が生じてくるというように、人間と機械との相互作用のなかで、事故が将棋倒し的に巨大化していくということがあるのです。そういうような人為ミス、人間が絡むような事故に対して、いくら工学的な安全性と言ってみても、ほとんどそれが確保できないことが、今までの事故によってわかってきたことですし、JCOの事故であらためて痛感させられたことであったと思います。


 現代の原子力安全神話というのは、建物とか機械設備がいかに安全に設計されているかといった、基本的な設計を審査することだけで安全確保の基本が成り立っています。しかし、東海再処理の事故とJCO事故、この2つにかなり共通していることですけれども、人間が絡むということから考えてみると、機械システムに安全設計がしてあるかどうかという審査だけでは、実際の安全は確保できないように思います。

 実際の安全の崩れ方というか、お城の守りが崩れていく経過を見ると、そのきっかけは、ちょっと比喩が悪いかもしれませんが、例えば内部に諜報者や裏切り者がいるとか、あるいは内部の人間が昼寝をしていたといったことかもしれないわけです。お城をいかに設計するかだけではなく、お城の中で、人間がそれを守るためにどのように動くのかという動くマニュアル、具体的なマニュアルレベルがきちんとしていないと、大きな事故が起こってしまうように思われます。


 ・・・(以下略)
----------------------------------
「原子力事故は必ず起こる」ことを前提に

 もう一つ、大事なことがあります。原子力の安全性は、従来、だいたいにおいて原子力発電所の安全性として考えられてきたわけです。原子力発電所に限っていえば、放射能を圧力容器に閉じこめるとか、格納容器に閉じ込めるとか、それに一定のいろいろな補助的な装置、安全装置をつけることによって、かなり強化に努めることができます。先ほどのマニュアルレベルに照らして、もっとチェックができるかもしれません。しかし、じつは放射能の中心はそこにあったとしても、原子力全体はもっとものすごく広がっているのです。


 139ページの図5-2(略)は、核燃料サイクルを示したものです。原子力発電をするためには原子炉があって、そこに燃料を送り込めばいいということではありません。図に示したように、原材料となるウランや放射性物質の非常に長い旅があって、いろいろなシステムやレベルがあって、世界中のいろいろなところで、いろいろな人がそれに絡んでいます。そのどこかのプロセスでちょっと間違うと、今度の臨界事故のようなことが起こってしまいます。核自身の持っている本質的な危険性というか、牙のようなものがむき出しになった場合には、JCOという小さな片隅の施設の中で、いきなり裸の原子炉が出現してしまうような事態が起こります。

 そうした事態に対しては、先ほど述べた多重防護というシステムは、ほとんど機能しません。核燃料サイクルの全てのまわりに、いつも格納容器を作って厳重に防護するようなことには、とてもなっていないのです。だから、安全というと原発の内部だけに目が向けられ、そこにだけ集中していて、外側の安全は、それに比べたら百分の一程度にしか考慮されてこなかったのではないでしょうか。実際には原子炉の外側に、それこそ百倍くらいの、原子力発電を成り立たせるための全体的な領域が広がっているのです。その全体が守られていなかったら、とてもだめなのではないかということがJCOの事故によって非常にクリアになったわけです。


 これはJCOの事故の持っている非常に鮮明なメッセージだと思います。本当に安全な原子力があるとして、それをやろうとするならば、この原子炉の外側に膨大に広がる核燃料サイクル全体にわたって、今の原子炉と同じくらいのお金と努力を傾けて、安全規制の人間をへばりつかせて、チェックしていく必要があります。比喩的に言うならば、図5-2に示したような核燃料サイクル全体を、すっぽりとひとつ
の格納容器で覆わなければいけません。
 内部の人間をチェックする安全規制の体制づくりということで言えば、現状より人員を百倍くらい増やすような体制にしなければ、とても原子力の安全を確保することはできません。

 
 ・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北方領土問題 千島列島の範囲 NO2

2013年03月06日 | 国際・政治
 ヤルタ協定があったからであろうが、日本の千島列島放棄を盛り込んだサンフランシスコ平和条約(第1章 第2条(c)日本国は、千島 列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」) の締結を主導したのはアメリカである。
 そのアメリカが、米ソ冷戦が深刻化すると「日本が2島返還に応じて日ソ平和条約を締結するならば、沖縄返還はあり得ない」と日ソ関係改善に警戒心を強め圧力をかけた。したがって、そういうアメリカに追随する日本の北方領土返還の主張は、事実を曲げても「サンフランシスコ平和条約にいう千島列島の中にも両島(国後島・択捉島)は含まれていないというのが、政府の見解であります」(<昭和31年>1956年2月11日森下政務次官国会答弁「政府の統一見解」)ということにならざるを得ない。

 日本のポツダム宣言受諾を受けて発せられた一般命令第1号で、アメリカは「千島諸島」にある日本軍の武装解除その他の降伏処理を「ソヴィエト」極東最高司令官に任せた。それが、一般命令第1号(ロ)『満州、北緯38度以北ノ朝鮮、樺太及千島諸島ニ在ル日本国ノ先任指揮官並ニ一切ノ陸上、海上、航空及補助部隊ハ「ソヴィエト」極東最高司令官ニ降伏スベシ』である。

 また、連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府宛てに出された 訓令( Supreme Command for Allied PowersInstruction Note 、スキャッピン)の第677号において日本の行政権の行使に関する範囲に言及し、その3で日本から除かれる地域として「(a)うつ陵島、竹島、済州島 (b)北緯30度以南の琉球(南西)列島(口之島を含む)、伊豆南方、小笠原、硫黄群島、及び大東群島、沖ノ鳥島、南鳥島、中ノ鳥島、を含むその他の外郭太平洋全諸島(c)千島列島、歯舞群島(水晶、勇留、秋勇留、志発、多楽島を含む)、色丹島」とし、千島列島のみならず、歯舞・色丹も日本から除かれる地域に入れた。

 にもかかわらず米ソ冷戦が深刻化するにつれて、アメリカはその方針を転換し、歯舞・色丹2島の返還による日ソ平和条約の締結を認めなかったのである。アメリカは、米ソ冷戦下における極東政策上、日ソの関係改善を恐れたのであろう、日本が2島返還に応じて日ソ平和条約を締結するならば、沖縄返還はあり得ない(いわゆる「ダレスの脅し」)、と圧力をかけたのである。

 以後、日本の外務省は、西村条約局長の講和条約締結に関わる国会答弁(昭和26年10月19日)「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております。しかし歴史的に北千島と南千島はまったく立場が違う」を無視し、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した千島列島の中に国後島・択捉島は入らないという見解をとるようになった。それが、1956年2月11日の森下政務次官の国会答弁(政府統一見解)である。

 前述したように千島列島を放棄させたアメリカが、2島返還ではなく、4島返還でないと日ソ平和条約の締結を認めてくれないのである。だとすれば、日本としては北方領土返還を諦めるか、それとも「千島列島の中に(国後島・択捉島)は含まれていない」というしかない、ということであろう。

 ところが、「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)「日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土」孫崎享(ちくま新書)には、千島列島の範囲について、どう考えても、外務省の見解は事実に反するものである、と言わざるを得ない記述がある。下記はその抜粋である。

 まず、一般命令第一号に関するトルーマン発スターリン宛返信(1945年8月18日受信)に「一般指令NO1を、千島全てをソ連軍極東司令官に明け渡す領域に含むよう修正することに同意します」とある。

 また、ダレス自身が講和会議で「クリル諸島には1万1千人の日本人がおりました」と述べている。当時北千島には日本人はほとんどおらず、国後・択捉をクリル諸島に含めない限りありえない数字である。

 さらに、講和会議で、日本代表吉田茂は「千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議も挟まなかったのであります」とささやかな抵抗の演説をしている。国後・択捉は千島南部なのである。その千島南部の二島を含め、千島全島を放棄させたのがアメリカなのである。外務省は、そのことを正面から取り上げようとしないで、「そもそも北方四島は千島列島の中に含まれません」という。

 戦後の日本は、米ソが関わる北方領土不法占拠の経緯をきちんと明らかにしないで、日本に強大な軍事基地を持つアメリカとの同盟関係を強め、その極東政策に全面的に従っている。そして、北方領土について、ロシアの不法占拠の側面だけを追及している。でも、それでは北方四島の返還は遠いと考えざるを得ない。

「北方領土を考える」和田春樹著(岩波書店)---------------
三 
講和会議は1951年9月4日サンフランシスコのオペラハウスで開会された。
9月5日ダレスは条約を説明し、領土問題について、次のように述べた。

 「第2章第2条に包含されている放棄は、厳格に且つ慎重にその降伏条項を確認しています。第2条(c)に記載された千島列島という地理的名称が歯舞諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。歯舞を含まないというのが合衆国の見解であります。しかしながら、もしこの点について紛争があれば第22条に基づいて国際司法裁判所に付託することができます。

 たしかに、ソ連代表が予想に反して、この会議に出席している限りにおいては、その調印の可能性も抽象的には存在した。そうなれば、ソ連の同意をえて、国際司法裁判所に付託はできる。しかし、ソ連が調印しないことは明らかに予想されたので、この部分は条文の不備をカムフラージュする煙幕であったとしか言いようがない。ただし、ここでダレスが明瞭に千島列島の範囲問題が歯舞諸島問題だということを明確にしたことは重要な点である。


 さらに、演説の後段で、彼は、「ポツダム降伏条項に従って日本の領土を制限する講和」によって、8000万を越える日本人は本土だけで暮らして行かなければならなくなるが、それは十分可能だと述べた。「日本国民が自由に移民できる広大な植民地帝国を有していたときにも移民したものは殆どいなかったという事実」が根拠となる。ダレスは、例証として、台湾は35万人、朝鮮は65万人、を吸収したと数字を挙げ、さらに「南サハリンには35万人の日本人、クリル諸島には1万1千人の日本人がおりました」と述べた。

 この議論は8月6日付けのワイリー上院議員あての手紙の後段ですでに開陳されていたものであった。そこでは「サハリンは39万8000人、クリルは1万1500人という人口がダレスがいう「クリル諸島」の範囲をはっきりと示している。昭和9年北海道庁刊の「千島概況」によると、前年昭和8年10月1日現在の千島列島の人口は1万4524人であり、その内訳は、国後島7041人、択捉島5842人、色丹島953人、得撫島19人、新知島31人、占守島638人であった。得撫島にはじまる北千島18島にはほとんど定住民はいなかったのであり、千島列島の人口はほぼ南千島に集中していたのである。外務省が毎年出しているパンフレット『われらの北方領土』に掲げられている昭和20年8月15日現在の数字によると、択捉島3415人、国後島7259人、色丹島1028人、歯舞諸島5043人である。択捉島、国後島合わせて1万674人、これに色丹島を加えると、1万1702人、このいずれかがダレスの挙げたクリル諸島の人口であろう。歯舞諸島は完全にクリル諸島の範囲外に置かれており、ダレス演説は首尾一貫しているのである。

 ・・・

 以上の米英ソ代表の演説に比べると、日本代表吉田茂の演説が千島問題にもっとも詳しく触れたのは当然であった。吉田は日本語で演説し、通訳された。その通訳された英文が公式記録に載ったのである。ここでは日本語の原文で見る。吉田が冒頭次のように述べたのはあまりにも有名だが、先に引用したダレスの自画自賛と比較するために引用しておこう。

「ここに提示された平和条約は、懲罰的な条項や報復的な条項を含まず、わが国民に恒久的な制限を課することもなく日本に完全な主権と平等とを回復し、日本を自由且つ平等の一員として国際社会へ迎えるものであります。復讐の条約ではなく、『和解と信頼』の文書であります。日本全権はこの公正寛大なる平和条約を欣然受諾いたします。」

このように述べた吉田が、ただ一点不満と抗議を述べたのが、いわゆる「北方領土発言」であった。その部分を全文引いてみよう。

 「千島列島及び樺太の地域は日本が侵略によって奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます。
 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議も挟まなかったのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混在の地でありました。1875年5月7日、日露両国政府は平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話し合いをつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥協を計ったのであります。その後樺太南部は、1905年9月5日ルーズヴェルト・アメリカ合衆国大統領の仲介によって結ばれたポーツマス平和条約で日本領となったのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月21日一方的にソ連に収容されたのであります。
 日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。」


 この吉田発言はソ連代表の発言に触発され、反駁するためになされたものとは考えられない。なぜならグロムイコは千島列島が侵略によって奪取されたものだなどとはまったく述べなかったからである。吉田の意図はソ連代表への反論という形で南樺太と千島列島の放棄に関する条約の規定に抗議を行うところにあった。南樺太さえ条約で平和的に日本領となったと考える立場からして、吉田は、この地域はカイロ宣言にいう「暴力と貪欲」によって「略取」した地域ではない、これを放棄させられるのは大西洋憲章の「領土不拡大の原則」に反していると言いたいのである。しかし、アメリカを批判することはできない。だからソ連の方向いて歴史的経過を述べてみせたというわけである。

「日本の国境問題ー尖閣・竹島・北方領土」孫崎享(ちくま新書)-------
第3章 北方領土と米ロの思惑ー大国の意図に躍る日本

1 ソ連参戦

 参戦の見返りは樺太と千島

 ヤルタ協定は日本を拘束するものではない。しかし、米ソを拘束する。米国は日本の抵抗を減じ、米軍の被害を少なくすることを望んだ。
 21世紀の今日、米国は長崎・広島への原爆投下の理由を、「米軍の被害を出さないためだった」としている。第2次大戦終結間際の米国は、同様にソ連が参戦し関東軍が日本に帰れなくしておくことを強く望んだのだった。そして、ソ連が参戦する見返りに、樺太(南半分)と千島列島という餌を与えたのである。


 このルーズベルトの約束は、次の大統領トルーマンに引き継がれた。
 連合軍一般指令作成過程での受け持ち地域に関するトルーマンとスターリンのやりとりは興味ある史実を含んでいる(『日露(ソ連)基本文書・資料集』RPプリンチング)

スターリン発トルーマン宛親展密書(1945年8月16日)
「一般指令第1号が入った貴信受領しました。次のように修正することを提案します。
1:日本軍がソ連軍に明け渡す区域に千島全島を含めること
2:北海道の北半分を含めること。境界線は釧路から留萌までを通る線とする」

トルーマン発スターリン宛通信(1945年8月18日受信)
「一般指令NO1を、千島全てをソ連軍極東司令官に明け渡す領域に含むよう修正することに同意します。
 北海道の日本軍のソ連への降伏についてのあなたの提案に関しては、日本固有の全島(北海道、本州、四国、九州)の日本軍はマッカーサー将軍に降伏するのが私の意図である」


 こうした経緯を踏まえ、終戦当時、米国側は千島列島がソ連の領有になることについて何の疑いも持っていない。対日占領軍総司令部顧問のシーボルトは『日本占領外交の回想』(朝日新聞社)の中で『千島列島の処分は勿論カイロ、ヤルタ両会談で決められていた』と記している。

 のちに見るように、米国は日ソ間が接近するのを警戒し、日本が国後・択捉を主張するように誘導していく。しかし、米国はソ連・ロシアに対して「ソ連が国後・択捉を領有することはけしからん」と真剣に抗議をしたことがあるか。
 冷戦時代、ソ連は米国の敵である。しかし、同時に、米国はソ連と戦略核兵器等で合意せざるをえない。この中で、米国はソ連に対して「約束を反故にする国」という位置付けにはできない。ルーズベルトがスターリンに約束したこと、ヤルタ協定、これらは効力がないと直接ソ連に言っているか。言えるはずがない。米ソの間ではルーズベルトがスターリンに約束したこと、ヤルタ協定は厳然と生きている。米ソ間でヤルタ協定が生きていれば、「日本の領域は今後決定されることのある周辺諸小島に限定される」中に、国後択捉が含まれることはない。


サンフランシスコ平和条約での扱い

 サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日署名)において、「第2章(c)日本国は千島列島に対する全ての権利・請求権を放棄する」とした。その直前9月7日吉田首相は「千島南部の択捉、国後両島が日本領であることについて帝政ロシアも何等の異議を挟まなかったのであります」と述べている。
 この吉田首相の演説は2つの意味で重要である。
 一つは「千島南部の択捉、国後両島が日本領である」という「択捉、国後固有の領土論は国際的支持を得られず、日本は千島列島全体の放棄を受諾せざるを得なかったことである。今一つは択捉、国後を千島南部と位置付け、放棄した千島に入れていることである。


 昭和26年10月19日、西村条約局長は国会答弁において、「条約にある千島の範囲については北千島、南千島両方を含むと考えております。しかし歴史的に北千島と南千島はまったく立場が違う」と答えている。
 さらに昭和26年10月26日衆議院本会議において(サンフランシスコ)平和条約の承認を求める際、日米安全保障条約特別委員長の田中萬逸氏は「遺憾ながら条約第2条によって明らかに千島、樺太の主権を放棄した以上、これらに対しては何らの権限もなくなるわけであって、国際司法裁判所に提起する道は存しておらない。また、クリル・アイランドの範囲は、いわゆる北千島、南千島を含むものである」と説明している。

 この流れを受けて、昭和34年2月25日最高裁判所第2小法廷は「出入国管理令違反被告事件」において次のような判決を出している。
昭和27年4月28日発効の日本国との平和条約第2条(C)は、”日本国は千島列島……に対するすべての権利及び権原を放棄する”旨規定しているのであって、同日の外務省令12号で千島列島に関する規定が削除されたのも右条約の趣旨に基づくものであるから、同日以降、千島列島に属する国後島は、出入国管理令の適用上においては、同令2条1号にいう本邦には属しないこととなったものと解するを相当とする」


 国際的に見ても、日本側照会に対してフランス政府は、サンフランシスコ講和条約の千島の扱いについて「サンフランシスコ会議議事録は千島の範囲に関し言及している。
 特に日本代表が国後、択捉を南千島として言及しているところに注意を喚起すると述べている。(松本俊一『モスクワにかける虹──日ソ国交回復秘録』朝日新聞社)。
 こうして日本は、サンフランシスコ平和条約においても、択捉、国後を主張しうる立場にない。

大国に利用される北方領土問題

 しかし、ここに仕掛けが潜んでいる。米英は北方領土問題を残すことによって日ソ関係の進展を阻もうとしている。丹波実元駐ロシア大使は『日露外交秘話』(中央公論新社)で、次の記載をしている。「『51年対日平和条約において日本に千島列島を放棄させるが、この放棄させる千島列島の範囲を曖昧にしておけば、この範囲をめぐって日本とソ連は永遠に争うことになろう』という趣旨の(在京英国大使館発)英国本国宛ての極秘意見具申電報がある」


 米国自身にも同様の考えがあった。
 ジョージ・ケナンと言えば、20世紀の世界の外交官の中で最も著名な人物であろう。ソ連封じ込め政策の構築者でもあるケナンは、国務省政策企画部を拠点に冷戦後の米国政策形成の中心的役割を果たした。そのケナンの立場を前提として、アリゾナ大学教授マイケル・シャラーの記述『「日米関係」とは何だったのか』(草思社)を見ていただきたい。

 「千島列島に対するされんの主張に異議を唱えることによって、米国政府は日本とソ連の対立をかきたてようとした。実際すでに1947年にケナンとそのスタッフは領土問題を呼び起こすことの利点について論議している。うまくいけば、北方領土についての争いが何年間も日ソ関係を険悪なものにするかもしれないと彼等は考えた」

シャラーはこれを裏付けるものとして1947年9月4日の国務省政策企画部会合記録を脚注で指摘している。


  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする