真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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学術会議任命拒否問題と天皇機関説(美濃部達吉)

2020年10月26日 | 国際・政治

 今回の学術会議任命拒否問題と関連し、私は、滝川事件とともに、美濃部達吉の天皇機関説問題がどういう問題で、どういう経過をたどったのかをふり返ることも大事だと思いました。「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)に「国体明徴の名のもとに─ 天皇機関説 ─ 」と題した文を寄せている今井清一歴史学教授は、”天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである”と書いていますが、重大な指摘だと思います。 

 1935年(昭和10年)2月の貴族院本会議で、菊池武夫議員が、天皇機関説は国家に対する緩慢なる謀叛であり、美濃部を学匪と非難したことを受けて、政府は美濃部達吉の著書『逐条憲法精義 』『憲法撮要』『日本憲法の基本主義』の 三冊を発売禁止処分にするとともに、4月には、各地方長官、帝国大学総長、直轄諸学校長、公私立大学、 専門学校長、高等学校長等に対して、下記のような訓令文部省訓令第四号)を発し、国体明徴の徹底を求めました。

方今内外ノ情勢ヲ稽(カンガ)フルニ刻下ノ急務ハ建国ノ大義二基キ日木精神ヲ作興シ国民的教養ノ完成ヲ期シ由テ以テ国本ヲ不抜二培フニ在リ我ガ尊厳ナル国体ノ本義ヲ明徴ニシ之二基キテ教育ノ刷新ト振作トヲ図リ以テ民心ノ嚮(ムカ)フ所ヲ明カニスルハ文教二於テ喫緊ノ要務トスル所ナリ。此ノ非常ノ時局二際シ教育及ビ学術二関与スル者ハ真二其ノ責任ノ重且大ナルヲ自覚シ叙上ノ趣旨ヲ体シ苟クモ国体ノ本義二疑惑ヲ生ゼシムルガ如キ言説ハ厳二之ヲ戒メ常二其ノ精華ノ発揚ヲ念トシ之二由テ自己ノ研鑚二努メ子弟ノ教養二励ミ以テ其ノ任務ヲ達成セムコトヲ期ス
                        「国体明徴運動と教育政策」(日本大学 小野雅章)より

 でも、天皇機関説を問題視する政治家、軍人、右翼団体の追及は続き、軍部は、下記のような要望を出しすに至ります。
天皇機関説処理ニ関スル要望(昭和十、五、二一)陸軍省
 天皇機関説ノ処理ニ付政府トシテハ引続キ速ニ必要ナル措置ヲ講シ国体ニ関スル疑惑ヲ一掃シ之ヲ永遠ニ明徴ナラシムル手段ヲ執ルヲ要ス
一、憲法ノ研究ニ関スル政府ノ監督ヲ強化スルト共ニ中正ナル学説ノ完成ヲ積極的ニ指導援助ス
二、前項ノ趣旨ニ合スル如ク左ノ処置ヲナス
 (一)大学教職員国家試験委員等ノ人事ヲ刷新ス
 (二)憲法ニ関スル教科書、教材等ノ内容ヲ再検討シ単ニ字句ノ修正ニ止マラス其ノ精神乃至論旨ヲ補正セシム
 (三)国体ニ関スル言説中苟モ法規ニ触ルルモノハ之ヲ重キニ従ヒテ処断スル方針ヲ採リ要スレハ現行刑法、出版法、新聞紙法等取締ニ関スル諸法規ヲ改正ス
三、国体明徴ヲ一般ニ徹底セシムル為
 (一)最高学府等ニ国体講座ヲ設クル等ノ方法ニ依り国体ニ関スル教育ノ徹底ヲハカル
 (二)教科書調査会ノ権限ヲ拡充シテ広ク教科書ノ内容ヲ整理ス
四、美濃部氏ノ公職辞任ヲ更ニ慫慂ス
五、美濃部氏ニ対スル司法審理ノ遅延ハ一般ノ疑惑ヲ招来スルノ虞アルニ付適当ニ之ヲ促進ス” 

                           (国立国会図書館デジタルコレクションより)

  だから、政府は8月に「国体明徴に関する政府声明」を発するのですが、美濃部達吉が自らの辞職について、
くれぐれも申し上げますがそれは私の学説を翻すとか自分の著書の間違つてゐる事を認めるとかいふ問題ではなく、唯貴族院の今日の空気において私が議員としての職分を尽すことが甚だ困難となっ た事を深く感じたがために他なりません
 というような発言をしたこともあって、政府は、再び「国体明徴声明」を発する事態に直面します。
 そして日本は、二度にわたる「国体明徴声明」によって、国際社会に通用する「法学」や「歴史学」のような学問の存在しない、明治維新当時の記紀神話を史実とする尊王思想の国家に戻ってしまったのだと思います。

 当時、津田左右吉が、『記・紀』の神代の物語には、天皇の地位の正当性を説明するため、多くの作為が含まれていることを明らかにしていたことも見逃せません。『記・紀』の神代の物語が史実ではないことを論証した津田左右吉の『神代史の研究』や『日本上代史研究』、『上代日本の社会及思想』などの著書も、美濃部達吉の著書同様発禁処分となっているのです。そして、「皇室の尊厳を冒涜した」として出版法(第26条)違反で起訴されてもいるのです。政治権力が、「学問の自由」を侵し、自らの国を「神の国」や「神州」などと特別視して、戦争へと突き進んだ歴史を忘れてはならないとと思います。

 「学問の自由」が認められていれば、”天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念”(人間宣言)にいつまでもとらわれ、戦争に突き進むことはなかったように思います。

 下記は、「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から抜粋しました。(漢数字や算用数字の一部を変更しています)

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                国体明徴の名のもとに

                ─ 天皇機関説 ─         

 

 滝川事件の二年後、1935(昭和10)年には、天皇機関説問題がおこり、その年いっぱい政界をゆさぶった。この事件は、国体論にもとづく学問、思想の自由にたいする弾圧という点では、滝川事件の延長線上にある。だが、それが単に著作の発禁や著者にたいする司法処分にとどまらなかったところに、段階のちがいがあった。議会の決議、軍の訓示につづいて政府が「国体明徴」を公式に宣言したことによって、軍をふくめた官僚組織が国体の名において、軍や政府に同調しない異説や異分子を排除するために、全面的にのり出すことになった。こうして天皇機関説問題は民主主義、自由主義の息の根をとめ、思想統制を仕上げる役割を果たしたのである。

 

 1934(昭和9)年の第六十五通常国会では、出版法が改正され、著作者・発行者を処罰する範囲が広がった。それまでの政体変壊・国憲紊乱と風俗壊乱とのうえに、あらたに皇室の尊厳冒瀆と安寧秩序の妨害が加えられた。この議会には、治安維持法改正法案も提出された。この法案は、国体変革をはかる結社の外郭団体員も罰する、国体変革の宣伝を罰する、検事に拘引四ヶ月以内の拘留権をみとめる、執行猶予または不起訴者を保護観察し、刑期終了者を予防拘禁に付しうる、などのことを定めたものである。だが、さすがにこれには、政友・民政両党からも、人権蹂躙のおそれがつよいという非難や、右翼も取締まれという要求がおこり、衆議院で審議未了となった。

 

 目の上のこぶ

 当時の政党のなかには、ファッショ排撃と議会政治の擁護を叫んで、政権を政党の手にとり戻そうとする動きもあったが、他方では、軍部やこれに近い国家主義勢力と結んで勢力を伸ばそうとするファッショ分子の活動も活発となっていた。政党の動向が揺れうごくなかで、後者は、貴族院の右翼議員や院外の右翼団体などと呼応して、前者の目をつんでいった。第六十五議会では、政友・民政両党の提携を斡旋した中島久万吉商相が”逆賊”足利尊氏を讃美したと攻撃されて辞職に追いこまれた。

 こうした思想摘発の先頭に立ったのが、国体擁護連合会で、滝川事件の火付け役となった蓑田胸喜もその有力メンバーであった。この会は1932年のいわゆる司法省赤化事件を契機として在京右翼団体が連合してつくったもので、政界・学界の自由主義者、とくに高等文官試験委員である帝国大学教授の摘発に力こぶを入れていた。末弘巖太郎東京帝大教授も蓑田に告発され、不起訴となったものの、その『法窓漫筆』は一部が発禁処分を受けた。

 国体擁護連合会がつぎにねらいをつけたのが、前年に退官したばかりの美濃部達吉東大名誉教授であった。美濃部は東大法学部で行政法を、1920(大正9)年からは憲法をも担任し、かれに代表されるいわゆる天皇機関説は、明治憲法下の議会政治を基礎づける憲法理論として学界の主流をなしていた。ながく高等文官試験委員であり、1932年には犬養政友会内閣に推されて貴族院の勅選議員なっていた。同時にかれは、自由主義的評論家として、反動的な時流に抗して健筆をふるっていた。それはかれの憲法理論もとづくものであった。

 美濃部は天皇・皇室を尊崇することにおいて人後に落ちなかった。そして国体の観念を歴史的ないし倫理的事実をしめす観念としては認めながらも、これを憲法解釈のなかに導入することには反対であった。

 「国体を理由として、現在の憲法的制度に於ける君権の万能を主張せるが如きは、全然憲法の精神を誤るものである。殊に君主の大権は常に官僚の輔翼に依って行るゝのであるから、国体を理由とする君権説の主張は、其の結果に於いては、常に官僚的専制政治の主張に帰する」(『逐条憲法精義』1927年刊)

 かれは天皇を国家の機関とすることで、具体的人格としての天皇と、憲法にもとづく天皇の権能とを区別した。そして官僚の輔翼によっておこなわれる後者については批判の自由をみとめて、国政が合理的に運営されることを保障しようとしたのである。

 したがって軍部や右翼が、国体とか統帥権をふりかざして、反対論を威圧することには、かれは  つよく反対した。ロンドン条約問題にあたっては、「統帥権干犯」のスローガンを排斥した。総理大臣が軍令部長の同意を得ずして条約の批准を奏請したとしても、それはただ軍令部長の権限の侵犯にとどまるもので、統帥権の干犯ではない、天皇の委任を受けないものがほしいままに天皇の陸海軍を指揮し統帥しようと企てたとすれば、それこそが統帥権の干犯である──美濃部はこう主張したのである。193410月に陸軍省が「国防の本義と其強化の提唱」、いわゆる陸軍パンフレットを配布したときにも、かれは軍国主義を粉飾している美辞麗句を剥ぎとって、その好戦的軍国主義を批判した。

 かれはまた、国民の意見を代表する議会を尊重するとともに、行政権も司法権も法律にしたがってのみおこなわれるべきだ、と法治主義を強調して、国民の権利をまもろうとした。機関説問題がおこった1939年はじめの第六十七通常議会でも、貴族院本会議で、斎藤実内閣瓦解の原因となった帝人事件における人権蹂躙問題をとりあげ、検察当局が権力を違法に乱用したおそれがつよいときびしく追及した。

 天皇の権威をかさに着た軍部や右翼にとって、従三位・勲一等・貴族院議員、帝国学士院会員で憲法学の権威である美濃部が、他ならぬ帝国憲法に依拠して批判をつづけることは、まさに目の上のこぶであった。

 

 拍手でマーク

 19351月に国体擁護連合会では、蓑田の起草した攻撃文をばらまいた。それは美濃部の著書のところどころを抜き出して、「天皇の統治=立法・行政・司法・統帥大権を無視否認せる不忠凶逆『国憲紊乱』ときめつけたものであった。ニ月七日には、衆議院の予算委員会分科会で陸軍少将の江藤源九郎代議士が、美濃部の著書『逐条憲法精義』の発禁処分を要求した。「帝国議会は国民の代表者として国の統治に参加するもので、原則としては議会は天皇に対して完全なる独立の地位を有し、天皇の命令に服するものではない」と同書にあるのは、天皇大権干犯・国体破壊で、出版法にいう国憲紊乱にあたるとしたのである。江藤は、国家主義勢力が中心とたのむ平沼騏一郎枢密院副議長の直系であった。

 こえて十八日には、貴族院本会議で、菊池武夫、井上清純、三室戸敬光の各議員が、天皇機関説排撃の質問戦をくりひろげた。菊池、井上両男爵は軍人で、三室戸子爵とともに、蓑田の代弁者であった。菊池は、憲法上統治の主体が天皇にあらずして国家にありと公言することは、「緩慢なる謀反であり明らかなる反逆になる」として、美濃部ならびにその著書にたいする処分をただした。

 岡田啓介首相の答弁は、美濃部博士の著書全体を通読すれば国体の観念において誤りはないと信ずる、用語に穏当でないところがあるが、学説については学者にゆだねるほか仕方がない、という消極的なものであった。機関説問題が大きな波乱を呼びおこそうとは、まだ予想もされなかったのである。

 美濃部は二十五日に一身上の弁明に立った。美濃部の長男亮吉は、その時の模様を次のようにしるしている。

 「貴族院は議席も傍聴席も超満員だった。坐る席がないどころか手すりによじ上らなければ、父の顔を見ることもできないほどの騒ぎであった。父は、東大の講義の時とはちがい、前夜おそくまでかかってつくった原稿を手に、二時間に及ぶ弁明の演説をおこなった。それは、やや学者風にすぎ、大学における講義じみてはいたが、なかなか迫力のある名演説であった。(中略)要するに貴族院の壇上において、いわゆる天皇機関説についての通俗講演を試みたようなものであった」

 貴族院では、壇上でおこなわれる演説には拍手しないのが原則であったが、この演説には少数ながら拍手がおこった。拍手をおくった小野塚喜平次東大総長は、やがて右翼団体ににらまれ、一時は護衛がついたという。この演説は議定を圧し、当の菊池も「ただ今承る如き内容のものであれば、何も私がとりあげて問題とするに当たらぬようにも思う」と述べたほどであった。

 

 扇動と重圧

 しかし貴族院における美濃部の弁明演説が新聞に大きく報道されたことは、右翼勢力を刺激した。かれらは天皇機関説が玉座の前で主張され、ジャーナリズムで拡大されて国民大衆の間にまで達したと、いきどおった。

 いわゆる天皇機関説は当時の憲法学説の主流をなしていたとはいえ、それは大学教育と知識階級の世界に限定されていた。大多数の国民は師範学校=小中学校の教育を通じて天皇を絶対的権威として教えこまれていた。とくに軍隊教育では、天皇への絶対服従が徹底的にたたきこまれた。大正時代の初頭に美濃部と上杉慎吉東大教授との間で天皇機関説論争がたたかわされていらい、文部省では美濃部を遠ざけていた。美濃部はこの時を最後に、中等教員検定試験の法制の試験委員に嘱託されなくなり、文部省の委嘱で執筆提出してあった中等教育の法制教科書も出版されなかったという。

 「天皇機関説批判」と銘打った雑誌『維新』四月号では、美濃部の弁明に名をかりた演説は自由主義の猛然たる反撃のあらわれであるとし、「自由主義思想勢力が……従来の地盤たる知識階級の圏外にも氾濫して国民思想の分野に圧倒的な支持を獲得するか、それとも国民大衆の意識下に伏在する伝統的国民感情が自由主義の反撃を押返して、これに最終的打撃を与へるかの国民思想の重大な転機である」と論じて天皇機関説との決戦を呼びかけていた。

 かれらは、現人神である天皇を「機関」とするのは不敬だという通俗観念をあおった。美濃部の理論体系のなかで意味をもつ機関という学術用語を、それから取りはずして扇動に用いたのである。議会では、「機関といえば全体の一部でありまして、また何時でも取換え得る意味を持つものであります」(貴族院・井上清純)、「天皇の御地位も会社の社長の地位も、機関たるにおいては全然同一のものとなるのではありませんか」(政友会・山本悌二郎)と論じられた。徳富蘇峰は『東京日日』に連載の「日日だより」に「記者は未だ美濃部博士の法政に対する著書を読まない。故にこゝにその所説に付いて語らない……記者はいかなる意味においてすらも、天皇機関説の味方ではない……日本国民として九十九人迄は、恐らく記者と同感であらう」と書いた。

 これらの批判は、関口泰が書いたように「美濃部博士の憲法学説を攻撃する者の九十九人迄、否百人迄が、博士の法政に対する著書を読まないらしいことは、その所説の節節から察せられる」ようなものであった。少しのちには天皇も鈴木貫太郎侍従長にたいして、「主権が君主にあるか国家にあるかということを考慮するならば、まだ事がわかっているけれども、ただ機関説がよいか悪いかという議論をすることは、すこぶる無茶な話である。(中略)今日、美濃部ほどの人が一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることはすこぶる惜しいもんだ」ともらしていたという。

 以上のような情勢の下で、右翼の攻撃に対抗して学問の自由を守ろうとする組織的な動きは、滝川事件のときとちがって、もはや見られなかった。蓑田らの気違いじみた批評は好ましくないという側面からの批判はあっても、正面から美濃部の学説を弁護しようとする論者はいなかった。当の東大法学部も、このすぐれた先輩の犠牲を個人的に慰め、あるいはいきどおるだけで、国体という錦の御旗にあえて反撃しようとはしなかった。美濃部は孤立無援のたたかいを続けなければならなかったのである。こうしたなかで河合栄次郎経済学部教授は「国体に関する議論と処置は、特に慎重なることを必要とする。然るに国法の許さゞる……の脅威を以て博士の口を緘(カン)し、世人をして生命と地位とを賭するに非ざればこれに関する一語をも吐くことを許さゞる状態に至らしめたることは、『国憲を重んじ国法に遵』へえと宣せられたる明治天皇の教育勅語に……するであらう」(『帝国大学新聞』1935415日付、伏字は原文のまま)と正面から反撃したが、当時にあってはこれだけの批判をすることはきわめて勇気のいることであった。

 三月八日には、右翼団体が大同団結して機関説撲滅同盟をつくり、天皇機関説の発表の禁止と美濃部の自決を要求した。議会でも貴衆両院の有志議員が機関説排撃を申合わせた。絶対多数を擁しながら岡田内閣に閣僚を送っていない政友会では、これを倒閣運動に利用しようと積極的にのり出した。美濃部の師である一木喜徳郎枢密院議長を天皇機関説論者として排斥しようとしようとする平沼一派の策動もからんだ。

 用語は穏当でないが学説は学者にゆだねる、といっていた岡田首相の答弁が、かれらの攻撃の突破口とされた。三月四日には首相は、私は天皇機関説を支持するものではありませんと、学説に反対の態度を明らかにした。十二日には、林銑十郎陸相が、用語は不快だが、この学説が軍に悪影響を与えた事実はないという四日前の答弁をくつがえして、この種の言説がなくなることを希望すると述べた。

 国体という錦の御旗をふりかざした一部の議員に、政府当局も、この問題に消極的な議員も、ずるずると引きずられていった。議会は審議の場としての機能と価値とを喪失していたのである。三月二十日には、貴族院では政教刷新建議を採択した。二十三日には衆議院が国体に関する決議を可決し「政府は崇高無比なるわが国体と相容れざる言説に対し、直ちに断固たる措置を執るべし」と主張した。「左程でもないことをあたかも国の一大事のごとく思い込み、悲憤慷慨やるかたなき同じ人が、このころ新橋や赤坂の一番のお得意様で、ここでは慷慨淋漓が痛飲淋漓になるのだそうである」。

 阿部真之介は、右翼をこうひやかすとともに、この決議案の提案説明に立った。鈴木喜三郎政友会総裁を「一般民衆は……かれの忠誠の志に感嘆する前に、かような問題をすら政略の具に供するを辞せざる卑劣な根性に愛想をつかしていたのである」と批判した。

 

 司法処分

 議会が終わると、政府としては早急に一応の措置をとって美濃部問題のけりをつけようとした。二月末に江藤代議士から不敬罪の告発をうけていた美濃部は、四月七日に検事局に召喚されて十六時間にわたる取調べをうけた。詔勅、とくに教育勅語を批判してもよいと認めるかどうかが、取調べの重点だったらしい。九日には内務省は『逐条憲法精義』『憲法提要』『日本憲法の基本主義』を発禁とし、『現代憲政評論』『議会政治の検討』に次版改訂を命じた。美濃部以外の機関説論者の憲法学書、法学通論三十数種にたいしても絶版が勧告された。文部省では全国各学校に国体の本義を明徴せよとの訓示が出され、おりからの新学期を前に、京都帝大では渡辺宗太郎教授の憲法担当を変更し、神戸商大では佐々木惣一講師をやめさせるなどの措置がとられた。法制局でも高等文官試験委員から機関説論者を除いた。

 しかし、いったん燃えあがった火の手は容易におさまらなかった。天皇の軍隊をもって自任する軍部では、天皇機関説が軍隊教育に悪影響を及ぼすおそれがあるとして、その徹底的排撃を希望した。四月四日には真崎甚三郎教育総監は、天皇機関説は国体に対する吾人の信念と相容れないとする訓示を全陸軍に通達した。十五日には帝国在郷軍人会本部から陸軍省軍事調査部長山下奉文の名による機関説排撃のパンフレット十五万部が配布された。各地の在郷軍人会支部では、これに呼応して機関説排撃大会を開いて気勢をあげた。

 右翼団体も追撃の手をゆるめなかった。美濃部を処分させ、一木枢密院議長を辞職に追いこんで元老重臣陣営の一角を崩し、さらには岡田内閣の打倒をはかろうとしていたのである。四月中旬には「美濃部思想は一木が元祖、之を絶やさにゃ国立たぬ」といったポスターが東京の各所にべたべたと貼られた。政友会もこれに同調して機関説排撃、岡田内閣打倒を叫んだ。岡田内閣では一木らを辞職させずに事態を収拾するため、美濃部に公職を辞退させることで事をうやむやに葬ろうと画策した。あらゆるつてをたどって辞職が勧告されたが、美濃部は頑として応じなかった。「小生公職辞退の儀につきなほ熟考を重ねし結果、今日において小生自ら公職を辞することは、自ら自己の罪を認めて過誤を天下に陳謝するの意義を表白するものに外ならぬことは申すまでもこれなく、自ら学問的生命を放棄し、醜名を死後にのこすものにて、小生の堪へ難き苦痛と致す所にこれあり候(中略)顧みればこの数年来憲政破壊の風潮ますます盛んと相なり、甚しきは自由主義思想の絶滅を叫ぶ声すら高く(中略)小生微力にしてもとよりこの風潮に対抗してこれを逆襲するだけの力あるものにこれなく候へども、憲法の研究を一生の仕事と致す一人として、空しくこの風潮に屈服し、退いて一身の安きをむさぼりては、その本分に反するものと確信致しをり候」。これは当時書かれたらしい手紙の一節である。

 八月三日には、ついに政府は国体明徴にかんする声明を発表した。そのなかには「統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使する為の機関なりとなすが如きは、是れ全く万邦無比なる我がこくたいの本義を愆(アヤマ)るものなり」という一句があった。岡田首相は一木枢密院議長と金森徳次郎法制局長官については問題ないとの談話を発表した。

 九月十七日には、さきに取調べをうけた美濃部の司法処分が検察当局から発表された。不敬罪にはあたらないが、昨年八月から施行された改正出版法による天皇の尊厳冒瀆・安寧秩序の妨害に該当する疑いが濃い、しかしこれらの著作は以前から刊行されていたことでもあるので、起訴猶予にするというものであった。この決定は美濃部が折れて辞職の内意をしめしてからなされたもので、その日に美濃部は貴族院議員の辞表を提出した。

 おりから陸軍内部においては、皇道、統制両派の抗争は頂点に達していた。機関説排撃の先頭に立った皇道派の真崎教育総監が七月に更迭されると、皇道派の青年将校は、これは統制派の永田鉄山軍務局長が重臣とたくらんだ陰謀で、「統帥権干犯」であると攻撃した。八月十二日には、永田は陸軍省内で相沢三郎中佐に斬殺された。これに刺激された軍部や在郷軍人のなかからは、政府の声明は生ぬるいという非難がたかまり、政府は軍部の要求である再声明を迫られた。

 十月十五日には国体明徴第二次声明が出され、いわゆる天皇機関説は「厳に之を芟除(センジョ)せざるべからず」と声明された。芟除とは刈りのぞくことである。陸軍ではこの声明をきっかけに在郷軍人会本部を通じて在郷軍人の統制にのり出し、その動きはようやく鎮静にむかった。ただ在郷軍人中の強硬派の三六倶楽部や、皇道派と密接な関係をもつ直心道場だけが内閣打倒の活動をつづけた。天皇機関説問題を契機とするはげしい倒閣運動でも岡田内閣は倒れなかった。だがその代りに再度の声明を出すことで右へ右へと傾いていったのである。

 こうした機関説問題を民衆はどう受けとったか、いちがいにいうことはできない。だがこの年秋の地方選挙では無産政党が躍進した反面、右翼の国家主義政党は不振であった。陸軍の華北工作、海軍の軍縮会議脱退の動きにみられる戦争の危機感、軍需インフレによる勤労大衆の生活難をなにほどか反映していたのであろう。翌三十六年ニ月二十日の衆議院議員総選挙では、機関説排撃の先頭に立った政友会が敗れ、川崎市をふくむ神奈川県第二区では鈴木総裁が落選した。無産政党は五名から二十一名に急増した。その翌日の二十一日、美濃部は右翼の壮士によって狙撃され、足に軽傷を負った。さらに五日あとには、二・二六事件がおこって情勢を大きく転換させたのである。 

 二・二六事件ののちには、「国体明徴」の具体的な措置がつぎつぎにとられた。四月には対外文書にこれまで「日本帝国」「日本国皇帝」としるしたのを、「大日本帝国」「大日本帝国天皇」と改めた。十月には文相を会長に、西田幾太郎以下の委員をあつめた教学刷新評議会で「我が国に於ては、祭祀と政治と教学とはその根本に於て一体不可分にして三者相離れざるを以て本旨とす」という調子の答申が出された。翌三月には文部省から『国体の本義』が配布された。そこでわが国体は神勅にもとづく世界無比のもので、「我臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」として、美濃部が強調してきた国民の権利はまったく否定された。

 憲法にある臣民権利義務や帝国議会の規定も、西洋諸国のように人民の権利擁護のため、ないしは人民の代表機関としてあるのではなく、ただ天皇親政を翼賛せしめるために設けられたものにすぎないとされた。この本からは旧制高専の国語の入試問題がよく出されたので、受験生のテキストに広く使われた。                                      《今井清一》

 

 

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日本学術会議任命拒否問題と滝川事件

2020年10月22日 | 国際・政治

 菅義偉首相が、日本学術会議が推薦した会員候補のうち六名(芦名定道、宇野重規、岡田正則、小澤隆一、加藤陽子、松宮孝明)を任命しなかったので、”日本学術会議任命拒否問題”として議論が続いています。
 日本学術会議は、幹事会を開催し、菅首相に対して六人を任命するように求める要望書を決定し、内閣府に送付したといいます。あちらこちらで、「内閣にイエスという提言や法解釈しか聞かなくなるのは禍根を残す」とか「学問の自由に対する暴挙だ」とか「日本学術会議法に反する明らかな違法行為だ」いう声があがっているにもかかわらず、菅政権は、「総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した」との一点張りです。
 だから、安全保障関連法特定秘密保護法などで政府の方針に異論を唱えた人たちは、総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から任命できないということなのではないかと想像します。戦前、”学問の自由、大学の自治”を巡って戦われた「滝川事件」を思い出し「昭和史の瞬間 上巻」朝日ジャーナル編(朝日選書11)から「大学自治の墓標 ── 京大・滝川事件」を抜粋しました。
 ”歴史はそれ自体を繰り返さないが、しばしば韻を踏む”はマーク・トウェインの言葉だそうですが、同じ過ちをくり返してはならないと思います。
 不都合な事実をなかったことにし、自らに都合のよい法律を作り、自らに都合のよい解釈をし、自らに都合のよい人事で要職をかため、思い通りの政治を続けるとどういうことになるのかは、歴史が教えていると思います。下記を読むと、日本は再び後戻りができないところまで進んでいるような気さえするのですが…。 
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         大学自治の墓標  ── 京大・滝川事件

1933(昭和8)年五月二十六日、京都帝国大学法経第一教室は、1600名の学生で埋めつくされていた。午後五時三十分、宮本英雄学部長を先頭に、教授・助教授・講師・助手・副手の法学部の全教官が姿をあらわして、学生大会の緊張と興奮は頂点に達した。
 宮本法学部長が壇上に立って、いま教授会全員の辞表を小西総長に提出してきたことを告げ、その理由の説明として、十二分間にわたって教授一同の名による声明書を朗読した。
 「政府が今回、滝川教授辞職の事あらしめたるの措置は、甚しく不当にして、遂に吾人一同をして辞表を呈出するの已むなきに至らしめたり。
 ……事は実に大学の使命および大学教授の職責に関す。之を以て滝川氏個人の擁護なりとする人の如きは、吾人初めより之と共に本問題を談ずるの意を有せざるなり。
 大学の使命は固より真理の探究に在り。真理の探究は一に教授の自由の研究に待つ。大学教授の研究の自由が思索の自由および教授の自由を包含すること、論なし。教授が熱心に思索し、思索の結果たる学説を忠実に教授することを得るに於て、始めて研究の自由あり。……政府の滝川教授休職に関する措置は、全く大学教授の職責を無視し、以て大学の使命の遂行を阻碍(ソガイ)するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由の一なり。
 大学に於ける研究の自由……を確保するは、大学制度の運用に当りて、研究の自由を脅すの結果を生ずることを防ぐを肝要とす。之が方法中、最も根本的なものは、政府が任意に教授の地位を左右するの余地なからしむることに存す。…之が為には、教授の進退は総長の具状を得て之を行ひ、且総長が教授の進退に付具状せんとするとき、必ず予め教授会の同意を得るを要すとすることを必要とす。是れ所謂大学の自治と称するものゝ一端なり。…然るに、今回の滝川教授の休職は、総長の具状なく、且毫も教授会の同意を得るの手続存することなくして、行はれたり。此の如きは、実に、我が京都帝国大学に在りて、研究の自由を確保する方法として、夙に公に認められ、且久しく遵守し来れる規律を破壊し、以て大学の使命の遂行を阻碍するものとす。是れ吾人をして辞職の已むなきに至らしめたる理由のニなり」
 読み終わった宮本学部長は、「私たちは、いまこうして総辞職を決行した。もっとも関係の深い学生諸君のことに思い至るとき、まことに胸がありさけるように苦しい。しかし私たちのとった態度はあくまで正しいと信ずる。諸君は私たちの意のあるところを察して、これからも学生にふさわしい道を進んでもらいたい」と別れのことばを述べた。
 つづいて助教授団の声明、講師・助手・副手団の声明が読みあげられたのち、教授以下は退場した。教授十五名をはじめ、辞表提出者は三十九名にのぼった。
 学生大会は続行され、大学院学生代表が、指導教授を失ったいまは、総退学のほかなし、と声明した。このとき経済学部学生代表から、経済学部教授会の弱腰を非難して、あすから受講を辞退することを、学生一同申合せたと発言した。第一高等学校以下、全国三十四高校の卒業生代表が、学習院を最後に、それぞれ決議文を朗読した。京大法学部学生一同の名で、文部省にたいして、滝川教授休職撤回と全法学部教授の復職とを要求し、目的貫徹のためには総退学を辞さない、との決意を声明した。
 この五月二十六日の学園のはげしい動きは、「吹き募る京大暴風帯」(『大阪朝日』)、「抗争の激流に潰えた京大法学部」(『大阪毎日』)などの大見出しで社会を衝撃した。そして思えばこの日教授と一体の学生大会が、京大・滝川事件のクライマックスであった。しかし、事ここに至るまでには、むろんさまざまないきさつがあった。

 拡大解釈された「アカ」
 京大法学部総辞職にまで発展しただ事件は、刑法担当の滝川幸辰教授を文部省が罷免しようとしたことからおこった。手短に述べれば、つぎのような経過である。
 1932(昭和七)年十月、滝川教授は中央大学で「トルストイの『復活』に現れた刑罰思想」と題する講演をした。この内容がけしからんものだった、と告げ口するものがあったとみえて、文部省から新城京大総長に注意があり、法学部は部長を中心に「誤解」を解くことにつとめた。ところが、翌三十三年四月、新任の小西重直総長にたいし、文部省は正式に滝川教授の辞職を要求した。それに一歩先立って、同教授の著書『刑法読本』と『刑法抗議』とが、内務省から発売禁止処分を受けており、その危険な内容(文部省の理解によれば内乱を扇動し、姦通を奨励するもの)に照らして、大学教授として適当でない、という理由であった。ここで問題が表面化した。文部大臣は鳩山一郎(戦後の首相)であった。
 法学部教授会は、理由がないとしてこれを拒否した。教授会の立場は、教授の学問上の見解の当否は、文政当局の判断によってきめられるべきものではなく、そのときどきの政府のつごうで教授の地位を動かすべきではない、というのであった。文部省の「論理」は「学問研究の自由の中には、①研究の自由、②教授の自由。③発表の自由があるが、教授の自由と発表の自由に関連して滝川教授の責任を問わんとしているので、教授会の意向は当を得ない」というのであったが、この「論理」に説得力があるかどうかはともかくとして、絶対クビにするというハラのほうは強固であった。板ばさみになった小西総長は、東京と京都のあいだを往ったり来たりしてノイローゼ状態におちいった。
 五月二十四日、小西総長は鳩山文相と会見して、大学として文部当局の要求には応じることができぬ旨を回答した。文部省は切札を出して、翌二十五日に高等文官分限委員会をひらき、一方的に滝川教授の休職を決定した。
 成行きからハラをきめた法学部教授会は、五月十五日、連署して、言い分がとおらないかぎり総辞職を申合せ、さらに二十三日、絶対に慰留に応じないことを申合せて、全員の辞表を学部長にあずけた。そして二十六日に、滝川教授休職発令の電報が飛びこんだのに応じて、学部長から総長に辞表を提出し、つづいて学生大会乗込みの場となったのである。
 こうみてくると、事件のきっかけにちなんで、世間が滝川事件と呼んだことに理由があると同時に、当事者たちが、滝川個人の問題ではないという観点から、京大事件とよびならわしてきたことがうなずかれる。ことの本質は、まさに学問の自由、大学の自治そのものの問題であった。そして事件をひきおこした時代は、すでにそれにふさわしい条件をそなえていた。
 1931年秋の満州事変の戦火は、翌32年一月、上海事変に飛火し、三月には「満州国」建国が宣言され、国内では右翼テロが続発して五・一五事件にまでいたった。ドイツでは33年一月に、ナチスが政権をにぎり、ヒトラーが首相に就任した。そしてニ月には国会放火事件をおこして最有力の反対派・共産党に大弾圧を加え、非合法化した。日本でも「アカ」狩がつよめられ、権力者の目には「アカ」の範囲が拡大した。
 すでに三・一五事件のあと、京大・河上肇教授、東大・大森義太郎、平野義太郎、山田盛太郎助教授、九州大・向坂逸郎教授などの「左翼」教授がつぎつぎに追放されたが、いまでは、滝川教授までが「マルクス主義者」のレッテルをはられるようになった。滝川教授はけっしてマルクス主義者ではなく、「自由主義者」と呼ぶのがふさわいが、いまや自由主義者も「危険思想」であるにかわりなかった。「危険思想」の摘発を職業とする商人があらわれた。蓑田胸喜(ひとびとは狂気とかげで呼んだ)とその機関誌『原理日本』がその代表的なものであった。滝川教授ばかりでなく、東大の美濃部達吉、田中耕太郎、末弘巌太郎などの諸教授もかれによれば「赤化教授」であったが、わけても滝川教授には私怨を抱いていたふしもある。それは滝川教授が部長をしていた京大講演部で、蓑田の「学術講演」が学生たちの包囲攻撃を受けた一幕があったからである。蓑田たちが提供する資料は衆議院の宮沢祐代議士や貴族院の菊池武夫男爵らの「右翼議員」によって、議政壇上で活用された。かれらは満州事変いらい発言力をつよめてきた軍部のバックアップをたのんで強気であった。滝川事件の背後には、陸軍大臣・荒木貞夫大将があると噂された。さらに当時、大きな政治問題になった「司法官赤化事件」にショックを受けた司法省が司法官試験委員としての滝川教授の刑法学説に神経をとがらせているとも噂された。「自由主義者」を自称している政治家・鳩山文相が、京大総長や学生にむかって「時勢のことをかんがえてもらいたい」とたびたび洩らしたのは、理由のないことではなかった。
 一滝川教授にとってはもちろん、京都帝国大学にとっても、敵はあまりに強大であった。法学部教授会は、このたたかいに勝ち目のないことを意識していたはずである。しかし教授会は、たたかうことが必要だと考え、そしてたたかった。ことがらのスジをあきらかにし、教授会を結束させていくうえで、強大な指導力を発揮したのは公法学の佐々木惣一教授であった。佐々木教授は、京大法学部の第一回卒業生で、官僚養成所としての東大に対抗して設置された京大の在野精神の伝統に誇りをもつ、母校愛に燃える、当時五十七歳の長老教授であった。1913~14(大正2~3)年、教授会を中心とする大学自治確立の大闘争であった「沢柳事件」を、少壮教授としてたたかいぬいた経験をもっていた。この、一樹よく森をなす、と評された佐々木教授の人間的魅力と論理とが、滝川事件をあそこまでたたかいぬかせたのだ、と関係者の評価は一致している。これとならんで、闘志と機略にあふれた宮本英雄教授が、たまたま法学部長の地位にあったことが、この大闘争の展開に欠くことのできない条件であったことも事実らしい。

 学生運動
 教授団のまわりに、学生が結集して立ちあがった。
 滝川事件の表面化は、新学期早々の学生を緊張させた。京大法学部には、在学生と卒業生とを包含する学友会「有信会」の組織があったが、学園の空気が切迫した五月十八日、学生有志があつまって、組織的行動を開始した。翌十九日、第一回学生大会をひらいて、文部省へ抗議と教授会支持の声明書を満場一致で採択した。そして出身高等学校別代表者会議(高代会議)をひらき、闘争委員会を設置した。すなわち中央部、交渉部、情報部、会計部、庶務部の各専門部を設けて組織体制を整えた。同時に、東京、九州、東北の各帝大の新聞に檄を送った。中央部の議長には、六尺豊かの巨体に長いあごひげをたらした名物学生・渡辺貞之助君がえらばれた。かれは、それ以来、ひんぱんにひらかれた学生大会の事実上の常任議長となり、名議長ぶりをうたわれた。
 運動の基本組織が出身高等学校単位につくられたことは、旧制高校が持っていた性格からいって、納得のいく方針であった。すでに寮での共同生活をつうじて築かれていた友情を基礎に、学生は団結した。かれらは教授を歴訪し、激励し、批判し、全国各地の大学にオルグに出かけ、講演会をひらいて市民に訴え、文部大臣への直接抗議をも試みた。かれらは京大の自由主義の伝統を守護する使命感と、師弟の情誼に殉ずる純情に若い血を燃やした。法学部学生大会の総退学宣言にしたがって、1300通の退学届けがあつめられた(もっとも結果的にみて、これは抗議の署名運動といった意味のものであった)。もちろん高い調子の論陣をはったが、そのほかに運動の独自の機関紙として『京大学生運動新聞』を数号発行した。
 経済学部、文学部も学生大会をひらいて共同闘争を決議した。経済学部学生大会の受講辞退戦術については、さきにも紹介した。やがて、法経文理連合学生大会から、さらに全学学生大会がひらかれ、鳩山文相に辞職勧告委員を派遣することが決議された。しかし学生運動の形態は、ほとんど屋内集会に限定され、一回のデモも組織されず、教授会に同調の線をかたく守って、その妨げとならぬように慎重に統制されていた。運動に左翼的色彩が見えないことがむしろ注目をひいた。
 
 もともと京大は、左翼学生運動の名門であった。治安維持法の適用第一号の「栄誉」をになったのも、1926年の京大学生を中心する、いわゆる学連事件であった。たしかに、三・一五=四・一六事件いらいのあいつぐ弾圧の影響もあったろう。しかし、滝川事件以後の事実に照らしても、京大に左翼の伝統がたえたわけではなかった。けれども滝川事件のなかで、左翼がどんな独自的役割を演じたかは、表面からはわからない。中央指導部の議長・渡辺君をはじめ、平岡学、西毅一など、表面に立った幹部は左翼学生ではなかった。運動の展開にともなっていくつかの小さな渦巻は発生したが、全体として学生の統一はよく保たれた。運動にアカい色が見えることを厳重に警戒し、同時に内心期待していた警察にとって、弾圧の口実になるような材料は、ついにあらわれなかった。
 このような特徴をもった学生運動が、大衆的規模で展開した。卒業生もさかんに活動し、全国大会をひらいて支援した。言論機関も法学部側に好意的であった。このたたかいが、言論・報道の自由の最後のとりでの攻防戦であることを意識するひとびとが少なくなかったのである。とくに京大支局に田畑磐門記者を配置していた『大阪朝日新聞』の紙面は積極的であった。
 東大、東北大、九州大などでも京大支援の学生運動があった。そのクライマックスは六月二十一日、東大法経三十一番教室で、非合法にひらかれた学生大会であった。美濃部達吉教授が、憲法の講義中に、学生の希望に応じて講義を中止して学生大会にあけわたした。入口の扉を内から縄でガッチリしめ、無数のビラが飛散るなかで演説が進み、拍手、歓声がわいた。しかし、興奮に顔をほてらせて教室を出ようとした学生を、警官隊が待ちかまえていた。
 突如、ワッショ、ワッショの叫びとともに、ガッチリとスクラムをくんだデモ隊が、警官隊の包囲網に突進した。たちまち乱闘、警官隊は学生を打ちすえ、けとばし、トラックに満載した。
 関係者の証言によれば、滝川事件当時、共産主義青年同盟東大細胞はなお、強力であった。事件がおこると、この全組織が立ちあがり、大衆的な闘争機関として、各高校別会議が、いわば中央闘争委員会として「高代会議」が持たれ、これらの闘争組織を共青が指導したのであった。しかし弾圧で共青が追いつめられ、解体するにともなって、学生大衆も気力を失って運動は衰退した。

 「石の下」の自治
 運動の衰退は、本家の京都でいっそう深刻な問題であった。肝心の法学部教授会が分裂するという悲劇が、やがておこった。
 五月二十六日の総辞職宣言で、たたかいは第二段階にはいった。もちろん文部省も、火の手が大きくなることは本意でなかったから、収拾のため、さまざまな工作をこころみた。法学部閉鎖、法文系学生の私立大学への移管などの噂がバラまかれた。便乗した右翼が、強硬派に脅迫を加えたりした。法学部教授会の強硬な態度にサジを投げた小西総長は、六月辞職した。
 事件三代目の総長として松井元興教授が選出された。新総長は、前総長がてもとにあずかったままになっていた十五教授の辞表を文部省に取次いだ。文部省はそのなかから、佐々木惣一、宮本英雄、末川博、滝川幸辰、森口繁治、宮本英脩の六教授の分をぬきだして受理し、あとの九教授に対しては、今回のことは「非常特別の場合」だ、今後はこういうことはしないから辞意を撤回して残留してくれと説得した。
 辞表受理組は強硬派とみられていたグループであったが、宮本英脩教授が加わっていたことは自他ともに意外であった。そこで同教授は、『朝日新聞』に「最軟派の立場」と題して投書し、もともと辞職したくなかった自分の心情を表明した。そしてまもなく復帰した。一方、慰留組のなかで、恒藤恭、田村徳治の両教授は、納得できぬと声明して辞意をつらぬいた。他の教授たちは、自分たちの主張が基本的に貫徹したから、残留して法学部の再建に努力すると声明して、辞表を撤回した。
 こうして法学部教授会が、退官組と残留組とに分裂したことによって、さしもの大紛争も七月半ばに一段落を告げた。助教授以下も、二派に分裂した。事ここに至るまでのあいだには、もちろん、きわめて「人間的な」内面、外面のドラマがあったことは想像にかたくない。いまとちがって、大学教授が希少価値を持ち、わけても帝国大学に権威と生活の安定が保証されている時代であった。学生は、残留派を「瓦全組(ガゼンクミ)」とののしったが、かれら自身も、帝大の卒業証書が高い相場を持っていることを知っていた。時すでに夏休みにはいるとともに、学生は郷里に散って運動は中断した。この点、昔も今もかわらぬ学生運動の法則である。そして九月に登校したときには、学内の様相は一変していた。すでに火は消えており、かきおこそうとする者には、大学当局が弾圧をもってのぞんだ。
 敗北はあきらかであった。新聞の投書欄で、ささやかな腹いせをするのがせいいっぱいであった。
 
 「講師求む、法律を多少理解する者、研究の自由なきも、破格優遇、地位安固、講義は国定教科書による」(『大阪朝日』京都版)
 そして学生たちは、カフェーで一杯ひっかけて、軍歌「戦友」の替歌を放唱しながら京洛の巷をさまよった。
 
  ここはお江戸を何百里
  離れて遠き京大も
  ファッショの光に照らされて
  自治と自由は石の下

  思えば悲し昨日まで
  真先かけて文相の
  無智を散々懲らしたる
  勇士の心境変われるか

 学生の支援こそあったが、京大法学部は自ら象牙の塔に孤立してたたかった。教授会を構成する正規の教授だけの問題であると限定し、他をたのまぬという方針をつらぬいた。助教授も学生も、他学部教授会も、まして他大学も、こちらからは応援を求めぬ、自力で文部省とたたかう、それが大学の自治だ、という態度で一貫して玉砕した。それにしても、他学部も他大学も、個人としては同情を表明するものはあったが、組織的支援の態勢をとらず、京大法学部を見殺しにした。東大法学部の動向が注目されたが、一片の声明に接することもできなかった。これら三十年前に日本の大学におこった事実は、今日の目からみると、まことにいたましい。あと味の悪い事件であったにちがいないとともに、今日のわれわれにとっても、あと味がよくない。
 しかし少数ではあったとはいえ、純理をつらぬいて一歩もしりぞかなかあった大学人があったというすがすがしい事実は、日本の大学自治の伝統として、いまに生きている。当時、学生としてこの戦前最後の大衆闘争に情熱をかたむけたひとびとはいまも語る。不幸な事件であったが、痛切な実践的教育であった。人間の出所進退にについて、生涯を左右する教訓を得た。その意味で滝川事件は、その後のわが人生を方向づけた。
 1934(昭和九)年、事件一周年に、熱血派の学生、平岡学らは、京大法学部の建物に「想起せよ、五・二六!」と大書した垂れ幕をかかげた。そして一年の停学処分を受けた。こうして軍国主義が階段をのぼるのに反比例して、大学の転落は加速度を増した。美濃部博士の天皇機関説攻撃、東大矢内原忠雄、大内兵衛教授らの追放、河合栄治郎教授事件等々、大学の自治と学問の自由の長い墓標の列が立ちならぶことになった。
 それにやっと終止符をうたれたのは、1945年八月であった。闇の閉ざされていた日本の大学は、にわかに光につつまれたように見え、ひとびとは受難の先輩があたたかい椅子をとりかえしたことをよろこんだ。しかし、それから二十年たった今日、京大滝川事件の思い出がふたたび大学人の心のかげりとなりはじめているのではなかろうか。
                                                                                          《塩田庄兵衛》

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李玉仙(イオクソン)さんの人生

2020年10月15日 | 国際・政治

 日本政府は、徴用工問題だけではなく、いわゆる「従軍慰安婦」問題に関しても、1965年の「日韓請求権協定」で、”完全かつ最終的に解決済み”であるというのですが、「国際法律家委員会(ICJ)」は、”1965年の日韓の協定も、1956年日比賠償条約も日本に対する女性たちの請求を妨害するものではない。前者は、人権被害に関する請求を包含すると意図されたものではないし、現に包含しもしなかった。後者も、国家にもたらされた破壊に関し、フィリピンの「人民」への賠償のためのものだった。個々人への補償問題は、交渉で提起されておらず、よれゆえ、同条約は、この問題を解決しようと意図されたものではなかったし、解決したとも解釈されてはならない。”と結論しています。

 いわゆる「従軍慰安婦」の存在が、広く知られる知られるようになったのは、千田夏光氏の『従軍慰安婦』の刊行(1973年)がきっかけになったといわれますが、金学順さんが名乗り出て、「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」と題した記事が、朝日新聞に掲載されたのは、さらに20年近く後の1991年8月11日だということですから、1965年の「日韓請求権協定」が”人権被害に関する請求を包含すると意図されたものではないし、現に包含しもしなかった”というのは、その通りだと思います。「日韓請求権協定」締結当時、「従軍慰安婦」の存在は、ほとんど知られていなかったのです。だから、「日韓請求権協定」は、「従軍慰安婦」の問題を”解決しようと意図されたものではなかったし、解決したとも解釈されてはならない”というのは、間違ってはいないと思うのです。
 また、元「従軍慰安婦」の多くの人たちは、日本政府がきちんと自らの責任を認め、謝ってほしいと語り、尊厳の回復を訴えています。「日韓請求権協定」に基づく経済協力で解決済みにできる問題ではないということだと思います。

 でも、「国際法律家委員会(ICJ)」という国際組織の勧告に背を向け、自民・民主両党の一部の国会議員やジャーナリストが2007年6月24日「従軍慰安婦」の「強制連行はなかった」とする意見広告を米ワシントン・ポスト紙に出しました。それは結果的に、2007年7月31日、アメリカ合衆国下院121号決議の採択をもたらすことになったと思います。
 アメリカ合衆国下院121号決議には、
Whereas the `comfort women' system of forced military prostitution by the Government of Japan, considered unprecedented in its cruelty and magnitude, included gang rape, forced abortions, humiliation, and sexual violence resulting in mutilation, death, or eventual suicide in one of the largest cases of human trafficking in the 20th century;
 とあります。”日本政府によって性奴隷にされた慰安婦とされる女性達の問題は、残虐性と規模において前例のない二十世紀最大規模の人身売買のひとつであると考えられる”というような意味だと思います。
 また、
Whereas some new textbooks used in Japanese schools seek to downplay the `comfort women' tragedy and other Japanese war crimes during World War II;
 とあります。”日本の学校で使われる新しい教科書で、「従軍慰安婦」の悲惨や第二次世界大戦における戦争犯罪が軽く扱われようとしている”というような指摘だと思います。安倍政権の「従軍慰安婦」問題に対する姿勢を批判したのです。

 そして、同じようにオーストラリア上院が慰安婦問題和解提言決議をし、オランダ下院、およびカナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議をしているというのです。また、フィリピン下院外交委韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択し、さらに、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議案を全会一致で採択したというのです。こうした国際社会の声は、日本政府が、「従軍慰安婦」問題を、”「強制連行」を立証する資料が見つからなかった”ということで売春の問題に矮小化し、なかったことにしようとする事に対する警告であると思います。

 こうした決議に誠意をもって対応しないため、2011年12月14日午前、ソウルの日本大使館前の路上に、「従軍慰安婦」問題を連想させる少女のブロンズ像が設置されました。それは、毎週水曜日に「従軍慰安婦問題」に対する日本政府の対応に抗議する集会が続けられ、14日に1000回となるのを記念し、制作されたといいます。

 下記の李玉仙(イオクソン)さんも、未成年であったにもかかわらず、「性奴隷」といわれる扱いをうけたことを証言しています。「従軍慰安婦」の問題は、たとえ「強制連行」を立証する資料が見つからなくても、重大な人権問題であることがわかります。そして、李玉仙さんは90歳をこえる高齢にもかかわらず、この水曜集会に意欲的に参加されているのだといいます。元「従軍慰安婦」の人たちの尊厳の回復のためには、個人的な謝罪や民間基金の補償ではなく、国際組織の勧告にあるような日本政府の公式の謝罪とそれをもとにした法的な補償や事実を継承する教育だと思います。戦時中の日本政府や軍の過ちを認め、一日も早く近隣諸国との関係改善に取り組んでほしいと思います。

 下記は、「ナヌムの家歴史観 ハンドブック」ナヌムの家歴史観後援会(柏書房)から「2部 ナヌムの家のハルモ二たち」の「 李玉仙(イオクソン)ハルモ二」を抜粋しました。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            2部 ナヌムの家のハルモ二たち

             李玉仙(イオクソン)ハルモ二               
 
 1927年(戸籍上、1928年)10月10日、釜山市寶水洞(ポスドン)で6人兄妹の2番目として生まれる。父は日雇い労働、母は下働きなどをしていたが、それでも糊口をしのぐのがやっとの貧しい家庭で育った。学校へ行くことは考えもできなかったが勉強がしたくて、12歳ごろから学校へ行きたいとせがんでは殴られもした。
 そんな折、14歳(40年春)のとき、お金も稼がせてやるし、勉強もさせてやるといわれ、釜山の波止場近くの小さな飲み屋に養女として売られていった。そこで半年あまり暮らしたが、働かせるのみで学校にも行かせてもらえないので逃げ出したところ、再び捕まり、今度は蔚山(ウルサン)の飲み屋に売られた。
 1942年7月中旬の夕刻、使いに出された際に、朝鮮人男性2名に捕まり、中国の延期吉(ヨンギル)にある空軍部隊の東飛行場に連れていかれた。そこでは1年ほど下働きさせられたが、その間日本軍人たちから日常的に強姦された。その後一緒にいた女性たち全員が延吉市内にある慰安所に移され、3年ほど「慰安婦」生活を送った。
 慰安所は狭く、10名あまりいた女性が入りきれず、1部屋に2~3名が入った。初めは部隊内の庭にゴザを敷いて使うこともあったが、突然軍人たちが部屋に入ってきて、他の同僚が見ている前で獣のように女性を強かんした。そこにいるときはサック(コンドーム)も使わず、性病検査もなかった。妊娠した女性が1人いたが、子どもが生まれると、日本軍人が連れ去ったという。しばらくして近くに慰安所が新築されて引っ越したが、そこでは1人に1部屋ずつ当てがわれた。
 ここでは週に1回ずつ数名の軍医官がやって来て性病検査をした。梅毒にかかったが、、606号注射を打たれても完治せず、管理人が水銀を身体に当てて治療し、その後不妊症になった。性病は無料で治療されたが、他の病気の治療はしてもらえなかった。使いに出た際、朝鮮人の警官に殴られて鼓膜が破れ、耳から膿(ウミ)が出るなど酷(ヒド)い状態だったが、治療を受けることができず、今も耳がよく聞こえない状態だ。
 16歳くらいのとき、慰安所で初潮を迎えたが、生理中も軍人の相手をさせられ、週末には25名ほどの軍人を相手にした。言うことを聞かないときには革のベルトで鞭打たれた。
 戦争が終ると、慰安所管理人が「慰安婦」たちを山に残して逃げてしまったので、市内に出た。それからは生きる糧(カテ)も無かったが、延吉の東飛行場に報国隊としてきていた朝鮮人男性と出会い、結婚した。しかし夫が解放前に勤労奉仕隊長として日本に協力していたことが問題となり、夫だけが朝鮮に逃げ帰ってしまった。その後10年間婚家で暮らした後、姑の勧めで再婚した。
 夫の連れ子を育て、韓国に帰国するまでは痛風にかかった夫と、息子の子2人を学校にやるなど、実質的な大黒柱の役割をした。
 1999年末、夫が亡くなってから帰国を決意、2000年6月1日、池石伊(チドリ)ハルモ二とともにナヌムの家に来た。物事の分別をわきまえ、常に他人に配慮して行動する。特に、向かいの部屋の金君子(キムグンジャ)ハルモ二と一緒に教会に通い、姉妹のように頼っている。また、勉強できなかったことが今も悔やまれるのか、聖書や詳説などを分厚い老眼鏡をかけて熱心に読み、勉強している。

 

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金学順さんの証言②

2020年10月12日 | 国際・政治

 国際法律家委員会(ICJ)は、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また、資料を収集し、報告書をまとめました。その最終報告書には、日本政府に対する勧告が含まれています。

 また、クマラスワミ氏の「戦時における軍事的性奴隷問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」にも勧告が含まれています。
 さらに、マクドゥーガル氏の報告書付属文書〔第2次大戦中設置された「慰安所」に関する日本政府の法的責任の分析〕にも勧告が含まれています。私は、そうした国際組織の調査結果に基づく勧告を、いつまでも放置せず、誠意をもって応えるべきだと思います。

 下記は、『金学順さんの証言─「従軍慰安婦問題」を問う』(解放出版社編)から「第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言」の後半を抜粋したものです。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
            第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言

 朝鮮人男性に助け出され
 鉄壁鎮と呼ばれていたその地に二ヶ月ほどいて、次の地に移動しました。また戦闘の最前線の地です。軍人たちは教えてもくれませんから、地名はよくわかりません。私は中国語もよくできるし、日本軍がどこにいるかはだいたいわかってきましたが、どこかはわかりません。
 当時の状況を知らない人にはわからないでしょうが、中国人、韓国人、日本人が入り乱れてたたかった時期であり、中国の八路軍と戦闘をしていました。そのときには日本軍のいろんな秘密を八路軍に伝えたり、最後には中国軍の中に入っていっていっしょにたたかった。そういう状況でした。
 それまでと同じく軍人が来ると相手をせねばならず、どんなにつらくても逃げられませんでした。すでにそこに送られていた三人と一緒に行動することになりました。
 あまりに悔しく腹がたったとき、抵抗したりして命令をきかなかったりすると、ひどく殴られました。
 最前線では、作戦に出かける時は軍人は来ませんでしたが、作戦から戻ったときは一日に十人、二十人といわずとにかく相手をしなければならないので、そのときのつらさは言いあらわせません。
 もう人間のすることではありません。いつまでもその夢を見ることがあります。私が死んでいのちが消えてしまうまで続くでしょう。死んだときにやっと自由になるのかもしれません。しかし何をやっても、その悪夢を忘れることはないでしょう。
 部隊がどんどん前進していくので、軍人といっしょに車に乗って移動しながら過ごしました。移動先でも同じことをするのです。私は死んではいけない。とにかくどうやっても生きるのだと決心したのです。
 そうこうするうちに、ここを脱出しなければ生きられないと思うようにもなりましたが、どこへ行ったらいいのか分からなくて、脱出する勇気も出ないまま、軍人たちに酷使されてからだをこわしました。肺が悪くなり病の床にふせってしまったのです。
 軍人たちが作戦で出かけてしまったある日の夕方のことです。ふせっている私の部屋に朝鮮人男性が突然入ってきました。驚いていると、私に「声をあげてはいけない」と口を押えて、「私は朝鮮人だ。お前も朝鮮人だろう。どうしてこんなところにいるのか。何もしゃべってはいけない」と言いました。だいぶ年上の男性でした。
 日本人、韓国人、中国人が入り乱れてたたかっていたのですから、韓国人男性が前線に忍び込んでくることはそう不思議ではありませんでした。彼は「商売をしている」といっていましたが、何かを調べているようでした。
 彼を見ると、私は「おじさんも朝鮮人、私も朝鮮人。おじさんがここを出るときには私を逃してほしいのです。このままここにいたら死んでしまう。どうかいっしょに連れて行って下さい」と頼みました。彼は「お前はいくつだ。こんなかわいそうなことがあるのか。17歳でどうしてこんなところに連れられて、苦労しているのか」と言いながら、「自分といっしょだと、あちこち移動しなくてはならない。それが出来るか」と聞いてきました。
 私は「おじさんが行くところについて回りますから、助けて下さい」と言いますと、彼は道をよく知っていたので、手をつないでいっしょに連れて出てくれたのです。その日の夜明け前、軍人たちが戻らないうちに慰安所を脱出しました。

 北京、南京、蘇州……と逃げて
 ちょうどそのときは軍隊は出撃していて、見張り番がいる程度だったので、逃げだすことが出来たのだと思います。
 この逃走の手引きをしてくれたのは、将来の夫になった人でした。私より18歳年上でした。名前はチョー・ウォンチャンといいます。
 彼は日本軍から追われていたので、中国で足を踏み入れない所はないほど逃げ回りました。小都市は日本軍に見つかりやすいので大都市を隠れながら転々としました。奉天、ハルビン、沈陽、北京、西京、南京、蘇州──と、転々としました。
 日本軍に見つからないように、中国服を着て逃げたのです。人間が隠れて暮らすということは、たいへんにつらいことです。
 私が19歳のときに、妊娠しました。夫が「どこかに定着しないといけない」といって上海に行くことになりました。上海では重慶にあった大韓民国臨時政府の光復軍とも連絡がとれるからです。
 上海で日本人が住んでいるところを避けて、落ち着いたのはフランス租界の近くでした。フランスの外交官が住んでいた近くでは、日本軍の目から逃れられた生活ができたからです。
 朝鮮人が多かったのは、このフランス租界とイギリス租界周辺でした。
 上海は国際都市であり、五十四カ国の領事館があるところです。イギリス租界などに住んでいると、領事館の許可がないと逮捕できないわけです。
 夫も私も中国語ができたことが幸いして、中国人からお金を借り、「松井洋行」という看板をあげて商売をしました。金貸し、質屋の仕事です。中国人の質屋に預けた質札をもってきた人にもお金を貸すことをしました。ですから、すごく商売が上手くいきました。
 質屋では三ヶ月たつと全部がながれることになっており、私はこの商売をして初めて「ながれる」という意味も覚えました。
 日本式の名前の「松井洋行」という名前にしたのは、日本名にすると日本の警察は一切手を出さないからです。
 こうして中国人と朝鮮人はお互いに助け合ったのです。
 もう上海を離れて半世紀以上がたっていました。その上海はいまも行ってみたいところです。私たち夫婦が三年間住んでいた思い出多いところですから。
 解放の年、四十五年に、私が22歳のときです。男の子が生まれ、四人家族になりました。

 上海から仁川(インチョン)へ
 上海では金九先生の講演を聞いたことがあります。同胞の人が皆集まり、大光明という劇場で聞きました。
 金九先生は上海と重慶の間を行ったり来たりしていました。やがて蒋介石が敗走し、最後に日本に逃げるだろうと思っていました。そうすれば大変なことになるだろう──というのが大方の見方でした。
 そうして日本が戦争に負けて解放になりました。解放から間もなくして、上海の自宅で夫が白い紙を出して旗の枠の中に何かのしるしを書きました。「これは何か知っているか」と私に問うたことを覚えています。それはやがて祖国の国旗となる太極旗でした。夫は喜びをいい表したのです。
 大韓民国臨時政府を樹立した金九先生は先に祖国に帰られました。最後まで残った光復軍と私たち親子四人は一緒に上海から船に乗って韓国の西海岸の仁川に上陸して帰ることになったのです。2000人くらいの人が乗船して祖国をめざしました。
 しかし、当時はコレラが流行っていたのです。船の中でコレラにかかった人がでて、なかなか韓国には上陸できませんでした。26日間も船中に滞在してから、ようやく仁川に上陸したのです。
 当時は戦地から仁川に上陸した人々は避難民といわれていて、ソウルの奨忠堂(チャンチュンタン)収容所という施設にたくさんの人が収容されていました。私たち親子もこの収容所で約三ヶ月暮らしました。
 収容所でもコレラが流行っていました。4歳になる娘チョプジャはそのコレラにかかったのです。そしてあっという間に死んでしまいました。息子ジェフアと夫、そして私の三人家族になってしまったのです。
 私たちは収容所を出てからソウルの東大門区昌信洞で部屋を借りて暮らしました。なんとか食べて行かなくってはならないので、夫は掃除夫の仕事をし、私は商売をしてがんばりました。
 そうすると、六・二五(朝鮮戦争)が起こりました。また三年間の間、残酷な生活をせねばなりませんでした。

 夫、そして息子も死んで
 戦争が休戦になり、幸いにも家族三人は死なずに生き残れました。荒れはてた国土で、生活をどうしていくか考えた末、夫が軍隊に副食を納入する仕事を始めたのです。私はいろいろな小物を売ったりして生活をしました。
 1953年1月も末の、雨が三日間も降り続いていた寒い日でした。
 夫は軍隊の老朽化した倉庫に副食を納入するので出かけていきました。そこで検査を受けるため倉庫にいたのですが、二階建てのその倉庫が急に崩れて、民間人七、八人、軍人二十六人が事故に巻き込まれたのです。夫は赤十字病院に運ばれたのですが、かけつけてみると重体で、まもなく亡くなったのです。夫は47歳の若さでした。
 私にはどうして不幸が待ち受けているのか、不幸な人生ばかりを歩むのか──と、何度悔やんだことか。娘を亡くし、さらに夫までもが。
 一人息子と私だけが生き残りました。
 しかし生きていくため働かねばなりません。いつまでも悲しみにくれてはおられません。風呂敷に服などを包んであちこち売り歩く生活をするようになりました。
 主に江原道(コンファド)の村々を、回らないところはないほど歩き回り商売をしました。
 息子はソウルの国民学校のチャンシン小学校三年生になっていたのですが、「一度海に行きたい」と言うので連れていって、韓国江原道の東海岸にソクチョンというところがあり、そこへ息子を連れて行くことになったのです。
 朝、ソウルからバスに乗ると、夕方、そこに到着しました。
 私は商売をしなければならないので、息子を置いて帰ったのですが、息子はソクチョンのヨンナンで湖で溺れ死んだのです。私は一人息子まで失ってしまいました。
 昔、「従軍慰安婦」にされたという過去がある中で、誰が再婚してくれるでしょうか。誰と再婚することができるでしょうか。
 従軍慰安婦だったことで、女扱いしない、むしろ犬よりも劣る存在として回りで見られるのに、どうして再婚などできるでしょうか。再婚できたとしても過去が分かると、「お前は慰安所にいた奴だ」と胸に突き刺さるような言葉を朝鮮人の男でさえ言うだろうと思い、「ずっと一人で生きていこう」と心に決めて今まで生きてきたのです。
 ただ一人で、いまソウルの東大門近くの民家の一室に住んでいます。

 胸の内の恨(ハン)を解きたい
 毎日の趣味をいうと、朝早く起きて新聞を丹念に読むことです。夜はテレビをみます。体調も良くないので外にでかけることはあまりありません。
 そんなある日、テレビで日本政府が「従軍慰安婦はいなかった」と言っているのを聞いて、本当に腹が煮えくり返るような思いでした。
 あったことはあったこととして話すべきです。私がこの様な境遇になってしまったことを考えると、この怒りをどうしたらよいのか分かりません。
 女性が女性として生きるというのも何もわからずに、五十年間を耐え続けて生きてきたのですが、こうした生きた証人がいるにもかかわらず、日本は慰安所は関係ないと言う。こんなとんでもないことがなぜありえるのかと、胸が引き裂かれる思いになりました。
 私は生きた証人として、どこかへでかけてしゃべらないと、と思うようになりました。
 慰安所から四ヶ月たって、何んとか逃げだしたので、いま、こうして証言することができるのですが、慰安所にいっしょにいたほかの四人は一体どうなったのでしょうか。解放を迎えたあと、いま生きているのか、一体どうしているのでしょうか。
 私はすごく彼女らに会いたくって、(マスコミを通じて)何度となく会いたいと言っているのですが、これまで何の連絡もありません。どこかに隠れていて会おうとしないということでは決してないでしょう。もう死んでしまったのではないでしょうか。
 またあの時私を苦しめた日本人は、今は7、80歳になっているはずです。会うことができたら、着ている衣服を引き裂いてやりたい気持ちをもっています。
 怒りのあまり、韓国教会女性連合で、私の胸のうちを全て打ち明けて、どうしたらいいのか相談しました。私の胸の中につまっているハン(恨)を解きほぐしたい……。日本が過去にそういう事実があったことを正直に認めてほしいのです。
 それで、放送局や新聞社を呼んで全てを話すことになったのです。政府や国会議員にも国会で証言したいと頼みましたが、何の連絡もありません。それでは私が日本に行って直接日本人に体験を話して、事実を語ろうと思って日本にやって来たのです。
 当時、軍人たちは口々に天皇陛下と言っていたことは忘れません。天皇陛下、日の丸という言葉を聞くと、昔のつらい思い出がよみがえってきて、その気持ちは口ではとても表せません。この怒りをどうやって鎮めればよいのでしょうか。
 日本政府は当時、「従軍慰安婦」を天皇陛下の下賜品とか言っていました。数万人の女性を引っ張っていって殺しておいて、よくそんな事が言えたものです。とにかく、そうすることによって朝鮮人の種をなくそうとしていたのは事実だと思います。名前や姓を奪い日本語を使わなければ学校にもいけませんでした。父を殺され、私自身も「従軍慰安婦」にさせられました。
 私は裁判をして補償してもらうのが目的ではありません。事実を明らかにしてどうしても謝罪してほしいのです。日本で裁判するため来日し、「何を主張したいか」と問われたのですが、「もう一度、17歳の時代に戻してほしい」と言いました。
 お金などいらないし、17歳のときの青春を戻してほしいと言いました。
 無論、17歳のときの青春が戻るはずなどありません。戻りっこないでしょう。でもそういう思いがこみ上げてきたのです。私のハンを解いてほしいのです。しかしながら、何をしてもそのハンは消えないでしょう。余りにも深いからです。多分、このハンを胸に抱えたまま死んでいくでしょう。

 歴史を正しく伝えてほしい
 過去の侵略の歴史を若い世代に正しく伝えてほしいと思っています。日本の若者たちは日本が過去にどうしたことをしたか知らない。日本政府が過去にあった侵略の歴史を隠し、なかったことだというふうに押し通しているから、若い世代が知らないのです。若い世代、次の世代に正確に歴史を伝えてほしいのです。過去にあったこと、悪かったことも正しく伝えなくてはなりません。それを隠すということは、それをまた繰り返すことにもなりかねません。
 日本は朝鮮を三十六年間植民地支配し、多くの朝鮮人を殺し、朝鮮という国をなくそうとした歴史があります。姓や名前までも変え、日本人として名乗らないと学校へも通えなかった時代が三十六年間続いたのです。そのような歴史を今の若い人に隠し、なかったことだというのではなく、正しく伝えてほしいのです。

 私が過去の体験を語るのは、どうしてなのだと思いますか。お互いにそうした過去の嫌なことを繰り返さないように、そして戦争なんかしないで、仲良く暮らしていこうと思うからです。
 日本の皆さん、昔はそうであったとしてもこれからはお互いに争わないようにして下さい。
 日本の軍隊は争いを好んできました。朝鮮を植民地にしたのにあきたらず、日中戦争をおこし、うまくいかないので太平洋戦争をおこしました。どうしてこの様に争いを好むのかわかりません。
 どんどん戦争を続けたことで、そのような過去がおこったのではないでしょうか。朝鮮人女性を慰安所に連れ、朝鮮人男性を弾よけにし、そうしたメチャクチャなことをして反省もしないとは、とんでもありません。自ら反省すべきであって、言わなければわからないというのはおかしなことだと思います。
 日本はいま、経済大国でもあり、軍事大国でもあります。そういう大きな国が今度派兵するというのは、どういうことでしょうか。今度は何をするために派兵するのでしょうか。過去にやったことを明らかにもせず隠したままで、今度は出かけていって誰かを殺すことになるのでしょうか。
 過去において不幸にした人びとに対して何らかの謝罪があってしかるべきです。過去におこったことを、ちゃんと謝罪すべきではないでしょうか。そこから新しい関係が始まるのではないでしょうか。
 私のように従軍慰安婦にされた人にたいして謝ることすらせず、いま派兵する日本が怖いのです。これは私だけの感情ではありません。
 解放のとき、日本人が韓国から出ていくときに、「十年後に日本がどうなるかみておれ」と言っていたことが思い出されます。
 今日、皆さんがいくら笑顔で迎えてくれても私はそれで満足することはできません。日本政府が悪かったと謝罪しない限り、私の気持ちは晴れません。
 日本に怖いことをいろいろされたので、いまも日本という国の名前を聞くだけでも怖くってたまりません。しかし、実際日本にきてみて感じたのは、日本の若い人でいい人がたくさんいることがわかりました。
 私は日本のあちこちで私自身の過去の体験をしゃべってきました。日本に来てこうして話しているだけで、私は日本をすでに許しているのかもしれません。
 韓国を発つ時に私が決心したことは、皆さんに言いたいことを全て話してから、最後に天皇の前で死ぬことでした。しかし生きてたたかうことが大事だと思うようになりました。自ら訴えていかなければならないのだと思っています。どこにでもでかけて行って証言していきたいと思います。それが、いま私を駆り立てていることです。
 あちこち話がいきまして、何を言ったのかも思い出せません。とにかく胸の中にある思いを全部ひっぱり出してしゃべりました。


 
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 

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金学順さんの証言①

2020年10月11日 | 国際・政治

 私は、元「従軍慰安婦」であった人たちの証言が、すべて真実であるとは思いません。特に個人的な身の上話に関する部分には、誤解や記憶違い、肉親や関係者への配慮のため、あるいは、個人的に知られたくない事実を覆い隠すための作り話など、さまざまなことが証言に含まれる可能性はあると思います。でも、証言がすべて嘘であるということはあり得ないと思います。

 それは、金学順さんが名乗り出た後、次々に名乗り出る人があらわれたからです。韓国はもちろん、フィリピン、中国、オランダ、インドネシア、台湾などでも名乗り出る人があらわれました。だから、国連人権委員会のクマラスワミ報告書には”それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。”とあるのだと思います。
 下記は、『金学順さんの証言─「従軍慰安婦問題」を問う』(解放出版社編)から「第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言」の前半を抜粋したものです。
 「五人が慰安婦とされて」という文章が慰安所の問題として重要だと思うのですが、嘘であると断言できるでしょうか。似たような証言はたくさんあるのです。元「従軍慰安婦」が慰安所に到る経緯は実に様々です。売られたと証言している人もいます。でも、慰安所におけるいわゆる「性奴隷」といわれる実態は、ほぼ共通です。
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            第一章 金学順(キムハクスン)さんの証言

 あったことは、「あった」というべきです 
 五十年間、私は我慢に我慢を重ねてきました。
 五十年前からずっと心が重苦しく、しかし、いつか私の体験を話すことを胸にひそめてきました。ずっと思っていたことが、日本に来ることで実現したのです。
 昔は女性は家庭を守って男性のうしろからついて行くという時代でしたが、現在はそうではありません。もちろん、みなさんが歴史のことをよくご存知だと思いますが、日本人、韓国人を問わずに、私の体験を知っていただきたく来日しましたので、どうかお聞きください。
 いま話をしようとすると、胸がドキドキします。過去のことが、あまりにもとてつもない事だからです。私の父は日本軍の銃で撃たれて亡くなりました。そして私までひどい目にあったので、「日本」という言葉を聞くだけでも胸が引き裂かれる思いがします。
 今年(1991年)6月、日本政府が従軍慰安婦問題を「知らない」と答弁しましたが、このことが韓国のマスコミでも報道されました。どうしてこうした嘘をいうのでしょうか。現に従軍慰安婦にされた私がここに生きているのですから。
 あったことは「あった」というべきです。
 もし私が、その慰安所から逃げることができずに、いっしょにいた娘さんたちとその場にいたなら、私の存在はもう腐ってなくなってしまっていたでしょう。そして、こうした証言もできなかったでしょう。
 私はいても立ってもいられず、思案に思案を重ねて、やっと名乗り出たのです。私の一生を台無しにしてしまった日本人の前で、どうして私が言えない理由などあるでしょうか。

 韓国にいても新聞などで、同じく従軍慰安婦とされた裵奉奇(ペ・ポンギ)さんが沖縄におられることを知っていました。もし、日本に来たなら、ペ・ポンギさんに必ず会おうと思っていたのです。しかし、10月に亡くなられた記事を韓国で読みました。私はどれだけ泣いたかわかりません。本当に言葉が出ませんでした。ペ・ポンギさんが晩年、人にも会おうとしなかったのは、それだけ心の傷が深かったからではないでしょうか。
 ペ・ポンギさんはなぜ祖国に帰れなかったのでしょうか。恥ずかしくって、子どももいないし、ここで死んでしまおうと思って、一人で死んでいったと思います。
 ペ・ポンギさんを一人で死なせた日本という国は、どうしてきちんとやっていると言えるでしょうか。日本政府はきちんとしたことは何もしていないのではないでしょうか。

 日の丸をみて…
 戦前、日本にいろいろやられたときは、私たちには国がなかったので、何でもかんでもやられたのだと思いましたが、いまは祖国があり、自分の国に足をつけて生きることができます。こうした状況の中で日本人の前に立って語ることができるようになったのです。
 いま、気分がどうのこうのという言葉では語り切れません。今回(1991年12月)、(韓国の)「太平洋戦争犠牲者遺族会」の人といっしょに来たのですが、初めての日本に来るのに体調がおもわしくなく、また気分が悪かったのです。そして、ソウルから日本の飛行機に乗ってきたことに、「何で私は日本に行かなければならないのか。自分たちの国、独立した祖国があるのに…。何んということだ」という思いがしました。
 そして私は機内で「日本の飛行機に乗って日本に行って、私は何をしようとしているのか」と自分自身に問いかけました。そして途中、機内の窓から外を見ますと、赤い日の丸に似たもの(ツルが羽を広げて丸くしている日本航空のマーク)目に入ったのです。
 それを見た瞬間、五十年間の私の人生を滅茶苦茶にした日本にたいする思いが一気にこみあげてきて、胸をしめつけるような感じがしました。軍人たちがどこへ行っても日の丸を掲げて、「天皇陛下万歳」と言いました。日の丸という言葉を聞くだけでも、頭の中が腐ってしまうほど嫌な思いがする体験をしてきたのです。そのことがよみがえり、いまでも日の丸を見ると胸がドキドキするのです。
 皆さんは私の思いがどのような思いなのか、たぶん想像がつかないものだと思います。
 飛行機で日の丸を見て、過去の嫌なことが思い出されて、非常に胸が苦しかったのです。
 従軍慰安婦として犬よりもひどいような仕打ちをされて、あっちこっち引きまわされた私は、日の丸は好きになれません。これから何がおこっても、何があったとしても私のこの思いが解きほぐれることはないと思います。
 また、日本に着いてある部屋に入ったら、畳が敷いてありました。真っ先に目につきました。五十年前の嫌な体験をしたときも、その部屋は畳でした。その嫌な思いが甦ってきました。
 私がこれから話すことは、皆さんのためになるか、わかりません。ただ、私がこうした話をするのは日本を批判したりすることではなく、事実あったそのまま、私が過去に体験したそのままを話したいと思います。

 父は日本軍に撃たれて亡くなる
 私が生まれたのは朝鮮ではありません。いまは中国東北部の吉林省という所です。当時は「満州」といっていました。
 父はキム・ダルヒョンといい、母はアン・キョンドンといいます。
 父は三・一独立運動に参加した独立運動家と聞いています。三・一独立運動後、朝鮮にいると日本軍に捕まり殺されるので、「満州」に逃げて、そこで私が生まれたのです。1924年のことです。ところが私が生まれて100日もたたない間に、父は日本軍に銃で撃たれて亡くなったのです。母から聞いたことです。
 母はピョンヤンで15歳のときに結婚し、私が生まれたのが19歳のときだといいます。父が死んだあと、女手ひとつで生きていきました。
 中国には親類も誰もおらず生活がたいへん苦しいので、仕方なく2歳になった私をつれて朝鮮のピョンヤンに戻って来ました。父が殺されてからは、本当に悲惨な生活でしたが、親戚や母の生家を転々としながら何とか暮らしをたててきました。
 しかしそうした苦しい生活ながらも、母と一緒に住んでいた頃は、楽しかった。いまもその楽しいころが思い出されます。
 母は熱心なキリスト教信者でした。その母に抱かれて2歳のころから教会に通いました。そこで讃美歌を覚え、いまも歌えます。
 6歳のころに学校に入りました。私が入ったのはそこの公立の学校ではありません。
 当時の公立学校はほとんど日本人が通い、公立学校に韓国人が入学するのは難しかったのです。また学校に入って日本語を使っていましたから。
 入学したのはピョンヤンの教会が運営していた学校でした。
 授業料は無料でした。朝鮮の貧しい子どもたちが勉強していました。100人くらいの子どもたちが学んでいたと思います。
 毎日学校に通うのがとても楽しかったです。
 私は走るのが得意でした。クラスで誰よりも早かったです。リレーの選手でもありました。
 しかし、どのくらいの期間、学校に通うかは、自由でした。授業はいまの学校のように、朝から夕方ありました。結局、私は7歳から10歳まで四年間、学校に通ったのです。
 母は当時、靴下を編む工場で働いていましたが、私は学校から帰ると、その糸を巻いたりする手伝いをして、生活を助けました。
 その母がいま生きているのか、亡くなったのかは知りません。自分が中国に行くときに、母が汽車まで送ってきてくれて会ったのが最後でした。ヒョンヤンの駅まで来てくれて、汽車に乗った私を送ってくれました。その後の消息は全く知りません。
 それから半世紀もたちました。

 ピョンヤンで育って
 私たち母子はピョンヤンの中心街から少し離れたところに住んでいました。大同江(テドンガン)が市内を流れていますが、私は普通江(ポトンガン)の方の近くで、普通門(ポトンムン)があるその近くで生活していました。
 いま願っていることは、生きている間に自分の育ったところを一度訪れたいということです。だから解放後に私が赤十字(大韓赤十字社)の老人学校に入ったのもそのためです。「赤十字に入ればピョニャンに行くことが出来て、育ったところが見れるのでは……」と思ったからです。
 しかしまだ実現していません。
 父のことは、母からよく聞きました。しかし、母は夫の死のくやしさを「お前が生まれることで、父が死んだ」と言ったりしました。いきどおりのない怒りを私にぶつけたこともあります。また母がおこったときには、こうもいいました。「夫は私に苦労をかけた」と。
 私の性格や背が高いことなど、父によく似ているようです。ですから母は憎しみを父に似ている私にぶつけがちだったのかもしれません。
 「おまえは父に似て背が高い」と、母はよくいったものです。
 母は、父が死んでからはあっちこっち行ったり来たりして生計をたてました。
 商売しようと思ったのですが、なかなかできないので、農村で農家の手伝いをしたり、織物を織る手伝いをしたり、靴下を編んだり、いろんなことをして生活をたてました。綿の糸をつむぐことも上手でした。
 母は十代の後半、父とともに中国で生活したせいか、中国語がとても上手だったことを覚えています。

 母と別れ養女となる 
 そうこうするうちに、誰かの世話で母が再婚することになりましたが、私はどう考えても母と一緒になった男性を父と呼ぶことができませんでした。そこで家を飛びだしてしまったのです。私が14歳のときです。
 こうして私は一人でお金を稼がねばならなくなったのです。どうやって嫁ごうかと考えた末に、キーセンの修業のできる家の養女になったのです。
 養父がたくさんのお金を出してくれて、歌や踊りを17歳まで、ピョニャンにある学校で三年間習いました。
 生徒は300人いました。踊りとかパンソリ(朝鮮の民俗芸能の一つ)などを習いました。卒業状があれば正式にキーセンになれるのです。
 大同江の川辺には料理屋があり、近くに学校がありました。
 免許がとれると、人力車が料理屋まで連れていってくれます。部屋に案内してもらって、挨拶してお客さんに歌を聞かせたり、踊りを踊ったりするのです。時間単位でいくらということでした。終ると人力車で検番まで送ってもらうのです。
 植民地になるまでは韓国式でしたが、日本軍が入ってきてからは日本式になったといいます。
 学校時代はいつも楽しかった。というのは、私は授業の内容で一を聞くと二がわかるからです。何でも人より早くできるから楽しかったのです。
 いまは私は短い髪型ですが、そのときには髪が腰まであって、編んでリボンでくくっていました。
 勉強は朝の10時から午後2時くらいまでやります。一時間は踊りをやって、一時間はチャンゴを、あとの一時間は時詩をやったりしました。
 私を学校にやってくれた父母の家には、私より先に来てキーセン修業をしておた娘がもう一人いました。一つ年上でした。同じキーセンの学校の同級生として生活しました。
 その娘と一緒に勉強して17歳の時、学校を卒業したのです。
 当時はキーセンも検番の許可を受けないと仕事ができませんでした。しかも、17歳では許可がおりなかったのです。19歳以上でないと許可がおりないんです。
 そこで養父が「どこかに行ってお金を稼がねばならん。ピョニャンでは暮らしていけないから、満州に行こう」と言いました。私も「お金を稼がねば」と思って「満州」に行くことになったのです。
 
 日本憲兵が拘束
 養父と、そして一緒に養父のところからキーセンの学校に通った娘と私の計三人で新義州から「満州」に出発する時、駅でこれまで別れて暮らしていた母と会いました。そのときが母とあった最後です。いまこの歳になって、母のことを知りたいのも勿論ですが、再婚で養父となった人には二人の子どもがいたので、私にきょうだいができたわけです。ある時まで「兄さん」「姉さん」といって育ったんです。
 名前まで覚えています。その兄、姉がどうしているか知りたいのです。
 姉は1歳年上でした。私が15歳のときに結婚しました。姉はいまどうしているのでしょうか。

 「満州」へ行くのは大変でした。私たち三人を乗せた汽車は新義州を出発して、安東(アントン)橋を渡っていきました。そして、中国の地、アントンに到着するのですが、安東橋はとても長く、いまもよく記憶しています。
 中国に入ると、そこは日本軍が監視していて誰でもが行けるところではありませんでした。そうこうするうちに私たちは日本兵に捕まりましたが、養父がどんな手を使ったのか知りませんが、私たちは釈放されて、そこから養父と汽車に乗って北の方に行きました。北に向かってたぶん、三日間は汽車に乗っていたと思います。そして着いたところが北京でした。
 北京は大きな都市ですから、日本軍や日本人の目を逃れて暮らせると思い、住む家をさがしていましたが、ある日、食堂で食事をとろうとしている時、日本軍の将校に見つかってしまいました。その将校は「お前たち、朝鮮人だろう」と尋ねました。あまりにも怖くて、答えることもできずじっとしていました。
 養父も私も、もう一人の娘も「もうこれで最後」と手足がブルブル震えだしました。
 軍人は「お前ら朝鮮人か」とたたみかけました。将校らしい軍人は「この朝鮮人はスパイではないのか」と言うんです。当時日本軍は朝鮮人を見ると「スパイだ」と疑ったのです。将校は長い刀を背中にしょっていたのですが、その刀を抜きつきつけて養父を離れたところに連れて、膝まずかせました。何をいっているのか知りませんが、刀をふりまわしていました。
 その光景をみて怖くって怖くって、ブルブル震えていました。
 私は養父について行こうとしましたが、将校はいっしょにいた若い軍人二人に私たちを連れていけと命令するのがわかりました。そして私たちが抵抗すると、「ついて来ないなら殺す」と脅しました。
 養父は引っ張られてどこかへ行ってわからなくなりました。その時が養父を見た最後でした。残されたのは、私より一つ年上の姉さんと私の二人だけになりました。

 最前線の慰安所へ
 私たちはそのまま軍人につかまって、道ばたに止めてあった軍用トラックに乗せられたのです。先に養父を連れていった将校が戻ってきて、「出発しろ」と命じると、トラックは走り出したのです。
 養父がどこに行ったのかも分からないし、怖くて隅の方に静かに隠れていました。トラックはずっと走り続けました。途中で中国軍の銃撃にもあったことを覚えています。「早く車の下に隠れろ」と言われて、トラックの下に隠れたりもしました。 
 どこか分からないまま、夜になるまでトラックは走り続けました。夜中に村の様な所に着いたようでした。トラックから下りてみると、言葉はよく理解できませんが、日本の兵士が私たちのことを命じて「どこかへ入れてしまえ」と引っ張っていくようでした。
 日本軍が攻めてきたので中国人が全部逃げて、空き家になっていました。そこに入ったのです。真っ暗な家に連れられました。
 部屋の中に閉じ込められて、しばらくしたら光が見えたのです。蝋燭の光のようでした。よく見ると軍服を着た私たちを引っ張ってきた将校のようでした。その将校がついてこいと言って、私の腕を引っ張りました。恐くてブルブル震えていました。
 私は行きたくないので抵抗すると、「なぜ来ないのか」と足で蹴ったり、引っ張ったりしました。さらに抵抗すると「殺してしまう」と言いました。いまでもそのときの怖さ、恐ろしさは生々しく覚えています。
 それから連れていかれたのは、真っ暗な部屋でした。それから起こったことは、自分のくちから恥ずかしくって言うことができません。人間がやることではありません。
 そこで「服を脱げ」と言いました。服を脱ぐことなどどうして出来ますか。ブルブル震えていると、その将校は新しく買って着ていた服をびりびりに破りました。このとき将校に女として口に出来ないことをされてしまいました。そのことを考えると言葉が出ません。どう表現していいかわかりません。
 女として一番最初に体験することを、そんな状況でやられて、とても言葉ではいい表せません。将校は喜んだかも知れませんが、私は女性として一生価値のないものになったのかという、そういう思いがしました。
 将校は「ここでは朝鮮の服を着ることができない。ここでは軍服や中国の服しか着ることができない。明日の朝になれば、お前はここがどういうところかわかるはずだ」と吐き捨てたのです。
 
 本当に口にも出来ないことです。人間なのに、人間であることが考えられない、本当に恥かしくって口に出来ないことです。ひき裂かれた服を抱いて、どれだけ泣いたかわかりません。

 五人が慰安婦とされて
 しばらくして一緒に連れられた姉さんが入ってきました。二人で抱き合って「こんなことがあっていいのか」「二人で死んでしまおうか」「これからどうやって生きようか」「どこに行こうか」と話しながら泣きじゃくりました。泣き疲れるほど泣きました。
 入口には戸のかわりにボロの布がかけてあり、そのボロ布を引き上げてみますと、黄色い軍服がたくさん見えたので、恐ろしくて、そのまま引っ込みました。そして「このまま死んでしまおうか」と果てしなく泣き続けました。
 しかし、言葉では簡単ですが、死ぬことなどできないのです。「死んでは駄目だ」「ここから生きて必ず出ていかないといけない」と思っているいるうちに、やがて外が明るくなりました。
 外では朝鮮語も聞こえたり、日本語も聞こえてやかましくなってきました。夜が明けたのです。朝早く、朝鮮人の女性が入ってきました。「そして、「どうやってこんなところに連れて来られたのか」と私たちに尋ねました。そして「ここには、すでに三人の朝鮮人の女がいる」とも言ってくれました。
 あとからわかったことですが、いずれも従軍慰安婦にされた女性だったのです。
 その姉さんは22歳で「シズエ」とよばれていて一番年上でした。他に19歳の娘が二人いましたが、一人は「サダコ」もう一人は「ミヤコ」と呼ばれていました。その姉さんが言うには「来てしまったからには仕方がない、私たちと一緒に行動しよう。ここからはとても逃げられない」。そして「お前は『アイコ』と呼ぼう。いっしょに連れて来られた1歳年上の姉さんは『エミコと呼ぼう」と名前をつけてくれました。
 次の日からその人たちと、軍隊にいわれるとおりにやらなければなりませんでした。朝鮮人女性は五人で、軍隊全体の相手をさせられたのです。とても逃げられる状況ではありませんでした。逃げようとしても軍の最前線のところで、道すらわかりません。
 門のところには監視する兵がいました。どこの軍隊であったかはぜんぜんわかりません。中隊の規模でしたが、詳しくはわかりません。場所はそのときはわからなかったのですが、あとで軍人たちがいっていたのは「北支の鉄壁鎮(テッペキチン)」というところでした。
 一日何十人も相手にしてました。日によっては数が少ないこともありましたが、軍人の来ない日などありませんでした。最前線だったので、いろんな作戦で昼間に出ていったり、夜に出ていったりするのですが、そういうときは見回りの人しかおらず来る人が少なかっただけです。攻撃が終って一旦戻ってくると、たくさん慰安所に来たのです。
 食事が運ばれれば食べる。服をもってくれば着るという生活でした。軍隊に命じられるままに従わなければならないのです。服装は先ほど言いましたが、軍人が着ていた下着のようなものを着ていました。トラックに乗せてどこかへ行くときは、軍服を着せられたのです。一週間に一回性病にかかっているかどうか検査をしました。

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論⑦

2020年10月09日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点として書いた文章の”補強”として、下記の”強制連行の事実はあったのか”と題する文章を書いています。いろいろな問題があると思います。受け入れ難いです。

教科書の著者たちは、一体どういう事実をもとにしてこれを書いたのでしょうか。教科書の表現はさまざまなバリエーションがあって、「連行した」と書いているものも、「随行させた」と書いてあるのもあります。しかし、いずれにせよ強制性を示す表現になっていて、その点ではほとんど共通しています。
 あとは慰安婦たちの証言なのですが、この慰安婦たちが証言した部分についても、事実の食い違いが無数に指摘されています。
 虚偽の証言をすると偽証罪が成立するという条件の下での証言は、ただの一つも存在しません。
 しかも証言している人が同時に、当時の貯金を返せという裁判を別個にまた提訴しています。この期間にこれだけ働いて、貯金したという額を計算すると、当時の日本の大学卒業者の初任給に直して十倍の額をもらっています。その金額から戦地の慰安所というのがいかに実入りのいい仕事だったかがわかります。強制連行しなくても応募者はたくさんいたという話も納得できるのです。
 以上のことから、軍が強制連行を組織的に指示して行ったことはありえません。事実によって否定されているのです。
 私たち自由主義史観研究会のメンバーが中心になって発行している『近現代史の授業改革』(明治図書)という雑誌に、川崎にお住いの大師堂経慰さんという年配の方から、長文の投稿をいただきました。その方は戦前、朝鮮で生まれ、朝鮮総督府の役人をされていました。
 その方は「もし朝鮮で強制連行ということがあったとすれば、目撃者がたくさんいたはずだ。そして、こんどはあそこの娘が引っ張られた、こんどはこっちの娘がさらわれたという形で住民の間に動揺が起こり、暴動が起こったであろう。そういうことは、一切なかったし、聞いたこともない」と述べています。
 ということは、つまり、そういう事実はなかったのです。1945年、日本から解放された後、五十年間にわたって韓国は反日教育をやってきました。植民地統治下で、日本がいかにひどいことをやったかについて、ありとあらゆる事柄を並べて反日教育を続けてきたのです。朝鮮人の女性を強制連行し、人さらいをして連れていったということになれば、これは最も有力な反日教育の材料になるでしょう。1991年に問題になる以前に、なぜ四十七年間、正式に問題にしなかったのでしょうか。
 日本政府も強制連行の事実があったというのなら、なぜ現地に行って調べないのでしょうか。政府の調査なるものは、日本のあちこちの役所の古い文書をひっかき回しただけでなのです。韓国政府も、もし強制連行があったというのであれば、ぼう大な数の証人を見つけ出せるはずなのですが、ただの一人もいないのです。
 つまり、これは砂上の楼閣なのです。日本の運動家が朝鮮の女性に、裁判をして勝てばお金をもらえる、とたきつけて、元売春婦の人たちを利用したというのがことの真相だと思っています。

 まず、”事実の食い違いが無数に指摘されています。”というのですが、具体的な指摘はありません。証言がまったくの嘘であると断定できるような”食い違い”があるのであれば、示してほしいと思います。
 私は、誤解や記憶違いは誰にでもありうることで、たとえ細部の証言に矛盾が含まれていたとしても、証言全体を完全な嘘であると断定することはできないのではないかと思います。
 また、”偽証罪が成立するという条件の下での証言は、ただの一つも存在しません”ということで、元「従軍慰安婦」の証言をすべて否定できるものではないと思います。”偽証罪が成立するという条件の下での証言”しか受け入れないというような極論は、国際社会では通用しないと思います。

 次に、”この期間にこれだけ働いて、貯金したという額を計算すると、当時の日本の大学卒業者の初任給に直して十倍の額をもらっています。その金額から戦地の慰安所というのがいかに実入りのいい仕事だったかがわかります。強制連行しなくても応募者はたくさんいたという話も納得できるのです。”というのも、事実に反するのではないかと思います。そんな大金を受け取っていた元「従軍慰安婦」の実例が、現実にあるのでしょうか。こうした話には、具体例が示されるべきだと思います。
 私は、お金はまったく受け取らなかったとか、すべて強制的に貯金させられ、結局受け取れなかったとか、軍票で受け取ったが敗戦後、紙くずになったという証言は証言集などで目にしています。でも、藤岡氏がいわれるような”大学卒業者の初任給に直して十倍の額”を受け取ったという話は耳にしたり、目にしたことがありません。

 『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』〔(財)女性のためのアジア平和国民基金編〕のなかに、和歌山県知事が内務省警保局長に当てた「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」という文書があります。慰安婦集めをしている人物に誘拐の容疑があるので、取り締まりを開始したというのです。
 慰安所設置を始めた当初でさえ、日本国内で、誘拐まがいの慰安婦集めがなされていたというのに、戦争の拡大によって、比較にならないくらい多数の部隊が海外に派遣され、多くの年若い慰安婦を必要するようになった大戦末期、朝鮮や台湾に”強制連行しなくても応募者はたくさんいた”という具体的根拠はあるのでしょうか。具体的根拠を示さず、こうした断定をするのは、なぜでしょうか。
 

 また同書には、群馬県知事が内務大臣や陸軍大臣に宛てた「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」という文書もあります。そこには、大内という人物が”上海軍特務機関ノ依頼ナリト称シ上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(醜業)ヲ為ス酌婦(慰安婦)三千人ヲ必要ナリト称シ、芸娼妓酌婦紹介業の反町方ヲ訪レ、酌婦募集方ヲ依頼シタルモ、本件ハ果シテ軍ノ依頼アルヤ否ヤ不明且公序良俗ニ反スルカ如キ募集ヲ公々然ト吹聴スルカ如キハ皇軍ノ威信ヲ失墜スルモ甚シキモノト認メ、厳重取締方所轄前橋警察署長に対シ指揮致置候條此段及申(通)報候也”とあります。公然と慰安婦の募集をするのは、公序良俗に反し、皇軍の威信を失墜するので、取り締まりを命じたという通報文書です。だから、慰安婦に関しては、募集も応募も、大っぴらにはできなかったと思います。”強制連行しなくても応募者はたくさんいたという話”は、いたはずだという藤岡氏の想像なのではないでしょうか。何万もの慰安婦を、甘言や強圧なしに集めることができたとは思えません。”強制連行しなくても応募者はたくさんいた”というのであれば、その状況を、具体例をあげて示すべきだと思います。

 さらに、大師堂経慰さんという年配の方の”もし朝鮮で強制連行ということがあったとすれば、目撃者がたくさんいたはずだ。そして、こんどはあそこの娘が引っ張られた、こんどはこっちの娘がさらわれたという形で住民の間に動揺が起こり、暴動が起こったであろう。そういうことは、一切なかったし、聞いたこともない”という投稿に関してですが、当時の日本政府や軍の慰安所設置・運営政策に対する無理解があると思います。すでに取り上げた陸軍省兵務局兵務課起案の”軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件”という文書に、下記のようにあります。
支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。
 注目すべきは、慰安婦の”募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ”、住民の間に動揺が起こったり、暴動が起こったりしないように ”関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタシ)”と指示していることです。だから、人が見ている前で、強制連行をするようなバカなことをするはずがないのです。また、多くの元「従軍慰安婦」が”騙された”と証言していることも踏まえるべきだと思います。
 大師堂経慰さんという年配の方の長文の投稿によって、”そういう事実はなかったのです。”などと簡単に結論づけることができないことは明らかだと思います。

 次に、”1991年に問題になる以前に、なぜ四十七年間、正式に問題にしなかったのでしょうか。”ということですが、「従軍慰安婦」であったということを、簡単に名乗り出ることのできる状況になかったことを知るべきだと思います。名乗り出れば、再び深刻な差別を受ける恐れが強かった当時の社会状況を無視してはならないと思います。日本兵の「慰安婦」であったということが、一般的にどのように受け止められる状況にあったのかということに対する無理解があるのではないでしょうか。

 私は逆に、補償問題の根本的解決のために、日韓条約締結の際に、なぜこの問題を日本側が取り上げなかったのかと思います。
 国連人権委員会特別報告者のマクドゥーガルは、その報告書の附属文書で、元「従軍慰安婦」の損害賠償請求権は、戦争終結後に日本政府が諸外国と締結した平和条約の締結や1965年の日韓協定第により、完全かつ最終的に解決されたと主張しているが、それは以下の点で成立しないとして、”条約が作成された時点では、強かん収容所(レイプ・キャンプ)の設置への日本の直接関与は隠されていた。これは、日本が責任を免れるためにこれらの条約を援用しようとしても、正義衡平法の原則から許されない”と指摘しています。受けとめる必要があるのではないかと思います。

 また、藤岡氏は”日本政府も強制連行の事実があったというのなら、なぜ現地に行って調べないのでしょうか。政府の調査なるものは、日本のあちこちの役所の古い文書をひっかき回しただけでなのです。”というのですが、この指摘も、事実に反するのではないかと思います。
 1993年(平成5年)8月4日、内閣官房内閣外政審議会室が公表した文書の『いわゆる従軍慰安婦問題について』の中に、下記のようにあります。政府の調査が”日本のあちこちの役所の古い文書をひっかき回しただけ”でないことがわかります。ソウルにも行っているし、沖縄において、現地調査を行ったとも記されています。

このような状況の下、政府は、平成3年12月より関係資料の調査を進めるかたわら、元軍人等関係者から幅広い聞き取り調査を行うとともに、去る7月26日から30日までの5日間、韓国ソウルにおいて、太平洋戦争犠牲者遺族会の協力も得て元従軍慰安婦の人たちから当時の状況を詳細に聴取した。また、調査の過程において、米国に担当官を派遣し、米国の公文書につき調査した他、沖縄においても、現地調査を行った。調査の具体的態様は以下の通りであり、調査の結果発見された資料の概要は別添えの通りである。

 関係者からの聞き取りは、元「従軍慰安婦」のみでなく、元軍人、元朝鮮総督府関係者、元慰安所経営者、慰安所付近の居住者、歴史研究家等なども含まれているのです。そして、参考とした国内外文書及び出版物として、韓国政府が作成した調査報告書、韓国挺身隊問題対策協議会、太平洋戦争犠牲者遺族会など関係団体が作成した元慰安婦の証言集等をあげ、日本における出版物も”そのほぼすべてを渉猟した”といいます。
 藤岡氏には、きちんと客観的事実をとらえて議論してほしいと思います。

 終戦後の1948年、スマラン慰安所事件に関するバタビア臨時軍法会議では、11人が強制連行強制売春(婦女子強制売淫)、強姦で有罪とされ、岡田慶治陸軍少佐が死刑を宣告されたといいます。また、事件で中心的役割をはたしたされる大久保朝雄陸軍大佐が、軍法会議終了前に自殺している事実も見逃すことができないと思います。

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論⑥

2020年10月07日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点として書かれていることすべてが、私には、事実に反すると思われたので、①~⑤で、その根拠を私なりに明らかにしました。でも、同書には、さらに”ここでいま述べてきたことについて、幾つかの補強をしておきたいのですが…”ということで、再び見逃すことの出来ない幾つかの指摘をされています。それについても、異論をまとめておきたいと思いました。
 まず、「韓国の圧力に屈した官房長官談話」と題して、下記のようにあります。

以上の点から見て、きわめて重大な事態が進行していると思わざるを得ないのです。
 ここでいま述べてきたことについて、幾つかの補強をしておきたいのですが、強制連行があったことを言っている人たちが何を根拠にしているかということです。
 平成五年八月四日付で、当時の宮沢内閣の末期、翌日内閣総辞職するというその日、河野洋平官房長官(当時)による「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」が出されました。そのなかに以下の一節があります。

 慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲などが直接これに加担したこともあったことが明らかになった。(中略)われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 この談話とともに、防衛庁関係文書などのリストとその概要が同時に公表されましたが、「官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」というのですから、私はそれを示す資料が当然その中にあると思ったのですが、幾らさがしてもみつからないのです。
 軍の直営ではなく、あくまで業者がやったということを述べている資料はあるのです。例えばこれは米軍関係ですが、1943年六月十五日、アメリカ国立公文書館に保存されている連合軍翻訳通訳部局で保存している関係文書です。
 その尋問調書に、日本人捕虜で軍医の証言があります。その証言の概略は、「軍が慰安所を経営したということは断じてなく、民間人が経営していたのを監視していた程度である。このような監視は戦闘中行われたが、敵対行為が終了すると即座に中止された」つまり、戦闘中に襲われないように監視するということで、敵対行為が終了すると中止されたのです。
 このように、軍と独立の民間業者が経営していたという証言はありますが、軍そのものが経営していたという証言はないし、まして官憲が強制連行したり、意思に反して集めることに直接加担したなどということを示す資料はどこにもないのです。
 そしてなんと、この「官房長官談話」は事前に案を外交ルートで韓国と付き合わせていて、韓国側からは「金の補償はいい、金の補償は自分たちでやるから、強制連行があったことをなんとか入れてくれ。そうしなければ収まらない」と圧力をかけられ、宮沢内閣はそれに屈服して、全く事実に基づかないことを政治的に入れたという経緯がわかってきました。
 「女性のためのアジア平和国民基金」のパンフレットの根拠も、データによるものではなく、実はこの「官房長官談話」によるものなのです。つまり、政治決着なのであって、政治家が全く事実無根のことを、相手がそれでは収まらないからというので声明に入れたのです。それが事実あるかのようにすり替えられて、日本政府は認めたのだということにされてしまったということです。

 まず、”強制連行があったことを言っている人たちが何を根拠にしているかということです。”ということですが、”強制連行があったことを言っている人たち”は、いわゆる「河野談話」を根拠にしているわけではないと思います。元「従軍慰安婦」の様々な証言があることを無視してはならないと思います。藤岡氏は、元「従軍慰安婦」の様々な証言が、すべて嘘であることを前提として議論をされているようですが、なぜでしょうか。
 
 次に、”この談話とともに、防衛庁関係文書などのリストとその概要が同時に公表されましたが、「官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」というのですから、私はそれを示す資料が当然その中にあると思ったのですが、幾らさがしてもみつからないのです。

 という指摘ですが、どういう読み方をされているのか疑問に思います。そして、ここでも関係者の証言や学者・研究者が見つけ出した資料などは、完全に無視されているように思います。

 「従軍慰安婦」の問題は、国際法違反の問題であり、当時の政府や軍も、当然官憲を直接加担させるような文書は残さないように配慮したでしょうし、「従軍慰安婦」関係の文書はほとんど「」と朱書を入れたリ、「陸密第〇〇号」という「極秘文書」扱いをしていました。そして、そうした極秘文書は敗戦前後にほぼ焼却されました。したがって、たとえ資料がなくても、”官憲等が直接これに加担したこと”を完全に否定することはできないと思います。


 でも、実は、官憲が直接加担したことを窺わせる文書は残されていました。それは、『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』〔女性のためのアジア平和国民基金(財)編)や「従軍慰安婦資料集」吉見義明編(大月書店)や『日本軍「慰安婦」関係資料集成』鈴木裕子、山下英愛、外村大編(明石書店)に取り上げられています。
 また、多くの慰安婦を戦地に送ることになった朝鮮半島には、慰安婦を集める業者に役人や警官が付き添っていたという証言や、 脅したというような証言もあるのです。

 さらに、”軍の直営ではなく、あくまで業者がやったということを述べている資料はあるのです。”ということで、”アメリカ国立公文書館に保存されている連合軍翻訳通訳部局で保存している関係文書”を取り上げるのも、問題があると思います。
 「従軍慰安婦」であった人たちや関係者の証言はことごとく無視し、”日本人捕虜で軍医の証言”は、そのまま事実を語っているものとして受け止めるのはいかがなものかと思います。軍医が米軍の尋問に、正直に慰安所の実態を語れば、当然、本人やその関係者は責任を問われるからです。

 また、戦地の慰安所は、民間人が経営していても、日本兵だけを相手にする慰安所であり、常に軍の管理下にあったことは、諸資料や証言で明らかです。旧日本軍が慰安所の施設を作ったり、整備したり、慰安所の利用時間、利用料金や利用に際しての注意事項などを定めたりしていた資料はあるのです。だから”戦闘中に襲われないように監視するということで、敵対行為が終了すると中止されたのです。”というのは、事実に反すると思います。

 ”このように、軍と独立の民間業者が経営していたという証言はありますが、軍そのものが経営していたという証言はないし、まして官憲が強制連行したり、意思に反して集めることに直接加担したなどということを示す資料はどこにもないのです。

 などと、なぜ言えるのでしょうか。例えば、資料1には、慰安婦の”募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ”とあり、募集に当たる”人物ノ選定ヲ周到適切ニシ”なおかつ、”関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋ヲ密ニシ”とあり、そうしたことが実際に行われたことを示す証言があるのです。
 また、一部地域においてですが、旧日本軍が直接慰安所を経営したことを示す資料も見つかっているのです(資料2)。”陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ、陸海軍ノ直接経営監督スルモノナルニ付、領事館ハ干与セザルベキモ、一般ニ利用セラルル所謂酒保及慰安所ニ就テハ此限リニアラズ”とあるのです。”資料はどこにもないのです。”などとどうしていえるのでしょうか。
資料1ーーーーーーーー
陸軍省兵務局兵務課起案
                                  1938年3月4日   起元庁(課名)兵務課
              軍慰安所従業婦等募集ニ関スル件

         副官ヨリ北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛通牒案

 支那事変地ニ於ケル慰安所設置ノ為、内地ニ於テ之ガ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ラ(コトサラ)ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且(カ)ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞(オソレ)アルモノ、或ハ従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ、或ハ募集ニ任ズル者ノ人選適切ヲ欠キ、為ニ募集方法誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少ナカラザルニ就テハ、将来是等(コレラ)ノ募集ニ当タリテハ、派遣軍ニ於テ統制シ、之ニ任ズル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其ノ実施ニ当リテハ、関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連繋(レンケイ)ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配慮相成度(アイナリタク)、依命(メイニヨリ)通牒ス。
資料2ーーーーーーーーー
        各種営業許可及び取締りに関する三省合同協議会議決事項
 
 昭和13年4月16日、南京総領事館ニ於テ陸海外三省関係者会同在留邦人ノ各種営業許可及取締ニ関シ、協議会ヲ開催シ、各項ニ付キ左ノ通リ決定セリ(南京警察署沿革誌ニ依ル)

                   記
1 期日   昭和13年4月16日午前10時開始 午後5時終了

2 出席者  陸軍側  兵站司令官 千田大佐、第3師団参謀 栗栖中佐、
            第3師団軍医部 高原軍医中佐、
            南京特務機関 大西少佐、
            南京憲兵隊 小山中佐、同 堀川大尉、同 北原中尉
       海軍側  海軍武官 中原大佐、 嵯峨艦長 上野中佐
       領事館側 花輪総領事、田中領事、清水警察署長、佐々木警部補

3 議決事項
(6)軍以外ニモ利用セラルル酒保慰安所ノ問題
 陸海軍ニ専属スル酒保及慰安所ハ、陸海軍ノ直接経営監督スルモノナルニ付、領事館ハ干与セザルベキモ、一般ニ利用セラルル所謂酒保及慰安所ニ就テハ此限リニアラズ、此ノ場合業者ニ対スル一般ノ取締リハ領事館其ノ衝ニ当リ、之ニ出入スル軍人軍属ニ対スル取締リハ憲兵隊ニ於テ処理スルモノトス 尚憲兵隊ハ必要ノ場合随時臨検其ノ他ノ取締ヲ為スコトアルベシ

 要スルニ軍憲領事館ハ協力シテ軍及居留民ノ保健衛生ト、業者ノ健全ナル発展ヲ期セントスルモノナリ

 将来兵站部ノ指導ニ依リ所設セラルベキ軍専属ノ特殊慰安所ハ憲兵隊ノ取締ル処ニシテ、既設ノ慰安所ニ対シテハ兵站部ニ於テ一般居留民利便ヲモ考慮ニ入レ、其ノ一部ヲ特種慰安所ニ編入整理スルコトアルベシ

 右ハ追テ各機関協議ノ上決定スルモノトス

 軍専属ノ酒保及特種慰安所ヲ 陸海共(ママ)ニ於テ許可シタル場合ハ、領事館ノ事務処理ニ便タル為、当該軍憲ヨリ随時其ノ業態、営業者ノ本籍、住所氏名、年齢、出生、死亡其ノ他身分上ノ異動ヲ領事館ニ通報スルモノトス

 

 

 

 

 

 

 

 

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「従軍慰安婦」五つの問題点(藤岡信勝)に対する異論⑤

2020年10月05日 | 国際・政治

 藤岡信勝氏が「国民の油断 歴史教科書が危ない」(PHP文庫)で、「従軍慰安婦」五つの問題点第五として指摘しているのは、下記のとおりです。

最後の五点目ですが、全会社一斉に横並びで入ったということ自体が、きわめて不明朗です。これは教科書業界の談合体質を表わす以外の何ものでもないといえます。もし談合なしに偶然入ったとしたら、これはもっと恐ろしいことです。声の大きいマスコミがつくり出す「空気」にみな右へならえをして、すべての教科書の著者たちが、まるで魔法に操られたように慰安婦のことを教科書に書き込まなければならないと思い立ったとすれば、これほど恐ろしい集団催眠現象はありません。
 事実を検証もせずに、まさにそのときどきの「空気」に従って動く、そのときどきの「空気」に従って教科書がいかようにも変わる、これほど恐ろしい事態はないのではないでしょうか。”

 でも、これは日本や韓国、および国際社会における調査結果に基づく「従軍慰安婦」問題の認識の深まりや、補償請求運動の広がりを、客観的に理解しない藤岡氏の思い込みであると思います。私は、「従軍慰安婦」の問題が、教科書に掲載されるに至ったのは、談合体質などではなく、集団催眠現象などでもなく、また偶然でもなく、必然的なものであったと思います。

 「従軍慰安婦」の問題は、戦後まもない頃から、戦地を知る一部の作家や、ジャーナリストや歴史家が取り上げていたことです。広く知られるようになったのは、元「従軍慰安婦」の人たちが次々に名乗り出て来てから以降でしょうが、名乗り出る前に、「戦場慰安婦」とか「慰安婦部隊」というような言葉で「従軍慰安婦」の問題が語られていたのです。それは、「従軍慰安婦」が、単なる娼婦や売春婦とは異なる存在であったからだと思います。

 そうした事実が、いろいろな所で語られ続け、次第に広く知られるようになり、補償問題に発展していった結果、野党議員による国会での調査要求の追及が始まるのです。日本政府は、当初、「民間業者が慰安婦を軍と共に連れ歩いていたらしく、実態調査はできかねる」という旨の答弁をしたようですが、それを知った韓国の女性団体が、日本の首相に、慰安婦問題に関する政府への六項目の要求を記した公開書簡を送付し、「歴史的事実に反する無責任な発言」であると糾弾するに至ります。

 そして、そうした流れの中で「韓国挺身隊問題対策協議会」が発足し、ソウルの日本大使館前で、日本政府に対する組織的な抗議を行うようになるのです。でも、日本大使館が「韓国挺身隊問題対策協議会」代表の尹貞玉を呼び、”日本軍が強制連行した証拠はない”、”補償は日韓協定で解決済み”と伝え、六項目の要求を拒否したといいます。だから、元「従軍慰安婦」であった金学順さんが名乗り出て、自らの体験を語ります。その後、金学順さんに続いて名乗り出る人が現れ、1991年12月、 金学順さんを初めとする三名の元「従軍慰安婦」を中心とした原告が、日本政府を相手取り、謝罪と補償を求め正式に提訴したのです。

 日本政府は、さまざまな証言や事実の発覚で”民間業者が慰安婦を軍と共に連れ歩いていたらしく、実態調査はできかねる”と言い続けることがむずかしくなり、韓国を訪問した宮沢首相が首脳会談で謝罪し、きちんとした「真相究明」を約束したのです。
 そして、1992年7月6日、日本政府は関係資料を公開し、 第一次慰安婦問題に関する調査結果を発表します。その時、加藤紘一官房長官が”朝鮮人女性の強制連行を裏付ける資料は発見されなかった”としながらも、”慰安所の設置、慰安婦の募集に当たる者の取り締まり、慰安所の経営・監督”などに政府が関与していたこと”を公式に認めたのです。


 また、韓国政府も「日帝下の軍隊慰安婦実態調査中間報告書」を発表し、”日本政府による慰安婦の威圧的連行があった”と主張します。そして、日本政府に追加調査を求めるとともに、日本の歴史教科書への記述と学校教育を通じた”過去の正しい認識”の周知を要請したのです。

 さらに、世界における法の支配の確立や世界人権宣言の規定の完全な遵守を追及する世界三大NGOの一つ、国際法律家委員会(ICJ)が、1993年4月から5ヶ月かけてフィリピン、日本、韓国、朝鮮民主主義共和国で、のべ40人以上の証言者からの聞き取りを行い、また、資料を収集し、1年以上を費やして最終報告書をまとめ発表しました。その日本政府その他に対する勧告は二十一項目にわたるものでした。

 そうした流れの中で、1993年6月 まず高校日本史検定済み教科書に、従軍慰安婦に関する記述が掲載さたのです。
 さらに、8月4日には、日本政府が「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」を公表します。それは『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』〔(財)女性のためのアジア平和国民基金編〕にまとめられています。その時、その後しばしば問題とされる「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」、いわゆる「河野談話」が発表されたのです。そのなかには”われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する”と記されているのです。

 また、国際連合人権委員会で、特別報告者に任命されたラディカ・クマラスワミ氏が1996年「女性への暴力特別報告」(クマラスワミ報告書)を提出します。その附属文書1が「戦時における軍事的性奴隷制問題に関する朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国および日本への訪問調査に基づく報告書」だったのです。その聞き取り調査や文書資料を基にした報告書は、「慰安婦」を「性的奴隷」と規定し、日本の行為を、人道に対する罪であり”奴隷制度を禁じた国際慣習法に違反する”と断定しているのです。そして日本政府に六項目の勧告をしていますが、そのひとつが、”歴史的現実を反映するように教育内容を改めること”というものでした。

 文部科学省が告示する教育課程の基準である学習指導要領や、それに基づく教科書は、毎年変わるものではありませんので、1997年(平成9年)4月から、全国の中学校で使われる社会科(歴史)の全数科書に「従軍慰安婦」の記述が掲載されるようになったことは当然の流れだと思います。調査結果に基づき、日本政府が公式に謝罪したのですから、「従軍慰安婦」の問題が、”全会社一斉に横並びで入ったということ自体が、きわめて不明朗です”などということは全くないと思います。   
 逆に、こうした流れの中のなかにあってなお、「従軍慰安婦」の問題を取り上げないとすれば、国際機関から勧告を受けている重大な人権侵害の歴史的事実を無視することになり、それこそ問題になるのではないかと思います。

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