真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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「百人斬り競争」 野田・向井両少尉の遺書(日記)

2015年07月15日 | 日記

 「百人斬り競争」とは、南京攻略戦のさなか、大日本帝国陸軍の野田毅少尉と向井敏明少尉が、「南京入りまでに日本刀でどちらが早く100人を斬るか」を競ったとされる行為であり、戦後、南京大虐殺を象徴するような残虐事件として話題になることが多い。

 ところが、『新「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明(飛鳥新社)には、この件に関して、下記のように書かれている。
どちらにしても、アメリカ当局はこの「百人斬り」については、「東京裁判」の本裁判では無論のこと、個人の犯罪を裁く「戦時法規を無視したC級裁判」としても、このことを立証し、有罪に持ち込むことは不可能である、と判断し、起訴はしないことにした。
 であれば、その根拠となる文書や関係者の具体的な証言などを示してほしかったと思う。本当に「東京裁判」の検察側が有罪に持ち込むことは不可能であると判断し、起訴はしないことにしたのかどうか、疑問が残る。

 また、下記の野田・向井両少尉の遺書を読んでも「百人斬り競争」がまったくの「虚構」であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作した」ものであるとは思えない。野田少尉は
つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
と書いている。「間違つていた」というのである。「百人斬り競争」に関しては、
 ”只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。”と正当化はしているが、それは、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を慮ってのことではないかという気がするのである。
 死刑を潔く受け止めることができるは、自らの過ちを認めているからではないかと思う。「百人斬り競争」が、もし虚構であり浅海記者の創作であれば、やってもいない創作記事のために裁かれることに関して、もう少し踏み込んだ記述があって然るべきではないか、とも思う。

 向井少尉も同様に
我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 と書いているが、あまりにも潔い。そして、
公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。
と書いているのであるが、この文章で「百人斬り競争」の事実を否定しているのではないことがわかる。「戦闘行為」であり、「捕虜住民を殺害せる犯罪」ではないというのである。


 しかしながら、向井少尉も、野田少尉も、戦場で連日日本刀を振り回す白兵戦を強いられるような立場になかったことはよく知られている。2人は同じ第十六師団・第九連隊・第三大隊所属であり、野田少尉は第三大隊の副官、向井少尉は歩兵砲小隊の小隊長である。
 また、第十六師団を率いた中島今朝吾師団長(陸軍中将)が、その日記に「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタレ共…」と書いていることもよく知られている。そして、多数の第十六師団諸聯隊の将兵が陣中日記等に捕虜殺害の事実を書き留めている(452南京事件 第16師団歩兵第33聯隊 元日本兵の証言・453南京事件 師団命令の虐殺 元日本兵の証言・454南京事件 陥落後も続く集団虐殺 元日本兵の証言等参照)。したがって、「百人斬り競争」は「捕虜殺害」の可能性が大きいのではないかと思う。
 ただ、関係指揮官や戦友が裁かれ罪に問われる可能性、また、戦後の日本の立場を考えれば、どうしても「捕虜殺害」を認めることは出来ないため、「捨て石」やむなしとして、「捕虜殺害」の「処刑」を受け入れながら、「戦闘行為」と主張したのではないか。死刑を潔く受け入れているのは、そういうことではないかと推察する。

 少なくても、「百人斬り競争」がまったくの虚構であるとか、「東京日日新聞」の浅海記者が創作したものであるということは、下記を読めば、あり得ないと思われる。向井少尉は、「野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり……」と書いている。また、「浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です」とも書いて言いる。さらに「浅海様にも御礼申して下さい」とまで書いているのである。浅海記者の創作記事によって処刑されることになったのであれば、そういう言葉は出てこないであろう。

  下記、資料1、野田少尉の遺書は12月20日から1月28日の日記の一部を、資料2、向井少尉の遺書は全文を、『世紀の遺書』巣鴨遺書編纂会(講談社)から抜粋した。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
              日支の楔とならん
                                野田毅 
                      鹿児島県出身 陸軍士官学校卒業 元陸軍少佐 
                      昭和23年1月28日、広東にて銃殺刑。35歳
   遺書(日記より)
    昭和22年12月20日
 公判は12月18日南京市の公会堂の様な処でありました。雪の降る寒い日でしたが聴衆が一杯でした。女子供もいました。

 日本男児として恥ずかしくない態度で終始しました。「今迄の戦犯公判では一番立派な態度でした。」と後から通訳官や其他の人から聞きました。最後の檜舞台のつもりで大音声で答弁致しました。従来の公判では死刑を宣告された瞬間拍手があつたり、或は民衆の喧々轟々たる声があつたらしいですが吾々の時は終始静粛でありました。中国の民衆も耳を傾けて吾々の云ふ事を聞いていた様で吾々に対する悪い感情といふ様な雰囲気は別に感じられませんでした。最終発言では一言一句力をこめて申し上げました。一緒に公判を受けた向井君(向井敏明少佐)は長時間ねばつて答弁しました。田中さん(田中軍吉少佐)は聴衆の方々に向かつて「私の死刑は問題ではありません。中国と日本との親善の楔となれば幸いです」と云ふ意味の熱弁を振い、将に鉄火が白熱して飛び散る観がありました。

 公判の最後に死刑の宣告がありましたが別に感動も何もなく、まるで他人事の様な気がして、自分で自分が不思議な位平然としていました。田中さんは私と同じく身動きもせず毅然としていました。帰途の自動車(トラック)の上では田中さんが「海ゆかば」を歌い向井君も之に和していました。 

12月30日
 今日は30日明31日を1日余すのみとなつた。向井君は昨夜一睡もせず田中さんは徹夜して遺書を誌した由。私は太平記を読み疲れて寝てしまつた。
 私は幼時は負け嫌いで、そのくせよく泣く神経の鋭い男だつたと思う。だが、何時の間にか神経の鈍い男になつてしまつた。寸前の死の観念が心臓にも神経にも何等響きを持つて来ない。死に対する恐怖がない。死が直前にぶらさがつていても食事前の気分、読書の気分と何等変りがない。と云つて全然死を忘却しているわけでもない。面白い心理だ。

 戦争では気がたつて興奮しているから死を考えもしなければ、たとえ死を考えても尽忠報国の気分が之を圧倒していた。
 然し平静な時に死刑を宣告されて平静心のままで居られることは私も35才にして初めて到達し得た大丈夫の心境だと思う。古今東西の聖人、賢士、哲人、高僧、偉人、武将、も結局私と同じ心境だと信ずるに到つた。

 つまらぬ戦争は止めよ。曾つての日本の大東亜戦争のやり方は間違つていた。独りよがりで、自分だけが優秀民族だと思つたところに誤謬がある。日本人全部がそうだつたとは言わぬが皆思い上つていたのは事実だ。そんな考えで日本の理想が実現する筈がない。
 愛と至誠のある処に人類の幸福がある。  
 死刑執行の前日である。爪を取る。故郷への形見である。
 天皇陛下万事!
 中華民国万歳!
 日本国万歳!
 東洋平和万歳!
 世界平和万歳!
 死して護国の鬼となる。
絶唱
 君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで 
 昭和22年12月31日 朝
  死刑執行の日                                                野 田  毅
 我は日本男児なり
 昭和22年12月31日

1月28日
 南京戦犯所の皆様、日本の皆様さようなら。雨花台に散るとも天を怨まず人を怨まず日本の再建を祈ります。万歳、々々、々々

  死刑に臨みて
 此の度中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚くお礼申し上げます。
 只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断り致します。死を賜りました事に就ては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願ひ致します。
 宣伝や政策的意味を以つて死刑を判決したり、或は抗戦8年の恨みを晴さんが為、一方的裁判をしたりされない様祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願致します。
 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
                                                            野 田  毅

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

                                                            向 井 敏 明
                                                                          千葉県。元陸軍少佐。昭和23年1月20日                                                                                           南京に於て銃殺刑。36歳
時世
 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦8年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨て石となり幸ひです。
 中国の奮闘を祈る 
 日本の敢奮を祈る

 中国万歳
 日本万歳
 天皇陛下万歳
死して護国の鬼となります。
12月31日 10時 記す                                             向 井 敏 明

遺書
 母上様不幸先立つ身如何とも仕方なし。努力の限りを尽くしましたが我々の誠を見る正しい人は無い様です。恐ろしい国です。
 野田君が、新聞記者に言つたことが記事になり死の道づれに大家族の本柱を失はしめました事を伏して御詫びすると申伝え下さい、との事です。何れが悪いのでもありません。人が集つて語れば冗談も出るのは当然の事です。私も野田様の方に御詫びして置きました。
 公平な人が記事を見れば明かに戦闘行為であります。犯罪ではありません。記事が正しければ報道せられまして賞讃されます。書いてあるものに悪い事は無いのですが頭からの曲解です。浅海さんも悪いのでは決してありません。我々の為に賞揚してくれた人です。日本人に悪い人はありません。我々の事に関しては浅海、富山両氏より証明が来ましたが、公判に間に合いませんでした。然し間に合つたところで無効でしたろう。直ちに証明書に基いて上訴しましたが採用しないのを見ても判然とします。富山隊長の証明書は真実で嬉しかつたです。厚く御礼を申上げて下さい。浅海氏のも本当の証明でしたが一ヶ条だけ誤解をすればとれるし正しく見れば何でもないのですがこの一ヶ条(一項)が随分気に掛りました。勿論死を覚悟はして居りますものゝ、人情でした。浅海様にも御礼申して下さい。今となつては未練もありません。富山、浅海御両人様に厚く感謝して居ります。富山様の文字は懐かしさが先立ち氏の人格が感じられかつて正しかつた行動の数々を野田君と共に泣いて語りました。

 猛の苦労の程が目に浮び、心配をかけました。苦労したでせう。済まないと思います。肉親の弟とは云い乍ら父の遺言通り仲よく最後まで助けて呉れました。決して恩は忘れません。母上からも礼を言つて下さい。猛は正しい良い男でした。兄は嬉しいです。今回でも猛の苦労は決して水泡ではありません。中国の人が証明も猛の手紙も見たのです。これ以上の事は最早天命です。神に召さるゝのであります。人間のすることではありますまい。母の御胸に帰れます。今はそれが唯一の喜びです。不幸の数々を重ねて御不自由の御身老体に加え孫2人の育成の重荷を負せまして不孝これ以上のものはありません。残念に存じます。何卒此の罪御赦し下さい。必ず他界より御護りいたします。二女が不孝を致しますときは仏前に座らせて言い聞かせて下さい。父の分まで孝行するようにと。体に充分注意して無理をされず永く
生きて下さい。必ずや楽しい時も参ります。それを信じて安静に送つて下さい。猛が唯一人残りました。共に楽しく暮して下さい。母及び二女を頼みましたから相当苦労する事は明らかですからなぐさめ優しく励ましてやつて下さい。いせ子にも済まないと思います。礼を言つて下さい。皆に迷惑を及ぼします。此上は互いに相助けていつて下さい。千重子が復籍致しましても私の妻に変りありませんから励まし合つて下さい。正義も二女もある事ですから見てやつて下さい。女手一つで成し遂げる様私の妻たる如く指導して下さい。可哀想に之も急に重荷を負わされ力抜けのした事、現実的に精神的に打撃を受け直ちに生きる為に収入の道も拓かねばなりますまい。乳呑子もあつてみれば誠にあわれそのもの生地獄です。奮闘努力励ましてやつて下さい。恵美子、八重子を可愛がつて良き女性にしてやつて下さい。ひがませないで正しく歩まして両親無き子です。早く手に仕事のつくものを学ばせてやつて下さい。入費の関係もありますので無理には申しません。猛とも本人等とも相談して下さい。

 母上様敏明は逝きます迄呼んで居ります。何と言つても一番母がよい。次が妻子でしょう。お母さんと呼ぶ毎にはつきりとお姿が浮かんで来ます。子供等も家も浮んで来ます。ありし日の事柄もなつかしく映つて
来ます。母上の一生は苦労心痛をかけ不孝の連続でたまらないものを感じます。赦して下さい。私の事は世間様にも正しさを知つていたゞく日も来ます。母上様も早くこの悲劇を忘れて幸福に明るく暮らして下さい。心を沈めたり泣いたりぐちを言わないで再起して面白く過ごして下さい。母の御胸に帰ります。我が子が帰つたと抱いてやつて下さい。葬儀も簡単にして下さい。常に母のそばにいて御多幸を祈り護ります。御先に参り不孝の罪くれぐれも御赦し下さい。石原莞爾様に南京に於て田中軍吉氏野田君と3名で散る由を伝達して生前の御高配を感謝していたと御伝へ願います。

日記の中より
 今日31日執行せられると言ふ朝は何一つとして頭心慾と言ふべきものは無かつた。然し之も正確には言へない弱さがある。血の流れある限りとも言ふべし。立派に武人らしく斃れよう安らかに我家に還らんと服装を正して待つた。思つたより平静で居られたのは不思議でならない。時間の経つのも長い様にも短い様にも思つた。正確には判断が出来ない。合掌をして居たと言ふ事より記憶がない。唯日常より真剣に合掌が出来たと言ふ満足があるのみで陽が西に廻つて来た頃今日はもう無いよと野田君が言ふと田中氏が奇蹟現出だ、我々は助かると喜びの声が震えて壁に打ち当つて聞える。突然生への愛着を覚えて来た。空腹を感じる。今朝向ふの人に渡した味噌が欲しくなつて来た。生きていると美味い煙草だと田中氏が笑つて呼びかけて来た。本当だ、自分も同調、明日は正月だ、3日間は大丈夫と言い合つたら各々御馳走が来るだろうと楽しみにした。楽しみつゝ早寝した。精神的の疲れとでも言おうか追ひ込まれるような眠たさだ。何時か誰かに聞いたが死ぬ前は馬鹿にねむたいと言ふ事を思ひ出した。或はそうかなとも思ひうとうとする。

 元旦、気が抜けた。未だ奥歯に物の在る元旦で限られた3日正月の様に淋しい感じがする。声を張り上げて君が代を唱つた。野田君の部屋からも聞えて来た。念仏を暁方から始めて居たが念仏を念ずるときが一番幸福だと感じた。君が代を唱つて番兵に階上に上官が寝て居るので静かにせよと注意される。やつぱり念仏に限る楽しさが増して来る。朝食前マンヂウが5ヶ宛来た、万寿とは上々と田中氏喜ぶ。味は全然無いが美味しかつた。2つは本当に呑んだやうだつた。料理が十時頃来たが獄舎で作つたとの事。80万元か90万元の料理だと言つて居たが成程とうなづけるものばかりだ。碗一杯と小皿一杯ではあつたが3人喜んで喰ふ。生きて居ないと駄目だよ、マンジウも喰はないで供えて貰ふところだつたねと、田中氏のにこにこ笑う顔が見える様だ。満腹すれば寝正月より他になし。29日、30日夜寝ずに遺書を書き念仏を唱えて居たので風邪を引き咳が出て苦しめられる。3日目の今日あたり少々楽になつて来た。3日間喰つては寝るの正月だつた。この3日が人生の一番ゆつたりとした日になるだろう。生きて居れば思い出の日だ。

 昭和23年1月28日、様子が変である。最後の様である。28日午前12時南京雨花台にて散る。
 母上様、妻子元気で幸福に生きて下さい。頑張つて下さい。さようなら。
 母上様御恩の万分の一も尽されず、先立つ不孝を御赦し下さい。孫等のためいついつまでも永生きして下さい。後をたのみます。

 皇室のいや栄を護り奉る
 天皇陛下 万歳
 日本国  万歳
 平和日本の再建
国民一同の御奮闘を祈る  
 誓つて国家を護り奉る 

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向井少尉・野田少尉 「百人斬り競争」の記事は創作か?

2015年07月07日 | 国際・政治

 昭和12年11月30日から数回にわたって、東京日日新聞(現毎日新聞)が、第十六師団第九連隊(片桐護郎大佐)の同じ第三大隊に所属する向井少尉と野田少尉の「百人斬り競争」の記事を掲載した。もちろん、前線日本兵の「武勇談」としてである。
 この記事を読んだ英文紙「ジャパン・アドバタイザー」の記者が、その記事を転載し報道したため、上海にいたティンパーリ「百人斬り競争」の事実を察知することになった。そして自身の著書「外国人の見た日本軍の暴行」に、その記事を付録としてそのまま掲載した。
 ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」は、ロンドンやニューヨークで出版されただけでなく、蒋介石政権の手によって中国語版や日本語版も出版されたため、広く知られるようになったようである。
 昭和19年秋、中国視察を命ぜられて南京大使館を訪れた満州国政府外交部の官吏、榛葉英治(シンバ、エイジ)が、その際この日本語版の本を見せられ、南京の実情を知ったと書いていることは、「南京難民区 国際委員会の書簡文と日本の報道」(467)で、すでに触れた。

 下記の資料1が、ティンパーリの「外国人の見た日本軍の暴行」に付録として掲載された文章である。「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)から抜粋した。

 この「百人斬り競争」の当事者、野田毅少尉は南京占領の後帰国して、故郷の小学校で講演し、下記のようなことを語ったという。

 ”郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは4、5人しかいない……
 占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらにやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……
 百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものが殆んどだ……
 2人で競争したのだが、あとで何ともないかとよく聞かれるが、私は何ともない……”
                 「南京大虐殺否定論の13ウソ」南京事件調査研究会(柏書房)

 当然のことながら、東京裁判がはじまって間もなく、向井、野田の両氏はGHQから呼び出される。ティンパーリの著書「外国人の見た日本軍の暴行」によって、「百人斬り競争」が世に知られていたからだと思われる。また、当時「百人斬り競争」の記事を戦地から送った東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海一男記者鈴木二郎記者も、検事側事務官に呼ばれて事情聴取を受けたという。ただ、東京裁判では、この「百人斬り競争」の件で、向井、野田の両氏が裁かれることはなかった。
 ところが、向井、野田の両氏は、その後再び呼び出され南京に送られたのである。蒋介石率いる国民党政府の戦犯裁判のため、中国側から「容疑者引渡し」の要求があったようである。

 この「百人斬り競争」の記事を戦地から送った「東京日日新聞」の浅海一男記者は、戦後「新型の進軍ラッパはあまり鳴らない」という文章の中で、この件に関して資料2のようなことを書いている。

 また、この記事に名を連ねた「東京日日新聞」の鈴木二郎記者は、「当時の従軍記者として」と題して、資料3の文章を書いている。2人の記者の文章は「ペンの陰謀」本多勝一編(潮出版社)から抜粋したが、偽りがあるとは思えない。

資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                          南京の「殺人競争」

 一米国人は東京出版の英字紙ジャパン・アドバタイザー(Japan advetiser)に、1937年12月7日左のような記事を載せている。

 『片桐部隊の向井敏明少尉と野田岩少尉の両名は何れも句容作戦で戦友として互いに殺人競争を行った。すなわち南京を完全占領する前に自ら百名を殺したものが賞を奪取し得るものとし、目下最終の段階に達しておる。朝日新聞の消息によると○○日句容城外の作戦における両名の記録は左の通りである。向井少尉は89名を殺し、野田少尉は78名を殺した。』
1937年12月14日、同紙はまた左のような記事を載せている。
『日日新聞の戦地特派員が南京城紫金山より発した電報によると、向井少尉と野田少尉は中国人百名を殺害する競争をやったが、未だ決定されていない。向井少尉は106名を殺し、野田少尉は105名を殺しているが、いずれが先に百人殺害したか決定できない。目下両人は百名を標準とせず、150名を標準とすることに同意している。
今回の競争中で向井少尉の刀は少し刃こぼれした。それは彼が中国人を鉄甲と一緒に身体を真二つにしたためである。向井少尉はこの第1回の競争は全くの『遊び』でお互い百名の「レコード」を突破しようとは知らなかったが、全くもって興味あることだったと語った。

 土曜日早朝、朝日新聞記者は中山陵の高所に向井少尉を訪問した際、他の一部日本軍隊は紫金山に放火し、中国軍隊を駆逐し、一方向井少尉とその部隊を掩護した。弾丸は頭の頂上から横に外れて飛んで行った。
 向井少尉は殺人の軍刀を肩にかけている間は、一発の弾丸も命中しなかったと語った。』

資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                    新型の進軍ラッパはあまり鳴らない
                                                浅海一男
                      「敵を斬る」ことの価値観」
 何しろ、もう30数年も昔のことですから記憶が定かでありません。それに、当時の筆者を含む東京日日新聞(大阪毎日新聞)従軍記者の一チームは、上海から南京まで急速に後退する「敵」を急追するという日本侵略軍の作戦に従軍取材していたので、その環境の悪さとともに、多種類の取材目標をかかえて活動していましたので、その個々の取材経験についての記憶はいっそう不確かになっているのです。

 連日の強行軍からくる疲労感と、いつどこでどんな”大戦果”が起こるか判らない錯綜した取材対象に気を配らなければならない緊張感に包まれていたときに、あれはたしか無錫の駅前の広場の一角で、M少尉、N少尉と名乗る2人の若い日本将校に出会ったのです。そのとき、無錫の駅舎は戦禍のために半ば破壊され、広場はおびただしい屑やゴミで汚され、小休止を楽しんだり、出発の準備をしたり、夜営の仕度をしたり、といったさまざまな日本軍将兵の往来でごったがえしていました。筆者たちの取材チームはその広場の片隅で小休止と、その夜そこで天幕夜営をする準備をしていた、と記憶するのですが、M、N両将校は、われわれが掲げていた新聞社の社旗を見て、向こうから立ち寄って来たのでした。「御前たち毎日新聞か」とかといった挨拶めいた質問から筆者らとの対話が始まったのだと記憶します。両将校は、かれらの部隊が末端の小部隊であるために、その勇壮な戦いぶりが内地の新聞に伝えられることのないささやかな不満足を表明したり、かれらのいる最前線の将兵がどんなに志気高く戦っているかといった話をしたり、いまは記憶に残っていないさまざまな談話をこころみたなかで、かれら両将校が計画している「百人斬り競争」といういかにも青年将校らしい武功のコンテストの計画を話してくれたのです。筆者らは、この多くの戦争ばなしのなかから、このコンテストの計画を選択して、その日の多くの戦況記事の、たしか終わりの方に、追加して打電したのが、あの「百人斬り競争」シリーズの第一報であったのです。

 両将校がわれわれのところから去るとき、筆者らは、このコンテストのこれからの成績結果をどうしたら知ることができるかについて質問しました。かれらは、どうせ君たちはその社旗をかかげて戦線の公道上のどこかにいるだろうから、かれらの方からそれを目印にして話しにやって来るさ、といった意味の応答をして、元気に立ち去っていったのです。

 その当時、従軍記者のポストに多くの将兵が立ち寄ってくれたことを説明しておくことも事情のリアリティーを助けてくれるでしょう。われわれが部隊の行軍にまじって行軍していると、行きづりの将兵が「おお、毎日か」とか「新聞屋さんやな」とかいって、ヒゲだらけの顔に親しみをこめて声をかけてくることがしばしばありました。そのようなとき、たいていの将兵は、かれらが郷里ではわれわれの新聞の愛読者であったといい、かれらが部隊が、何県の何郡出身の兵隊から構成されており、どんなに元気で、勇ましく戦っているか、そのことを郷里の人びとが知ったらどんなに喜んでくれるか、安心してくれるか等々──について話してくれるのが普通でした。かれらはその話のなかで、これまで「敵」を何人斬ったとか、それは「一刀のもとにケサさがけに斬り捨てた」 のであるとか「群がる敵を機関銃でなぎ倒した」とか、さまざまな武勇のさまを話して去って行くのが常でした。

 連隊長とか旅団長のような高級指揮官は、われわれが普通にはかれらのぞばではなく、最前線とかれらの位置との中間くらいのところに位置していたので、時に伝令を走らせてわれわれの誰かを招致して、かれらの部隊の「大きな戦果」を話してくれたこともありました。

 当時の従軍記者には、これらの「談話」について冷静な疑問を前提とする質問をすることは不可能でした。なぜなら、われわれは「陸軍省から認可された」従軍記者だったからです。もっとも、われわれはこれらの「談話」のなかから取捨選択をすることは可能でした。しかし、その選択の幅がきわめて狭いものであったことは、前にあげたようなもろもろの「戦果ばなし」がそれ自身かなりな現実性をもっていたことと、「陸軍省認可」のわれわれの身分とが規定していたのです。

 事実、「敵」を無造作に「斬る」ということは、はげしい戦闘間のときはもちろんですが、その他のばあでも、当時の日本の国内の道徳観からいってもそれほど不道徳な行為とはみられていなかったのですが、とくにわれわれが従軍していた戦線では、それを不道徳とする意識は皆無に近かったというのが事実でした。筆者は、あの戦線の薄れた記憶のフィルムのなかでも、次のようないくつかの場面だけは脳裡に焼きついて離れません。
 ・・・(以下略)

                        戦場が市民を「東洋鬼」に変える
 ・・・
 このような異常な環境のなかにあって筆者たちの取材チームはM、N両少尉の談話を聞くことができたのです。両少尉は、その後3、4回われわれのところに(それはほとんど毎日前進しいて位置が変わっていましたが)現れてかれらの「コンテスト」の経過を告げていきました。その日時と場所がどうであったかは、いま筆者の記憶からほとんど消えていますが、たしか、丹陽を離れて少し前進したところに一度、麒麟門の附近で一度か二度、紫金山麓孫文陵前の公道あたりで一度か二度、両少尉の訪問を受けたように記憶しています。両少尉はあるときは一人で、あるときは二人で元気にやってきました。そして担当の戦局が忙しいとみえて、必要な談話が終わるとあまり雑談をすることもなく、あたふたとかれらの戦線の方へ帰っていきました。古い毎日新聞を見ると、その時の場所と月日が記載されていますが、それはあまり正確ではありません。なぜなら、当時の記事草稿の最優先の事項は戦局記事と戦局についての情報であって、その他のあまり緊急を要しない記事は2、3日程度「あっためておく」ことがあったからです。それは、当時最新鋭といわれたわれわれの携帯無線機─ といっても大人二人が天秤棒で担ぐほどのものでした─の電源の容量が貧弱だったために、いつも最優先記事と情報の送信のために電源の大部分をとられ、またいつも相当量の残余電力を残しておかなければならなかったからです。われわれの送稿は現地からまず上海支局に送られ、そこで送稿の順位が決められ、さらに大阪本社へ打電され、それがまた東京本社へ電話で送稿されるという経路をたどっていました。それらの中継地や東京本社整理部、東亜部などでの送稿、掲載順位決定も、あのような緊急性のとぼしい原稿には不利であったのでしょう。いずれにしても、掲載になるときには、その原稿がレーテスト・ニュースであることを示すために可能なかぎり最新の日付をつけることは当時の新聞社整理部の習慣であったのです。筆者はあの従軍の直前まで東京本社の整理部に勤務していましたし、従軍後も同じ部に勤務していたので当時のそうした習慣をよく知っているのです。

 資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                 当時の従軍記者として
                                      鈴木二郎
私は、戦前戦後を通じて愛読していた雑誌「文藝春秋」を1973年(昭和48年)の同誌5月特別号(大宅壮一賞発表)を最後に読むのを止めてしまった。勿論大出版社である文藝春秋という会社にとっては、無名の一読者が、「読まない」と宣言したって、何の痛痒も感じる筈もないであろうが、私にとっては、ここに明かすささやかな同誌に対する抵抗であり、抗議でもある。

 しかし、実は、同誌がきらいでも何でもなかったのである。ただ、同誌が掲載した、いや、これからも載せる出あろう、イサヤ・ベンダサン氏や山本七平氏、それに鈴木明なる人の原稿が気にいらないのである。

 私は、前記3筆者(?)の執筆原稿によって真に思わざる”汚名”をきせられたからである。私は、1937年(昭和12年)11月5日から翌年2月台湾から一時帰国するまでの約3ヶ月間、東京日日新聞(現毎日新聞)の特派員として中支戦線に従軍、南京までの幾多の敵の拠点の攻略戦に参加、報道の任務を遂行しながら、12月12日か13日、死線を越えて南京城中山門から、なお戦火おさまらぬ城内へと入ったのであるが、この間に取材した2人の将校による「百人斬り競争」の特電(同僚浅海一男君との連名)と日本軍による「南京大虐殺」のレポート(戦時中は厳しい検閲のために書けず、戦後の1971年11月号、雑誌『丸』からの注文原稿)が前記3氏によって問題視され、勝手な推理、浅薄な証言、一方的な追究調査で、それは”デッチあげ””フィクション””伝説””神話”とされて、これが、前記『文藝春秋』5月特別号と、1972年(昭和47年)『諸君』4月号で取り上げられた。私は、私ども現場記者の証言として動かす事の出来ない真実の報道を”フィクション”視された事に就いて、真実である事の原稿を、同誌の田中編集長氏(当時)に、特に「百人斬り」に就いて、「載せてほしい」と送ったのであるが、何の反応もなく、見殺しにされてしまった。この一方的な扱いに対し腹が立ち同誌の他の内容に関しても、「も早、いい加減なもの」として購読を止めて了ったのである。

                              「真実」報道への前進 

 2人の将校の百人を越す敵兵斬殺が”まぼろしの虐殺”記事とされ、更に”まぼろし”が拡大解釈?されて『南京大虐殺のまぼろし』(鈴木明著)となり、これが大宅壮一賞を受賞する事になるのであるが、私どもより少し遅れて南京城に入って虐殺のすさまじさを知った大宅さんも地下で苦笑っしているに違いない。

 一体、昼夜を分かたず、兵、或いは将校たちと戦野に起居し、銃弾をくぐりながらの従軍記者が、冗談にしろニュースのデッチ上げが出来るであろうか。私にはとてもそんな度胸はない。南京城の近く紫金山の麓で、彼我砲撃のさ中に”ゴール”迫った2人の将校から直接耳にした斬殺数の事は、今から39年前の事とはいえ忘れることは出来ない。南京入城の際私は30歳、この従軍を加えて、幼児からしばしば死に直面したが、他の事は忘却しても、死に直面の場面は今でも鮮やかに脳裡に浮かぶのである。…(以下略)

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南京事件 ティンバーリイ著「外国人の見た日本軍の暴行」

2015年07月02日 | 国際・政治

 評伝社から出版された「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」の著者「Harold John Timperley」の日本語表記は、同書では「ティンバーリイ」となっているが、いろいろあり、多くの場合「ティンパーリ」とか「ティンパレー」などと表記されているようである。そして、彼は「南京大虐殺はなかった」と主張する人たちから「南京大虐殺を造りあげた中心人物」と見なされているようである。
 ティンパーリは、当時南京にはおらず上海で活動していたのにも関わらず「外国人の見た日本軍の暴行」を出版したことが一因のようである。しかし、彼は、当時南京にいた残留外国人が友人に宛てた手紙や報告、南京難民区国際委員会が日本大使館をはじめ米・英・独大使館等に発した公信、また上海全国基督教総会に宛てた電報等をそのまま利用して同書を出版するに至った事実を見逃してはならないと思う。

 ティンパーリは同書の「」に、一新聞記者としての職責から南京の情報をマンチェスター・ガーディアン紙に送らなければならないと考え記事を打電したが、上海の日本側電報検閲官に差し止められ、何度交渉しても受け入れられなかったと書いている。そこで彼は、「文献証拠」の「蒐集」を決意し、それを公表すべく、同書の著述・出版に取り組んだという。
 そして、同書に「載録した記録、報告、文件」は「絶対に信頼し得べき第三者の提供したものに限り」、また、「個人的書信類も純然たる個人的書信ならびに友人関係の通信を除いた原文の抄録を採用し、その真実性の保持に努めた」と書いている。さらに、付録四とした文件(「国際委員会書簡文」)は、全文を引用し、また書信類および文件の原文、複写はすべて眼を通して保存し、写真およびその他の証拠は「再検に備えた」という。

 上海で活躍したティンパーリが多くの中国人の信頼を得て、中国で様々な役割を引き受けていたとしても不思議ではない。しかしそれを根拠に、「─実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」に書かれていることが、全部「」であり、「でっち上げ」であり、「捏造」であると全否定するのは、いかがなものかと思う。また、同書を読めば、彼が当時南京いたかどうかは問題ではないことがわかる。

 下記は、同書の第一章「南京の生き地獄」からの抜粋であるが、大部分、当時南京に残留した2人の外国人が友人に宛てた手紙の文章である。彼自身は、南京の事件に関しては何も書いていない。
 その第二章「掠奪、虐殺、強姦」は、「16日以後の事件について、彼は日記に次のように記している」とはじまる残留外国人(一章と同じ)の日記文である。
 第三章「甘き欺瞞と血腥き暴行」は「昨年12月下旬、日本軍当局は金陵大学(米国系クリスチャン学校にして50年前に設立さる)の難民3万余名に対し登記を命令した。南京の居住者は一人残らず登記しなければならなかった。同校の外国人教授は12月31日の覚書と1月3日の日記に基づいて、1月25日左のごとき報告を寄せている」とはじまる報告文である。
 以下同様で、その第八章まで、ほとんどティンパーリが「絶対に信頼し得べき第三者」から「蒐集」したという資料の文章なのである。第九章の「結論」のみがティンパーリの文章であるといえる。そして、付録として日本当局に提出された暴行報告や日本の報道記事、国際委員会の書簡文、各城市攻略の日本軍部隊などの資料を付けているのである。

 下記は、「実録・南京大虐殺─ 外国人の見た日本軍の暴行」ティンバーリイ原著・訳者不詳(評伝社)(What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor GollanczLtd,1938)から「第一章」の一部を抜粋したものである。

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                              第一章 南京の生き地獄
 ・・・
 …次の文章は南京において尊敬と声望を得、その態度公正ををもって聞こえた一外人が12月15日上海の友人のもとに送った手紙で、日本軍の南京占領後数日間の情況を要領よく明確に叙述している。『南京の日本軍は既にその声望を失墜した。日本軍は中国人民および外国人居留民の尊敬を獲得すべき最も良き機会を得たにもかかわらず、自らそれを放棄してしまった。南京撤退の際の中国政府および中国軍隊の秩序は紊乱していた。多くの人々は日本は従来とも秩序と組織を誇る国家であるから日本軍の南京攻略に当たっても妙なことはあるまいと安心し、また戦争の緊張、空爆の危険も近く終わるものと考えていた。中国軍の南京撤退の際は実際には大部分の市区は少しも損害をもうむってはいなかったが、ただその紊乱状態は一種の恐怖症状を惹起していた。しこうしてそれも現在に至ってようやく収まりつつあった。

 しかるに日本軍の入城後2日間にして我々の希望のすべては無慙にも破れてしまった。絶えざる虐殺、大規模の計画的掠奪、家宅侵入、婦女陵辱等一切はすべて無統制であった。外国人居留民は事実その眼で路上に充満する良民の死体を見た。南京中区では辻ごとに必ず一個の死体が転がっていた。その大部分は13日午後および夜間日本軍の入城時に銃殺もしくは刺殺されたものであった。恐怖と興奮のために駆け出せば射殺され、また夜間日本軍の巡邏は人さえ見れば発砲する可能性があった。かかる暴行は全然弁護の余地がない。難民区でもその他の場所でも事情は同様であった。我々外国人および相当地位ある中国人は、かかる暴行、残酷無慙な殺人行為を野蛮人の所為と断定した。

 撤退できなかった中国兵はすべて武器を放棄し、ある者は制服さえ脱いだが、日本軍は大規模にこれを捜査しては捕縛して銃殺した。私達の聞いたところによれば、銃殺予定の捕虜および臨時の軍夫を除けば日本軍内には中国兵の俘虜はいなかった。日本軍は中国の警官を強迫して難民区の中から4百人の難民を引っ張り出し、50人を単位に一列に並ばせ、小銃、機関銃で背後から威脅しつつ引いて行った。その運命や知るべきである。

 日本軍は入城後重要地区に対して計画的破壊工作を行い、大小の店舗一として無事なるものはなかった。日本軍の最も欲したものは食糧であった。従ってその他のものはたとえ貴重なものでも棄てて顧みなかった。大量の物資は日本兵自身では持ち運べないので強制拉夫を行った。南京の家という家、たとえばそれが占領されていようとなかろうと、またその規模の大小を問わず、中国人の所有、外国人の所有の別なく、すべて日本軍によって一物余さず掠奪された。次の数個の例は無恥の最たるものである。第一、日本軍は収容所およびその他の避難民に対して掠奪行為を働いた。第二、日本軍は鼓楼病院職員から金銭および時計を、また看護婦の宿舎にあった物品を掠奪した(鼓楼病院は米国人の財産で米国旗が掲げられ、米国大使館の告示が貼ってあった)。第三、日本軍はそこにあった自動車および財産を奪い、掲げてあった国章をも毀損した。

 婦女陵辱および強姦についても既にずいぶん聞いている。ただ我々には調査の暇がないだけである。しかし次の幾多の例は十分に情勢の重大性を証明している。我々の友人の一人は昨日日本兵が近隣の家屋に闖入し、4人の姑娘を拉致して行った。また幾人かの外国人は、新しく移ってきた将校の宿舎に8人の若い女がいるのを見た。しかもそこには彼以外に誰も住んでいない家だった。

 恐怖の程度はとうてい筆墨のつくし得るところではなかった。日本の要人連中が恥ずかしげもなく彼らの対華作戦の目標は中国政府打倒、中国民衆救済にありと大言壮語するに至っては噴飯物ではないか。

 もちろん南京の日本軍の種々な残酷無情な行為は、日本帝国の偉大な功績を代表するものではない。日本には幾多の責任ある政治家も軍人も国民もいる。ただ彼らは日本自身の利益のみを打算し、毫も中国の低き地位を補救することを考えないだけである。少数の兵、将校は確かに紀律を厳守し、日本皇軍および帝国の声望を考えた。だが、日本軍全体の行動は日本に対して大なる打撃を与えることとなったのである。』

 また別の外国人で南京に居住する友人の一人は、上海の友人に次のような事実を報告している。彼はほとんどその生涯を中国で送った人である。その内容のうち個人関係のものを除いて原文を抄録しよう。

『私は貴下に極めて不愉快な事件をお知らせしなければならない。貴下はこれを読んであるいは気持ちを悪くされるかも知れない。罪悪と恐怖に充たされた事件で、おそらく信じられぬことと思う。一群の匪徒は憐憫の情もなく和平善良な人民を蹂躙した。この手紙が幾人かの友人に読まれると思うと、私もこの事件をお知らせする甲斐がある。そうでなければ私の良心が許さないであろう。この事件は数人の人が知っているだけで、私もその中の一人である。また次に書くことは事件の一小部分に過ぎず、それにこれがいつ終了するかは私も断定出来ない。もちろん私はこれが一刻も早く終了することを望んでいるが、ただおそらくは中国の他の地方においても同様の事件が再び継続して起こることと想像している。私はこれこそ現代史上未曾有の残虐な記録であると信じている。

 今日はちょうどクリスマス・イブに当たるが、事件は12月10日にまでさかのぼって書かなければならない。この2週間に私達は大きな変化を経験した。中国軍が撤退し、日本軍が入城した。12月10日は南京は従前通り美しく秩序も井然としていた。しかし掠奪後の南京は満目荒涼として一片の焦土と化し、至るところ破壊の跡のみである。南京は全く無政府状態に陥って既に10日を経て、あたかも人間地獄の観があった。私はいまだ真の危険には遭っていなかったが、もしも野獣性の強い日本兵か、酔っ払った日本兵の強姦を行っている地区にいたならば決して安全とは言いえなかった。日本兵に軍刀か小銃で威脅されればその暴行を許すよりほかなかった。貴下でもそのような場面にぶつかれば途方に暮れることと思う。日本軍は各国
居留民に対して南京より離れるように通告し、外国人がここに居留することを嫌った

彼らは傍観者を喜ばなかった。しかし私達はここに留まってこの日本軍が最も憐れむべき貧乏人に対しても一枚の銅幣一切の綿糸をも持つことを許さず(ちょうど厳冬であった)、黄包車夫の車さえ取り上げるのを見た。私達は日本軍が難民区より幾百幾千の非武装の中国兵を連れ出して銃殺し、あるいは銃剣術の練習台にするのを見た。また明瞭な銃声を耳にすることもあった。私達は多くの婦女子が面前に跪坐し、驚愕のあまり悲歎に崩れながら助けを求めているのを見た。私達は日本軍が私達の国旗を侮蔑し、私達の住宅を掠奪するのを見た。私達は私達の愛する城市および私達の事務所が日本軍の計画的放火によって焼かれるのを見た。これは私が生まれて初めて見た生き地獄であった。

私達は自問した。一体いつになったならば終わるのであろうかと。日本側官憲は毎日私達に対して事態は近く好転するであろうと確信し、方策の万全を講じたが、その結果は常に逆で事態は日一日と悪化した。聞けばまたまた2万の日本軍が南京に到着すると伝えられている。彼らは更に掠奪、虐殺、強姦を行うのであろうか。しかし掠奪に供される物資は既に極めて少なく、南京は空巣となっていた。先週中に日本軍は各商店、各倉庫のストックを一台また一台と自動車で運び出しては、その家を焼き払っていた。私達は私達の持っている食糧を20万の難民に供給すれば、僅か3週間で使い果たし、燃料の貯蔵も僅か10日間に過ぎぬのを知って焦慮していた。しかしたとえ3ヶ月分の食糧があったとしても、3週間の後には一体何を食べ
ていけばよいのか。家も破壊された。どこへ行って住むのか。現在の極めて劣悪な環境では疾病と悪疫が近く発生することが予想される。難民は決して永く生きていけないであろう。

 私達は毎日日本大使館に抗議してその注意を喚起した。日本軍の暴行の詳細な報告を提出した。大使館当局者は表面上は極めて丁重に応待はしたが、実際的には何らの権力もなかった。勝てる皇軍は当然の報酬として自由掠奪、虐殺、強姦等想像に絶する野蛮残酷な暴行を日本が従来世界に公告したいわゆる「中日親善」の相手たる中国人の頭上に加えた。日本軍の南京における暴行が現代史上最も暗黒なる一ページであることは疑いない。

 過去10日間の事件を一々詳細に書くならば、あるいはいささか冗長なるを免れないであろう。しかしこれらの事実が世人に明瞭となるときは、惜しいかな既に新聞ではなく旧聞となっているであろう。日本は務めて国外に対して、南京は既に秩序を回復し、南京の住民は旗を振って慈悲深い皇軍を歓迎していると宣伝した。しかし私の日記の上には皮肉にもちょうどこの期間に発生した比較的重要な記録が記されてある。興味深く読まれる方もあると考え、次にこれを発表して一つの永久の記念としたいと思う。

 この手紙に書かれた事実はあるいは手紙の日付と時日の点で食い違いがあるかもしれない。これは日本側の検閲が極めて厳重であったので一度に出さずに留めておいたからである。不運なかの砲艦パネー号および美孚公司の汽船に乗船して南京陥落以前に南京を離れた米国大使館員およびその他各国の大使館員、外国商人は初めから一週間以内に南京に帰れるものと希望していた。しかし今では(もちろん日本機の爆撃も受けず、死傷もしない人々についてではあるが)かえって上流で首を長くして南京に帰れるのを待っている人達であった。彼らはあと2週間もすれば南京に帰ることが出来るであろう。だが私達は南京を離れれば全くそれは永遠の離別であった。私達は事実上日本軍の俘虜であった。

 私が前述の手紙の中で書いたように南京難民区国際委員会は中日双方に交渉して難民区の中立的地位を承認せしめて軍隊の駐屯、軍事機関の設立を行わず、爆撃目標ともしないことを要求し、南京に残留した20万の住民の最も危険時における避難所としたいと努力した。私達は中国の軍隊が上海付近で示した抵抗力は現在では既に撃破され、その戦闘精神も既に大打撃を受けているとみていた。中国軍が日本軍の大砲、飛行機、タンクの優勢な火力に長期にわたって抵抗することは不可能であったし、更に杭州湾上陸に成功した日本軍が中国軍の側面および後方を衝いたので南京の陥落は既に免れえないところであった。

 12月1日南京市長馬超俊氏は難民区の行政責任を我々に交付し、同時に450名の警察官、3万担の米、一万担の麺粉、塩および10万ドルの助成金交付方許可を手交し、事実我々は間もなく8万ドルを確実に受け取った。首都衛戌総司令唐生智将軍も心からこれに協力し、難民区中の軍事施設を撤去するとともに軍記と秩序の厳正を保った。12日の日本軍の入城以前までこの状態が保たれた。たまたま掠奪事件もあったが、少数の食物に限られていた。外国人の財産は最も注意が払われていた。10日までは水道も出た。11日までは電灯もついていた。そして日本軍の入城する直前に至って初めて電話が不通になった。日本軍の爆撃機は難民区を目標にしていない様子だったので、当時はまだある程度安全であった。現在の有様に較べると全く天国と地獄である。もとろん私達にも若干の困難はあった。米は城外に積んであったので、人夫は弾の飛ぶところまで行ってその積替えをしなければならなかった。そのために運転手の一人は眼を負傷したし、また2輌の自動車が抑留されたこともあった。しかし、これをその後の困難に数えれば全く問題にもならなかった。

 12月10日難民は急激に増加し・・・以下略』

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