真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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二・二六事件蹶起将校・村中大尉の「丹心録」

2019年01月29日 | 国際・政治

 戦後の日本の価値観で受け止めると、二・二六事件の蹶起将校は、野蛮なテロリストであり、人殺しです。しかしながら、二・二六事件当時の日本は、記紀神話に由来する「万世一系の天皇」が統治する「神国」であり「神州」でした。だから、「忠君愛国」や「七生報国」が重視され、人命や人権は二の次の国だったのです。

 その日本が、二・二六事件当時、未曽有の経済的不況にあり、蹶起将校たちの多くが、何もしないで傍観していることができない心境であったことを語っています。また、昭和五年の倫敦条約、同十年の天皇機関説事件、さらには、真崎教育総監更迭問題など、皇軍の権威や権限の源である統帥権が犯され続けていることに危機感を募らせていました。だから、「元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥」などの、いわゆる「特権階級」の失政・失態を打破し、昭和維新を断行しなければ、皇国日本は滅びると考えて蹶起したのです。

 蹶起将校の一人、村中孝次大尉は、 下記「丹心録」にあるように


純乎として純なる殉国の赤誠至情に駆られて、国体を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり


と書いています。この「皇国本然ノ真姿ヲ顕現セシムガ為」の蹶起を、一旦、大臣告示で「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」と評価しておきながら、軍上層部は、鎮圧の見通しが立ったからか、その後、突然対応を変化させました。そして、奉勅命令下達の事実をうやむやにしたまま「大命に抗したり」として、彼等を処刑してしまうのです。軍上層部を含む「特権階級」は、狡猾であり、野蛮であり、恐ろしいと思います。

 また、彼は「丹心録」に


藤田東湖の回天史詩に曰く「苟も大義を明かにして民心を正さば皇道奚(イズク)んぞ興起せざるを」と。国体の大義を正し、国民精神の興起を計るはこれ維新の基調、而して維新の端は茲に発するものにあらずや。吾人は昭和維新の達成を熱願す、而して吾人の担当し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、豈微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当たらんと企図せるものならんや。

 と書いています。私利私欲で蹶起するのでないことはもちろん、自分たちが権力を奪取して、自分たちの思い通りの政治をしようとするものでもないということを強調しているのです。「一死挺身の犠牲を覚悟せる同志の集団」は、ただひたすら、皇国日本の「」のために「」を討ち、国民精神の興起を促して「昭和維新の端緒を開かん」としたということです。したがって、彼等は「皇国日本」にとっては、誇るべき人たちであり、処刑されるような人たちではないはずなのです。

 村中孝次大尉は、裁判官が「国体を護持せんとせし真精神」を認めておきながら、「建軍の本義を破壊せる罪悪むべし」として、「最大限度の極刑を以てせる」判決を下したことに対して

 ”日本の青年将校、日本の武学生は国体破壊を未然に防止する為、敢死して戦ふなり、軍秩序の破壊の如き微々たる些事、これを恢復するは多少の努力を以てすれば足る、国体の破壊は神州の崩壊なり、真日本の滅亡なり、故に他の一切を犠牲にして国体護持の為に戦はざるべからず。


 と主張し、反論しています。

 自ら命を投げ出して「昭和維新の端緒を開かん」とした蹶起の覚悟や、「蹶起趣意書」に書かれた内容を考慮せず、彼等の行動を、一部将校の単なる反乱、あるいはクーデターとすること、また、内大臣斎藤実や蔵相高橋是清、陸軍教育総監渡辺錠太郎らを殺害したという事実や、殺害の状況だけを語り、彼らの処刑の正当性を問わないことは、彼等が「奸賊」と見なした人たちの事件処理を追認することになるように思います。

 私は、薩長を中心とする政権がつくった「皇国日本」では、その精神を重んじる若者が、「元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥」などの、いわゆる「特権階級」の行う私利私欲がらみの政治や経済活動を受け入れることができず、蹶起することが避けられなかったように思います。だから、二・二六事件は、「皇国日本」の抱えた矛盾が生んだ事件だと思うのです。

 下記は、「二・二六事件 獄中手記・遺書」河野司編(河出書房新社)から、「丹心録」全文と「続丹心録」の一部を抜粋したものです。<丹心(タンシン)=真心・赤心>
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                           丹心録

 贈  妻 静子
  昭和十一年七月六日
 吾等は護国救世の念願抑止し難く、捨身奉公の忠魂噴騰して今次の挙を敢てせり。而して一度蹶起するや、群少の妬心、反感を抱ける者、吾人の志を成さざらんとして中傷毀貶至らざるなきが如し。余や憂国慨世日夜奔馳すること四周星、歴さに辛苦艱難す。君盡く是れを知る。即今論難嘲罵集り臻(キタル)るとも些かも心頭の動揺なきを信ず。然りと雖も挙世非とする時、独り操守して動ぜざるは大丈夫と雖も難しとする所なり。故に世上に論難非議する所の失当なる所以を事実に即して釈明し、白眼冷視に対して君を護らんとす。

 自ら慰め自ら安じ得れば以つて足れり、決して喋々する勿れ、人に捜見せしむる勿れ。
 第一、今回の決行目的はクーデターを敢行し、戒厳令を宣布し軍政権を樹立して昭和維新を断行し、以つて北一輝著「日本改造法案大綱」を実現するに在りとなすは是れ悉く誤れり。群盲象を評するに非ざれば、自家の曲れる尺度を以つて他を忖度量定するの類なり。

 一、吾人は「クーデーター」を企図するものに非ず、武力を以つて政権を奪取せんとする野心私慾に基いて此挙を為せるものに非ず、吾人の念願する所は一昭和維新招来の為に大義を宣明にするに在り。昭和維新の端緒を開かんとせしにあり。
 従来企図せられたる三月事件、十月事件、十月ファッショ事件、神兵隊事件、大本教事件は悉く自ら政権を掌握して改新を断行せんとせしに非ざるはなし。吾曹(ゴソウ)盡く是れを非とし来れり。

 抑々(ソモソモ)維新とは国民の精神覚醒を基本とする組織機構の改廃ならざるべからず。然るに多くは制度機構のみの改新を云為する結果、自らの理想とする建設案を以つて是れを世に行はんとして、遂に武力を擁して権を専らにせんと企図するに至る。而して斯くの如くして成立せる国家の改造は、其輪奐の美瑤瓊なりと雖も遂に是れ砂上の楼閣に過ぎず、国民を頣使(イシ)し、国民を抑圧して築きたるものは国民自身の城郭なりと思惟する能はず、民心の微妙なる意の変を激成し高楼空しく潰へんのみ。

 一、之に反し国民の精神飛躍により、挙世的一大覚醒を以つて改造の実現に進むときう、茲に初めて堅実不退転の建設を見るべく、外形は学者の机上に於ける空想図には及ばずと雖も、其の実質的価値の遥かに是れを凌駕すべきは万々なり、吾人は維新とは国民の精神革命を第一義とし、物質的改造は之に次いで来るべきものなるの精神主義を堅持せんと欲す。而して今や昭和維新に於ける精神革命の根本基調たるべきは、実に国体に対する覚醒に在り、明治維新は各藩志士の間に欝勃(ウツボツ)として興起せる尊王心によつて成り、建武の中興は当時の武士の国体観なく尊王の大義に昏(クラ)く滔々私慾に趨りし為、梟雄(キョウユウ)尊氏の乗ずる所となり敗衂(ハイジク)せり。

一、而して明治末期以降、人心の荒怠(コウタイ)と外国思想の無批判的流入とにより、三千年一貫の尊厳秀絶なるこの皇国体に、社会理想を発見し得ざるの徒、相率いて自由主義に奔り、「デモクラシー」を謳歌し、再転して社会主義、共産主義に狂奔し、茲に天皇機関説思想者流の乗じて以て議会中心主義、憲政常道なる国体背反の主張を公然高唱強調して、隠然幕府再現の事態を醸せり。之れ一に明治大帝により確立復古せられたる国体理想に対する国民的信認なきによる、茲に於てか倫敦条約当時に於ける統帥権干犯事実を捉へ来つて、佐郷屋留雄先づ慨然奮起し、次で血盟団、五・一五両事件の憂国の士の蹶起を庶幾せりと雖も未だ決河の大勢をなすに至らず、吾等即ち全国民の魂の奥底より覚醒せしむる為、一大衝撃を以て警世の乱鐘とすることを避く可からざる方策なりと信じ、頃来期する所あり、機縁至つて今回の挙を決行せしなり。

 藤田東湖の回天史詩に曰く「苟も大義を明かにして民心を正さば皇道奚(イズク)んぞ興起せざるを」と。国体の大義を正し、国民精神の興起を計るはこれ維新の基調、而して維新の端は茲に発するものにあらずや。吾人は昭和維新の達成を熱願す、而して吾人の担当し得る任は、敍上精神革命の先駆たるにあるのみ、豈微々たる吾曹の士が廟堂に立ち改造の衝に当たらんと企図せるものならんや。

 第二、吾人は三月事件、十月事件等の如き「クーデター」は国体破壊なることを強調し、諤々として今日迄諫論し来れり。苟も兵力を用ひて大権の発動を強要し奉るが如き結果を招来せば、至尊の尊厳、国体の権威を奈何(イカン)せん、故に吾人の行動は飽く迄も一死挺身の犠牲を覚悟せる同志の集団ならざるべからず。一兵に至る迄不義奸害に天誅を下さんとする決意の同志ならざるべからずと主唱し来れり。国体護持の為に天剣を揮ひたる相沢中佐の多くが集団せるもの、即ち相沢大尉より相沢中、少尉、相沢一等兵、二等兵が集団せるものならざるべからずと懇望し来れり。此数年来、余の深く心を用ひし所は実に茲に在り。故に吾人同志間には兵力を以て至尊を強要し奉らんとするが如き不敵なる意図は極微と雖もあらず、純乎として純なる殉国の赤誠至情に駆られて、国体を冒す奸賊を誅戮せんとして蹶起せるものなり。吾曹の同志、豈に政治的野望を抱き、乃至は自己の胸中に描く形而下の制度機構の実現を妄想して此挙をなせるものならんや。吾人は身を以て大義を宣明せしなり。国体を護持せるものなり。而してこれやがて維新の振基たり、維新の第一歩なることは今後に於ける国民精神の変移が如実にこれを実証すべし、今、百万言を費すも物質論的頭脳の者に理解せしめ能わざるを悲しむ。

 一、吾人の蹶起の目的は蹶起趣意書に明記せるが如し。本趣意書は二月二十四日、北一輝氏宅の仏間、明治大帝御尊像の御前に於て神仏照覧の下に、余の起草せるもの、或は不文にして意を盡さずと雖も、一貫せる大精神に於ては天地神冥を欺かざる同志一同の至誠衷情の流露なるを信ず。真に皇国の為に憂ひて諫死奉公を期したる一千士の純忠至情の赤誠を否認せんとする各種の言動多きは、日本人の権威の為に悲しまざるを得ず。

一、軍政府樹立を企図せりと謂ひ、或は組閣名簿の準備ありしと言ふ、皇族殿下を奉じて軍政府を樹立し、改新を断行せんとする陸軍一部幕僚の思想にして、吾人は是に反対するものなり。軍政府樹立、而して戒厳宣布、是れ正に武家政治への逆進なり、国体観上吾人の到底同意し能はざる所なりとす。又今日果して政治的経綸を有する軍人存するや否や、軍政府なる武人政治が国政を燮理(ショウリ)して過誤なきを得るや否や。国民は軍部の傀儡となり其頣使(イシ)を甘受するものに非ず、軍権と戒厳令とが万事を決すべしとは、中世封建時代の思想なり、今の国民は往時の町人に非ず、一路平等に大政を翼賛せんとする自負と欲求とを有す。剣を以て満州を解決せしが如く、国内改造を断行し得べしとする思想の愚劣にして危険なるを痛感しあり、従つて吾人は軍政権に反対し、国民の一大覚醒運動による国家の飛躍を期待し、これを維新の根本基調と考ふるものなり。吾人は国民運動の前衛戦敢行したるに留まる、今後全国的、全国民的維新運動が展開せらるべく、茲に不世出の英傑簇出、地涌し、大業輔翼の任に当たるべく、これを真の維新と言ふべし。

 国民のこの覚醒運動なくしては、区々たる軍政府とか或は真崎の内閣、柳川内閣と言ふが如き出現によつて現在の国難を打開し得べけんや。
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                             続丹心録
一、昭和十一年七月五日午前九時より判決の宣告ありて十七士死刑を宣せられる。
一、判決文に於て不肖等の国体を護持せんとせし真精神を認め、而して建軍の本義を破壊せる罪悪むべしとなして、臨むに最大限度の極刑を以てせることを示されたり、果して然らば国体破壊の事実を眼前に見ながら、袖手傍観すべしとなすか、帝政露西亜の崩壊するや最後迄宮廷を守護し戦つて殉じたるは士官学校幼年学校の生徒なりき。斯る最期の場面に立至らざる為に、帝政露西亜の純情なる「カデット」(士官候補生)が皇室に殉ぜしと異りて、日本の青年将校、日本の武学生は国体破壊を未然に防止する為、敢死して戦ふなり、軍秩序の破壊の如き微々たる些事、これを恢復するは多少の努力を以てすれば足る、国体の破壊は神州の崩壊なり、真日本の滅亡なり、故に他の一切を犠牲にして国体護持の為に戦はざるべからず。我国体は万国冠絶唯一独在のものなり、而して三千年一貫連綿せる所以のものは、上に神霊の加護冥助あると、歴代聖徳相承けしとによるは勿論と雖も、又此の皇国体を護持発展せしめんとせし国民的努力を無視すべからず、上下この努力を以て万国冠絶を致せるもの豈一日偶然に生じたるものならんや、千丈の堤も一蟻穴より崩る、三千年努力の結晶も天皇機関説、共産思想の如き目に見えざる浸潤によりて崩壊せらる、万国冠絶なるが故にこれを保持し、更に理想化する為、今後国民の絶対翼賛を要することを全国民とその後昆に宣言せんと欲するものなり、国体の為には一切を放擲し、一切を犠牲にせざるべからず。

一、我国体は上に万世一系連綿不変の天皇を奉戴し、この万世一神の天皇を中心とせる全国民の生命的結合なることに於て、万邦無比と謂はざるべからず、我国体の真髄は実に茲に存す。

一、天子を中心とする全国民の渾一的生命体なるが故に、躍々として統一ある生命発展生成化育を遂ぐるなり、これを人類発展の軌範的体系といふべく、之を措いて他に社会理想あるべからず。

一、我国体の最大弱点は又此絶対長所と、表裏の関係に於て存す、天皇絶対神聖なるに乗じ、天皇を擁して天下に号令し、私利私慾を逞ふせんとするものの現出により、日本国体は又最悪の作用を生ず。蘇我、藤原氏の専横、武家政治の出現、近くは閥族政治、政党政治等比々皆然り。
 天皇と国民と直通一体なるとき、日本は隆々発展し、権臣武門両者を分断して専横を極むるや、皇道陵夷して国民は塗炭す、歴史を繙けば瞭然指摘し得べし。全日本国民は国体に対する大自覚、大覚醒を以て其の官民たると職の貴賤、社会的国家的階級の高下なるを問はず、一路平等に天皇に直通直参し、天皇の赤子として奉公翼賛に当り、真に天皇を中心生命とする渾一的生命体の完成に進まざるべからず。故に不肖は、日本全国民に須らく眼を国家の大局に注ぎ、国家百年の為に「自主的活動をなす自主的人格国民ならざるべからざることを主張するものなり。国民は断じて一部の官僚、軍閥、政党、財閥、重臣等の頤使に甘んずる無自覚、卑屈なる奴隷なるべからず、又国体を無視し国家を離れたる利己主義の徒なるべからず、生命体の生命的発展は自治と統一とにあり、日本国家の生々躍々たる生命的発展は、自主的自覚国民の自治(修身斉家治国)と、然り而してこの自覚国民が一路平等に(精神的にこれを言ふなり、形式の問題にあらず)至尊に直通直参する精神的結合によりて発揮せらるる真の統一性によりてのみ期待し得べし、天皇と国民とを分断する一切は断乎排除せざれば日本の不幸なり、国体危し。
 ・・・ 以下略

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二・二六事件蹶起将校の「獄中手記・遺書」が語る真実

2019年01月24日 | 国際・政治

 薩長が主導する尊王攘夷急進派は、明治維新によって、万世一系の天皇が統治する「皇国日本」をつくりました。ところが、その「皇国日本」は、薩長のための日本という面があり、藤田東湖や吉田松陰がいうような「君臣一体、忠孝一致」の皇国にはなりませんでした。

 そこで、昭和十一年二月二十六日、青年将校たちが、「尊王討奸」をかかげ「国体ノ本義ニ悖リ、大権ノ尊厳ヲ軽ンジ、相倚(ヨ)リ相扶(タス)ケテ私利私慾ヲ肆(ホシイママ)ニシ、国政ヲ紊(ミダ)リ、国威ヲ失墜セル」「元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等」の「所謂特権階級」を打倒して、「皇国本然ノ真姿ヲ顕現セシムガ為」蹶起し、昭和維新を実現しようとしたのが、いわゆる「二・二六事件」だと思います。

 ところが悲しいことに、蹶起した青年将校たちは、幕末に尊王攘夷をかかげ、幕府要人を次々に暗殺したり、「異国人は神州を汚す」として「異人斬り」をくり返した志士の野蛮性をそのまま引き継いでいます。明治維新以降、神道が国教化されたために、社会が大きく変化したにもかかわらず、国を支える思想は、昭和に至っても幕末のそれとほとんど変わらず、人権や人命尊重の思想が広まり、深まることはなかったのだと思います。

 下記資料1は、二・二六事件の中心メンバーの一人、磯部浅一の行動記から抜粋したものですが、 
 彼は、
”私は元来松陰の云つた所の 賊を討つのに時機が早いの おそいのと云ふ事は 功利感だ 悪を斬るのに時機はない 朝でも 晩でも 何時でもいゝ 悪は見つけ次第に討つ可きだとの考へが青年志士の中心の考へでなければいけない

と言っています。人権や人命よりも、皇国(神州)における「」を重んじ、「」を討たなければならないと考えていたことがわかります。吉田松陰の尊王論などに心酔し、現人神、天皇のために私利私欲に走る賊は討たなければならないという信念を持って、彼は行動したのだと思います。人権や人命尊重は、二の次の問題だったのでしょう。   
 大日本帝国憲法や軍人勅諭、教育勅語などで示された皇国(神州)の精神をしっかり身につけていたからこその蹶起であるだけに、その野蛮性は見逃すことができません。
 また、蹶起将校たちにとっては、当時の日本が、皇国(神州)では許されない「奸賊」の力が強い国であったということも、見逃すことができません。

 その後の日本軍夷兵士による捕虜斬殺や捕虜虐待、また、外国の軍隊ではほとんど例のない「万歳突撃」や「特攻」などの日本軍の野蛮性もまた、幕末の尊王思想や「國家統治ノ大權ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ傳フル所ナリ」という「国体」の精神と無縁ではないと思いますが、それはさて置き、国を憂える真面目で純粋な青年将校たちの蹶起は、狡猾な政治家や軍首脳によって、たくみに鎮圧されたことが、磯部浅一の獄中手記でわかります。まさに「奸賊」の勝利といえる経過が語られています。
 したがって、日本は、明治維新以来敗戦に至るまで、皇国(神州)の建前や精神とは矛盾する価値観で行動する「奸賊」の力が強い国であった、と言えるのではないかと思います。

 蹶起将校が、人を殺したという理由で裁かれたのであれば、理解できます。でも、磯部浅一は、「辞世」(資料3)に、「…天つ神国つみ神の勅をはたし 天のみ中に吾等は立てり…」と書いています。こうした辞世を書く磯部浅一が、天誅を下そうとした人たちに逆に「大命に抗したり」ということで処刑されたのです。蹶起将校が皆、口をそろえて「奉勅命令」は下達されなかったと言っているにもかかわらず、その事実をうやむやにしたまま、軍法会議で蹶起将校に死刑を宣告し、処刑した事実が、皇国(神州)日本の野蛮性とともに、二・二六事件の何たるか物語っているように思います。

 下記資料1~3は、「二・二六事件 獄中手記・遺書」河野司編(河出書房新社)から抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       磯部浅一 行動記 第二

 ・・・

一時パット高まった気分が段々落ちついて、東京も各地も同志はジックリ考える様になった、特に、在京の同志は一様に中佐にすまぬ、在京青年将校のいく地のない事が天下の物笑ひの種になるぞ猛省一番せねばならぬ秋だ、との考を起した様子がありありと見えた 栗原中尉の如きは 気鋭の青年将校を集めては絶えず慷慨痛憤していた、栗原君は某日余を訪ねて泣いた。「磯部さん あんたにはわかったもらへると思ふから云ふのですが、私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云つて 如何にも栗原だけがわるい様に云われている事を知っている 然し私はなぜ他の同志がもつともつと求心的になり私の様に居ても立つても居れない程の気分に迄進んで呉れないかと云ふことが残念です。栗原があわてるなど云つてわたしのかげ口を云ふ前に、なぜ自分の日和見的な怯懦(キョウダ)な性根を反省して呉れないのでせうか 今度相澤さんの事だつて青年将校がやる可きです。それに何ですか青年将校は 私は今迄は他をせめていましたが、もう何もいひません 唯自分でよく考へてやります 自分の力で必ずやります 然し希望して止まぬ事は 来年吾々が渡満する前迄には 在京の同志が 私と同様に急進的になつて呉れる事です、いや日本中の同志が私と同様に急進的になつて呉れたら維新は明日でも 今直ちにでも出来ます 栗原の急進 ヤルヤルは口癖だなどと 私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は 私は剣にかけて許しません 私は必ずやるから 磯部さん その積りで盡力して下さい」と 私は栗原から胸中を打ち明けられて自分でも先来期する当があつたので 「僕は僕の天命に向かつて最善をつくす 唯誓っておく 磯部は弱い男ですが 君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる 私は元来松陰の云つた所の 賊を討つのに時機が早いの おそいのと云ふ事は 功利感だ 悪を斬るのに時機はない 朝でも 晩でも 何時でもいゝ 悪は見つけ次第に討つ可きだとの考へが青年志士の中心の考へでなければいけない 志士が若いうちから老成して政治運動をしているのは見られたものではない、だから私は 今後刺客専門の修養をするつもりだ、大きな事を云つて居てもいざとなると人を斬るのはむすかしいよ、御互い修養しよう 他人がどうの こうのと云ふのは止めよう 君と二人だけでもやるつもりで準備しよう、村中、大蔵、香田(清貞)等にも私の考へや君の考へを話し 又むかふの心中もよくきいてみよう」と語りあつたのである

 ・・・ 
資料2ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        嘆願
   謹シミテ
百武侍従長閣下ニ嘆願奉リマス
                                北 輝次郎
                                        両人ハ  
                                西田  税 

 昭和十一年二月二十六日事件ニ関シテハ絶対ニ直接的ナ関係ハ無イノデアリマス、然ルニ陸軍現首脳部ハ故意ノ曲解ヲ以テ両人ヲ死刑ニセントシテオリマス、此ノ□上専断ナ裁判ハ上ハ
天皇陛下ノ御徳ヲ汚シ奉リ、下ハ国民ノ義心ニサカラヒ君国ノ為メ忍ビ難キモノデアリマス
速カニ事ノ真相ガ 上聞ニ達シ、両人ノ無実ノ罪ガトケル様ニナルコトヲ国家ノ為メ念願スル余リ、順序ヲ紊ルノ罪ヲ顧ミル暇ナク、両人助命ノ為メ閣下ノ御盡力ヲ賜リ度ク、伏シテ嘆願シ奉ル次第デアリマス
    恐懼謹言 磯部浅一  血判

ーーーーーー

                              獄中手記

 北、西田両氏の如き人を殺す様な日本は最早、少しの正義も残つておりません。日本国に少しでも正義が存在しており、一人でも正義の士が厳存して居るならば、必ず両氏はたすかると信じます。私は日夜両氏の助かる様、精魂を尽くして御祈りをしています。
 必ず両氏は助かります、
どうぞ此の確信のもとに百万の御手段を御とり下さる様にねがひます。

 一体なぜ、北、西田両氏を殺す様な次第になつたかを探求してみませう。
 寺内が重臣とケツ託して極刑方針を進んでゐるからであることは表面の現象です。「二月事件を極刑主義で裁かねばならなくなった最大の理由は、三月一日発表の「大命に抗したり」と云ふ一件です。
青年将校は奉勅命令に抗した、而して青年将校をかくさせたのは、北、西田だ、北等が首相官邸へ電ワをかけて「最後迄やれ」と扇動したのだ、と云ふのが軍部の遁辞です。
 青年将校と北と西田等が、奉勅命令に服従しなかったと云ふことにして之を殺さねば軍部自体が大変な失態をおかしたことになるのです。
 即ち、
 アワテ切った軍部は二月二十九日朝、青年将校は国賊なりの宣伝をはじめ、更に三月一日大アワテにアワテて「大命に抗したり」の発表をしました。所がよくよくしらべてみると、奉勅命令は下達されてゐない。下達しない命令に抗すると云ふことはない。サァ事が面倒になつた。今更宮内省発表の取消しも出来ず、それかと云つて刑務所に収容してしまつた青年将校に、奉勅命令を下達するわけにもゆかず、加之(シカノミナラズ)、大臣告示では行動を認め、戒厳命令では警備を命じてゐるのでどうにも、かうにもならなくなつた。軍部は困り抜いたあげくのはて、
 ①大臣告示は説得案にして行動を認めたるに非ず
 ②戒厳命令は謀略なり
との申合せをして
 ㋑奉勅命令は下達した。と云ふことにして奉勅命令の方を活かし、
 ㋺大命に抗したりと云ふ宮内省発表を活かして
一切合財の責任を青年将校と北、西田になすりつけたのです。この基礎作業は寺内がしたのではなくて、川島を中心とする当時の軍首脳部がしたのです。
 二月事件を明らかにするには、どうしても此の軍部のインチキをバクロせねば駄目です。
「大命に抗したり」「国賊なり」と云ふ黒い幕で蔽はれたまま、如何にこちらが大臣告示と戒厳命令を主張しても一切はむだです。泥棒が忠孝仁義を説く様なものです。
 北、西田両氏を救ふには、此の点を充分に考へて作戦を立てねばならんと思ひます。即ち軍部の云ひ分である所の「青年将校を扇動し勅命に抗せしめたるは北、西田なり」に対して、こちらはアク迄も「奉勅命令は下達せられず、下達せざる命令に抗すると云ふ理屈なし、抗せざる青年将校に対して抗したりと発表せる軍閥と重臣の、陛下と国民に対する責任を問ふ」と攻撃してゆかねばならぬと思ひます。
「奉勅命令に抗したりや否やと云ふ問題は、司法問題としては大した事はない、それよりも反乱をしたと云ふことが大事な問題だ、だから奉勅命令については、吾々(法ム官)は力コブを入れてしらべる必要はない、吾々の必要なのは反乱の事実だ」と云ふのが、法務官の云ひ分でありました。然しコレハ軍部の極めてズルイ遁辞です。奉勅命令を問題にされると、軍部はタマラない立場におかれるからです。
 すべて道はローマに通ずではありませんが、すべての問題は奉勅命令のインチキから発してゐるのです。ですから、その出発点のインチキを先づ第一に攻撃せねばなりません。これが為には川島、香椎、山下、村上等を俎上にのぼせねばなりません。

 これを俎上にのぼすことが、寺内を危地に陥し、湯浅を落すことになるのです。
 世間でも、刑務所内の同志でも、唯感情的に寺内をウランだりしてゐる風がありますが、唯寺内ダケヲウランでも駄目です。
 奉勅命令と大臣告示と警備命令(戒厳命令)をシッカリと認識して、二月事件当時にさかのぼつて堂々と理論的に攻撃し、国民の正義心に訴へて軍部そのものをヤッツケる事をせねばならんのではありますまいか。

 或る法務官が私に「青年将校はエライ、こんな人達を殺すのは惜しい。実は下士官兵を罰しないことにしたので、青年将校を殺さねばならなくなった」ともらしました。然り然りです。川島、真崎、香椎、山下等を罰しない事にして北、西田を殺さんとしてゐるのですぞ。

  三、四附記しておきます。

 一、所謂奉勅命令はとうとう下達されませんでした。私は今でもその命令の内容をよく知らない位です。日本一の大事な命令が、とうとう下達されないで始末つたのです。二月二十九日午後、私共が陸軍省に集まつた時、幕僚が不遜な態度をとつて国賊呼ばわりをしましたので、たまりかねて「何ダッ、吾々が何時奉勅命令に反抗したか、奉勅命令は下達されもしないではないか、下達されない命令に抗するも何もあるか」と云ひましたら、一中佐が「アッそれはしまった。下達されなかつたか。これはしたり」と云つて色をかへたのです。

二、無能無智な法ム官(検察官)が吾々に対する論告の時、日本改造方案には皇室財産を没収するとかいてあるから国体に容れずと称し、又、私有財産百万円限度は結局私有財産を認めない共産主義に落ちるのだと曲言しました。私は「皇室財産没収ニ非ズ、下附ナリ」「私有財産ハ確認セザルベカラズ」と著者は断言してゐる等等と云ひて、改造方案については、法ム官の不明をヒドクナジリましたが、彼等は言を曲げて、曲げて、ヒンマゲテ 西田、北両氏をオトシ入れようとしたのです。

 三、法務官等は方案をソシャクする頭をもってゐません。幕僚は一ガイに方案を民主主義だと云ひハルノデス。そのクセ彼等の戦時統制経済思想は、反国体的なおそる可き思想なのです。ですから、どうしても思想的に一大鉄槌を幕僚等に加へる必要があるのです。

 四、満井中佐、求刑十年、。大蔵大尉、同八年。ササ木大尉、同七年、末松大尉、同七年、(志村、杉野中尉、六年、五年)、福井幸、加藤春海、杉田氏等各々五、六年とかの事です。菅波大尉は公判中ですが、どうもアヤシイです。ひどい事に成りはせんかと思ひます。

 五、目下、真崎御大はサキ坂?(匂坂春平)法務官(少将相当)と対戦中らしく、数日前は相当ひどく激論したらしくあります。真崎の云ひ分は「我輩は責任なしと云はざれども、我輩より当時の陸軍大臣以下の当局者の責任の方を先にしらべる可きだ。大臣告示に関しては川島はじめ軍の長老たる全軍参事官の責任ではないか、寺内も当然に責任を負ふ可き也」となかなかいいところを突いてゐる様です。真崎御大があく迄全軍参事官の責任を主張して進めば、寺内だつてたまらなくなるのです。もう一息です。遺憾なことは、刑ム所内の戦は如何に有利でも、すべて暗に葬られてしまふことです。

 六、真崎御大がどこ迄も川島及全軍参事官の責任を突いて進んでゆけば、川島は「大臣告示に於いて青年将校の精神行動を認めたのだ」と云はざるを得なくなる筈です。川島がたつた一言をはけば、すべては我が勝利になるのです。寺内は川島の此の一言によつてたほれます。何故なれば、大臣告示は青年将校を認めたものであるのに、認めたるに非ず、単に説得案なりとして、死刑をしてしまつたのですから。
 然らば川島に此の重大なる一言をはかせる為には、如何にすればよいかとの問題が残ります。それは、
 ①真崎にアク迄も川島の責任をとはすこと。
 ②川島を告発すること(有力なる政治家及有力なる軍人=例へば真崎勝次将軍)。

  右の事がうまくいけば北、西田両氏は全くの無罪になるのですがね。
 七 寺内と共に湯浅(当時の宮相)をたたかねばいけないと思ひます。それは次の様な方法もよいと思ひます。
 宮内大臣は三月一日、青年将校を「大命に抗したり」と云ふ理由で免官にしました。所が公判でよくしらべられた結果、「大命に抗したのではない」と言ふことが明らかになつてゐるのです。大命に抗せざるものを抗したりとして、上御一人をアザムキたる専断を攻撃すべきと思ひます。
 この事が特に重要である理由は、北、西田が青年将校を扇動して大命に抗せしめたのだと云ふのが、敵の云ひ分であるからです。戒厳司令部から三宅坂附近を警戒せよと命令されてゐたから、最期迄頑張つていたのです。しかし最後迄、所謂奉勅命令は下達されなかつたのです。軍部の奴は自分が奉勅命令を下達しなかつたことは、たなにあげて北、西田が扇動したと云ふのです。

 八、所謂奉勅命令について
 軍部が青年将校の行動を認めたことは確かです。認めたからこそ、三宅坂附近一帯の地区を警備させる戒厳命令をしたのです。
 然るに奴等は、戒厳命令は青年将校の行動を認めたから下したのではない。青年将校を静まらせる為に謀略的に命令を下したのだと云ふのです。命令に謀略があると云ふならば、皇軍は全くみだれてしまふのです。すべての命令がカケヒキを有してゐるならば、命令の権威はなくなり、命令に服従するものはなくなります。これは恐るべき皇軍の破カイです。軍を毒するは青年将校に非ずして、軍中央部の奴等ではありませんか。
 しかもおそれ多くも天皇宣告の戒厳、その戒厳の戒厳命令が軍隊をダマス為に下されて居たと云ふことになると由々しき国体上の問題です。即ち陛下の命令は謀略である、国民をダマスものであると云ふことになるではありませんか。
 軍中央の国賊的幕僚共は、自分の身をのがれる為に謀略命令などと勝手なことを云つて、つみを 上陛下になすりつけてゐるではありませんか。青年将校が統帥権干犯の賊を討つのだと主張しました所、奴等は統帥権は干犯サレテいないと云ひました。何ぞ知らんや、謀略命令と云ふことそのことが統帥権の干犯され、みだれてゐる一つの証コではありませんか。所謂謀略命令については統帥権問題で軍部をタタキつける事がいいと思ひます。

九、反乱罪について
 私は「吾人は反乱をしたのではない、蹶起の初めからをわり迄義軍であつたのに反乱罪にとはれる道理なし。義軍であることは、告示に於て認め、戒厳軍隊に入れられた事によつて明らかになり、警備を命ぜられた事によつていよいよ明々白々ではないか」と強弁しました。所が法ム官の奴等は、「君等のシタ事は大臣告示が下る以前に於て反乱である」と云ふのです。これはおもしろいではありませんか。私は次のように云つて笑っつてやりました。「左様ですか、それは益々おもしろい、大臣告示が下達される以前に於て国賊反徒であると云ふことがそれほど明瞭であるのに、なぜ告示を下し、警備命令を与へたのです。国賊を皇軍の中へ勝手に入れたのは誰ですか、大臣ですか、参謀長ですか、戒厳司令官ですか、国賊を皇軍の中に 陛下をだまして編入した奴は、明らかに統帥権の干犯者ではないか」と、そしたら法ム官の奴は「何しろ中央部の腹がきまらんからねエ、君」と云つてウヤムヤに退却をしました。この事は公判廷に於ては特に強くやりました。所が裁判長の奴、私がチチブの宮様の事を云ふことにカコツケて、「言葉がスギル」と云ふて叱りつけるのです。奴等は道理に於てはグウの音も出ないのですが、権力をカサにきてムリを通すのです。

 十 維新大詔案について。
 維新大詔案は二月二十八日、幸楽へ村上大佐が持参して見せました。そもそもこの大詔案は荒木陸相当時に出来、それを林大臣に申し渡して現在に及んだものらしくあります。この事は真崎御大が証言してゐます。
 然るに、此の大詔案に関して村上大佐(当時の軍首脳部の相談により定つたる言ひのがれならん)は、維新大詔案は自分は知らない。自分の知つてゐるのは軍人が政治運動に関係するのがよくないから、大詔を仰ぎたいと思つてゐたので、それの事を間違へたのだらうと云ふ様な、みえすいたうそを云つてゐます。

 十一、 大臣告示について。
 大臣告示が宮中に於て出来た時の情況は、大体先般大沢先生のところへ出しておいた書きものの中にあるとほりです。二た通りあるのですが、
「諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む」と云ふが第一案です。所が奴等は色々ごまかす為に、大臣告示は三ツ出ていると云ふことを云ひ出して、告示など無価値なりと云ひのがれをしてゐつのです。用心用心。

 最後に申しますことは、真崎が不起訴になると北、西田両氏の為にはすこぶる不利です。川島が告発され起訴されたら、両氏が無罪になる所に迄事件が発展すると云ふことです。どうぞ両先生のことをたのみます。私のヤツタ事、ヤリツツあることは、手段としては下手なことであるかもしれません(真崎告発については同志からも色々のことを云はれました、誤解もされました)が、両氏をすくひたい一心です。
 衷情御くみとり下さつて、此の文を参考にして下さい。日本に天皇陛下が居られるのでせうか。今はいられないのでせうか。私はこの疑問がどうしても解けません。

 北、西田両氏の如き真正の士と同志青年の様な真個の愛国者をなぜ、現神人であらせられる天皇陛下が御見分になることが出来ぬのでせうか。

 陛下はなぜ寺内の如き、湯浅の如きをのみ御愛しみになり、御信じになり、塗炭に苦しむ国民と、忠諫(チュウカン)に泣く愛国者を御いつくしみにならないのでせうか。

 私は断じて死にません。川島と香椎と而して全軍部を国賊にするか、死せる十八同志の生命をかへしてもらうか、二つの中一つをとらぬ内は断じて死にません。屁古たれるものですか。どこ迄もやります。大日本の為にどんな事があつても、二先生と菅波三郎君を殺してはなりません。
 どうぞどうぞたのみます。
 ニ先生の為なら、私はどんな事でもします。どんなぎせいにでもなりますから、先生方をたのみます。
資料3ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  
     辞世
国みよ国をおもひて狂となり
  痴となるほどに国を愛せよ
三十二われ生涯を焼く情熱に
  殉じたりけり嬉しともうれし
天つ神国つみ神の勅をはたし
  天のみ中に吾等は立てり

わが魂は千代万代にとこしえに

  厳めしくあり身は亡ぶとも

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  

”http://hide20.web.fc2.com” に それぞれの記事にリンクさせた、投稿記事一覧表があります。青字が書名や抜粋部分です。ところどころ空行を挿入しています。漢数字はその一部を算用数字に 変更しています。記号の一部を変更しています。「・・・」は段落の省略、「…」は文の省略を示しています。(HAYASHI SYUNREI) (アクセスカウンター0から再スタート:503801) twitter → https://twitter.com/HAYASHISYUNREI


 

 
 


 


 

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二・二六事件 軍法会議判決書の主文と判決理由 処刑

2019年01月05日 | 国際・政治

 

二・二六事件 東京陸軍軍法会議判決書 

 明治維新の精神的指導者であり、「松下村塾」で、大勢の尊王攘夷急進の志士を育成したといわれる吉田松陰に「士規七則」と題された文章があります。その中に
一、凡ソ生レテ人トナル。宜シク人ノ禽獣ト異ナル所以ヲ知ルベシ。蓋シ人ニ五倫アリ、而シテ君臣父子ヲ最大トナス。故ニ人ノ人タル所以ハ忠孝ヲ本トナス。
一、凡ソ皇国ニ生レテハ、宜シク吾宇内(ウダイ)ニ尊キ所以ヲ知ルベシ。蓋シ皇朝ハ万葉一統ニシテ、世々禄位(ヨヨロクイ)ヲ襲(ツ)ギ、人君ハ民ヲ養ヒテ、以テ祖業ヲ続ギタマフ。臣民ハ君ニ忠ニシテ、以テ父ノ志ヲ継グ。君臣一体、忠孝一致、唯吾国ヲ然リトナス。
一、士ノ行ハ、質実欺カザルヲ以テ要トナシ、巧詐過(コウサアヤマチ)ヲ文(カザ)ルヲ以テ恥トナス。光明正大皆是ヨリ行ズ”


というような記述がありますが、二・二六事件蹶起将校は、皇国の臣民として誰よりも忠実にこうした松陰の教えに従って、「昭和維新」のために蹶起し、行動したのではないかと思います。だから、陸相の「大臣告示」を伝えられて、「天皇はわれわれの行動をお認め下さった」とか「蹶起部隊は義軍と認められ、維新に入ったと思った」ということを、事件後に証言したのだと思います。

 でも、最終的には、天皇のため、皇国日本のため、「尊王討奸」をかかげて蹶起した将校たちは、天皇自身から国賊として遇され、「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」という「大臣告示」を伝えられていたにもかかわらず、その後、”反乱”を意図して蹶起した反乱軍の首謀者にされて、処刑されました。
 吉田松陰の教えに従えば、二・二六事件における蹶起を、反乱として処理するために、策謀をめぐらした政権中枢や軍の上層部こそが、「国賊」であり、「逆賊」であることは否定のしようがないと思います。磯部浅一の陳述の中に、
兵馬大権干犯者を討取ることに依つて藤田東湖の「苟明大義正人心 皇道奚患不興起」(大義を明にし、人心を正せば、皇道なんぞ興起せざるを憂えん)が実現するものと考えます。

というような証言もありました。現在では、彼らの要人殺害は許されない野蛮な行為ですが、明治維新以後の皇国日本においては、蹶起将校達は、まさに模範的な臣民であったと思います。だから、処刑される直前に”天皇陛下万歳”を叫んでいることも、当然のことですが、そういう一途な蹶起将校を「諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム」という「大臣告示」もろともに葬り去った権力者が、その後も変わることなく、権力を行使し続けた国が日本であることを見逃すことができません。。
 戒厳令下の上告なし、弁護人なし、非公開・即決の特設軍法会議では当然かもしれませんが、下記判決理由は、被告人の陳述や行動を並べたてた後、突然、”法律ニ照スニ…”と飛躍しており”理由”になっていないように思います。また、事件関係者の一部や、事件で尊王討奸の対象となった人達が不問に付されていることにも疑問が残ります。
 だから、二・二六事件は、尊王攘夷急進派によって明治維新後につくられた皇国日本の野蛮性と欺瞞性が表面化した事件だろうと、私は考えるのです。

資料1は、「新訂 二・二六事件 判決と証拠」北博昭・伊藤隆(朝日新聞社)から、資料2は『二・二六事件「昭和維新」の思想と行動』高橋正衛(中公新書)から一部を抜粋しました。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※ 縦書きを横書きに変更している関係で、右は上に左は下に読みかえてください。          

                           一 香田清貞以下二十三名
   判決

東京府東京市世田谷区上馬町一丁目四百九十番地
元所属、歩兵第一旅団司令部
                  元陸軍歩兵大尉 香田 清貞
                  明治三十六年 九月 四日生
岐阜県揖斐郡揖斐町大字三輪五十一番戸
元所属 歩兵第三聯隊第六中隊
                   元陸軍歩兵大尉 安 藤 輝 三
                   明治三十八年 二月二十五日生
・・・以下二十一名分は省略

右ノ者等ニ対スル反乱被告事件ニ付、当軍法会議ハ検察官陸軍法務官竹沢卯一干与(カンヨ)審理ヲ遂ゲ、判決スルコト左ノ如シ。


   主文                

被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助、
中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、林八郎を各死刑に処す。
被告人麦屋清済、常盤稔、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦を各無期禁錮に処す。
被告人山本又を禁錮十年に処す。
被告人今泉義道を禁錮四年に処す。
・・・押収物件関係略


   理由

被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀、対馬勝雄、中橋基明等ハ陸軍士官学校ニ学ビ爾来深ク尽忠報国ノ志ヲ固ムル所アリシガ、翻ツテ四囲ノ環境ヲ顧ミ 痛ク世相ノ頽廃、人心ノ軽佻ヲ慨シ、転(ウタ)タ国家ノ前途ニ憂心(ユウシン)ヲ覚エ、次イデ昭和五年ノ倫敦(ロンドン)条約問題、昭和六年ノ満州事変等ヲ契機トスル、一部識者ノ警世的意見、軍内ニ興レル満州事変ノ根本的解決要望ノ機運等ニ刺戟セラレ、逐次内外ノ情勢緊迫シアルヲ痛感スル所アリ。会々(タマタマ))当時軍内外一部ニ起レル急進的思想ノ影響ヲ受クルヤ、其ノ憂国的至情ハ頓(トミ)ニ昂(タカ)マリ、我国ノ現状今ヤ黙視シ得ザルモノアリト為シ、国民精神ノ作興、国防軍備ノ充実、国民生活ノ安定等方(マサ)ニ国運ノ一大飛躍的親展ヲ要スルノ秋(トキ)ニ当面シアルモノト思惟シ、時難ノ克服打開ニ多大ノ熱意ヲ抱持(ホウジ)スルニ至リ、尚此間軍隊教育ニ従事シ、兵ノ身上ヲ通ジ、農山漁村ノ窮乏、小商工業者ノ疲弊ヲ知得(チトク)シテ、深ク是等ニ同情シ、就中一死報国共ニ国防ノ第一線ニ立ツベキ兵ノ身上ニ後顧ノ憂多シト為シ、
被告人渋川善助亦陸軍士官学校ニ学ビタルガ、思想的ニ当時ニ於ケル学校ノ教育方針ニ容レラレザルモノアリテ、退校セシメラレ、昭和四年頃ヨリ学生興国連盟ニ入リ、次デ興亜塾ニ学ビ、或ハ啓天塾ニ加ハリ、此間社会ノ実情ニ接シ、維新ノ必要ヲ高唱シテ人心ノ覚醒ニ努ムル所アリシガ、陸軍士官学校在校当時ノ知己タル右被告人ノ大部ト相交ハルニ及ビ、此等ト意気相通ズルニ至リ、
斯クテ前記被告人等ハ、此ノ非常時局ニ処シ、当局ノ措置徹底ヲ欠キ、内治外交共ニ萎靡(イビ)シテ振ハズ、政党ハ党利ニ堕シテ国家ノ危急ヲ顧ミズ、財閥亦私慾ニ汲々トシテ国民ノ窮状ヲ蔑(ナイガシロ)ニシ、特ニ倫敦条約成立ノ経緯ニ於テ、統帥権干犯ノ所為アリシト為シ、斯クノ如キハ畢竟(ヒッキョウ)、元老、重臣、官僚、軍閥、政党、財閥等、所謂特権階級ガ国体ノ本義ニ悖リ、大権ノ尊厳ヲ軽ンジ、相倚(ヨ)リ相扶(タス)ケテ私利私慾ヲ肆(ホシイママ)ニシ、国政ヲ紊(ミダ)リ、国威ヲ失墜セルガ為ナアリト為シ、一君万民タルベキ皇国本然ノ真姿ヲ顕現セシムガ為、速カニ此等、所謂特権階級ヲ打倒シテ、急激ニ国家ヲ革新スルノ必要アリト痛感シ来レルガ、其ノ急進矯激性ガ国軍一般将士ノ健(堅?)実中正ナル思想ト相容レザリシニ由リ、茲ニ自ラ維新ノ志士ヲ以テ任ズルニ至リ、思想傾向相通ズル歩兵大尉大蔵栄一、同菅波三郎、同大岸頼好等ノ同志ト気脈ヲ通ジ、天皇真率ノ下挙軍一体タルベキ軍内ニ、所謂同志観念ヲ以テ横断的団結ヲ敢テスルニ至リ、益々同志ノ指導獲得ニ努ムル所アリ。此ノ前後ヨリ前記被告人等ノ大部ハ、北輝次郎及西田税(ミツギ)トノ関係交渉ヲ深メ、其ノ思想ニ共鳴スルニ至リシガ、特ニ北輝次郎著『日本改造法案大綱』タルヤ、其ノ思想根底ニ於テ絶対ニ我ガ国体ト相容レザルモノアルニ拘ラズ、其ノ雄勁(ユウケイ)ナル文筆ニ眩惑セラレ、素ト(朴?)純忠ニ発セル研究思索モ、漸次独断偏狭トナリ、不知不識ノ間正邪ノ弁別ヲ誤リ、国法ヲ蔑視スルニ至リ、此ノ間昭和七年血盟団事件、及五・一五事件生起シ、深ク同憂者等ノ蹶起ニ刺激セレルル所アリテ、益々国家革新ノ決意ヲ固メ、右目的達成ノ為ニハ非合法手段モ亦敢テ辞スベキニ非ズト為シ、終(ツイ)ニ軍紀軍律上断ジテ黙過シ難キ統帥ノ根本ヲ紊リ、兵力ノ一部ヲ僭用(センヨウ)スルモ已(ヤ)ムナシト為ス危険思想ヲ包蔵スルニ至リ、斯クテ昭和八年頃ヨリ一般同志間ノ連絡ヲ計リ、又ハ相互会合ヲ重ネ直接行動ノ目標及実行方策ニ関シ意見ノ交換ヲ為スト共ニ、或ハ同志ノ醵金(キョキン) 其ノ他資金ノ調達、不穏文書ノ頒布等、各種ノ措置ヲ講ジ、同志ノ獲得ニ努ムルノ外、一部被告人等ハ軍隊教育ニ当リ、其ノ独断的思想信念ノ下ニ、下士官兵ニ革新的思想ヲ注入シテ、其ノ指導ニ努メ、次デ村中孝次、磯部浅一等ガ、其ノ叛乱陰謀事件並ニ誣告事件ニ関連シ、濫(ミダ)リニ不穏ナル文書ヲ頒布セルニ原由(ゲンユ)シテ昭和十年官ヲ免ゼラルルヤ、著シク其ノ感情ヲ刺戟セラレ、且上司ヨリ此運動ヲ抑圧セラルルニ及ビテ愈々(イヨイヨ)反撥ノ念ヲ生ジ、之ヲ以テ軍内ニ反対派アリテ策動ヲ為スガ故ナリト為シ、其ノ運動頓(トミ)ニ尖鋭トナリ、更ニ天皇機関説ヲ繞(メグ)リテ起レル国体明徴問題ノ進展ト共ニ、益々其ノ運動熾烈ヲ加ヘ、時恰(アタカ)モ教育総監ノ更迭アルニ及ビ、之ニ関スル一部ノ言ヲ耳ニシ、軽々ナル推断ヲ為シ、一途ニ統帥権干犯ノ事実アリト為シ、憤激セルガ、会々(タマタマ)相沢中佐ノ単身永田中将殺害スルアリテ深ク此ノ挙ニ感動シ、前記被告人等ハ、一部ノ重臣、財閥ノ陰謀策動アリト為シ、就中此等重臣ハ倫敦(ロンドン)条約以来再度兵馬大権ノ干犯ヲ敢テセル元兇ナルモ、而モ此等ハ国法ヲ超越シテ存在スル人物ナルヲ以テ、合法的ニ之ガ打倒ヲ企図スルモ、到底目的ヲ達シ得ザルニ由リ、我レ亦国法ヲ超越シ、宜シク直接行動ヲ以テ此等ニ天誅ヲ加ヘザルベカラズ。而モ此行動ハ、現下非常時ニ処スル広義ノ独断的義挙ナリト断ジ、遂ニ擅(ホシイママ)ニ軍ノ一部ヲ僭用シテ此ノ挙ニ出デ、以テ其ノ衝動ニ依リ人心ヲ是正シ、更ニ之ヲ契機トシテ、国体ノ明徴、国防ノ充実、国民生活ノ安定ヲ庶幾シ、且、『日本改造法案大綱』ノ主旨ニ則リツツ軍上層部ヲ推進シテ、所謂昭和維新ノ実現ヲ齎(モタラ)サシメンコトヲ企図し、…。
・・・
法律ニ照スニ、被告人村中孝次、磯部浅一、香田清貞、安藤輝三、栗原安秀ノ判示行為ハ各陸軍刑法第二十五条第一号ニ、被告人竹島継夫、対馬勝雄、渋川善助ノ叛乱行為ヲ為シ、謀議ニ参与シタル判示行為、及被告人中橋基明、丹生誠忠、坂井直、田中勝、中島莞爾、安田優、高橋太郎、麦屋清済、常盤稔、林八郎、鈴木金次郎、清原康平、池田俊彦ノ叛乱ヲ為シ、群衆ノ指揮ヲ為シタル判示行為ハ、
各同条第二号前段ニ、被告人今泉義道、山本又ノ判示行為ハ、各同条第二号後段ニ該当シ、被告人村中孝次、磯部浅一、渋川善助ニ対シテハ、各刑法第六十五条第一項、第六十条ヲ適用スベキトコロ、本件罪状ニ付按ズルニ
被告人等ガ国家非常ノ時局ニ当面シテ激発セル慨世憂国ノ至情ト、一部被告人等ガ、其ノ進退ヲ決スルニ至レル諸般ノ事情トニ付テハ、之ヲ諒トスベキモノアリト雖モ、其ノ行為行動タルヤ、聖諭(セイユ)ニ悖リ、理非順逆ノ道ヲ誤リ、国憲国法ヲ無視シ、而モ建軍ノ本義ヲ紊リ、苟(イヤシク)モ、大命無クシテ断ジテ動カスベカラザル皇軍ヲ僭用シ、下士官兵ヲ率ヰテ反乱行為ニ出デシガ如キハ、赫々(カクカク)タル国史ニ一大汚点ヲ印セルモノニシテ、其ノ罪寔(マコト)ニ重且大ナリト謂フベシ。仍(ヨッ)テ、
・・・
仍テ、主文ノ如ク判決ス。
   昭和十一年七月五日
      東京陸軍軍法会議
                                     裁判長判士陸軍騎兵大佐 石本 寅三
                                     裁判官陸軍法務官    藤井 喜一
                                     ・・・以下略  

資料2---------------------------------------ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                       Ⅵ 彼らをつき動かしたもの
真崎甚三郎

 ・・・
真崎と青年将校はその性向において、また動機の純不純さにおいて、まったくちがう人間ではあったが、両者は軍の統帥権や国体観においては一致する点があった。これが両者を結びつけていったのである。まず、二月二十六日の真崎の行動を追いつつ、彼の意図を考えてみよう。
 彼は午前四時過ぎに亀川哲也から事件起こるの報をきいた。真崎は亀川に鵜沢総明のところにすぐ行けと命じた。鵜沢は西園寺につながっている。真崎はさらに伏見宮邸に参殿、事件の情況を具体的に言上したうえで大詔渙発への尽力を要請し、加藤寛治大将とも連絡して、伏見宮と加藤の同時参内を取りきめている。そして天皇へのこの日の一番の拝謁は伏見宮であった。
 こうして彼は勲一等旭日大綬章を胸に佩(ハイ)して、八時半には陸相官邸にあらわれる。自信満々、不遜な態度で、反乱軍の統領のごとくあたりを睥睨(ヘイゲイ)して官邸の玄関に立った。(63ページ参照)
 ついで川島陸相に会う。「なにごとか」を語ったと前に書いたが、それは次のような応答である。

真崎 こうなったらしかたがないだろう。
川島 ごもっともです。
真崎 くるべきものがきたのだ。
川島 私もそう思います。
真崎 これでいこうじゃないか。(「蹶起趣意書」、「陸軍大臣要望事項」をさす)
川島 それより仕方がありませぬ。
真崎 いつ参内する。
川島 もう少し様子を見て。
真崎 僕は軍事参事官を説いてみる。

 この会談のあとで真崎は川島を宮中におくりこむ。
ーーーーーーーーーーーーーー
63ページ
真崎大将官邸に現わる
 八時半、真崎大将が官邸に現われた。臨時陸軍省、参謀本部のおかれた九段の憲兵司令部に集まった省部(陸軍省と参謀本部とを合わせた略称)の部長、課長は、「陸相官邸に真崎大将ありとのことに対し”誰が知らせたか、なぜ行ったか”と声高く非難した」と記録されている。ところがその真崎大将は得意然たる態度で室内に入り、川島陸相となにごとかを要談したという。
 磯部の「行動記」によれば、「歩哨の停止命令をきかず自動車が官邸に入ってきた。近づいてみると真崎将軍だ。『閣下、統帥権干犯の賊類を討つために蹶起しました。情況をご存知でありますか』という。『とうとうやったか、お前たちの心はヨオックわかっとる、ヨオーックわかっとる』と答える。『どうか善処していただきたい』と告げる。大将はうなづきながら邸内に消える」とある。磯部の憲兵聴取書では、同じく、「お前たちの精神はようわかっとるということを、二度か三度つづけていわれました」と記している。
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大臣告示の伝達過程
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香椎中将が宮中から電話で警備司令部の安井藤治参謀長(のち中将、軍司令官、鈴木貫太郎内閣の国務大臣)にこの「告示」を伝えたのは三時三十分。安井参謀長は軍隊特有の習慣である「復誦」(先方の言ったことを、こちらであらためてその通り言って、相手の「良し」をきく)を二度まで香椎司令官にしている。安井参謀長は電話でききながら、福島久作参謀に口述筆記させたのである。その安井参謀長が、これを叛乱軍に示したのが、七十四-五ページ(下記)の「陸軍大臣告示」なのである。

  陸軍大臣告示
 
一、蹶起ノ趣旨ニ就テハ天聴ニ達セラレアリ
ニ、諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 
三、国体ノ真姿顕現ノ現況(弊風ヲモ含ム)ニ就テハ恐懼(キョウク)ニ堪ヘズ
四、各軍事参議官モ一致シテ右ノ趣旨ニ依り邁進スルコトヲ申合セタリ
五、之以外ハ一ツニ大御心ニ俟ツ

 同時に警備司令部(第一師団、近衛師団を統率している)から、第一師団長、近衛師団長に下達されたのは午後四時である。これは印刷して下達された。
 堀第一師団長はただちにそれを部下一同に示した。橋本近衛師団長は自分のところにとどめて示さなかった。(林八郎「遺書」)
 はたして香椎ー安井ー福島の下達においてまちがいが起ったのだろうか。
 この「告示」が叛乱軍の行動を是認するものとして、夕刻から、とくに参謀本部内で問題になりはじめた。「だいいち荒木がいかん、真崎がいかん」という声があがり、それよりもこれは軍の統帥の破壊だという意見もでる。
 この夜、憲兵司令部(臨時の陸軍省)に川島陸相がきて、陸相が原案をもっていて、「行動」ではなく「真意」であることがわかり、「諸子ノ真意ハ国体顕現ノ・・・」と刷りなおして、これを軍の正文としてしまったのである。
 翌二十七日、村上軍事課長が安井参謀長を訪れて、警備司令部からでた「告示」に重大な誤りがある、そして責任は安井参謀長にありと暗に言ったため、安井参謀長が憤然として、「参謀長が司令官の命令をあやまってうけているとはなにごとだ、自分は、言われたとおりにしたのだ」と反撃、村上大佐に、「ともかく戦術上ああなったのだ、参謀長一人悪者になってくれ」と言われて、ようやくおさまったとのことである。カギはこの辺にありそうである。
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 しかし彼らは敗退した。そして、叛乱軍将校たちは軍当局の不信義、卑劣さをこの「大臣告示」によって示して、後世にのこそうと、血を吐くような文書を獄中で記したのである。
 また磯部は、「申合書」「二つの大臣告示」をはっきりと知っていた。彼は「獄中遺書」に次のように記している。
 大臣告示は・・・二通りあるのですが、
「諸子の行動は国体の真姿顕現にあるものと認む」というのが第一案です。ところが奴らはいろいろごまかすために大臣告示は三つ出ているということを言いだして、告示など無価値なりといいのがれをしているのです。用心々々。
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                              Ⅷ 処刑
死刑執行
七月十二日、午前五時四十分、香田清貞以下十五名は刑執行言渡所で「本日刑を執行する」ことを言渡された。七時より、刑は執行された。彼らはカーキ色の夏外被を着用、目隠しされ、看守に両側から腕を支えられ、夏草を一歩一歩ふんで刑架についた。将校十三名、民間人二人は刑架を背にして筵の上に正座させられ、晒木綿で両腕、頭部、胴を刑架にしばりつけられて水を与えられた。
 第一回 香田、安藤、竹島、対馬、栗原
 第二回 中橋、丹生、坂井、田中、中島
 第三回 安田、高橋、林、渋川、水上
 銃殺を担当したのは佐倉連隊の山之口甫大尉の指揮する一隊、射手は中尉、少尉であった。
 第一回は午前七時、第二回は八時、第三回は八時半であった。刑は銃殺による執行であり、実砲の音をまぎらすため、煉瓦塀の向うの練兵場では機関銃の空砲の音が盛んに鳴っていた。この日は曇りの日であった。
 翌十二年八月十九日、村中、磯部、北、西田が同じ場所で、同じように銃殺された。この日は、真夏の晴れあがった日であった。

 最後の言葉(上は執行を言渡されたとき、下は刑架前での言葉)
 昭和十一年七月十二日

 国家の安泰をお願いします。刑務所にいる間、一同様より精神的歓待を受けまして、ありがとうございました。
 天皇陛万歳        
                                   香田清貞(34歳)

 別に御座いませんが、松陰神社のお守りを身につけて射たれたいと思います。家族の者が安心いたしますから。
 天皇陛下万歳 秩父宮殿下万歳
                                   安藤輝三(32歳

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 面会のとき申してありますから外に何もありません。いろいろお世話様になりました。
 天皇陛下万歳  皇国万歳
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 昭和十二年八月十九日
 永い間お世話様になりました。所長殿より看守長、看守の方々によろしく申してください。大変お世話になりました。
                                    村中孝次(34歳)
 お陰様で元気であります。大変厄介になりました。アバズレ者でわがままを申してご迷惑をおかけしましたが、所長殿は一番よく私の気持ちを知っているでしょう。所長殿より職員一同によろしく申して下さい。これは妻の髪の毛ですが、処刑のとき、棺の中に入れることを許して下さい。
                                    磯部浅一(32歳)

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