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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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福沢諭吉「脱亜論」と歴史の修正

2018年04月18日 | 日記

 日本人として、日本を誇りたい、また、日本の歴史を誇りたい、という気持ちはよく分かります。でも、だからといって、不都合な歴史的事実に眼を閉ざし、歴史を客観的にとらえようとすることなく、日本でしか通用しない歴史を語ることは許されないと思います。

 資料1は「えがかれた日清戦争 文学と歴史学のはざまで」小笠原幹夫(星雲社)の中の「福沢諭吉と帝国主義」の一部を抜粋したものですが、見逃すことの出来ない記述がありました。日清戦争を侵略戦争としてではなく、近代化を進めるために不可避の戦争であったとして、肯定的に受け止めるためでしょうが、
日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 と書いています。
 ”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”ということで、日清戦争も侵略戦争ではなかったと言いたいのでしょうが、それはあまりにも勝手な解釈、勝手な主張だと思います。”見解はない”という事実認識に問題があると思いますし、何より、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約その他の国際条約成立の経緯を無視するものではないかと思います。
 私は、他国に軍隊を送り戦争をすることは、当時欧米を中心とする先進国においてすでに確立していた市民社会の法と矛盾する側面が多々あり、いろいろなところで多くの犠牲を出してきたこともあって、それらの条約が徐々に成立していったのではないかと思います。また、フランスにたいする安南(ヴェトナム)民衆の激しい反抗は、フランスのヴェトナム攻略が正当なものであったかどうかという判断では、無視されてはならないと思います。
 現在の国際法が相互主義を原則にしていることを踏まえると、植民地化された側はもちろん、関係国や国際世論などの判断抜きに、”フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。”などと根拠を示さず断定し、だから、日清戦争も侵略戦争ではなかったというのはいかがなものかと思います。「己の欲せざる所、人に施す勿れ」は、中国,春秋時代の言葉だといいますが、これに類する考え方は、洋の東西を問わず存在するわけで、こうした考え方に基づいて様々な法が整備されてきたを経緯を無視して、侵略する側の判断だけで、侵略戦争を正当化してはならないと思うのです。

 ”制裁する根拠”がなかったから、日清戦争は侵略戦争ではなかったといえるでしょうか。残念ながら、国際法は現在もなお、ほとんど制裁規定はないのではないでしょうか。さらに、
あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。
 というのもいかがなものかと思います。植民地獲得禁止の国際法が整っていなかっただけで、”合法”などといえるものではなかったと思います。当時すでに、欧米を中心とする先進国の市民社会は、ハーグ陸戦条約や赤十字条約、不戦条約などの国際法に結びつく国内法を持っていたこと、そしてそれが、一国が他国の領土を武力によって占有することを禁じる現在の国際法に発展したことを無視してはならないと思います。一国が他国の領土を武力によって占有することを認める国際法が存在したことはなかったと思います。したがって、”合法”とは言えないのではないでしょうか。

 さらに言えば、朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、朝鮮の主権を侵すような政策を進めたために、李氏朝鮮は日本ではなく、清国やロシアに頼り、国際社会にも訴えたのではないかと思います。「侵略か否か」の判断では、そうした側面も無視されてはならないと思います。

 また、”反日歴史家たちは”以下の文章には驚きました。「慰安婦」の問題を論じることが、”珍妙な攻撃材料”であるというのは、どういうことでしょうか。「慰安婦」の問題など論じる必要はないということでしょうか。私は、大学で若者を指導する小笠原幹夫氏が、自ら歴史修正主義者であることを宣言されているように感じ、残念に思いました。こうした文章は、学者や研究者の文章ではないと思います。

 福沢諭吉の「脱亜論」に関しては、『福沢諭吉の朝鮮 日朝清関係のなかの「脱亜」』月脚達彦(講談社選書メチエ)に重要な記述が取り上げられていましたので、こちらから抜粋しました(資料2)。福沢諭吉が矛盾したことをいろいろ書いていることはよく知られていますが、それは、福沢諭吉自身の
「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない
と書いていることを踏まえて読めば、かなり理解できるように思います。また、福沢諭吉は、日清戦争前後は、明治政府の政策を追認するかたちで、”「権道(ケンドウ)」に与(クミ)”する記事を書き続けたことも忘れてはならないと思います。その時々の状況に合わせて、明治政府を代弁するかのような文章を多く書いているため、一貫した思想の表現にはなっていないのだと思います。また、”止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。”と侵略戦争さえ肯定する考え方を「脱亜論」で示していることは、見逃してはならないと思います。

 資料3は同書の「脱亜論」の部分です。著者が三つの部分に分けて解説しているものを、解説抜きで抜粋しました。
 福沢諭吉は当初、日本は”アジアの盟主たれ”と主張していたのですが、「脱亜」にきりかえたのは、明治政府の政策との関係があったのではないかと思います。また、
進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。
とありますが、明治維新を成し遂げた薩長は尊王攘夷を主張して、開国政策を進めていた幕府を倒したのですから、そこには矛盾がありますが、薩長が開国に転じたので、倒幕の理由など問う必要はない、ということなのでしょうか。
 第三の部分は、「アジアの盟主論」では、明治政府と一体となって近代化を進めることが難しいため、朝鮮や中国を徹底的に貶し”悪友”とであるとして、”西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。”と、植民地化することも容認する主張をしているのではないかと思います。だから、中国・朝鮮を蔑視する「自尊他卑」の考え方で、”国民の戦意を煽った”という批判を、否定することはできないと思います。 
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                        福沢諭吉と帝国主義

 ・・・
 たとえば日清戦争についてみれば、清国の朝鮮との間の宗主・朝貢関係は、万国公法上の植民地ないしは保護国の要件をみたしていなかったが、欧米列強は事実上これを黙認していた。したがって清国に既得権があったともいえるが、第三国が清国と朝貢国との間にはいり込んで、権益拡大を企てた場合には、万国公法にはこれを制御する規定はなかった。じじつ、フランスのコーチシナ進出、ロシアのイリ地方への領土拡大、イギリスのビルマ併合などはすべて合法的とみなされていた。とりわけ、日清戦争の十年前にフランスは、インドシナ半島の完全植民地化をめざし安南(ヴェトナム)を攻略した。清国は宗主権を主張してゆずらず、その結果清仏戦争が起こった。清国は敗退し、フランスが安南を保護国化することを認めた。直接に植民地獲得をめざした軍事行動として、日清戦争よりも権益拡大の意図は明瞭だが、フランス側にはこれを侵略戦争と断じた見解はない。朝鮮が独立国であることを江華条約で明言した日本が、清国の宗主権を否定する行動をとったとしても、国際法上これを制裁する根拠はなかった。
 日清戦争の開戦時には、イギリスとロシアは戦争に干渉する姿勢を示すが、それは日本の行為が国際法違反だからではなく、自国の利害がそこにからんでいると考えたからである。したがって、朝鮮半島およびその周辺で日本が自国の権益を伸長するために起こした軍事行動は十分に容認しうるものであり、清国領土への進攻も含めて、現在の国際常識に照らして、侵略と判断するとしたら、それは明らかな時代錯誤というものである。「他がみんなやっているからといって免罪されない」という主張は道徳の話としては聞いてもいいが(小学生の道徳ではあるが)、法の運用の話になるとまったく別である。
 あらたな植民地の獲得は、第一次世界大戦の国際条約によって初めて禁止されたが、それ以前は合法であった。(日韓併合ののちも、フランスはモロッコを、イギリスはアフリカのリビアを保護国としている。)既得の植民地の放棄、すなわち民族自決権が事実として否定できなくなるのは第二次大戦後である。
 十九世紀の後半からニ十世紀の初頭にかけては帝国主義の花ざかりで、平たくいえば、植民地を奪取するくらいの国力がなければ国家として一人前ではないという時代であった。かつて銀幕を彩った『モロッコ』『外人部隊』『アフリカの王女』『地の果てを行く』といった作品は、植民地拡大をめぐるナショナリズムの高揚を背景にしていた。過去における対外進出・膨張政策を”悪”とするのは、一部日本人の勝手な思い込みであって、けっして世界普遍の心情ではない。むしろ過去に植民地を持った国のほとんどは、誇りある来歴として、かつての栄光を子孫に語っている。

 福沢諭吉の『脱亜論』は、明治十八年三月十六日の「時事新報」に発表された。読み切りの片々たる小論で、発表当時はさして話題にならなかった。内容があまりにも当たり前すぎるので、反論の余地がなかったのであろう。
 ところがこの『脱亜論』なるものが、富田正文氏が、

 第二次世界大戦の終わったあとで、私は電話で、福沢諭吉に「脱亜論」という論説があるそうだが、それは『全集』のどこに載っているかと尋ねられたことがある。いまその質問者の名を思い出せないが、「脱亜論」の名が俄(ニワカ)に高くなったのは、そのころから後のことである。

 と指摘しているように、近年、反国家の思想を持つひとびとによって槍玉にげられている。批判の理由は、福沢は、アジアをばかにしている、自国独善主義である、「入欧」一辺倒主義である、すなわち明治後の”権力悪”を象徴している、というのである。とんでもない話で、福沢の「脱亜論」がどういう意味をもっていたのか、原文を一読すればそういう誤解が牽強付会であることは分かるはずである。反日歴史家たちは、柄のないところに柄をすげて、革命を起こすためなら、大恩人の福沢先生さえ引きずりおろす、というわけだ。もっとも日本がいまだに絶対主義王政だと信じている人たちは、福沢諭吉にさほど恩を感じていないのかもしれないがーー。ちなみに、最近ではこの革命幻想がなくなったため、反日行動が無目的・愉快犯的になり、自制心がきかなくなって、かえって過激・悪質化している。(「慰安婦」などという珍妙な攻撃材料がでてきたのもそのためであろう。)

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       序章 福沢諭吉の朝鮮論をどう読むか

 福沢のアジア盟主論

 初めて朝鮮人と出会った1880年の年末から、福沢は『時事小言』の執筆に取りかかる。この著作は福沢がある意味で転向を宣言したものだった。福沢は同書の第一編「内安外競之事」の冒頭で、「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならないとして、次のように宣言する。

他人愚を働けば我も亦(マタ)愚を以て之(コレ)に応ぜざるを得ず。他人暴なれば我亦暴なり。他人権謀術数(ケンボウジュツスウ)を用いれば我亦これを用ゆ。愚なり暴なり又権謀術数なり、力を尽くして之を行ひ、復(マ)た正論を顧るに遑(イトマ)あらず。蓋(ケダ)し編首に云へる人為の国権論は権道なりとは是の謂(イイ)いにして、我輩は権道に従ふ者なり。

仮令(タト)ひ我一家を石室にするも、近隣合壁に木造板屋の粗なるものあるときは、決して安心す可(バカ)らず。故にか火災の防禦を堅固にせんと欲すれば、我家を防ぐに兼て又近隣の為に其予防を設け、万一の時に応援するは勿論、無事の日に其主人に談じて我家に等しき石室を造らしむこと緊要なり。或(アルイ)は時宜に由り強(シイ)て之を造らしむも可なり。又或は事情切迫に及ぶときは、無遠慮に其地面を押領して、我手を以て新築するも可なり。蓋し真実隣家を愛するに非ず。又悪(ニク)むに非ず、唯自家の類焼を恐るればなり。

今西洋の諸国が威勢を以て東洋に迫る其有様は火の蔓延するものに異ならず。然るに東洋諸国殊(コト)に我近隣なる支那朝鮮等の遅鈍にして其勢に当ること能はざるは、木造板屋の火に堪へざるものに等し。故に我日本の武力を以て之に応援するは、単に他の為に非(アラ)ずして自ら為にするものと知る可(ベ)し。武以て之を保護し、文以て之を誘導し、速に我例に傚(ナライ)て近時の文明に入らしめざる可らず。或は止むを得ざるの場合においては、力を以て其進歩を脅迫するも可なり。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       「アジア主義」の成立と福沢諭吉
社説「脱亜論」の内容
『時事新報』1885年3月16日社説「脱亜論」第一の部分
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸し、到る処、草も木も此風に靡かざるはなし。蓋し西洋の人物、古今に大に異るに非ずと雖(イエ)ども、其挙動の古(イニシエ)に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利便を利用して勢に乗ずるが故のみ。故に方今東洋に国するものゝ為(タメ)に謀るに、此文明東漸の勢いに激して之を防ぎ了(オワ)る可きの覚悟あれば則ち可なりと雖ども、苟(イヤシク)も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与(トモ)にするの外ある可らざるなり。文明は猶麻疹の流行の如し。目下東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。此時に当り此流行病の害を悪(ニクミ)て之を防がんとするも、果して其手段ある可きや。我輩断じてその術なきを証す。有害一編の流行病にても尚且(ナオカツ)其勢には激す可らず。況(イワン)や利害相伴(アイトモノ)ふて常に利益多き文明に於てをや。啻(タダ)に之を防がざるのみならず、力(ツト)めて其蔓延を助け、国民をして早く其気風の欲せしむるは智者の事なる可し。

第二の部分
西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸(ヨウヤ)く其採る可きを知り、漸次に活潑の気風を催(モヨ)ふしたれども、進歩の道に横たはるに古風老大の政府なるものありて、之を如何ともす可らず。政府を保存せん歟(カ)、文明は決して入る可らず。如何となれば近時の文明は日本の旧套と両立す可らずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦廃滅す可ければなり。然(シカラ)らば則ち文明を防ぎて其侵入を止めん歟、日本国は独立す可らず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。是(ココ)に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基づき、又幸に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一再万事西洋近時の文明を採り、独(ヒト)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新に一機軸を出し、主義とする所は唯脱亜の二字に在るのみ。

第三の部分(前半)
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は既に亜細亜の固陋(コロウ)を脱して西洋の文明に移りたり。然るに爰(ココ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云ひ、一を朝鮮と云ふ。此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本に異ならずと雖も、其人種の由来を殊(コト)にするか、但(タダ)しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三国相対し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此二国の者共は一身に就き又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以て心を動かすに足らずして、其古風旧慣に恋々(レンレン)するの情は百千年の古に異ならず。此文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云ひ、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さへ地を払(ハロ)ふて残刻不廉恥を極め、尚傲然(ゴウゼン)として自省の念なき者の如し。我輩を以て此二国を視れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚(トテ)も其独立を維持するの道ある可らず。幸にして、其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大(オオ)いに其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、若(モ)しも然らざるに於ては、今より数年を出(イ)でずして亡国と為(ナ)り、其国土は世界文明諸国の分割に帰す可きこと一点の疑(ウタガイ)あることなし。如何(イカン)となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭ひながら、支韓両国は其伝染の天然に背き、無理に之を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(チッソク)するものなればなり。 
 
第三の部分(後半)
輔車脣歯(ホシャシンシ)とは隣国相助くるの喩(タトエ)なれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫(イチゴウ)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接するが為に、時に或は之を同一視し、支韓を評するの価(アタイ)を以て我日本に命ずるの意味なきに非ず。例へば支那朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(タノ)む可きものあらざれば、西洋の人は日本も亦無法律の国かと疑ひ支那朝鮮の士人が惑溺(ワクデキ)深くして歌学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦引用五行(インヨウゴギョウ)の国かと思ひ、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(オオ)はれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷なるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるゝが如き、是等の事例を計(ハカ)れば枚挙に遑(イトマ)あらず。之を喩(タト)へば比隣(ヒリン)軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然も残忍無情なるときは、稀に其町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜に掩(オオ)はれ湮没(インボツ)するものに異ならず。其影響の事実に現はれて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云ふ可し。左(サ)れば今日の謀(ハカリゴト)為(ナ)すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧(ムシ)ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者には共に悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。 

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福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO4

2018年04月11日 | 国際・政治

 引き続き、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋しました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、今まで同様それらをすべてはぶき、私自身が気になったことや感想を、私なりにまとめました。また、今回は「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から、日本人による朝鮮王宮乱入、閔妃暗殺事件直後の状況に関する文章の一部も抜粋し、加えました。

21の 「事の真相を明にす可し」の記事は、乙未事変(イツビジヘン)と呼ばれ、李氏朝鮮の国王・高宗の王妃であった明成皇后(閔妃)が、朝鮮駐在公使、三浦梧楼らの計画に基づき王宮に乱入した日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士(大陸浪人)その他によって暗殺された事件に関する記事です。
京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。
とありますが、この記事は、福沢自身が他の報道を批判して、”針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり”という以上に問題があると思います。事の真相を意図的に隠し、歪めて報道しているのではないか、と疑われる記事だと思います。
日本人中多少関係したるものある”の”多少”という根拠はなんだというのでしょうか。
他国人の身で斯る企てに加担する”の”加担”という根拠はなんだというのでしょうか。
日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり”とありますが、王宮に乱入した朝鮮駐在公使三浦梧楼をはじめとする日本人の集団が”乱暴人”所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共”だったというのでしょうか。
 私には、この「時事新報」の記事は、事の真相を隠し歪曲して、王妃暗殺という大事件を矮小化する意図をもって書かれたとしか考えられません。
 また、日本政府は対応を迫られたためか、三浦梧楼ら関係者48名を謀殺罪等で広島監獄に収監したものの、”首謀と殺害に関して証拠不十分”として、免訴し釈放していることを見逃すことができません。李氏朝鮮明成皇后(閔妃)を、王宮に乱入して殺害した日本人の犯罪が、日本において日本人によって裁かれ、免訴され釈放されたという事実も考えさせられます。
 「時事新報」は”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、その後、彼等が免訴し釈放されてたことを問題にしないのはなぜでしょうか。
 
22の「二十八日の京城事変」の記事は、「事の真相を明にす可し」の記事から二ヶ月足らず経過した後に書かれた記事ですが、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”と主張し、”関係者の厳罰を望むなり”と書いていたのに、”一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し”と変わってしまいます。”されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。”と、ここでもまた朝鮮の国情を問題として、やむを得ない事件だったかのように書いています。おかしな論理だと思います。宮中に乱入し、明成皇后(閔妃)を殺害した犯人が朝鮮人であったのなら、わからなくもないのですが、犯人は”文明国”を自認する日本の公使を中心とした日本人の集団であったことを、あえて無視しているように思います。
 犯人が文明国の日本人であれば、たとえ朝鮮の国情がそれほど酷いということであっても、”他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず”や”関係者の厳罰を望むなり”を取り下げる理由にはならないと思います。
 逆に、きちんと法や道義に基づいた対応をして、広く朝鮮社会に模範を示すことが大事なのではないかとさえ思います。”先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず”などと、他国の問題をとり上げるのも、恥ずかしいことだと思います。

23の「京城事変」の記事では、なぜか、”国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり”の理由を正しく理解しようとしていないように思います。そして、
先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。”
と国王派と金弘集の一派の争いに過ぎないかのように書いています。日本の強引な朝鮮政策が引き起こしたといえる争いであるにもかかわらず、その問題点を明らかにしようとはしていないと思います。

24の「朝鮮政府の転覆」も、意図的に問題の本質を隠しているような気がします。日本人による犯罪は、”気の毒なれど”と同情はしても、”自業自得”などと言って追及しようとせず、”去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。”などというのは、日本人による犯罪だからなのでしょうが、こうした記事を掲載していた「時事新報」が、日本の顔として一万円札の肖像になっている福沢諭吉の創刊であることにはほんとうに驚きます。

25は、事件当時、朝鮮を旅行して歩いた旅行家で探検家で紀行作家でもあるという英国のイザベラ・バードの「第二十三章 朝鮮史の暗黒期」の文章の一部を「朝鮮奥地紀行2」イザベラ・バード/朴尚得訳(平凡社)東洋文庫573から抜粋しました。
 ”世界中で日本ほど婦人が危険にも無作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている”と日本を高く評価したイザベラ・バードは、日本人による朝鮮王宮に乱入、閔妃暗殺事件の本質を明らかにし、「時事新報」の記事の問題点をあぶり出しているように思います。
21-------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー----------------------------
              「事の真相を明にす可し」(明治二十八年十月十五日)

 今回朝鮮事変の報道は、日本人より出でたるもの、外国人より達したるものあれど、事実甚だ明白ならず。針小を棒大に、或は大事を後に細事を先にしたるものもあり、急遽の際、通信の前後混雑は免れず、詳報の到着を待つ外なけれど、京城在留の日本人中多少関係したるものあるは疑ひなき如し。他国人の身で斯る企てに加担するは実に怪しからぬ次第にして、我輩の赤面に堪へざるなれど、今の日本の国情から時として斯(カカ)る乱暴人の出づるも止むを得ざる事情あり。維新革命の前後より一種の政治思想を養成し、政治狂有様を呈し、政治の為めに人を殺すの殺伐を演じて怪しまず。大臣暗殺、外国人への凶暴は毎度のことなり。先年の露国皇太子、本年の李鴻章(リーホンチャン)事件は著しき事例なり。日本人に一種殺伐の思想あるは事実にして、朝鮮に対して年来の関係から、是(コレ)ら妄想家が妄想を逞うして事を誤る掛念少なからず。昨年の戦争後、政府は特に留意して内国人の漫の渡航を禁じ、居留民を厳に取締り、用心一方ならざれど、所謂壮士と称し、身に常識なく無聊に苦しむ者共、居留民中に多く、今回の事変に進んで参加したる者あるべし。この点より日本人関係すの報道を疑わざる者なり。ただ願ふ所は事実を有りの侭に表白し、根底より罪を糺し、前後の始末を明白ならしむ一事なり。無知無識の輩とは云へ、他国の宮中に闖入して乱暴を働くが如き、言語道断、決して恕(ユル)す可らず。日本は乱暴国なりと、暴徒の為めに汚名を蒙るに至らば、迷惑至極、容易ならざる次第なれば、関係者の厳罰を望むなり。

22ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「二十八日の京城事変」(明治二十八年十二月七日)

 先の事変に日本人も与りたりと朝鮮政府に迫り、日本公使に談じたる某外国公使の配下より同様の乱暴人を出したるは、近来の奇談なれ。先の事変の罪を問ふなら、この事変も宜しく看過すべ可らず。外国の交際法、内国の治罪法に然かる可きなれど、一歩進めて朝鮮の政情を穿つときは、諸外国人の乱暴無法も、さまで深く咎むるに足らざる如し。紳士の間の無作法も車夫馬丁の仲間では普通の事なり。市中の放歌裸体は禁制なれど、野外では醜体をも座興とす。今の朝鮮、政府に威厳なく、三、五十人の壮士あれば、政権も王城の乗取りも思ふがままにして、今日の政府明日の政府に非ず、昨日の政令今日取消し、今日取消したる法律明日復活し、罪人も罪人に非ず、功臣も功臣に非ず。已に亡国に等しく八道は暴政の古戦場にして茫々たる原野なり。外国人の無作法の挙動を喩へれば、野外散歩の少年が放歌高声、無益の殺傷に鬱を散ずる如し。されば先の王城乱入も今回の乱暴も、咎むべきは咎む可きなれど、朝鮮の国情を察すれば、野外の遊興、無益の殺傷と視る可きのみ。亡国の実を具へて亡びず、既に例外なれば、例外の変乱深く怪しむに足らず。
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                  「京城の事変」(明治二十九年二月十四日)

 京城からの電報によれば露国兵士百二十人京城に入り、翌暁国王・世子はロシア公使館にて新内閣を組織、現内閣員を罷免せり。総理金弘集が殺戮され、その他は僅かに逃れたり。事は露国に関する如くなれど、我輩の所見では、今回の政変は国王自身の発意に出でたるものなり。国王深く王妃の不幸を悲しみ、義和宮(ウィファグン)の外遊の際も、此の怨は晴らさず可らず、頼むは某国なれば、最後は某国に止まるべしと諭したり。内閣大臣に対して汝ら三年同窓の学友を終身忘れざる情あらん、余は王妃と三十年起臥を共にせりと、屡々(シバシバ)怨言を漏らせり。先年十一月二十八日の事件も某公使館に逃れたる輩と宮中が気脈を通じたるものにして、その一派が露国の力に頼り、水平上陸を幸に目的を達したるは、金弘集の一派が日本公使館の後援を得て十月の政変を行ひたると同等なり。されば朝鮮の政府には大事件なれど、日本と露国の交際にはこの為めに一点の曇を見ず。ただ今後の成行に注目す。
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                「朝鮮政府の転覆」(明治二十九年二月十五日 時事)

 今回の政府転覆は気の毒なれど、我輩の所見を以てすれば、当局者の自業自得なり。去年十月の事変に王妃の不幸を見て、外国人の中には変後の新政府は至当と認めずなどの話もあれど、本来国内の騒動にして、外国人の名誉利益には毫厘(ゴウリン)の影響非ず。王妃の最後は正理人道に許す可らずなどと云はんなれど、正邪曲直は朝鮮人の自ら判断する所にして、他より云々することに非ず。王妃の不幸云々(ウンヌン)と云へど、外国に政治上の革命は毎度のことなり。国王大統領を殺したる例さへ少なからず。国内に事変あるも社会の秩序を維持し、外国人の名利を損ぜざる限り顧みる所ある可らず。されば新政府は彼らが正当の政府と認めざるも、着々新政を行ひ政権を維持するときは、内外の物議も消滅すべし。十月の政変に閣僚以下、関係の遠近はあれど、一人の異議を唱ふる者なかりしは明白なる事実なり。彼の一挙を仮に悪事と見なすとき、正犯従犯の別こそあれ、与に罪人なれば、同志結束して進むべきに、朝鮮人の常として、自身の安全を謀らんとする結果、次第に離れて孤立し、自ら倒るる成行なり。我輩の予想に違はず、外国人云々より動揺し、内閣員は責を大院君に帰し、大院君更に責任者を求めて罰せんとし、まず王宮占拠に参加せる禹範善を放逐し、次いで趙義淵、権濚鎮を黜(シリゾ)け、遂に罪を李周会(イジュフェ)に帰して死刑に処するに至る。自ら同志を擠排(セイハイ)して羽翼を殺ぎたる結果、政府自ら孤立して一夜の間に最後を遂げたるは、返す返すも失策なり。
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                     第二十三章 朝鮮史の暗黒期
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 宮殿での事件の三日後、国王と一般民衆が王妃は生きていると信じていた時に、獣のような野蛮な王妃暗殺よりもずっと恥ずべき非道である、いわゆる王の布告〔詔勅〕が官報で公布された。署名を求められて、国王は拒絶し、むしろ両手を斬り落とした方がよい、と言ったという。しかしそれは、国王の布告として世に出た。宮内府大臣は、首相および内閣の六人の大臣が署名した。

     詔勅

 朕が即位して三十二年、治化は、まだ広く行き渡っていない。王后閔氏は、親党を引き入れ、左右に置いておき、朕の聡明を塞ぎ、蔽った。人命を害し、朕の政令を乱し、官爵を売り、残虐なことをして天にまで蔓延した。盗賊が四方で起き、宗社は危うく、朝夕を保全できない。
 朕がその悪の極まったのを知っても罰を下せなかったのは、ただ、朕が不明であったばかりでなく、その与党を恐れてそうしたのである。
 それで、朕は、昨年十二月、宗廟に誓って告げた。『后嬪宗戚は政治に関与できない』と。もしかして閔氏が悟り、改めることがあるよう願ってのことである。閔氏は、旧悪を悔い改めなかった。大勢の小人たちをひそかに引き入れ、朕の動静を窺っていた。およそ、朕が国務大臣を引接すると、おおむね、みな、防ぎ止める。朕の命令と偽り称して朕の国兵を解散させ、変乱を急激に起こした。事変が出来するや、朕を避け、独りで逃げた。壬午〔高宗十九年 1882年〕の往事を踏襲した。訪ね求めた時、とうとう出現しなかった。これは、どうして、王后の爵徳を称せられないのに止まるだけで済むことであろうか。
 その罪悪は、実に満ち渡っていて、先王宗廟を承ることはできない。故に、謹んで我が家の故事に依り、王后閔氏を廃して庶人にする。
        開国五百四年八月十二日奉勅
                                              宮内府大臣     李戴冕  
                                              内閣総理大臣    金引集
                                              外部大臣      金允植
                                              内部大臣      朴定陽
                                              度支部大臣     沈相薫
                                              軍部大臣      趙羲淵
                                              法部大臣      徐光範
                                              学部大臣臨時署理  徐光範
                                              農商工部大臣署理  鄭秉夏
                                          〔黄玹『梅泉野録』(朴尚得訳、国書刊行会)ニ四六頁参照

 その日、詐欺のようなこの恥ずべき詔勅の発布に続いて、もう一件の布告が出された。その布告で、王子を哀れみ、王太子が国王に深い愛情を寄せているのに配慮して、国王は王妃を「第一位の内妻」の身分に「高めた」のである。
 外交官たちは悩み、心配し、事態を討議するために絶え間なく会合していた。もちろんその極端な緊張状態は、ただ単に朝鮮での「出来事」とその局地的帰結によってのみ惹き起こされたのではない。この手際よくし遂げられた陰謀、無防備な女性を残忍にも殺害した事件の背後に、恐ろしい嫌疑が懸けられていた。その訝(イカブ)りは、悲劇後数日間に、時々刻々と確実なものに強まっていった。人びとは、兆しだけによる暗号解読の鍵として次のように言っていた。朝鮮人よりも他国人の頭脳が陰謀を企み、朝鮮人の手よいりも外国人の手が生命を奪い、暗殺行為中、国王の部屋を護衛していた哨兵たちは、朝鮮の制服よりも別の国の制服を着てしでかした。朝鮮の銃剣よりも他国の銃剣が宮殿の壁の陰できらりと光っていたようだ、と。
 人びとは、その訝りを用心深く語っていた。けれどもダイ将軍とサバティン氏の証言が、間違いなく一つの方角を指し示していた。事件後早ばやと持ち上がった疑問は「子爵三浦将軍は犯罪に関係していたのか」という事であった。この疑問に就いて詳しく述べる必要は無い。宮殿での悲劇の十日後日本政府は、事件のいかなる共犯とも潔白である、と釈明していたが、三浦子爵、杉村と朝鮮軍事顧問岡本を召還して逮捕した。彼らは数か月後、他の四十五名の者どもと共に広島で日本の第一審裁判の審理に懸けられた。そして「どの被告も、元来彼らがもくろんだ犯罪だが、それを実際に犯した事を立証する証拠は不十分」である、との法律上の技術的な理由で無罪になった〔1896年1月20日、広島地方裁判所「朝鮮事件予審終結決定書」参照〕。この犯罪は、私の判断によると、二人の被告が犯したものである。「三浦の唆しで、王妃殺害が決定された、そして、共犯者どもを集める事で次の段階にと進んだ…この二名の者に指揮された他の十名以上の者が、王妃を亡き人にした」
 三浦子爵は、有能な外交官小村〔寿太郎〕氏と交替した。その後暫くして井上伯爵が、日本天皇の不幸な朝鮮国王への弔辞を携えて到着した。この事件によって日本の信望と東洋での文明開化の指導者としての日本の地位は強打を被り、この際私たち外国人の同情を受け続ける政府たり得なかった。というのは日本政府が行った事件関与否認は忘れられ、暗殺の陰謀が日本公使館で整えられた事、民間人の服装をして刀とピストルで武装した日本人が宮殿で、直接非道に従事していた事、ある者は朝鮮政府の顧問であったし、また雇用されていた事、他の者ども--日本正規軍は除いて、壮士(ソウシ)として知られている者を含む全六十名は、日本公使館と関係がある日本人警備隊であった、という事が、常に思い出されていたからである。
 一代表を例外にして外国代表たちは、朝鮮の内閣に告げた。暗殺者どもを裁判に懸ける処置が執られるまで、訓練隊が宮殿から移動させられるまで、非道に責任がある内閣に最近、参入した者たちが糾弾されるか、少なくてもその官職を解任されるまで、朝鮮政府のどのような行為も認めるわけにはいかない、或は、朝鮮国王の名義で発布されるいかなる布告も認証されたものとして受け入れるのは断る、と。この慎重な方針は後に、上辺だけのものとなった。
 十月十五日、官報の号外で、「王の命令によって」王妃の地位は、一日たりとも空けておく訳にはいかないから、花嫁選択の手続き〔国婚揀択(カンタク)の節〕が直ちに始められなくてはならない、と発表された! これは、監禁されている国王に加えられた、積まれて山を成した数多くの侮辱の内の単に一つのものに過ぎなかった。
 十月の残りの日々と十一月中、事態はなんら改善されなかった。暗がりが深くなって陰惨幽暗の様相を呈していた。王室の歓迎会と接待の代わりに、恐怖や毒殺か暗殺の不安に絶えず震えている国王は、自分自身の宮殿の粗末な一室で息の詰まるような捕虜にされていた。事実上、国王の看守になっている反乱兵の手先であった男どもが主になって作り上げた内閣の手中にある国王は、ひどく嫌った布告に自分の印章を押すように強要されていた。殺害した王妃の血でまみれている男どもの道具は、とても拭われそうも無かった。国王と王太子が置かれている境遇よりも哀れなのは、この世にまたと有り得ないものであった。どちらかが自分の目の前で殺されるかも知れない、という恐怖、宮殿で準備される食べ物にはどれも敢えて食べられない恐怖、ニ、三分間にせよ別々に隔離される恐れ、信頼できる味方のいない不安、そして熟考すべき問題である果てしない戦慄に関する最近の記憶などに王と王太子はさいなまれていた。

 

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


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福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO3

2018年04月06日 | 国際・政治

 名古屋大学の安川寿之輔名誉教授は、著書「福沢諭吉の戦争論と天皇制論 新たな福沢美化論を批判する」(高文研)のなかで、福沢諭吉が日清戦争を鼓舞・激励・支援したなどとして、福沢諭吉を肯定的に評価するいろいろな研究者を批判しています。それは、福沢諭吉のみならず、明治という時代をどうとらえるか、ということや、無条件降伏にいたる明治以後の日本の戦争をどう理解するか、ということと関連して重要な問題であると、私は思います。

 だから、引き続き「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋しました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、今まで同様それらをすべてはぶき、私自身が気になったことや感想を、私なりにまとめ残すことにしました

12の「改革の勧告果たして効を奏するや否や」の記事も過激です。朝鮮の内閣を”無知無識の巣窟”といい、政府の内部を”化物屋敷”とまで書いています。だから、”政府枢要の地位に日本人を入れて実権を執らしめ、武備警察より会計、地方の施政に至るまで一切実行し…”ということも正当化できるということなのかも知れません。でも私は、ほんとうは話しが逆なのではないかと思います。正当化するために酷評しているのではないか、ということです。

13の「朝鮮の改革に外国の意向を憚る勿れ」には驚くことに、
他国の主権を蹂躙するは宜しからずの議論もあれど、主権云々は純然たる独立国の議論にして朝鮮には適用せず
とあります。朝鮮は「不始末国」なので、主権は蹂躙してもよいという恐るべき主張ではないかと思います。そして、”朝鮮を併呑”しようとする明治政府の本心を隠し、朝鮮の主権蹂躙を”毫も憚る所なし”などと言って、実際は、政府の韓国併合の取り組みを後押ししたのだと思います。

14の「義侠に非ず自利の為めなり」の記事における”助力の報酬を収得するの決心なかる可らず”は、理解できます。でも、”報酬とは朝鮮の土地の譲受や保護国化にも非ず”というのは、当時の日本政府の意図を隠し、国民を欺瞞するための記事だったのではないか、という気がします。

15の「外国人の評判」には、”一時の悪評は意に介するに足らず”ということを強調するため、
過般の旅順云々の風聞も一時は非常な評判にして、条約改正の進行にさへ懸念ありしが、風聞暫時の間にして、爾来全く跡を断ちたるのみか、却て我が国の為めに無根を弁ずる者多きに至れり
と「旅順虐殺事件」の風聞を持ち出しています。でも、旅順虐殺事件に関しては、自然に”風聞暫時の間にして、爾来全く跡を断ちたる”わけではなく、各国に駐在する日本人公使が、外務大臣陸奥宗光と連携し、”風聞”を抑えるために様々な工作活動を展開した事実を見逃すことができません。時事新報の記事は、そうした工作活動の事実には触れていませんが、何か意図的な気がします。

16の「平和談判の結局に就て」には、

我が政府は無法の要求で相手を苦しめるものに非ず。本来日本人の支那帝国を視るは第二の朝鮮にして、「頑迷界」より導きて「文明境」に誘ふ外に他念なし。”

と言っておきながら、その後で、”和約の条件に土地割譲あるなれど…”と国土が割譲されることを認めています。今までの記事の内容とも矛盾するのではないかと思います。朝鮮については、文明の開進を意図しているだけで、日本は政治的野心や国土併呑の野心を持って関わっているのではないとくり返していた福沢諭吉も、台湾の割譲については、違うというのでしょうか。また、”償金皆済まで抵当として占領する土地”などということが合意されていたとは思えませんし、現に、日本の敗戦まで、台湾は日本の植民地だったことを見逃してはならないと思います。

17の「発行停止」に書かれていることは重要な告白と言えるように思います。「時事新報」は、まさに明治政府と一体となって、朝鮮や中国にのぞんでいたということです。

18の「言行不一致」の記事にも驚きます。
外交の伎倆とは言行相反するに妙巧なるを云ふべし。斯る世の中に処して怒りを発し、他を恐れて謀りを空しうするは、心術の未熟を示すものなり
と書いていますが、”言行相反する”明治政府と一体となって、朝鮮や中国に対処しようとする「時事新報」は、結果的に、読者・国民を欺瞞する記事も書く、ということになるのではないかと思います。

19の「朝鮮問題」は、めずらしく、三国干渉以後の日本政府の方針に反発した社説です。この記事は、当時の「時事新報」が、政府以上に侵略主義であることを示しているように思います。まず、”日本は隣国の自立を助けんと戦争したるに…”と日清戦争を正当化し、支那の朝鮮政策を”支那は老大国の腐敗物を注ぎ中毒の悪症を重くしたるに過ぎず”と批判する一方、日本の朝鮮政策については”朝鮮は四肢麻痺せる病人にして、日本人は施療の医師なり”と正当化しています。朝鮮の主権を無視した勝手な議論だと思います。そして何より、その後日本は朝鮮の自立を助けるどころか、併合して強制的に日本化政策(皇民化政策)を進めたことを考えると、この記事も、読者・国民を欺瞞するものであったと言わざるを得ないと思います。

20の「朝鮮の独立ますます扶植す可し」も、”他国人”の”異議”など気にせず、日本政府は朝鮮支配を継続すべし、という明治政府以上に過激な主張ではないかと思います。他国の異議に配慮して、日本政府が”朝鮮の助力を止めることは”責任を放棄”するものだというのですが、実態は”助力”などではなく支配だったと思うのです。
 また、”朝鮮の後見者を選びて野心なき国は日本を置いてなし”ということも事実に反し、読者や国民を欺瞞するものであったことは、その後の展開から明らかではないかと思います。
12ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
             「改革の勧告果たして効を奏するや否や」(明治二十八年一月四日)

 井上公使の勧告したる改革の条項は要を得たるものなれど、目下の要務はその外に出づ。処方は適切なれど、処方を実行する彼の内閣は無知無識の巣窟にして、心中不服、事情止むを得ず表面の柔順を装うのみ。今度朴徐も入閣したれど、格別の相違を見ず。二人は果して全力を伸ばすに足る地位を占めたるや。大院君は政治の外に退き、宮中の改革を誓いたるも、このまま退隠して手を収むるや。腐敗の源たる宮中の閔妃の挙動は旧に異ならず。政府の内部は「化物屋敷」なり。彼の東学党の蜂起も畢竟(ヒッキョウ)化物屋敷のからくりに出てたる悪戯なりと云ふ。騒動たとひ鎮定するも化物退治なき限り、何れの辺にか後尾を現わさん。彼の国の現状は中央政府腐敗の極に達し威信なきのみか、地方の腐敗なほ甚だし。我輩をして処置を云はしむれば、独立国の体面はしばらく宜しとして、実際は征服したると見なし、政府枢要の地位に日本人を入れて実権を執らしめ、武備警察より会計、地方の施政に至るまで一切実行し、やや時事に通ずる朝鮮人を採用して政事を習練せしむ可し。目下の焦眉は会計にして、貧乏なること一私人の赤貧に異ならず。急を救ふて一国経済の基本を立てんとする資本は、行掛り上日本より貸与の外なし。されど今に至るまでの事実に徴して朝鮮人の不信なる、金を貸す可らず。金を貸さざれば自滅す。されば金を貸すは自滅を防ぐことなれば、会計の金権をわが手に握るを豪(ゴウ)も憚(ハバカ)るに足りず。
13ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            「朝鮮の改革に外国の意向を憚る勿れ」(明治二十八年一月五日 時事)

 他国の主権を蹂躙するは宜しからずの議論もあれど、主権云々は純然たる独立国の議論にして朝鮮には適用せず。改革の措置は彼を独立せしめんが為めにして、独立に干渉するものに非ず。朝鮮の如き「不始末国」が欧州に介在せば、火事の季節に茅屋に隣する危険と等しく見なし、国土を分割して禍根を断つか、合力して干渉し国事を改革する外に手段なし。日本の国力で朝鮮を併呑するは容易なれど、併呑は他を苦しめ我に利少なき故に見合わせ、独立せしめて、政略上に商売上に我が用に供せんとする。公明正大、毫も憚る所なし。況や朝鮮改革の一事で支那と戦争せしに、改革の途中で他の意向を云々して躊躇しては、世界の物笑ならん
14ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              「義侠に非ず自利の為めなり」(明治二十八年三月十二日)

 文明競争の世界に無欲淡泊なる義侠国の評判を博したとて、吾々が辛苦経営せる労の充分なる報酬となさず。我輩の毎度云ふ如く、利欲一遍の世界に、義名の外に望なしと唱ふるは、迂闊(ウカツ)の嘲を免れず。我が国民は恩恵の挙となさず、助力の報酬を収得するの決心なかる可らず。報酬とは朝鮮の土地の譲受や保護国化にも非ず。目下日韓貿易は微々たるものなれど、第一の望は商売上の利益なり。弊政改革の実を得れば、資源は開発され、人民の購買力は増加し、鶏林(朝鮮)半島は一時に日本の好市場なるを疑ひなし。日韓相互の利益にして欧米諸国の貿易も香ばしき影響を及ぼすに相違なし。世人利を云ふを好まず、国利を知らず、義侠心より朝鮮を助くと言ひ噺す者ある故、外国人は却て不審に思ひ、日本の野心を疑懼(ギク)するの情あり。
15ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「外国人の評判」(明治二十八年四月九日 時事)

 外国人が他の一挙一動を気軽に批評し、忽ちに貶(ハン)し忽ちに賛するは、彼らの批評評判に我が心を動かす可らざるを証するに足るものなり。過般の旅順云々の風聞も一時は非常な評判にして、条約改正の進行にさへ懸念ありしが、風聞暫時の間にして、爾来全く跡を断ちたるのみか、却て我が国の為めに無根を弁ずる者多きに至れり。今回の事件も同様にして、開戦以来今日までの関係を知る者は、決してこの一事で我が国全体を非難するものなかる可し。一時の悪評は意に介するに足らず。好評の如きも喜ぶに足らず。要するに外国人の批判は善悪とも眼前の一部局を喋々したるのみ。彼らは元来公平着実にして事の真相を知れば、常に正当の判断を下すなれば、一時の評判に喜憂するは国事の為めに取らざる所なり。
16ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              「平和談判の結局に就て」(明治二十八年四月十七日 時事)

 昨日の号外で報じた如く、馬関の談判は穏に纏まりたる模様にて、調印は昨今の中なる可し。講和の条件は発表の後に非ざれば知るを得ざれど、我が政府は無法の要求で相手を苦しめるものに非ず。本来日本人の支那帝国を視るは第二の朝鮮にして、「頑迷界」より導きて「文明境」に誘ふ外に他念なし。ただ掛念するは李鴻章が目出度く条約に調印して帰国する暁に、北京の官人歓迎するやなり。もし売国の奸臣斬るべしなどと議論傾けば、和約なれども批准されざる間に運命覚束なし。和約の条件に土地割譲あるなれど、掛念するは無法無規律な支那兵を相手とする引渡しなり。償金皆済まで抵当として占領する土地と周囲の支那兵との紛議の恐れもあり。されば償金払渡しの何ヶ月何ヶ年の間、一回の軍事衝突を見ず、我が兵を引揚ぐるまではなほ不安心と覚悟す可し。
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                  「発行停止」(明治二十八年四月二十九日)
 …日清開戦以来、新報の主張は政府の行動に先んじて、些かも政府の方針に悖(モト)らざりしに、今回の措置に驚きたれど、何か特別に「重大なる機密」に関する事なるべし。
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                   「言行不一致」(明治二十八年五月四日)

 口に言ふと行ふ所の一致せざるは人間処世の常態なり。商売人は商売の秘密を懇意の間にも語らざれど、義理人情を欠く動物に非ず。商売は公の業務なり。交際は私の情誼なり。情宜を拡めて業務を左右せんとして、意の如くならんを怒るは短気なり。これ商売のみに限らず社会全般に経験する所なり。然るに日本人は動(ヤヤ)もすれば他の不義理不人情を咎めて立腹する事多し。言行一致の古訓に迷ふて自らの経験を知らざる者なり。古来の歴史を見れば、家康の小牧の戦を義戦などと称する者あれど、軍国の政略上豊公と争ふ必要を感じ織田の遺児信雄を助けんは口実に過ぎず。豊公とて徳川と戦を開く方便として信雄を苦しめたるに外ならず。越後の謙信敵国に塩を贈りたる美談も。実際は塩を断ちても甲斐の人民餓死せず、塩を贈りても戦闘力を増すにも非ず。支那の先哲は春秋に義戦なしと嘆息したけれど、義戦なきは春秋のみならんや。世界古今を通じて一つとして義戦の名を下すものある可らず。戦争は人間が自利の為めに運動したると知る可し。今の社会に義理人情を重んじて言行の一致を保証するを得ず。況や利害の関係鋭敏なる国と国との交際に於ておや。利益の為めには昨日までの同情を表しながら俄(ニワカ)に反対に立つことあり、思はぬ国と結んで友邦を売るものもある可し。外交の伎倆とは言行相反するに妙巧なるを云ふべし。斯る世の中に処して怒りを発し、他を恐れて謀りを空しうするは、心術の未熟を示すものなり。日本人の最も注意すべき弱点なり。我輩は国民が短気に迫らず、外交官は大胆に虚実の間に決するを冀望(キボウ)する者なり。
19ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                  「朝鮮問題」(明治二十八年六月十四日 時事)
 外戦は三国の忠告で目出度く終局したけれど、内外説をなす者あり。朝鮮に利害を持つ最強国は自から立言をなす。日本は隣国の自立を助けんと戦争したるに、束縛すること支那政府より甚だし、約束に背くものなり。日本答へるの辞なければ干渉を弛め撤兵の外なしと。我輩の所見では日本の国事干渉は公明正大、陰険の業に非ず。文明強国にして是認せざる理由なし。もし質問攻撃する者あらば一言で論破せん。即ち朝鮮の国事人事の腐敗は数百年の旧痾にして、一朝夕にして治す可らず。在朝鮮の我が外交官、顧問は文明の教師たるに過ぎず。朝鮮は四肢麻痺せる病人にして、日本人は施療の医師なり。医師とあらば病人の身辺に近づくは勿論にして、病人医命に背けばす譴責す。朝鮮の如き大病国文明を注入せんに、干渉の譏(ソシリ)を憚(ハバカ)り遠方より傍観するは、俗に二階からの目薬なり。支那の干渉より甚だしとする攻撃も 事物の形のみを見た痴言なり。支那は老大国の腐敗物を注ぎ中毒の悪症を重くしたるに過ぎず。日本は解毒回生の処方なり。干渉の外形は似たれど精神は相反す。然りと雖(イエド)も干渉の性質を問はず、日本は独立を奪ひたりと言はんか。無稽の立言なり。病人に苦薬を飲ますは服薬を廃せんが為めと同様、干渉の甚だしきは干渉の手を引かん為めなり。されど奏功の遅速を明言す可き限りに非ず。日本は青天白日の干渉にして、西洋諸国人も疑ふ者なし。もし日本の勢力を殺(ソ)ぐが為め、干渉に干渉する者あらば、主治医の治療に第二の医師が口を出す如し。無下に謝絶するは殺風景なれば、療法を説明して更に有効なる医案あるやを問ひて論結せん。新来の医師暴論を募らば、第三者に訴える道もあり。欧州一、二の強国が我が干渉を弛めんとするは、裏面に日本に代らんの意図明白なれど、諸国の利害は一ならず、我が国に提携する者もあれば、緩急に応じて国権を維持する外交手段もある可し。いづれにせよ日本は朝鮮の国事に深入りしたれば今更手を引く可らず。世界の外交法は他国に手を出す口実なきに苦しむに、日本は手を引く口実なきを憂る者なり。百事甲斐なき朝鮮人を相手に畢竟(ヒッキョウ)無益なりと竊(ヒソカ)に声言する者あるよしなれど、改革の徒労云々を奇貨として予め退歩論の下地を作るに非ずやと邪推せざるを得ず。
20ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    「朝鮮の独立ますます扶植す可し」

 日本政府は朝鮮の助力を止めることに決心し、井上公使の帰朝もその為めなりと伝ふる者あれど、斉州(中国)野人の語にして取るに足らず。彼の国勢は我が助力に安定を保つなれば、一旦放棄すれば無政府の暗黒となり、半島の人民塗炭に苦しむのみならず、東洋の平和妨げられ、四隣の迷惑を如何せん。戦敗の支那は余力なく他の国事は思寄らざれば、差向き事に当るは露国なるべし。一旦朝鮮の国事に関係し鶏林八道に勢力を及ぼせば、日本の危険のみならず、東洋全体の均勢に偏重を生ぜん。日本の遼東領有不可なれば、露が朝鮮に勢力を及ぼすは更に不可なり。世界の公論の認めざる所なり。朝鮮の後見者を選びて野心なき国は日本を置いてなし。我が国は自衛の為め朝鮮独立を助け、寸毫も他志あらざるは、媾和条約の第一条に朝鮮独立を明記せり。他国人に異議を生ぜんなどの疑心より、責任を放棄するが如きは、断じて我が政府の行はざる所、国民の許さざる所なり。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


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福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説記事 NO2

2018年04月02日 | 国際・政治

 引き続き、「福沢諭吉と朝鮮 時事新報社説を中心に」杵淵信雄(彩流社)から、当時の時事新報の気になる社説記事を抜粋しました。当時の状況や記事の背景について、著者は分析や考察を加えながら記事を引いているのですが、前回同様それらをすべてはぶき、私自身が気になったことや感想を、私なりにまとめました。

 杉田聡氏は『天は人の下に人を造る 「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)のなかで、
福沢の議論はなぜこれほど変わるのか。それに答えるのは比較的容易である。福沢は経世家であっても思想家ではない。思想家は、刻々と変わる社会の現状やそれに対する利害から身を引き離して、現実を解釈しつつ、その基底を分析し、それを通じてまとまった世界像をつくるものだが(s安川①14)、福沢は、刻々と変わる政治的・経済的その他の情勢に応じて、刻々と断片的な文章を書いて公表していたにすぎない。
と書いているのですが、時事新報の記事を読んでいくと、確かにそういう感じがします。”刻々と変わる政治的・経済的その他の情勢”に対応して文章を書いていますが、その歴史的背景や社会科学的な必然性はほとんど読み取れません。伝わってくるのは日本の利害、日本の発展を追求しようとする姿勢です。したがって、読むにしたがって、明治の文明開化を先導者した、慶應義塾の創設者福沢諭吉の今までのイメージがしだいに崩れて、戦争へ向かう皇国日本の先導者のひとり、というイメージに変わって行くような気がしました。

 7の「朝鮮の改革」には、
我輩の多年の実験を以てすれば、すべて無責任無節操の軟弱男子のみ。之を相手に国事の改革を謀るは絶望の次第なれども、金朴徐の一類は、人物の如何に拘らず、多年の来歴より日本国人に背く可らず、他国人に依る可らざる身分故に、先ず彼らを信用し事を与にし、…”
などとありますが、極めて政治的な文章だと思います。こうした文章は、まさに政治家や活動家のもので、思想家や歴史家のものではないと思います。

 8のには「破壊は建築の手始めなり」には
日本国の力で開進を促し、従わざれば鞭撻し、脅迫教育の主義に依る外なし。力で文明を脅迫するは穏やかならざるに似たれど、一時の方便にして、我が本心に愧(ハ)じる所なき限りは断じて行ふ可きのみ。
とか、
脅迫と決したる上は国務の実権を握り、韓人は事の執行に当たらしめるのみ。開進中に大に不平を唱へる者あらんも恐れるに足らず。眼中朝鮮人なし、ただ朝鮮国の文明開進あるのみと覚悟し、一日片時も速に着手して新面目を開く可し。”
と書かれていますが、朝鮮の人たちの主権や人権を否定し、武力によって日本の主張を通そうとしていることが分かります。”侵略を肯定する議論”と言っても過言ではないような気がします。福沢諭吉がこうしたことを書いていることを知って驚きました。そして、最終的に韓国併合に至るわけですから、”一時の方便にして…”というのは、誤魔化しであり、欺瞞だと思います。

 9の「朝鮮の改革その機会に後るゝ勿れ」にも
他国の内政に干渉するは国交際の法に非ずと云ふ者あれば、躊躇の情なきに非ざれど、干渉の是非は相手による可し。この方に国土併呑の野心なく誠を尽すときは、彼らも発明する日もある可し。”
などとありますが、この文章も、読者を欺くものではないかと思います。何の根拠も示さず”国土併呑の野心なく”と書き、”在韓の外国人にして云々する者あらば、彼らの独発の議論に非ず”と断定するにいたっては、正当な議論を封じようとする意図さえ感じます。

10の「旅順の殺戮無稽の流言」は、いわゆる「旅順虐殺事件」の完全否定です。
我輩の視察し得た所では我が軍人が無辜の支那人を屠戮したる如きは跡形もなき誤報なり。日本人は日本の利益の為めに言を左右するなど邪推する者もあらんなれど、事実は事実にして争ふ可らず。”
と書いています。でも、当時の外務大臣陸奥宗光の「蹇蹇録(ケンケンロク)」には
旅順口の一件は風説ほどに夸大ならずといえども、多少無益の殺戮ありしならん。しかれども帝国の兵士が他の所においての挙動は到る処常に称誉を博したり。今回の事は何か憤激を起すべき原因ありしことならんと信ず
とあり”跡形もなき誤報なり”ではないことが窺われます。そして、陸奥宗光は事実の報道が広がり、深まることを抑制するために各国の日本公使と連絡を密にし、日夜奮闘したことも書いています。
 また、井上晴樹氏は「旅順虐殺事件」(筑摩書房)で、様々な事実を明らかにしています。日清戦争当時の海外報道記事のみならず、日本兵の「従軍日記」・「手記」も「旅順虐殺事件」の事実を明らかにしていると思いますが、「萬忠墓」の石碑の歴史や大山巌の「清国商船入港拒否」の事実なども、「旅順虐殺事件」が否定しようのない事実であることを示しているのではないかと思います。
 さらに、事件を目撃した外国人記者が一人ではなかったということも見逃すことができません。特に、軍の許可を得て第二軍に従軍したアメリカ人記者たちが、日本に好意的で、日米の条約締結が間近に迫っていた時期に、すべてをひっくり返すような記事をでっち上げることはあり得ないだろうと、私は思います。

11の「我が軍隊の挙動に関する外人の批評」も旅順虐殺事件を否定する記事です。文中に
欧米の凡俗社会には未だ日本を知らざる者多く、年来盲信したる劣等国が俄(ニワカ))に全盛に赴くを見て心ひそかに悦ばざる私情あり。
とあります。あり得ることだとは思いますが、残念ながら、証拠づけることは何も書かれていません。他国の新聞が日本軍の所業として書いた記事を全面否定するのであれば、何かしらその根拠を示す必要があるのではないかと思います。福沢諭吉が”経世家であって、思想家ではない”という杉田聡氏の言葉がを思い出されます。

7ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
                「朝鮮の改革」(明治二十七年十一月十一日 時事)

 君の天子英邁(エイマイ)にして経綸の伎倆乏しからず、地位名望は全国を圧倒し、宮中を随意に処理するは君に限ることなれば、内外の都合妙なりと、大院君に重きを置く者あり。蓋し君の才と名望を知るのみにして、君の心事を知らざる者なり。君主専制国の国大公の地位に居り多少の才力あれば名望は当然にして、また君の英邁は東洋流に過ぎず。一歩心事を叩けば純然たる「腐儒国普通の頑固翁」なるのみ。二十余年前、国政を専らにし一新面目を開きたりと自負するなれど、暴威を以て人民を脅迫し、収斂以て王家の辺幅を張り、工業興らず、農事振はず、八道の生民を塗炭に苦しめながら、鎖国攘夷を首唱し、世界ただ中華の尊厳神聖あるを知るのみ。日本の軍艦が始めて訪問したるときに、東夷海賊の名を下したる翁なり。平壌の落城まで支那の必勝を期し、ひそかに東学党と気脈を通じて日本兵を挟打ちにするの目論見ありとの風聞も、無限なりと断ず可らず。されど大院君の頑固はなほ恕(ユル)すべし。いかに文明を敵視すれど国家の大切さを忘れたる者に非ず。国の為めには老余の身を顧みざるの赤心なる故に、頑愚愛すべきものあれど、政界全体を見れば一人として一定の主義を守る者なく、昨日の開明、今日の頑固、前月は支那に拝し、今は日本に佞し、小者も禍を察すれば老成を気取り、老人も時勢に可なれば劇論を絶叫す。反復常なく、一身ありて国あるを知らず。彼らは弁舌巧みに文思に乏しからざる故に、個々に面接して語り文章を見れば、一通りの人物なる如く、正邪を弁ず可らず。誰か鳥の雌雄を知らん。我輩の多年の実験を以てすれば、すべて無責任無節操の軟弱男子のみ。之を相手に国事の改革を謀るは絶望の次第なれども、金朴徐の一類は、人物の如何に拘らず、多年の来歴より日本国人に背く可らず、他国人に依る可らざる身分故に、先ず彼らを信用し事を与にし、政権を授けざるも近親して、他の人物を鑑識しても、やや安全にして大いなる過を免かる可し。我輩が毎度この一類を入るゝを説く所以なり。
8ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               「破壊は建築の手始めなり」(明治二十七年十一月十七日 時事)

 例へば日本にても明治政府の今日を致したるは、廃藩置県の大事より武家の廃刀、市民同等の主義で社会全般の旧組織を転覆したるが故なり。幸ひ我が国は朝野の上流に文明の主義を解する者少なからず、下流社会を風靡して故障なかりしが、朝鮮は腐儒の巣窟、上に磊落果断の士人なく、国民は奴隷の境遇にあり、上下文明の何物たるを解せざる者のみ。日本の先例を標準とする可らず。我輩の所見を以てすれば、日本国の力で開進を促し、従わざれば鞭撻し、脅迫教育の主義に依る外なし。力で文明を脅迫するは穏やかならざるに似たれど、一時の方便にして、我が本心に愧(ハ)じる所なき限りは断じて行ふ可きのみ。朝鮮人の頑陋愚鈍なるも自国の利害を知らざる理なし。丁寧反復すれば、自ら発明して文明の門に入ることもあらんと、説諭を試みる者あるよしなれど、彼らの国益を重んずるの念は私利に掩(オオ)われて発動せず。彼の閔族が一時支那の歓心を失ひ、或る強国と秘密条約を結び、一族の禍を免れんと企てたる如く、家を知りて国を知らず。日本人の心を以て朝鮮人を推量するのは大間違ひの沙汰なりと毎度語りしは、我輩の多年の実験で彼の国人の根性を観察して得たることあればなり。脅迫と決したる上は国務の実権を握り、韓人は事の執行に当たらしめるのみ。開進中に大に不平を唱へる者あらんも恐れるに足らず。眼中朝鮮人なし、ただ朝鮮国の文明開進あるのみと覚悟し、一日片時も速に着手して新面目を開く可し。
9ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
               「朝鮮の改革その機会に後るゝ勿れ」(明治二十七年十一月二十日)

 我が軍隊は支那方面に進撃し、諸外国は局外に中立し、朝鮮の内地に屯在する兵も少なからず、戦勝の勢いは八道の人心を戦慄せしめ、朝鮮は我が手中にあり。この勢いに乗じて改革を促せば、数ヶ月を出でずして大体の方向は定まる可し。右顧左眄(ウコサベン)して、行路の円滑を謀り、時日を空費する内に、支那征伐も終局し、屯在する兵も減ずれば、頑民の横着心を生じて、日本の言を重んぜず百事因循に流れる可し。他国の内政に干渉するは国交際の法に非ずと云ふ者あれば、躊躇の情なきに非ざれど、干渉の是非は相手による可し。この方に国土併呑の野心なく誠を尽すときは、彼らも発明する日もある可し。我が国が万事控え目にするは、欧米諸外国の公評に遠慮したるなれど、既に日韓の関係を詳らかにし、対韓政略を知らざる者なし。在韓の外国人にして云々する者あらば、彼らの独発の議論に非ず。韓庭は群小の党派に分かれ、外交に就ても露党、英党、米党、独党ありて、親しむ外国人に内情を密告し、不平論を誘発せしむるに過ぎず。
10ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                「旅順の殺戮無稽の流言」(明治二十七年十二月十四日 時事)

 我が旅順の大勝に外国人の中に殺戮の多きを聞て往々説をなす者あり。日本人の勇武、作戦を誤らず、堅固な要塞を数時間にして陥れたる手際は感嘆の外なけれど、勝に乗じて多数の支那人をしたるは世の譏(ソシリ)を免れず。戦勝の名誉を抹殺するに足るなどと論評す。勿々見聞して勿々判断する外人なら無理からねど、当局者たる日本人は軍隊の挙動に漫然看過するを得ず。我輩の視察し得た所では我が軍人が無辜の支那人を屠戮したる如きは跡形もなき誤報なり。日本人は日本の利益の為めに言を左右するなど邪推する者もあらんなれど、事実は事実にして争ふ可らず。日本の軍隊は文明の軍隊にして、例へば牙山(アサン)、平壌(ピョンヤン)の如き、軍門に降伏せる者は国内安全の地に移送し、負傷者は病院に入れ、自国の兵士に遇するに異ならず。旅順に限り屠戮(トリク)したると云ふか。されど旅順の戦争に敵の死の多かりしは事実なり。砲台を守りたる支那兵一万五、六千にして、多数は逃れて四散し、逃遅れた者は市街の民家で衣服を盗み、普通の市民を装ひて潜伏し、我が兵に発砲せり。甚だ危険なるより止むを得ず家屋内を捜索して変装の兵士を殺戮に及びたるなり。牙山の敵兵を戦闘力を失ひたれば見逃したるに、平壌に走りて再び抵抗せり。平壌の役にも白旗を掲げて休戦を乞ひたる敵兵、兵器の取纏めを口実に城明渡しを引延し夜中に遁去り、九連城でまたもや戦ひたり。破廉恥不信不義にして我を欺きたるは一再ならず。日本の軍隊寛大なるも詐欺手段に罹(カカ)る愚をなす可らず。武器を隠して抵抗する者を殺したるは正当の処置なり。中には兵士に非ずして人民も多しとの説もあれど、我輩は事実無根を断言して躊躇せず。我が軍の上陸より要塞攻撃まで一カ月を要し、難を避ける猶予は充分なり。旅順の道台龍某(龔照璵-コンツアオユ)=旅順ドックの長官として司令長官も務めた)の如きは家財を片付けて何処かに逃れたるに非ずや。人民保護の職にある長官さへかかる始末なれば、満市街の男女前後して逃去りたるは疑いなし。一、二の市民逃げ遅れて流丸殺傷せられたるも、戦争の場合に普通の談なり。新聞紙の通信が斯る談を見聞し、旅順市街の死者に無辜の人民多しと速了するは、全くの創造説なり。
11-----ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー------------------------------------
               「我が軍隊の挙動に関する外人の批評」(明治二十七年十二月三十日)

 旅順口を攻め落としたる我が軍隊の挙動に非難がましき論評を試みる外国人あり。殊に米国にては紐育(ニューヨーク)ウォールド新聞が他に率先して「旅順口の虐殺」などと題したる針小棒大の通信を掲げたる為め著しく世人の注意を惹起したり。天然の要害と砲塁を落とすにはニ、三カ月を要すべしと欧米は予想したるに、我が軍隊は数回の突貫僅か二十余時間であらゆる砲台を奪いたれば、戦闘の激烈なるは察するに余りあり。されば敵兵の死者多かるは怪しむに足りず。被害者の多数が無辜の市民なりとは全くの虚言にして、外衣こそ常人の服なれど、下着、靴などはみな支那兵が平素用る所なれば、一見して軍人と知れり。我が軍隊は公明正大なるに、事情を解せざる外国人が無礼な評論を加へ、日本は文明の外皮を脱して野蛮の正体を現したりなどと公言するは片腹痛し。いづれ真相を聞知して説を改むることなれど、この度「旅順虐殺」云々の談を耳にしたるを機会に、我が軍隊に堪忍の一事を勧告す。敵の残忍無情許し難き場合も、踏止まり、復讐などす可らず。欧米の凡俗社会には未だ日本を知らざる者多く、年来盲信したる劣等国が俄(ニワカ))に全盛に赴くを見て心ひそかに悦ばざる私情あり。我が国の瑕瑾を(カキン)を見れば、攻撃非難の声は四方に起り日本国の名誉に影響する恐れあり。根性悪き姑が日夜新婦を詮索する如し。されば海外で日本を代表する遠征軍は挙動を謹み、非難の口実なからしむるに勉むべし。今西洋人の云ふ所は世界の与論にして、彼らの悪評は国の名誉実益を損する少なからず。我が軍人は修羅戦場にあるも、文明人道の主義を忘るゝことなく、心底より心服せしむる覚悟なかる可らず。成らぬ堪忍を堪忍するとは此の事なり。

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