真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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重大な事実に目をつぶる「情報戦」論

2023年08月31日 | 日記

 毎日のテレビや新聞の報道に苛立ちを感じています。それは、日本のメディアが、アメリカの主張(戦略や戦術)に疑問を呈したり、異論を唱えたりすることが許されていないということからきているように思います。

 アメリカの影響下にある日本の学者や専門家と呼ばれる人、また、主要メディアの記者が語ったり書いたりしているウクライナ戦争に関わる内容は、かならずといっていいほど、注目すべき大事な事実に目をつぶり、的をはずした内容になっていると思います。

 先日、朝日新聞の「記者解説」に、「情報戦、カギ握る市民」と題して、オピニオン編集部の小田村義之氏が、「情報戦」に関する記事を書いていました。
 彼は、現代の戦争は、1、偽情報などを流して優位に立とうとする「情報戦」の要素が強まる、2、民主主義社会が情報戦に対応するには、政治体制への市民の信頼が支えとなる、3、日本は事実を重視し、平和国家のイメージを崩さない発信を心がけるべきだ、というような要点を示して、情報戦に関してあれこれ書いているのですが、いくつか指摘しなければなりません。

 まず、戦争を終わらせようとする視点がないということがあります。停戦のための見通しを立てることなく、ロシア敵視の姿勢で「情報戦」を語ることは、読者を、ウクライナ戦争に巻き込む側面があると思いました。
 また、ウクライナ戦争で、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのはどちら側であるかという考察もまったくありませんでした。
 私は、オリンピックからロシア選手を排除するだけでなく、あらゆる団体や組織からロシアを排除し、重要な役割を担っているロシア人個人さえ、国際的な団体や組織から排除したのは、アメリカを中心とした西側諸国であったことを見逃すことができません。それは、「情報戦」やプロパガンダを必要としたのが、アメリカであり、ウクライナであったということだと思います。それは、プーチン大統領が、オリンピックからロシア選手を排除する動きがあったとき、”なぜアスリートを政治に巻き込むのか”、と不満を述べたことでもわかると思います。
 豊かな交流があれば、「偽情報」やプロパガンダは、広がりにくいと思いますが、豊かな交流をさせないようにしたのは、「情報戦」に長けたアメリカだろうと想像しました。
 次に、小田村義之氏は、”平和国家のイメージを崩さない発信”というようなことを書いているのですが、ロシアと戦うウクライナを支援し、ロシアに制裁を加え、ウクライナ戦争を主導するアメリカの同盟国として、ロシアを敵とするウクライナ戦争に加担している日本が、”平和国家のイメージを崩さない発信”、などする資格があるのかと思いました。

 決定的なのは、過去の戦争で、どのような情報(偽情報)が、どのような意味をもったのか、ということをふり返ることがまったくなされていないことでした。

 ベトナム戦争では、北ベトナム沖のトンキン湾で、北ベトナム軍の哨戒艇がアメリカ海軍駆逐艦に魚雷を発射したとの報道が大々的になされました。この事件をきっかけに、アメリカは北爆を開始することになりました。この事件の報道によって、アメリカは北爆に反対する勢力の声を気にせず、ベトナム戦争に本格的に介入するに至ったという意味で、忘れてはならない事件だと思います。
 でもその後、『ニューヨーク・タイムズ』が、いわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」を入手し、この事件は、アメリカが仕組んだものだったことを暴露しました。
 アメリカはトンキン湾事件をでっち上げ、「偽情報」でベトナム戦争を正当化し、絨毯爆撃をくり返したので、数え切れない人びとが亡くなりました。

 また、湾岸戦争では、「ナイラ証言」が「偽情報」として大きな影響力をもちました。イラクによるクウェート侵攻の後、「ナイラ」を名乗る少女が、
私は12人の女性とともにアッ=ラダン病院でボランティアをしていました。私が最年少のボランティアで他の女性達は20-30歳でした。イラク軍兵士が銃を持って、病院内に押し入るのを目にしました。保育器から新生児を取り出し保育器を奪うと、冷たい床に新生児を放り出し死なせてしまいました。怖かったです
などと泣きながら証言したのです。(関わる動画:https://twitter.com/i/status/1659370450030575617)。
 でも、「ナイラ」という少女は存在せず、実は、クウェート駐米大使の娘が、クウェート・アメリカ政府の意を受けた反イラク扇動キャンペーンの一環で、演じた証言だったのです。
 Wikipediaには、
ナイラ証言が広く喧伝されると、集会の様子を撮影したヒル・アンド・ノウルトンは、全米に約700のテレビ局を擁するメディアリンクへビデオを配給。当日夜、証言の一部がABC及びNBCのニュース番組で放映され、数千万人のアメリカ国民が視聴したという。また、上院議員7名が武力行使を支持する演説の中でナイラ証言を引用している。ブッシュ大統領もその後数週間のうちに少なくとも10回は証言を繰り返した。暴虐の証言は湾岸戦争参戦に対する国民の支持を取り付ける切っ掛けとなった
 とあります。この「偽情報」が、いかに大きな意味をもったかがわかります。この「偽情報」がなければ、「クラーク法廷」でとりあげられたような湾岸戦争における甚大な被害はなかったと思います。

 さらに、イラク戦争では、「大量破壊兵器保持における武装解除進展義務違反」を理由に、アメリカを中心としてイギリス、オーストラリア、ポーランドなどで構成する有志連合が、圧倒的に優位な立場でイラクに侵攻し、猛烈な爆撃をくり返しました。でも、それは「偽情報」に基づくもので、現実には大量破壊兵器は存在しませんでした。だから、アメリカは「偽情報」を使って強硬姿勢を通す戦略であったといわれています。
 この「偽情報」に基づく戦争に、日本が加担したことは忘れてはならないと思います。小泉政権時代、日本は戦後初めてPKO活動外での自衛隊派遣を行い、有志連合の一員としてイラク戦争に参加したのです。

 そうした「偽情報」が大きな意味をもった過去の戦争をふり返えることなく語られる「情報戦」の話に、どれほどの意味があるのか、と私は思いました。

 また、そうした「偽情報」に基づく過去の戦争をふり返えば、ウクライナ戦争において、世界各国のウクライナ支援を決定づけた「ブチャの虐殺」情報が、実は、アメリカ・ウクライナによる秘密工作に基づくものではないかという疑いを、私は持たざるを得ませんでした。そして、Kla.tvその他の情報で、「ブチャの虐殺」の情報には、陰謀論で片付けることのできない不自然な点が、いくつもあることを知りました。

 だから、私は、こうした「偽情報」に基づく戦争を回避するシステムや国際法が必要だと思います。

 でも、小村田義之氏は、そうしたことは少しも語らず
情報戦を重視するのはロシアだけではない。米国はロシアがウクライナに侵攻する可能性をリークし続けた。機密情報でもあえて漏らすことで、ロシアに再考を促す「開示による抑止」と言われる新たな手法である。
 などとも書いていました。あきれました。
 だからそれは、アメリカの戦略に基づいて、ロシアを悪者とするための情報戦の話であり、明るい未来を見通すことのできる話ではないと思いました。

 日本でも、「偽情報」が、日本の針路を変えてしまうようなことあったと思います。 
 私は、アメリカ軍占領下で発生した下山事件、三鷹事件、松川事件は、いずれも松本清張氏が徹底的な調査と多くの資料に基づいて「日本の黒い霧」で考察したように、米軍の謀略によるものだと思っています。
 中国大陸における国共内戦は中国共産党軍の勝利が決定的となっていたこと、また、朝鮮半島でも「朝鮮人民共和国」の建国を宣言し、統一朝鮮の独立を意図した人たちの力が強かったこと、日本でも、日本共産党が飛躍的に議席を増やし(4議席から35議席)躍進していたこと、さらに、全日本産業別労働組合会議や国鉄労働組合が、アメリカの意を汲む政府の人員整理に強く抵抗する姿勢を示し、吉田内閣の打倒のみならず、人民政府樹立さえ叫ぶようになっていたことなどは、すべて反共国家アメリカにとって好ましくないことであったと思います。その状況を反転させ、日本を反共国家として、しっかりアメリカの影響下に置く意図をもって実行された秘密工作が、上記の国鉄三大事件その他の事件だと思います。それらの事件の「偽情報」によって、アメリカは、共産主義者や労働組合の指導者は恐ろしいという戦前の治安維持法の捉え方を、日本で復活させることに成功したのではないかと思います。
 だから、「国鉄三大ミステリー事件」その他の事件は、GHQの政策の「逆コース」といわれる方針転換や戦犯の公職追放解除による戦争指導層の復帰促進、レッドパージなどと一体のものだと思います。
 アメリカがくり返してきた「偽情報」に基づく戦争政権転覆内政干渉をなくす方法を論じることが、メディアに課せられた責任ではないかと思いました。

 スパイ活動を是認するような「開示による抑止」論など、馬鹿げた話だと思います。「平和国家日本」は、日本国憲法の定めに従うことから生まれるものであり、単なるイメージであってはいけないと思います。

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BRICS 拡大の背景と平和

2023年08月27日 | 国際・政治

 先日朝日新聞に、同志社大学大学院准教授の国際政治学者、三牧聖子氏の「声をあげるのに中傷覚悟という不当」と題する文章が掲載されました。見出しに関する内容については、基本的には同意できるのですが、そのなかに、下記のような記述があり、問題があると思いました。

米国で初めて誕生したZ世代の下院議員マクスウェル・フロスト氏は、銃規制運動のオーガナイザーをつとめ、「人生の半分を社会運動に捧げてきた」と自負しています。フロスト氏ら若者が銃規制運動にアクティブに関与するのは、多発する学校での銃乱射事件などを最もリアルに感じているからです。高校生たちが銃規制を求める運動を展開した際、多くの大学が支持を打ち出し、高校から懲戒処分を受けても進学に影響しないと表明する大学もありました。自分たちの権利が脅かされているという危機感があること、マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統が根付いているためでしょう。
 いまの日本には、米国のような大規模な抗議運動は起こっていません。日本の現実が米国よりましだからなのでしょうか。でも「生活が苦しくなっている」など、真綿で首を絞められているように感じている人は多いはず。政治を変えるには声を上げる必要があります。
 たとえ自分と意見が異なる人であっても、それが平和的な抗議行動である限り、声を上げる権利だけは全力で守る。それが民主主義国としての矜持だと思います。民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で、改めて自国の民主主義や人権の現状を批判的に見つめ直したいところです。”

 私は、アメリカ国内の民主主義に関わる歴史的変化だけに着目して、”マイノリティーが闘争を通じて権利を獲得してきた米国の歴史的伝統”などというかたちで、アメリカの民主主義を高く評価し、かつ、”民主主義や人権を踏みにじるロシアに対抗する中で…”、とロシアに批判的な文脈のなかで、アメリカの民主主義を論じてはいけないと思ったのです。木を見て森を見ない見解であり、読者の客観的認識を誤まらせるものではないかということです。
 ウクライナ戦争が続く現在、考えなければいけないことは、”マイノリティーの権利獲得の闘争”というような国内的な枠をこえた、対外政策や外交政策におけるアメリカの民主主義であり、アメリカが法や道義・道徳を無視し、武力行使を続けてきた現実だと思います。

 さらに言えば、民主主義は、組織の重要な意思決定を、その組織の構成員である国民(民衆、大衆、人民)が行う、制度だと思います。でも、ウクライナ戦争を「民主主義」と「専制主義」の戦いだと主張したバイデン大統領のアメリカを中心とする西側諸国は、本当に構成員である国民が、真実に基づき、客観的事実を踏まえて意思決定を行っている民主主義国家でしょうか。
 西側諸国の国民は、アメリカがウクライナの民主化に60応ドルを費やしたという事実(ビクトリア・ヌーランドの発言)や、アメリカがウクライナのマイダン革命に深く関与した事実、アメリカがウクライナ戦争が始まる前から、ロシアに経済制裁を課していた事実その他を踏まえて、客観的にウクライナ戦争を捉え、ウクライナに対する武器の供与やその他の支援を支持しているのでしょうか。
 また、ウクライナの人たちは、ほんとうにウクライナ戦争の経緯や実態を知って、ゼレンスキー大統領が言うように、”クリミアを取り戻すまでロシアと戦う”と、決心をしたのでしょうか。

 選挙制度があり、議員を選ぶ自由が構成員に平等に与えられ、政権に反対の声を上げる権利が保障されていることは、確かに西側諸国の現実だと思いますが、だからといって、西側諸国は民主主義国家の集まりなのだといえるでしょうか。
 日本を含め、西側諸国の人たちの多くが、善悪をさかさまに見せる主要メディアのプロパガンダに依拠して、世界を見ているのが現状ではないでしょうか。
 また、CIAの秘密工作に代表されるような、表に出ない交渉や活動が、現実的に世界を動かしている側面があるのではないでしょうか。
 上記の三牧聖子教授が、そうしたことをどのように考えられているのか疑問に思い、再び「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、グアテマラに対する、アメリカの関わり方が問われる部分を抜萃しました。特に見逃せないのは、下記のような記述です。

もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。”

 アメリカが、多くの国の独裁者と手を結んだり、軍事政権を支援したりしてきた歴史を直視し、国際社会の現実を見る必要があると思います。
 
 先日、中国、ロシア、インド、ブラジル、南アフリカの5か国でつくるブリックス(BRICS)の首脳会議が、南アフリカのヨハネスブルクで開かれ、来年1月からアルゼンチン、エジプト、エチオピア、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)の6カ国が、新たに加盟することになったとの発表がありました。そして、40を超える国々が、ブリックス加入の意向を表明しているといいます。プラウダは下記のような国々をあげています。アルジェリア、バングラディッシュ、バーレイン、ベラルーシ、ボリビア、ベネズエラ、ベトナム、ホンジュラス、インドネシア、カザフスタン、キューバ、クウェート、モロッコ、ナイジェリア、パレスチナ、セネガル、タイ。

More than 40 countries expressed their intention to joins BRICS in 2023. Twenty-three of them sent official applications for membership. It goes about such candidates as: Algeria, Bangladesh, Bahrain, Belarus, Bolivia, Venezuela, Vietnam, Honduras, Indonesia, Kazakhstan, Cuba, Kuwait, Morocco, Nigeria, Palestine, Senegal and Thailand.(https://english.pravda.ru/world/157517-brics_west/)

 それらの国の多くが、かつてアメリカを中心とする西側諸国の植民地支配や武力行使に苦しんだり、搾取・収奪に苦しんだりしてきた国であることを、私は見逃すことができません。そういう国々が、西側諸国の影響下から脱しつつあるということではないか、と私は思います。
                                                      
 メキシコの先住民革命地下委員会、サパティスタ民族解放軍総司令部が、クリントン大統領に宛てた手紙の中に、下記のような訴えがあったことを思い出します。

北アメリカ人民および政府は、メヒコ(メキシコ)連邦政府に対して援助を供与することによって、自らの手を先住民の血で汚しているのです。われわれが求めているのは、世界中の全ての人民が求めているものと同じく、真の自由と民主主義です。この希望のためなら、われわれは自らの生命を賭する用意さえできています。あなたがたがメヒコ政府の共犯者となって、その手をわれわれの血で汚すことのないよう希望するものです。” 

 もはやそういう西側諸国の力の行使が通用しない国際社会になりつつあるのではないかと思います。そうした国際社会の大きな動きを冷静に受け止め、針路をあやまらないようにするべきだと思います。
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                  第二部 軍部独裁政治──見えざる恐怖

                     人権侵害県外と国際的孤立

 全国に広がった死への恐怖
 三代にわたる軍事政権によって弾圧はこの国の風土と化し、半ば社会に染み付いてしまった。グアテマラには政治犯というものが存在しない。あるのは死体と行方不明者だけであった。1960年代の初めにゲリラ組織が出現してからロメオ・ルーカス・ガルシア政権の1980年代頃までに、約12万人の民衆が殺害され、4万6千人が行方不明になったと推定されている。動詞desaparecer(消息不明になる、姿を消す)、の過去分子desaparecido が行方不明者の意味に使われたのはグアテマラが最初であった。
 ルーカス・ガルシア政権の1979年、反対派の有力な2人の指導者が殺害された。前グアテマラ市長マヌエル・C・アルゲタと社会民主党創設者であり、メンデス・モンテネグロ政権の外務大臣でもあったFUR党(革命連合戦線)リーダー、アルベルト・フエンテス・モールである。この2人の死によって軍事政権に反対するものはすべて抹殺されることが証明され、国民を震撼させた。同時に国際社会には、グアテマラは許しがたい人権侵害の行われている国という暗黒の印象を与えた。ルーカス・ガルシア政権下の反対派に対する弾圧は言語を絶しており大統領自ら政府高官とともに大統領府ナショナルパレス別館での会議で拷問、拉致、殺害の標的を直接決定したという。
 そのため、1978年から80年にかけて大衆運動はほとんど壊滅し、ゲリラ撲滅のための殺戮の恐怖は高地(アルティプラーノ)の先住民にまで及んだ。ゲリラに組するものは勿論、ゲリラと接触しただけでも命の保証はなかった。

 アメリカの対グアテマラ政策の変化
 1974年アメリカでカーター政権が出現すると、人権外交が重要な対外政策として浮上してきた。アメリカの対外援助額は、被援助国における人権侵害の記録によって決定され、ラテンアメリカについてはとりわけその査定が厳しかった。
 グアテマラの人権侵害は当然ワシントンの不興を買った。しかもアメリカ政府はグアテマラが何らかの形で詫びを入れ、相互に納得が得られるような折衷案を提示してくるものと思っていた。しかし、ナショナリズムが高揚し民族主義に凝り固まった当時のグアテマラは、人権弾圧停止と引き換えにアメリカの援助を受けることを潔しとせず、自らこれを断った。
 もともとアメリカとグアテマラの間には相互に利益を分かち合う外交政策が存在したが、とりわけ独裁政権下のグアテマラは、アメリカからの軍事援助を得るためにワシントンと親密な関係を保ちたかった。遠くはエストラダ・カブレラ然り、ホルヘ・ウビコ然り、である。また1954年にアルベンス政権を崩壊させるにあたっても、カスティージョ・アルマス大佐率いる反革命軍は、アメリカCIAの後ろ盾を得てホンジュラスから侵攻することができた。アメリカもグアテマラをホンジュラスと共に中米の「民主主義国」「親米国家」のサンプルと見做し、ニカラグア、エルサルバドルで台頭する共産主義浸透の阻止の砦となることを期待していた。
 ところが、カーター政権の出現とともに「民主主義国」の仮面は剥がされ、国内で繰り返し行われている凄まじい人権侵害の事実を理由としてワシントンの対グアテマラ感情は一気に悪化した。そして1977年から1983年にかけてアメリカの対グアテマラ援助額は極端に減少し、武器輸出も表向きは停止された。そのためゲリラ壊滅作戦に躍起となっていたグアテマラ軍事政府はイスラエル、アルゼンチン、台湾など他の国から武器を購入しなければならなかった。
 レーガン政権の発足と共に、グアテマラ・アメリカ関係は徐々に修復されに リオス・モントがクーデターによって政権についた1982年あたりから対グアテマラ軍事援助は僅かながら回復の兆しがみえてきた。1983年、レーガン大統領は議会に対しグアテマラ新軍事援助計画の承認を求めたが、著しい人権侵害が行われている国際的に評判のよくない国への援助に対する議会の承認が得られなかった。公式に軍事援助がグアテマラに再開されはじめたのは1986年になってからのことであった。

 住民の分断と監視のための「民間自衛パトロール隊」
 1970年代後半、軍は高地(アルティプラーノ)に住む先住民すべてにゲリラ、またはゲリラのシンパという疑いを抱いた。軍はまず先住民村落や部落を分断し、先住民を軍の統制に従わせることを計画した。そのため数百の村が取り壊され、数万の先住民が殺害され、数万人が強制移住させられた。スペインによる制服以来500年にわたって固有の文化を守り、地域社会の特性を失わずに生きてきたグアテマラの先住民はともすれば現代社会の進歩に反抗してかたくなに生きているという印象を与えがちであり、しかもその先住民がマージナルなプアー・マジョリティーであり、心情的にゲリラに与しているということが、軍を怯えさせ、弾圧の引き金となった。

 度重なる軍の弾圧にもかかわらずゲリラはその勢力を増してきた。軍事政権は「グアテマラは何処も同じ」というナショナルアイデンティティのもとに、地域共同体平和計画を立案し、先住民村落を掌握してゲリラのサポート基地を根絶しようとした。そのために結成された住民監視組織の一つが「民間自衛パトロール隊」である。
 民間自衛パトロール隊はアルタ・ベラパス州で1976年初めて結成され、ルーカス・ガルシア政権の1981年には、各地方に広がり、続くリオス・モント政権下では、ゲリラ壊滅戦略の重要な柱となった。民間自衛バトル制度は、1980年代前半に最も普及し、その後下火となったが依然として闘争地域では、軍の対反乱分子壊滅の重要な作戦となっている。
 もともとこの制度は植民地時代、スペイン人の地主が土地を守るため、先住民の民兵を組織したことにはじまる。それら民兵は地主のために収穫を取り立て、農民を監視する無報酬の私兵であった。
 民間自衛パトロール隊員は1986年には約100万人いったと推定され、その90%は高地のマヤ先住民の男性であった。14歳から60歳までの無報酬のパトロール隊員は週に数日、木製の銃か第二次世界大戦中の旧式の武器を携え、グアテマラ国旗をかざして村のパトロールに当たる。パトロールは強制労働で参加しないものはゲリラの烙印を押され投獄され、あるいは地方の軍基地で拷問を受ける。村の出入り口にはパトロール隊員の歩哨が立ち、村民や訪問者の出入りを監視している。彼らまたゲリラに接触したり、ゲリラ思想に汚染されているという疑いのある村民を強制移住させたり、ゲリラ・シンパを炙り出して逮捕、軍に引き渡す。
 高地の村で、パトロール隊員としては同じ階級の小学生の子供と、白髪の増えた年配の隊員が共に隊列を組んで、足を引き摺り、おどおどしながらパトロールの任務についているのは目を背けたくなる光景であった。
 このパトロール制度には、国の内外の人権団体、宗教界から激しい非難の声が上がったが、軍や右派政治家はパトロールの拡大を支持し、地方のみならず都市部にもパトロール制度の導入を主張した。なぜなら、ゲリラは地方のみならず、都市でも新しい戦術で破壊活動を開始したから、というのがその理由であった。
 1988年、サンタ・クルス・デル・キチェにおいてルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足し、初めて民間自衛パトロール隊員の徴募に反対した。ルヌヘル・フナムとはキチェの言葉で、「我々はすべて平等である」という意味で、その創設者はラディーノの小学校教師、アミカル・メンデス・ウリサルであった。かれは生命への脅迫を顧みずゲリラと手を携えて、「すべては平等」のスローガンのもとに屈辱的な民間自衛パトロール制度に反対して戦った。ルヌヘル・フナム民族共同体委員会が発足して、この地方の25人のマヤ族が殺害され、もしくは軍か疑似軍隊によって拉致され行方不明となった。かれらはこのパトロール制度がいかに不法であるかを憲法に照らして異議を申し立てていた。1992年においてもまだ約50万人のパトロール隊員が存在した。

 スペイン大使館援助事件
 1980年1月31日、首都グアテマラ・シティでデモが行われ、労働者、農民、聖職者、学生たちが軍事政府の弾圧に激しく抗議した。とりわけエル・キチェ州のチャフル、コツアル、ネバフの先住民たちは、かれらが受けた弾圧の事実を国際社会に知ってもらおうとデモに参加した。
 エル・キチェ州の農民たちは抗議デモ参加者と共にどこか外国の大使館に陳情し、かれらに対する軍事政府の弾圧の事実を知らしめ、グアテマラの現実を世界に訴えようとした。マスコミは軍の報復を恐れ真実の報道をしてくれなかったからである。そして農民統一委員会(CUC)のメンバーを含む抗議者代表がスペイン大使館へ乱入したのである。愚かしい行動であった。
 ただちに国家安全保障軍が出動し、乱入者鎮圧を名目にスペイン大使館に放火、炎上させた。駐グアテマラ・スペイン大使は大火傷を負って病院に収容され、乱入した抗議者(28名)を含む39名が死亡した。農民統一委員会のリーダーの一人、ビセンテ・メンチュはこの事件で死亡、たった一人重傷を負って生き残ったグレゴリオ・ユハは収容された病院から拉致されて殺害された。
 スペイン大使館に放火を指示したのは、ルーカス・ガルシア大統領自身といわれているが、真相は不明である。この事件により、スペイン政府はグアテマラとの国交を断絶、また、グアテマラで行われていた弾圧についてほとんど無知であったヨーロッパ各国も中米のこの国に目を向けることとなった。

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アメリカに不都合な指摘は、すべて陰謀論で・・・

2023年08月24日 | 国際・政治

 しばらく前、朝日新聞の社説に、国際社説担当・村上太輝夫氏の「言論統制のパラドックス」と題する文章が掲載されました。中国の言論統制の厳しさを指摘し、17世紀英国の詩人ミルトンの「我々の願う自由は国に何の不平もないことではありません」「不平が自由に聞かれ、考慮され、すみやかに改められるとき、このとき賢明な人々が求める最大の自由があります」という言葉で、締めくくっていました。
 でも私は、村上氏が大事なことを考慮されていないと思いました。
 それは、くり返し他国のクーデターや政権転覆を実行し、関与してきたアメリカが、その対外政策や外交政策を反省し、再び同じ過ちをくり返さないという約束をしない限り、アメリカに敵視されている国は、言論を統制し、守りを固めざるを得ないのではないかということです。
 「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から抜粋した下記の文章に、

アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった

 とあります。しっかり言論を統制し、守りを固めないと、倒され、搾取・収奪される国に陥るということです。
 ラテンアメリカでは、さまざまな国で軍事クーデターや政権転覆がありましたが、アメリカは共産主義的傾向や社会主義的傾向を持つ政権、あるいはアメリカの搾取・収奪を受けつけない政権を倒すために(グアテマラではアルベンス政権)、周到な計画を立て、実行してきたのです。そしてそれは、ラテンアメリカだけではないのです。

 同書には、下記のような記述もあり、単なる想像ではないことがわかります。

そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行された場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
 1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。” 

 そして、ツイッター(https://twitter.com/Ultrafrog17/status/1675916699428876288
には、ゼレンスキー大統領がアメリカのCIAとともに、現在ロシア領となっているクリミアを取り戻すまで、ウクライナ戦争を続けることで合意しているという、下記のような文章があるのです。

Zelensky is now straight up admitting to directly working with the CIA.
He just told CNN that there will be no victory in Ukraine until they retake Crimea, that he and the United States CIA withhold no secrets together, and there is no situation where there can be peace unless they retake Crimea!

 早期に停戦すると、アメリカの目的が達成できないので、クリミアを取り戻すまで、ウクライナの勝利はないなどということにしたのだと思います。ウクライナ戦争を主導しているのが、アメリカであることを物語っているように思います。ウクライナの多くの人たちは、クリミアを取り戻すまでウクライナ戦争を続けることなど望んではいないと思います。 

2024年大統領選の民主党指名候補争いへの出馬を表明したロバート・ケネディ・ジュニア氏(ジョン・F・ケネディ元大統領のおい)は、アメリカがウクライナ戦争やコロナのパンデミックに関わって、さまざまな秘密工作を実行していると指摘しています。
 だからメディアは、アメリカのプロパガンダや中国、ロシアの悪口のような報道ばかりではなく、アメリカの主張や政策の問題点、秘密工作の現実なども指摘し、きちんと本質をとらえて、平和が実現されるような報道に徹してほしいと思います。そうしないと台湾海峡でも軍事衝突が発生するのではないかと思います。 

 下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、とびとびに「アルペンスの農地改革──農地改革第900法」、「急ぎすぎた改革」、「民主主義の終焉」のなかの「かたくななアメリカの中米政策」を選んで抜萃しました。
 アメリカという国の対外政策や外交政策の現実が、よくわかるのではないかと思うからです。
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                   第一部 独裁から”束の間の春”へ

                    アルペンス政府と農地改革

 アアルペンスの農地改革──農地改革第900法
 アルペンスは大統領に就任するとかれの政府の最重要政策として財政の安定と経済発展をかかげ、半封建的、半植民地的現状を脱却するため「ともに働き、より多くの富を得て、持たざる者(かれらはグアテマラ国民の大多数を占めるものたちだった)に配分しなければならない。そのためには農地改革が不可欠である」と宣言した。
 アルペンスはアレバロにもまして熱烈なナショナリストで、外国資本に依存することを嫌った。しかし当時グアテマラに投資していたのはアメリカの民間資本だけで、世界銀行も既にアレバロの時代にあまりにも巨額なローンを驚き、融資を拒否していた。アルペンスは農地改革によってまず増産を図り、国の資源を開発し、よって公共事業に着手し、グアテマラのインフラストラクチャーの近代化を推進しようとした。これは大事業でありアルベンスの在任期間という短い時間で達成できるものではない。
 しかしアレバロに比べ、より実践的で精神主義に拘らないアッルベンスは、ただちに農地改革法案を作成、呆気にとらえられている議会にこれを提出し、1952年6月17日、農地改革第900法は承認された。
 この法律の趣旨はきわめて明快で民主的なものである。
 まず、672エーカー以上の個人所有未開墾地は没収され、224以上672エーカー未満の未開墾地に関しては、その三分の二が耕作されていない限り没収される。224エーカー未満の個人所有地は所有が許された。
 一方国有農場はすべて解放され農民に配分される。個人所有者から没収された未開墾地は個人農民に配分され終身保有が許され、その死後は受益者の家族が土地の保有を継承することができる。解放された国有農場に関しては受益者一代のみの保有が許される。個人所有地の受益者は25年毎に年間生産価格の3パーセントを元の土地所有者へ補償として支払い、一代受益者は5パーセントを政府に支払う、というものであった。
 国有地の分配は1952年8月に始まった。そしてそれから1年6カ月のうち改革は急速に進行していった。
 アメリカ政府は当初アルベンスの大統領就任を好意的に見ていた。元エリート軍人でリアリストの理論家アルベンスならアレバロよりもっと巧妙に制服組の前任者たちの路線を継承するであろうと思っていた。アルベンスの農地改革についても、はじめはその影響を過小評価していた嫌いがある。しかもアメリカ政府自身第二次世界大戦終了後、日本で画期的な農地改革を遂行した実績があった。  しかし中米の他の国々はこの農地改革を憂慮していた。グアテマラの農地改革が成功すれば、いずれも土地配分の著しく不公平な中米各国の大地主階級にとって、杞憂に終わる問題ではない。とりわけニカラグアのアナスタシオ・ソモサは、もしグアテマラでこの改革が成功すれば、その影響は早晩ニカラグアにも波及するものとして警戒を強めた。メキシコの見方は異なっていた。メキシコは自己の農地改革の体験に基づき、グアテマラが農地改革を立案、実施したことを評価した。没収の対象となった個人所有未開墾地には、アメリカのユナイテッド・フルーツ社のバナナ・プランテーション予定地も含まれていた。これが後にアルベンス政権の命取りになった。

 急ぎすぎた改革
 大土地所有者やUFCOなどアメリカ企業からの土地の没収、インフラストラクチャー建設のためのナショナル・プロジェクト、労働組合育成保護などの政策を、アメリカ政府はすぐさま東西対立の図式にあてはめ、共産主義の影響、アルベンス政権の左傾化ととらえたが、アルベンスは資本主義的経済成長を推進し、それに国家管理を加えただけで、マルキシズムの教義にのっとった革命を目指したものではなかった。1944年から1954年までのたった十年間ではあったが民主主義の時代、とりわけアルベンスの政権下、グアテマラ社会は民主主義に向かって推移し、社会経済改革が遂行されただけのことである。一つの社会階級の滅亡の上に新しい支配階級が出現するという社会主義的改革は行われなかった。
 アルベンスの改革に反対したのは大土地所有者だけで、はじめは軍もナショナリズムを鼓舞する改革には賛成であった。というよりも、多くが中産階級の出自である軍人は、農地改革には直接の利害関係がなく、むしろ無関心であった。しかし土地の分配を受けてはじめて個人小地主となった農民にとって、農地改革は神の恩寵の具現であり、突然降って湧いてきた恵に有頂天になった。
 しかし、アルベンスはかれの敵たるものの脅威の大きさを無視していたのか、それとも過小評価していたのか、この改革はいかにも急ぎ過ぎであった。

 アメリカ政府とカスティージョ・アルマス
 アメリカ政府は既にアルベンス打倒の意を決していたが、まずグアテマラ側でアルベンス政権を崩壊に導く陰謀を成功させるのに頼りになる人物を捜さねばならなかった。グアテマラ革命当時アルベンスに退けられ、不遇をかこつ旧軍人の中から、アメリカ政府はカスティージョ・アルマスを選んだ。アメリカが望んだのは親米的軍人で、権力志向の強いウビコ・タイプの独裁者であった。
 1953年9月20日、カスティージョ・アルマスは亡命先のホンジュラスの首都テグシガルパからニカラグアのソモサに手紙を送り、「北の政府(アメリカ)が我々に計画を進展させよと友人を介して通知してきた。この決定の重大さに鑑み、私は直接確認するべく直ちに機密文書を送ったがまだ返答を受け取っていない。しかしわたしは前述の事項が確認されたものと了解している」と述べている(『威嚇されるグアテマラ民主主義』アルマスの手紙)。
 そしてアルマスの補佐官タラセナ・デ・ラ・セダの回想によれば、その数日後CIAはアルベンス打倒軍の総司令官にカスティージョ・アルマスを選んだ、とある。同年10月15日アルマスはニカラグアのソモサの息子タチートへの書簡の中で、「『北の友人』との計画は我が方に凱歌があがった。間もなく非常に具体的側面に突入するはずである。そして必ずや我々すべてが望む勝利を手中にするだろう」と歓喜に満ち溢れて述べている。そして事が決行れた場合には、ソモサ一族がアルマスに対してあたたかい支持を与えてくれるよう期待して手紙は終わっている。
 1953年10月、新駐グアテマラ・アメリカ大使ジョン・ピューリフォイが着任した。アルベンス政権を崩壊させるのがそのディプロマティック・ミッションの一つであった。そしてCIAグアテマラ支部も動きはじめた。ピューリフォイ新大使がグアテマラ着任前に既にCIAとの直接の秘密のチャンネルができていた。大使は大使館のスタッフにもアルベンス打倒の計画に就いては話さなかった。すべては大使とCIAグアテマラ支部の間で隠密に進行していった。
 1953年12月16日アルベンスとピューリフォイ大使は夕食をともにし、数時間に亘って話し合った。このとき、アルベンスの妻マリアが通訳の任に当った。彼女の回想によればアルベンスはかなり英語が理解できた。しかしアルベンスに考える時間を与えるには通訳が入った方が好都合であった。
 すでにアメリカ大使とグアテマラ政府の関係は修復できないほど冷却していたので2人の会談は儀礼的域を出るものではなかった。そして会食の雰囲気はとうてい和やかなものとはいえなかった。2日後、大使は国務長官ジョン・フォスター・ダレスにアルベンスについてのリポートを送り、アルベンスは共産主義者ではない旨述べている(1953年12月18日ピューリフォイ、国務省への書簡No522)。

                       民主主義の終焉

 かたくななアメリカの中米政策
 それにしてもアルベンス政権は、なぜこのような敗北で終焉を迎えねばならなかったのだろうか。アレバロからアルベンスへ引き継がれたグアテマラの改革と民主主義の芽生えは、アメリカの時の大統領アイゼンハワーによってことごとく摘み取られてしまった。事実アイゼンハワー政府の対グアテマラ政策は常軌を逸していた。ワシントンのこうしたグアテマラに対する異常な態度は、駐グアテマラ大使ピューリフォイの誣告(ブコク)によるものでも、UFCOの要求によるものでもなく、ましてや当時吹き荒れていたとされるマッカーシー旋風によるものでは勿論なかった。それは民主党、共和党を問わずアメリカに深く根差した中米及びカリブ諸国に君臨するという、かたくななヘゲモニーの伝統の発露であった。 
 アメリカの中米政策の非妥協性は一時1930年代の後半にフランクリン・D・ルーズベルトの善隣外交によって緩和されたものの、その後もトルーマン、アイゼンハワー両政府によって継承された。そしてトルーマンもアイゼンハワーもグアテマラとの関係を「本国と植民地」という概念でしかとらえていなかった。
 トルーマン政府はアレバロを嫌悪していた。しかしアレバロの時代アメリカは、グアテマラにそれほどの関心を払ってはいなかった。その後アルベンスが登場した。そしてアルベンスの犯した「罪」はアメリカにとってアレバロの比ではなかった。アメリカのジャーナリストたちは頻繁にグアテマラを取材し、グアテマラにおける反米共産主義の浸透、革命政権によるアメリカ企業への迫害について書き立てた。「鉄のカーテンがグアテマラを覆った」、「ソ連に管理された中米の独裁政権」などの見出しが当時のアメリカの新聞を飾ったが、ジャーナリストたちの多くは無知で、自国中心主義で、東西冷戦構造のパラノイア(偏執病)に犯されていた。それがまたアルベンスにとって不運でもあった。

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独裁者の末路とゼレンスキー大統領

2023年08月21日 | 国際・政治

 アメリカは約45カ国に、500を超える軍事基地を持っているといいます。日本には、三沢、横田、横須賀、岩国、佐世保、沖縄など81か所に、米軍専用基地を持っているということです。
 それらの軍事基地は、表向きは「世界平和」のためということですが、内実はアメリカの「覇権と利益」のために存在するのだと思います。それはアメリカが、砂川事件の東京地裁判決「アメリカ軍の駐留は憲法に違反する」(伊達判決)を受け入れず、司法介入によって覆したことでわかるような気がします。
 本来、世界平和のために、アメリカが他国の領土に軍事基地を持つということ自体、おかしなことだと思います。矛盾していると思います。だから、それはアメリカの覇権と利益のためなのだろうということです。そして、その捉え方が間違っていないことは、アメリカの対外政策や外交政策をふり返ればわかると思います。

 アメリカは、あちこちで多くの国の独裁者と手を結び、搾取や収奪をくり返してきました。グアテマラでも、独裁者ポルヘ・ウビコと手を結び、特権的な権利を手にして、利益を得るシステムを構築したために、ウビコの後を継いだアバレロが支持を失ったとき、活路を見出すことができなかったのだと思います。それは、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)の、下記の記述でわかります。

トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった”

 アメリカは、”民主的に選ばれた大統領よりも独裁者”のほうが好きなのだと思います。特権的な権利を得て搾取や収奪をすることが可能であり、また、相手国の人々の反発や抵抗を恐れる必要がないからです。そして、手を結ぶ相手国の独裁者が、国民の反発や抵抗によって、政権を維持することが難しくなったら、その独裁者を見限り、使い捨てにすることができるからです。
 私が見逃すことのできないことは、アメリカと手を結んだ独裁者の末路です。”1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した”とあるように、ウビコも、最終的に自国に留まることができず、アメリカに亡命しているのです。李承晩やマルコスと同じように。

 被害の拡大や増え続ける犠牲者のことを考えれば、ウクライナ戦争は一日も早く停戦すべきだと思いますが、この戦争は、ロシアの孤立化、弱体化を意図するアメリカが主導しているために、停戦の交渉が進まないのだと思います。だから、ウクライナ戦争が、いつ、どのような結末を迎えるかはわかりませんが、私は、ゼレンスキー大統領の末路も、アメリカと手を結んだ独裁者ホルヘ・ウビコと似たようなことになるのではないかと想像します。なぜなら、ウウライナの人々の多くは、ロシアと戦争などやりたくはなかったと思うからです。
 ヤヌコビッチ政権を顚覆し、NATOに加盟して、自らの活路を見出そうとしたのは、アメリカと手を結んだごく一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派オリガルヒなのだろうと想像します。

 ウクライナはかつてソビエト連邦を構成した国です。ロシア人も少なくなく、ロシアからの情報も途絶えることはないだろうと想像します。だから、いつまでも西側諸国のプロパガンダが通用することはないと思います。ウクライナの一般市民は、長く続く戦いの日常を自問し、きっと戦争に至る経緯やウクライナ戦争を主導するアメリカの好戦的な関与を知るようになって、戦争をはじめた政権に対する反発や抵抗を強めていくだろうと思うのです。

 現在、ウクライナと似たような状況にあるのが台湾だと思います。  
 先だって、台湾を訪問した自民党の麻生副総裁は、中国を念頭に「戦う覚悟を持つことが抑止力になる」などと訴えたといいます。アメリカの思いや意図を、アメリカに代わって訴えたのではないかと思いました。
 でも、世論調査では台湾の多くの人々が、現状維持を望んでいるといいます。中国との戦争を覚悟して、台湾の独立を成し遂げようなどと考えているのは、ウウライナの場合と同じように、アメリカと手を結んでいる一部の政治家や西側諸国と接点の多い親欧米派の富裕層だろうと思います。そうした人たちには、中国を孤立化させ、弱体化させようと意図するアメリカとの関係が深く、いろいろな支援もあるのではないかと思います。

 ユネスコ憲章には、”戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない”とありますが、アメリカと一体となっている麻生副総裁は、そういう意味では、すでに中国と戦争をはじめているように感じます。
 アメリカとの同盟関係の強化は、日本の一般国民にとっては、まったくプラスにならないと思います。同盟国に軍拡を求めるバイデン政権の「統合抑止戦略」は、実は、抑止ではなく、緊張を激化させ、中国を挑発して、限定的な軍事衝突をもたらし、その軍事衝突を根拠に、中国を孤立化させ、弱体化させようというアメリカの戦略を正当化する言葉だろうと思います。やっていることは、すべて戦争の準備なので、日本は、憲法を盾に、アメリカと距離を置くべきだと思います。

 下記は、「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)から、「ウビコ独裁の終焉」と「作られた”共産主義の影響”」と題された文章を抜萃しました。
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                   第一部 独裁から”束の間の春”へ

                      独裁者ポルヘ・ウビコ 

 ウビコ独裁の終焉
 強大な独裁者も使い捨てられるものである。アメリカにとって役に立つ男もグアテマラ国民にとっては憎悪の的となっていた。しかもウビコ自身は国民の幅広い層で憎悪が蓄積され、それが迸(ホトバシ)り出るまで気が付かなかった。
 1940年代に入ると、経済危機は一応回避されたが、カリブ諸国では独裁者の支配権力が揺るぎはじめた。ニカラグアのアナスタシオ・ソモサの支配が脅かされ、ドミニカではラファエル・トルヒーヨが困難な局面に立たされていた。キューバのフルヘンシオ・パチスタは選挙で敗北した。
 ウビコ打倒の胎動が始まったのはグアテマラの最高学府サン・カルロス大学のキャンパスからである。1676年ドミニコ会の聖職者によって創設されたこの大学は、中米で最も古い大学で、ラテンアメリカの権威ある最高学府の一つとの評価を得ていた。サン・カルロス大学は常に大衆運動の先駆けであり、世論のバロメーターでもあったので、当然のことながら真っ先に政府の弾圧を受けていた。学生たちは政治問題を避け、アカデミックな研究の自由を求めて議論を重ねていたが、その水面下ではウビコ独裁政権を打倒しようという強い意思が高まっていた。
 アメリカの外交筋でもウビコが三期目の大統領(1943~1949)就任するのはかなり困難であろうと判断していた。(FBI調書「今日のグアテマラ」1942年6月)。
 独裁者打倒のために立ち上がった学生たちに、進歩的大学教授、教師、労働者たちが呼応した。1944年6月なかば、研究会という名目の学生の集会に、教師達が合流してウビコ打倒の決意は固まった。中産階級はウビコを嫌悪し、上流階級ももはやこの傲慢な独裁者を必要としなくなっていた。サン・カルロス大学で学生たちがはじめて明白に政治問題を討論しはじめたとき、独裁政府の態度は優柔不断で、これに参加した数名の学生が短期間拘留されたり、教師たちが職を失った程度で、国民の政府に対する恐怖感は消え失せていった。
 6月30日は、グアテマラの祝日「教師の日」である。この日、教師たちは軍隊に先導されて、重い国旗を掲げ、整然とパレードを行う習わしになっていた。だが、1944年の場合は、その数日前に予行練習が行われたとき、多くの教師たちが参加したものの、突然かれらは練習をボイコットした。間もなく多数の市民が加わり、学生や教師の要求を支持した。しかし、市民たちはこの段階でウビコ辞任までは要求していなかった。
 6月22日、ウビコは憲法で保障された基本的人権の一時停止措置でこの動きを封じ込めようとした。かれの政権化においてこの措置がとられたことがなかったので、この事実だけを見てもウビコの独裁政権がすでに最後の段階に達していたことがわかる。
 6月24日、311名の署名人の署名を集めた憲法停止措置解除の請願書を携えて、2人の勇敢な代表者が大統領府へ赴いた。独裁者に対して、これほどの大胆不敵な行動がとられたことはかつてなかった。同じ日、ウビコ政権下ではじめて群衆が首都に集まり、反政府デモを行った。また。僅かではあったが、はじめてウビコ辞任を要求する声があがった。最初、学生の小さなグループから起こった反政府運動は、知識人、労働者、普通の勤め人を巻き込んでグアテマラ市の市民全体が独裁者に挑戦したのである。
 その後数日間、軍も警察も鳴りをひそめていたが、もう市民は彼らを問題にしなかった。ウビコの権力は衰えて、軍はウビコに忠誠を誓ってはいたが、本気でこの老独裁者を護衛する気がないことをグアテマラ市民は敏感に感じとっていた。
 1944年7月1日、ウビコは自ら辞任した。もし独裁者が戦いを挑み、もう一度国民を抑圧したら勝っていたかもしれない。アメリカもウビコに退陣を要求したりはしなかった。アメリカ国務省は、ウビコから反政府勢力との調停を依頼されたが。駐グアテマラ大使へは斡旋はほどほどにしておくようにと指令した。アメリカはウビコをアナクロニズムと見做し、見切りをつけていた。アメリカにとっては、ウビコに代わるべき、役に立つような後継者が実現すればそれでよかったのである。
 では何故ウビコは辞任したのだろうか。側近の追従ばかりを信じて、国民の信頼を失っていたことに気が付き絶望したのか。アメリカの支持を失って不安を感じた結果なのか。駐グアテマラ・アメリカ大使ログにウビコは「大多数の国民が反対したこと、とりわけ絶対の忠誠を誓っていた多くの著名人の名を、311名の憲法停止措置解除の請願リストの中に見い出したことに憤り、失望した」旨を報告している(Revista de Ia Revolucion 1945年1月))。当時かれは健康状態に不安を感じていたので、しばらく大統領職を辞し、再起を期すつもりだったとも言われているが、ウビコ自身は何も語っていない。

 1944年7月1日。ウビコは辞表を提出した後、副官に命じて彼の後継者となる3人の候補者を選ばせた。選ばれた3人はフェデリコ・ポンセ、エドワルド・ビジャグラン・アリサ、及びブエナベントウーラ・ピネダで、いづれもあまり知名度の高くない将軍達であった。かれらは軍事3人評議会(軍最高幹部3人で構成された国の暫定統治機関)を結成するよう要請された。
 7月4日、この軍事評議会で最も野心家のポンセ将軍が議会を説得してかれの大統領就任を承認させた。ポンセは暫定大統領に就任すると、政党、労働組合の結成を許可し、自由選挙の実施を確約した。しかし、学生や教師たちはポンセを信じなかった。ウビコに挑戦し、独裁者を辞任に追い込んだ大衆は、もう軍事政権を恐れなかった。
 1944年10月20日、政権を維持できなかったポンセは辞任し、同月24日ウビコはアメリカのニューオリンズに亡命した。これがグアテマラ革命、或は10月革命のはじまりである。ウビコはアメリカ政府に彼の資産引き渡しの交渉を執拗に依頼したが、かれの資産はすでにグアテマラ政府に没収されていた。1946年、ウビコは亡命地で没した。

 作られた”共産主義の影響”
 東西冷戦が深刻になってゆくなかで、共産主義の脅威は実態を上回る影をグアテマラ、アメリカ関係に投げ掛けはじめた。当時コスタリカを除く中米四カ国(エルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、ニカラグア)では共産党は非合法化され、アメリカは騒ぎ立てるほどの脅威は存在しなかった。1948年、駐グアテマラアメリカ大使はエドウィン・カイルからリチャード・パターソンに替わり対アバレロ政府感情も、好意的で礼儀正しかった善人のカイル大使の時代とは様変わりした。
 それまでアメリカ政府はアバレロ大統領とは概ね良好な関係を保ってきたし、インテリジェンス・レポートなどから判断してもソビエト共産主義の中米に対する影響については杞憂とみていた。しかし、パターソン大使はUFCOの申し立てを全面的に受け入れ、労働法成立の影には共産主義の疑惑ありとした。UFCOはさらに同社の労働組合幹部に左翼先鋭分子がいると報告した。しかし、実情は大部分の労働者は読み書きができず、左翼分子といってもマルクスもレーニンも知らず、理論闘争など不可能な彼らの脅威がどの程度のものであったか疑わしい。しかしながら、労働法は組合活動の大きな後盾となり、大土地所有者やUFCOに打撃を与えたのは事実である。
 アメリカ政府も独裁よりも民主主義の実現を推進してきたが、トルーマン政府は1948年ごろから徐々に態度を変え、民主的に選ばれた大統領よりも独裁者のほうが友好的で、かつ防共手段としてははるかに有益であるとして、ウビコの時代にノスタルジーを感じる始末であった。アバレロの悲劇は、かれの政策がアメリカ企業や大都市所有者に、前任の独裁者ウビコのグアテマラが一つのモデルとして定着し、それの懐古主義的な基準で判断されることだった。
 トルーマン政府は信頼したのは、長くグアテマラに在住する有力なアメリカ人からの情報であった。とりわけUFCOグアテマラ総支配人ウィリアム・テイロン、IRCA社長トーマス・ブラッドショウの2人の民間人と、カイル、パターソン両大使に仕えた外交官ミルトン・ウエルズによる情報は、アメリカのその後の対グアテマラ戦略に微妙な変化をもたらした。
 かれらのかなり偏見に満ちた情報のために、進歩的意見を持つもの、中道的左翼思想を持つものは一括して共産主義者の範疇に入れられ、1949年頃になると、トルーマン政府はグアテマラを共産主義汚染された不愉快なの国と見なすようになった。

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ゼレンスキー大統領とグアテマラの独裁者ポルヘ・ウビコ

2023年08月17日 | 国際・政治

 戦後の国際社会は、世界最大の軍事力と世界最大の経済力を誇るアメリカの対外政策や外交政策を抜きに語ることはできないと思います。
 そして、下記「グアテマラ現代史 苦悩するマヤの国」近藤敦子(彩流社)を読めば、アメリカの対外政策や外交政策が、どんなものであるのかがわかると思います。
 アメリカの対外政策や外交政策は、基本的に、法や道義・道徳の外にあるのです。
 だから、ウクライナ戦争も、そうしたアメリカの歴史を踏まえて捉える必要があると思います。

 でも、日本を含む西側諸国のメディアは、ウクライナ戦争をロシアの一方的侵略としています。そして、戦争前からロシアに制裁を課し、マイダン革命以来、ロシアの孤立化・弱体化を意図して、ウクライナ戦争を準備してきたアメリカの戦略を巧みに隠して、アメリカは単なる武器支援国家の一つであるかのように扱ってきたと思います。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は先日(7月1日)、ロシアとの停戦について、”ウクライナ軍が本来のロシア国境まで達した時に外交交渉の前提が整う”と述べたといいます。”2014年にロシアが併合した南部クリミア半島や実効支配下に置いた東部ドンバス地域も含め、全土奪還””するまで、停戦はしないということだと思います。

 ウクライナ戦争の経緯を調べると、ゼレンスキー大統領のこの主張は、決して一貫したものではないことがわかります。だからこの主張は、ヨーロッパ諸国からロシアを切り離し、アメリカの覇権と利益を維持しようとするアメリカの戦略に基づく主張だと思います。アメリカに完全に取り込まれてしまったゼレンスキー大統領が、アメリカの戦略を語るようになったのだと思います。停戦によって、ヨーロッパ諸国とロシアの関係が復活し、ロシアの影響力が再びヨーロッパ諸国に及ぶようになれば、困るのはアメリカだからです。

 15日、NATOのストルテンベルグ事務総長の側近イェンセン氏は、ノルウェーでの討論会で、”ロシアの侵攻を受けるウクライナが占領された領土の一部を諦めれば、NATOに加盟できる可能性がある”と述べ、”領土放棄が唯一の選択肢ではないとした上で(終戦への)解決策としては考えられる”と主張したのですが、強い抗議を受けて、翌日には、”NATOに加盟できる可能性があるとした15日の自身の発言は「間違いだった」”と、撤回しています。
 「終戦」を考慮した主張であり、撤回などする必要のない主張だったと思います。
 でもその主張は、マイダン革命以後、ウクライナの政治に深くかかわるアメリカと一体となったゼレンスキー大統領の方針に反するものであったのだと思います。

 ウクライナの人たちは、アメリカが深くかかわっているために、停戦によって平和を回復させるか、領土を奪還するまで戦うか、の選択さえできない状況になっているのだと思います。

 だから私は、私利私欲のためにアメリカと手を結んだグアテマラの独裁者、ポルヘ・ウビコと、ウクライナのゼレンスキー大統領が重なって見えるのです。
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                 第一部 独裁から”束の間の春”へ

                    独裁者ポルヘ・ウビコ 

 1990年代に入り エルサルバドルとニカラグアでの内戦が終り、両国で選挙による民主政権が樹立され、中米の地に一応の平和が訪れた。しかし全人口の50%以上をマヤ先住民が占める グアテマラでは、おもてだった激しい戦乱こそなかったものの、常に陰湿な抗争が繰り返されていた。ひとびとはこの抗争を「ゲラ・ラテンテ」(表面には現れない戦争)と呼び、そこに見え隠れする軍の権力に恐怖を抱いていた。

 カウディジョ(偉大なる頭領)の時代
 1929年に起こった世界大恐慌は グアテマラ 経済にも深刻な打撃を与え、失業者があふれ労働者間に不穏な空気が漂いはじめた。コーヒー・オルガルキー(広大なコーヒー農園を所有する極めて少数の支配階級)をはじめとするグアテマラ有産階級は、こうした国際的な風潮とグアテマラの社会環境の衰退にいたく憂慮して、強力なカウディジョ的リーダーシップを持つ為政者の出現を期待した。そこに登場したのがポルヘ・ウビコである。ウビコは1931年の大統領選に当選し(といってもかれが唯一の候補者で、対立候補はいなかった)大統領に就任した。ウビコの在任期間(1931~1944)は、世界大恐慌に続く30年代の経済不況と、第二次世界大戦の時期に一致する。
 上流階級出身の職業軍人であったウビコは頑迷な保守主義者で、政治家としての見識に欠け、その世界観は狭隘で、その独裁ぶりはその後のグアテマラに大きな影響を与えた。
 1944年のアメリカの諜報関係リポートによれば、「ウビコは自分で決定した地価で土地を購入し、大統領就任後グアテマラにおける最大の個人土地所有者となった」。 グアテマラはかれの所有する「領土」であり、ウビコは正しくカウディジョの感覚で、グアテマラをあたかも「村長」が村を治めるように統治した。かれは己の給料や役得をふやすべく、その財源を官僚の給料の大幅削減に求めた。この独裁者の機嫌を損じたものは厳しく処罰された。あるアメリカのリポート(FBI 調書「グアテマラ警察と刑罰」19343年12月)は「今や秘密警察はグアテマラゲシュタポという 忌まわしい名称を得た」と述べている。スパイ網は縦横に張り巡らされ、あらゆ階級の社会に密告者がいた。その国の風土病ともいえる恐怖、嫌疑、パラノイア(偏執病)はウビコの時代にグアテマラ国民の心の奥に刻み付けられた深い傷跡である。
 大統領就任当初、統治者としてのウビコは有能で、財政の拡大に力を注いだ。そのため外国からの投資には精一杯便宜を図り、低廉な先住民労働力を最大限に利用した。一方、彼は残酷であった。反対するものに対しては見境なく弾圧を加え、治安妨害という名目で、ときには文民政治家、かれと意見を異にする軍人、学生、労働運動のリーダーなどを一度に100人以上処刑した。
 アメリカ一辺倒のウビコは、アメリカをメキシコに対する頼もしい盾と見做していた。ウビコやかれと同じ階級に属するグアテマラ人にとって、メキシコは19世紀にグアテマラの要求を退けて広大な地域を併合した憎き隣人であり、しかも共産主義を培養してその感染を企てているおぞましい大国であった。当時のメキシコ大統領ラサロ・アルデナスの進歩的政策はグアテマラ流解釈によれば、政府の転覆と国の破滅をもたらす危険この上ないものであった。しかも最も頼りとするアメリカ政府の対 共産主義政策は非常に寛大(少なくともウビコの目にはそう見えた)で、それだけがウビコには歯がゆかった。かれはルーズベルト大統領の共産主義や労働組合に対する悠揚迫らぬ態度に疑問を抱き、 アメリカの外交官にアメリカ国内における共産主義運動、多発するストライキに警告を発した。因みにウビコの尊敬する政治家はルーズベルト大統領ではなく、スペインのフランコであり、イタリアのムッソリーニであったが、独裁者は尊敬することによって、アメリカ政府の機嫌は損ねないようにする配慮だけは 怠らなかった。
 ともあれウビコはアメリカにとっては優等生で、アメリカの官僚、外交官、ビジネスマンには礼を尽くし、アメリカの投資家たちを優遇した。第二次世界大戦が勃発するとウビコはいち早く連合国側に味方し、真珠湾攻撃の翌日には日本に戦線を布告した。
 アメリカ政府の要請によりウビコはグアテマラのドイツ人コミュニティをも摘発した。当時グアテマラ在住のドイツ人は、推定 5000乃至6000人で、ほとんどはドイツ系グアテマラ人であった。かれらはかなりの経済力を持ち 政権を支持していた。ウビコもこれらのドイツ人になんら敵意は持っていなかった。しかし大戦の末期、ウビコ数百名のドイツ系グアテマラ人をFBIに委ね、アメリカへ連行させた。そしてドイツ人コミュニティ所有のコーヒー農場は没収された。

 ウビコ政権時代にグアテマラの政治は著しく中央集権化され、巨大な官僚組織が出現した。軍もまた大きな変化をとげた。まずエクスクエラ・ポリテクニカの軍事教育プログラムは刷新され、アメリカ軍の士官が校長に任命された。エクスクエラ・ポリテクニカは、士官養成のための権威ある軍事専門学校(士官学校)で、卒業すると尉官に任官する。ウビコがアメリカ士官を校長に任命した目的は、アメリカのウエスト・ポイントの軍事教育を踏襲し、ウエスト・ポイントに匹敵する士官学校をつくりあげ、若い優秀な青年を政治から引き離し、軍人として養成することにあった また、1941年には最新設備の武器の専門技術を習得するためのエクスクエラ・デ・アプリカシオン(軍事職業学校)が
設立されグアテマラ社会に軍人の優位を印象づけた。
 だが、一方では軍人としての高度の教育を受けた若い士官の軍団が、80名にものぼる無能な将軍(かれらのほとんどは出身階級も低く、教養もなかった) の配下に従属させられるという矛盾をはらみ、この若い士官たちの不満が鬱積し、やがて1944年のウビコ罷免のグアテマラ革命の一つの要因となった。

 1930年代、グアテマラでも中産階級が台頭しはじめ、とりわけ首都グアテマラ・シティでは国政の幅広い参加を要求した。ウビコは産業の発展を好まなかった。工場労働者からプロレタリアートが発生し、共産主義者が出現するというのがその理由である。
 しかしウビコは社会基盤の整備を重視し、幹線道路、橋梁など公共設備の建設には力を注いだ。道路建設には 先住民労働力を利用し、道路通行税の代償という昔の「慣例」を持ち出して労働者に賃金を支払わなかった。ウビコはまた公共の建物を建設した。ここでも昔の「慣例」は適用され、警官が定期的に貧民地区を巡回し、酔っ払いの労働者などを建築現場で働かせるために拉致して行くのである。そして賃金は支払われなかった。
 ウビコは古典的な経済政策を採用、金融を引き締め、思い切った財政削減措置をとった。公務員の給与は大幅にカットされ、ある年など約40%も削減された。それどころか緊縮財政のため、彼らの多くは解雇された。ウビコの時代、いわゆる「誠実法」が導入され、公職に就くものは就任時と退任時に自己の資産と負債を申告しなければならなかった。
 ウビコの吝嗇(リンショク)は特に有名で、グアテマラの経済状態を考慮すれば、公務員に対する賃金カットも当然であったが、ウブコは士官にも厚遇を与えなかった。士官たちは薄給で厳しい訓練に耐えなければならなかった 彼らの軍務といえばひとりの独裁者に仕え、その独裁者のために大衆に恐怖感を吹き込むことだった。 しかも彼ら自身も軍隊という狭い世界に閉じ込められた囚人で、恐怖の中に生きていた。外国への留学は禁止されていた。危険思想にかぶれないようにとのウビコの懸念からである。従って 軍人の多くは世界情勢に疎かった。軍の掟は厳しく、軍法に背くと時には死が待っていた。猜疑心の強いウビコは選りすぐりの士官のみをグアルディア・デ・オノール(名誉護衛隊)のメンバーに抜擢し、アメリカから供与をされた武器を与えて、大統領府の護衛に当たらせた。
 独裁者に対する忠誠心はたたきああげの将校にも要求された。かれらは中流以下のラディーノ(主としてスペイン系白人と先住民との混血)で、かれらにとって士官というのはこたえられない職業であり、また自己の出身階級から抜け出す数少ない機会でもあった。一方、エスクエラ・ポリテクニカ 出身の将校は中流階級の子弟であったが、かれらとて1930年代の経済危機がなければ大学へ行っていた筈である。何故ならば、当時の軍隊は将軍や大佐が過剰で、軍人としての昇進の可能性が少なかったからである。
 ウビコ時代のグアテルマ軍は軍隊としての装備は貧弱であったが、それでも中米のほかの国のぼろを纒った軍隊に比べると格段の差があった。警察も軍に呼応して厳しく治安を取り締まったので、グアテマラ国内は1944年ウビコ独裁政権が崩壊するまで平穏であった。また、ラテンアメリカのカウディジョの例に漏れずウビコも共産主義を嫌悪していた。彼にとって共産主義者はとりもなおさず犯罪者であり、その犯罪者を作り出す知識階級に我慢ならなかった。知識階級は読書する。したがって 危険思想の書籍即ち共産主義関係の本も読む。ウビコは危険思想の書籍が一冊たりともグアテマラに入ってこないようにした。
 かれは徐々に側近のアドバイスも聞き入れなくなり、政府の高官をも嫌うようになった。あるアメリカの官僚はすでに1923年にウビコのこうした傾向に気付いていた。私が一時間半ばかり将軍(ウビコ)と過ごしたが、その時かれがアングロサクソンのように率直であることに感銘を受けた。しかしウビコ将軍の大統領就任は独裁者の誕生となろう。かれは自分がナポレオンの生まれ変わりであると思っていた。事実、ウビコはその容貌がナポレオンに恐ろしくよく似ていた。かれの心理状態は彼の執務室に入るとはっきりとわかった。目立つ場所にナポレオンの胸像が置かれており、その上部にウビコ自身の大きな写真が飾られていた。」(インテリジェンス・リポート「ホルヘ・ウビコ将軍との会見」1923年12月17日)

 アメリカ企業の進出と権益拡大
 ウビコとアメリカとの蜜月関係はかれの独裁政権が終わるまで続いた。かれはアメリカのグアテマラ 進出企業に最大の特典を与え、柔軟な考え方のできない男としては模範的態度を示した。
 20世紀初頭、マヌエル・エストラダ・カブレラ政権(1898~1920)時代、アメリカのユナイテッド・フルーツ社(UFCO)はグアテマラでバナナの栽培を始め、数年のうちにバナナ産業を独占し、港湾、鉄道、通信網を整備しこれらを掌握した。UFCOはグアテマラの地の利の良さからここを中米進出の拠点に選び、広大なバナナ・プランテーションの建設を目指した。当時の為政者エストラダ・カブレラは、最初は前任者の国内産業発展の政策を踏襲していたが、先住民労働力と外国からの投資が不可欠と固く信じて、次第に買弁的になり情緒不安定な独裁者になった。先住民共同居住地を没収し、これをアメリカ企業に先住民の労働力付きで売却し、アメリカ企業は、こうした土地にバナナ・プランテーションを建設したのである。
 UFCOは、ウビコの大統領就任以前の1930年に、7年以内に太平洋岸に港湾を建設する約束と引き換えに、グアテマラ政府と太平洋岸ティキサテの20ヘクタールの土地を譲り受ける契約を締結した。グアテマラのコーヒー農場経営者にとってこれは大きなメリットであった。当時太平洋館で栽培されるコーヒーは、太西洋岸のプエルト・バリオスに運ばなければ輸出できず、その輸送費は莫大な額であったからである。
 しかし太平洋岸に港が建設されれば輸送コストは削減されるが、一方輸送を担当する中米国際鉄道 (IRCA)にとっては大きな損失となる。IRCAはUFCOの子会社で、当時すでにグアテマラ国内で鉄道路線ネットワークを張り巡らし、近隣諸国へも進出、1930年までには総路線距離は1400キロに達していた。そこでウビコを入れた話し合いの結果、1936年UFCOとIRCAニ社は、UFCOがIRCA株式保有高を42.68パーセントと大幅に増加し、IRCAはUFCOの輸送価格を50パーセント以下に下げることで合意に達し、UFCOの太平洋岸の港湾建設は取り止めとなった。その結果ティキサテ産のバナナもコーヒー豆同様プエルトバリオスまでIRCAで輸送 しなければならないこととなった IRCAは独裁者の裁定と忍耐のお陰で大きな利益を上げることができ、グアテマラ政府は1936年3月、経済危機を理由にUFCOに港湾。建設の義務を免除した。

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アメリカの戦争犯罪はなぜ裁かれない?

2023年08月13日 | 国際・政治

 戦後、特に冷戦後は、アメリカが圧倒的な軍事力と経済力を背景に、世界を支配してきたと言ってもいいのではないかと思います。だから、アメリカの国際情勢に関する認識やそれを基にした政策が、あたかも国際世論であり、常識であるかのように受け止められてきたと思います。冷戦後、「一極体制」などという言葉が、しばしば使われるようになったのは、そのことを示していると思います。

 だから、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカに逆らうことは、弱小国にとっては、きわめて難しく、まさに、下記のキューバのように、国家の命運をかけて闘う覚悟が必要だったのだろうと思います。そういう意味で、ウクライナ戦争をきっかけとするロシアにたいする制裁決議賛成意見も、決して自主的なものばかりではなく、アメリカの意向に引きずられている国が少なくないのではないかと想像します。
 また、日本や韓国のように、米軍基地の存在する国は、ほとんど自主的な外交権を失っており、国際社会では、常にアメリカの戦略に従って動いているように思います。したがって、ロシア制裁決議の賛成国の数には、あまり意味はないと思います。

 先日、オランダ・ハーグに本部を置く国際刑事裁判所(ICC)が、ウクライナ侵攻をめぐる戦争犯罪容疑で、プーチン大統領らに逮捕状を出したとの報道がありました。
 それは、国際刑事裁判所もアメリカの影響下にあることを示していると思います。

 なぜなら、第二次世界大戦後、アメリカは数々の戦争犯罪をくり返してきましたが、国際刑事裁判所は、アメリカの大統領に対して、戦争犯罪の容疑をかけたことがないからです。国際刑事裁判所も、圧倒的な軍事力と経済力を持つアメリカの犯罪を裁くことは出来ないのだと思います。だから、現在の国際社会は、法ではなく、力が支配していると言ってもよいのではないかと思います。

 ふり返れば、ヴェトナムにおけるアメリカの戦争犯罪を裁く「国際戦争犯罪法廷」(ラッセル法廷)では、多くの証言をもとに、下記のような罪でアメリカに有罪を宣告しているのです。
1、ヴェトナムに対する侵略行為、
2、純然たる民間目標(学校、ダム、病院、衛生施設)に対する爆撃、
3、住居、村落、都市、学校、寺院などへの組織的大規模爆撃、
4、捕虜・民間人の虐待、
5、ジェノサイド、
6、国際法違反の兵器使用

 でも、国際刑事裁判所が、アメリカの明らかな戦争犯罪を黙殺し動かなかったことは、忘れられてはならないと思います。
 また、アメリカ合衆国の法律家で、ジョンソン大統領のもとで第66代司法長官を務めたラムゼイ・クラークは、数々のアメリカの戦争犯罪を告発しています。
 湾岸戦争時に、彼は、ブッシュ大統領の戦争犯罪を問うため、国際戦争犯罪法廷(クラーク法廷)を開廷しましたが、その他にも、アメリカがセルビアで大規模空爆をおこなった戦争犯罪なども告発しています。
 ラムゼイ・クラークによると、ユーゴスラヴィアが、NATO軍による空爆を告発したとき、NATO諸国は開廷にふみ切ることに合意したにもかかわらず、アメリカは拒否したといいます。
 そして、アメリカは、さまざまな国際法の規定に関して、自国についての適用を排除・変更する目的をもって一方的に、「留保」を主張してきたといいます。だから、大規模空爆による「ジェノサイドの罪」からも「免責」され、アメリカだけは、例外的な特権を持っている状況にあるということです。
 さらに、ラムゼイ・クラークは、アメリカが国際法に違反して次のような侵略や内政干渉を行ったとして、1983年のグレナダ侵攻1986年におけるリビアのトリポリ、ベンガジへの爆撃、ニカラグアにおけるコントラ、南部アフリカのアンゴラ完全独立民族同盟(UNITA)への資金援助、リベリア、チリ、エルサルバドル、グアテマラ、フィリピンおよびその他多数の地域における軍事独裁政権の支持や支援をあげています。
 アメリカによる1989年のパナマ侵攻は、イラクのクウェート侵攻に適用されるのと同様な、あるいはそれ以上の国際法違反を伴っており、アメリカの侵攻によって、1000名ないし4000名のパナマ人の生命が奪われたといいます。アメリカ政府は、現在もなお死者の数を隠しているとのことですが、アメリカの侵略は、パナマ全土に大規模な財産破壊を引き起こし、パナマの人たちは、悲惨な生活を強いられることになったとしています。パナマの惨状については、かつて取り上げたノーム・チョムスキーアンドレ・ヴルチェクの対話のなかでも触れられていました。

 ロシア政府が、戦争犯罪の疑いでプーチン大統領などに逮捕状を出した国際刑事裁判所のカリム・カーン主任検察官と赤根智子氏ら3人の裁判官を指名手配したというのは、国際刑事裁判所が、アメリカの意向に従って、欠席裁判を行った結果だと思います。ウクライナの問題についても、本来、戦争に至る前に、きちんと法的に争うべきだったと思います。アメリカは法的に争う努力をしてこなかったし、現在もしていないと思います。

 下記は、「物語 ラテン・アメリカの歴史」増田義郎著(中公新書1437)からの抜萃ですが、ラテン・アメリカには、長い歴史に基づく、根深い「反米感情」があるといいます。
 また、”アメリカ合衆国が社会主義キューバを徹底的に孤立させようとした強硬政策は、逆効果を生んだ”というような記述もありますが、キューバは、国の命運をかけてアメリカから離れたために、”それがカストロの革命によって突然再変化が起こった。農民たちはトイレや台所のついた人間の家に住み、ちゃんとした教育や医療が受けられるようになったのである。農民たちは「カストロはキリストの再来だ」と言って涙を流して革命の指導者に感謝した。”というような変化が可能だったのだと思います。そしてそれは、革命前のアメリカの搾取や収奪が、どういうものであったかを示しているのだと思います。
 また、”キューバ革命を契機に、人々はラテンアメリカ全体の問題を意識し、またその中に位置づけて自国を見るようになったのである。いいかえれば、ラテン・アメリカの人々は、はじめて一国ナショナリズムから脱却して、自己相対化することができるようにになったのである”という記述も見逃せません。
 それは、アフリカ諸国のアメリカ離れや、アフリカ連合一体化の動き、すなわち「アフリカ合衆国」の構想等にも通じるものがあるのではないかと思います。
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                   ニ十世紀のラテン・アメリカ

 第二次大戦と戦後
 第二次大戦がおこると、途中まで中立を維持した少数の国もあったが、最終的に中南米の全ての国は連合国側に立って枢軸諸国に宣戦布告した。アメリカ合衆国の「善隣外交」が功を奏してラテン・アメリカ諸国との関係が確かに好転していたのである。
 にもかかわらず、ラテン・アメリカの反米感情はこれで消えたわけではなく、第二次大戦後も持続し、いろいろな問題を引き起こしている。
 すでに述べたように、1929年の大恐慌以後、中南米諸国は、第一次産品の輸出市場がせばまり、また輸出価格が低下したので、経済的困難に直面した。アルゼンチン、チリ、ブラジル、メキシコなどの国々は国内に工業を起こすことによって、工業製品の自給を達成し、外貨を節約しようとしたが、それができないその他の国々は、アメリカ合衆国の経済力の枠内で、輸出に向けられる一次産品の増産によって不況を切り抜けようとした。

 前者の国々においては、戦時中工業化が進み、戦後には軽工業から重工業へ発展する国もあって、国内市場から国際市場へと製品の販売の展開を求めるようになった。しかし、それらの国々の工業はまたその製品の質、価格等において、国際競争力が弱く、反面大衆を相手とした新しい社会政策も、国際収支の悪化とインフレのために苦境におちいった。しかも大衆に対する人気を維持するために、多額の福祉予算や補助金を国家予算に計上し、経済が悪化してもそれを削減することがむずかしかったので、さらにインフレがひどくなり、社会的な対立が高まった。こうして、第二次世界大戦後の1960、70年代において、工業化の道を選んだ国々では、社会不安と政治対立がひどくなった。
 他方。第一次産品の輸出に依存していた国々は、第二次大戦後、先進国の貿易が拡大し、また世界的に第一次産品の生産とそれにとって代わる新製品の開発が進んだために、国際市場における競争が激しくなり、輸出が伸び悩むことになった。したがってこれらの国々も、軽工業を中心に工業化政策をとりはじめたが、これも多くの困難にぶつかった。
 第二次世界大戦後においては、大衆 労働者、中間層を中心とした人々が、戦前以上に新しい形の政治の出現を要求していた。各国において、斬新な改革主義の政治が試みられたが、旧支配層の抵抗が強くなかなか実現しなかった。
 このような情勢下に、1959年、キューバ革命がおこった。この革命は、はじめは民族主義的な性格を持つと思われたが、米ソの対立の中で急に社会主義陣営にかたむき、アメリカ合衆国とするどく対立した。アメリカ合衆国は、キューバを経済封鎖し、米州機構から追放したが、キューバは社会主義圏と強い関係を結び、砂糖を特恵的な値段で社会主義諸国に輸出し、ソ連から経済援助得ることによって自立のための努力をつづけた。
 アメリカ合衆国が社会主義キューバを徹底的に孤立させようとした強硬政策は、逆効果を生んだ。キューバは、アメリカ合衆国の目と鼻の先にあって、それに完全に経済支配された属国であった。首都ハバナは、マイアミやニューヨークのマフィアが幅をきかす淫楽の町であった。そのようなキューバが、突如として過去との一切の腐れ縁を断ち切り、独立国として完全な自立をとげたのである。これはひとつの奇跡であった。
 そして軌跡は国内でもおこっていた。キューバは、首都ハバナの華麗さにもかかわらず。貧しい国だった。1953年の国勢調査によると、都市人口は57%、農村人口は43%であったが、電機の普及率は全国で58.2%。都市の87パーセントに対して、農村には9.1パーセントしかなかった。水道の普及率は35.2パーセントで、都市の54.6パーセントに対して農村は2.3パーセント。水洗トイレの普及率は28パーセントで都市の42.8パーセントに対して、農村は3.1パーセント。農村でトイレがない家は54.1パーセントにのぼった。また、農村で風呂ない家が90.5パーセントもあった。ハバナの中産階級は、アメリカ合衆国の文明的生活をしていたのに、農村のサトウキビ畑の労働者たちは衛生施設もなく、医療も与えられずに寄生虫やチフスに悩まされながら、ボイーオと呼ばれる。藁小屋にすし詰め状態で住んでいた。
 それがカストロの革命によって突然再変化が起こった。農民たちはトイレや台所のついた人間の家に住み、ちゃんとした教育や医療が受けられるようになったのである。農民たちは「カスロはキリストの再来だ」と言って涙を流して革命の指導者に感謝した。
 キューバにおける千年王国の出現は、アメリカ合衆国がかたくなな敵対心を示せば示すほど、疑いのない事実として、ラテン・アメリカの人々に印象づけた。多くの人々が、これこそ「アメリカ帝国主義」からの真の自立の道だと考え、各国の労働者や学生たちは「クーバ・シ、ヤンキー・ノ」と絶叫して革命を祝福した。
 1960年代は、革命の高揚期だった。ロマンチックな革命の夢が、ラテンアメリカを覆い、またキューバも積極的にそれを利用して、いくつかの国々へ革命の輸出をはかった。そこで、アメリカ合衆国のみならず、中南米諸国の軍部は非常な危機感を抱いた。そしていくつかの国では、クーデターによって軍事政権が成立した。すなわち、1964年のブラジルで、1966年と67年にアルゼンチンで、73年チリとウルグアイで、それぞれ軍部のクーデターがおこった。チリの場合は、1970年に成立したサルバドル・アエンデの社会主義政権への直接の対抗であった。
 これらの軍事政権は、強権によって社会の「法と秩序」を維持し、テクノクラートと近代的な企業家によって経済の前進をはかろうとする点で一致していた。これは従来のカウディーヨの軍人が独裁的権力をにぎるのではなく、政策能力のある将校団が政権を動かした点でも似ている。
 なかでも1968年に、ペルーにおいて改良主義的なペラウンデ政権をクーデターで倒して成立した革命軍事政権は、革新的な若い将校団によって指導され、左翼系の知識人や革命家も行政の中に取り込んで、大農園の徹底的解体をはじめとする諸種の改革を行った。
 しかし、軍部による強権的体制も国際収支の悪化につれ、悪性インフレや増大する対外債務などの問題を処理することができず、政権を放り出す場合が多くなった。そして1980年代のうちに、中南米の軍事政権は民主制に移行している。
 その間にキューバ革命は、1960年代の理想主義時代を過ぎて、70年代に入ると現実路線に転換し、ソ連東欧型の官僚的社会主義体制に固着していった。砂糖の生産だけに依存する経済を多様化し、産業を近代化化しようとする試みも失敗した。そして、アメリカ合衆国への従属を断ち切ったとはいうものの、べつな形で社会主義圏に従属する結果におちいり、1990年代になると社会主義圏の崩壊とともに、ますます厳しい道を歩まざるを得ず、現在のところ革命の輸出ところではなくなって。自己の体制を維持するのに汲々としている状態である。
 
 キューバ革命は、政治的、経済的に見れば、社会主義革命をやりさえすれば、すべての問題が一挙に解決する、という楽観主義の夢を打ち破ったといえよう。現在はグローバルな世界一体化の時代である。社会主義革命といえども、国際環境に制約されているのである。むしろキューバ革命がラテン・アメリカに大きなインパクトを残したのは、思想的、精神的な意味においてである。
 19世紀の独立以来、ラテン・アメリカの人々の心をとらえてきたのは、ナショナリズムであった。自分の国が、ラテン・アメリカの他の国々と同じ文化伝統に属することは承知しながらも、問題にするのは自国のことばかりであり、顧みる外国があるとすれば、それは欧米の先進国に限られていた。ところが、キューバ革命を契機に、人々はラテンアメリカ全体の問題を意識し、またその中に位置づけて自国を見るようになったのである。いいかえれば、ラテン・アメリカの人々は、はじめて一国ナショナリズムから脱却して、自己相対化することができるようにになったのである。

 

 

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核兵器廃絶! ものごとには順序がある

2023年08月09日 | 国際・政治

 今日は、長崎に原爆が投下さた日、8月9日。
 毎年8月になると、原子爆弾による悲劇の数々が報道されます。それらを読むと、原子爆弾は二度と使われてはならないと強く感じます。

 国際社会でも、被爆者の叫びを体現したといえる「核兵器禁止条約」が、2017年7月122か国の賛成をもって、国際条約として発効しました。そして現在(2023年1月9日)署名:92か国・地域、批准:68か国・地域であるといいます。
 でも、理不尽なことに、被爆国である日本がその「核兵器禁止条約」に不参加です。日本人のみならず、世界中の人たちの期待を裏切っている、と私は思います。

 そして、被爆国日本がなぜ不参加なのか、その原因を考えるのですが、私はやはりそこにアメリカの力が働いていると思うのです。
 不参加国は、核兵器所有国と、米軍基地が存在する日本や韓国、そして、NATO加盟国などの国々だからです。また、被爆国日本の岸田総理の核兵器に対する姿勢にも、全く主体性がなく、期待が持てないと思います。

 ふり返れば、人道の観点から、必要以上に人体に苦痛を与える兵器の使用禁止が国際的に論じられたのは、1868年、ロシア皇帝の招請によりロシアの首都ペテルブルグ(現サンクト・ペテルブルグ)で開催された17カ国による会議であったといいます。
 そしてこの時採択されたいわゆる「サンクトペテルブルク宣言」は、その後、1907年のハーグ陸戦条約ジュネーヴ諸条約へと発展し、1925年のジュネーヴ諸条約改定では、化学兵器や生物兵器の使用が禁止され、兵器の使用が無制限ではないことが、あらためて国際的に確認されていったということです。
 特にジュネーヴ諸条約第一追加議定書第35条において、総括的な規制がなされ、無用の苦痛を与える兵器のみならず、自然環境を過度に破壊する兵器についても合わせて禁止されるに至ったことは見逃せないことだと思います。

 ハーグ陸戦条の規定には、第23条に、”特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り”、として、23条1項に、”毒、または毒を施した兵器の使用」、また、同条5項「不必要な苦痛を与える兵器、投射物、その他の物質を使用すること”とあります。
 ジュネーブ条約の第1追加議定書の正式名称は、「窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」であり、下記のような規定があります。
 ・過度の傷害又は無用の苦痛を与える兵器等の使用禁止(第35条2)
 ・自然環境に広範、長期的かつ深刻な損害を与える戦闘の方法・手段の禁止(第35条3)

 原子爆弾は、サンクトペテルブルク宣言や、ハーグ陸戦条約ジュネーヴ条約などで使用が禁止された兵器の典型だと思います。したがって、その開発、実験、生産、製造、取得、占有、貯蔵、委譲と受領、使用 使用するとの威嚇、自国内への配置の許可などは、すべて国際法違反として禁止されていると受け止めなければならないと思います。
 
 そうしたことを踏まえると、「抑止論」などというのは、「違法」を「合法」とするまやかしだと思います。ものごとを順序立てて考えれば、核兵器禁止条約に至る道筋は極めて明快であり、人間の自然な思いの結果であると思います。だから、核兵器禁止条約に対しる期待や核兵器廃絶への思いは、子どもにもわかることだと思います。

 それを受け入れようとしない人たちが、拠り所とするのが「抑止論」だと思います。でも、自らの覇権と利益のために、降伏間近の日本に、強引に二発の原子爆弾を投下したアメリカやアメリカの同盟国に、「抑止論」を語る資格があるでしょうか。

 また、原子爆弾投下を命じたトルーマン大統領には、「原爆を投下するまで日本を降伏させるな」という言葉に象徴される様な、対ソ戦略をはじめとする様々な策略があったことが明らかにされています。

 だから、「抑止論」を乗り越え、核兵器禁止条約を意味のあるものとし、核兵器廃絶を実現するためには、先ず、原子爆弾を開発し、威嚇ではなく、現実に日本に投下したアメリカが、原子爆弾投下の過ちを認め、反省することが、核兵器廃絶の出発点だと思います。
 でも、アメリカは、原子爆弾投下の過ちを認めず、”原爆は戦争終結を早め、100万人ものアメリカ兵の命を救った”などというプロパガンダを広め、「抑止論」などを盾に、核兵器禁止条約核兵器廃絶の歩みにブレーキをかけていると思います。そして、アメリカの属国のような日本や韓国、およびNATO諸国がそれに従っているのだと思います。

 戦争の終結を早めるためなら、核兵器の使用が許されるのでしょうか。

 アメリカ兵の命を救うためなら、核兵器の使用が許されるでしょうか。

 それを許す人たちに、ロシアの核兵器使用の脅しを批判したり、非難する資格があるでしょうか。

 ロシアの核兵器使用の「脅し」は、戦争の拡大を抑止しようとするためのものではないのでしょうか。ロシアの主張を「脅し」としてを非難する人たちが「抑止論」を語るのは、矛盾しているのではないでしょうか。

 

 私は、ロシアの核の威嚇や北朝鮮の核兵器開発、弾道ミサイル発射実験に対する非難や抗議を意味あるもの、力あるものにするためには、まず、現実に原子爆弾を投下したアメリカが、原子爆弾投下の過ちを認め、反省することが欠かせないと思います。ものごとには順序があるのです。
 もっともらしいアメリカの主張に乗せられて、難しいことを考える必要はないと思います。
 原子爆弾投下の悲劇は、原子爆弾が二度と使われてはならないことを示しています。だから核兵器禁止条約を効力あるものにし、核兵器廃絶につなげるために、アメリカが投下の過ちを認め、核兵器廃絶の先頭に立つことが求められると思います。
 ”原爆は戦争終結を早め、100万人ものアメリカ兵の命を救った”などというアメリカのプロパガンダに惑わされることなく、アメリカに原子爆弾投下の過ちを認め、核兵器廃絶の先頭に立つことを求めるべきだと思います。

 「抑止論」などをあれこれ考える必要はないと思います。問題を複雑にしてはいけないと思います。アメリカが核兵器廃絶に動けば、核兵器廃絶は可能だと思います。核兵器を所有する国は、アメリカとともに搾取や収奪をしてきた強国か、あるいは、アメリカの核兵器に脅威を感じている国だと思います。だから、アメリカが核兵器廃絶に動けば、同調するだろうと思います。

 アメリカが、原子爆弾投下の過ちを認め、反省することがなければ、わけのわからない議論がくり返され、事は前に進まないような気がします。

 

 

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グアンタナモとジョージ・オーウェルのデストピア

2023年08月07日 | 国際・政治

 元グアンタナモ収容所・刑務官、ヒックマンの「外の世界の人間はグアンタナモ収容所の実態を知らずにいるが、収容所で働く看守もたいてい同じだ」と言う主張は、極めて重要だと思います。CIAの秘密工作活動をはじめとするアメリカの裏の取り組みは、関係者でさえも、その全体を知っている者は少なく、ほんの一握りの人間に限られているということです。
 だから、グアンタナモ収容所の拷問死事件を察知した人間がそれを暴いても、政府やメディアが沈黙すれば、大きな問題に発展することはない、ということだろうと思います。
 また、必要に応じ、高官が大手メディアに働きかけたり、関係者が、下記のように不都合な情報を葬り去る仕事をすれば、拷問死事件という重大な犯罪行為の暴露が、つまらないフェイクニュースとして、忘れ去られることになってしまうのだろうと思います。
予想どおり、ヒックマンの著書は、報道機関からおおかた無視された。一方、オンライン書店のアマゾンの読書書評欄では、米軍関係の情報歪曲屋たちがせっせと活動している様子が窺えた。『キャンプデルタ殺人事件』は辛辣な批判を浴びていたのだ。ジェームズ・クラブトリーと名乗るレビュアーもこの本をこき下ろした。──「同収容所に関して数々の本を読んできたが、この『キャンプデルタ殺人事件』の唯一の長所は、ギトモの拷問に関する現実離れした空想を、元収容者以外が書いたというもの珍しさだけだ」。レビュー上では明かさなかったが。実はクラブトリーはグアンタナモ収容所の元広報官である

 

 だから、アメリカの報道メディアも一体となってつくり出された、まるでジョージ・オーウェル『1984年』の世界のような現実を、許容してはならないということだと思います。

 

 ウクライナ戦争が続く現在、アメリカは、自らの犯罪行為・不法行為を隠蔽し、逆にそれらをあたかもロシアの犯罪行為・不法行為であるかのように描き出して報道させている部分があると思います。
 ノルドストリーム2が完成し、ロシアとヨーロッパ諸国の関係が深くなって、その影響力が拡大しつつあるときに、軍をウクライナに侵略させ、それを台無しにするようなことをロシアがするだろうかと疑い、私は、いろいろ調べました。そうしたら、いろいろなことがわかってきました。
 だから、今は、ってウクライナ戦争は、自らの覇権と利益が失われることを恐れたアメリカが、さまざまな工作によって挑発した結果なのだと思っています。
 また、台湾有事に関しても、今まさに日々影響力を拡大しつつある中国が、台湾に武力侵攻する必要性など全くないと私は思います。台湾の多くの住民も現状維持を望んでいるというのですから、なおさらです。
 だから、中国の影響力拡大で、アフリカや中東、アジアや中南米その他でアメリカ離れがどんどん進み、覇権や利益の維持が難しくなったアメリカが、台湾有事を画策しているのだろうと思います。
 善悪を逆さまに見せるアメリカの主張に、やすやすと従ってはならない、と私は思います。 
 また、アメリカが、あらゆる地域の問題に、武力や経済制裁をもって対処してきた過去も忘れてはならないと思います。アメリカが、法に基づき、話し合いによる問題解決をしたことは、ほとんどないと思います。
  
 報道によれば、自民党の麻生副総裁が台湾を訪問し、蔡英文総統と会談するとのことですが、私は、アメリカの使い走りのような気がします。台湾海峡の平和と安定は、アメリカと手を結んでいる蔡英文総統のもとでは、難しい、と私は思っています。
 また、西村経産相のアフリカ訪問も、アフリカ諸国のアメリカ離れを食い止めるという使い走りの側面があると思います。

 私は、ウクライナ戦争に関しても、台湾有事に関しても、アメリカに盲従することなく、客観的な情勢分析をもとにし、日本国憲法に基づいて主権を行使しなければ、危ういと思っています。

 下記は「驚くべきCIAの世論操作」ニコラス・スカウ:伊藤真訳(インターナショナル新書027)から、「第五章グアンタナモ収容所の隠蔽工作」の「秘密施設──グアンタナモのアウシュビッツ」、「暴かれたグアンタナモ収容所の拷問死事件」、「なぜ誰も責任を問われないのか」を抜萃しました。
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                    第五章グアンタナモ収容所の隠蔽工作

秘密施設──グアンタナモのアウシュビッツ
 外の世界の人間はグアンタナモ収容所の実態を知らずにいるが、収容所で働く看守もたいてい同じだとヒックマンは言う。しかしヒックマンにとって、それがある日の午後に一変した。同僚の看守と一緒にキャンプ・アメリカと呼ばれる地区の周辺をパトロールしているときのことだった。キャンプ・アメリカの広大な敷地の中には、極めて小規模なキャンプ・デルタという監禁施設がある。パトロール中、その近くの丘の斜面に秘密の建物群が横たわっていることにヒックマンは気づいた。建物はいずれも新築のようで、アルミニウムの外壁が貼られていた。「腹の底から本当に嫌な予感がしました。基地の地図を見てもこんな施設は載っていませんでした。存在しないことになっているものとでも言いましょうか」とヒックマンは語った。
 一緒にいた看守も怪しいと感じたらしい。「俺たち、何を発見しちまったかわかるか? これは俺たちのアウシュビッツだぜ」と同僚は言った。ヒックマンと同僚の看守はこの施設を「キャンプ・ノー」と呼ぶことにした。「そんなものはない」という意味の「ノー」だ。それから間もない。2006年6月9日、ヒックマンは衛兵専任下士官としてキャンプ・デルタで見張りのシフトに就いていた。高さ10m余りの監視塔に立っていると、ひとりの収容者が監禁施設から連れ出され、白いバンに乗せられてキャンプ・ノーの方向へ向かうのが見えた。バンは20分後に戻ってきて、2人目の収容者、続いて3人目の収容者を同じように連れ去った。深夜零時少し前、バンが戻ってきて、医務棟にバックして駐車した。するとキャンプ中の照明がつき、サイレンが鳴り響いた。ヒックマンの知人の海軍衛兵に聞いたところ、3人の収容者が死亡したばかりで喉に布を詰め込まれていたとのことだった。国防総省はプレスリリースを発表し、非対称戦争(権力に大きな開きがある当事者間の戦争で、劣勢側の戦闘員らがゲリラ戦や自爆テロなど通常の戦闘行為によらない種々の手段を使うこと)の一行為として、3人の就業者が同時に首吊自殺したと発表した。しかし、ヒックマンはおそらく意図的ではなかったのだろうが、3人はキャンプ・ノーで尋問中に殺害されたのだと確信している。

 ジョセフ・ピックマンは退役後、シートン・ホール大学法学部の研究者らの協力を得て、グアンタナモでの謎の死亡事件の真相を追い続けた。するとヒックマンとその調査チームは、死亡した収容者たちが異常に多量のメフロキンを投与されていた証拠を発見した。強力な抗マラリア薬の一種だが、キューバではマラリアに感染するリスクはない。そしてヒックマンは、自分も同僚だった看守たちも誰も、マラリアの予防薬などを服用したことはないと断言した。メフロキンは多量に摂取すると自殺願望を含めた精神障害を起こすことがある薬物だが、ヒックマンはアメリカの治安当局がそのメフロキンを尋問対象者に対して使用することがあるとの証拠見つけた。
 2010年、ヒックマンはこの件をジャーナリストのスコット・ホートンに明かした。ホートンは翌年、収容者たちの死に関する長大な取材記事を『ハーパーズ・マガジン』誌に発表。この記事は、2011年のナショナル・マガジン・アワードの取材記事賞を受賞した。ホートンは記事の中で、3人の収容者らは米軍が発表したように毛布で首吊り自殺をしたのではなく、偶発的にか意図的にか拷問されている間に死亡したと結論づけた。
 権威のあるナショナル・マガジン・アワードを受賞したにもかかわらず、「ギトモ」の事件を暴露したホートンの記事は大手新聞各紙や全米ネットのテレビ局から厳しい反発を食らった。一方、ヒックマンはすでに名誉除隊して一般民間人に戻っていた。州兵時代の非の打ち所のない経歴のために、国防総省がそう簡単に自分を信用ならない人物として中傷することはできまいと、ピックマンは確信していた。「私は下士官として最高クラスの人事評価を受けていました」とヒックマンは言う。「(3人の収容者が死亡した)2006年6月に任務に就いていたころは、その四半期、つまり4月、5月、6月はグアンタナモの下士官のなかで、トップの成績でした。それにキューバに行く前だってメリーランド州にいた一年間はまるまる年間最優秀兵士の座に就いていたのです」。
 こうした成績のおかげで、ヒックマンは組織的な中傷の犠牲にならずに済んだが、報道メディアは、彼が暴いたネタを無視することにした。ABCニュース調査報道部トップのベテラン記者であるブライアン・ロスや、NBCの国防総省担当チーフのジム・ミクラスゼウスキらは、ヒックマンとシートンホール大学法学部の研究者たちにインタビューを行った。だが、国防総省の当局者たちの話を聞いた後、何の説明もせずに突然このネタをボツにしてしまったのだ。
『ハーパーズ・マガジン』誌の巻頭を飾った受賞記事を除けば、報道各社はピックマンの暴露的な調査結果に対していわば自主的な報道規制を敷いていた。唯一の例外は、オンライン・ニュースサイトの『トゥールスアウト』に掲載されたジェイソン・レオポルドとジェフリー・ケイの2010年12月の記事だった。レオポルドは「ギトモ」の収容者たちの謎の死亡事件を独自に調査する中で、ヒックマンのことを知った。囚人の弁護士への取材を通じ、この収容所で拷問が行われているとの疑惑が以前からあることをレオポルドは知っていた。だから3人の収容者が「非対称戦争」の一戦闘行為として同時に自殺したとの公式発表を聞いたとき、全く信じるつもりはなかった。「あの事件はグアンタナモ収容所史上の大きな転機でした」とレオポルドは言う。

なぜ誰も責任を問われないのか
 2008年、スコット・ガーウェアという人物がロサンゼルスでバイク事故に遭って死亡したという事実をレオポルドは知った。この人物はCIAのためにグアンタナモ収容所で働いていることを明かしていた男で、どうやら知り得たことを伝えるために、マスコミと接触し始めていたところだったらしい。「彼がCIAのために働いていたことを私は知ったんだ。彼は尋問室にカメラを設置して、尋問中の『虚偽発言の検知』と呼ばれる監視任務などを担当していた」とレオポルドは言う。「この件の取材中、ガーウェアについて情報を持っていそうな人物と言えば、ジョセフ・ヒックマンだ、ということがわかった。そこで彼に連絡したというわけさ」。ピックマンはレオポルドの取材に応じ、メフロキンについて調べてみろと言ったという。「そこでこ薬品について調べることにした。すると、信じがたい、奇妙な話が見えてきたんだが、いまだに真相は藪の中だ」とレオポルドは言う。真相が解明されないのは米軍による検閲と、歪曲した情報を流すメディアのおかげだ、と付け加えておくべきだろう。それに国防総省に対して説明責任を果たすようにと迫る度胸のない同省御用達の国家安全保障問題を担当する報道陣のおかげだと。
 2015年、ピックマンはみずから目にしたことを『キャンプデルタ殺人事件』(原題:Murder at Camp Delta)という好著にまとめた(大手メディアが事件に関する彼の証言を報じなかった経緯も記されている)。予想どおり、ヒックマンの著書は、報道機関からおおかた無視された。一方、オンライン書店のアマゾンの読書書評欄では、米軍関係の情報歪曲屋たちがせっせと活動している様子が窺えた。『キャンプデルタ殺人事件』は辛辣な批判を浴びていたのだ。ジェームズ・クラブトリーと名乗るレビュアーもこの本をこき下ろした。──「同収容所に関して数々の本を読んできたが、この『キャンプデルタ殺人事件』の唯一の長所は、ギトモの拷問に関する現実離れした空想を、元収容者以外が書いたというもの珍しさだけだ」。レビュー上では明かさなかったが。実はクラブトリーはグアンタナモ収容所の元広報官である。
 テロに対する戦争が始まって15年……。9・11以降、グアンタナモやほかの各地の収容所において、アメリカ政府当局者、米軍将校、CIA尋問官は誰一人として収容者の拷問、または死をめぐり有罪ととなっていない。世界各地にあるアメリカの強制収容所に関連した事件で起訴され、処罰された唯一の事例は、イラクの悪名高いアブー・グレイブ監獄で任務に就いていた11人の下級の兵士たちだけだ。指揮命令系統の高位にある者たちがぬくぬくと法的責任を逃れていられるのは、そうした当局者たちの責任を問う社会的なプレッシャーがアメリカにはないからだ。こうした犯罪行為に対する世間の驚くべき無関心はどこに根ざしているかと言えば、それは9・11以降、実質的に無期限の非常事態を宣告している国家安全保障政策関連の諸機関の主張を、大手報道機関がほぼ全面的に受け入れてきたことにある。通常のルールや法的規制はもはや当てはまならない、とアメリカ政府は9・11を受けて世界に言い放った。そしてメディアはこの専制国家的な状況を概して不問に付しているのだ。
 実際、CIAの拷問行為に何らかの意味でわずかでも関連のある人物として唯一法的責任を問われたのは、元CIA職員のジョン・キリアコウこうなる者だ。記者に機密情報を漏らした罪でペンシルベニアの連邦刑務所に二年間収監されたのだ。「私はそれほど問題になるようなこと言ったつもりはなかったのですが、どうやら私は、われわれが収容者らを拷問にかけているという事実を初めて公的に認めたCIA職員だったらしいのです」と、釈放後ほどなくしてキリアコウは私に話してくれた。キリアコウの罪は収容者に水責めの拷問をしたことではなく、それを明かにしたことだったのである。これこそがアメリカの大手報道機関もどっぷり浸かることになってしまった本末転倒の世界なのだ。報道メディアが公安国家アメリカのまるでジョージ・オーウェルズの『1984年』の世界のような精神構造に──それは「戦争こそ平和だ」「自由とは隷従することだ」、そして、「(国民の)無知こそが力だ」と説くのだ──疑問を突きつけずにきたことが原因なのである。

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「グアンタナモ収容所」で知るアメリカの正体

2023年08月03日 | 日記

 グアンタナモ収容所(Guantanamo Bay detention camp:Gitmo)は、キューバのグァンタナモ米軍基地に設置されているアメリカ南方軍グアンタナモ共同機動部隊運営の収容キャンプだということですが、対テロ戦争を呼びかけたブッシュ大統領時代に、テロに関与している疑いのある人物や、秘密情報を持っている疑いのある人物が、次々に強制連行され、収容、監禁、拘禁されるようになったということで、よく知られるようになったと思います。

 グアンタナモ収容所の問題は、いろいろ指摘されていますが、まず、確たる証拠がなくても、疑いを持たれれば強制連行されることであり、また、裁判にかけられることなく逮捕・長期勾留されることがあります。
 また、アメリカは、グアンタナモ収容所の収容者に対し、“捕虜”と”犯罪者”の処遇を、脱法的に使い分けているとも言います。”捕虜”であればジュネーヴ条約を適用する義務があるのですが、”犯罪者”にその必要はないからです。
 グアンタナモは、アメリカの領土ではないので、アメリカの国内法の効力が及ばず、さらに、国際法も適用されない、ということも重大な問題だと思います。
  キューバカストロ政権が、アメリカの基地租借は非合法と非難し、キューバが返還を求め続けていることも、無視されてはならないことだと思います。

 だから、グアンタナモ収容所に関しては、さまざまな批判や非難があり、調査情報もあるようですが、特に、赤十字国際委員会が、米軍は被収容者に対して心理的、物理的な強制を加えており、拷問に等しい、とする報告書を作成しているという事実は見逃せません。
 また、アムネスティ・インターナショナルも「世界の人権状況に関する年次報告書」で、「対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害」を告発しているといいます。

 下記は、「驚くべきCIAの世論操作」ニコラス・スカウ:伊藤真訳(インターナショナル新書027)から抜萃したものですが、そうしたグアンタナモ収容所に対する国際世論の批判や非難をかわすために、アメリカがどのようなことを画策してきたかがよくわかると思います。

 民主主義を装うアメリカの悪事に目を閉じていては、戦争はなくせない、と私は思います。 
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                     第五章 グアンタナモ収容所の隠蔽工作

2001年9月、崩壊した世界貿易センタービルの瓦礫の粉塵が収まるや否や、公安国家アメリカは一連の秘密政策の実施に乗り出した。それらはいつ終わるとも知れない戦争と、世界規模で監視をし、身柄を拘束するシステムの急激な拡大へとつながった。CIAはホワイトハウスと国防総省の職員、および選りすぐりの憲法学者たちと密接に協力し合い、巨大なスパイ網や「囚人特例移送制度」を構築し、「秘密施設(ブラック・サイト)」における「強化型尋問」の蔓延などをもたらした。要するに「政府公認の誘拐」と「秘密収容所」における拷問だ。それもすべて国内法と国際法の枠組みの埒外で行うのである。このことはすでに広く報じられてきたが、この「超法規的」な制度の心臓部はキューバの南端、アメリカ最古在外米軍基地にある国防総省のグアンタナモ収容所だ。この施設には最重要クラスの囚人たちが収容されており、国際的にも極めて関心が高いだけに、この俗称「ギトモGitmo」を訪れる報道機関のために、当局は入念に演出した取材コースを設けた。 

 プロパガンダ一色のグアンタナモ収容所取材ツアー
 「連中は、私たちを連れてきては手の込んだ芝居を打って、どれほどすばらしい施設かを見せようとしました」と『ポリティコ』誌の国防総省担当記者のブライアン・ベンダーは言った。オンラインニュースサイト『ヴァイス・ニュース』のジェイソン・レオポルドも何度かグアンタナモ収容所を取材したことがあるが、取材は事実上の「メディア向けのサーカス」とでも呼ぶべき代物だとして、ベンダーと同様の感想を抱いている。レオポルドは言う──情報操作どころの話じゃない。まったくプロパガンダと洗脳そのものだ。米軍が演出した『素晴らしい施設グアンタナモ』を見せられるだけだ。グアンタナモというのはそんな場所だ。『収容者にこんなにたくさんビデオ・ゲームや本があるんですよ。食事も見てください! 収容者たちにどんな食事を出しているか、ぜひ試食してみてください』なんて言う具合さ、ふざけんな、相手は監獄にぶち込まれているんだぞ、って言ってやりたいね」。
 しかし、予想どおり、グアンタナモ収容所を訪れた記者たちの多くは軍のプロパガンダを喜んで鵜呑みにした。つまり「強いて言えば、グアンタナモの収容者は待遇がよすぎる」とまで思い込まされたのだ。レオポルドは、グアンタナモ収容所を紹介する記事の中で。国防総省独特の言い回しに騙されないよう注意したと述べている。例えば鉄製の足枷(アシカセ)は「人道的拘束具」、所内でハンガー・ストライキをやる収容者に使われることの多い、強制的な食料摂取は、「経腸栄養摂取(一般に、管を通して流動食や栄養剤などを胃や腸へ直接注入する方法)」と呼ばれるのだ。レオポルドは記者人生の中でも、グアンタナモの取材中ほど洗脳されているように感じたことはないと言う。「すべてがお芝居。何もかもがリハーサルどおりだった。どんなことをいうかまでリハーサル済みだ。当局は看守たちの発言もすべて決めて指示していたのさ。看守にインタビューする時は、必ず担当者が立ち合って聞き耳を立てている。それ以外には見学者の質問には答えさせない。グアンタナモほどの秘密主義は見たことがない。ブラックホールだよ」とレオポルドは取材を回想して言った。
 2013年のある日、たまたま見学者はレオポルドだけということがあった。そのとき、国防総省のまやかしのベールの奥を垣間見ることができた。グアンタナモ収容所のメディア・センターで、案内係は席を外している数分間、一人きりになったのだ。「一人ぼっちでその部屋にいたとき、床にいろいろなカードが散乱しているのに気がついたんだ」と、レオポルドはそのときの様子を回想する。それを一枚を拾って、裏表の両面を読んでみた。これはすごい、とレオポルドは思った。「大発見だった。これだけでも収容所へ来た価値があったというものだ」とレオポルド。手にしていたのは広報官用の「スマート・カード」と呼ばれるもので、取材記者に対して、視察を認めるべきことと認めるべきでないことの指示が書かれていたのだ。
「しゃべってもよいこと」という項目には、打ち出すべきこと──安全、人道的で合法的、隠しごとなし」といったキャッチフレーズが書かれており、さらには「ある看守の一日」など、案内する際に使える「ストーリー」の案まで記されていた。「インタビューの主導権を握り、自信を失わないこと」などと指示するカードもあったし、「横道にそれないこと」として「重要収容者」、収容者の「自殺」、「弁護士の主張」や「捜査の結果」、それに「収容者の釈放に関する憶測」などは、いついかなるときも話題にしてはならない、とつけ加えてあった。カードの最後には「すべては記録に残ることに注意し、決して『ノーコメント』とは言わないこと」と、メディア関係者の案内役に念を押していた。

 特別扱い扱いを受けた大手テレビ局──グアンタナモ収容所独占取材。
 CBSの報道番組『シックスティ・ミニッツ』では、リポーターのレスリー・スタール記者の取材チームが収容所の見学ツアーを許可され、「前例のない取材許可」と称して放送した。それを見たレオポルドは、これがどういう経緯で許可されたものか、すぐに国防総省の広報部へ問い合わせた。国語総省が返答を拒むと、レオポルドは情報自由法に基づき、『シックスティ・ミニッツ』の取材陣の訪問に関するすべての電子メールその他のやり取りの公開を要求した。ほかの記者たちがグアンタナモへ行く時は気前のいい取材許可なんてもらえないとレオポルドは不満をこぼした。収容棟を見せられても空っぽだ。収容者の姿は遠くからしか見ることができない。だから『シックスティ・ミニッツ』の取材映像を見た時には目を疑い、冗談きついぜ、と思ったという。「騒々しい収容棟をレスリー・スタールが歩いていて収容者たちが『俺たちは拷問を受けている。ここから出してくれ』なんて叫んでいるわけだ。われわれにはこんな突っ込んだ取材は許可されなかった。いったいどうやってこんなことができたのか?」
 情報自由法による開示請求をしてから二か月後。レオポルドは国防総省の広報部から苦情の電話を受けた。請求に対応するのに時間を浪費させられている、というのだ。「あなたがどうしてこんなことをしているのか説明してもらえませんかね。私があなたに『電子メールを全部見せろ』と言ったらどんな気がするか、教えて欲しいものですよ」と広報官はレオポルドに言った。
 レオポルドは広報官に個人的な恨みがあるわけではない、と断った上で、「あなたの電子メールすべてを開示させられることになると思いませんでしたよ。私は(CBSが)どういう経緯で取材許可を得たのかを知りたいだけなのですよ」と伝えた。
 レオポルドによれば、このあとに国防総省広報部から手痛いしっぺ返しを受けたという。国防総省は、レオポルドが請求した情報をライバル紙の記者にリークしてしまったのだ。レオポルド説明する──「私は情報自由法に基づいて文書の開示を請求した。するとやがてその文書は、競争相手の『マイアミ・ヘラルド』紙の記者に先に提供されてしまったんだ。どうしてそんなことになるかというと、『まあ、情報自由法で一旦解開示されてしまえば、誰でも閲覧可能になりますからね』と国防省はいうんだ。確かにそのとおり、そんなことは知ってる。でも、普通はそういうことにはならないはずだ。わたしは仕返しされたってわけさ。

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