真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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油山事件 と左田野修

2016年07月12日 | 国際・政治

 陶磁器の町、岐阜県多治見市で、戦後3年半にわたり身を潜め逃亡生活を送った戦犯、佐田野修。彼は、長崎に原子爆弾が投下された翌日、射手園少佐に米兵捕虜の斬首を命じられ実行したことを、手記に書き残しています。

 『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)の著者小林弘忠氏は、そのあとがきに、「戦犯たちが、都合の悪い戦中戦後のことはほとんど押し黙ったままでいるのに、すべて自分をさらけ出した手記をしたためていたのは、斬首したアメリカ兵への深い哀惜と、逃亡せずに死刑判決まで受けた同期生に対する謝罪があったと思う。そのことは戦争への憎しみにつながっていたと私の目には映った。」と書いています。
 彼自身が手記に
順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った。
と書いていますし、また、この斬首は合法的なのだ、と懸命に自らに言い聞かせていることから、著者の指摘は間違っていないと、私は思います。

 同書によると、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日にも、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件あり、8月15日にも、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員が油山火葬場付近の山中で、軍管区司令部職員によって処刑されているということです。
 「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)は、左田野が関わった連合軍飛行機搭乗員の日本刀による斬首事件、いわゆる「油山事件」は、公開であったことを明らかにしています。背景に、沖縄戦や原爆投下の報復的な意味があったという指摘もあり、戦争による憎しみの連鎖として、忘れてはならないことだと思います。
 米兵捕虜斬首によって戦犯として横浜軍事法廷で裁かれた左田野修は、逃亡中に働いたK陶器製造所でめきめきと焼成技術の腕を上げ、焼成部門になくてはならない存在となっていたばかりでなく、経理にも明るく、社長から、「わしの右腕になってくれ」と頼まれるような人物でした。また、まわりの人たちからも「忠さん」と呼ばれて信頼を得ていたということを考えると、彼の人生も、戦争によって憎しみの連鎖に引き引きずり込まれ、狂ってしまったと言えるのではないかと思います。戦後、戦犯として裁かれ処刑されることことを恐れて、逃亡生活を送りましたが、一人の人間として、自らの加害の事実を正直に手記に書き綴った姿勢は、評価されるべきではないかと思います。

 下記の文章は『逃亡 「油山事件」戦犯告白録』(毎日新聞)からの抜粋ですが、手記の部分には「ーーー左田野の手記」と加えました。
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                 第一章 橋のある町
 ・・・
 この1月に福岡俘虜収容所第17分所長だった由利敬・元中尉、函館俘虜収容所第1分所長をしていた平手嘉一・元大尉、2月になってからは由利元中尉の後任所長、福原勲・元大尉にそれぞれ絞首刑判決が言い渡されているのを新聞で読んだ。ごく簡単な記事だったが、絞首刑の文字は、彼を打ちのめすには十分すぎる威力があった。
 死刑判決を受けた3所長たちは虐待を黙認し、捕虜を死に至らしめた罪で責任をとらされたようだ。
ほかにも連日のように、戦犯の罪科が新聞に書き立てられている。
 部下が捕虜を殴ったりして、結果的に死亡させた責任で上司が絞首刑になるなら、有無を言わさず日本刀で生身の捕虜の首を切り落とした自分は、それ以上の罪となり、少なくとも死刑は免れない。そう思うと胸の中の錘が肥大する。
 これから先、完全に別人となって暮らしていけるかどうか、まったく自身がない。逃亡を知ったら、警察は母や兄、姉妹たち家族をきつく訊問するだろう。それを考えると耐えられない。
 ・・・
ーーー
                 第二章 赤茶けた「告白録」
 ・・・
 見つかった資料の中でもっとも少ないのは、久留米の予備士官学校や陸軍中野学校、西部軍など彼が在籍していた陸軍の学校、所属した軍隊に関するものである。在校中のことはのちに記述するが、とりわけ中野学校は、選ばれた秘密諜報将校を育成する特殊機関であったのは広く知られていて、胸を張っていいはずなのに、何もふれていないのは奇異に感じられる。なぜなのだろうか。
 同行のモットーは「中野は語らず」であった。戦時中はもとより戦後になってもいっさい口をつぐむのが彼ら情報戦士の受けた教育である。一時期はスパイ養成学校とみられていたこともあったが、最近は徐々にその実体が明らかにされつつある。
 ・・・
ーーー
               第六章 幻の油山事件
 ・・・
 同月10日。長崎に原子爆弾が投下された翌日であった。その9日は、依然続いている日本と米英を機軸とした連合軍との戦いに中立の立場をとっていたソ連が日本に宣戦を布告、日本軍が土壇場に追い詰められた記念すべき日だった。
 陸軍大臣阿南惟幾大将は、ソ連の参戦を受けて「全軍将兵に告ぐ」と、総軍に向けて訓示を発した。それは、「たとえ草を噛み、土をかじり、野に伏すとも断じて戦ふところ死中活あるを信ず。是即ち七生報国、楠公の精神なるとともに驀直進前を以て醜敵を撃滅せる闘魂なり。全軍一人も残らず楠公精神を具現すべし。醜敵撃払に邁進すべし」という激烈なものだった。「われは七たび生まれ変わって国のために尽くす」との報国の気持ちを吐露したという南北朝時代の将、楠木正成の故事をなぞらえたものである。
 ・・・
────  処刑現場についての左田野自身が書いた手記の原文を紹介しておこう。記憶を頼りに、エンピツで後年したためたものだが、書くときにも動揺を隠せない状態だったのは、他の記事と異なって、削除、訂正の部分が多いことでもわかる。

ーーー左田野の手記

 射手園少佐は友森大佐の所へ行って何か話していたが、直ぐに帰ってきて処刑者を命令した。私はこの時、見習士官の中で一番か二番位の身長であったため、二列に並んだ前列の右翼にいた。

 射手園少佐は、見習士官全員を眺めていたが、やがて私の前に来て「左田野、お前斬れ」と直接命令した。単なる見学者だと計り思っていた私は非常に驚いた。瞬間、返答に躊躇した。日頃花を眺めたり、音楽を鑑賞したりする事を好む私の性質として、搭乗員を処刑すると言う様な残忍な事は考えるだけで嫌であった。然し乍ら「ハイ」と答えざるを得なかった。私は「ハイ」と答えた。
 其の理由は、命令を受けた以上は絶対服従を強要せしめられていたことは、初年兵以来受けた軍隊教育の鉄則であったからだ。日々の行動凡て命令、服従で覇束せられ、そこには自由意志に依る発言、行動等は豪も許されなかった。(略)そこには批判とか自己の意見を述べると言う事は絶対に許されなかった。自分は此の様な事をしては悪い結果を招来すると思っても、直ちに上官の命令に服従せねばならなかった(この部分は消してある、以下略)。
 私は「ハイ」と答えた後、この処刑が正規の処刑であり且つ合法的であると思った。名前も知らなかったが、法務将校の白いマークをつけた二人がいた。法務将校は権威的に見え、信頼感を与えた。何故ならば法務官が現場に立会っている以上、恐らく軍律会議の審判の結果、搭乗員達は死刑の判決を言い渡され、二人はその執行(の視察)に参列していると思ったからである。更に友森大佐が現場の処刑執行を指揮して居り、射手園少佐が其の指揮下で活動していた事実は、益々処刑の正当性を裏付けるものがあった。
ーーー

 彼は、右の文の(略)のところに、軍隊の命令がいかに厳しいものであるかを「陸海軍人に賜りたる勅諭」や対象12年(1923)9月1日の関東大震災に乗じ、甘粕正彦憲兵大尉が部下に命じて、無政府主義者の大杉栄らを殺害させた事件を引き合いに出して縷々書いている。それは、彼がおこなった
斬首の正当性──  自分から進んで手を下したのではないことを、いくら説明しても足りないと
考えたうえでの弁明ではない。このときの彼ら処刑者たちは、一種の魔術にかかっていたことを語りたかったのは、やはり同日斬首を経験した彼と中野学校同期生(八丙)の証言を聞けばわかる。「処刑のときの精神状態は、まるで忠実なロボットでした」と言っている(『諜報員たちの戦後』)のだ。
 左田野の「返答に躊躇した」との告白は、軍命に対する精一杯の抵抗だったのであろう。ロボットとして動かなければならない苛酷な命令に逆らっているようにも思える
 つぎの彼は、斬首するときの心境を書いている。不安、恐怖心の強さ、理不尽さが描かれている。

ーーー左田野の手記 
 此の様な理由(処刑の正当性)にもかゝわらず、斬首を命ぜられた時には好きではなかった(嫌で堪らなかった、を書き改めている)。一度も刀を使った事も、試し斬りした事もない23歳の私に、どうしてそんな事が出来るであろうか。自信はまったくなかった。
 いくら若くても、無経験でも、これが若し野戦で私を襲ってくる敵ならば防禦の本能で斬ることが出来るかも知れぬが、温和(オトナ)しく死を待っている搭乗員を斬るという事は、可哀そうで内心は嫌であった(堪らなかった、を書き改め)。命令に対しては仕方なしに「ハイ」と返事したが、この時から不安や恐怖感や哀感などが一時に起って身体がふるえ始め、抑えようとしても止まらなかった。
 順番に処刑者が友森大佐に敬礼して処刑を終えて行った。四番目に私は「次」と命じられたので、友森大佐に敬礼し、穴の前に坐らされている搭乗員の後に立った。未だ身体のふるえは止まらなかったし、戦争という条件を除いては、何等憎む所ない人を何故斬らねばならぬのか、戦争の罪深さを呪った(「戦争という条件」から「呪った」までは削除してある)。
 併し私は背中に上官や将校の注いでいる視線を感じ、のっぴきならない気持ちに追い込まれた。心では「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、無我夢中で刀を振り下ろした。
 何の経験もない私が何故斬れたのか。「小宮四郎国光」銘のある私の刀がよく斬れたのであった。白昼に悪夢を見ている様な気持ちで刀を水で洗い(ここまで全部削除)、私は友森大佐に敬礼して列に戻った。 

ーーー
 この油山事件の模様は、様々な証言でのちにかなり知られるようになった。
GHQ日本占領史5 BC級戦争犯罪裁判によれば、事件当日の斬首は、「搭乗員(捕虜)の1人が墓場(掘った穴)に連行され、腰かけさせられた。それから、エグチが自分の刀を一振りし、搭乗員の首を半分落とした。オオノ少尉が2番目の処刑執行人であった。彼は刀を振り上げ、搭乗員の首の後部から切りつけたが殺害に至らず、その俘虜はうめき声をあげながら地面に倒れた。ワコウとオオノは再び跪かせ、ワコウがオオノに刀の使い方を教授した。別の3人のアメリカ人搭乗員もサタノ見習士官とオトス中尉、クロキ中尉によって、同じ方法で処刑された」と書かれている。サタノ(正確にはサダノ)が左田野修であるのは言うまでもない。
 同書には「処刑後、トモモリはそれぞれの兵士にウイスキーを勧めている」とあるが、左田野の手記には、このことには触れられていない。「友森大佐は『今日処刑された者は俘虜ではなくて敵である。だが、死んで了った者には罪はないから、死者の冥福を祈って黙祷しよう』との要旨の訓示があり、一同黙祷した」とあるだけである。いずれにせよ、凄惨なシーンがあったのは確かだが、油山事件をより有名にしたのは、つぎのような事実があったからだ。
 その点については横浜弁護士会による『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』でみてみよう。同書は、以下のように書いている。

 射手園(達夫少佐)は、事件当日の朝、弓矢を民間人に配給した責任者である大槻隆(少尉)に向かって、弓矢を持って処刑に参加するように命じた。大槻は、約15本の矢と弓を持ってトラックに乗り込んでいた。実際この日の処刑では、1番目から6番目までの搭乗員の処刑は日本刀による斬首によるものであったが、射手園は、7番目の搭乗員の処刑にあたって大槻に弓矢を使うように命じ(略)、8番目搭乗員に空手を用いた。空手による処刑なかなか効果がなかったが、それでも射手園は「中野学校で空手が得意だった者は使ってみろ」と見習士官に命令し、6名くらいが空手による攻撃を加えた。
ーーー
 戦争終結食後、GHQの指令に基づいて、俘虜関係中央調査委員会が組織された。国内外で日本軍が捕らえられた外国人捕虜を虐待したかどうかを調べる機関である。その調書(「西部地区ニ於ケル連合軍飛行機搭乗員取扱ニ関スル調書」)によれば、第1次事件の要旨は、つぎのようになっている。

 昭和19年末以来連合軍ニ依リ、内地ノ各都市相次イデ焼爆撃ヲ蒙ルニ至ルヤ軍官民全般ノ敵愾心ハ漸次強化セラレ、就中軍管区司令部所在地タル福岡市ハ昭和20年6月19日空襲ヲ受ケ、市街ノ要部焦土ト化シ、一般民衆ノ多数罹災スルノ惨状ヲ呈スルヤ敵愾心ハ更ニ著シク激化セラレタモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約8名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ6月20日、軍管区司令部構内ニ於テ軍管区司令部職員等ニ依リ処断セラレタリ。

 ここにあるように、左田野が関与した油山事件の1ヶ月半前の20年6月20日、西部軍司令部構内で8人の捕虜が殺害された事件が最初の西部軍事件である。

 ・・・

 第2の西部軍事件は左田野が関与した油山事件であり、これについてはすでに述べた。残る第3の事件は、終戦日当日におこなわれた。これも先の俘虜関係中央調査委員会の「調書」で概要をみる。

 8月15日終戦トナルヤ、九州地方ニ於テハ各種ノ流言飛語乱レ飛ビ、特ニ連合軍ノ一部既ニ上陸セシ等ノ造言生ジ、婦女子ノ避難等福岡地方ハ名状スベカラザル混乱ニ陥リ軍管区指令部内ノ将校等ニ於テハ、激烈ナル敵愾心ヲ生ズルニ至リシモノノ如シ。
 前項ノ如キ状況ニ於テ、約15名ノ捕虜飛行機搭乗員ハ8月15日、福岡市西南方油山火葬場付近ノ山中ニ於テ、軍管区司令部職員ニ依リ処断セラレタリ。

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本島等 の思想

2016年07月01日 | 国際・政治

本島等 思想

 『本島等の思想 原爆・戦争・ヒューマニズム』編・監修 平野伸人(長崎新聞社)「Ⅳ 原爆投下は正しかったか」の中に、下記の「なぜ私は『謝罪』を言うか 民衆にも加害責任がある」という文章があります。私は、こうした本島元長崎市長の主張が、日本社会で受け入れられなければ、日本の将来は決して明るいものにならないと思います。

 昨年、日韓外相会談で、日本軍の従軍慰安婦問題を最終かつ不可逆的に決着させるという日本国政府と大韓民国政府との合意が図られました。でも、どういうわけか高校の公民教科書(数研出版)から「従軍慰安婦」と「強制連行」が含まれる記述を削除する訂正申請がなされ、文部科学省がこれを承認したという報道がありました。なぜでしょうか。加害の事実はなかったことにして、「従軍慰安婦問題」を決着させようというのでしょうか。

 日韓合意に関して安倍首相は、日韓両政府が従軍慰安婦問題の最終的解決を確認したことについて、「私たちの子や孫の世代に、謝罪し続ける宿命を負わせるわけにはいかない。その決意を実行に移すための合意だ」と述べたといいます。日本の将来世代に責任を残さないための日韓合意が、「従軍慰安婦」や「強制連行」という言葉を含む歴史記述の削除につながるのでしょうか。不都合な加害の事実を後世に伝えず、なかったことにしようとすることは、ドイツの敗戦四十周年のときに、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領が述べたという下記文章中の言葉と、正反対の内容であると言わざるを得ません。

 2015年5月、欧米を中心とする187人もの日本研究者や歴史学者が連名で、「日本の歴史家を支持する声明」(Open Letter in Support of Historians in Japan)と題する文書を発表した件については、すでに触れましたが、その文書では
確かに彼女たちの証言はさまざまで、記憶もそれ自体は一貫性をもっていません。しかしその証言は全体として心に訴えるものであり、また元兵士その他の証言だけでなく、公的資料によっても裏付けられています。”
として
 ”20世紀に繰り広げられた数々の戦時における性的暴力と軍隊にまつわる売春のなかでも、「慰安婦」制度はその規模の大きさと、軍隊による組織的な管理が行われたという点において、そして日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきものであります。”
と結論づけているのです。

 また、国連人権委員会より任命された女性に対する暴力に関する特別報告者ラディカ・クマラスワミ氏の報告は、1996年4月国連人権委員会で、その”作業を「歓迎」し内容を「留意」する”という決議をもって受け入れられていますが、クマラスワミの日本に対する勧告には、「歴史的現実を反映するように教育課程を改めることによって、これらの問題についての意識を高めること」という内容が含まれています。

  さらに、1998年8月国連人権委員会差別防止・少数者保護小委員会で報告され、「歓迎」するという形で決議が行われたマクドゥーガルの報告書でも、その附属文書で日本の慰安婦問題を取り上げ、”刑事訴追を保証するための仕組みの必要性”を含む4つの勧告をしています。

 それらを事実上無視すような安倍政権の姿勢が、「日本の歴史家を支持する声明」の発表をもたらしたのではないでしょうか。本島元長崎市長が主張するように、しっかりと加害責任に向き合わなければ、日本が国際社会の信頼を得ることはできないと思います。

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「なぜ私は『謝罪』を言うか 
民衆にも加害責任がある」
                                           (論座1997年11月号)
 長崎の原爆犠牲者慰霊平和記念式典では毎年、平和宣言が読み上げられる。私が長崎市長のときに、この宣言に日本の加害の歴史に関する「謝罪」の言葉を加え、現在の伊藤一長市長のときも含めて昨年までの7年間、そのように宣言されてきた。しかし、、今年の平和宣言では「謝罪」の言葉は削除され、伊藤市長は、これは国の問題であるとして、「過去の戦争についての国家としての謝罪と誠実な戦後処理」を政府に求めるに至った。
 しかし、戦争の加害責任は国だけの問題なのだろうか。一人ひとりの市民に責任はないのか。一自治体の、しかも被爆地の市長として、なぜ平和宣言において「謝罪」を語ってきたのか。そしていまも言い続けるのか。あらためて述べたいと思う。

 私が今日まで読んだ「被爆体験」のなかで最も感激したのは、伊藤明彦氏の著書『原子野の「ヨブ記」』(径書房)である。
 原爆が投下されたとき八歳であった伊藤氏は、後に長崎の放送局に入社し、「被爆を語る」というラジオ番組を制作した。放送局をやめた後、全国を放浪しながら、北は青森県から南は沖縄・宮古島まで二千人の被爆者をたずね歩き、うち半分の人には断られ、千二人の話を収録した。広島の被爆者571人、長崎409人、二重被爆者3人、第五福竜丸の乗組員ら19人である。その後、伊藤氏はカセットテープ版の「被爆を語る」を制作し、全国900余りの平和資料施設、公共図書館、大学、高校の図書館へ寄贈した。
 伊藤氏は、長崎海星高校に学び、早稲田大学を卒業した。彼の最も尊敬する深堀勝先生は、古い浦上キリシタンの子孫で、熱心なカトリックの信者であった。

 民衆も戦争の遂行者だった
 被爆者も例外ではない
  本の名にある「ヨブ記」とは、旧約聖書のなかの代表的な智恵文学であり、紀元前五世紀ごろのパレスチナにおいて完成されたものである。
 深堀先生は旧市内で被爆し、爆心の自宅焼け跡へ駆けつけたが、父、妻、妹、そのとき一緒にいた家族のすべてを失った。くずおれた先生を立ち上がらせたのは、「主は与え、主は取り給う。御名は賛美せられよ」という「ヨブ記」の一節であった。

「全知、全能の創造主は幸福を与える、また幸福を奪うこともある。しかし常に神の名は賛美されなければならない。原爆という不幸なときも・・・」
 少し長くなるが、この『原子野の「ヨブ記」』を引用したい。本の中で、伊藤氏はこう語っている。
──  被爆者手帳所持者を一応被爆者と呼んでいますが、「典型的人間」がどこにもいないように、
「典型的被爆者」どこにもいません。多様な、豊かな姿で、原爆と人間との関係を生き抜いている被爆者がいるだけです。
 「あの日は晴れて朝からとても暑い日でした。私は…」
 長崎で被爆者の体験の録音をはじめたころ、被爆者の体験談の多くはこのようにしてはじまりました。
 その人を被爆せしめるにいたった戦争の影がないのです。
 まず戦争があって原爆被爆にいたった、戦争とその人との関係を問うのでなければ、その人と被爆の本当の関係もわからない。被爆とは何かがわからない。相手の戦前の生活、その人と戦争との関係を話してもらうように努めました。戦争との関係が一人ひとりによって極めて多様で、その中に一人ひとり、あらゆる濃淡を持って被害者、加害者の両方の性質がないまぜになっていることを知りました。
 一般市民もことごとく他民族蔑視の世界観を信じ、食料、物資の窮乏に苦しみ、一切の市民的自由はなく、日常生活の隅々まで監視され、互いに監視し、住居を追われ、引き倒され、竹槍でわら束を突き、ルーズベルトやチャーチルの似顔絵を踏み、「現人神」の写真を礼拝し、その人の名前を自他いずれが口にしても直立不動となり、日の丸の鉢巻きをまき、真冬でも下駄履きの素足で歩調をとって「我が大君に召されたる」という歌を声高に歌いながら街頭を行進する人々でした。治安維持法による特高政治も、1943年頃はほとんどなくなって、侵略戦争へと走り続けました。
 アジア・太平洋戦争15年は、日本軍国主義者が企図したものであったが、戦争は国民の圧倒的な支持、声援によって遂行されたものでした。 
(中略)
 原子爆弾は市民の日常生活の上に不意に投下されたというが、その「日常生活」は異常な日常でした。こともなきのどかな「晴れて朝から暑い日」に突如核兵器が襲いかかってきたのではないのです。
 被爆せしめられるにいたった人々の絶対多数は、積極的な戦争協力者、鼓舞者、遂行者でした。国民をあげてのショ-ヴィニズム(狂信的愛国主義)の中で被爆者だけが例外であったと考えるのは、事の道理にあいません。戦争の最後に被爆したのですから。
 戦争を体験した世代からの言葉をどれほど聞いたことでしょう。
 しかし、「あの戦争がなかったら…」という表現は絶対多数でした。「私たちみんなの力であの戦争さえ許さなかったら…」という表現は希有でした。

 この『原子野の「ヨブ記」』を読んで、私はあらためて思う。被爆した広島、長崎の人々は原爆によって肉親を奪われ、生計の基盤を破壊され、いまなお被爆の後遺症による不安と苦しみにさいなまれている。しかし、それでもなお戦争責任はあることを申し上げなければならない。

 半世紀後になお求められる謝罪
 太平洋の小さな島国からも
 私は、アジア・太平洋戦争を正義の戦争と信じていた。しかし、私の考えは間違っていた。
 この夏、ミクロネシアの小さな島での出来事を、地元紙がこう伝えた。
「太平洋戦争中の激戦地タラワを首都とするキリバス(人口7万7千人)が、日本に戦争賠償を求めるため、戦争被害の調査委員会を設置、報告書を完成させていたことが明らかになった。人的被害では、日本軍占領下でハンセン病の患者、家族20人が海上に連れ出され射殺されたなど、これまで知られていなかった残虐行為が含まれているという。戦争中、日本軍によって殺された住民は536人だった」)(8月10日付西日本新聞)
 日本軍は平和な島で虐殺ばかりでなく島民を酷使したのである。この島民に謝罪しなくてもいいと言い張る日本人がいるだろうか。しかも、戦後50年の間、謝罪や賠償を怠ってきたのである。
 この島で、日本軍は玉砕したという。亡くなった日本兵は靖国神社にまつられるが、何の罪もなく殺された島民はどうなるのだろうか。私たち日本人は、その人たちを先にまつらねばならないはずだ。
 太平洋の小さな島国だけが、この夏、アジア・太平洋戦争を問題にしたのではない。
 米国ではリピンスキ下院議員(民主党)ら超党派の議員17人が今年7月25日、南京大虐殺や従軍慰安婦の強制など、第二次大戦沖に日本が行ったすべての「戦争犯罪」に対して、日本政府の公式謝罪表明と被害者への補償を求まる決議案を議会に提出した。ユダヤ人虐殺で正式謝罪したドイツ政府に比べて、日本の対応は遅れているというのである(7月26日付讀賣新聞)。
 95年8月16日には、「真の謝罪を求める海外紙」と題して、韓国、中国、オーストラリア、シンガポールの新聞記事や社説が朝日新聞に掲載された。たとえば、オーストラリアの全国紙オーストラリアンは、社説の中で「日本は自らの過去と誠実に向き合い、戦争中の侵略と残虐行為について謝罪することで誤りを正すべきだ」と主張している。

 銃後の市民も兵隊と一体だった 
 国民の熱狂が戦争を続けさせた
 このアジア・太平洋戦争は、前線の兵隊も銃後の市民もまったく一体となって遂行されたのである。
 広島の一部の人たちのい言う「戦争は国がやったのだ。われわれは原爆の犠牲者だ」と簡単に言えるものではない。
 日本軍が戦争に使用した被服、銃砲、弾薬など一切は日本国内で製造されたものだ。
 また朝鮮その他からの飢餓移出の米を食い、満州農民のコ-リャンを奪って食い、またベトナムの米も奪ったといわれている。広島、長崎をはじめ全国民が、男子は15歳から、女子は17歳から国民義勇兵であり、軍人関係、戦争遺族、徴用工、動員学徒、軍需工場関係など戦争と結びつかない人はほとんどいなかった。
 兵隊は、人々にとって祖父、父、息子、孫、親族、同級生、友人、会社や役所の同僚、後輩、夫、婚約者、恋人であった。出征兵士の家や田畑は守られ、武運長久が常に祈られた。
 その象徴は「千人針」である。私が知っている限り、日本軍のすべての将兵たちが、それぞれ千人の女性が心を込めてさした「千人針」を腹に巻き、武運を祈られていた。
 また、飛行機の材料や燃料の供出、慰問袋づくり、傷病兵の見舞い、戦時国債の購入など、みんな必死になって戦争に協力しつづけた。
 新聞は「日本軍の強くて正しいことをしらしめよ」などと日本軍を賛美する記事で紙面を埋めた。ジャーナリズムを通じて軍部を支援する国民の熱狂的な雰囲気は盛り上がり、政府は軍部を抑えることができなかった。
 冒頭に紹介した『原子野の「ヨブ記」』には、「プロ野球で広島カープが初優勝した夜の広島の町の雰囲気は、シンガポール陥落の夜のようでした」という、被爆者からの便りが紹介されている。著者の伊藤明彦氏は、「シンガポール陥落の熱狂が想像できる」と記している。
 戦争責任は国にあり、軍隊、兵士だけにあるのではない。被爆者を含めて一般の市民にもあると、私は思う。また、当時は幼かったり、生まれていなかった者も、祖先の負の遺産を背負うべきだという意味で、責任は及ぶのだと考える。
 
 ドイツの敗戦四十周年のときに、西ドイツのヴァイツゼッカー大統領はこう述べた。
 「先人は容易ならざる遺産を残したのです。罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結にかかわりあっており、過去に対する責任を負わされているのです。心に刻みつけることが、なぜかくも重要であるかを理解するために、老幼たがいに助け合わなければなりません。
 かつて海部首相は東南アジア歴訪やオランダ訪問の際に、過去の過ちを謝罪した。しかし、被害を受けた国の人々と日本国民の歴史認識の間には著しい落差がある。
 国会は95年6月に「戦後五十年決議」をしたが、そのなかに「追悼」や「反省」はあっても、「謝罪」の言葉はなかった。反省は「自分をかえりみること」謝罪は「罪や過去を詫びること」であり、「謝罪」こそが必要な言葉だった。しかも、この国会決議は衆院で採択されたものの賛成者は総数の半分に満たず、参院では採択見送りになったのである。
 ニューヨーク・タイムズ紙は、この決議を「誠実な謝罪というより、あいまいな内容を慎重に練り上げたもの」と評した。
 いくら首相が国の立場で反省や謝罪を口にしても、国民全体が過去の負の歴史を心に刻み、それをいつまでも背負っていく姿勢を示さなければ、被害を示さなければ、被害を受けた国の人々の理解は得られないだろう。日本人がいま謝罪を怠るならば、信義も道徳的誠実さもない国民として世界に記憶されるだろう。一人ひとりが加害責任を思い、心からの謝罪をすることなしに、歴史の過ちは清算されないどろう、と私は思う。 

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