真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本の韓国併合・植民地支配は合法だったか

2014年02月26日 | 国際・政治

 日本が韓国を併合し植民地化した当時、西欧列強諸国も武力を背景に弱小国を植民地化していた。したがって、日本の韓国併合は合法であり問題はなかった、というのが日本政府の考え方である。でも、はたしてそうか。下記、資料1~4のような文書の存在は、そうした考え方に疑問を抱かせる。

 高宗皇帝(光武帝)は、第2次日韓協約(乙巳条約)締結の1905年前後に、日本の植民支配の流れに抗して、外国の元首に対し、韓国の主権守護への協力を要請する親書を数回発送しているという。そして、1906年6月22日付の光武帝の親書が、87年目にして、米国コロンビア大学貴重図書・手稿図書館に保管されている「金龍中文庫」の中から発見された。
 それは、光武帝の乙巳条約(第2次日韓協約)無効宣言に関する親書であり、ハルバートを特別委員に任命して委任状を与え、米国、英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギー、中国など当時の修好通商条約対象国9カ国元首に宛てたものである。この親書が元の状態で発見されたということは、結局これが伝達されなかったと考えられる。ハルバートが密旨に沿う外交交渉に乗り出そうとした1907年7月には、光武帝は同年4月のハーグ万国平和会議に特使を派遣し、主権を回復させようとした試みによって、強制退位させられたからである。親書を発送した光武帝は、もはや大韓帝国の皇帝ではなく、したがって、委任状と親書は効力を喪失してしまったとハルバートが考えた、ということのようである。日本の強引な大韓帝国皇帝強制退位によって、韓国の主権守護の外交交渉は終わってしまったということになる。

 今までに、乙巳条約締結が無効であったという根拠はいくつか示されてきた(乙巳条約締結が無効であれば、韓国併合の合法性が問われる)。
 まず、ハーグ万国平和会議に派遣された李相尚正使、李儁副使、李瑋鐘の3人の特使が連名で作成した文書に、条約が皇帝の許可なしに強制された事実が明らかにされている。
 また、尹炳奭教授は、日本外務省外交史料館に保管されている条約文書に、批准書がない事実を確認したという。
 さらに、李泰鎮教授は、乙巳条約はもとより、いわゆる丁未条約も、国家間の条約で最も重要な手続きである、全権委任がなしに作成されたものであることを明らかにしている。
 その上、この親書が発見されたのである。主権者である皇帝自ら、条約が不法かつ無効であることをはっきり示している。手続き的に様々な問題があり、おまけに皇帝が不法で、無効であるという条約が、合法であるといえるのか。日本側は、一貫して、諸条約は合法的に締結され、有効である主張してきたが、考えさせられる。下記は
「日韓協約と日韓併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)からの抜粋である。
資料1------------------------------
       Ⅴ 光武帝の主権守護外交・1905-1907年 
          ──乙巳勒約の無効宣言を中心に──

二 対米交渉と米国の違約:1905年親書・電報・白紙親書


 ・・・

 朕は銃剣の威嚇と強要のもとに最近韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であること宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし。
                                       大韓帝国皇帝

 この電文は勒約についての皇帝の考え──勒約無効、同意拒否──をもっとも簡潔明瞭に伝えている。この電文はハルバートによって12月11日に国務次官に伝達されたが、米国はこれを黙殺した。
 光武帝はハルバートを派遣した直後、対米交渉を強化するために追加措置をとった。パリ駐在の閔泳瓚公使に、米国に急行して外交交渉を強化するよう秘密訓令をくだした。閔公使は12月7日、特命全権資格がないことを通告し、皇帝の意思を伝えるために会談を申し込み、11日にルートと会談した。ルートは12月19日付の答信を送り、「善為調処」の約定による何らかの協力は不可能であるとの立場を通報した。米国は、この答信を日本公使に送るという親切さも忘れなかった。11月末以後、めまぐるしく展開された「文書伝達者」ハルバートと閔公使の対米交渉は、結局米国の非協力でなんの成果もあげられなかった。


 ・・・(以下略)
資料2------------------------------
三 勒約無効宣言と共同保護:1906年1月29日国書

 1906年1月29日に作成された文書は、光武帝が列強の共同保護を要請する意図を公にした最初の文書である。この文書は海外に密送され、1年後に新聞報道によって国内に伝えられた。だが、文書作成経緯と伝達過程、宣言の内容などを通じて確認できる皇帝の帝権守護の外交交渉は、まだ明らかにされていなかった。この文書は『大韓毎日申報』1907年1月16日付に次のように報道された。

1、1905年1月17日、日本の使節と朴斉純が締約した五条約は、皇帝は認可も押印もされていない。
2、皇帝は、この条約を日本が勝手に頒布することに反対された。
3、皇帝は、独立帝権を一毫も他国に譲与されたことはない。
4、外交権における日本の勒約は根拠がないし、内治上の一件たりとも認准することはできない。
5、皇帝は、統監の来韓を許可されておらず、外国人が皇帝権を擅行することを寸毫も許されていない。
6、皇帝は、世界の各大国が韓国外交を5年間の期限付きで共同で保護することを願っておられる。
     光武10年1月29日
     国璽


 この文書が新聞に掲載された際「親書」と紹介されたが、次のような文書形式上の特徴をみれば親書と見なしがたい点がある。文書は「皇帝は…」というように三人称を用いている。親書や委任状では皇帝が自分をいつも「朕」として一人称を使っている。親書では皇帝自身が発信者であることを明示するとともに受信者を特定する。皇帝の意思であることを証明するため御璽を使い、ほとんどの場合「親署押鈴寳」という文字とともに皇帝の花押し御璽が押される。ところが、右の文書では発信者と受信者が明示されず、花押もなく大韓国璽のみがだけが押されている。…

・・・

 この国書は、皇帝の他の親書と切り離しても、それ自体として注目に値する意義のある文書である。とくに国書作成の意義はその作成時期に求められる。この文書は勒約が不法に締結されてから約2ヶ月目に作成された。慣用句を借りれば、五賊と日本公使が勝手に押した「印章の朱肉が乾かぬうちに」皇帝はこれが無効であることを宣言したのである。この文書は、光武帝が乙巳年11月18日の早朝に起きた事件をまったく認めていないことを明示している。…

資料3------------------------------
4 勒約無効、国際裁判所提訴の要請:1906年6月22日親書

 光武帝が1906年6月22日に作成して発送した親書は、乙巳勒約が国際法的に無効であることを立証するもっとも決定的な外交文書である。


・・・

 朕、大韓皇帝はハルバート氏を特別委員に任命し、我が国の帝国皇室と政府にかかわるすべての事項について英国、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリア、ハンガリー、イタリア、ベルギーおよび清国政府など各国と協議するよう委任した。この際ハルバート氏に親書を各国に伝達するようにさせており、各国皇帝と、大統領、君主陛下に対して、この親書で詳細に明らかにされているように、わが帝国が現在、当面している困難な状況を残らずに聞き入れてくれるよう望むものである。

 将来、われわれはこの件をオランダのハーグ万国裁判所に付しようとするものであり、これが公正に処理されるように各国政府は援助してくれることを願う。
  大韓開国515年6月22日
  1906年6月22日
 

 ハルバートを選んで特別委員に任命した理由は自明である。光武帝が結局、日本の主権侵害を国際裁判所に提訴し、国際公法によって解決する考えをもっていたのである。この密旨を忠実に履行するためには、9カ国の列強国家元首に対して当面の事態について「残らずに」十分協議ができる特命全権の委任をうけた外交官がいなくてはならない。皇帝が信頼するにたりる帝国官吏がいない状況で、外国との交渉であるという点を念頭においてハルバートを選んだのである。…

・・・(以下略)

資料4------------------------------

 …次はハルバートが伝達するために委任された親書の韓国語訳である。

 大韓国大皇帝は謹んで拝大ロシア大皇帝陛下に親書を差し上げます。
 貴国とわが国は長い間、数回にわたって厚い友誼を受けて参りました。現在、わが国が困難な時期に直面しているので、すべからく正義の友誼をもって助力してくださるものと期待しております。


 日本がわが国に対して不義を恣行して、1905年11月18日に、勒約を強制締結しました。このことが強制的に行われた点については、3つの証拠があります。
 第1に、わが政府の大臣が調印したとされるものは、真に正当なものではなく、脅迫を受けて強制的に行われたものであり
 第2に、朕は政府に対して調印を許可したことがなく、
 第3に、政府会議について云々しているが、国法に依拠せずに会議を開いたものであり、日本人が大臣を強制監禁して会議を開いたものであります。

 状況がこうであるため、いわゆる条約が成立というのは、公法に反するため、当然、無効であります。
 朕が申し上げたいのは、いかなる場合においても断じて応諾しなかったということであります。今回の不法条約によって国体が傷つけられました。ゆえに将来、朕がこの条約を応諾したと主張することがあっても、願わくは陛下におかれては信じたり聞き入れたりせず、それが根拠のないことをご承知願います。

 朕は、堂々とした独立国家がこのような不義で国体が傷つけられたので、願わくは陛下におかれてはただちに公使館を以前のようにわが国に再設置されるよう望みます。さもなくば、わが国が今後この事件をオランダのハーグ万国裁判所に公判を付しようとする際に、わが国に公使館を設置することによって、わが国の独立を保全できるよう特別に留意してくださることを望みます。これは公法上、真に当然なことでしょう。願わくは、陛下におかれては格別の関心を寄せられるよう期待します。


 この件の詳細な内容は、朕の特別委員であるハルバートに下問してくだされば、すべて解明してくれるだろうし、玉璽を押して保証します。
 陛下の皇室と臣民が永遠に天のご加護がありますよう、厳かに祈ります。併せてご聖体の平安を希求いたします。
   大韓開国515年6月22日
   1906年6月22日
                             漢城において、李熙・謹白
   御璽

 この文書の書誌的な特徴と真偽を検討してみる。この二つの文書に使用された印章はすべて「皇帝御璽」の文字が刻まれた御璽である。この印章は「寳印符信総数」に登録された御璽ではない。また「親署押鈴寳」という文字がない。したがって、皇帝の花押もなく、御璽だけが押されているのである。すなわち、ハルバートに秘密に渡された外交文書には未登録印章が使われ、花押がない。こうした形式上の問題は、それらの文書がはたして光武帝が作成したものかどうかを疑わせる。だが、「寳印符信総数」に登録された印章は、勅令や法律、詔勅などのように、内政にかかわる法令を皇帝が裁可する際に使われた花押と御璽である
。…

 ・・・(以下略)
  

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/"に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に変えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。

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大韓帝国皇帝高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件

2014年02月17日 | 国際・政治
 最近日本では、嘆かわしいことに、民族的マイノリティ、特に在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチや差別落書きなどが、後を絶たない状況のようである。安倍政権の強硬路線によって、靖国参拝問題や「従軍慰安婦」問題、さらには竹島をめぐる領土問題や「安重根」記念館問題など、歴史認識に関わる問題での対立が深まり、それを背景として、営利を目的とした週刊誌などのメディアが、扇情的な報道を繰り返し、次々に出版される著作物が「嫌韓」「反韓」「憎韓」などをかき立てて、民族差別を煽っているからであろう。朝鮮学校の高校無償化法からの排除など、国や自治体の決定も、人々の差別・排除意識を助長してしまっていると思う。

 相変わらず、日本の「従軍慰安婦」問題など、過去の不都合な事実をなかったことにしようとする主張が繰り返されているが、そうした主張は、世界では通用しないし、日本の孤立化を招くだけであろう。日韓や日中の関係改善のためには、真摯に過去に向き合い、共通の歴史認識をもとめて協力するしかないのだと思う。

 ここで取り上げるのは、以前にも取り上げたことがあるが、李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃、明成皇后(閔妃)殺害事件である。昔の事件であるとはいえ、当時の日本の指導者層の韓国に対する所業が、いかに理不尽なものであったかを思い知らされる事件である。伊藤博文を殺害した安重根も、「伊藤博文の罪状15ヶ条」の最初にこの事件を取り上げている。こうした事実をなかったことにして、「嫌韓」・
「憎韓」「反韓」の流れに沿って、「愛国心」を語る政権の危うさを指摘せざるを得ない。

 下記は、いずれも明成皇后(閔妃)殺害事件に関わる日本人関係者の文章であり、まさに動かぬ証拠であるといえる。事件の背景に、興宣大院君と閔妃の権力闘争があったとはいえ、他国の王妃を殺害するなどということは許されることではない。「日本の韓国併合」山辺健太郎(太平出版社)からの抜粋である

---------------------------------
                  Ⅶ 閔妃事件について

1 閔妃事件とは何か

 閔妃事件というのは、1895(明治28)年10月8日、一団の日本軍隊と日本の民間人がソウルにあった朝鮮王宮に侵入して、王妃を殺した事件である。

 ・・・

 そこで私は、まず事件当日のもようを、当時ソウル駐在の一等領事内田定槌の談話から再現させることにしよう。

 私ハ其ノ頃領事館ニ住ンデ居ツタガ、或ル朝(明治28年10月8日)ケタタマシイ銃声ニ眠リヲ破ラレタ。窓ヲ開クト未ダ夜ハ明ケ切ラヌ館内ニハ警察署ガアツタノデ、何事ガ起ツタカト巡査ニ訊イタガ、知ラヌト言フ。荻原警部ヲ起シニ行ツタガ、其ノ室ニ居ラヌ。厩舎ヘ行クト私ノ馬ガ見エナイ。ドウシタカトイ巡査ニ訊クト、警部ガ乗ツテ行キマシタト言フ。其ノ中ニ銃声ハ止ンダ。近クニハ新納少佐ト云フ海軍ノ公使館附武官ガ居ツタノデ、ソコヘ行ツテ訊イテ見タガ、何ノコトカ分ラヌト言フ。
 又当時ノ外交官補日置益君モ近クニ居ツタガ、矢張リチツトモ知ラヌト言フ。

 ソウシテ居ル中ニ、血刀ヲ提ゲタ連中ガ帰ツテ来テ新納少佐ノ所ヘ報告ニ行ツタ。私モソコヘ行ツテ話ヲ聞イタガ、其ノ連中ハ昨夜王城ニ侵入シテ王妃ヲ殺シタノダト云フ。ドウシテ行ツタノダト尋ネルト、最初ハ大院君(国王ノ父デ王妃トハ犬猿ノ間柄デアッタ人)ガ朝鮮人ヲ率ヰテ王城ニ侵入シ王妃ヲ殺ス筈ダッタ。ソレニ就テハ前カラ種々策謀ガアツタ。例ノ岡本柳之助ガ参謀デ大院君ヲ引ツ張リ出スノガ一番宜シカラウト云フコトニナリ、岡本ガ大院君ニ勧メテ行ツタ。其ノ時一緒ニ勧メニ行ツタノガ領事官補ノ堀口(九万一)君。同君ハ朝鮮語ハ出来ナイケレトモ漢文ニ通ジ文章ガ達者ナノデ筆談ヲシタ。其ノ結果大院君モソレデハ君側ノ奸ヲ倒ス為ニ起タウト承諾シタ。最初ノ計画デハ夜半ニ日本ノ兵隊ト警察官ガ大院君ヲ先頭ニ立テ、王城ニ入リ朝鮮人ガ王妃ヲ殺害スル筈デアツタガ、大院君ハ仲々出テコナイ。京城郊外ノ大院君ノ邸ヘ岡本ヤ堀口ガ夜中ニ行ツテ促ソウトシタガ、大院君ハ仲々出テコナイ愚図々々シテ居ルト夜ガ明ケ始メタノデ、多勢ノ日本人ノ壮士等モ一緒ニナッテ無理矢理ニ大院君ヲ引ッ張リダシ真先ニ守リ立テテ王城ニ向ツタ。王城侵入ノ際護衛兵ガ発砲シテ抵抗シタケレトモ日本兵ガ之ヲ追ヒ散ラシ城内ニ入ツタ。


 サウ云フ死骸ノ始末ニ付テハ関係人カラ後デ聞イタノダガ、兎ニ角私ハ非常ニ困ツタ。公使ニ会ツテ話ヲ聞ケバ万事分ルダラウト思ツテ公使館ヘ出掛ケタカ、公使ハ、一寸待ツテ呉レト云フコトデ直グニ会ハナイ。公使ハ2階ニ居リ、私ハ下ノ待合室デ待ツテ居ルト、2階デ頻リニ鐘ノ音ガスル。妙ナコトダト思ツテ居ルト、20分バカリシテ2階ヘ通サレタ。スルト公使ハ床ニ不動明王ノ像ヲ飾ツテ灯明ヲ上ゲテ拝ンデ居ル。ソコデ私ハ「大変ナ騒ギニナリマシタネ」ト言フト、公使ハ「イヤ是デ朝鮮モ愈々日本ノモノニナツタ。モウ安心ダ」ト言フ。ソレデ私ハ「併シ是ハ大変ナコトデス。日本人ガ血刀ヲ提ゲテ白昼公然京城ノ街ヲ歩ツテ居ルノヲ朝鮮人ハ素ヨリ外国人モ見タニ相違ナイカラ日本人ガ此事変ニ関係シタコトハ隠スコトハ出来マセヌ。併シ日本ノ兵隊ヤ警察官、公使館員、領事館員等ガ之ニ関係シタコトハドウニカシテ隠シタイト思フガ、ソレニ就テハドウ云フ方法ヲ講ジタラ宜イデセウ」ト言ツタガ、公使ハ「俺モ今ソレヲ考ヘテ居ルノダ」ト言ハレタ。 

 公使ト話シテ居ル中ニ露国公使ガ血眼ニナツテヤツテ来タノデ私ハ席ヲ外シタガ、露国公使ガ帰ツテカラ再ビ2階ヘ上ツテ見ルト、公使ハ非常ニ悄レテシマツテ居ル。ソコデ私ハ、日本人ガ関係シタコトダケハ何トシテモ隠蔽シナケレバナルマイト繰返シ言ツテ公使ト別レタガ、偖テソレカラドウシタラ宜シイカ考ヘガ付カヌ。外務省ヘ知ラセヨウト思ツテモ電信ハ公使館ノ命令デ差止メラレテシマツテ居ル。公使館以外ノ者ハ一切電報ヲ打ツコトヲ差止メラレテシマツタノデ私モ無論電信ヲ出スコトハ出来ナイ。後デ聞ケバ「昨夜王城ニ変アリ王妃行衛ヲ知ラズ」ト云フ電報ヲ公使館カラ外務省ヘ送ツタサウダガ、ソレ切リ止メテシマツタノデ私ハドウスルコトモ出来ナカツタ。

 其ノ中ニ堀口君ヤ警部ガ帰ツテ来タノデ堀口君ニ「君ハ大変ナコトヲヤッタガ、アトハドウスル積リカ、僕ニハ此ノ始末ハ出来ナイ」ト言ツタラ、何トモ答ヘナイデ黙ツテ居ル。矢張リドウシテ宜シノカ分カラナイノダ。ソコデ私ハ「僕ノ考ヘデハ是ハドウシテモ日本政府ニ始末ヲ委スヨリ他ハナイ。併シソレニハ日本ノ外務省ガ事実ヲ能ク知ラネバナラヌトコロガ外務省カラ何ヲ言ツテ来テモ公使館カラハ返事モヤラナイヨウナ状態デハ外務省デモ真相ヲ掴ミ得マイ。君ハ最初カラ事件ノ真相ヲ知ツテ居ルヨウダカラ、スッカリ其ノ始末ヲ書イテ本省ニ報告シテ呉レ」ト言ツタスルト堀口君ハ達筆ナノデ直グ長イ報告ヲ書イテ特使デアツタカ郵便デアツタカハハッキリ記憶シナイガ兎ニ角本省ニ送ツタ。

 其ノ話ヲシテ居ル間ニ、突然昨夜王城に変アリ云々ノ電報ガ来タノダ。併シソレカラ引続キ詳報ヲ何モ送ラナイノデ顛末ガ分ラナカツタガ、堀口君ノ報告書ガ行ツテ初メテ驚イテシマツタラシイ。ソレデ其ノ善後策ヲ講ズル為ニ小村政務局長ガ朝鮮ニ出張ヲ命ゼラレタノダ。

 私モ申訳ナイカラ進退伺ヒヲ出ソウト思フト小村局長ニ話シタラ、君ハ何モ関係ナイカラソンナコトヲスル必要ハナイト云フヤウナ訳デ出サナカツタ。小村局長ノ考ヘデハ、此ノ事件ハ京城デハ処分出来ナイカラ日本デ処分スルヨリ他ナイト云フコトニナリ、関係者ハ皆日本ヘ帰スコトニナツタ。公使館員モ軍人モ関係シタ者ハ皆召還シ、民間人ハ在留禁止、退韓ヲ命ズルコトニナツタガ、其ノ命令ヲ出スノハ領事タル私ガ言ヒ付カツタ。其ノ時在留禁止ヲ命ジタノハ47人アツタト思フガ、ソレ等ノ人間ヲ一々呼出シテ命令ヲ渡シタ。トコロガ皆大イニ其ノ時喜ンデ居タ。

 殊ニ岡本柳之助トハ、私ハ斯ウ云ウコトヲシタノタカラドンナ処分ヲ受ケテモ仕方ナイノニ、在留禁止デ済メバ非常ニ有難イト言ツテ喜ビ、其ノ他ノ壮士連モ皆有難ク在留禁止命令ヲ御受ケシタ。安藤謙蔵氏ナトモ矢張リ此壮士連ノ首領株ダツタガ、ソレ等ノ連中ハ皆公使館ノ人々、陸軍々人等ト一緒ニ京城ヲ立ツテ仁川カラ船ニ乗ツタ。船ノ名前ハ忘レタガ、皆大イニ手柄ヲ立テテ、勲章デモ貰ヘル積リダツタラウカ喜ビ勇ンデ内地ヘ向ツタ。トコロガ宇品ヘ着ヤ否ヤ皆縛ラレテ牢ニ入レラレ、広島地方裁判所テ裁判ヲ受ケルコトノニナツタ。

 広島デ王妃殺害事件ノ公判ガ進行シテ居ル間ニ、朝鮮国王ハ王宮ヲ脱出シテ露国公使館ニ逃ゲ込ンダ。(注=露館播遷ハ29年2月11日、三浦等の免訴釈放は1月20日。故にこの談話は事実とちがう)ソレハ露国公使館員ガ朝鮮宮内官ト通牒シテヤツタ仕事デアツタ。ソレカラ又「アメリカ」ノ宣教師ト朝鮮人ガ一緒ニナツテ日本党ノ人々ヲ暗殺スル陰謀ヲ企テタガ、ソレハ朝鮮政府ノ当局ガ皆犯人ヲ逮捕シ処分シテシマツタ。サウ云フ事件ガ次カラ次ニ起ツタノデ日本ノ方デモ、露国人ヤ米国人ガソンナ陰謀ヲ企テル空気中ニ於テハ日本人ノ犯罪ニ限リ厳重ニ検挙スル政策ヲ執ル必要ハナイト云フヤウナ論議ガ起ツテ来タ。ソレニ又一方朝鮮当局ノ方デモ王妃殺害事件ノ審理ヲ遂ゲタル処王妃殺害者ハ朝鮮人ノ何某ト決定シ既ニ死刑ニ処セラレタカラ、日本ノ裁判所ガ本件ヲ審理スル必要ハナイト云フ理由デ被告人ハ一同無罪放免ニ決定シタ。

 併シ当時私ハ非常ニ苦シイ立場ニ在ツタ。ソレト云フノハ領事タル私ハ広島地方裁判所ノ嘱託ニヨリ予審判事ノ職ヲ勤メナケレバナラナカツタ。本件ノ関係人ハ公使館員初メ壮士ノ連中モ皆平素私ノ知ツテ居ル人々デ、ソレ等ノ人々ノ犯行ヲ一々調査シナケレバナラヌノニハ私モ大変困ツタ。併シ領事館巡査ノ中一番朝鮮語ガ上手デ最初カラ事件ニ関係シテ居ツタ渡辺応次郎巡査ダケハ内地ヘ帰サナカツタノデ、広島裁判所ノ依頼ニ依ツテ取調ヲスル時ニハ、其ノ巡査ニ命シ王城内ノ実地ヲ調ベサセテ報告モアル。


 要スルニ、表面ハ朝鮮人ガ王妃ヲ殺シタコトニナツテ居ルケレドモ、実際ハ右ニ述ベタヤウナ次第デアツタ。

 ・・・

---------------------------------
2 事件の真相

 以上のことはこれまでだいたい知られていたことである。その奥にある真相はまだ知られていない。私はつぎにこの事件についていままで知られていない2~3の事実をここに紹介しよう。当時ソウルにいた内田領事が外務省に送った報告書のなかで、この事件の善後策についてつぎのようにいっている。

 事変後既ニ数日ヲ経テ日本人ノ之ニ関係セシコト最早隠レナキ事実ニ相成候ニモ拘ハラス尚当館ニ於テ公然其取調ニ着手不致候テハ外国人ニ対シテモ甚タ不体裁ニ付キ10月12日ヨ至リ先ツ警察官ヲシテ関係者ノ口述ヲ取ラシムルコトニ致候処杉村書記官ハ其意ヲ国友重章ニ伝ヘ関係者中甘ンシテ我警察ノ取調ヲ受クヘキ者ノ姓名ヲ選出セシメタルニ即チ別紙第5号及第6号写ノ通リ申出テ尚取調ヲ受ケタル節ハ別紙7号ノ通リ同一ノ申立ヲ致スヘキ様彼等ノ間ニ申合ハセシメタリ

 要するに、世間体がわるいから見せかけだけの取調べをやるが、そのときの陳述内容は、「同一の申立」をするように「申合」をやらせた、というのである。ここにいう別紙第5号とは、杉村書記官からの要請にたいして、国友重章が差し出した手紙で、このなかにすすんで兇行者であることを名のりでる予定になった者の氏名をあげている。第6号は兇行者として、藤勝顕の名を追加しただけであった。
 事件の真相を知るうえにもたいせつな資料だと思うので、全文引用しておく。


別紙第5号
 拝啓仕候先刻之御話ニ従ヒ色々評議之末別紙ノ人名ハ何時御召喚有之候共差支無之候間左様御承知可被下候尚願クハ明日直ニ御開始有之候様希望致候先以書中草々如此御座候                     頓首
  10月11日夜                             国友重章
 杉村 清殿


 ここにいう別紙の人名とは次の者であった。すなわち、
  国友重章、月成光、広田止善、前田俊蔵、平山岩彦、隅部米吉、沢村雅夫、武田範之、吉田友吉、片野猛雄、大嵜正吉
 以上11人に藤が加わり12人になったわけである。
 領事の命令で、「同一申立」をするためにやった「申合」の内容というのは、つぎのようなもので実に人を馬鹿にしたものであった。


一、私交上○○君ノ依頼ヲ受ケテ随行入闕シタル者ナリ而シテ右ハ全ク自己ノ意
   思ニ出テタリ
一、依頼ノ趣意ハ単ニ随行ト云フコトナリシモ○○君ノ真意ハ途中安心ノ為メ同行
   ヲモトメシコトナラン我々モ亦之ヲ黙諾シテ応ゼシコトナリ
一、途中宮門ニ至ル迄ハ何事も無カリシガ光化門前ニ至リテ朝鮮兵相互ノ小戦興
   レリ右小戦ハ蓋シ訓練隊ガ強テ入闕セントシタルヲ侍衛隊又ハ宮中巡査ハ    中ヨリ之ヲ拒ミ終ニ争戦ニ及ヒタルコトト思考セリ是時我々ハ唯○○君ニ危害   ノ及ハザランコトニノミ注意セリ
一、○○君入闕ノ趣意ハ全ク榜文ト同様ノ事ナ館リシ而シテ我々ハ之ヲ黙諾シテ
   随行シタルモノナリ
一、○○君同行ノ時朝鮮人モ多数随行シ其中日本服ヲ着シタル朝鮮人モ大分見
   受ケタリ
一、宮内ニ於テ騒擾興リ之ガ為メニ2、3ノ死傷者アルヲ目撃シタリ然レトモ右ハ全
   ク韓服若クハ和服ノ朝鮮人等之ヲ為セシコトニテ且ツ現ニ朝鮮人ノ抜刀シテ
   人ヲ殺害スルヲ見タルモノアリ尤モ未明及ビ困難ノ際ナレバ明白ニ之ヲ認ム
   ルヲ得サリシ
一、我々ノ内ニモ自防及大院君防衛ノ為メ抜刀シタルモノ見受ケタルモ其誰タルヲ
   詳ニセス天明ノ後チ見物ノ為メカ多数ノ日本人及洋人ヲ見受ケタリ但シ某人
   分ハ詳ナラス
一、大院君無事入闕シ且ツ騒擾モ鎮静ニ帰シタルニ付同君ニ別レヲ告ケテ退闕
   セリ


 つまり、取調べる方から命令して、11人の容疑者がみな右のような主旨の陳述をする「申合」をしたわけである。
 
 ・・・

 井上理事の報告にある「王妃殺害ノ下手者ト見込寺崎某」は一名高橋源次といい、この男が閔妃を殺した下手人であることは、本人のつぎの手記もこれを認めている。

 拝呈仕候昨夜来失敬仕候陳者今朝ハ粗暴之挙止実以慙愧之至ニ御座候      宮中口吟
  国家衰亡兆無理  満朝真無一忠臣
  宮中暗澹雲深処  不斬讎敵斬美人
 実ニ面目次第モ無之只今迄欝憂罷在候処今一友ノ話ニ依レハ或ハ王妃ナリト然共疑念ニ堪ヘス候故此儀真否御承知ニ御座候ハバ御一報被成下度奉万願候
  10月8日                             高橋源次
                                        再拝
  鈴木重元様
       呈梧下


 ここにいう「不斬讎敵斬美人」というのは、後宮の一室におしいり、戸をこじあけて2人の若い美人を引きだして斬殺したが、その2人の年齢が閔妃にしては若すぎるように見えたことと、だれも閔妃の顔を知らなかったので、一時は、人違いか思った、このことをさすのだろう。…

・・・(以下略)
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3 事件と日本軍隊

 ・・・

 …当時韓国政府の顧問をしていた石塚英蔵から末松法制局長官にあてた報告書によると、このゴロツキどもは閔妃の死体を凌辱したらしい。
 その報告書には「王妃ヲ引キ出シ23ケ処刃傷ニ及ヒ且ツ裸体トシ局部検査(可笑又可怒)ヲ為シ最後ニ油ヲ注キ焼失セル等誠ニ之ヲ筆ニスルニ忍ヒサルナリ其他宮内大臣ハ頗ル惨酷ナル方法ヲ以テ殺害シタリト云フ右ハ士官モ手伝ヘタレ共主トシテ兵士外日本人ノ所為ニ係ルモノノ如シ」と書いてある。 
 このように、閔妃事件というのは、日本帝国主義が朝鮮で犯した罪悪のうちもっともひどいものであった。


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統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造?

2014年02月09日 | 国際・政治
 戦前・戦中、日本には「言論の自由」や「表現の自由」がほとんどなかったという。軍部が、政治、経済、文化、教育、社会構造などの国民生活のあらゆる分野で絶大な影響力をもったからであろう。軍主導で戦争に突き進む日本を、国民はどうすることもできなかった。正確な情報があたえられなかったばかりでなく、厳しい取り締まりがあったからである。だから、たとえ批判的な考えを持っていても、現在のように、簡単に戦争反対の声をあげられるような状況ではなかったという。国家戦略として教育の統制支配を強め、「忠君愛国」の教育を徹底することによって、軍国日本に都合のいい国民をつくり出していたことも、そうした状況との関係で、忘れてはならないことだと思う。

 その軍主導の政治や教育に、「鬼畜米英」や中国人蔑視、朝鮮人蔑視の思想がからんで、日本は人命軽視の無謀な戦争を続け、第2次世界大戦では、国民自ら大きな被害を被ったばかりでなく、中国や韓国など諸外国に大変な被害を与えて、無条件降伏した。そして、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の支配下に入ることになった。

 ところが、当初、日本の民主化に取り組んだGHQが、米ソ冷戦の激化や中華人民共和国の誕生、朝鮮戦争勃発などに影響されて、民主化方針を変更し、旧指導者層を復活させる、戦争責任者の公職追放解除、警察予備隊の創設(再軍備・旧日本軍軍人の採用)、レッドパージ、公安警察創設(政治警察復活)など、「逆コース」といわれる政策をとった。
 その結果、戦前・戦中の指導者層が、政権中枢や 自衛隊、経済界、学界その他に返り咲いて、再び力を発揮するようになった。そうしたことが、先の大戦における日本の戦争行為を正当化する動きに影響を与えているのだろうと、私は思う。また、日本人自身による戦争責任の追及がほとんどなされなかった理由や、謝罪・補償を含む戦後処理が充分なされなかった理由も、そうしたGHQの「逆コース」といわれる政策の影響抜きには、考えられないことではないかと思うのである。 

 広島には『二度とあやまちは繰り返しませんから』と書かれた石碑がある。でも、残念ながら日本の戦争における「あやまち」が何であったのか、日本では共有されていない。だからいまだに戦争の問題を引き摺っているといえる。また、歴史認識をめぐる近隣諸国との対立の原因も、その辺にあるのだろうと考えるのである。

 特に日韓関係は、安重根記念館や石碑設置問題に限らず、竹島問題、従軍慰安婦問題、首相の靖国参拝問題等々で、このところ悪化するばかりである。そして、それらは、いろいろな面で先の大戦や日本の植民地支配と関わる。だから、ここでは、「日韓協約と韓国併合 朝鮮植民地支配の合法性を問う」海野福寿編(明石書店)から、衝撃的な記述部分を抜粋する。こうした事実の主張にもきちんと耳を傾け、早く関係改善の糸口を見出したいものだと思うからである。
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          Ⅵ 統監府の大韓帝国宝印奪取と皇帝署名の偽造

 まえがき

 1992年5月12日、私はソウル大学校奎章閣図書管理室長として、「乙巳条約」の原文が形式上問題が多く、純宗皇帝の名で発令された重要な諸法令の中に署名が偽造されたものが多いという事実を公開した。この発表は、当時すでに提起されていた「従軍慰安婦」問題と関連して非常な関心を集め、日本の大韓帝国国権侵奪の不法、無効を新たに確認する契機となった。発表後1ヶ月が経った6月13日、北韓(北朝鮮)外交部は、金日成総合大学の歴史学教授らが「『乙巳条約』と『丁未条約』が条約の合法性を保証できる初歩的なプロセスも踏んでいない証拠を『皇城新聞』から見付けた」と発表した。


 発表に対する反応は遠くヨーロッパからも飛んできた。ハンガリー貿易大学(Hungarian College for Foreign Trade)で韓国史を教えるロリー・フェンドラー(KarolyFendler)氏が、オーストリア・ハンガリー帝国文書館(Archives of the Austro-Hungarian Empire)にも関連資料が所蔵されているというニュースを『コリア・ヘラルド』紙に知らせてきた。該当文書は「乙巳条約」当時、韓国駐在ドイツ外交官だったフォン・ザルデルン(vonSaldern)が、事件発生後、3日目にドイツの首相フルスト・フォン・ブロウ(Furst vonBulow)に送った報告書で、ここには次のような事実が記されていると知らせてきた。つまり高宗皇帝が伊藤博文日本大使の提案に対して、最後まで「駄目だ」を貫き、外部大臣の朴斉純も皇帝の前で自分は条約に署名した覚えはないと語り、皇帝の側近の一人がザルデルンに、数分前に、条約文書の外部大臣捺印は日本公使館の職員が官印を強制的に奪って押したものだと語ったことなどを明らかにしているというのである。


 翌年の1993年7月31日には、日本で結成された「国際シンポジウム実行委員会」が、「『韓国併合』はいかになされたか」という主題で国際シンポジウムを開催した。この会議を通じて韓国、北韓、日本の三カ国の学者がはじめて一緒に集まって互いの見解を交換した。

 「乙巳条約」をはじめ韓・日間の重要条約の問題点に対する関心は、1993年10月24日に金基奭教授が高宗皇帝の親書を発見したことで一層高まった。金教授は米国ニューヨーク・コロンビア大学の貴重図書館および手稿図書館で、高宗皇帝が9カ国の修好国国家元首に「乙巳条約」の無効性を解明しながら、大韓帝国の国権回復に協力を要請する親書9通と併せてハルバートを特使に任命する委任状などを発見し、これを公開した。さらに1994年3月1日付の「東亜日報」に報道された、高宗皇帝のもう一つの親書に関する資料も大変重要な内容を含んでいる。この資料は、退位させられた高宗皇帝が1914年12月22日にドイツ皇帝にあてた親書を、北京駐在ドイツ公使のヒンツェ(Hintze)が受け取り、ドイツ語に翻訳したものだ。資料発掘者の鄭用大氏は、親書の原本がドイツのどこかにあるものと推測したが、いずれにせよこの資料は、高宗皇帝が退位させられた後も引き続き、国権回復のための外交闘争を展開させていたという証拠として、大変重要な意味を持っている。


 資料の内容のうち、自分が使っていた帝国の国璽・御璽などの実印が、今は全て敵の手中に収まり、この手紙ではそれらを使うことができず、自分が日常的に使う印章を押して証明するしかないと明らかにしているのは、この論文で筆者が明らかにしようとする皇帝の署名行為の事実と関連して、たいへん注目される内容である。

 日本の大韓帝国国権侵奪の不法性は、以上のように関連資料が引き続き発見、発掘されることで、これ以上否定できなくなった。今まで明らかにされた事実だけにもとづいても、彼らの行為は不法というより犯罪として規定しなければならない状況だ。遅きに失した感はあるが、学者らが使命感をもってこれに対する徹底した真相究明を行うならば、より詳細な事実が明らかになるだろう。

 この論文は、2年前に筆者の責任の下に発表した「乙巳条約」の文書の形式上の欠陥および純宗皇帝の署名偽造に関する諸問題を整理することを目的としている。私はこの間、すでにこの問題に関する発表を2度行った。1993年3月23日に韓日文化交流基金の第25回韓日文化講座で、「純宗勅令の偽造署名の発見経緯とその意義」と題して最初の発表を行い、同年7月に東京国際シンポジウムでも「『乙巳条約』、『丁未条約』の法的欠陥と道徳性問題」と題した論文を準備して参加した。しかし、2度にわたる発表は全て整理段階で行ったものであり、満足できるものではなかった。この間、多くの学者の見解を聞き、また前に紹介したように金基奭教授、鄭用大氏らによって新しい資料が発見されたことで、私の見解はより一層、強い裏付けを得た。未だ確認しなければならない事がたくさん残っているが、当初、捕捉された日本側の犯罪的不法行為は明白に指摘できるようになり、この間の調査を総括的に整理する意味でこの論文を新たに書いた。


 侵略者が侵略対象国の国璽もしくは御璽を奪い、重要公文書に勝手に使用して、法令の発令者である皇帝の署名を偽造した事実は、法令自体の効力喪失はもちろん、当然なこととして歴史の審判を受けるべき犯罪行為である。このような行為は、日本が「乙巳条約」に大韓帝国の外交権を剥奪した後、ふたたび「丁未条約」を通じて内政権を奪う過程で犯したものである。したがって、これに対する解明は、「乙巳条約」の不法性に対する指摘とともに、日本帝国の大韓帝国「併合」は成立しなかったという明白な証拠となるだろう。

 この論文は、国璽・御璽奪取の状況と、統監府文書課職員らによる皇帝の署名偽造の恣行過程を明らかにするだろう。統監がこうした犯罪行為の主役だったならば、近代韓・日関係史に対する認識は、現在と根本的に変えねばならないだろう。


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             3 純宗皇帝署名の偽造と統監府

2 署名偽造の実状

 1907年10月、統監府が「丁未条約」の実行を目的に編制を改編した後、大韓帝国の各種法令類の制定は、次のような過程を経て達成されるようになった。まず、当時該当各部大臣官房室が起案して(各部起案用紙使用)内閣の書記長に渡すと、内閣では皇帝に決裁を申請する文案を作成し、これを添付して(内閣起案用紙使用)統監府に渡す。「丁未条約」に従い、全ての法令制定は事前に統監の承認を受けるようになっていたからだ。統監府に渡った文書は、統監官房文書課が受け付け、統監に見せ、彼の”承認”を得るという手続きを踏む。この手続きが終われば該当法令は事実上確定したのも同じだが、形式的には該当文書を内閣が純宗皇帝に提出し、御名の親署決裁を受けるという順序が残っている。問題の署名偽造は、まさにこの最終過程を省略しながらしでかされたのである


 これについての具体的な検討のため、まず、当時通用していた大韓帝国の立法関係公文書形式についての考察から始めてみることにする。
 朝鮮王朝は1894年11月の甲午改革の時、朝廷の各種公文書形式を大きく変えた。歴代にわたって使用してきた『大典通編』のものを捨てて新制に変えた。その中で、国王が命令、制定するものとして勅令、法律、詔勅などがあった。この法令形式は全て1910年8月に大韓帝国が日本に強制併合されるまで存続した。
 現在、ソウル大学校奎章閣に所蔵されている1894~1910年間の3種類の諸法例の件数は、次の表3のとおりである。皇帝の署名が偽造されたものは、1907年~1908年度の分60件に達する。(表3略)


 ・・・(以下略)

3 文書課と署名偽造

 それでは、皇帝の署名偽造の犯人たちは誰か。前述の偽造署名例示には、互いに異なる筆跡が5,6個もある。また、偽造が事務的に処理されたようであることもあらわになった。統監府の勢いが凄まじかった時期に5、6人が集団で回し合いながら大韓帝国皇帝の署名を偽造できる者たちとは、統監府の日本人官吏以外に想像できる対象はいない。当時の法令制定の手続きを見ても、統監府の文書処理および管理制度の整備過程および状況を見ても、統監府の官吏たちが主犯であることは疑う余地がない。


 大韓帝国の内閣側もこれを手助けしただろうが、それも文書担当責任職にすでに日本人が任命されている状態にあったので、結局は統監府がやったことに変わりはない。制度的、現実的状況から見て、統監府の統監の黙認の下に、傘下の文書課職員たちが内閣と各部に配属されている日本人書記官の助けを借りて署名を偽造したことは疑う余地がない。しかし、私はこれをもう少し確実に明らかにするために、上の各種偽造署名筆跡のうちの一つを書いた人間を捜すことにした。偽造事例のうち、1907年12月23日付の(7)~(28)の22の勅令に加えられた偽造署名の筆跡の主人公を捜すことにしたのである。

 調査対象にあがったこの筆跡は、問題の516個の筆跡のうち、最も達筆だと言える。私はこの点に留意し、筆跡の主人公を追跡してみたが、私が嫌疑をかけた人物は前間恭作だった。彼が達筆で多くの筆跡を残したことが、私が彼に注目する契機と言えば契機だったかも知れない。また、彼の生涯に関する既存の一つの履歴書的整理が私の調査に大きな助けとなった。著名な日本の韓国史研究家末松保和教授が前間の遺稿『古鮮冊譜』の完刊(1957年)に付けた「前間先生小伝」が、彼の行跡追跡に大きな助けとなった。


 前間恭作は開港以後、韓国学の研究に従事した日本人第1世代に属する。彼は韓国の書誌、言語、文学、歴史などに関する多くの著書と論文を残したが、とくに肉筆で書かれた原稿として影印出版して出した著書が多く、日本人学者の間で賞賛されていた。私が彼に疑いを持つようになったのは、彼の次のような特別の履歴と、達筆の所持者という二つの事実が合わさっていた。彼は韓国学関係の著述を本格的に出す前に、日本公使館の通訳官として活動していた際、初代統監伊藤博文の側近、腹心となって、統監府の文書課にも深く関与した履歴を持っていた。そして、彼が「乙巳条約」の不法締結過程に大変活躍したということも、既存の研究で、すでに明らかにされていた。したがって、彼に対する疑いを持つのは当然だった。
それではまず彼の履歴書を見てみることにする
。…

 ・・・(以下略)
  
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