真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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”戦後レジームからの脱却”は歴史逆行、神州日本の復活

2021年02月24日 | 国際・政治

 日本は、いわゆる先進国で唯一、多くの国民の声を聞き入れることなく、いまだに法律婚の条件に夫婦同姓を義務付けています。その理由は、夫婦別姓を認めると”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”ということのようですが、理解できません。それでは日本以外の先進国では、夫婦の一体感が損なわれ、家族の絆が失われているということになってしまいます。また、今問題になっているのは、選択的夫婦別姓の問題であり、一体感や絆が心配であれば、同姓を選べばよいのです。
 だから、私は夫婦別姓を認めようとしない政権の考え方は、”夫婦の一体感を損なう”とか”家族の絆が失われる”というより、むしろ戦前の考え方をそのまま引き継いでいるからではないかと思うのです。現在もなお、日本を代表する政治家から、”日本は神州である”という言葉が飛び出すことからしても、天皇を中心とする日本民族の神聖性を支える「家族国家観」が背景にあるからではないかということです。

 徳富蘇峰は、「皇国日本の大道」の中で、
”…日本の国は肇国の当初から皇室がその中心となり、皇室を取巻く大なる氏族、小なる氏族、その氏族を取巻くもの総て此の如く、所謂姓(カバネ)の制度、すなわち氏族制度によって成立ってゐるものである。
 而して氏族制度は何を単位とするかと云へば、家を単位とすることは申す迄もない。然るに、此の如き国体的国家、家族的国家を所謂欧米諸国の個人を単位とする個人主義に変更せんとしたからして、それが日本社会の根底から引繰り返へらんとする状態を現出したることは、決して不思議ではなかった。…”(昭和16年:国立国会図書館デジタルコレクション
 と書いています。

 また、それは自民党政権中枢が、皇位継承資格を「皇統に属する男系の男子」に限定して、変えようとしない姿勢や、東京五輪・パラリンピック組織委員会の森前会長の女性蔑視発言、世界ジェンダー・ギャップ報告書対象の世界153カ国中、日本が121位という数字とも関係していると思います。言い換えれば、それらは「神州」日本の家族的国家観と無関係ではないということです。

 かつて、”戦後政治の総決算”をかかげた中曽根元総理は、現在の「日本国憲法」を「占領憲法」として受け入れず、「憲法改正の歌」なるものを作詞していますが、その五番には、”この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり マック憲法守れるは マ元帥の下僕なり 祖国の運命拓く者 興国の意気挙げなばや”とあります。
 また、「戦後レジームからの脱却」をかかげた安倍前総理は、選挙用のポスターなどに「日本をとり戻す」というキャッチコピーを繰り返し使いました。それは、アジア太平洋戦争における戦争指導層やその後継者と考え方を共有し、日本の戦争を正当化するとともに、戦前の日本を復活させようということなのだと思います。

 埼玉大学に長谷川三千子という名誉教授がいます。哲学者であり評論ですが、平成24年に、安倍元総理が会長をつとめる創生「日本」の総会で、「日本がよって立つ新しい理論は」と題して講演しています(今も、YouTubeで見ることができます)。その内容は、”日本は敗戦国のままでいいのか”という言葉に集約できるのではないかと思います。でも、”日本は敗戦国のままでいいのか”というような考え方は、戦時中苦しい生活を強いられた私の父母や、多くの一般国民の意識とは、根本的に異なるものだと思います。日本は決して敗戦国のままではなくて、敗戦をきっかけに、新しい日本に生まれ変わったと考えているからです。日本国憲法の精神を受け入れて、新たなあゆみを開始した日本人や戦後の日本を戦前の日本とは異なる日本として認識している日本人には、”敗戦国のままでいいのか”などというような発想はあり得ないと思います。

 前稿で、第一次安倍内閣の法務大臣・長勢甚遠氏が、”国民主権、基本的人権、平和主義(中略)この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならないんですよ”(創生「日本」東京研修会第三回:この発言の動画もYouTubeで見ることができます)と語ったことを取り上げましたが、政権に関わる人たちが、創生「日本」の組織の研修会などで学んでいるのは、おそらく、戦前の考え方を復活させ、「国家神道」に基づく新たな国家体制の実現を目的としているのだと思います。

 明治維新以来、政権が抵抗らしい抵抗を受けることなく、思いのままに国民を動かすことの出来た日本、さらに言えば、天皇の名のもとに、命を投げ出させる特攻攻撃さえも命令できた日本、また、何の見通しもないのに勝利を信じ、国民一体となって世界を相手に戦うことのできた日本。自民党政権中枢は、そうした日本をとり戻し、新しい皇国日本をつくろうとしているのではないかと思うのです。
 だから、自民党政権中枢が提起する憲法改正は、憲法第九条だけではなく、最終的には国民主権や基本的人権の改正をも意図しているのだろうと思います。そして、じわじわと外堀を埋めるようなかたちで、それが進んでいるように思います。 
 ”国民一人ひとりが血を流す覚悟抜きにこの国は護れない。皇室を奉じて来た日本だけが道義大国を目指す資格がある”と語ったのは、元防衛大臣の稲田朋美氏だということですが、明らかに世界の常識とは掛離れた考え方だろうと思います。

 また、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す”との綱領にかかげて活動する「神道政治連盟」の国会議員懇談会には、自民党を中心とする多くの政治家が加わっているようですが、その会長も安倍前総理です。したがって、政教分離の原則からして、自民党政権は、その存在自体がすでに憲法違反の疑いがあるような気がします。

 明治維新後の皇国日本の思想の淵源は、水戸学にあり、長州や薩摩が、その水戸学を利用して明治維新を成し遂げたと言っても過言ではないと思いますが、その水戸学は、欧米の学問とはほとんど無関係です。
 明治維新に関わった若者たちはもちろん、その後の日本の軍人たちの多くも、水戸の藤田東湖会沢正志斎の著書(「日本の戦争と水戸学(藤田東湖) NO1 」と「日本の戦争と水戸学(会沢正志斎) NO2」に一部抜粋があります)から、皇国日本の何たるかを学んだようですが、水戸学は古事記や日本書紀の神話に基づいている上に、当時の欧米の歴史学や法学、政治学その他の社会科学を踏まえていないことを見逃してはならないと思います。極論すれば、そのままでは世界に通用しないということです。
 日本の戦争を正当化したい気持はわからなくはありませんが、世界に通用しない古い学問である水戸学に依拠したような家族国家観に基づく政治や、戦前の皇国日本の復活を意図するような政治は、明らかに歴史の流れに逆行するものだと思います。

 下記は、「維新水戸学派の活躍」北條猛次郎(国書刊行会)から抜萃しましたが、現代の日本が、いまだに水戸学の影響下にあることを感じさせられます。アジア太平洋戦争中の著書なのです。
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 ・・・
 今や我帝国は大東亜戦によりて曠古の歴史的時代に到達した。此時に当りて水戸学の淵源を窮め大義名分、内外華夷の別を明にし、億兆一心殉国的精神を発揮し、以て皇道を世界に光被せんとするは刻下の一大急務といはざるべからず、茲に一言して読者に推奨すること此の如し。

  昭和十七年一月二日マニラ市完全占領の報に接し筆を措く。       川崎紫山  識 
ーーー
               維新水戸学派の活躍
                                    北條猛次郎著
   第一 水戸藩の立場(其一)
 明治維新を距ること茲に六十年。風餐(フウサン)雨饕(ロトウ)紛然たる当年の恩響(オンシュウ)は既に雲の如く、霧の如く消え去ってしまった。而して今やあらゆる史料と偽りなき告白とは、何の憚る所もなく端的に社会に展開されて、維新史研究の上に一段の機運を齎(モタラ)した。是れいはゆる、天定まりて人に勝つものである。吾人は此の境地からして、維新の創業を省察して見ようと思ふ。
 維新の事業たるや、素より一朝一夕に成った者ではない。又一国や一藩の力で遂行された者でもない。しかし創業の動機を作ったことと、諸藩に魁(サキガケ)けして活躍し、以て強烈な波動を与へたのは、何といっても水戸を第一に推さねばならぬと、吾人は信ずるものである。
 然るに従来の史家は「勝てば官軍」の諺通り、事、志と違って、虻蜂取らずに終った水戸の地位を、薩長両藩のお附合位に並べ置いて、左程に功績を認めないのは、吾人の最も遺憾に堪へない次第である。然しながら、崑岡(コンコウ)の壁はいつ迄も土中に埋没する者ではない。これ近来の史家が、俄に水戸藩史に着目するに至った所以であって、決して偶然の結果ではない。実に維新囘天の原動力は、水戸派の精神気魄の発揮であり、水戸学は勤王論の母胎であると称するも、敢て不可でないと思ふ。苟も維新史を説く者にして、水藩の事業を忽諸(コッショ)に附する者あらば、これ仏教徒が印度を忘れ、基督教徒がパレスチナを顧みざる如く、史筆に何等の権威もないではないか。
 由来薩長二藩が、慶應に入りて聯盟を組織するに至るまでには、幾多の波瀾曲折を繰り返した。殊にその間水戸と薩州、水戸と長州とは、互に共鳴して事に当ったが、当時は未だ幕府を見棄てる迄には至らなかった。而してその水薩、水長の関係たるや、実に純真な者であって、此(イササカ)の政略をも交へず、些の功利をも挟まず、只管稜々たる丹心を以て結合し、終始一貫国家の匡救(キョウキュウ)に尽瘁(ジンスイ)したのであった。この精神的結合は一に水戸学のちからであって、水戸学の酵母によって醞釀(ウンジョウ)された精神が、即ち最後に側面に力強く延長されて、薩長の握手となり、聯盟を堅めて維新改革といふ場面を現出した者である。此を思ひ彼を顧みれば、水戸藩は実に勤王論の木鐸(ボクタク)、復古事業の陳呉(チンゴ)といっても決して不当ではあるまいと思ふ。

 人性100年棺を蓋うて事定まる。明治昭代を迎へて、薩長水藩当年の性情思想と経過とをば識者は如何に評価したであらうか。先づ明治初葉の先覚者、外山正一博士の「藩閥の将来」に聴くことにしよう。
 水戸流の勤王心は、一種固陋なる性質を帯びたるものである。此の固陋なる勤王主義を公明正大なるものに能く改鋳したるは公明正大なる鹿児島人の力である。而して此の公明正大なる勤王主義を更に改鋳して、文明的のものとしたるは、日新文明の精神に富める山口人の賜物である。されば維新の鴻業は少なくとも、其の近因の一部に於ては、水戸の強堅にして無邪気なる勤王心と、鹿児島の公明正大の勤王心と、山口の文明的の勤労心と調和融合に由て成就したものと見做しても、決して不当ではないと思ふ。而して水戸の強堅にして無邪気なる勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち義公烈公が奨励せられたる教育の結果である。鹿児島の公明正大勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち其の賢明なる藩主殊に斉彬公の如き人が、大に奨励せられたる教育の結果である。山口の文明的勤王心は如何にして養成せられたるか、即ち古来其賢明なる藩主、近世にあっては、主として敬親公の奨励せられたる教育の結果に由るのである。王政復古の原動力としては、義公、烈公の養成せられたる勤王心は固より必要であった。然れども鹿児島、山口の賢明なる藩主が、嘉永、安政以前より洋学者を聘して、力めて其藩に西洋の知識を輸入したる事、及維新数年前よりして、其藩の俊秀少年を選抜して海外に留学せしめたるが如きは、王政復古、維新の大業をして、今日の如き完成を致さしむるには極めて大切な要素であったのである。嘉永・安政年間に薩長より非常なる人物が輩出したのは、固より異しむに足らぬのである。殊に山口藩より多数の人が輩出せるが如きは固より歴然たる原因に由るのである。明治政府の元勲中に於て最も有力なる者を最も多く山口人中に見るが如きも毫も異しむに足らぬのである。

 水戸の勤王を称して、「一種固陋なる性質を帯べるものなり」と論じ、「強堅にして無邪気なる勤王心なり」と喝破し、これを以て「義公・烈公等の教育の結果なり」と、即断するに至っては、吾人は寧ろその近視的考察なるを憐れまざるを得ない。世の幕末維新史を論ずる者、大方この類なるかを思へば、吾人は最も悲しまざるを得ない。
 水藩の勤王心は何処に固陋なる点があるか、斯る論者は義烈両公の真精神を窮明せざるに坐するものである。義公の如き高潔なる人格──その大包容力、改進思想を冒瀆するの甚しき者といふべきでである。烈公始め藤田、会沢等の水戸学者、また決して単なる攘夷論者ではない。

 由来、水戸藩の攘夷論は、藤田幽谷(藤田東湖の父)が寛政九年、書を藩主文公徳川治保に上って、外夷に関してその対策を論じたのを以て嚆矢(コウシ)とする。その説は、要するに露西亜が我が沿海に出没して我が国を脅すに拘はらず、国民は永年の泰平に馴れて、敢てこれを顧みないのは、頗る憂ふべきことである。故にこの機会に内政を刷新し、人心を振興して、富国強兵の策を講じなくてはならぬといふにあった。尋(ヒロ)いでその高弟、会沢正志は、文政八年夫の名著「新論」によって、攘夷の論を唱へて師説をつぎ、外患に備ふるには、内政の充実を計り、士気を鼓舞しなくてはならぬが、先づ第一に国民に向て、国体観念を強調するのが必要であるとし、盛に国体の尊厳を論じ、尊王を説き、この機に当り醜慮の形勢野望を審にし、「断然天下を必死の地に置き、然して防禦の策得て施すべし」と論じてゐる。然し乍ら、この攘夷の策は固より終局の目的ではない。
 「然る後、大に敵愾(テキガイ)の師を興し、天神の糧を食み、天神の兵を揮ひ、天神の仁に仗り、而して其威を奪ひて天下に方行し、狭きは之を広め、険しきは之を平げ、神武不殺の威、殊方絶域に震はゞ正に海外の諸藩をして来りて徳輝を観しめんと欲す。亦何ぞ屑々(セツセツ)乎として、其辺を伺ひ民を誘ふことを之れ患へんや」。

 と結論して、開国遠略の説に論及してゐる。この主張は啻(タダ)に会沢一人のみならず烈公東湖も同論であって、水藩の尊王攘夷の根本を成すものである。

 嘉永六年の米艦渡来は我国未曽有の一大事変であった。此に處して千年不磨の長策を確立し、正鵠の處置を講明するは難中の難である。烈公、東湖の如き英邁の君臣と雖も、また時の動きに従て幾分思想の変移あるを免れないが、水戸藩の大方針は、嘉永六年烈公の発表した「海防愚存」に依て、よく表明されてゐる。

  天下一統戦を覚悟いたし候上にて、和に相成候得ば、夫程の事はなく、和を主に致し、万々一戦に相成候節は、当時の有様にては如何とも被遊様無之候得ば、去八日御話申候通り、和の一字は封じて、海防掛計極秘に相成公辺も此度は、実に御打払の思召にて号令有之度云々。

 而して当時烈公には巨砲を鉄船艦を造り、蝦夷地開拓、辺海の警備に当らんとすると共に、海外をも究めんとする意志が十分存してゐたのである。その事はかつて明治の初、明治天皇、小梅の水戸邸に御臨幸あらせられし時、烈公遺物を天覧に入れしところ中に烈公親ら封印された一品があった。大帝の御思召にて御前にて開き見れば、そは烈公がある時幕府の要路に宛てた意見書の案分であった。御側に侍せし福羽美静、大帝の勅にて之を読みしところ、その大意は、外国の所置は最も国の重大事なれば、容易に廟算(ビョウサン)も決し難い。何れ自身海外に渡航し、其の情実を目撃の末、如何にも一定の廟算を立てられ可然哉。其れにより我等を渡航せしめられたき趣旨であって、費用のことまで細々と認めてあった。お側に侍してゐた内務卿の大久保利通これを聴くや、はたゝゝと手を打って、「攘夷のことは天下の人皆水戸烈公が主張者たることを知って、なぜその卓絶せる開国論の首唱者が、反って烈公その人である事を知らぬのだらう、」と感嘆されたといふ。此は「天定餘録」に記載されゐることであるが、、これぞ烈公の対外意見の真相を語るものである。
 又烈公は松平春嶽に向って、
  「卿は年なほ壮、よろしく海外に遊び、智見を広めて他年開港の時に尽力せられよ」、
 とさとされてゐる。

 東湖の如きも、かねて高橋多一郎に向って、
  如何にも高橋今の天下は最早攘夷に拘泥する様では行けぬぞ。
 と戒め、活眼を以て、又世界の趨勢を洞察し、嘗てその甥の原田八兵衛をして、大久保忠道寛に就いて洋学を学ばしめ、或は藩士中の少壮有為なる者二十人を選んで、之を米国に遣はして航海造船の術を練習せじめんとし、親らも烈公の内命によって外国に渡航すべく着々と準備してゐた位である。これを以てしても、その真意の那辺に在るかゞ分かるのである。
 徳富蘇峰氏は「藤田先生が、若しもう十年も生きて居られたならば、アメリカ、イギリスにも行き、世界の知識をもたらして、日本開国の先登者になられたでありませう、」といってゐるが、寔(マコト)に至言である。
  斯くの如く、水藩である、余は水邸に至って、諸名士を訪問するに、藤田に面するも、戸田に面  
 するも、将た原田(兵介)に接するも、其の答降る所は帰一であって、恰(アタカ)も同体一心の感がす  
 る。
といってゐる。

 此を要するに、水藩の攘夷論は、開国の前提としての攘夷論であって、夫の開国論を唱ふる者が、先づ開国貿易を実行して後、国力の充実を図るべしといふに対して、我れは、先づ富国強兵の実を挙げて、然る後に開国貿易を行はんと主張したのである。故に会沢は、その「新論」の跋に、
  謂ふに天地は活物にして、人も亦活物なり。活物を以て活物の間に行ふ、その変勝げて窮む可 
  からず、事は時を遂うて転じ、機は瞬息に在り、」
 といひ又、
  今日言ふ所、明日未だ必ずしも行ふ可からず、故に一たび口に発すれば、則ち空言となり、一た  
  び之を書に筆すれば、則ち死論となる。
 といへるは、これ彼がやがて、我国に開国の機運到来を期待せるものにして、実に時勢を洞察して餘す所のない大見識といふべきである。
 又会沢が、文久二年六月を以て一橋慶喜に上って、開国説を論じた「時務策」一篇は、実に新論の延長的意見なのである、即ち、その中に
  国家厳制ありて外国の往来を拒絶し給ふは、守国の要務なること勿論なれども、今日に至っては、また古今時勢の変を達観せざることを得ざるものあり
 次に
  当今の勢は、海外の万国皆和親通交する中に、神州のみ孤立して好を通ぜざる時は、諸国の兵を  
  一国にて敵に引き受け、国力も堪へ難きに至るべし時勢を料らずして、寛永以前の政令をも考へ 
  ず、其の以後の時勢をも察せずしては、明識とは云ひ難たかるべし云々。
 とあって、彼は断然開国的意見を発表したから、会沢の真意を解せぬ輩は、会沢を以て水戸三耄人の一人なりなどゝ称して排斥するに至った事もあるが、却って一方慧眼なる少壮の士を大に感動せしめ、豊田小太郎の如きは、大に開国進取の気象を発揮し、元治元年、京都に在って、開国の実を遂げ、京都を以て世界的中心たらしめんとする意見を抱いて斡旋奔走してゐたが、不孝異論者の為に暗殺の厄に遭った。

 

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森氏の女性蔑視発言と麻生氏の一つの民族発言及び靖国の記述

2021年02月13日 | 国際・政治

 東京五輪・パラリンピック組織委員会の森会長が、女性蔑視発言で辞任に追い込まれました。そうした女性差別に関わって、今なお日本社会に存在する深刻な女性差別の実態を明らかにしたり、見過ごされがちな差別意識に関する鋭い指摘をいくつか目にし耳にしました。でも、残念ながら、それを戦争を支えた皇国史観と関連させて論じている主張には触れることができませんでした。

 私は、森氏が、かつて内閣総理大臣のときに、神道政治連盟国会議員懇談会において、”日本の国、まさに天皇を中心としている神の国であるぞということを国民の皆さんにしっかりと承知して戴く、そのために我々が頑張って来た”という発言をしたこととの関連を見逃すことができません。

 森氏は、戦前・戦中の戦争指導層の考え方である皇国史観を受け継いでいるのだと思います。したがって、女性蔑視発言の謝罪はしましたが、それは言葉だけの謝罪であったと思いますし、現にその謝罪会見で、質問した記者に「面白くしたいから聞いてんだろ!」と言い放ちました。だから、多くの人が”反省の気持ちが微塵も感じられませんでした”というような感想を語る会見になってしまったのだと思います。

 でも、森氏自身は、女性を蔑視したつもりはないのだと思います。考え方が古く、戦前のままの森氏にとっては、あの発言は差別ではなく、常識的なものであり、そうした常識でムラ社会的な日本の政治に関わり、実力者となって活躍されてきたのだと思います。それは、 森氏が後任を、個人的に日本サッカー協会相談役の川淵三郎氏(84)依頼し、川淵氏が引き受ける姿勢を表明していたことでも分かります。実力者の一存で、大事な事が決定していくムラ社会では、ムラ社会とあまり関わりのない一女性の発言など、受け付けない体質があるのだろうと思います。

 また、私が見逃すことができないのは、今回の蔑視発言が、夫婦別姓の民法改正要求に反対して、”夫婦同姓は日本の伝統である”とか、”別姓を認めると家族の一体感が損なわれる”という自民党政権中枢の主張と深いところでつながっていると思われることです。こうした主張も、天下を大きな一つの「」のように考える皇国史観と無関係ではないと思います。そしてそれは、「皇位は,皇統に属する男系の男子たる皇族が,これを継承する」という考え方や、「男は仕事、女は家庭」という考え方の家族観と一体なのだと思います。自民党政権中枢は、いまだこうした男性中心社会を乗り越えていないばかりではなく、乗り越えようとする意識に欠けているのだと、私は思います。

 現在、法律婚の条件に同姓であることを強要している国がほかにあるでしょうか。日本は遅れているのではないでしょうか。世界ジェンダー・ギャップ報告書対象の世界153カ国中、日本が121位という数字に、それはあらわれていると思います。日本はG7の中で圧倒的に最下位なのです。

 そしてその原因は、日本国憲法は「押し付け憲法」だとか「マッカーサー憲法」だと言って「憲法改正」を訴え続けている自民党政権中枢に、戦後の日本を受け入れようとせず、様々な面で戦前の日本を復活させようとする姿勢があるからだと思います。日本国憲法に基づく戦後日本の考え方を、「自虐史観」として否定し、”日本を取り戻す”などと言っていては、現在の若者や国際社会の感覚とますます乖離していくことになると、私は思います。

 戦前の日本を復活させようとする姿勢は、第一次安倍内閣法務大臣・長勢甚遠氏が、「創生「日本」東京研修会第三回」の席で、”国民主権、基本的人権、平和主義(中略)この三つを無くさなければ本当の自主憲法にならないんですよ”と語ったことで明らかだと思います。だから、現代的な性別役割分担意識を乗り越えようとする姿勢に欠けているのだと思います。特に日本の自民党政権の組織は、長老や実力者に忖度するムラ社会的体制で成り立っており、森氏には、女性の当然の発言が、そうした今までの組織の運営や在り方の常識と相容れないものだったのだろうと思います。 

 

 また、麻生太郎副総理兼財務相も同じような感覚なのだろうと思います。麻生氏はかつて、閣議後記者の会見で、”日本は2000年にわたって同じ民族、一つの王朝が続いている”と発言して批判されたとき、”誤解が生じているなら、おわびの上、訂正する”と述べました。でも、麻生発言は、明らかに歴史認識の誤りであり、発言に対する批判は、誤解などではなかったと思います。”一つの王朝が続いている”という発言も、政権中枢にいまだ根強く残っている皇国史観に影響された発言だったのだと、私は思います。

 そしてそれは、「自由と繫栄の弧」麻生太郎(幻冬舎)の「靖国に弥栄あれ」の文章にもあらわれているように思います。

 麻生氏は、”靖国神社に関わる議論が盛んで”あるが、”私は靖国神社についてものを言う場合、常に物事の本質、原点を忘れぬように心がけて参りました”と書いています。でも、靖国問題がどういう問題であるかということの理解が、私は歪んでいると思います。意図的かどうかは知りませんが、一番大切な問題をはぐらかしているように思います。

 皇學館大學の新田均教授が、「首相が靖国参拝してどこが悪い」という本を出していることや、その記述の問題については、すでに取り上げましたが、靖国に公式参拝する閣僚や日本の戦争を正当化する人たちに共通するのは、考え方を異にする人たちの主張に、誠意を持って耳を傾ける姿勢に欠けるということではないかと思います。麻生氏は、自分勝手に靖国神社の問題を、政教分離の問題に矮小化してしまっていると思います。もちろん 靖国神社の問題は、政教分離の問題でもありますが、その前に、日本の戦争をどのように考えるのかという重大な問題があるのだと思います。それを抜きに靖国を論じても、靖国問題は解決しないと思います。

 日本の首相が公式に靖国神社を参拝するときに問われるのは、日本の戦争は侵略戦争ではなかったのかどうか、また、A級戦犯として処刑された人たちは戦争犯罪者ではなかったのかどうか、ということだと思います。

 ”靖国は、戦いに命を投げ出した尊い御霊(ミタマ)とご遺族にとって、とこしえの安息の場所です”などと言って、戦争犯罪者として処刑されたA級戦犯が祀られた神社に、無条件降伏した日本の首相や閣僚が公式に参拝することが許されるでしょうか。

 日本から遠く離れた戦地で、弾薬や食糧の補給が全くなされなかったため、一発の銃弾さえ放つことができず、餓死したり、病死した将兵と、そうした戦いを強いてA級戦犯として処刑された人たちを、ともに、”国家のために戦いに命を投げ出した尊い御霊”とすることができるのでしょうか。

 また、日本の侵略戦争の犠牲となったアジアの人たちは、日本軍国主義の象徴であるA級戦犯が祀られた靖国神社に、行政の最高責任者である首相や閣僚が、公式に参拝することを受け入れることができるでしょうか。

 日本は、1933年2月の国際連盟総会において、42カ国が賛成したリットン調査団報告書に、日本のみであったにもかかわらず反対し、翌月には、国際連盟脱退しました。

 再び、いろいろな意味で世界中が批判的な、閣僚の靖国神社公式参拝を続けることは断念すべきではないでしょうか。

 麻生氏の提起する「国立追悼施設靖国社(招魂社)」も、考慮されてよいとは思いますが、自分たちのことだけではなく、より多くの人たちの声に真摯に耳を傾け、世界中の人たちが受け入れてくれるようなあり方を検討すべきではないかと思います。

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                靖国に弥栄あれ

 

 靖国神社に関わる議論が盛んです。特定の人物を挙げ、「分祀」の必要を言う人があります。国会議員にそれを主張する人が少なくありません。私に言わせれば、これは根や幹から問題を見ようとしない、倒錯した発想によるものです。

 私は靖国神社についてものを言う場合、常に物事の本質、原点を忘れぬように心がけて参りました。

 それでは靖国問題で発言しようとするとき、忘れてはならない根と幹とは、何でしょうか。

 大事な順番に、箇条書きにしてみます。

(1) 靖国神社が、喧しい議論の対象になったり、いわんや政治的取引材料になったりすることは、絶対にあってはならないことです。靖国は、戦いに命を投げ出した尊い御霊(ミタマ)とご遺族にとって、とこしえの安息の場所です。厳かで静かな、安らぎの杜(モリ)です。そのような場所で、靖国はあらねばなりません。

 いかにすれば靖国を慰霊と安息の場として、静謐な祈りの場として、保っていくことができるか。言い換えれば、時の政治から、無限に遠ざけることができるか──。

 靖国にまつわるすべての議論は、いつもこの原点から出発するものでなければならないと考えます。議論が紛糾したり、立場の違いが鋭く露呈したような場合には、常にこの原点に立ち戻って考え直さなくてはなりません。

(2)靖国神社のとって、「代替施設」はあり得ません。

 このことは、靖国に「ないもの」と「あるもの」を考えることで、理解することができます。靖国には、遺灰とか遺骨といった、物理的な何かはありません。あるのは御霊という、スピリチュアルな、抽象的なものです。いやもっと言うと、そういうものが靖国にあるのだと思ってずっと生きてきた、日本人の「集合的記憶」です。

 記憶には、誇るべきものがある半面、胸を張れないものもあることでしょう。しかし死者にまつわるものであるからには、総じて辛い、哀しいものです。それらすべて、一切合財を含む記憶の集積を、明治以来日本人は、靖国に見出してきました。これを引っこ抜いてよそへ持って行ったり、新しい場所に「存在するつもり」にしたりできないものです。つまり靖国には、代替施設はつくれません。

 

高浜虚子の有名な句に「去年今年 貫く棒の 如きもの」があります。この句に言う「棒の 如きもの」が、靖国にはあるのだと思っています。これを無くしたり、むげにしていると、ちょうど記憶を喪失した人が自分とは何ものなのか分からなくなってしまうものと同じように、日本という国が、自分を見失い、碇を無くした船さながら、漂流してしまうと思います。

 

(3)右の(1)と(2)の土台にあるのは、国家のために尊い命を投げ出した人々に対し、国家は最高の栄誉をもって祀られねばならない、という普遍的な原則です。「普遍的な」というのは、これが国と国民の約束事として、世界中どこでも認められていることだからです。

 国家とは、国民を戦場へ連れ出し、命を投げ出させる権力をもつ存在でした。だとすれば、国家の命に応じてかけがえのない命を捧げた人を、当の国家が最高の栄誉をもって祀らなければならないのは、最低限の約束事であり、自明の理です。戦後の我々には、この当たり前の理屈がピンと来なくなっているかもしれません。何度でも強調しないといけないゆえんです。

(4)「天皇陛下、万歳」と叫んで死んだ幾万の将兵は、その言葉に万感の思いを託したことでしょう。天皇陛下の名にこと寄せつつ、実際には故郷の山河を思い起こし、妻や子を、親や兄弟を思っていたかもしれません。しかし確かなこととして、明治以来の日本人には、右の(3)で言った国家の約束事を、天皇陛下との約束事として理解し、戦場で死に就いてきた経緯があります。

 ですから私は、靖国に天皇陛下のご親拝あれかしと、強く念じているのです。

 それでは今、何をなすべきか。

 この問いに対する答えは、もう明らかだと思います。靖国神社を可能な限り政治から遠ざけ(「非政治化」し、)、静謐な、祈りの場所として、未来永劫保っていくことにほかなりません。私の立場は、靖国にその本来の姿へ復していただき、いつまでも栄えてほしいと考えるものです。世間の議論には、靖国を当座の政治目的にとって障害であるかに見て、何とか差し障りのないものにしようとする傾向が感じられます。悲しいことですし、私として与(クミ)することのできないものです。

 

 ところが靖国を元の姿に戻そうとすると、たちまち問題点にぶつかります。それは煎(セン)じ詰めると、靖国神社が宗教法人であるという点にかかわってきます。少し説明してみます。

(1)政教分離原則との関係

 靖国が宗教法人であり続ける限り、政教分離原則との関係が常に問題となります。実は政治家である私がこのように靖国について議論することさえ、厳密に言うとこの原則との関係で問題なしとしません。まして政治家が靖国に祀られた誰彼を「分祀すべし」と言うなど、宗教法人に対する介入として厳に謹むべきことです。

 靖国神社が宗教法人である限り、総理や閣僚が参拝するたびに、「公人・政治家としての訪問か、私的な個人としての参拝か」という、例の問いを投げかけられます。政教分離原則との関係を問われ、その結果、本来鎮魂の行為であるものが、新聞の見出しになってしまいます。つまり靖国がその志しに反し、やかましい、それ自体政治的な場所となってしまった理由の過半は、靖国神社が宗教法人だというところに求められるのです。

 これでは、靖国はいつまでたっても静かな安息と慰霊の場所になることができません。このような状態に最も悲しんでいるのは靖国に祀られた戦死者でしょうし、そのご遺族であることでしょう。そして靖国をそんな状態に長らく放置した政治家の責任こそは、厳しく問われなければならないと思います。

(2) 戦死者慰霊を「民営化」した弊害

 本来国家がなすべき戦死者慰霊という仕事を、戦後日本は靖国神社という一宗教法人に、いわば丸投げしてしまいました。宗教法人とはすなわち民間団体ですから、「民営化」(プライバタイゼーション)したのだと言うことができます。

 その結果、靖国神社は会社や学校と同じ運命をたどらざるを得ないことになっています。顧客や学生が減ると、企業や大学は経営が苦しくなりますが、それと同じことが、靖国神社にも起きつつあるのです。

 靖国神社にとっての「カスタマー(話を通りやすくするため、不謹慎のそしりを恐れずビジネス用語を使ってみます)」とは誰かというに、第一にはご遺族でしょう。それから戦友です。

 ご遺族のうち戦争で夫を亡くされた寡婦の方々は、今日、平均年齢で八十六・八歳になります。女性の平均寿命(八十三歳)を超えてしまいました。また「公務扶助料」という、遺族に対する給付を受けている人(寡婦の方が大半)の数は、1982年(昭和五十七年)当時百五十四万人を数えました。それが2005年には十五万人と、十分の一以下になっています。

 戦友の方たちの人口は、恩給受給者の数からわかります。こちらも、ピークだった1969年に283万人を数えたものが、2005年には121万人と、半分以下になっています。

 靖国神社は、「氏子」という、代を継いで続いていく支持母体をもちません。「カスタマー」はご遺族、戦友とその近親者や知友だけですから、平和な時代が続けば続くほど、細っていく運命にあります。ここが一般の神社との大きな違いの一つです。

 靖国は個人や法人からの奉賛金(寄附金)を主な財源にしていますが、以上のような状況を正確に反映し、現在の年予算は二十年ほど前に比較し三分の一程度に減ってしまっていると聞きます。

 戦後、日本国家は、戦死者の慰霊という国家の担うべき事業を民営化した結果、その事業自体をいわば自然消滅させる路線に放置したのだと言って過言ではありません。政府は無責任のそしりを免れないでしょう。

 このことを、靖国神社の立場に立って考えるとどう言えるでしょうか。「カスタマー」が減り続け、「ジリ貧」となるのは明々白々ですから、「生き残り」を賭けた「ターンアラウンド」(事業再生)が必要だということになりはしないでしょうか。

 

 以上の述べたところから明らかなように、山積する問題解決のためにまず必要なのは、宗教法人でない靖国になることです。ただしその前に二点、触れておかねばなりません。

(1)「招魂社」と「神社」

 靖国神社は創立当初、「招魂社」といいました。創設の推進者だった長州藩の木戸孝允は、「招魂場」と呼んだそうです。「長州藩に蛤御門の戦いの直後から藩内に殉難者のための招魂場が次々につくられ、最終的にはその数が二十二に達した」(村松剛「靖国神社を宗教機関といえるか」)といいます。

 このような経緯に明らかなとおり、靖国神社は、「古事記」や「日本書紀」に出てくる伝承の神々を祀る本来の神社ではありません。いま靖国神社の変遷や歴史に触れるゆとりはありませんが、設立趣旨、経緯から、靖国神社は神社本庁に属したことがありません。伊勢神宮以下、全国に約八万を数える神社を束ねるのが神社本庁です。靖国はこれに属さないどころか、戦前は陸海軍省が共同で管理する施設でした。また靖国の宮司も、いわゆる神官ではありません。

(2)護国神社と靖国神社

 第二に触れておかねばならないのは、上のような設立の経緯、施設の性格、またこれまで述べてきた現状の問題点を含め、護国神社には靖国神社とまったく同じものがあるということです。靖国神社が変わろうとする場合、全国に五十二社を数える護国神社と一体で行うことが、論理的にも実際的にも適当です。

(3)任意解散から

 それでは靖国神社が宗教法人でなくなるために、まず何をすべきでしょうか。これには任意解散手続き以外にあり得ません。既述のとおり、宗教法人に対しては外部の人が何かを強制することなどできないからです。また任意解散手続きは、護国神社と一体である必要があります。

 言うまでもなくこのプロセスは、靖国神社(と各地護国神社)の自発性のみによって進められるものです。

(4)最終的には設置法に基づく特殊法人に

 その後の移行過程には、いったん「財団法人」の形態を採るなどいくつかの方法があり得ます。ここは今後、議論を要する点ですが、最終的には設置法をつくり、それに基づく特殊法人とすることとします。

 名称は、例えば「国立追悼施設靖国社(招魂社)」。このようにして非宗教法化した靖国は、今までの比喩を使うなら、戦死者追悼事業を再び「国営化」した姿になります。宗教法人から特殊法人へという変化に実質をもたせるため、祭式を非宗教的・伝統的なものにします。これは実質上、靖国神社が「招魂社」といった本来の姿に回帰することにほかなりません。各地の護国神社は、靖国神社の支部として再出発することになります。

 なお設置法には、組織目的(慰霊対象)、自主性の尊重(次項参照)、寄付行為に対する税制上の特例などを含める必要があるでしょう。

(5)赤十字が参考に

 この際参考になるのが、日本赤十字社の前例です。日赤は靖国神社と動揺、戦時中に陸海軍省の共管下にありました。母子保護・伝染病予防といった平時の事業は脇に置かれ、戦時救済事業を旨としました。講和条約調印後に改めて立法措置(日赤法)をとり、元の姿に戻すとともに、「自主性の尊重」が条文(第三条)に盛り込まれた経緯があります。

(6)財源には利用できるものあり

 併せて靖国神社の財源を安定させる必要があります。このため利用できるのが、例えば独立行政法人・平和祈念事業特別基金のうち、国庫返納分として議論されている分です。

 平和祈念事業特別基金とは、「「旧軍人軍属であって年金たる恩給又は旧軍人軍属としての在職に関連する年金たる給付を受ける権利を有しない方」や、旧ソ連によって強制抑留され帰還した方などの労苦を偲ぶためなどを目的とし、新宿住友ビルにある「平和祈念展示資料館」の運営や、関係者の慰労を事業とするため、国が四百億円を出資し1988年に設けたものです。資本金のうち半分に当たる

二百億円は、国庫に返納されることが議論されています。

 これを全部、まあたは半分程度靖国社の財産とすることで、靖国の財政を安定させることができるでしょう。また靖国を支えてきた「公益財団法人」として公益性を認め、これらの基盤も安定を図ります。直接の支持母体である「靖国神社崇敬奉賛会」は、そのまま存続させればいいと思います。

(7)慰霊対象と遊就館

 それではいったい、どういう人々を慰霊対象とすべきなのか。周知のとおり、ここは靖国を現在もっぱら政治化している論点にかかわります。だからこそ、あいまいな決着は望ましくありません。「靖国を非政治化し、静謐な鎮魂の場とする」という原則に照らし、靖国社設置法を論じる国会が、国民の代表としての責任にかけて論議を尽くしたうえ、決断すべきものと考えます。

 注意していただきたいのは、この時点で、宗教法人としての靖国神社はすでに任意解散を終えているか、その手続きの途上であるか、あるいはまた過渡期の形態として、財団法人になっているかしていることです。すなわち慰霊対象の特定、再認定に当り、「教義」はすでに唯一の判断基準ではなくなっています。

 さらに靖国神社付設の「遊就館」は、その性質などに鑑み行政府内に、その管理と運営を移すべきだと思います。その後の展示方法をどうすべきかなど論点は、繰り返しますがこのページの最初に述べた「原点」に立ち戻りつつ、かんあげられるべきです。

 ここまでを整えるのに、何年も費やすべきではありません。このペーパーで述べてきた諸般の事情から、靖国神社は極めて政治化された場所となってしまっており、靖国に祀られた二百四十六万六千人余の御霊とそのご遺族にとって一日とて休まる日はないからです。

 政治の責任として以上の手続きを踏んだ暁、天皇陛下には心安らかに、お参りをしていただけることでしょう。英霊は、そのとき初めて安堵の息をつくことができます。

 中国や韓国を含め、諸外国首脳の方々にとっても、もはや参拝を拒まなければならない理由はなくなっています。ぜひ靖国へお越しいただき、変転常なかった近代をともに偲んでもらいたいものです。

 

 

 

 

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日本の正当な歴史を奪う、とは?

2021年02月02日 | 国際・政治

 近現代史研究家という水間政憲氏は、その著書『ひと目でわかる「日韓併合」時代の真実』の「はじめに」で、下記のように、見逃すことのできないことを書いています。

国際社会においてライバルになりうる国家を衰退させるには、武力による弾圧よりその国の正当な歴史を奪うことで、それが実際に行われてきました。インドの代表判事は、1952年に再来日したとき、田中正明氏(評論家・歌人)に「東京裁判の影響は、原子爆弾の被害よりも甚大だ」と慨嘆されていました。

 水間氏は、日本の正当な歴史、すなわち皇国の歴史が奪われたと主張されているようです。でも、その皇国の歴史を日本の歴史として定着させた明治政府の「皇国史観」は、事実に基づくものではなく、古事記や日本書紀の神話に基づいて、日本人に、”日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念(官報號外 昭和21年1月1日 昭和天皇の詔書、いわゆる「人間宣言」)”を抱かせ、戦争にひた走る国にした歴史観だと思います。

 それは、「戦陣訓」に”御稜威夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる處なり。されば戦陣に臨む者は、深く皇国の使命を体し、堅く皇軍の道義を持し、皇国の威徳を四海(世界)に宣揚せんことを期せざるべからず。”と簡潔に表現されていることでわかります。
 明治維新以後の日本の領土拡張を目的とする侵略主義や人命軽視、人権無視の戦争、また、果てしない戦域の拡大は、この「皇国史観」と切り離しては考えられないことだと思います。

 また、アメリカが主導した東京裁判が、日本人を「日本罪悪史観」に陥れ、自虐的になっているということを主張されているようですが、それは、裏を返せば、明治以来の皇国史観に基づく大日本帝国を正当化し、日本の戦争を正当化することだと思います。

 水間氏の文章は、さらに下記のように続きます。

知の巨人・福沢諭吉は、朝鮮を支援した験を踏まえて発表した「脱亜論」で、恩知らずな朝鮮に対して(中華思想・中国も含む)「悪友とつき合うと我が国の為にならない」と唱えています。それから130年たっても、いまだに我が国の政治家や経済人は、中国と韓国に幻想を抱いているようです。それは、東京裁判の「日本罪悪史観」を正統な歴史と錯覚して、一段と自虐的になっているがゆえの行動なのです。

 福沢諭吉は”知の巨人”であるかも知れませんが、だから彼の書いていることがすべて正しいと考えるのはいかがなものかと思います。福沢諭吉は「脱亜論」の中で、”我れは心に於て亞細亞東方の惡友を謝絶するものなり”と書いているのですが、日本の言うことに従わないから、朝鮮や清(中国)を悪友と決めつけ、朝鮮や清を植民地化しようとする明治政府を後押ししてよいということにはならないと思います。
 さらに、福沢諭吉は、
「天然の自由民権」論は「正道」であるが、しかし「近年各国において次第に新奇の武器を工夫し、又常備の兵員を増すことも日一日より多」いという無益で愚かな軍備拡張が横行する状況では、敢えて「人為の国権論」という「権道(ケンドウ)」に与(クミ)しなければならない
 と、明治政府の武力による外交を支持するようなことを書いています。”権道に与しなければならない”というのです。また、福沢諭吉が、”日清の戦争は文野の戦争なり(文明と野蛮の戦争)”と時事新報に書いて、侵略戦争である日清戦争を煽り、明治政府と対立する議会を批判するようなことを書いていることも見逃すことができません。福沢諭吉を無批判に、都合よく利用するのはいかがなものかと思います。

 水間氏の文章は、さらに下記のように続きます。

そんな中にあって、明治政府の重鎮・大久保利通を先祖にもつ麻生太郎氏は、明治政府以来100年間の国家戦略の間違いに気づいたかのように、2007年、総理大臣に就任する前に『自由と繁栄の弧』(法の支配と言論の自由の共通認識)を上梓されました。その書が一過性のものでなかったことは、このたび副総理兼財務大臣に就任早々、ミャンマーを訪問されたことに表れています。
 これから百年間の国家戦略は「新脱亜論」であり、それはまさに「自由と繁栄の弧」の国々と連携することを意味しているのです。”

 日韓や日中の関係が明治時代と比較にならないほど深まっている現在、法や道義・道徳を尊重し、発展させるような考え方に基づくことなく、また、中国や韓国の主張に耳を傾け、過去の歴史を共有しようとすることなく、相変わらず軍事力や経済力を背景として、政治的に対応しようとするような「新脱亜論」はいかがなものかと思います。
 それに、麻生太郎氏は、「二千年の長きにわたって、一つの民族、一つの王朝が続いている国はここしかない」などと発言し、批判を浴びた政治家です。こうした考え方は、「皇国史観」と切り離せないものではないかと思いますし、平然と、過去の歴史を無視し、「単一民族国家」を主張する感覚の持ち主の考え方を、あたかも未来を切り開く素晴らしい考え方であるかのように評価するのはいかがなものかと思います。     
 アイヌ民族が「先住民族」であることは現在は常識だと思います。アイヌ民族が、明治政府による開拓で住み慣れた故郷を追われ、狩猟や漁業などの生業を奪われた事実や、差別的な明治政府の同化政策に苦しめられた事実を無視するような政治家に、明るい未来が切り開けるとは思えません。
 すでに国会で、”アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律”や”アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律”が制定されているのです。

 次に、水間氏の著書本文の”朝鮮人より日本国民に送られた「合邦希望の電報」”の中に、

 ”朝鮮半島は、歴史上約1000回以上も中国から侵略され、長い間、中国の属国にされていたのですが、我が国が日清戦争で勝利したとき、宗主国中国に朝鮮の独立を認めさせました。
 また朝鮮半島には、中国だけでなく軍事大国ロシアの潜在的脅威も大きく、日露戦争で我が国が勝利したことで、朝鮮人が「合邦」を希望する電報を、日本へ大量に打つことになったのです。
 左記の朝鮮人団体「一進会」(100万人)李容九会長の訳文を見ると、「その時々の勢力の強い者に付き従う」事大主義が具現化しています。
 同訳文の冒頭に、「弊会が『日韓合邦』の議を提出せしば、決して独断的に出したものではなく、各階級との連絡を遠し、一般人民の不同意少なきことを確かめ…」て、決行したことを綴っています。”

 とあります。日本の韓国「併合」が、あたかも韓国人の希望によってなされたかのような書き方です。日本の韓国「併合」が、決して「合邦」というようなものではなかったことを、覆い隠すような意図を感じます。確かに、韓国人の中には、日本の影響下にあって、日本の力を借りて韓国社会を変革しようとする人たちがいました。でも、日本が韓国の主権を侵害し、武力をもって併合した事実を無視してはならないと思います。

 また、本文の「日韓合邦への道」には
当時の朝鮮半島は、ロシア、中国が自らの勢力拡大に跋扈していました。1884年(明治十七年)十二月、中国(清国)が朝鮮に軍隊を派兵し、独立党のクーデターを潰した勢いで日本公使館を焼き払い、婦女子など多くの日本居留民が惨殺されました(「甲申事件」)。ちなみに福沢諭吉が「脱亜論」を『時事新報』に発表したのは、この事件の直後の1885年(明治十八年)でした。

 という文章にも抵抗を感じます。日本が朝鮮の内政に干渉し、独立党(急進開化派=親日派)によるクーデターを支援するため、武力介入して王宮を占領した事実をどのように考えておられるのでしょうか。中国(清国)が朝鮮に派兵した軍隊が、”日本公使館を焼き払い、婦女子など多くの日本居留民を惨殺した”というのは、日本の軍隊が王宮を占領するような武力介入をしたからではないかと思います。

 さらに、本文の「李王朝文化と王家に敬意を払っていた総督府」に、書かれていることも、とても問題があると思います。
 水間氏は触れていませんが、取り上げている「朝鮮貴族に関する皇室令」には、

朕惟フニ李家ノ懿親(イシン)及其ノ邦家ニ大勞アリタル者ハ宜ク之ヲ優列ニ陛シ敍シテ朝鮮貴族ト爲シ用テ寵光(ロウコウ)ヲ示スヘシ茲ニ其ノ舊德前功ヲ秩シ世爵ノ典ヲ定メテ朝鮮貴族令トシ之ヲ裁可シ公布セシム
   御名御璽
          明治四十三年八月二十九日

 とあるのです。「朝鮮貴族に関する皇室令」が、日本の天皇の裁可によって公布されたものであることがわかります。また、”爵ハ公侯伯子男ノ五等トス”とか、”爵ヲ授クルハ勅旨ヲ以テシ宮內大臣之ヲ奉行ス”とあり、日本に決定権があるのです。対等の関係で敬意を払っていたわけではないということです。

 また、 

我が国は「日韓合邦」後も、米国や英国のように、ハワイ王家とビルマ王家を潰すようなことをしませんでした。この一点だけでも、西欧列強国の植民地政策とはまったく違います。
 李王家には、梨本宮家の方子女王が嫁ぎ、準皇族として大変尊重されていました。それを示すのが前ページからの三枚の写真です。(写真略)

 というのですが、梨本宮方子の著書「流れのままに」には、そんな表面的理解とは、かけ離れた事実がいろいろ書かれています。

 昭和天皇の「お妃候補」として噂されていた日本の皇族、梨本宮守正の第一王女「梨本宮方子」は、日韓併合後のいわゆる「内鮮一体」の方針の流れの中で、朝鮮「李王家世子」(朝鮮の皇太子)である李垠(イ・ウン)と結婚し、「李方子(イ・バンジャ)」となったのですが、それは政略結婚であったと言われます。
 以前も取り上げたことがあるのですが、彼女の著書「流れのままに」には、野蛮な政争の具として扱われた怒りを懸命に押し殺しつつ生きた皇族「李垠」と「方子」夫婦の思いが綴られています。
 特に、高宗皇帝の死や李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死は、いずれも毒殺に違いないと思いつつ、彼女にはそれを追求したり明らかにしたりすることが許されず、戦後もその時の思いを「……」の中に込めてふり返るしかなかったようです。「流れのままに」は「……」が多用されているのです。ちょっと長くなりますが、「流れのままに」から、高宗皇帝の「薨去」に関する部分と、李垠・方子夫婦の子「晋」第一王子の死に関する衝撃的な文章を再度抜萃します。
ーーー
 前途への不安

 ・・・
 しかも、それから日ならずして、私は李太王様の薨去が、やはりご病死でなかったことを人づてに聞き、身も心も凍るおそろしさと、いうにいえない悲しみにうちひしがれてしまいました。
 ご発病が伝えられた1月21日の前夜、李太王さまはごきげんよく側近の人々と昔語りに興じられたあと、夜もふけて、一同が退がったあと、お茶をめしあがってからご寝所へお引き取りになってまもなく急にお苦しみになり、そのままたちまち絶命されたとのこと。退位後もひそかに国力の挽回に腐心されていた李太王さまは、パリへ密使を送る計画をすすめられていたそうで、それがふたたび日本側に発覚したことから、総督府の密命を受けた侍医の安商鎬が、毒を盛ったのが真相だとか。また、
「日本の皇室から妃をいただければ、こんな喜ばしいことはない」
とおっしゃって、殿下と私の結婚に表面上は賛意を表しておられたものの、じつは殿下が9歳のおり、11歳になられる閔閨秀というお方を妃に内約されていたため、内心では必ずしもお喜びでなかったのです。おいたわしい最後となったのではないでしょうか。
 毒殺、陰謀───
 もはや前途への不安は漠然としたものではなく、私ははっきりと、行く手に立ちふさがっている多難と、それにともなう危険をさえも、覚悟しなければなりませんでした。みずから求めた道でなくても、すでに私の運命は定められていて、どうのがれようもないのです。
 けれども、
「私だけではないのだから……」
 立場はちがっても、殿下もおなじお身の上なのだと思うと、ようやく勇気もわき、これからの苦難の道を共に歩むお方をしのんで、思いは遠く、まだ見ぬ京城の空にとんでいきました。
 しかし、事態はさらに悪化することになってしまったのです。李太王さまの死を毒殺と知った民衆は、これを発火点として、併合への根強い反感を爆発させ、ご葬儀2日前の3月1日を期して
「祖国朝鮮を日本の帝国主義から解放しよう。独立朝鮮万歳!」
 と、全鮮一斉に蜂起しました。これがいわゆる「万歳事件」と名づけられている独立運動で、武力をもたないこの人々の抵抗運動は、ただちに鎮圧されたとはいえ、激しい対立反抗の現れをまざまざと示していました。

 殿下と私との結婚についても、梨本宮家あてに発信人不明の反対の電話や電報が殺到し、殿下のほうへは、前々から猛反対があったことを知りました。
 動乱の中で揺れ動く殿下と私の立場を思うとき、一生をこうした波乱の中に生きていくふたりの姿が目に見えるようで、「日鮮融和のためになるなら」という気負いも、ともすれば崩れがちでした。
「しっかりしなければ……」
 と、自分をはげましてみても、相つぐ不祥事に直面して、年若い私にはわれながらおぼつかなく、消え入るようなたよりなさに思われてなりませんでした。
 3月3日、李太王さまの国葬の日は、お写真を飾り、黙祷をして、終日、悲しく複雑な思いで部屋にこもっていました。
ーーー
 突然訪れた晋の死

 ・・・
 殿下は軽く、けれど満足そうに、笑い声をたてられました。
「晋にも、やがてもの心つくようになりましたら、このたびの帰国のことは、よくよく話しきかせてやろうと思います」
「そうだね、あの小さな大礼服は、大きくなった晋にとっていい思い出となるだろう」
 殿下にも、私にも、紗の桃色の小さい大礼服を手に、目をかがやかして話に聞き入る晋の姿が、いまから目に見えるようでした。
「ただ、父上さま母上さまに若宮をお目にかけられないのが……」
「私もそれが残念だ。どんなにか喜んでいただけただろうに……」
 好意と愛情につつまれた毎日をふりかえるにつけても、東京を立つまえに、私の身辺の危険を心配する空気があって、東京からつれてきたお付きの者も、はじめのうちは食べものなど、それこそ毒味までする気のつかいようだったのですが、なにか申しわけないような気がして、心がとがめられてなりませんでした。
 滞在中の朝夕に、閔姫さまのことも決して思わなかったわけではありませんが、私には関わりのないこととして、心をそらすようにしてきました。一刷きの雲のように、それだけが心のどこかにわだかまっているとはいえ、初の帰国がよい思い出だけでつづられるのを、感謝したい気持ちでいっぱいでした。

 やがて、車はすべるように石造殿へ到着、その車がまだ停車しきらないうちに、つぶてのように車窓へ体当たりしてきた桜井御用取扱が、ほとんど半狂乱になって、
「若宮さまの容体が!」
 ついいましがたより、ただならぬごようすで……というのを、みなまでは聞かず、殿下も私も、無我夢中で晋のもとへかけつけました。私たちが晩餐会へ出る直前まで、あんなに機嫌がよくて、なにごともなかった晋が、息づかいも苦しげに、青緑色のものを吐きつづけ、泣き声もうつろなのを、ひと目みるなり、ハッと思い当たらずにはいられませんでした。出発前の悪い予感がやはり適中したことに、おののきながらも、気をとり直して、ただちに随行してきた小山典医を呼び、総督府病院からも志賀院長、小児科医長が来診されました。
「急性消化不良かと思います」
 との診断で、応急の処置がとられましたが、ひと晩じゅう泣きつづけ、翌9日の朝があけても、もち直すどころか、ときどきチョコレート色のかたまりのようなものを吐いて、刻々と悪化していくさまが目に見えるようでした。
「原因は牛乳だと思います」
 母乳のほかに、少量の牛乳を与えていました。いい粉ミルクがない時代でしたから、起こり得ることだとしてもこうも突然に、こうも悪性にやってくるものでしょうか。しかも、京城を立つ前夜になって……。万一の場合を考えての細心の警戒が、最後にきて緩んだのを、まるで狙っていたかのような発病……。それを、どう受けとめればいいのか……。
 東京から急ぎ招いた帝大の三輪博士もまにあわずに、5月11日午後3時15分、ついに若宮は、はかなく帰らぬ人となってしまいました。

 石造殿西側の大きなベットに、小さな愛(かな)しいむくろを残して、晋の魂は神のもとへのぼっていったのです。父母にいつくしまれたのもわずかな月日で、何も罪のないに、日本人の血がまじっているというそのことのために、非業の死を遂げなければならなかった哀れな子……。もし父王さまが殺された仇が、この子の上に向けられたというなら、なぜ私に向けてはくれなかったのか……。
 冷たいなきがらを抱いて、無限の悲しみを泣きもだえたその日の夕方、ひどい雷鳴がとどろいたことを、幾歳月へだてたいまなお耳底(じてい)に聞くことができます。
ーーー
 また、「朝鮮王朝最後の皇太子妃」本田節子(文藝春秋)には、李垠と方子の子「晉」第一王子の死について、恐るべき説の存在が取り上げられています。それは、李方子が「流れのままに」の中で書いている理解とは少々異なりますが、「」は毒殺されたとし、それが高宗皇帝毒殺の仕返しなどではなく、「李王家断絶を意図した日本人による毒殺である」というのです。
 真実は分かりませんが、当時の日韓関係を考えれば、あり得る話であるだけに、きちんと日韓の情報を付き合わせ、真実を解明しなければ、「閔妃、高宗、晉と李氏朝鮮王朝の3人が、次々に日本人によって殺害された」と主張する韓国人と、今や、そうしたことは想像もしない日本人の溝は、深まるばかりだと思います。

 さらに、方子が天皇家でなく李王家に嫁入りが決まったのは、方子が石女(うまずめ)<子を産めない女性>だから、という話も気になります。石女である方子に、晉が生まれてしまい、方子を診察した医師3人は殺された、だから、晉の死も、李太王や閔家の仕返しなどといわれているが、真実は李王家の血筋を絶やすために日本側がとった処置であるという恐ろしい話もあるのです。謎のままにしてはいけないことではないかと思います。
 水間氏の「李王朝文化と王家に敬意を払っていた総督府」というタイトルは、実態と掛け離れているように思います。
 

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