真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)

2015年09月30日 | 国際・政治

NO6

 「南京事件 日本人48人の証言」は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者阿羅健一氏が、当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。しかしながら、著者の意図に反し、「第二章、軍人の見た南京」のなかにも、南京大虐殺を裏付けるような証言が含まれている。ここでも、NO1~NO5と同じように、それらを拾い出して考えてみたい。
 証言はすべて、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。(罫線の著者の質問は○印に変えた。○印に続く「 」のついた文章が証言者のものである。「・・・」は文の省略を示す)

  第十軍参謀・谷田勇大佐は、元軍人として虐殺を否定する立場で証言している。例えば、師団長末松中将が温厚な人柄なので、捕虜処刑の命令を出すはずはな い、というような証言で、旅団命令を否定しようとしている。しかしながら、それは捕虜処刑について記した陣中日記や戦闘詳報、また関係日本兵の証言などを 覆す根拠を欠き、第三者に対して説得力がない。
 また、捕虜は「国際法に従って処理していくべきだと考えていた。事実、作戦間、捕虜に関して問題はなく、戦後、南京事件が発生するとは夢にも思わなかった」と証言しているが、これは明らかに言い逃れではないかと思う。当時の現地日本軍は、捕虜を国際法に従って人道的に扱える状況になかったことは、多くの証言ではっきりしている。松井大将自身も「支那事変日誌」に下記のように記述し、認めていることである。
 「我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス」

 したがって、下関にあった”二千人か三千人位か”という中国人の死体を「城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う」と言っているが、その状況を具体的に把握することなく、「虐殺」ではないと断定することはできないと思う。
 第十六師団歩兵第三十三聯隊元日本軍兵士の何人かが「揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや」というような証言をしている。また、当時の陣中日記に、「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」というような捕虜殺害の記録が残されているのである。

 さらに、宇都宮百十四師団の第六十六連隊第一大隊『戦闘詳報』には、
「12月13日
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
    左記
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス」
と記述されている。

 また、「山田栴二日記」(第十三師団、歩兵第百三旅団長:少将)には、
「12月15日 晴
 捕虜ノ仕末其他ニテ本間騎兵少尉ヲ南京ニ派遣シ連絡ス
 皆殺セトノコトナリ
 各隊食糧ナク困却ス」
という記述がある。 

 それに、たとえ「成文としての軍命令」ではないにしても、長勇参謀が繰り返し「ヤッテシマエ」と「捕虜の処刑」を命じたことはよく知られており、上海派遣軍松井石根司令官の専属副官・角良晴氏も「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」 と題して、偕行社に投降した文章ので具体的に記述している。したがって、谷元大佐もそれを認めざるを得ない上に、自ら、「捕虜を斬殺した者のあったことは 承知しております」と証言せざるを得ない状況もあったのであろう。総合的に考えれば、軍命令による捕虜の斬殺も否定できないと思う。

 第十軍参謀・金子倫介大尉には「後方担当ですから慰安婦の手配もしました」との証言があることも、軍の関わりを示すものとして重要だと思う。

 企画院事務官・岡田芳政氏は、「私はずっと中国にいて中国人というものをよく知っていますし、陥落前の南京も陥落後の南京もよく見ていますから言えますが、南京事件とは中国の宣伝です」と南京における「虐殺」に関する証言や主張を封じるように断定している。
 しかしながら、虐殺に関する当時の陣中日記や戦闘詳報、南京攻略戦に関わった日本兵の証言、国際安全委員会の諸文書、当時の海外報道などを何ら検証することなく、「中国の宣伝」などといっても、国際社会では通用しないと思う。
 また、「ずっと中国にいて中国人というものをよくしっている」という岡田氏が、「中国は宣伝のうまい国です」とか 「中国人というのは面子を重んずる国ですから、いったん言ったことを取り消すことは絶対にありません」などと言っているが、加害国である日本の関係者が、そういう言い方をすること自体に、問題があると思う。よほどしっかりと根拠を示さない限り、説得力はないと思うのである。
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                        二 軍人の見た南京
1、第十軍参謀・谷田勇大佐の証言
 ・・・
○遠藤三郎中将(当時参謀本部第一課長)が著書の中で、第六師団はそれまで戦った北支で感状をもらってないし、作戦主任が佐藤幸徳大佐だから、と虐殺をやったように書いていますが…。
  「遠藤中将は第十軍のことは直接知らないはずですよ。第十軍司令部は湖州以後第六師団の進路を追随していったが、そんな形跡は少しも見えなかった。死体は あったが、皆中国兵の死体であった。また佐藤大佐はこの頃第六師団からかわっている。第六師団に関して虐殺ということはない」
○第百十四師団麾下の部隊の戦闘詳報に、捕虜は処刑せよ、という旅団命令があったと言われますが…。                                                                               
 「とても信じられない。旅団長の秋山充三郎)少将はどんな人か知らないが、師団長の末松(茂治)中将は予備役招集で極めて温厚な人柄、そんな命令を出すはずはない」
○第三課は捕虜の担当でもあるのですが、どのような考えを持っていましたか。
  「特別虐待するとか優遇するとかもなく、ただ国際法に従って処理していくべきだと考えていた。事実、作戦間、捕虜に関して問題はなく、戦後、南京事件が発 生するとは夢にも思わなかった。南京の時、捕虜はいたが、武漢作戦の時、敵はどんどん奥地に逃げ込んでほとんどいなかった」
○南京城内の様子はどうでした?
 「軍司令部が南京城内に入ったのは14日のお昼前、11時30分でした。中華門から入ったが、付近に死体はほとんどなかった。
  3時頃になり、私は後方課長として占領地がどんな状態か見ておく必要を感じ、司令部衛兵一個分隊を伴い乗用車で城内一帯を廻った。下関に行った時、揚子江 には軍艦も停泊しており艦長と会見した。この埠頭の岸辺には相当数の死体があった。千人といったが、正確に数えれば千人以上あったと思う。二千人か三千人 位か。軍服を着たのが半数以上で普通の住民もあった」
○戦死体とは違いますか。
 「城内から逃げたのを第十六師団が追いつめて撃ったものと思う。これが後日虐殺と称されているものではないか」
こう言いながら谷田氏はアルバムを取り出した。… 
 「下関に着いたのは午後4時頃で、建物がまだ燃えていまして、この写真にみえるような死体が2千人位ありました。」
  ・・・
 「・・・ 
 南京城壁を占領したのは第六師団が一番早かったが、光華門を攻めた第九師団には新聞記者がついていて、いち早く報道したので脇坂部隊が有名になった。脇坂次郎大佐は私が陸大兵学教官の時、高級副官をつとめて人柄をよく知っています。
  私は17日の入城式が終って、19日には杭州平定のため南京を離れていますからそれ以後は存じませんが、19日までなら広く南京周辺を加えても、死体数は 数千ないし一万程度で、まして集団虐殺の跡などは発見できませんでした。したがって、中国側が終戦後の極東軍事裁判で主張した数十万という数字は誇大意図 的な誇張であると確信いたします」
 ・・・
○下関以外の南京の様子はどうでした?
「莫愁湖にも十人以上の死体があった。私が南京で発見した死体はあわせて三カ所でした。」
○莫愁湖の死体は軍人ですか、市民ですか。
 「今になって考えると軍人だったか市民だったかはっきりしない。半数ずつかもしれません。下関と莫愁湖の二カ所は虐殺といわれているものと思います」
○挹江門にも死体があったと言いますが、ご覧になっていますか。
「ものの本には挹江門にもだいぶあるように書いてあるようだ。14日の午後通ったが、その時はなかった」
「雨花台でもやったと書かれたものもあるが、そういう死体は全然なかった」
○田中隆吉少将が『裁かれた歴史』に、上海派遣軍の長参謀が虐殺を命じたと告白した、と書いています。田中氏と親しい谷田さんはこれをどう思いますか。
  「長勇は私より一期後輩の28期、陸大もよい成績で卒業していますが、性慷慨義憤己れの正しいと思ったことは直往邁進身を挺してやり遂げようとする男でし た。昭和の横断的派閥の三番目である桜会では、橋本欣五郎中佐と共にその中心人物であった。昭和6年の10月事件が未然に発覚して失敗に帰したのも、長大 尉の不軌独行が原因の一つになっている。しかしながら友と交わると意外に謙譲で礼儀正しく、私に対しても同名の故か、はなはだ親切でありました。」
  長の性格からみて、話のようなことはやりかねない。しかし成文として軍命令を下達するには軍司令官の決裁を受けなければならぬから、いくら長でも独断で成 文を出したとも思われません。軍に命令受領に来た隷下団隊の参謀に口頭で伝達したのでしょう。そんな噂は長く中支にとどまっていたので耳にしました。現に 捕虜を斬殺した者のあったことは承知しております」
○中島(今朝吾中将)第十六師団長はどんな方ですか。
  「第十六師団もよく噂にのぼった。第十六師団は京都師団で弱い部隊だから、前に述べたように何か問題を起こす可能性はある。中島中将は長くフランスに駐在 し、ハイカラな軍人であったから、噂のような処置をとるとは思えないが、他面これを抑える力も強くなかったであろう。現に私が見た下関の死体は第十六師団 により行われたものであった」

第十軍参謀・金子倫介大尉の証言
○南京で虐殺があったと言われていますが、何か見てませんか。
 「私が杭州から南京までの間に見た死体は、はっきり覚えています。最初に見たのは杭州湾上陸地点で、そこには新しい軍服を着た日本兵の戦死体がきちんと並べて寝かせてありました。新しい軍服がいやに目につきました。ここでは、たこつぼの中の中国兵の死体も見ています。
 その後、南京への途中では、自動車に轢かれて内蔵が出ていた中国兵の死体、地蔵さんのような形で道路際に座って死んでいた中国兵、それと雨花台お10キロほど手前で、ふくらんだ死体を見ているだけです。これらははっきり覚えています。あとは死体を全然みていません」
 ・・・
○南京を出た後は、まっすぐ杭州へ行ったのですか。
 「そうです。最初は杭州攻撃という命令は出てなかったと思います。とにかく杭州転進ということで、兵站線のこともあり、まず私が向かった訳です。
 杭州転進中に特別戦闘はありませんでした」
○杭州では軍司令部と一緒になるのですね。
  「ええ。西湖といい、真ん中に島のある湖のそばに軍司令部がありまして、ここで正月を迎えました。杭州に来てから、後方担当ですから慰安婦の手配もしまし た。請負人がおり、これと金額の上限を決めました。たしか50銭だったと思います。士気低下を防ぐためという名目でした。兵隊同士の喧嘩などは少なくなっ たように思います」

企画院事務官・岡田芳政氏の証言
○南京の様子はどうでした?
  「われわれが着いた揚子江には戦死体が十数体浮かんでいました。その時の話では、前はもっとあったが流されてしまったと言ってました。上陸したところに挹 江門があり、軍から出迎えの自動車でこの門から南京に入りました。出迎えてくれた将校の話だと、日本軍は挹江門付近一帯で中国軍を包囲したので最も多くの 戦死者をだした、以前は相当死体があったと言っていました。しかし、私が行った時にはほとんどありませんでした。
 ・・・」
○その後、岡田さんは中国で謀略などをやっていたので、中国人と接触する機会があったと思いますが、南京で虐殺があったとということを聞いたことはございませんか。
 「ありません。ただの一度もありません。はじめて聞いたのは戦後になってからです。聞いてびっくりしました。
  私はずっと中国にいて中国人というものをよく知っていますし、陥落前の南京も陥落後の南京もよく見ていますから言えますが、南京事件とは中国の宣伝です。 戦後、いちはやく中国が、裁判で何十万人が殺されたと言って、それが世界に伝わりました。それが南京事件というものです。その時、世界に与えた印象はあま りに強かったので、これは簡単に消えるものではありません。南京事件というのは、中国がそれまでやってきた宣伝戦を戦後も行ったまでのことです。
 中国は宣伝のうまい国ですし、日本人には理解できませんが、白髪三千丈の国中国ではこういうことは当然のことなのです。日本は宣伝戦に負けたのです。
  当時から中国の正確な人口はわからないし、誰が兵隊かもわかりませんから、正確な数は数えられません。ですから、日本側がいくら部隊の動きや、一部戦場の 思い出話を集めてもの大宣伝を否定することは不可能です。それに、中国人というのは面子を重んずる国ですから、いったん言ったことを取り消すことは絶対に ありません。ですから、いまのままいくら争っても南京事件は永久に片ががつきません。」
○南京事件の真相をはっきりさせる方法はないのでしょうか。
 「宣伝に負けたとあっさり兜を脱ぐことです。それしかありません。数字の討論は愚の骨張です」

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)

2015年09月30日 | 国際・政治

NO5                                                           
 「南京事件 日本人48人の証言」は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者阿羅健一氏が当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。
 すでに「NO1」で触れたように、著者は”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。”と同書のあとがきにかいている。確かに、現実に「30万人の大虐殺」など見ることはできない。また、何を「虐殺」ととらえるのか、ということがきちんと確認されていないと、虐殺を見たかどうかの証言を集めたことにはならないと思う。したがって、多くの関係者が「虐殺は見ていない」とか「聞いていない」と証言しているが、その証言自体にはあまり意味はないと思う。
 問題は「交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦」などが規定されている「国際法、ハーグ陸戦法規」に反していないかどうか、ということではないかと思うのである。
 例えば、松井軍司令官付・岡田尚氏は、湯水鎮に行く途中、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺しいるところを目撃し、「千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していました…」と証言しているが、こうした「捕虜」の殺害が、「虐殺」ではないと言う人にとっては、「南京大虐殺はなかった」という結論も不思議ではない。しかしながら、こうした武器を所持せず、抵抗不可能な「捕虜」を殺害することは明らかに「国際法違反」であると思う。
 したがって、そう視点を持って読めば、同書の「第二章、軍人の見た南京」のなかにも、著者の意図に反し、「南京大虐殺」を裏付けるような証言が含まれていると思うのである。ここでもNO1~NO4と同じように、それらを拾い出して考えてみたい。
 証言はすべて、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。(○印は著者の質問、「 」のついた文章が証言者のものである。「・・・」は文の省略を示す)

 第十軍参謀・吉永朴少佐は、下記のように「揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体が水浸しになっていました」と証言している。そして、その数は「数千はあったと思います」という。しかしながら、揚子江の埠頭で激戦があったという話は聞かない。様々な証言や一次史料から、この死体は「便衣兵」などではなく、処刑された「捕虜」か、武器を捨てて逃げる中国兵、あるいは避難しようとした一般市民の死体であろうと思う。
 また、第十軍の柳川軍司令官が、最初から「南京を攻めるつもりでいました」という証言も、日中戦争の意味を考えるとき、重要であると思う。

 上海派遣軍参謀・大西一大尉は、松井大将に「第十六師団に行ってくるように」と命ぜられたと証言している。「中島師団長は中国の家を焼いても構わんと言ったらしい」ので、中島師団長の統帥について注意をうながすためであるという。師団長がこうした考えでいたことを踏まえれば、日本兵による放火について、多くの証言があることも頷ける。
 また、大西大尉も下関で相当数の死体を目撃したことを証言しているが、「掃蕩によるものでしょう」と、いとも簡単に推察し、どのような状況で死に至ったのかを確認しようとはされていない。殺された中国人が武器を所持していたのかどうか、抵抗することができたのかどうか、また、抵抗する意志があったのかどうか、さらに、死体は兵士だけであったのかどうかなどが、南京における虐殺事件の最も大事な部分で 「掃蕩によるものでしょう」ということでは、すまされないのだと思う。
 さらに、白昼、日本兵による強姦を見たことを明かし、「強姦は私が見た以外にも何件かあった。最初は慰安所を作るのに反対だったが、こういうことがあるので作ることになった。そういうことは第三課がやった」と証言していることも見逃すことができない。

 すでに触れたように、松井軍司令官付・岡田尚氏は、湯水鎮に行く途中、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺しいるところを目撃し、「千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していました…」と具体的に証言している。
 また、「市民は難民区に14、5万いまして安全だったのですが、捕虜や敗残兵をやったことはあると思います。それは私も湯水鎮で見てますから。日本兵もぼろぼろだったから捕虜まで心がいかなかったと言えると思います」とか「中国兵をどんどんやって、南京に行くということしか頭になかったと思います。さきほど言いましたように、殺気立っていましたし、捕虜をどうしたらよいか方法がなかったと思います」という証言も、当時の日本軍の状況を正しくとらえた証言だと思う。ただ、いかに日本兵がぼろぼろであっても、「俘虜は人道をもって取り扱うこと」と定められた国際法を無視してよいことにはならないし、国際社会がそれを許さないと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー                                               一 陸軍
第十軍参謀・吉永朴少佐の証言
○その時の南京の様子はどうでした?                                                      
 「城壁のそばには遺棄死体がありました。それは悲惨で、車に轢かれている死体もありました。これを見て、戦争には勝たなくてはいけない、敗けた国はみじめだ、と思いました。儲備銀行に行く途中、身なりいやしからぬ中国人の家族に会いましたので私は自分の名刺に、歩哨線を自由に通過させよ、と書いて渡しました。当日家族が歩ける位ですから城内が落着いていることがわかると思います。また、城内に入る兵隊は制限されました。作戦主任でなかったので詳しいことはここでは言えませんが、南京城攻撃の前、各師団に軍命令が出されています」
○14日以降はどうですか。
 「2、3日してから作戦上の任務で下関に行きました。揚子江の埠頭に相当数の中国軍人の死体が水浸しになっていました」
○相当数というと、どの位ですか。
 「正確にはわかりませんが、数千はあったと思います。第十軍は南京の南端からだけ攻めたのでなく、国崎部隊が浦口から攻めましたので、この時の死体と思います」
○すべてが軍人の死体ですか。
 「軍服を着ていない中国人も相当ありました。あとで聞いた話ですが、南京には軍服が相当投げ捨てられてあったと言いますので、軍服を着ていない中国人は便衣兵だと思います。軍服でない中国人の死体が吊されてありました」
○どこにですか
 「はっきりしませんが、吊してあったという記憶があります。潮のかげんで土手にうちあげられたのかもしれません。それを吊してあったように記憶していたのかもしれません」
○下関以外にはどこに行っていますか。
 「紫金山にも登りました。入城式の前の16日だと思います。紫金山での印象は特別ありません」
○当時、虐殺の話は聞いていませんか。
「全然聞いたことがありません」
○武藤章中支那方面軍参謀副長の回想録『比島から巣鴨へ』に、次のような箇所があります。
 「松井大将は作戦中もずいぶん無理と思われる位中国人の立場を尊重された。この大将の態度は、某軍司令官や某師団長のごとき作戦本位に考える人々から抗議され、南京の宿舎で大議論される声を隣室から聞いたことがあった」この某軍司令官とは柳川(平助)中将のことと思われますが、このよな場面に出会ったことがありますか。
「さあ、何を議論したのか私にはわかりませんが、レディバード号事件(日本陸軍による英艦砲撃事件)を議論したのかもしれません。第十軍は入城式を済ませてすぐ杭州攻略に向かいましたので恐らくこんな議論の暇はなかったと思います」
○杭州攻略はいつ頃決まったのですか。
 「南京攻撃の時には既に決まっていたと思います。柳川将軍は杭州も占領すべしと言ってましたので、その意向で作戦主任の寺田(雅雄中佐)さんが立案したと思います。それを意見具申しました。ですから、南京に入った時、すでに軍司令部は杭州に行く用意をしてました。柳川将軍は、上海─南京─杭州を結ぶ三角地帯を保有して、後は外交交渉に待つべし、との考えでした。東京に帰ってから、上奏もなさったということです」
○柳川将軍は最初から南京攻略を考えていましたか。
 「ええ、そうです。当初、第十軍は上海を背後から衝くのが目的でしたが、その時から柳川軍司令官は南京を攻めるつもりでいました。ですから何度も意見具申をしています。大本営とは意見の相違が随分ありました」
                                       
上海派遣軍参謀・大西一大尉の証言
○松井大将が中島師団長の統帥を非難されたと言われていますが、本当でしょうか。
 「中島師団長は中国の家を焼いても構わんと言ったらしい。もちろん、松井大将の前で言った訳ではないでしょうが、それを聞いた松井大将が私に第十六師団に行ってくるようにと言われた。だから松井大将が中島師団長の統帥について注意をうながしたことは確かだ。
 私は十六師団に行くことは行ったが、大尉の身分で師団長に直接言える訳もなく、十六師団に上陸以来よく知っておる参謀がいたので、その人に伝えた」
 ・・・
○13日以降の南京の様子はどうでした?
 「13日はまだ戦闘が続いていまして、首都飯店付近までしか行けませんでした。
 挹江門に行った時は両側が死体でいっぱいだった。
 17日か18日に下関に行ったが、揚子江には相当死体があった。土手ではなく、江の中です。掃蕩によるものでしょう。この死体は年末まであった。
○挹江門の死体はいつ頃まであったものでしょうか。
 「全軍の慰霊祭(18日」の後まであった。あるいは20日過ぎまであったかもしれない。その後、特務機関主催で挹江門内で中国軍慰霊祭をやりました。その時には挹江門外は綺麗になっていました。私が主催でしたが中国側市政府関係、日本官憲、一般中国人も参列し、4、5百名は集まりました」
○上海派遣軍の中で虐殺があったという話はおきませんでしたか。
 「話題になったことはない。第二課も南京に入ってからは、軍紀・風紀の取り締まりで城内を廻っていました。私も車で廻った」
○何も見てませんか。
 「一度強姦を見た」
○白昼ですか。
 「そうです。すぐ捕らえた。十六師団の兵隊だったので、十六師団に渡した。強姦は私が見た以外にも何件かあった。最初は慰安所を作るのに反対だったが、こういうことがあるので作ることになった。そういうことは第三課がやった。」
○その他、暴行、略奪など見てませんか。
 「見たことがない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、滁県を2回ずつ廻ったが、虐殺を見たことも聞いたこともない」

松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
○蘇州にはいつまでいましたか。
 「2日くらい蘇州にいて、いよいよ南京が陥落だというので、私は管理部の村上(宗治)中佐と湯水鎮まで進みました。湯水鎮に行く途中のことですが、日本兵がクリークの土手で捕虜を刺殺してました」
 何日のことですか。
 「12日だと思います。午後1時頃でした。千人から2千人位の中国兵が空地に座らされて、中には女の兵士もいました。何人かを土手に並べて刺殺していましたが、それを見て残虐だと思っていると、村上中佐が車から降りて、指揮官の中尉か少尉にそのことを言いました。すると、戦の最中だし、これしか方法がないと言われましてね。そう言われるとわれわれも何も言えません。
 指揮官は弾が大切なので撃ち殺すわけにはいかない、司令部には問い合わせていない、と村上中佐に言ってました。中国兵をどんどんやって、南京に行くということしか頭になかったと思います。さきほど言いましたように、殺気立っていましたし、捕虜をどうしたらよいか方法がなかったと思います」
○全員を処刑したのですか。
 「それはわかりません。私たちはすぐそこを出発しましたから。」
 ・・・
○虐殺は見ていなくとも、話は聞いていませんか。
 「捕虜の話は聞いています。下関で捕虜を対岸にやろうとして、とにかく南京から捕虜を放そうとしたのでしょうね。その渡河の途中、混乱が起きて、射ったということは聞きました。」
○大虐殺があったと言われていますが、
 「市民は難民区に14、5万いまして安全だったのですが、捕虜や敗残兵をやったことはあると思います。それは私も湯水鎮で見てますから。日本兵もぼろぼろだったから捕虜まで心がいかなかったと言えると思います。また、難民区に入った中国兵の摘発もありました。摘発は憲兵がやっていましたが、中国兵は帽子の跡があるからわかると言ってました。しかし、果たしてそれが虐殺といえるかどうか。今の平和な時は何とでも言えますが、あの時の状況を考えるとそうは言えないと思います。…」
○下関をご覧になっていますか。
 「下関には松井大将と一緒に行きました。南京駅のあるところです。相当の死骸が残っていました。松井大将も私もそれを見ています」
○どの位の死体ですか。
 「はっきりわかりませんが、何百といったものです。松井大将が行くというのである程度はかたづけたと思います」
○松井大将の専属副官の角(良晴)少佐は、下関には何万もの死体があったと証言していますが…。
 「下関の死体は角君も松井大将も私も同じのを見てますが、何万ということはありません。
 私は中学に入るため、大正になって東京に行き、そこで関東大震災を経験しています。その時、千、2千という死体を見ていますが、下関にはそんなに死体はありませんでした。角君は鹿児島の人で、おとなしい人でしてね。下関の死体が相当印象的だったのでしょう。その印象が残っていて、何万という言い方になったのだと思います。死体ははじめて見る人にとってはすごくあるように見えますから。
 東京裁判では虐殺した数が十万、二十万と言われましたが、想像もできない数ですよ。もちろん郊外には戦死体が何万かあったと思います。郊外の戦では日本兵も相当やられていますからね。でも(死体は)市内にはありませんでした。私が自分で見て聞いたことと、戦後、南京事件と言われているのはどうしても結びつかないのです。
 (中国兵が)揚子江に逃げたということでしたら、海軍の人が知っていると思います」
○長参謀が虐殺を命令したとも言われますが…。
 「ええ、当時、長さんがそういうことを言ったという噂を聞きました。『捕虜は殺してしまえ』とか、『戦争なんだから殺してしまえ』と言ったということです」
○そういう命令を出したのですか。
 「そうじゃなく、捕虜のことで軍司令部に話があった時、長さんがそういう暴言をはいたということです。もちろん命令ではありませんし、情報参謀ですから命令できるわけでもありません。周りがその通りとる訳ではありません。長さんは何をするということではなく、ただ暴言をはくだけです。それで尾鰭が大きくなったと思います」
 ・・・
○松井大将は中島(今朝吾中将)師団長の統帥ぶりをよく思っていなかったらしいですが、南京ではそんなことがありましたか。
 「南京で2人がどうしたということは見てません。ただ、上海に戻ってから『中島師団長は乱暴でよろしくない、物事を考えない、思慮がたりない、上に立つ者としては困ったものだ』と私に言ってました」
○武藤参謀副長が回想録の中で
 「松井大将は作戦中も随分無理と思われる位支那人の立場を尊重され、南京の宿舎で作戦本位に考える某軍司令官や某師団長と大議論した」と書いています。軍司令官とは柳川(平助)中将で、師団長は中島中将だと思いますが、岡田さんはその場面にいましたか。
 「いませんでした。武藤さんが書いているとしたらそれは本当でしょう。柳川さんとは議論したことはあったかもしれません。上海で柳川さんのことをよく言ってませんでしたから」
○柳川軍司令官とはレディバード号事件のことで問題があったのでしょうか。
 「柳川さんとはもともとよくなかったようです。松井大将は真鍋(甚三郎大将)さんとは同期でしたが、よくありませんでしたし、柳川さんは真鍋さんの系列ですから、そういうことだと思います」

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)NO4

2015年09月18日 | 日記

 「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)は、南京大虐殺がなかったことを明らかにするために、著者が当時南京にいたジャーナリスト、軍人、外交官を訪ね歩いて集めた証言集である。しかしながら、著者の意図に反し、証言のなかには、南京大虐殺を裏付けるような証言がたくさん含まれている。ここでも、それらをいくつか拾い出して考えてみたい。
 証言はすべて、同書からの抜粋である。(○印は著者の質問、「 」のついた文章が証言者のものである)
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讀賣新聞・森博カメラマンの証言
 ・・・
○日本兵よる中国兵に対する殺戮があったと言われていますが…。
 「ありました」
○ご覧になったのですか。
 「見てませんが、兵隊から聞きました」
○どんなことですか。
 「捕虜を揚子江の淵に連れていって、どこかに行けと放したが、結局、殺したということです。岸が死体でいっぱいだったとも聞きました。それは本当だと思います。市民に対しては何もありませんが、中国兵に対してのそういうことはありました」
○南京にいて聞いたのですか。
 「ええ、南京にいる時です。何カ所かで聞きました」
○なぜやったのでしょうか。
 「捕虜を捕まえたが、捕虜にやる食糧がないし、収容するところがない、放してもまた兵隊になる。それで困ってやったと言っていました。中国の兵隊は日本と違って、食えないから愛国心がなくとも兵隊になります。事実放すと、すぐどこかで兵隊になっています。
 また、中国には便衣隊がいて、日本兵はこれを恐れていましたから、やってしまおうということになったのだと思います」
○どの位の捕虜をやったのですか。
 「相当多数だ、と聞きました」
○上の命令でやったのですか。
 「下士官が単独でやったのだと思います。分隊長クラスの下士官です。もしかすると、もう少し上の方も知っていたのかもしれません。
 その頃、捕虜を扱う国際法か何かあったと思いますが、兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう。
 陸軍の下士官の中には何年も軍隊にいて、軍隊のことは何もかも知っていて、新任の少尉が小隊長で来ても、上官とも思わず馬鹿にしている悪い奴がいました。彼らが新しく入ってきた兵隊を殴っていじめていたのですが、そういった下士官がやったのだと思います。
 私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります。戦争ですから、殺す、殺されるのは当然ですが、やらなくともいいことまでやったと思います」
○下士官全体がそうだったのですか。
 「いや、一部の下士官です。陸軍は国民全部が兵隊になりますから、一般社会では使いものにならない悪い奴も入ってきて、これが陸軍を悪くしていました。そういうやつがああいうことをしたのだと思います。私はカメラマンとして従軍していましたから、一度も軍隊に入らずに済みましたが、そういうのを見ていましたから、いつも軍隊には入りたくないと思っていました。…」
・・・
○下士官は残虐なことをやっているという気持ちはなかったのでしょうか。
 「日本兵は捕虜をやっても悪いことをやっているというとは思っていなかったと思います。私もその頃は日本が戦争に敗けるなどと思っていませんし、敗ける時は死ぬ時だと思っていました。戦争は勝つか、そうでなければ死ぬものだと思っていたわけです。兵隊もそうだったと思います。ですから、兵隊は捕虜をやったことを隠してませんし、悪いと思っていなかったし、自分が生きるため仕方なかったと思います」
○虐殺に関して、直接、何かを見ましたか
 「話だけで、実際は何も見てません。南京では、見てませんが、その後の作戦で、攻撃の途中、日本兵が民家に入って、床をはがして飯盒の焚きつけにしているのは見たことがあります。また、出発する時、家をわざわざ壊したり、中には放火をしているのを見たことがあります。その時、兵隊に聞いたところ、敗残兵が入っているからだ、と言ってました」
○略奪もあったと言われますが…。
 「南京ではどうだったかわかりませんが、略奪といいますか、そういうことは兵隊だけでなく記者もやっていました。作戦が始まる時、連隊本部からは従軍記者も何日か分の食糧をもらいます。しかし、重いですから2、3日の食糧しか持たずに従軍して、なくなれば後は民家に入って探します。食糧をとるのは悪いとは思っていませんでしたから、そういうことは兵隊も記者もやっていました。
 記者の中には食糧以外のものを略奪する人もいて、上海の博物館から勝手に持っていった記者もいたといいます。もっともそこにあるのはイミテーションで、本物は重慶にあったと言いますが」
 ・・・
○その時、南京での事件をほかの記者もしっていましたか。
 「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います」
○なぜ誰も話題にしなかったのですか。
 「戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。ですから話題にしなかったのだと思います。そういうことで記者は突っ込んで取材しようとはしませんでしたし、われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした。死体のことを書いても撮っても仕事にならなかったからだと思います」
 ・・・ 
 「南京大虐殺」を考える上で、「森博カメラマンの証言」は極めて重要だと思う。特に「兵隊は捕虜をどう扱うのか知らなかったし、自分たちは捕虜になったら死ぬものだと思っていたので、捕虜は殺すものと思っていたのでしょう」や「私も何年かして、前線を進撃しながら、捕まえた捕虜を斬っているところに出くわし、下士官から斬ってみないか、と言われたことがあります」という証言は、南京戦当時の多くの日本兵の意識や日本軍の実態をよくあらわしていると思う。彼の証言で、「略奪」の事実も否定できないものであることがわかる。 
 
同盟通信・新井正義の証言」の中には、
 「15日に旧支局に入った。旧支局は街の中で、すぐそばに金陵女子大学があった。旧支局に入ってから、女子大学の学長か寮長かが来て、婦女子の難民を収容しているが日本兵が暴行する、同盟さんに言えばなんとかなると思ってきました、と言う。そこでわれわれは軍司令部にそのことを伝えに行った
との証言がある。これは、金陵大学緊急委員会委員長の名前で1937年12月16日、南京日本大使館宛に提出された、下記のような報告を含む文書が事実であることを裏付けるものだと思う。金陵大学の関係者は、あらゆる手を尽くして、下記のような被害を防ごうとしていたものと思われる。

(1)12月14日。兵士らは、わが農業経済系敷地(小桃園)の門上の米国旗と米大使館の正式掲示を引き裂き、そこに居住する教師、助手数人から強奪し、鍵のかかっているドア数個を破った。
(2)12月15日。上述の場所に兵士らが数回来て、安全を求めてきていた避難民の金や物品を盗み、婦女子複数を連れ去った。
(3)12 月15日。本学新図書館では1500人の一般人を世話しているが、婦女4名がその場で強姦され、2名が連行されて強姦後に釈放された。3名は連行されたま ま戻らず、1名は連れていかれたが大使館近くの貴軍憲兵によって釈放された。彼ら兵士の行いは、被害者の家族、隣人 および市内のこの地区すべての中国人に苦痛と恐怖とをもたらした。今朝、私は安全区内の他の地区で百以上も同様の事件が起きている旨の報告を受けた。学外の件については今私の関係するものではありませんが、ただ貴館に隣接する本学での上記の問題が、兵士による強奪と強姦という民衆の大きな苦難のごとく一例 にすぎないのを示すために言及したのです。

 「同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言」には
 「南京に行く途中、銀行があり、金庫を爆破したら中国の紙幣がどっさり出てきたというので、それで飯盒炊さんした兵隊もいました」と証言があるが、
 「中国紙幣を焚きつけするというのは作り話かと思いましたが、本当なんですね」との言葉に
 「本当です。金庫を爆破したというのは見てませんが、焚きつけにするのは見ました。租界に持っていけば通用するのにね。常州だったと思います」と答えている。「略奪」の常態化をあらわしている証言ではないかと思う。

○「浅井さんご自身がご覧になったことは?
 「中国人が列になってぞろぞろ引かれていくのは見ています。その姿が眼に焼きついています。その中には軍服を脱ぎ捨て、便衣に着がえている者や、難民となって、南京にのがれてきた農民もいたと思います。手首が黒く焼けていたのは敗残兵として引っぱられていったと思います
 連行され処刑された中国人の中に、南京に逃れてきた農民が含まれているということも見逃すことができない。

○捕虜の連行とか城内の様子は撮らなかったのですか
 「陥落や城内に入った直後はいろいろ撮りましたが、一段落してからは撮りませんでした。撮っても仕事になりませんから。…」
○虐殺の現場はどの社も撮ってませんか。
 「誰も撮ってないでしょう。記録はないと思います。私は死体は撮りたくないから、現場を見ても撮らなかったでしょう。ずっと戦場にいましたが、戦闘は撮っても死体は撮ったことがありません。それからやらせを一度もやったことがありません。南京でも占領して万歳している写真というのはやらせです。占領した瞬間というのは戦闘の続きですから万歳どころじゃないですよ。…」
 捕虜の連行を写真に撮っても仕事にならないので撮らなかったというのは、当時の従軍カメラマンの立場をよく示していると思う。たとえ撮っても決して報道されることはないからであろう。また、国際法違反の処刑場面を撮るなどということも同様なのだと思う。日本軍の検閲を通過し報道されることは考えられないことなのだと思う。「森博カメラマンの証言のなかにも、「われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われていましたから撮りませんでした」と、同じような証言があった。

○戦後、松井大将を撮る訳ですが、松井大将は死刑になりますね。
 「私は日本を代表して最初から東京裁判を撮っていました。南京のことが起訴状にあった時、それは当然だと思いましたよ。ある程度はありましたからね。また、ピラミッドの頂点だった松井大将は仕方ないと思います。ただ、20万人もの虐殺といっていますが、数の面ではそうは思いません。南京の人口の大半がいなくなる数ですから」
 浅井カメラマンが、松井大将の処刑は仕方ないと受け止めていることも、南京の問題を考える上で重要だと思う。

 「同盟通信・細波孝無電技師の証言」
○南京では虐殺があったと言われていますが、ご覧になっていますか。
 「言っていいですか」
○ぜひ、
 「虐殺なのかどうか。誰にも言ったことがないのです。揚子江のところに下関という広い場所があってね」
○南京の船着き場ですね?
 「そうです。城門を出た河川敷の土手のところです。ここには塹壕やトーチカがありました。揚子江に向かっていますが、中には逆に南京に向いているトートかもありました。コンクリート製で、真四角の水車小屋のようなものです。中国では守りのため、重要なところにはこういうのが一つ二つはありました。
 中国軍はここで戦おうとしたんでしょうが、結局ここから逃げてしまいました。蒋介石なども下関から逃げたようです。私が下関に行った時、ここでやったらしく、まだ家具などが燃えていました」
○やっているのを見たのですか。
 「いや、やったすぐ後のことだと思います。やっているところは見せないでしょうからね。トーチカに捕虜を詰め込んで焼き殺したと思います。トーチカの銃眼から苦しそうに息をしてこちらを見ている中国兵がいたことが、今も印象に残っています。苦しそうに鼻をふんふんいわせてね」
○トーチカには何人位いましたか。
 「2、30人は入るんじゃないかな。家具などが詰めてありました。そういうのが三つか四つありました。たぶん焼いたと思います。銃弾はもったいないので、家具にガソリンをかけて焼いたのだと思いますよ。トーチカの中だけでなく、揚子江岸にも死体はありました。中には針金で縛って繋いでたのもありました」
○死体の数はどの位ですか。
 「さあ、どの位か、百人位でしょうか。湯山の捕虜をやったのでしょう」
○湯山から連れてきてですか。
 「たぶんそうだと思います。私が南京に入ってから捕虜が連れていかれるのを見ましたから。あれが湯山の捕虜だと思います」
 細波孝無電技師の証言も、南京大虐殺の一部を目撃したという証言であると思う。揚子江岸の下関というところは、いろいろな人の証言にたびたび出てくる。虐殺現場のひとつに間違いないと思う。多数の死体が目撃されているのに、下関での中国兵との戦闘の証言や記録は目にしないからである。
細波無電技師が何日か南京にいて、上海に戻るために湯山を通った時には捕虜はいなかったというのも、虐殺されたということではないかと思われる。

新愛知新聞の南正義記者は、「捕虜をやったと言われていますが…」と聞かれて、
 「その時『決戦に捕虜なし』という言葉があって、捕虜という考え方は日本軍にはなかたと思います。」と答えている。

福岡日々新聞・三苫幹之介記者は、「揚子江を下られたのですね」との著者の言葉に、 
 「揚子江を下る途中、川の中の一つの島にどうやら部隊がいるようでしたから、艇を着けてもらいました。地図を按ずると、左岸ちかくに鳥江という地名がのっています。楚の項羽のの故事で名高いあの土地です
 川中島には右翼の有名な橋本欣五郎大佐(野戦重砲兵第十三連隊長)が陣地を構築していました。『上からの命令があったので、今しがた英艦をやっつけてやった』と、昂然たる態度でした」と返しているが、この証言は、一般的に言われている「英艦砲撃」が誤爆ではないことを物語っている。上からの命令の真偽はわからないが、誤爆ではなく、意図的に砲撃したということである。「日本軍が中国籍の船と誤認して砲撃」というのは、事実に反するいいわけであることを示しているといえる。

都新聞・小池秋羊記者の証言には、下記のような著者とのやりとりがある。
○その時の南京の様子はどうでした?
 「その時のことだと思いますが、難民区に行くと、補助憲兵というのがいて、難民区に潜入している敗残兵を連れだしていました。連れていかれる中国人の親か兄弟かが、兵隊でない、と補助憲兵にすがっているのもいましたが、その光景はまともに見ることができませんでした。それでも補助憲兵は連れていったようです」
○何人位の敗残兵をつれていったのですか。
 「10人か20人かにまとめて連れていきました。たぶん射殺したと思います」
○どこでですか。
 「直接見ていませんが、郊外に連れていって射殺したのではないでしょうか」
 ・・・
○先ほどの話では、外人記者に会ったということですが…。
 「彼らは一人が一台ずつ車を持ってて、城内の掃蕩作戦や火事の現場を撮ったり、難民区にも入って写真を撮ってました。あまり頻繁に撮っているのでびっくりしたほどです。
 私は一度、十六師団の城内掃蕩作戦で兵隊が略奪しているのを見ていますし、食べ物の掠奪は上が黙認していたようなので、これらが記事になっては大変だと思い、このことをたぶん、馬淵(逸雄)中佐)さんだったと思いますが、報告に行きました。すると、すぐに調べると言って、各城門で外人記者をおさえようとしたらしいのです。しかし、実際やろうとした時には記者がもう上海に帰ったあとでした。それが『シャンハイ・イブニング・ポスト』とか『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』に記事になって出ました。先ほど言ったように『ニューヨーク・タイムズ』などの海外の新聞にも出た訳です」
○  『シャンハイ・イブニング・ポスト』や『ノースチャイナ・デイリー・ニューズ』などを小池さん自身ごらんになったのですか。
 「ええ、上海に戻ってから見ました。そういった中立国系の」新聞だけでなく、中国新聞にも「出ていました」
○それはどういう内容でした。
 「はっきり覚えていませんが、日本軍が南京で掠奪をやったとかそういうものだったと思います」 

 この証言で、都新聞の小池記者が従軍記者として、日本軍の立場で仕事をしていたことがわかる。事実としての日本兵の掠奪を、海外で報道されないように報告に行っているからである。記者でありながら、自ら軍の報道統制に協力しているのである。それは、彼自身が日本軍に不都合なことは決して記事にしないということだと思う。したがって、当時の日本の国民が、南京事件を知らなくても不思議はないということであろう。

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)NO3

2015年09月14日 | 国際・政治

  「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1では、櫻井よしこ氏の「推薦のことば」と著者の「あとがき」について、同意できない部分とその理由をあげ、NO2では、著者の「日本人48人の証言」の受け止め方および証言者自身の南京事件のとらえ方で同意できない部分やその理由をあげた。
 今回も同様に、「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からいくつかの証言を取り上げ、その問題点を考えたい。
 証言者の中には、著者の意図に反し、はっきりと”「虐殺」を目撃した”という人もいる。たしかにそれは「30万人の大虐殺」ではないが、「南京大虐殺」を裏付けるものの一つだと思う。
 また、証言者が「虐殺」とはとらえていないが、明らかに「虐殺」と判断すべき証言も多い。捕虜や難民の殺害証言の大部分は、「それが戦争だ、戦場だ」などといって正当化できるものではないのである。そういう意味で、「南京大虐殺」を否定するために集めた証言が、逆に、「南京大虐殺」を裏付けるものとなっている側面を見逃してはならないと思う。(○印のある文章は著者の質問、「 」のついた文章は証言者のものである)
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                                 二 毎日新聞
東京日日新聞・鈴木二郎記者の証言
 鈴木記者は浅海記者とともに「百人斬り競争」の記事を書いた一人である。
 「中山門上での虐殺以外に直接ご覧になった虐殺はどんなものですか」との質問に
 「中山門のほか、励志社の入口で敗残兵をつるはしで殺した場面、それと場所は覚えていないが、殺す時はこうするんだと伍長がほかの兵に言いながら中国兵を殺す場面を、見ています。直接自分で見たのはこの3カ所です。
と答えている。虐殺を見たという証言である。また、「塹壕には焼けただれた死体があったと書いていますが…」と聞かれて 
 「それは虐殺の跡とでも言うものです。虐殺らしき跡は、光華門での累々とした死体もそうですが、それと下関での死体です。」
と答えており、「下関の死体は千人以上はありました」とか「ガソリンをかけて焼いてありました」とも証言している。そして、「南京でどの位の虐殺があったと思いますか」という質問には
 「自分が見たことではないから言えない、わかりません
と答え、さらに、「巷間20万人とも30万人とも言われていますが…。」との著者の重ねての質問に
 「全体を知っている人は日本人では誰もいないのではないかと思います。せいぜい部隊長が自分の部隊が掃除した兵の数を知っているくらいでしょう。今、部隊長に聞いても人数なんか言わないでしょう…」
と答えている。その通りだと思う。
 こうした証言を無視して、「東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ」というのは、いかがなものかと思う。また「百人斬り競争は創作ではないかと言う人がいますが…」、との質問には、はっきりと
創作特電はありませんよ。…」
とはっきり答えている。記者は直接見てはいないので、「百人斬り競争」に、軍国美談を意識したフィクションの部分が含まれている可能性は大きいが、記者の創作ではないことがわかるのではないかと思う。
 また、鈴木記者が南京に行く途中、浅海記者から2人の少尉に出会ったら、何人斬ったか数を聞いてくれと頼まれたという話でも、浅海記者の創作ではないことがわかる。したがって、実際は、「捕虜虐殺」の競争であったのではないかと思う。

                               三 読売新聞
報知新聞・二村次郎カメラマンの証言
○南京虐殺ということが言われていますが… 
 「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいぐらいです。逆に人が書いたものを見たりしています。アウシュビッツの様に殺す場所があるわけでもないからね。私が虐殺の話を聞いたのは、戦後、東京裁判の時です。それで思い出すのは、南京に入った時、城内に大きい穴があったことです。
○それはいつ頃のことですか。
 「南京城に入ってすぐです。長方形で、長さが2、30メートル位ありました。深さも1メートル以上あり、掘ったばかりの穴でした。大きい穴だったから住宅の密集地でなく、野原かそういう所だったと思います」
○日本兵が掘ったのですか、中国人が掘ったのですか。
 「それは知りません。南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが、本当のことは知りません」
○あとで見に行ったりしませんでしたか。
 「その時は別に気にも止めていなかったので見にいったりしません。戦後、南京虐殺と言われて、思い出したくらいです」
 このやり取りの中で、二村カメラマンが、城内にあった大きな穴を「南京虐殺があったと言われていたので、その穴が関係あるのではないかと思っていましたが…」というところが重要だと思う。穴の前に並ばせて、捕虜を刺殺したり、銃殺したりした証言が多くあるからである。

捕虜をやったという話がありますが…。
 「数百人の捕虜が数珠つなぎになって連れて行かれるのは見たことがあります。たしか昼でした」
との証言も、多くの証言にあるように、捕虜虐殺のための連行であると考えられるからである。

○捕虜を見て、社で話題にしたりしませんでしたか。
 「捕虜といっても、戦いの途中、捕虜の1人や2人斬るのは見たことがあります。皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れていく訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。南京で捕まえた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。あの時捕虜を連れて行った兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います
 当時の日本軍にとっては、「捕虜は殺すしかなかったと思います」との証言を見逃すことができない。捕虜の面倒を見るような余裕はなかったし、第一食糧が徹底的に不足していた。しかし、大事なのは、捕虜虐殺は国際法違反であり、ハーグ陸戦法規に反するということである。無茶な戦争を押し進めた作戦計画の結果、当時の日本軍は、捕虜を殺さざるを得なくなったということであって、いかに戦場とはいえ、許されることではないのである。そのことを踏まえないで、捕虜の虐殺が当然であるかのようにいうのは、無茶な日本の侵略戦争を肯定するもので、先の大戦に関する総括も反省もない、ということではないかと思う。
 二村カメラマンは「捕虜の1人や2人斬るのは見たことがあります」と簡単に言っているが、その捕虜がいかにして捕虜になったのか、また、戦う意志があったのかどうか、殺さなければならない理由は何であったのか、というようなことを全く問うことなく、捕虜の殺害を受け入れてしまっている。
 繰り返しになるが、いかに戦場とはいえ、むやみやたらに人を殺すことが許されるわけではないことを忘れてはならないと思う。
 ・・・
○南京ではどこに行っていますか。
 「揚子江にいきましたが、私が見たのは1人か2人の死体でした。故物保存所にも行きました。大きい建物で内部はちらかっていました。中国兵が略奪したのか、日本兵が荒らしたのか、めぼしいものはありませんでした。
 今でも写真が残っているのが中山陵に行った時のもので、報知新聞の連中何人かで行きました。百段もの石段があるところで一日がかりでした。悪い日本兵がいて、紙屑を陵の部屋に投げ込み燃やしているのがいたので、特派員一同水を汲みに行った記憶があります。
 また、国民政府の建物に行って、日の丸があがっているのも撮りました」
 この証言の中にも、確かめるべき「略奪」や「放火」の問題がある。日本兵の略奪や放火に関する多くの証言があるからである。

報知新聞・田口利介記者の証言
 田口記者は、後に海軍省普及部に入り、新聞発表、検閲などの仕事にたずさわり、また、昭和18年には、ハルピンで特務機関の仕事にもついていて、シベリア抑留を経験しているという。 
○南京虐殺があったといわれていましすが…。
 「当時聞いたこともなかったし、話題になったこともありません」
○第十六師団の軍紀はどうでした?
 「私が見た限り特にどうということはありませんでした。ただ、南京に向かう途中でしたが、第十六師団の曹長で、百人斬りをするんだと言っていたのがいました。南京まで百人斬ったかどうか知りませんけど、戦友の仇をとるんだといって、中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣の者もいたと言います」
○周りの人は曹長を見てどう思っていたのでしょうか。
 「誰もいいことだとは思っていないでしょう。私もそれを見て、戦争では殺すか殺されるかだと思いました。曹長は仇をとることに夢中でしたが、気の小さい人だと思います」
○さきほどの長参謀がいろいろ命令したと言われていますが…。
 「長参謀には、一度会ったきりですからよくわかりませんが、ただ、私のような海軍記者から見ると、一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね。佐藤賢了(中将)、富永恭次(中将)はその典型で、長勇もそんな一人だと思いますよ」 
 田口利介記者の証言にも確認すべき内容のものがある。「百人斬り」もさることながら、「戦友の仇をとるんだといって、中国人と見ると必ず銃剣でやっていて、殺した中には兵隊じゃない便衣の者もいたと言います」という証言である。こうしたことが、当時の日本軍では許されていたということをしっかり踏まえる必要があると思う。
 また、「一般に陸軍の参謀は命令違反は平気ですね」という証言も、当時の、日本軍の実態をよくあらわしていると思う。長勇参謀は、捕らえた捕虜をどうするか問われて「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、後で松井石根中支派遣軍司令官に叱られたことで知られている人である。

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO2

2015年09月08日 | 国際・政治

  「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議ありNO1では、櫻井よしこ氏の「推薦のことば」と、著者の考え方が示された「あとがき」について、同意できない部分やその理由をあげた。

 同様に、著者の「日本人48人の証言」の受け止め方および証言者自身の南京事件のとらえ方にも、同意できない部分があった。その理由を示すにあたって引いた証言は「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)からの抜粋である。
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                             第一章 ジャーナリストの見た南京
                                 一 朝日新聞
大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言
 「検閲の実態はどんなものですか」という著者の質問に答えて
 「検閲のはっきりした基準というものはなく、とにかく軍のこれからの動きがわかるような記事はだめでした。私はその年の4月まで新京支局にいて関東軍の検閲をけいけんしていましたから軍の検閲は大体わかっており、私の持っていくものはほとんどフリーパスでした
と言っている。したがって、従軍記者は軍の検閲なしに記事を送ることが出来なかったという事実が確認できる。そして、さらに重要なのは、「南京の実態」がきちんと取材され報道されていたのかどうかということだと思う。でも、そのことには触れていない。

 また、「南京の様子はどうでした」との質問に
 「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何カ所も煙が上がっているのが見えました
と答えている。山本記者は陸軍の飛行機で上海から南京に飛び、入城式の終わった午後南京に入ったという。だとすれば、中国兵はすでに撤退しており、逃げ遅れた中国兵も武器を捨ててほとんど南京難民区に入っていた。「城内には何カ所も煙が上がっていた」ということはどういうことか。放火による火災ではないのか、と思う。

 「上海や杭州でも南京虐殺は聞いていませんか」との質問には
 「徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和13年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。…」
と答えている。当時、南京事件は「外字新聞」で報道されていたということである。どんな記事が、どのような方法で、どんな「外字新聞」に掲載されたのか、著者は確かめることをしないのだろうか、と思う。

・東京朝日新聞・足立和雄記者の証言
南京で大虐殺があったと言われていますが、どんな「ことをご覧になっていますか」との質問に答えて
 「犠牲が全然なかったとは言えない。南京に入った翌日だったから、14日だと思うが日本の軍隊が数十人の中国人を射っているのを見た。塹壕を掘ってその前に並ばせて機関銃で射った。場所ははっきりしないが難民区ではなかった」
 と答えている。続いて「ご覧になって、その時どう感じました」との質問には
「残念だ、とりかえしのつかぬことをした、と思いました。とにかくこれで日本は支那に勝てないと思いました」
と答えている。そして「なぜ勝てないと…」の質問に
 「中国の婦女子の見ている前で、1人でも2人でも市民の見ている前でやった。これでは日本は支那に勝てないと思いました。支那人の怨みをかったし、道義的にもう何も言えないと思いました
と答えている。これが虐殺の証言でなくてなんであろう、と思う。「塹壕を掘ってその前に並ばせた」中国兵は、多分逃げられないように縛り上げられていたであろう。抵抗不可能な中国兵を、並ばせて機関銃で撃ち殺すことが、戦闘行為によるものであるとすることが、国際的に認められるであろうか。でも、著者は、すでに前項で触れたように「あとがき」に
「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない
と書いている。確かに足立記者が見たのは「30万人の大虐殺」ではない。しかし、同様の虐殺が繰り返されたことは、様々な記録や証言によって明らかなのである。

                                         二 毎日新聞

・東京日日新聞・金沢喜雄カメラマンの証言
 著者の「死体は全然なかったのですか」という質問に金沢カメラマンは、
いや。敗残兵がたくさんいましたし、戦争だから撃ち殺したり、殺して川に流したことはあるでしょう。それは、南京へ行く途中、クリークで何度も見ている死体と同じですよ。あれだけの戦場で、しかも完全なる包囲作戦をとっていますから、死体があり、川に死体が流れているのは当たり前です。殲滅するためにわざわざ包囲作戦をとったのですよ。
 また、南京城内も戦場になったところですから、難民が撃たれて死んでいるのは当然です。そういうことはあったと思います。それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です
 この証言には、意識的か無意識的かはわからないが、日本軍の行為を正当化しようとする考えがあるのではないかと思う。「死体があり、川に死体が流れている」のは当たり前」だろうか。「完全なる包囲作戦」による殲滅の理由は何だというのだろうか。「難民が撃たれて死んでいるのは当然です」というのはどういうことだろうか。戦火を逃れて避難する難民が撃たれて死んでいるのは当然なのだろうか。軍の行為に何の疑問も抱かない受け止め方ではないかと思うのである。

 また、「それが戦争です。それを虐殺というなら、戦争はすべて虐殺になりますし、それは戦場を知らない人の話です」というけれど、それは違うと思う。
 戦争というのは武器を所持して殺し合うことで、投降兵や武器を捨て戦う意志を持たない敗残兵、また、戦火を逃れて避難している難民を殺すことは、国際法で禁じられた虐殺なのだと思う。したがって彼らの死は戦死ではない。戦って死んだのではないのだと思う。

 投降兵や武器を持たず戦う意志のない敗残兵、難民の殺害は、戦場だから許されるわけではない。「それは戦場を知らない人の話です」という証言は問題だと思う。国際法など関係がないといっているのに等しい。
 著者の聞き取り調査は貴重な取り組みであるとは思うが、戦闘行為による殺害と虐殺をごちゃまぜしたようなこうした証言を集めても、「南京大虐殺」をなかったことにはできないと思う。

東京日日新聞・佐藤振寿カメラマンの証言
 彼は「百人斬り競争」の件で、下記のように証言している。
 「常州では百人斬りの向井少尉と野田少尉の2人の写真を撮りました。
 煙草を持っていないかという話になって、私は上海を出る時、ルビークインを百箱ほど買ってリュックのあちこちに入れていましたので、これを数個やったら喜んで、話がはずみ、あとは浅海記者がいろいろ聞いていました。私は疑問だったのでどうやって斬った人数を確認するのだと聞いたら、野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数えると言っていました。よく聞けば、野田は大隊副官だから、中国兵を斬るような白兵戦では作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇はありません。向井も歩兵砲の小隊長だから、戦闘中は距離を測ったり射撃命令を出したり、百人斬りなんてできないのは明らかです。
 戦後、浅海記者にばったり会ったら、東京裁判で、中国の検事から百人斬りの証言を求められている。佐藤もそのうち呼び出しがくるぞ、と言っていましたが、私には呼び出しが来ませんでした。浅海が、あの事件はフィクションですと一言はっきり言えばよかったのですが、彼は早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だし、何か考えることがあったんでしょう。それで2人が銃殺刑になってしまいました
 この証言で、実際に向井少尉と野田少尉は、記者に「百人斬り競争」の話をしており、「百人斬り競争」の記事は、浅海記者の作り話ではないということがわかる。また、2人とも白兵戦で日本刀を振り回し、人を斬る立場になかったこともわかる。さらに、佐藤カメラマンの質問に、2人のどちらが答えたのかわからないが、数え方について「野田の方の当番兵が向井が斬った人数を数え、野田の方は向井の部下が数える」と答えている。もし「百人斬り競争」がフィクションなら、佐藤カメラマンに嘘をついたということである。責任ある立場の少尉が、何の理由があって自国の従軍カメラマンに嘘をつくのであろうか。また、斬った人数を数えることができたのは、投降兵や武器を持たない敗残兵などの捕虜を並ばせて斬ったことの証ではないかと思う。

 野田毅少尉は南京占領後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。
 ”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”(志々目彰・月刊誌『中国』1971年12月号ー南京大虐殺否定論の13のウソより))
これが真実に近く、中国兵を塹壕前に並ばせ刺殺した「捕虜虐殺」の一例だろうと思う。

 また、「大宅壮一氏(評論家)が当時『改造』に、佐藤さんと会ったと書いていますが…」との質問に                                                                         
 「その頃、大宅壮一は学芸部の社友でしたから、南京には準社員として来ていました。そこで私は大宅を中山文化教育館に連れてきたのです。彼はどこで入手したのか中国の古い美術品を持っていましてね。大宅だけではなく、記者にもそういう人がいました。その頃は『十割引で買ってきた』という言い方があってね、中国には古い仏像とかがありますから、そういうものを略奪する人がよくいました
と、略奪が相当あったことを裏付ける証言をしていることも見逃してはならないと思う。『十割引で買ってきた』というは、お金を払わず手に入れたということで、略奪してきたということだろうと思う。
 また、
「… それから何人かで車で城内をまわりました。難民区に行くと、中国人が出て、英語で話しかけてきました。われわれの服装を見て、兵隊でないとわかって話しかけてきたのでしょうが、日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ、と言っていました。この時、難民区の奥が丘になっていて、その丘の上の洋館には日の丸があがっていました。全体としては落ち着いていました」  
と証言してもいるが、この証言も、武器を持たない難民区の中国人殺害を裏付けるものだと思う。

さらに
「…14日のことだと思いますが、中山路から城内に向かって進んだ左側に蒋介石直系の八十八師の司令部がありました。飛行場の手前です。建物には八十八師の看板がかけてありました。ここで、日本兵が銃剣で中国兵を殺していました。敗残兵の整理でしょう。これは戦闘行為の続きだと思います。…」
とか
16日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主の者とか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けている者とか、はっきりと兵士とわかるものを摘出していました。髪の長い中国人はみな市民とみなされていました。
との証言をしているが、戦う意志があったのかどうか、武器を所持していたのかどうか、疑わしい。それを戦闘行為の続きだと簡単に言ってしまうところに、問題があると思う。
そして、 難民区から摘出した中山通りいっぱいの「便衣隊」と呼ぶ中国人は、その後どうなったのか、確かめることをしていない。
 難民区国際委員会のメンバーは、武装解除して難民区に入れた中国兵が殺されているようだと日本大使館や関係機関に訴えているし、前に抜粋した文章のなかにも、「日本の兵隊に難民区の人を殺さないように言ってくれ」というのがあった。第一、難民区には「便衣隊」と呼べるような中国兵の組織などなかったし、日本軍による便衣隊相手の戦いなどもなかったはずである。
難民区国際委員会のメンバーは、日本軍に抵抗する中国兵がいないのに、なぜ、日本軍は戦う意志なく、武器を捨てた中国兵を連行するのか、と訴えていたのである。

 佐藤カメラマンは、浅海記者が早稲田で廖承志(初代中日友好協会会長)と同級だったから、「百人斬り競争」をフィクションだとは言えなかったかのように言い、だから、「2人が銃殺刑になってしまいました」と言っているが、それは、逆に彼の証言が、彼を取り巻く人に配慮せざるを得ない証言であることを感じさせる。
 それは、「戦場のことは平和になってから言っても無意味だと思います…」とか「戦場はそういうものです」というような言葉にも表れている。国際法、ハーグ陸戦法規は、戦場の野蛮な人殺しを防ぐための法規である。 むやみやたらに人を殺したり、残虐な方法で人を殺したり、また、不特定多数の人を殺すような武器の使用を禁じるハーグ陸戦法規は、戦場でこそ尊重されなければならないのだと思う。

 佐藤カメラマンは、著者が南京大虐殺について「直接見ていなくとも噂は聞いていませんか」との質問に
こういう噂を一度聞いたことがあります。なんでも鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃ったというのです。逃げ遅れた警備の日本兵も何人かやられたと聞きました。一個中隊くらいで3千人の捕虜を捕まえたというのですから、大変だったということです。もちろんその時は戦後言われている虐殺というのではなく、戦闘だと聞いていました。
 捕虜を捕まえても第一食べさせる食物があい、茶碗、鍋がない、日本兵ですら充分じゃなかったでしょうからね。私らも上海から連絡員の持ってくる米が待ち遠しい位でしたから
と証言している。この証言もおかしい。鎮江の方で捕まえた3千人の捕虜を下関の岸壁に並べて重機関銃で撃つことがなぜ戦闘行為なのか、与える食べ物がないから殺すことが戦闘行為と言えるのか。 当然のことながら、鎮江で捕えられた3千人の捕虜は、下関の岸壁まで連行されたのであり、武器など持ってはいないはずである。そして、逃げたり抵抗したりできないように縛り上げられていたであろう。でも、殺されるとわかれば、必死に逃れようとしたはずである。だから日本兵にも犠牲者が出たということではないか。それを戦闘行為というのは、日本軍による虐殺を、正当化しようとするものではないかと思う。

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「南京事件 日本人48人の証言」(阿羅健一)に異議あり NO1

2015年09月06日 | 国際・政治

 「南京事件 日本人48人の証言」阿羅健一(小学館文庫)には、ジャ-ナリストの櫻井よしこ氏が、下記のような「推薦のことば」を寄せている。(一部抜粋)
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 本書は、1937年当時の南京にいた軍人、ジャーナリスト、外交官など関係者の体験談を集めた第一級の資料である。いわゆる「南京事件」は、その呼び方すら今だ定まらないほど議論の分かれる問題だが、まずは、そのとき現地にいた人々の話を実際に聞くのが筋である。従って、本書をまとめた阿羅健一氏の手法は、ジャーナリズムという観点からみて、極めて基本に忠実なアプローチだといえる。
 一体、日本人は南京で何をしたのか、しなかったのか、そして何を見たのか。虐殺と言われるようなことは本当にあったのか。
 それらの結論は、本書を読めば自ずと見えてくる。
 ・・・
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 まず、この「推薦のことば」にひっかかった。
 櫻井氏は、南京事件当時、現地にいた日本の軍人、ジャーナリスト、外交官の証言が「第一級の資料」であるという。

 一般的に歴史を考察する上で手がかりになる「一次史料」は、その当時の生の史料、すなわち同時代史料のことである。そして、南京事件に関しては、様々な「一次史料」が存在する。「一次史料」と「第一級の資料」との関係を櫻井氏がどのように考えているのかはわからないが、「一次史料」と矛盾する「日本人48人の証言」を、そのまま「第一級の資料」などと言って、検証することなく、無批判に受け止めてしまっていいものであろうか、ということである。日本は南京事件の加害国なのである。

 「一次史料」として、日本には当時の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、部隊の戦闘詳報があり、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した文書などがある。「日本人48人の証言」とは矛盾する元日本兵の証言や手記なども多数ある。それらを無視し、日本人48人の証言によって「南京大虐殺」がなかったかのように主張すれば、日中の関係改善を一層難しくするのみならず、日本は国際的に信頼を失うことにもなると思う。

たとえば
第十軍、歩兵第六十六聯隊第一大隊『戦闘詳報』の12月13日には、
八、午後二時零分聯隊長ヨリ左ノ命令ヲ受ク
  イ、旅団命令ニヨリ捕虜ハ全部殺スヘシ
    其ノ方法ハ十数名ヲ捕縛シ逐次銃殺シテハ如何
  ロ、兵器ハ集積ノ上別ニ指示スル迄監視ヲ附シ置クヘシ
  ハ、聯隊ハ旅団命令ニ依リ主力ヲ以テ城内ヲ掃蕩中ナリ
    貴大隊ノ任務ハ前通リ
九、右命令ニ基キ兵器ハ第一第四中隊ニ命シ整理集積セシメ監視兵ヲ附ス
  午後3時30分各中隊長ヲ集メ捕虜ノ処分ニ附意見ノ交換ヲナシタル結果各中隊(第一第二第四中隊)ニ等分ニ分配シ監禁室ヨリ50名宛連レ出シ、第一中隊ハ路営地南方谷地第三中隊ハ路営  地西南方凹地第四中隊ハ露営地東南谷地附近ニ於テ刺殺セシムルコトヽセリ
  但シ監禁室ノ周囲ハ厳重ニ警戒兵ヲ配置シ連レ出ス際絶対ニ感知サレサル如ク注意ス
  各隊共ニ午後5時準備終リ刺殺ヲ開始シ午後7時30分刺殺ヲ終リ聯隊ニ報告ス
  第一中隊ハ当初ノ予定ヲ変更シテ一気ニ監禁シ焼カントシテ失敗セリ
  捕虜ハ観念シ恐レス軍刀ノ前ニ首ヲ差シ伸フルモノ銃剣ノ前ニ乗リ出シ従容トシ居ルモノアリタルモ中ニハ泣キ喚キ救助ヲ嘆願セルモノアリ特ニ隊長巡視ノ際ハ各所ニ其ノ声起レリ
 と書かれている。ここにある「監禁室ヨリ50名宛連レ出シ」指示された場所で、抵抗不可能な「捕虜」を刺殺するというのは、「交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦」などが規定されている国際法、「ハーグ陸戦法規」に反することだと思う。ハーグ陸戦法規には「俘虜(捕虜)は人道をもって取り扱うこと」と定められているのである。

 第十三師団、歩兵第六十五連隊第一大隊、遠藤重太郎輜重特務兵の陣中日記には
江陰を出発して5日目、鎮江に到着、鎮江は電気もついて居つた上海の様でした、其所へ一宿又進軍、烏龍山砲台に向つた所はやくも我が六十五の一中隊と仙台騎兵とで占領してしまつたので又南京北方の砲台に向つたら南京敗残兵が白旗をかゝげ掲げて来たので捕虜2万…”
とある。「白旗」を掲げて投降してきたのであり、はっきり「捕虜」と書いている。捕虜は保護されなければならないはずである。


 同じ歩兵第六十五連隊第一中隊の、伊藤喜八上等兵の陣中日記には、
”… 午後1時から南京入城式。
 夕方は大隊と一緒の処で四中隊で一泊した。
 その夜は敵のほりょ2万人ばかり銃殺した。”
とある。捕虜2万人を銃殺したと書いているのである。


 また、歩兵第六十五連隊第四中隊の宮本省吾少尉の陣中日記には
”警戒の厳重は益々加はりそれでも午前10時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも束の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后3時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。”
とある。捕虜3千を「射殺」したという記述である。

 また、歩兵第六十五連帯第八中隊、遠藤高明少尉の陣中日記には、
定刻起床、午前9時30分ヨリ1時間砲台見学ニ赴ク、午後零時30分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ同3時帰還ス、同所ニ於テ朝日記者横田氏ニ逢ヒ一般情勢ヲ聴ク、捕虜総数1万7千25名、夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一江岸ニ引出シI(第一大隊)ニ於テ射殺ス。
 1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ。”
と、食糧不足のため軍命によって射殺するのだと受け止めている記述がある。

 さらに、歩兵第六十五連隊第九中隊の、本間正勝二等兵の戦闘日誌には、
12月14日午前5時出発、体ノ工合ハ良カツタ、途中降参兵沢山アリ、中隊デモ500名余捕虜ス、聯隊デハ2万人余モ捕虜シタ
とか
12月17日、午前9時当聯隊ノ南京入城、軍ノ入城式アリ、中隊ノ半数ハ入城式ヘ半分ハ銃殺ニ行ク、今日1万5千名、午后11時マデカゝル、自分ハ休養ス、煙草2ケ渡、夜ハ小雪アリ
と捕虜1万5千名銃殺の記述がある。こうした捕虜殺害の記述や証言がほかにも多数残され、記録されているのである。

『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち 第十三師団山田支隊兵士人陣中日記』小野賢二・藤原彰・本多勝一編(大月書店)
『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて 元兵士102人の証言』松岡環編著者(社会評論社)
『─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行』ティンバーリイ原著 訳者不詳(評伝社)

 また、同書「あとがき」の、著者自身の文章に、私は、いくつかの点で同意できない。下記は、その「あとがき」全文であるが、同意できない点を箇条書きにしたい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                   あとがき      
 南京を歩きまわってあちこち見ていた日本人の証言から、どんなことが浮かびあがってくるであろう。
 南京でいわゆる「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。それが一つ。それから9年たち、南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった。
 つぎに、48人の証言から、市民や婦女子に対する虐殺などなかったことがわかる。とくに婦女子に対する暴虐は、誰も見ていないし、聞いてもいない。”
 南京にはいたるところに死体があり、道路が血でおおわれていた、としばしば語られるけれど、そのような南京は、48人の証言のなかにまったくない。東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事のようだ。

 一般市民に対してはそうであるけれど、しかし軍隊に対してはやや違うようだ。
 中国兵を処断している場面を何人かが見ている。中国兵を揚子江まで連れていって刺殺しているし、城内でも刺殺している。南京に向かう途中でも、そのような場面を見ている人がいる。揚子江岸にはのちのちまで処断された死体がたくさんあった。
 これから推察すると、南京事件と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう。
 といって、だからそれが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない。大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている。

 大多数ということは、そうでない人もいた。なかには、処断の場面を見て残酷だと感じ、行き過ぎだと見なす人がいた。しかし、そういう人でも、とくに話題にすることはなかったから、特別なこととは見なしていなかった。

 48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった。中島今朝吾師団長、長勇参謀のように、中国兵にきびしくあたるような言動の人もいたけれど、軍からそのような命令がでたわけではない。反対に、最高司令官松井石根大将は中国兵には人道的に対応するように命じている。

 中国軍は、証言にもあるように、降伏を拒否していた。日本軍と最後まで戦うつもりだったし、追い詰められても、降伏は認められていなかったから、捕虜になるという考えや気持ちもなかった。最後の段階になって中国兵は軍服を脱ぎ、市民の中に紛れこんだ。中国軍には戦時国際法が念頭になかった。

 一方、中国兵を処断した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた。中国兵の処断は戦闘の続きだ、と日本兵はみなしていたからである。のちに虐殺だと言われるとは思いもしなかっただろう。
 それでは、中国兵の処断は戦時国際法からどのようにみなされるのだろうか。
 現在の研究からみると、意見は分かれる。
 ひとつは、司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない、とみなす意見である。
 その反対に、最後まで中国兵を人道的に遇すべきだし、処断は戦時国際法違反だ、という見方がある。
 また、処断するにしても、軍律会議などを経るべきだった、そうすれば非難されることはなかっただろうという見方もある。
 ともあれ、南京事件と言われるものの実態は、中国兵の処断である。戦場であったから、悲惨な場面もいくらもあった。逃げようとする中国兵のなかには城壁から落ちて死んだものもいた。しかし、それは戦場ならどこにでもる光景である。48人の証言はそういったことを教えてくれる。

 2001年11月21日                       阿 羅 健 一
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○ まず、 ”「30万人の大虐殺」を見た人は、48人の中にひとりもいない。”という文章である。現実に「30万人の大虐殺」など見ることはできない。また、何を「虐殺」ととらえるのか、ということがきちんと確認されていないと、虐殺を見たかどうかの証言を集めたことにはならないと思う。
 著者はどういう意図があってか、捕虜の殺害(虐殺)を一貫して「処断」と表現し、処断は「合法」といいたいようであるが、「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」は捕虜はもちろん、捕虜の資格がなくても、「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」を禁じている。また、たとえ捕虜の資格がない便衣兵に敵対行為や有害行為があった場合でも、正当防衛でない限り、裁判の手続きなしに殺害することは許されない。軍事裁判などの手続きがなされなければならないということである。一般刑法が殺人を禁じているのと同じであろう。 

○ 著者は、日本軍が中国兵を揚子江岸で刺殺したり、銃殺したりしたことは認めている。
 ところが、”「南京事件」と言われているものは、中国兵に対する処断だったのであろう”ということで、「それが虐殺として責められるべきことかといえば、必ずしもそうではない」などという。「大騒ぎすることではない、それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」というのである。
「それが戦争だ、戦場だ」と大多数の証言者が見なしていても、それはハーグ陸戦法規に反する考え方であり、人命尊重の意識を欠く野蛮な考え方でろう。投降兵や自ら武器を捨てた敗残兵を縛り上げて、銃殺したり、刺殺したりすることは、責められるべきことであり、虐殺ととらえられても仕方がないことだと思う。

 では、なぜ、日本軍のいろいろな部隊が、何千、何万という捕虜を殺害(虐殺)したのか、また、なぜ、多くの日本兵が、捕虜の殺害(虐殺)に躊躇することなく加担したのか。私は、下記のような軍中央の方針や命令が、その重要な要素であると思う。

 陸支密第198号(昭和12年8月5日)次官ヨリ駐屯軍参謀長宛(飛行便)「交戦法規ノ適用ニ関スル件」「今次事変ニ関シ交戦法規ノ問題ニ関シテハ左記ニ準拠スルモノトス」として

その一で
現下ノ情勢ニ於テ帝国ハ対支全面戦争ヲ為シアラサルヲ以テ「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」ノ具体的事項ヲ悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラス
とし、その四で
軍ノ本件ニ関スル行動ノ準拠前述ノ如シト雖帝国カ常ニ人類ノ平和ヲ愛好シ戦闘ニ伴フ惨害ヲ極力減殺センコトヲ顧念シアルモノナルカ故ニ此等ノ目的ニ副フ如ク前述「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約其ノ他交戦法規ニ関スル諸条約」中害敵手段ノ選用等ニ関シ之カ規定ヲ努メテ尊重スヘク又帝国現下ノ国策ハ努メテ日支全面戦争ニ陥ルヲ避ケントスルニ在ルヲ以テ日支全面戦争ヲ相手側ニ先ンシテ決心セリト見ラルゝカ如キ言動(例ヘハ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用、或ハ軍自ラ交戦法規ヲ其ノ儘適用セリト公称シ其ノ他必要已ムヲ得サルニ非サルニ諸外国ノ神経ヲ刺戟スルカ如キ言動)ハ努メテ之ヲ避ケ又現地ニ於ケル外国人ノ生命、財産ノ保護、駐屯外国軍隊ニ対スル応待等ニ関シテハ勉メテ適法的ニ処理シ特ニ其ノ財産等ノ保護ニ当リテハ努メテ外国人特ニ外交官憲等ノ申出ヲ待テ之ヲ行フ等要ラサル疑惑ヲ招カサルノ用意ヲ必要トスヘシ”
と明示している。

 日本は、国際法の適用を逃れるため敢えて宣戦布告をせず他国を攻撃する方針をとり、したがって「戦争」という言葉を使わず、「事件」「事変」という名称で「戦争」を繰り返したのである。北清事件、満州事変、上海事変、支那事変、ノモンハン事件等々。事件や事変であれば、ハーグ陸戦法規などの国際法に拘束されないと考えていたので、日本軍は、戦場で戦う将兵に国際法をきちんと教えることをしなかった。だから、日本兵は、戦友を殺された憎しみに差別感も加わって、「捕虜」を虐待したり、拷問したり、殺したりすることにあまり抵抗を感じなくなっていったということではないかと思う。捕虜の虐殺が国際法、ハーグ陸戦法規に反する犯罪であるという自覚がなかったから、陣中日誌などにも「捕虜兵約3千を揚子江岸に引率し之を射殺す」と正直に記述したのだと思う。
 また、食糧などの補給がほとんどない日本軍に、捕虜を養う余裕がなく、第十六師団、中島今朝吾師団長が日記に書いたように、「…大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共千五千一万ノ群集トナレバ……」というような方針を取らざるを得なかったことも見逃すことはできないと思う。前述の「(捕虜には)1日2合宛給養スルニ百俵ヲ要シ兵自身徴発ニヨリ給養シ居ル今日到底不可能ニシテ軍ヨリ適当ニ処分スベシノ命令アリタルモノノ如シ」という遠藤少尉の陣中日記と符合するのである。

 著者は「中国兵を処断(虐殺)した日本兵は、そのことを隠すこともしないし、なかには、ジャーナリストらにわざわざ処断の場面を見せようとするものもいた」と書いているが、それが事実だとすれば、それは、捕虜の処断(虐殺)が国際法違反であるという自覚がなかったからではないかということである。

 戦場の日本兵が「捕虜」と受け止めていても、軍中央は戦争ではなく「日支事変」だから、拘束した中国兵は「捕虜」ではなく、ハーグ陸戦法規の対象ではないとして、捕虜の殺害(虐殺)に何の指示も命令もせず放置したのではないのか、と思う。

○ 著者は、南京事件当時の現地最高司令官松井大将は「中国兵には人道的に対応するように命じている」というが、その松井大将自身が「支那事変日誌」に、軍紀・風紀の乱れについて

”…我軍ノ南京入城ニ当リ幾多我軍ノ暴行掠奪事件ヲ惹起シ、皇軍ノ威徳ヲ傷クルコト尠少ナラサルニ至レルヤ。是レ思フニ
一、上海上陸以来ノ悪戦苦闘カ著ク我将兵ノ敵愾心ヲ強烈ナラシメタルコト。
二、急劇迅速ナル追撃戦ニ当リ、我軍ノ給養其他ニ於ケル補給ノ不完全ナリシコト。
等 ニ起因スルモ又予始メ各部隊長ノ監督到ラサリシ責ヲ免ル能ハス。”
と書いていることを見逃してはならないと思う。「人道的に対応するように命じている」にもかかわらず、実際は人道的な対応がなされなかったということである。だから、「48人の証言者のなかには軍人がいた。彼らの証言をみると、中国兵をとくに虐待しようとしていた人はいなかった」というが、実態は虐殺・虐待が日常化していたといえる。

○ 著者は「中国軍は降伏を拒否し、降伏を認めていなかったから、中国兵は捕虜になるという考えや気持ちもなかった」というようなことを書いているが、日本人である著者に、どうしてそんな断定ができるのだろうか。何か記録や証言があるのだろうか。では、なぜ中国兵は集団的に投降したのだろうか。その理由を説明しなければならないと思う。

 投降兵や武器を持たない中国兵を縛り上げ、並ばせて銃殺したり、刺突訓練で初年兵に突き殺させたり、首を切り落としてそのまま埋めたりしたことを、「処断」などと称して、合法とすることはできないと私は思う。また、中国兵と疑われた民間人が多数殺害されたという証言も多い。そうした事実は、48人の証言だけで、なかったことにできるほど簡単なことではないし、「それが戦争だ、戦場だ、と大多数の証言者は見なしている」などということで正当化できることでもないと思う。

○ 「南京での暴虐が東京裁判で言われたとき、ほとんどの人にとっては、それがまったくの寝耳に水だった」として、南京事件が東京裁判でのでっちあげであるかのように主張するのも、当時の日本軍の「情報統制」を考慮しないものであると思う。戦後、「大本営発表」がウソの代名詞のようになったことを忘れてはならない。「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」で、著者ティンバーリイは、「日本側の報道を見よ」と題して
日本軍隊が南京を占領してから後の状況は日本紙にはほとんど登載されず、あるいは全然何も載せられなかったと言えるかも知れない。日本で出版された英字紙 を見ても、日本軍の南京やその他都市におけるいろんな暴行は全然痕跡すら見出されない。日本紙は南京を、平和な静かな地方として粉飾しようと考えていたのである
と指摘し、当時の日本の報道をそのまま掲載している。
 「東京裁判で語られたような悲惨なことは架空の出来事」でないことははっきりしている。南京難民区国際委員会の関係者が、連日、日本大使館や関係機関に宛てて出した多くの暴行報告や請願の文書および当時の海外報道を見れば分かることである。

 「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」に違反する日本軍の投降兵や武器を捨てた敗残兵などの「捕虜」の殺害(虐殺)は、著者のいうような戦闘行為による殺害ではない。
 ハーグ陸戦法規の、第一款 第一章、交戦者の資格の第1条には、

戦争の法規、権利、義務は正規軍にのみ適用されるものではなく、下記条件を満たす民兵、義勇兵にも適用される」

とあり、その第二款、第一章、第23条には「特別の条約により規定された禁止事項のほか、特に禁止するものは以下の通り」として、

その中にはっきりと「兵器を捨て、または自衛手段が尽きて降伏を乞う敵兵を殺傷すること」と定めている。

 「白旗」を掲げて投降してきた中国兵を銃殺したり、刺殺したりすることを禁じているのである。したがって、上記のような記述や証言を、戦闘行為による殺害で合法と主張することは国際社会では通用しない。

○著者は「現在の研究からみると、意見は分かれる」として、「司令官が逃亡し、中国兵が軍服を脱いで武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった、日本が非難されるいわれはない」という主張に同調したいようであるが、この文章もひっかかる。
 南京難民区国際委員会は「南京市民に告げる書」の中で中国軍の「防衛軍司令長官が、本区域内の兵士および軍事施設を一律に速やかに撤去し、以後いっさい軍人を本区に入れないことを承諾いたしました」と伝え、また「日本軍は軍事施設がなく、軍事用 工事・建設がなく、駐屯兵がおらず、さらに軍事的利用地でないような場所に対してはすべて、爆撃する意図をけっして持っていない、それは当然のことである」と述べたことを明らかにして、「この区域内の人民は他のところの人民にくらべて、ずっと安全であることは間違いないと、信じています。したがって市民の皆さん、本難民区へおいでになってはいかがでしょうか!」と呼びかけている。
 南京安全区国際委員会の外国人委員たちは、南京城からの脱出に失敗し、難民区に逃げ込んでくる中国兵をそのまま難民区に入れることをしなかった。民間人保護のため、武器を捨てた中国兵を地区内の建物に収容したのである。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ段階で捕虜として遇されることはなくなった」というのは、どこの話であろうかと思う。「武器を隠し持ち市民に紛れこんだ」中国兵が、日本兵を殺害したことがあったであろうか。
 国際委員会の書簡文・第7号文書(1937年12月18日付国際委員会発日本大使館宛公信)に
難民区には既に武装を解除する中国兵なく従って便衣隊の襲撃事件も発生し居らざるにも鑑み各収容所私人住宅は既に幾回となく捜索せられ捜索はただ掠奪と姦淫の口実を与え居るを以て貴軍が若し常時憲兵を派し難民区を巡邏せしむれば中国兵はその身を容るる所なかるべし
とある。
 にもかかわらず、肩に背嚢を背負ったあとがあったり、その他、兵隊であったことを示すしるしのある男子を、一軒一軒しらみつぶしに捜索し、南京安全区に収容されていた中国兵の大部分を裁判なしに集団処刑したのである。
 
 前述の日本兵の陣中日記や手紙、陣中日誌、戦闘詳報、さらに、南京難民区国際委員会の関係者が、日本大使館や関係機関に宛てて出した文書、元日本兵の証言や手記などと符合する中国側の調査結果や中国関係者の証言をすべて無視して、「南京大虐殺」はなかったと主張することは、日本で受け入れられても、世界では通用しないのみならず、国際社会の信頼をうしなうことにもなると思う。
 日本は敗戦国であり、極東国際軍事裁判や南京軍事法廷などで、虐殺などの加害責任を問われ、関係者が処刑されている。したがって加害者側である日本の関係者の証言が真実であると主張するためには、被害者側の証言や資料もきちんと踏まえ、矛盾する内容はきちんと検証しなければならないと思う。一方的な主張では、国際社会では受け入れられないと思うのである。そして、南京大虐殺についての事実の究明には、どうしても共同研究の姿勢が欠かせないとも思う。

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