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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍国美談 三勇士

2017年09月30日 | 国際・政治

 戦前・戦中の日本で、軍事美談が教材として活用されたことは誰でも知っていることでしょうし、当時の状況を考えれば不思議なことではないと思います。考えなければならないのは、教材化され広く知られた美談が、実は加工されたり、脚色されたり、誇張されたりしたものであったことであり、その美談が子どもたちのみならず、一般国民の心をとらえて、国民が軍部を支え、戦争を推し進める積極的存在になっていったという側面だと思います。そう言う意味で、軍国美談は文部省に圧力をかけた軍部や美談を教材化した関係者だけの問題ではなく、国民全体の問題として受けとめなければならないのだと思います。

 だからこそ、三勇士の一人、作江一等兵が言ってもいない、「天皇陛下万歳」が挿入され、「作江はこういって、静かに目をつぶりました。」と表現されることの問題は小さくないのではないかということです。

 「深部の声」や「ひとばしら」に書かれているような、皇国日本における差別の利用には考えさせられるものがありますが、それも、国や天皇に命を捧げることが美談として語られるような世の中であったがためだと思います。
 差別に苦しむ被差別の兵士が、一命を捧げる覚悟をして「よーし、馬山作戦で天皇のために最後の手柄をたてよう」と考えたり、差別のいたみを中国民衆を虐殺することによって癒すため、冷血な殺人鬼になるに至るというようなところには、捉え尽くせない深い思いや苦しみがあるのを感じます。忘れないようにしたいと思います。

下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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               (2) 教材「三勇士」の裏面史
 難産だった「三勇士」
 
 これも著名な軍事教材「三勇士」は、第五期、つまり軍国日本では最後の国定国語教科書(初等科二の二十一)に難産のすえ登場した。次期国定教科書からの軍事教材の全面排除は、すべて占領下という特異な権力関係のもとで遂行されたものである。それゆえ、教材「三勇士」はその採用が一回きりで終わったといっても、教材「一太郎やあい」とは廃棄の性格を異にするものといわねばならない。しかし、第四期改訂本編輯のしごとが始まってまもない時期にあたっている上海事件の一挿話に取材し、当時その新採用を推す有力筋があったにもかかわらず、第四期編纂作業で見送られ、十年たった第五期本になってようやく日の目をみたこの新出教材の地位は、安定性の高いものであったとはいえない。しかも、採用後におこった数々の事件は、教材「一太郎やあい」がたどったと同様の運命を、この教材についても予想させるものであった。なお、この素材は、第五期国語本と同時期に出た第四
期唱歌教材にも同じ「三勇士」の題(一の二十)で採用され、歌詞は、「その身は玉とくだけても、ほまれは残る廟巷鎮(ビョウコウチン)」と結ばれている。
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               ニ十一 三勇士

 「ダーン、ダーン。」
 ものすごい大砲の音とともに、あたりの土が、高くはねあがります。機関銃の弾が、雨あられのように飛んできます。
 昭和七年二月ニ十二日の午前五時、廟港の敵前、わずか五十メートルという地点です。
 今、わが工兵は、三人ずつ組になって、長い破壊筒をかかえながら、敵の陣地をにらんでいます。
 見れば、敵の陣地には、ぎっしりと、鉄条網が張りめぐらされています。この鉄条網に破壊筒を投げこんで、わが歩兵のために、突破の道を作ろうというのです。しかもその突撃まで、時間は三十分というせっぱつまった場合でありました。
 工兵は、今か今かと、命令のくだるのを待っています。(中略)
 北川が先頭に立ち、江下、作江が、これにつづいています。
 すると、どうしたはずみか、北川が、はたと倒れました。つづく二人も、それにつれてよろめきましたが、二人は、ぐっとふみこたえました。もちろん、三人のうち、だれ一人、破壊筒をはなしたものはありません。ただその間にも、無心の火は、火なわを伝わって、ずんずんもえて行きました。(中略)
 もう、死も生もありませんでした。三人は、一つの爆弾となって、まっしぐらに突進しました。
 めざす鉄条網に、破壊筒を投げこみました。爆音は、天をゆすり地をゆすって、ものすごくとどろき渡りました。
 すかさず、わが歩兵の一隊は、突撃に移りました。
 班長も、部下を指図しながら進みました。そこに、作江が倒れていました。
 「作江、よくやったな。いい残すことはないか。」
 作江は答えました。
 「何もありません。成功しましたか。」
 班長は、撃ち破られた鉄条網の方へ、作江を向かせながら、
 「そら、大隊は、おまえたちの破ったところから、突撃して行っているぞ。」
とさけびました。
 「天皇陛下万歳」
 作江はこういって、静かに目をつぶりました。
                              (初等科国語 二の二十一)
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「”三勇士”の原典」、「三勇士ブーム」、「教材化へ」、「中央指向性」、「国家のリアリズム」、「階級強調」等の項目は略

ズレを追う
 もう一度、事件の発生とその後の経過を追ってみよう。前例からいってまず考えられるのは、この教材にも「一太郎やあい」のときと同じように、国定教科書の期待する三勇士像と現実のそれとの間にズレが存在していたのではないかという問題である。
 というのも、これまでのべたように、国定教材の三勇士像とそのタネ本になった教育総監部編『満州事変軍事美談集』の間には事件の真相についての一致がみられるのだが、後者の発表と同時期、つまり国定「三勇士」教材完成以前に発表された三勇士もののうち戦死の現場に近い層から発表された記録類と前者国定教科書との間には、じつに微妙な違いがみられるからである。そのひとつに、前にも引用した陸軍工兵中佐小野一麻呂あらわすところの『爆弾三勇士の真相と其の観察』がある。この記録は上海事件が終わってまもない七月十五日の発行になっており、また著者の小野は「三勇士を出せる工兵隊に勤務することじつに十有一年」、とくに「勇士の中隊長たる松下大尉とは父子の如き縁故」にあった人物であるというから、三勇士関係の実録としてはもっとも近い所から出たものとみなければならない。ところが、この書物には、三勇士の最後としてつぎのようにあるだけなのである。

 内田伍長は(中略)作江一等兵を左腕に抱きかかえ、「鉄条網は破れたぞ、傷は浅いぞ、しっかりせよ」と呼ぶ。吉田看護兵も馳せ寄り水筒を口にあてて水を飲ます。その瞬間、憎しや敵弾飛び来りて内田伍長の右大腿部を貫通し、父子相抱くが如く上官と部下とは共に傷つき共に倒れ間もなく作江一等兵の英霊は彼の肉体より去ってしまった。

 他方、国定教材『三勇士』の最後は、「天皇陛下万歳。」作江はこういって、静かに目をつぶりました。」と結ばれていたのだった。
 小野の記録には、孝行息子だった作江一等兵が最後にいったことばが、「天皇陛下万歳」だったとはどこにも書いていないのである。

技術的失敗説・・・略

深部の声
 技術的失敗説の当否はわたくしの判断の能力をこえる。ただいえることは、この種の問題は、こと教科書編集の領域に関するかぎり、採用をひかえる決定的な理由にはならないということである。「一太郎」母子については、あれほどまでして事実を加工した軍部・文部省であった。三人はすでに確実に死亡しており、「一太郎」のばあいのように、当人が日本国内に現に「生きている」のではない。遠くはなれた余人のうかがい知ることのできぬ大陸の戦場でおこった事実の加工は、かれらにとっては、それほどむずかしいことではなかったはずである。
 ところで、上野英信の前出書は、同じく三勇士とその死をめぐる毀誉褒貶には、巧に偽装され、かつ計算されたもうひとつの別性格のものがあったとして、つぎのようにのべている。
 
 その重い絶望的な暗黒の谷底で、ひそやかに都から村へ、村から都へと伏流するある一つのうわさがあった。冷厳な命令のままに従容として<護国の鬼>と化した三人の兵士の中に被差別民がいるという、うわさであった。

 この「うわさ」は、だれが、どういう目的で流したものだったのか。証言は少なくないが、各地のそれらの証言を集めただけでは、最初の発信者やその意図はわからない。わかることは、勇士たちの戦死後まもなく、そのブームのあとを追ってほぼ一年あまりの間に、かなり広くゆきわたり根を下ろしたものというところまでである。ただ、結果からみて、もうひとついえることがある。それは、三勇士が労働者階級の出身であったという事実を階級協調と搾取の強化の武器として活用した前述の論法と全く同じやり方で、この「うわさ」を、一方では差別意識をあおっての殉国精神の強要のための、他方では融和政策のための、それぞれの道具として巧妙に使いわけ、活用しようとする立場がそこに姿をみせているということである。

 「私は思いだす、”爆弾三勇士”が私たちをふるいおこさせていた記憶を。私の耳に入ってきたヒソヒソとした流言のことを」と、戦後、実践記録『落第生教室』(1964年)を書いた高等学校教師福地幸造はその体験を語っている。「二十年経った今でも、このときの衝撃が生々と思いだされてくるのだ。(私はこの文をかく前に先輩のKに確かめてみた。Kもこの話を確かに聞いたといっている。)勿論、私はこの頃、問題については知らなかったが、衝撃はうけた。その一つでも私に二十年前の記憶を生々と思い起こさせる刻印を打っている。」(福地「再び民兵士の手記を」1961年)

 他方、上野の著書は、つぎのような長崎市での証言を引用している。「ええ、三勇士が戦死して間ものう、ほんの間ものうでしたばい。それはもう感激したもんたい。三勇士の中に一人俺たちと同じ民がおるというて。」

ひとばしら
 大戦後三十年近くたった時点で、日本中国友好協会と中国帰還者連絡会は、中国宣戦で戦犯として抑留された会員旧日本兵の手記『侵略-従軍兵士の証言』(1975年)を発表した。この手記の発表は、同書の「まえがき」によると、戦争と戦前の教育を知らない「若い人たちの間から”ありふれた普通の人間”がどうしてこのような(同会が58年に公刊した同会員のもうひとつの手記集『侵略』に語られているようなー引用者注)凶悪な罪行を犯すようになったのか?”という疑問がしばしばきかれるようになった」ので、この疑問にすこしでも答えることになればとの意向で計画されたものであり、「事件はすべて事実である」(ただし人名は一部仮名)とある。その手記のひとつは、「社会で解決し得なかった身分差別を解決すること」が出来る最後の場所として「皇軍」という社会的空間を求めて入隊したひとりの兵士(筆者)が、ここでも差別に苦しみ、自殺を考えたり、差別者への復讐を試みたりする過程を記録している。その兵士が、差別のいたみを中国民衆を虐殺することによっていやそうとし、かくて「ありふれた普通の人間」から冷血な兵士に転身する過程に一役演じたものとして、教材「三勇士」が登場する。手記にはこう書かれている。

 彼は、肉弾三勇士のことを思い出した。(中略)「……わしらのでもあげな勇士を出して、世間の者を見返してやらななあ──」といって、全員が祭りのようにさわいだことを思い出した。たとえ一等兵でもあのように死んで行けば、金鵄勲章がもらえる、そうすれば貧しい俺の家にお金がおりるし、菊も弟妹たちも肩身が広くなり、の人びともきっと喜んでくれるだろう、と常吉は考えた。
 「よーし、馬山作戦で天皇のために最後の手柄をたてよう」
 と決心した。

 世界の先発資本主義国と社会主義国家群を相手に帝国主義戦争をすすめつつあった日本の軍事国家によって、三勇士は二重の意味で人柱とされ、上野によれば「活用」されたのである。とすれば次に問題になるのは、だれが最初にこれを意図したかは別としても、三勇士のこのような「活用」が、なぜこの時点で必要であり、かつ可能であったのかという問題である。

 可能と必要
 日本の近代国家は、一方で差別意識を温存し、これを活用しながら、他方その公布した解放令で、差別に苦しんでいた人びとに期待を抱かせた。こうした事情のゆえに、指導下の差別抗議の運動ですら「明治大帝の聖旨」を楯にすすめられ、この楯そのものを俎上にのせることはむずかしかった。そうした文脈でみると、三勇士事件もまた天皇への忠誠を顕示することにより差別から抜け出したいという民衆の深部のねがいに、どこかでつながっていたことになる。(「〔対談〕植松安太郎・井上清」1975年)この心情が「活用」を可能にした。

 では、この「活用」の必要はどこからきたか。これを明らかにするには、前出の手記集『侵略ー
従軍兵士の証言』にも出てくることだが、「一君」のもとでの「万民」の平等なることをもっとも強調してきた軍隊内部において、ほかならぬ差別が苛酷をきわめていたという、もうひとつの同時代史に眼を転じなければならない。たとえば、『水平新聞』三十五(昭和10)年11月5日付第十三号は、「軍隊に行った者でなければ真実のサベツの苦しみは判らぬ」という「兄弟たちの告白」を伝えている。三勇士事件の発生する32年前後の時期、『水平新聞』紙上に報ぜられたものだけでも、軍隊内差別は枚挙にいとまがない。

 三勇士事件との関係でで大事なことは、このような軍隊内の差別事件に対して、当事者たちは個々に抗議するだけでなく、などを通じて次第に組織的に抗議運動をおこし、しかも、これを、無産労働者解放運動の一翼としてすすめるようになっていたということである。このことは、解放運動が、無産労農運動の目ざすもの、すなわち、近代日本の国家機構そのものの変革を早晩その俎上にのせはじめることを意味するからである。

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軍国美談 「一太郎やあい」

2017年09月20日 | 国際・政治

 下記は「水兵の母」同様、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」などと言って、「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に求める、平和な世の中ではあり得ない母親を、理想の母親とした軍国日本の美談のひとつであり、子どもたちの教科書に掲載された文章です。

 でも、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)を読むと、軍国日本の国家原理と民衆心理(現実の母親の思いその他)との間には、当然のことながら、どうにもならないギャップがあり、せめぎ合いがあったことがわかります。軍国日本の国家原理にもとづいて、意図的に作られた側面のある美談であったから当然のことではないかと思います。かつて、こうした文章が子どもたちの教科書に掲載され、軍国少女、軍国少年が育てられた時代があったことを忘れてはならないと思います。

  沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」を荒らしたとして、器物損壊容疑で逮捕されたのは、右翼ではなく沖縄の4人の少年であったという報道がありました。不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとするような政治的背景はなかったようです。でも、語り継がれなければならない「集団自決」という歴史的事実を、沖縄の少年でさえ知らなかったというのであれば、それは日本の歴史教育の問題ではないかと思います。

下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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                  Ⅱ 軍国美談と民衆 ー 軍事教材改廃の歴史

                 2 せめぎ合う国家原理と民衆心理
(1) 軍国の母と岸壁の母 (教材「一太郎やあい」)
一期だけの運命
 ・・・
 「一太郎やあい」は、発表当時、名作の定評があったのに、第三期(1918~32年)一期だけで命を終えた。廃棄されたのである。なにがあったのだろう。この教材の指導目標は、一読してわかるように、「水兵の母」と同じ軍国の母像である。目標の適合性や、無冠の平凡な母親が主人公という素材の適切さからいって、その民衆教育の教材としての適格性は疑うべくもない。「一太郎やあい」が教科書に載って全国に知られるようになると、一太郎に関するたくさんの伝記物、雑誌、新聞記事が巷間にあふれはじめた。橋本春陵著『一太郎物』(1921年)など、そのなかには、子どもむけの実話ものもあって興味深い。ひろい支持を国民各層からひき出すことに成功していたのに、文部省はなにゆえ、自らの手でこれを葬らなければならなかったか。目標に弱点はない。それは「水兵の母」同様、日本の国家原理と国民心性に深く根をおろしている。そうだとすると素材となったこの母子の実像の側に、有村母子以上の何か問題のあることが、国定教科書への掲載後に見つかったということだろう。

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             第十三 一太郎やあい  

 日露戦争当時のことである。軍人をのせた御用船が今しも港を出ようとした其の時、
 「ごめんなさい。ごめんなさい。」
といいいい、見送り人をおし分けて、前へ出るおばあさんがある。年は六十四五でもあろうか、腰に小さなふろしきづつみをむすびつけている。御用船を見つけると、
 「一太郎やあい。其の船に乗っているなら、鉄砲を上げろ」
とさけんだ。すると甲板の上で鉄砲を上げた者がある。おばあさんは又さけんだ。
 「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ。わかったらもう一度鉄砲を上げろ。」
すると、又鉄砲を上げたのがかすかに見えた。おばあさんは「やれやれ。」といって、其所へすわった。聞けば今朝から五里の山道を、わらじがけで急いで来たのだそうだ。郡長をはじめ、見送りの人々はみんな泣いたということである。
                              (第三期 国語、七の十三)
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教材化されるまで ・・・略

美談の主探し
 「一太郎やあい」が、軍国の母もの「水兵の母」と同性格の教材とされている点に注意したい。「一太郎やあい」が国定教科書にのると、例によって地元では美談の主探しがはじまる。「水兵の母」のときと同じ民間のうねりも面白い。同じことは、あとでのべる「木口小平」や「三勇士」にも起こっているのである。「一太郎やあい」のばあい、結局、地元の小学校長が探しあてたのを大坂朝日がとりあげ、1921年10月1日の同紙に「物語の主人公は生存」と報じた。
 生存中の人物を国定教科書に偽名とはいえのせることは天皇家を除けば編纂例になかったことで、「生存」のニュースだけでも、関係者にはショックだったろう。ところが、生存中というだけならまだしもである。朝日新聞の記事は、こともあろうに、さらに小見出しとして、「今は廃兵の勇士が悲惨な生活」とつけ加え、軍国日本の暗い日常的側面を衆目にさらしたのである。明らかになったところによると、旅順攻撃に参戦した梶太郎は負傷して帰国し、善通寺予備病院で療養後、翌1905年再び同じ埠頭から出征する。このときも母かめは見送ろうとしたが巡視にとがめられ果たせなかった。このときの様子を、香川県の通牒は「カメ曰くよく巡査が此処で止めて呉れたこれから行ったら又第一回の出征の時の様な又悲しき別れをせねばならなかったと又曰く泣いて送るよりも泣かずに送るのが実に言うに言えぬ悲しいものだと」(「国語読本所載事項の原拠に関する香川県の通牒」『文部時報』五七号 1921年11月3日)と、のべている。
 ここには、八波監査官の説明になる「一太郎やあい」の老婆像とはすこしちがった母親像がみられる。「うちのことはしんぱいするな」と叫んだはずの軍国の母の像はここにはなく、夫に去られたあと一人息子までを戦争にとられて悲しむ、ごく人間的な母が姿をみせる。梶太郎は二度目の出征でも死なずに転戦したのち、丸亀に帰還。妻をむかえ、母子三人の、相変わらずの貧しい生活を送っていT。ところが、帰還後二年たったころから負傷あとの痛みがひどくなり、また職場でかかった凍傷も悪化して両手の指六本を切断してしまう。一時賜金150円は手術代に使いはたし、指もないので「家業の如きも一日として勤め得ずし麦の粥をすすりて病床に呻吟すること前後十有三年」(前出香川県通牒)、一家心中まで考えることになる。
 
 関係者のろうばい
 このような、文字通りの「今は廃兵の勇士」の「悲惨な生活」は、「うちのことはしんぱいするな。天子様によく御ほうこうするだよ」と国定教材の母である岡田かめに叫ばしめた天皇の軍隊の約束ごとにまっこうから背反する。事実が新聞スクープによってあらわになったとき、教材「一太郎やあい」づくりに関与した係官たちがろうばいしたことはいうまでもない。八波監査官は、その講演会速記録『読本中心国語の講習』(1926年)に「自分は東京朝日で此の記事を見てぎょっとした」と正直にのべている。つづけてかれは、こう弁解する。
 元来教科書には、現在生きている人の事は(天皇を除いて)成るだけ書かないことになっておる。で、此の文を草する時も、実は当人が生きているか否かを一応調査すべきであったかも知れない。しかし誰一人そんな事を考える遑はなかった。此の話を聞いたものは直ぐ起草した。此の文を見たものはすぐ採用した。確定し、発行して今日に及んだのである。」
 ・・・以下略

数々のびほう策 ・・・略

 軍国の母と岸壁の母
 多度津港西浜埠頭での岡田かめとその息子のやりとりの記録を、もう一度原典にさかのぼって読み直してみよう。国定教科書によれば、岡田かめは「うちのことは心配するな」云々と叫んだことになっている。ところが、問題の場面を最初に目撃し、これを記録した香川県第一部長の翌年一月時点での話はつぎのようになっている。(『文部時報』五十七号 前出<参考>欄収録文による)。
 突然後方より岡本と叫ぶものあり。顧みれば六十歳計りの一老嫗、今将に十数間岸を離るる端艇中にありし一兵士なる其子を呼びしなり。其老嫗は粗衣垢面、一見貧家の寡婦たるを知れるが、直立凝視猶其声を続けて曰く、
 「オカアは茲(ココ)に居る」
 「しっかり遣(ヤッ)て来いよ」
 「出征して帰れよ」(出征→出世?)
 「オカアは待っている居るぞよ」
と言いしに、天なる哉母の声の耳に入りしと見え其子は高く銃を上げれば母は大いに悦び、
 「御前の顔を見て安心したよ………もう一度銃を上げてくれ」

 県官側の記録でも、最初の素材提供者の口述では、現実の岡田かめは「うちのことは心配するな」などとはいっておらず、ひたすら息子の無事帰還を「待っている」岸壁のはではないか。国定軍事教材化されたものと比較していえることは、全国数十万の軍国の母たちの現実の心情は、必ずしも、官製の軍国の母像のつくり手が要求しているような指導目標を担いきることができるものばかりではないということである。軍国日本の教育性は、こうして、その底辺部を担う層に入ってゆくや、またもたてまえだおれにおわり、この心情の壁が、教材「一太郎やあい」の命とりになったことになる。軍国の母像の敷衍という指導目標は、前項でものべたように、日本の母性社会原理に根を下ろした重要目標であり、文部省はそれに異議ありとしたのではない。いや、この重要目標を守り、傷つけないためも、「一太郎やあい」は葬らなければならなかったのである。

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

 


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軍国美談 水兵の母 

2017年09月16日 | 国際・政治

 先日(2017年9月13日)、朝日新聞に”沖縄「集団自決」のガマ荒らされる”という記事が掲載されました。沖縄県読谷村の洞窟「チビリガマ」で、入口の説明板が引き抜かれたり、内部のつぼやガラス瓶などの遺品が粉々に割られたり、千羽鶴が引きちぎられたりしたというのです。私は、沖縄における「集団自決」の事実は、日本で継承されるべき歴史的事実であり、こうした行為は許されないことだと思います。

 また、先日、関東大震災の際に虐殺されたという朝鮮人の犠牲者を悼む行事に、小池百合子都知事は追悼文を送らなかった問題も報道されました。そして、すでに多くの証言や資料をもとに、歴史家が明らかにしている歴史的事実であるにもかかわらず、虐殺の有無について認識を問われると、「様々な見方があると捉えている」と回答し、「歴史家がひもとくものだ」とも述べたといいます。
 こうしたことは、下記の「慰安婦問題」における安倍政権の姿勢と、無関係ではないと思います。 
 2015年(平成27年)12月、慰安婦問題に関して、日韓が合意にいたりました。でも、その際、「日本軍の慰安婦問題を最終かつ不可逆的に解決する」合意である、というようなことが言われました。私は、「最終かつ不可逆的に解決する」というような言い方に引っかかるものを感じました。
 安倍総理は、

私たちの子や孫、その先の世代の子供たちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない。
 今回、その決意を実行に移すための合意でした。この問題を次の世代に決して引き継がせてはならない。最終的、不可逆的な解決を70年目の節目にすることができた。今を生きる世代の責任を果たすことができたと考えています。

というのですが、私はおかしいと思います。安倍総理は「元従軍慰安婦の人たちの主張を事実としては認められないが、10億円を支払って謝罪をするので、今後は慰安婦問題を持ち出さないでほしい」と考えているのではないでしょうか。そして、かつて日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な慰安婦問題を教科書から削除し、なかったことにしようとしているように思えます。

 でも、「歴史に学ぶ」というのは、「負の歴史」も含めてでなければならないと思います。日本は、こうした「負の歴史」を記憶し、後世に伝えていく義務を負っているのではないでしょうか。河野談話を問題視するようなことをいいながら、慰安婦像の撤去を執拗にもとめる安倍政権の姿勢は、歴史を修正しようとするものであり、そうした姿勢が様々なところで、日本を戦争へと導いた指導層や軍にとって不都合な歴史的事実を、なかったことにしようとする動きをうみ出しているとさえ思えてなりません。

 かつて、下記のような軍国美談が教材とされた事実や、実態をとらえて改作された同じ題名の教材があった事実なども、忘れてはならないと思います。
 「一命を捨てて君の御恩に報ゆる」ことを我が子に諭す母親が、感心な母親であり、立派な母親であると、当時の子どもたちは、国の方針に基づいて指導されたということですから。
 下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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              Ⅱ 軍国美談と民衆  軍事教材改廃の歴史
 
 1 「強い教材」の精神的支柱
                (4) 「水兵の母」のねばり
「水兵の母」の由来 
 教材「水兵の母」の水兵は実在の人物で、じっさいあったかれの言行がその素材となっている。しかし、かれには、他の強い教材の場合のような皇室とのつながりなどはない。そのうえ、素材の適切さという点では深刻なキズを負っていた人物だった(後出)。それがなぜ強い教材なりえたか。
 素材は日清戦争の一挿話。第一期国語、高等小学校読本に「感心な母」の題名で登場して以来、第五期本まで連続登場し、「入営・兵役」ものと並んで、最長の記録をもつ。素材の提供者は、第一期教科用図書調査委員会の海軍側代表委員子爵小笠原長生であった。小笠原には『東郷平八郎伝』(1931年)、『忠烈爆弾三勇士』(1932年)など、他にも国定教材の原典や参考文献になったドキュメント類があるが、「水兵の母」のそれは、当時軍艦高千穂に乗り組んでいたかれが、日清戦争従軍中、手帳に書きとめていたものをあとで整理したドキュメント『海戦目録』(1896年)だといわれる。

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                         第二十四 水兵の母

 明治二十七年戦役の時であった。或日我が軍艦高千穂の一水平が、女手の手紙を読みながら泣いていた。ふと通りかかった某大尉が之を見て、余りにめめしいふるまいと思って
 「こら、どうした。命が惜しくなったか、妻子がこいしくなったか。軍人となって、いくさに出たのを男子の面目とも思わず、其の有様は何事だ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
と、言葉鋭くしかった。
 水兵は驚いて立上がって、しばらく大尉の顔を見つめていたが、(中略)
 「それは余りな御言葉です。私は妻も子も有りません。私も日本男子です。何で命を惜しみましょう。どうぞこれを御覧下さい。」
と言って、其の手紙を差出した。
 大尉はそれを取って見ると、次のような事が書いてあった。
 「聞けば、そなたは豊島沖の海戦にも出ず、又八月十日の威海衛攻撃とやらにも、かく別の働なかりきとのこと。母は如何にも残念に思い候。何の為にいくさには御出でなされ候ぞ。一命を捨てて君の御恩に報ゆる為には候わずや。村の方々は、朝に夕にいろいろとやさしく御世話下され、『一人の子が御国の為いくさに出でし事なれば、定めて不自由なる事もあらん。何にてもえんりょなく言え』と、親切におおせ下され候。母は其の方々の顔を見る毎に、そなたのふがいなき事が思い出されて、此の胸は張りさくるばかりにて候。母も人間なれば、我が子にくしとはつゆ思い申さず。如何ばかりの思にて此の手紙をしたためしか、よくよく御察し下されたく候。」
大尉は之を読んで、思わずも涙を落し、水兵の手を握って
 「わたしが悪かった。おかあさんの精神は感心の外はない。お前の残念がるのももっともだ。しかし今の戦争は昔と違って、一人で進んで功を立てるようなことは出来ない。将校も兵士も皆一つになって働かなければならない。総べて上官の命令を守って、自分の職務に精を出すのが第一だ。おかあさんは、『一命を捨てて君に報いよ』と言っていられるが、まだ其の折りに出会わないのだ。(後略)」
と言聞かせた。
 水兵は頭を下げて聞いていたが、やがて手をあげて敬礼して、にっこり笑って立去った。
                              (第三期 国語、九の二十四)

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 水兵とその母が誰であるかについて、『海戦目録』は「余の部下」で「某が家は世々鹿児島の浜辺にありて見る蔭もなき漁民なり。早く父に別れて、兄弟もなく、年老いた母のみ家に留めて出陣」と記すだけで、詳細不明の状態がながくつづいた。貧しく、名もない母子家庭の老母とその息子。そんな母親でも「一人の子」を「お国」のためによろこんでさしだし、天皇のいくさに身を捧げるよう願っているという筋書き。これは、軍指導部にとって国民教化の絶好の素材たりえたであろう。第一期本「感心な母」はこの点をとりたてて強調する構成になっている。

 大尉はこれを読んで、思わず、涙を落した。しばらくして、水兵の手を取り、せなかをなでて、
 「あー。ゆるせ。わたしがわるかった。おまえはよい母をもっている。たぶん、おもえは、よい家柄に、うまれたものだろうな。」
といった。
 水兵は、頭をふって、
 「いえ、私は鹿児島のうみばたのりょーしの子です。父は、早く死んで、うちには、母ばかり、のこっています。(後略)」
といった。

実相の露呈 
 中村紀久二の研究によれば、1929(昭和4)年になって、突如『肥後日日新聞』が水兵母子を「漸く探し当てた」と報じ、翌々年には野崎敬輔著『実話 水兵の母』が公刊され評判になる。さらに、32年2月には、当の文部省がこれを「社会教育ニ裨益アリ」と認定するにいたった。問題は、こうして公認となった現実の水兵母子のその後である。新聞が明らかにしたところによると、この母子は鹿児島県揖宿郡指宿村の有村おとげさとその次男善太郎であって、善太郎、つまりくだんの「水兵」は実は病気がち、教科書に載った挿話のあったあともはかばかしくなく、結局、1894年9月の黄海の海戦のはじまるまえに高千穂から下艦を命じられた。そして、母の住む村に帰郷し、3年後に病死していたのである。
 国定教材では、「てがら」をたてて故郷に錦をかざるはずの漁民兵士が、じっさいは手柄なくうらぶれた病兵であることがあらわになったことの軍指導層にとっての衝撃は軽くない。このようなとき、教材製作の直接の責任者である図書監修官は、後述するように、素材に加工するか、教材を廃棄するかしているが、「水兵の母」の場合いずれの処置もなくおし通した(通しえた)のはなぜか。それはこの教材の主人公が、善太郎「水兵」や小笠原「大尉」ではなく、現実にはその場に登場しない「母」だったのだと考えると、その理由がわかってくる。軍国の母像のフレーム・アップがこの教材の眼目である。まえに引用した教材解説書のいうように、そのめざすところは、理想の母像を提示することによる情操教育であって、関連教材一体となって「母親のわが子に対する真情の種々相を教材とし、これまで培われて来た児童の母に対する情感を一層深めて行くようになっている」のである。
 そうだとすると、「水兵の母」である有村おとげさに直接のキズがなければ、子の病弱は母性原理を介してかえってプラスに働くのであって、それがこの素材の適切さだと判断されたのではないか。もっともこれは、図書監修官やその上司たちの間になりたちえた判断のひとつであって、有村母子の実相が軍国の母像をフレーム・アップするうえでじっさいに適切な素材でありえていたということではない。わたくしにはこの点がなお疑問としてのこる。
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                       Ⅲ 軍事教材の転生
  1 変身する軍事教材
(1) 水面下の演出者
 教材の改廃理由を調べていくことによって、文部省のすすめた改廃作業の裏側に、じつは、近代日本の軍と学校をまきこんだ深刻な内部矛盾があったことがわかる。このことは、その矛盾の事態、事実を素材にして、国定教材とは目的も指導目標もちがう反官・反軍の軍事教材づくりが、同時代において可能だったことを物語っている。じっさい、軍国日本の内外の反対勢力が国定軍事教材に対しておこなった闘争じれいを調べてみると、「水兵の母」、「一太郎やあい」「三勇士」など、わが監修官たちをてこずらせ、悩ませた教材にかぎって、このもうひとつの教材づくりの試みは興味深い深まりをみせているのである。1920年代から30年代にかけての国際的なデモクラシーと社会主義運動、そして、国内在野運動の高揚期に、国定教科書の批判と新教材の製作および使用を試みたのは、新学校に拠った「自由教育」者たちであり、なかば非合法の教員の労働組合や労農少年団運動にとりくんでいた農民組合の青年たちであった。軍国日本の植民地・占領地であった朝鮮、中国等の抗日勢力も同様の試みをした。この章では、これら在野の活動家層にむけて、それぞれの関連団体が用意した「新学校」副教材や「プロレタリア教育の教材」「抗日教材」中の関連部分がどのようなものだったかをのべておくことにしよう。

新学校の副教材 ・・・略

プロレタリア児童文化 ・・・ 略
 
教師の集団 ・・・略

(2) 生まれ変わる美談の主
「水兵の母」のばあい
 代々の図書監修官たちの手になる国定軍事教材を、反軍国主義の立場からつくりかえる動きは、こうして1930年代にかけての無産大衆運動のなかではじまった。「プロレタリア教育の教材」は、学校教育の教科目全分野にわたっているが、ここでは、そのうち、軍事に素材をとった民間「軍事教材」とでもいうべきものに限って話をすすめることにする。
 新興教育研究所はコップ加盟後、精力的にピオニール関係の教科書を編輯発行したが、そのひとつ、
1932年8月3日付特輯『ピオニーロ夏休み帳』 で、最強の国定教材のひとつである「水兵の母」の素材をプロレタリア教育の立場からとりあげ、教科化した。以下はその一部である。

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                          水兵の母
 (前略)
 大尉(おこった顔)「こらっどうした命が惜しくなったか。妻子が恋しくなったか。軍人となって軍(イクサ)に出たのを男子の本懐と思わず其の有様はなんだ。兵士の恥は艦の恥、艦の恥は帝国の恥だぞ。」
水兵六(驚いて飛上がる。だんだん怒りの色をあらわす。黙って手紙を渡す!)
大尉(手紙を受け取る)「何だ是は(いやな顔をしながら)ふん。女の手紙だな。」(大きな声で読む)

 聞けばお前は豊島沖の海戦にも八月十日の威海衛の攻撃にも別にけがもなかったちう清二の話じゃが「やれやれ安心しただ。お前が出たあとの村ちうものはそれはそれはひどいもんじゃ。お前の働いていた田には草が生え、お前の可愛がって居た兎は六匹とも死んじまった。すけどんちの三男坊は大砲の弾でとんじまったちうじゃねえか。
 俺は地主様の作男がわりにつかわれているだが、この年に無理な仕事で一日十五銭、是でどうして三人の倅を養って行けるだか、今に母も倅もヒボシさ。(中略)そんなようで家ばかりでねえだ。村中あっちでも夏の池の鮒みてえに、村人がアップアップしているだあ。じゃが母はお前の怪我もなく戦死もせず無事に帰るのをまっているだあ。例え上官の命令じゃとてもあぶない所へは行くな。お前ばかりでない。お前と一緒に働く水兵ちう者にも親も子もあるべえ。何とかうまくやって生きて帰って来てくれ一生のねがいだ。友だちの水兵様によろしく云っておいてくれ。書いているそばにはカタワの清二もお前を可愛がっている三人の弟もいるだ。皆やせこけているだあ。
大尉「こらっ不とどき者、何と云うことだ。」(水兵をなぐりつける)
第四景
水兵六なぐられてたおれて手紙を持ちながら泣いている。他の水兵登場。
水兵一「何だ何故泣いている。福田。」
水兵二「おい手紙を持っているぞ。」(水兵三、四、一、手紙のまわりに来る。そしてみんな読み合う)
水兵三「俺の嬶はどうしているだろう。俺の子供は」
水兵四「国のためだ何て云ってるが一つも俺達のためではないじゃないか。」
水兵三「そうだ。俺達は何のために戦してるんだろう。」
水兵六(泣きながら)「母の云うことは本当だ。お母さんの云う通りだ。俺達は自分のとくにならない上に支那の労働者や農民をやたらに殺すのはいやだ。」
水兵一、二、三、四、六、(声を揃えて)「そうだ!そうだ! 俺達は金持ちばかりの得になるばかばかしい戦争はマッピラだ。皆して戦争をやめよう!」

 改作「水兵の母」の裾野
 「水兵の母」有村おとげさにとっての問題は、図書監修官のいう軍国の母のふるまいといった立派なものではなく、息子が国定教科書の教えや「上官の命令」におどらされないで我が身大事と「うまくやり」、どうやって無事にムラへ帰ってくるかであり、それが農民兵士やその母たちすべての本音でもあったというもうひとつの軍国日本の母と兵士の現実が、ここではあからさまに形象化され、教材としての機能を国定版のばあいとは一変させている。この改作版もとらえているように、中堅労働力の根こそぎ召集にともなう家族の生活破壊や地域の荒廃は、戦争が長びくにつれてさまざまなかたちで深まりつつあった。…
 ・・・以下略

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国定教科書における木口小平や靖国神社

2017年09月12日 | 国際・政治

 明治のはじめ、日本では民撰議院設立建白書の提出を契機に、自由民権運動が始まったといわれます。当初は、明治政府に不満を抱いた士族が中心だったということですが、憲法の制定、議会の開設、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障に加えて、地租の軽減などの要求も掲げたため、しだいに運動は、不平士族のみならず農村にまで浸透し、全国民的なものとなっていったようです。

 そんな中で、自由民権運動を抑え込むようなかたちの教育政策が進められ、教科書は「国定制」に切り替えられたようです。

 そして、子どもたちが手にする「国定教科書」の修身に、下記、死んでもラッパを離さなかった木口小平(日清戦争)の話が登場することになるのです。でも、私はこうした軍国美談は、一部は真実だとしても、全部が真実であるかどうかは疑わしいと思います。木口小平をヒーローに仕立てることによって、政権に都合のよい教育を意図したのだろうと思うのです。
 そして、それは、下記のように、その目標が「勇気を起さしむるを以て本課の目的とす」から「忠義の心を振興せしめ…」に変わっていったことにあらわれているように思います。特に、軍事教材では、真実は脚色され、ねじ曲げられたり、様々な誇張や無視が入ったり、時には嘘さえもが盛り込まれてしまったりするのではないかと思います。

 「歴史教科書を格付けする」藤岡信勝編(徳間書店)に、”「国のおこり」は、神話によって感動的に物語られなければならない”といったような文章があったことも思い出します。

 また、「靖国神社」の文章にみられるような、”陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません”というような、皇国史観に基づく国定教科書で育てられた人たちが、日中戦争開始の頃に、日本の中心的存在であった歴史を忘れてはならないと思います。

 下記は、「軍国美談と教科書」中内敏夫著(岩波新書)から抜粋しました。
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Ⅰ 軍事教材の誕生

   十七
 クグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ。

目標が変わった例
 つぎに、五期四十数年をへる間に、同じ軍国日本を称揚するものでありながら、重点のおき方に変化が生じ、その結果が個々の軍事教材の指導目標の変化となって教材の改廃へと連動していった例をあげておこう。これもじつは二つの種類がある。ひとつは、新しい目標にあわせて旧素材を解釈しなおして新教材をつくるばあいである。もうひとつは素材そのものを一新し、したがって旧素材は廃棄ということになるばあいである。カッコ内は教科書中の題名である。 

木口小平一等卒
(1) 第一期本(修身、二の二十四、ユーキ)
<目的>勇気を起さしむるを以て本課の目的とす(『尋常小学校修身巻一 教師用』1903年)
(2) 第二期本(修身、一の十七 チュウギ)
<目的>忠義の心を起さしむるを以て本課の目的とす。(『尋常小学校修身書巻一 教師用』1910年)
(3) 第四期本(修身、一の二十六 チュウギ)
<目的>忠義の心を振興せしめ、天皇陛下の御為には一身を捧げて尽くすよう心掛けしむるを以て本課の目的とす。(第三期本も同じ - 引用者注)

 なおこの第四期本の解説書には、〔注意〕として「戦場に出ない者でも、自分自分の職場を守って国の為に働くのが天皇陛下に忠義を尽くすことになる事を諭すこと」(『尋常小学校修身書巻一 教師用』)とある。

 陸軍歩兵一等卒木口小平の明治27、8年日清戦争成歓(ソンファン)の戦場での言行を素材にしてつくられたこの軍事教材の歴史は、岡山県川上郡成羽村出身の一職人兵士の同じ一つの行動が、時期により異なる目標のもとに教材化された例である。第一期本では「勇気を起こさにせる」というどこにでも通じる一般的な徳目だったのに、二期本以後では、これが天皇の国家にむけての勇気という枠のなかに閉じ込められて、、「忠義の心を起こさしむる」「天皇陛下の御為」となる。第四期本の〔注意〕はその頂点を示している。ところが木口小平は、こうして天皇の軍隊である皇軍の価値秩序にくみこまれて極点まで登りつめるとともに、突然消される。その背後には、じつは、さきにのべた軍事行動の近代化にともなう指導目標の大きい転換があった。そして、この転換が、あとにのべるように、第五期にいたって大量の新出軍事教材が誕生する原因となるのである。

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Ⅱ 軍国美談と民衆
 
                  1 「強い教材」の精神的支柱

(1) 国家原理と教材目標
  靖国関係教材
教材「靖国神社」の指導目標を考えてみよう。
 靖国神社の原型は招魂社である。招魂とは死者の霊を天から招き降ろして鎮魂するの意である。その起源は古代にさかのぼるが、平安期に入るころから死者の怨念をはらすことを目的とする御霊(ゴリョウ)信仰ともまざりあいながら、戦国期になると、祟りなきよう戦争で死んだ敵味方を弔う習俗に発展した。靖国の思想も、神道ふうのこの招魂の思想をうけついでいるのであるが、両者の間には決定的なちがいがあった。戦国期の招魂の思想は、仏教の影響もあって、死ねば敵も味方もないという神道の立場からの一種のヒューマニズムに達していたのに対して、靖国の思想によれば、天皇に敵対したものは死後も未来永劫に「内外の国の荒振寇等(アラブルアダドモ)」つまり賊徒であり、逆に天皇に従うものは天皇のために死んだという一点の功によって生前のあらゆる犯罪、罪罰から放免され、神とあがめられる存在になるとされる。つまり、靖国は、天皇の力が、地上のあらゆる犯罪、道義上の悪を駆逐して、万民の解放を自らの意志によってなしとげる場である。教材「靖国神社」には、ここのところが簡潔に説かれている。靖国神社の威力は、この種の政治制度上のものに加えて、もうひとつ日本人の死生観に根を下しているところからもくる。
 神殿にたって柏手(カシワデ)をうてば、万里の彼方で死に、億万里彼方へ去った息子や夫たちの魂が瞬時に目前にかえってきて対話すら可能となる。いけるもののこの世と死せるものの霊界の間に断絶をみず、死を永遠の別離としない日本人の民族的死生観を、この国家制度は見事に活用して、現実には兵士とその家族たちを死の局面にさらしていたのである。靖国神社は、これまた、近代日本の国家機構を、国民感情の深部から支える巨大な精神的空間だったといわねばならない。そのゆえんを教えつづけることの国家指導者にとっての価値は、はかり知れないものがあったといえよう。

                 第三 靖国神社
 靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社(ヤシロ)には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。春(4月30日)と秋(10月23日)の祭日には、勅使をつかわされ、臨時大際には天皇・皇后両陛下の行幸啓(ギョウコウケイ)になることもございます。君のため国のためにつくした人々をかように社にまつり、又ていねいなお祭をするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思い、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません。
                                                  (第三期修身 四の三)

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