真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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史実と神話 津田左右吉 Ⅲ

2017年08月27日 | 国際・政治

 日本には、日本国憲法に基づく戦後の日本は本来の日本ではないため、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本に思いを致し、「本来」の日本を取り戻そうと考えている人たちが少なからずいるように思います。そして、そういう人たちが、日本国憲法を「押し付け憲法」・「マッカーサー憲法」などといって変えようとしたり、歴史の見直しや歴史教育の修正を主張したりする動きの中心になっているのではないかと思います。

 「新しい歴史教科書をつくる会」設立人の一人で会長の西尾幹二氏は、「国民の歴史」(産経新聞社)の「6 神話と歴史」で
日本の古代史学者で、文字渡来以前の日本人の言語生活の豊かな可能性に思いをはせる者は、私の知るかぎり、ほとんどいない。だから文字渡来より以後のこの列島住人の、文字への不安と抵抗と嫌厭(ケンエン)とについて慎重に、深く考える者もいない。それは歴史学の領分の外だといわんばかりである。
と書いています。また、
 ”…現代日本の古代史家たちは、中国の史書に倭国に関する文字記述のあったときをもって、この列島の歴史の始まりとし、それ以前は考古学的時代として封印して、顧みない。ここにきわめてあさはかな合理主義がある。目に見えるものだけを信じる、知性の衰弱がある。”
とも書いています。
 私は、文学者である西尾氏の発想は、客観性を無視しては成立しない社会科学の一分野である歴史学の学者のそれとは決定的に異なるものであると思います。皇国史観の教祖といわれた平泉澄と同じように、社会科学を嫌い、『古事記』を神典のごとく絶対視するような姿勢を感じます。
 西尾氏の「国民の歴史」(産経新聞社)には、受け入れがたい文章がそこここにあるのですが、一つ二つあげると、
”…わが祖先の歴史の始源を古代中国文明のいわば附録のように扱う悪しき習慣は戦後に始まり、哀れにも今もって克服できない歴史学界の陥っている最大の宿痾の一つと考えてよいであろう。
 皇国史観の裏返しが、「自己本位」の精神までも失った自虐史観である悲劇は、古代史においてこそ頂点に達している。”
と書いていますが、私は、「自己本位」の精神に貫かれた皇国史観は、白人至上主義などと同じようなものではないかと思います。
 また、
いったいどこの国に外国文献中の蔑称「倭国」「倭人」をもって自国史の開幕を告げる歴史を常道とする国があるだろうか。わが国の場合、王権の始源が『古事記』や『日本書紀』の「神代紀」に深くつながっているので、戦後これをご承知の事情であわただしく否定したために、かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し、そこに国の起源を見るあわただしい錯誤に陥ったまでだ。
 一国の迷いの姿をこれほど証している例はないだろう。なぜ神話を「非歴史」とし、外国の片言を「歴史」と信じるのか。どこに証拠があるのか。
とも書いているのですが、私は、これは事実を無視した、自分勝手でとても乱暴な受け止め方だと思います。神話を根拠もなく史実とすることができないのは当たり前のことで、戦後日本の歴史教育は”かわりに外国文献中のわが国に関する数少ない文字を拾い出し”などというようないい加減なものではないことは、下記の津田左右吉の文章が示しているのではないかと思います。

 西尾氏は、『古事記』の神話を史実とする証拠がないので、逆に「すべての歴史は神話である」などと言って、神話を史実とした皇国史観を復活させようとしているのではないかと想像します。そして、皇国史観によって、先人がつくりあげた戦前・戦中の日本を取り戻し、その意図を継承しようとしているように思います。

 西尾氏は、こうした考え方で子ども達が手にする教科書を作っているのでしょうが、見逃すことができないのは、同じような考え方をする人たちがその教科書採択を働きかける一方で、慰安婦問題に言及する歴史教科書を採択した学校には、抗議のはがきを大量に送るというような動きがあることです。
 
 「新しい歴史教科書をつくる会」の西尾氏が、社会科学の一分野である歴史学の観点で、戦後日本の歴史教育を批判するのではなく、むしろ歴史学そのものさえ否定するようなかたちで、戦後日本の歴史教育を批判し、攻撃的ともいえる文章を書いていることが、とても心配です。日本の歴史教育を近隣諸国はもちろん、国際社会で受け入れられないような歴史教育にしてはならないと思います。

 下記は「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋したものですが、多くの文献を踏まえ、『古事記』や『日本書紀』を史料批判の観点から研究した津田左右吉は、その主著を発禁処分とされ、禁固刑の判決を下されました。法律も政治も教育も、すべてが皇国史観で貫かれていた時代なので当然かもしれませんが、その理由は学問的にどうということではなく、「皇室の尊厳」を冒涜したということだったようです。 
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                  Ⅳ 建国の事情と万世一系の思想

           二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ・・・
 皇位が永久でありまたあらねばならぬ、という思想は、このようにして歴史的に養われまた固められて来たと考えられるが、この思想はこれから後ますます強められるのみであった。時勢は変り事態が変っても、上に挙げたいろいろの事情のうちの主なるものは、概していうと、いつもほぼ同じであった。六世紀より後においてさえも、天皇はみずから政治の局には当られなかったので、いわゆる親政の行われたのは、極めて稀な例外とすべきである。タイカ(大化)の改新とそれを完成したものとしての令の制度とにおいては、天皇親政の制が定められたが、それの定められた時は、実は親政ではなかったのである。そうして事実上、政権をもっていたものは、改新前のソガ(蘇我)氏なり後のフジワラ(藤原)氏なりタイラ(平)氏なりミナモト(源)氏なりアシカガ(足利)氏なりトヨトミ(豊臣)氏なりトクガワ(徳川)氏なりであり、いわゆる院政としても天皇の親政ではなかった。政治の形態は時によって違い、あるいは朝廷の内における摂政関白などの地位にいて朝廷の機関を用い、あるいは朝廷の外に幕府を建てて独自の機関を設け、そこから政令を出したのであり、政権をにぎっていたものの身分もまた同じでなく、あるいは文官でありあるいは武人であったが、天皇の親政でない点はみな同じであった。そうしてこういう権家の勢威は永続せず、次から次へと変っていったが、それは、ひとつの権家が或る時期になるとその勢威を維持することのできないような失政をしたからであって、いわば国政の責任がおのずからそういう権家に帰したことを、示すものである。この意味において、天皇は政治上の責任のない地位にいられたのであるが、実際の政治が天皇によって行われたなかったから、これは当然のことである。天皇はおのずから「悪政をなさざる」地位にいられたことになる。皇室が皇室として永続した一つの理由はここにある。

 しかし皇室の永続したのはかかる消極的理由からのみではない。権家はいかに勢威を得ても、皇室の下における権家としての地位に満足し、それより上に一歩をもふみ出すことをしなかった。そこに皇室の精神的権威があったのでその権威はいかなるばあいにも失われず、何人もそれを疑わず、またそれを動かそうとはしなかった。これが明かなる事実であるが、そういう事実のあったことが、即ち皇室に精神的権威があったことを証するものであり、そうしてその権威は上に述べたような事情によって皇位の永久性が確立して来たために生じたものである。

 それと共に、皇室は摂関の家に権威のある時代には摂関の政治の形態に順応し、幕府の存立した時代にはその政治の形態にいられたので、結果から見れば、それがまたおのずからこの精神的権威を保持せられた一つの重要なる理由ともなったのである。摂関政治の起こったのは起こるべき事情があったからであり、幕府政治が行われたのも行わるべき理由があったからであって、それが即ち時勢の推移を示すものであり、特に武士という非合法的のものが民間に起こってそれが勢力を得、幕府政治の建設によってそれが合法化せられ、その幕府が国政の実権を握るようになったのは、そうしてまたその幕府の主宰者が多数の武士の向背によって興りまた亡びるようになると共に、その武士によって封建制度が次第に形づくられて来たのは、一面の意味においては、政治を動かす力と実権とが漸次民間に移り地方に移って来たことを示すのであって、文化の中心が朝廷を離れて来たことと共に、日本民族史において極めて重要なことがらであり、時勢の大なる変化であったが、皇室はこの時勢の推移を強いて抑止したりそれに反抗する態度をとったりするようなことはせられなかった。時勢を時勢の推移に任せることによって皇室の地位がおのずから安固になったのであるが、安んじてその推移に任せられたことは、皇室に動かすべからざる精神的権威があり、その地位の安固であることが、皇室みずからにおいて確信せられていたからでもある。もっとも稀には、皇室がフジワラ氏の権勢を牽制したり、またショウキュウ(承久)・ケンム(建武)の際のごとく幕府を覆そうとしたりせられたことがありはあったが、それとても皇室全体の一致した態度ではなく、またくりかえし行われたのでもなく、特に幕府に対しての行動は武士に依頼してのことであって、この点においてはやはり時勢の変化に乗じたものであった。(大勢の推移に逆行しそれを阻止せんとするものは失敗する。失敗が重なれば。その存在が危うくなる。)ケンム以後ケンムのような企ては行われなかった。

 このような古来の情勢の下に、政治的君主の実権を握るものが、その家系とその政治の形態とは変りながらも、皇室の下に存在し、そうしてそれが遠い昔から長く続いて来たにもかかわらず、皇室の存在に少しの動揺もなく、一種の二重政体組織が存立していたという、世界に類のない国家形態が我が国には形づくられていたのである。もし普通の国家において、フジワラ氏もしくはトクガワ氏のような事実上の政治的君主ともいうべきものが、あれだけ長くその地位と権力とをもっていたならば、そういうものは必ず完全に君主の地位をとることになり、それによって王朝の更迭が行われたであろうに、日本では皇室をどこまでも皇室として戴いていたのである。こういう事実上の君主ともいうべき権力者に対しては、皇室は弱者の地位にあられたので、時勢に順応し時の政治形態に順応せられたのも、そのためであったとは考えられるが、そこに皇室の精神的権威が示されていたのである。

 けれども注意すべきは、精神的権威といってもそれは政治権力から分離した宗教的権威というようなものではない、ということである。ただその統治のしごとを皇室みずから行われなかったのみであるので、ここに精神的といったのは、この意味においてである。エド(江戸)時代の末期に、幕府は皇室の御委任をうけて政治をするのだという見解が世に行われ、幕府もそれを承認することになったが、これは幕府が実権をもっているという現在の事実を説明するために、あとから施された思想的解釈に過ぎないことではあるものの、トクガワ氏のもっている法制上の官職が天皇の命令任命によるものであることにおいて、それが象徴せられているといわばいわれよう。これもまた一種の儀礼に過ぎないものといわばいわれるかもしれぬが、そういう儀礼の行われたところに皇室の志向もトクガワ氏の態度もあらわれていたので、官職は単なる名誉の表象ではなかった。さて、このような精神的権威のみをもっていられた皇室が昔から長い間つづいて来たということが、またその権威を次第に強めることにもなったので、それによって、皇室は永久であるべきものであるという考が、ますます固められ来たのである。というよりも、そういうことが明かに意識せられないほどに、それはきまりきった事実であるとせられた、というほうが適切である。神代の物語の作られた時代においては、皇室の地位は永久性おいうことは朝廷における権力者の思想であったが、ここに述べたようなその後の歴史的情勢によって、それが朝廷の外に新しく生じた権力者及びその根柢ともなりそれを支持してもいる一般武士の思想ともなって来たので、それはかれらが政治的権力者となりまた政治的地位を有するようになったからのことである。政治的地位を得れば必ずこのことが考えられねばならなかったのである。

 ところで皇室の権威が考えられるのは、政治上の実権をもっている権家との関係においてのことであって、民衆との関係においてではない。皇室は、タイカの改新によって定められた耕地国有の制度がくずれ、それと共に権家の勢威がうち立てられてからは、新に設けられるようになった皇室の私有地民の外には、民衆とは直接の接触はなかった。いわゆる摂関政治までは、政治は天皇の名において行われたけれども天皇の親政ではなかったので、従ってまた皇室が権力を以て直接に民衆に臨まれることはなかった。後になって、皇室の一部の態度として、ショウキュウ・ケンムのばあいの如く、武力を以て武家の政府を覆えそうという企ての行われたことはあっても、民衆に対して武力的圧迫を加え、民衆を敵としてそれを征討せられたことは、ただの一度もなかった。一般民衆は皇室について深い関心をもたなかったのであるが、これは一つは、民衆が政治的に何らの地位ももたず、それについての知識をももたなかった時代だからのことでもある。

 しかし政治的地位をもたなかったが知識をもっていた知識人においては、それぞれの知識に応じた皇室感を抱いていた。儒家の知識をもっていたものはそれにより、仏教の知識をもっていたものはまたそれによってである。そうしてその何れにおいても、皇室の永久であるべきことについて何の疑いをも容(イ)れなかった。儒家の政治の思想としては、王室の更迭することを肯定しなければならぬにかかわらず、極めて少数の例外を除けば、その思想を皇室に適用しようとはしなかった。そうしてそれは皇室の一系であることが厳然たる古来の事実であるからであると共に、文化が一般にひろがって、権力階級の外に知識層が形づくられ、そうしてその知識人が政治に関心をもつようになったからでもある。仏家は、権力階級に縁故が深かったためにそこからひきつがれた思想的傾向があったのと、その教理にはいかなる思想にも順応すべき側面をもっているのとのために、やはりこの事実を承認し、またそれを支持することにつとめた。

 しかし、神代の物語の作られたころと後世の間に、いくらかの違いが生じたことがらもあるので、その一つは「現つ神」というような称呼があまり用いられなくなり、よし儀礼的因習的に用いられるばあいがあるにしても、それに現実感が伴わないようになった、ということである。「天皇」という御称号は用いられても、そのもとの意義は忘れられた。天皇が祭祀を行われることは変わらなかったけれども、それと共にまたそれと同じように仏事をも営まれた。そうして令の制度として設けられた天皇の祭祀の機関である神祇官は、後になるといつのまにかその存在を失った。天皇の地位の宗教的性質は目にたたなくなったのである。文化の進歩と政治上の情勢とがそうさせたのである。その代り、儒教思想による聖天子の観念が天皇にあてはめられることになった。これは祭祀にすでにあらわれていることであるが、後になると、天皇みずからの君徳修養としてこのことが注意せられるようになった。その最も大せつなことは、君主は仁政を行い民を慈愛すべきである、ということである。天皇の親政がおこなわれないかぎり、それは政治上の上に実現せられないことではあった(儒教の政治道徳説の性質として、よし親政が行われたにしても実現のむずかしいことでもあった)が、国民みずからの力によってその生活を安固にもし、高めてもゆくことを本旨とする現代の国家とはその精神の全く違っていたむかしの政治形態においては、君主の道徳的任務としてこのことの考えられたのは、意味のあることであったので、歴代の天皇が、単なる思想の上でのことながら、民衆にたいして仁義なれということを考えられ、そうしてそれが皇室の伝統的精神として次第に伝えられて来たということは重要な意味をもっている。そうしてこういう道徳的思想が儒教の経典の文字のままに、君徳の修養の指針とせられたのは、実は、天皇が親(ミズカ)ら政治をせられなかったところに、一つの理由があったのである。みずから政治をせられたならば、もっと現実的なことがらに主なる注意がむけられねばならなかったに違いないからである。

 次には、皇室が文化の源泉であったという上代の状態が、中世ころまではつづいていたが、その後次第に変わって来て、文化の中心が武士と寺院とに移りそのはてには全く民間に帰してしまった、ということが考えられよう。国民の生活は変り文化は進んで来たが、皇室は生命を失った古い文化の遺風のうちにその存在をつづけていられたのである。皇室はこのようにして、実際政治から遠ざかった地位にいられると共に、文化の面においてもまた国民の生活から離れられることになった。ただこうなっても、皇室とその周囲とにそのなごりをとどめている古い文化のおもかげが知識人の尚古思想の対象となり、皇室が雲の上の高いところにあって一般人の生活と遠くかけはなれていることと相応じて、人々にそれに対する一種のゆかしさを感ぜしめ、なお政治的権力関係においては実権をもっているものに対して弱者の地位にあられることに誘われた同情の念と、朝廷の何ごとも昔に比べて衰えているという感じから来る一種の感傷とも、それを助けて皇室を視るに一種の詩的感情を以てする傾向が知識人の間に生じた。そうしてそれが国民の皇室観の一面をなすことになった。このようにして、神代の物語の作られた時代の事情のうちには、後になってなくなったものもあるが、それに代わる新しい事情が生じて、それがまたおのずから皇室の永久性に対する信念を強めるはたらきをしたのである。
 
 ところが、十九世紀の中期に「おける世界の情勢は、日本に二重政体の存続することを許さなくなった。日本が列国の一つとして世界に立つには、政府は朝廷か幕府かどれか一つでなくてはならぬことが明らかにせられた。メイジ(明治)維新はそこで行われたのである。
 ・・・以下略

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史実と神話 津田左右吉 Ⅱ

2017年08月26日 | 国際・政治

 最近、アメリカ南部バージニア州で白人至上主義などを掲げるグループと、これに抗議するグループの衝突があり、30人余りが死傷する事件がありました。そして、トランプ大統領の記者会見での発言が波紋を呼んで、その後も様々な報道が続いています。

 白人至上主義は、人種的な、あるいはまた民族的なエリート意識や選民意識に基づくもので、私は、戦前・戦中の教育勅語や軍人勅諭、国体の本義などで示された皇国史観も、似たような意識に基づくものものではないかと思います。

 北畠親房は、「神皇正統記」の冒頭に
大日本は神国なり。天祖はじめて基をひらき日神ながく統を伝へ給ふ。我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし。此の故に神国と云ふなり。
と書いていますが、津田左右吉の記紀研究を踏まえると、古事記の神話に基づき「大日本は神国なり」と主張することが、北畠親房の時代ならいざ知らず、科学の進んだ現在の日本や国際社会で通用するとは思えません。にもかかわらず、神話を史実とする歴史教育を復活させようとしたり、天皇を「現人神」とした皇国史観に基づく諸政策を擁護したり、また、日本は「神の国である」と発言したりする閣僚や政治家が多く存在することが、私には理解できません。

 時の政権の考え方に流されることなく、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定めた明治憲法下の日本で、津田左右吉はあくまでも学者らしく近世徳川時代の学者の記紀研究を土台とし、欧米の先進的な種々の学問も踏まえて研究を重ね、それまでなかった記紀神話の研究書を世に出しました。
 津田左右吉が、王政復古によってもたらされた神話を史実とする記紀観に対し、不合理な物語の多い神代史を、史料批判の観点から研究した業績は正しく評価され、受け継がれなければならないと思います。
 また、近世徳川時代にすでに、神話を史実と見なさない考え方をとる学者も多く、”神代に見える歌は後世の作である”とする指摘や”神代史は後人の手になった部分がある”とする研究もあったという事実は、見逃すことができません。それらが、明治維新による王政復古によって、無視されることになったのでしょうが、日本で、今なお神話を史実として、日本が「神の国」であると主張する人たちが存在することは見逃すことができません。文字の存在しなかった時代から、皇室が絶えることなく続いていることは、確かに上記の北畠親房のことばにあるように、「我が国のみ此の事あり。異朝には其のたぐひなし」かも知れません。しかしながら、それが日本が「神の国」であるということにはならないことは明らかだと思います。
 下記は「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋しましたが、皇室が長く続いた理由については、長文なので、結論部分のみにしました。 
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                   Ⅳ 建国の事情と万世一系の思想

                   一 上代における国家統一の情勢
 ・・・
 皇室の御祖先を君主として戴いていたヤマトの国家が日本民族を統一した情勢が、ほぼこういうものであったとすれば、普通に考えられているような日本の建国というきわだった事件が、或る時期、或年月、に起こったのでないことは、おのずから知られよう。日本の建国の時期を皇室によって定め、皇室の御祖先がヤマトにあった小国の君主にはじめてなられた時、とすることができるかもしれぬが、その時期はもとよりわからず、また日本の建国をこういう意義に解することも妥当とは思われぬ。もし日本民族の全体が一つの国家に統一せられた時を建国とすれば、そのおおよその時期はよし推測し得られるとしても、たしかなことはやはりわからず、そうしてまたそれを建国とすることもふさわしくない。日本の国家は長い歴史的過程を経て漸次に形づくられて来たものであるから、特に建国というべき時はないとするのが、当っていよう。要するに皇室のはじめと建国とは別のことである。日本民族の由来がこの二つのどれとも全くかけはなれたものであることは、なおさらいうまでもない。むかしは、いわゆる神代の説話にもとづいて、皇室は初から日本の全土を領有せられたように考え、皇室のはじめと日本全土の領有という意義での建国とが同じであるように思われていたし、近ごろはこの二つとこの島における日本民族のはじめとの三つさえも、何となく混雑して考えられているようであるが、それは上代の歴史的事実を明かにしないからのことである。

 さて、ここに述べたことには、それぞれ根拠があるが、今はそういう根拠の上に立つ建国史の過程を略述したのみであって、一々その根拠を示すことはさしひかえた。ところで、もしこの歴史的過程が事実に近いものであるとするならば、ジンム(神武)天皇の東征の物語は決して歴史的事実を語ったものでないことが知られよう。それはヤマトの皇都の起源説話なのである。日本民族が皇室の下に一つの国家として統一せられてから、かなりの歳月を経た後、皇室の権威が次第に固まってきた時代、わたくしの考えではそれは六世紀のはじめのころ、において、一層それを固めるために、朝廷において皇室の由来を語る神代の物語が作られたが、それには、皇祖が太陽としての日の神とせられ、天上にあるものとせられたのであるから、皇孫がこの国に降ることが語られねばならず、そうしてその
降られた土地がヒムカ(日向)とせられたために、それと現に皇都のあるヤマトとを結びつける必要が生じたので、そこでこの東征物語が作られたのである。ヤマトに皇都はあったが、それがいつからのことともわからず、どうしてそこに皇都があることになったかも全く知られなくなっていたので、この物語はおのずからその皇都の起源説話となったのである。東征は日の神の加護によって遂げられたことになっているが、これは天上における皇祖としての日の神の皇都が「天つ日嗣」をうけられた皇孫によって地上のヒムカに遷され、それがまた神武天皇によってヤマトに遷されたことを、語ったものであり、皇祖を日の神とする思想によって作られたものである。だからそれを建国の歴史的事実として見ることはできない。

 それから後の政治的経営として『古事記』や『日本記』に記されていることも、チュウアイ(仲哀)天皇のころまでのは、すべて歴史的事実の記録とは考えられぬ。ただ歴代の天皇の系譜については、ほぼ三世紀のころであろうと思われるスジン(崇神)天皇から後は、歴史的の存在として見られよう。それより前のについては、いろいろの考えかたができようが、系譜上の存在がどうであろうとも、ヤマト国家の発展の形勢を考えるにつては、それは問題の外におかれるべきである。創業の主ともいうべき君主のあったことが何らかの形で後にいい伝えられたかと想像せられるが、その創業の事跡は皇室についての何ごとかがはじめて文字に記録せられたと考えられる四世紀の終において、既に知られなくなっていたので、記紀には全くあらわれていない。

 ところで、ヤマトの皇室が上に述べたように次第に諸小国家の君主を服属させていったそのしかたはどうであったかというに、それはあいてにより場合によって一様ではなかったろう。武力の用いられたこともあったろう。君主の地位に伴っている宗教的権威のはたらきもあったろう。しかし血なまぐさい戦争の行われたことは少なかったろうと推測せられる。もともと日本民族が多くの小国家に分かれていても、その間に断えざる戦争があったというのではなく、武力的競争によってそれらの国家が存在したのではなかった。農業民は本来平和を好むものである。この農業民の首領であり指導者であり或る意味において大地主らしくもある小君主もまた、その存在のためには平和が必要である。また、ともすれば戦争の起り易い異民族との接触がなく、すべての国家がみな同一民族であったがめに、好戦的な殺伐な気風が養われなかった。小国家が概して小国家たるにとどまって、甚だしく強大な国家の現れなかったのも、勢力の強弱と領土の大小とを来たすべき戦争の少なかったことを、示すものと解せらよう。キュウシュウ地方においてかのヤマト(邪馬台)が、附近の多くの小国を存続させながら、それらの上に勢力を及ぼしていたのも、戦勝国の態度ではなかったように見える。かなり後になっても、日本に城郭建築の行われなかったことも、またこのことについて参考せらるべきである。

 皇室が多くの小国の君主を服属させられたのは、このような一般的状態の下において行われたことであり、皇室がもともとそれらの多くの小国家の君主の家の一つであったのであるから、その勢力の発展が戦争によることの少なかったことは、おのずから推測せられよう。国家の統一せられた後に存在した地方的豪族、いわゆる国造県主など、の多くが統一せられない前の小君主の地位の継続せられたものであるらしいこと、皇居に城郭などの軍事的設備が後までも設けられなかった、なども、またこの推測を助ける。皇室の直轄領やヤマトの朝廷の権力者の領土が、地方的豪族の領土の間に点綴して置かれはしたので、そのうちには昔の小国家の滅亡したあとに設けられたものもあろうが、よしそうであるにしても、それらがどうして滅亡したかはわからぬ。

 統一の後の国造などの態度によって推測すると、ヤマトの朝廷の勢威の増大するにつれて、諸小国家の君主はその地位と領土を保全するためには、みずから進んでそれに帰服するものが多かったと考えられる。かれらは武力による反抗を試みるにはあまりに勢力が小さかったし、隣国と戦争をした経験もあまりもたなかったし、また多くの小国家に分かれていたとはいえ、もともと同じ一つの日本民族として同じ歴史をもち、言語・宗教・風俗・習慣の同じであるそれらであるから、新たにおのれらの頭上に臨んで来る大きな政治勢力があっても、それに対しては初めから親和の情があったのであろう。また従来とても、もしこういう小国家の同じ地域にあるいくつかが、九州における上記の例の如く、そのうちの優勢なものに従属していたことがあったとすれば、皇室に帰服することは、その優勢なものを一層大きい勢力としての皇室にかえたのみであるから、その移りゆきはかなり滑らかに行われたらしい、ということも考えられる。朝廷の側としては、場合によっては武力も用いられたにちがいなく、また一般に何らかの方法による威圧が加えられたことは、想像せられるが、大勢はこういう状態であったのではあるまいか。

 国家の統一の情勢はほぼこのように考えられるが、ヤマト朝廷のあいてとしたところは、民衆ではなくして諸小国の君主であった。統一の事業はこれらの君主を服属させることによって行われたので、直接民衆をあいてとしたのではない。武力を以て民衆を征討したのでないことは、なおさらである。民衆からいうと、国家が統一されたというのは、これまでの君主の上にたつことになったヤマトの朝廷に間接に隷属することになった、というだけのことである。皇室の直轄領となった土地の住民の外は、皇室との直接の結び付きは生じなかったのである。さて、こうして皇室に服属した民衆はいうまでもなく、国造などの地方的豪族とても、皇室と血縁関係をもっていたはずはなく、従って日本国家が皇室を宗家とする一家族のひろがったものでないことは、いうまでもあるまい。

                二 万世一系の皇室という観念の生じまた発達した歴史的事情

 ヤマトに根拠のあった皇室が日本民族の全体を統一してその君主となられるまでに、どれだけの年月がかかったかはわからぬが、上に考えた如く、二世紀ころにはヤマトの国家の存在したことがほぼ推測せられるとすれば、それからキュウシュウの北半の服属した四世紀のはじめまでは約二百年であり、日本の全土の統一せられた時期を考えられる五世紀のはじめまでは約三百年である。これだけの歳月と、その間における断えざる勢力の伸張とは、皇室の地位をかためるには十分であったので、五世紀の日本においては、それはもはや動かすべからざるものとなっていたようである。何人もそれに対して反抗するものなく、その地位を奪いとろうとするものもなかった。そうしてそれには助ける種々の事情があったと考えられる。
 その第一は、皇室が日本民族の外から来てこの民族を征服しそれによって君主の地位と権力を得られたのではなく民族の内から起こって次第に周囲の諸小国を帰服させられたこと、また諸小国の帰服した状勢が上にいったようなものであったことの、自然のなりゆきとして、皇室に対して反抗的態度をとるものが生じなかった、ということである。…
 ・・・
 第二は、異民族との戦争のなかったことである。近隣の異国との戦争には、君主みずから軍を率いることが普通であるが、その場合、戦に勝てばその君主は民族的英雄として賞讃せられ、従って勢威も強められるが、負ければその反対に人望が薄らぎ勢威が弱められ、時の状勢によっては君主の地位を失うようになる。…
 ・・・
第三には、日本の上代には、政治らしい政治、君主としての事業らしい事業がなかった、ということであって、このことからいろいろの事態が生ずる。天皇みずから政治の局に当たられなかったということもその一つであり、皇室の失政とか事業の失敗とかいうようなことがなかったということもその一つである。多くの民族の事例について見ると、一般に文化の程度の低い上代の君主の仕事は戦争であって、それに伴っていろいろのしごとが生ずるのであるが、国内においてその戦争のなかった我が国では、政治らしい政治は殆どなかったといってよい。従ってまた天皇のなされることは、殆どなかったであろう。いろいろの事務はあったが、それは朝廷の伴造のするしごとであった。… 
 ・・・
 第四には、天皇に宗教的の任務と権威とのあったことが考えられる。天皇は武力を以てその権威と勢力とを示さず、また政治の実務には与(アズカ)られなかったようであるが、それにはまた別の力があって、それによってその存在が明かにせられた。それは、一つは宗教的の任務であり、一つは文化上の地位であった。政治的君主が宗教上の地位ももっているということは、極めて古い原始時代の風習の引きつづきであろうと考えられるが、その宗教上の地位というのは、民衆のために種々の呪術や神の祭祀を行うことであり、そのようなことを行うところから、或る場合には、呪術や祭祀を行い神人の媒介をする巫祝(フシュク)が神と思われることがあるのと同じ意味で、君主みずからが神として考えられることがある。天皇が「現つ神(アキツカミ)」といわれたことの遠い淵源と歴史的の由来とはここにあるのであろうが、しかし今日に知られている時代の思想としては、政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質がある、いいかえると天皇が国家を統治せられることは、思想上または名義上、神の資格においての仕事である、というだけの意義でこの称呼が用いられていたのであって、「現つ神」は国家を統治せられる、即ち政治的君主としての、天皇の地位の称呼なのである。天皇の実質はどこまでも政治的君主であるが、その地位を示すために歴史的由来のあるこの称呼が用いられたのである。
 これは、天皇が天皇を超越した神に代ってそういう神の政治を行われるとか、天皇の政治はそういう神の権威によって行われるとか、いうのではないと共に、また天皇は普通の人と違って神であり、何らかの意義での神秘性を帯びていられる、というような意味でいわれているのでもない。天皇が宗教的崇拝の対象としての神とせられたのでないことは、いうまでもない。日本の昔には天皇崇拝というようなことはなかったと考えられる。天皇が日常の生活において普通の人として行動せられることは、すべてのものの明かに見も聞きも知りもしていることであった。記紀の物語には天皇の恋愛譚や道ゆきずりの少女にことといかわされた話などの作られていることによっても、それは明らかである。「現つ神」というようなことばすらも、知識人の思想においては存在し、また重々しい公式の儀式には用いられたが、一般人によって常にいわれていたらしくはない。シナで天帝の称呼として用いられていた「天皇」を御称号としたのは六世紀のおわりころにはじまったことのようであって、それは「現つ神」の観念とつながりのあることであったろうが、それが一般に知られていたかどうか、かなりおぼつかない。そういうことよりも、すべての人に知られていた天皇の宗教的な地位とはたらきとは、政治の一つのしごととして、国民のために大祓のような呪術を行われたりいろいろの神の祭祀を行われたりすることであったので、天皇が神を祭られるということは天皇が神に対する意味での人であることの明かなしるしである。日常の生活がこういう呪術や祭祀によって支配せられていた当時の人々にとっては、天皇の地位と任務は尊ぶべきことであり感謝すべきことであるのみならず、そこに天皇の精神的の権威があるように思われた。何人もその権威を冒涜しようとは思わなかったのである。政治の一つのしごととして天皇のせられることはこういう呪術祭祀であったので、それについての事務を掌っていたナカトミ(中臣)氏に朝廷の重臣たる権力のついて来たのも、そのためであった。

 第五には、皇室の文化上の地位が考えられる。半島を経て入って来たシナの文物は、主として朝廷及びその周囲の権力者階級の用に供せられたのであるから、それを最も多く利用したのは、いうまでもなく皇室であった。そうしてそれがために、朝廷には新しい伴造の家が多く生じた。かれは皇室のために新来の文物についての何ごとかを掌ることによって生活し、それによって地位を得た。のみならず、一般的にいっても、皇室はおのずから新しい文化の指導的地位に立たれることになった。このことが皇室に重きを加えたことは、おのずから知られよう。そうしてそれは、武力が示されるのとは違って、一種の尊とさと親しさとがそれによって感ぜられ、人々をして皇室に近接することによってその文化の恵みに欲しようとする態度をとらせることになったのである。
 ・・・
 さて、こういうようないろいろの事情に助けられて、皇室は皇室として長く続いて来たのであるが、これだけ続いてくると、その続いてきた事実が皇室の本質として見られ、皇室は本来長く続くべきものであると考えられるようになる。皇室が遠い過去からの存在であって、その起源などの知られなくなっていたことが、その存在を自然のことのように、あるいは皇室は自然的の存在であるように思わせたのでもある。(王室がしばしば更迭した事実があると、王室は更迭すべきものであるという考が生ずる)従ってまたそこから、皇室を未来にも長く続けさせようという欲求が生ずる。この欲求が強められると、長く続けさせなければならぬ、長く続くようにしなければならぬ、ということが道徳的義務として感ぜられるようになる。もし何らかの事態が生じて(例えば直系の皇統が断えたというようなこともあると)、それに刺戟せられてこの欲求は一層強められ、この義務の感が一層固められる。六世紀のはじめのころは、皇室の重臣やその他の朝廷に地位をもっている権力者の間に、こういう欲求の強められて来た時期があったらしく、今日記紀によって伝えられている神代の物語は、そのために作られたものがもとになっている。

 神代の物語は皇室の由来を物語の形で説こうとしたものであって、その中心観念は、皇室の祖先を宗教的意義を有する太陽としての日の神とし、皇位(天つ日つぎ)をそれから伝えられたものとするところにあるが、それには政治的君主としての天皇の地位に宗教的性質があるという考と、皇位の永久という観念とが、含まれている。なおこの物語には、皇室が初からこの国の全土を統治せられたことにしてあると共に、皇室の御先祖は異民族に対する意味においての日本民族の民族的英雄であるようには語られていず、どこまでも日本の統治者としての君主となっているが、その政治、その君主としての事業は、殆ど物語の上にあらわれていない。そうして国家の大事は朝廷の伴造の祖先たる諸神の衆議によって行われたことにしてある。物語にあらわれている人物はその伴造の祖先か地方的豪族のそれかであって、民衆のはたらいていたことは、少しもそれに見えていない。民衆をあいてにしたしごとも語られていない。宗教的意義での邪霊悪神を掃討せられたことはいわれているが、武力の用いられた話は、初めて作られた時の物語にはなかったようであり、後になってつけ加えられたと思われるイズモ平定の話には、そのおもかげが見えはするが、それとても妥協的平和的精神が強く働いているので、神代の物語のすべてを通じて、血なまぐさい戦争の話しはない。やはり後からつけたされたものであるが、スサノオの命が半島に渡った話があっても、武力で征討したというのではなく、そうして国つくりを助けるために海の外からスクナヒコナの命が来たというのも、武力的経略のようには語られていないから、文化的意義のこととしていわれたものと解せられる。なお朝廷の伴造や地方的豪族が、その家を皇室から出たものの如くその系譜を作り、皇室に依附することによってその家の存在を示そうとした形跡も、明らかにあらわれている。
 さすれば、上に述べた四・五世紀ころの状態として考えられるいろいろの事情は、そのすべてが神代の物語に反映しているといってよい。こういう神代の物語によって、皇室をどこまでも皇室として永久に続けてゆこう、またゆかねばならぬ、とする当時の、またそれにつづく時代の、朝廷に権力をもっているものの欲求と責任感とが、表現せられているのである。そうしてその根本は、皇位がこのころまで既に長くつづいて来たという事実にある。そういう事実があったればこそ、それを永久に続けようとする思想が生じたのである。神代の物語については、物語そのものよりもそういう物語を作り出した権力階級の思想に意味があり、そういう思想を生み出した歴史的事実としての政治-社会的状態に一層大なる意味があることを、知らねばならぬ。

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史実と神話 津田左右吉

2017年08月15日 | 国際・政治

 しばらく前、国有地払い下げ問題で世間を騒がせた森友学園では、運営する塚本幼稚園で、園児に教育勅語を朗読させていました。その教育勅語について、稲田朋美前防衛大臣が、「教育勅語の核の部分は取り戻すべきだ」と発言したことも、物議を醸しました。

 さらに、その後、松野前文部科学大臣も「憲法や教育基本法に反しないように配慮して授業に活用することは一義的にはその学校の教育方針、教育内容に関するものであり、教師に一定の裁量が認められるのは当然」と発言し、さらに安倍政権が「勅語を教材として用いることまでは否定されることではない」と閣議決定するに至りました。
 
私はそこに、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ…」(教育勅語)という神話に基づく「皇国」の日本を取り戻そうとする動きのようなものを感じます。
 そして、それは「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書における神話の扱いなどにも、現れているのではないかと思います。
 「新しい歴史教科書 市販本」(扶桑社)では、「⑥古墳の広まりと大和朝廷」の後に、「神武天皇の東征伝承」があり、その後に「⑦大和朝廷の外交政策」があります。また、「第3節 律令国家の成立、⑧聖徳太子の新政」、の前に「日本武尊と弟橘媛ー国内統一に献身した勇者の物語」が2ページにわたって入っています。そして、「⑫日本語の成立」の後には、コラムではなく「⑬日本の神話」として4ページわたって、古事記のいわゆる「肇国」に関する記述があります。意図的に神話が史実とつながるように配置されているような気がします。神話を神話としてまとめて取り上げるのではなく、あえて史実の間に挟んで取り上げると、子どもたちは史実と神話を峻別することが難しくて、混同するのではないでしょうか。

 「歴史教科書を格付けする」藤岡信勝編(徳間書店)には、資料1のような、とても気になる文章がありました。「国のおこり」は、神話によって感動的に物語られなければならないというのです。そして、象徴天皇や建国記念の日の意味などに思いをいたすことができるようにしなければならないというのです。再び津田左右吉の著書を発禁処分にしようとするのではないか、と思われるような主張です。

 また、神話を史実と結びつけるためでしょうが、新しい歴史教科書をつくる会の初代会長・西尾幹二氏は「すべての歴史は神話である」などと主張しています。

 『日本書紀』『古事記』を史料批判の観点から研究したことで知られる津田左右吉は、1940年、その著書『古事記及び日本書紀の研究』や『神代史の研究』、『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』を発禁処分とされ、禁固刑の判決を下されています。でも、神話に関する 津田左右吉の指摘は、極めて科学的かつ論理的で、誰もが納得できるものではないかと思います。
 資料2は、「津田左右吉歴史論集」今井修編(岩波文庫33-140-9)から抜粋しました。
資料1------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              第1章 無感動な日本の始まりー国土の統一と神話  
                                                   斉藤武夫
1 「日本の建国」を教えない教科書
 ・・・
 「我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て」(学習指導要領・第2章各教科・第2節社会・第1目標)るために、日本建国の歴史が重要であることはいうまでもない。今ここに生きて自分の国があることのありがたさがわかれば、その始まりに感動をもって物語るのは当然のことである。
 ・・・
 しかし、各社の教科書には、大和朝廷による国土の統一を「国のおこり」として印象深く伝えようという自覚がほとんど見られないのである。

 大和朝廷と渡来人のかつやく
 この巨大な古墳がつくられた4世紀から5世紀ごろ、大和・河内地方に勢いの強いくにができ、ほかのくにの王をしたがえながら、日本の国を統一しはじめました。その中心となった人物は、大王(オオキミ)(のちの天皇)とよばれ、大王のもとに、各地の王を政府の役人とする政治の仕組みが、しだいにととのえられていきました。この政府を、大和朝廷(大和王権)といいます。

 まことに素っ気ない記述である。「国のおこり」のような、建国を示唆する表現も皆無である。神武天皇や崇神天皇といった建国神話・伝承の英雄もいっさい登場していない。これでは現在の象徴天皇がここに始まることや、建国記念の日の意味などに思いをいたすことなどありえないといっていいだろう。国の誕生を心躍るできごととして学ぶことはできないのである。 

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                     神代史の研究方法
  一 
 今日に伝わっている我が国の最古の史籍たる『古事記』と『日本書紀』の巻頭にはいわゆる神代の巻という部分がある。『古事記』は和銅五年(712A.D.)『日本書紀』は養老四年(720A.D.)に出来たもので、何れも八世紀に入ってからの編纂であるが、神代の巻などは、もっと古くから伝えられていた材料によったものである。ここにその詳しいことを書いている遑(イトマ)はないが、その材料は遅くとも六世紀には一と通り出来上がっていたらしい。さてその神代の巻は我が国の開闢以来の話だといわれ、そうしてそれが我が国の最古の史籍であるというためか、とかく世間ではそれに、我々の民族もしくは人種の由来などが説いてあると思い、従って神代の巻の記事を強いてそういう意味に解釈しようとする癖があるらしい。例えば高天原ということがあると、それは日本民族もしくはその要素をなしているものの古郷たる海外の何処かであると考え、天孫降臨ということがあると、それはその民族がいわゆる高天原の古郷から日本のどこかへ移住して来たことだと説き、そういう考えから天孫人種とか天孫民族とかいう名称さえ作られている。あるいは出雲の大国主神がその国を天孫に献上せられたという話があるところから、天孫民族に対して出雲民族というものがあったようにいう。そうして、そういうような考え方をもっと他にも及ぼし、土蜘蛛という名が上代の物語に出てくると、それは穴居をしていた異民族の名であるように説く人もある。何でも我が国の昔には種々雑多の異人種・異民族がいたように考えられている。

 それからまた民族や人種の問題とは少しく趣がちがうが、神代の物語を一々事実に引きなおして解釈することが行われている。海神(ワタツミ)の宮の話があると、それはどこかの地方的勢力、または、海中の島国のことであると考える。八股蛇(ヤマタノオロチ)の物語があるとそれは賊軍を征服せられたことだという。あるいは黄泉国(ヨミノクニ)という名が出ると、それは出雲国のことだと説く。あるいはまた八咫烏(ヤタガラス)が皇軍の道しるべをしたとあると、その八咫烏は人の名であると解釈する。伊弉諾・伊弉冉二神が大八島を生まれたという話は政治的に日本国を統治せられたことだという。要するに神々の物語は悉く歴史的事実たる人間の行為であって、畢竟神は人であるというのである。

 しかし、神代巻の本文を読むと、そんなことは少しも書いてない。天照大神は高天原にいられるとある。神々が高天原に上ったり高天原から下ったりせられるとある。けれども日本人種・日本民族が海外の故郷から日本に移住したとか、その故郷へ往来したとかいうようなことは何処にも書いてない。出雲の神の話はあるが、出雲の地方に別種の民族がいたとは何処にも記してない。あるいはまた海の底の海神の宮の話はあるが、それが海上の島国であるとは何処にも書いてない。本文をよめば八股蛇はどこまでも蛇であり、八咫烏はどこまでも烏であって、少しも人間らしい様子はない。然るに世間で上に述べたような解釈をしているのは甚だ不思議の至りである。これは何故であろうか。

 他でもない。神代の巻の種々の物語に我々の日常経験とは適合しない不合理な話が多いからである。この不合理な物語を強いて合理的に解釈しようとするから、上記のような説が出るのである。天上に世界があったり、そこと往来したりするのは、事実としてあるべからざることである。海の底に人の住むところのあるのもまたあるべからざる話である。けれども神代の巻にそういう話がある以上は、それに何かの事実が含まれていなければならぬ。と、こう考えたために、表面の話は不合理であるが、裏面に合理的な事実があるものと億断し、神代の巻が我が国のはじめを説いているというところから、それを日本民族の由来を記したものと考え、あるいは国家の創業に関する政事的経路の事実を述べたものと説くようになったのである。そうしてこの思想の根底には一種の浅薄なRationalism が伏在する。すべて価値あるものは合理的なもの、事実を認められるものでなくてはならぬ。然らざるものは荒唐不稽の談である。世にはお伽噺(オトギバナシ)というものがある。猿や兎がものをいったり桃から子供が生まれたりする。事実としてあるべからざる虚偽の談である。それは愚人小児の喜ぶところであっても、大人君子の見て陋(ロウ)とするところのものである。然るに崇厳なる神典にはかかる荒唐不稽の談のあることを許さぬ。だから、それには不合理の語を以て蔽(オオ)われている合理的の事柄がなくてはならぬ。こういう論理が存在するのである。

 然らば合理的の事実が如何にして不合理の物語として現われているかというと、一つの解釈は、それは譬喩だというのである。昔の新井白石の取ったところがそれであって、彼はその譬喩の言から真実の意味を見出そうとして神は人なりという仮定説を捻出し来(キタ)ったのである。それから今一つの解釈は、事実の物語が伝誦の間におのずからかかる色彩を帯びて来た、一口にいうと伝説化せられたというのであって、今日ではこういう考を有っている人が多いようである。しかし何故に事実をありのままに語らないで故(イタズ)らに譬喩の言を以て不合理な物語としたのであるか。これは白石一流の思想では解釈し難き問題である。また神代の巻物語、事実の伝説化せられたものとして、すべてが解釈せられるかどうか、例えば葦芽の如く萌えあがるものによって神がうまれたとあり、最初に天の御中主の神の如きがあるというようなことは、如何なる事実の伝説化せられたものであるか、というと、それは何とも説かれていない。しかしそれだけは事実の基礎がないというのならば、何故に他の物語に限って事実があるというのか。甚だ不徹底な考え方である。そうして譬喩であるというにしても、伝説化であるというにしても、その譬喩、その伝説が不合理な形において現れているとすれば、少なくとも人間の思想においてそういう不合理なことが現われること、あるいはそういう心理が人間に存することを許さなければならぬが、それならば、何故に不合理な話を不合理な話として許すことが出来ないのか。こう考えてくると、この種の浅薄なるRationalism が自家矛盾によって自滅しなければならぬことがわかろう。

  二
 こういう考え方に反して昔の本居宣長は神代の巻の話をそのまま文字通りに事実だと信じた。人間の浅智から見れば不合理であるが、神は人智を以て測るべからざるもの、神の代は人の代ではないから、天上に世界があっても、海底に宮殿があっても、神が島を生まれても、草や木がものをいっても、それは事実であったというのである。けれども、こういう考が今人の賛同し難きところであることはいうまでもない。そうして宣長は神代の巻の物語をそのまま事実と見、白石などはその裏面に事実があると見た違(チガイ)はあるが、何れも事実をそこに認めようとしたことは同じである。が、何故に不合理な、事実らしくない話を強いて合理的に解釈してそれを事実と見、あるいはそこに何らかの事実を索(モト)めなければならぬのか。一体、人間は不合理なこと事実でないことを語らぬものであろうか。広い世界を見渡して、多くの民族、多くの国民に民間説話があり神話があることを知るものは何人も然りとはいうまい。然らば我々は如何様にそれを取扱うべきであろうか。

 別にむずかしいことでもない。第一に、人の思想は文化の発達の程度によって決して一様でない。上代人の思想と今人の思想との間には大なる逕庭(ケイテイ)があってそれはあたかも今日の小児の心理と大人との間に差異があると同じことである。民間説話などはそういう上代の思想によって作られたものであるから、今日の思想から見れば不合理なことが多いが、しかし上代人の心理においてはそれが合理的と考えられていた。鳥や獣や草や木がものをいうというのは、今日のひとに取っては極めて不合理であるが、上代人の心理には合理であったのである。けれどもそれは上代人の心理上の事実であって、実際上の事実ではない。上代でも草や木が物をいう事実はあり得ない。ただ上代人がそう思っていたということが事実である。だから我々はそういう話をきいて、そこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうして如何なる心理においてそういう観念が生じたかを研究すべきである。然るにそれを考えずして草木のものをいうとある民衆の騒擾(ソウジョウ)することだというように解釈するのは、上代人の心理を知らないため、強いて今人の思想でそれを合理的に取り扱おうとするのであって、上代人の思想から生まれた物語を正当に理解する所以ではあるまい。

 第二に、人の思想はその時代の風習、社会上の種々状態によって作り出される。従ってそういう風習、そういう状態のなくなった後世において、上代の思想、またその思想から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、不合理と考えられる。蛇が毎年処女をとりに来るという話がある。処女を犠牲として神に供えるという風習のなくなった時代または民族から見ると、この話は了解し難いが、それが行われていた社会の話として見れば別に不思議はない。だから我々は歴史の伝わっていない悠遠なる昔の風習や社会状態を研究し、それによって古い物語の精神を理解すべきである。我が神代の巻にも、その神代の巻が記述せられた時代には既になくなっている風俗が実際存在していた遠い昔に作られた話が伝わっていて、それが神代の巻に現れているということも有り得べき事情である。ところがそれを理解しないで蛇とは異民族のことだとか賊軍だとかいうのは、全然見当ちがいの観察ではあるまいか。
 
 第三には、人智の発達した後において生じた詩的想像の産物が古い物語には少なくないことを注意しなければならぬ。神話というものには多かれ少なかれこの分子が含まれている。天上の世界とか地下の国土とかの話は、その根柢に宗教思想なども潜在しているであろうが、それが物語になって現れるのはこの種の想像の力によるのである。事実としてはあり得べからざる、日常経験から見れば不合理な、空想世界がこうして造り出されることは、後世とても同様であって、普通にロオマンスというものにはすべてこの性質がある。それを一々事実と見て高天原という天上の世界は実は海外の某地方のことだなどと考えるのが無意味であることはいうまでもなかろう。蓬莱山が熊野だとかいうような考え方もこれと同様である。何人も浦島太郎の噺(ハナシ)も竜宮を実際の土地とは考えまいが、それにもかかわらず、但馬守(タジマモリ)の行ったという常世国が南方支那だとか、神代の巻の海神の宮が琉球だとか博多地方だとか説くのは不思議である。


 以上は神話や民間説話の一々についてのことであるが、もしそういうような物語が一つの大きな組織に編み上げられている場合には、そこに何らかの意図がはたらいていることを看取しなければならぬ。支那の尭舜(ギョウシュン)から禹湯文武(ウトウブンブ)に至る長い物語は支那人の政治道徳の理想によって構成せられているから、それがために事実とは考えられないことが多く現れている。それを思わずしてあの古代史を一々事実と見ようとすれば牽強附会に陥ることはいうまでもない。我が神代の巻はそれと同様にみるべきものではないかも知らぬが、それに事実らしくない不合理なことが含まれているとすれば、我々は、その語るところに如何なる歴史的事実が潜んでいるかというよりは、寧ろそこに如何なる思想が現れているかを研究すべきではなかろうか。この思想そのものが国民の歴史に取っては重大な事実である。

 談はやや抽象的になって来たが、神代の巻を一読すれば、このことは自然にわかろう。しかし今日こういう観察を神代の巻に加えるのは、広く世界諸民族の神話や古くから伝わっている民間説話やまた上代史などの性質が我々に知られ、また近時の諸種の学術的研究によって上代人・未開人の風俗や習慣や思想や彼等の心理状態やが知られて来たからである。説話そのものにおいても、神代の巻、及びその他『古事記』や『日本書紀』に見えるものと同じような物語が、人種も全く違い、交通もなく関係もない他の多くの民族に存在することがわかっていて、そういう説話の起源や由来も西洋の学者によって種々に研究せられている。幾多の人類学者・宗教学者、おるいは心理学者によって行われた最近ニ、三十年間の研究はこの方面に大いなる進歩を促したので、日本の神代の物語を解釈するにも幾多の重要なる暗示がそれによって与えられる。彼らの説が悉く正鵠に中(アタ)っているとはいい難く、彼らの間にも種々意見を異にしている点が少なくなく、特に彼らの考察に日本とか支那とかいう東洋諸国民についての材料が乏しいために我々から見れば種々の不満足を感ずることもあるが、そもかくもその研究の方法は我々が学ばなければならぬものである。

 こう考えて来ると、昔の白石などが、上代人の心理状態を解することが出来ないために、それを強いて後世の思想で解釈しようとしたのも、不合理な話を合理的に見ようとし、事実らしくない話に事実を求めようとしたのも、無理のないことである。彼らは多分神代の巻に見えるような不思議な話は日本ばかりのことと思ったのであろう。そうしてこんな不思議な話はそのまま事実とは信ぜられないから、その裏面に何か事実が潜んでいるものと考えたのである。もとよりそれには、一種の尚古思想、一種の支那式Rationalism があるのであるが、ああいう物語が世界到るところにあることを知ったならば、もっと他に考えようもあったのであろう。

 然るに今日においてもなお彼らと同じような考を以て神代の巻を見ているもののあるのは、我が国の学界において不思議な現象といわねばならぬ。彼らは神代の物語をそのままに上代史だと考えている。けれども民族のあるいは人類の、歴史的発達において、何処に神代という時代を置くことが出来ようか。連続している歴史的発達の径路においてどこに人の代ならぬ神の代があったとすることが出来ようか。神代というものが歴史上の事実でなくして思想面の所産であることは、これだけ考えて見てもすぐにわかることではなかろうか。歴史家は神代という観念の作られたことを思想史上の一現象として取扱うべきはずであって、神代と称せられる時代が歴史的に存在したと考えることの出来ないことは、今日の学術的智識においては明白なことではなかろうか。もとより神代の巻の物語には上代の歴史的事実がいくらか絡まっているかも知れぬ。しかしその事実の事実たることを知るには、別に方法がある。

 例えば仮に日本の人種や民族の由来が神代の巻の物語に伏在していはしないかと考えて見る。ところが人種や民族の異同などが文献上の微証を有たぬ場合には、それを推知するには明(アキラカ)に科学的方法が具わっている。即ち比較解剖学・比較言語学上の研究を主とし、それを補うにその民族に特殊なる生活上の根本条件、民族心理上の諸種の現象を以てすべきである。そういう研究によって我が国の上代に種々異なった民族のあったことが証明せられ、そうしてそれによって知られた各民族の分布や範囲や盛衰興亡の状態を以て、神代の巻の何かの物語に対照し、それが互いに符合するか、無理のない比定が出来るかという場合があるならば、その時始めて神代の巻にそういう分子の含まれているという仮説が、一つの解釈法として容認せられるのである。ただここに注意すべきことは、こういう研究は全然神代の巻から離れて独立にせられねばならぬということである。人種や民族の問題でなくとも、神代の巻に歴史的事実があるかどうか考えるには、全然その物語の外に立って、それには毫末の関係なく、あるいは確実なる史料(支那の史籍がその重要なる役目をつとめる)により、あるいは後世の事実から確実に推定せられる事柄により、またあるいは純粋なる考古学上の研究の助けをかりて、それを試みねばならぬ。初から神は人なりというような臆見成心を有っていて、それによって神代の物語を改作したり、その物語と遺跡や遺物との間に曖昧な妥協的結合を試みたりするのは、決して科学的研究ということは出来ぬ。このことについては、もっと具体的に説明しなければ自分の真意を読者に伝えることが出来ないかと思うが、談が余りに長くなったから、それはまたの機会をまつことにする。

  四
 之を要するに神代の巻の研究はそれがすぐに上代史の研究ではなく、また勿論民族や人種の研究ではない。その研究の方法は何より先ずそれに含まれている物語を文字のままありのままに読みとって、その物語の意味を考うべきである。高天原はどこまでも高天原であり、神はどこまでも島を生まれたのであり、海神の宮はどこまでも海底の別世界であり、草木がものをいうならばどこまでも草木がものをいうのである。ワニは話のままにワニであり、蛇や鳥は文字通りに蛇や鳥である。神は神であって人ではなく、神代は神代であって人の代ではない。こういうように読み取って而して後はじめて真の研究に入ることが出来るのである。

 

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