真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウィンズケール・ファイヤー イギリスの事故と放射能汚染 NO2

2013年07月28日 | 国際・政治
 「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)「Ⅵ」は、「繰り返される事故──とまらない放射能漏洩──」と題して、数々の事故や廃液の漏洩などによる放射能汚染問題を取り上げている。イギリスでも、日本と同じような事故が繰り返されていることがわかる。そして、そうした事故を隠蔽しようとし、過小評価しようとする組織的な動きが存在することも同じである。

 「四番目の恐怖」広瀬隆・広河隆一(講談社)の中の「ウィンズケール」に、ジャニー・スミスという女性の次のような証言が出ている。

「別の奇妙な話があります。ロングタワーの中学校に3人の寮母さんがいたのですが、それぞれ子供が一人ずつあって、3人とも同じ時期に白血病にかかってしまったのです。スティーブン(証言者の子供)の医師は、白血病に気づいても、すぐには知らせてくれませんでした。放射能の問題に深入りしたくなかったのでしょう。ここでは誰もがあの工場に関係しているため、話したがりません。政府側がニセの報告書を出してくるので、本当の患者の総数はつかめないほどです。」

 この地域は、小児の白血病が平均的な地域の10倍されているようであるが、実態はそれ以上にすさまじいようなのである。また、同書には食物連鎖に関わる下記のような文章がある。

 「ここウィンズケールでも、メルリン夫妻の飼っているアヒルの卵が孵化したとき、12羽のうち7羽は目が見えなかった。1983年夏のことだ。翌年4月に、夫妻は子供の健康のため引越したが、10羽孵化したうち、3羽は翼が異常に短く、2羽は目が見えなかった。この鳥たちは図(アメリカ・コロンビア川における再処理工場下流の濃縮サイクルの図-略)に示されるように、体内に放射性物質を濃縮してゆく。これはコロンビア川での実測データである。
 水→プランクトン→魚→アヒル、と進む生物の食物連鎖のなかで、それぞれの体内放射能は、驚くほどの割合で濃縮度が高まってゆく。それがウィンズケールの再処理工場のまわりでは、家庭のなかで使っている掃除機の埃から、かなりのプルトニウムを検出する状態である。
 すべての国の政府当局が、この濃縮原理を隠し続けたまま原子力プラントを運転し、悲劇を招いてきた。
 わが国は大丈夫か。実は、問題のウィンズケールに向けて大量の死の灰を船で輸送してきた国こそ、わが日本なのである。」


 原発は、その建設費用や廃炉費用、事故発生の場合の補償費用、廃棄物の処理費用、半永久的に続けなければならない廃棄物の管理などを考えると、民間企業が独自に取り組めるものではなかった。軍事力増強のために原爆や水爆の開発を迫られた原子力先進国はもちろん、原子力の平和利用ということで、原子力政策を推進したわが国なども、それは国家主導であった。したがって、隠蔽や過小評価、住民無視なども国家的なようである。
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 繰り返される事故──とまらない放射能漏洩──

(ⅰ)B204での事故 ・・・略

(ⅱ)高レベル放射性廃液の漏洩 ・・・略

(ⅲ)アイリッシュ海に漂う黒い油膜

 セラフィールドから伸びる海洋放出管から、アイリッシュ海へ低レベル放射性廃液が日常的に流されていた。これは、マン島住民やアイルランド共和国政府の強い非難にもかかわらず、何十年間も続けられた。アイリッシュ海はそれを囲むような海岸線と海流の関係で、放出された廃棄物は、関係者の思惑と違ってあまり拡散せず海底に沈殿した。放射性物質は、潮流や嵐で陸に押し戻され沿岸を汚染した。アイリッシュ海で採れる海産物も、放射能を含んでいた。グリーンピースは長年、英国核燃料公社にたいしアイリッシュ海への放射性廃液の投棄の中止を求めていた。しかし成果はなかった。グリーンピースは実力行使を決意した。

 1983年11月、ヨークシャー・テレビが放送した”ウィンズケール・核の洗濯場”が世の関心を集めていた頃、グリーンピースは、放射性廃液をアイリッシュ海に流す海洋放出管を塞ぐことを宣言した。公社は、密かに海洋放出管の沈められた海底へダイバーを送り、パイプの排水口の形状を変えた。そのためグリーンピースが用意した蓋は合わず、海洋放出管を塞ぐことに失敗した。

 グリーンピースは、公社が高等裁判所に要請し交付された妨害行為の差し止め命令を無視していた。この違法行為の実行後、裁判所はグリーンピースに5万ポンドの罰金の支払いを命じた。しかしイギリス国民の多くは、誰が本当の意味の無法者であるか疑問に思った。なぜならグリーンピースの潜水チームのボートは、高い放射能で汚染されていたからだ。それはセラフィールドから放出が許されない非常に高い放射能レベルのだった

 ことの経緯は、次のようである。1983年11月14日、グリーンピースの船外機付ゴムボートは海洋放出管の先端がある海上へ到着した。そのとき彼らは、海面に浮遊する黒い油膜を発見した。ガイガーカウンターで放射線レベルを測定したら、針が振り切れてしまうほどだった。
 グリーンピースのデイビット・ロバーツは言う。
「マサチューセッツ大学で借りたガイガーカウンターを黒い油膜に近づけたら、針が目盛りを飛び越え作動しなくなった。しかし故障する前、1秒間500カウント以上の高い値を示した。私たちは被爆の危険性を考え潜水を中止した。そしてボートが強い放射能で汚染されたのか心配になった」
 グリーンピースは、港へ引き返した。そして国内放射線防護委員会にゴムボートの放射能汚染の検査を依頼した。やはりボートの底部から高い放射能が検出された。
 このことを知らされた英国燃料公社は、放出管の先端付近の海面を調査し始めた。公社の船で調査に向かった職員は、海面に溶剤の強い匂いがする油膜が漂っているのを発見した。油膜からは、50から100ミリレムの高いガンマ線が計測された。それは通常のバックグラウンド放射能レベルの5000倍から1万倍という異常なレベルだった。


 この件に関して核施設検査局が緊急に調査を始めた。その報告書が出てきたのは翌1984年2月で、放射性廃液の異常放出の原因として運転ミスを指摘し、再発防止に技術的な対策を講じることを英国核燃料公社に要求した。しかしその報告書に書かれていることだけが、異常放出のすべての真相ではなかった。

 グリーンピースのボートが海上にあったとき、セラフィールドでは海洋放出管へ流れていく放射性廃液を汲み上げていた。おそらくは一時的に廃液の放出を停止し保管しようとしていた。このとき作業員が廃液を誤ったタンクへ入れてしまった。いったんそこに入れてしまえば、構造的にもう取り除くことは不可能だった。そのためスタッフは、本来その容器に入れられるべき廃液と一緒に、やむなく海洋放出管から海へ排出した。海は高い放射能で汚染された。

 海岸に漂着した海藻などから高い放射能レベルが検出されたので、海岸線が25マイルも立入禁止となった。しかし禁止措置は、2日間だけだった。この公社の異常放出は、下院でも問題視され、ワルダーグレイプ環境大臣は、放射性廃液の異常放出の原因調査を開始すると飛べた。


 一方、英国核燃料公社は、グリーンピースの行動は無責任だと非難した。ウィンズケールの広報担当者は言う。「グリーンピースの妨害行為はとんでもない違法行為だが、一般の人びとやわれわれ労働者には、何の危険もなかったのは幸いだ。海洋放出管からの排出量と放射能レベルは、通常では、以前より減少している。これはセラフィールドで施設の改良がすすんでいる結果だ。グリーンピースによって干渉されたパイプ状況が調査され、安全が確認されるまで、排出は中止する。その間、廃液は施設内に貯蔵する。」

 1983年12月、農業、漁業、食料省は、海産物には事故前と比べて放射能量に異常は見られず、魚介類の放射能レベルは通常より高いが、急速に減少していると発表した。英国核燃料公社は、放出された放射能廃液はあくまでも規制内だと弁明した。しかし核施設検査局は、操業許可制限値を大幅に上回るレベルの放射性廃液の排出がなされたことで、公社を起訴した。


 1983年11月の異常放出から3年後、1986年12月、再びセラフィールドの海洋放出管から、許されない高い放射能レベルの廃液が海に流された。施設周辺の住民は、海岸に近づかないよう警告された。セラフィールド周辺でのモニタリング結果について農業、漁業、食糧省のジョンマグレガーは言う。
 「人びとは、”必要のない海岸の使用を避けるべき”だ。海岸で放射能汚染の高い場所がある。人びとが汚染度の高い小石や砂を手に取ることは、ありそうもないが、もしそんなことをすれば皮膚から被爆するだろう」
 ”必要のない海岸の使用を避けるべき”という曖昧な表現は、危険であるのかどうかが明確でなく、事故の程度が軽いという印象を人びとに与えかねなかった。また”人びとが汚染度の高い小石や砂を手に取ることは、ありそうもない”というのもまったくおかしなものだった。高い放射能が海に放出されたならば、人びとの安全のため一定期間、海岸は立ち入り禁止にすべきだった。海岸には、人びとに警告する警官の姿どころか、立ち入り禁止の掲示板すらなく、立ち入り禁止はマスコミの報道で伝えられただけだった。


(ⅳ)”隠蔽する文化”・・・略


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ウィンズケール・ファイヤー イギリスの事故 放射能汚染NO1

2013年07月26日 | 国際・政治
 イギリスでも放射能に苦しむ人びとが大勢いる。チェルノブイリ原発事故が発生する30年近く前の1957年、周辺はもちろんヨーロッパ諸国をも放射能で汚染する核施設の重大事故があった。”ウィンズケール・ファイヤー”と呼ばれるその事故は、イギリス中西部、セラフィールド(プルトニウム生産炉の建設が始ま1947年以降、1981年6月までは、ウィンズケールと呼ばれた)で起きた。

 原爆製造が、当時は急務の核技術開発であったために、廃棄物処理や放射能汚染などのさまざまな問題を置き去りにしたまま、開発が進められたのは、イギリスも他の原子力先進国と同じである。その後、東西冷戦の終結などもあって、核の軍事的価値が低下し、原子力の平和利用すなわち原子力発電にその開発競争が移行したとはいえ、相変わらず原子力産業は、どこでも国家を中心とする巨大な組織に支えられている。したがって、当時も今も、周辺住民や一般国民の声は、よほどのことがないと、まともに取り上げられることがない。

 原子力関係機関が、事故を隠蔽し、放射能汚染を過小に評価しようとするのも、原子力先進国共通のようであるが、放射能汚染による被爆被害の問題はイギリスでも深刻なことがわかる。下記は「核燃サイクルの闇 イギリス・セラフィールドからの報告」秋元健治(現代書館)からの一部抜粋である。
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Ⅲ ”ウィンズケール・ファイヤー” ──封印された核事故──

(ⅰ)プルトニウム生産炉の炎

 1957年10月、”ウィンズケール・ファイヤー”として知られる軍事用プルトニウム生産炉の火災事故が起こった。このときプルトニウム生産炉内の温度が急激に上昇し、ウラン燃料と減速剤の黒鉛が燃え上がった。英国原子力公社の技術者は、蒸気爆発の危険を顧みず、大量の水を原子炉へ流し込んで鎮火に成功する。しかし注水とともに、放射能を帯びた水蒸気が大気中に放出されてしまった。英国原子力公社の著名な原子力物理学者ジョン・コックロフトに因んで、コックロフト・フォリーズと呼ばれた煙突上部のフィルター装置が、多くの放射性物質の放出を抑えた。それでも大気中に放たれた放射能は相当の量だった。上空の雲を放射能雲とし、それはベルギー、オランダ、ドイツ、ノルウェーなどヨーロッパの国々を広範囲に汚染した。

 火災事故の経過は、おおよそ次のようだった。1957年10月7日、プルトニウム生産炉一号基で計画された熱放出作業のため原子炉は停止した。この原子炉は空冷式で、液体の冷却剤を循環させるような特別な冷却装置をもたず、定期的に原子炉を冷やすことが必要だった。最初の誤りは10月8日の午前11時、原子炉内の黒鉛の温度を高める作業でなされた。炉心の熱を高い煙突から放出するために、黒鉛に一定の高い温度が必要で、そのため原子炉は加熱された。


 翌9日、午前2時15分、技術者たちは異常に気がづいた。熱電対の示す温度が上昇し続けていたのだ。10月9日、原子炉内の温度が危険なレベルまで到達し、ついに原子炉内部の黒鉛と金属ウランに炎がついた。温度計のいくつかは、400度以上だった。そこで彼らは原子炉を冷やすため、二酸化炭素を原子炉に入れたが効果はなかった。そして、10月10日の午前5時、放射能レベルもかなり上昇した。そして10日の正午、測候所が通常でない事象を高い煙突の出口に発見した。空気が高温で蜃気楼のように揺らめいていたのだ。11日の1時38分頃、温度は、1300度にまで上昇した。これ以上、温度が上昇すると原子炉容器が溶け始めるかもしれなかった。炉内の炎を消すための様々な方法が試みられたが、鎮火できなかった。10月12日午前、追い詰められたスタッフは、原子炉に水を注入することを決断する。それには水素爆発の危険があった。そうなれば大惨事だ。彼ら自身の命も危ない。しかし他に選択肢はなかった。原子炉へ1分間に1000ガロンが注水され、黒鉛とウランの炎はようやく鎮火した。それと同時に放射能を帯びた水蒸気が、高い煙突から大量に排出された

 事故を起こしたプルトニウム生産炉1号基は、ソ連との原爆製造レースの中で建設され、設計もよくなかった。実験で検証すべき課題の多くは無視され、したがって不測の事態が頻発し、その度に試行錯誤が繰り返された。さまざまなケースに対処するためのマニュアルも満足に整備されていなかった。むしろ建設されたプルトニウム生産炉それ自体が、巨大な実験施設といえた。

 設計段階で予測できなかったことの1つは、原子炉を取り巻いて置かれた黒鉛に計算以上の熱が蓄積することだった。黒鉛は、原子炉で臨界の際、余分なエネルギーを吸収する減速剤として機能する設計だった。高熱を帯びた黒鉛は膨張し、さらに温度が上昇すれば最後には燃え上がる。そこで黒鉛の周辺に空気を送り込むことによって、熱を400フィートの高さの煙突から逃がす作業が必要だった。その熱放出の作業は1957年の火災事故の前、すでに2回実施され成功していた。事故のときもエネルギーを逃がす作業中だった。事故原因の大きな要因として、事故直後の1957年に作成された、”ペニー報告書”は、設計ミスで温度計が誤った場所に取り付けられていた事実を指摘していた。そのために温度の測定を誤った結果、原子炉を加熱し、火災が発生したと推測された。そのため技術者たちは、温度の上昇を初期の段階で実際よりかなり低く認識していたのだ。


(ⅱ)放射能に曝された人びと

 プルトニウム生産炉1号基から、大量の放射能が排出された1957年10月10日、地域の様子はどうだったか。ウィンズケールから1マイル離れたコールダー・ブリッジの丘では、人びとのパニックどころか警察のサイレン、点滅する警告灯すら見られず、いつものように静かな日だった。ウィンズケールの小数の技術者や作業員を除いて、大量の放射能が蒸気とともに大気中に放出された事実を誰も知らなかった。

 カンブリアに生活する一般の人びとに、この火災事故の重大性が分かりはじめるのに2日もかかった。10月12日、ウィンズケールを運営する英国原子力公社の連絡を受けて、国や地方組織は対応を取り始めた。最初に、放射能でひどく汚染されたに違いない牛乳の出荷禁止が強制された。この牛乳の販売の禁止は、ミロム近くまでウィンズケールから20マイル内の農家に衝撃を与えた。およそ2万ガロンの牛乳が出荷できなくなり、その多くはアイリッシュ海に直接捨てられた。調査の結果、牛乳は放射能の安全基準の6倍以上も汚染されていた。牛乳やウサギや農作物に関する人びとの不安は、ウィンズケールの北40マイルに広がった。搾乳場の職員は言う。
「牛乳出荷禁止を伝えられて、私たちは怯えた。こんな経験をしたことがなかった。ウィンズケールで大変な事態が起こったと思った」


 ・・・

 この”ウィンズケール・ファイヤー”の際、英国原子力公社や国、地方行政が地域住民のためにしたことは、極めて不充分だった。火災事故の周知やそれによる大量の放射能漏洩、人びとの生命、生活に関わる重要な情報はまったく伝えられなかった。しかしそれらを積極的に人びとに伝えたとしても、具体的にどう対処するのが最善であるか、説明できる人間は、英国原子力公社のスタッフにも少なかった。誰一人として過去、放射能事故など経験したことはなかったし、世界に前例とすべき事故もなかった。

 ウィンズケールの火災事故の2日後、カンバーランドと北西ランカシャーの200マイル四方で牛乳の販売禁止が強制された。牛乳の出荷禁止の対象となった農家は、全部で997戸だった。事故後2週間して英国原子力公社の広報担当者は、牛乳の販売禁止について述べた。
「現在、牛乳の出荷や流通の制限についての解除が検討されている。われわれは頻繁に放射能レベルの測定をおこなっている。放射能のレベルは徐々に低下してきた。しかし制限の解除がされるまでさらに時間が必要だ」
 また牛乳販売協議会の代表は言う。
「1万ガロンの牛乳が、主にウェストモーランド地域から毎日、この地域に運ばれている。われわれは、この地域の需要に対応できる供給能力がある」
 しかし、ウェストモーランド地域の牛乳も、放射性ヨウ素131に汚染されていたのだ。

 牛乳を満載したタンクローリーが、それを廃棄するため、ウィンズケール近郊の街、ミロムの広場に列を連ねた。しかし牛乳販売協議会は、ミロムの製鉄所前の海へ通じる下水道へ牛乳を捨てることを禁止した。街中の排水溝へ牛乳を捨てたために、多くの住人が悪臭にたいして抗議の声を上げたからだ。

 そのためタンクローリーは牛乳を海へ直接捨てるために、海岸近くの排水路や入江に殺到した。すでに発酵し始めた牛乳はアイリッシュ海に流され、寄せる波は汚れた白濁色になり、美しい砂浜には悪臭が漂っていた。


 ・・・

 事故から1ヶ月後、ウィンズケールのゼネラル・マネージャーであるH・G・ディビィが、カンブリア州議会の健康委員会に出席し、事故後の状況を説明した。彼はこのとき、事故の3年前の1954年に、ウィンズケールでの放射能漏洩など緊急事態に対処する計画が作成されていたことを初めて明らかにした。この緊急時の計画では、警察にはウィンズケールから事故発生の情報が入る。もし放射能が危険なほど高いレベルなら、警察は、地域の人びとが屋内に留まるよう警告を発すること、警察官と他のウィンズケールからの人員には防護服が支給されることなどが規定されていた。しかし緊急時の計画の存在すら知られていなかったため、緊急時に関係する組織や人びとどのように行動するべきか誰も理解していなかった。

 ”ウィンズケール・ファイヤー”の際、警察は英国原子力公社から事故の情報が入った。しかし火災事故から2、3日経って、地域の牛乳出荷を禁止する以外の対策はなにもとられなかった。カンブリア州議会の健康委員会は、州の健康医療管理官のW・H・P・ミント医師によって助言された。その内容は、ウィンズケール近隣の地域でも健康への危険はないというものだった。それは、地域で動植物の調査や分析が充分なされた上での結論ではなかった。ただ混乱を静めるためだけの言葉だった。


 タイソン・ドーソンの農場は、ウィンズケールに隣接している。彼は事故から2日経った1957年10月12日、ウィンズケールでの火災事故を初めて知った。ドーソンは早朝に起こされ、地元の警察官から牛乳を飲んではいけないと言われた。指示されたことは、それをすべて排水溝に捨てることだった。しかしそうした指示は、地域によっては事故の数日後までなかった。事故後の2日間、搾乳された牛乳は通常どおり出荷され、家での食卓に出されていた。人びとは最初、放射性降下物についてもまったく知らなかった。そして、農作業や散歩など普通と変わらぬ生活をしていた。

 ウィンズケールの火災事故に関しての公式発表は、とにかく安心しろだった。火災事故にたいする政府の調査結果は、最悪でも健康にどんな影響もありえない。その言葉の繰り返しだった。しかし、核施設から遠くない農場では、数週間後、奇妙なことが起こり始めた。家畜が見たこともない奇病で死んだり、子牛や子羊が奇形で生まれたりした。タイソン・ドーソンの農場でも雄牛は事故から2週間して、倒れて死んだ。獣医は、それが何の病気であるか理解できなかった。事故から8日後、ウィンズケール近くのモーア・エンド農場で突然、鼻から出血しはじめた牛が何頭か死んだ。1ヶ月後、多くの家畜の口に爛れたような損傷がみられた。その後何年も経て、人びとの間にも白血病やガンなどの病気が少しずつ現れるが、英国原子力公社など当局は、こうした病気と、”ウィンズケール・ファイヤー”との関連性を一貫して否定してきた。


 ・・・(以下略)

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マヤーク 放射性廃液の垂れ流しや投棄による核汚染

2013年07月19日 | 国際・政治
 「核に汚染された国 隠されたソ連核事故の実態」A・イーレシュ、Y・マカーロフ:瀧澤一郎訳(文藝春秋)には驚くべきことが書かれている。ジョレス・メドべージェフが『ウラルの核惨事』で明らかにした高レベル放射性廃棄物の爆発事故以前に、原爆製造を急いだソ連では、放射性廃液の垂れ流しや湖への投棄があったというのだ。また、その数字が信じがたいほどに大きい。
 ただ、徹底した隠蔽工作とあまりに広い汚染域のためか、垂れ流され、投棄されたという放射性廃液の総量に関する数字は、その出所や根拠がはっきりしない。また、科学的論証に欠ける面があるようにも思う。

 でも、数々の証言を総合すると、大変な問題であることにかわりはない。過去の問題とせず、きちんと実態を解明し、被曝被害に対応する必要がある。

 訳者(瀧澤一郎氏)は、2ヶ月かけてロシア大陸をバイクで旅行したという。ところが、シベリアではどこでも放射能汚染が話題になったというだ。チェルノブイリ原発事故の被害を被ったのは、風向きの関係で、主としてウラルより西の地域であったのに、シベリアの奥地でなぜ、放射能汚染なのかと疑問に思ったという。さらに、レニングラ-ド(現サンクトペテルブルグ)の人びとも放射能禍に過敏になっていたという。その理由は、帰国後しばらくしてはっきりしてきたというのである。

 それは、ウラル山中にある原爆用プルトニウム製造工場(マヤーク)で、高レベル放射性廃棄物が爆発(1976年、ジョレス・メドべージェフが、イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』発表の論文で明らかにした)し、周辺地域を汚染する以前から、チェルノブイリ事故の際放出された放射能の量を何倍も上回る放射能が放射性廃液として、付近のテチャ川に垂れ流され、また、工場敷地内のカラチャイ湖に投棄されていたというような報道が始まったからである。
 テチャ川はシベリアの大河オビ川にそそぎ、広大なシベリアの大地を貫いて北極海に至る。北極海に流れ込んだときもまだ、川の水は強い放射能値を示していたという。そして、周辺地域の人たちが大勢被爆し、放射線障害で苦しんでいたのであるから、放射能禍に過敏になっていたのも、当然のことであった。
 
 そんななかで、イーレシュとマカーロフ両記者が困難な取材を続け、隠された国家機密を執念深く追及し、汚染原因を暴き出した労作を目にして旧ソ連の放射能汚染の全貌を知ることになったという。
 東西冷戦下、激しい対立を続けていた米国との核軍拡競争に負けじと、当時のソ連は、開発優先で環境を省みることなく放射性廃液を川や湖へ投棄していたということであろう。
 ところが、無制限に放射性廃液を投棄することに行きづまり、貯蔵タンクに閉じ込めることにしたが、それが、下記抜粋文の文末にある『「マヤーク」工場最悪の事故』である爆発に至るのである。下記は、同書の第1章から、2人の人物の証言部分を中心に抜粋したものである。
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          第1章 世界が信じなかったウラルの惨事

 「光り」はじめた灯台

 スターリンが70歳になった1949年に秘密工場は操業を開始した。まだ第1号ソ連原爆用プルトニウムをつくりだしたばかりなのに、「マヤーク」
(当初は「第10号基地」その後「チェリャビンスク40」「チェリャビンスク65」「マヤーク」とそのコードネームを変えたという)は、もう周囲に見えざる死をまきちらしはじめた。爆弾はまだ破裂していないのに、殺人がはじまった。
 工場のわきを流れるテチャ川に放射能で汚染された大量の水を浄化しないで投棄しだした。これがすべてのはじまりである。環境の保護など、だれも考えなかった。考えたくなかったのだろう。


 放射性廃棄物をなんの規制もなく棄てつづけたために、1949年から51年にかけて、テチャ、イセチ、トボルの河川系統に総量275万キュリーの放射能が流入した。ざっと12万4千人が被爆した。その後、1956年に、7万5千人が移住させられ、46ヶ所の村や町がまるごと廃墟となった。

 汚染された川を伝わって、放射能は周囲数百キロにばらまかれた。テチャ川はダムでせきとめられ、廃棄物投棄用の溜め池がつくられたが、河川敷にはあいかわらず放射能がたまりつづけた。
 そこで、廃棄物は川のないカラチャイ湖に捨てようということになった。しばらくすると、湖も莫大な量の放射能で満杯になり、湖畔に立つことさえ危険になった。

 「マヤーク」ができてから数年間に被爆した人の総数をくらべると、移住者の数は極めて少ない。その人たちは安全地帯に移ったのだから、運がよかったというべきだろう。そういう人たちのひとり、アニーサ・ミネーエワの証言がここにある。


「私たちのチシマ村(チシマとはタタール語で泉)はウラル山地の南側にあります。村民400名。そのうち98名が移住者です。生産コンビナート『マヤーク』がテチャ川に投棄した放射性廃液のせいで、流域のアサノボ、ダウトボ、イサエボ、ナズィロボ各村から移させられたのです。

 移住はどちらかといえば、人目をそらすために実施されたのです。村民救済策がなにもなされていないということを話されては困るからです。実際は、川からほんの十数キロばかり運んでもらっただけ。家畜用の草刈場や放牧地は河川敷にあったまま。引越しを手伝ってもらったといっても、全部で5,6家族。ほかの人たちは各人各様に独力で移りました。多くの家族は1960年代中ごろまで半地下小屋に住んでいました。地面に穴を掘り、そこにモグラのように暮らしていたのです。 

 移り住んだものも前からそこにいた人も被爆をのがれられませんでした。まもなく、村から8キロのところに秘密工場『ロドン』がつくられ、医師たちが反対したのですが、村道をまともに抜けて放射性廃液が運ばれたのです。
 私たちの地区の放射能状況は、ウラル南部では最悪です。住民の被爆度は限界にきています。最近自営の医師グループが、近隣数ヶ村を合わせた集団農場で医学調査を実施しました。900人のうち、600人が重病。3人に2人ですよ!


 私の親戚の人たちも、中年組のなかに、放射能が原因の病気で死んだものがもう何人もいます。目のない赤ちゃんを産んだ若い女性は血液ガンで死亡。赤ん坊もすぐに死にました。子供はみんな病気。たいていの子は、鼻血、貧血、聴覚・視覚低下に悩まされています。知能障害児のための寄宿舎に7人入りました。こういう災難は、何もないところから起こりません。放射性物質で川が汚染されことや、近くにあのコンビナートがあることが原因なのです。被爆で病気になったのは、人ばかりではありません。家畜もそうです。とくに白血病が多い。私は獣医なので、うけあいます。

 文明国ならどこでも、放射能汚染の被害者は国家や直接責任者から補償金を払われるのがふつうです。それで栄養のあるものを食べ、よい治療を受けるわけです。私たちには薬も、まともな食品もくれません。子供にさえもらえないのです。自然に対しても、国民に対しても、あいかわらず国家の横暴はつづいています。私たちはだれにも必要でなく、苦しみながらただゆっくり死んでいくしかないのです。これは耐えられないくらいつらく、くやしい……」



 スヴェルドロフスク(いまのエカチェリンブルク)の近くのベルフネ・イビンスクという小さな住宅地にスチェパン・ドルギフという温厚な年金生活者がいる。釣りが趣味で、孫を相手に遊ぶのが楽しみというごくふつうの年金生活者の日常。しかし、まさにこの人が、長年秘密の煙幕にさえぎられてきたことのかなりの部分を知っているのだ。世界中にとって秘密であったことをスチェパン・ドルギフはよく知っている。12年間「マヤーク」で秘密警備部門の責任者として勤務した。

 軍事機密を守るという一札をいれていたため、彼は、長いことだまってきた。だから、本書の取材に際して、いままで知られていなかった「マヤーク」の企業活動の細部をわれわれは彼の口からはじめて知ることができたのである。ほんのしばらく前なら、こんなことを暴露したら、彼は自由を失っていたことだろう。
スチェパン・ドルギフの話


「……運命のいたずらで、27歳で私は、原爆と水爆の弾頭をつくっている、当時国内でただひとつの工場の保安部長に任命された。その前は、プルトニウム239を精製する原子炉で同じ役職についていた。われわれの工場では、第1号原爆用のプルトニウムも蓄積されていた。1号原爆の実験は、1949年8月29日にセミパラチンスク郊外の実験場でおこなわれた。

 工場のなかはもとより、そばにできた都市にも厳重きわまりない警備体制がしかれた。特別の許可証がなければ、市内にはだれも入れなかった。住民は休暇中でさえ市外に出ることは許されなかった。工員が近親者の死亡を伝える電報を受け取ったときだけ、閣僚会議全権代表員の手から許可証をもらい、葬式に行くことができた。

 労働者や技師は、職場に着くまで二ヶ所、あるいは三ヶ所の関所を通過しなければならなかった。仕事の配置は、1つの部屋で働いているものものが隣の部屋でなにをしているかわからないようになっていた。こういうことを全部監督していたのが、私の保安部であった。
 秘密都市には、ベリアの個人崇拝がうえつけられた。中央通りは、ベリア通りになり、大型核反応炉のひとつは『ЛЪ(エルベ)(ベリヤのイニシャル)』と名づけられた。ベリアの来訪はいつも市民の迷惑であった。


 1952年に、モスクワでベリアのでっちあげ事件の犯人として、いわゆる『ユダヤ反ファシスト委員会』のメンバーが裁判された。裁きの反響はこの都市にまで届いた。ユダヤ人はすべて家族といっしょに移住させよ、という命令がきた。その結果、多くの工場の重要部門から人がいなくなってしまった。部長とか学者はたいていユダヤ人だったのだ。こういう気まぐれや無法の例はたくさんある……。

 市内でも工場内でも人びとがどんな恐怖心理状況におかれていたかをわかってもらうために、こんなエピソードを紹介しよう。
 完成した核弾頭の引渡しは、たいてい午後におこなわれた。あるとき、決められた時間に引渡し側と受取り側の委員が集まったが、弾頭保管責任者のアナトーリイ・ベネジクトフだけがいなかった。警備兵の報告によると、彼は午後2時頃すべての検問所を通過して、工場の外にでたまま、もどらなかった。信じがたい事件だった。弾頭は正確無比の予定表にしたがって出荷されていたのである。ベネジクトフが家にも病院にもいなかったので、荷受け手続きは翌朝に延期された。だが、その日の夕方、立木で首を吊ったベネジクトフが発見された。
ポケットに書置きがあった。
『小生の不注意で、製品、”M24”の製造工程が乱れ、それが製品劣化の原因となったようです。お許し下さい』


 専門調査の結果、製品劣化はベネジクトフのせいではなく、まったく別の原因であることがわかった。しかし、彼は捜査の手がのび罰せられるのを恐れたあまり、命を断った」

 恐怖心理をひろげても、製造工程の乱れはなくならなかった。その結果、危険な放射能漏れが起きた。そういう非常事態の実例をスチェパン・ドルギフは話してくれた。
「あと1時間あまりで新年を迎えるというとき、調整係が第1作業場の爆発を工場の管理部に報告した。そこでは、放射性物質を扱っていた。住宅地からわずか2キロのところにあった。爆発は要員交代の合間に起きた。あちこちの製造室には多数の所員がいた。彼らは全員被爆した。
 建物内部の放射能測定値は高かった。場所によっては、測定器の指針は振りきった。まったく同じ危ない状況は、作業場の周辺地域でも観測された。少しでも放射能を減らそうと、備えつけや予備の換気扇が動員された。
 爆発事故はその作業場の室内で発生し、そこには技師以下4名の労働者が高濃縮度放射能溶液を扱っていたことがわかった。被爆者たちはすぐに病院に運ばれた。


 爆発の原因を立証するには、すべての作業が実施順序にしたがって記入してある交代日誌を、室内からなんとしても取り出す必要があった。私はこれを命令された。壁、床、天井、窓などは放射能まみれであり、文書類も当然そうだった。私が日誌を運び出すと、それは、小型の鉛の箱にいれられ、護衛つきで別棟に移された。私自身はその後、3ヶ月半モスクワの特別病院に入院した」

 爆発の翌日、必要なデータを集めた専門家たちは、事故原因は製造マニュアルの指示を守らなかったからであると結論した。放射性の液体製品を別の容器に移す際、作業員がホースを使わずに容器の縁から注ぎ移したのであった。被爆した本人たちの説明では、家で新年をむかえたかったので、あわててそうしてしまったという。彼らは全員頭髪が抜け落ち、重体で病院に運ばれた。その後、彼らにあったものはいない。

 ところで、強力な換気扇は、汚染された作業現場から放射性の空気を吸い出した。その空気は風にのって隣接の住宅団地に飛んでいった。朝には、早くもその一帯の放射能レベルは標準値をはるかにこえた。もちろん、事故はひた隠しにされたから、爆発については、一般市民はもとより、市の幹部たちでさえ知らなかった。
 しかし「マヤーク」工場最悪の事故が起きたのは、その後のことであった

 
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ウラルの核惨事 隠蔽された事故 放射能汚染 NO2

2013年07月16日 | 国際・政治
 ウラルの核惨事に関するジョレス・メドベージェフの論証には説得力がある。そして、下記(「第13章 核惨事のシナリオ」抜粋部分)のような学者の考え方や元住民の証言が、さらにそれを強力なものにしている。メドべージェフは、事故の内容や規模、深刻な汚染の広がりを、事故後発表された数々の研究論文の分析によって明らかにしているが、なぜそれが可能であったか、という周辺事情にも、触れている。まず、

 ”事件は悲劇的なものであったけれども、さまざまな濃度レベルをもった放射性物質を含むこのように広範な汚染地帯が存在することは放射線生態学、放射線遺伝学、放射線生物学、放射線毒物学などの分野の科学研究にまたとない機会を与えてくれるものであった。1958年から1960年にかけてソ連の非常に多くの実験研究室、研究所、各種センターでは放射性同位元素や放射線の軍事利用および平和利用に関する研究が行われていた。
 これらの機関は環境における放射性同位元素の拡散、植物から動物への移動、池の藻類による種々の同位元素の吸収、そのほか放射線生物学、放射線生態学そして放射線毒物学上のもろもろの問題を──厳密に制御された実験条件のもとで──研究するために、小さな区画の土地、特性の巨大な木箱、ガラス容器、人里離れた小さな池などで実験を行った。放射能で汚染された広大な領域が突然に出現したことで、何千人もの研究者は、外国に前例のないような全く新しい機会とユニークな展望を与えられたのである。”

 と指摘している。ただ、当時ソ連ではいかなる研究論文も放射性同位元素や放射線に関係するものはすべて機密扱いであり、検閲局による、厳しい検閲があった。しかしながら、

 ”研究者にとって、自分の研究成果を公表することは重大関心事である。公表された仕事だけが満足をもたらすのだ。何等かの発見について優先権を認められたい、論文発表によって名声をえたい、という科学者の欲望を過小評価することはできない。

とも指摘している。そして事故後しばらくして、次々に検閲を通過した研究論文が公表されていったのである。当然、検閲を通過した放射性同位元素や放射線に関係する研究論文には共通の問題点が潜むことになる。こうした科学研究では欠かすことのできない研究方法の細部、特に研究の行われた場所、放射能汚染の原因、地域全体の広さなどの項目に関する記述がないのである。

 ところが、そうした検閲や対応で事故の場所や時期、規模、広大な面積の深刻な核汚染を隠せるものではない。メドべージェフは公表された研究論文が、それら余すところなくを語っているというのである。研究対象とされた動物や植物の種類が、また、集められた動物や植物の数が、さらには汚染のレベルや範囲が、また、実験したというその数値が…。 

 そして、ソ連は事故後30年以上経過した1989年にやっとその事実を認め、国際原子力機関(IAEA)に報告書を提出したのである。「ウラルの核惨事」ジョレス・メドベージェフ:梅林宏道訳(技術と人間)の著者の論証が、世界に与えた影響は計り知れない。
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             第13章 核惨事のシナリオ

いかにして貯蔵廃棄物の爆発が起こったか──再構成の試み

 ・・・

ウラルの核惨事

 私の文通相手の一人であるJ・E・S・ブラドレイ博士は、ウラルの核惨事を説明するため、また、別の仮説を提案した。

 ウラルのその地域、つまりキシュチム周辺では、それ以前に広範囲に深い掘削作業が行われていた。そして処理溶液は何らかの方法で地下のこの地質学的に複雑な地域に処分された(ウラルはヨーロッパとアジアの間の蝶番のような存在になっている)。一定時間の経過ののち溶液の中の残留プルトニウムが選択的吸着によって濃縮され(おそらく泥の地層で)、多量の水が存在するなかで連鎖反応の臨界集合体となり、爆発した(おそらくどちらかと言うとゆっくりとした、それまでの反応熱によって溶液の濃縮がもたらされるというような、自己維持メカニズムによる爆発である)。反応生成物とそれに関連した高レベル廃棄物は、多量の蒸気とともにその地域で広く連結している岩盤を通してふきだした。

 実際、科学的想像力(あるいはお望みなら”サイエンス・フィクション”の能力といってもよい)が、爆発の正確な原因についての仮説をつくるためには必要である。少なくとも当時のソビエト原子力センターの直接責任者が事実を明らかにするときまではそれが必要であろう。しかし、現実に爆発が起こり、多数の犠牲者を生み、広大な領域を汚染し、そしてその爆発は原子炉からの産物の適切でない貯蔵によって発生した-このことは疑いのないところである。


 犠牲者の数

 ウラルの核惨事における犠牲者に関しては、いまだにその正確な数も関連情報も与えられていない。ソ連では地震の場合でさえも犠牲者の数はまったく報告されない。このことは、現政権がもはや決して非難されることのないような30年前の地震に関してもそうである。大ソビエト百科事典の改訂版は”地震”の項に、1948年10月にアシュハバドで起こった地震は、有史以来最悪のものであると記述している。そこには、トルクメン、ソビエト共和国の首都であるその都市が完全に破壊されたとある。地震は誰もが眠っている午前4時に起こった。アシュハバドの人口は1948年には約200,000人であった。1959年の人口は約170,000人であった。他の大地震の場合(日本、アメリカ、トルコなど)には、記事に犠牲者数が示されているがアシュハバドの場合は国家機密になっている。鉱山、鉄道、高速道路、飛行機の事故もすべて秘密にされている。原子力事故も例外ではない。


 ウラルの惨事を論ずるとき、私たちはそれが人口密集地帯で起こり、しかも大きな領域をおおうものであったことを銘記しなければならない。強制退去は時機を逸して行われ、数千人の人びとに影響を与えた。この参事の医学的な処置に関する細部については、私は2つのことを知っているだけである。
 チェリャビンスク地域で研究をし、1965年にオブニンスクの放射線医学研究所の副所長に任命されたG・D・バイソゴロフ教授と保健省次官のA・I・ブルナチアンが、放射線病の有効な治療法を開発したことに対してレーニン賞を受賞した。この受賞は新聞には発表されなかった。集団としてこの賞を受賞した人びとのなかには、他にも科学者や医療関係者が含まれていたのは明らかである。次官がなにか小規模の医療作戦でレーニン賞を受けることはなかったであろう。
 放射線病という場合には、間違いなくこの病気の中でも最も悪い容態、のものを意味する。ひどくない形のものは検出されないままのことが多い。内部被曝にしろ外部被曝にしろ最悪のものは犠牲者を即死させるが、それほど明らかに致死的でない場合、影響は数週間、数ヶ月、そして数年間も持続し、それは次の世代にも引き継がれる。これについては、統計的な評価しかできないけれども、それすらもついになされないかも知れない。ソ連ではこの種の研究は秘密にされているどころか全く禁じられているので、原子力工業が集中している地域に発生する染色体異常の比率を知っている者は誰もいない。地域的なガン死亡率の比較も秘密にされているが、他のさまざま原因による死亡率の比較に関しても同様である。


 いきおい噂や推測がゆきわたり、もちろん誇張が可能になる。しかし本当のことが専門家からさえ隠されてしまうとすれば、二次的な証拠からでも真実を知ろうとする者を、誰が非難しえようか。

 既に述べたCIAの情報提供者がキシュチムの爆発で大量の犠牲者が生じ、1-2年後にもチェリャビンスクやスベルドロフスク地域の病院は患者で一杯であったと証言していたが、最近それとは別に、自主的な証言者がもたらされた。キシュチムの爆発についての番組をつくっているイギリスのテレビ会社グラナダが、最近ソ連からイスラエルに移住した人びとの中から、南ウラルと中央ウラルに住んでいた2人の証人を見つけ出したのである。1977年11月に英語に翻訳されて放送された証言は次の通りであった。


 最近、イスラエルでロシアについて新しい情報提供者が増えつつある。しかし移住を許された数千人のロシア系ユダヤ人の中にもスペルドロフスク地域からきたものは極めて少ない。”行動する世界”は2人をつきとめることができた。まだソ連に家族を残しているので彼らは名を明かすことを望まなかった。

 第1の証人は1970年代はじめにロシアを離れた。彼は次のように話した。
 私は1948年にチェリャビンスク郊外のコバエスクという村で両親と一緒に住んでいました。多くの人びとがキシュチムから追い出されてチェリャビンスクやコバエスクに移ってきはじめました。やがて、私たちは秘密の軍事工場ができるので、キシュチム住民が追い出されているのだという噂を耳にしはじめました。私たちは工場の名はチェリャビンスク40と呼ばれるのを知りました。


 1954年、私はスペルドロフスク工業専門学校に入学しました。できるだけしばしば、時には毎週末、私は両親に会いにスペルドロフスクからコバエスクに帰ったものです。私はバスや車や列車でキシュチム周辺の地域をぬけるルートを通って旅をしました。その辺は緑が多くたくさんの村がありました。おそらく20ないし30キロメートル毎に村があったでしょう。

 1957年の終わり頃、私たちは、チェリャビンスク40でひどい事故が起こった、ひどい核爆発が起こった、工場の放射性廃棄物の貯蔵から起こった事故だ、というような噂を耳にし始めました。やがてスペルドロフスクとコバエスクの間の道路が閉鎖されました。私は1年間ほど両親に会えませんでした。

 またその年に、私は何人かの医者の友人と話をしました。一度私はスペルドロフスクの病院にイボを取りに行きましたが、友達の一人の医者は、病院中がキシュチム大惨事の犠牲者ですし詰だと私に語っていました。彼はスペルドロフスクだけではなく、チェリャビンスクでも、すべての病院が同じように満員だと言っていました。病院はかなり大きく、数百のベッドがあります。犠牲者はみんな放射能の汚染を受けたのだと、医者は言っていました。驚くべき人数でした。多分数千人はいました。私はほとんどの人は死んだと聞きました。



 第2の証言は再建されたキシュチムに1967年に引っ越した。ほとんどの放射能は町の東に吹き寄せられたが、住民は10年たっても後遺症をかかえて生きていた。
 今はイスラエルの看護婦として、彼女は英語の話せる友人と一緒に証言を記録した。破壊の形跡はなかった。彼女たちが市場で買うものはすべて、森へいってきのこを採ってきても放射線計で測定されなければならなかった。彼女たちのほとんど誰も放射線計をもっているものはいなかったのに。
 そこにやってきたとき、”彼女”は妊娠した。医者は彼女に放射能がこわいから子供を産まない方がよいと話をした。彼女たちは何か異常なことが起こるかも知れないと思って中絶しなければならなかった。


テレビの解説

 これらの証人は目に見える事故の後遺症をもう一つ語っている。郊外に表土を積み上げて柵をめぐらせた場所が多くあった。その上にありふれた雑草が歪んだ形や大きさをして生長していた。土地の人々はこの場所を、”地球の墓場”と呼んでいた。

 この2つの証言の確度はいくつかの方法で確認されている。この情報は直接CIAにつながってはいない。にもかかわらず、ここでも原子力センターの住所が”チェリャビンスク40”と示されている。ソ連では私書箱番号が秘密施設の場所を表す普通の方法になっている。オブニンスクの原子力研究所でさえも、オブニンスク市が公式に存在するようになる1968年までは私書箱番号で呼ばれていた。

…以下略

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ウラルの核惨事 隠蔽された事故 放射能汚染 NO1

2013年07月10日 | 国際・政治
 1976年の夏、ジョレス・メドべージェフ(元オブニンスク放射性医学研究所:分子放射性生物研究室長)は、イギリスの科学雑誌『ニュー・サイエンティスト』の編集者の求めに応じて、ソ連における大きな核事故で数百人が死亡したという1958年のいわゆる「ウラル核惨事」に関する論文を発表した。この事故は、ソ連原子力工業中心地の地下に大量に貯蔵されていた放射性廃棄物が爆発によって大気中へ噴出したもので、数百人の死者を出し、数千人が強制退去させられたり、病院に収容されたりしたという。そして工業地域を含む広大な面積が危険地帯となり、現在に至るという。それは、原子炉の故障による放射能漏れというレベルではないというのである。

 ところが、この事故による人的被害や放射能汚染があまりにも深刻であったためであろう、この事故を隠蔽し、なかったことにしようとしたり、極端に過小評価したりしようとするのは、当事国ソ連にとどまらなかった。欧米諸国はもちろん、日本も核開発に取り組み、国策として原子力発電を推進していた時期であり、彼の論文は、海外でも”たわごと””サイエンス・フィクション””想像上の作り話”だとされたのである。そして、事故を察知した情報筋も、”事故は今日の原子力発電とほとんど関係のない原子炉技術に関わるものであり、今日の原子力発電の安全性との関連性は僅少である”などと論評したのである。

 「ウラルの核惨事」ジョレス・メドベージェフ:梅林宏道訳(技術と人間)の著者は、単に不確かな秘密の情報を暴露しているのではなく、自らが知り得た事実と公衆に開放された情報を徹底的かつ効果的に活用することによって、科学的に推理できるのだという。そして、放射性同位元素を扱う経験を積んだ研究者ならば、それを理解するのに困難は感じないであろう、ともいう。
 読み進めれば、多くの証言や数え切れない研究資料を駆使した彼の論証を覆すことが難しいことは、誰にでも分かるであろう。

 今なお多くの謎につつまれている「ウラルの核惨事」を、実証的に明らかにした意味は大きい。
 下記は、目次と第1章の一部抜粋であるが、「エルサレム・ポストの編集者へ」の文章が、「私は核惨事のニュースがイスラエルでの原子力発電所建設反対闘争の武器として利用されるのではないかと心配しました」という(大学教授)L・トウメルマンのものであることが印象的である。
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 目次
第1章 一大センセーション始まる
第2章 センセーションは続く 
第3章 ウラルの惨事
第4章 巨大な湖を汚染する
    ──湖、水草、魚類に放射能汚染
第5章 1千万キューリーの汚染
    ──ウラルの汚染地帯における哺乳類
第6章 惨事はいつ、どこで起こったか
    ──汚染地帯はチェリャビンスク地域であり、核惨事の時期は1957年秋─冬であることを証明する
第7章 渡り鳥と放射能の国外への拡散
    ──放射性生物群集における鳥類と放射能の国外への拡散
第8章 死滅した土中動物
    ──ウラルの汚染地帯における土壌動物
第9章 森林の様相は一変した
    ──ウラルの汚染地帯における樹木
第10章 草原植物の放射線遺伝学
    ──ウラルの汚染地帯における草原植物と放射線遺伝学の研究
第11章 生き残ったクロレラ
    ──放射線環境における集団遺伝の研究
第12章 CIA文書は語る
    ──ウラルの核惨事に関するCIA文書
第13章 核惨事のシナリオ
    ウラル核惨事の原因、1957──58年の出来事を再構成する一試論

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             第2章 センセーションは続く

ソビエトの核惨事

 エルサレム・ポストの編集者へ

ソ連での大きな核事故が原子炉の故障に関係しているという報道(12月7日および11日)に反論するため、私はその惨事の目撃者としての説明を行いたいと思います。

 1960年、私は北ウラルのスペルドロフスク市〔の北東〕から、南ウラルのチェリャビンスク付近のある場所〔へ〕自動車旅行をする機会がありました。私たちは真夜中少し過ぎに出発し5時頃にスペルドロフスクから南に通ずる幹線高速道路に到着しました。5時という時刻は周囲一帯を見るのに充分に明るい時刻でした。(註略)

 スペルドロフスクから約100キロメートル(60マイル)のところに、「ここより30キロメートルの間、決して停車せず最高スピードで通り抜けること」と運転手に警告する道路標識がありました。
 道路の両側は見渡すかぎり土地は死に絶えていました。村も町もなく、ただ壊れた家の煙突だけがあり、耕地も牧場も家畜の群れも人びとも……全く何もありませんでした。

 スペルドロフスクの周囲の全領域は極度に放射能を帯びていました。数百平方キロメートルの広大な領域が久しい間、何十年あるいは何百年の間、荒れたまま放置され、利用価値がなく生産性を失ったかのような状態にされていました。
 私はこの場所が何百人もの人々が殺され、あるいは障害者にされた有名な”キシュチムの大惨事”の場所だと聞きました。


 私はその事故が、ジョレス・メドベージェフが『ニュー・サイエンティスト』や『エルサレム・ポスト』に書いているように埋蔵されていた核廃棄物によるものか、情報部筋が言うように(APや『タイムズ』に引用されている)プルトニウム生産用原子炉の爆発によるものか、確信をもって言うことができません。しかし、素人はもちろん科学者たちも、私が話をしたすべての人びとは非難されるべきは核廃棄物の貯蔵において怠惰で不注意であったソビエト官僚であると確信をもって考えていました。
                              (大学教授)L・トウメルマン
                                  ワイツマン科学研究所
                                        レホボス


 私はトウメルマン教授に『ニュー・サイエンティスト』の論文のリプリントを送った。というのは、どう見ても彼はそれを読んでおらず、単に新聞記事に反応しているように思われたからである。数日後私は彼から手紙を受けとった。手紙には、彼はイスラエルには原子力や原子力発電所が必要だと感じているが、ウラルの惨事が一般の人びとにそれらと関連づけて受けとられないように、正確で忌憚のない発言をしてゆく決心をした、と書かれていた。「何のエネルギー資源もなく、世界のほとんど全部の石油資源を掌握している敵性国家によって包囲されている私たちの国においては、反核宣伝はとりわけ危険に思われます。私は核惨事のニュースがイスラエルでの原子力発電所建設反対闘争の武器として利用されるのではないかと心配しました。そして『エルサレム・ポスト』の編集者に手紙を送り、私の見たことを書き、惨事は原子力発電所の機能と決して関係ないことを強調しました……。」とトウメルマンは書いていた。

 ・・・

 この見解(核廃棄物の埋蔵が事故につながることはあり得ないという見解)は原子力の技術面を扱っている多くの管理者や専門家の意見を反映しているにちがいない。また、こうした大規模な事件を論ずるさいには、全面的な検閲があり完全な拒否がありうるのだということを疑問視したり理解できないということも、西欧知識人に典型的なことである。
 ソビエトの原子力技術を専門に追っている情報機関員の間では、このような決定的な事件を彼らが見落とすことなどありえない、という見解が広く存在するらしい。彼らは南ウラル地域はソビエト原子力工業の中心地であり、最初の軍用原子炉のできた場所であることを知っていた。

 二大工業都市─スペルドロフスクとチェリャビンスク─と近隣地域はすべて常に外国人には閉ざされてきた。フランシス・ギャリイ・パワーズの操縦するアメリカのU二型機が、1960年5月1日に撃墜されたのはまさにこの地域の上空であった。アメリカで出版されたフルシチョフの回顧録は、この事件よりそう遠くない以前に、もう一機のU二型機がスペルドロフスク地域と南ウラルの上空に飛来したことがあったとのべている。しかし当時は、地対空ミサイルが設置されておらず、戦闘機ではスパイ機の21キロメートルという高度に到達することができなかった。1960年の1回目と2回目のU二型機の飛行(そして回顧録のなかでフルシチョフが語っているそれ以前の数多くの飛行)は、ウラル地帯のすべての地域、とりわけスペルドロフスクとチェリャビンスク地域の写真撮影に従事していたのである。ウラルの上空を通過するアフガニスタンからノルウェーへの空路は長年U二型機の空路だったのだから、これらの写真の分析から、この地帯における深刻な惨事についての必要な情報はすべて得ることができる、とみるのは当然であろう。

 1957年に、ウラル地帯で起きた”ある種の惨事”についての噂や口伝えの報告は、多くの亡命者の証言や外国の情報部に寝返ったソビエト情報部員やソ連内部にいるCIA独自の機関員、たとえば、相当に情報に通じているオレク・ベンコフスキーのような人物、によってCIAに知らされていた。「軽微な汚染除去作業を要するに過ぎない軍用原子炉の事故」というCIAの論評が新聞に出たが、背景にはこのような事実があった。情報部が持っている実際の文書は、1年後に公表されたが、それは、この最初の控え目な解釈に対する最良の反証となるものである。

 1957年末(あるいは1958年初め?)にチェリャビンスク地域で発生した事件についての本書の分析は、けっして私がソ連で働いていたときに知ったセンセーショナルな秘密を暴く目的で書いたものではない。1958年頃から、確かに私はウラルの核惨事についてかなり詳しく知ってはいたが、情報はけっして秘密の出所からえたものではなかった。
 ウラルに住む何万という人びとが、この惨事のことを知っていた。しかし大多数の普通の人びとは、核廃棄物の貯蔵所が爆発したという話は全くの嘘であると考えた。むしろ彼らは原子爆弾が事故によって爆発したのだという避けようもない噂を信じたのである。
 スペルドロフスク、チェリャビンスおよびその付近の住民から惨事そのものを隠そうとしたところで、それは非現実的なことであった。市内の病院や診療所は、退去させられ診察のため抑留された住民で一杯であった。しばらくして、より隠れた地区で放射線病の症候が現れ始めたとき、強制退去地帯は拡大され、患者は病院だけではなく、サナトリウムや病院として設備しなおした保養所(休暇施設)にも収容され始めた。そして狩猟や魚釣りは南ウラル、中央ウラル全域にわたって禁止され、数年にわたって個人経営や集団農場の市場での肉や魚の販売は、放射能についての特別検査なしには許可されなかったのである。


 ・・・

 この本を書くにあたって、私はまた秘密機関の貧弱なデータに依存して、私の最初の論文を”たわごと””サイエンス・フィクション”そして”想像上の作り話”と呼んだ人びとのことを念頭においた。しかし、何よりも第1に、私の目的は今後何百万年も人類が生存してゆかねばならない環境の核汚染を止めさせることに関心をもっている人びとの役に立つことであった。政治家は彼らの決定を下すに当たって2、30年を考えて計画を立てる。原子力エネルギーの専門家は時に数世紀を視野に入れて彼らの計画を練る。生物学者や遺伝学者は、私自身もその1人だが、進化という観点から未来について考え、何百万世代を考慮しつつ未来のモデルをつくるのである。

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チェルノブイリ原発事故汚染地域住民の手紙

2013年07月04日 | 国際・政治
NO368の 「原発事故 放射能汚染地域 対策 ウクライナと福島」に、ウクライナにおける「法に基づく放射能汚染ゾーンの定義」の表を入れた。その表では、年間被曝線量が0,5ミリシーベルト以上は「放射能管理強化ゾーン」、1ミリシーベルト以上は「移住権利ゾーン」、5ミリシーベルト以上は「移住義務ゾーン」となっていた。

 しかしながら、福島では1ミリシーベルト以上でも帰還を認め、被曝線量自己管理の提案が政府関係者から住民にあったという。除染作業は一通り終わったが、大半の地点で目標に届かず、再除染の余裕がないからであるという。住民は「目標値まで国が除染すると約束した」と食い下がったが、無尽蔵に予算があるわけではないからというのである。福島県田村市における住民説明会での話であるが、無責任といわざるを得ない。ウクライナでは移住の権利が発生する1ミリシーベルトが、福島では帰還の権利が発生する数値になるということであろう。

 低線量の放射線による被曝の人体への影響や健康被害については、どれほど低線量であっても放射線被曝は有害とする「直線しきい値無し説」がある。1ミリシーベルト以下であれば全く問題ない、とはいえないのである。

 政府は、福島第1原発事故で避難した住民が自宅に戻ることのできる帰還基準を、下記のように再編した(2013年5月25日朝日新聞)。
(1)5年以上帰れない帰還困難区域(年50ミリシーベルト超)
(2)数年で帰還を目指す居住制限区域(年20ミリ超~50ミリシ-ベルト)
(3)早期帰還を目指す避難指示解除準備区域(年20ミリシーベルト以下)

 ウクライナでは5ミリシーベルト以上が「移住義務ゾーン」になっていることを考えれば、福島の人たちのこれからの健康被害が心配なだけではなく、その精神的苦痛はいかばかりかと思う。

 下記は「チェルノブイリ極秘 隠された事故報告」アラ・ヤロシンスカヤ:和田あき子訳(平凡社)からの抜粋である。アラ・ヤロシンスカヤに助けを求める、汚染地域住民からの手紙の一部である。被曝線量にどれほどの差があるかはよくわからない。しかし、手紙に書かれているチェルノブイリ原発事故汚染地域住民の苦しみと同じような苦しみが、福島の人びとにもあることを考えれば、除染の問題のみならず、現政権の原発に対する姿勢そのものが、あまりにも無責任ではないかと思うのである。
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           第1部 わが内なるチェルノブイリ

16 「子どもたちが死にかかっています、助けてください!」

高汚染区域からの手紙──それは胸の痛む文書である。ほとんど毎日のように私はそれを受け取る。告白である。集団的な告白。くれるのは住人、市民運動グループ、地方行政当局、労働組合、社会団体である。時として絶望した人びとが心痛に満ちた詩を送ってくれることもある。日記もある。


(1)-------------------------------
 「私はまだ32歳ですが、年に数回入院します。私の4人の幼い(12歳以下です)子ども達も慢性病にかかっています。(疲れ、手足の関節の痛み、ヘモグロビンの低値、甲状腺肥大、リンパ節炎、頭痛、胃痛、慢性感冒性疾患です)
 私たちは死にたくありません。子ども達が健康に生き、成長するよう、この子らに未来があるよう願っています。でも、私たちの運命や子ども達の運命を左右する人たちの無情さ、冷淡さ、冷酷さのために、私たちは最も恐ろしい目にあっているのです。なぜなら、私たちにはそんなことはわかっているからです。わかっていないか、わかろうとしないのは柔らかい椅子に座っている官僚たちだけです。


 ナロヂチ地区では、一部の村だけですけれども、移住させると約束されていますが、私たちの地区については何も言われていません。私たちは数年も放射能を食べ、飲み、それを吸い、最期の日を待たなければならないのです。これはソビエトの国でのことなのです。人間がなにより大切だと、いつも、いたるところで(ラジオでも、新聞でも、学校でも)言われてきたのに!これは不正義ではないでしょうか。私たちは誰にも必要じゃないのです。どこへ相談したらいいのでしょう。住所がわかれば、国連に書くのですけれど。というのは地元当局は、私たちと同じように無力だからです。
 後生です、後生ですから、私たちの悲しみを救ってください。私たちの子どもを助けてください。
         4人の息子の母ワレンチーナ・ニコラーエヴナ・オフレムチュークと
         オフレスク地区のすべての母より」


(2)-------------------------------
 「お手紙させていただきますのはジトーミル州ナロヂチ地区ノリンツイ村、クローチキ村、マリヤノフカ村、ソフチェンキ村、ニヴォチキ村、スタールイ・ドロギン村、スニトゥイシチャ村の住人、ゴーリキー名称コルホーズのメンバーです。

 私たちはあらゆるお役所に相談いたしましたが、私たちの不幸、私たちの子どもたちの運命に対して相変わらず、どこも無関心です。3年がたち、チェルノブイリの悲劇のこだまは、ますます大きく子どもたちの健康に影響を及ぼしています。私たちはみなチェルノブイリから60キロのところにいます。子どもたちを見るたびに、母たちの胸はえぐられる思いがします。最近子どもたちの健康はとみに悪化しています。子どもたちはよく疲労、不調、慢性的な頭痛、視力低下に見舞われ、失神もよく起こり、手足の骨折も頻発しています。子どもたちの学習能力はひどく低下しました。出席簿には大量の欠席が記録されています。生活の喜びは消えてしまいました。こうしたことは全部、たった3年で起こったことです。この先5年、10年後にはどうなるのでしょうか。これからこの世に生まれてくる者たちを待っているのは何なのでしょうか。

 年に二度、子どもたちは検診を受けていますが、(それが検診と呼ぶことができるとしての話ですが)、私たちはまったく何も教えてもらえません。私たちが持っているデータだけからでも、私たちは不安にかられています。ノリンツイ中学校の生徒132人とラタシ中学校の生徒65人のうち、42人が検診を受けました。うち39人が健康に障害があったのです。その子たちは、精密検査のために共和国放射線診療所に送られました。このことは私たちを緊張させました。私たちは川や森に子どもたちをやるのを恐れていますが、こうしたもののすべてが子ども時代をなしているのです。区域を『きれいな』ゾーンと『汚染した』ゾーンに分けることができるのは役人だけです。状況は正常だ、人間は生涯に、つまりこれは70年間のことですが、35レム取り込むのだといった言動に、私たちの心は穏やかではありません。でも、誰かさんには実験用ウサギが必要なのだということは私たちにはわかっているのです。検査が行われたたった一つの村でも、1年間に1,08レムが体内に蓄積された例があったのです。私たちの健康に誰が責任をとってくれるのか、私たちの子どもに何が起こるのかという疑問がわきます。ほとんどすべての子どもには、甲状腺肥大が現れています。多くの子どもたちの肝臓は肥大していますし、心臓循環器系障害も増加しています。

 大人の住民たちには、腫瘍系の病気の増加が見受けられます。診療所での今期の腫瘍病患者登録は40人になっています。私たちのコルホーズではこの2年間だけで──1987年と1988年──14人が登録されています。地区にキエフから検診のための医師班が出張してきましたが、今年の3月のことですけれども、その出張期間では私たちの子どもたちにはとても足りませんでした。私たちのコルホーズでは、病気の子どもの数は厳重管理村より少なくありません。この問題では、私たちは再三、ソ連邦保健省、閣僚会議、放送番組『ペレストロイカの探照灯』編集スタッフに相談しましたし、ウクライナ共和国最高会議の同志カチャロフスキー(われわれの代表団は彼のところで応対を受けた)には個人的に相談しましたが、役所からは直接一通の返事も来ませんでした。

 起こってしまったチェルノブイリ事故の後で、私たちが望んだことは、州においても、共和国においても私たちに理解をもって対してくれることでした。しかし、現実はその反対でした。すでに3年も、われわれに注意を向けてくれる人はいません。州の役所は、われわれを移住させようと努力だけはしていますが、他のすべての事柄に対しては目をつぶっています。誰もわれわれの状態に立ち入りたがりません。われわれは不幸を背負ったまま一人ぼっちにされています。そのために私たちは、ソ連邦人民代議員としてあなたが次の問題の解決に関心を向け、介入してくださるようお願いする次第です。問題とは、賃銀に対する割増しの問題を解決すること、家族の一人ひとりにきれいな食べ物代として30ルーブリ支払うことです。きれいな農産物の供給のこともあります。

 母親として、私たちの状態をわかってください。孫のことは言うに及ばず、自分の子どもたちに、私たちは5年─10年先にどう言うのでしょう。われわれも子どもたちも未来を考えることはできないのです。私たちのコルホーズの住人の署名を添えます」
 この手紙のしたには約600の署名が並んでいる。


(3)-------------------------------
 「私たち、ジトーミル州ナロヂチ地区マリヤノフカ村民は、あなたのお力添えをお願い申し上げます。全員がそれぞれ自分の不幸を背負ったままでおります。

 1986年4月を、私たちはいつも思い出しております。まだ3年しかたっておりませんが、それでもチェルノブイリ原発事故は、どんどん私たちを不安にしていきます。それはどんどん子どもたちの健康に影響を及ぼしております。私たちは涙なしに子どもたちを見ることができないのですが、助けてやるすべがございません。子どもたちが以前のようでないことは、すでにはっきりしております。溌剌さ、喜び、笑いはどこへ行ってしまったのでしょう。彼らはよく病気をします。そしてそれは個別的なことではないのです。私たちはまだ、自分と子どもたちのために自家菜園でできたもので食事の用意をしております。そうしてはならないことは知っておりますが、でも別のやりかたはできないのです。すべてのコルホーズ では牛乳の汚染は最も高く、許容基準を数倍上回っております。売店へは野菜、果物はまったく届きません。牛乳はごくまれに届く程度です。ソーセージや肉が来るのは、『きれいな』農産物が配達される村で残ったときだけです。これらの村は私たちの周辺3-4キロのところにあります。

 私たちの村は小さな村でございます。住んでいるのはほとんどコルホーズ員で、仕事はそんなになく、そのために稼ぎも低いのです。平均して月60-70ルーブリほどです。家族がおり、子どもは3-4人ずつございます」

 手紙の下にはマリヤノフカ村コルホーズ員13人の署名がある。


http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。 

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