真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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井上馨 尾去沢鉱山事件 

2018年08月28日 | 国際・政治

 古代中国に、戦略が成功する三条件として、「天時不如地利。地利不如人和(天ノ時ハ地ノ利ニ如カズ 地ノ利ハ人ノ和ニ如カズ)」という言葉があるといいます。いわゆる「天の時・地の利・人の和」です。

 大政奉還直前、将軍・徳川慶喜は、その言葉を引いて、「この三つはつねに相関関係があって、ひとつなくなると他のふたつもなくなるものだな」と苦笑した、と「大政奉還 と徳川慶喜の2000日」童門冬二(NHK出版)にありました。「天の時、すなわち運はすでに去った。地の利、すなわち条件もいま非常に厳しくなっている。人の和、すなわちよい補佐役や部下もどんどん減り、次第に孤立している」ということです。その、”補佐役や部下もどんどん減り”に関して、慶喜は黒川嘉兵衛に次のように語っています。

終始一貫してよくわたしを支えてくれた。多くの者が殺されてしまったが、おまえだけは生き残った。それだけに肩の荷が重かろう。が、もうしばらく助けてほしい
 黒川嘉兵衛が返した言葉は
お側にお仕えしておりました中根長十郎殿、平岡円四郎殿、原市之進殿がすべて兇剣に倒れたのちも、わたくしひとりおめおめと生き残っております。これはおそらく上様のお役に立たないために、生命を長らえていることかと存じます。かえって足手まといだと存じますが、このうえは嘉兵衛身命をなげうって最後までお側にいさせていただくつもりでおりますので、なにとぞお気を強くお持ちの上国難の収拾方をお願い申し上げます

 長州を中心とする尊王攘夷急進派のテロがいかに凄まじいものであったかがわかります。江戸攪乱工作では、幕府を助ける商人や諸藩の浪人、また尊王攘夷の活動の妨げになる幕府役人や学者、唐物を扱う商人その他も殺されたといいます。尊王攘夷をかかげて多くの人を殺害した討幕派は、政権を手にするとすぐ攘夷をすてて、開国政策を進めています。いったい何のための討幕であり、人殺しだったのでしょうか。
 下記の「尾去沢鉱山”官没”事件」は、「日本疑獄史」坂本藤良(中央経済社)から抜粋したものですが、野蛮な殺人をくりかえした人たちの集団が政権を手にした結果、起こるべくして起こった事件のように思えます。

 外遊から帰国とすると同時に、外遊中の山県の汚職(山城屋和助事件)や井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走し、山県や井上を政界に復活させた大久保や木戸、また、西郷を遣韓大使として派遣するという閣議決定を無視する意見を天皇に上奏し、勅許を得て、西郷や江藤など、長州閥に歯止めをかける立場の人たちをことごとく下野させた岩倉などが、明治の元勲として評価されていることは、問題ではないかと思います。その後の日本の暴走は、こうしたことの結果ではないかと思うからです。

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                        一 明治前期

2 尾去沢鉱山”官没”事件

 おかしな大蔵省の処置

 ・・・
 尾去沢事件は、こうした政治状況のなかでおこったのである。
 新政府は外国とのトラブルを極端に恐れた。条約改正にひびくからである。そこで外人に対する負債は政府が肩代わりをして支払うこととし、そのかわり、藩所有の債権を政府のものとして取り立てることにした。
 新政府が南部藩の文書を調べていると、藩はイギリス商人オールトから十一万五千二百八十六ドルを借りており、その金は村井茂兵衛が運用していたように見える証文があらわれた。そこで、新政府は村井にその返済を要求した。
 しかし、実際は、村井は藩に債務があるわけではなかったのである。
 南部藩が官軍に敗れて、七十万両を朝廷に献金するように新政府から要求されたとき、藩はその調達に苦しみ、村井に相談した。村井は、オールトら外国商人との取引があったので、外債を募ることをあっせんし、契約とりつけに成功した。ただし、この外債は、もし違約したときは二万五千両の違約金を払う、という条件つきであった。
 ところが、藩は、どたん場になって、外国商人から借りることをためらい、ついに拒絶の決定をするにいたった。困ったのは、あいだに立って斡旋した村井である。違約金二万五千両を一時立てかえてオールトに支払った。後になって、南部藩はこの金を村井に返済した。その返済のときの書付けにつぎのように記されていた。

「一金 二万五千両 奉内借候(ナイシャクタテマツリソウロウ)
                   村井茂兵衛」

 南部藩の慣習で、藩から商人に下げ渡した金には、つねに「奉内借」と書くのがきまりであった。これを、新政府(大蔵省)は、村井の藩に対する債務とかんちがいしたのである。
 それだけではなかった。大蔵省は、幕末に南部藩が村井に鉱山の採掘権を与えたその特権に対する上納金が未だ藩に納められていないではないか、と言い、村井に上納を迫った。
 『世外井上公伝』(「世外」というのは井上馨の号である)第二巻によると、大蔵省は、結局、村井から藩に上納すべき債務残高が四千六百両余、特権に対する分限金が三万一千四百両、と査定し、これを村井から徴収しようとしたのである。
 『世外井上公伝』は、井上馨の立場から書かれているので、そのまま信用はできないが、これが大蔵省の主張であった、ということはわかる。
 村井は、当時経営不振のため、このような巨額な上納金要求には応じられないと、大蔵省の査定に抗弁した。そこで、政府は村井の家産一切を差押えた。窮地に立った村井は、鉱山および付属の設備等の原価での買上げを懇願した。しかし大蔵省はこれを認めなかった。そこで村井は、せめて年賦上納させてほしい、その間、鉱山採掘をつづけさせてほしいと、返済計画書をつくって懇願した。大蔵省はそれも許可しなかった。
 そして、岡田平蔵という男が五万五千余円でこの鉱山の引き請けを願い出ると、さっさとこれを許可した。そのために村井から鉱山を返上させ、それとひきかえに村井に対する差押えを解除した、というのである。
 村井はふんだりけったりのあげく、鉱山を強引にとりあげられてしまったのである。
 鉱山をかわりに経営することになったのが、”鼻欠けの平蔵”こと岡田平蔵。

 鼻欠けの平蔵

 村井は泣く泣く酒田の裁判所に訴えた。だが、あえなく敗訴してしまった。
 地方の裁判所はまだ江藤ら司法省の直接支配下になく、各府県知事の管轄下にあった。したがって、当然、井上らの圧力がかかった、と見てよい。
 裁判まで政治の派閥に左右され、不法がまかりとおるのであった。もはや中央政府に訴えるしかない。村井は、堀松之助を代言人として、中央の司法省に訴えた。それは、江藤新平が辞表を出して却下された明治六年二月のことであった。
 それは、司法権の独立を主張する江藤と、財源難を理由にこれを押さえようとする井上との、激烈な闘争のまっ最中であった。
 村井の訴えを調べて、江藤は、おどろいた。
 井上、山県ら、長州派の政治家は、西郷、板垣、江藤らに比較すると、利権漁りに巧みであった。三井組、山城屋、三谷家、藤田組といった豪商、政商と結びついて、彼らに利権を与えるかわりに、甘い汁を吸っていた。西郷、板垣、江藤らは、井上、山県に比較すると、クリーンであった。
 何とかして、井上らの尻尾をつかまえてやろう、と司法をにぎる江藤は虎視眈々と狙っていたにちがいない。その機会が向こうからやってきた。
 尾去沢鉱山の払下げを受けた岡田平蔵とは、井上の子分である。こんなひどい汚職はない。
 平蔵は梅毒のせいか鼻が欠けていたため”鼻欠けの平蔵”などと呼ばれていたが、きわめて有能な商人だった。横浜での外国貿易で大儲けをした。また井上が造幣頭(ゾウヘイノカミ)を兼務している時、造幣寮に古金銀を分析して納入する仕事を、五代友厚とともにやって儲けた。益田孝(三井物産の初代社長)を井上に紹介したのも、この岡田である。生きながらえたら、相当な財閥をつくったであろう。

 後の話になるが、井上が江藤との争いに敗れ、辞表を出して大蔵大輔をやめたときは、岡田が出資して「岡田組」という会社をつくり、井上を総裁、益田孝を頭取にした。しかし、二ヶ月後、岡田が急死したので、井上自身が社長になり、「先収会社」として再出発した。これがのちに三井物産になるのである。だから、三井物産は、井上、岡田、益田と、そして三井の大番頭、三野村利左衛門と、この四人の合作と言ってもいい。井上と岡田とは、そういう親密な間柄なのであった。
 
 話を戻すと、村井から尾去沢鉱山を没収した(つまり”官没”した)直接の担当者は、大蔵省の川村選(セン)であった。判理局の十等出仕の役人である。
 川村は、村井から”官没”しておいて、他方で、岡田への払下げの稟議書を書いた。

 「岡田平蔵、尾去沢鉱山引受願ノ儀ニ付見取調伺」

 というのである。岡田に二十年年賦で払下げようという案である。それはただちに承認され、尾去沢銅山は岡田のものとなった。
 承認の印を押したのは、大蔵大輔・井上馨であった。

 罪状明白
 ここで、ひとりの硬骨漢が登場する。島本仲道という男である。
 司法大丞(タイジョウ)兼大検事警保頭(ケイホノカミ)というポストがあった。江藤は島本の硬骨ぶりにほれこんでいた。そこで、尾去沢鉱山をめぐる井上の汚職の疑いを徹底して調べろと命令する。
 その報告書が提出された。要旨つぎのようである。

一、盛岡藩大属(ダイゾク)の川井某が、廃藩置県のときに、藩の財産を大蔵省にひき渡すにあたって、村井が提出した受取証に「奉内借」とあるのを、貸付金であると虚偽の申し立てをして、取り立てようとした。ところが、村井の証明によって、それが虚偽であることが明白になったにもかかわらず、大蔵省は、その事実を見て見ぬふりして依然として村井に返納をせまっている。

二、村井が五万五千円の責任があるというが、村井が借入れた金銭などというものは全く存在しない。それにもかかわらず村井の財産を差押えるのは全くの圧制によるものである。大蔵省は盛岡藩の財産をうけついだが、同藩には有名な大森林がある。そのほかの財産も少くなくない。それに手をつければ、藩の債務は解決できるのに、村井の財産を差押えるなどとは全く不当である。

三、大蔵省はこうして不当に没収した鉱山を、全く公売の手続きもせず、山口県人(長州人)岡田某に払下げている。この岡田という人物は、大蔵大輔・井上馨の近親者である。村井が申し出た五ヵ年年賦をとりあげずに、岡田には二十年年賦を許したのは、全く私交私情から出たもので、両者の間に醜関係が存在することは明らかである。

 もはや大蔵大輔・井上馨の罪状は明白であった。

 指揮権発動

 江藤はこれだけの事実がそろえば、たとえ大蔵大輔といえども拘引できる、と思った。
 しかも、前述のように、大物は外遊中である。チャンスである。
 だが、太政官会議にはかると、「井上は維新の功労者のひとりであるから」というのでなかなか拘引を承認しようとしない。太政大臣三条実美には、そういうところがあった。
 江藤は切歯扼腕(セッシヤクワン)した。
 そのうちに、予算問題はますますこじれた。大勢は江藤の側にかたむいた。井上とその部下の渋沢栄一は辞表を提出すると同時に、連名で「建白書」を提出した。この「建白書」は秘密文書だったが、『曙新聞』に全文掲載された。マスコミのスクープだったが、このことから、政府部内の井上、渋沢への批判は強まった。
 かくて明治六年五月二十三日、ついに井上、渋沢の辞表は受付けられ、依願免官の辞令が下った。
二人はそろって大蔵省を去った。

 同時に、江藤は告発により尾去沢事件は、司法裁判所の手にうつった。
 江藤は事件の担当者として、これも敏腕で知られた河野敏鎌、小畑美稲、大島貞敏を任命し、思い切ってびしびしと取り調べをすすめさせた。
 井上は表面上は平気であった。野に下ると、岡田のつくった岡田組の大親分格として岡田平蔵、益田孝、馬越恭平をひきつれて、明治六年八月二十九日、こともあろうに尾去沢鉱山を視察し、江藤らに明らさまに挑戦したのであった。
 鉱山の入り口には、自ら筆をとって、
「従四位井上馨所有」
という高札を立てた(のちに、井上は法廷で、自分が立替たことは否定している。もし井上の証言が事実だとすれば、岡田がデモンストレーションの目的で書いたのかもしれない)
 他方江藤は執念を燃やして汚職をあばこうとしていた。井上の政治生命は風前の灯火であった。
 そこへ、事情を知って、外遊中の巨頭、大久保、木戸が急拠帰国する。
 彼ら文人派は、留守中に、西郷が約束をやぶって江藤を司法卿に起用したことに激怒する。
 とくに、大久保は、かつて自分が眼をかけた江藤が、裏切って西郷に組したばかりでなく、井上や山県を苦境に追い込み、ついに辞任させ、さらに汚職事件で追及していこうとしていることに激怒した。
 大久保、木戸らは、一種の指揮権を発動して井上に対する取調べを停止させ、他方、高度に政治的な手をつぎつぎに打っていく。
 明治六年十月、大隈重信を大蔵卿に任じ、大久保自身が内務卿になり、留守中に跋扈した武人派をおさえる強力な陣容をととのえたのである。

 征韓論の対立

 大久保、木戸は、帰国と同時に、留守中の山県の汚職(山城屋和助事件)、井上の汚職(尾去沢鉱山事件)のもみ消しに奔走した。そしてこのとき、彼らにとってまことに幸いなことに、汚職問題の影を薄れさせる、大問題が発生したのである。
 それは征韓論をめぐる政界の対立であった。
 木戸は、豹変した。かれはかつて積極的な征韓論者だった。それが帰国後は積極的なアンチ征韓論に変わり、大久保とともに、西郷、板垣ら武人派を追いつめていったのである。
 征韓論。それはすでに幕末におこっていた議論である。欧米列強に対抗する外交政策として、吉田松陰、橋本左内、勝海舟らが主張していた。維新後は、木戸孝允が中央集権の強化をねらって主張していた。木戸は、それによって士族らの不満をそらし、政治を一大改革するきっかけにしようとしたのであった。
 ところが、岩倉、大久保、木戸らの外遊中に、事態が進行した。同じ征韓論でも、板垣と西郷は少しちがっていた。板垣は盛んに朝鮮出兵を主張した。それをおさえるために西郷は、自ら使節の役を買ってでた。自分の政治生命を遣韓大使として問題を解決することに見出したのである。
 太政大臣・三条実美もこれに賛成し、明治六年八月十七日の閣議でそれが決定した。
 そこへ、大久保、木戸らが帰ってきた。もし、この案が成功せれば、西郷の声望が高まり、大久保、木戸の出る幕はなくなる。ここにいたって、外遊派は結束し、西郷の派遣阻止に全力を傾けた。木戸も180度意見を変えて、岩倉、大久保の側についた。大久保、木戸は、いまは国力を培養し、内治を整備するときである。外に対して武力など振うべきではない、と主張した。
 西郷は、閣議決定を早く天皇に上奏していただきたいと、三条太政大臣にせきたてた。他方、大久保はらは、もしそうしたら、自分は辞職し位階も返上すると三条に圧力をかけた。
 三条実美は、どうしていいかわからなくなり、錯乱して病気になってしまった。
 大久保は太政大臣の職務代行に岩倉が任命されるように工作し、成功した。岩倉は閣議決定を無視して、自分は征韓に反対であり、西郷の使節にも反対であるという意見を天皇に奏上した。天皇は、岩倉の意見を容れて勅許を下した。
 
 逆転敗北した征韓論者は、岩倉に対して不満を持ち、これに抗議して一斉に辞表を出し、野に下った。明治六年十月であった。
 西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣の五参議。
 陸軍部内で山県の汚職摘発に活躍した陸軍少将・桐野利秋、篠原国幹たち。
 司法省内で井上の汚職摘発に敏腕を振った島本仲道、河野敏鎌、小畑美稲たち。
 彼らはすべて辞任したのである。
 こうして政権は、完全に文治派(今は外遊派でもある)の掌握するところとなった。
 今にして思えば、帰国した木戸が、本来の政務をほったらかして汚職のもみ消しにとびまわっただけでなく、反征韓論者へと180度転換した真の理由は、長州派の救済にあったのかもしれない。征韓論の対立そのものが、汚職から世人の眼をそらし、さらに、あわよくば粛正派=武人派を政界から追放するための、意識的な高等政治戦略であったともみられるのである。
 汚職事件は、しばしば政治構造そのものを変える起爆剤となるものだが、山城屋事件、尾去沢事件もまたその役割を果たしたのであった。

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山県有朋 山城屋和助事件と三谷三九郎事件

2018年08月20日 | 国際・政治

 今は亡き私の父母は、先の大戦で塗炭の苦しみを味わい、事あるごとに、「戦争だけはやってはいけない」とくり返しておりました。また、戦争を体験した人の同じ様な言葉を何度も耳にしてきました。だから、その戦争がどういうものであったのかを理解しようと、いろいろ学んでいるうちに、日本軍には、あきれるばかりの人命軽視や人権無視があったこと、また、現在の常識では考えられないほど理不尽で、不当な作戦や命令があったことを知りました。満州、731部隊、南京、従軍慰安婦、…。そして、なぜ、あれほど酷い戦争が行われることになったのか、と疑問に思いながら学んでいるうちに、少しずつ歴史を遡るかたちで、幕末や明治の歴史に関する書籍も読むようになりました。そして、先の大戦における人命軽視や人権無視は、そのころからのものではないかと考えさせられています。

 徳川慶喜が大政を奉還した日に、薩摩藩と長州藩に「討幕の密勅」が下されていますが、理解できません。当時徳川慶喜は、幕藩体制の行き詰まりを認識し、海外の情報をもとに、公議政体を想定して大政を奉還したといいます。にもかかわらず、「討幕」というのは、どういうことなのか、と思うのです。「討幕の密勅」は「偽勅」であると考えられる理由がいろいろあるようですが、私も、総合的に考えると、岩倉具視などの公卿の一部や長州の尊王攘夷急進派などによって画策された「偽勅」だろうと思います。
 そして、日本が一致して幕政を改革し、外圧に備えるべき時に、討幕という権力奪取の戦いに注力したのは、日本の将来を考えたからではなく、権力を私しようとしたからではないかと思うのです。

 長州藩は、攘夷を実行するとして、文久3年5月10日(1863年6月25日)に単独でイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃していますが、オランダは鎖国時代から江戸幕府との長い友好関係があり、長崎奉行の許可証も受領していました。
 そのオランダ艦隊も砲撃をした長州藩。
 国際世論に耳を傾けず、国際法に違反するかたちで真珠湾を奇襲攻撃した日本軍。
 手痛い報復を受け、はじめてその力の差に気づき、ほぼすべての要求を受け入れた長州藩。
 工業力の差はおよそ二十倍、石油生産量や航空機製造能力は、それを上回るといわれた国力差を無視して真珠湾を攻撃し、日本滅亡が現実のものになるかもしれないところまで戦った日本軍。以後、不当なアメリカの要求を拒否しない日本の政府。
 同質ではないかと思います。
 だから私は、尊王攘夷急進派が討幕によって政権を手にした結果、こうした支持や合意のない無謀な戦争を、一方的に始める日本になったのではないかと考えてしまいます。そして、その戦争が何をもたらすのかは、ほとんど考えていなかったのではないかと思います。歴史を偽ったり、不都合な事実を隠蔽する体質も、明治維新以来続いてきたのではないかと思います。

 尊王攘夷を掲げた野蛮な暗殺や「異人斬り」の問題、「孝明天皇毒殺」や討幕のための「偽勅」、戊辰戦争時の「偽錦旗」の問題、さらには、幕府を挑発するため相楽総三に江戸攪乱を命じておきながら、都合が悪くなると、相楽たち赤報隊は官軍の名を利用して略奪行為を行った 「偽官軍」であるとして処刑するに至った問題、また、上記の無謀な長州藩単独の四国艦隊砲撃事件とその後の極端な方針転換、そして方針転換と矛盾する「討幕」の戦いなどが、今に通じる歴史の事実ではないかと思っているのですが、それらに加えるべき事実が、「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)に書かれていました。
 「日本軍閥の祖」といわれ、「元老中の元老」として、日本の政官界に大きな影響力をもったという山県有朋(長州藩士)の公金流用に関する問題です。薩長を中心とする
明治新政府の体質を物語る事件ではないかと思います。

 「江藤新平と明治維新」鈴木鶴子氏(朝日新聞社)のあとがきには、下記のような一節がありました。
”・・・
 書き進むにつれて、戦後の民主主義の時代にもかかわらず、薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が、そのまま今日も史家の間に踏襲されているのではないか、という疑問がいよいよ深まった。一例をあげれば、薩長とくに長州出身者によるひどい汚職などには言及することなく、司法卿として、それを摘発した新平を、逆に非難している論述が多く見られる。権力を握った政治家の汚職は、傷にはならないというのだろうか。これには裏になにかがある、と思わざるを得なかった
 ・・・”

  私も、明治維新以後の日本が、歴史の事実をきちんと明らかにせず、不都合な事実を隠蔽して、歴史を創作してきたきた問題があり、それが現在も続いているように思います。

 平成28年11月4日、政府は、
明治150年をきっかけとして、明治以降の歩みを次世代に遺すことや、明治の精神に学び、日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。
 このため、「明治150年」に向けた関連施策を推進することとなりました。
と発表し、以後様々な施策を推進しているようです。やはり、”薩長藩閥政府によって歪められた維新の歴史が…”まさに「正論」として語られ、現政権に引き継がれているからだと思います。

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                       四章 民権を守る政治家

 山県の公金流用を摘発

 ・・・
 岩倉使節団一行を横浜まで見送った留守内閣の送別の宴で、西郷が井上に「三井の番頭さん、一杯」と盃をつきつけたのは有名な話である。それほどまでに井上馨と財閥との癒着は、目に余るものがあった。

 岩倉使節団の監視の役を帯びて、大久保、伊藤とともにアメリカ経由で、イギリス駐在大弁務使として着任した外務大輔寺島宗則から、副島外務卿のもとに届いた一通の手紙が、ことの発端であった。
「日本の紳士にして野村三千三なるもの、多く世人の知らざる所なるに、当地に於ける豪遊は目覚ましきものなり。有名な巴里の旅館に宿泊し、屢ば(シバシバ)劇場に遊んで一流の女優に戯れ、又競馬に万金を一擲して破れ、近日は巴里一富豪の金髪美人と婚約を結ぶとの噂あり。彼が巴里に来着してより、費消したる金額すでに数十万円に達せるは事実なり」
 巴里在住の公使館中弁務使鮫島尚信も、同様の手紙を日本の友人に寄せていた。

野村三千三はそのとき山城屋和助と称する陸軍省の御用商人で、長州の出身、奇兵隊の隊長をつとめたことがあり山県陸軍大輔とは古くからの友人であった。戊辰の役では北越に転職して軍功があったが、維新後、商人となり山城屋和助と名乗り、横浜に店を持った。そのとき山県は兵部大輔であったので、同郷のよしみで兵部省の御用商人となることができた。山城屋は兵器の輸入とともに、文明開化に伴う百貨を輸入し、そのみかえりとして国産の生糸を輸出することを考えた。そして山県にそのための資金を兵部省から出資することを依頼した。山県は、兵部省会計局長木梨精一郎と相談し、山城屋の言うままに五十万円の大金を貸し与えた。それほどに長州閥に属する兵部省には金があったのだろう。

 一躍巨額の大資本を持つようになった山城屋は、商店を拡張し、あらゆる軍需品を兵部省に納め、それだけでも巨万の利益を得るようになった。一方潤沢な資本をもって各県の生糸を買い集め、諸外国の商館と取引契約を結んで盛んに輸出した。兵部省の長州系の官吏は、山城屋が巨額の官金を借りていることをよいことに、山城屋から無証文で金を借り出しては遊興にふける者もあるといったありさまで、山城屋がそのために支出した金額も少なくなかった。

 ところが、ヨーロッパでは普仏戦争の影響から生糸が暴落した。その間の、野村の兵部省からの借金は六十四万九千円(一説では八十万円)になっていた。この金額がいかに多額であったかは、明治四年十月から五年十一月までの十四ケ月間の政府の経常歳入が二千四百四十二万円であり、明治四年の陸軍費八百万円、海軍費五十万円、臨時軍事費二十五万円というのと比べてもわかる。
 山城屋はこの失敗を取りかえすため、自らが海外へ行って直接商取引をする、と横浜を出帆してヨーロッパに向かった。そのあげくの巴里での豪遊であった。金はせべて兵部省、そのときは陸、海二省にわかれていたから、陸軍省から出ていたのである。

 陸軍省の会計局長木梨精一郎の下にいた、陸軍少佐種田政明という薩摩出身の会計官が、それを調べあげて、同郷の陸軍少将、桐野利秋に詳細に告げた。薩摩隼人気質を代表したような桐野はそれに怒り、兵を出して山城屋商店を包囲しようという騒ぎになった。
 外務卿副島から、山城屋こと野村三千三が出途不明の大金を蕩尽していることを聞き、山城屋の商況と陸軍省との連携について調べを進めていた新平は、桐野が兵を出そうとしているのを聞くと「司法権を無視し、軍人の職権を乱用するもの」として、西郷参議のもとに使者をはしらせて阻止したうえで、司法大丞島本仲道に公然と陸軍省の会計の調査を命じたのである。
 山県は山城屋を急ぎ呼びもどして、融通した官金の返納を迫った。山城屋は、ただちに返金することは出来ないが、ヨーロッパで取引した商品が着けば、必ず返金するから、と一時を糊塗するために空手形を出した。山県は木梨と相談した上で、これを承諾し、薩摩隼人の追及に対しては「返納済みなり」と答えたので、商取引に無知な軍人たちはなすことなく引きさがった。しかし司法省は破産に瀕している山城屋がそのような大金を返済することができるはずがない、と調べを進めると、空手形であることが忽ち露見した。そこで新平は司法卿の職権をもって、陸軍省の会計全部の調査を決定した。
 山県からの急使によってそれを知った山城屋は、かねての覚悟によって事件に関する帳簿と、長州派軍人への貸金の証文類一切を焼き捨て、陸軍省の応接室で切腹自殺をとげた。
 薩摩派の軍人はそれに飽き足らず、山県をはじめとする長州派を非難攻撃し、山県は辞表を出すという事態に発展した。そのころ陸軍大将である西郷隆盛は、明治天皇の西日本(伊勢、関西、九州)御巡幸に供奉して鹿児島に帰っていた。

 
 天皇御巡幸の目的は、廃藩を行ったばかりの政府の威光を内外に示し、天皇の権威と仁徳を国民に印象づけるためであったが、一方では、鹿児島に引きこもって政府の召命に応じようとしない薩摩藩主の父島津久光を慰撫するためでもあった。久光の態度は保守派の反政府運動の拠り所ともなりかねないため、旧臣の西郷や大久保の悩みの種となっていた。
 六月二十二日、各地の訪問を終えて鹿児島に着いた天皇は、早速久光と会見した。ところが久光は政府の開化政策を猛烈に非難攻撃し、西郷や大久保の免職まで直言するありさまであった。そこへ三条太政大臣から山県の辞職、近衛兵の騒ぎが報じられ、西郷は急遽帰京することになった。

 西郷はもともと政界と財閥の癒着をにがにがしく思ってはいたが、天皇が保守的な鹿児島におられる時ではあり、みずから山県にかわって近衛都督の職につき、桐野利秋以下薩摩出身の近衛士官の山県攻撃を中止させた。
 山県は、明治二年に渡欧し、兵制を調査研究し、三年八月に帰国すると大村益次郎没後の軍政を担当し、兵制をフランス式に統一するなど、軍政の長官としては、他の追随を許さない能力を持っていたからである。
 西郷の配慮によって事なきを得たので、以来山県は西郷隆盛に深く恩義を感じた。西郷が西南戦争で死亡したのち、元勲となった山県が、西郷の遺族に伯爵を授与することを決定したのも、それがためである。

 当時の山県と陸軍省御用商人との醜関係は、山城屋だけではなかった。山城屋についで起こった陸軍御用の三谷三九郎の破産事件にも、山県は深い関係を持っていたのである。
 三谷は十二代を数えた江戸の富豪で、代々両替商として金銀のみを取り扱う家柄であった。慶応年間に、長州から預かっていた三千三百両を、幕府の長州征伐のときに取りあげられたことがある。戊辰三月、東征軍が江戸にはいると、そのことを咎められて斬首になるところを、長州藩士である野村三千三(山城屋和助)の手引きで、あやうく逃亡することができた。そののち三千三百両を返納し、そのうえに五千両の献金、三万両の御用金の献金などによって大総督府の御用達となり、引き続き陸軍省の用達となることができたのである。
 三谷は、山城屋同様に巨額の金を陸軍省から借り出し、その勢いは三井、小野をも凌ぐほどであった。三谷はその金を自邸に置かず和田倉門内の旧会津邸にある金蔵に納め、鍵は三谷の手代が持っていて、陸軍省監督長である船越衛の監督のもとに開閉していた。
 山城屋事件が起こり、船越が金蔵の現在高を調べると三十万円の大金が不足していた。これは鍵を預かっていた三谷の手代渡辺弥七らが、油の相場に失敗し、金蔵の金を使い込んでいたのであった。三谷は驚いて、横浜の外国商人から十万円を借りて一時の急をつくろったが、遂に東京市中にある五十余カ所の三谷家の地所を抵当として陸軍省に提出し、破産のやむなきに至った。

 奇怪なことに、新平が翌六年司法省を去り大木喬任が後任になると、陸軍省では山県、船越が、大蔵省においては井上、渋沢が謀議し、三谷所有の地所五十カ所の代金として五万円を三井が支払い、三井が代わって陸軍御用商となると、大蔵省より三十万円、陸軍省より三十万円合わせて六十万円を十ヵ年無利息で三井に下げ渡したのである。

 井上と三井との関係は、西郷をして「三井の番頭さん」といわしめたほどであって、明治四年末から五年にかけて、政府は内国公債として大蔵省証券六百八十万円と北海道開拓使兌換証券二百五十万円を発行したが、このとき発行業務をすべて三井組に請け負わせ、井上は総額の二割、すなわち二百万円以上の公債を三井組に与えた。そのことに非難の声があがると、井上は三井組に与えた公債の代金を大蔵省に納めさせ、そのかわりとして高い利子を払うことにした。この種の三井に対する特典は、井上大蔵大輔とその片腕である渋沢栄一によって、以前から行われていた。当然何らかの見かえりがあってのことであろう。
 後年、三谷家の奥で娘分の扱いであった”まさ”からの聞き書きによると、三谷の破産の裏には、山県をはじめ陸軍の士官が、砂糖にたかる蟻のようにむらがって食い荒らした事実があることが、はしなくも描かれている。
 三谷の今戸の寮は、陸軍省御用のために建てられた料亭のような大構えで、五十畳敷きの座敷には絨毯が敷きつめられているといった贅沢な建物であったという。そこへ毎週土曜から日曜日にかけて山県は子分を引き連れて泊りがけで豪遊する、堀の芸妓衆はみな寮のお客の相手をさせられた。山県はひいきの芸妓の一人から百五十円を無心されると「よしよし、三谷から借りよ」と鶴の一声で、もちろん貸し下されだった。

 山県卿の奥方と木戸卿の奥方ーー京の芸者幾松あらため松子夫人ーーが来たときには、当時評判の田之助一座を寮に招いて芝居をさせた。歌舞伎の名優田之助は脱疽にかかって、両脚をヘボン博士の手術で切断したが、その後は、狂言作者黙阿弥にせがんで、座ってでもできる狂言を作ってもらい、出演したのが『国性爺』の錦祥女であった。両脚切断というショッキングな出来事のあと、再び舞台へ出たというので大評判となり、大入り、大当たりとなっていた。その舞台を、そっくり三谷の今戸の寮に移して、田之助に錦祥女をさせ、堀の芸者多数が花をそえて、二人の奥方に観劇させたのである。
 花柳界で遊べば人目にたつが、御用商人に大金を貸し出し、陰で官金を湯水の如く使っていたのであった。山城屋はともかくとして、十二代も続いた三谷は破産に追いこまれ、あげくのはてに、三井に取って替わられたのである。
 
 司法省は、三谷の破産事件に対しても陸軍省の不正貸付の疑いをもって調査を始めた。その追及に、陸軍省会計監督長の船越が、山県の身代わりに山城屋、三谷への公金貸付の責任を負って辞職し、閉門九十八日の処罰を受けた。罪を免れた山県は、船越が代わって罪を引き受けてくれたことを恩にきて、次女を船越の長男と結婚させている。翌年新平が明治六年政変で政府を去ると、大久保利通は新設した内務省の戸籍権頭に船越を抜擢し、その後船越は各県知事を歴任したのち、男爵、貴族院議員、宮中顧問官へと出世したのは山県の引きたてであった。その反面、山県の不正を告発した種田は熊本鎮台に左遷され、九年の神風連の乱で非業の死を遂げた。
 
 心ならずも山県の不正事件を収拾した西郷には、ちょうどその時期が天皇巡幸と重なったこと、近衛兵(薩、長、土出身の士族軍隊)を無疵で全員復員させたいという考えがその底にあった。西郷を士族のリーダーとして保守反動と見る考えもあるが、このときの西郷は徴兵制に賛成し、士族の秩禄処分(それまで政府が藩庁から肩がわりしていた家禄を買い上げて消却させること)の遂行に熱心であった。大久保にあてた五年二月十五日付の手紙に、秩禄処分の資本にするためにアメリカで三千万円の外債の募集案をたて、大蔵少輔吉田清成を派遣したと報告し、「此の機会を失うべからず、両全の良法」と自信をもってしたためている。

 一方これまで徴兵制の実施は、山県の功績とみられていて、長州藩の奇兵隊の体験から国民皆兵を主導したとされているが、山県ら陸軍省首脳は、実は士族中心の軍隊を計画していた。彼らは新しい国軍の計画書である「四民論」と題する文書を正院に提出した。それによると徴兵の対象を戸主以外の士族と卒、手作りの地主と上層の自作農の次、三男と限定し、それ以外の階層からは代人料として金銭を徴収するという意見であった。
 それに反対したのは左院であった。江藤副議長が去ったあとも、新平が残した法治的理想主義、民権尊重の精神が漲っていた。左院は、陸軍省の、身分によって服役に差を設ける案は四民平等の精神に反すると反対し、「一朝軽易ニ之ヲ議定スベキニ非ズ」と慎重審議を要求した。
 山城屋和助事件によって、薩摩、土佐系の士官から追いつめられていた山県にその余裕はない。一刻も早く近衛兵を解隊させて、反長州派の勢力を打ち砕くためには、早急な徴兵制施行以外に道はなく、山県は士族中心の軍隊の構想を放棄したのである。
 徴兵の「詔」に「苟(イヤシク)も国あれば則(スナワ)ち兵備あり、兵備あれば則ち人々其役に就かざるを得ず……全国四民男児二十歳に至るものは尽(コトゴト)く兵籍に編入し、以て緩急の用に備ふべし」との国民皆兵の原則が、政府の告諭として発令された。明治五年十一月二十八日である。その翌日に山城屋は陸軍省の応接室で自殺した。「詔」、「告諭」と同時に発令すべき「徴兵令」は、翌六年一月十日に出された。当時の状況は、徴兵制によって安価にして大量の軍事力を動員する必要などなかったし、財政的にも無理があったにもかかわらず、これほど急いで決定した裏には、山城屋事件とのかかわりも考えざるを得ない。

 明治五年十一月二十八日、司法省から「司法省達第四十六号」が発布された。それは奇しくも国民皆兵の詔、告諭が出されたのと同じ日であった。
 此の達こそ、新平の人権擁護の精神から発せられた画期的な法律であった。その内容は、「地方官の専横や怠慢によって、人民の権利が侵害されたとき、人民は裁判所に出訴して救済を求めることができる」という思い切ったもので、それは全六箇条、簡明にして具体的なものである。
(一)地方官及び戸長等が太政官布告、諸省布達に違背して規則を立て処置をなすとき
(二)地方官、戸長が人民の願、伺、届等を壅閉する(にぎり潰す)とき
(三)地方官が人民の移住来住を抑制するなど人民の権利を妨げるとき
(四)地方官が太政官布告、諸省布達をその隣県における掲示の日から十日を過ぎても布達しないとき
(五)地方官が誤解などにより太政官布告、諸省布達の趣旨に違背する説明書を頒布するとき
(六)地方裁判所や地方官の裁判に不服なとき、は司法省裁判所へ出訴してよいと定めた。司法裁判所は、今日の最高裁判所に相当する。

 この「司法省達第四十六号」は、廃藩置県後、新しい支配者となった知事をはじめとする地方官にとって、実ににがにがしい限りであった。彼らは薩長藩閥系の下級武士から成り上がったものが多く、任地においては封建領主きどりで人民に君臨し、あるものは江戸幕府時代以上に人民の権利を侵していた。
 伊藤博文が『憲法義解』(明治二十二年)にその時のありさまを「明治五年、司法省達第四十六号(により)……地方官吏を訟うる文書法廷に蝟集し、俄に司法官、行政を牽制する弊端を見るに至れり」と記しているところを見ると、この達には大きな効果があったようだ。
 中でも新平が薩長藩閥を向こうにまわし民権擁護の施政を貫いたのが、翌六年の尾去沢鉱山事件と京都府事件となってあらわれた。

 

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異人斬り NO4 「堺事件」ほか

2018年08月15日 | 国際・政治

 薩摩藩は薩英戦争、長州藩は下関戦争を契機に、事実上攘夷を放棄し、海外から武器を輸入したり、知識や技術を積極的に導入する方針に転じました。しかしながら、武士の攘夷感情にもとづく外国人殺傷事件は、両藩の方針転換後も続きました。それは、薩摩藩や長州藩が方針転換したことや、その理由を明らかにせず、むしろ、幕末に盛り上がった尊王攘夷の勢いを利用して、開国政策をとる幕府を倒そうとしたからではないかと、私は思います。両藩の方針転換後の幕府との戦いが、日本の近代化を掲げての戦いでなかったことは、歴史的事実としてしっかりと踏まえておく必要がある、と私は思っています。もちろん幕政にもいろいろな問題があったでしょうし、制度的にも行き詰まっていたということがあるかも知れません。でも、薩長を中心とする討幕派の権力奪取の戦いを、あたかも日本の近代化のために欠かせない戦いであったかのようにいうことは、誤りではないかと私は思います。そして、明治維新を美化するそうしたとらえ方は、その後の歴史認識を歪めることになると思うのです。

 幕末に盛り上がった尊王攘夷は、外国を夷狄(イテキ)とし、「異人(外国人)は神州を汚す」存在としてを蔑視するものであったため、武士(浪人)のいわゆる「異人斬り」が続発することになったのでしょうが、薩長が攘夷を放棄して以降、下記に抜粋した諸事件で、殺傷事件関係者の多くが、列強の要求に応じて処刑されています(切腹)。薩英戦争や下関戦争前には考えられないことです。    
 かつての藩方針に従って行動したといえる武士を、列強の要求に応じて切腹させるということが、平然と行われたことに問題を感じます。処刑(切腹)の数年前には、明治の元勲といわれる伊藤博文や井上馨が、攘夷をかかげてイギリス公使館焼打ち事件に加わったり、佐幕派と思われる人物を暗殺したりしていたにもかかわらず、神戸事件堺事件の当事者は切腹させられているのです。そうした一貫性のない対応を平然と行う人たちが、武力で幕府を倒し、権力を奪取して、その後の日本をかたちづくったところに、日本の悲劇があるのではないか、と思うのです。
 木戸孝允(長州藩士・別名桂小五郎)の日記の明治元年十二月十四日に書かれている文は、見逃すことができません。木戸孝允が岩倉具視に会って話したことを書いているのです。
”「速やかに天下の方向を一定し、使節を朝鮮に遣わし、彼(朝鮮国)の無礼を問い、彼もし服さざるときは、罪を鳴らして其の士を攻撃し、大いに神州(日本国)の威を伸長せんことを願う」、そうすれば「天下の陋習たちまち一変して、遠く海外へ目的を定め、したがって百芸器械など実事に相進み、おのおの内部を窺い、人の短を誹り、人の罪を責め、各自顧みらざるの悪弊、一洗に至る、必ず国地の大益いうべからざるものあらん」と論じた旨が記されている。”「明治維新の再発見」毛利敏彦(吉川弘文館)
 木戸孝允は、すでに明治元年に、欲深く次の狙いを定めていたということではないかと思います。日清戦争へと発展する朝鮮王宮占領事件や閔妃殺害事件は、その流れの中にあるのではないでしょうか。
 下記は、引き続き「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                        第二部 攘夷への報復
                    暴走する「攘夷」ーー頻発する殺傷事件

 井戸ケ谷村でフランス士官を暗殺
 ・・・
 文久三年九月二日(1863・10・14)の午後、アフリカ猟騎兵第三大隊に所属するアンリ・J・J・カミュー少尉(フランス人)は、武蔵国久良岐郡井戸ケ谷村(現在の横浜市南区井戸ヶ谷)を一人で騎行中、浪士体の者三人に襲われ殺害された。凶行の現場は井戸ケ谷村の名主市右衛門宅から数百メートルほど離れた所である。犯人と思われる三人の侍のうち二人は雪駄(裏に皮を張った草履)を、もう一人は福草履(上質の藁で編んだもの)をはき、いずれも茶色の袴を着用していた。カミューは乗馬中のところをいきなり切りつけられたようであり、その斬殺死体は眼を覆いたくなるほど惨たらしいもので、
一 その右腕は、手綱を握ったままで、胴体から五、六間(約10メートル)離れた所で発見された。
一 顔・鼻・顎などに切り傷。喉笛に刺し傷。脊柱は完全に斬り割られる。
一 左腕は皮一枚残して切断。
一 胸の左脇は、心臓のあたりまで切り込まれていた。
一 右の肩先より左の下腹まで切り傷。
という状態で、恐らく手綱を握ったカミュー少尉は、まず利き腕の右手を斬られ、次いで左手、体の各所を寄ってたかって斬られたものであろう。喉笛に刺し傷があるのは、落馬したとき、とどめをさされたのであろう。犯人たちはカミューを殺めたのち、そのまま逃亡した。井戸ヶ谷の異変は、役人により運上所に届けられ、さらにそこからフランス公使館へ伝えられた。午後四時頃恐るべき日本刀によってフランス士官が殺されたというニュースが、またたく間に居留地内に広まると、外国人社会は恐怖におそわれた。… 
 ・・・ 

 鎌倉でイギリス士官二名を暗殺
 元治元年(1864)十月二十一日(1864・11・20)の朝、横浜に駐屯しているイギリス陸軍第二十連隊第二大隊に所属するジョージ・ウォルター・ボールドウィン少佐(Major George Walter
Baldwin)とロバート・ニコラス・バード中尉(Lieutenant Robert Nicholas Bird)は、鎌倉見物に出かけるために馬で横浜を出発した。江の島や長谷の大仏を見たのち、鎌倉八幡宮の大門先(鎌倉郡大町村)の街道までやって来たとき、松並木の陰に身をひそめていた侍体の者二名が飛び出すと、やにわにボールドウィンとバードに切りつけた。同日の午後三時頃のことである。ボールドウィンは、
左頬と左腕をひどく斬られ、さらに一刀で背部を斬り下げられ、腹部に達する創傷で、これが致命傷となった。バードは頸部(首)右肩甲部、左前膊部(腕の肘から手首まで)の内側、右前胯(ゼンコ)の下後部などを斬られたが、とくに頸部の切傷が命取りとなった。しかし、数時間ほどは息があった。検死の結果、両人は背後から襲われたことが明らかであった。犯人は被害者が落馬すると、そのまま行方をくらました。
 両人は襲われたとき、無抵抗のままだったのか、それとも加害者から身を守ろうとしたのか。ボールドウィンの拳銃は、腰のケースに収まったままであったから、かれはほとんど抵抗する間すらなかったものと考えられる。しかし、バードの死体のそばに拳銃が置かれており、弾丸が一発発射されていたから、何らかの抵抗を示したものであろう。駐屯隊の外国人が斬られた、という報告に接するとブラウン大佐、ウッド中尉、外科医のハイド、イギリス領事館通訳ラックラン・フレッチャー及び砲兵二十五名が、馬で救援のため鎌倉に急行した。しかしときすでに遅くかれらが現場で見たものは、寺の門(仁王門)から100ヤード(約94メートル)ほど離れた、掛茶屋の前の松の木の根元に筵をかけて横たわっている二人の無惨な死骸であった。
 ・・・

 イギリス人水夫二名、長崎丸山で暗殺
  長崎に住む英米人から「領事館の丘」として親しまれている東山手居留地に、イギリス領事館がある。慶応三年七月七日(1867・8・6)の明け六ツ(午前六時)のことである。領事館に勤務する警官トーマス・アンダーウッドの所に、奉行所の役人(定役)がやって来て、「山(丸山ーー長崎市内の旧歓楽街)で外国人が二人殺されたが、どこの国の者かわからない」といった。アンダーウッド巡査は、この変事を聞くと直ちに奉行所に出向きいろいろ問いただした後、死体が置かれている丸山の茶屋(寄合町の引田屋政之丞方)に赴いた。死体は店の門の奥に横たわっており、そのそばに水兵の帽子が転がっていた。帽子の内側には”Icarus(イカルス)”という艦名が付いていた。また青い綿ネルと日本人が用いる懐紙が落ちていた。被害者の身元が判明したので、アンダーウッド巡査は停泊中のイカルス号を訪ね、乗組員が不慮の死をとげたことを知らせた。
 日本側の資料には、殺されたイカルス号の二人のイギリス人水夫の名前は出てこないが、長崎のイギリス領事館の報告書には氏名が明記されている。犠牲者は
 ロバ-ト・フォウド Robert Foad(二十八歳)…火夫
 ジョン・ハッチングス John Hutchings (二十三歳)…大工
である。
 この二人は誰の手にかかり、どのような殺され方をしたのか、開港後、下松川(大浦川)の河畔に外国人用の酒場ができる前、外国船の乗組員の大半は、昔からある長崎の歓楽街(丸山)へ出かけ、たのしむのが一般的だった。フォウドとハッチングスもご多分にもれず泥酔したあげく、茶屋の前の通りで寝込んでしまい、そのとき通りすがりの何者かによって斬られたものである。
 …イカルス号の軍医ヒューストン・マックスウェルの検死報告は、これよりもややくわしい。その大要を記すと、
 ロバート・フォウド…左のわき下より胸部の左側にかけて創傷。左の鎖骨(胸部と肩をつなぐ骨)は関節のあたりで切断。創傷はさらに右の鎖骨の軟体部分にまで達している。この傷は、のど笛や食道および首の右側の大動脈や血管を切断し、脊柱にまで深く食い込んでいる。
 ジョン・ハッチングス…右肩の継ぎ目よりのど笛まで、長さ八インチ(約20センチ)の創傷。三角筋、上腕骨、鎖骨を切断。
とある。
 軍医のマックスウェルは、両人の死体を検分した結果、「何か鋭い武器、おそらく日本刀か何かによって」殺されたものと推断した。また傷口や死体の情態から、斬殺されたのは、おそらく午後九時から十時にかけての間である、と考えた。そして死因審問の結論を次のようにだした。

 イギリス艦イカルス号の死亡した二人の水夫、すなわちロバート・フォウドとジョン・ハッチングスは、本月五日の夜から六日の朝にかけて、山と呼ばれる日本人街の一部にある茶屋の前で、惨殺死体で発見された。検死陪審の意見では、二人が死に至った傷は、どこのだれとも知れぬ一人または複数の人間の日本刀によって加えられたものである。同時に、陪審団は、武器を持った日本人が、広く外国人に対して犯す、たび重なる残虐なる殺人事件に嫌悪と不快の念を覚える、といいたい。長崎ではこの種の犯罪が増加しつつあるので、陪審団としては、条約港の遊歩区域では、政府の役人が武器を携帯できるのは勤務中にかぎるといった措置をとることを勧める。
    (署名)マーカス・フラワーズ
           (領事代理、検死陪審員)
    (署名)サミュエル・モルトビィ
    (署名)M・R・グリフィス
            (海軍中尉)
    (署名)B・レインボウ 
 ・・・
 慶応四年九月七日(1868・10・22)立山役所において、大隈八太郎・楠本平之允(正隆、当時長崎裁判所権判事)・吉井源馬・林亀吉(土佐藩大目付)らが参会し、犯人捜索について相談し、その後八方に手を回して犯人逮捕の糸口を得ようとしたが思わしくなかった。しかし、ふとしたことから事件解決の端緒が開けた。林亀吉は長崎に来てから書生を雇っていたが、その者が「加害者を知っています。何でも筑前藩の者です」といったことから、その旨を長崎府知事沢宣嘉(ノブヨシ)(1835~73、幕末・維新期の公卿)に申し出た。かくして沢知事は筑前藩の聞役(キキヤク)(外敵などの急を知らせる役)栗田貢を呼び出し、取り調べを命じた。栗田は突然の話に狼狽し、藩庁に報告すると、藩としても隠すことができず、ついに同藩の金子才吉(筑前藩、犯行当時伝習生)という者の仕業であることを明かした。そして、金子はすでに切腹して果てたので、この一件い関しては連係者が自首するということにし、ひとまず落着した。
 ・・・

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                        攘夷勢力の鎮圧ーー新政府の試金石

 神戸事件と堺事件
 ・・・
 慶応四年一月十一日(2・4)の午後一時過ぎ、備前岡山藩(藩主池田伊勢守茂政=慶喜の弟)の家老日置忠尚(ヒキタダヒサ)(のち帯刀)が指揮する先発隊150名ほどが、朝廷より西宮警備の命を受け、神戸の街に入ってきた。行列が三宮神社前あたりに差しかかったとき、外国兵と衝突し、外国兵を負傷させるという事件が発生し、のち事件を起こした当事者は責任をとって切腹した。この事件(「神戸事件」とも「三宮事件」とも呼ばれる)は、生麦事件ほどは知られていないが、当時の武士が持っていた攘夷感情が爆発した攘夷殺傷事件のひとつと見なされている。
 この日岡山藩の先陣が、三宮神社の前あたりまで来たとき、日本人は当時の習慣で土下座して行列が通過するのを待っていたが、アメリカ兵コリンズがお辞儀をしなかったので、藩兵の銃口で壁に圧しつけられた。しかし、コリンズは居留地に逃げ込んだらしい。次いで二人のフランス陸戦隊員マルタンとフォルタンは、行列の先頭が近づいて来るのを見ると藩兵らが険悪な顔つきで見ているように思った。折から同じ陸戦隊員のキャリエール兵曹長は、ミニャールの店で煙草を買ったのち、行列の右側を並行して歩いていたが、行列を横切ってマルタンとフォルタンと合流しようとした。このとき砲術隊長の滝善三郎は、これを許そうとせず、キャリエールの左腕のあたりを手槍で突いたので、キャリエールはたおれ、それをマルタンかフォルタンのいずれかが助け起こし、一緒に近くの家の中に逃げ込んだ。このため滝が「鉄砲!鉄砲!」と叫んだのを、藩兵らは発砲命令を出したものと感違いし、フランス人たちに向かって射撃を開始した。
 この神戸事件の発端や原因や経緯については諸説紛々としていてはっきりせず、不明確な部分を多く残している。
 ともあれこの手槍の一撃が、岡山藩士とフランス兵らの銃撃戦の一因となったことは確かなようで、折から港に停泊中のイギリス・フランス・アメリカの各艦からも海兵隊が上陸すると、岡山藩兵を追撃し、生田川の堤のあたりで、双方撃ち合った。やがて徒士頭浜田弥左衛門の進言を容れた家老の日置忠尚は、発砲中止を命じると、全軍を摩耶山麓の方面へ引き揚げさせたという。この事件に対し列強は、報復として神戸を軍事統制下に置き、停泊中の日本の汽船を抑留し、さらに強硬な抗議文を新政府に突き付けた。これに対し、新政府は、一月十五日(2・8)に参与兼外国事務取調掛東久世通禧(ミチトミ)を勅使として神戸に派遣し、各国代表と会見し、王政復古の告書を伝達した。そして、その際、対外条約の遵守を保証し、外国人の安全を誓約した。その後、各国は協議し、日本政府への要求として、発砲を命じた士官の極刑と関係諸国への陳謝の二つを決め、翌日東久世に伝えた。当時新政府は、旧幕府勢力との対抗上、外国側の支持を得る必要があり、この要求をのむこととした。その結果、事件の発砲を命じたとされる張本人を死刑にし、謝罪することでこの事件は一応収まるのである。が、二月九日(3・2)の夜、砲兵隊長の滝善三郎は責任を一身に負い、神戸の永福寺(戦災で焼失)において、列強の代表の面前で切腹した。

 この神戸事件の余韻がまだ完全に消えない慶応四年二月十五日(3・8)の夕刻、こんどは堺においてフランス人水兵16名が同港警備の土佐藩兵に殺傷されるといった大事件が起こった。いわゆる「堺事件」(妙国寺事件」)の突発である。神戸事件では、外国人の犠牲者は一名(?)ほどにすぎず、日本人一名が切腹して一件落着したが、堺事件ではフランス側の被害者は十六名と多く、また加害者として責任を問われて屠腹(切腹)したものは十一名にも上ったため、この事件は当時、世間の耳目を驚かせ攘夷事件の中でも特異のケースとして長く記憶された。森鴎外はこの事件を基にし、歴史短編小説『堺事件』(「新小説」第19年第二巻、大正3・2)を発表し、また、作家大岡昇平が新史料による『堺攘夷始末』(中央公論社、昭和64・12)を著し、翻訳ではプティ・トゥアール著『フランス艦長の見た堺事件』(新人物往来社、平成5・8)が刊行されている。
 慶応四年正月三日(1868・1・27)鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が始まって一週間後には大坂城も官軍の手に陥ち、ここにおいて天下の形勢は一変した。堺は幕府の直轄地であり、慶応三年までは堺奉行が支配する所であったが、鳥羽・伏見の戦いで幕軍が敗北すると、この地の幕吏はいち早く逃げ出し、市中はたちまち無秩序化した。また堺は幕府の敗残兵が、江戸に帰る際の通過点でもあった。かれらはすでに規律のない烏合の衆と化し、放火、略奪、暴行をほしいままにしていた。新政府は、幕軍と開戦し約一週間後の正月十日(2・4)、早くも征討府の命をもって土佐の藩兵に堺を鎮守させることにした。土佐藩は大監察杉紀平太、小監察生駒静次及び属吏を何名か派遣し、櫛屋町の元総会所に本陣を設け「軍監府」と称し、堺の民政に当たった。
 慶応四年二月十五日(1868・3・8)の明け方のことである。糸屋町の土佐藩兵の陣に、軍監府より急使が来て、両隊長はすみやかに出頭せよとの命を伝えた。何事かと思って六番隊長の箕浦猪之吉(元章)と八番隊長の西村左平次(氏同)が直ちに出頭すると、大監察杉紀平太より、今フランスの兵士らが大坂より陸路をとり当地を訪れようとしている旨の連絡があった。堺は条約にない土地であり、まだ外国事務係(宇和島藩主)から何の連絡もないので通行を差し止め、大和橋まで兵を率いて出向くよう、命じられた。しばらくすると、堺見物のフランス人が四、五名(神戸の副領事ヴィヨーとコルヴェット艦ヴェヌス号のロワ艦長を含む)と宇和島藩吏数名と通弁一名が、陸路堺に入ろうとして大和橋に差しかかったので、両隊長が進み出、通弁に向かい、堺は外人遊歩の区域外であること、当地に入るには外国事務係の証明書が必要であることを伝えると、通弁は何やらフランス人たちと私語を交わし、やがて一行は大坂に向けて引き返して行った。
 これだけなら何の事件ともいえないが、同日の午後四時頃になって、フランスのコルヴェット艦デュプレックス号が堺沖に姿を見せた。やがて同艦の乗組員二十数名は、二隻の蒸気ランチ艇に分乗し、港内に入り、うち一隻は新湊(北の湊?)に廻航し、岸壁に横付けし、もう一隻も旭館前(大浜通り一丁目)の岸に横付けすると、上陸して善法寺竜神堂付近をうろついた。このとき堺に外国人が来た、ということで町中大騒ぎとなり、たちまち野次馬が港に殺到し、大きな人ごみができた。異人がやって来たという知らせが本陣にも伝わると、六番隊長箕浦猪之吉、八番隊長西村左平次は、50名ほどの藩兵(黒服)と鳶の者10名ほどを引き連れ、「のいたのいた」と叫びながら現場に急行した。フランス人が水陸両方面から堺にやって来たのは、オイエ提督の命令で大坂・堺間の沿岸測量と大和橋まできた同胞の出迎えが目的であったらしいが、その事情を知らぬ鎮守の土佐藩兵がたびたびのフランス兵の来堺に疑念を抱いたのは無理からぬことであった。
 蒸気ランチ艇の乗員は、見習士官ギヨン、上等水兵長ルムール、二等機関長デュレルら計十二名、もう一隻のランチ艇には、海軍中尉パリス、医官トリパリストら七名が乗っていた。ランチ艇の水兵らは周辺の計測を開始し、一、二時間ほど経ったとき、ルムールとデュレルが防波堤の上を散歩し始めた。このとき土佐兵一名から何やらいわれたが言葉が通じず、やがて二人は大勢の土佐藩兵に腕をとられ、街の中に連れて行かれようとした。このときルムールだけは、すきに乗じて土佐兵の手を振り切ると、港の方に逃げ出し、その途中、往来にたててある軍隊旗を引き抜き走ったが、早足の江戸の鳶梅吉という者に追いつかれ旗を奪われたルムールはなおも走り続け、ランチ艇に飛び込むと内燃係りの水夫に急ぎ蒸気を起こさせ、艇を発進させようとしたが、ときすでに遅く、二人と船艇めがけて土佐兵の銃撃が開始され、両人は即死し、その他の十一名も海中に飛び込んだりして難を避けようとしたが、たちまち殺傷された。新湊のほうに行っていたもう一隻の小艇の乗組員は、この有様を見て、直ちに救援を求めて本艦のデュプレックス号へ急いだ。 
 この銃撃によるフランス側の死者は、次の十一名である。
(1)M・ギヨン・シャルル・ピエール・アンドレ(第一級見習士官、二十二歳)
(2)ルムール・ガブリエル・マリ(一等水兵、二十八歳)
(3)グリュナンベルジュ・ヴィクトル(三等水兵、二十四歳)
(4)ランジェネ・オーギュスト・ルイ(三等水兵、二十二歳)
(5)ボベス・ラザル・マルク(三等水兵、二十二歳)
(6)モデスト・ピエル・マリ(二等水兵、二十七歳)
(7)ユメ・アルセーヌ・フロミロン(三等水兵、二十三歳)
(8)ヌアール・ジャン・マチュラン(三等水兵、二十二歳)
(9)ラヴィ・ジャック(三等水兵、ニ十歳)
(10)ブラール・ヴァンサン(三等水兵、ニ十歳)
(11)コンデット・フランソワ・デジレ(徴募兵、二十三歳)
 死亡者は皆二十代の若者であり、このうちブラールとコンデットの両人は、銃撃の翌日死亡した。死体の中には、脳天や眼、胸や腕、背中や脇腹などを撃ち抜かれた者、また溺死した者などもいた。
 この事件が大監察杉紀平太の耳に達すると、かれは直ちに現場に駆けつけ、射撃を止めさせ、両隊長とその部下を本陣に引き上げさせた。この大虐殺のニュースが、同日の夜大坂にいるフランス公使レオン・ロッシュに伝えられると、かれは愕然とし、直ちに外国事務係に明日十六日(3・19)の午後四時まで水兵の遺体を引き渡すことを要求した。そこですぐに東久世通禧(外国事務総督)と五代才助(のち友厚、外国事務係)が堺に急行し、直ちに事件の究明に着手した。五代はまた漁師らを呼び寄せ、フランス兵の死体を引き揚げよ、一体に引き揚げれば懸賞金(数十両)を与える、と約束し、ようやくすべての死体を収容すると、それをフランス艦に送り届けることができた。フランスの葬儀は二月二十八日(3・11)神戸で行われ、小野浜墓地(神戸市中央区浜辺通り付近)に埋葬され、記念碑が建てられた。
 ・・・
 葬儀の翌十九日(3・12)フランス公使レオン・ロッシュは敏速かつ決然と行動し、まず各国公使らと協議の末、新政府に厳重なる抗議を申し込み、次の五カ条の要求を提出した。
(一)今回の虐殺の関係者全員(土佐藩兵約二十名、鳶口を持った町民二十名)の死刑を執行すること。
(二)土佐藩主(山内豊範)は、被害者の家族に賠償金15万ドルを支払うこと。
(三)外国事務総督は、大坂に来て陳謝すること。
(四)土佐藩主は、須崎(土佐の港)に停泊しているフランス軍艦に赴き陳謝すること。
(五)武装した土佐藩兵を全員、開港場から追放すること。
 これらの要求はすべて各国代表の同意を得たもので、ロッシュは三日以内に満足すべき回答が得られぬ場合には、強硬手段を採る、と威嚇した。この要求はあまりにも苛酷であったため、新政府は苦境に陥り、小松帯刀と五代才助をイギリス公使パークスのもとに遣り調停を依頼したが、同人もフランス側の要求の妥当性を主張したので、つい要求を承諾することとし、二十二日(3・15)その旨フランス公使に回答した。
 一方、銃撃に加わった土佐藩兵らは、事件の翌々日十七日(3・10)大坂藩邸に引き移り、取り調べを受けた結果、六番隊と八番隊の兵合わせて二十五名が発砲したと申し出、これに両隊長と小頭二名が加わり、計二十九名の処罰者が決定した。が、さらにこの中から減刑者も出て、最終的には両隊長と兵十八名が切腹と決まった。慶応四年二月二十三日(3・16)死刑囚二十名は、肥後・安芸両藩士に警護されて大坂より堺に赴き、割腹の場所である妙国寺(堺市材木町東四丁)に入った。検死として外国事務局の判事・土佐藩重役をはじめ、デュプレックス艦長デュプティ=トゥアールと多数のフランス人将校と水夫が立ち会った。切腹は午後四時頃から始まり十一人目の処刑がすみ、十二人目に入ろうとするとき、フランス人の間で動揺が起こり、日本側の役人と何やらささやきはじめ、やがてその後の切腹は中止になった。なぜ処刑が中止になったのか、その理由はあきらかでないが、すでに日暮れになっていたことと、悲壮な切腹の光景を見続けることに耐えられなくなったためらしい。
 この日割腹して果てたのは次の十一名である。
(1)箕浦猪之吉(六番隊隊長 二十五歳)
(2)西村左平次(八番隊隊長 二十四歳)
(3)池上弥三吉(六番隊小頭 三十八歳)
(4)大石良信(八番隊小頭 三十八歳)
(5)杉本義長(六番隊肝煎 三十四歳)
(6)勝賀瀬三六(八番隊 二十八歳)
(7)山本利雄(六番隊 二十八歳)
(8)森本重政(八番隊 三十八歳)
(9)北代堅助(六番隊 三十六歳)
(10)稲田楯成(八番隊 二十八歳)
(11)柳瀬常七(六番隊 二十六歳)
妙国寺で自刃したこれらの土佐藩士の遺骸は、同寺院に葬るつもりであったが、罪人を葬ることはできぬ、といった寺側の反対にあって頓挫した。しかし、近くの宝珠院が引き受けたので、同地に埋葬された。なお、助命処分を受けた九名の土佐侍は、その後帰国のうえ、流罪に処せられた。またこの事件の最終処理として、土佐藩主山内豊範と外国事務局督の山階宮親王がそれぞれフランス軍艦に出向き謝罪の意を表し、償金も土佐藩より支払われるに及んで一件落着した。
 神戸事件、堺事件とも発足間もない新政府の最初の外交的危機であったが、事件への敏速な対応・処理が行われた。このことは、列強諸国へ新政府の国内権力基盤の安定を示すとともに、対外友好関係を望む新政府の姿勢を強く印象付けることとなった。

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異人斬り NO3 生麦事件・イギリス公使館焼打ち事件

2018年08月12日 | 国際・政治

 「生麦事件」は、外国人を突然背後から襲って斬ったいわゆる「異人斬り」や公使館の夜襲事件とはちょっと趣を異にします。でも、「尊王攘夷」と無縁ではありません。薩摩藩のイギリス人リチャードソン殺害の主張は、国際社会で通用するものではなく、結局この時亡くなったリチャードソンの遺族に対して賠償金を支払うことになりました。そして、薩摩藩が幕府より賠償金を借りて支払い解決した、といいます。その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)という莫大な金額だったようですが、これを立て替えて払った幕府の負担は大きく、苦しかったのではないかと想像します。にもかかわらず、その返還がうやむやになってしまった、ということはどういうことなのか、と疑問に思います。

 また、生麦事件で、イギリス人殺害に関わった鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が、のちに、「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった」と証言していることも、見逃せません。
 さらに、五十年経ったのちに「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」と鹿児島新聞の記者に語っています。討幕後、尊王攘夷急進派が中心となって明治新政府を発足させ、明治の時代をかたちづくっていった関係で、五十年が経過して大正時代に入ってもなお、幕末の外国人蔑視、人命軽視の思想は変わらず、反省されることはなかった、ということではないかと思います。

 さらに、 薩摩藩が、薩英戦争後に攘夷から開国の方針に転じ、和親条約締結や軍艦・兵器購入の交渉を始めたり、留学生派遣の依頼も行ったというところに、注目しないわけにはいきません。尊王攘夷という討幕の根拠は、この時失われたと考えるからです。

 事件直後、幕府は、薩摩藩の江戸家老島津登と留守居役西築右衛門を召し出し、犯人を差し出すように伝えましたが、薩摩藩は命令に従わず、”行列を犯した者を討つのは古来の国風であり、強いて差し出せというなら、われわれ一同を出頭させよ”などと言って抵抗したということです。もちろんイギリス政府のたびかさなる抗議があっても、犯人を差し出すことはありませんでした。そして、もし、イギリス艦隊が攻め込んでくれば迎え撃つことに決め、薩摩藩家臣に”蛮夷の誅殺に粉骨砕身尽くして欲しい”という訓示を伝えて、迎え撃つ準備を整えたといいます。
 また、イギリス艦隊の来航は薩摩藩にとって一大事であり、国難であると悟った生麦事件の当人(リチャードソンを最初に斬った供頭・奈良原喜左衛門)は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、島津久光に切腹を願い出たということですが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」と切腹を認めなかったといいます。
 ところが、薩英戦争後のイギリスとの交渉のなかでは、”犯人を逮捕次第イギリス士官の前で死刑に処する”と言明しました。薩摩藩は、その時点で尊王攘夷の方針を放棄したということではないかと思います。したがって、薩英戦争後は、討幕の根拠は失われている、と思うのです。討幕が尊王攘夷のためではなく、権力奪取目的でなされたと考える所以です。

 さらに言えば、薩摩藩はイギリスとの交流を深める一方で、討幕のために、できもしない「年貢半減」を宣伝しながら、「世直し一揆」などで民衆を巻き込んだ挑発活動をするよう相楽総三に指示しています。そして驚くべきことに、その役目を果たした相楽総三をはじめとする赤報隊の隊士の多くが、赤報隊結成を支援し、作戦を指示した人たちによって「にせ官軍」の汚名を着せられ、処刑されています。「年貢半減などできないからです。こうしたことも、当時盛り上がっていた尊皇攘夷の勢いを利用して幕府を倒し、権力を奪取することが目的であったことを示しているのではないかと思うのです。

 「御殿山イギリス公使館焼打ち事件」も、忘れてはならない歴史的事件であると思います。
 公使館警備の日本人番人を殺し、公使館を焼き打ちするなどということは、どこの国でも、いつの時代でも許されない犯罪行為だと思います。にもかかわらず、錚々たるメンバーが関係しています。
 高杉晋作久坂玄瑞は、当時尊王攘夷の運動を主導した長州藩の急進的武士なので、あり得ることだ、と思いますが、明治時代に大活躍する初代総理大臣伊藤博文や初代外務大臣井上馨なども加わっていることには驚きます。
 御殿山イギリス公使館焼打ち事件の後にも、長州藩は下関で、攘夷をつらぬくためイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊を砲撃しています。そして、手痛い報復を受けて、以後、薩摩藩同様、海外から武器を輸入し、新知識や技術を積極的に導入するようになりました。したがって、下関戦争敗北後、決定的な政策転換をしたといえるのではないかと思います。
 にもかかわらず、開国政策をすすめる幕府とは戦いを続けます。尊王攘夷を掲げての討幕は理解できます。でも、攘夷をすててなお続けられた討幕の戦いの根拠は何でしょうか。やはり権力奪取が目的だとしか考えられないのです。
 尊王攘夷を掲げて行われた、この長州藩による四国艦隊砲撃の莫大な賠償金300万ドルも、幕府が支払ったということです。もし幕府が何の対応しなければ、どういう事態に陥ったかわかりません。だから、近代化のために討幕が必要だったというのは、討幕を正当化するためのいわゆる「薩長史観」の考え方ではないかと、私は思います。
 下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                        第二部 攘夷への報復

              攘夷論から開国論へ
 薩摩藩士の攘夷観
 ・・・
 このように薩摩藩ではそのころ外国人の横行に対してきわめて鼻息が荒かった。かくして日雇い人足を加えると千数百名にもなる行列は、品川・川崎の宿を経て、生麦村に達し、今まさにそこをも通り過ぎようとしていた。
 この日、横浜居留地に住むウィリアム・マーシャル(横浜在住絹輸出商)、ウッドスロープ・チャールズ・クラーク(「オーガスティン・ハード商会」の店員。絹の検査員)、チャールズ・レノックス・リチャードソン(上海の商人。帰英の途次、観光のため横浜に来る。居留地の101番館に滞在)、ボロデール夫人(香港在留の商人の妻。ウィリアム・マーシャルの従姉妹)の女性を含む英国人四名は、日曜日でもあったので川崎方面まで遊覧に出かけようとしていた。
 当日四人は、六郷川畔の川崎大師(真義真言宗智山派の寺)を見学するのが主な目的であったらしく、あらかじめ馬丁(バテイ)に馬を神奈川の宮之河岸(渡船場)に廻させて、自分たちはオーガスティン・ハード商会のボートで湾内を横切り、神奈川に出、そこで馬を受けとり、午後二時半頃馬で神奈川を出発し、川崎方面へと向かった。
 四名は、神奈川の宿より一里(四町ほど、約4.11キロ)川崎よりの地点で、まず少数の武士団と(七、八名、じつは島津久光の行列の一部)と出会ったが、さして気にもとめずそのまま進んだ。そしてどんな危機が待ち受けているかも知らず、さらに進んだとき、道路いっぱいに進み来る大行列と遭遇したのである。
 この時外国人らは馬足を緩めた。久光の二列行進の前駆(行列の先導者)はかれらの側を通過した。次いで本行列が道路の全幅を覆うように進んで来たので、四人は路の左側に避けて止まった。そのとき四人の位置は、リチャードソンとボロデール夫人は、マーシャルやクラークよりも約10ヤード(約9メートル)ほど先行しており、行列に向かってリチャードソンは内側に、同夫人は外側に馬首を並べていた。内側にいたリチャードソンの馬は、大行列にやや驚いたのか、ボロデール夫人の馬を押したので、夫人の馬は片脚を道路側の溝に踏みはずした。そのため彼女は馬を道路に戻そうとし、前に少し進め列中に入ってしまった。このとき久光の乗物との距離は十数間(約20メートル)であり、駕籠廻りの若党(中小姓)の行列が二人によって乱されてしまった。久光の乗物の右側後方に従っていた供頭奈良原喜左衛門は、この様子を見咎めると、外国人の前に駆け出して来て、何やら右手で手まねきをした。おそらく、引き返せ、といったものであろう。
 その有様を後方で見ていたクラークは、「引き返せ」と叫び、またマーシャルも「並行するな!」と叫んだ。そこでリチャードソンとボロデール夫人は、事が容易ならぬことになったのに気づき、馬首を返そうとしたが、思うようにゆかず、かえって馬首を行列の中に入れる破目に陥った。そのため列は一時立往生してしまった。これを見た奈良原は、無礼もの、とばかり、やにわに刀を抜くと、馬上のリチャードソンの左肩下より斜めに腹部にかけて切りさげた。するとたちまちかれの左腹から血潮があふれ出、その創口を左手で押さえ、右手に手綱を取って馬首を立て直すと、一町(約100メートル)ほど逃げのびたが、こんどは、行列の中から躍り出た鉄砲組の久木村利休(当時、19歳、のち東京憲兵隊勤務、陸軍少佐で退役)が再び斬りつけた。リチャードソンは懸命に馬を駆って約10町ほど逃げ、生麦村字並木(字松原)に達したとき、ついに落馬した。
 このときから五十年後の明治四十五年(1912)七月、鹿児島新聞の記者東孤竹が同紙に連載中の「五十年前鹿児島湾の劇戦」の取材のために、国分村浜の市(鹿児島湾北岸)で余世を送っていた久木村老人(当時70歳)を訪ねた折、同人は記憶に生々しい事件当時の様子を語った。久木村によると、安政三年(1856)十五歳のときから久光に仕え、江戸表に勤めていた。十八歳のとき三年ぶりで国元に帰り、文久二年(1862)十九歳のとき再び久光のお供をして江戸に出たという。やがて同年八月二十一日久光に従って帰国の途につくのであるが、このとき生麦事件が起こるのである。久木村はこのとき鉄砲組に属していた。初秋の晴れ渡った日の午の刻(午前十一時から午後一時までの間)、横浜のほうから砂を蹴立てて、四人の異国人がやって来たという。血気盛りの久木村は「その時分は異国人を誰もが切って見たいと焦っていて仕様がなかった。『切ってみたいもんじゃナァ』、とは思ったが、無闇に切る訳にも行かない。指をくわえて遣り過ごして行くとたちまち後列の方で、がやがやと騒々しい物音がする。ハッとし、咄嗟に『やったな』と思い刀の柄に手をかけて振向くと、一人の英人(リチャードソンーー引用者)が片腹を押えて懸命に駆けて来る」という状況の中で、このときとばかりはやる心を押えながら、切ってやろう、と思ったようである。馬上の英人がちょうど近づくのを待ちかまえ、抜討ちに切ったのである。『たしかに手応えはあった。見るとやはり左の片腹をやったので、まっかなきずぐちから血の塊(腸の一部か?--引用者)がコロコロと草の上に落ちた。何でも奴の心臓(腸の見誤り?--引用者)らしかった。今一太刀と追い駆けたが先方は馬、わしは徒歩だからとても追い着かない。振返ってみるとまた一人駆けて来る。雑作はない。例の抜討ちの手じゃ。またやった。今度は右の片腹じゃ。こいつも追い駆けたが、とうとう追い着かなかった。死んだ英人『チャールス、レノックス、リチャードソンというのはわしが先に切ったので、後に切ったのは『ウィリアム、マーシャル』でこれは重傷」(『鹿児島新聞』明治45・7・3付)
 久木村のこの追憶談によると、かれは一度ならず二度までもイギリス人(リチャードソン、、マーシャル両名)を斬ったことになる。このときかれはどのような気持ちで人を斬ったのであろうか。かれは人をあやめた後、良心に恥じたり、後ろめたさや後悔にさいなまれるどころか、「しかしこれっきりで別に戦端でもひらけたという事もなく、無事にその場は済んだが、イヤもう当時はすこぶるこれが痛快で溜飲が下ったような気持ちがしたものであった。回顧すればもう五十年になるが、全く今からこれを思うと夢のようじゃ」とさえいっている。

 イギリス艦隊鹿児島へ
 ・・・
 薩摩藩は生麦事件を引き起こしたにもかかわらず、幕府やイギリス政府のたび重なる抗議に対して犯人を差し出そうとはしなかったばかりか、何ら反省も示さなかった。かれらはこちこちの攘夷論者ではなかったにしても、勇武の国柄であったから、もしイギリス艦隊が攻め込んで来るようなことになったら、敢然とそれを迎え撃つ決意でいた。ことに島津久光は文久三年三月三日(1863・4・20)藩兵七百余人を率いて上京の際、伏見に到着したとき、イギリス側の抗議に接したが、このとき随従の家臣に小松帯刀の名で、

 イギリス艦隊が横浜に到着し、昨年秋の生麦の一件でいろいろ申し立てているようである。外国人の情態と狂暴はじつに忌まわしく、もしイギリスとの間で戦端が開かれた場合、諸士は天下国家のため、他藩にぬきんでて、蛮夷の誅伐に粉骨砕身尽くして欲しい(3・14付)といった訓示を与えた。

 なおこの訓示が鹿児島に達すると、藩主島津忠義(1840~97、のち公爵)は、同年四月二日(5・19)付で告諭を家臣に示した。
 ・・・
 薩摩藩史上、イギリス艦隊の来航は、未曽有の大事件であり、まさに国難であった。生麦事件の当人、奈良原喜左衛門は、「一国の大事到来の責任はわれにあり」と考え、自分さえ責を負えば、国難を免れると思い、何度か久光に切腹を願い出たらしいが、「斬ったのは国法である。汝の罪にあらず」とのことで、許されなかった。このことばに感奮興起した奈良原は、他日久光のために忠死の決意を固めたという(五十年前鹿児島湾の激戦『鹿児島新聞』明治45・6・16付)。

 薩英戦争とその余派
 七月一日(8・14)の午前九時頃、藩の使者(伊地知ら二名)がやって来たとき、回答は不満足なものであると考えられるから、もはや一戦を交えたあとでなければ交渉に応じられぬ、と告げた。イギリス側の作戦行動については薩摩藩では把握しようもなかったが、イギリス側は湾内に停泊中の薩摩藩の外国製汽船数隻を拿捕するといった報復に出れば、薩摩人は前回持って来たものよりも満足すべき回答を提示するものと考えた。この日は午後から天候が悪化し、夜来の東風は次第に強くなった。湾内の波浪は高く、どのイギリス艦もメインマストをことごとくおろし、荒天に備えていた。旗艦ユアライアルス号では各艦の指揮官との打ち合わせが行われ、明二日(8・15)払暁戦闘行為に入るべく準備が命じられた。一方、薩摩藩側でも開戦はもはや避けえないことがわかっていたので、この日、久光・忠義らは千眼寺(西田常盤山麓)に移り、ここを本営とし、そこから命令を出すことにし、家族は城外の玉里屋敷(草牟田村)に難を避けた。また市中も騒然とし、避難者たちでごった返した。夜に入ると風雨はさらに勢いを増した。イギリス艦隊は六月二十九日(8・13)の夕刻から翌日にかけて、桜島の小池袴腰沖に停泊していた。
 七月二日は朝から暴風雨であり、海上煙霧の間にイギリス艦が望見できた。早朝、クーパー提督は泊地のパール、アーガス、レースホース、コケット、ハヴォックの五艦に湾内重富沖に停泊している薩摩の三汽船の拿捕を命じた。
 ・・・
 午前十時前にイギリス艦隊の拿捕行為が千眼寺の本営に報告され、直ちに軍議が開かれ、撃攘に一決し、開戦の命令は各砲台に伝えられた。砂場(天保山)の砲台へ急使が開戦の命を伝えるとすぐ発砲を開始した。これが引き金となって各砲台とも一斉に砲撃をはじめた。正午頃のことである。これに対してクーパー提督も直ちに交戦の命令を下し、また拿捕船を焼却せよの信号をアーガス、レースホース、コケット号に発した。…

 薩摩藩はイギリス艦隊の退去後もその再来に備えつつあったが来襲はなく、また再び戦端を開くのは得策ではないとの判断から、支藩の佐土原藩の斡旋により、代理公使ニールと交渉を開始することに決した。そこで薩摩藩からは重野厚之丞(安繹、1827~1910、幕末明治期の史家・漢学者、のち東大教授)が代表となり、岩下佐次右衛門(方平、1827~1900、のち子爵)ほか二名を補佐役とし、さらに外国方調役・徒士目付・訳官(通詞)ら四名ほどが応接員に任じられ、幕吏と共に横浜のイギリス公使館に出かけニールと交渉を始め、文久三年九月二十八日(1863・10・5)から談判を開始した。薩摩側は、犯人を逮捕次第イギリス士官の面前で死刑に処するつもりであると、言明し、さらに将来イギリスと和親条約を結びたいので、ついては軍艦、鉄砲等の購入の周旋を頼みたい、と伝えた。イギリス側はこれに対して、この斡旋をなすが、まずリチャードソンの遺族に対する賠償が先決問題であるとした。これまで膠着状態にあった生麦事件の最難関の扶養料の件は、十月二十六日(12・12)に、薩摩藩が幕府より金を借りて支払うことによりついに解決した。が、その額は二万五千ポンド(洋銀10万ドル、邦貨にして約六万三百三十三両)に上った。かくして薩摩藩は、幕府に償金を立て替えてもらってしはらうことによって、ようやく生麦の一件を解決できたが、肝心な犯人の捕縛とその処分及び借用金の返還は、その後うやむやになってしまった。
 …薩摩藩では事件発生後、イギリスとの武力衝突を当然予期し、砲台や武器等の整備に力を尽くし、艦隊の来襲に備えたが、砲火を交えてみて初めてイギリス側の兵器・兵備・戦術に一日の長があることを知り、さらに攘夷は無謀であり、外国軍と戦ってもとても勝算のないことを痛感した。同藩はこの戦争の結果、攘夷より開国論に転じ、イギリスとの平和を回復し、軍艦や兵器購入、留学生派遣の依頼なども行い、やがて朝廷に開国論に導く端緒を開いた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                     鬱積する不満--御殿山イギリス公使館焼打ち

 未遂に終わった金沢(横浜)事件
 ・・・
 このような情況下、長州藩では、参政長井雅楽(ウタ)(1819~63)の「航海遠略論」(独自の開国論)を国是とし、攘夷の勅命を奉じ、公武合体の実を挙げようと努めていたが、攘夷報国の念に燃えた有志を多数かかえていた。かれらは、高杉晋作や久坂玄瑞を中心とする「御楯組(ミタテグミ)」と称する勤王志士の一団である。この急進党(血盟団)は夷狄(イテキ)を誅殺することによって勅意に報いようと、まず「血盟書」を作り、それに十一名が花押血判した。次いでその実行の方法について協議した結果、横浜の各国公使館を襲撃することに決し、文久二年十一月十三日(1863・1・2)高杉や久坂ら十一名は藩邸を脱し、横浜へ向かった。土佐勤王党の広瀬建太(?~1863)ほか二十三名もこの件に関係していたが、勤王倒幕の計画が進んでいる最中に、このような暴挙に出ることはまずいとの判断から、土佐の同志武市瑞山がこの襲撃計画に水を差し、藩主山内容堂(豊信)にこの計画を告げた。容堂は直ちに使者をもって長州藩邸に伝えると、夜中にかかわず、毛利世子定広は藩士を引きつれ、馬を飛ばして高杉らの一行を追った。やがて夜が白々と明ける頃、定広の一行は大森の梅屋敷に着いた。
家臣にいろいろ調べさせると、昨夜神奈川の下田屋という旅籠に高杉らが宿泊したことがわかり、その後一同を梅屋敷に召し寄せ、懇々と説諭して暴挙を思いとどまらせた。これがいわゆる金沢(横浜)事件である。

 攘夷の決断迫る焼き討ち
 横浜における外国公館の襲撃は未遂に終わったが、御楯組の領袖格高杉らの気持ちはそれでもなかなか収まらず、前回の失敗を償う意味で第二の計画をめぐらした。幕府は攘夷の勅命を奉じながら煮えきらず、その実を挙げていない。そのうえ御殿山に外国公使館を建てるような矛盾した態度に出ている。攘夷の先駆けとしてすべてこれを焼き払おう、という案が浮上し、再び同志の糾合を得て、これを実行することになった。この計画に荷担したものは、高杉晋作、(1839~67)、久坂玄瑞(1840~64、禁門の変で自刃)、大和弥八郎、長嶺内蔵太、志道聞多(1835~1925、のちの井上馨、元老)、松島剛蔵(1825~64、禁門の変のあと処刑)、寺島忠三郎(1843~64、禁門の変で自刃)、有吉熊次郎(1842~64、禁門の変で自刃)、赤禰(ネ)幹之丞、山尾庸造、品川弥二郎(1843~1900、のち枢密顧問官)ら御楯組の十一名に加えて、伊藤俊輔(1841~1909、のちの伊藤博文、総理大臣)、白井小助、堀真五郎、福原乙之進(オトノシン)(信冬?~1863、自刃)、松木某(実際の襲撃には参加せず?)ら五名が加わり、合わせて十五、六名がイギリス公使館の襲撃(焼打ち)を画策した。
 ・・・
 幕府が大金を投じて造った御殿山のイギリス公使館が、文久二年十二月十三日(1863・2・1)の午前二時、高杉ら攘夷派の志士の手にかかり、一夜にしてことごとく灰燼に帰したことは日本の建築史のうえからも惜しまれることだが、この事件は少なからず幕府の威信を傷つけることになり、やがて放火犯の捜索も次第に厳重になってきた。

 日本人犠牲者、佐助
 御殿山のイギリス公使館焼打ち事件は、単に建物に放火するだけにとどまったのか、それともこの事件の裏に何らかの殺傷事件もあったのか。この点に関してわが国で書かれたものの多くは、火災だけを問題にしているが、外国側の史料はこの事件に先立って起こった殺傷事件をも重視している。それは放火事件が起こる約一週間前に公使館警備の日本人番人(佐助)が殺されたことである。
 ・・・

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”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI

          

 

 

 

 

 

  

 
 

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尊王攘夷と「異人斬り」 NO2

2018年08月06日 | 国際・政治

 幕末、イギリスが公使館を置いていた東禅寺は、尊王攘夷を掲げる武士(浪士)に、二度も襲われています。 イギリス公使オールコックが、その書簡の中で、この事件について”西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しない”と書いています。こうした襲撃は、当時すでに国際社会では、時代遅れで非常識な犯罪行為だったのだと思います。

 また、東禅寺の襲撃は、いずれも「夜襲」です。尊王攘夷のためには”寝込みを襲う”という野蛮な行為も正当化されるということだったのではないかと思います。

 この時、武士(浪士)・有賀半弥の懐中書に
私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である
とあったといいます。幕末期、国際社会の常識や国際情勢をほとんど何も知らなかった若者の一途な思いに同情すべき点はあるかもしれません。しかし、尊王攘夷の思想が” 神国が夷狄に汚されるを見るに忍びず”というような狂信的なものであったことは、見逃してはならないことだと思います。
 
 なぜなら、尊王攘夷急進派を中心に構成された明治新政府は、憲法で”大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス ”として、「神国日本」を明文化したからです。開国開市政策を進める幕閣や幕府の関係者の多くを暗殺し、いわゆる「異人斬り」をくり返した武士(浪士)の尊王攘夷の思想は、かたちを変えて明治の時代に受け継がれていったのだと思います。それが、その後の日本の野蛮性に発展していったのではないかと考えます。

 また、尊王攘夷派のこうした無謀で野蛮な犯罪行為の後始末や対応に追わて、幕府が追い詰められていった側面も見逃してはならないことだと思います。

 下記は、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から抜粋しました。
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                   攘夷派への圧力の中でーーイギリス公使館を夜襲
 
 第一次東禅寺事件
 文久元年五月二十八日(1861・7・5)の午後十一時から十二時にかけてのことである。イギリス公使オールコックは、いつものように枕の下にピストルを置いて床についた。疲れてぐっすり眠っていると、一人の若い通訳見習い生が暗い提灯をもって、オールコックのベッドのそばにやって来ると、寝ているかれを起こした。急を知らせに来たその見習い生は、公使館が襲撃され、暴徒が門内に闖入した、と伝えた。
 ・・・
 オールコックはピストルを持って、その現場に行くつもりで、入口の方に何歩か歩いていくと、突如血だらけのローレンス・オリファント(一等書記官、1861年6月着任)が姿を見せたのでびっくりした。かれは頭部と腕関節を斬られており、腕の傷口はぱっくりと開いていた。オリファントの部屋は建物の裏側、庭に面していたが、かれもオールコック同様、館内の騒ぎは召使いたちの喧嘩ぐらいに思っていた。
 ・・・
 オリファントは本国を出発するとき、友人からサーベルや鎖かたびらを贈られ、また自衛のためにピストルを求め来日した。が、突然の襲撃に度を失ったものか、防禦手段としては狩猟用むちだけで満足せねばならなかった。かれは急いで通訳見習い生のラッセルを起こし、物音が聞こえてくる方向に突き進んで行こうとしたとき、腕を上げて刀を構えた闖入者(浪士)が自分たちの方に向かって来るのを見たのである。オリファントは、むちの太く重い先端を相手に打ちながら、無我夢中で闘った。ピストルを持っていないことに腹立たしさや後悔を覚えながら必死に闘っているうちに、何度も殺されると思った。そして、この乱闘の中、かれは頭部と腕関節にけがをした。もうだめだ、と死を観念したとき、突然、ピストルの閃光が目に入り、かれは撃たれたと思った。しかし、その一発に救われたのである。その弾丸は、暴漢の一人を射殺したジョージ・S・モリソン(長崎駐箚イギリス領事)のピストルから発射されたものであった。モリソンも額に受けた刀傷ために血をしたたらせていたが、この発砲の混乱に乗じて負傷した人々は奥のオールコックの部屋に集まって来たのである
 ・・・
 オリファントの出血はひどく、意識を失いつつあった。オールコックはピストルを置くと、直ちに自分のハンカチでその腕の傷をしばらねばならなかった。切傷は骨に達し、伸筋の腱を三つ切断した。その他、右鎖骨の上から頸静脈にかけて切傷や右腕の上に刀の打ち傷などがあり、左手の掌骨(手のひらを形づくる骨)に打撲を受けていた。のち同人はこれらの傷がもとで程なく帰国した。オールコックが外科的手腕を発揮している間、となりの部屋(食堂)では、ひとしきり食器棚のガラスを割るような音が聞こえた。暴徒のうちの何人かは庭に面しているガラス戸を破って押し入った者のようだ。かれらはこの食堂の中で護衛兵らとしばらくの間斬り合いをし、二名ほどが討たれるのであるが、もしここで斬り合うことがなかったら、襖の陰にいたオールコックらは凶徒に発見され、斬殺されていたかも知れないのである。

 オールコックの部屋に集まったオリファント、モリソン、ラウダーらは、生の望みを棄て、一人でも多くの暴徒を殺して死ぬ覚悟をきめた。暴徒らは暗い部屋の中の柱や襖を斬りつけ、器物を破損させ、傍若無人にふるまったのだが、東禅寺には大勢日本の衛士がいるにもかかわらず、だれ一人として直ぐにオールコックらの救援に来るものはいなかった。
 ・・・
 乱闘が終わったのち、オールコックやオリファントらが食堂の中に足を踏み入れたとき、愕然として色を失った。かれらがその部屋で見たものは、身の毛がよだつような光景であった。まずオリファントは血の海の中で足をすべらせた。人間の胴体が食堂の中央あたりにころがっている。首は付いておらず、それは食器棚のそばにころがっている。オリファントは襲撃が起ったとき、寝巻姿ではだしのまま飛び出したのであった。かれは素足の下に「カキのような感触」があったので、それをよく見たところ「人間の眼球」であった。またある死体は、見るも無残な姿であり、顔面の部分は手斧でたたき切られたかのように切りそがれており、後頭部だけが原形をとどめていた。これは屋内で打ち取られた者の死体の有様だが、屋外で護衛兵と戦っているうちに落命した凶徒もあった。当時、外国方の役人として東禅寺詰であった福地源一郎(1841~1906、明治期のジャーナリスト)によれば、別手組の某などは、血刀をたずさえ、血のしたたる生首を持って外国方の詰所(中門内の右側にある塔中、目付方も同所で宿直する)へやって来るなり、「敵を打ち取ったり、一番首の高名御記し下さるべし」といい、詰所の縁側にそれを置いて行ったという。
 ・・・

 事件後発せられたオールコックの書簡
 公使館の襲撃があった翌朝、まだ朝が明けきらぬうちに、オールコックは横浜沖に停泊中の郵船リングダブ号のクレーギー艦長宛ての急送公文書を二名の騎馬の役人に持たせ、事件発生の状況を伝え、緊急援助を要請した。その文面は、次のようなものである。

   イギリス公使館
   1861年7月6日午前2時江戸にて
 拝啓
 真夜中になるちょっと前、暗殺者の一団が四カ所から公使館の中に押し入り、居住者を捜し求めて邸内に散開しました。私たち館員はみなベッドに入っておりました。オリファント氏は急に起きると、廊下で凶徒の何人かと遭遇し、手首や首の部分に刀傷を受けました。モリソン氏も自分の部屋を出たとき同じように敵と遭い、負傷いたしました。役人たちの遅まきの助けを借りて、凶徒を撃退することができました。しかし、夜が明けるまで、まして今後も安全だという保障はありません。
 したがってお願いせねばならないのは、直ちにリングダブ号で江戸に来ていただきたく、そして集められるだけの屈強な水兵の護衛隊を上陸させて欲しいのです。また、士官は、どのような方針を採るのが得策か、私が決断するまで艦にいてもよろしいかと思います。かくお願いするのは公使館の安全と、条約にある権利を守るためなのです。敬具
                 ラザフォード・オールコック
  イギリス海軍リングダブ号
   クレーギー大佐殿

 この要請に対して、クレーギー大佐は、自ら十分に武装した二十名の海兵隊員を率きつれて東禅寺にやって来た。また驚いたことに、イギリスの海兵隊と共に、フランス公使ド・ベルクールも、輸送艦ドルトーニュ号から引き抜いたフランス水兵の一団を連れてやって来た。ベルクールがクレーギ大佐の一隊と行動を共にしたのは、危険をいっしょに甘受しよう、といった騎士道精神(義侠)から出たことであった。フランス公使がオールコックらの危機を知り、迅速な行動をとったのは、次のようなオールコックからの火急の知らせを受けとったからであろう。
     
  1861年7月6日 江戸にて
 拝啓
 昨晩十一時から十二時にかけて、イギリス公使館は突然攻撃を受けました。浪人とも呼ばれる武装した日本人の群れや水戸公の家来などによって同時に戸口を破られました。公使館のオリファント、モリソン両氏とは廊下で会いましたが、二人とも怪我をしておりました。遺憾ながらオリファント氏はひどい手傷を負っておりました。モリソン氏が撃ったピストルの弾はそれたのですが、敵を追い払うのに効果があったようです。すぐに役人や大名の護衛兵らが現場にやって来たようで、凶徒らは私の部屋を除く、ほとんどすべての部屋に押し入り、ベッドや家具などをずたずたに切ってから、ようやく館内から追い払われました。あちこちに血痕があり、公使館に通じる道や並木道で警備の士官や兵といつまでも戦闘が続きました。
 西欧列強が代表を派遣した国の、政府が置かれている首都で、このような極悪非道な行為が行われたことについては、何ら贅言(ゼイゲン)を要しないのです。ご参考と情報がてら、仲間の皆さんに以下の事柄をお知らせ申し上げておくのが私の義務と考えます。すなわち一時的措置としてイギリス海軍の「リングダブ」号を出動させ、護衛兵を上陸させることにしたことです。江戸にある当公使館及び他の公使館が将来にわたって安全を保つためには、どのような方策を採るのが得策なのか、またかくもひどく踏みにじられた国際的に認められた権利と特権をどう維持してゆくか重要問題となっています。差し迫った問題の重要性を見逃すわけにはまいりません。しかしながら、もしご意見を私に寄せたい気持ちがおありなら、この件について貴殿ならびに仲間の皆さんとよろこんでご連絡をとりたく思います。
                                         敬具
                             ラザフォード・オールコック

 これと同一内容の手紙は、アメリカ公使ハリス、オランダ総領事デ・ウィットら二人にも送られ、のちにオールコックは返書を得た。
 ・・・
 (もちろん、イギリス外務省「ラッセル外相」にも長文の急送公文書を送っているが略)

 尊攘の大義に身命をなげうつ
 ・・・
 この事件が起こったとき、各国外交団は水戸藩主が浪士らをけしかけて行わせたのではないかといった疑惑を抱いたが、浪士・有賀半弥(討死)の懐中書に「私儀草莽浪士・微賤(ビセン)の身(わたしは在野の身分の低い人間ーー引用者)なれども、神国(日本)が夷狄に汚されるを見るに忍びず、尊攘の大義に基づき、身命をなげうち、くくの微衷(ビチュウ)(わずかな真心)を以ていささか国恩の万一に報いんとす。もしこの一挙が他日外人掃攘(放逐)の端緒ともなり叡慮(天子の考え)を始め奉り、台慮(タイリョ)(政府?)をも安んじ得れば、無上の光栄である」とあった文面の翻訳(イギリス公使館のマイバーグ医師やフランス公使館のブレックマンらが訳したもの)を読み、また同書簡に明記されている襲撃者(有賀、岡見、前木、森、榊、木村、イシカワ(石井?)・キンシロー、矢沢、渡辺、古川、山崎、中村、小堀、カラサワ・ゴロ)の名前を知ると、公使館への討ち入りは鎖港(鎖国)の旧習に基づく一事象と理解し、また幕府も迅速に下手人の追捕に努め、品川の妓楼虎屋に再び寄った浪士四名(うち三人は自殺)を捕らえたので、ヒュースケンの殺害事件のときのように、英仏公使は江戸を退去するようなことはなかった。

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 第二次東禅寺事件
 東禅寺が襲撃されてから一周年にあたる文久二年五月二十九日(1862・6・26)の深夜、第二の事件がまたもや公使館内で起こった。イギリス公使オールコックは同年二月に休暇を得て本国に帰国し、四月には代理公使として陸軍中佐エドワ-ド・セント・ジョン・ニール(?~1866)が清国より来日し、しばらく横浜で暮らしたのち、五月十五日(6・12)館員やイギリス軍艦レナード号の海兵隊員三十名と共に東禅寺に入った。当時イギリス公使館の護衛の任にあたったのは、幕府別手組のほか戸田采女正・松平丹波守・岡部筑前守らの家臣535名である。ニールによると、五月十五日の晩から事件が起こった同月二十九日(6・26)にかけて、何ら危険な徴候は見られなかったという。
 文久二年五月二十九日の十二時半頃、館員らはすべて床についた。起きているのは建物の周囲に間隔を置いて警備についているレナード号の見張り(歩哨)数名だけである。ニールはベッドの中に入ってはいたが、まだ眠ってはいなかった。すると突然、かれの寝室に隣接する縁側の見張りが誰何(スイカ)するのを耳にした。返事の合いことばは、間違いのないものであったが、その見張りは縁側から降りて近づいて来る者の方に三、四歩進んだ。ニールは何か異様な感じがしたので、ベッドの上で身を起こすと、成り行きを見守った。突如、ひじょうな苦痛の叫びがし、次いで何かに切りつけるような音がしたが、そのつど苦悶の叫びが上がった。一瞬沈黙が支配し、そのあと高台(寺院の裏手の丘陵)の方で太鼓を打つ音がしたかと思ったら、日本人の衛士らが集まって来た。ニールはベッドから飛び起きると、居間と食堂を横切り、護衛兵の部屋に入った。見張り(チャールズ・スイート)はその部屋の床に横たわり、今にも死にそうな様子だった。体には無数の刀傷や槍傷がみられた。館員と護衛兵全員が起こされ、寺院内のいちばん大きな部屋に集まると、襲撃者に備えた。
 しばらくすると、海兵隊のクリンプス伍長の姿が見えないことがわかったので、アプリン大尉が部下を何名か連れて探しに出かけたところ、クリンプスがニールの寝室に接している縁側の戸口の所でたおれて死んでいるのがわかった。かれは刀傷や槍傷を無数に受けていたが、ピストルを一発発射していた。
 見張りのチャールズ・スウィートの手当てをした公使館付のジェンキンズとウィリスの両医師は、虫の息のスウィート(翌朝死亡)から聞き出したところでは、大きな池の上に渡してある丸木橋を通って誰かが近づいて来るようだったので、誰何すると、合いことばを返してよこした。暗闇のため、相手の姿がよく見えなかったので、スウィートはその者のほうに進み寄った。そのとき橋のはずれの所に四つんばいになっていた別の男が急に躍り出ると、槍で突きかけられ、さらに刀でマスケット銃をもっていた手を切られた。かれはクリンプス伍長がその場にやって来るまで無数の傷を受けた。
 クリンプスはニ十歩ほど離れた芝生のはしの縁側の所にいたのだが、スウィートの救助にやって来たところ、襲われた。ピストルを一発撃っただけで斬りたおされた。襲撃者は一人だったのか、複数であったのか定かでないが、戦っているうちにニール中佐の部屋に通じる階段の所あたりまで来たとき、槍傷を受けた。このことから縁側の下にもう一人別な襲撃者がいたのではないかと疑われた。日本の衛士は何の役にも立たず、スウィートが襲われたとき、すぐに逃げ出したという。
 ともあれ、この深夜の襲撃で、見張りについていた
  チャールズ・スウィート Charles Sweet (レナード号水夫、年齢不詳)
  リチャード・クリンプス Richard Crimps (レナード号伍長、年齢不詳)
の二名は死亡した。スウィートはロンドンのオルダースゲートに母を一人残し、またクリンプスはデヴォン州ダートマス(港町)に両親を、さらに妻グレース(住所不明)を残して逝った(ジェンキンズ医師のメモによる)。
 ・・・
 この事件は偶発的なものではなく計画的なものであったことは、公使館側もうすうすわかっていたようである。第一補助官兼会計官のアベル・A・J・ガウアは、襲撃の翌日、信頼すべき日本人から聞いた話として、伊東軍兵衛は昨年東禅寺を襲撃中に亡くなった仲間の仇討をするつもりであること、その血祭として公使を殺すつもりである、と語っていたという話を伝えている。フランス公使のベルクールが個人的にある日本人から聞いた話では、事件当夜、高台のほうから四、五名下りて来る者がいたということである。またガウアとフォン・シーボルト(特別通訳官)は、事件当夜の九時頃、公館の側から天空にのろしがあがるのを目撃している。事件の数日前から、日本人の召使いらは館内で休むことを嫌がり、中には襲撃を恐れている者もいたということである。
  ニールがこれらの事実やうわさに接した感触では、日本人の護衛兵のすべてがこの事件に関与していないにしても、襲撃のことは知っていたはずだ、とするものであった。 

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尊王攘夷と「異人斬り」 NO1

2018年08月03日 | 国際・政治

 幕末期、外国船が繰り返し来航し、開港開市などを要求して圧力をかけてくる状況や、オランダの勧告などを考慮すると、拒否し続けることには無理があると判断した幕府は、開港開市政策を進めますが、長州を中心とする尊王攘夷派は、そうした情勢を無視し、開港開市政策の当否を議論することなく、尊王攘夷を掲げて討幕に動きます。その討幕の根拠となった攘夷の思想は、極論すると、いわゆる「異人斬り」に象徴されるように、「異人は神州を汚す」存在であり、したがって、開港開市は許されないというものだと思います。

 日本近海に外国船が頻繁に出没し、幕府の政策によって、江戸や横浜で外国人を見ることが多くなるにしたがって、尊王攘夷の思想は急速に広まっていったようですが、それが「異人は神州を汚す」という狂信的とも言える思想にもとどくものであったために、尊王攘夷派の人たちによる、いわゆる「異人斬り」が続発すことになったということは、見逃してはならない、幕末期の歴史的事実だと思います。
 また、狙った「異人」を背後から突然襲うという野蛮性も、その後の日本の歴史を考えると、見逃すことができません。


 ところが、討幕後の明治新政府は、主として尊王攘夷急進派の人たちによって構成されたために、そうした尊王攘夷の思想の問題点や「異人斬り」という野蛮な殺人行為も、ほとんどふり返られることなく、等閑視されたように思います。そして、明治の時代は、討幕のために掲げた攘夷を、朝鮮や中国を支配しようとする「異国支配」の政策に、巧みに変えて突き進んで行ったのではないかと思うのです。

 したがって、尊王攘夷の思想の狂信性や「異人斬り」の野蛮性は、明治の時代に克服されることなく、その後の日本で、かたちを変えて引き継がれていくことになったのではないか、ということです。朝鮮王宮占領事件や日清戦争時における旅順虐殺事件は、そうした流れのなかにあると考えます。

 長州を中心とする尊王攘夷派の討幕は、日本の近代化のために避けられなかったというような考え方は事実に反し、歴史認識を歪めるもので、「勝てば官軍」とか「薩長史観」ということばは、そうした考え方を批判的に表現するためにつかわれてきたのではないかと思います。  


 そうした意味で、いわゆる「異人斬り」は、日本の歴史にとって極めて重要な問題であると思い、「幕末異人殺傷録」宮永孝(角川書店)から、その一部を抜粋しました。宮永教授は様々な資料を発掘しており、また、丁寧に調べ上げています。歴史を学ぶ上で、貴重な一冊だと思いました。
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                          第一部 攘夷の凶行

                  攘夷思想の高まり -- ロシア士官と水夫を横浜に誅殺

 高まる攘夷熱 日本刀による凶行
 幕府は、安政五年(1858)六月に勅許を得ないまま調印(7・1)をもってアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五カ国に対して、箱館・神奈川(横浜)・長崎の開港と江戸・大坂の開市、外交官(領事・公使)の駐在などを許すことを実行することになった。
 かくして各国の外交団は、江戸や横浜に居住し、とくに江戸に近い横浜村には外国人居留地が設けられた。開港場となった横浜は、もと旗本の知行地であり、半農半漁の一寒村にすぎなかった。開港前の横浜村と新田(居留地の周りの地)の戸数は、わずか100ほどであった。(「横浜村井近傍之図」)
 開港場の建設は、約十万両を投じて安政六年春から急遽進められ、同年六月の開港時には大小の波止場、外国人居留地および日本人のための移住地が完成し、七月に入ると早くもイギリス人や清国人が商いを始めるようになった。
 幕府は横浜村を開港場とするに際して、近傍の野地を削り、沼を埋め、川を通し、運河で取りまきわずかに橋をニ、三架け、その両端に番小屋を設け、人の出入りを監視した。幕府当局の考えでは、横浜村に外国人をすべて閉じ込め、ちょうど長崎の出島のようにそこを陸上の”監獄”とする肚(ハラ)であったようだ。開港場が完成しても初めのうち進んでそこで貿易をやろうという者はおらず、幕府は大商人を勧誘し、むしろ強制的に店を出させ、また外国人の居住や営業活動を容易にするために家屋を設け、さらに運上所(税関の旧称)を設置した。
 一方、開市開港後の江戸や横浜で外国人を見る日本人、ことに攘夷思想を持つ武士にとって、外国人は神州日本を汚す”夷狄(イテキ)”(野蛮人)であり、悲憤慷慨の種であった。外国の使臣(公使・領事などの外交官)は、尊大な態度で江戸にやって来て、壮大な寺院に公使館を置き、閣老(老中の異称)と対等な地位に立ち、はばかるところなく勝手な議論や恫喝を行い、幕府有司(役人)はびくびくしながらそれに耳を傾けている。開港場の外国人商人にしても、大きな家を建て、大勢の召使いを抱え、有司や武士・町人に対しても敬意を払わず、わが神州の農工商を見下し、荒稼ぎしている。攘夷熱は、一部の武士(役人・藩士・浪士)のみにとどまらず、一般の町人や浮浪の徒の間にも広まり、不逞の浪士の中には、機会があれば外国人を攘夷の血祭りにあげようとうかがい、江戸や横浜近辺をさまよう者もいた。かれらは外国人を殺せば、幕府は攘夷を断行するものと考えた。
 安政六年七月二十七日(1859・8・25)の夜六ツ半(日没)頃のことである。運上所の泊番由比太左衛門のもとに、町役人らがやって来て、横浜町三丁目において異人(外国人)に対する殺傷事件が起こったことを注進した。開港後、外国人に対して罵詈雑言をあびせたり、投石したり、体当たりしたり、ときには抜刀などによって脅かしたりする事件があとをたたなかったが、死人が出たといった知らせにこの宿直は愕然とし、直ちに上役(組頭、若菜三男三郎)にその旨報告した。
 これは開港後、外国人に対して行われた最初の殺傷事件であった。事件の顛末は次のようなものである。
 
 七月二十七日(8・25)の夜八時頃、おりから来日中の西シベリア総督ムラビエフ・アム-ルスキー
伯のロシア艦隊に属するアスコルド号の乗組員、士官・水兵四名が、食糧品(野菜や鳥肉など)購入のために横浜に上陸し、横浜町三丁目の青物屋徳三郎で買物をし、店を出たのち、中居屋重兵衛の店の前あたりまで来たとき、突然背後より暴徒に襲われた。被害者は
(水夫)イワン・ソコロフ Ivan Sokoloff ・・・即死
 phet ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・重傷、のち死亡
であり、もう一人の士官は小型帆船に戻っていて助かり、ほかの水夫一名(ポポフ提督の給仕、氏名不詳)は負傷したが、一命は助かった。この給仕は、青物屋を出て、ニ十歩も行かぬとき、「殺(ヤ)られた、逃げろ!」といった少尉の言葉を聞いたように思った。給仕は何事かとうしろを振り返ると、モフェト少尉と水夫ソコロフが日本人と争っていた。さらにその日本人の刀は、こんどは自分目がけて振り降ろされようとしたので、給仕は手で頭を守ろうとした。相手の一撃は頭をそれはしたが、帽子を飛ばし左腕に喰い込んだ。そして第二の刃が打ち降ろされようとしたので、近くの店に飛び込んだ。幸いそこの主人が機転をきかし、すぐに戸を閉めたので難を避けることができた。給仕は、はじめ俵物のうしろに身を隠し、のち店の裏手に隠れた。手傷を負ったこの給仕の証言によると、襲ったのは六~八名の日本人ではなかったかという。

 水夫ソコロフの死体は凄惨をきわめるもので、頭は真っ二つに割られ、刃痕は鼻孔まで達していた。頭蓋骨からは脳髄がはみ出ていた。右肩も背中のうしろまで深く切られ、ひじの関節も切断され、大腿部の刃痕は骨まで達していた。また腕や手の肉も何カ所か削ぎ取られていた。犯人はそれだけで満足せず、刃で体を突き刺した。検死の所見では、おそらく即死、ということであった。
 士官モフェトもソコロフと同じように頭を割られそこから脳髄がはみ出ていた。肩甲骨を深く切られ、刃の先は肺にまで達し、その内部までのぞかせていた。その外にも外傷が見られたが、いずれも致命的なものではなかった。仲間の評判もよかったこの若い士官の場合は、即死ではなく、二時頃に亡くなった。しかし、意識が混濁する中で、襲われたときの模様について語ることはなかった。
 折から横浜には、台風によって難破したアメリカの測量船フェニモア・クーパー号(艦長ジョン・マーサー・ブルック、95トンのスクーナー船)が滞舶(タイハク)しており、急を聞きつけてやって来た
同船の艦長や乗組員の手で水夫ソコロフの死骸と瀕死・重傷の士官モフェトを仮宿舎へと運んだ。フェニモア・クーパー号の外科医は、モフェトの状態を一目見るなり、命は助からぬと思い、包帯をするだけにとどめ、必要な手術を施すことを断念した。手術をすれば、さらに苦痛を与えることが火を見るより明らかであったからである。
 アムールスキー伯が率いる艦隊は、コルヴェット艦隊リンダ・同グディン、砲艦オプリッチニク号など全部で七隻からなるのであるが、艦隊が極東に向かう途次ブレスト港(フランス北西部、パリの西590キロ)からリンダ号に乗り組んだイギリス人にヘンリー・アーサー・ティレーがいる。彼はどのような人物で、またいかなる資格で、何ゆえに同艦に乗ったものかあきらかでないが、二カ年間(1858~60)の航海を経たのち、紀行記『日本、アムール、太平洋』(1861年)をロンドンで出版した。この中でヘンリーは、事件についての貴重な見聞を記しているが、かれによると、「ずっしりとした、カミソリのように鋭利」な日本刀は、当時、西洋人から非常に恐れられていたという。
 現場には、六、七インチ(約18センチ)ほどの刀身の先が折れたもの、麻割羽織(家紋はない)一つ、犠牲者の軍服の切れはし、ぞうり片足(鼻緒は青)のほか、一分銀が一つ、100文銭10枚ほどが、遺留品として残されていた。が、犯人の手掛かりは皆目わからなかった。

 後手に回る神奈川奉行所
 そもそもロシア艦隊は、前年江戸において調印した日露修好通商条約の批准書交換とカラフト境界の画定を目的に来航したもので、江戸到着後、ロシア使節一行は芝の大中寺を旅宿とし、七月二十三日(8・21)に同寺院で交換を行った。折からロシア箱館領事ゴシケヴィッチ(1814~75)もこの交換のために出府していた。かれはロシア士官および水夫に対する殺傷事件が起こった翌二十八日、早くも幕府に対し、犯人を捕らえ、法に照らして処罰することを要求した。横浜におけるこの事件は、ある意味では起こるべくして起こったもので、じつは事件の前触れとして、随行の士官や水兵が江戸市中において侮蔑を受けるといった小事件もあり、アムールスキー伯がその犯人逮捕を当局に強硬に申し入れたために警護の武士の何人かは免職処分を受けた。これでもうロシア人に対して何事も起こらぬであろう、と高を括っていた矢先の事件であった。

 事件の詳細が伝わるや居留地に住む外国人らは度を失い、恐怖にかられ、ピストルを携帯するようになった。また江戸湾のロシア艦隊へもこの非常な出来事が直ちに伝えられると、被害者を引き取るために兵士を派遣した。当時、神奈川奉行であったのは水野筑後守(安政五・七~同六・八在任、前職田安家家老)であり、外国奉行も兼務していた。安政六年に横浜が開港場になると、神奈川奉行所は、その庁(役所)と共に戸部(現在の戸部町)に置かれ、ここで行政上の事務を処理し、貿易上のことは横浜の運上所において取り扱った。ところが、水野は、横浜における異変を耳にしても、直ちに凶行現場には行かず、戸部の役所で鎮座したままであった。ただ属吏を派遣し、凶徒逮捕の手配を指揮していた。
 しかし神奈川の各寺院に領事館を設けた米・英・蘭三カ国の領事らは翌二十八日(8・26)の未明には、日本人役人らによってたたき起こされ、横浜の変事についての説明を受けた。イギリス領事官は、青木町の浄滝寺に仮の庁を置き、文久三年(1863)に居留地の155番に移転するのだが、この頃はまだ神奈川にあった。当時、イギリス領事代理として神奈川に駐在していたF・マーティン・カウアンが、江戸のイギリス仮公館(東禅寺)にいる特命全権公使R・オールコックに送った急送公文書(1859・8・27付)には、二十五日(陽暦26日の誤り)の午前四時頃、日本人役人がどやどややって来たので、眠りから起こされ、「ロシア士官らが街中で日本人に襲われ、一人が死んだ」と告げられたこと、また役人らは奉行の命を受けて、各国領事館にも変事を伝えに来たものだが、この事件の処理方法についての意見を聞きたい、との伝言もあったことが記されている。…
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 捜査の限界
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 神奈川奉行は、犯人逮捕の手配を命じ、その行方を探索させはしたが、犯人を捕らえることはできなかった。犯行は水戸浪士、または攘夷党の一味の仕業であろうと、みな推測した。その後数年を経て、慶応元年(1865)の初めに、武田耕雲斎(水戸藩家老、尊皇攘夷を唱えて筑波山に挙兵した)が率いる天狗党の一味を訊問した際、その中にいた小林幸八が、この事件の犯人であることが判明し、同年五月、横浜において梟首(さらし首)されたという。

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 歪んだ「異人」観ーーフランス領事館の清国人ボーイを斬る
 居留地のヨーロッパ商人らを震撼させたロシア人殺傷事件のほとぼりがまださめぬうちに、第二の外国人殺傷事件がまたしても起こった。安政六年十月十一日(1859・11・13)の午後六時半頃、神奈川駐在フランス領事代理ホセ・ロウレイロの清国人召使いが、横浜弁天通りで二人の武士に背後から襲われ重傷を負ったのち、死亡した。犯行現場は港崎町わきの外国人御貸長屋通り(イギリス人W・ケズウィックの家の近く)である。
 この清国人の名前はあきらかでないが、物静かで、まじめな人物であったらしく、人から憾みを買うような人間ではなかった。たまたま主人の用事で横浜に来て災難にあったもので、事件当日には、洋服を着、ブーツをはき、フェルト帽をかぶっていた。死にぎわの苦痛の中で、同人が語ったところによると、跡をつけて来たサムライが二人いて、そのうちの一人が、いきなり提灯を眼の前につき出したので、「何か御用ですか」と尋ねたところ、背後からもう一人のサムライに斬られたという。刀きずは、左肩下から右腰にかけて長さ九寸五分(役29センチ)深さ約三寸(約9センチ)ほどもあった。召使いは程なく日米双方の医師の手当てを受けるのであるが、深手であったためにかれらもさじを投げてしまった。
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 水戸浪士小林忠雄の「異人」観
 この事件は迷宮入りともなりかねなかったが、六年後の慶応元年(1865)夏、ついに水戸浪士小林忠雄が犯人として挙げられた。ベルクール仏総領事がフランス外務省に送った外交文書の中に「水戸公に仕えた元サムライの小林忠雄に対する判決文」(1865・7・30付)があり、この中に小林が自ら罪状を白状した口書(コウショ)(口述の筆記)が引用されている。それによると、小林は小八郎・竹三郎という者たちと横浜に買物に来たとき、ロシア人としか思えぬ者(ロウレイロの召使い)と出会った。その者から乗馬鞭のようなもので肩を打たれたという。二本差しの武士が、外国人から体を打たれるということは恥辱と思われた。二人の連れも同意見であった。小林はこの無礼な外国人を切ってはじをそそごうと決心し、ついに背後から肩を切りさげた。
 
 清国人を切った後、小林は遁走し、その後山田イチロウ、アサクラ、イジュチラ(?)という者たちと近国近在の村々を訪ね、刀に物をいわせて、富裕な者から軍用金と称して金をまき上げた。ゆすり同然に集めた金は3,000両ほどになった。その後、小林は天狗党の乱(元治元年=1864年、水戸藩尊攘派藤田小四郎・武田耕雲斎らが挙兵した事件)に加わり、大平山(栃木市と下都賀郡大平町との境にある山、345メートル)に立てこもり、次いで筑波山に移ったが、幕府と水戸藩の追討軍に攻められた結果、党を離脱し、町人に変装し、各地を逃げ回った。しかし、京都で逮捕され、訊問を受けたとき、言葉の端から、横浜の清国人殺害の下手人でないかと疑われ、江戸に送られ、ついに罪状を認めた。
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                   異文化を体験した男ーーイギリス公使館の通弁伝吉を刺殺

 「イギリス臣民」伝吉殺害の真相
 安政七年正月七日(1860・1・29)こんどは外国帰りの日本人が攘夷志士のテロに遭って刺殺された。犠牲者は、イギリス公使館(品川高輪の東禅寺)付通弁の伝吉(英名=Dan-KicheまたはDan-Kutciなどのと綴る)である。
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 安政七年正月七日(1860・1・29)の午後のことである。駐日英公使ラザフォード・オールコック(1809-97、59-64在任)は、アメリカ公使ハリスを見舞ったのち、公使館が置かれている東禅寺に戻り、自室にいると、部屋の外でだれかが急いでやって来る足音を聞いた。障子を開けて入って来たのは、たまたま公使館に泊まっていた英艦ローバック号の艦長マーテン大佐であった。かれは「早く来てください。あなたの通訳(伝吉)が重傷を負って運ばれてきます」と、せき込むようにいった。伝吉は戸板にのせられていた。かれは短刀で背中を柄のところまで突き刺され、その先端は右胸の上に出るほどの深手であった。オールコックが声をかけると、目をすこし動かしたが、意識はほとんどないようだった。ときどきくちびるを震わすが、ひとこともしゃべらない。傷口を調べるために洋服の一部をぬがしている間、一、二度けいれんを起こし、その痛みのためか全身を震わすとほどなく苦悶することなく息を引きとった、という。
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                  治安維持の限界--オランダ人船長二人を横浜で斬殺

 動機不明の残忍なテロ行為
 イギリス公使館通弁伝吉が刺殺されて一ヶ月も経たぬうちに、再び横浜において惨劇が起った。安政七年二月五日(1860・2・26)の午後七時頃、横浜本町の四丁目と五丁目の間で、オランダのブリッグ船クリスティアン・ルイ号の船長ウェセル・ド・フォスとスクーネル船ヘンリエット・ルイサ号の船長ナニング・デッカーら二人は、太刀を帯びた日本人によってずたずたに切られた。両人は本町通りで買物中に背後から襲われたのであるが、あたりは血の海と化した。事件当夜、被害者の悲鳴を聞いたのち、むごたらしい現場に駆けつけた目撃者がいる。
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 またこの日、オールコックと老中脇坂中務大輔安宅(安政4・8~万延元年・11在任、のち再任)との間で殺伐とした情勢をめぐっての会談が行われた。オールコックは、これまでに外国人が六名を殺害されているにもかかわらず、犯人は一人も挙げられていないこと、とりわけ横浜居留地に住む外国人は恐慌状態に陥っていること、関門の設置や酔っ払いを取り締まるよう申し入れておいたが、未だ対策が講じられていないことなどについて、幕府側に強く抗議した。

 江戸市中でのフランス公使館員負傷事件
 横浜においてオランダ人二名が殺害されてからというもの、取り締まりも強化され、久しく同地において異変も起こらず、街も平穏な様子を呈しているかのように思えた。が、江戸においてはイギリス公使館通弁伝吉の刺殺事件が起こって約八ヶ月後に、こんどはフランス公使館(三田の済海寺)の館員ナタール(Natar イタリア人)が、麻上下や羽織を着用した侍四、五名のうちの一人と口論のあげく刀で切られるといった傷害事件が起こった。殺人事件には至らず、幸い同人の命に別条はなかった。
 ナタールの職掌は、公使館の旗番(gardian de pavillon)であった。事件は万延元年九月十七日(1860・10・30)の夕方六時頃、宿舎となっている済海寺の門前で起こったのである。ナタールの被創(刀きず)は、幸い大事に至らなかったが、江戸に駐箚する公使館員に加えられただけに幕府の外国公使館に対する万全の措置の不備と無力さを再びあらわにした。この傷害事件の彼我の報告書を読み比べると、当時、幕府がいかにこの事件を捻じ曲げ、もみ消そうと努めているかがよくわかる。
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                   流浪の果てにーーアメリカ公使館通訳ヒュースケンの暗殺

 「あわれな冒険者」の末路
 万延元年十二月五日(1861・1・15)の深夜のことである。オールコック公使のもとへ、善福寺のアメリカ公使ハリスから、ヒュースイケンが切られたので、大至急医師を寄こして欲しい旨のメモが届けられた。オールコックは早速、マイバーグ(医師)を善福寺に遣った。が、同人はイギリス公使館に戻ると、ヒュースケンが死んだ、と報告した。ヒュースケンは、日本駐箚アメリカ総領事(のち公使)タウンゼント・ハリス(1855~62在任)の秘書兼通訳として来日した者である。
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 ヒュースケンには三名の騎馬の役人がついていた。一人はかれの前に、他の二人は後につき、さらに大君の紋章の付いた提灯をもった徒士(従僕)が四名、馬丁が二名そばに随行した。ところが、一行が麻布薪河岸(芝新堀端芝南新門前代地通り)にさしかかったとき、突如、両側より不逞な一団に襲われたのである。刺客らは二組に分かれ、ヒュースケンを待ち受けていたのである。かれらのうち三名は、提灯を持った役人の馬に刀の峰打ちをくわせ、これを押し止め、役人をうしろへ引張って行った。しかし、役人は不思議なことに、この行為に対して何の抵抗も示さず、ましてや相手を捕らえようともしなかったのである。この間に四名の侍は、供の者の提灯をまず切り落とすと、次いで馬の前足を切り、ヒュースケンに躍りかかって、これを斬りつけた。襲撃は瞬時にして行われたので、かれはピストルを抜くひまもなく、両脇腹に傷を負った。そして馬に拍車を加えて200ヤード(約180メートル)ほど走ったところで、落馬した。警護役の騎馬役人三名ばかりか、徒士・馬丁らもとっくに逃げてしまっており、かれは懸命に従僕の名を呼んだ。しかし、しばらくの間、誰一人かれを助けには来なかった。一方、ヒュースケンを斬りつけ、手応えありとみた刺客らは、難なく暗やみの中に姿を消した。
 ヒュースケンを襲った刺客の数は、日本側の報告では「武家方侍四、五人」(「米国書記官ヒューケン遭害一件」)とあり、ハリスが国務省へ送ったそれには「七名」とある。襲われたのは、午後九時前後のことか。かれは落馬して15分ばかり路上で呻吟していた。やがて役人らは戸板を見つけ、その上にヒュースケンを乗せ、九時半頃善福寺に運び込んだ。血だらけのヒュースケンの姿を見たハリスは愕然とし、声もなかったが、気を取り戻すと、直ちにプロシアとイギリス両代表部へ外科医の応援を求めたのである。早速、プロシア公使館からはフォン・ルチウス医師が、イギリス公使館からはマイバーグ医師が、ヒュースイケンの治療に駆けつけたことはすでに述べた。
 ヒュースケンが戸板でかつぎ込まれたのは仮のアメリカ公使館が置かれている善福寺の一坊(善行寺)である。かれが刺客に斬られたのち宿坊に運び込まれ、その後の模様を如実に伝えているのは、ハリスが国務省に送った報告書(1861・1・22付江戸発)である。
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 駆けつけた人々は、二人の医師とフランス公使館のジラール神父(メルメ・カションの後任の通訳官)を残して一時それぞれの宿舎へと帰った。十二時頃ヒュースケンは再びワインが飲みたいとといったので与えた。何口か飲んだあと眼をつむり、ジラール神父より終油秘跡を与えられ、静かに死んで行った。万延元年十二月六日(1861・1・16)の午前零時三十分のことである。享年二十九歳であった。

 

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