真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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GHQの「軍人恩給廃止の件」と軍人恩給復活

2010年05月31日 | 国際・政治
 太平洋戦争の終結に際して、ポツダム宣言の執行のために日本において占領政策を実施した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP) は、その真偽のほどは別としても、日本から国家主義と軍国主義を一掃し、日本を民主化することを目的として、次々に「連合軍最高司令部訓令」を発した。下記「恩恵及び恵与」や「軍人恩給廃止の件」もその一部であるが、軍人恩給制度については、「この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」と指摘し、「惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が…極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない」として、軍人恩給を廃止させたのである。しかしながら、その軍人恩給がサンフランシスコ講和条約締結直後に復活する。大本営や参謀本部の高官、政府内の軍人・要人、軍国主義団体の指導者その他、先の大戦を指導した旧軍人や戦争を煽った関係者と彼等を支えた人たちが、戦後の日本社会でもその思いを持ち続け、力を温存させていたことを窺わせる。『「戦争の記憶」その隠蔽の構造』田中伸尚(緑風出版)からの抜粋である。
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                  軍人恩給をめぐる攻防

 GHQ覚書と「勅令第68号」


 ・・・
 敗戦間もない1945年11月24日、連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP。以下GHQ)は日本政府に対して一通の覚書を出した。「恩恵及び恵与」という。
 「(前略)左の各号に該当するすべての人物に対するあらゆる公私の年金その他の給与金、補助金の支払を停止するために必要な措置を講ずること。

A退職金又はこれに類するボーナスや手当を含む軍務に服したることによる支給
 金、但し労働能力を制限するような身体的廃疾者[原文のママ]に対する補償金を
 除くが、この補償金は非軍事的理由から起きた同程度の身体的廃疾者[同]に 
 与えられる最低のものより高い率であっては成らぬ
B連合国最高司令官の命令の結果として解散又は停止された協会、団体その他
 の会員であり、或いはここに就職したという理由によるもの
C連合国最高司令官の命令の結果、如何なる官職又は地位からでも追われもの
D連合国最高司令官の命令の結果として抑留又は逮捕されたもの拘禁又は逮捕
 期間中の支払又はその後有罪判決を受けた場合は永久的(以下略)」(原文の
 片仮名を平仮名に直した)


 翻訳された原文は分かりにくいが、要するに日本政府に対して軍国主義を支えた「恩典・恵与」をことごとく除去せよ、と命じていたのだった。照準は軍人恩給の廃止である。GHQは日本占領の目的として「民主化」と並んで「非軍事化」を柱にしていたが、「覚書」はその具体的政策の一つで、翌年の1946年2月1日までにその実施を求めていた。GHQ渉外局はこれに続けて翌日、「軍人恩給廃止の件」を発表し、その目的、根拠、実態・評価、代替措置などについて細かい説明を行った。少し長いが一部を省略して紹介する。
 まず覚書のねらいについてこう説明した。


 「今回の命令は日本の軍国主義が他の国民に負わしめた巨大な負担を軽減する目的への新しい重要な措置である」

 それではなぜ軍人恩給の停止が負担の軽減になるのか。

 「1945年9月30日までに陸軍の支払った退職手当は総額10億6000万円、海軍のそれは22億4100万円に上っており、その後両者合わせて15億円の退職手当の支払が予定されていた。因みに以上の金額は、現金及び証書の双方を含むものである。軍人恩給の廃止によって復員終了後年額15億円の経費の節減が期待できる」


 しかしGHQは、節減した資金を被害国への補償へ回そうとしたわけではない。ついで、軍人恩給の実態について次のようにのべている。

 「軍人恩給の最低額は、退役後における俸給の3分の1で、将校は13年、下士官、兵は12年の勤務を経て恩給を受けとる資格を生ずる。然しながら、日本軍人は多くの場合、僅か1年の勤務に対して2、3年また4年勤務したと認められる。在外勤務の1年は国内勤務の4年と計算され、航空機搭乗員は1年を3年に、潜水艦乗務員は1年を2年に計算されていた。
 日本側の情報によると、25歳以下の若い軍人で恩給を受けていた者が少なくなかったといわれ、また、民間の教師や官公吏が俸給の2%を恩給の基礎として払込まなければならないのに対し、軍人は僅かに1%を払込むだけでであった。更に、軍人以外の恩給が公の俸給額に基づいているのに対し、軍人の基準は俸給額よりも遙かに高いところにおかれ、例えば陸軍少尉の年給は860円であるのに対し、1400円を基準に計算されていた」


 そして、こう結論を下す。

 「日本における軍人恩給制度は他の諸国に類をみない程大まかなものであったが、この制度こそは世襲軍人階級の永続を計る一手段であり、その世襲軍人階級は日本の侵略政策の大きな源となったのである」

 最後に、社会的な困窮者に対する社会保障の必要性を認めつつ、軍人恩給の特権的性格を批判して廃止の必要性を説いている。

 「もっともわれわれは不幸なる人々に対する適当な人道上の援助に反対するものではない。養老年金や各種の社会的保障の必要は大いに認めるが、これらの利益や権利は日本人全部に属するべきであり、一部少数のものであってはならない。現在の惨憺たる窮境をもたらした最大の責任者たる軍国主義者が他の犠牲において極めて特権的な取扱いを受けるが如き制度は廃止されなければならない。われわれは、日本政府がすべての善良なる市民のための公正なる社会保障計画を提示することを心から望むものである」

 軍人恩給が、他の社会保障制度に比べて特段の優位にあり、それが軍国主義を支えたという指摘は、極めて重要だった。軍人恩給はたしかに、侵略戦争を「繰り返さない」ためには、戦後政府がどうしてもメスをいれなければならない制度の一つだった。しかも、GHQは最後の部分では、日本政府に対して、軍人恩給に代わる公平な社会保障制度の創設まで示唆していたのである。日本側はさまざまな形でこの覚書の緩和を求め抵抗したが、結局、1946年2月1日付けで軍人恩給の停止・制限を含んだ「恩給法の特例に関する件」という勅令を公布した。これが末広氏の言った「勅令第68号」である。この勅令によって軍人恩給はもちろん、恩給法に基づく戦没者遺族への公務扶助料も廃止された。しかし、ここで記憶されたいのは、軍人恩給は廃止されたが、1923(大正12)年制定の恩給法本体は生き残ったという事実である。このため同法にあった「国籍条項」もそのまま存続し、それが他の援護法にも影響し、今日の戦後補償において国籍による差別をもたらしたのである。同時に恩給法本体の存続は、将来の軍人恩給の復活をにらんでいた。GHQは、軍人恩給の「廃止」を指示していたが、日本側は一時停止で抵抗し、それが奏功したのである。

 ・・・(以下略)

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戦後補償──朝鮮人戦犯(李鶴来さん)の証言

2010年05月23日 | 国際・政治
 日本の侵略戦争によるアジア諸国の被害は多大であった。したがって、その賠償や補償は大変なものになるはずであった。しかしながら、戦後の東西対立(冷戦)の激化にともなって、日本を占領下においていた連合国最高司令官総司令部が東側に対する西側陣営の強化のために、日本の再軍備や経済復興に力を入る占領政策を進めた。日本の民主的改革や賠償・補償の戦後処理は、当然のことながら、そうした占領政策を補完するものでなければならなかった。結果、日本社会に様々な問題が残ることとなった。朝鮮人戦犯に対する補償の問題は、戦争中の日本の不正義が、戦後も変わることなく続いているが如き理不尽なものである。日本の加害責任の償いは解決してはいないと思う。
 下記の「釈放を求めて───朝鮮人戦犯」は「戦後補償から考える日本とアジアー日本史リブレット」内海愛子(山川出版社)からの抜粋である。また、朝鮮人軍属で捕虜監視員であった李鶴来(イハンネ)さんの証言の部分は「今なぜ戦後補償か」高木健一(講談社現代新書)からの抜粋である。
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釈放を求めて───朝鮮人戦犯

 戦後補償裁判のなかで、特異な裁判がある。軍属だった旧植民地出身者の戦犯が起こした裁判である。
 「ポツダム宣言」を受諾した日本は、戦争犯罪人の処罰も受けいれた(10項)。連合国は、極東国際軍事裁判(東京裁判)とはべつに、BC級裁判で「通例の戦争犯罪」をおこなった「日本兵」を裁いている。この裁判の被告は5702人を数えた。この「日本兵」のなかに、戦争に動員された朝鮮人と台湾人がいた。元日本兵として裁かれた朝鮮人戦犯は148人、台湾人戦犯は173人。BC級裁判で有罪になった者(4403人)の7パーセント強が旧植民地出身者となっている。主に、捕虜収容所の監視員だった軍属である。


 日本政府は平和条約で、東京裁判とBC級裁判の「判決」を受諾し、「日本国民」である戦犯の刑の執行を引き受けている。(第11条)。刑の執行を引き受けた戦犯のなかには、これら元日本兵として裁かれた朝鮮人・台湾人も含まれていた。

 平和条約が発効した日に、朝鮮人や台湾人の「日本国籍」がなくなったことは、先の民事局長通達のとおりである。「日本国民」でもないのに、なぜ拘束されるのか。当事者の訴えに弁護士が支援にのりだした。1952年6月14日、人身保護法にもとづき、巣鴨刑務所に拘留されていた29人の朝鮮人と台湾人1人が釈放を求めて、東京地裁に提訴した。もっとも早い戦後補償裁判ともいえるものである。

 
 人身保護法による裁判は、場合によっては最高裁が直接判決をくだすことができる。その年の7月30日、最高裁の大法廷が開かれ、訴えは却下された。却下理由は、日本政府は刑の執行の義務を負っているのであり、刑を受けたときに日本国民であり、その後引き続き拘禁されていた者については、条約による国籍変更があっても刑の執行の義務に影響を及ぼさない、というものであった。

 「日本国民」として、かれらは巣鴨刑務所で拘留され続けた。最後の朝鮮人戦犯が釈放されたのは1958年である。すでに第1次岸信介内閣ができていた。かれらは巣鴨刑務所のなかでは「日本国民」だったが、巣鴨刑務所から出ると「日本国民」ではなくなり「外国人登録」をさせられた。指紋押なつもさせられている。また、外国人として在留資格が決められた。一時は「特別未帰還者給与法」(52年4月28日)で未帰還者手当を受けとることもできたが、これも53年7月31日には打ち切られた。日本国籍がないというのが、その理由であった。なお、巣鴨刑務所を出所した日が、「引揚げ」の日となっている。

 朝鮮人で戦犯として死刑になったのは23人である。かれらはマニラ、シンガポール、ジャカルタなど海外で刑が執行された。遺骨は処刑された日本人の遺骨と一緒に日本に送りかえされ、厚生省が保管していた。生き残った朝鮮人戦犯たちは、遺骨を家族のもとにかえす努力をしてきた。遺骨送還にあたって、厚生省は慰霊祭をひらいてはいるが、補償はない。1万円の香典、これが刑死した朝鮮人軍属に対して、日本政府が出した「弔慰金」だった。「戦犯」にされた旧植民地出身者は巣鴨刑務所の内でも出所後も、国籍条項によって援護から排除されてきた。

 戦犯であっても日本人の場合には、軍人恩給は復活し、「戦傷病者戦没者援護法」も適用された。しかし、朝鮮人・台湾人戦犯たちは、こうした措置からはずされた。交渉によって出所後の住宅や生業資金の貸付などはおこなわれたが、長期間の拘留や刑死への補償はなかった。なお、戦犯として刑死した朝鮮人たちは、日本人の場合と同じように、「法務死」扱いとなっており、靖国神社に合祀されている。

 1991年11月、日本政府の扱いに対して朝鮮人・韓国人戦犯たちは謝罪と補償を求めて提訴した。99年12月20日、最高裁は「立法措置が講じられていないことに不満を抱く心情は理解し得ないものではない」と述べたものの、解決は立法府の裁量的判断に委ねられるものと、かれらの請求を棄却した。BC級戦犯たちにとっては、最高裁での2度目の棄却である。

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 朝鮮人が戦犯となり、日本が刑を執行する

 ・・・
 【証言】「私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです」──李鶴来(イハンネ)さん

 私は1925年2月に、韓国の寒村で農家の長男として生まれました。小学校を卒業したのは14歳でした。家の用事を手伝いながら、日本の家の書生もしていました。郵便局に勤務したこともあります。
 ある日、1期ぐらい先輩の友人から、「南方で、捕虜監視の募集がある。契約は2年間。そして給与は50円くれるんだ」という話を聞きました。
 郡庁で簡単な筆記試験、あるいは口頭試験を受けて、後日合格通知をもらって、42年の6月の半ばに、釜山の野口部隊に入隊したのです。

 朝鮮全土から3000人の青年が当時入隊をしていました。捕虜を監視するための教育は一切ありません。「日本軍人の精神を徹底的に入れてやるんだ」とのことで初年兵教育と同じ厳しい訓練を2ヶ月受けて、南方の各地に派遣されたのです。
 私が最初に着いたのはサイゴンでした。それからバンコクに行き、そこで「タイ捕虜収容所」に配属されました。泰緬鉄道、これはノンプラドックを基点にしてビルマのタンビザヤまでの425キロにもおよぶ鉄道で、インパール作戦のために軍の命令で早くつくれ、という方針のもとに着手したわけですが、当時シンガポールが陥落して大勢の捕虜がいて、その捕虜を使って泰緬鉄道工事をするというのです。


 私が着いたその翌年の2月頃、150キロメートル地点のヒントクというところに派遣されまして、私ら仲間6人と、イギリス、オーストラリヤ、オランダの捕虜たち、約500人を連れてそこに行って、仕事をしたわけです。日本人の下士官もいることはいましたけれども、私が主として労役つまり労務作業割り出しや総務的な仕事、あるいは事務所との連絡、こうしたことをやっておりました。その当時の状況は極めて厳しいものでした。まず施設が悪い、雨がもる、食糧が十分でない。それから医薬品がない。ないないずくめです。そういったなかで鉄道建設をしなければならない。そこへもってきて赤痢、マラリヤ、コレラなどのような病気が発生してまいります。そうしますと十分な栄養もとれないで働かされる捕虜は疲れてきます。大勢の捕虜が亡くなったのです。

 8月15日、現地除隊ということになりました。「連合運の捕虜を虐待した者は、厳罰に処する」といった布告が出ました。けれども、私たち自身捕虜を虐待したというような覚えは感じてないわけです。ある日、船の待合所で帰る船を待っていたところ、私も入れて50人ばかり首実検にひっかかりました。
 そして、タイ国の刑務所に入れられました。そこに数ヶ月おりまして、翌年の4月頃、あの有名なシンガポールのチャンギ刑務所に収容されました。行くとすでに仲間たちが大勢来ていました。本当にチャンギ刑務所というところは生き地獄なのです。入ったら食物はくれない、虐待はする、炎天下で強制体操はさせられるなど、大変苦労しました。

 そういう厳しい状況の中で、私も1回取り調べを受けただけです。たいした取り調べじゃありません。「患者が多く死んだのは知っているか」という程度です。2、3日たって起訴状を持って来ましたけれど、私はそうした責任の地位にない、施設が悪い、食糧がない、医薬品がない状態で、患者を強制的に収容したというのも、私個人のしたことではない、私は関係ないと否定したところ、彼らは帰りました。
 また3日後、同じ起訴状を持って来て、「お前が受けようが 受けまいが、この起訴状で裁判する」ということなんです。1ヶ月位経って、その起訴状は却下になりました。釈放され、復員船で帰る途中で、また呼び戻されました。今度の起訴状も、捕虜を強制的に収容させて死亡させた、と書いてあるだけでした。裁判は1時間でした。こちらが何を言おうと、向こうは聞く耳をもちません。


 絞首刑の判決を受けました。1947年3月20日でした。獄に入ると、15,6人いました。死刑の判決を受けても、もうくるところまできたんだ、これ以上悪くはならない、と思ったんですが、やはりこれはつかの間でした。日がたつにつれて、自分の国は独立をして国民が歓喜にあふれている。ところが、私は連合軍捕虜を虐待したということで死刑囚になった……。
 私が一番悩んだのは、国の独立に協力できなくて死刑囚となって殺されること、もう一つは、この知らせを聞いた時に、親兄弟がどれだけつらい思いをするだろうか、ということです。あと一つは、私は何のために、誰のために死んでいくのか、死への理由が見当たらなかったのです。

 日本人の場合は お国のため、あるいは天皇陛下のために死んでいくんだ、というあきらめがあったでしょうが、私や私の友達の場合は、そうした慰めが全然ありません。戦後、戦犯として私の仲間が14人、全部で23人が死刑を執行されているんですが、みんなが切ない気持ちを抱いて死んでいったわけです。
 私はその後20年の減刑になり、巣鴨に送還され、釈放されてこうしておりますけど、自分の責任でない責任を負って、戦犯になったわけです。


 釈放後も苦難の生活

 彼らは、釈放されても援護措置を何ひとつ受けられないまま、日本社会に放り出された。仮釈放であるため祖国への帰還も許されず、日本に身内や親族、友人もいないため、生活の基盤はまったくなかった。3年余りの軍務と10数年の拘禁生活を課せられ、釈放時に支給されたのは数着の軍服と千数百円の旅費だけだった。出所しても生活ができないからと出所を拒否する人、出所後の生活苦のために自殺した人、精神障害で入院した人などが続出した。

 ・・・(以下略)


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戦後補償裁判一覧

2010年05月20日 | 国際・政治

 ポツダム宣言の第6項に「吾等は、無責任な軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及び正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず」とある。

 しかしながら、GHQの占領政策の転換によって、永久に追放されたはずの「大本営の高官や参謀本部の高官、政府内の軍人・要人、軍国主義団体の指導者、様々な侵略作戦を立案した作戦参謀」などの多くが、1951年に追放を解除され、自由の身となった。いや、自由の身となったのみならず、アメリカの勢力下に入った日本でも力を得て、戦後日本の再生に深く関わっていった。そして、自らの戦争責任を回避しつつ、様々な部分で戦前・戦中の日本を正当化し甦らせたといってもよいのではないかと思う。日本の戦後補償の訴訟の現実や、軍人恩給(給付額は戦時中の階級によって決定される)の復活などからも、そう考えざるを得ないのである。

 例えば、「戦争被害は国民等しく受忍すべきである」という。では、なぜ軍人にのみ手厚い恩給が支給されるのか。また、戦争犠牲者の援護費の80%を上級軍人と古参兵、並びにその遺族が受け取っているといわるが、なぜなのか。下層兵や民間人は原爆被害者を除いては見捨てられたままであるということはどういうことなのか。戦争責任を考えると援護の仕方が逆なのではないか。

 平和条約が発効して主権を回復するとすぐに、日本政府は旧軍関係者への援護に取り組んでいる。連合国最高司令官は、戦犯容疑者の恩給差し止めはもちろん、1945年11月20日には、戦争を支えた軍人に対する「軍人恩給」そのものの打ち切りを指令した。にもかかわらず、日本政府は1952年4月30日に「戦傷病者戦没者遺族等援護法」を制定し、1953年8月1日には、廃止していた法令を廃止するという形で「軍人恩給」を復活させた。その莫大な費用が軍人恩給ではなく、戦後補償にあてられていれば、下記のような裁判はなかったのではないか。あったとしても、すべて解決していたのではないか。

 また、下記の多くの裁判にかかわる問題として、補償における国籍条項や戸籍条項の問題も見逃すことができない。朝鮮半島や台湾の元軍人・軍属の方々は「かつて日本人として日本のために戦ったのに、なぜ日本人と同じ恩給や補償が受けられないのか」と訴えているという。それを「日本国籍が消滅し、日本人ではなくなったから…」と平然としているようでは、日本は国際社会の信頼を得ることはできないのではないか。

 「戦傷病者戦没者遺族等援護法」は、1952年4月30日制定されたが、4月1日にさかのぼって適用された。したがって、平和条約が発効した1952年4月28日までは、朝鮮半島や台湾の元軍人・軍属はまだ日本人であり、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の対象である。ところがこの法律に、わざわざ、日本の「戸籍法」の適用を受けない者は当分の間適用されない、と付則が加えられている。
 日本人であるが、内地戸籍にはないことを理由に、朝鮮人や台湾人を排除しているのである。おまけに、占領下では国籍に関係なく支給されていた傷病恩給も、国籍を理由に支給されないことになったという。旧軍関係者には手厚い給付金を支給する一方で、かつて「日本人」として戦うことを強いた植民地出身者はことごとく切り捨てる、これらの差別的な対応は、やはり、日本の「過誤」を認めようとしない旧軍関係者や、自らの戦争責任を回避しようとする当時の責任ある立場の人たちの考え方から出てくるのではないか、と考えざるを得ない。

「戦後補償から考える日本とアジアー日本史リブレット」内海愛子(山川出版社)から、戦後補償裁判一覧の訴訟名と判決・取り下げ欄を抜粋転記する(※印のあるものは裁判終了)。ただし、原告が日本国籍以外のものである。また、韓国や中国での裁判は除かれている。
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                 戦後補償裁判一覧

 1 「原爆医療法」の在韓被爆者への適用の可否を問う孫振斗手帳裁判 ※1978.3.30 認容
 2 台湾人元軍属軍事郵便貯金時価支払請求訴訟 ※ 1982.10.15 棄却
 3 千代田生命生保支払請求訴訟 ※ 1978.1.26 棄却
 4 国庫債券支払請求訴訟 ※ 1980.3.25 棄却
 5 台湾人戦時貯蓄債権支払請求訴訟 ※ 1984.7.30 認容
 6 台湾人軍票時価払い戻し請求訴訟 ※ 1982.4.27 棄却
 7 樺太残留者帰還請求事件訴訟 ※ 1989.6.15 取下げ
 8 台湾人元軍人・軍属・遺族等戦死傷補償請求訴訟 ※ 1992.4.28 棄却
 9 サハリン残留韓国人・朝鮮人補償請求訴訟 ※ 1995.7.14 取下げ
10 韓国太平洋戦争遺族会国家賠償請求訴訟 ※ 2001.3.26 棄却
11 在日韓国・朝鮮人援護法の援護を受ける地位確認訴訟(鄭商根裁判) ※ 2001.4.13 棄却
12 堤岩里事件公式謝罪・賠償義務確認請求訴訟 ※ 1999.3.26 休止満了
13 サハリン上敷香韓国人虐殺事件陳謝等請求訴訟 ※ 1996.8.7 棄却
14 日本鋼管損害賠償請求訴訟(金景錫裁判) ※ 1999.4.6 和解 
15 韓国人朝鮮人BC級戦犯国家補償等請求事件訴訟 ※ 1999.12.20 棄却
16 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件訴訟 ※ 2001.3.26 棄却
17 強制徴兵・徴用者に対する補償請求訴訟(韓国江原道遺族会訴訟) ※ 1996.11.22 棄却
18 金順吉三菱造船損害賠償請求訴訟 ※ 1999.10.1 棄却
19 援護法障害年金支給拒否決定取消訴訟(在日韓国朝鮮人 陳石一・石成基裁判) ※ 2001.4.5 棄却
20 浮島丸被害者国家補償請求訴訟 ※ 2001.8.23 一部認容
21 対日民間法律救助会不法行為責任存在確認等請求訴訟(日帝侵略の被害者と遺族369人の謝罪請求訴訟 ※ 1999.8.30 棄却
22 対不二越強制連行労働者に対する未払賃金等請求訴訟 ※ 2000.7.11 和解
23 金成寿国家賠償請求訴訟 ※ 2001.11.16 棄却
24 シベリア抑留在日韓国人国家賠償請求訴訟(李昌錫裁判) ※2 000.2.23 棄却 ※ 2001.9.21 原告死去 
25 釜山従軍慰安婦・女子挺身隊公式謝罪請求訴訟
26 フィリピン「従軍慰安婦」国家補償 ※ 2000.12.6 棄却
27 在日韓国人元従軍慰安婦謝罪・補償請求訴訟(宋神道裁判) ※ 2000.11.30 棄却
28 光州千人訴訟 ※ 1999.12.21 棄却
29 香港軍票補償請求訴訟 ※ 2001.10.16 棄却
30 在日韓国人姜富中援護法の援護を受ける地位確認訴訟 ※ 2001.4.棄却
31 人骨焼却差止住民訴訟 ※ 2000.12.19 棄却
32 オランダ人元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟 ※ 2001.10.11 棄却
33 金成寿恩給請求訴訟棄却処分取消請求訴訟 ※ 1999.12.27 棄却
34 イギリス等元捕虜・民間抑留者損害賠償請求訴訟 ※1998.11.26 棄却
35 韓国人元BC級戦犯公式謝罪・国家補償請求訴訟 ※ 2000.5.25 棄却
36 鹿島花岡鉱山中国人強制連行等損害賠償請求訴訟 ※ 2000.11.29 和解
37 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟一次訴訟 ※ 2001.5.29 棄却
38 中国人戦争被害者(南京・731部隊)損害賠償請求訴訟 ※ 1999.9.22 棄却
39 日本製鉄韓国人元徴用工遺族、未払い金の返還損害賠償請求訴訟 ※ 1997.9.18 和解
40 三菱広島・元徴用工被爆者未払賃金等請求訴訟(韓国) ※ 1999.3.25 棄却
41 中国人「慰安婦」損害賠償請求訴訟二次訴訟 
42 劉連仁強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟(中国) ※ 2001.7.12 一部容認
43 平頂山虐殺事件損害賠償請求訴訟(中国)
44 シベリア抑留元日本兵謝罪・損害賠償請求訴訟 ※ 2000.8.31 棄却
45 日本軍毒ガス・砲弾遺棄被害訴訟(中国) 
46 韓国人元女子挺身隊公式謝罪・損害賠償請求訴訟 ※ 2000.1.27 棄却
47 731部隊細菌戦(浙江省・湖南省)国家賠償請求訴訟
48 中国人42人対国・企業損害賠償・謝罪広告請求訴訟
49 在日台湾人遺族未払教員恩給支払請求訴訟
50 中国人強制連行・強制労働損害賠償長野訴訟
51 日鉄大阪製鉄所徴用工損害賠償請求訴訟 ※ 2001.3.27 棄却
52 西松建設中国人強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟
53 台湾出身元BC級戦犯損害賠償請求訴訟 ※ 2001.2.23 棄却
54 大江山ニッケル鉱山強制連行・強制労働損害賠償請求訴訟 2001.4.13 判決予定延期
55 在韓被爆者健康管理手当受給権者地位確認訴訟 ※ 2001.6.1 一部容認
56 中国人性暴力被害者謝罪損害賠償請求訴訟
57 三菱飛行機場労働者損害賠償請求訴訟
58 崔圭明日本生命の企業責任を問う裁判
59 在韓被爆者李康寧健康管理手当受給権者地位確認訴訟
60 台湾人元「慰安婦」損害賠償請求訴訟
61 中国人被爆者損害賠償請求訴訟
62 北海道中国人強制連行訴訟
63 李秀英南京大虐殺名誉毀損訴訟
64 韓国人徴用工供託金返還請求訴訟
65 中国人強制連行・強制労働福岡訴訟
66 中国人港湾強制労働損害賠償訴訟
67 韓国人元軍人軍属遺族靖国合祀・遺骨返還・損害賠償請求訴訟
68 中国海南島元〔慰安婦〕損害賠償請求訴訟
69 在韓被爆者李在錫健康管理手当受給権者地位確認訴訟

    
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

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