真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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偽勅、朝敵、毒殺と尊王攘夷急進派

2022年02月27日 | 歴史

 『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)にも、薩長史観に基づいているといえる日本の歴史教科書では取り上げられていない様々な事実が書かれています。そしてそれは、著者の単なる憶測や思い込みではなく、多くの歴史学者や歴史家の研究の積み重ねに基づいて書かれていることが明らかです。
 京都が、長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロによって荒らされていた1862年(文久二年)、藩兵およそ八百人とともに、京都東山の山麓に本陣を置いたのは、幕府から「京都守護職」に任ぜられた松平容保を中心とする会津藩でした。でも容保は病弱で、禁門の変の直前には寝込んでおり、会津の医師団や幕府の侍医に看病されるような状態でした。そんな容保を心配した孝明天皇は、「朕が最も信頼するのは容保である」というような「御宸翰」を、一度ならず届けさせたといいます。
 明治維新史や自由民権運動が専門の歴史学者、遠山茂樹教授は、”天皇が容保に下した「御宸翰」は、天皇の意思が素直に出ていて、切々たる哀情がこもっている”と評価しているとのことです。
 だから、孝明天皇の絶大な信頼を得て公武一和に努力した会津藩が、「朝敵」であるはずはないと思います。
 「朝敵」というなら、御所を砲撃し、天皇を拉致しようとした長州藩こそが朝敵であると思います。
 でも、このとき天皇を守るために戦った会津藩や「禁裏御守衛総督」として戦うための身なりを整え、”仁王立ちになって天皇を守った”という徳川慶喜が、「朝敵」として薩長に倒されたのです。だから、すでに取り上げたように、津田左右吉は、討幕の密勅を”真偽是非を転倒したもの”と断じているのです。
 孝明天皇の死によって、突然天皇の地位に就いた祐宮(サチノミヤ=明治天皇)は、当時まだ十代半ばであったといいます。そんな少年ともいえる明治天皇が、父親である孝明天皇の思いをつぶすような勅命を、猛者の集団ともいえる薩長に下すというようなことがあり得るでしょうか。もしそれが真実なら、何かそれに関わる情報や、予兆があってしかるべきだと思います。

 さらに言えば、”真偽是非を転倒”した「偽勅」で、会津藩や幕府を攻めた薩長は、「朝敵」というような言葉を使い、天皇を政治的に利用することによって、自らの言行の矛盾や欺瞞性を隠蔽する狡賢い考え方をしたのだと思います。そして、明治維新を成し遂げ、権力を手にした後も、そうした考え方で、さらに朝鮮の王宮を占領したり、閔妃を殺害したり、を相手とする野蛮な戦争に突き進んでいったりしたのだと思います。

 でも、日本の政権は、そうした明治維新の諸問題を伏せ、近代化に焦点を合わせるようなかたちで「明治百年祭」や「明治百五十年祭」を実施したようです。
 また、”明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人は、それを盛大に祝賀しようとしない”などと不満をもらす人さえいるようです。そうした薩長の流れを汲む人たちが政権を牛耳っているようでは、日本の歴史の真実は明らかにされず、その野蛮性はとても克服できないように思います。 
 だから、政治家や活動家が枠づけた歴史ではなく、歴史学者や歴史家が積み上げてきた研究に基づく客観的事実に基づく歴史教育を、私は一日も早く実施してほしいと思うのです。

 下記に抜萃しましたが、孝明天皇の「毒殺」についても、名だたる歴史学者や歴史家が、様々な史料をもとに論証しているのです。孝明天皇の毒殺説を知ることによってだけでも、明治維新の受け止め方は変わるのではないかと思います。また、その後の日本の歴史の認識もより客観的なものとなって、韓国や中国の信頼を取り戻すことも可能になるように思います。
 でも、残念ながら、政権の意に反する学者や研究者は、いまだに学術会議などの組織から排除される傾向があるようです。思想の自由や学問の自由を尊重する立場に立てば、あってはならないことだと思います。
 さらに言えば、日本軍「慰安婦」や徴用工の問題を、世に知らしめようとする人たちには、大変な圧力がかけられているばかりではなく、「あいちトリエンナーレ」・「表現の不自由展・その後」に関わっては、愛知県知事リコールための署名でっち上げ事件さえ起きました。
 
 日本の政権の歴史的事実の否定や隠蔽、歪曲に関して、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会定期年次大会のなかの公開フォーラム、及びその後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたという「日本の歴史家を支持する声明」は、主に第二次世界大戦中の日本軍「慰安婦」に関わるものですが、 欧米の日本研究者や歴史学者ら187人もが署名しています。政治家はもちろんですが、日本人はみんな、しっかり受け止めるべきだと思います。

 下記は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から、「第一章 もっと知りたい戊辰戦争」の一部と、「第三章 孝明天皇謎の崩御」の一部を抜萃しました。
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                  第一章 もっと知りたい戊辰戦争

 勤王史観・官賊史観  
 もう一つは研究者による講演会である。
 作家の場合は自分の描いたイメージで話すが、研究者の場合は基本的に史料を積み上げた講演になる。
 司馬氏から四年ほどあとの昭和五十三年(1978)の十二月三日に、会津若松市の文化福祉センターで、東大名誉教授小西四郎先生の講演会があった。
 この講演で会津の人々は、衝撃を受けることになる。
 昭和四十年(1965)、私が『会津若松史』の編纂に加わったとき、近代史の編集責任者が東大史料編纂所教授だった小西四郎先生だ。私は小西先生の指導のもとに戊辰戦争を執筆したが、先生は一方の史観に偏らない非常にリベラルな方であった。
 小西先生のこの日の演題は「幕末の会津藩」で、特に官軍、賊軍の問題について詳細に話された。
「私は明治維新は二つの顔をもっていると考えます。二つというのは戊辰戦争で勝った方の顔と、負けた方の顔です。維新史は勝った方の顔だけが出てきて、負けた方はあまり出てこない。会津藩は負けた方だからほとんど触れられなかった。そして勝ったほうだけが強調されて、明治維新は薩長土肥がやったんだと国民に教え込まれたのです」
 小西先生は明治維新史のゆがみを最初に話された。
「薩長政権は自分たちを正当化することによって、その地位を守ってきた。その犠牲になったのは会津です」
 と会津の立場に同情し、維新史観のからくりを説いた。 
「明治維新は古(イニシエ)の天皇の政治に復すという主張が強く出されています。それと同時に、王政復古には、どこの藩が貢献したとか、勤王であったのは何藩であったかが強く主張されたのです。いわば王政復古の歴史観、あるいは勤王史観という歴史観が明治維新史観をつくりあげ、それが明治維新の成果であるといわれたのです。そういう歴史観が明治維新史の主流を占めていて、ここから天皇の軍隊は官軍、それに反対したのは賊軍という官賊史観が生まれ、これによって会津は賊であると評価されてしまったのです」
 官軍、賊軍のからくりを、先生はこのように解き明かした。
 会津の人々が待ち望んでいた明快な史論だった。
 日本の歴史教育は、まさにこの路線上に進められてきた。会津の人々がどのように悔しがっても、薩長中心の歴史観は盤石の重さで頭上にのしかかり、会津はなにをいっても敗者としてさげすまれてきた。こうした一方的な歴史観で、本当の歴史が分かるのか、それが小西先生の問いかけであった。
 会津藩は京都で存分に働き、孝明天皇から絶対の信頼を勝ち得た。その会津が朝敵となったのはなぜか。それは密勅だと小西先生は語った。
 公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允らが幕府を倒し、会津を誅伐する秘策として思い付いたのが密勅だった。
 幕府、会津は朝敵なので追討せよ、という天皇のお言葉である。

 欺瞞に満ちる
 偽造した密勅の効果は抜群だった。
天皇はまだ政治的には、いわばロボット的存在である。天皇の遺志でもない密勅を唯一の武器として討幕が行なわれてしまう。だから戊辰戦争は、会津側にとってはまったく迷惑な話だった。自分たちは天皇に対し反抗しているわけではない。わずか十六歳ぐらいの天皇の側を固めている薩長こそ敵である。我々は君側の奸(カン)を打ち払うんだと戦ったのです。私は、このような会津側のいい分の方が正しいし、もっともな意見だと思います」 
 小西先生はずばりと、いい切った。
 会場を埋めた人々は感動し、興奮した。
 この言葉は会津人に歓喜の涙を流させるに十分であった。孝明天皇が不慮(フリョ)の死を遂げられたあと、まだ十代半ばだった明治天皇の名前で幕府、会津に朝敵という汚名を着せ、武力制圧に踏み切った薩長の行為は、いかに虚偽、疑惑に満ちたものであったか、長い間、会津人が胸に抱いてきた歴史の欺瞞を小西先生は一刀両断した。会場にどよめきが起こるのも当然であった。
 小西先生は、戊辰戦争後の会津藩に対する見せしめについても論及した。
「戊辰の戦いで、結局は会津藩は敗れる。そこで、政府としては他の藩に対してはそれほどでもないのに、会津藩に対してだけはきわめて厳しい処置をとりました。ニ十八万石を三万石にしてしまう。三万石といっても本州最果(サイハテ)ての地斗南(トナミ)青森県下北半島周辺)ですから、実質はずっと少ない。仙台藩でも減らされてはいるが、会津からみると問題ではない。徳川宗家なんかも駿府(スンプ=静岡市)に移されてひどいことになるが、それでも駿府の殿様は八十万石をもらう。ところが斗南の三万石はまったくひどい仕打ちです。政府が一番の見せしめに、会津藩に対して罰を加えたということではないかと思う」
 小西先生は明治政府を断罪した。
 これほど明快な講演会は、あとにも先にもそうはなかった。
 さらに小西先生は、京都守護職の研究をもっと進めなければならないと語った。そのためには、もっとオープンな情報公開が必要だった。
「うっかり見逃してしまいがちな錦絵、旧家に残る一通の古い書き付けが重要な史料になることもしばしばあるのです。いままでの単なる殿様や武士階級などの上層部の動きではない、民衆の動きを経済社会的視野から深く検討することも大事です」
 小西先生は、さらなる研究を呼びかけて講演を終えた。
 明治政府の勤王史観、官賊史観の最たるものが官製の歴史書『復古記』である。この史料はどこを見ても官軍と賊軍の戦闘記録であり、会津は徹底的に賊にされている。
 その思想が今日もなお、教科書のなかに堂々と生き続けているのである。
 すべからくそう簡単ではない。
 対立の構図の根は深い。
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                   第三章 孝明天皇謎の崩御

 あまりにも純粋な天皇と容保
 孝明天皇の絶対的な信頼で会津藩の力は一段と強まった。
 松平容保は長州征伐を強く求め、宮廷内部における会津藩の存在は一層重みを増した。 
 会津藩は隠然たる勢力を京都で築いたのである。
 容保の実弟桑名の定敬(サダイキ)も確乎たる意志の持ち主で、この時期を一橋(ヒトツバシ)、会津、桑名の一会桑(イチカイソウ)政権とみる研究者もいる。
 私がここで問題にしたいのは容保の政治家としての資質である。徳川慶喜は毀誉褒貶がすごく、その意味ではしたたかな政治家の面があった。仮病を使い、前言をいとも簡単に翻すなど日常茶飯事だった。
 政治家とはある意味でそうした使い分けも必要だろう。
 ところが、容保はそうした面が全くない。 
 慶喜に代わって天下を取ろうという野心は微塵もない。あるのは天皇に対する絶対的な忠誠心である。
 幕府にはさすがに不信感をもっていたが、これも決定的なものではない。
 ところが、慶喜はに至っては孝明天皇をも信じてはいなかった。
 軽蔑していたふしさえある。
「まことに恐れ入ったことだが、天皇は外国の事情はなにもご存じない。昔からあれは禽獣だとか、なんだということがお耳に入っているから、どうもそういう者が入ってくるのは嫌だとおっしゃる。煎じ詰めた話が犬猫と一緒にいるのは嫌だとおっしゃるのだ」
 と後日、当時のことをぶちまけている。
 たしかに、孝明天皇は対外的には鎖国復帰、国内的には佐幕という徹底的な保守主義者であった。
 その強固さは、誰がなんといおうが、頑として曲げなかった。
 この頑固さという点では会津に共通する部分があった。
 その意味では、孝明天皇と容保の二人はリズムが合った。
 容保は真面目一徹、人を疑うことなど知らずに育った純粋培養の殿様だった。
 二人の純粋培養が京都で結び付いたのである。
 つまり、一会桑政権は脆弱ではあるが、孝明天皇が存在する限り、存在の重みはあった。
 その孝明天皇が突然、病に倒れる大事件が起こった。

 根強い毒殺説
 慶応二年(1866)十二月十二日のことである。
 天皇が風邪をひいた。
 高熱が続き、十七日になって侍医が痘瘡と診断した。
 容保は定敬と一緒に参内して天機(天皇の機嫌)を窺い、ニ十一日には慶喜も参内した。
 ニ十三日ごろまで痘瘡初期の経過で、順当な症状だったが、二十四日になってにわかに病状が悪化した。
 激しい嘔吐と下痢を繰り返し、ニ十五日には顔に紫の斑点が現れ、虫の息となり、同日夜、苦しみもだえながらこの世を去った。まだ三十六歳の若さだった。
 この不思議な死はたちまち都の噂になった。
 孝明天皇は絶対の存在だった。慶喜がどう悪口をいおうが、孝明天皇が会津を支持する限り会津の軍勢は天皇の軍隊であり、官軍だった。
 開国派にとって天皇は厄介な存在だった。
 私は『幕末の会津藩』(中公新書)にも書いたが、天皇が反幕府勢力の公家に毒殺されたという噂がアッという間に広がった。
 この問題を史料解析をもとに毒殺と最初に判定したのは、歴史家ねずまさし氏だった。『中山忠能(タダヤス)日記』や毎日、加持祈祷に参内した湛海権僧正(タンカイゴンノソウジョウ)の日記をもとに検証した。中山忠能の娘慶子(ヨシコ)の「二十五日には御九穴より御脱血」という記述は、毒殺に砒素が使われたことを示していた。
「誰かが痘毒を天皇に飲ませたので天皇が罹病した。その証拠は容体をかくし、内儀の者(妻)さえも少しも容体を知らず、ニ十五日の姉の敏宮の見舞いも廷臣が止めようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だと噂されている」
 慶子は、孝明天皇の典侍で明治天皇のご生母である。
 中山忠能は明治天皇の外祖父にあたる。そんなことで『中山忠能日記』の信憑性は高いとされたのだった。
『中山忠能日記』のなかには、後宮(コウキュウ)に通じていた老女浜浦の手紙もあった。
 岩倉具視が犯人と見られるというものだ。幕府・会津派の孝明天皇のを邪魔に思い、毒を盛ったというのだった。
 戦前に毒殺説を出した人がいた。
 昭和十五年(1940)のことである。大阪の学士クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が、孝明天皇の典医伊良子光順(イラコミツオキ)の日記をもとに「岩倉具視が女官の姪(メイ)をして、天皇に一服毒を盛らしめた」と発表した。

 石井孝先生の理論
 その後、私の恩師でもある日本近代史の権威石井孝先生が数々の論文を発表し、毒殺説を主張した。
 石井先生は私が東北大学で国史を学んだとき、教授として在籍されていた。歯に衣着せぬ辛口の寸評で、怖い先生であった。
 そのころから石井先生は『増訂明治維新の国際的環境』や『日本開国史』『維新の内乱』『戊辰戦争論』などの作品を相次いで発表され、カリスマ的存在として我々の上に君臨していた。
 ただし、石井先生は『会津若松史』の編纂には参加せず、戊辰戦争の項は小西四郎先生が参画し、そのことで私は小西先生に会津戦争の指導を受けた。
 石井先生の作品『近代史を見る眼』(吉川弘文館)に、孝明天皇の死に関する詳細な記述がある。
 冒頭で石井先生は次のように述べている。
「孝明天皇は(中略)その保守的信念の強固なことにおいて、井伊直弼にも比すべきである。その天皇が、王政復古にさきだつ約一年の慶応二年十二月ニ十五日(1867.1.30)、突如、疑惑に包まれた最期をとげた。天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の1954年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」
 ねず氏を全面的に支持し、病死説をとる歴史家の原口清氏と雑誌『歴史学研究』(青木書店)で大論争を繰り広げた。
 石井先生は、急性ヒ素中毒について、法医学者の協力を得て徹底的に検証した。
 その結果、孝明天皇の症状は明らかに急性ヒ素中毒であり、痘瘡が回復した段階で激しい嘔吐、下痢があったのは、それに間違いないと断定した。
 泉秀樹著『日本暗殺総覧』(ベスト新書)でも孝明天皇の暗殺を取り上げており、著者の泉氏は、犯人として孝明天皇の愛妾(アイショウ)堀河紀子の存在をあげている。
 これが事実なら討幕派の決定的なからくりが、ここにもあったわけで、明治維新が一層いまわしいものにねってくる。
 やはりそうかというわけである。
 ただ私自身は、この問題に関して史料に当たっておらず、率直にいえば、石井先生はこう見ているという紹介の域を出ないのである。
 作家なので自由奔放に推理してもいいのだが、なまじっか歴史を学んだ手前、そうもいかない部分がある。
 限りなく灰色というところであろうか。

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津田左右吉「明治維新の研究」王政の復古は、”実現せられず、また実現し得られることでもなかった”

2022年02月17日 | 国際・政治

 前稿で、尊王攘夷急進派を主導し、明治の元勲された木戸、大久保、岩倉らが、当時のヨーロッパにおける「民権論」を受け入れようとしなかったことを、津田左右吉の「明治維新の研究」で、確認しました。
 彼らは、国王が、国家統治の実権をもたないイギリスなどの制度は”学ぶべからず”とし、天皇を現人神(現御神)として、”天皇自ら政治の実務を執られることが国体の精神である”としたのです。そして、王政復古の目標であった「天皇親政」を装い、「大日本帝国憲法」や「軍人勅諭」、「教育勅語」などを発布するとともに、諸制度を整えて、自らに都合のよい国家主義的な日本を確立したということです。
 
 しかしながら、国王や天皇の”御一存”で、国家統治ができるものではないことは、津田左右吉のいう通りだと思います。そして何より、現実に、明治維新以後の日本の政治は、薩長を中心とするかつての尊王攘夷急進派の手により、彼らの都合のよいようになされたのであり、「天皇親政」の実態は、まさに「藩閥政治」でした。だから、「天皇親政」というのは、彼らが幕府から奪い取った権力を、末永く盤石なものにするための手段であり、見せかけに過ぎなかったと思います。 
  
 自らの政治が、”議会によって左右せられることを嫌いつつ政府の意のままになる政治を欲するのは、議会によって代表せらるべき民意を無視せんとするものであるが、そういうことが天皇の政治であるというならば、天皇は民衆をおのれに対抗するものとせられることになるではないか。”という津田左右吉の指摘に誤りはないと思います。

 また、日本で「尊王」といわれた皇室への尊崇は、昔から政権の掌握者が、公家でも武家でも、変わらずにもっていた感情であり、皇室が権力と距離を置いて存在したが故の伝統であると思います。平安時代以来、公家や武家の諸権力者は、朝廷を滅ぼすだけの力を持っていても、決して、朝廷を潰そうとはしなかったと思います。徳川家康の一族も、朝廷の天皇から代々征夷大将軍に任命される道を選び、朝廷に逆らうことはしなかったのです。だから、欧米の圧力や国内体制の行き詰まりによって追い詰められた徳川慶喜は、大政奉還で、その権力を朝廷に返すことにしたのであり、それは、徳川幕府に「尊王」の精神が受け継がれてきた証しであるように思います。

 だから、日本で長く受け継がれてきた皇室の精神的権威、国家統一の象徴としての権威が、王政復古によって、薩長の政治的権力と一つのものになってしまったとき、長く維持されてきた日本の伝統が潰えたのだと思います。
 言いかえれば、日本の精神的権威、国家統一の象徴としての権威を長く維持してきた皇室が、突然、薩長を中心とする尊王攘夷急進派によって政治の表舞台に引きずり出された結果、人権や自由を制限し、外に対する膨張主義、侵略主義を正当化する「大日本帝国」になったということです。そして、”夫れ戦陣は 大命に基づき、皇軍の神髄を発揮し、攻むれば必ず取り、戦えば必ず勝ち、遍く皇動を宣布し、敵をして仰いで御稜威(ミイツ)の尊厳を感銘せしむる…”というような、狂信的ともいえる考え方に基づく侵略戦争によって、日本を破滅の危機に導いたのが、薩長を中心とする尊王攘夷急進派やったことだ、と私は思います。

 だから、津田左右吉がいうように、”いわゆる王政の復古は幕府の権力を破壊して皇室に政治上の権力をもたせようとする主張であったが、それは事実上実現せられず、また実現し得られることでもなかった。”ということが、現実であったと思います。
 私が明治維新にこだわるのは、津田左右吉がいうような日本の歴史の事実が、現在もきちんと受けとめられておらず、日々、日本の戦前回帰が進んで行くように思うからです。

 なぜ、日本の民間人戦争被害者の補償要求は受け入れず、逆に旧軍人・軍属やその遺族に対する経済的援護法案は承認し、戦前の「軍人恩給」をも復活させたのか、なぜ、憲法が変ったにもかかわらず、戦前の祝日である「神武天皇即位日(2月11日)」を「建国記念の日」としたのか、なぜ、「」が天皇を意味する「君が代」を「国歌」とし、「日の丸」を「国旗」と定めたのか、なぜ、天皇の「時空統治権」を象徴するといわれる「元号」を法制化したのか、なぜ、天皇を「元首」とし、自衛隊を「国防軍」とするような「憲法」に変えようとするのか、なぜ、選択的夫婦別姓問題や非嫡出子の法的差別問題、こども庁の名称問題で、多くの人々の切実な声を無視し、「伝統的家族観」に固執するのか、…。

 

 下記は、「明治維新の研究」津田左右吉(毎日ワンズ)の「第六章 明治憲法の成立まで」の、「」の一部を抜粋しました。
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 前節で述べた如く、民間ではイギリスの政体が立憲君主国の模範として考えられ、その国王には直接に政治の実務に与らない風習のあることと、国王は悪をなさずの格言の如く、政治の責任はすべて大臣が負い、そうしてその進退は議会の意向による慣例の存することとが、賛美せられた。我が国ではそういう慣例の生ずることによって、初めて宮廷と政府との区別が明らかにせられ、従って天皇に責任の帰することが避けられるので、特にこのことが重要視せられたのである。しかるに政府の要地を占めているとともに、いわゆる王政復古時代から伝承せられてきた天皇親政の観念に執着しているイワクラは、強硬にかかる主張に反対し、天皇自ら政治の実務を執られることが国体の精神であるというような考えから、一方では天皇と政府とを同一視するとともに、他方では議会の権力を弱くするような憲法を制定せんとし、それがためにプロシアの憲法を模範としようとした。これにはイノウエコワシ(井上毅)という策士めいた一官僚の助言が有力にはたらいていたといわれているが、イノウエにおいては、イギリスの政党内閣制、したがって内閣諸大臣が連帯責任をとることを非とし、大臣の任免は天皇の特権であること、その大臣の政策が議会の多数に容れられずともその地位を保ち得ること、大臣は天皇に対して責任を負うが国民に対しては責任のないものであること、議会の議に付すべき議案の発案権は政府のみにあること、上院の議院は勅命によるものと華士族の中から選挙せられたものに限ること、などが考えられていた。
 なおイノウエは、憲法は内閣または宮内省が起草すべきこと(宮廷と政府との区別のない考え方である)、また政府本位のものたるべきこと、イギリスの憲法では国王は空名を抱くに過ぎずして実権をもたないから、その制度は学ぶべからず、また大臣の進退は民議に委ぬべからず、というようなことを主張し、交詢社起草の私案の如きものを極力排撃している。日本の天皇は政治の実権を握り実務に当たられるべきであるというのであるが、例えば大臣の任免にしても政府のしごとにしても、天皇の御一存でできることなのか、もし政府の補佐と施行とを要するとするならば、それはおのずから政府が逆に天皇を抑制することになりがちであるから、政治の実権を握るのは天皇ではなくして政府であることになるではないか。議会によって左右せられることを嫌いつつ政府の意のままになる政治を欲するのは、議会によって代表せらるべき民意を無視せんとするものであるが、そういうことが天皇の政治であるというならば、天皇は民衆をおのれに対抗するものとせられることになるではないか。イノウエは、士族には王室維持の思想をもつものが多いから、彼らを皇室の味方とすることを考えるがよく、そうしてそれがために旧藩諸侯の思想をよく指導せよ、といっているが、当時の旧藩諸侯に士族を制御する力があるように思っていることを除けてみても、これは明らかに士族以外の民衆を皇室の敵とするものではないか。イノウエの輩がこういう偏狭な考えで日本の憲法の制定ができると思っていたのはあまりにも奇怪な事実である。
 ・・・
 要するに、イトウはドイツの学者から与えられた知識とその助言とに満足して帰朝し、ロエスレルが起草した私案(憲法原規といわれたもの)をも参考にして、秘密裏に憲法の起草に着手した。そうしてそれとともに政府の組織を改革して新しい内閣制度を立て、みずから首相と宮内大臣とを兼ねて政府と宮廷に対する権力をその掌中に収めた(彼の思想においても政府と宮廷とがはっきり区別せられていない)。ところが民間人の間には、かかる秘密裏の憲法起草に対して種々の疑惑が生じ、それとともに、民間の政治運動に対する政府の甚だしき圧迫的態度に反感を抱くものが多く、彼らの論議は囂々として起こり、それに乗じて政府の顛覆を叫ぶもの暴動を起こすものが頻々として現われた。政府は国家を危険に陥れるものと速断して重大視し、遂にかの保安条例を設けて急速にそれを実行した。民間と政府とのかくの如き軋轢が生じたのは、要するに双方の疑惑と誤解と軽率な行動とによるものであるが、政府が一方で憲法の制定に従事しながら他方でかかる事態を惹起した罪は、甚だ大きいといわねばならぬ。
  さて、ともかくも憲法の草案は一応でき上ったので、イトウは憲法の審議を主なる任務として新設せられた枢密院の議長の任に就いた。かくして明治二十二年における「大日本帝国憲法」の発布が準備せられたのである。この憲法が王政復古の目標とせられた「天皇親政」の思想を継承するとともに、プロシアの政治思想を取り入れたものであることはいうまでもない。
 この憲法の根本は、天皇が祖宗から承けられた統治の大権をもっておられ、それによって国家を統治せられる、ということであり、君民同治という考え方が強く排斥せられている。
 ・・・
 だから発布の日の祖宗に対して誓われた告文(コウモン)には「皇室典範及び憲法を制定す」といい、前文には「茲に大憲を制定し」といい、『憲法義解』に「憲法は天皇の独り定むるところたり」といってある如く、憲法は天皇御自身の定められたもの、いわゆる欽定憲法である。特に告文には、皇室の家法である皇室典範が憲法よりも上位にある如き書き方をしてあり、憲法そのものの条文にも、第七十四条に「皇室典範の改正は帝国議会の議を経るを要せず」と特に記され、また『憲法義解』の憲法第二条の解説においては、皇位の継承を憲法に掲げざるは「将来に臣民の干渉を容れざるを示す」といい放ってある、そのいい方に注意すべきである。摂政を置かれることいついての第十七条の義解に「摂政を置くの当否を定むるは専ら皇室に属すべくして、而して臣民の容議するところにあらず」または、両院が摂政の必要を議決することを憲法に掲ぐる如きは、「皇室の大事を以て民議の多数に委ね、皇統の尊厳を干涜(カントク)するの漸(ゼン=糸口)を啓ものに近し」とまで極限しているほどである。天皇の大権についても、あるいは「議会の参賛に仮らず」とか「議会の関渉によらず」(第十三条)とかいっている場合がある。
 ・・・
 そうして、上記の憲法の前文などや『憲法義解』において、憲法は天皇の独り定められたものとなっているにもかかわらず、それが政府者の意向によって起草審議せられたものであることの
明白な事実を、どう考うべきであるかは、『憲法義解』などの説明し得ないところである。審議には天皇が親臨せられたけれど、それによって天皇が独り定められたいわるべきものでないことは、と明らかであろう。これは天皇に関する憲法の多くの条文上の規定にについてもまたいい得られることであって、それは政府の起草者が起草し枢密院の審議を経たものである。条文のみならず、付属文書ともいうべき告文や勅語にもまた政府者の意見が盛られていることは、当然推測せられる。上に引いたような辞句のあるのも、「政府者の態度の現われとして見らるべきであろう。こういう点においても天皇と政府とが混一せられていることを見逃してはならぬ。また条文上の規定は、起草者などにおいては、ただ規定しておけばそれで国民がその通りに考えもし信じもして、すべてが規定のままに実行せられる思っていたかもしれぬが、それは大きな誤りである。後にいうように条文にどうなっていても、事実としてはそのままに行なわれない規定が天皇と政府との関係には多いことが、明らかだからである。
 もう一つ注意すべきは、憲法において天皇の神聖不可侵の規定と大臣責任のとが切り離されていることである。この二つはいずれの立憲君主国の憲法にもその条項があり、互いに密接な関連を有するものとして記されていて、プロシアのですらそうなっているのに、この日本の憲法には、大臣の責任は国務大臣の章に輔弼の責任という意義で、従ってそれが天皇に対するものとして取り扱われ、国民
または議会にたいするものとはなっていない。国民または議会に対するものならば、それは天皇に代わって責任を負うことになるであろうが、そういうことは認められなかったらしい。現に『憲法義解』には「君主に代わり責に任ずるにあらざるなり」と明記してある。ある時期に書かれた『憲法義解』の稿本には、神聖不可侵の条項の解説に、至尊に代わって負う大臣の責任のことが述べてあったのに、公表せられたものにはそれが全く削除せられているが、これはそのためではなるまいか。従って天皇の神聖不可侵の規定には、天皇の政治上の御行動とは無関係な、何らかの神秘的な意義でもあるかの如くに感ぜられる。
 多くの国の憲法には、神聖不可侵の国王の身体に関することとして記されているのに、日本の憲法に「身体」の語のないことも不可侵が法の上の問題とせられていないことをしめすものとして、またこの感じを強める。もっとも直接に身体にかんすることは、遠い昔には天皇流謫(ルタク)(※島流し)のことがあり、保元の乱や承久や元弘の変の場合などにも同じことがかつて行われた例があるのみで、その後は全く史上にその跡を断ったのみならず、これらの例はいずれも時の権家のしたことであり、それにはまた皇族間の紛争というようなことが機会となったものであって、国民の関することではなかった。天皇と国民の抗争というようなことは、我が国では建国以来かつてなかったのであるから、憲法にそれを規定する必要はなかったであろうが、しからばその「侵す」ということは何を考えて書かれたのか。…

 

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津田左右吉「明治維新の研究」 木戸、大久保、岩倉の立憲政体に関する意見

2022年02月12日 | 国際・政治

 津田左右吉は、「明治維新の研究」(毎日ワンズ)の、”はじめに──明治維新史の取扱いについて”で、”維新の変革は民衆の要望から出たことではなく、民衆の力なり行動なりによって実現せられたものでもなく、また民衆を背景にしたり基礎にしたりして行なわれたものでもない。一般の反幕府的空気が背景とも地盤ともなってはいるが、当面のしごとは、主として雄藩の諸侯の家臣のしわざであり、そうしてすべてが朝廷の政令の形において行なわれた。”と書いています。私自身は、津田左右吉のいう、この”雄藩の諸侯の家臣”を、当初から”尊王攘夷急進派”としていろいろ書いてきたように思います。

 今回は、同書の「第六章 明治憲法の成立まで」のなかの、”キド、オオクボ、イワクラ、三人の立憲政体に関する意見”に関する文章の一部を抜萃しましたが、尊王攘夷急進派を主導し、明治の元勲されている木戸、大久保、岩倉らは、民衆の意見を聞こうとはしていなかったこと、言いかえれば、民権の否定論者といえる考え方をしていたことがわかります。
 
 京都守護職として、孝明天皇から厚い信頼を得ていた会津藩が、突然、でっち上げられた理由によって、「朝敵」の汚名を着せられ、戊辰戦争で「賊軍」とされたために、その後の日本では、天皇を戴く薩長が正義の集団であり、幕府を支え、薩長と戦った会津等は、不義の集団であったとする歴史が定着してしまったように思います。
 でも、そうした歴史が事実に反することは、津田左右吉の「明治維新の研究」で、明らかだと思います。

 幕末から明治の初めの頃の歴史に関する本では、よく、当時の京都や江戸では、”テロの嵐”や”攘夷の嵐”が吹き荒れた、というような文章を目にしますが、それは、井伊直弼が桜田門外で水戸の浪士に暗殺されて以降、長州を中心とするいわゆる尊王攘夷急進派の志士や浪人たちが公卿の一派と提携し、尊王攘夷をかかげ、「天誅」と称して要人暗殺を繰り返したことをいっているのだと思います。
 外国との新たな関係を模索し、修好通商条約締結に踏み切った幕府関係者や公武合体派の公卿が暗殺の対象で、時には生首が晒されることもあったため、多くの人々を震撼させたことが、いろいろなかたちで伝えられてきたということだ思います。
 
 でも、実は、当時の尊王攘夷急進派が掲げる「尊王」も「攘夷」も、津田左右吉がいうように、討幕の口実であり、幕府を倒すための手段でした。そして注目すべきは、会津範を信頼し、公武合体を望んでいた孝明天皇の死が、あまりに不自然であり、「毒殺」の可能性がきわめて高いということです。目的達成のために、手段を選ばず、”要人暗殺”というテロを繰り返した尊王攘夷急進派にとっては、孝明天皇の「毒殺」も、幕府を倒すためには必要だったのだろうと、私は推察します。

 そう推察する理由はいろいろありますが、例えば、1862年(文久2年)、イギリスの駐日公使館の通訳として横浜来たイギリスの外交官アーネスト・サトウは、『一外交官の見た明治維新』に、”噂によれば、天皇(ミカド)は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだという。”と書いていました。

 また、伊藤博文を殺害して処刑された安重根も、殺害理由として「伊藤博文の罪状15ヶ条」を列挙し、その第14で、”伊藤さんは、42年前に、現日本皇帝の御父君に当たられる御方を害しました。そのことはみな、韓国民が知っております”と、孝明天皇が殺されたことについて証言しています。
 
 さらに、佐々木克教授も、孝明天皇の毒殺を取り上げていますが、その根拠として、当時の主治医の日記をあげています。そして、そのことを明らかにしたのは、主治医の子孫である医師伊良子光孝氏であるということです。その他、孝明天皇の死の直後に、ひそかに周辺で「毒殺」の噂が広がっていたということや、当時、天皇のまわりにいた関係者の日記などにも、毒殺を疑わせるものがいくつかあるといいます。

 だから、自分たちに都合の悪い勅命は「非義の勅命」であるから従う必要はないと主張したり、また、自分たちに都合のよい「偽勅」を発したり、天皇から受け取ったものではない「錦旗」を自ら作って利用したり(偽錦旗問題)したことと考え合わせると、「毒殺」の可能性は極めて高いと思います。

 大久保利通は「非義の勅命」について”謝罪した長州を討つのは、武家たる者のなすべき正義の行動ではない。また長州征討の戦争は、内乱となる危険性が高い。内乱が国家を傾けることは清国の例で明らかで、諸藩も長州征討に反対している。それなのになぜ天皇・朝廷は勅許をするのか”などと主張したようですが、その主張に基づけば、徳川慶喜が大政を奉還し、恭順の姿勢を示していた上に、外圧に備える必要のあった時期の戊辰戦争を正当化できるものではないと思います。
 孝明天皇が、強引に妹の「和宮」を将軍家茂に降嫁させたため、討幕を認めず、「公武一和」を強く望んでおられたということも、無視してはならないことだと思います。

 心にもない「尊王攘夷」をかかげ、様々な謀略によって民衆を欺瞞しつつ、権力を奪い取るため天皇をも手に掛けるような尊王攘夷急進派の指導者、木戸、大久保、岩倉らが、民権の否定論者であることに、不思議はないと思います。 
 
 津田左右吉によると、木戸は”我が国ではまだそこまで進んでいず、人民の会議を設けるまでには時日を要するから、いわゆる君民同治の憲法を立てるわけにはゆかぬ”といい、

 大久保は、”国法の根本は「上君権を定め下民権を限る」という語で表現せられているが、これは民権に対して君主の実権を重くする意味を含んだものであり、こういう考え方による君民共治の制が日本のとるべき定律国法の君主政治である、土地・風俗・人情・時勢の違うところに発達したヨーロッパの君民共治の制は、軽々に学んではならぬ”、と主張し、
 岩倉に至っては、事理を解せざることオオクボよりも一層甚だしい。彼は、”立憲政体を立てることは法治の良法であるが、国民の会議を開くことはその未弊の大なるものがある、明治八年の詔勅によって政を施さば復古の大業は破れ大権は地に墜ちる、といっている。”とのことですが、真実は、民権を受け入れると、せっかく奪い取った権力が危うくなるということではないかと思います。
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             第六章 明治憲法の成立まで

     四
 ここまで考えてきたところで、当時の政府の中心人物であったキド、オオクボ、イワクラ、三人の立憲政体に関する意見を一応見ておくことにしよう。このうちで国憲の制定に最も多く関心をもっていたのはキドであって、それはヨーロッパ巡遊中からのことであると伝えられている。そのキドが明治六年に当局者に提出した意見書及び自記には、ヨーロッパの文明国には政規(憲法)が定まっていて、君主も人民もみなそれによって固有の権利を守り、天賦の自由を得、一致協力して、即ち君民同治によって国政を運営するのであるが、我が国ではまだそこまで進んでいず、人民の会議を設けるまでには時日を要するから、いわゆる君民同治の憲法を立てるわけにはゆかぬ。天皇の叡旨により民意の一致しているところを忖度し、それを政府に下して政務を処理させる他はない、というようなことをいっている。人に固有の権利があり天賦の自由のあることを認め、民選議院の必要をも知り、他日元老院及び下院(民選議院)を開設しなければならぬことを考えてはいるが、政府にも人民にもその用意ができていないから、いまのところは、五箇条の御誓文に現われている如く、「民と斯(ココ)に居り民と之を守」ろうとせられる天皇の叡旨によるべきであるというのらしい。
 天皇の御一存で民意がことごとく政治の上に実現せられ、政規ができればそれがそのままに行なわれる、という意見のように解せられるが、そういうことが果たしてあり得るかどうか。天皇が民意のあるところを知られるのには、その業を補佐するものがなくてはなるまいが、何人がそれに当たるか、またそれに当たるものがすべて透明なガラスの如く一点の曇りもなく民意を天皇に伝えることができるか。いわゆる民意とは直接に関係のないことながら、叡旨によって宣布せられたはずの五箇条の御誓文が、実は真の叡旨から出たものでないことも、またその第一条に掲げられた会議政治・公論政治
の主張がほとんど実行せられずに終わったことも、キドは十分知っているはずではないか。要するにこれは、そうあるべきものと考えたこと、またはそうありたいと思ったことを、現にそうであるかの如く錯覚するところから生じた考え方である。またこういう考えはおのずから、民意を明らかに知悉しまた政府に政務をただしく処理させる責任を天皇に負わせることになるが、日本の政治はそれでよいのか。あるいはまた天皇の忖度せられることが、できるほどに民意の一致するところがあるならば、人民の会議を開いてそれを表明させることもできるはずではないか。人民みずから表明することのできないような民意を、どうして天皇が知られるのか。これらのことを考えると、キドの思想の根本には、みずから知らずしてそのいうところとは別な何ものかが潜んでいるのではなかろうか、と推測せられる。 

 次にはオオクボの意見である。オオクボも明治六年には根本律法(憲法)制定の必要を考えているが、それは政府の基礎を確乎不抜の地位に置くのが主なる目的であった。政体は民主政治(共和政治)も君主専制も、日本ではよくない、定律国法の君主政治(立憲君主制)がよい、その国宝の根本は「上君権を定め下民権を限る」という語で表現せられているが、これは民権に対して君主の実権を重くする意味を含んだものであり、こういう考え方による君民共治の制が日本のとるべき定律国法の君主政治である、土地・風俗・人情・時勢の違うところに発達したヨーロッパの君民共治の制は、軽々に学んではならぬ、という。三権分立の主義は採用するが、立法部たる議政院は、華族の互選によるもの、勅選によるもの、並びに行政諸省の長官を議員とする一院だけであって、民選議員は設けない、ともいう。だから定律国法とはいうけれども、その実、天皇または政府の専制とほとんどことなるところがないではないか。天皇は国政  を行なうに無土の特権を有せられるとともに、政事上の過失に関せず、一般法律の羈束(※拘束)をうけられない、としてあるが、大臣責任の制の立っていない当時の日本で施政上の責任は誰が負うのか。それらが明らかになっていなくては、責任はおのずから天皇に帰することになるではないか。
 明治の初年においては、天皇は民衆を安撫する道徳的責務をもっておられるという考えが政府者の間に存在し、詔勅の形で発布せられるものにもそのことが反覆言明してあり、天皇の権ということはいわれなかったのに、この頃になって君権という語が政府者によって用いられ、しかもそれが民権に対していわれているのは、ヨーロッパの法制上の思想が取り入れられ、それによって明治初年の上記の道徳的思想が変改せられたことを示すものであろう。ヨーロッパのこの法制思想は、君主と民衆との対立抗争から生じたものであって、かかる抗争は、我が国においては、古来いまだかつてなかったことであり、そこに日本の風俗・人情のヨーロッパと違ったところがあるのに、政府者はそれを考えずに君権の思想を取り入れたのである。オオクボが軽々に学んではならないといったことを、オオクボみずから軽々に学んだのである。
 オオクボが学ぶべからずといったのは君民共治の制のことであるが、それは本来君民の抗争から生じたことであるから、起源に遡ってその本質を考えれば、君民共治の制は即ち君権民権対立の思想の一つの現われなのである。勿論オオクボはこういう考え方をしたのではなく、現実の状態としての君民共治の制のことをいっているのであるが、民権を抑えて君権を強めようとする意見には、ただそれだけのこととして見ても、君民の抗争という概念がその根底になくてはならぬのである。
 さてオオクボは、君権と民権とを対立するものとし、従ってまた民権が強くなれば君権は自ずから弱められるから、君権を強くするには民権を弱くしなければならぬ、と考えていたようであるが、こういう意味での君権といい、民権というものはそもそも何を指していうのか。民権と対立する君権は、君権という名から見ても、政治的意義のものとする他はあるまい。さすれば、民権というのは一身を保護し財産を有する権利とか住居の自由とかいうようないわゆる私権を指し、そういう民権を制限したり束縛したりする政治上の権力を君権というのか、とも思われるが、かかる民権の明らかな概念をオオクボがもっていたかどうか。それよりもむしろ、民に参政の権即ちいわゆる公権を与えることがあるにしても、それが最小限にとどめることが君権を強くする所以であるというのかとも思われ、そう解する方が当たっているらしくもある。いずれにしても民権を抑えて君権を強くすることが、国家にとって何の益があるとするのか、あるいはまた民権の意義をどう解するにしても、君権を強くすることは、実際政治の上においては政府の権力を強くすることになるから、政府の基礎を確乎不抜の地位に置くために君権を強くしなければならぬと、いうのであろうか。もしそうとすればこれは天皇と政府とを混同することになり、そこから政府の失政を天皇の責任とする危険が生ずるが、それでよいのか。要するに君権と民権とを対立するもの、根本的には君と民とを対立させてこの二つが相剋するものとするところにこういう考えの基礎がある。オオクボの思想はこういうものではなかろうか。もしそうならば、キドのとは幾分の隔たりがある。
 ところが、民選議院の建白者の思想は、天皇と人民との関係においてオオクボとはまるで違っている。建白の初めに、「方今政権の帰するところを察するに、上帝室に在らず下人民に在らず、独り有司(※薩長出身者)に帰す」といい、そこから、「帝室漸くその尊栄を失」い「言路壅蔽󠄀(ヨウヘイ)」して人民の「困苦告ぐるなし」といっているのを見ると、帝室と人民との中間に介在する有司、即ち政府が政権をもっているために、帝室と人民とが隔離し、帝室も人民も好ましからぬ状態に置かれている、という考え方がその根底にあることが知られる。だからこの状態を改めるには、民選議院を開設して天下の公議を張り人民に天下のことに与る気象を養わせ、天下を分任する義務を弁知させることが必要である、そうすれば、中間の政府の行動がそれによって制約せられるために君主・人民の間が融合して一体となることができる、というのである。この推論の過程にはなお他の思想も混入していて、考え方が複雑になり混乱してもいるが、それを除いてみると、こういうことになる。ここに君主と書いたのは同じことをいっている愛国公党の本誓の語をとったので、建白書にはそれが「政府」となっているが、君主と政府との区別を明らかにしないことは、この頃のものには往々にして見ることがあるので、これは当時の状態では政(マツリゴト)は君主の政であって、それを執行するのが政府であるとせられているためらしく、この混雑が、一方では天皇と政府とを曖昧に結びつけ、政治上の責任がおのずから天皇に帰することになるとともに、他方では政府の権力を強大にすることにもなる、というのである。そこで民選議院が設けられ公議によって政治の基礎が定まり、天皇が自ら政治の局に当られず、議院の意向に従って政府が政務を執行するようになれば、この混雑と曖昧さとがなくなるとともに、政府の権力も強大でなくなり、従って上記の弊害は生じない、そうしてそれによって政治上の責任の天皇に帰することがないようになる、またそれとともに君権と民権との対立もなく、根本的には君と民との対立がないことになる。君民の融合一致はこうして行なわれ、そこに君民同治の政体ができ上る、という。
 以上は、民選議院建白書の意中を忖度していったのであって、彼らはこれほどはっきり考えていたのではないかも知れぬが、建白書を熟読してみれば、その思想の向かうところはほぼ推知し得られよう。

オカモト(岡本健三郎)、コムロ、フルサワの三人の署名のある民選議院弁に、イギリスの帝室の尊栄は議院の設けが帝室の支柱となっているからだといっていることが、ここにいったのとはやや違った意味を含んだことながら、参考せられよう。オオクボの如き政権を握っている当路者は、当時の政府の地位を固めることに熱心なあまりに、政府を天皇の政を執行するものの如く見るとともに、天皇と人民とを対立するものとして考えたのに、民選議院の建白書はそれの融合一致を目指していたので、それにはイギリスの政体を模範にすることを念頭に置いたからだという事情もある。
 ・・・ 
 …近年のイギリスの国王はみずから政治の衝に当たらず、ただ近代になって養われてきた道徳的情味の饒(ユタ)かな国民的信望を通して、国政におのずからなる暗示を与えるのみであるが、法制の運用も究竟には道徳的なはたらきにまつものがあるのである。そうしてイギリスの王室のこの態度は、遠い昔から政治に対して直接に関与せられなかったために、かえって精神的に民衆と接触し民衆と一つになっておられた我が国の皇室との、類似のあることが考えられる。宮廷と政府とが全く区別せられていたトクガワ氏の幕府時代の状態は、それを示すものである。
 不幸にして幕末に至りいわゆる志士・浪人の声高い宣伝によって誤った勤王論が一世を風靡し、その結果、いわゆる王政復古が行なわれて、皇室を政治の世界に引き下ろし、天皇親政というが如き実現不可能な状態を外観上成立させ、従ってそれがために天皇と政府とを混同させ、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った。だから民選議院論者が、イギリスの政体を模範として天皇と人民との一致を図ったのは、我が国古来の風習を復活させようとしたのだとも見られる。明治の初年の思想における天皇の民衆に対する態度が、民衆の生活を安泰にする道徳的責務を全うせられるところにあった、と上にいったのも、このことと関連がある。天皇のこの道徳的責務に関する自覚は、一つは天皇が直接に政治に関与せられないところに、それの生じた重要な理由があるからである。民権に対する君権の伸張をいうが如きは、日本の皇室の昔からの民衆に対せられる態度とは正反対である。
 ところが上にいった如く天皇と政府との区別がはっきりせず、曖昧に結びつけられていることは、いわゆる王政復古のときからのことであって、昔から伝えられてきた「朝廷」の概念に既にその一つの由来があり、天皇親政の思想にもそれが現われているが、明治時代になって政府に対し武力的反抗の態度をとったものすべて「賊」と称し、皇室に反抗するものの如く取り扱ったのも、またそれである。エトウ・シンペイ(江藤新平)もサイゴウ・タカモリも政府に反抗したのであって、皇室に対する反逆者ではなかったのに、政府はそう見なしたのである(エトウやサイゴウが武力的な反抗を企てたのは、時勢を洞見するの明がなく、また自己の地位の如何なるものであるかを自覚しないからであって、その行動は愚の至りであるが、それは別の問題である)。薩長政府に対抗せんとしたトクガワ氏の家臣や、アイヅまたゴリョウカクの籠城者を逆賊としたのも同様であって、これは名を皇室にかりた薩長政府の欺瞞政策の現われであり、虚偽の宣伝であって、トクガワ氏の家臣などが武力によって薩長政府に反抗したことにはそれだけの理由があったが、薩長政府はこういう態度をとったのである。天皇と政府との混淆は、時の政府に拠っている権力者が名を天皇にかりてその権力を用いるに恰好な事情である。
 ・・・
 イワクラに至っては、事理を解せざることオオクボよりも一層甚だしい。彼は、立憲政体を立てることは法治の良法であるが、国民の会議を開くことはその未弊の大なるものがある、明治八年の詔勅によって政を施さば復古の大業は破れ大権は地に墜ちる、といっている。彼の立憲政体といっていおるのは何を指すのか明らかでないが、推測するに、ただ国家の大本を成文によって定めるというだけのことらしい。明治十一年になっても、同八年の勅命は臣民に公然国政を論議する権利を与えたものであり、固有の国体を変更するものであるから、この際、帝室の典憲を定めて君権を強固にし民権の増大を防がねばならぬといい、同十五年になるとこの態度が一層甚だしくなり、同八年の聖詔は下民の上(カミ)を罔(アミ)する途を開き大権の下に移る端を発し、ニ千五百余年来確然不易の国体を一変するおそれがあるとし、当時ようやく活気を呈してきた府県会(※地方会議)を中止し、陸海軍及び警視の勢威を左右に提(ヒツサ)げ、凛然として下に臨み、民心をして戦慄せしめねばならぬ、といい、さらに政府は皇室の施政のところであるといい、我が国の法として古来皇室が全国の土地を奄有(エンユウ)し、人民は尺寸の土地をも私有することができなかったのを、同五年に土地所有権が人民に与えられ、政府を維持するために租税を収めることになってから、人民が参政権を要求するようになった(これは政府に租税を納める義務のあるものは政治に参与する権利がある、といっている民選議院開設の建白書にも見える思想を捉えていったものであろう)、だから今日はせめて官有地をことごとく皇室の領有とし、陸海軍の費用はことごとくみな皇室財産の収入をもって支弁することにせねばならぬ、とまでいっている。(昔は全国の土地がすべて皇室の有であったということが明治元年~二年の頃しきりに政府によって宣伝せられ、版籍奉還の理由として説かれもしたが、これは財産としての土地の所有と政治的意義での領有とを混同したものであるのみならず、政治的領有の意義においても上代の状態に背いている妄言である)。
 この明治十五年は、かの同十二、三年頃の国会開設の請願運動が盛んであって、言論機関の上には過激な言辞も現われた時期の後であり、政府でオオクマ・シゲノブ(大隈重信)排斥事件を引き起こした同十四年の翌年でもあるから、それに刺激せられてイワクラのいうところもまた甚だしく過激になったという事情もあろうが、彼の素志がやはりここにあったからであろう。彼は本来極度の専制主義者であったらしく、皇室がもたれなべならなぬ政治的権力は絶対のものであり、人民はもともとその皇室の政治に容喙すべきではない、という考えをもっていたと推測せられる。近頃世間でもともすればいわれている天皇絶対主義ということは、この頃のイワクラの主張によく当てはまるものであって、自由民権説が流行し国会開設の要求が強まった時勢に対する反動としていまれた思想なのである。
明治十三、四年の頃には民間の国会開設論に圧せられて国会を開くがよいといったこともあるが、それとても我が国体を本(モト)とすべきだといっているので、その国体というのはここにいったような意義のものであったろう。彼の意見も時とともに動揺したであろうし、場合によっていうことが違っていたでもあろうが、ほぼこう解せられる。ここにいったことはかなり後までのを含んでいるが、彼の意見の全体の傾向を見るためにはそれが必要であるから、こういうことを試みたのである。
 ただ彼について特にいっておきたいこと、キドやオオクボについていったよりも一層強くいわねばならぬことは、天皇が政治の実権をもたれ、みずから政治の衝にあたられることになると、政治上の責任はすべて天皇に帰することになるが、それでよいのか、また天皇の政治といっても、それは天皇御一人でできるはずはなく、政府の補佐が必要であり、また政府によってしっこうせれれねばならぬから、それは天皇と政府とを混同することになるが、其政府には何人が当たりそうしてどういう責任ををもつのか、畢竟天皇と政府との関係をどう規定するのか。
 ササキ・タカユキ(佐々木高行)が明治十三年に、今日は至尊(※天皇)と大臣との責任に権限の規定がないから、善事大臣に帰するも悪事の責任は至尊に帰することになる、これは恐るべきことである、といっていることを参考にすべきである。日本人の一般の風習としては、善政はそれを君主の徳に帰し、失政はそれを臣下の過ちとするのが常であるのに、君主の権ということが主張せられるようになると、おのずからこの風習に変化が生ずることも考えられねばならぬ。自由民権論者のうちに、君主を人民に対立するものとし、君主の暴虐ということを叫んでいるもののあるのは、必ずしも日本のことをいっているのではないにしても、理論的には、イワクラのいうところとおのずから対応することになるのではないか。オオクボやイワクラの主張は、その根底に君民闘争の思想が伏在するから、天皇が民衆を安泰にする責務をもっておられるとし、天皇を道徳的の存在と見ていた明治初年の政府者の思想とは、明らかに背反している。オオクボもイワクラもおのれらの関与した重大事を全く忘れていたと見える。
 ところでオオクボやイワクラが政府を確乎不抜の地位に置こうとしたことには、彼らとしては一応の理由がないでもなかった。幕府の顛覆も封建制度・武士制度の廃止も、学制の創始も大学の開設も、陸海軍の整備も鉄道・郵便・電信の施設も、あるいはまた北海道の開拓の進歩も、みな新政府の事業であり、シナ・朝鮮に対する外交上の処置も琉球の内地化もまた同様であって、これらはみな明治政府当局者の治績というべきものであり、彼らの誇りとすべきものである。その上に彼らは幕府を討滅しサイゴウなどの乱を平定したことによって、戦勝者の地歩を占めまたその名声を博し得たので、彼らはそれを思うにつけて大なる自負の念を抱き、かかる政府を永遠に持続させることに堅い自信をもっていたに違いない。これは明治初年の政府者の心理としてはまだもち得なかったことである。
 ところがこの心理には皇室の観念が、いろぴろの程度さまざまの形において伴っているので、幕府を顛覆させたのは皇室の稜威であると考えられ、封建制度が廃せられて国家の統一が成就したのは、政権が皇室に帰したからであることが事実として知られ、その他のことについても直接または間接に、あるいは多かれ少なかれ同じような観察がせられるので、上記の自負または自信には皇室の名または声望が与っていたと感ぜられる。そこで一面では、政府の治績の挙がったのは皇室の力であり、その基礎の固められてきたのもまた同じであると考えられるとともに、たの一面では皇室の権威を強めることによって政府の基礎が固められ、その治績が挙がるとせられ、皇室と政府とがこの意味でも混一市手みられることいなる。オオクボやイワクラの思想にはこういう考えが意識して、またはせずして、存在したと解せられる。
 この間の消息を一言にして覆うと、政府の当局者はおのれらの地位を皇室と一なるものと思っていたようである。皇室の政は衆庶の関与すべきところではないというのも、君民同治を強く否認するのも、その理由はここにあるので、国政に関しては皇室を被治者としての民衆に対立するものと認めるとともに、治者としてのおのれらは皇室と結びついているとすうrのである。こういう考え方は、要するに皇室と国民との間柄を政治的権力関係において認めようとするのであり、直截にいうと皇室は国民に対して強い権力をもたれることになるが、しかし国民の現実の心生活においては、国民が皇室を敬愛しその安泰と永続とを欲するのは、そういう権力関係によるのではない。日本の皇室の如く国民全体が遠い昔から親しい関係を続けてもっている存在に対しては、国民はおのずから深い愛着を感じ、その愛着がまたその関係を長く続かせてゆくのでもあるとともに、長く続いてきたことによってそれに特殊の美しさが生じ、従ってその美しさを傷つけまいとし、またますますそれを美しくしてゆこうとする心情が養われる。歳月の経つにつれて皇室が国民自身の生活に融け込み自身のうちの存在とざるのはこれがためであって、そこからその永続と安泰とを念願することになるのである。
 なお皇室が一系であるために、昔からの文化上の伝統が有力にはあたらいていて一種特異の雰囲気がこに揺曳(ヨウエイ)していることも、この心情と関連するところがある。要するに国民の皇室に対する感情は歴史的のものであり、国民の内生活の表現なのである。政治的の権力関係でそれを律しようとするのは、見当違いの甚だしきものといわねばならぬ。
 ・・・

     六
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 同じく明治十四年にフクチゲンイチロウ(福地源一郎)の起草したという国憲意見にも、日本を君民同治であるべきものと規定し、天皇は神聖にして法をもって問い奉るべきにあらず、政治に関しては大臣が天皇に代わり国民に対してその責に任ずべきである、といい、今日の政治はすべて勅命によってせられるが故に、大臣は天皇に対しては責任があるけれども国民に対してはそれがなく、国民に対する責任は直ちに天皇に集まり、場合によっては天下の怨府となられる危険があるが、立憲政治が行なわれ君民同治の政体となればそういうことがなくなる、大臣にこの責任があるから天皇のその任免は輿望(ヨボウ)の有無によらねばならぬ、ともいっている。これもまたイギリスの政体を学ぶべきものとしたのである。(※旧幕臣の)フクチにしてなおこう考えているのである。
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 前節とこの節とで述べたことは、明治政府の中心人物であり、維新以来引き続いて要路を占めていたキド、オオクボ、及びイワクラの立憲政体についての意見、並びに民間に起こった民選議院開設論及び私擬憲法案の主なるものの大要であるが、オオクボやイワクラの主張の如きは、五箇条の御誓文として宣布せられた維新政府の政体に関する公文の規定を、当時おのれらが関与して定めたものであるにかかわらず、全く無視し、特にイワクラに至っては、その後における一般民衆の土地所有権を認めたり、元老院を開設したりしたことなど、彼のその議に与ったことが当然推測せられねばならぬにかかわらず、それを国家の大本を破壊するものとして甚だしく非難しているのは、奇怪である。
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津田左右吉「明治維新の研究」、討幕の密勅は”真偽是非を転倒したもの”

2022年02月05日 | 国際・政治

 津田左右吉は、「明治維新の研究」において、1861年(文久元年)頃からの、薩長の策謀と討幕に至る経過をいろいろな角度から明らかにしていますが、それによると、薩長のかかげた「尊王」も、「攘夷」も、幕府を倒すための手段であり、口実であったことがよくわかります。
 またそれは、”彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出た”ものだとも指摘していますが、薩長が関が原の怨念を引きずっていたという話もあり、頷けます。だから、彼らが”幕府及びケイキ(徳川慶喜)を烈(ハゲ)しく非難し”、”そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。”ということなのだと思います。
 また、1862年(文久2年)の7月頃から、京都を中心に、尊王攘夷急進派による「テロの嵐」が吹き荒れたということは、よく知られていますが、それも、”幕府に対する憎悪の念”がなければ考えられないことだと思います。したがって私は、薩長を中心とする当時の尊王攘夷急進派が、武力をもって幕府から権力を奪おうとする野蛮な集団になっていたように思います。
 ところが、現在の日本では、尊王攘夷急進派による討幕も王政復古も、日本の近代化のためには不可欠であり、当然のことであったかのように受けとめられ、大事なことが十分理解されていないように思います。確かに、諸外国との条約を締結するためには、幕藩体制を廃止し、一国家としての法(憲法)を定めることなどは、避けられないことであったと思います。でも、幕府の関係者がそれを視野に入れ、諸侯会議などで、話し合いが進んでいたという事実は、忘れられてはならないことだと思います。武力で幕府を倒す必要性はなかったのではないかということです。
 また、日本に定着していた”政権を行使せられない”「皇室」の存在が、尊王攘夷急進派によって歪められ、天皇が神聖視されるようになり、権力によって政治利用されるようになったことも忘れられてはならないことだと思います。
 下記は、「明治維新の研究」津田左右吉(毎日ワンズ)から、私が忘れないようにしたいと思った部分を抜萃しました。
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                第四章 トクガワ将軍の「大政奉還」
     三

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 このようにして、皇室は国家とともに永久であり、戦国時代の如く政治的に日本がほとんど分裂していた世でさえも、皇室の存在によって日本の一国であることが日本人のすべてに覚知せられていたのである。そうして国民がかかる皇室の存在を誇りとし、それを永遠にもち続けてゆこうとっするのであるから、現代の用語では、皇室の永遠の生命を有する国家の象徴であられ、国民の独立と統一の象徴であられ、また国民精神の象徴であられる、というべきである。これがあ、昔から長い歴史の進展につれて、皇室の本質となってきたことであって、政権をみずから行使せられることが本質であるのではない。かえって、政権を行使せられないことがこの本質の永遠に保たれる所以であって、それは歴史的事実の示すところである。これは久しい前から、折に触れてわたくしのいってきたことであるが、いまここでまたあそれを繰り返すのは、王政復古のことを考える場合、特にその必要を感ずるからである。
 なお付言すべきは、皇室は政治に関与せられなかったから、時勢によって変遷する政治形態や社会組織の如何にかかわらず、よくそれに順応しまたそれを容認して、いつも変わらず国家の象徴、国民精神の象徴としてのはたらきをしておられた、ということである。国民が皇室を敬愛するのは、皇室と国民とのこの意味での結合が遠い昔から後世まで続いてきて、互いに離れがたいものとなっている歴史的感情が、そのもとになっているのである。
 即ち皇室と国民とのつながりは建国の初めからのことだからである。それはシナ風の名分論の如きものの故ではなく、遠い上代人のように、また最近一部の知識人によって非難の意味をもってしきりに宣伝せられているように、天皇を神として見たからでもない(ここで付言しておくが、王政の復古をいうものも神武創業を標語とするものも、天皇を宗教的意義において神視することはしなかった。天皇が神であられるという考えは幕末にはなかったことである)。
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                  第五章 維新政府の宣伝政策

   一
 慶応三年(1867年)の冬、将軍の政権奉還及び将軍職の辞退の上奏が行われた後でも、宮廷ではその善後の処置について明らかな意向をもつに至らず、おのずと幕府に対する処置にも平和の気が漂っていた。ところが、当時の宮廷と複雑な関係(※孝明天皇毒殺説など)があり、その頃には過激な意見を抱くようになっていたイワクラ・トモミが革命的行動を企てるに至って、それが一変した。
 イワクラは薩人(及び間接に長人)と密某を凝らし、また一部の宮廷人と秘かに連絡して、将軍の政権奉還と同日に、既にケイキ討伐の密勅というものを薩長の二藩に伝えさせ、幕府を対すには武力によらなければならぬと主張したのである。ところが、彼はその後さらに一歩進めて、御所戒厳の下にクーデターを行ない、宮廷の権力を握って、王政復古の大号令と称せられるものを発布させた。そうしてそれとともに、彼の党与となった数人の宮廷人、四、五人の諸侯またはその代理者、及びその家臣どもを宮中に召集し、その席上で、君臣の大義・上下の名分を乱したものとして、幕府及びケイキを烈(ハゲ)しく非難した(『岩倉公実記』)。そのいうところは甚だしく事実に背いたものであり、空漠たる方言に過ぎないものであったが、語調は極めて矯激であった。例えば「嘉永癸丑(キチュウ)(※1853年のペリー来航)以来、勅旨に違背し、綱紀を紊乱し、内は憂国の親王公卿伯を幽囚し、また勤王の志士を残害し、外は擅(ホシイママ)に欧米諸国と盟約を立て貿易を許し、もって怨を百姓に結び禍を社稷(シャショク)に貽(ノコ)す、その罪甚だ大なり」というが如きがそれである。これは、志士とか浪人とかいわれらものが数年前から虚偽の言により最大級の形容詞を用いた誇張のいい方によって幕府を攻撃したのと同じであり、畢竟それをそのまま踏襲したものであった。
「嘉永癸丑以来、勅旨に違背し」というのも、「親王公卿伯を幽囚し」というのも、勅旨と称せられた一部の宮廷人の意向(その多くは志士浪人の煽動によったもの)を用いなかったことをいい、また極めて一小部分のものに対する処置を全体に対して行なわれた如く、あるいは謹慎を命じたことを幽囚と称する如く、誇張していったものである。「欧米諸国に対して貿易を許し、怨を百姓に結び」云々に至っては全く誣妄の言であり、「盟約を立て」といういい方も、通商条約の締結を何らかの特殊な政治的意味を有することの如くいいなしたものである。特に「勤王の志士」の語は、彼らみずからを誇らかに宣伝したその称呼をそのまま用いたものであることが、明らかである。かかる志士浪人の徒である、または彼らと気脈を通じている薩人(及び長人)の代弁者としてイワクラは、こういうことをいったものと解せられる。かくして明治元年におけるいわあゆる討幕の軍が起こされるようになってゆくのであるが、それは武力によって幕府を倒そうとするために薩長のしかけた「罠」に幕府がかかったのであって、ケイキは詐謀を抱いてオオサカに下り兵をもって闕下(ケッカア=天子の御前)を犯そうとした、と薩長政府から宣言せられ、大逆無道と目せられたのであある。ケイキは襲職
の初めから皇室に対して臣と称していたし、またみずから進んで三百年近くも宮廷から委任せられていた政権を奉還し、次いで将軍の職も辞し、そうすることによっておのずからいわゆる王政復古の業を誘致しまたは翼賛することになったのであるから、どの点から見てもいわゆる名分を冒瀆した形跡はなく、そう評せられる如き行動をしたことはない。これが虚偽の宣伝であるおとは、いうまでもない。
 ・・・
 あるいはまた外国との交渉をいう場合には、しばしば「国威を海外に輝かさん」とか「万里の波濤を凌ぎ身をもって艱苦に当り、誓って国威を海外に振張し」とか、または「一身の艱難辛苦を問わず
親ら四方を経営し、汝億兆を安撫し、遂に万里の波濤を拓開し、国威を四方に宣布し」とかいうような語が、慶応四年の正月ないし三月の詔勅または宸翰というものに記されているが、これでは天皇おんみずから海外に進出してその経略の任に当られる意気込みをもたれているように見える。もしそうならばこれもまた当時においては誇張の言と言わねばならぬ。しかしこれはあるいは幕府に対するいわゆる親政の挙を指しているかとも思われるが、もしそうならば、それはまたその意味で甚だしき誇張の弁であろう。

     二
 新政府の宣伝しようとしたこにおいて思想上重要な意味のあるものに、祭政の一致と政教の一致とがあって、それが詔勅の形によって告示せられている場合もあった。これには水戸学の主張であるアイザワ・ヤスシ(会沢安=正志斎)の『新論』の語を用いたものが主となっており、それにヒラタ・アツタネの徒の宣伝した惟神(カンナガラ)の大道の説、なお皇道という名を用いる考え方などが混和せられていて、論理的に一貫しない曖昧なものであるが、要は民心を一に帰して朝廷に奉事させようとするところにあり、そこに政府の政治的意図があったらしい。神祇官に宣教のことを掌らせ、宣教師を置いていわゆる大教の宣布を行なわせることにしたのも、そのためである。古制では神祇官は全国の主要な神社を統轄し、神の祭祀の儀礼を行なう任務をもっているのみであったのを、復活した神祇官には上記の如き特定の思想をもって国民を教化させようとしたのである。
 さてまず考えねばならぬのは祭政一致である。『新論』でしばしば祭政維一(イイツ)という語が用いてあるが、それは祭と政とは本来一つのものであるという思想から来ている。政治は天皇が天の神たる御祖先の事業を継承せられることであり、そうしてそれは即ち御祖先に事(ツカ)えられることであるから、畢竟天の神に対する祭祀である、というのである。いわゆる神道家は、祭(マツリ)と政(モツリゴト)とが同じ語であるという理由で祭政一致を説いたが、『新論』は孝道を説く儒教思想によって、政といい祭という語に特殊の意義を与え、それを天皇における孝道の実現と見たものである。祭政一の語にはこういうようにして、道徳的意義が与えられている。

     三
 政府の首脳部を占めているものは、概言すると幕末の志士浪人輩の後身、少なくともその同調者・推輓(スイバン)者もしくは利用者の類であり、その思想にも処世の態度にも政治に関する行動にも、前身時代の旧習が多く持続せられているので、いわゆる王政復古そのことが、もともと彼らの幕府に対する憎悪の念から生れ出たいわゆる尊王の主張に基づいたものであるのみならず、彼らのふとした思いつきや一場の私言が忽ち叡慮とか勅諚とかの名によって宮廷から発表せられ、そうしてその内容には虚偽と誇張とが充ち、その表現には徒らに強い調子が用いられ、そうしてまたそれには彼らの間に激しかった党争心・権力欲などから生ずる排他的感情が籠っていたことを考えると、新政府の宣言や行動が上記の如くなるのも怪しむべきではなかろう。いわゆる志士や浪人の徒が無根の風説を世間にまき散らしたのも、威嚇や私刑を行なって投書や貼り紙や立て札などによってそれを公衆に宣伝したのも、威嚇や私刑やその他の種々の暴動も、それみずからが大きな宣伝の用をなしていたことも、あるいはまた彼らの後援者または指導者であった長藩の政府がしばしば諸藩に対して自己を弁護し幕府を非難した宣伝文書を送致したのも、種々の文書によって宣伝に努めた薩長政府の態度を導き出したものと推考せられる。政府がかかる態度でかかる宣伝を行なったことは我が国では、このときに始まったといってよい。幕府においても、例えば貨幣の改鋳の場合の如く、虚偽の宣伝を行なったことはないではないが、それは稀なことで、あった。武人政府(※幕府)は言論の力をかりるよりも実行を主としたのである。王政復古まあたは王政維新は、本来思想上の革新であるのに、その指導者に、誠実にして確固たる識見を有する思想家がなく、軽浮にして無識な志士浪人輩、もしくはそれと気脈を通じそれと呼応して事を起こしたものの盲目的行動によってすべてが進行したのであるから、新政府のしごとが上記の如きものとなったのは、当然であろう。
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                  第六章 明治憲法の成立まで
     一
 ・・・
 衆議によりまたは民意を聞いて政治をすることは、トクガワ幕府においても無視せられたのではない。町民または村民の間に「寄合」と称せられた住民の相談によって町政または村政が行なわれ、あるいは庄屋年寄などを住民の投票によって選挙する習慣のあったところもある。士民の階級的区別はあるが、知能あるものは平民でも官途に就いてかなりの要地に上るものがあり、農商の徒でも武士の身分を与えられるものがあって、儒官などは概ね農商出身のもので占められている。また婚姻によって武士の血が平民に混入する例も多い。なお幕府の家人においては、金銭養子、株の売買、「または婚姻によって平民の血が武士階級に混入することも常であって、それは直接に政治にかかわることではないが、武士と平民とが必ずしも厳格に隔離せられていないことを示すものであり、「そうしてそっこに幕府の政治に一味の民衆的要素のあることが示されていよう。もともと戦国武士そのものに百姓町人からの成り上がりものが少なくなかったのである。
 ・・・
 ところが、対外問題が起こってから後には、幕政において衆議に諮ることが際立って著しくなてきた。その一つは、対外関係を如何に処理するかについて諸侯の意見を聞こうとしたことである。その最初は、嘉永・安政の交の首席老中アベ・マサヒロの意向により、諸侯を殿中に召集してアメリカ大統領から将軍に贈った文書を示し、それに関する各自の意見を諮問したことであるが、その回答は文書で上申するのであって、殿中に会議を開いたのではない。そうしてその回答は、必ずしも諸侯の意見を披歴したものとは限らず、海外に関する知識の乏しいために定まった意見がないもの、またはありきたりの攘夷論で間に合わせておくもの、武士としての諸侯の面目を立てる強がりをいったもの、または封建諸侯としての地位を損ずることを恐れるための矯飾の加わっているものなどもあって、諮問の目的は達せられなかった。ただ重大の事件を処理するについて、被治者たる諸大名の意見を聞こうとした幕府の態度を示したのみのことであった。
 ・・・
 その後、いわゆる志士浪人の徒が大言壮語をもって荒唐不経な尊王攘夷の説を唱え、宮廷人の間に遊説して幕府の執った国策を撹乱もしくは破壊しようと企てるに至って、彼らはその主張し揚言するところをみずから「天下の公論」と称したので、文久二年(1862年)にチョウシュウ侯から幕府への建白に、幕府をして「列藩並に草莽の士の所存、天下の公論」を聞かしめようとしたことが見え、サツマのシマヅ・ヒサミツの宮廷への建議にもやはり「天下の公論」の語が用いてあるのは、それに従ったものである。しかしその草莽の士の「公論」というものは、徒らに囂々として幕府攻撃の声を挙げるのみのことであって、何ら具体的な経綸の策を含むものではなかった。のみならず、それに伴って幕府の当路者や外国人を要撃または暗殺したり、おのれらに不利な言動をするものを殺傷したり、凶悪の限りを尽くしたので、公論たる意義は何もなかった。
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 これに反して内政はますます紛糾を加え、幕府を敵視するものが自己の主張を飾るに公議の名をもってするようになり、この点において文久の頃から「草莽の士」の口にしたことがそのまま彼らの言動に継承せられている。しかしまた幕府の側においてもおのずからこの流行語が襲用せられ、将軍の大政奉還の奏請にも現に「天下の公論」の語が使ってある。その前後の宮廷及び幕府の文書には、事あるごとにこの文字または衆議というような語が用いられているので、文字は同じであってもその指すところは反対であることが少なくない。またその具体的な施設としては、列侯、またはそれとともにその家臣の会談を開くことが強調していわれているので、衆議も公論も諸侯とその家臣との意向を指しているのでああるが、宮廷の方面から発せられたものには、列侯の会談といってもその実、薩長を主としてそれに引きずられているものを含む四、五の諸侯及びその家臣の会合にとどまるものが多く、宮廷においてはその点を指摘せられて弁解のできなかった場合がある。「天下の公論」も「衆議」も畢竟薩長及びイワクラ一派の宮廷人の宣伝に過ぎなかった。これが大政奉還の後において宮廷方面の文書に見える「公論」「衆議」の実体であった。

    

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