真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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ウクライナ戦争は、暴力団の抗争と変わらない

2022年05月12日 | 国際・政治

         知らないのか、知らないふりか、それとも意図的に隠蔽しようということか。

 最近、新聞を読むと悲しくなります。先日の朝日新聞「社説」には
演説でプーチン氏は、侵攻の正当化に終始した。ウクライナによる核開発といった根拠のない脅威論を並べ、「先制攻撃するしかなかった」と述べた。 
 念頭にある主敵は、米国であることも言明した。米国に抗して「独自の価値観」を守るという主張には、欧米流の民主主義を拒み、自らの強権統治を貫く決意があるのだろう。
 「世界大戦の惨禍を繰り返させない」。プーチン氏のそんな誓いは空虚に響く。この記念日に向けて、核戦力による脅しを強めたことは国際安全保障への挑戦というべきだ。
 などとありました。NATO東方拡大も、度重なる軍事訓練も、ウクライナへの武器の配備も、バイデン親子のウクライナ政権や企業との関わりも、すべて無視して、ロシアだけを悪と決めつける、こうした考え方では、停戦はとても無理だと思います。
 私から見れば、ウクライナ戦争は 暴力を利用して存在を維持する暴力団の抗争のようなもので、被害者は巻き添えになっているウクライナの人々ではないかと思います。ロシアのウクライナ侵攻に至る経緯を踏まえると、ウクライナ戦争は、専制主義と民主主義の戦いでも、独裁主義と自由主義の戦いでもないと思うのです。だから、ウクライナに侵攻したとは言え、アメリカにつぐ暴力団組織のロシアを非難するだけではいけないと思います。話し合いをすることなく挑発を続けてきた最大暴力団組織のアメリカの問題行動も明らかにし、国際世論の力で、停戦への道筋をつけることができなければ、人類の未来は暗いと思います。メディアは、なぜ停戦交渉が行き詰まっているのかを明らかにし、国際世論を喚起して、停戦への道筋をつける努力が必要だと思います。法ではなく、武力(暴力)によって問題を解決しようとする暴力団的なニ大国の利己主義に基づく戦争は、何としても止めなければならないと思います。

 だから言いたいのですが、第二次世界大戦後も、国連憲章に反する戦争をくり返してきたのはアメリカではないかと思います。私が思い出すのは、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争などですが、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの下記の対話を読むと、アメリカは、その他にも多くの国で、武力的に政権を転覆したり、反政府勢力支援のために軍事侵攻してきたことがわかります。

 先日フィリピンで、かつての独裁者、故マルコス元大統領の長男、フェルディナンド・マルコス氏が、大統領選で圧勝しつつあると報じられました。これからどんな政治がなされるのかはわかりませんが、父親の反共思想を受け継ぎ、西側諸国の支援を受けて支持を広げてきたのではないか、と想像してしまいます。
 なぜなら、独裁者・故マルコス大統領は、歴代のアメリカ大統領とはいずれも親密だったと言われているからです。ベトナム戦争では、アメリカとともに、独裁者・ゴ・ディン・ジェムの政権を支援するため、南ベトナムにフィリピン軍を派兵して参戦しました。国内でも、民主的な運動を武力で弾圧したことが知られています。


 だから、フィリピンという国の歴史や出来事は、ノーム・チョムスキーとアンドレ・ヴルチェクの対話にでてくるラテンアメリカその他の国々と同じような気がします。
 アメリカは、その政権が独裁政権であろうと何であろうと、中国やソ連(ロシア)と距離を置き、アメリカの方針に従う限り、その政権を支え、後押ししてきたのです。でも、アメリカの方針に逆らったり、国民の支持を失って存続が危うくなると、簡単に見放し、切り捨ててきたのだと思います。だから、もともとアメリカには、専制主義と民主主義の戦いとか、独裁主義と自由主義の戦いなどを語る資格がないとも言えるように思います。


 アメリカが支援した独裁者には、ヴェトナムのゴ・ディン・ジェム、ルーマニアのチャウシェスク、パナマのマヌエル・ノリエガ、インドネシアのスハルトなどがあり、マルコスも同じ道を歩んだのだと思います。そして、ゼレンスキーも、同じ道を進みつつあるように思います。そうした事実の詳細は、明らかにされることはないのでしょうが……。


 下記は、「チョムスキーが語る戦争のからくり ヒロシマからドローン兵器の時代まで」(ノーム・チョムスキー、アンドレ・ヴルチェク:本橋哲也訳)から、「第六章 ラテンアメリカ」の一部を抜萃しました。ウクライナ戦争の本質に関わる、重要な対話であると思います。
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                   第六章 ラテンアメリカ

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 ラテンアメリカに目を向けたいと思います。そこでは進歩的な政府が次々と勝利を収めていて、これにはとても興奮させられます。西側諸国寄りのファシスト政権が次々に倒れましたね。先鞭をつけたのはベネズエラですが、エクアドルやボリビアといった、南アメリカでもっとも貧しく先住民人口の多い国々でも同じようなことが起きている。大陸全体が立ち上がりつつあるかのよう。程度の差はありますが、ウルグアイ、アルゼンチン、ブラジルでも多国籍企業や銀行よりも自国民のことを考えるようになってきた。これは二十年前とはまったく反対の現象です。それとラテンアメリカ全体で連帯意識が盛り上がっている。
 もちろんこうした進歩には見過ごせない退潮がつきまといます。ホンジュラスとパラグアイでは、左翼政権が西側諸国に支援されたクーデターによって倒されました。もちろんモンロー・ドクトリン〔1823年、アメリカ大統領ジェイムズ・モンローが発表した欧米両大陸の相互不干渉を主張する主義で、その後のアメリカ合衆国の外交政策の原則となり、とくにラテンアメリカ諸国に対する干渉を正当化する根拠とされた〕の恐るべき遺産いまだに大陸全体に影を落としています。
 
 少し前にエルサルバドルを訪れました。いまエルサルバドルは進歩的政府が治めていますが、アメリカ合衆国が過去の責任を一切取ろうとせず、まったく賠償を支払わないので自由の利かない状況にある。
 内戦中にアメリカ合衆国が支援した殺し屋集団が左翼ゲリラと闘っていたことの遺物として、いまだにひどい暴力が蔓延しています。今日でもエルサルバドルにおける暴虐は筆舌に尽くしがたいほどひどい。私も狙撃されました。映像を撮っているときに車を撃たれて。そのあと、戦争中に30人が虐殺され、一族が皆殺しにされた村のただ一人の生存者をインタビューしに行ったのですが、話をしているとそろそろ日が暮れるので帰ったほうがいいと言う。マラスというギャングがこの地域にやってくるから、と。私が生きてそこを出られたのは運がよかった。この虐殺を生き延びた男性が最後に言っていたのは、これはアメリカ合衆国が内戦中に始めた暴力に侵された文化の継続だということでした。

 つまり多くのラテンアメリカの国々では進歩的な勢力が伸張し、場合によっては進歩的な政府が誕生しているけれども、これらの国々は何十年にもわたる恐るべき暴力の遺産に対処しなくてはならない。ほとんど誰も報告しませんが、同じ状況をパナマのコロン市でも見ました。私はコロンを問題のある都会ぐらいに思っていました。二、三の記事を除いてはほとんど何も情報が得られなかったからで、その一つはここが西半球でももっとも危険な町だと書いていた。実際に行ってみると、なるほどそこは町の残骸でした。
 破壊の跡がそこいらじゅうにあって、十歳の娼婦たちが道端にたむろし、アメリカ合衆国の軍艦が旅客船の港に停泊している。実際には、軍艦はそこにいるべきではありません。なぜかというとパナマとアメリカ合衆国との協定で、軍隊はずっと以前にパナマを去らなくてはならないことになっていたからです。フィリピンと同じで、いなくなるはずなのにいまだに「テロに対する戦争」という隠れ蓑で居座っている。フィリピンもパナマも同じです。
 コロン市は有名なパナマ運がからほんの数マイルのところにあって、パナマで二番目に大きな都市ですが、この国は記録の上ではかなり開発のレヴェルが高いのだけれども〔国連の人間界発指数は五十八です〕、この目で見ることができるのはすべて破壊と都会の残骸ばかり。町の骨格だけが残っているのです。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 アメリカ合衆国によるパナマ侵攻については事実の検証がじつに困難ですね。私の見るところではイラクのクウェート侵攻よりひどい。より多くの人が殺されているし、ヒューマン・ライツ・ウォッチによると、クウェートでイラク軍が殺したのは数百人だけれども、パナマでは二千人くらいにのぼるのではないかとCDDEHUCA〔1978年に設立された中央アメリカの人権防衛のための委員会で、コスタリカの首都サンホセに本部がある〕という人権グループが推定している。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 三千五百が妥当な数字ということになりつつありますよ。なんとも興味深いのは、彼らが証拠全体を見事に消去したやり方です。コロンは地球上でももっとも破壊された町ですが、それには多くの理由がある。ギャングだらけだし、貧困の蔓延も政治の不在もある。しかし爆撃やアメリカ合衆国の侵略のあらゆる証拠が隠滅されてしまった。侵攻のときアパートも爆撃されました。市のなかでいちばん高いビルでしたが。写真に撮ったので間違えようがありません。軍施設でないことがわかっていたのに爆撃した。
 パナマ侵攻は明らかにとても残虐なものでしたが、それを証明するのはきわめて難しい。パナマでも、エルサルバドル、ニカラグア、ホンジュラス、みなそうです。隠蔽がつねにおこなわれるので、それぞれの国にどんな影響があったかを調べるのに何年もかけなくてはならない。ジャーナリズムや学者でそれをできる人はおおくありません。
パナマの場合、国民の恨みはパナマ運河の建設時にさかのぼりますね。私が滞在していたコロン市の近くの場所はレインボーシティと呼ばれていたのですが、そこでは人種的隔離が当たり前だったといわれます。パナマ人の友人から聞いた話によると、本人はそういう経験をしたことはないけれども、祖父母や親たちはアメリカ合衆国の建設業者がコロン市にやってきたとき酷い目にあったそうです。アメリカ人が持ち込んだ人種の分断と差別はパナマ人にはとてもショックだった。つまり、平等と自由を、解放と人権の理想を掲げていた国が、中央アメリカにやってきて運河を作りながら、その土地の人々を差別し、人種によって異なる店やスーパーを建てたのですから。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 同じようなことが世界中で起きていますね。NGOの貢献に疑いを抱きたくなるのもそうしたことと関係がある。もちろんすべてのNGOがそうではありませんが、問題の多いものが多すぎる。ハイチでも東チモールほか、いろんなところでも。彼ら彼女らの暮しぶりは地元の人たちとまったく違います。しゃれたレストランで食事して、いい車を乗りまわす。人々が飢えているのに。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 この「我々と彼ら」という態度こそ、ヨーロッパやアメリカ合衆国の侵略者たちが他国に介入したり併合したりするときに、地元民をどれほどひどく扱うかの基本にあるものだと思います。
N・C(ノーム・チョムスキー)
 あまりに多くのことが人々の目から隠されている。パナマのマヌエル・ノリエガに対して挙げられた罪状のほとんどは彼がCIAの飼い犬だったころのものだ。ノリエガはニカラグアのコントラに対する米国の支援に協力しなかったので見捨てられ、アメリカ合衆国の敵となったのです。罪状は1980年代初期のもので、そのころアメリカ合衆国は84年のノリエガの選挙での勝利を称賛していた。この自由選挙でノリエガが予想に反して勝利したのだけれども、それは殺人や虚偽、それにワシントンからの資金が流れてノリエガが勝利するように仕組まれたのです。国務長官ジョージ・シュルツが飛行機で乗込んで、ノリエガを「民主主義のプロセスを創始した」と褒め上げた──「民主主義を促進する」というレーガン政権お得意の概念からすれば、別に珍しいコメントではないけれど。こうしたことも主流のメディアではほとんど問題視されなかった。サダム・フセイン のときとほぼ同じですね。

A・V(アンドレ・ヴルチェク)
 いまのアメリカ合衆国ではこの二つの介入、パナマとエルサルバドルの社会にこれだけ壊滅的な傷を残した侵略についてどれだけのことが知られているのでしょう。

N・C(ノーム・チョムスキー)
 ほぼ皆無でしょうね。…


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