真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アメリカの日本支配と中国・ロシアに対する姿勢

2022年10月31日 | 国際・政治

 このところ日本の主要メディアは、政府の姿勢に追随して、中国やロシアのあらゆる出来事をプーチン政権非難や習政権の体制批判に結びつけて報道しているように思います。
 ウクライナ戦争の状況を解説するために登場する専門家といわれる人たちも、ほとんど、アメリカの国務省から、あるいは、アメリカに追随する日本政府の官邸から派遣されているのではないかと思うようなことばかり語っているように思います。
 中国共産党大会で胡錦涛氏が途中で退席したことなども、欧米や日本の政権に追随するようなとらえ方で報道しています。いかに信頼関係を回復するか、また、どのようにすれば平和的に問題を解決できるかというような視点がほとんどないと思います。

 「汚い爆弾」の使用についても、しばらく前、ロシアのショイグ国防相が、英仏中などの国防相と電話協議し、ウクライナが使用する懸念があると伝え、プーチン氏が”私が情報を伝えるように指示した”と発言しているにもかかわらず、”ロシアがウクライナの使用を口実に、自ら使うとの懸念が欧米などで浮上している”というようなことを強調して報道をしています。
 そうした欧米の懸念に対して、プーチン大統領が、我々には政治的にも軍事的にも「汚い爆弾」を使う意味はないというような反論をし、”(ウクライナが)準備している場所は、ほぼ分かっている。爆発させ、ロシアが核攻撃をしたと言うつもりだ”と語ったことも、”証拠を示さず主張した”などという言葉を加えて報道し、どのように受け止め、どのように検証するかというようなことを問題として取り上げる様子はほとんどありませんでした。プーチン大統領の発言は「嘘」であり、確認や検証の必要はないといわんばかりの報道です。

 でも私は、戦後のアメリカの対外政策や外交政策をふり返れば、「汚い爆弾」は、自らの覇権や利益を維持するために、中国やロシアを孤立化させ、弱体化させなければならないアメリカの戦略に基づくものであることは確定的だと思います。「汚い爆弾」の使用は、プーチン大統領の主張するように、ロシアが使用すれば一層孤立することになり、政治的にも軍事的にもその効果は期待できないだろうと思います。だからそれは、ロシアを孤立化させ、弱体化させたいアメリカの戦略だろうと思うのです。

 ふり返ればアメリカは、自らの覇権や利益のために、朝鮮に38度線を設けました。そして、南北朝鮮合一の「朝鮮人民共和国」建設の取り組みを進めていた朝鮮の人たちを抑圧し、殺害さえして、独裁者李承晩を立て、南朝鮮単独政府を樹立したことを思い出すべきだと思います。

 またアメリカは、ベトナムでも、共産主義の拡大を懸念して、反共主義者のゴ・ディン・ジエムを支援しました。
 ゴ・ディン・ジエムは、ジュネーヴ協定に基づく南北統一総選挙を拒否し、「ベトナム民主共和国」の樹立に反対した人物です。その目的達成のために、ゴ・ディン・ジエムは弟を大統領顧問に任命して、秘密警察軍特殊部隊を掌握させ、国内の共産主義者を始めとする反政府勢力を厳しく弾圧し、虐殺したのです。


 その後、紆余曲折がありますが、アメリカは、南北の小競り合いに軍事介入し、1964年にはトンキン湾事件を起こして北爆を始めました。トンキン湾事件のでっち上げに関しては、「ペンタゴンペーパーズ」という映画にもなり、多くの人に知られていると思います。
 そして、アメリカは、ベトナムでナパーム弾を使い、有毒な枯葉剤を大量にばらまくとともに、絨毯爆撃といわれる無差別爆撃をくり返しました。アメリカがベトナム戦争で使用した弾薬の量が、第二次世界大戦で使われた全ての量を上回るといわれたことも忘れてはならないことだと思います。

 さらにアメリカは、イラクのインフラを破壊し尽くすような爆撃をしました。理由は、イラクには大量破壊兵器があるということでしたが、見つかりませんでした。国際組織の査察中であり、結果が出ていないにもかかわらず、爆撃を開始したことも忘れてはならないと思います。私は今も、査察の結果が判明するとイラク爆撃ができなくなるからではなかったのか、と疑っています。
 イラク戦争に関し、ラムゼイ・クラーク(アメリカ合衆国の法律家で、ジョンソン大統領のもとで第66代司法長官を務めた人物)が主導して進められた「国際戦争犯罪法廷」の「最終判決」は、尊重されなければならないと思います。
 以前に取り上げましたが、”被告人 ジョージ・ブッシュ、ダンフォース・クエール、ジェームズ・ベーカー、リチャード・チェイニー、ウィリアム・ウェブスター、コリン・パウエル、ノーマン・シュワルツコフ”は、”訴因、平和に対する犯罪、戦争犯罪、人道に対する犯罪または国連憲章、国際法、アメリカの憲法および関連法規に違反する犯罪行為”で有罪なのです。

 19の告発の中には、”アメリカは、軍事目標と非軍事的目標の両方に対し、大量破壊が可能で、無差別殺害と不必要な苦痛を与えるために使用を禁止されている兵器を使用した。”というものもありました。ベトナムで使われたナパーム弾のほかに、気化爆弾や、集束対人炸裂爆弾(クラスター爆弾)、スーパー爆弾などの残虐な爆弾を使用したとあるのです。また、”ブッシュ大統領は、イラク全土にわたって、民間の生活や経済的生産にとって不可欠な施設を破壊することを命令した。”というような告発も見逃せません。

 また、アメリカが自国を守るためではなく、反撃能力を失い、破滅か降伏しか選択肢がなくなっていた日本に、二発の原爆を投下したことも忘れてはならないと思います。

 そして、日本降伏後、巧みに日本を操るために、「逆コース」といわれる政策の転換を行い、公職追放した戦犯公職追放解除して、反共的な戦争指導層を利用する体制をつくったことも忘れてはならないと思います。
 それは、朝鮮における李承晩やベトナムにおけるゴ・ジン・ジェム、フィリピンにおけるマルコス、インドネシアにおけるスハルトなどの支援に通じるものだと思います。いずれも反共的で搾取や収奪を平然と続け、時に、抵抗する者を虐殺した独裁者だったと思います。


 その公職追放が功を奏して、日本国憲法が事実上その機能を停止するような、最高裁判決がだされることになりました。それが、今回取り上げた「砂川裁判」に関わる「最高裁判決」と「日米密約」の問題です。
 「伊達判決」を覆した「最高裁判決」は、戦犯の公職追放解除がなければなかった判決だと私は思います。その最高裁判決によって、日本は法治国家とはいえない国になってしまったといえるのですが、それがまさにアメリカの覇権と利益のために、アメリカが日本に対してとった政策の核心部分だろうと思います。密約による「最高裁判決」で、日本はアメリカの従属国になってしまったということです。

 下記は、「検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉」吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司(創元社)の「はじめに」の部分です。アメリカの対外政策や外交政策が、いかなるものであるかを考え、ウクライナ戦争の真実を知る手掛かりを与えてくれるように思います。
 アメリカに追随していては、ウクライナ戦争の停戦・和解は難しいですし、日本の平和主義に基づく自主的外交も望めないと思います。

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                      はじめに

                                                 吉田敏浩
 本書には、驚くべき事実が書かれています。
 1959年12月16日に、日本の最高裁が出したひとつの判決。それによって、日本国憲法が事実上、その機能を停止してしまったこと。米軍の事実上の治外法権を認め、さまざまな人権侵害をもたらす「法的根拠」をつくりだしてしたったこと。そしてその裁判は、実は最初から最後まで、アメリカ政府の意を受けた駐日アメリカ大使のシナリオどおり進行していたこと。
 この日本の戦後史のなかでも最大といえるような「事件」が、アメリカ政府の解禁秘密文書によって、歴史の闇のなかから浮かび上がりました。困難な調査の末にそれらの文書を発見し、事件の全貌を確実な証拠によって立証したのが、本書の共著者である新原昭治と末浪靖司です。

 最初の重要文書を新原が発見したのが2008年。わずか6年前のことです。ですからほとんどの日本人は、まだこの大事件の全貌を知りません。こうした入門書のかたちで読者の眼にふれるのも、これが初めてのことなのです。
 くわしくは本文にゆずりますが、始まりは1959年3月30日、「砂川事件」に関して東京地裁で言いわたされた、「米軍の日本駐留は憲法第九条に違反している」という一審判決でした。この判決に強い不満を持ったアメリカ政府が、当時のマッカーサー駐日アメリカ大使を通じて、それを早急にくつがえすため、ひそかに日本政府と最高の中枢にまで政治的工作と内政干渉の手を伸ばしたのです。
 マッカーサー大使は、当時の自民党・岸信介政権の藤山愛一郎外相ら外務省高官、田中耕太郎最高裁判所長官と秘密裏に連絡をとりあい、密談を重ね、最高裁で「米軍の日本駐留は違憲ではない」という逆転判決を得るためにさまざまな工作をおこないました。
 そして、なんと田中最高裁長官はマッカーサー大使に、最高裁での裁判日程や判決内容の見通しなどを報告しながら裁判を進めていたということが、前述のアメリカ政府解禁秘密文書によって立証されることになったのです。「憲法の番人」と呼ばれ、公明正大であるべき最高裁の名を、実は長官自らが汚していたのです。
 その後、1959年12月16日に、田中長官が裁判長をつとめる最高裁大法廷では、アメリカ政府の望みどおりの逆転判決が言いわたされることになりました。
 ここで強調しておきたいのは、田中耕太郎・第二代最高裁長官がその職にあったのは、まだ占領中の1950年から、安保改定があった1960年までということ。つまり彼は日本の独立回復後、最初の最高裁長官だったのです。その田中長官がアメリカからの内政干渉を受け、その意向に沿って行動していたわけですから、日本の最高裁は憲法の定める司法権の独立が侵された大きな歴史の汚点を背負っているのです。
 本書をお読みになったみなさんが、この事実を知って驚き、同時に強い怒りをお感じになることを心から望んでいます。この問題を放置し続けるかぎり、日本がまともな法治国家になることも、人びとの基本的人権が十全に保障されることもあり得ないからです。普通の国なら、おそらく問題の全容が解明されるまで、内閣がいくつつぶれてもおかしくないような話なのです。
 最高裁への他国(アメリカ)政府の介入という問題に加えて、この判決はもうひとつ、きわめて重大な影響を戦後の日本社会におよぼすことになりました。それは米軍基地の存在を違憲ではないとするためのロジックとして
「〔安保条約のような〕わが国の存立の基礎にきわめて重大な関係をもつ高度な政治性を有する問題については、憲法判断しない」
 という「統治行為論」が使われたことです。この結果、政治家や官僚たちが「わが国の存立の基礎きわめて重大な関係をもつ」と考える問題について、いくら市民の側が訴えても、最高裁は憲法判断をしなくてもよくなった。政府の違法な権力行使に対し、人びとの人権をまもるべき日本の憲法が、十分に機能できなくなってしまったのです。まさに「法治国家崩壊」というべき状況が生まれてしまったのです。
 近年、日本政府による憲法違反の事例は、米軍基地問題だけにとどまりません。日本経済をアメリカと日本の多国籍企業のために改造しようとする密室のTPP交渉、米軍と自衛隊の合同行動のための秘密保護法制定、アメリカと共に戦争をできる国にするための集団的自衛権の行使に向けた解釈改憲など。その背後にはいずれもアメリカの利益と、それに呼応して自らの地位を維持しようとする歴代政権および官僚たちの思惑が見え隠れしています。
 そこには日米両政府の一種の「共犯関係」が成立しているといっていいでしょう。アメリカ政府が日本の外務大臣や最高裁長官などとひそかに接触し、望み通りの判決をださせた1959年の最高裁での「砂川裁判」は、そのような構図のいわば原型といえるのです。
 そして、自民党・安倍政権はなんとこの「砂川裁判」最高裁判決を、集団的自衛権行使の正当化のために持ち出しています。しかし、同判決は集団的自衛権を認めているわけではなく、全くのこじつけです。しかも、この判決はアメリカ側の干渉による黒い霧でおおわれているのです。
 それでは、これから歴史の時計の針を55年前の1959年3月、アメリカ政府による「砂川裁判」への秘密工作が始まった時点にもどして、「法治国家崩壊」の軌跡を検証してゆくことにしましょう。

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朝鮮戦争、アメリカの正統性は? だから、ウクライナ戦争も・・・

2022年10月26日 | 国際・政治

 ロシア軍が一方的にウクライナに侵略したとされているウクライナ戦争は、実はそれほど単純な侵略戦争などではなく、ヨーロッパ諸国に対するアメリカの覇権や利益を維持するために、ロシアの孤立化、弱体化を意図して、アメリカが画策した戦争であるという側面を見逃してはならないと思います。

 1989年の冷戦終結に伴い、1991年3月にワルシャワ条約機構はその軍事機構を廃止しました。そして、7月に正式に解散しました。しかしながら、ワルシャワ条約機構に対抗していた北大西洋条約機構(通称NATO)は廃止も、解散もされず残されました。それは、アメリカがヨーロッパ諸国に対する影響力を維持するためであったといわれています。

 戦時中からアメリカがソ連の影響力拡大を恐れていたことは、先だって取り上げた朝鮮の38度線での分割占領案でも明らかだと思います。ソ連軍の急速な南下によって、朝鮮全域がソ連軍に占領されることを恐れたアメリカは、ソ連参戦直後の1945年8月10日、夜を徹して「三省調整委員会」を開き、38度線での分割占領案(後に「一般命令第一号」として世に出ます)を作成し、ソ連に提起したのです。

 そして、南朝鮮を占領したアメリカが、軍政庁を設置して何をしたのかを踏まえれば、ウクライナに対しアメリカがどのように関わり、何をしているのかを理解したり、どんなプロパガンダが流布されている可能性があるかを考える手掛かりが得られるのではないかと思います。

 アメリカは38度線での南北朝鮮の分割占領を提起したのみではありません。
 その後、アメリカは、すでに建国準備委員会によって進められ、”全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名による、全国人民代表社会において、南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議”していたにもかかわらず、その「朝鮮人民共和国」の独立を受け入れず、南朝鮮単独政府の樹立に動いているのです。それは、米英ソ三国外相会議で合意された「モスクワ議定書」の内容にも反するものであったと思います。圧倒的多数の朝鮮の人たちも、国際社会も南朝鮮単独政府の樹立など望んではいなかったと思います。

 だからアメリカは、独裁者李承晩を担ぎだし、反民特委(反民族行為特別調査委員会)の断罪の対象である総督府時代の官吏や、高級官僚を利用して、共産主義者や社会主義者はもちろん、人民共和国派の政治家や活動家を弾圧し、拘束し、虐殺をくり返したのだと思います。
 ”米軍が避難住民に機銃掃射をくわえ死亡させた「老斤里(ノグンリ)事件」(忠清北道永同郡)も同じ頃に起こっている”というような記述を見逃すことはできません。

 また、下記には、
38度線でも南北の正規軍による小競り合いや陣取り合戦が絶えなかった。当時は南側に属していた開城付近での戦闘(49年5月)や西海岸に突き出た甕津(オンジン)半島での戦闘(9月)など、小競り合いの域を超えた数千人規模の攻防も起こっている。これら38度線を越えた奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった。
 とあります。

 日本では、朝鮮戦争については、北朝鮮軍の越境攻撃が発端であるとされていますが、ウクライナ戦争と同じように、それほど単純な一方的侵攻や侵略などではないといえるように思います。
 また、北朝鮮軍の南進に、ソ連軍や中国軍は加わっておらず、客観的に見れば、それは朝鮮国内の内戦であったと思います。したがって、米軍や国連軍が、李承晩政権を支援して北朝鮮軍を攻撃する武力介入は、不当であったと思います。
 さらに、
 ”追い詰められたマッカーサーは、原爆の使用や台湾軍の中国侵攻を主張してホワイトハウスの首脳部と対立し解任される
 というような記述も見逃すことができません。恐ろしい武力主義だと思います。
  
 ソ連軍は、アメリカ軍と違って、北朝鮮占領の直後、”南北朝鮮を合一した「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立”を承認していたことも見逃してはならないことだと思います。
 歴史の歪曲やプロパガンダを、多数意見に基づくものとして追認してはならないと思うのです。客観的事実や、地域住民の本心を知ることが大事だと思います。
 金時鐘という作家が、当初解放軍として歓迎された米軍が、蓋をあければ、日本軍と変わらない占領軍だったというようなことを書いていたのを忘れることができません。
 
 だから、ウクライナ東部のルハンスク、ドネツク、南部のザポリッジャ、ヘルソンの各州で行われた「住民投票」で、ロシアへの編入に対する賛成票が多数を占め、プーチン大統領が四州の併合を宣言したことをもって、今まで以上にロシアを強く非難し、ウクライナ軍支援の方向性に走ることに、私は同意することはできません。
 「住民投票」に、言われているようなロシア兵の力が働いていたかどうか、投票結果が、住民の思いに沿ったものかどうか、しっかり確認して、あくまでも停戦・和解の方向で対応してほしいと思うのです。
 朝鮮では、圧倒的多数の人たちの思いを潰すかたちで、戦争が始められ、
和田春樹の算定によれば、北朝鮮側には死者・行方不明者、南への難民などによる人口の損失が272万人、韓国側には133万人あったとされる
 とあります。アメリカが軍事介入しなければ、これほど多数の犠牲者が出ることはなかったと思います。
 下記は、「新・韓国現代史」文京需洙(岩波新書1577)から抜萃しました。
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                  第1章 解放、分断、戦争

                3 朝鮮戦争とその社会的帰結

 開戦までの状況
 大韓民国が成立し、これに対する済州島や麗水での反乱が鎮圧されたとはいえ、李承晩政権は一向に安定しなかった。単独選挙による制憲国会(200議席)で多数派(85議席)を占めたのは、少壮派(ソジャンパ)と呼ばれた改革志向の無所属議員たちであった。李承晩直系の大韓独立促成国民会は55議席、韓国民主党も29議席、李範奭(イボムソク)らの右翼も18議席とまったくふるわなかった。そもそも、憲法づくりをめぐる論戦で李承晩は自身に有利な大統領制を主張してゆずらず、ついにこれをもぎとった。だが、大統領の選出権は国会にあるとされ、その権限は国会によって大きく制約されていた。しかも、それまで提携関係にあった李承晩と韓国民主党も国務総理の指名問題で決裂し、李承晩の国会での足場をさらに狭くした。
 少壮派は、駐韓米軍撤退や反民特委(反民族行為特別調査委員会)による親日派の断罪、さらに統一問題などで李承晩に攻勢をしかけた。新政府の行政、法曹、警察には日帝時代の下級官吏7万人余りが再登用され、政府の要職には反民特委の告発対象となる植民地時代の高級官僚30人余りが含まれていた(白ウンソン)「李承晩統治の評価──分断と民主主義」)。反民特委による活動は、そういう李承晩の政権基盤を大いに揺るがしたのである。

 窮地に立った李承晩はあ、49年6月、ソウル市警に反民特委を襲撃させる一方、「国会フラクション事件」(少壮派議員13名を南労党の工作員だとして逮捕した事件)をでっち上げて少壮派に反撃した。共産主義と内通したとのでっち上げや、警察や右翼をつかった力づくでの封じ込めは、李承晩が政敵追い落としのためにその後くり返して用いる手法であった。同じ6月におきた金九暗殺も李承晩の指図によるものだとされている。すでに前年11月には「国家保安法」が制定され、反共の名の下に政敵を合法的に追い落とすための制度的手段もととのう。

 一方で智異山に立てこもった3500人から6000人と推定されるゲリラが全羅道から慶尚道にかけての広い範囲で遊撃戦をくりひろげていた。38度線でも南北の正規軍による小競り合いや陣取り合戦が絶えなかった。当時は南側に属していた開城付近での戦闘(49年5月)や西海岸に突き出た甕津(オンジン)半島での戦闘(9月)など、小競り合いの域を超えた数千人規模の攻防も起こっている。これら38度線を越えた奇襲攻撃のほとんどは韓国軍によるものだった。李承晩は「北進統一」を叫んでしきりに北を挑発した。「北進統一」の決行を阻んでいたのはアメリカだった。49年6月に軍事顧問だけを残し朝鮮半島から撤退したアメリカは、この地でことがおこることを望んでいなかったのである。
 一方、北朝鮮の側でも事情はよく似ていた。49年3月、モスクワを訪れた金日成は、「全国土を武力解放する」ための「機が熟した」とスターリンに進言している。だが、スターリンは、「ソ連と米国の間にいまだ38度線分割協定が有効であることを記憶しなければならない。これにわれわれが先に違反すれば米国の介入を防ぐ名分がない」と反対した(和田春樹「朝鮮戦争全史」)。49年には北朝鮮の民主基地の基盤がかたまり、智異山での遊撃戦や中国内戦の状況も北朝鮮を”解放戦争”へと誘引していたのである。

 中国革命の勝利(49年10月)は、金日成の”解放戦争”への情熱を決定的なまでにかきたてることになる。49年7~10月には中国内戦で実践経験をつんだ精鋭の朝鮮人部隊が北朝鮮に帰った。さらに50年2~3月にも4万から5万人が帰還し、さしせまった朝鮮半島での内戦にそなえている(B・カミングス『現代朝鮮の歴史──世界の中の朝鮮』)。4月から5月にかけて金日成と朴憲永はモスクワと北京をあいついで訪問している。その際、二人はようやく、建国以来の悲願といえた”解放戦争”へのゴーサインをスターリンと毛沢東の双方からうけとったのである。
 朝鮮戦争は、こうして50年6月25日早朝(午前4時)、北朝鮮の人民軍が甕津半島で攻撃に出たことから始まった。だが、それは不意打ちというよりは、1年以上におよぶ”低強度戦争”の本格内戦への移行というべきものだった。

 朝鮮戦争下の虐殺・テロ
 甕津に始まった攻撃は、日が昇る頃には開城、春川など38度線の主要地点に及び、人民軍は、まさに破竹の勢いで南進した。韓国軍は総崩れで敗走し、人民軍はわずか4日目でソウルを占領する。さらに3ヶ月目には、韓国の90%の地域(人口の92%)を占領し、大邱・釜山を囲む慶尚道の一角のみが残された。これに対してアメリカは、中国の代表権問題でソ連がボイコットしていた安保理の決議を得て、国連軍の名の下に参戦し、戦争は第二局面に移る。9月15日、米軍を主力とする国連軍は、261の艦船と7万5000人の兵力を動員して仁川に上陸作戦を敢行した。人民軍は敗退し、28日にはソウルが奪還された。勢いづいた国連軍は、10月、38度線を越えて北進し、28日には平壌を占領、さらに人民軍を中国国境付近まで追い詰めていく。
 これに対して10月19日、中国軍(人民志願軍)が18万人の兵力を投入して参戦(11月には12万の兵力が追加投入される)して戦争は第三局面へと移り、内戦は異なる体制間の国際紛争となった。数に勝る中・朝軍は、米・韓軍(国連軍)を押し返し、12月6日には平壌を奪い返した。中・朝軍の反撃は38度線を越えてつづいた。年が明けて51年1月4日には、ソウルをふたたび占領してさらに進撃するが、37度線付近での米・韓軍の猛反撃にあって戦線は膠着した。
 追い詰められたマッカーサーは、原爆の使用や台湾軍の中国侵攻を主張してホワイトハウスの首脳部と対立し解任される。2月米・韓軍が総反撃し、戦争は第四局面となり、3月14日にはソウルを再び奪い返した。その後、38度線付近で両軍の一進一退のもみあいが続くが、51年6月、ソ連が休戦を提起する。休戦交渉は、北進統一に固執する李承晩の抵抗や捕虜の送還問題なあどで2年余りも引き伸ばされ、53年7月27日、ようやく停戦交渉が調印された。
 こうして3年余りにわたってつづいた戦争が南北朝鮮にもたらした人的・物的被害ははかりしれない。大雑把に300万人とされる犠牲者数も、実は、資料によってまちまちである。
 人口センサス(国政調査)から割り出した和田春樹の算定によれば、朝鮮戦争によって北朝鮮側には死者・行方不明者、南への難民などによる人口の損失が272万人、韓国側には133万人あったとされる(和田春樹『朝鮮戦争』)。米軍の犠牲者(死者)は公式発表で3万3629人であり、国連側は中国軍の戦死・行方不明・捕虜などによる損失が90万人に達すると推定している。さらに戦争の混乱でちりぢりに離散した家族は1千万人におよぶといわれる。
 戦争は、多くの非戦闘員を巻き込み、済州島での虐殺が朝鮮半島全域で再現される形となった。戦争が始まるやいなや犠牲になったのは、政治犯や、左派の経歴のある予備検束者、そして左派の懐柔や統制を目的につくられていた国民保導連盟のメンバーたちであった。韓国軍は敗走しながらも、保導連盟員を韓国のほぼ全域で虐殺した。保導連盟員として、虐殺された住民の正確な数字は明らかではないが、忠清北道だけでも連盟員1万人余りのうち3000人が殺害されている。全国で連盟員として登録されていたのは33万人であった(韓知希「1949~50年、国民保導連盟結成の政治的性格」)

 7月初めには、大田刑務所に収監されていた政治犯1800人が集団虐殺され、大邱、釜山の刑務所でも同じような虐殺があった。早期に人民軍が掌握した刑務所(ソウル・仁川など)以外では、そういう虐殺があった可能性がたかい。さらに、米軍が避難住民に機銃掃射をくわえ死亡させた「老斤里(ノグルリ)事件」(忠清北道永同郡)も同じ頃に起こっている。
 保導連盟員や政治犯に対する大量虐殺は、北朝鮮占領地での過酷な粛清や報復テロの動機や口実にもなった。逃げ遅れた韓国政府や民間右翼団体の関係者は”反動”として”人民裁判”や”粛清”の対象となった。さらに、「革命的テロが少数の反動を超えて一般人にまで拡大する組織化されたテロに変質した」(朴明林『韓国1950──戦争と平和』)。ある韓国側の資料(広報処統計局『6・25事変被害者名簿(其一)』)によると、「残忍非道な傀儡徒党」(人民軍と左翼)に殺害された「非戦闘員」の数は6万人近くにも及ぶ。
 国連軍が参戦にふみきった頃(50年8月)、洛東江付近で戦線が膠着し、人民軍は補給戦が南に伸びきって本隊の後方を脅かされ、窮地に立たされる。米軍は人民軍に占領されたソウルを猛爆撃し、韓国側の資料でも4000人以上が死亡している。この進退窮まる状況で金日成は、「部隊内に混乱をひきおこし、武器を捨て、命令なしに戦場を離れるものたちは、職位のいかんを問わずすべて人民の敵であり、その場で死刑にする」との命令を下した。(萩原遼『朝鮮戦争──金日成とマッカーサーの陰謀』)。
 仁川上陸作戦以後、北に敗走する人民軍は韓国軍の捕虜や”反動分子”を大量に虐殺した。数値は定かでないが、平壌では1800人、元山では500人、咸鏡道の咸興一帯では1万2700人が虐殺されたといわれる(朴明林『韓国1950──戦争と平和』)。一方、北朝鮮も、米・韓軍の北朝鮮への侵攻と占領にともなって10万人以上の住民が各地で虐殺されたと主張している。とりわけ黄海南道の信川郡(シンチョン)では住民の四分の一にあたる3万5383人が米軍によって虐殺されたという。だが、近年、この「信川虐殺事件」は米軍によるものではなく、米・韓国軍の反撃の報に接して蜂起した反共右翼によるものであるとの説が有力である。作家・黄晳暎(ファンソギョン)は、この「信川虐殺事件」を素材とした作品(「客人」を通じて、住民を悪魔として大量虐殺したプロテスタントたちの心の闇を描いている。
 戦線の後方では韓国軍による住民虐殺が各地でおこっている。人民軍残留兵パルチザンの討伐作戦を展開していた韓国軍第11師団は、山清、咸陽、居昌などの各地で無辜の住民を虐殺し、これを「共匪討伐」の戦果としたのだった。慶尚南道居昌郡では14歳以下の子供385人を含む19人が、殺害されている(居昌事件)。
 最大の民間人虐殺は、制空権をもつ米空軍の無差別爆撃によるものであったかもしれない。緒戦での破竹の南進にもかかわらず、北朝鮮軍は7月には制空権を失い、ソウルはB29による猛爆をうけた。北朝鮮地域に対する爆撃は、38度線付近で戦線が膠着し、休戦交渉が始まった51年以降も続いた。

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南北統一「朝鮮人民共和国」を潰した李承晩とアメリカ軍政庁

2022年10月22日 | 国際・政治

 朝鮮総督府の政務総監、遠藤柳作は、1945年8月15日正午、ポツダム宣言受諾を告げる天皇の無条件降伏放送がソウルの市街に流れる日の早朝に、進歩派の民族主義者、呂運亨に日本降伏後の治安の維持を委嘱しています。だから、呂運亨は、遠藤政務総監との話し合い後、直ちに自宅に何人かの指導的人物を召集し、その日のうちに、「建国準備委員会(建準)」を組織することを決定しています。
 その結果、建国準備委員会は、アメリカ軍先遣隊の仁川上陸が二日後に迫った9月6日には、全国の南北各界各層を網羅した代表一千数百名の中心的人物をソウルに召集して、全国人民代表者会を開催し建国準備委員会を発展的に解消して、「朝鮮人民共和国」を国号とする国家の創建と、新朝鮮国民政府の樹立を決議していました。

 でもその時には、アメリカは、すでにソ連対日参戦後のソ連軍の急進撃を受けて、朝鮮半島を北緯38度線で横に割って、米ソ両軍が分割占領し管理することを決定していたのです。それが、アメリカの覇権と利益のためであることは誰の目にも明らかだろうと思います。
 だからアメリカは、南北朝鮮の人たちが一致して決定した「朝鮮人民共和国」の発展を支援するのではなく、それを潰すために李承晩を担ぎだし、多くの反対の声があるにもかかわらず南朝鮮単独政府を樹立したのです。そして李承晩とともに、南北朝鮮の統一と独立を進めようとする人びとを弾圧し、殺害するような蛮行さえはたらいて、南朝鮮を事実上支配下に置いたのです。
 そのアメリカの朝鮮支配の方法は、戦犯の公職追放を解除し、旧支配層戦争指導層)を復活させた日本における「逆コース」といわれるGHQの政策と同じではないかと思います。

 世界的な言語学者であり、哲学者であるノーム・チョムスキーが、ラテンアメリカ諸国に対するアメリカのかかわり方を踏まえて、「アメリカは世界一のならず者国家」と指摘したことが、戦後の朝鮮半島におけるアメリカのかかわり方にも当てはまると思います。

 そういうアメリカの対外政策や外交政策を、いろいろ確認しながらウクライナ戦争を見つめると、バイデン大統領の発言や、アメリカのウクライナに対する関わり方に、数々の問題があると気づくと同時に、ウクライナ戦争に関して、アメリカの関与に目を閉ざし、ロシアの問題ばかりを取り上げる日本のメディアの報道の偏りにも気づくのではないか、と私は思っています。 

  朝日新聞の、10月20日天声人語に、
第75回新聞大会が先日あった。平和と民主主義を守るために「ジャーナリズムの責務を果たす」との決議がなされた。一端を担う者として、かみしめたい。
 とありました。でも残念ながら、日本のジャーナリズムは、ウクライナ戦争の報道に関する限り、ジャーナリズムの責務を果たしているとは思えません。

 最近私は、新型コロナワクチン接種の安全性の問題についても、疑問を感じています。日本の主要メディアはあまり報じませんが、Pfizer社などのワクチンの毒性について、いろいろな専門家の指摘があり、その情報がSNSで広がっているからです。
 また、新型コロナワクチン接種後に死亡した人のことや「新型コロナワクチン被害者遺族会」が結成されたことが、主要メディアで余り報道されないからです。
 輸入したワクチンの接種がくり返されていますが、ほんとうに必要なのかと問うことや、接種後死亡した人たちや重篤な副反応に苦しめられている人たちが少なくないことを問題として取り上げることが難しいのではないか、何かプレッシャーがあるのではないか、と私は疑っています。 

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から、「第4章 南北政権の樹立と一般情勢」の「(一) 揺れ動く南北社会」と「(七) 韓国政府の反共対策」と「(八) 祖国戦線と金九暗殺」を抜萃しました。
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               第4章 南北政権の樹立と一般情勢

               第五節 朝鮮戦争直前の韓国情勢

 (一) 揺れ動く南北社会
 1948年8月15日に南朝鮮地域(ほぼ現在の韓国領域)に樹立されて、同年12月12日の国連総会決議により国際的承認をうけた韓国政府とその社会は、しかし、政府樹立当初から深刻な社会的矛盾を激化させつづけていた。
 すなわち、1945年9月に上陸を行い南朝鮮を占領下においたアメリカ軍は、直接軍政を施行し、その軍政統治を48年8月8日、新共和国が組織され大韓民国政府に行政権を委譲返還するまでの3年間、アメリカ外交政策の主旨と利害のもとにこれを継続した。
 この間、アメリカ軍は日本の戦争経済強行による収奪で疲弊し切った南朝鮮にある程度の経済・物資援助を与えたが、一方では、上陸早々から38度線警戒線の設置、港湾、飛行場、軍用道路、兵舎などの軍事施設を拡張新設し、南朝鮮青年を米式火器により訓練武装させ、軍事的地歩を打ち立てた。また政治的にも、旧朝鮮人統治機構である朝鮮総督府組織の行政・警察機構をその制度と人員ともに継続利用して軍政統治の道具として活用した。また南朝鮮総資産額の80%に達するともいわれた旧敵性資産(日本が収奪した資産)を1946年1月の軍政庁命令によって接収し、それをアメリカ政策の下で運用・配分した。また日本植民地政策の先兵として日本の朝鮮収奪のための国策会社であった東洋拓殖会社は「新韓公社」と名を改めて存続させ、かつての日本に代わる形で、アメリカの強制的支配権が南朝鮮に施行される結果となっていた。

 その結果、旧体制の既得権益層、あるいは旧日本植民地時代に朝鮮総督府等に雇用されていた朝鮮人官吏、朝鮮人警察官等が解放後社会においても公然と復活して社会的主導権を握る経緯となった。また旧時代以来の、地主階級が貧農・小作人を厳しい雇用・小作条件で働かせるという土地所有、社会階級関係の近代化もなされなかった。そのいわば、旧体制(アンシャンレジューム)勢力は、李承晩、金九のような国外亡命から帰還した民族主義運動家をリーダーに祭り上げることによって、アメリカ軍政の与党的立場を確保しながら、右翼勢力として新しく再編される展開となっていた。そして、それは48年8月の大韓民国樹立によって、新国家での右派勢力のみで構成された新政府の支持勢力として、ここで韓国社会における実権を公然掌握する結果なったのである。

 すなわち、1945年8月15日時点において、南北を問わず全朝鮮市民が願望していたのは、旧日本統治時代の社会的不正の是正、あるいは不労地主と貧窮小作人のような土地所有関係に代表される封建的残滓の清算であり、ある意味では新生民族国家としての社会の抜本的改革であるとされた。
 だが、南朝鮮のちの韓国においてはアメリカ軍政の後ろだてにより、旧体制勢力がその基本的制度とともに依然として継続される結果となった。一方、北朝鮮においては、旧体制の清算と土地改革を含む旧社会の抜本的改革は為されたが、それがソ連勢力の濃密な影響下において共産主義勢力単独の権力掌握と反対勢力の排除という形で為されたのである。しかし、経済原理において、共産主義的経済理論での中央集権的な計画経済の手法は、農業的社会から工業的社会への移行を望む段階の初期的な後進諸国にはきわめて有効であり、解放後北朝鮮社会は、南朝鮮社会あるいは48年以後の韓国社会と比較して、着々と社会改革と経済復興が進捗していた。

 (七) 韓国政府の反共対策
 また、韓国においては、すでに米軍政庁時代以来、共産党は事実上非合法化していた。韓国政府の成立後には、その反共政策が一層徹底していた。韓国の各地では、反政府分子の逮捕が行われ、また北朝鮮を賛美し、韓国政府に批判的な新聞数紙も発行を停止させられた。
 特に麗水・順天事件以後には、反体制派を粛清しようとする政府の態度は極めて強化した。李承晩大統領は1948年11月初め、この反乱事件をうけて、政府はまず各学校、中央や地方の政府機関、社会団体の指導者以下男女児童にいたるまで残らず思想調査を行い、反逆思想の蔓延を防ぐ談話を発表した。
 一方、ソウルの首都警察庁は同48年11月5日、非常警戒を行うとともに、社会民主党党首呂運弘、韓国独立党宣伝部長厳恆燮、合同通信社主筆を含む約500名を検挙した。これは11月7日のソヴィエト革命記念日に前後して、暴動を企てているのを探知したためと称されたが、尹致暎内務部長官は1500名の逮捕が予定されていると語り、取り締り、弾圧の大規模なことを示唆した。

 また、麗水、順天の反乱事件を直接の契機として制定され、共産党を完全に非合法化した思想犯弾圧法である国家保安法が施行された48年12月1日以降は、反政府分子の処分はもっぱら同法によって相ついで行われた。
 ソウルでは12月3日の朝、反体制派700名が一斉に警察に逮捕された。また、韓国政府は4日には、政府管轄下の一切の政府機関、団体、銀行、会社から、忠誠ではない左翼分子を一掃することに決定した。李範爽国務総理はこれに基づき、全政府機関が全職員の忠誠調査を行うよう命令を発した。さらに12月7日には、政府は共産分子および反政府分子追放の手を学校にものばし、反政府的な政治信念を抱く教師の罷免を命令した。また、韓国軍参謀長崔秉徳が49年3月3日に発表したところによれば、軍当局は反乱事件以後思想不穏分子を軍隊内から一掃するため、将校170名、兵1026名を粛清したとされた。

 このような、韓国政府の反政府分子に対する取締りは1949年にはいっても引き続き行われた。 
 その主なものとしては、まずソウルの首都警察庁は49年1月3日、過去数日間に右派指導者の暗殺を計画中であったと称して、400名の共産分子を逮捕したと発表した。ついで、ソウルおよび仁川の主要建物に放火し、政府要人を暗殺することにより、韓国の撹乱を謀ろうとした左翼勢力の3月攻勢が発覚したとして、南朝鮮労働党、人民共和党、民主愛国青年同盟等の非合法組織に属する指導者40名がソウル市警察局に逮捕された。また、左翼系の地下新聞2紙が没収された。3月30日、ソウル市警察局長は、ソウル市内で南朝鮮の労働党員をはじめ190名の共産分子を検挙し、目下取調中であると発表した。さらに、メーデーをひかえてソウル市警察局は、4月26日から28日までの間に、朝鮮労働組合全国評議員会系労働者100名を検挙した。8月3日には、ソウルの新聞記者グループが検挙された。これらは南朝鮮労働党に入党していたいわれ、国会、政府、政党、言論界等各方面の情報を出入り記者として収集していたといわれた。

 同49年8月15日の韓国独立一周年記念日に前後して逮捕された左翼分子は、京畿道だけで487名にのぼった。南朝鮮労働党ソウル支部執行委員会の副委員長以下5名は9月16日、逮捕された。そして、警察内で南朝鮮労働党脱退宣言を発表するとともに、南朝鮮労働党は9月20日の全朝鮮選挙ということで武装蜂起の開始を指令していたが、最近の相つぐ検挙旋風で、この計画は実行不可能になったと警察で、転向表明をした。
 韓国政府の法務部が発表しところによれば、韓国の49年1月から9月末までの起訴裁判件数は32,329件で、その8割までが国家保安法違反事件であった。

 (八) 祖国戦線と金九暗殺
 だが一方、1949年5月12日、韓国内の政党および社会団体の8団体は、北朝鮮の民主主義民族戦線中央委員会にたいし、祖国統一民主主義戦線の結成を提唱した。中央委員会は16日に回答し8団体の提唱に応じた。6月25日、祖国統一民主主義戦線結成大会が平壌で開かれ、南北から71政党および社会団体を代表する704名が集まった。大会は、祖国戦線の綱領を決定したが、それは平和の方法で祖国統一を解決すると述べていたが、李承晩政権の打倒も明確に打ち出していたものだった。
 だが、この大会に民族主義者の立場から参加していた、かつての中国重慶亡命政府の李承晩主席であり、帰国後は右派の有力指導者として南北協商路線を進んでいた韓国独立党首の金九は、1949年6月26日、平壌での祖国統一民主主義戦線結成大会からソウルに帰ったところを、陸軍少尉安斗煕によって暗殺された。これは一般に李承晩派によるライバルの抹殺と考えられており、この事件には国防長官申性模、憲兵司令官田奉徳がかかわっていたことも当時噂されたが、暗殺者安斗煕は短期の拘束ののち釈放されて、政府当局と軍の保護のもとに、やがて全羅道有数の資産家となることになった。だが、金九暗殺により 、祖国戦線の活動は、早くも大きな打撃を受けた。この祖国戦線による平和統一との宣伝活動は、以後も強力にすすめられ、韓国社会あるいは50年5月30日の韓国総選挙にもある程度の影響(李承晩派72・野党137の逆転)を与えたとみられた。

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アメリカの支援、ゼレンスキー大統領と李承晩大統領

2022年10月19日 | 国際・政治

  最近、Yahooトップ画面のニュース下欄に、「ロシア通で知られる日本維新の会の鈴木宗男参院議員(74)が〇〇日、自身のブログを更新した。」として、鈴木宗男氏の主張を批判する記事が出ています。
 先日は、
<鈴木宗男氏 批判受けても貫く“ロシア擁護”…米英のロシア劣勢情報に「本当なのか」と疑念 10/18(火) 6:01配信>と題して、下記のような記事が出ていました。

”これを受けて鈴木氏は16日にブログを更新し、《ロシアが劣勢とか追い詰められているという情報が、アメリカ、イギリスの情報筋から流れ、日本のメディアはそのまま流しているが、その情報は本当に正しいのかとふと考える》と持論を展開した。
 さらに、《後2カ月もすれば、どこの情報が正しかったか、テレビに出ている軍事評論家、専門家と称する人たちの発言が正確であったかどうか、はっきりすることだろう》と続けた鈴木氏。
《ウクライナの国防省は『ロシアが持つミサイルの3分の2を使用し、ロシアはミサイル不足』と指摘している》とし、《ならばウクライナはアメリカからのミサイル供与を止めて停戦すべきではないか。自前で戦えないなら即刻止めるべきである》とも主張した。
 侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻。しかし、鈴木氏はこれまでにも“ロシア擁護”ともとれる発言を繰り返してきた。
「7日にウクライナのゼレンスキー大統領が北方領土を日本領と認める大統領令に署名したことが明らかになりましたが、鈴木氏はブログで《単純に考えれば日本を支持する立場のように見えるが、有難迷惑な話である》と真っ向から批判しました。
 また、6月にも武器を供与してほしいと求めるゼレンスキーに対し、“自前で戦えないのならウクライナ側から第三国に停戦の仲立ちをしてもらうべき”とし、ウクライナの“名誉ある撤退”を呼びかけています。また、ウクライナが戦闘を続けることで世界的に物価が上昇しているとの私見を述べ、波紋を呼んでいました」(政治部記者)
 一貫してロシアに対し肯定的な発言を繰り返す鈴木氏に、インターネット上では厳しい声が寄せられている。
《米英の情報に疑いを持つのは勝手だが、ロシア発の情報には持たないのでしょうか。ここまでくると、ロシア教の強い信者のようだ。「停戦」、簡単に言うが、ウクライナ側から「どうぞ、ロシア様降参します」と言えと提案しているのかなあ。「2ヵ月すれば・・・」・今年中だよね。気にしていますので、2か月後に鈴木さん、必ず発信してください。》
《鈴木さん、言ってることが支離滅裂ですよ。米英の情報ではロシアの劣勢を伝えられているが、2か月後の戦況は間違っていることが証明されると言及しながら、ウクライナが自前の軍備で闘えないなら、降伏して速やかに戦争を終わらせとあるが、侵略戦争を始めたのはロシアで「降伏・戦争終結」を訴える相手国はロシアのプーチンである。これまでの経緯を正しく理解をすることを望みます。》
《鈴木氏のロシアによる侵略行為に対する見解は分かった。これに対して維新はどのような考えなのだろうか。次の選挙の参考にするから維新のロシアによる侵略行為に対する見解をはっきりさせてほしい。》

 私は、《 》内の文章が、ウクライナ戦争にかかわる客観的な事実や証拠に基づいていないので、あまり内容のない批判のように思いました。
 私は、日本は、日常的にアメリカのプロパガンダの下にあり、ウクライナ戦争に関しても、アメリカ・ウクライナ発の情報を軽信してはいけないと思っています。
 筆者は、鈴木宗男氏を
”ロシア教の強い信者のようだ”というのですが、私は逆に、自らが”強いアメリカ教の信者”だから、そう感じるのではないかと思います。
 まず、”
侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻”というとらえ方も、アメリカ側の主張であり、ロシア側の主張を考慮したものではないと思います。
 国連憲章第2条の3に
すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。
 とあります。4には、
すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
 とあります。NATOの東方拡大やロシア付近での軍事演習、また、ウクライナへの武器の配備は、明らかなロシアに対する威嚇であり、国際法に反するものだっただろうと思います。また、バイデン大統領の次男が、ウクライナの
大量破壊兵器配備計画に関与しているというような情報も、ロシアを威嚇するものであったのではないでしょうか。 
 さらに、2014年以来、親露派の人びとが多く住むウクライナのドネツク州とルハンシク州に対するウクライナ軍の武力攻撃は、”
侵攻が始まった当初から国際法違反であると指摘されているロシアの一方的な軍事侵攻”というとらえ方には、問題があることを示しているのではないでしょうか。
 2022年2月24日にロシア軍がウクライナに一方的に侵攻したといわれていますが、
ドンバス戦争が、ロシアを巻き込んで、ウクライナ政権の領土内に拡大したというとらえ方もできるのではないでしょうか。2022年2月24日、プーチン大統領が、NATO諸国は、”レッドラインを越えた”と指摘した演説の内容は、なぜ考慮されず、無視されているのでしょうか。

 鈴木宗男氏の「
欧米も武器供与、資金援助も止め、話し合いの環境整備を作って行くことが必要だ。いつも言うことだが、紛争が長引くと子供、女性、お年寄りが一番の犠牲になる。それぞれ世界でたった一つの命であることに変わりない。一にも二にも停戦である」とか、「岸田総理が旧統一教会に対し大きな決断をしたように、ウクライナ紛争でもアメリカに武器を供与するな、ロシアもウクライナも銃を置けとイニシアチブを発揮してほしいと願ってやまない」という主張は、間違っていない、と私は思います。停戦・和解が、何により優先されるべきだと思います。

 ウクライナ戦争開始以来、私は、情報の少ないウクライナ戦争の正しい理解に役立てたいと思い、アメリカの対外施策や外交政策をふり返っています。アメリカがウクライナ戦争を主導していると思うからです。
 今回は、戦後の朝鮮において、アメリカが育て、支援した
李承晩大統領の独裁ぶりを、「韓国大統領列伝 権力者の栄華と転落」池東旭(中公新書1650)から、抜萃しました。
 私は、民主主義や自由主義を掲げるアメリカが、朝鮮においてやったことを見逃すことができないのです。そして、2014年以来、アメリカが、ウクライナでやってきたこともそれほど異なるものではないと思います。また、停戦・和解を求めず、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔とするような攻撃的なゼレンスキー大統領の日々の主張は、李承晩大統領が主張したことと、あまり変わらないように思うのです。
 
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                  第Ⅰ章 李承晩

                  (4) 独裁政治

 選挙への官憲介入
 李承晩政権は党争にかまけて、当面する国民生活安定対策をなおざりにした。インフレは昂進し、韓国人は李政権に失望した。
 第二回総選挙は50年5月の予定だった。李承晩は国内治安の悪化を口実に、11月に延期することを画策した。だがアメリカは「韓国政府は財政問題の重要性を理解せず、進行するインフレの抑制に必要な措置をとろうとしない。アメリカ政府は「韓国政府は財政問題の重要性を理解せず、進行するインフレの抑制に必要な措置をとろうとしない。アメリカ政府は援助を再検討せざるをえない。
もし、5月中に総選挙を実施しなければ援助を中止する」と警告した。
 朝鮮戦争直前の5月30日に実施された第二回総選挙で、李承晩は大敗した。中間派諸政党は2年前の第一回総選挙をボイコットした。だが第二回総選挙では参加、210議席のうち中間派が130議席を確保した。李承晩の与党は34議席に転落した。選挙前に辞任した李範奭(イブンスク)総理の後任も見つからず、空席のままだった。
 ピンチに立たされた李承晩にとって政局収拾は至難の業だった。それを救ったのが北朝鮮軍の南侵だ。権力者は戦争を口実にあらゆる批判を封じることができる。北朝鮮の南侵は反共一辺倒の李承晩の立場を強化した。緒戦の敗北やソウル失陥の責任などは国連軍の介入で帳消しにされた。戦時の殺気だった雰囲気のなかで大統領の失政追及はうやむやにされた。だが韓国人は戦時中の住民虐殺や国民防衛軍をめぐる不正腐敗など李政権下でおきたいろいろな忌まわしい事件について憤怒していた。  
 李承晩大統領の任期は52年7月までだ。しかし国会議員の選出による大統領再選は絶望視された。李承晩はそれまで超然政権をめざし支持政党をつくらなかった。だが再選をめざして与党自由党を創立した。自由党は、大統領直接選挙制を内容とする憲法改正案を国会に提出したが否決された。
 しかし李承晩は52年5月、臨時首都釜山一帯に戒厳令を布き、野党議員を憲兵隊のバスで連行、恫喝した。白骨団など御用団体の暴力団は釜山市内に野党を非難攻撃するビラをばらまいた。
 7月には、恐怖につつまれた雰囲気のなか、国会で与党は憲法を強引に改正し、8月に国民の直接選挙により李承晩大統領は再選された。
 この改憲工作に必要な政治資金調達のためタングステン(重石)輸出で稼いだドルを政商に横流ししたスキャンダル(重石ドル事件)もおきた。
 戦乱が続いている最中である。アメリカ政府は李承晩の独裁に不満だった。ワシントンは李承晩を退陣させ、穏健なカトリック信者の張勉(チャンミュン)総理に代えることを検討した。だが戦時中に同盟国の大統領をすげ替えるのは、リスクが大きすぎる。アメリカは李承晩除去計画をあきらめた。しかし、李承晩にたいする不信感は高まる一方だった。このおtき李承晩は韓国軍首脳に大統領支持声明を出すように命令した。だが李鍾賛(イジョンチャン)陸軍参謀長は米軍の意を受けて政治的中立を守り、支持声明を発表しなかった。激怒した李承晩は陸軍参謀長を更迭した。
 韓国軍首脳はほとんどが旧日本軍出身という負い目がある。反日独立運動のカリスマをもつ李承晩に頭が上らない。52年に李承晩は軍部を政治的に利用した。だがその報いは、後年、軍部クーデターとして現れることになる。
 李承晩の頑固な反共反日にアメリカも手を焼いた。李承晩は休戦に反対し、あくまでも北進統一に固執した。53年7月の休戦協定成立直前、李承晩政権は北朝鮮送還を望まない反共捕虜を捕虜収容所から独断で釈放釈放て交渉妥結を阻もうとした。休戦協定に韓国代表は署名しなかった。アメリカは戦後復興のための多額の経済支援を約束して李承晩を宥めた。アメリカは李承晩の独善、独断をもてあますようになった。
 54年5月、第三回総選挙が実施され、官憲を動員した与党自由党が圧勝した。李承晩政権は余勢を駆って9月、大統領の三選禁止の撤廃と副大統領の大統領継承権規定新設を内容とする改憲案を国会に提出した。11月27日に行われた国会(定員203人)での投票は135票対60票で、定数の三分の二に1票足りず否決と公告された。与党は国会定数の三分の二は四捨五入して、135人だと強弁、いったん否決を公告した改憲案を可決とみなし、憲法改正を交付憲法改正を公布した。悪名高い四捨五入改憲である。
 
 馬意、牛意まで動員
 56年5月の、第三回大統領選挙は国民の直接投票による本格的な選挙になった。前回52年選挙は戦時中の避難首都釜山で行われた、非常時のなかのお手盛り選挙だ。今回は違う。野党のスローガン「モッサルゲッタ、ガラボジャ」(ダメだ、代えよう)は全国にこだました。後々まで語り伝えられる選挙スローガンの傑作だ。与党は「ガラバッチャソヤヌッタ、グガニミョンガニダ」(代えても同じだ。古顔がましだ)と応酬した。これもまた韓国政治の実相を予言するものだ。
 野党民主党は大統領候補に臨時政府出身の申翼熙(シンイツヒ:国会議長)、副大統領に張勉(前総理)を立てた。与党は副大統領候補に次期大統領含みで李起鵬(イキボン)を指名した。前回の改憲は副大統領の継承権を明文化した。李大統領は81歳の高齢だ。もしものことがあれば副大統領が継承する。李起鵬は李承晩と同じ全州(ジュンジュ)李氏譲寧(ヤンニュン)大君派で、長男李康石(イガンスック)は後嗣がいない李承晩の養子になった間柄だ。これは李王朝の復活である。
 有権者は李承晩政権の碑性に秕政に愛想をつかしていた。野党候補の遊説に有権者が雲集し、候補が叫ぶ政府批判に拍手喝采を送った。これに対抗して政府与党も農民や中小企業団体などを動員、与党候補を応援させた。これらサクラたちは馬車、牛車の行列をつくって与党支持を訴えた。新聞は「馬意、牛意」まで選挙に動員したと皮肉混じりに報道した。与党候補の旗色は悪かった。
 投票10日前の5月5日、申翼熙候補は、遊説中急死した。野党は候補登録を変える時間的余裕もなかった。5月15日の投票で李承晩は504票で当選したが、無効となった申翼煕票は185票に達した。もう一人の野党候補曺奉岩(チョウアンボム)も216万票を獲得した。申翼煕の急死で野党支持票が流れたせいだ。副大統領には野党候補の張勉が当選した。大統領、副大統領の党籍がそれぞれ異なる、ねじれ現象がおきた。
 与党はパニック状態になった。9月に張勉副大統領狙撃事件がおきた。狙撃事件に警察が介在していたことも判明したが、捜査はウヤムヤにされた。
 58年1月、李承晩政権は政敵、進歩党党首曺奉岩をスパイ容疑で逮捕、59年7月に処刑した。解放以前共産党員で革新勢力の代表だった曺奉岩の処刑は革新勢力の急浮上に恐怖しを覚えた李承晩政権による司法殺人だ。
 59年4月に『京郷(キョンヒャン)新聞』が筆禍事件で廃刊になった。カトリック系『京郷新聞』はカトリック信者張勉副大統領を支持したため、弾圧の標的になった。李承晩の独裁政治はとどまるところを知らなかった。

 4・19事件
 60年3月に大統領選挙が予定された。与党正副大統領は今回も李承晩、李起鵬である。野党民主党の正副大統領候補は趙炳玉チョビョンオク)、張勉に決まった。政府与党は今度こそ万難を排して与党候補を当選させると意気込んだ。だが有権者は与党に愛想をつかしていた。アメリカも李承晩大統領の統治能力を見限っていた。
 野党大統領候補の趙炳玉は病気治療のため渡米したが、投票日を1ヶ月後に控えた2月15日に死去した。3月15日、予定通り選挙が実施され投票率97%、李承晩は有効投票963万票を100%獲得して当選、副大統領に李起鵬も当選したと発表された。
 与党は不正選挙の手口を総動員した。本人でない第三者による幽霊投票、軍隊内の公開投票、投票用紙のすり替え、野党候補票の無効化、集計過程のインチキなどあらゆる不正のテ口が乱舞した。一部地域では与党候補のでっちあげ得票が有権者の数を上回り、あわてて縮小修正する喜劇までおきた。
 野党は選挙無効を宣言した。新聞も一斉に不正選挙を非難した。馬山、釜山など野党が強い地方都市で不正選挙を糾弾するデモがはじまあった。4月18日、ソウルで大学生が不正選挙糾弾を訴えてデモ行進した。それを政府ご用の暴力団が襲撃して学生多数が負傷した。
 これがきっかけとなって4月19日、ソウルで学生と市民が合流したデモがおき、全国に拡散した。デモ群衆は警察と衝突、市民と学生186人が死亡、6200人を越すおびただしい負傷者がでた。興奮したデモ隊は政府系ソウル新聞社や反共会館を焼き打ちした。
政府は非常戒厳令を宣布、デモを鎮圧しようとした。だがアメリカは李承晩を見捨てた。マカナギー駐韓米国大使は李承晩大統領に「民衆の正当な不満に応えるべきである。一時しのぎは許されない」と最後通牒をつきつけた。軍部は厳正中立を表明した。李承晩大統領は4月24日、自由党総裁を辞任、李起鵬副大統領も当選辞退を表明した。4月26日、李承晩は下野を発表、27日、国会に辞表を提出、許政(フジョン)外務長官が大統領権限代行に就任、過渡内閣を組閣した。28日、李起鵬と夫人マアリア女子、李承晩の養子になった長男康石、次男など一家4人全員はピストルで自殺した。下野後、李承晩が移った私邸梨花荘の前には連日のように長年の独裁政治を糾弾するデモがつづいた。

(5) 落ちた偶像

 ハワイ亡命
 5月29日早朝、前夜から極秘のうちに金浦空港に待機していたノースウエスト航空チャーター便に李承晩(イスンマン)夫妻の二人だけが乗りこみ、ハワイに亡命した。見送ったのはたった一人、許政(フジョン)大統領権限代行だけだった。15年前、熱烈な歓迎のなか帰国し老革命家はいまや国民の憎悪の的となり、夜逃げ同然、こっそり故国を後にした。航空機に乗り込む李承晩の特ダネ写真をスクープしたのが李政権により廃刊され、下野後復刊した『京郷新聞』だったのもアイロニーだ。
 李承晩が出国した後、報復と懲罰の旋風が吹き荒れた。不正蓄財した実業家に対する追及がはじまり、不正選挙に関連した閣僚9人、自由党幹部13人が逮捕された。デモ群衆に発砲を命じた崔仁圭(チェインギュ)内務長官、郭永周(カクヨンジュ)大統領警護室長や暴力団幹部らは死刑になあった。
 許政大統領権限代行による過渡的政府は政権移譲をテキパキと進めた。6月に憲法を改正、内閣責任制と国会両院政、それに副大統領廃しを内容とする改正案を採択した。第二共和国の発足だ。
 7月に参議、民議両院の選挙が実施され、8月12日、国会は第二共和国大統領に尹潽善を選出した。
 ハワイに亡命した李承晩はその後、マウラナニ養老院で晩年を送った。養老院の窓から茫然と海を眺め、余生を送った老革命家の胸中に去来した想いがなんであったかは知るよしもない。祖国独立のため生涯を捧げ、一時は国父と崇められたが、最後は市民、学生から石もて追われ、異郷で孤独をかみいしめる日々だった。ハワイに亡命5年後65年7月19日、李承晩は享年90歳で永眠した。
 千里を走る虎も死ぬときは故郷に帰るという。李承晩は死後故国に埋められたいと熱望した。政府内では李承晩の葬儀をめぐり異見もあったが、しかし建国の功績を認め、国立墓地に埋葬することを決めた。李承晩の棺は米軍機で運ばれ、空港に到着したとき軍楽隊は「故郷の思い出」を吹奏して亡骸を迎えた。沿道には物見高い人々が霊柩車が通り過ぎるのを見守ったが、そこには哀悼の意も憎悪の色もなく、好奇心だけだった。
 革命家李承晩は私生活にも恵まれなかった。同い年の初婚の妻朴氏は長男鳳秀(ボンス:早死)を産
んだが、海外亡命で生き別れになった。李承晩は34年、ジュネーブで知り合ったオーストリア出身のフランチェスカ女史と再婚した。朴氏は孤閨を守ったが、解放後帰国した李承晩はフランチェスカ夫人に気兼ねして先妻と晴れて対面しなかった。朴氏は50年、ひっそりと死去した。
 李承晩とフランチェスカ夫人との間には子供がいなかった。祭祀を絶やしてはならない儒教のしきたりで、同族李起鵬(イキボン)の長男康石を養子にした。だが下野後、李起鵬一家が自殺する惨劇を目睹した。その後、同族の李仁秀が養子になりソウルに居住している。フランチェスカ夫人は李承晩没後、ソウルにもどり、養子のところに身を寄せ、92年まで生存した。

 

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アメリカの朝鮮分断支配と「ブチャの虐殺」

2022年10月16日 | 国際・政治

 私は今、朝日新聞は戦時中、自社を含む報道機関が 何の検証もせず、国民に何の疑いも抱かせないような内容で大本営発表を流し続け、大本営に加担するかたちで、破滅的な敗戦をむかえたことを深く反省して、戦後の報道を始めたのではなかったのか、と問い詰めたい思いに駆られています。
 なぜなら、かつては大本営に加担し、破滅的な敗戦をむかえたにもかかわらず、今度はアメリカとウクライナに加担して、世界を破滅に追い込みかねない報道をしているからです。

 朝日新聞は、先日の社説で、国連総会がロシアの4州併合を「違法で無効」とする決議を採択したことを取り上げ、”「領土の強奪は許されない」という国際社会の意思は明確に示された。今こそロシアは真摯に受け止め、ウクライナから兵を引くべきだ。”と書いています。ロシアを悪とし、ウクライナは気の毒な被害者で、アメリカを中心とするNATO諸国は、その気の毒なウクライナを支援しているという構図の報道をずっと続けていると思います。

 そしてそれは、いままでアメリカとウクライナからもたらされた情報が、すべて真実であり、疑いようのないものということが前提になっていると思います。
 例えば「ブチャの虐殺」は世界中に大きな衝撃を与え、ロシアを決定的に孤立させることになったと思います。でも、その「ブチャの虐殺」の報道が、真実に基づいていないとしたら、ウクライナ支援のあり方や、国連総会の決議の表決は、違った結果になっていたでしょうし、国連総会の決議が、国際社会の意思とは言えなくなると思います。
 だから、私が「ブチャの虐殺」の報道について感じたことや考えたこと、およびSNSなどで流された情報やkla.tvの報道を含めて、いくつかの疑問を投げかけたいと思います。

 まず第一に、戦争に虐殺はつきものだと思いますが、いままでの戦争での虐殺をふり返れば、長く紛争が続いていた民族間や国家間の虐殺事件のような一部の例外を除けば、その多くは、戦友を殺された恨みや、常に死の恐怖を伴う長期間の戦い、また、悪環境の中での苦しい戦いが、兵士の良心や理性を蝕み、地域住民に対する憎しみを増幅させ、虐殺に至ったことがほとんどだったように思います。
 でも、ウクライナとロシアの戦争では、そういうことはなかったと思います。ロシア軍がウクライナに入った当初の映像には、ロシア兵に向かって、ウクライナ領土になぜロシア軍が入ってくるのかと抗議している人や、戦車の前に立ちはだかって、「帰れ」と声をあげているウクライナの人たちが映し出されていました。ウクライナの人たちには、ロシア兵に見つかれば撃ち殺されるというよう恐怖心がなかったということだと思います。また、キーウからロシア兵が撤退するまで、相互に多くの死者を出すような深刻な戦闘はなかったのではないかと思います。だから、ロシア兵がウクライナ人を虐殺するような異常な精神状態や追い詰められた精神状態にはなっていなかったように思うのです。
 そしてロシア兵は1ヶ月余りで撤退しています。

 現に「ロシア兵は何もしなかったね」と証言する人がいたとの報道もありましたし、ロシア側は”市内で誰も被害を受けなかった”と主張しているのです。
 

 次に、街中に虐殺遺体が転がり、路上にも点々と虐殺遺体が転がっているということで、車内から路上の虐殺遺体をとらえた動画が公開されました。でも、不可解です。路上で虐殺したのでしょうか。それとも、虐殺遺体の一部をわざわざ路上に並べたということでしょうか。あとで、戦争犯罪を問われることになるのに、なぜ、ロシア兵は後ろ手に縛りあげ、頭部に銃弾を撃ち込んだ虐殺遺体などを放置して撤退したのでしょうか。

 また、3月30日にロシア軍はブチャから撤退し、翌日の31日、ブチャ市長はブチャの解放を報告しました。でもその時、ブチャ市長は、なぜ市民が虐殺されていた事実について何も語らなかったのでしょうか。
 4月4日、ニューヨーク・タイムズ紙が、ブチャの街中に虐殺遺体が横たわっているという衛星画像を報じました。この衛星画像は3月19日と21日のものだといいます。なぜ、その時、衛星画像に虐殺が疑われる遺体があるという事実を報道しなかったのでしょうか。虐殺が発表されるまで、それが虐殺遺体であることに気づかなかったということでしょうか。
 さらに、その虐殺遺体は、なぜ第三者機関の立会いのもとで検証される前に処理されてしまったのでしょうか。

 ロシア兵がブチャに入った後、全市民が避難して、ブチャには人っ子一人いなくなっていたというのであれば、虐殺遺体が放置されていたことに不思議はありませんが、ロシア軍がブチャに入った当時、ブチャの人たちはほとんどブチャにとどまっていたのではないかと思います。それなのに、10日以上も虐殺遺体が放置され、だれも市に連絡せず、市長が虐殺を知らなかったということがあり得るでしょうか。不可解です。

 また、ブチャの人たちは、近くの住民が殺された遺体がそこここに転がっているのに、埋葬せず放置し、報告もしないということは、あり得ないことではないか、と私は思います。

 また、ドイツの作家、トーマス・レパー氏は画像の中の多くの遺体が白い腕章をつけていることを指摘したということですが、白い腕章は、ロシア兵を識別するためのもので、ブチャの人たちがロシア兵に連帯して白い腕章を付けたのだろうといいます。そして、ブチャの虐殺報道で利益を得るのは誰かを考えるべきだと言うのです。私は無視してはならない指摘だと思います。

 だから私は、この虐殺はウクライナ軍(アゾフ大隊)が、抵抗するブチャの親ロ派活動家を殺害し、アメリカの働きかけで、ロシア兵がブチャの市民を虐殺したという筋書に変えられた可能性もあるように思います。
 そして、もし「ブチャの虐殺」がそうしたものであれば、それこそ、「ブチャの虐殺」報道は、世界中の人びとを欺く重大な犯罪的報道であると思います。

 その可能性が否定できないと思うのは、戦後のアメリカの対外政策や外交政策が、病的なほど共産主義や社会主義を恐れ、嫌う人たちによって進められてきた歴史があるからです。
 ベトナムでもインドネシアでも、朝鮮でも、アメリカは、共産主義者や社会主義者、また、その支持者を殺す独裁者を支援したり、殺害に加担してきた事実があるのです。

 下記は、その一端を示していると思います。
 国会の多数意見を無視したり、不都合なことはすべて共産分子によるものと断定して、治安維持法の復活といわれる「国家保安法」を制定し、「朝鮮人民共和国」という南北朝鮮一体の独立運動を潰した李承晩大統領を育成、支援したのはアメリカでした。その過程で、多くの人が亡くなったり拘束されたリしたのです。前回取り上げたように、済州島四・三事件では、33,000もの人たちが殺されたとされているのです。
 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から「第四章 南北政権の樹立と一般情勢」の一部を抜萃しました。
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                   第4章 南北政権の樹立と一般情勢

 (五) 国家保安法の制定
 この政府樹立直後の48年10月19日夜勃発した麗水・順天の軍隊叛乱事件に対する国会の政府非難は極めて強かった。現在の韓国政府が国民の信望を全く失っているとまで極論する議員もあった。国会はこの叛乱事件を収拾するため、議員20名をもって時局対策委員会を組織し、8項目からなる決議案を作成、これを11月5日の本会議に上程したが、その内容はつぎのようなものであった。
(1) 政府および各愛国団体は連合救護班を組織し、軍警の遺家族および遭難同胞の救護に要する生活必需品と慰問金を全国的に募集すること、
(2) 糧穀買入法の実施は、国民の恨みと反感を買わぬように慎重考慮すること、
(3) 国内のあらゆる青年団を解散し、愛国青年を中心として郷保団を組織し、軍事訓練を実施すること、
(4) 軍事類似団体を解散し、護国軍を組織すること、
(5) 海陸を問わず、38度線の取締を強化すること、
(6) 戸口調査を全国一斉に行うこと、
(7) 各愛国政党、社会団体の連合会議を開き、時局収拾に関する国論を統一すること
(8) 政府は今次事件の責任を負い、挙国的強力内閣を組織して民心を一新すること。
 だが、李承晩大統領はこの決議に対して、議員の倒閣運動は違憲であり、叛乱はすべて共産分子の行為であるから、政府と国会は対立することなく、合作協力して事態を収拾し、政権を強化しなければならない旨を答えた。しかし、この李大統領の反駁にもかかわらず、国会は11月8日にこれを表決した。まず、決議案の中心である第8項の内閣改造要求は、出席議員145名中、86対24、棄権5で採択された。ついで、第3項および第4項は時局対策委員会に具体的細目を作成させたのち、再検討することとした。また、第6項の全国一斉戸口調査が現在の国内情勢では実施不可能であるとの理由から否決されたほかは、第1項、第2項、第5項、第7項はいずれも圧倒的多数で採択された。
 だが、李大統領は、あくまでこれに反対の態度をとった。この内閣改造要求は共産党を利するものであり、国会は少数の議員に動かされていると非難した。そして、10日夜には「政府を保護せよ」と題する放送演説を行い、国会の動きは違憲であり、当面の問題は共産分子の打倒でなければならず、政府を育成していくよう訴えた。
 
 国会はこの48年の軍隊叛乱事件をうけて、破壊行為、反政府分子の防止、弾圧をはかるため、国家保安法案を委員会で起草させることにした。同案は同11月16日の本会議に上程された。だが、盧鎰煥、金沃周、徐容吉等の韓国民主党系倒閣運動派および無所属議員48名は、これが日本の思想犯弾圧法である治安維持法の再現であると非難した。また、その非民主政を衝き、法案の廃棄を要求した。この動議は79対37で否決され、ようやく法案の審議が開始され、反対派の保留ないし修正要求を排して、11月20日、国家保安法は可決された。同法は韓国における共産党の非合法化を法制化した、思想犯と反体制派弾圧処罰法であり、その後の政府の反共取締の根本法規となったものである。

 (六)政府と議会の対立
 一方、議員98名は、11月19日、韓国が外部からの脅威に対して自ら防衛できる能力を持つようになるまで、アメリカ占領軍の韓国駐留の継続を要請する決議案を国会に提出した。これは翌20日、88対3で直ちに採択された。だが、盧鎰煥、李文源等16名の議員はこの決議案の上程に反対して議場を去り、そのうち13名の議員は、この決議が民意に反し、韓国軍の無用と警察の無能を表明するものであるという声明書を発表した。さらに22日には、20日の会議に出席していなかった徐容吉、申性均、朴鍾南等の19名の議員も、反対派の主張に共鳴し、これと行動をともにするとの声明書を発表した。

 このような国会議員一部の反米感情は、12月10日に調印された米韓間の経済援助双務協定の承認についても現われた。だが、同協定は11日議会に上程され、13日に表決に付されたが、その結果85対0、棄権45で承認ということになった。このように表決が急がれたのは、同協定の効力発効が、韓国の国会がこの協定を承認した旨をアメリカ政府へ公式に通告することにかかっていたからとみられたが、表決の当日議員の一部から,協定の内容を充分検討する時間的余裕を与えず、うやむやのうちに通過させるのは欺瞞的であるとか、内政干渉まで受けながら外国の援助を受ける必要はないというような尖鋭な反対論が提出された。結局、反対派議員27名は退場し、「この協定は、韓国の経済的自主性を喪失させるばかりでなく、広範囲の内政干渉を招来する」旨の共同声明を発表するという事態となった。

 このように、韓国政府はその成立の当初から国会との間に軋轢を生じさせていた。政府の無策と非能率に不満をいだく国会は、これを情実内閣とまで非難した。また、政党勢力を反映する連立内閣への改造要求が強く、これがさらに、大統領中心主義を改めて、国会に信任された国務総理を政府の首班とする責任内閣制へ移行しようとする憲法の改正要求となっていた。これに対し、李承晩大統領は、内閣改造要求は共産分子の扇動、示唆の結果であるとして、現状維持を唱えて譲らなかった。しかし、遂に同年12月末に至り、内務部長官尹致暎、外務部長張沢相、社会部長銭鎮漢を更迭し、申性模(イギリスから2ヶ月前に帰国)を内務部長官、李允栄(無任所長官)を社会部長に任命し、外務部次官高昌一を長官代理とした。もっとも、李大統領あるいは李範爽国務総理は、この内閣改造が国会の要求に従って行われたものではなく、あくまで独自なものであり、国会の内閣改造要求決議は違憲で、政府が考慮していた改造の発表の障害になった旨を強調した。

 だが、このような軍隊叛乱事件と、韓国政府と韓国議会の対立は、その対抗措置の結果として逆に李承晩大統領独裁の強化にもなり、それは国家保安法という反体制派に対する政治的弾圧の武器を法的に制定することによって決定化されることにもなった。
 1948年9月4日から1949年4月30日までの間に、韓国国内において89710人が逮捕され、そのうち28404人が釈放されたが、20160人が送検され、29284人が治安局に引き渡され、6985人が憲兵隊所管に移され、1187人が未決となったと国連委員会に報告されている。送検された人数の80%が有罪を宣告され、刑務所に送られた人数は公表されなかったが、司法部長官は12月17日、「刑務所の収容能力は15,000人だが、現在4万人が収容されている」と述べた。
 

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アメリカによる朝鮮分断支配とウクライナ戦争

2022年10月12日 | 国際・政治

 ロシア本土とクリミア半島を結ぶ橋の爆破によて、ウクライナ戦争が一段とエスカレートし、死傷者が一層増えています。にもかかわらず、ゼレンスキー大統領は、”ウクライナを脅すことはできない。代わりにさらに団結した”と述べ、徹底抗戦の決意を示したといいます。全く報道されませんが、ウクライナの人たちは、そうした主張をどのように受け止めているのか、気になります。
 また、バイデン大統領は、CNNのインタビューで、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”と述べたといいます。

 プーチン大統領は、”予備兵や軍事的な専門性を持つ一部のロシア国民を動員する”と発表したとき、”欧米諸国が核の脅威をちらつかせている”と訴え、”ロシア本土とウクライナの親ロシア派地域の安全が脅かされた場合は、ロシアが持つすべての武器の使用も辞さない”と核兵器の使用を示唆しつつ、”これは、はったりではない”と明言しているのに、”ロシアのプーチン大統領が核兵器を使用するとは思わない”というのは、あまりに無責任ではないかと思います。
 立場が逆であれば、アメリカは躊躇することなく、核兵器を使うのではないかとさえ思います。

 また、ゼレンスキー大統領にとっては、クリミアの奪還は、ウクライナの人びとの命よりも大事なのか、と疑問に思います。
 クリミアの人たちは、今回のルハンシク州、ドネツク州、ヘルソン州、ザポリージャ州の4州と同じように「住民投票」でロシア編入を決めたのであって、ロシアが力づくで無理矢理併合したというのは、ちょっと違うのではないかと思います。また、どの程度の人が、クリミアのウクライナ復帰を望んでいるのかということも考える必要がある思います。ウクライナが、4州の「住民投票」やクリミアの「住民投票」の結果を認めないということであれば、戦争で奪還するのではなく、きちんと法的に争う必要があるのではないでしょうか。逆に諸事情あって、ロシアから離脱することを住民投票できめた地域が出た場合、それも認めないということでいいのでしょうか。私は、一定の条件が満たされれば、プーチン大統領がいうように「住民の自決権」は尊重されるべきだろうと思います。

 クリミア奪還を主張するゼレンスキー大統領は、”クリミアで侵略者がいない晴れやかな未来を目指している”と述べ、、ウクライナ大統領府は、”これが始まりだ、違法なものは全て破壊されなければならない”と主張したとのことですが、ロシアが核兵器を使うことも覚悟の上の主張でしょうか。親露派の人が多いクリミアで、”晴れやかな未来” が可能でしょうか。 

 もしかしたら、バイデン大統領も、ロシアが核兵器を使用したら、ロシアをさらに孤立化させ、弱体化させることができるので、ロシアの核兵器使用を恐れず、ウクライナに徹底抗戦を働きかけているのではないか、と疑います。

 そう考えるのは、アメリカが、第二次世界大戦後、さまざまな平和のための国際法や国際組織を無視して、他国と戦争したり、他国の紛争に武力介入したりしてきた多くの事実があるからです。アメリカは、戦争中や武力介入をしている時は、巧みな情報操作やプロパガンダによって、真実を隠しますが、時が経つと歴史家や研究者が、さまざまな証言や資料を集め、真実を明らかにします。それらを手に取ると、アメリカの野蛮性が、よくわかります。

 ウクライナ戦争に関しては、日本政府のみならず、日本の主要メディアが、アメリカの情報操作やプロパガンダを少しも疑うことなく報道し続けていると思います。
 なぜなら、プーチン大統領が、”ウクライナでの軍事作戦を開始する”と述べ、軍を進めた2月24日以後のことしか語られていないからです。ウクライナ戦争の話を、「ロシアのウクライナ侵攻」から始めることが、戦争の原因を隠蔽し、ロシアだけを悪者にする報道にしてしまっていると思います。
 2014年、のオレンジ革命といわれる政変がどのようなものであったのか、ということや、その政変にアメリカがどのように関わっていたのかということ、さらに、オレンジ革命以降、アメリカやNATO諸国が、ウクライナに対してどのようなことをしてきたのかということなどを、主要メディアは、ほとんど報道しません。
 また、ウクライナ戦争によって、悲惨な状態に置かれているウクライナの人たちを取り上げた記事やテレビ報道はしばしば目にしたり耳にしたりします。でも、それが停戦・和解の方向ではなく、ロシアを悪とし、アメリカのオースティン米国防長官が主張したロシアの「弱体化」を目的とする方向で取り上げられているように思います。

 さらに見逃せないのは、2014年、のオレンジ革命以降、ウクライナ南東部のドンバス地方で親露派の人たちが、どういう攻撃を受け、どのような対立・紛争が続いていたのかという報道がほとんどないことです。1万人以上の人たちが亡くなったと言われているのにです。

 原発の廃止を決め、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカ国家安全保障局( National Security Agency:NSA)によって盗聴されていたというような事実とウクライナ戦争の関わりなども、きちんと調べて報道しないと、アメリカが主導するウクライナ戦争の醜い実態は、ほとんどわからないと思います。 

 下記に抜萃したアメリカの朝鮮分断支配の実態を踏まえれば、同じようなことがウクライナでくり返されていることがよくわかると思います。

 アメリカに亡命していて李承晩は、「国内的足場」ほとんど持っていなかったのに、大統領となりました。そして、権力個人集中的体制を構築するために、強引に「大統領責任制」を決定しました。議会と立法府の権限を極めて小さなものに限定し、独裁的な政治ができるようにしたのです。現に、国の存立を左右する重大な問題で、国会の多数意見を無視しました。
 そして、それを支えたのがアメリカです。下記に抜萃した文章に
もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
 とあります。力づくであったことが分かります。

 さらに、済州島では、反政府勢力に対する徹底的な地域封鎖、壊滅作戦が実施され、”死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている”というような悲劇が起こっています(済州島四・三事件)。
 韓国軍第十四連隊や第四連隊も、反政府勢力の側について反乱を起こしたということですから、新政府の弾圧がいかに朝鮮の人たちの思いを無視した野蛮ものであったかが分かると思います。それがアメリカの占領政策によるものであったことを見逃すことはできません。民主主義や自由主義を掲げる国のやることではないのです。

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から「第四章 南北政権の樹立と一般情勢」の一部を抜萃しました。(縦書きを横書きに変えているため、数字の一部は変更しています。)

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               第四章 南北政権の樹立と一般情勢

               第二節 韓国の四十八年の内政状況

 (一) 大統領権力と議会権力
 1948年5月10日に行われた選挙の結果として構成された韓国の国会では、どちらも同様に右翼の政党であったが、李承晩大統領の与党ともいえる韓国独立促成国民会派の議員に対して、野党の立場にある韓国民主党が第一党となっていた。
 一般的には南朝鮮右翼政党は、それぞれの利害から離合集散と分裂反発を相互に繰り返し、必ずしも統一的な連帯が形成されていた訳ではなかったのだが、それまでの李承晩大統領と韓国民主党との関係には、ある程度の共同戦線的な関係が維持されていたとされた。
 すなわち、国内的足場をまったく持っていなかったアメリカ亡命帰りの李承晩と、旧時代の既得権益層有産階級を支持母体とするが、解放後社会における民族主義運動に対する正統性と指導者を欠いていた韓国民主党系人士たちとは、相互の協力を必要とする状況と条件があった。これは、アメリカ軍政庁時代を通して、ともに親米反共と保守の立場の一致からおおむね維持された関係であった。しかし、この関係は、とくに1948年8月15日の大韓民国政府樹立前後の時期に、その矛盾と内部対立が露呈されることになる。
 
 すなわち、李承晩大統領は1948年8月15日、公式に韓国の権力を握ることになったが、その際に彼は大統領中心によるいわば権力個人集中的体制を構築しようとした。これは、新政府における権力基盤を確保しようとしていた韓国民主党の利害に反することであった。
 その両者の立場は、すでに韓国民主党で占められていた憲法起草委員会が、その基本構想として大統領を象徴として祭り上げる責任内閣制の憲法を起草したのに対して、李承晩議長が猛烈に反対して、一夜のうちに大統領責任制に改められた時期から先鋭化し出していた。そのわずかな期間で検討され可決された憲法の条文には、民主主義の原則と自由が明記されてはいたが、要するに新憲法は強力な大統領制を規定していた。それは、議会と立法府の権限が極めて小さく、また首相である国務総理の立場も大統領の補佐官程度の権力しか持ち得ないものであった。

 この大統領責任制の憲法草案は、7月12日の国会承認を経て17日、公布されたが、この大統領個人への権力集中に反対して、以後も韓国民主党はひきつづき内閣責任制への改憲をつねに主張し続ける政権となっていた。また、新政府樹立にさいしての閣僚などの配分において、以後韓国政界の主導権をとろうとしていた韓国民主党勢力の意図に反して、李承晩大統領は国務総理に北朝鮮から越南してきた朝鮮民主党(北朝鮮からの越南者政党)の李允栄を指名した。すなわち、南朝鮮右翼政党各派は、新しく成立した大韓民国政界の与党的立場となり、その権力を目前とする段階に至って、各派の思惑と利害が大きく相違する経緯となった。
 そのため、韓国民主党が第一党である国会はまず、李大統領が48年7月24日に就任宣誓式を行い、初代国務総理に指名した李允栄を指名したが、この李允栄の承認を再度にわたって拒否し、政府に対する強硬な態度をしめした。このような、新政府における憲法起草における内閣責任制かあるいは大統領責任制か、また新政府におけるポスト配分の不満が契機となり、韓国民主党は李承晩大統領人事への反対、頭首金性綬洙の入閣拒否の方針をとり、大統領への権力集中を排除し、韓国民主党が第一党である国会が力を持ち得る責任内閣制への改憲案を執拗に推進することになったのである。

 (二) 大統領中心制と多数派野党
 
すなわち、李大統領は大韓民国樹立当初から、国会に安定多数の勢力をもっていないうらみがあったのである。しかも、韓国の憲法は大統領中心主義をとり、政府は大統領にたいして責任を負う。つまり、政府が議会に対して責任を負う責任内閣制ではなかった。また、行政府、司法府、立法府の三権の構成においても、司法府の独立性は判事の任命権が行政府の権限とされるように、当初から希薄であった。また、首相である国務総理の任命と、最高裁判所である大法院判事の任命だけが立法府の承認を必要とし、国務総理その他の閣僚の罷免は大統領の意志一つで決定されるような制度であった。
 これに対して、韓国国会としては、国務会議(内閣)の計画を可決しない権限を持つだけであったのである。また、国会は大統領の拒否権を越えて法案を可決する権限が規定上はあったのだが、韓国の大統領は「法律と同様の効力を持つ命令を出す」非常大権を与えられていた。すなわち、韓国国会は表面的には立法府としての権限を持つ形式とはなっていたが、行政府を抑制することではほとんど効果がなかったとされた。
 
 このように憲法の規定する大統領中心制による韓国行政府、司法、立法府三者の関係には制度的にも不備があり、またそれを補う関係者の政治的熟練と協調がみられなかったために、以後、李承晩大統領と韓国国会の間には、つねに対立的な情況が展開されることがまま見られるようになった。すなわち、少数与党である政府と、野党が多数派を占める国会との対立が生じると、それがそのまま未解決で持ち越される傾向があった。これは、新政府樹立後の韓国政情の混乱の構造的な原因の一つともなったとされた。

 たとえば、ついで同年8月23日、親日派粛清のため国会内に設けられた反民族行為特別調査委員会は、新政府内の交通部長官閔熙植、法制処長兪鎮午、商工部次官任文桓の3名が対日協力者に該当すると発表して、その退陣を要求した。そのため、政情の安定を希望する李大統領と対立した。
 また、翌9月11日、調印されたアメリカ政府と韓国政府との間の財政および財産に関する最初の取り決めの承認を政府から要請された国会では、その審議の際、韓国の自主性を唱える一部議員の反対を生じた。同18日に行われた表決は賛成78反対28という極めて不調な結果となり、しかも反対派議員26名は退場して表決に加わらなかった。さらに10月13日の国会においては、現在開催中の第3回国連総会が、47年11月14日の第2回総会決議に従って、占領軍の撤退条項を急速、正常に実行するよう要望するとの緊急動議が提出された。そして、これを直ちに表決するべきか否かの論議で議場が混乱した。提案者に対してこれを共産党の謀略と叫ぶ議員もあり、結局審議を一時保留するということで落着した。

 (三) 済州島の騒乱
 1948年8月15日に樹立された新大韓民国政府の内部も議会との対立が表面化しだし、その当初から波瀾含みであったが、南朝鮮社会、新しく韓国社会となった朝鮮半島南部地域においても、社会情勢は激しく動揺し、左右両派の対立関係は一層拡大していた。
 もともと新生韓国政府は、左派と民族主義右派のボイコットにも拘らず、アメリカの対ソ政策の為に、米軍政庁が警察、軍予備隊的組織による左派狩りを大々的に行いながら、5・10単独選挙を強行した結果生まれた。そして李承晩を中心とする一部右翼勢力による政権樹立が為された。
 この単独政府の樹立は、いかなる形であれ左翼や革命分子とくにソ連の影響を恐れる保守派の指導者あるいは富裕層、旧日帝時代旧悪の追求を恐れる階層の利益にはかなったが、しかし、市民の大半は、即時統一を強く欲していた。だが、南北朝鮮一般市民の拘らないところで決定された、南北分断する敵対両政府の現実化、朝鮮の恒久的分断への不穏な状況を前にして 南北協商派のみならず、一般市民を巻き込む広範な、そして、激しい抵抗が繰り広げられた。
 それまでも南朝鮮(新韓国)の農村地帯の民衆は、解放後の数ヶ月は、それぞれ人民委員会を中心とする行政機構を組織し、それが米軍政庁の警察、軍予備隊組織、右翼青年団のために、だが、潰されては組織するという事が続けられていた。この種の地方の自治組織に対して、アメリカ占領軍は、共産主義的・親ソ的だとして敵対的だった。右派勢力も、勿論、それを壊滅させようとした。
 アメリカ軍の南朝鮮占領当初から1年間にわたる地方での弾圧の末に、ついに1946年秋には、南朝鮮地帯の相当広範な地域で、大規模な蜂起が起こっていた。その目的は、米軍政庁のホッジ中将が認めている通り、蜂起市民の主たる要求は人民委員会の復活であった。この米の収穫期の大決起が鎮圧されると、ソウルだけでなく、郡などの地方レベルでの国家権力の支配が強固になり、それまでの人民委員会の自治は、その後ほとんど不可能になった。だが、厳しい弾圧により、多数の死者、逮捕収監者が出たにも拘らず、以後も、この人民委員会支持勢力は強い勢力を秘かに保ち、また1947年には南朝鮮の左翼の大半は南朝鮮労働党の党員となっていた。この党は、南朝鮮独自の党だったが、慶尚道、全羅道出身者が多かった。その47年夏、そして秋と、激しい抵抗と、それへの逮捕、拷問、収監あるいは警察・軍予備隊による組織的弾圧・虐殺事件が続き、左派も山岳地帯でのゲリラ戦を行い、その鎮圧掃討に軍・警察・右翼青年団組織が動員され、双方が銃火を交え、互いにテロと破壊を行う、左派と右派の衝突が果てしなく繰り返された。
 そして、1948年の初めになって、南での単独選挙の実施が決まると、左派が根強い南西部(全羅道)および済州島において、単独選挙に反対する抵抗が、一気に激化した。
 とくに激しい抵抗と弾圧の結果、その政治対立による被害をこうむったのが、済州島であった。1948年初めまでこの島を自治支配していたのは、45年8月に結成された人民委員会だった。南朝鮮各道では既に政治的弾圧によって人民委員会組織は表だっては消滅し、そのメンバーも逮捕拘束されるか地下に潜行していたが、済州島は半島の南岸の沖に浮かぶ火山島であるため、まだソウルの米軍政庁、軍政警察、軍予備隊の圧力は緩かった。そのため、済州島の人民委員会への民衆の支持も固く、その影響力は強かった。ホッジ中将も済州島を「コミンテルンの影響を受けない人民委員会が秩序正しく真の意味の自治体」と呼んだこともあったが、単独選挙反対の気運による政治的緊張が強い48年4月、島に派遣されていた警察と西北青年団(北朝鮮追放あるいは脱出者の反共右翼青年団)の島民虐殺事件を契機として、民衆蜂起が勃発した。
 それは武装闘争になり、やがてゲリラ戦争に発展した。ゲリラは「人民軍」と呼ばれ、兵力は3000~4000だったが、統一的な中央司令部は無く、それぞれの地域のゲリラ部隊同士のつながりも無い発生的なものだった。彼等は山にこもり、沿岸道路や村々を襲撃し、48年6月初めには、島の内陸部の村のほとんどはゲリラに支配されるようになった。
 これに対して、ソウルの政治組織は、その大半が日帝下の朝鮮人警察官や補助警察官だった警察部隊と、北から亡命してきた人間で組織されたテロリスト的な反共青年団を大量に送り込んだ。このアメリカ軍事顧問と共に派遣された警察、警察隊(軍予備隊)、武装右翼青年団は、島に恐怖政治を展開した。そのゲリラ掃討、徹底的な地域封鎖、壊滅作戦も厳しく、1949年4月までに島の家屋の2万戸が破壊され、焼き払われ、全島民の三分の一にあたる10万人が、政府軍の守る海岸沿いの村々に収容された。この4月末のアメリカ大使館の報告では「全面的なゲリラ掃討作戦は、……4月に事実上完了した。島の秩序は回復した。ゲリラと同調者の殆どは殺されるか、捕虜になるか、転向した」と述べる。このアメリカ筋の資料では、死者は15,000ないし20,000だが、一般に33,000とされている。その正確な数字は今日でも不明であり、あるいは島民の30万人の三分の一が失われたともされている。

 (四) 麗水・順天の軍隊反乱事件
 そして、新韓国政府が誕生して10週間もたたない1948年10月19日夜、大きな社会的騒乱が発生した。すなわち、済州島の民衆暴動の討伐のために全羅南道の半島南端の麗水港に集結していた韓国軍第十四連隊が反乱を起こした。その勢力は2500名とされ、同地方所在の反政府分子と合流して警察を襲い麗水から北上して10月20日、順天を占領し、さらに光州方面に向かうという韓国正規軍の組織的反乱となった。麗水市民の多数が赤旗をふり、スローガンを叫んで市中を行進。10月20日の大衆集会で人民委員会の復活が宣言された。また、この反乱は警察に対する民衆の反感にあおられて拡大し、反乱部隊は麗水、順天において刑務所を開いて政治犯を釈放し、北朝鮮の旗をかかげ、人民裁判を行って警察官、旧親日民族分子、右翼政党団体の指導者などを数百人を処刑した。また、この鎮圧に向かった韓国軍第四連隊が、この反乱部隊に同調し合流して、一層、事態は悪化する経過ともなった。

 この反乱部隊が討伐に赴く予定であった済州島の騒擾は、すでに同年48年4月初旬、南朝鮮の単独選挙に対する反対運動として大衆が蜂起して以来のものだった。同島ではかねて警察の権力乱用、西北青年団などの右翼青年団の越軌行為が極めて甚だしかったため、一般島民のこれに対する反感が強く、反政府感情を広く醸成させていた。その為蜂起組織は、相当に島民の同情と支持を得ていたといわれた。韓国軍、警察はその鎮圧に努力した結果、済州島の治安は一時回復していた。だが、同48年秋の10月に至って再び騒擾が激化したため、政府軍の増援部隊が送られることになった。だが、その増援部隊内の左派分子は、麗水港で乗船を前にして、討伐の無意義を宣伝し、反乱を起こすよう扇動したのだった。
 政府は直ちに戒厳令をしいた。さらに、軍、警察隊を派遣して反乱軍の北進を防ぎ、鎮圧に努めた。その結果、38度線に向かった反乱部隊の主力は慶尚南道の智異山方面に逃げ込み、順天、北城、筏橋、光陽、麗水などの反乱部隊占領地区はやがて回復され、鎮静した。しかし、麗水などにおいては、一般市民、婦人、子供までが武器をとり、政府の討伐軍に抵抗したといわれる。また、それを鎮圧する警察、韓国軍の一般民衆に対する行動には、相当に常軌を逸した行為が多発し、相当数の市民が死亡。警察・政府軍兵士は反乱に協力した疑いが少しでもある者は、捕虜、民間人を問わずすべて射殺した。そのため、軍隊と一般民衆の間に、かなりの不安と恐怖のタネがまかれたとされた。
 この反乱事件は1週間後の10月27日までには鎮圧されたが、この武装蜂起事件が契機となって、済州島の暴動が再燃したのをはじめ、共産ゲリラの主根拠地である智異山を中心として、各地において民衆の暴動が発生するようになった。また、江原道の五台山地区においては、またゲリラ部隊が活動をはじめた。済州島の蜂起民衆は、依然討伐隊と対峙状態をつづけたが、その他の地区の暴動はもっぱら警察を襲撃し、部落の徴発を行う程度のものだった。
 これらの民衆、部隊反乱は、北側の策動によるものというより、過去3年間の抑圧への反抗、社会正義の実現、旧親日分子の追放、単独政府反対等を求める自然発生的な暴動だった。


  

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アメリカによる38度線分断支配とウクライナ戦争

2022年10月08日 | 国際・政治

 第二次世界大戦末期の1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告し急速に南下して来て、朝鮮全土を占領しつつあることに驚いたアメリカ政府は、ソ連と戦うことなくそれを阻止するため、急遽、政府内で38度線を設定し、ソ連に分割占領を提案して了承を得たことは既に確認しました。また、それが「一般命令第一号」としてアメリカ軍によって起草され、発令者は日本国大本営のスタイルをとったことや、それが、朝鮮の人たちの思いなど全く考慮していなかったことも確認しました。
 そしてホッジ中将率いる第24軍団が、占領軍として朝鮮に入り、在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を設置します。アーノルド少将が軍政長官をつとめたということですが、この軍政がまた、きわめて問題のある動きを展開します。

 なぜなら、当時朝鮮の人たちは、日本の降伏が発表されるや否や、建国準備委員会を結成し、朝鮮独立の準備を始めていたからです。朝鮮の人たちは、皆、朝鮮の信託統治南朝鮮単独政府の樹立など考えていなかったのです。でも、アメリカは大陸に対する足掛かりを得ようと、当初の方針にこだわり、いかにしてそれを実現するか工夫を凝らしたのでしょう。モスクワ三相会議における「信託統治」、すなわち、”統一民主朝鮮政府を樹立するため、朝鮮人民の構成する臨時政府を後見する”という考え方ではなく、”国連の信託により関係国が当該地域の統治を代行する”という考えた方で、南朝鮮単独政府樹立の方向に動くのです。
 国際社会におけるアメリカと南朝鮮におけるアメリカが、同じとは思えない動きを展開したということです。
 そして、朝鮮全土で信託統治や南朝鮮単独政府樹立に反対する声が高まると、ホッジ中将は、”信託統治に反対し、朝鮮の即時独立を主張しているのはアメリカだ”という反ソ的なキャンペーンを開始し、朝鮮の人たちを分断していくのです。
 また、韓国民主党の重鎮宋鎮禹が、金九系のテロリスト韓賢宇により拳銃によって射殺されたことも、共産主義過激分子によるものと宣伝したといいます。
 
 そしてアメリカは、朝鮮の人たちの信託統治の反対運動を潰すために、そうした運動の指導者、宋鎮禹金九を排除した後、李承晩の独立促成中央協議会や韓国民主党関係者の一部を強化育成する方向に進んだということです。
 また、そうした動きの中で、”朝鮮共産党責任秘書、朴憲永が朝鮮に対するソ連一国の信託統治を絶対に支持し、5年後に朝鮮がソ連に編入されることを希望した”というようなデマが、真実であるかのような報道がなされたといいます。
 私は、個人的に「国鉄三大ミステリー事件」といわれた下山事件三鷹事件松川事件に関し、”GHQが事件を起こし、国鉄労組や共産党員に罪をなすりつけたのだろう”といわれたことを思い出します。
 そうしたアメリカの朝鮮に対する関わり方を踏まえて、私はウクライナ戦争を受け止めます。

 ロシアやウクライナはもちろん、世界中にウクライナ戦争の停戦・和解を求める声があると思います。日本では、近代ロシア史やソビエト連邦史および現代朝鮮史などが専門の歴史学者、東京大学名誉教授の和田春樹教授や平和学研究者といわれる伊勢崎賢治教授が中心になって、「日本、韓国、そして世界の憂慮する市民はウクライナ戦争即時停戦をよびかける」という声明を発表しています。
 でも、日本のメディアは、その取り組みを後押しすることはもちろん、その取り組みに関する報道すらほとんどしていません。
 そして、アメリカやウクライナからもたらされる情報、すなわち、ロシアを悪とし、プーチン大統領を悪魔に仕立て上げるような情報を、日々流し続けています。
 ウクライナ戦争の当初、バイデン大統領は”この戦いは長い戦いになる”と言いました。なぜ、アメリカの大統領が、そんな見通しを語るのか、と思いました。
 また、アメリカのオースチン国防長官は、”ロシアが二度とこのような戦争ができないように、弱体化する必要がある”、というようなことを言いました。ロシアが、このような戦争ができないようにするために戦争をするのだという事だと思います。だから、停戦・和解をするつもりはなく、話し合うつもりもないのだろうと思います。
 バイデン大統領が、ロシアと話し合いをしないのかと問われて、”今は話し合いの時ではない”とか”話し合う意味がなければ、話し合いはしない”というようなことを言ったのは、まさに、ロシアの弱体化が目的だからだろうと思います。

 でも、欧米のメディアや日本のメディアは、毎日、人が無惨に死んでいるのに、アメリカやウクライナを後押しするような報道を続けているように思います。

 先日、朝日新聞は、「日中国交正常化50年」にあたって、社説に「平和を築く重層的な対話を」と題する文章を掲載しました。50年間にわたる日中関係をふり返りながら、相互に「違いを越える努力」の必要性を説いたのです。でも、その朝日新聞が、なぜロシアを敵視し、「違いを越える努力」を放棄するのか、私には理解できません。
 また、ウクライナ東部と南部の4州の「住民投票」を「民意の捏造だ」というように断定するのはなぜでしょうか。朝日新聞の社説にそうした断定的な文章を掲載することは、読者に対して大きな責任を伴うと思うのですが、その責任をどのように考えているのでしょうか。
 ”現地からは、係員が重武装した兵士と各戸を回って票を回収したとも伝えられる”というような、重大な問題を含む記事を 自らの取材に基づかず、また、きちんとした検証もなく”伝えられる”というような無責任なしめくくりで掲載するのは、どういうことでしょうか。 
 やはり、アメリカのバイデン大統領やウクライナのゼレンスキー大統領と同じように、人が何人死のうが、ロシアの弱体化がはっきりするまで、また、プーチン政権が倒れるまで、戦争を続ける方がよいと考えているのでしょうか。

 アメリカのオースティン国防長官は、”米国はなぜ長距離兵器を供与しないのか”、と問われたときに、”ウクライナの国防相とは定期的に連絡を取り合っている”と語り、”米国が戦場において効果のあるものを効果的に提供している”とも語って、ウクライナとアメリカが一体となってロシアと戦っていることを語っているのに、なぜ、アメリカがウクライナ戦争に深く関わっている事実の意味を考慮しないのでしょうか。
 私は、アメリカがウクライナ戦争に深く関わっている事実の意味を考慮しない姿勢が、ノルドストリームのパイプラインがなぜ破壊されたのか、ということをあまり深く追求しないことと結びついているように思います。

 日本国内の主要なメディアは、戦争で日々人が死んでいるのに、朝日新聞と同じように、停戦・和解ではなく、「ウクライナ支援・ロシア非難」の立場で報道していると思います。また、もう少しでロシアが屈服し、戦争が終るかのような無責任な報道が続いているようにも思います。
 戦争の長期化を憂慮し、アメリカの姿勢を批判的に取り上げて、停戦・和解を求める論調がほとんどないように思います。

 さらに、ロシアのウクライナ侵攻の経緯を考慮せず、2月24日侵攻以前に、すでに戦争が始まっていたという側面を無視して、突然ロシアが領土の拡張のために一方的にウクライナ侵略を始めたという論調が、ロシアはいつ北海道に上陸してくるか分からないとか、中国が近々台湾に侵攻するのではないかとか、北朝鮮が韓国や日本を爆撃するのではないかというような不安をかき立て、防衛力の強化に力をいれようとする政府の姿勢を後押しすることにつながっていることも見逃すことができないことだと思います。

 だから私は、アメリカの対外政策や外交政策がとても気になるのです。

 今回も、第二次世界大戦後、朝鮮戦争に至るアメリカの朝鮮に対する対応を踏まえるために、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)の、「第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾」から一部を抜萃したのですが、アメリカの対応に、とても問題があることわかると思います。
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              第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾

               第一節 冷戦の開始と信託統治問題

 (十) 信託統治と後見制
 だが、このモスクワ三相会議における決定第三項の「信託統治」は、いわゆる一般的な信託統治である国連憲章第七十五条の「信託条項」とは意味合いが本来は違っていた。前者はあくまで統一民主朝鮮政府を樹立するため、朝鮮人民の構成する臨時政府を後見する目的からの信託統治であるが、後者は国連の信託により関係国が当該地域の統治を代行するものであった。すなわち、両者は根本的に異なった政治的、外交的条件と目的を持つものであるが、しかし、このモスクワでの三相会議決議が朝鮮社会に伝わった時には、一般的には他国による朝鮮統治という形のものとして理解されることになった。

 (十一) ホッジ中将の反ソ扇動
 だが、このモスクワでの三国外相会議は、かねてから信託統治構想に反対するかのような一連の言動を行っていたホッジ中将の立場を、窮地に追い込んだ。すなわち、南朝鮮のアメリカ軍政庁は占領以来三ヶ月の間、南朝鮮において事実上単独行動、すなわち米ソの協調の不可能を前提に、とくに韓国民主党などの勢力を育成して、南朝鮮だけの反共的分離政策を目指すような方向での施策を実施していた。この親米勢力として再編された保守勢力ならば、ソ連を含む多国間共同信託統治よりも、アメリカ単独の後見を希望することは明らかであった。
 しかし、モスクワ協定は米ソ間の緊密な協力を規定していた。そのため、これが現実に実施されることになると、9月以来アメリカ軍政庁が南朝鮮で実施してきた重要な施策のほとんどが白紙化することになる。

 また、アメリカ軍政庁は、それまでアメリカ国務省の朝鮮への国際信託統治プランは、親ソ主義者である国務省内部の一部人士の個人的見解であるとの、国務省政策を否定する一連の言動を行っていた。だが、12月のモスクワ三相会議の結果は、それまでの一連のソウルのアメリカ軍政庁の言動や政策と大いに乖離するものであった。すなわち、結果として軍政庁は南朝鮮大衆を騙していた形となった。
 そのため、南朝鮮政情におけるアメリカ軍政庁の立場は、左右両派ほとんどの朝鮮大衆の反発をうけるようになった。すべての政党は敵対的となり、保守勢力さえもホッジ中将に反発した。南朝鮮におけるアメリカ軍政の立場は、きわめて困難な状態になり、市民の不満は激しく高まった。
 この南朝鮮政情における反米感情の昂揚と、社会全体の騒擾は、ホッジ中将の立場を非常に困難なものにした。彼は、この1945年末の南朝鮮政情について、有効な対応の方策を失い、逆に、事態の逆転をはかり、信託統治に反対し、朝鮮の即時独立を主張しているのはアメリカだというキャンペーンを開始した。それ以後ホッジ中将は、信託統治に反対する声明をつぎつぎに出した。また、アメリカ軍政庁は、「朝鮮に無理矢理に信託統治を布こうとしているのはソ連だという多くの朝鮮人の誤解を黙認し、むしろ意図的にそれを煽ったのは米軍政庁であった」という、いささか奇怪な態度をとった。これについては、モスクワ外相会議のニュースが最初にソウルに伝えられたとき、朝鮮の即時独立を希望したのはアメリカであり、これに反してソ連が信託統治を主張したとの重大な誤報があり、朝鮮市民大衆のみならず、アメリカ軍政庁のアメリカ軍人のなかにも、この誤報をそのまま受け取っていた者もいたという事情もあったとされた。
 だが、このアメリカ軍政庁の態度と、一連のホッジ中将の行動と信託統治への支持は、右翼による反託運動に強力な刺激を与えた。それはやがて朝鮮信託統治陰謀の元凶はソ連であるとの、反ソキャンペーンと変質していった。

 なかでも、韓国民主党および李承晩らの親米勢力、金九らの帰還した臨時政府に結集した二つの系統の右派民族主義勢力は、これに強く反応した。
 反託運動は、朝鮮全土がソ連の支配下に入るか、朝鮮民族がソ連の支配を拒否して即時独立するかというような本質から歪められた形として進められることになった。こうして南朝鮮は、不十分かつ不正確な情報のままで、激しく暴走をはじめた。朝鮮右派は29日、直ちに反託国民総動員委員会を組織して全朝鮮にわたるデモ、ストなどの一大抗議運動を展開した。
 さらに、李承晩と韓国民主党は、信託統治を実施し、朝鮮民族を奴隷化しようとしているのは、ソ連およびその手先である南朝鮮内の赤色カイライ勢力、およびアメリカ国務省内部に巣くう容共分子であるとして、反託運動を反ソ・反共愛国運動として提示し、煽動的な大衆動員を行った。

 一方、12月29日、韓国民主党の重鎮宋鎮禹は、ホッジ中将と会談したのち、帰還臨時政府派の指導者である金九を訪ねて、彼に軍政庁との衝突を避けることを説得した。だが、その2時間後の30日未明、金九系のテロリスト韓賢宇により拳銃によって射殺された。だが、これは当時共産主義過激分子によるものと宣伝された。

 (十二) 右派の反託運動激化
 こうしてモスクワ三相会議の議定である国際信託統治プランについては、左右両派は、一斉に起って反対の声をあげた。ことに右派は大衆を動員してデモ、ストライキ、閉店運動などを行った。また、アメリカ軍政庁との協力関係の断絶も厭わないと宣言し、軍政庁に雇用されている朝鮮人職員の罷業なども指令した。
 すなわち、12月30日、金九は大韓民国臨時政府国務委員会主席の名において①現在の全国行政庁所属の警察機構および朝鮮人職員をすべて臨時政府指揮下に帰属させる。 ②反託の示威運動は系統的かつ秩序をもって行う ③暴力行為ならびに破壊行為は絶対に禁止する。 ④国民の基本的生活に必要な食糧、燃料、水道、電気、金融、医療機関の確保、 運営に関する妨害行為を禁止する。⑤不良商人の暴利、買い占め等を厳重に取り締まる。などの臨時政府布告第一号を発表して、この反託国民運動の盛り上がりに乗じての政権奪取構想を示している。

 そして大規模な街頭デモおよびストライキがソウルその他の都市で行われた。だが、この一連の金九の演説で、金九が信託統治反対とともに糾弾したのは、ソ連ではなく朝鮮内の反逆者と親日分子(軍政庁雇用の旧総督府朝鮮人職員・警官および韓国民主党関係者など)であり、この12月28日から1月1日にかけて、金九指導下の臨時政府派の指導者は、呂運亨指導下の人民共和国派指導者たちと会見して、反託運動のための連合体を結成しようと試みていた。

 だが、この金九指導下の臨時政府派(かつて中国亡命大韓民国臨時政府系)による、政権掌握を意図したかともみられる大衆動員行動は、アメリカ軍政庁に対する一種のクーデター的行為として、ホッジ中将の激しい反発をかった。2日後の1946年1月1日、ホッジ中将は金九を呼び、一連の軍政庁占領政策に反する行動ならびにアメリカ軍政に対する背信について、厳しく痛罵した。結局、このアメリカ軍政当局の激しい反発にあい。金九の政権奪取構想は頓挫することになった。
 これでホッジ中将の政権育成構想のリストから、まず宋鎮禹が暗殺され、これで金九がはずされ、李承晩の独立促成中央協議会および臨時政府派に入っていない韓国民主党関係者を強化育成していこうと試みるようになったとされた。
 また一方、韓国民主党の宣伝は、依然、信託統治提案をしたのはソ連であり、アメリカは即時独立を主張したとの扇動宣伝をつづけ、対ソ非難、対左派非難をつづけていた。この有産保守階層と軍政庁に継続雇用されている旧総督府朝鮮人職員たちには、旧日本時代に対日協力経歴のあるものがきわめて多かった。米ソ共同管理となればアメリカ軍政の庇護がはずされることになる。そのような場合、南北ともに圧倒的多数を占める左派のため、かつての民族反逆的行為が処断されるのが必至の情勢であった。そのため、彼等にとっての反託運動は、自己の生存にかかわる問題でもあり、また手段であったようであったとみられた。 
 (十三) 左派路線変更と左右分極化
 だが、この1月初旬、南朝鮮左派はこの信託統治問題に関して路線変更、俄然態度を一変させた。すなわち、1946年1月3日、人民共和国派の中央委員会は声明を発して、「モスクワ会談の信託統治決定はそれが独立を促進する意味を持つ限り進歩的である」と突如態度を豹変して、信託統治案を支持する経過に至った。
 この南朝鮮左派の「反託」から「受託」への大幅な路線変更については、当時から一般に北朝鮮の平壌指令によるものと考えられてきた。だが、南朝鮮の共産主義者と、北朝鮮ですでに政治の前面に金日成を新しい中心とする共産主義者グループとは、当時派閥対立的関係にあり、おおむね南朝鮮の共産主義者は朴憲永指導下に北朝鮮とは独自の行動をとっていた。この南北共産主義者間の軋轢はのちに、1953年からの金日成派による南朝鮮労働党系の粛清として、朴憲永派の排除により決着することになるが、当時のアメリカ軍政庁の公式記録でも、その北からの指令を裏づける裏付け状況証拠は無いとされていた。
 ただ、12月28日から1月1日の5日間、ソウルの各新聞は右派の臨時政府派と左派の人民共和国派が「反託の大義のために合作するだろう」と報道をつづけており、1月1日のホッジ中将の金九非難の翌日、この臨時政府派と人民共和国派の左右合作の話し合いは立ち消えとなった。また1月2日、北朝鮮を訪問していた朴憲永が南朝鮮に帰還したともされた。さらに翌日の1月3日、人民共和国の機関誌は、モスクワ協定に対する支持声明を発表する経緯となったとみられた。これに続いて、他の左翼新聞も人民共和国派のこの立場を支持するような展開となった。

 この左派による態度急変が契機となって、それ以後、信託統治運動は、全面的に右翼勢力がイニシアティヴをとることになった。それは、反ソ、反共愛国運動の形で行われることになった。
 それ以後、この問題に対する「反託」か「受託」かが政治的踏み絵となって行った。また、これが親米即時独立か親ソ他国統治かの歪められた扇動、宣伝のために、青年グループなどによるテロリズムが左右の間で頻繁に起こり、これをコントロールすることは事実上不可能になった。また、反託より受託への突然の路線変換により、左翼に対する大衆の支持は一時的に低下した。
 さらに1946年1月15日のサンフランシスコ放送は、ニューヨークタイムズのソウル特派員報道を引用して、「朝鮮共産党責任秘書朴憲永が朝鮮に対するソ連一国の信託統治を絶対に支持し、5年後に朝鮮がソ連に編入されることを希望した」とのセンセーショナルな報道を行った。これは1月5日、共産党の指導者朴憲永が内外の記者団を前に聞いた記者会見での内容を、ニューヨークタイムズのジョンストン記者がなぜか全く反対の内容に誤報したものだが、これは左翼の信用を失墜させようとしていた右翼の絶好の宣伝材料になった。ホッジ中将は、あえてジョンストン記者に訂正記事を書かせることを拒絶した。こうして、後にホッジ自身が「いつの間にか信託統治、ソ連の支配、共産主義はすべて同義語となった」という扇動と流言に揺れる社会情勢となった。
 また他方では、当時の五大政党である国民党、韓国民主党、人民党、共産党、新韓民族党(党首権東鎮、副党首呉世昌12月14日右翼的小党22を統合したもの)の会談が開かれた。
 1月8日、「朝鮮の自由独立を保障し民主主義発展を援助するというモスクワ協定の精神と意図は全面的に支持するが、信託制は将来樹立されるべき朝鮮政府によって解決されるべきである」との共同声明を発表した。だが1月12日、右派主催の反託国民大会が左派と衝突するにおよんで、五党会談は完全に決裂した。左派の人民共和国中央委員会の提案による右派の大韓民国臨時政府派との統一工作 
も挫折した。
 こうして信託統治制問題をめぐって激しく表面化し、動揺した南朝鮮政情も、結局左右両派の対立を決定化させるだけに終った。このモスクワ協定に対する対応と、以後の激動が、解放後全朝鮮の政治的分水嶺となり、その結果、南北朝鮮政情は、不十分な情報あるいは意図的な扇動宣伝に激しく揺れて、衝突とテロ的行為が頻発し、そして左右両派に修復不能なまでに二極化していくことになった。
 この信託統治案に対する北朝鮮とおよび南朝鮮左派と南朝鮮右派の賛否が、このような妥協の余地なくはっきりと対立したことは、統一国家樹立のための国民的合意の可能性を消去するものであり、それ以後の朝鮮独立問題の道程に横たわる大きな暗礁となった。

 

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アメリカの対朝鮮政策とウクライナ戦争

2022年10月05日 | 国際政治

  私は、日々、ウクライナ戦争の死者の報道があるのに、停戦・和解の話がほとんどないことに苛立ちを感じています。なぜだろうと思います。
 また、ウクライナ戦争について報道される事実についても、双方の言い分を知りたいと思うのですが、ロシア側の情報はほとんどありません。だから、ツイッターやユーチューブ、english.pravdaなどから、ほんのわずかな情報を得ます。でも、その情報が真実であるかどうか、自ら確かめる手段がありません。
 そこで、わずかな情報と関係者の時々の発言、諸事件の前後関係、また、ウクライナ戦争を主導するアメリカの対外紛争に対する関わり方の歴史などをふり返ります。すると、プーチン大統領のいうアメリカの過ちや犯罪性が否定できないように思われるのです。

 今回は、前回に引き続き第二次世界大戦後の、朝鮮に対するアメリカの関わり方を取り上げます。
 第二次世界大戦後、日本の植民地であった朝鮮に関わる戦後処理も、アメリカによって、建国準備委員会の取り組みや朝鮮の人たちの思いを無視するかたちで進められました。
 アメリカ政府は、1945年8月8日、ソ連が対日宣戦を布告し、ソ連軍が急速に南下してきて、朝鮮全土を占領しつつあることに驚き、それを阻止するため、急遽、アメリカ政府内で38度線を設定し、ソ連に分割占領を提案、了承を得ました。それは、「一般命令第一号」としてアメリカ軍によって起草され、発令者は日本国大本営のスタイルをとったのですが、決して朝鮮の人たちのためではなかったと思います。
 
 1945年10月には、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定しましたが、信託統治制実施に関するジョン・カーター・ヴィンセント極東部長の見解の発表は、 朝鮮全土に大きな衝撃を与えたといいます。1945年8月15日、日本敗戦のその日に建国準備委員会を結成し、即時独立の準備を進めていた朝鮮の人たちは、その左右両派の立場にかかわらず、ヴィンセント極東部長の信託統治制に反対する声を一斉にあげたということです。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束し、朝鮮の各新聞も、信託統治反対の論調を継続的にとりあげたというところに、アメリカの方針に対する朝鮮の人たちの強い思いが現れていると思います。
 
 でも、朝鮮の人たちの取り組みや思いを無視するアメリカの戦略は、実に巧妙でした。
 ”ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催”され、「モスクワ三相会議決定」が発表されるのですが、その発表内容と、現実に朝鮮で展開されたアメリカ軍政庁の施策には、無視することのできない乖離があるのです。
 だから、私はアメリカが公言することと、実際にやっていること、また、表に出てくる事実と無視され、隠されてしまう事実などを見逃さないようにしなければならないと思うのです。

 ウクライナ戦争に関して言えば、先日、ノルドストリームにガス漏れが発生し、破壊工作の結果であるという疑いが発表されました。また、ロシアの関与が疑われるというようなことも報道されました。でも、ノルドストリームについてアメリカは、オバマ大統領のときから、懸念を表明しており、トランプ大統領やバイデン大統領は、攻撃的な発言をくり返してきたと思います。
 また、関連会社やその会社幹部に制裁を科したりした事実や、原発の停止と関連して、ロシアとノルドストリームの計画を進めていたドイツのメルケル首相の携帯電話が、アメリカの情報機関に盗聴されていたという事実は、この破壊工作がアメリカによるものである可能性が大きいことを物語っていると思います。アメリカにとっては、ノルドストリームの復活は好ましくないことだからです。
 逆にロシアは、ドイツを中心とするヨーロッパ諸国が、エネルギー問題で行き詰まり、NATO諸国のウクライナ支援国から外れて、ロシアの天然ガス輸入再開を決定するのを持ち望んでいると思います。だから、自らパイプラインを破壊することはないだろうと、私は思います。 

 下記は、「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)から、「第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾」の一部を抜萃しました。
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              第2章 信託統治案ショックと政治的騒擾

               第一節 冷戦の開始と信託統治問題

 (五) 信託統治案ショックと政治的騒擾
 すでに第一章で述べたように、1943年3月以来、アメリカ政府内部において朝鮮半島戦後処理問題が構想されていた。この年のカイロ会談で適当な時期の朝鮮独立が国際公約として連合諸国間で諒解されていたが、これはルーズベルト構想による朝鮮への国際信託統治プランとして明確化されていた。だが、これは相互諒解のみの段階であって、共同宣言、あるいは条約公文などで細部確認されたものではなかった。これがはっきりした協定に達したのは、1945年5月になってからであった。それはルーズベルトの死後、スターリン首相と新しく就任したトルーマン大統領との間でのことでだった。  
 だが、それまでの、この朝鮮に対する国際信託統治構想は、単に連合諸国政策決定機関レベル間の内部においてのみで口頭で交渉協議されていた戦後処理計画であった。そのため、この朝鮮の国際信託統治計画については、文書による協定もなかったし、その具体的な実行計画も立案されていなかった。
 この朝鮮半島に関するルーズベルトの戦後処理構想が、やがて1945年12月にモスクワで開かれることになった米英ソ三国外相会談で具体的に討議され、それがモスクワの議定書として朝鮮に五年間の米英中ソの四大国による信託統治プランとして決定されることになる。

 だが、これは以後の朝鮮の命運を決する外国勢力による国際決議であった。これが一旦公表されて南北朝鮮に伝わると、外部からの一大政治的衝撃は、南北政情をおおきく揺るがすことになった。また、その結果、この国際信託統治構想を拒否し「反託」の立場に立つか、逆に、受け入れて「受託」の立場にたつかが、その選択がきわめて国家と民族の運命に重大な意味を持つだけに、以後の南北政情の進む方向を決定する分水嶺となった。また左右両派が、一方は「反託」にまわり、もう一方が「受託」にまわったことにより、以後、合作が不可能なほど分離することになる政治的踏み絵となった。さらには、米ソが朝鮮半島を舞台として 、直接激しく、しかも妥協の余地のない形で衝突し、そして「冷戦」の時代に突入していく、極東における発火点ともなった。

 まず、1945年10月20日、アメリカ政府の国務、陸軍、海軍三省調整委員会は、朝鮮に関する一般的政策を決定した。そこには「現在のアメリカ軍とソ連軍による朝鮮の地域別軍事占領は、できるだけ早い時期に朝鮮への信託統治という形に置き換えられるべきである」と述べられていた。そこで翌日、国務省のジョン・カーター・ヴィンセント極東部長は、長期間日本の統治下にあった朝鮮に対しては、その独立自治能力の養成準備のためにも、当分の間、国際信託統治制を実施したい意向を表明して、つぎのような発表をした。「現在の朝鮮は、長年日本に服従してきた後であるので、すぐに独立した政府を持つ用意ができていない。従って、われわれは朝鮮が独立国家としての行政を行う準備が整う間、信託統治の期間を設けることを主張する。どのくらいの時間がそのためにかかるのか、あなた方にも私にもいえない。しかしわれわれは、その期間が短ければ短いほど、好ましいという点に同意するだろう。」

 だが、これが朝鮮に伝えられると、朝鮮全土は大きな衝撃を受けた。従来から即時独立以外の過渡的政治形態をなんら予想していなかった朝鮮民衆は、その政見立場にかかわらず信託統治反対の声を一斉にあげた。韓国民主党、国民党、人民党、共産党、その他すべての政党が信託統治拒否のため結束した。また朝鮮の各新聞は、信託統治反対の論調を継続的にとりあげた。

 (六)反託運動と政治的騒擾
 しかし、国際信託統治構想は、本来はルーズベルトの戦後処理構想であり、基本的にはアメリカ政府が企画し推進したものである。だが、在南朝鮮米軍司令官であるホッジ中将は、アメリカ政府各省間の連絡の不備のためか、また別の理由からか、彼は常に接触する南朝鮮右派政客に対して、信託統治構想の性格と主旨を否定する態度をとりつづけた。そのようなアメリカ国務省の立場と食い違うソウルのアメリカ軍政庁の立場から、10月30日、アーノルド軍政長官の言葉として、信託統治に関する国務省極東部長の発言は、ヴィンセント部長の個人的な見解にすぎないとの旨が新聞報道された。

 だが実際は、翌11月10日、ワシントンにおいてトルーマン大統領、イギリスのアトリー首相およびカナダのマッケンジー首相が会談して戦後の諸問題を討議しているが、その際に極東情勢についても話し合われていた。その結果、朝鮮問題については、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の戦勝四大国による国際信託統治を行うために、アメリカが直ちに何らかの政策をとるという同意が成立していた。すなわち、南朝鮮占領の現地アメリカ軍の独断的な動きとは逆に、アメリカ政府部内においては、この信託統治構想が具体化していた。

 このような一連の外部からの大国の朝鮮干渉の動きがつたわると、朝鮮政情はさらに動揺した。38度線封鎖による経済の麻痺状態のため、深刻な市民生活の打撃をうけていた朝鮮大衆の世論に、一層の深刻な不安感を与えた。
 そのため、この信託統治問題に関する限り、当初は左右両派一致して反対したような民族的連帯が生じ、超党派的に朝鮮信託管理委任統治制反対委員会が結成された。また、国連および関係各国に朝鮮に対する信託統治案の撤回、自主独立国家早急樹立を要請する決議文を発送して、左右を超越した挙国的な反対機運が動いていた。11月2日、右派の独立促成中央協議会は李承晩自らが起草したという「四大連合国およびアメリカ民衆へ送る決議書」を可決したが、これにも共同信託制を拒否し、その他の如何なる種類を問わず完全独立以外のあらゆる政策に反対する旨の結論が述べられていた。
 しかし、その間共産党は、独立促成中央協議会の掲げた朝鮮問題解決の原則的条件に反発をしめした。12月5日には独自の信託統治反対のメッセージを関係諸国当局に発送したのち、12月24日、遂に協議会との正式絶縁を発表するに至る経緯となった。
 一方、この間の12月12日、アメリカ軍政庁は東京のマッカーサー司令部の許可のうえで、呂運亨指導下の人民共和国に対してさらに強硬な態度に出ることになった。すなわち、人民共和国を公然と非難し、その活動は「不法」であるとして、人民共和国の政府機能類似活動および、その傘下の大衆団体の活動を禁止、抑圧する方針を一層明確にした。
 また、それまで労働組合が自主管理していた旧日本系企業、工場の占領軍による接収作業を一層強硬にすすめた。これらの企業には、軍政庁から朝鮮人管理者が任命されたが、のちに李承晩政権が誕生してのちには、これらの任命管理者はその企業の公然たる所有者として、これらの企業を私物化することになる。

 (九)モスクワ三国外相会議、朝鮮問題議定
 こうして、ソウルのアメリカ軍政庁関係筋の思惑や、物情騒然たる朝鮮国内政情とはいっさい関わり無く、12月16日から6日間モスクワにおいて、戦後、連合国の間に起こった諸問題の処理のための国際会議である米英ソ三国外相会議(米バーンズ国務長官、英・ベヴィン外相、ソ連・モロトフ外相)が開催された。
 そこにおいて、かねて戦時中からの四大国間の懸案でもあった朝鮮に対する国際信託統治構想も、とくに南北を分割占領し、38度線を封鎖した米ソ両軍の調整問題とも関連して討議されることになった。これは朝鮮問題に関する限り、もっとも重要な国際会議であったが、やはり朝鮮市民の意志にかかわりのないところで開かれた戦勝連合国間の、戦後支配構想の角遂する政治的戦場でもあった。

 この1945年12月16日午5時、モロトフ・ソ連外相が議長をつとめる会議において、「独立した朝鮮政府を樹立するための前奏曲として、朝鮮に統一行政を設立すること」を議題とすることを提議し、同意された。つぎにバーンズ国務長官が、12月8日付けのハリマン大使よりモロトフ外相宛の、「朝鮮にいるソ連軍司令官がアメリカ軍司令官と通信・通商・通貨・貿易・交通・電力・分配・沿岸船その他一般的な問題に対する統一行政の整備について話し合う全権を与えられているか」を問う書簡を発表した。これに対しモロトフ外相は、「この書簡は、政府の行政とは異なった問題に関係しているから、現在議論している問題とは何の関係もない」として、議題を信託統治問題にのみ限定しようとした。
 翌日バーンズ国務長官は、アメリカの対朝鮮政策に関する声明を発表した。彼は「カイロ宣言」を強調し、その統一された独立国家朝鮮の成立の目的達成のため、米ソ両軍により二つに分割された状態を廃止し、統一政府を樹立することを主張した。そして朝鮮を国際連合下の信託統治に移行するための行動に、直ちに移ることを提案した。
 この際に、バーンズ国務長官は、それまで十年にわたる程度の信託統治期間がアメリカの構想であったのを変えて、ソ連の短期案に対抗するため5年に期間を短縮したものを発表した。また本来のアメリカ案が、四大国管理による最高統治機関として、一人の高等弁務官と各国代表よりなる執行委員会設置によって朝鮮の行政、立法、司法に対する信託統治実施をほどこすという、より直接統治的色彩がある内容であったのに対して、ソ連案は、信託統治は朝鮮人自身による臨時朝鮮政府を構成し、それを通して行うとの間接管理的(後見的)立場であった。バーンズ国務長官はアメリカ案を捨てて、ソ連案の原則を認めた。
 これを承けて、12月20日モロトフ外相は、経済的都合、臨時政府の樹立、四大国による5年間の信託統治の承認などの緊急問題について新しいソ連案を合同会議に提出。バーンズ国務長官は、そのソ連案の二つの点について細部の変更を求めたが、基本的にこれを受け入れた。イギリスの代表のベヴィン外相もこの協定内容に同意し、これによって、この案はモスクワ議定書に盛り込まれた。

 こうして、12月27日合意が成立した。以後、このモスクワにおける三国外相会議で採用された議定書が、以後の朝鮮処分に関する国際的決定の基礎となった。また、のちに中国(国民党政府)も参加することとなった。このモスクワ協定の朝鮮に関する箇所の全文は、翌日の12月28日にワシントン、モスクワ、ロンドンにおいてとして同時公表されたが、それはつぎのような内容のものであった。

第一 朝鮮を独立国家として再建し、民主主義的原則にもとづく国家として発展させる条件を造成すること、および長年におよぶ日本統治の悲惨な結果をできるだけ早く清算するために、民主的な朝鮮臨時政府を樹立すべきである。この臨時政府は、朝鮮の工業、交通、農業そして朝鮮人民の民族文化を発展させるために必要なあらゆる施策を行うべきである。
第二 朝鮮臨時政府の構成を助け、そのための適切な諸方策を予備的にとる目的のために、在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部の代表からなる共同委員会を組織すべきである。この共同委員会はその提案を作成するにあたっては、必ず朝鮮の民主的諸政党および社会団体と協議すべきである。委員会によって審議され作成された諸建議案は、共同委員会に代表されている米ソ両国政府が最終的決定を行うが、その前に米、ソ、英、中の四か国政府の審議に付されなければならない。
第三 共同委員会は、朝鮮臨時民主政府と朝鮮の民主的諸団体の参加のもと、朝鮮人民の政治的、社会的進歩と民主的自治の発展および独立国家の樹立を援助協力する諸方策も作成する。共同委員会の諸提案は、朝鮮臨時政府と協議したのち、5年以内を期限とする四カ国信託統治に関する協定を作成するために、米、ソ、英、中の各政府の共同審議に付さなければならない。
第四 南北朝鮮に関連する緊急な諸問題を審議し、または在南朝鮮米軍司令部と在北朝鮮ソ連軍司令部との行政、経済諸問題に関する日常的調整を確立する諸方策を作成するため、二週間以内に朝鮮に駐屯する米ソ両軍司令部代表による会議が召集されなければならない。 
 
 朝鮮半島の第二次大戦後の国際的地位は、国連憲章第77条がその一のⅡにおいて「第二次世界戦争の結果として敵国より分離されることあるべき地域」と規定するのに該当しているとされていた。モスクワ協定はその規定の上に立って朝鮮に対する信託統治の手続き、期間に関し具体的に内容を示したものであった。

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ゼレンスキー大統領と李承晩大統領

2022年10月03日 | 国際・政治

 下記の資料1は、「朝鮮戦争の起源 1 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭/林/加地:訳(明石書店)の文章ですが、”アメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ”とか、”南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている”というような表現で、 戦後の朝鮮半島に対するアメリカ軍や政府関係者の本音を知ることができると思います。
 特に、ラングドンの電文で示された(1)から(6)の内容は、アメリカの対外政策や外交政策がいかなるものであるかをよく示しているように思います。

 資料2の「朝鮮戦争 三十八度線の誕生と冷戦」孫栄健(総和社)は、アメリカの朝鮮支配の実際を、詳細に記述していますが、その中から、南朝鮮に李承晩政権が誕生するまでの経緯の重要部分を抜き出しました。
 まずアメリカは、”呂運亨率いる建国準備委員会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力”が、民族自決の精神を持つ国民自治行政組織として、すでにめざましい活動を展開していたにもかかわらず、それを受け入れず、完全に潰しました。

 そしてアメリカは、「朝鮮人民共和国」勢力のような左派的な革新勢力を排除し、既存の旧統治体制、すなわち日本の統治機構である朝鮮総督府組織の日本人総督府官吏・警官を継続利用し、戦時中の対日協力者である朝鮮人、いわゆる”民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団・階級”を吸収しながら、反共的で親米的な南朝鮮政権を樹立させる方向に進めたのです。
 それは、「朝鮮総督府」の名称を「アメリカ軍政庁」に変え、アーノルド軍政庁官の下、旧総督府から引き継いだ警務局、財政局、鉱工局、農商局、交通局、逓信局、学務局の八局長官を米軍将校に挿げ替えただけともいえるものであったようです。

 そして、”アメリカ占領軍は、この明確な反共主義者である李承晩を活用すべく、1945年10月12日から15日まで、東京においてマッカーサーとホッジ中将会談の後の10月15日、李承晩は、マッカーサーの飛行機でソウルに送られた。”ということで、李承晩が登場してくるのです。

 こうしたアメリカの朝鮮支配、その他の実際を踏まえて、私は、ウクライナ戦争を受け止めるのですが、そうすると、いろいろ気になることが出てくるのです。
 たとえば、最近、ゼレンスキー大統領は、”プーチンが大統領である間は、ロシアとは交渉しない”というようなことを言ったようですが、それはプーチン政権を崩壊させ、ロシアを弱体化させようとするアメリカやウクライナの意図が、透けて見えるような発言だと思います。
 ”ほかの人が大統領になれば交渉します”というような姿勢を見せることによって、”プーチン大統領を失脚させれば、戦争が終わるのではないか”という期待を、多くの人に抱かせる発言のように思えるのです。
 ゼレンスキー大統領の発言は、いつも、アメリカの思いを代弁しているように思えると同時に、停戦ではなく、くり返し武器の供与を求め、ロシアとの戦争に突き進むゼレンスキー大統領の方針も、ロシアをヨーロッパ諸国から排除し、孤立化させ、弱体化させようとするアメリカの方針そのもののように思えるのです。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 第六章 南朝鮮の単独政府に向かって

 臨時政府の帰国と「政務委員会」(Governing Commission)
 ・・・
 マックロイは明らかにアメリカの対朝鮮政策の矛盾を指摘したうえで、軍政庁の方針に賛成したのである。つまりアメリカ軍政は、あくまでも自らの主導力の下で朝鮮の政府を樹立しなければならないということだ。マックロイは、言うまでもなく片田舎の下っ端役人などではなく、戦後のアメリカ外交政策の決定にあたっては中心的な役割を演じてきた人物の一人だった。アメリカ軍政当局はこうして国務省との対立抗争に際して強力な味方を獲得したのである。
 南だけの単独政府を樹立しようとするソウルの米軍政の決定は、1945年11月20日付のウイリアム・ラングドンの電報の中にはっきり述べられている。彼は信託統治の構想は破棄すべきだという主張から始めている。
 
解放後の朝鮮で一ヶ月ほど見聞したこと、およびそれより以前、朝鮮で仕事に携わった経験から考えて、私は信託統治を朝鮮で現実に適用することは不可能であると思うし、倫理的観点からも実際的観点からも信託統治が妥当であるという確信を持つことができない。従って、我々は信託統治の構想を放棄すべきであると信じる。信託統治が誤りであると考えるのは、朝鮮人は日帝支配の35年間を除けば、常に独自性を給ってきた民族であったし、アジア的、或は中東的基準から考えれば、識字率が高く、文化と生活の水準も高いからである。……だから、朝鮮人は例外なく自分達が生きている間に自分達の国をつくることを望んでおり、人から押しつけられた国家の水準を満たすために、それがたとえ如何なる形態のものであれ、外国の後見のようなものを受け入れようとはしないだろうというのが現実のように思われる。

彼は続けて、金九のグループは「解放された朝鮮における最初の政府として、これに挑戦しうる競争相手をもたない」のだから、臨政が帰国すれば「アメリカは嫌われたりそしられたリする心配のない建設的な朝鮮政策を樹立する好機をつかむことができるであろうし、そのような政策とは大まかに言って次のようなものである。

(1) アメリカ軍政の司令官は金九に命じて朝鮮の政府形態を研究しその樹立を準備させるため、いくつかの政治グループの代表からなる協議会を軍政庁の中に設置させ、これを基盤に政務委員会(Governing Commission)を組織させる。軍政庁は、政務委員会に対して様々な便宜、助言、及び運営資金を提供する。
(2) 政務委員会は軍政内に編入される(軍政は直ちに朝鮮人だけの機構に作り変えられる)。
(3) 政務委員会は軍政を継承して暫定政府となるが、しかし米軍の司令官は拒否権を保持し、また必要に応じてアメリカ人監督及び顧問を任命する権限を持つ。
(4) 他の関係三国(イギリス、中国、ソ連)に対しては、アメリカ人の代わりをつとめるべく、政務委員会に若干の監督と顧問を派遣することを要請する。
(5) 政務委員会は国家元首を選ぶ。
(6) 選出された国家元首によって構成された政府は外国の承認を得、条約を締結し、外交使節を派遣することができる。そして朝鮮はUNO(国連)への加盟が認められる。追記──この過程のある時点、多分(4)と(5)の間で、相互撤兵、及びソ連地域にまで政務委員会の拡大をすることに関する交渉がまとまる。ソ連には予めこのような計画を通告し、またソ連地域の人物で協議会により政務委員会のメンバーに指名された人にはソウルに来ることを許容し、そうすることによってこの計画が更に進められるようソ連側(の協力)を促すべきである。しかしたとえソ連の参加が実現されなくても、この計画は38度線以南の朝鮮で実施されるべきであろう。

 朝鮮の伝統的な旧体制(李王朝)は、国内的には封建的で腐敗していたが、記録にしるされている限り、外国の利益すなわち外国人の生命、財産、並びに企業に保護を与えるとか、条約もしくはそれに基づく特権を尊重するとかの面においては極東三国の中でも誠に申し分のない性格を備えたものであった。私がいま確信をもって言えることは、以上のようなプロセスで樹立されるであろう朝鮮の政府は最小限、旧体制の朝鮮政府並みのこと位はするだろうと期待してよいことである。勿論、(古い体制が崩壊したあと)朝鮮人社会の中で起こった発展と、外国人監督の下におけるこれから先の変化を勘案すれば、上に述べたこと以上のことを期待してもあながち不当だということはありえないだろう。…… 総人口の四分の一(ママ)を占める北朝鮮の人びとについて言うならば、朝鮮人は全く同質性の民族であって、たとえ政治的、社会的な変革が(この計画によって)もたらされるにしても、彼らがそれに反発し、全国的統一政府の成立を歓迎しないということは考えられない。

 ラングドンのこの文書は実に驚くべき内容を秘めたものであるが、この文書は11月13日付(つまりこの文書の一週間前)の軍政法令第二八号に対する直接的な言及をもって締めくくられている。法令二八号とは「朝鮮人の陸海軍を組織し、これに訓練と装備を提供することを目的にするもの」であったのだ。
 グランドンの電文は占領1年以内に現われたもののうち最も重要な文献だったのでほぼ全文を引用した。この電文は、後日、たとえば1946年2月の代表民主議院、1947年の南朝鮮過渡政府、そして1948年の李承晩政権による最終的な権力掌握という結果に帰着することになる政策を具体的に述べたものだったといえよう。ラングドンの提案と実際の経過との間の基本的な違いは、国連が(6)の時点ではなく(5)の時点で引き入れられ、1948年5月の南朝鮮単独選挙に合法性を与えることに利用されたことであった。勿論この選挙での勝者となったのは、(計画が予見した)金九ではなく李承晩である。この位のくい違いを別とすれば、ラングドン計画は字句その通りに最終結論に向けて遂行されたと言えるだろう。
 ・・・
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 第1章 戦後米ソ対立と南北体制の起源

                 第四節 分割占領下における政情の混沌

(一) アメリカ軍政の人共否認と韓民党登用
 一方、米ソ両軍による38度線を境界とする南北朝鮮分割占領の、その当初の時期での朝鮮政情においては、すでに呂運亨率いる建国準備委員会とその後身である「朝鮮人民共和国」勢力が事実上の初期国民自治行政組織として、すでにめざましい活動を展開していた。
 すなわち、8月15日以後の朝鮮全土を政治の嵐が吹きつづけた時期に、ほとんどすべての朝鮮大衆がもとめていたのは、過去の植民地時代の社会的不正の是正、旧体制の清算と、新しい抜本的な社会改革であり、民族自決の原則にもとづく国民政府の創建であったからである。その結果、南朝鮮での圧倒的大衆、すなわち圧倒的な比率を占める貧困な無産階級、旧日本統治時代に犠牲を強いられていた多数派は、解放後社会の抜本的改革をもとめて、結果として左派の主導する朝鮮人民共和国、その傘下の地方人民委員会を支持する形となっていた。 
 しかし、このような人民共和国勢力と地方人民委員会の革命的、容共的な性格は、明らかにアメリカ政府の極東政策にそぐわないものであった。また、きわめて強固な反共主義者であるマッカーサー司令部の意向にも反するものであった。さらに、人民共和国勢力の主張する「朝鮮人民共和国」としての自治「政府」としての機能は、ルーズベルト構想にもとづく戦勝四大国による朝鮮への国際信託統治プランと相反する部分もあった。
 その結果、南朝鮮占領米軍は、この上級指令部などの意図にそって、「朝鮮人民共和国」なる朝鮮人民から発生した自治政府機能を否認するとともに、親米的朝鮮政権の養成に進もうとしたとみられた。こうして南朝鮮を占領したアメリカ軍政の方針が、この系統の左派的な革新勢力より、既存の旧統治体制、すなわち旧植民地統治機構である朝鮮総督府組織の維持利用にあたることが明確になって来る情勢となった。それは、旧時代における日本人総督府官吏・警官をも継続利用する方向のものであった。また、旧時代においての対日協力者である朝鮮人、いわゆる民族反逆者と当時呼ばれていた人物集団・階級をも吸収しながら、反共的な親米政権をつくりあげるために利用するものとの印象を一般に与えよたような方向の政策であった。

 (二) 派遣米軍の長期占領政策の欠如
 ・・・
 すでに、9月11日、米軍当局は、その管轄占領地区に軍政を施行し、軍政庁を設置することを発表していた。また、アーノルド軍政長官は、9月14日には旧植民地時代の警官をそのまま登用すると発表尉していた。また、9月17日には、米軍将校をそれぞれ旧総督府から引き継いだ警務局、財政局、鉱工局、農商局、交通局、逓信局、学務局の八局長官に任命した。また、9月19日には、朝鮮総督府の名称が廃止され、アメリカ軍政庁の名が宣布された。こうして、朝鮮一般市民大衆には、きわめて意外にも、36年の日本による異民族支配が終っても、依然、その日本人官吏が現職にとどまったままの形で、やはり異民族軍隊による軍事政府が、臨時的なものでありながらも樹立され、その外国勢力の統治下に南朝鮮は置かれることになった。
 ・・・
 (三) アメリカ反共軍政の開始
 そこで、ソウルに設置されたアメリカ軍政庁は、南朝鮮諸政党を軍政の便宜のために活用するに当たって、当然のごとく、彼らからみてソ連勢力指導下にあると認識されていた呂運亨指導下の南朝鮮人民共和国系を排除しようとした。逆に、右派の保守系であり、旧体制・既存体制の受益者でもある宋鎮禹、金性洙などの韓国民主党勢力を、左派への対抗勢力として育成、活用しようとした。
 これは、日本占領統治の遂行にあたって、日本の戦争責任を処断するよりも、米ソ対立状況の戦後世界において、天皇制度を含む日本の既存体制を温存し、それをアメリカ指導下で再編することによって、対日占領統治と以後の極東政策のために活用しようとした戦略傾向と共通するともみられた。そのようなアメリカ極東政策の南朝鮮における結果として、解放直後の一時期逼塞していた旧植民地時代の対日協力者、買弁資本家、植民地官吏、職員、警官などが以後のアメリカ軍政時代において、結果として保護温存されて、行政の全面に返り咲き、解放後社会において新受益者・権力者集団として復活していくことになった。
 ・・・
 (四) 「朝鮮人民共和国」の解体
 だが、一方でアメリカ軍政庁とホッジ中将は、この呂運亨の軍政協力への拒否に激怒したとされ、朝鮮人民共和国勢力の政府機能を禁圧する方針を固めたとされた。軍政庁はあ、きわめて強硬な人民共和国勢力への圧迫政策をとることになった。まず、10月9日、アーノルド軍政庁官は人民共和国指導者は幼稚であるばかりか「自分らが朝鮮の合法政府としての機能を果たしうると考えるほど愚劣な詐欺師である」との露骨な悪罵と人民共和国の合法性を一切否定する軍政庁官声明文を起草した。さ
らに、それを10月10日付けのソウルの全新聞に掲載せよとの占領軍命令を行った。
 だが、南朝鮮のどの新聞もその声明を批判した。とくに人民共和国に同情的な毎日新報は声明の掲載を拒否した。そのため、この毎日新報は、翌月に停刊処分が下されることになった。さらに、、アメリカ軍政庁より、人民共和国の政府機能の停止と傘下保安部隊の解散が厳命された。ホッジ米軍司令官も10月16日、南朝鮮における唯一の政府は軍政庁である旨を声明して、アメリカ占領軍の権力を宣明するとともに、人民共和国のような左派的勢力が「政府」を呼称し、行政類似行為を依然遂行していることに対する強硬態度をしめした。
 人民共和国側は、「このようなアメリカ軍政庁の態度に反発した。
 ・・・
ーーーーーーーー
           第二章 異質の政治原理と二分された南北朝鮮  

 (三) 政情の激動と亡命政客の帰国
 こうした戦後冷戦の世界化、米ソ対立のアジアへの波及は、朝鮮国内にも、深刻な政治的影響を及ぼすこととなった。
 まず第一章でみたように、当時の南朝鮮政情においては、アメリカ軍政庁と左派の人民共和国勢力の関係が好転しなかった。逆に軍政庁は、政策的に右派保守勢力の韓国民主党などの旧体制的階層との政治勢力登用・強化して、左派への対抗勢力となるべき反共勢力として育成しようとしていた。 
 これについては一般的には、アメリカ軍政庁による政治統制とその結果による人民共和国勢力の分裂と衰退、また伝統朝鮮社会の保守的性格からして、右派がより政治的に優位な状況になったとみられた。だが、右派は群小の諸政党の乱立と、騒然とした相互の葛藤、またリーダーシップの欠如と対日協力者、いわゆる当時において民族反逆者と呼ばれていた人士を多数ふくんでいたために、解放後社会における政治活動の正統性に欠けていた。そのため、アメリカ軍政庁の有形無形の支持にもかかわらず、絶望的に分裂し、左派団体に対抗できる統一した勢力としては動けなかった。

 しかし、この1945年10月16日、亡命33年におよぶ独立運動の巨頭李承晩が米軍当局の招請によって、一市民の資格ながらも米軍機によってアメリカから帰国した。
 李承晩は、1896年、徐載弼を中心とする開花派の政治家たちが独立協会を組織した時期以来の独立運動家であった。独立への政治活動によって投獄され、その後アメリカに留学。ジョージ・ワシントン大学を卒業し、ハーバード大学で修士号、プリンストン大学で博士号を得た。このように李承晩ただ一度帰国したほかは、アメリカにおいて典型的な亡命政客の生活をおくるころになるが、かつて三・一独立運動を前後した時期での在米独立運動団体での有力活動家でもあった。また、1919年に上海亡命独立運動家たちによる大韓民国臨時政府が樹立されると、李承晩は国務総理に推されていた。その後は、臨時政府内部で個人主義的行為により、1925年3月、臨時政府大統領を解任され、以後、在米団体のリーダーの一人となっていたが、その中心団体である在米韓族連合会と不和になり、在米社会においても孤立した状態であった。
 したがって、李承晩自身は全く組織的な基盤を持たなかったが、しかし、ふるくからの民族解放運動の指導者としての知名度は充分にあった。また8月15日の朝鮮の解放は、自力解放ではなく、連合軍の対日戦勝利の結果として8月15日に解放されたのが実際であった。そのため群小政党は乱立していても、明確な政治的リーダーシップの正統性の保持者をもたなかた一般大衆に対して、相当に大きな個人的権威をもつことになった。
 アメリカ占領軍は、この明確な反共主義者である李承晩を活用すべく、1945年10月12日から15日まで、東京においてマッカーサーとホッジ中将会談の後の10月15日、李承晩は、マッカーサーの飛行機でソウルに送られた。ホッジ中将は李承晩の帰国をしきりに要求し、李承晩と中国亡命中の臨時政府指導者を、自分の構想する暫定政府の核心部分として利用したいと考えていたとみられた。
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