『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)にも、薩長史観に基づいているといえる日本の歴史教科書では取り上げられていない様々な事実が書かれています。そしてそれは、著者の単なる憶測や思い込みではなく、多くの歴史学者や歴史家の研究の積み重ねに基づいて書かれていることが明らかです。
京都が、長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロによって荒らされていた1862年(文久二年)、藩兵およそ八百人とともに、京都東山の山麓に本陣を置いたのは、幕府から「京都守護職」に任ぜられた松平容保を中心とする会津藩でした。でも容保は病弱で、禁門の変の直前には寝込んでおり、会津の医師団や幕府の侍医に看病されるような状態でした。そんな容保を心配した孝明天皇は、「朕が最も信頼するのは容保である」というような「御宸翰」を、一度ならず届けさせたといいます。
明治維新史や自由民権運動が専門の歴史学者、遠山茂樹教授は、”天皇が容保に下した「御宸翰」は、天皇の意思が素直に出ていて、切々たる哀情がこもっている”と評価しているとのことです。
だから、孝明天皇の絶大な信頼を得て公武一和に努力した会津藩が、「朝敵」であるはずはないと思います。
「朝敵」というなら、御所を砲撃し、天皇を拉致しようとした長州藩こそが朝敵であると思います。
でも、このとき天皇を守るために戦った会津藩や「禁裏御守衛総督」として戦うための身なりを整え、”仁王立ちになって天皇を守った”という徳川慶喜が、「朝敵」として薩長に倒されたのです。だから、すでに取り上げたように、津田左右吉は、討幕の密勅を”真偽是非を転倒したもの”と断じているのです。
孝明天皇の死によって、突然天皇の地位に就いた祐宮(サチノミヤ=明治天皇)は、当時まだ十代半ばであったといいます。そんな少年ともいえる明治天皇が、父親である孝明天皇の思いをつぶすような勅命を、猛者の集団ともいえる薩長に下すというようなことがあり得るでしょうか。もしそれが真実なら、何かそれに関わる情報や、予兆があってしかるべきだと思います。
さらに言えば、”真偽是非を転倒”した「偽勅」で、会津藩や幕府を攻めた薩長は、「朝敵」というような言葉を使い、天皇を政治的に利用することによって、自らの言行の矛盾や欺瞞性を隠蔽する狡賢い考え方をしたのだと思います。そして、明治維新を成し遂げ、権力を手にした後も、そうした考え方で、さらに朝鮮の王宮を占領したり、閔妃を殺害したり、清を相手とする野蛮な戦争に突き進んでいったりしたのだと思います。
でも、日本の政権は、そうした明治維新の諸問題を伏せ、近代化に焦点を合わせるようなかたちで「明治百年祭」や「明治百五十年祭」を実施したようです。
また、”明治維新は米国の独立記念日やフランスの革命記念日のようなものなのに、現代の日本人は、それを盛大に祝賀しようとしない”などと不満をもらす人さえいるようです。そうした薩長の流れを汲む人たちが政権を牛耳っているようでは、日本の歴史の真実は明らかにされず、その野蛮性はとても克服できないように思います。
だから、政治家や活動家が枠づけた歴史ではなく、歴史学者や歴史家が積み上げてきた研究に基づく客観的事実に基づく歴史教育を、私は一日も早く実施してほしいと思うのです。
下記に抜萃しましたが、孝明天皇の「毒殺」についても、名だたる歴史学者や歴史家が、様々な史料をもとに論証しているのです。孝明天皇の毒殺説を知ることによってだけでも、明治維新の受け止め方は変わるのではないかと思います。また、その後の日本の歴史の認識もより客観的なものとなって、韓国や中国の信頼を取り戻すことも可能になるように思います。
でも、残念ながら、政権の意に反する学者や研究者は、いまだに学術会議などの組織から排除される傾向があるようです。思想の自由や学問の自由を尊重する立場に立てば、あってはならないことだと思います。
さらに言えば、日本軍「慰安婦」や徴用工の問題を、世に知らしめようとする人たちには、大変な圧力がかけられているばかりではなく、「あいちトリエンナーレ」・「表現の不自由展・その後」に関わっては、愛知県知事リコールための署名でっち上げ事件さえ起きました。
日本の政権の歴史的事実の否定や隠蔽、歪曲に関して、2015年3月、シカゴで開催されたアジア研究協会定期年次大会のなかの公開フォーラム、及びその後にメール会議の形で行われた日本研究者コミュニティ内の広範な議論によって生まれたという「日本の歴史家を支持する声明」は、主に第二次世界大戦中の日本軍「慰安婦」に関わるものですが、 欧米の日本研究者や歴史学者ら187人もが署名しています。政治家はもちろんですが、日本人はみんな、しっかり受け止めるべきだと思います。
下記は、『会津藩はなぜ「朝敵」か 幕末維新史最大の謎』星亮一(KKベスセラーズ)から、「第一章 もっと知りたい戊辰戦争」の一部と、「第三章 孝明天皇謎の崩御」の一部を抜萃しました。
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第一章 もっと知りたい戊辰戦争
勤王史観・官賊史観
もう一つは研究者による講演会である。
作家の場合は自分の描いたイメージで話すが、研究者の場合は基本的に史料を積み上げた講演になる。
司馬氏から四年ほどあとの昭和五十三年(1978)の十二月三日に、会津若松市の文化福祉センターで、東大名誉教授小西四郎先生の講演会があった。
この講演で会津の人々は、衝撃を受けることになる。
昭和四十年(1965)、私が『会津若松史』の編纂に加わったとき、近代史の編集責任者が東大史料編纂所教授だった小西四郎先生だ。私は小西先生の指導のもとに戊辰戦争を執筆したが、先生は一方の史観に偏らない非常にリベラルな方であった。
小西先生のこの日の演題は「幕末の会津藩」で、特に官軍、賊軍の問題について詳細に話された。
「私は明治維新は二つの顔をもっていると考えます。二つというのは戊辰戦争で勝った方の顔と、負けた方の顔です。維新史は勝った方の顔だけが出てきて、負けた方はあまり出てこない。会津藩は負けた方だからほとんど触れられなかった。そして勝ったほうだけが強調されて、明治維新は薩長土肥がやったんだと国民に教え込まれたのです」
小西先生は明治維新史のゆがみを最初に話された。
「薩長政権は自分たちを正当化することによって、その地位を守ってきた。その犠牲になったのは会津です」
と会津の立場に同情し、維新史観のからくりを説いた。
「明治維新は古(イニシエ)の天皇の政治に復すという主張が強く出されています。それと同時に、王政復古には、どこの藩が貢献したとか、勤王であったのは何藩であったかが強く主張されたのです。いわば王政復古の歴史観、あるいは勤王史観という歴史観が明治維新史観をつくりあげ、それが明治維新の成果であるといわれたのです。そういう歴史観が明治維新史の主流を占めていて、ここから天皇の軍隊は官軍、それに反対したのは賊軍という官賊史観が生まれ、これによって会津は賊であると評価されてしまったのです」
官軍、賊軍のからくりを、先生はこのように解き明かした。
会津の人々が待ち望んでいた明快な史論だった。
日本の歴史教育は、まさにこの路線上に進められてきた。会津の人々がどのように悔しがっても、薩長中心の歴史観は盤石の重さで頭上にのしかかり、会津はなにをいっても敗者としてさげすまれてきた。こうした一方的な歴史観で、本当の歴史が分かるのか、それが小西先生の問いかけであった。
会津藩は京都で存分に働き、孝明天皇から絶対の信頼を勝ち得た。その会津が朝敵となったのはなぜか。それは密勅だと小西先生は語った。
公家の岩倉具視と薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允らが幕府を倒し、会津を誅伐する秘策として思い付いたのが密勅だった。
幕府、会津は朝敵なので追討せよ、という天皇のお言葉である。
欺瞞に満ちる
偽造した密勅の効果は抜群だった。
天皇はまだ政治的には、いわばロボット的存在である。天皇の遺志でもない密勅を唯一の武器として討幕が行なわれてしまう。だから戊辰戦争は、会津側にとってはまったく迷惑な話だった。自分たちは天皇に対し反抗しているわけではない。わずか十六歳ぐらいの天皇の側を固めている薩長こそ敵である。我々は君側の奸(カン)を打ち払うんだと戦ったのです。私は、このような会津側のいい分の方が正しいし、もっともな意見だと思います」
小西先生はずばりと、いい切った。
会場を埋めた人々は感動し、興奮した。
この言葉は会津人に歓喜の涙を流させるに十分であった。孝明天皇が不慮(フリョ)の死を遂げられたあと、まだ十代半ばだった明治天皇の名前で幕府、会津に朝敵という汚名を着せ、武力制圧に踏み切った薩長の行為は、いかに虚偽、疑惑に満ちたものであったか、長い間、会津人が胸に抱いてきた歴史の欺瞞を小西先生は一刀両断した。会場にどよめきが起こるのも当然であった。
小西先生は、戊辰戦争後の会津藩に対する見せしめについても論及した。
「戊辰の戦いで、結局は会津藩は敗れる。そこで、政府としては他の藩に対してはそれほどでもないのに、会津藩に対してだけはきわめて厳しい処置をとりました。ニ十八万石を三万石にしてしまう。三万石といっても本州最果(サイハテ)ての地斗南(トナミ)青森県下北半島周辺)ですから、実質はずっと少ない。仙台藩でも減らされてはいるが、会津からみると問題ではない。徳川宗家なんかも駿府(スンプ=静岡市)に移されてひどいことになるが、それでも駿府の殿様は八十万石をもらう。ところが斗南の三万石はまったくひどい仕打ちです。政府が一番の見せしめに、会津藩に対して罰を加えたということではないかと思う」
小西先生は明治政府を断罪した。
これほど明快な講演会は、あとにも先にもそうはなかった。
さらに小西先生は、京都守護職の研究をもっと進めなければならないと語った。そのためには、もっとオープンな情報公開が必要だった。
「うっかり見逃してしまいがちな錦絵、旧家に残る一通の古い書き付けが重要な史料になることもしばしばあるのです。いままでの単なる殿様や武士階級などの上層部の動きではない、民衆の動きを経済社会的視野から深く検討することも大事です」
小西先生は、さらなる研究を呼びかけて講演を終えた。
明治政府の勤王史観、官賊史観の最たるものが官製の歴史書『復古記』である。この史料はどこを見ても官軍と賊軍の戦闘記録であり、会津は徹底的に賊にされている。
その思想が今日もなお、教科書のなかに堂々と生き続けているのである。
すべからくそう簡単ではない。
対立の構図の根は深い。
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第三章 孝明天皇謎の崩御
あまりにも純粋な天皇と容保
孝明天皇の絶対的な信頼で会津藩の力は一段と強まった。
松平容保は長州征伐を強く求め、宮廷内部における会津藩の存在は一層重みを増した。
会津藩は隠然たる勢力を京都で築いたのである。
容保の実弟桑名の定敬(サダイキ)も確乎たる意志の持ち主で、この時期を一橋(ヒトツバシ)、会津、桑名の一会桑(イチカイソウ)政権とみる研究者もいる。
私がここで問題にしたいのは容保の政治家としての資質である。徳川慶喜は毀誉褒貶がすごく、その意味ではしたたかな政治家の面があった。仮病を使い、前言をいとも簡単に翻すなど日常茶飯事だった。
政治家とはある意味でそうした使い分けも必要だろう。
ところが、容保はそうした面が全くない。
慶喜に代わって天下を取ろうという野心は微塵もない。あるのは天皇に対する絶対的な忠誠心である。
幕府にはさすがに不信感をもっていたが、これも決定的なものではない。
ところが、慶喜はに至っては孝明天皇をも信じてはいなかった。
軽蔑していたふしさえある。
「まことに恐れ入ったことだが、天皇は外国の事情はなにもご存じない。昔からあれは禽獣だとか、なんだということがお耳に入っているから、どうもそういう者が入ってくるのは嫌だとおっしゃる。煎じ詰めた話が犬猫と一緒にいるのは嫌だとおっしゃるのだ」
と後日、当時のことをぶちまけている。
たしかに、孝明天皇は対外的には鎖国復帰、国内的には佐幕という徹底的な保守主義者であった。
その強固さは、誰がなんといおうが、頑として曲げなかった。
この頑固さという点では会津に共通する部分があった。
その意味では、孝明天皇と容保の二人はリズムが合った。
容保は真面目一徹、人を疑うことなど知らずに育った純粋培養の殿様だった。
二人の純粋培養が京都で結び付いたのである。
つまり、一会桑政権は脆弱ではあるが、孝明天皇が存在する限り、存在の重みはあった。
その孝明天皇が突然、病に倒れる大事件が起こった。
根強い毒殺説
慶応二年(1866)十二月十二日のことである。
天皇が風邪をひいた。
高熱が続き、十七日になって侍医が痘瘡と診断した。
容保は定敬と一緒に参内して天機(天皇の機嫌)を窺い、ニ十一日には慶喜も参内した。
ニ十三日ごろまで痘瘡初期の経過で、順当な症状だったが、二十四日になってにわかに病状が悪化した。
激しい嘔吐と下痢を繰り返し、ニ十五日には顔に紫の斑点が現れ、虫の息となり、同日夜、苦しみもだえながらこの世を去った。まだ三十六歳の若さだった。
この不思議な死はたちまち都の噂になった。
孝明天皇は絶対の存在だった。慶喜がどう悪口をいおうが、孝明天皇が会津を支持する限り会津の軍勢は天皇の軍隊であり、官軍だった。
開国派にとって天皇は厄介な存在だった。
私は『幕末の会津藩』(中公新書)にも書いたが、天皇が反幕府勢力の公家に毒殺されたという噂がアッという間に広がった。
この問題を史料解析をもとに毒殺と最初に判定したのは、歴史家ねずまさし氏だった。『中山忠能(タダヤス)日記』や毎日、加持祈祷に参内した湛海権僧正(タンカイゴンノソウジョウ)の日記をもとに検証した。中山忠能の娘慶子(ヨシコ)の「二十五日には御九穴より御脱血」という記述は、毒殺に砒素が使われたことを示していた。
「誰かが痘毒を天皇に飲ませたので天皇が罹病した。その証拠は容体をかくし、内儀の者(妻)さえも少しも容体を知らず、ニ十五日の姉の敏宮の見舞いも廷臣が止めようとしたことがあって、このようなことが陰謀をかくす証拠だと噂されている」
慶子は、孝明天皇の典侍で明治天皇のご生母である。
中山忠能は明治天皇の外祖父にあたる。そんなことで『中山忠能日記』の信憑性は高いとされたのだった。
『中山忠能日記』のなかには、後宮(コウキュウ)に通じていた老女浜浦の手紙もあった。
岩倉具視が犯人と見られるというものだ。幕府・会津派の孝明天皇のを邪魔に思い、毒を盛ったというのだった。
戦前に毒殺説を出した人がいた。
昭和十五年(1940)のことである。大阪の学士クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会で、佐伯理一郎博士が、孝明天皇の典医伊良子光順(イラコミツオキ)の日記をもとに「岩倉具視が女官の姪(メイ)をして、天皇に一服毒を盛らしめた」と発表した。
石井孝先生の理論
その後、私の恩師でもある日本近代史の権威石井孝先生が数々の論文を発表し、毒殺説を主張した。
石井先生は私が東北大学で国史を学んだとき、教授として在籍されていた。歯に衣着せぬ辛口の寸評で、怖い先生であった。
そのころから石井先生は『増訂明治維新の国際的環境』や『日本開国史』『維新の内乱』『戊辰戦争論』などの作品を相次いで発表され、カリスマ的存在として我々の上に君臨していた。
ただし、石井先生は『会津若松史』の編纂には参加せず、戊辰戦争の項は小西四郎先生が参画し、そのことで私は小西先生に会津戦争の指導を受けた。
石井先生の作品『近代史を見る眼』(吉川弘文館)に、孝明天皇の死に関する詳細な記述がある。
冒頭で石井先生は次のように述べている。
「孝明天皇は(中略)その保守的信念の強固なことにおいて、井伊直弼にも比すべきである。その天皇が、王政復古にさきだつ約一年の慶応二年十二月ニ十五日(1867.1.30)、突如、疑惑に包まれた最期をとげた。天皇の死因について、戦前にこれを論ずることはタブーであったが、戦後の1954年、ねずまさし氏は、信憑すべき史料にもとづき天皇の死因が毒殺であることを論証した」
ねず氏を全面的に支持し、病死説をとる歴史家の原口清氏と雑誌『歴史学研究』(青木書店)で大論争を繰り広げた。
石井先生は、急性ヒ素中毒について、法医学者の協力を得て徹底的に検証した。
その結果、孝明天皇の症状は明らかに急性ヒ素中毒であり、痘瘡が回復した段階で激しい嘔吐、下痢があったのは、それに間違いないと断定した。
泉秀樹著『日本暗殺総覧』(ベスト新書)でも孝明天皇の暗殺を取り上げており、著者の泉氏は、犯人として孝明天皇の愛妾(アイショウ)堀河紀子の存在をあげている。
これが事実なら討幕派の決定的なからくりが、ここにもあったわけで、明治維新が一層いまわしいものにねってくる。
やはりそうかというわけである。
ただ私自身は、この問題に関して史料に当たっておらず、率直にいえば、石井先生はこう見ているという紹介の域を出ないのである。
作家なので自由奔放に推理してもいいのだが、なまじっか歴史を学んだ手前、そうもいかない部分がある。
限りなく灰色というところであろうか。